『許されざる者』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。
(1)本作は、イーストウッド監督が制作し、アカデミー賞作品賞等を受賞した同タイトルの作品を、すべて日本に置き換えてリメイクしたものです。
元の作品では、マニー(クリント・イーストウッド)、昔の相棒・ローガン(モーガン・フリーマン)と若者のキッド(ジェームス・ウールヴェット)の3人組が、街の娼婦たちが出した賞金をせしめようと2人の男を狙い、結局はシェリフのダゲット(ジーン・ハックマン)とマニーとの対決になるのですが、本作においても、十兵衛(渡辺謙)、金吾(柄本明)と沢田(柳楽優弥)の3人組が、お梶(小池栄子)らの女郎たちが出した賞金目当てに2人の男を殺そうとし、十兵衛と村の警察署長・一蔵(佐藤浩市)との対決となります。

さあどうなるのでしょう、………?
主演の渡辺謙は、トップと最下層兵士という違いはあるものの、『ラストサムライ』における勝元役と同じように(注1)、反明治政府という立場の日本人を演じているところ、さすが見応えのある演技で惹きつけます。

また、相手役の一蔵を演じる佐藤浩市は、半年ほど前に『草原の椅子』で見ましたが、相変わらず達者な演技を披露します。

(2)本作では、描かれる時代は元の作品と同一としながら(1880年)、元の作品の舞台である西部ワイオミング州を北海道に引き移し、さらに、アイヌ人差別問題を取り込んだりしています。
いったいそれで映画が成立するのかといわれれば、ありえない設定が多いのかもしれません(例えば、女郎たちが、賞金稼ぎが群がってくるほどの大金を持っていたのだろうか、そんな金があるのなら女郎から足を洗っていたのでは、などなど)。
でも、これはあくまでも映画のお話ですから、そんなことの一々を問い詰めても仕方がないように思われます。
ただよくわからなかったのは、ラスト近くで「地獄で待ってろ」と十兵衛が言いますが、一体誰に対して言ったのかという点です。
元の作品では、マニーに撃たれたダゲットが、最後にマニーに向かって「地獄で待ってるぞ」と言います(注2)。
ですが、本作品では、十兵衛が「地獄で待ってろ」と口にするのです。それも、拷問で殺された金吾の遺体を取り囲む女郎たちに向かって(注3)。
元の作品では、ローガンを殺したりして自分は悪いかもしれないが、お前だってたくさんの人殺しをした悪党ではないか、というような意味を込めて、シェリフのダゲットが「地獄で待っているぞ」とマニーに向かって言うと、マニーもそれを認めて「Yeah」(地獄で会おう!)と応じるのではないか、と思います。
クマネズミは当初、それと似たような感じで、旧幕府軍の兵隊として一緒に戦ってきた金吾の遺体に向かって、お前が先に行った地獄に自分もすぐに後を追って行くからなという意味を込めて、十兵衛は「地獄で待ってろ」と金吾に向かって叫んだのではと思いました。
ただ、それが女郎たちに向けられたとなると、どういうことなのでしょう?
本作に登場する女郎たちは、いったいどんな罪深いことをしたというのでしょう?
あるいは、女郎たちが多額の賞金を懸けて殺人を依頼したがために大勢の人が殺されるハメになったから、女郎たちも悪いと十兵衛は言うのでしょうか?
でも、彼女たちが懸けた賞金欲しさに十兵衛たちは村にやってきたのですし、それに彼女たちは元気なわけで、まだ当分死ぬ気配はありません(既に死んでしまった金吾や、死につつあるダゲットと違って)。そんな彼女らに向かって、十兵衛自身が「地獄で待ってろ」とまで言うでしょうか?
さらにそもそも、直前の江戸時代には、「格の低い売春婦」は「地獄」といわれていたのです(注4)。すでに「地獄」にいる彼女たちに向かって、「地獄で待ってろ」と十兵衛が言ってみても始まらないようにも思われます(注5)。
(3)ここからは、本作のタイトルである“許されざる者”とは一体誰なのか、というところにまで話を拡大できそうですが、既に、劇場用パンフレットに掲載のエッセイで中条省平氏が議論を展開しています。
中条省平氏は、「十兵衛という人間は、誰よりも彼自身にとって「許されざる者」なのです」とか、警察署長・一蔵の「根底にあるのは唯我独尊のエゴイズムであり、それを明治新政府の秩序維持という大義でどう取り繕うとも、一蔵は「許されざる者」です」、剣豪・北大路正春(國村隼)につき「近代国家において、あからさまに個人の武力を威嚇の道具に使う正春は、やはり「許されざる者」です」、沢田についても「均質な民族国家を目指す明治新政府にとって、日本民族の和に亀裂を入れるマイノリティであり、それゆえ「許されざる者」なのです」と述べています。
ですが、これでは、十兵衛については、その内心の「罪悪感」というところから見ながらも、例えば北大路正春や沢田については社会的な視点から見ていて、その見る立場に統一性がないように思えてしまいます。
要すれば、本作に関しては、誰が誰をどうして許さないのか、ということがよくわからない感じがつきまといます。
近代国家建設という視点からすれば、一蔵の行動はあるいは“許される”のかもしれませんし、他方、個人の内面という点から見れば、心に闇を抱えているのは十兵衛位なものといえるでしょう。
この点に関しては、元の作品が、ある意味で比較的わかりやすく出来上がっているのに対し(注6)、本作は、なかなか理解するのが難しいものを抱え込んでいるのではと思いました。
(4)渡まち子氏は、「偉大な傑作の名を汚すことなく、骨太な日本映画の秀作に仕上がっている」として80点の高得点をつけています。
他方、前田有一氏は、「リメイクはオリジナルをリスペクトしすぎると失敗しやすいというのが私の持論だが、日本版「許されざる者」にもそんな傾向が感じられる」云々として40点しかつけていません。
(注1)『ラストサムライ』においてトム・クルーズ扮するオールグレンのモデルは、この記事によれば、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加して箱館戦争(戊辰戦争)を戦ったジュール・ブリュネとされているところ、本作の主人公・釜田十兵衛は「人斬り十兵衛」と言われたとされていますから、手塚治虫の漫画『シュマリ』を経由すると、同戦争で旧幕府軍に参加した土方歳三とのつながりが見えてきて、興味が惹かれます。
(注2)IMDbによれば、撃たれて床に倒れているダゲットが“I’ll see you in hell, William Munny”と言うと、マニーは“Yeah”と応じた上で止めの一発を放ちます。
なお、その前に、ダゲットは、“I don't deserve this... to die like this. I was building a house”と言うのですが、これに対してマニーは、“Deserve's got nothin' to do with it”と答えます。
ここの部分は訳が難しいのかもしれません。
DVDの場合、吹替え音声では、ダゲットが「なぜこんな死に方を、なんの報いなんだ、家を新築していた」と言うと、マニーが「お前は生きるに値しないのさ」と答えますが、字幕では、ダゲットが「なぜおれが」「こんな最後を」「新築していた」と言うと、マニーが「貴様こそ本当の悪党だ」と答えます。
マニーの答えは、実際には、「こうして殺されることと家の新築とはなんの関係もない」というような意味合いではないかと思われ、DVDの訳ではそれを重く受け止めすぎているような気がします。
(注3)劇場用パンフレットに掲載の橋爪謙始氏による「画コンテ」には、「女郎たちが金吾の遺体を入り口から降ろすシーン。女郎たちに気づいた十兵衛とお梶の目があう。「地獄で待ってろ」。そう言い残し、十兵衛は馬に乗る」とあります。
画像まで掲載されていますから、ここには制作者側の姿勢が表れているものと思います。
(注4)Wikipediaによります。さらには、「地獄宿」という言い方もあるようです(このサイトの記事によります)。
(注5)本文の(3)でも触れているエッセイにおいて、中条省平氏は、「女郎たちの復讐を求める感情は正当なものです」としながらも、「しかし、殺人は負の感情の連鎖を引き起こすだけで、決して正義の回復には到達しないのです。そのことを聖書では、「復讐するは我にあり」という神の言葉で表現しました。つまり、罪悪への復讐は神の手に委ねるべきであって、人間がそれを行えば、それは正義ではなく、私怨と罪悪の連鎖を生み出すことにしかなりません」とし、「一見正当に見える義侠心を発揮した女郎たちこそ、最初の悲劇の火種を撒いた人間であり、まさに「許されざる者」なのです」と述べています。
ですが、仮にそういう意味合いで十兵衛が女郎たちに「地獄で待ってろ」と言ったのだとしたら、極端な言い方をすれば、十兵衛はキリスト教徒だということになってしまうのではないでしょうか?
(注6)元の作品では、シェリフのだゲットが“許されざる者”であり、また彼を殺したマニーもやはり“許されざる者”なのでしょう(ここで、神の下では人間は皆罪人であり、だから皆が“許されざる者”なのだという視点を持ち込むと、話が拡散してしまうのではないでしょうか)。
★★★☆☆
象のロケット:許されざる者
(1)本作は、イーストウッド監督が制作し、アカデミー賞作品賞等を受賞した同タイトルの作品を、すべて日本に置き換えてリメイクしたものです。
元の作品では、マニー(クリント・イーストウッド)、昔の相棒・ローガン(モーガン・フリーマン)と若者のキッド(ジェームス・ウールヴェット)の3人組が、街の娼婦たちが出した賞金をせしめようと2人の男を狙い、結局はシェリフのダゲット(ジーン・ハックマン)とマニーとの対決になるのですが、本作においても、十兵衛(渡辺謙)、金吾(柄本明)と沢田(柳楽優弥)の3人組が、お梶(小池栄子)らの女郎たちが出した賞金目当てに2人の男を殺そうとし、十兵衛と村の警察署長・一蔵(佐藤浩市)との対決となります。

さあどうなるのでしょう、………?
主演の渡辺謙は、トップと最下層兵士という違いはあるものの、『ラストサムライ』における勝元役と同じように(注1)、反明治政府という立場の日本人を演じているところ、さすが見応えのある演技で惹きつけます。

また、相手役の一蔵を演じる佐藤浩市は、半年ほど前に『草原の椅子』で見ましたが、相変わらず達者な演技を披露します。

(2)本作では、描かれる時代は元の作品と同一としながら(1880年)、元の作品の舞台である西部ワイオミング州を北海道に引き移し、さらに、アイヌ人差別問題を取り込んだりしています。
いったいそれで映画が成立するのかといわれれば、ありえない設定が多いのかもしれません(例えば、女郎たちが、賞金稼ぎが群がってくるほどの大金を持っていたのだろうか、そんな金があるのなら女郎から足を洗っていたのでは、などなど)。
でも、これはあくまでも映画のお話ですから、そんなことの一々を問い詰めても仕方がないように思われます。
ただよくわからなかったのは、ラスト近くで「地獄で待ってろ」と十兵衛が言いますが、一体誰に対して言ったのかという点です。
元の作品では、マニーに撃たれたダゲットが、最後にマニーに向かって「地獄で待ってるぞ」と言います(注2)。
ですが、本作品では、十兵衛が「地獄で待ってろ」と口にするのです。それも、拷問で殺された金吾の遺体を取り囲む女郎たちに向かって(注3)。
元の作品では、ローガンを殺したりして自分は悪いかもしれないが、お前だってたくさんの人殺しをした悪党ではないか、というような意味を込めて、シェリフのダゲットが「地獄で待っているぞ」とマニーに向かって言うと、マニーもそれを認めて「Yeah」(地獄で会おう!)と応じるのではないか、と思います。
クマネズミは当初、それと似たような感じで、旧幕府軍の兵隊として一緒に戦ってきた金吾の遺体に向かって、お前が先に行った地獄に自分もすぐに後を追って行くからなという意味を込めて、十兵衛は「地獄で待ってろ」と金吾に向かって叫んだのではと思いました。
ただ、それが女郎たちに向けられたとなると、どういうことなのでしょう?
本作に登場する女郎たちは、いったいどんな罪深いことをしたというのでしょう?
あるいは、女郎たちが多額の賞金を懸けて殺人を依頼したがために大勢の人が殺されるハメになったから、女郎たちも悪いと十兵衛は言うのでしょうか?
でも、彼女たちが懸けた賞金欲しさに十兵衛たちは村にやってきたのですし、それに彼女たちは元気なわけで、まだ当分死ぬ気配はありません(既に死んでしまった金吾や、死につつあるダゲットと違って)。そんな彼女らに向かって、十兵衛自身が「地獄で待ってろ」とまで言うでしょうか?
さらにそもそも、直前の江戸時代には、「格の低い売春婦」は「地獄」といわれていたのです(注4)。すでに「地獄」にいる彼女たちに向かって、「地獄で待ってろ」と十兵衛が言ってみても始まらないようにも思われます(注5)。
(3)ここからは、本作のタイトルである“許されざる者”とは一体誰なのか、というところにまで話を拡大できそうですが、既に、劇場用パンフレットに掲載のエッセイで中条省平氏が議論を展開しています。
中条省平氏は、「十兵衛という人間は、誰よりも彼自身にとって「許されざる者」なのです」とか、警察署長・一蔵の「根底にあるのは唯我独尊のエゴイズムであり、それを明治新政府の秩序維持という大義でどう取り繕うとも、一蔵は「許されざる者」です」、剣豪・北大路正春(國村隼)につき「近代国家において、あからさまに個人の武力を威嚇の道具に使う正春は、やはり「許されざる者」です」、沢田についても「均質な民族国家を目指す明治新政府にとって、日本民族の和に亀裂を入れるマイノリティであり、それゆえ「許されざる者」なのです」と述べています。
ですが、これでは、十兵衛については、その内心の「罪悪感」というところから見ながらも、例えば北大路正春や沢田については社会的な視点から見ていて、その見る立場に統一性がないように思えてしまいます。
要すれば、本作に関しては、誰が誰をどうして許さないのか、ということがよくわからない感じがつきまといます。
近代国家建設という視点からすれば、一蔵の行動はあるいは“許される”のかもしれませんし、他方、個人の内面という点から見れば、心に闇を抱えているのは十兵衛位なものといえるでしょう。
この点に関しては、元の作品が、ある意味で比較的わかりやすく出来上がっているのに対し(注6)、本作は、なかなか理解するのが難しいものを抱え込んでいるのではと思いました。
(4)渡まち子氏は、「偉大な傑作の名を汚すことなく、骨太な日本映画の秀作に仕上がっている」として80点の高得点をつけています。
他方、前田有一氏は、「リメイクはオリジナルをリスペクトしすぎると失敗しやすいというのが私の持論だが、日本版「許されざる者」にもそんな傾向が感じられる」云々として40点しかつけていません。
(注1)『ラストサムライ』においてトム・クルーズ扮するオールグレンのモデルは、この記事によれば、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加して箱館戦争(戊辰戦争)を戦ったジュール・ブリュネとされているところ、本作の主人公・釜田十兵衛は「人斬り十兵衛」と言われたとされていますから、手塚治虫の漫画『シュマリ』を経由すると、同戦争で旧幕府軍に参加した土方歳三とのつながりが見えてきて、興味が惹かれます。
(注2)IMDbによれば、撃たれて床に倒れているダゲットが“I’ll see you in hell, William Munny”と言うと、マニーは“Yeah”と応じた上で止めの一発を放ちます。
なお、その前に、ダゲットは、“I don't deserve this... to die like this. I was building a house”と言うのですが、これに対してマニーは、“Deserve's got nothin' to do with it”と答えます。
ここの部分は訳が難しいのかもしれません。
DVDの場合、吹替え音声では、ダゲットが「なぜこんな死に方を、なんの報いなんだ、家を新築していた」と言うと、マニーが「お前は生きるに値しないのさ」と答えますが、字幕では、ダゲットが「なぜおれが」「こんな最後を」「新築していた」と言うと、マニーが「貴様こそ本当の悪党だ」と答えます。
マニーの答えは、実際には、「こうして殺されることと家の新築とはなんの関係もない」というような意味合いではないかと思われ、DVDの訳ではそれを重く受け止めすぎているような気がします。
(注3)劇場用パンフレットに掲載の橋爪謙始氏による「画コンテ」には、「女郎たちが金吾の遺体を入り口から降ろすシーン。女郎たちに気づいた十兵衛とお梶の目があう。「地獄で待ってろ」。そう言い残し、十兵衛は馬に乗る」とあります。
画像まで掲載されていますから、ここには制作者側の姿勢が表れているものと思います。
(注4)Wikipediaによります。さらには、「地獄宿」という言い方もあるようです(このサイトの記事によります)。
(注5)本文の(3)でも触れているエッセイにおいて、中条省平氏は、「女郎たちの復讐を求める感情は正当なものです」としながらも、「しかし、殺人は負の感情の連鎖を引き起こすだけで、決して正義の回復には到達しないのです。そのことを聖書では、「復讐するは我にあり」という神の言葉で表現しました。つまり、罪悪への復讐は神の手に委ねるべきであって、人間がそれを行えば、それは正義ではなく、私怨と罪悪の連鎖を生み出すことにしかなりません」とし、「一見正当に見える義侠心を発揮した女郎たちこそ、最初の悲劇の火種を撒いた人間であり、まさに「許されざる者」なのです」と述べています。
ですが、仮にそういう意味合いで十兵衛が女郎たちに「地獄で待ってろ」と言ったのだとしたら、極端な言い方をすれば、十兵衛はキリスト教徒だということになってしまうのではないでしょうか?
(注6)元の作品では、シェリフのだゲットが“許されざる者”であり、また彼を殺したマニーもやはり“許されざる者”なのでしょう(ここで、神の下では人間は皆罪人であり、だから皆が“許されざる者”なのだという視点を持ち込むと、話が拡散してしまうのではないでしょうか)。
★★★☆☆
象のロケット:許されざる者