映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

許されざる者

2013年09月27日 | 邦画(13年)
 『許されざる者』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作は、イーストウッド監督が制作し、アカデミー賞作品賞等を受賞した同タイトルの作品を、すべて日本に置き換えてリメイクしたものです。

 元の作品では、マニークリント・イーストウッド)、昔の相棒・ローガンモーガン・フリーマン)と若者のキッドジェームス・ウールヴェット)の3人組が、街の娼婦たちが出した賞金をせしめようと2人の男を狙い、結局はシェリフのダゲット(ジーン・ハックマン)とマニーとの対決になるのですが、本作においても、十兵衛渡辺謙)、金吾柄本明)と沢田柳楽優弥)の3人組が、お梶小池栄子)らの女郎たちが出した賞金目当てに2人の男を殺そうとし、十兵衛と村の警察署長・一蔵佐藤浩市)との対決となります。



 さあどうなるのでしょう、………?

 主演の渡辺謙は、トップと最下層兵士という違いはあるものの、『ラストサムライ』における勝元役と同じように(注1)、反明治政府という立場の日本人を演じているところ、さすが見応えのある演技で惹きつけます。



 また、相手役の一蔵を演じる佐藤浩市は、半年ほど前に『草原の椅子』で見ましたが、相変わらず達者な演技を披露します。



(2)本作では、描かれる時代は元の作品と同一としながら(1880年)、元の作品の舞台である西部ワイオミング州を北海道に引き移し、さらに、アイヌ人差別問題を取り込んだりしています。
 いったいそれで映画が成立するのかといわれれば、ありえない設定が多いのかもしれません(例えば、女郎たちが、賞金稼ぎが群がってくるほどの大金を持っていたのだろうか、そんな金があるのなら女郎から足を洗っていたのでは、などなど)。
 でも、これはあくまでも映画のお話ですから、そんなことの一々を問い詰めても仕方がないように思われます。

 ただよくわからなかったのは、ラスト近くで「地獄で待ってろ」と十兵衛が言いますが、一体誰に対して言ったのかという点です。
 元の作品では、マニーに撃たれたダゲットが、最後にマニーに向かって「地獄で待ってるぞ」と言います(注2)。
 ですが、本作品では、十兵衛が「地獄で待ってろ」と口にするのです。それも、拷問で殺された金吾の遺体を取り囲む女郎たちに向かって(注3)。

 元の作品では、ローガンを殺したりして自分は悪いかもしれないが、お前だってたくさんの人殺しをした悪党ではないか、というような意味を込めて、シェリフのダゲットが「地獄で待っているぞ」とマニーに向かって言うと、マニーもそれを認めて「Yeah」(地獄で会おう!)と応じるのではないか、と思います。
 クマネズミは当初、それと似たような感じで、旧幕府軍の兵隊として一緒に戦ってきた金吾の遺体に向かって、お前が先に行った地獄に自分もすぐに後を追って行くからなという意味を込めて、十兵衛は「地獄で待ってろ」と金吾に向かって叫んだのではと思いました。

 ただ、それが女郎たちに向けられたとなると、どういうことなのでしょう?
 本作に登場する女郎たちは、いったいどんな罪深いことをしたというのでしょう?
 あるいは、女郎たちが多額の賞金を懸けて殺人を依頼したがために大勢の人が殺されるハメになったから、女郎たちも悪いと十兵衛は言うのでしょうか?
 でも、彼女たちが懸けた賞金欲しさに十兵衛たちは村にやってきたのですし、それに彼女たちは元気なわけで、まだ当分死ぬ気配はありません(既に死んでしまった金吾や、死につつあるダゲットと違って)。そんな彼女らに向かって、十兵衛自身が「地獄で待ってろ」とまで言うでしょうか?
 さらにそもそも、直前の江戸時代には、「格の低い売春婦」は「地獄」といわれていたのです(注4)。すでに「地獄」にいる彼女たちに向かって、「地獄で待ってろ」と十兵衛が言ってみても始まらないようにも思われます(注5)。

(3)ここからは、本作のタイトルである“許されざる者”とは一体誰なのか、というところにまで話を拡大できそうですが、既に、劇場用パンフレットに掲載のエッセイで中条省平氏が議論を展開しています。
 中条省平氏は、「十兵衛という人間は、誰よりも彼自身にとって「許されざる者」なのです」とか、警察署長・一蔵の「根底にあるのは唯我独尊のエゴイズムであり、それを明治新政府の秩序維持という大義でどう取り繕うとも、一蔵は「許されざる者」です」、剣豪・北大路正春國村隼)につき「近代国家において、あからさまに個人の武力を威嚇の道具に使う正春は、やはり「許されざる者」です」、沢田についても「均質な民族国家を目指す明治新政府にとって、日本民族の和に亀裂を入れるマイノリティであり、それゆえ「許されざる者」なのです」と述べています。

 ですが、これでは、十兵衛については、その内心の「罪悪感」というところから見ながらも、例えば北大路正春や沢田については社会的な視点から見ていて、その見る立場に統一性がないように思えてしまいます。

 要すれば、本作に関しては、誰が誰をどうして許さないのか、ということがよくわからない感じがつきまといます。
 近代国家建設という視点からすれば、一蔵の行動はあるいは“許される”のかもしれませんし、他方、個人の内面という点から見れば、心に闇を抱えているのは十兵衛位なものといえるでしょう。

 この点に関しては、元の作品が、ある意味で比較的わかりやすく出来上がっているのに対し(注6)、本作は、なかなか理解するのが難しいものを抱え込んでいるのではと思いました。

(4)渡まち子氏は、「偉大な傑作の名を汚すことなく、骨太な日本映画の秀作に仕上がっている」として80点の高得点をつけています。
 他方、前田有一氏は、「リメイクはオリジナルをリスペクトしすぎると失敗しやすいというのが私の持論だが、日本版「許されざる者」にもそんな傾向が感じられる」云々として40点しかつけていません。




(注1)『ラストサムライ』においてトム・クルーズ扮するオールグレンのモデルは、この記事によれば、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加して箱館戦争(戊辰戦争)を戦ったジュール・ブリュネとされているところ、本作の主人公・釜田十兵衛は「人斬り十兵衛」と言われたとされていますから、手塚治虫の漫画『シュマリ』を経由すると、同戦争で旧幕府軍に参加した土方歳三とのつながりが見えてきて、興味が惹かれます。

(注2)IMDbによれば、撃たれて床に倒れているダゲットが“I’ll see you in hell, William Munny”と言うと、マニーは“Yeah”と応じた上で止めの一発を放ちます。

 なお、その前に、ダゲットは、“I don't deserve this... to die like this. I was building a house”と言うのですが、これに対してマニーは、“Deserve's got nothin' to do with it”と答えます。
 ここの部分は訳が難しいのかもしれません。
 DVDの場合、吹替え音声では、ダゲットが「なぜこんな死に方を、なんの報いなんだ、家を新築していた」と言うと、マニーが「お前は生きるに値しないのさ」と答えますが、字幕では、ダゲットが「なぜおれが」「こんな最後を」「新築していた」と言うと、マニーが「貴様こそ本当の悪党だ」と答えます。
 マニーの答えは、実際には、「こうして殺されることと家の新築とはなんの関係もない」というような意味合いではないかと思われ、DVDの訳ではそれを重く受け止めすぎているような気がします。

(注3)劇場用パンフレットに掲載の橋爪謙始氏による「画コンテ」には、「女郎たちが金吾の遺体を入り口から降ろすシーン。女郎たちに気づいた十兵衛とお梶の目があう。「地獄で待ってろ」。そう言い残し、十兵衛は馬に乗る」とあります。
 画像まで掲載されていますから、ここには制作者側の姿勢が表れているものと思います。

(注4)Wikipediaによります。さらには、「地獄宿」という言い方もあるようです(このサイトの記事によります)。

(注5)本文の(3)でも触れているエッセイにおいて、中条省平氏は、「女郎たちの復讐を求める感情は正当なものです」としながらも、「しかし、殺人は負の感情の連鎖を引き起こすだけで、決して正義の回復には到達しないのです。そのことを聖書では、「復讐するは我にあり」という神の言葉で表現しました。つまり、罪悪への復讐は神の手に委ねるべきであって、人間がそれを行えば、それは正義ではなく、私怨と罪悪の連鎖を生み出すことにしかなりません」とし、「一見正当に見える義侠心を発揮した女郎たちこそ、最初の悲劇の火種を撒いた人間であり、まさに「許されざる者」なのです」と述べています。
 ですが、仮にそういう意味合いで十兵衛が女郎たちに「地獄で待ってろ」と言ったのだとしたら、極端な言い方をすれば、十兵衛はキリスト教徒だということになってしまうのではないでしょうか?

(注6)元の作品では、シェリフのだゲットが“許されざる者”であり、また彼を殺したマニーもやはり“許されざる者”なのでしょう(ここで、神の下では人間は皆罪人であり、だから皆が“許されざる者”なのだという視点を持ち込むと、話が拡散してしまうのではないでしょうか)。




★★★☆☆




象のロケット:許されざる者
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大統領の料理人

2013年09月25日 | 洋画(13年)
 『大統領の料理人』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)本作は、ミッテラン元仏大統領の専属シェフだった女性の実話に基づいて制作された作品です。

 フランスの一地方(注1)で農場などを経営する主人公のラボリカトリーヌ・フロ:注2)は、三星シェフの推薦を受けて、フランス大統領の専属シェフになります。
 大統領が、「祖母の味さえあれば満足」で、「素材の味を生かしたシンプルな料理」を希望していることがわかり、それならと助手たちと力を合わせて料理を作ります。



 ですが、大統領官邸(エリゼ宮)の主厨房の面々(すべて男性)は面白くありません(注3)。何しろ、自分たちの職域と思っていたところに、いきなり外部の人間、それも女性が入り込んできたのですから!ラボリが食材を自分で調達するようになってからは、その対立が一層厳しくなります。
 さあ、どうなることでしょうか………?

 日本のレストランで出されるフランス料理も、レストランによりますがそれなりに美味しいものの、この映画の画面いっぱいに映しだされるフランスの素朴な料理は、きっと美味しいに違いないと思え、一度は食べてみたい気にさせられます。

(2)実は本作は、南極の場面から始まります。
 ラボリは、大統領官邸の専属シェフの職を2年で辞め、そのあと、南極地域にあるクローゼー諸島に設けられているアルフレッド・フォール科学基地の料理人を1年間勤めます(注4)。
 本作では、オーストラリアのTVクルーが、ラボリの様子を撮影しようとやってきて、あれこれ探るうちに彼女がエリゼ宮にいたことがわかってくるという構成をとっていて、途中何度か南極基地での映像が挿入されます。

 これで思い出すのが、以前見た『南極料理人』。ちょうど今、TVドラマ『半沢直樹』の主役を演じている堺雅人が、南極料理人・西村の役に扮しています。
 こうした南極基地の住人は、気象とか地質など大層地味なものを相手に調査研究をする科学者たちで、変化の酷く乏しい環境でしょうから、食事が大きな楽しみとなり、必然的にそこにいる料理人は注目される存在となるのでしょう、ラボリにしても西村にしても隊員たちに可愛がられます。
 ただ、西村については、隊員たちと一緒に帰国したので送別会は催されませんでしたが、ラボリは、途中で帰国することになったため、かなり盛大な送別会が科学基地で開催されました。
 とはいえ、西村は子供まである妻帯者でしたし(注5)、昭和基地には女性隊員がいなかったので、色恋沙汰がなくて当然ながら、ラボリの場合は独身であったにもかかわらず、そして科学基地の住人は男性でしたが、どうやら色恋沙汰はなかったようで、埠頭での淡々とした別れの場面が映しだされ、ちょっと残念な気がしました。

 本作は、男性の代わりに、料理(特に、トリュフやフォアグラ)を愛してしまった女性の物語と考えたらいいのかもしれません(注6)。

(3)また最近、DVDで、ジャン・レノが出演するコメディ『シェフ! 三ツ星レストランの舞台裏へようこそ』(昨年末公開)を見たばかりのところ、同作では本作と違い、本格的なフランス料理が画面にいくつも登場します。



 ですが本作と似ているのは、三星レストランのベテラン・シェフのアレクサンドルジャン・レノ)が、レストランのオーナーから強く批判され、窮地に立たされてしまうという点でしょうか(注7)。
 ただ、本作では、ラボリはいろいろな攻撃を受けて2年でその職を辞してしまうところ、同作の場合は、ジャッキーミカエル・ユーン)という天才的な料理人が、救い主としてアレクサンドルジャン・レノの前に現れるのです。
 このジャッキーは、元々アレクサンドルを尊敬し、そのレシピを完全に記憶しています。こんなところは、料理本を読むのが好きだと大統領に答える本作のラボリに似ているといえるでしょう(注8)。

 なお、同作では、アレクサンドルが調理する伝統的なフランス料理が古臭いと言われ、「分子料理」なるものがフランス料理の新しい傾向として映しだされます。
 映画ではそれがどんなものかきちんと説明されないのですが(あるいは、料理界では周知のことなのかもしれません)、一皿分の料理を1個のキュービックに凝縮したり、液体窒素の煙がモクモク立っていたりする料理が出たりします。
 ネットで調べると、「分子料理」とは、どうやら素材や調理法などを科学的に分析し、その成果に基づいて作られる料理のようなのです(注9)。
 同作では、かなり皮肉っぽく滑稽に「分子料理」が描かれていますから(注10)、それこそが新しい料理だと言いたいわけではないにせよ、伝統的な古臭いフランス料理に問題ありとは言いたいのでしょう。

 こんなところからすると、本作が、ラボリの作る郷土料理や家庭料理を前面に出しているのも、現在のフランス料理の主潮流に対する批判という意味が込められているのかもしれないと思えてきます。

(4)渡まち子氏は、「女性が奮闘し周囲を良い方向に変えていく、さわやかな感動ストーリーかと思っていたが、ストーリーの根底にあるのは、挫折と諦観。それでも新世界を目指すヒロインの“その後の行動力”にこそ本当の勇気を見るべきだろう」として60点をつけています。




(注1)ペリゴール地方(パリの南方)。

(注2)カトリーヌ・フロは、最近見た『タイピスト!』のデボラ・フランソワが出演している『譜めくりの女』で、主役の女性ピアニストを演じています。

(注3)主厨房では、1年間に7万食を24人の料理人が作るとされています。

(注4)ラボリのモデルとなったダニエル・デルプシュ氏は、1942年生まれで(このサイトの記事によります)、南極の科学基地にいたのは2000年から14ヶ月間といいますから、60歳前後。
 なお同氏は、若いころ結婚していて25歳までに4人の子供を設けていましたが、離婚したとのこと。また、エリゼ宮にいたのは46歳頃。

(注5)西村のもとに家族からFAXが送られてきますし、帰国した際には、彼らが愛情を込めて彼を出迎えます。

(注6)ラボリは帰国の船の中で、オーストラリアのTVクルーの女性に対して、オーストラリアにトリュフに適した土地があるか探しに行ったことがあるが、実際にはニュージランドで見つかった、南極に来たのもトリュフ農園を作るための資金を稼ぐため、などと話します。

(注7)オーナーは、アレクサンドルに対して、アレクサンドル画提出したメニューを見て「前世紀のメニュー」だと貶し、「冷凍やレンジ食品に使える食材なら原価を下げられる」などといって、流行の「分子料理」をとリ入れるよう求めますが、アレクサンドルは受け付けません。
 この食材の価格については、ラボリは、エリゼ宮の官房長官から、「食材の購入価格が主厨房の3倍もしているので、コストを削減してほしい」と要請されます。

(注8)ラボリのモデルとなったダニエル・デルプシュ氏は、インタビューで、「昔の料理の本を読んでいます」、「いわゆる料理のレシピ集ではなく、料理文学を読むんです。1830~50年代、料理人が書いた料理文学に面白いものが多いのです」云々と語っています。
 映画では、ラボリとの面談中に、大統領自身も、エドワール・ニニョンの書いた『フランス料理讃歌』(1933年)を愛読して、いくつかの文章は暗記までしていると言うのです(ニニョンについては、このサイトの記事が参考になります)!

(注9)例えば、このサイトの記事とかこのサイトの記事
 ちなみに、「分子料理」で著名なレストラン「エル・ブリ」については、ドキュメンタリー映画『エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン』(2011年)で描かれているとのことですが、未見です。

(注10)アレクサンドルとジャッキーは、変装してライバルのレストランで食事をするところ、アレクサンドルがサムライで、ジャッキーがゲイシャの格好というのではフザケすぎです!
 それでも正体はバレず、分子ガストロノミーで作られた料理を味見し、密かに持ち帰ったりします。




★★★☆☆




象のロケット:大統領の料理人
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パシフィック・リム

2013年09月23日 | 洋画(13年)
 『パシフィック・リム』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)評判がよさそうなので、随分と遅ればせながらも見に行ってきました。

 本作は、深海にできた時空を越える通路を通って他の天体(「異世界アンティヴァース」)から次々と送られてくる巨大な怪獣(“kaiju”)に対して戦いを挑む巨大ロボット・イェーガーを巡るお話です。
 主人公は、イェーガーを操縦するパイロットのローリーチャーリー・ハナム)。ヒロインは、同じくパイロットのマコ菊地凛子)。
 計画の大幅変更で、今や香港にしか設けられていないシャッター・ドーム(イェーガーを整備・格納する)には、かつてはたくさん製造されていたイェーガーも4体置かれているだけです。
 そのイェーガーには、ローリーとマコの他に、父子のコンビ、ロシア人の夫婦パイロット、中国人の3つ子の兄弟が乗り込みます(注1)。
 そして、次々に襲いかかる「レザーバック」などの怪獣に対して彼らは果敢に戦うものの、果たして勝利することができるでしょうか、………?

 本作は、なかなかおもしろく見ることが出来ました。でも、怪獣映画が大好きな人にはたまらないでしょうが、それほどでもない者にとって、確かに映像のリアリティーにものすごいものがあるにせよ、評判ほどでもないのではという気がしてしまいます。突然出現した巨大怪獣を巨大ロボットが、例のごとくプロレス・スタイルで打倒し、人類を壊滅から救うというおなじみのストーリー以上のものが余りないのではと思いました。でも、怪獣映画が大好きな人にとっては、逆におなじみのものだからこそ面白いのでしょう。
 なお、ハリウッド映画において、菊地凛子がヒロインとして大活躍し、さらにその子供時代を戸田愛菜が演じているのですから、時代は変わっているのだなとも思いました。

(2)この映画を見て興味深かったのは、例えば次のような事柄です。
イ)主人公やヒロインの内面
 トラウマ一辺倒ながらも、わりかしきちんと描かれています。
 まずローリーは、5年ほど前、兄と一緒にコンビを組んでイェーガー(「ジプシー・デンジャー」)を操縦していたところ、怪獣(「ナイフヘッド」)の反撃に遭い、彼の目の前で兄が殺されてしまいます。
 そのとき兄弟の脳は「ドリフト」(2人の意識をシンクロナイズさせる)によってつながっていたために、ローリーはトラウマを抱えることになり、操縦ができなくなりパイロットを辞めてしまいます。
 映画の冒頭では、ローリーはアラスカで、下記で触れる「防護壁」の建設に従事していますが、環太平洋防衛軍の司令官スタッカーイドリス・エルバ)の強い要請で現役に復帰するのです。



 またマコも、幼女(戸田愛菜)の頃、怪獣(「オニババ」)の襲撃を受けて、両親を失い、自分自身も危なかったのですが、今や司令官であるスタッカーによって助けられたのです。ただ、「ドリフト」のテストを受けている最中に、怪獣に襲われた際の恐ろしい記憶を蘇らせてしまい、事故を引き起こしたりします(注2)。



 それでも、ローリーの尽力によって、2人のコンビで、修復なったジプシー・デンジャーを操縦することになります(注3)。

ロ)防護壁(「命の壁」)
 怪獣が襲来するというので、太平洋を取り巻くあちこちの国で、イェーガーを整備格納するシャッター・ドームが建設されたにもかかわらず、映画の時点(2025年)までにはそれらが次々に閉鎖され(残っているのは香港のみ)、代わりに建設されたのが巨大な「防護壁」なのです。
 こうした壁を設けることによって敵の侵入を防ごうという考え方は、『ワールド・ウォーZ』でも見られるところです(イスラエルを取り囲む巨大な壁!)。
 ですが、そこでもゾンビたちによって乗り越えられてしまったように、本作でも怪獣(「ブレードヘッド」)によって壁は簡単に砕かれてしまいます(注4)。
 それは、漫画『進撃の巨人』でも同じでしょう(注5)。

 このような「壁」は、映画や漫画のみならず、実際にも万里の長城からベルリンの壁など、洋の東西を問わず古代から現代まで様々に作られ(注6)、かつ乗り越えられてしまってきましたが、それでも人々は懲りずにまた建設しているように思われます(注7)。
 強力な敵に立ち向かう場合、人々は、敵そのものをなんとか打倒しようとするか、あるいは壁を作ってその侵入を防ごうとするか、いずれかの方法を選ぶのでしょう。
 本作の場合、当初は、イェーガーで個別の怪獣を打ち負かそうとしましたが、それが難しいとなると壁で防ごうとし、でもそれが打ち破られると、最後の手段として再度イェーガーに運命を託すこととなります(注8)。

(3)また、この映画を見て、例えば以下のようなことにつき違和感を覚えました。
イ)評論家の粉川哲夫氏が、次のように述べています。
 「(イェーガーの中に)人間が入っているというのが解せない。趣味で入っているのではなく、命がけで入るのだからなおさらだ。使われているということになっている技術をみると、拡張現実(AR)に似たもののようだが、ならば、中にわざわざ人間が入って、生死の危機に身をさらす必要はないはず。映画効果のためにテクノロジーの事実をばかげたものにしている」。



 人類が、他の天体と時空を超えてつながる深海にできた通路の様子を、シャッター・ドーム内の管制センターで立体的に把握できるくらいのテクノロジーを手にしているのであれば、ロボットのコントロールを、ロボットの外から無線で遠隔的に操縦することぐらい容易なことではと思えるところです。

 ただ、この点に関しては、下記(3)で触れる前田有一氏が述べるように、「ロボット機内に入って人間が操縦するというのは、欧米人のロボット観からは異質に映るだろうがこれが日本スタイル。本来ロボットは人が乗るリスクを排除できるのが最大のメリットのはずだが、この手のフィクションは人が入らないと始まらない」のかもしれませんが。

ロ)次のような点も挙げられます。
 イェーガーでは、操縦する2人の負担を軽くするために、それぞれの脳の右脳と左脳を接続し共有するという仕組みを採用しています。2人が一体のロボットを動かすわけですから、2人の間の信頼関係が必須のものとなっているところがミソなのでしょう。



 でも、人間の脳ってそんなに右と左に分離できるものなのでしょうか?
 例えば、ローリーやマコが苦しむ過去の記憶を司るとされている大脳辺縁系の海馬ですが、脳の中心部に一つまとまってあるだけのものです(注9)。
 とはいえ、ここでは専ら運動機能が問題であり、例えば、大脳の右半球は左の手足を動かし、左半球は右の手足を動かすようになっていますから、大脳だけを分離して他の人のものと接続して使えるようにすることも、あるいは可能なのかもしれませんが。

ハ)さらには、時空を超えて他の天体とつながる通路は、果たして核爆弾(原子炉)を爆発させたくらいで破壊できるものなのでしょうか?
 その通路をとおして他の天体から怪獣が地球に送り込まれてくるところ、映画で描かれるように、実際に深海の海底に具体的な穴が開いていて、核爆発でそれを構成する壁が崩れて塞がってしまうというのであれば、それもわからないわけではありません。ですが、そんな実体的なトンネル状の通路が他の天体と通じているはずもないのではないでしょうか(注10)?
 あるいは、「ワームホール」のようなものなのでしょうか(注11)?

(4)渡まち子氏は、「見る前は、オタク系監督の大味SFとかと想像していたが、とんでもない。メカデザインのディテールの美しさとハリウッド映画ならではの超絶的なスケールというミクロとマクロが融合した一大スペクタクルだ。かつてアニメーションでしか描けなかった世界を、これだけ見事なビジュアルで完成させた実写映画ははじめてである」として75点をつけています。
 また、前田有一氏も、「映像は重厚感があり、荒唐無稽なストーリーを笑えないほどに怪獣は恐ろしく、終末の恐怖を感じられる。日本で実写ロボットものといえば、例外なくチープな特撮映像がおまけでついてくるので、これはきわめて新鮮な映像体験といえるだろう」などとして75点をつけています。




(注1)出撃したイェーガーが次々に破壊されるのを見て、司令官のスタッカーはいたたまれずに、第1世代で一人乗りのイェーガー(「コヨーテ・タンゴ」)に乗り込んで出撃します。

(注2)事故を引き起こしたことにより、マコはパイロットの候補からはずされますが、元々マコを我が娘のように育ててきた司令官・スタッカーには、彼女がパイロットとして非常に高い能力を持つにもかかわらず、イェーガーに乗り込ませることにためらいがあったのです。

(注3)新たにジプシー・デンジャーの両腕に装着されたチェーン・ソード(鞭剣)によって倒した怪獣が「オオタチ(大太刀)」!

(注4)オーストラリア沖に出現したブレードヘッドによって、シドニーに設けられていた防護壁は1時間足らずで破壊されてしまいます。

(注5)このサイトの記事によれば、「人類の生息する全域を取り囲み巨人の侵攻を防ぐ、高さ50メートル・厚さ10メートル程の巨大な壁。外壁ウォール・マリアの総延長は3200kmにもなる」とのこと。ただ、845年の巨人の侵攻によって一番外側の壁「ウォール・マリア」は打ち破られてしまい、その後は真ん中の壁「ウォール・ローゼ」と最も内側の壁「ウォール・シーナ」の2層となっています。

(注6)日本でも、「元寇防塁」があります。

(注7)最近では、パレスチナのガザ地区では1994年以来周囲が壁で封鎖されていますし、またアメリカとメキシコとの国境にも壁やフェンスが設けられています(全国境のほぼ3分の1にわたって←このサイトの記事によります)。

(注8)話は飛びますが、今問題の福島第一原発の汚染水流出問題では、その原因がはっきり特定できないとなると、結局は「凍土壁」なる壁でもってなんとか防ごうと政府・東電は考えているようです。でも、そんな壁で果たしてうまく汚染水の流出を防ぐことができるのでしょうか?

(注9)幼いころの記憶など長期的なものは、大脳皮質で保管されるようです。ただそうだとしたら、違う人の大脳半球と接続した場合、どこの大脳皮質で保管されるのかによりますが、甦る記憶に欠落が生じてしまう可能性が出て来るのではないでしょうか?

(注10)あるいは、他の天体・アンティヴァースにつながる紐が地球にくっついたような感じになるかもしれませんが、その先が深海だというのは解せないところです(空中から怪獣を落とせばいいのですから)。
 なお、アンティヴァースは、地球の中生代にも巨大生命体を送り込んできたことがあるとのこと。でも、その時以来この通路はつながったままなのでしょうか?それとも、必要に応じて通路が作られるのでしょうか?としたら、今回、通路が仮に塞がったとしても、アンティヴァースは、また通路を設けることができるのではないでしょうか?

(注11)でも、それにしたって、ブラックホールと反ブラックホールを組み合わせたもののようだとしたら、どんなにものすごい核爆発も一瞬にして吸収されてしまうのではないでしょうか?



★★★☆☆



象のロケット:パシフィック・リム
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共喰い

2013年09月19日 | 邦画(13年)
 『共喰い』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)本作は、田中慎弥氏の芥川賞受賞作の映画化であり、それも『東京公園』などの青山真治監督が手がけた作品だというので、映画館に行ってみました。

 舞台は、山口県下関市の川辺という地域。
 映画の冒頭で、下関行きのバスから高校生が降りてきて港を歩いていきますが、「俺が17歳の時、おやじが死んだ。昭和63年だった」というナレーションが流れます(注1)。
 これで、この高校生・遠馬菅田将暉)が主人公であることや時代設定がわかります。



 さて遠馬は、別に住む母親・仁子田中裕子)が営む魚屋に入っていきます。



 彼女は、空襲により右腕の先がなく、特別の器具をつけて魚を捌いています。
 さらに彼女は、空襲で両親をなくし、魚屋に住み込みで働いていた時に、元夫の光石研)と知り合い結婚します。



 ところが、結婚した後に、円がセックスの時に殴りつけることや他に女がいることを知ります。遠間がお腹にいる時は殴りませんでしたが、暫くするとまた殴り始めたため、仁子は夫と別れ、一人で魚屋を営むことにしたとのこと。
 物語は、遠馬と仁子、それに遠間の父親の円とその現在の女・琴子篠原友希子)、さらには遠馬が付き合っている女高生・千種木下美咲)の間で展開していきます(注2)。
 中心となるのはどうやら横暴な父親・円のようですが、さて一体どうなることでしょう………?

 本作はなかなかの出来栄えだと思います。父親から息子への性的嗜好の継承といった特異な観点から男女の性的関係が濃密、かつ巧みに描かれているだけでなく、舞台となる地域の淀んだような雰囲気、特に真ん中を流れる川の汚れきった様とか、そこで採れるうなぎの映像などによって、原作の雰囲気が一層強く醸しだされている感じがしますし、また、光石研や田中裕子などの俳優陣も大層頑張っていると思います(注3)。
 さらには、ラストで流れるギターによる「帰れソレントへ」は、その力強い響きで観客に強く訴えかけます(注4)。

(2)とはいえ、クマネズミは、脚本家・荒井晴彦氏が書いたシナリオに問題があるのではと思いました(注5)。
 2点あると思います(注6)。
イ)同タイトルの原作(集英社文庫)には書き込まれていない昭和天皇の戦争責任という問題を、無理やり付け加えているように思います(注7)。
 勿論、原作の年代設定が昭和63年とされており、また仁子の右腕の先が空襲によって失われたことは原作に書かれています。
 でも、映画のラストの方で、昭和天皇の容態が悪化したのを知った仁子(注8)に、「せめて判決が降りるまで生きていてほしい。そうすれば恩赦があるだろうから。あの人が始めた戦争でこうなったのだから、せめてそのくらいしてほしい」などと言わせたり、翌年1月に昭和天皇が崩御されたことを最後に字幕で出したりまでする必要性があるのかと思いました。

 これは同じく荒井氏がシナリオを書いた『戦争と一人の女』でも言えることです(注9)。その作品においては、坂口安吾の小説に、当時起きた「小平事件」を挟み込む形(それも、日中戦争で日本兵が犯したとされる暴虐と重ねあわせる形)でシナリオが書き上げられていますが、酷くとって付けられた感じがするところです(注10)。
 こういうことで映画にリアリティーを持ち込むことができると脚本家が考えているとしたら、それは違うのではないかな、それは余計なことではないかなと思いました(注11)。

ロ)これも原作では書かれていませんが、映画では、仁子や琴子、それに千種のその後まで描き出されます。
 小説では、養護施設に入った遠馬(「家庭環境不良」の17歳ということで入所できるようです)が拘置所に入った母親・仁子のことを思いやるところで終わっていますが、映画では、3人の女のその後のことが描き出されます(注12)。でも、そんなことは、観客がそれぞれ勝手に思いやればいいのであって、わざわざ映画で描いて貰う必要のないものではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「監督はこの映画を70年代のプログラム・ピクチャーのロマンポルノを意識して作ったというが、21世紀の今はその意図がわかり難いのが惜しい。主人公は少年だが、物語は女性の底知れぬ闇と力強さを感じさせる作品だ」として60点をつけています。
 また、早稲田大学の藤井仁子・准教授は、「ここで青山は、「日本映画」の伝統をたんなる反復ではないかたちで転生させることに成功していると思う。その典型的なあらわれがクライマックスで降る凄まじい雨だ」云々と述べています。
 さらに、相木悟氏は、「特筆すべきは、映画独自のシーンを追加したラスト・シークエンス。女性映画にせんとする青山監督の意図と合致した、ひとつの時代の終りと、やがて訪れる女性が担う新時代の到来はことさら衝撃であった」云々と述べています。




(注1)ナレーション自体は、遠馬役の菅田将暉ではなく、父親・円役の光石研が行っています。

(注2)もう一人、遠馬の父・円が時々通う、アパートに住む女(宍倉暁子)がいます。

(注3)主役の遠馬を演じる菅田将暉や、ヒロインの千種役の木下美咲もなかなか頑張っているところ、まだまだ若く(菅田は20歳)、出演本数が増えればこれから大いに伸びるものと思います。



 光石研は最近も、人のいい旅館の主人の役(『はじまりのみち』)から、寂れたサロンのオーナー役(『東京プレイボーイクラブ』)まで、相変わらず幅広い役柄をこなしているところ、本作でも、また目を見晴らせる演技で円の役を巧みにこなしています。
 田中裕子は、『はじまりのみち』で主人公の母親役を演じ、実に存在感のある優れた演技を披露していましたが、本作の仁子も彼女以外には考えられないところです。

(注4)なお、映画の表現で問題があるのではと思うのは、遠馬が高校生だとして、そのことが画面からはほとんど感じ取れない点でしょうか。勉強している画面がないのはかまわないにせよ、彼を囃し立てる子供たちは登場するものの、級友などが一人も顔を出さないのはどうしたことでしょうか(尤も、小説でも書き込まれておりませんが)?

(注5)本作のシナリオは、月刊誌『シナリオ』10月号に掲載されています。
 なお、実際に公開される映画とシナリオとの間には、日本の場合相違することがが多く、本作に関しても、例えばアパートの女の部屋で遠馬が性行為をするシーンが随分と簡略になっていたりします。
 ですが、以下で問題にする場面に関しては、シナリオの段階から書き込まれているものです。
 さらに、同誌に掲載されている荒井晴彦氏と山根貞男氏との対談において、山根氏の「荒井さんはシナリオを書くとき、監督である青山さんと、どういう方向でシナリオを書こうかという話はしたんですか」との質問に対し、荒井氏は「全然しませんでしたね」と答えていますから(P.9)、それらの場面は荒井氏の考えに従って書かれているものと考えます。

(注6)いずれも、原作と相違する事柄ですが、クマネズミは、原作を映画化する場合に、原作に忠実でなければならないと考えているわけではありません。問題は、どのように原作を改変するかという点だと思います。

(注7)季刊誌『映画芸術』本年夏号に掲載の原作者・田中慎弥氏と脚本家・荒井晴彦氏との対談において、荒井氏は、「田中さんは、自分が考えていたことの延長というか、木に竹を接ぐようなことはしていないと理解してくれたんで、助かったけど」と述べていますが(P.8)、クマネズミはまさに“木に竹を接ぐ”ような格好になってしまっていると思いました。

(注8)仁子は、最後に円を殺してしまい拘置所にいるのです(小説も同様です)。

(注9)『戦争と一人の女』についての拙エントリの「注1」に書きましたように、同作のシナリオ制作には荒井氏だけでなく中野太氏も加わっておりますが、そして「注8」で述べたように、監督の井上淳一氏の類似の意向もあったようですが、さらには荒井氏は井上監督の撮り方にかなりの不満を持っているようですが(季刊誌『映画芸術』本年春号掲載の座談会「戦争の時代の本当の声を映画はいかに聞いたのか」)、「注9」等からすれば、同作のプロットの大部分は荒井晴彦氏によるものだと考えられるところです(なお、シナリオは、同作の劇場用パンフレットに掲載されています)。

(注10)他にも、『戦争と一人の女』と本作には共通点があるように思います。
 まず、同作では「空襲」が大きく取り上げられていましたが、本作においては、ラストで仁子が言及しなければそれほど注目されなかったと思われます。
 また、異常な性行為が映し出されている点が共通しています。本作では、性行為の際に円が相手の女を殴りつけたりしますが(遠馬も一度、千種の首を絞めてしまいます)、同作でも傷病兵・大平が、米を求める女たちを騙して山林に連れ込み、強姦して絞殺してしまうのです。
 さらに、荒井晴彦氏は、劇場用パンフレットに掲載された青山真治監督との対談において、「ただ、脚本にしようとすると、原作を全部映しても尺的に短い。じゃあ、これはサイズ的にも内容的にもロマンポルノだと。ロマンポルノ乗りで行こうと思ったんです」と述べているところ(本作は「R15+」の指定)、『戦争と一人の女』はピンク映画(R-18指定)なのです。
 荒井晴彦氏は、どんな原作を見ても、自分の趣向に従って同じように料理してしまう傾向があるのではないでしょうか?

(注11)本文の(3)で触れた相木悟氏は、「仁子さんの“大きな父さん”と“小さな父さん”に対するけじめの怨嗟は、日本戦後史への批評としても多くの人の胸を打とう」と述べ、また、映画評論家の村山匡一郎氏も、「原作にない仁子の怨嗟の言葉は、原作を超えて映画を一気に現代史に広げていく」云々と述べて、★5つ(「今年有数の傑作」)を与えているところ、そんな目印になるようなものを事々しく画面に描きこまなくては現代と繋がらないような映画は、逆に不出来の作品とも言えるのではないでしょうか?

(注12)仁子は、拘置所で面会に来た遠馬と会って、右腕のことを話します。また千種は、仁子が営んでいた魚屋で働いています。さらに琴子は、殺される前に父親・円と別れ、再び飲み屋で働いていたところで遠馬と会います。
 あるいは、粗暴な円の軛を逃れて、3人の女が自立の道を歩み始めたことを示したかったのかも知れません。でも、それは、余計なことではないでしょうか?
 仁子は、千種が円に暴行されたと聞いて円を殺してしまいますが、そしてそれは復讐しようとする遠馬に成り代わって殺したとされていますが、あるいはむしろ円を自分の腕の中に取り戻したくてそうしたとも解釈できるのではないか、少なくともそう解釈出来る余地を残しておく必要があるのではないか、と思いました(結局のところ、小説が描く3人の女は、「円-遠馬」が作る円環の外に出ていったように見えても、実際には出ていけないように思われるところです)。




★★★☆☆



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日本の悲劇

2013年09月18日 | 邦画(13年)
 『日本の悲劇』を渋谷のユーロスペースで見ました。

(1)80歳を超える仲代達矢の主演映画だというので映画館に出向きました。

 映画は、病院を退院して家に戻ってきた父親・不二男仲代達矢)とそれに同行した息子・義男北村一輝)が、ダイニングキッチンに置かれている椅子に座る場面から始まります。
 まず、どこに不二男が座るのかで揉めて、その後義男が彼の衣類を洗濯機にかけようとすると、「下着以外は必要ない」と不二男は言い出し、さらに義男が居間で布団を敷き出すと、彼は「俺は寝ないから、そんなことをする必要はない」と強く言い張ります。
 義男はそう言う父親に怪訝な思いをしながらも、それを無視して作業を続けます。
 その後、義男の話からすると、不二男は肺がんであるにもかかわらず、治療を断って勝手に退院してきたとのこと。不二男は自分で、「このままだと、もってみつき(三月)」、さらには、「1週間か10日、長くてもひとつき(一月)、それ以上はもういい」などとも言います。
 さらに不二男が、せっかく注文した寿司を食べないので、とうとう義男はキレてしまいます。
 「俺はあんたの年金で食っている身、こんな寿司など食えた身分じゃない。けど、切り詰めて1日1,500円、ひとつき6万で暮らしている。けれど今日は母さんの命日だから、寿司をとったんだ」などとしゃべります。
 こうして映画は進んでいきますが、父親の不二男はいったい何を企んでいるのでしょうか、それに対して息子の義男はどのように対処するのでしょうか、………?

 画面に登場するのは、もっぱら父親とその息子の2人だけ〔回想シーンで、妻(大森暁美)や息子の嫁(寺島しのぶ)が登場しますが、それでも4人です〕。また舞台も、小さな家の居間とダイニングキッチン、それにそれらの間の廊下だけというシンプルさです(息子が何度か家の外に出ますが、それはすべて音で表現されます:なお、音楽は使われておりません)。
 さらに、仲代達矢は新劇の重鎮ですから、全体としてコテコテの新劇調になりかねないところ、本作は取り扱っている問題の大きさによるのでしょうか、新劇臭さはあまり感じられませんでした。
 なにしろ、この息子は、勤務していた会社でリストラに遭い、精神的に落ち込んで精神病院に入り(その間に、妻子は気仙沼の実家に帰ってしまいます)、退院して父母のいる家に戻ったと思ったら、母親が倒れてその面倒を4年間見て、その挙句東日本大震災で気仙沼にいた妻子を失い(捜索したものの見つかりませんでした)、さらには父親の肺がんという具合です。

 ひどく重苦しいテーマを扱っており、またそれがモノクロの画面で強調されるのですが(一部はカラー)、小林政広監督の演出が巧みなためでしょうか、俳優陣の演技の凄さによるのでしょうか、こうした作品にありがちな嫌味を感じずに見ることが出来ました。

 主演の仲代達矢は、『春との旅』にもまして圧倒的な存在感を示していて感動します。特に、彼の顔が画面いっぱいに大写しになることが多いのですが、そんな大写しに耐えることができる顔の持ち主は、今の日本にはそんなに多くはないのではないでしょうか?



 また、共演の北村一輝は、最近では『真夏の方程式』に出演しているのを見ましたが、それほど出番がなかったために印象が薄かったところ、この映画ではなかなかの演技力の持ち主であることがわかりました(注1)。



(2)本作の物語は、2010年7月に足立区で実際に起きた事件(概要はWikipediaに掲載)によっているようですから(注2)、現実にありうることなのでしょうが、不二男のように一つの部屋の中に釘を打ち付けて完全に閉じこもってしまった場合、例えばトイレの問題をどうするのかなどを考えると、そんなに簡単にいかないのではと思われます(注3)。
 また、義男は、部屋に閉じこもってしまった父親に対し、戸を開けるように何度も懇願しますが、本当にそう思っているなら、警察などの手を借りて戸をこじ開けることもできるのではないでしょうか(注4)?
 さらに、義男は、父親が勝手に病院を退院してしまったと言っていますが、仮に「余命3カ月」(本人の言。義男は「半年ももたない」と言っています)で手の施しようがなければ、大概の病院では医師から退院を勧告されるのではないでしょうか?
 それに、義男は、リストラされたあと自傷行為をするなど精神的に落ち込んでしまい、妻に内緒で「長野の方の精神科の病院に入った」と言っていますが、患者が自ら進んで精神病院に入院するなどといったことは、あまり考えられないことではないでしょうか?

 このように、この家族に襲いかかる様々な事件について、そのリアルさという点では難があるものの(注5)、本作が中心的に描き出そうとしている父親と息子との関係からすれば、それらは背景的なものといえ、そんなことにこだわっても余り意味がないように思われます。
 そして、息子が様々の出来事に遭遇していて大変であることはよくわかっていながらも、しかしそんな中でも頑張って生き抜いてもらいたいと願う父親の気持ちの切実さは、大変リアルなものがあると感じられました。
 やっぱり父親は、息子が一人前になること、独り立ちすることを待ち望んでいるのであり、それには息子自身が積極的に難事に立ち向かっていかなくてはならないと、それまでの経験からわかっているのです。でも、すぐにそれができるわけでもなく、時間がかかるというのであれば、それまでは出来るだけのことをしようと考えるのではないでしょうか?それで、「俺の返事がなくなっても、戸を破って入るんじゃない。その日から数えて、半年。いや1年でもいい。お前の仕事が見つかるまで、ここは閉めきったままにしておけ」と不二男は義男に言うのだと思います。
 先の短いことを自覚している父親の切羽詰まった気持ちが巧みに描かれている作品だと思ったところです。

(3)佐藤忠男氏は、「ここで不幸の条件とされていることは、今の日本では大いにありうることばかりである。小さな一家族の中の出来事だが、これを「日本の悲劇」と呼ぶのは決して大げさではない、と、見ていて思えてくる」などと述べています。




(注1)説明的な台詞が多く、かなり新劇調になってしまうのは、義男に狂言回し的な役割が与えられているために仕方がないと思います。

(注2)劇場用パンフレットの「かいせつ」に「東京都荒川区で起こった事件」とあるのは、「足立区」の誤りでしょう。

(注3)即身仏は、様々な修行を積んだ上のこととされており、強制的に閉じ込められてしまったのなら別ですが、一般人が自ら進んで、食事を取らずに餓死してミイラになるというのは、非常に困難なことではないかと思われるところです。
 不二男の場合、余命3カ月ということで寝たきり状態ということであれば、それもあるいは可能なのかもしれません。でも、画面から見る限り、外見上は健常者然としています。

(注4)実際には、6万円の年金を受け取るよりも生活保護を受ける方が多くの金額を手にすることができるでしょう(ただ、生活保護を受けるのを潔しとしない人も大勢いますし、いろいろ面倒なことも多く、また簡単には認められないようです。それに、義男は、これまでも父親の年金で暮らしてきましたから、それで生活することに慣れてしまっているのかもしれません)。
 あるいは、父親の死後、今生活している持ち家を売却することによって(6万円の生活費の中には家賃は入っていませんでした!)、まとまったお金を手にすることはできるのではないでしょうか?

(注5)不二男は、戸をこじ開けるようなことをすれば手元にあるノミで喉を突くと脅かします。彼は大工職人で一本気なのでしょう、あるいは本当に自殺するかもしれません。でも、そんなことをしたら、彼の企みは潰えてしまいます(その時点で年金は支給停止になるでしょうから)。ここは、それは脅かしにすぎないとも考えられるのではないでしょうか?



★★★☆☆



象のロケット:日本の悲劇
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HK/変態仮面

2013年09月16日 | DVD
『HK/変態仮面』のDVDを見ました。

(1)本作は、なかなか映画館の中に入って行きづらいタイトルなこともあってついつい見逃してしまいましたが、最近TSUTAYAでDVDがレンタルできるようになり、また、NHKのEテレ「哲子の部屋」(8月20日)で新進気鋭の哲学者・千葉雅也氏(同志社大学准教授)が本作を取り上げたということを耳にしたので、さらには台風18号で外出できないこともあり、見てみました。

 映画は、漫画『究極!!変態仮面』(作:あんど慶周)を実写映画化したもの。
 本作の冒頭では、同漫画の画像が早送りで映しだされます。
 そして、クレジット・ロールが流れたあと、歌舞伎町1丁目のSMクラブに、警視庁捜査一課の刑事たちが、連続爆弾魔が入り込んだとして踏み込むものの、一番に踏み込んだ色丞刑事は、SMの女王様・魔喜(片瀬那奈)に逆に捕まって鞭打たれます。でも、彼の方が魔喜に惚れてしまって結婚するに至り、本作の主人公・色丞狂介(鈴木亮平)が生まれます。
 その間に父親は殉職するものの、狂介は、紅游高校の拳法部に所属する高校生に成長しています
 他方、母親の魔喜は現役を続けていて、至極まじめに高校生活を送っている狂介に対し、「お前のどこに母さんの血が入っているのか?」と怒る始末(父親の血は、正義感が強いというところに流れているようです)。
 そんな彼は、転校してきて彼のすぐそばの机に座ることになった姫野愛子(清水富美加)に一目惚れ。愛子の方も、拳法部のマネージャーになったりするものですから、狂介の思いは募るばかり。



 そんなある日、愛子が銀行強盗団に捕まって人質にとられる事件が発生します。
 ヘリコプターを用意しないと愛子たちをピストルで射殺すると強盗が言うので、なんとか助け出そうと狂介は銀行のビルの一室に忍び込みます。
 その際、狂介は、部屋に入ってきた強盗の一人を拳法で倒しますが、彼の覆面を被って変装すれば、怪しまれずに強盗団と人質のいる大部屋に入って行けると考えます。
 ただ、強盗が使っていた覆面ではなく、間違って女性用パンティを被ってしまうのです。ところが、一方で、「こんなものをかぶっては変態と思われてしまう」、「愛子ちゃんにこんな姿見せられない」と言うものの、他方で、「なんだ、この肌に吸い付くようなフィット感は!」「何だこの体内から押し寄せるマグマは!」と叫んで倒れてしまいます。
 その時、「通常、人間は潜在能力の30%しか使うことができないが、狂介の場合、パンティを被ることによって母親の変態の血が覚醒し100%の潜在能力を引き出すことができるのだ」との解説が入ります。
 そして、狂介はオーラを発して「変態仮面」に変身し、強盗団を倒し愛子を救出します。
 その後、変態仮面は、あちこちに出没して、市民を悪人から守ります。
 一方、紅游高校空手部主将の大金玉男(ムロツヨシ)は、ある目的から高校を廃校にしようと工作しますが、変態仮面はそれを妨害します。それで、大金は、様々の刺客を送って変態仮面を倒そうとします。
 さらに、新たに赴任してきた数学教師の戸渡(安田顕)が、補習授業と称して愛子に接近しますが、果たしてどうなることやら、………?



 ラストの方の、「変態仮面」と大金玉男との対決の前までは実に面白いコメディ作品に仕上がっており、そればかりか様々なことをも考えさせてくれるなかなかの傑作ではないかと思いました。

 色丞狂介(変態仮面)に扮した鈴木亮平は、『阪急電車―片道15分の奇跡―』でチラッと見たことがありますが(注1)、30歳で高校生の役を、それもなんとも傑作な役を、力いっぱい演じているのを画面で見るのは感動的ですらあります。



(2)さて、冒頭申し上げましたNHKのEテレ「哲子の部屋」ですが、その回は、「J-POPや話題の映画「HK/変態仮面」から20世紀最大の哲学者ドゥルーズの思想を解き明かす」という内容でした(注2)。
 とはいえ、残念ながらその番組自体は見逃してしまいました。
 ただ、ブログ「思考の部屋」に掲載の記事「「哲子の部屋」における“メタモルフォーゼ”は、何を語っていたのか。」には、かなり詳しくその模様が述べられています。
 そこで以下は、同記事によりながら(言うまでもありませんが、文責はクマネズミにあります)、番組でなされた議論を少々見てみましょう。

イ)どうやら、千葉氏は、「変態仮面」と戸渡先生の「ニセ変態仮面」との対決をヤマ場とみなし、その勝利の帰趨に関して議論しているようです(注3)。

 映画において狂介の「変態仮面」は、戸渡先生の「ニセ変態仮面」から、そのヘンタイ性が偽物だと喝破されてしまい、1度目の対決では負けてしまいます。でも、2度目には、「ヘンタイであればあるほど強いなどという法則はどこにも存在しない」と見抜き、スピニング・ファイヤー対決を勝利します(注4)。

 この対決について、上に記載したブログの記事によれば、千葉氏は、あらまし次のように言っているように思われます。
 「戸渡先生はアイデンティティーを究めようとしている。ところが主人公は、言ってみれば“中途半端”だった」。
 「正義の主人公が(最初に)なぜ負けたかと思ったのかと言うと、自分には本当のアイデンティティーが無いんだということに囚われて、そう思ってしまった」。
 この場合、「(主人公も戸渡先生も)結局ヘンタイなのかノーマルなのかというアイデンティティー問題にこだわっているから、一方はアイデンティティーを追及する。他方は、アイデンティティーは無いということを突き詰めてしまう」。
 そして、「(主人公のように)自分は何者だかわからないということを突き詰めると、自己否定に陥る」。
 そうだとすると、「アイデンティティー追求と自己否定という袋小路からどう抜け出したらよいのか?」
 答えは、「ヘンタイかノーマルかというアイデンティティーを突きつめず、今の自分を肯定することで自身を取り戻す」こと。
 すなわち、「比べてより上、より上と追及するのではなく、“仮”の状態のこの自分でいいということ、自分はハンパな変態仮面なんだ、ということ」。
 結局、「中途半端な自分」を肯定することで戸渡先生との対決みたいなものから抜け出すことができる」のだ。

 要すれば、ヘンタイかノーマルかというアイデンティティーを突きつめずに、今の自分を肯定すること(自分はハンパな変態仮面なんだと考えること)によって、狂介は対決を征することが出来たんだ、ということでしょう。

 そこから、千葉氏は、結論的なところに行き着きます。
 「「本当の自分」「アイデンティティー」というものは一つの神話「近代の神話」かなと、だからドゥルーズの言葉、「私と言うか言わないかがもはや重要で無い地点に到達することだ」が現代哲学の根本原理。「何々でなければならない」という呪縛から逃れ(解放され)て、中途半端でいびつな自分でOKする、ことではないかなぁと思う」。

ロ)千葉氏の議論の内、戸渡先生と狂介の対決に関することについては、確かに戸渡先生は、自分のヘンタイ性を突き詰めているように思われます。その地点からすれば、狂介のヘンタイぶりはレベルが低いものだとみなせるでしょう。
 でも、アイデンティティーの観点から見た場合、狂介は、時々自分を見失うことがあっても、最初から「パンティを被ると変態仮面になるだけであって、自分自身はヘンタイではなくノーマルである」と確信していますし、ラストの方では仮面をとって素顔になった狂介が、そのことを愛子に告げます。
 決して、千葉氏が言うように、狂介がアイデンティティーとして「中途半端」なところにいるわけではないのではないかと思います。
 むしろ狂介は、ヘンタイ性が強いかどうかではなく(ヘンタイに関し「中途半端でいいんだ」と開き直ることによってではなく)、頑健な体と正義を貫く強い姿勢とが重要なんだ、と気がつくことによって、戸渡先生に勝つことができたのではないでしょうか(注5)?

ハ)千葉氏の議論の結論的な部分に関しては、これも、専門家の言うことに素人が難癖をつけても意味が無いとはいえ、「(人がもはや私と言わない地点に到達するのではなく、)私と言うか言わないかがもはやまったく重要でないような地点に到達することだ」というドゥルーズの言葉と、「中途半端でいびつな自分でOKする」という千葉氏の言葉とがそんなに簡単に結びつくとは思えないところです(注6)。
 まして、ドゥルーズの言葉は、フェリックス・ガタリとの共著『千のプラトー』(宇野邦一等訳、河出書房新社。1994年)の「1 序―リゾーム」の冒頭に見られる文章であり(P.15)、そこでは二人の連名で著書を出すことについて議論されているのであって、「中途半端でいびつな自分でOKする」ことが主張されているわけのものではないように、素人見ながら思われるところです。
 とはいえ、専門家の言ですから、よりきちんとした裏付けがきっとあるものと思います。あるいは、番組の25分という時間的な制約によって、十分に議論しきれなかったことでしょう。この際、素人にもよく分かるように、雑誌『現代思想』にでもエッセイを掲載していただきたいところです(注7)。

(3)渡まち子氏は、「見ているこちらが恥ずかしくなるヴィジュアルの正義のヒーローを描く「HK 変態仮面」。“くだらない”という形容はこの映画には褒め言葉かもしれない」として20点をつけています(本文の最後に「意識的に低い点数を付けたが、これはもちろん褒めているのだ。念のため」と付言)。
 また前田有一氏は、「本作も前半はまさに大成功。マーベルコミックス映画をパロディにしたオープニングから大爆笑の連続で、原作読者にしたら間違いなく今年一番笑える映画となっている。連載第一回からリアルタイムで読んでいた私としても、文句のない出だしであった」云々として70点をつけています。




(注1)映画の初めのほうで、付き合っていた翔子(中谷美紀)に対して「別れてくれ」と言う男の役です。

(注2)このサイトの記事によります。
 なお、出演者は、千葉氏の他に、マキタスポーツ(お笑い芸人)と女優の清水富美加(『HK/変態仮面』に姫野愛子役として出演しています)。

(注3)「変態」に関しては、本文の(2)で言及したブログの記事によれば、その番組において、2つの意味、大雑把に言えば、変身するという意味(metamorphose)と、性的異常という意味(abunormal)がある、と説明されたようです。
 映画に登場する「変態仮面」の「変態」はいうまでもなく後者でしょうから、以下では「ヘンタイ」と記すことと致します(少なくとも、狂介と戸渡先生との対決においては、ふたりとも既に変身しているのですから、「ヘンタイ」という点が前面に出てくと思います)。

(注4)映画はこのあと、空手部主将の大金玉男が巨大ロボットを操って「変態仮面」を打ち負かそうとしますが、あっけなく大金のほうがやられてしまいます。
 ただ、狂介の「変態仮面」は戸渡先生を打倒したのですから、もはや向かうところ敵なしであって、この場面は蛇足としか言いようがありません。
 このサイトの記事が言うように、まさに「この映画の残念さを象徴するシーン展開として私があげたいのは、やっぱりクライマックスの、変態仮面 VS 戸渡の実に『ジャンプ』的な激戦がちゃんとかっこよく終結したのに、その直後に大金が全観客脱力必至の「秘密兵器」をひっさげてノコノコ出てきたところ」です!

(注5)ここにはもう一つ別の観点も考えられるかもしれません。
 映画では「変態(ヘンタイ)」とまとめて取り扱われてしまっていますが、実際には、その内訳は実に種々雑多なものがあるようです。Wikipediaの「変態性欲」の項では、まず「性対象の異常」と「性目標の異常」の2つの項に大分類されたうえで、それぞれの項には小項目として10位上のものが記載されています。
 それに従えば、戸渡先生の「偽変態仮面」は、「性目標の異常」の「疼痛性愛」に含まれる「マゾヒズム」に分類されるでしょうが、他方で狂介の「変態仮面」は、「性対象の異常」の「拝物愛」(フェティシズム)ではないでしょうか?
 つまり、戸渡先生の異常と狂介の異常とは、同じ土俵の上で比較できないものと考えられます(狂介は、新品のパンティでは変身できませんが、新品のパンティでも変身できる者に比べて劣るわけではないでしょう!)。
 そこで、狂介は、戸渡先生に対して、「お前の問題提起の仕方は間違っている!二人の間で、どちらがよりヘンタイなのかを競うことは出来ないのだ!」と反論出来たのではないか、と思われるところです。

(注6)「~ような地点に到達すること」というのは、「中途半端でいびつな自分でOKする」といった、いかにも安易に見えるやり方とは対局的な努力を払った末のことではないでしょうか?

 なお、本文の(2)で言及したブログの記事によれば、千葉氏は、「「本当の自分なんて言うものは無い」がドゥルーズのアイデンティティーの問題の答え」であり、「ドゥルーズは、「常に自分は別なものに変化し続けている」んだと強く言った人」であるとして、「家と職場で切り替わるパパの姿」を例示したようです(作詞糸井重里・作曲忌野清志郎の「パパの家」によりながら)。でも、そんなことくらいなら、例えば映画『鈴木先生』が言う「役割」の議論とどこが違うのでしょうか(同映画についての拙エントリの「注8」を参照してください)?

(注7)もしかしたら、近刊が予告されている千葉氏の著書『動きすぎてはいけない』(河出書房新社)では、色々議論されているのかもしれません〔ただ、表題と同じタイトルの研究論文を眺めると(研究論文のため素人にはとうてい理解困難ですが)、「節約」が注目されているようで、あるいはその本では議論されていないのかもしれません〕。




★★★★☆



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黒いスーツを着た男

2013年09月12日 | 洋画(13年)
 『黒いスーツを着た男』をヒューマントラストシネマ渋谷で見てきました。

(1)本作は、アラン・ドロンの再来と騒がれているラファエル・ペルソナの主演作ということがキャッチフレーズになっているところ、内容自体もなかなかの出来栄えでした。

 物語の舞台はパリ。同じ自動車販売会社で働く同僚の3人が、夜遅くまで公園で車を使ってふざけあっている場面から映画は始まります。
 ついで、騒ぐ3人が乗る車が走ってきて、交差点で一人の男を跳ね飛ばしてしまいます。
 その車から運転していた黒いスーツを着た男が出てきて、轢かれて倒れたまま動かない被害者を見ますが、何もしないで慌てて車に戻ると急発進させてしまいます。
 ところが、この事故を交差点に面したマンションの窓から見ていた女がいました。彼女は、すぐに現場に駆けつけ、救急車の手配をします。
 運転していた黒いスーツを着た男はアル(あるいはアラン:ラファエル・ペルソナ)で、10日後に勤務先の会社の社長令嬢と結婚することになっていました。
 車に同乗していた他の二人の同僚(注1)が、「このまま黙っていろ、あとの始末は俺達がする」と言うので、アルはそれに従うものの、心中穏やかではありません。事故の翌日、被害者の容態を確かめるため、彼らには内緒で病院に出かけて行きます(注2)。
 他方で、この轢き逃げ事件を見ていた女は、医者になるべく大学に通っているジュリエットクロチルド・エム)。この事件に深い関心を持ち、被害者の家族と連絡を取るだけでなく、被害者が入院している病院に行くと、彼の妻ヴェラアルタ・ドブロシ)に出会い、彼らがモルドヴァ移民で不法就労者であることがわかります(注3)。
 さらに翌日もジュリエットは病院に出かけますが、その廊下で行き交った男が、あの時の轢き逃げ犯ではないかと気が付きます。
 さあ、ジュリエットはどうするでしょうか、アルはどうなるでしょうか、……?

 「○○の再来」というと、大概の場合、当人にいくら才能があっても○○に及ぶはずもなく、ついには○○の影に隠れて消え去ってしまうものですが、ラファエル・ペルソナについても、いくらなんでもアラン・ドロンに比べるのは可哀想ではないか、そんなことを言わなければそこそこ人気が出るのではないかと思いました。



 それはともかく、本作は、アル、ジュリエット、ヴェラの心の揺れ動きがなかなか巧みに描かれていて、久しぶりにフランス映画的な雰囲気に浸れました。

(2)この映画は原題が「Trois Mondes」(3つの世界)とされ、アル、ジュリエットそれからヴェラの3人が、それぞれ違った世界に属する人物として、それも揺れ動く内面を持った人物として、重層的に描かれています。

イ)事件の当事者のアルは、格差社会の下層出身の男で、貧しい掃除婦の母親によって育てられるも、勤務先の自動車販売会社で懸命に働くことによって、社長に目をかけられ、ついにはその娘・マリオンアデル・ハネル)と結婚式を挙げるところまで辿り着きます(注4)。
 ただ、マリオンとの関係については、実際にはむしろ、彼女の方で美貌のアルに入れあげていると言うべきかもしれません(注5)。さらにまた、アルの母親が、階層の違う者同士の結婚ということで消極的なこともあって(注6)、アルの内心にはこの結婚にスッキリとしないものが残っていたようです。
 事件を目撃したジュリエットが彼に近づいてくると、彼の方でも彼女に好意を持ってしまいます。

 事件については、アルは、一方では良心の呵責にひどく咎められながらも、他方で、やっと勝ち得たものを無にしたくなかったのでしょう、事件の後、その揉み消し工作に奔走することになります(注7)。

 なお、事故を引き起こした車に同乗していた二人の同僚もアルと同じような境遇だと推測されるところ、彼らは一方で、会社の支配人までのし上がり会社で個室を与えられたアルをやっかむものの、他方で、彼を通じていろいろ甘い汁を吸おうとの魂胆も持っているようです。
 そんな彼らにしてみれば、アルが正直に名乗り出て刑務所に入った日には、得られるものが得られなくなってしまうと考えたのでしょう、アルに対して、「バカなことはするな、轢き逃げ犯は、最低でも2年だぞ」と言い、変な行動を取らないよう迫ります。

ロ)この事故を目撃したジュリエットはどうでしょう。
 階層からすれば、医者になるべく大学で勉強中で自分のアパルトマンを持っているところからすれば、中流より上に属していると思われます。
 彼女には大学で哲学を教えている婚約者(注8)がいるところ、どうやら彼女の妊娠(3ヶ月目)について揉め事が起きているようです(婚約者の方で子供を持つことを望んでいないようです)。
 そんな事情もあるのでしょうか、ジュリエットは、美貌のアルを病院内で目撃し、その勤務先まで追跡したにもかかわらず、彼を告発することはしません(注9)。

ハ)もう一人のヴェラは、事故に遭遇した夫とともにモルドヴァから来た移民で、置かれている大層不安定な状況(経済構造に組み込まれているにもかかわらず、身分的には社会の外に置かれているといった)に不満を募らせています。
 特に、夫が不法就労者であるため身分保障がされず(注10)、その結果政府からの補助も下りないため、この先も必要な入院費とかリハビリの費用をどう工面するか、大変な難題を抱え込むことになります(注11)。
 ヴェラを通じてアルが金で解決しようとしていることを知ると、一方では、ひどく怒ってアルを警察に連れて行って告発しようとしますが、他方で、「そんなことをしても1年くらいで出所してあとは忘れてしまう」と言って、告発はせずに金を受け取ります(こんなことになるのも、一つには、ヴェラもアルの美貌に魅入られたからかもしれません)。

 なお、移民が置かれている状況については、邦画でも描かれており、例えば、 『サウダーヂ』がブラジルから来た日系人労働者を、また『KAMIKAZE TAXI』がペルーからの日系人労働者を、それぞれ取り扱っています。

ニ)以上を見ると、本作は、「黒いスーツを着た男と、彼を巡る3人の女」とでもする方がいいようにも思えてきます。尤も、マリオンの比重が小さすぎる印象ですが。

(3)山根貞男氏は、「加害者たる主人公、目撃者の女性、被害者の妻。この3者を交互に描く配分が絶妙で、事態がどんどん悪化してゆくサスペンスを深める。共同脚本および監督のカトリーヌ・コルシニの力量に二重丸を付けよう」と述べています。



(注1)フランクレダ・カテブ)とマルタンアルバン・オマール)。
 なお、レダ・カテブは、DVDで見たのですが、『愛について、ある土曜日の面会室』において、顔つきが瓜二つというところから受刑者との入れ替わりを依頼されるステファンを好演しています。

(注2)被害者は意識不明の重体です。アルは、被害者に近づくと「死ぬなよ、頼むから」と小声で繰り返しささやきます。
 なお、医者が妻のヴェラに言うには、「頚椎損傷で、治っても手足が麻痺する」とのこと。

(注3)ジュリエットに扮したクロチルド・エムは、『ミステリーズ運命のリスボン』において、アルベルトがパリ時代につきあっていた女・エリーズを演じています。
 また、ヴェラ役のアルタ・ドブロシは、コソヴォ(旧ユーゴスラヴィア)生まれの女優で、『ロルナの祈り』において、アルバニアからベルギーに来た女性ロルナに扮しています。



(注4)結婚するにあたり、アルは、社長から「経営方針は変えないが、そして裏金は自分がやるが、あとはお前に任せる」と言われて、金庫の鍵を渡されます。

(注5)事情が全てわかって、アルが会社を出なくてはならなくなると、マリオンはアルに対して、「家もパパもいらない、あなたさえいればいい、離れないで」と懇願しますが、アルは立ち去ってしまいます。



(注6)アルの母親は、自分のみすぼらしい姿を恥じているようです(アルは、「結婚すれば同じ身分なんだから恥じることはない、きれいな服を買いに行こう」と言うのですが)。

(注7)その際には、彼には手持ちの資金が無いために、社長が行っていた裏金作りのやり方(簿外での自動車販売)を社長に無断で行って金を得ようとしますし、最後には、鍵を渡されていた金庫から会社の金を持ち出すことまでします。

(注8)彼は教壇で、ハイデッガーに言及しながら、「死は各自のもの、死は身代わりが出来ない、死を引き受けて人は生きるのだ」などと述べています。そんなことぐらい、大哲学者の名前を出さずとも子供でも知っていることだ、などとつまらないチャチャを入れずに黙っているべきでしょう。

(注9)ジュリエットは、車の中でアルから事情を聞き、アルが悪い人間でないことを理解するのですが、それにしてもヴェラの夫は事故で重体なのです。果ては驚いたことに、アルと車の中でセックスをするにまで至ります。
 ただ、アルを巡る状況が悪化してくると、自分にはもう出来ないとして身を引いてしまいますし(「もう巻き込まないで、恋人がいるし妊娠している」とアルに告げます)、婚約者に対し、「あなたの家で3人で暮らすことにする?」と言ったりします。

(注10)ここらあたりのことは、例えばこのサイトの記事が参考になるでしょう。

(注11)病院の担当者は、ヴェラの夫の雇用主が違法なことをしているのだから告訴すればいいと言うのですが、そんなことをする手間もお金もヴェラにはありません。



★★★★☆



象のロケット:黒いスーツを着た男
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夏の終り

2013年09月10日 | 邦画(13年)
 『夏の終り』をヒューマントラストシネマ渋谷で見てきました。

(1)本作は、瀬戸内寂聴の原作(新潮文庫)を映画化したもので(注1)、満島ひかりが出演するというので関心を持ちました。

 物語の舞台は昭和30年代の東京。
 映画の冒頭では、木造の小さな家が立ち並ぶ路地を、オーバーを着た一人の若い男が家を探して歩き回っています。一軒の家の表札を確認すると、その男が門の中に入っていきます。
 すると場面は変わり、縁側で猫に餌をやる男。「ごめんください」との声を受けて、彼は玄関に出ていきます。
 続いて女が外から戻ってきます(注2)。
 家の中の男が「早かったね」と言うと、女は「食べる?コロッケ」と言いながら、それをお皿にあけ、自分で一つ頬張ります。
 男が、「今日、木下君が来たよ、土産を持ってきたんだけれど、よっぽど僕が信用されなかったのだろう、すぐに帰ったよ」と言ったところで、クレジットが入ります。
 女は相澤知子満島ひかり)、木下を出迎えた男は、知子の家で一緒に暮らす小杉慎吾小林薫:実は鎌倉に本宅があり、そこに妻や娘がおります)、木下涼太綾野剛)は知子が以前別れた愛人です(注3)。

 慎吾は、知子の存在を妻に告げてはいるものの、離婚する気はありません。知子は、はっきりしてと迫りますが、なんだかんだと逃げています。他方、涼太は、知子と別れたあとも未練が残り、関係の修復を図ろうとします。知子は、慎吾の態度が優柔不断なせいもあって、涼太と再度関係を持ってしまいますが、こうなると今度は、涼太が、知子に対して慎吾との関係をはっきりしてくれと迫ります。
 さあ、この3人の関係は過去どのようなものであり、これからどうなるのでしょう、……?

 本作は、主人公の知子を中心にした四角関係とでもいうべきぐちゃぐちゃした関係が出来上がった経緯やその後の進展ぶりが、昭和30年代の濃密な雰囲気の中、主人公を演じる満島ひかりの熱演もあって、大変巧みに描き出されている文芸物だなと思いました。

 満島ひかりは、最近では『スマグラー』で見ただけながら、さすがの演技を披露しています(注4)。



 小林薫は、『舟を編む』で見ましたが、この俳優が出てくると画面に奥行きが出てくる感じがします。



 綾野剛は『シャニダールの花』で見たばかりですが、今が旬なのでしょう、どんな役をやっても様になっているのは凄いと思いました。



(2)こうした関係は、まさに昭和30年代だからこそありえたのではという印象を受けます。
 男が、本宅と別宅とで半分ずつ暮らすというのは、成金が身請けした芸者を妾として別宅に住まわすという昔の風潮の名残のようにも見え、あるいは当時文壇の主流を占めていた自然主義作家の一つの生き方のようにも思えます。
 でも、そうした時代的な重しを取り去って(あるいは、意識しないようにむしろその中に入り込んでしまって)、男女の濃密な関係が描かれている作品として本作を見れば、それなりに興味を覚えます。

 一つ挙げるとしたら、画面には一切登場しないものの、本作を大きく支配する人物として慎吾の妻が描かれている点でしょう。
 知子は、時々通ってくる女学生のまり(注5)が見つけ出して机の上に置いてあった彼女から慎吾に当てた手紙を読んだり、彼女からの電話を直接受けたりして、強いショックを受けます。そればかりか、自分が風邪で臥せっている時も、慎吾はきちんと妻のもとに帰っていくのです。それで、こうした関係に決着をつけようと、知子は慎吾の本宅に出向くものの、不在で会うことが出来ません(逆に、不在だからこそ、知子は、慎吾の家に妻の存在を生々しく感じてしまいます)。
 知子が涼太都の関係を復活させたのも、慎吾の妻がもたらす不安定さ(相手が見えないからこそかえって募るようです)を解消しょうとしてのことだと思われるところです。
 ただ、それは、さらに涼太に不安定さをもたらしてしまい、慎吾と知子の関係について、涼太は「無神経なんだよ、ふしだらで、淫らでだらしないよ、なぜ別れないんだよ」などと言い募るようになります。
 本作は、この見えない登場人物に3人が翻弄されている作品と言えないこともないのではないでしょうか?

(3)言うまでもないことながら、本作と原作とは感じが違う点が色々と見つかります(一般に、映画が原作と違うのは当然ですから、それ自体に問題はないでしょう)。
 例えば、本作では、四画関係とでもいうべきひどくもつれた関係が描かれているにもかかわらず、知子の性的な行為は直接的には殆ど描かれません(事後的にそれとわかる場面はありますが)。
 とはいえ慎吾については、原作でも、「いつからか慎吾は知子をいたわって二人の間で性の匂いが薄れていた」とか、「涼太との秘密を持ってしまってからは、いっそう知子には慎吾とのプラトニックな愛が稀有なもののように大切に思われてきた」とあるので(注6)、おそらく映画でもそれを踏まえているのでしょう。
 ただ、涼太については、原作では、「涼太は知子の姓名を吸い尽くそうとでもするように、貪婪に知子をむさぼった。その度涼太の体は瑞々しさをとりもどし、活力がどこからかよみがえってきた」などとかなり直接的に描かれています(注7)。
 尤も、今出回っている小説などで見られる露骨な表現からすれば、霞がかかりすぎているといえるかもしれませんが。

 他方、つまらないことですが、原作では明示されていない地名が、本作にあっては、はっきりと映し出されています。
 例えば、知子の家の表札には、「相澤 大和町」とありますし(注8)、知子が慎吾の使う机の下から見つけ出した彼の妻からの手紙には、送り主の住所が「鎌倉」と記載されています。
 これらは原作では、「知子の下宿」(注9)とか「海辺の妻の家」と書かれていて(注10)、ひどく曖昧にされています(注11)。

 ところが、本作のラスト近くでは、知子が新しい生活をすべく引っ越しをするのですが、原作ほど引越し先がはっきりしません(むしろ、元の家を大掃除しているような感じを持ちました)。
 逆に原作には、「練馬区といっても、埼玉県の県境に近い所」にある「畠の中の建売住宅」(「和六、六、四半、台所、風呂美築月賦可」)とされています(注12)。
 この他、原作(短編「花冷え」)では、ラストで知子が待ち合わせをしている駅が、本作と同じように「小田原」と明記もされているのです(注13)。
 これは、慎吾と手を切って新しい生活をスッキリと始めたいとする知子の揺るぎない決意が原作(短編「花冷え」)には込められているために、物事がはっきりと書かれているのではないでしょうか?
 対して、それまでの短編では、知子を巡るどっちつかずの四角関係を描くために、地名などの具体的なものは曖昧にされているのではとも考えられるところです(注14)。

 翻って本作を思い返してみると、原作に比べてかなり曖昧に描かれている事柄もあります。
 例えば、本作で横浜港の場面が描かれますが、知子がどこに旅行してきたのかははっきりとしません。ですが、原作(短編「夏の終り」)の冒頭には、「一カ月のソビエトの観光旅行から帰ってきた知子」と明示されているのです。
 さらには、描かれる時代が昭和30年代であるとか、慎吾と知子の関係が8年間続いていることや、涼太とは12年前に別れたことなども、原作に比べるとそんなにはっきりとは示されていないように思います(注15)。

 他方で、本作では、知子が行う染色の作業がかなりクローズアップされている印象を受けました(注16)。そして、ラスト近くで知子は、型紙を作るために刀で専用の紙を彫っていますが(型彫り)、くり抜かれて出来た型紙は、実にくっきりとしたラインで葉を描き出しています。まるで、これからの知子の生活ぶりを暗示しているかのように思いました。

(4)渡まち子氏は、「2人の男の間で揺れ動き、嫉妬や情念の末に、いちから人生をやり直す決心をするヒロインの決断は、昭和30年代当時としては画期的な女の自立だったのだろう。今見るとさしたる驚きもないが、満島ひかりのどこかふっきれたような横顔はさわやかな力強さを感じさせた」として55点をつけています。
 また、相木悟氏は、「TV屋のつくった媚びた映画と違い、どっぷりとスクリーンに浸って人間の内面を窺う、邦画界久しぶりの映画らしい映画の登場である」と述べています。




(注1)新潮文庫版には、「夏の終り」のみならず、他に4編の短編が入っていますが、「雉子」を除くと、どの短編(「あふれるもの」「みれん」「花冷え」)にも「夏の終り」と同様に知子と慎吾が登場します。これら4編の小説で、知子と慎吾(それに涼太)を巡る関係が描かれているわけで、本作も、4つの短編からエピソードをピックアップして構成されています(以下で「原作」という場合は、4編全体を指すものといたします)。

(注2)前の場面とこの場面の間には時間的な経過がありますが、本作では切れ目ない感じで描かれます。

(注3)以前、知子の夫が東京の世田谷に住まいを移そうとした時、知子は付き合っている男がいて別れたくないからと言って、ついて行きませんでした(映画では、田舎道を小さな娘の手を引いて歩き去る夫の後ろ姿に向かって、知子は「だって、好きなのよ!」と大声で叫びます)。その時の愛人が涼太ですが、実のところはすぐに別れていたのです。

(注4)満島ひかりが若すぎて、本作の主人公にそぐわないのではという声があるようです。確かに、原作では、知子は「四〇近く」という年齢設定のようながら(短編「花冷え」P.186)、でも映画において同じ設定だと考えなくても構わないのではと思います。

(注5)原作には見当たらない登場人物のようで、わざわざ本作に登場させる意味はよくわかりません(知子や慎吾に娘がいることの象徴でしょうか?)。

(注6)短編「夏の終り」のP.65とP.67。

(注7)短編「あふれるもの」P.41。

(注8)中野区大和町を指すのでしょう(このサイトの記事によります)。
 また、このサイトの記事が参考になるかもしれません。

(注9)例えば、短編「あふれるもの」P.8。
 なお、短編「花冷え」では、もう少し具体的に、「ひょろ高い二階家は、母屋のすぐ裏に、全くの別棟になっていて、木口もしっかりしていた」、「旧都心にありながら、その家の崖の下は、二千坪ほどの畑地が残っていて、奇蹟的な閑静さに恵まれている」と書かれています(P.157)。

(注10)「避暑地の入り口として有名な」駅から「意外な近さ」のところにある家だともされています(短編「夏の終り」のP.101)。

(注11)この他にも、慎吾の妻は、電話で、入院した国元の姪にお見舞いを送ってくれるよう知子に依頼しますが、その宛先として、本作では極めて具体的に「山形市末広町二四番地結城病院内」と伝えられるところ、短編「みれん」では、「東北の盆地の町の住所」とされるばかりです(P.125)。
 こんなところは、原作者の瀬戸内寂聴が同棲していた相手の小田仁ニ郎の出身地が、山形県南陽市であることによっているのではと思われるところです。
 なお、このサイトの記事によれば、「小田仁二郎は「週間新潮」に時代小説「流 戒十郎」を連載している。それは柴田錬三郎の人気小説「眠 狂四郎」の後釜であった」とのことで、本作において、慎吾が眠狂四郎の円月殺法の真似をするのも、そのことを踏まえているのでしょう。

(注12)短編「花冷え」のP.169(このサイトの記事によれば、より具体的には「練馬区高松町(現・土支田一丁目)」のようです)。

(注13)短編「花冷え」では、待ち合わせをしている相手は慎吾ですが、本作では、それは明かされません(劇場用パンフレットに掲載の満島ひかりのインタビューでは、彼女は、「実は続きを撮っています。ある人と知子は会っているのです。そこは観た方の想像に委ねたいので、誰だったかは教えません(笑い)」と述べています)。

(注14)本作において、ことさら地名が明示的になっているのは、設定が東京とされているにもかかわらず、兵庫県の洲本市など関西方面でロケをしたことも与っているのかもしれません。

(注15)ダンスホールで会って話している際に、知子が涼太に「8年よ」と言っているくらいではなかったかと思います。

(注16)原作では、せいぜい「図案を画きながら、染料をときながら、型紙にのみをあてながら」とあるくらいです(短編「花冷え」P.180)。



★★★★☆



象のロケット:夏の終り
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KAMIKAZE TAXI

2013年09月06日 | DVD
 『KAMIKAZE TAXI』のDVD(インターナショナル・バージョン)をTSUTAYAで借りてきて見ました。

(1)前回のエントリで取り上げた『RETURN(ハードバージョン)』を見ると、どうしてもその前作とされる本作(1995年公開、原田眞人監督)(注1)まで見たくなってしまいます。
 一つには、原田監督が本作との関連性を強調するからですが〔前回エントリの(2)〕、さらにまた、本作の素晴らしさを指摘する論評が目につくこと〔前回エントリの(4)〕もあります。

 本作の冒頭は、ブラジルやペルーなどから出稼ぎに来た日系人労働者が住むアパートでのインタビューです(注2)。続いて、本作が制作された時代(1954年)を明らかにするために、細川首相から羽田首相への交代を巡るニュース画像が流れ、そしてゴルフ場の場面となります。
 そこで、チンピラの達男高橋和也)が、悪徳政治家・土門内藤武敏)に引き合わされます。彼は、土門に女を世話する担当者となるのです。
 達男は、恋人レンコ中上ちか)と幸せな時を過ごす一方で、土門のもとにレンコとその知り合いのタマ片岡礼子)を派遣します。
 ところが、土門によってタマは顔に深い傷を負わされて戻ってきます。それをレンコは暴力団組長・亜仁丸ミッキー・カーチス)に激しく抗議したところ、達男の目の前であっさりと殺されてしまいます。
 怒った達男は復讐すべく、まずは仲間を集めて土門から大金を盗み取るものの、隠れ家は亜仁丸に簡単に見つけ出され、達男は一人命からがら逃げ出します。
 大金を持ちながら逃亡している途中、達男は一台のタクシーを拾うのですが、その運転手・寒竹役所広司)は、ペルー育ちの日系人(小学生低学年の時にペルーに移住)とのこと。
 この寒竹と、さらには顔に傷を負ったタマとが加わった3人組が、亜仁丸らの追求を避けつつ、復讐を何とかやり遂げようとしますが、果たしてうまくいくでしょうか、……?

 アクション物ながら、人物などの設定がなかなか入念に作られており、見る者もはじめからその世界にすっと入っていくことができます。加えて、やはり運転手・寒竹を演じる役所広司が格段に素晴らしく、その風貌といいしゃべり方といい、南米日系人そのものと思ってしまいます。さらには、達男を演じる高橋和也の元気溢れる演技も、本作にぴったりではないかと思いました。
 こうしたことからすると、南米に逃げていた主人公が日本に戻ってきて、雇い主に言われた男を殺すという今回作の『RETURN(ハードバージョン)』は、理由付けが薄い感じがしてあまり入り込めず、さらには、その「椎名桔平‐山本裕典‐水川あさみ」というコンビは、本作の「役所広司‐高橋和也‐片岡礼子」というコンビに比べると、全般的にどうも見劣りがしてしまいます。

(2)両作の関連性はどうでしょうか?
 前回のエントリで挙げた点から言えば、
・「タキシードを着たタクシーの乗客」というのは、本作の達男が、土門襲撃の際に着用していたタキシードのまま寒竹のタクシーに乗ることを指しているのでしょう。
・「温泉でのゲーム」については、本作では、達男や寒竹らが宿泊した温泉旅館の宴会場で、田口トモロヲがチャップリンの服装を着てチャップリン歩きをしたりします(注3)。

 他にも、例えば、
・本作における暴力団組長の名前が亜仁丸で、『RETURN(ハードバージョン)』の三姉妹の名前も芽・子・とされています。

 さらに言えば、
・『RETURN(ハードバージョン)』においては、北原が殺そうとする相手の男・狭土の祖父が、戦争中に細菌部隊にいたという設定になっていますが、それは、本作における悪徳政治家・土門が、戦争中に神風特攻隊にいて、寒竹の父親の元上官だったという設定に通じるものがあるでしょう。

 でも、それらの関連性などどうでもいいことです。
 なにしろ本作自体の出来栄えが誠に素晴らしく、こんな映画があることにどうしてこれまで気づかなかったのかなとクマネズミの不明を恥じるばかりです。

 それと、今回の『RETURN(ハードバージョン)』にあまり乗れなかったのは、本作がそれ自体でほぼ完結していて続編を作る余地が少なく(注4)、今回作がかなり無理をして作られているような感じがするせいなのかなと思ったりしました。



(注1)元々は、『復讐の天使/KAMIKAZE TAXI』のタイトルでOV作品として発売されていたもので(全2巻、200分)、その後劇場公開となり(169分)、VHS版(ディレクターズ・カット版:150分)も作られ(このサイトの記事によります)、最近では、インターナショナル・バージョンとしてDVDが2011年に出されました(140分)。

(注2)インタビューでは、日本における生活の大変さとか、不当な扱い受けた話などが語られます。
 なお、インタビューを受ける日系人労働者の一人に、あとでこの物語の主人公となる寒竹(役所広司)が入っています。

(注3)田口トモロヲは、DVD化されたインターナショナル・バージョンでは削除されていますが、この温泉旅館の宴会場で、寒竹らに対して行われた「自己開発セミナー」においてトレーナー役を演じています。このセミナーの場面は15分あまり続くもので、今回作の『RETURN(ハードバージョン)』における温泉場でのゲームの長々しい場面に通じるものがあります。
 なお、この「自己開発セミナー」の場面は、同じDVDの特典映像として収録されています。

(注4)主人公の寒竹は、父親を殺したゲリラ組織のリーダーが、自分ではなくコロンビアのギャングに殺されたこともあって(麻薬を巡る争いから)日本にやってきたわけで、日本における問題が解決してペルーに戻るとしても、そこでなすべきことは本作のストーリーから見えてきません。




★★★★☆



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RETURN(ハードバージョン)

2013年09月04日 | 邦画(13年)
 『RETURN(ハードバージョン)』を、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)これは、『謎解きはディナーのあとで』に出演している椎名桔平の主演のアクション映画であり、評判の良かった『わが母の記』の原田眞人監督が制作するアクション映画でもあるということで興味を持ち、映画館に出かけてみました。

 物語の始まりは2002年のこと。
 普通の会社員だった古葉椎名桔平)が、ギャンブルにはまりこんだ挙句ヤミ金にまで手を伸ばしたところ、あまりにヤミ金の取り立てが凄まじいために反撃し、ヤミ金の社長(高嶋政宏:実は暴力団・御殿川組の会長の息子)をゴルフクラブで殴って殺してしまいます。
 それでホトボリが覚めるまで南米ペルーに行っていたところ、そこでの雇い主から、日本に戻ってある人物を殺してこいと命じられます。

 古葉は北原と名を変えて10年ぶりに日本に帰ってきたものの、3.11後のため彼の知る日本とはかなり様変わりしています。
 そんな中で、北原は目的の人物を、その人物の愛人である伽羅水川あさみ)や運転手のウノ山本裕典)と一緒になって探しまわります。
 他方で、北原の帰還を知った御殿川組の方では、殺された若社長と兄妹の三姉妹(キムラ緑子赤間麻里子土屋アンナ)が復讐しようと付け狙い出します。
 さあ北原の運命やいかに、……?

 ただ、粗筋をたどってくると正統的なアクション物と思えるものの、実のところはコメディ物と見紛うような作品です。
 何と言っても御殿川組の三姉妹がハデハデしく、例えば、
・刑務所に入っている長女・亜芽キムラ緑子)の出所を早めるべく、次女・仁子赤間麻里子)と三女・土屋アンナ)が警察の署長(でんでん)に掛け合いに出向くのですが、奇抜な髪型の仁子の出立は和服に日傘ですし、丸の騒々しさは半端ではなく、仁子が「うるせーってんだよ、この野郎」とか「バカは黙って仕事をしろ」と言うくらいのハイレベル(注1)。

 また、
・刑務所に半年ばかり入っていた長女・亜芽が、出所すると唐突に、「この国の放射能汚染は、政府が言うほどやわじゃない、組ごとブラジルに移住する」と宣言し、組員たちを唖然とさせます(注2)。
・次女・仁子は、それを聞いて、「ブラジルは何語でしゃべるんだ?」と組の幹部に尋ね、彼が「スペイン語じゃないですか」と答えると、「イタリア語だろ、バカヤロウ」、「いやフランス語かな」と応じたりします。
・三女・丸も、「俺は絶対行かない。ブラジルなんて地球の裏側。裏街道歩いている人間が、地球の裏側に行ったりしたら、裏と裏とで表になってしまうから」と言う始末。

 さらには、椎名桔平が扮する北原も、もとはカタギだったからでしょう、「です・ます」調で物静かに話したり、温泉旅館の宴会場で伽羅とウノの3人でゲーム(負けると“チャップリン歩き”をする)に興じたりする一方で、敵の5人をブラジルカポエイラの技と銃剣一本で次々と殺ってしまうのです。



 まあ、おそらく演じている俳優たちはかなり面白かったのではと推測しますが、果たしてそれを見る観客が面白いと思うでしょうか、でも観客が極端に少ないところを見ると、そうもいかないものと思います。

(2)本作に関しては、監督の原田眞人氏のインタビュー記事が、雑誌『シナリオ』9月号に掲載されています。
 そこでは、例えば次のように述べられています。
・「『わが母の記』で原作から離れてクリエイトした子供たち、あの三姉妹を今度は武闘派三姉妹としてよみがえらせよう」とした(注3)。
・次女・仁子役の赤間麻里子は、『わが母の記』で主人公の妻の役を演じているが、「あっちではあんまり目立たない、大人しい役だったけど、今回はとにかくビックリさせたいな」と考えた。
・第1作の『KAMIKAZE TAXI』(1995年)にあった、「例えばタキシードを着たタクシーの乗客とか、それから温泉でのゲームとか」をよみがえらせようとした。

 こんなところを読むと、どうやら本作は、原田眞人監督が手がけた『わが母の記』や、特に『KAMIKAZE TAXI』をよく記憶するファンにとって、すこぶる面白いのかもしれません。
 でもそれって、作者の身辺をよく知る者が読むと面白い「私小説」と同じこと(ごく狭いサークルのメンバー向けの作品)ではないでしょうか?

(3)とはいえ、「私小説」といえども、よく出来た作品の場合、作者につき細々としたことに通じてなくともしみじみとした味わいを感じるのと同様に、ここまで突出すると、本作だけを見てもまずまず面白さを感じるところです。
 ですが、本作のラストがいけません!
 原田監督が、ブックエンド方式(「始まったところに最後は戻る」)としてラストを重視しているにもかかわらず(注4)、なんと北原が、「御殿川組シスターズ」に対して、「(移住先は)アルゼンチンじゃいけませんか?」と言い出し、三女・丸が「俺、アルゼンチンだったら行ってもいい」と応ずるのです(注5)。
 せっかく、黒澤明監督の『生きものの記録』(1955年)を踏まえてブラジル移住とされているものが(注6)、どうして突然アルゼンチンに変更されてしまうのでしょうか?
 ブラジルで3年間生活してブラジルファンとなっているクマネズミにとっては、許されないものを感じてしまいました!?

(4)映画ライターの外山真也氏は、「紛れもない傑作だった前作(『KAMIKAZE TAXI』)よりも、少々いびつな今回の方が、原田真人好きのツボにハマるのではないだろうか」として★5つをつけています。
 また、映画評論家の相木悟氏も、「(前作の『KAMIKAZE TAXI』に)対して、本作は逆に若者世代への決起を即しているように思う。混迷の時代、立ち上がるのは今だ、と。まさに今観るべき映画といえよう」などと絶賛しています。



(注1)他のシーンでは、三女・丸は、警察官を刀とピストルを持って追いかけ、彼らが逃げ込んだ警察署でピストルをぶっ放し、その上で意気揚々と引き上げてきます。

(注2)この他にも本作では、2002年に起きた「東京電力原発トラブル隠し事件」のことを伝えるラジオニュースが流れたり、北原が乗るタクシーの運転手が線量計を手にしていたり、北原が入り込んだ畜産農場の柱に「原発マフィア生き延び日本滅ぶ」という文字が刻まれていたり、福島第1原発事故絡みの描写があります。ただ、本作全体の中に置かれると、これらもギャグめいた感じになってしまいますが。

(注3)『わが母の記』では、ミムラ、菊池亜希子と宮崎あおいによる三姉妹。

(注4)雑誌『シナリオ』9月号掲載のインタビュー記事の最後のところ。
 なお、本作の始まりは、椎名桔平が勤務する旅行代理店のシーンで、「パラダイス・ロスト?」とキャッチフレーズが入り南国の海辺が描かれているポスターが貼りだされています。

(注5)映画はこれで終わらずに、ラストのラストでは、なんと皆がバーベキューパーティーで和気あいあいと談笑に耽るのです。あれだけのバイオレンス・アクションを披露したあとのバーベキューパーティーというのも、ひどく意表をつく終わり方だなと感心しました。

(注6)劇場用パンフレット掲載の「原田眞人監督インタビュー」によります。
 なお、『生きものの記録』は、ビキニ環礁で行われた核実験によって第5福竜丸事件が起きたことから作られたとされているところ(例えば、このサイトの記事)、このサイトの記事によれば、「船員を診察した医師の報告では、船員の死因は放射線障害とはされていない」とのこと。仮にそうであれば、『生きものの記録』の主人公の行動は、やはり妄想に基づくものとなり、またそれをベースにしている本作の長女・亜芽の唐突なブラジル移住宣言も、その意味合いが疑問視されるのかもしれません。



★★★☆☆



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