映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

キングスマン  ゴールデン・サークル

2018年01月22日 | 洋画(18年)
 『キングスマン  ゴールデン・サークル』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『キングスマン』の第1作目がなかなか面白かったので、その続編もということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、エグジータロン・エガートン)が、ロンドンのサヴィル・ロウの高級テーラー「Kingsman」から出てきて、店の前に置かれたタクシーに乗り込もうとしたところ、男が近づいてきて、「エグジー、乗せてもらえるか?」と言います。



 エグジーが、男がキングスマンの元候補生だったチャーリーエドワード・ホルクロフト)であることに気付いた時は遅く、チャーリーはピストルをエグジーに向けて、「車のドアを開けろ」と命じます。
 エグジーは、仕方なくドアを開けて、チャーリーを車の中に入れます。
 タクシーは発進しますが、中では2人が戦い、タクシーをチャーリーの仲間の車が追います。

 車の中で、エグジーがピストルを撃っても、チャーリーは、特別な鋼鉄製の右腕で弾丸を防ぎます。
 エグジーは車の外に投げ出されますが、なんとかバンパーに掴まって、後部のトランクを突き破って車内に入り込みます。
 すると、運転手がチャーリーに殺られてしまい、車は石柱に衝突して停まります。
 そこに追いかけてきた3台の車が接近してくると、エグジーが運転する車は真横に走り出します。
 車の外に出ていたチャーリーは、仲間に「始末しろ」と命じます。
 仲間は、エグジーが乗る車めがけて機関銃を放ちます。

 エグジーは、車内から、本部にいるマーリンマーク・ストロング)に応援を求めますが、「南へ進め」と命じます。
 車はハイドパークに入り込みます。
 エグジーがマーリンに攻撃許可を求めると、マーリンが「いいぞ」と応じるので、エグジーは車から3発のミサイルを発射して、追跡してきた3台の車を仕留めます。
 そして、車は湖の中に入り込み水中を進みます。

 エグジーは車をトンネルの中に入れ、自分は下水管に入り、マンホールから地上に出ます。
 後に遺された車の中には、チャーリーが残していった右腕が動き出して、座席に仕込まれていたパソコンを操作します。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあここから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作では、第1作で活躍したハリーコリン・ファレル)も登場しますが、専ら、その後継者のエグジーが、アメリカの諜報組織の手助けを受けながらも、世界最大の麻薬組織ゴールデン・サークルを壊滅すべく、様々の武器を使って戦います。荒唐無稽と言ったらそれまでですが、イギリスの諜報組織「キングスマン」に所属するエグジーとハリーが見せるアクションシーンは、なかなかも見ものです。



(2)同じシリーズですから、前作と本作とが似通ってくるのは当然でしょうが、それにしても本作は前作と随分と似通っている感じがします。
 例えば、前作のヴィランは大金持ちのアメリカ人・ヴァレンタインサミュエル・L・ジャクソン)でしたが、本作のヴィランも同じようなアメリカ人のポピージュリアン・ムーア)ですし、前作のヴァレンタインは、世界中にSIMカードを大量にバラ撒いて人口を減らそうとしたのに対し、本作のポピーは、自分が大量に供給する麻薬にウィルスを注入し、世界中の麻薬使用者を死の淵まで追い込みます(注2)。



 また、本作でも前作同様、ハリーが手にする傘が活躍しますし、記憶障害のハリーに強烈な刺激を与えて記憶を蘇らせようと、彼が暮らしている部屋にいきなり大量の水を注入しますが、これは前作で描かれたキングスマン採用試験における水攻めと類似しています(注3)。

 もっと言えば、本作で活躍するのはキングスマンという諜報組織ですが、本作でも前作同様に、諜報活動そのものは余り描かれずに、その結果を踏まえてのゴールデン・サークルとの対決場面の方に重点が置かれています(注4)。
 そのためでもあるのでしょう、本作も、前作同様に、セクシーな場面が、そんなに多くはないように思えます(注5)。

 さらには、前作で見られたアメリカに対する揶揄の味付け(注6)が、本作でもいろいろと見受けられます。
 なにしろ、壊滅してしまったキングスマンが支援を仰いた「ステイツマン」はアメリカの諜報組織で、ボスはシャンパンジェフ・ブリッジス)、エージェントとして、カウボーイ・ブーツを履きショットガンのマーリン1895SBLを使うミスター・アメリカンのテキーラチャニング・テイタム)とか、レーザー投げ縄「ラッソ」やコルトSAAを操るウイスキーペドロ・パスカル)(注7)、それにメカ担当のジンジャーハル・ベリー)がいて、いろいろ動き回るのですから(注8)。

 逆に、違っている点もいろいろあります。
 上に記したことも、別の観点から見れば違っていように見ることも出来ますし(注9)、また例えば、本作にはエルトン・ジョンが登場しますが、ほんの少し顔を見せるのだろうと思っていたら、意外と出番があるので驚きました(注10)。

 なお、本作のヴィランのポピーは、麻薬の合法化のためと自分の行為を理屈付けているところ、その議論の妥当性(注11)については別の機会に譲るとして、本作で気になったのは、アルコールの方です。
 なにしろ、麻薬には問題があるとして、「ゴールデン・サークル」の壊滅にキングスマンやステイツマンが命をかけて一生懸命となるのに反比例するがごとく、本作の登場人物が、ウイスキーやカクテルなどのアルコール類を、一時のタバコのように、無闇矢鱈と口にするのです。

 でも、今月の12日に『東洋経済Online』に掲載されたこの記事によれば、「英ケンブリッジ大学の研究チームが、アルコールの摂取がDNAを損傷して、がんのリスクを高めると発表した」とのこと(注12)。
 また、同記事によれば、英国のがん研究所は、「(がんになる)リスクは、ワインやビール、蒸留酒などアルコールの種類とは無関係で、飲む量についても「がんに関しては安全な飲酒量などない」と断言している」そうです。
 こうした研究については、タバコについて、ガンと喫煙との間に疫学上の関係性があるのかないのか長い間論争が続けられていることからもわかるように(注13)、簡単に評価できるものではないのかもしれません。
 ですが、本作のように、実にあっけらかんと飲酒場面が様々に描き出されているのを見ると、スパイ物に硬いことは言いっこなしながらも、少々行き過ぎなのではと思えてしまったところです。

(3)渡まち子氏は、「型破りでハチャメチャな中に、愛する場所から遠く離れた人々のノスタルジーを織り込んだ点がニクい。なかなかスミに置けない続編だ」として70点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「英米の豪華スターが揃って真摯に取り組むお遊び芝居には、新春顔見世興行を思わせる華がある」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 森直人氏は、「もともと冷戦時代の東西対立を背景にしたジャンルであるスパイ映画を、現代の世界像に置き換えたパロディー的な構造が持ち味。今回は悪ノリが暴走し、もはや怪作の領域である」と述べています。
 毎日新聞の山口久美子氏は、「今回もストーリーはわかりやすく、派手なアクションが盛りだくさん。でも2時間20分ともなると、それにも疲れてくる。今回の見どころといえる英国文化を重んじるキングスマンとコッテコテのアメリカ人とのすれ違いも、小ばかにしているようであまり笑えない」と述べています。



(注1)監督は、『キングスマン』や『キック・アス』などのマシュー・ヴォーン
 脚本は、ジェーン・ゴールドマンとマシュー・ヴォーン。

 出演者の内、コリン・ファースは『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』、ジュリアン・ムーアは『マギーズ・プラン―幸せのあとしまつ―』、タロン・エガートンマーク・ストロングソフィー・クックソンは『キングスマン』、ハル・ベリーは『ザ・コール 緊急通報指令室』、チャニング・テイタムは『ヘイル、シーザー!』、ジェフ・ブリッジスは『トゥルー・グリット』、マイケル・ガンボンは『カルテット! 人生のオペラハウス』で、それぞれ最近見ました。

(注2)ポピーの目的は、自分の取り扱っている麻薬の合法化で、それが認められれば解毒剤を供給すると、アメリカ大統領を脅迫します。
 前作のヴァレンタインも、人口の急激な増加によって地球の環境が破壊されており、地球を救うためには人間の数を減らさなくてはならないと考え、世界中にSIMカードを大量にバラ撒きました。
 2人のヴィランが、悪事の理由にもっともらしいことを掲げるのは、マシュー・ヴォーン監督によれば、「悪役にもしっかりと理由付けをする必要があるし、僕はそこに人々が考えさせられる問題を作りたいんだ。ヴァレンタインにしたってポピーにしたって、その解決策はとても良いものではないと思うけれど、人々がディスカッションしたり、議論したり、考えられるものを与えたかった」から、ということによるようです(この記事)。

(注3)前作の水攻めテストでは全員が失格と判定されますが、本作の水攻めでも、ハリーの記憶は蘇りませんでした。

(注4)なにしろ、前作でも、キングスマンのリーダーのアーサーマイケル・ケイン)は、ヴァレンタインに操作されているとしてエグジーに殺られてしまいますが、本作の場合も、敵の組織ゴールデ・サークルが放つミサイルによって、リーダーのアーサーマイケル・ガンボン)らは簡単に殺られてしまうのですから、組織的な行動をなかなか取ることが出来ません。

(注5)尤も、エグジーは、ポピーの手下のチャーリーの恋人クララポピー・デレビンニュ)の体内に追跡装置を注入するシーンがありますが。そのために、エグジーはクララとベッドインするのですが、愛する王女ティルデ(ハンナ・アルストロム)の許可を得られずに、………。

(注6)『キングスマン』を巡る拙ブログのエントリの(2)において、「イギリスのキングスマンは、教官のマーリンが「チームワークが大切」とは言いながらも、あくまでも個人個人で敵に向かうのに対して、敵のアメリカ人大富豪・ヴァレンタインは数量で立ち向かってくるように見える」などと申し上げました。
 なお、本作の劇場用パンフレット掲載の町山智浩氏のエッセイ「英国紳士とカウボーイ、イギリスとアメリカの間に育ったマシュー・ヴォーン」が参考になるでしょう(町山氏の指摘によれば、マシュー・ヴォーン監督は「イギリス人の労働者階級の母と、イギリスを訪れたアメリカ人俳優ロバート・ヴォーンの間に生まれた婚外子」だったとのこと←同氏は、さらに「生物学的な父はヴォーンではなく、英国貴族だった」と述べています←Wikipediaを参照)。

(注7)ここらあたりの銃については、こちらの記事が参考になります。

(注8)尤も、テキーラは、登場するだけで余り活躍はせず、やや肩透かしの感じですが。



(注9)例えば、前作のヴィランのヴァレンタインは男ですが、本作のヴィランのポピーは女ですし、またポピーは、本拠地にしているカンボジアの「ポピーランド」の外に出られないのに対し、ヴァレンタインはアメリカのみならず、アルゼンチンの山小屋などに基地を持っていて、あちこちに出没します。
 ただ、アルゼンチンの山小屋は、本作におけるイタリアの秘密工場に類似しているようにも思われます。

(注10)マシュー・ヴォーン監督は、「実は前作の時もオファーをしていたんだが、実現しなくて。続編では映画をパワーアップさせるため、ぜひ彼に出てもらい、アクションシーンをしてほしかった」と語とか立っています(この記事)。

(注11)上記「注6」で触れた町山氏のエッセイでは、「この話はドラッグを肯定しているのか否定しているのか、考えれば考えるほど混乱する」として、「現在、欧米ではドラッグの供給源を取り締まるために、個人使用の非犯罪化が進んでいる」、「それを反映して、(本作の)ドラッグ使用者は、みんないい人ばかりだ」などと述べています。
 でも、麻薬取り締まりの厳しい日本の現状からしたら、そんな議論は机上の空論なのかもしれません。

(注12)記事によれば、「英ケンブリッジ大学のケタン・パテル教授率いるチームが、英MRC分子生物学研究所で行った研究について、科学誌『ネイチャー』に発表した」もののようです。

(注13)例えば、JTによるこの記事



★★★☆☆☆



象のロケット:キングスマン: ゴールデン・サークル


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ニューヨーク、愛を探して

2018年01月20日 | 洋画(18年)
 『ニューヨーク、愛を探して』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)ネットの紹介記事などを見て、なんとなく良さそうだなと思って映画館に行ってきました。

 本作の冒頭(注1)では、リグビーセルマ・ブレア)が、カメラにフィルムを入れたりして撮影の準備をしています。
 次いで、ライブ会場。
 リグビーは、舞台で上半身裸で歌うリード・ヴォーカルのクインルーク・ミッチェル)を狙って、そのそばを動き回りながらシャッターを切ります。

 次いで、リグビーのモノローグ「母親の感覚を持ったのはいつ?」「世界の見方を決めた時」「私はその瞬間を覚えている」。
 そして、幼い頃のリグビーと母親との会話が挿入されます。
 幼いリグビーが、アパートの窓を見て「あれは何?」と尋ねると、母親は「額縁よ」「あの部屋では、クリスマスツリーを作っているの」などと答えます。
 そして、リグビーのモノローグ「どの額縁にも物語がある」。

 今度は、下着デザイナーのジョージナミラ・ソルヴィノ) の部屋の中。
 ジョージナが鏡に向かって化粧をしています。
 同居しているモデルのセバスチャンクリストファー・バックス)が、「化粧品はいつでも持っている」「そんなメイクの仕方では台無しだ」などと話します。

 ジョージナは、自分がデザインしたブラのことで、TV番組に出演します。
 MCが「いままでにない製品と思いますが、どういうコンセプトで?」と尋ねると、ジョージナは「より美しいシルエットを作り出しながらも、値段はお手頃なところに」と答えます。
 さらに、MCが「下着のままでも街を歩けそう」と言うと、ジョージナは「機能性とファッション性が重要です」と答えます。

 番組が終わると、セバスチャンは「上出来だった」と言います。

 こんなところが本作のホンの始めの方ですが、さあここからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 でも、本作で映し出される物語のあまりの酷さに、呆気にとられてしまいました。
 例によって、主人公(注2)は、今や羨望の的のカメラマンで、それも女性。登場する男性は、皆女性の添え物的存在。そして、ニューヨークで暮らす相互にあまり関係がない5組の母親と娘の関係が綴られます(注3)。どの話も似たり寄ったり。映画料金を返してくれと言いたくなります。

(2)例えば、カメラマンのリグビーは、上記(1)でも記したように、バンドのリード・ボーカルのクインのライブ活動などを写真に収めていて、彼から1年間ツアーに同行して写真を撮ってくれないかと言われ、大いに張り切ります。
 彼女は、妊娠が判明しても(注4)、ツアー同行を優先するために、中絶を考えます。そうしたところ、クインが、泥酔している女の子をレイプしようとするのを目にして、その女の子を救出する一方で、たちどころに中絶は取りやめにして、歳をとった時に一人きりになるのは堪えられないという理由から、子供を産むことになります。
 でも、見ている方は、「エッ、そんなに簡単に考え方を変えてしまうの」「事務所を開設して大々的にやっていこうという計画はどうなるの?」などと思ってしまいます(注5)。

 おまけに、クインの方は、リグビーの剣幕に気負されたのか酷く反省して、離れて暮らしている母親に電話して、「今、自分は危機に瀕している」「どうか、一緒に暮らして、自分を見守ってほしい」などと、マザコン全開の願い事をする有様。「上半身裸でロックを歌っている時のあの姿はいったい何なんだ」と言いたくもなります。

 また、レベッカクリスティーナ・リッチ)の場合、産まれた時から母とされた人が実際には祖母であり、叔母(母の妹)だと言われていた人(ベスコートニー・コックス)が実のところ母だと最近になって判明し、20年以上にわたって親が子供に嘘をついていたのかと怒って、家を飛び出してしまいます。
 ですが、すぐ後に、最近亡くなった祖母の残してくれた謝罪の手紙を読み(注6)、祖母が230万ドルもの大金を自分と弟・トニー(注7)に残してくれたことがわかると、たちどころに両親との関係は元通りの円満なものに戻ってしまうのです。
 まるで、大金を手にした途端に、2人の子供は、それまで頭にきていたことを綺麗サッパリと水に流してしまった感じなのです。
「何なんですかこの話は!」と叫びたくなります。

 とてもこんな底の浅いつまらないお話に付き合ってはいられないと、さすがのクマネズミも、後半になると眠気に襲われました(注8)。
 要すれば、との話も、当初、重大な葛藤が母娘間にあるように見せながらも、しばらくすると、ホンのちょっとしたきっかけで両者は和解してしまい、結局ハッピーエンドで終わるというパターンの繰り返しでしかないように思えます。
 少なくとも、5組の物語にもっと繋がりをつけて、例えば、カメラマンのリグビーがどの話にも登場するといったような何かしらの工夫を凝らすべきではないのか、と思いました。それでも、つまらなさは救い難いでしょうが(注9)。



(注1)監督・原案はポール・ダドリッジ(本作が監督デビュー作:なお、この記事によれば、Nigel Levyとの共同監督とされています)。
 脚本はペイジ・キャメロン。
 原題は『Mothers And Daughters』(2016年)。
 なお、本作は、2017年8月にWOWOWで放映されているようです。

 また、本作でゲイルエヴァ・アムリ)の母親役を演じるスーザン・サランドンは、『ランナウェイ 逃亡者』や『ソリタリー・マン』で、見ています。

(注2)リグビーは、主人公というよりも、本作に最初に登場する女性にすぎないともいえます。

(注3)ただし、下着デザイナーのジョージナの話は、ファッション雑誌編集長・ニーナシャロン・テート)とその娘のレイラアレクサンドラ・ダニエルズ)との話に繋がってきますが。

(注4)リグビーは、元の鞘に収まりたいと言って別れていったばかりの男との間にできた子供を妊娠したのでしょう。

(注5)加えて、妊娠している自分を診てくれたイケメンの産科医コンラッドデイヴ・バエズ)と、リグビーは一緒になってしまうなんて(まあ、これはご愛嬌でしょうが)。

(注6)母親のベスがレベッカを妊娠した時の年齢は15歳で、相手のピーター(大人になってからポール・アデルステイン)も17歳。それで、祖母は二人の仲を引き裂いて、レベッカを娘として育てざるを得なかったという事情が手紙には書かれていました。

(注7)よくわからないのですが、レベッカの弟ケニーは、誰がいつ生んだのでしょうか?
本作によれば、ベスの相手だったピーターは、長い間軍隊に入っていて、その間ベスとは交際していなかったようなのですが。それに、ケニーに対しては、祖母やベスとの関係をどのように言っていたのでしょう?本作では、ケニーも、レベッカと同じように、ベスやピーターの態度を怒っているようなのですが。

(注8)尤も、こうした感想を抱くのは、クマネズミが本作の細部を誤解しているからかもしれませんし、あるいはクマネズミが男性であるためなのかもしれませんが。

(注9)本年1月18日にTBSTVで午後8時から放映された番組「メイドインジャパン」では、5歳と7歳の幼い姉妹だけでイギリスへ“はじめてのおつかい”をする話が取り上げられていました。
 もう少し言えば、母親の強い反対を押し切って日本に嫁いできてしまい、母親との関係が険悪になってしまった娘が、自分の幼い子供たちに日本の「こたつ」を届けてもらって、母親との関係をよくしようとする話です。実話ベースの話であり、登場するのが幼い姉妹であるという点で、本作で描かれるいろいろなエピソードよりも、一つだけでもずっと感動的に思えました。
 〔ただ、実際には、幼い姉妹に同行した番組スタッフの方から様々なサポートがあったように思われ、ある意味で“やらせ”なのかもしれませんが〕



★★☆☆☆☆

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希望のかなた

2018年01月17日 | 洋画(18年)
 『希望のかなた』を渋谷ユーロスペースで見てきました。

(1)カウリスマキ監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、フィンランドのヘルシンキ。
 夜になって、貨物船の船倉に積み込まれた石炭の中から、真っ黒になった男(カーリドシェルワン・ハジ)が顔を出します。
 カーリドは、船倉から階段を上ってデッキに向かいます。船室では、船員がテレビを見ています。カーリドは気付かれないように傍を通り過ぎ、船に取り付けられているタラップを降りて、港に降り立ち、あたりを見回します。

 場面は変わって、1軒の住宅の中。時刻は夜中の12時。
 その家の主人のヴィクストロムサカリ・クオスマネン)は、鏡の前に立ちネクタイを締めています。
 それから、上着を着て、トランクを持ちます。
 妻(カイヤ・バカリネン)は、椅子に座ってタバコをくゆらせながら、夫の行動を見守っています。



 ヴィクストロムは、黙ったまま家の鍵と結婚指輪を机の上に置いて、その家を出ていきます。
 妻は、置かれた指輪を灰皿の中に入れ、空になったコップに酒をつぎ、飲み干します。

 ヴィクストロムは、駐車場に置かれている車の中に荷物やトランクを積み込み、エンジンを掛けて出発します。
 その前を、カーリドが歩いて横切ります。

 次の場面では、ストリート・ミュージシャンがギターを弾きながら、「あゝ母さん ランプを明るくして もうすぐこの世を去る俺に ………冷たい土の下で眠りにつく俺に」と歌います。

 ヴィクストロムは、簡易宿泊所に泊まります。

 街中を歩いていたカーリドは、ギターを弾いて歌う男を見ると、その前の箱にお金を入れ、「シャワー?」と尋ねます。すると、ギターを引く男は、カーリドを駅のシャワー室に連れて行きます。
 カーリドがシャワーを浴びると、下から黒い水が流れ出てきます。

 カーリドは洗面所で身だしなみを整えて、警察署に赴きます。
 受付で、「難民認定の申請をします」と言うと、受付は「ようこそ、こちらへ」と言って、事務室に連れていきます。
 カーリドは写真を撮られ、また身体測定をされ(注2)、両手の指紋もとられます。
 その上でカーリドは、収容施設に入れられます。



 こんなところが本作の始めの方ですが、さあここからどのような物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、フィンランドのカウリスマキ監督の作品で、シリアからの難民の青年をめぐるお話。同青年は、はぐれてしまった妹を探すうちにフィンランドに入りこんだわけですが、難民申請を出すも当局から却下されたりする一方で、レストラン経営者に助けられたりもします。難民について様々な角度から光を当てている作品ながら、ただ本作では一人の難民に焦点を合わせているために、欧州が直面している問題の大きさを理解できない憾みがあるような気もします。

(2)主人公のカーリドは、内戦の続くアレッポからヨーロッパへ脱出してきたシリア人として描かれていて(注3)、上記(1)に記したように、正規の窓口に出向いて難民申請をするのですが、却下されてしまいます(注4)。
 確かに、昨年3月のこの記事を見ても、アレッポにおける戦闘は終結しているようですから、フィンランド当局が、カーリドの送還を決めても仕方がないのかもしれません。
 ですが、アレッポの現状は、とても人が住めないほど破壊しつくされている上に、カーリドは、はぐれてしまった妹・ミリアムニロズ・ハジ)をなんとか探し出したいという強い願いがあるのです。

 そこで、カーリドは収容施設を脱走します。
 その際、出会って手を差し伸べてくれたのがヴィクストロム(注5)。
 ヴィクストロムは、それまでは、本作の主な流れとは全く別の物語の中にいました(注6)。
 いかついた年寄りくさい顔をして、余り話をしないところから、ヴィクストロムがそんな行動に出ると、奇異な感じを受けてしまいます。
 でも、ラストの方では、従業員と一緒になってレストランの業績を回復させようとしたり(注7)、別れた妻に手を差し伸べたりするところなどを見ると(注8)、本当は人情家なのかもしれません。

 それはともかく、ヴィクストロムは、ひとたびカーリドを自分のレストランに雇い入れると、当局の調査に際しても、積極的に擁護しようとします(注9)。
 それで、カーリドは、はぐれてしまった妹・ミリアムに出会えることにもなります(注10)。

 本作は、ヨーロッパが直面している難民問題を、かなり特異な視覚から捉えていて(注11)、たいへん興味を惹かれます。
 ただ、前作『ル・アーヴルの靴みがき』では、ル・アーヴルの人達の善意に支えられて、アフリカから流れてきたイドリッサ少年は、無事に目的地のロンドンに行くことになりますが、本作では、ヴィクストロムらの善意が描かれている一方で、当局の係官の厳しい姿勢とか、難民を敵視するネオナチも描かれていて(注12)、世の中が善意でばかり成り立っているものでもない状況がわかります。

 それと、カーリドは、ヘルシンキに着くと、警察に自ら出向き、正規の手続きによって難民申請をしますが(注13)、中東の人々の矜持を描き出そうとしているのでしょう。

 とはいえ、ヨーロッパにおける難民問題は、その数の膨大さが一番の難題のはずながら、本作では、カーリドとその周辺にしか焦点が当てられていないのでは、と思えてしまいます。
 無論、本作で描かれるカーリドは、前作『ル・アーヴルの靴みがき』のイドリッサ少年と同様に、数多い難民の一人だとみなせばいいのでしょう。
 でも、『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』で描き出されている大量の難民の姿は、数として描き出さないとなかなか伝わってこないようにも思えるところです。

(3)渡まち子氏は、「カウリスマキは、差別や偏見にNOと叫び、つつましく生きる市井の人々の優しさにYESと言っている。私たち観客は、誰かを助けるその勇気に感動する。物語の余韻はビターなものだが、その先にはきっと希望があると信じたくなる作品だ」として75点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「今日の難民問題を真正面から取り上げ、監督独特のスタイルでアイロニーを込めて描いている」として★5つ(「今年有数の傑作」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「ひょっとしたら人情って、人がお互いに共有する夢なのかもしれない。その夢を共有するからこそ、生きる意味があるのかもしれない。このおかしくてやさしい映画を観て、多くの感想を刺激されました」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『ル・アーヴルの靴みがき』のアキ・カウリスマキ

(注2)身長は171cm、体重は71kg。

(注3)カーリドは、当局の係官に、「アレッポの修理工場で働いていた」「ある日、家に戻ると、粉々に破壊されていた」「誰のミサイルによるものかはわからない」「瓦礫を取り除いて死体を見つけた」「ボスに6000ドル支払って埋葬した」「それから、3000ドルを密航業者に支払ってギリシアに行った」「ハンガリーで混乱に巻き込まれて、妹とはぐれてしまった」「ハンガリーやスロベニア、セルビアなどで妹を探したが、見つからなかった」「国境を超えるのは簡単だ、誰も僕らを気にかけないから」などと事情を説明します。

(注4)当局の係官は、「今やアレッポでは戦闘は行われていない」「重大な害といえる危険は起きていない」「保護の必要性は認められない」として、カーリドをトルコに送還する決定を下します。

(注5)あるいは、フィンランド人より相当安い賃金で雇い入れることができるという利点がヴィクストロムには魅力だったのかもしれません。

(注6)ヴィクストロムは、それまでやっていた事業(衣類販売)を売却し、それで得たお金をポーカーに注ぎ込み、勝負に勝って大金を手にします。そのお金で、売りに出ていたレストランを購入し、経営者として立て直しを図ります。

(注7)従業員の提案で「寿司」を出すことになりますが、フィンランドで手に入る日本関係の書籍を読んで作っただけのシロモノで、ニシンの酢漬けに山盛りの辛子が添えられたものが出されると、入ってきた日本人の団体客は逃げ出してしまいます〔それでも、日本的なものが壁に飾られていたり、日本の曲(「竹田の子守唄」など)が流れたりするのですが。なお、前作『ル・アーヴルの靴みがき』でも、主人公・マルセルの家の食卓の上には日本の「お猪口」が置かれていたりします〕。



(注8)ヴィクストロムは、妻が働いている店に行き、「帰りは送っていくよ」と言って彼女を車に乗せます。車の中でヴィクストロムが、「どうしてた?」と尋ねると、妻は「少し寂しかった」と答え、今度は妻が「あなたは?」と尋ねると、彼は「今、レストランをやっている」「フロアー長が必要なんだ」と答えます。

(注9)皆でカーリドをトイレに匿ったりします。

(注10)フィンランドで知り合ったマズダックサイモン・フセイン・アルバズーン)が、ミリアムがリトアニアの難民施設にいるとの情報を、カーリドに持ってきます。そして、リトアニアからやってきたトラックの荷物室の中から妹が出てきたのです(これには、ヴィクストロムが尽力しました)。

(注11)以前見た『ル・アーヴルの靴みがき』と同様に、カウリスマキ流と言ったらいいのでしょうか。

(注12)「フィンランド解放軍」と書かれた革ジャンを着た連中が、ヘルシンキの町を闊歩していますが、カーリドは、その中の一人に付け狙われます。ただ、スキンヘッドの男が、カーリドを刺した後、「警告しただろ、ユダヤ野郎!」と言うのですが、カーリドはもちろんユダヤ人ではありませんから、この集団の意識の低さが伺われるところです。

(注13)さらに、ヘルシンキに着いた妹のミリアムも、偽の身分証を作ってあげようとする兄に、「自分は、自分の名前を大切にしたい」「ちゃんと難民申請したい」と言って、警察に出向きます。



★★★☆☆☆



象のロケット:希望のかなた

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