映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ひつじ村の兄弟

2015年12月25日 | 洋画(15年)
 アイスランド映画『ひつじ村の兄弟』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)カンヌ国際映画祭「ある視点部門」でグランプリを獲得した作品というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台は北アイスランド。
 冒頭では、随分となだらかな山を背景にした牧草地をグミーシグルヅル・シグルヨンソン)が歩いています。2頭の羊を見つけ、抱きついて、「ルリカよ、モット食べろ」と言います。
 さらに、隣の牧場〔兄のキディーテオドル・ユーリウソン)が管理しています〕との境にある柵を治したりしていると、隣の牧場の中に羊の死骸を見つけます。
 そして、そのソバにいた1頭の羊を、グミーは抱え上げてキディーの家に届けます。

 別の日でしょうか、グミーは、自分の羊のうちの1頭をバギーカーに乗せて家を出ます。



 すると、隣の家のキディーのバギーも羊を乗せて出てきて、グミーを追い越します。



 二人は、今年の羊の品評会に自分の自慢の羊を出そうというのです。

 品評会の結果は、僅か0.5点の差でキディーの羊がグミーの羊をおさえて優勝します。
 面白くないグミーは、皆が品評会の後のパーティーを楽しんでいる最中に、その会場を抜けだします。
 というのも、キディーとグミーは兄弟とは言いながら、この40年間互いに反目しあっていたからです(注2)。

 品評会の会場を去る際に、グミーは、優勝したキディーの羊を触ってみて「なんだか元気がないな」とつぶやきます。
 そして、連れて戻った自分の羊をバスタブに入れて、ゴシゴシ洗います。
夜になると、グミーは、隣家のキディーの羊小屋に忍び込んで、優勝した羊の歯茎とか目を入念に調べます。

 翌朝、グミーはトラクターに乗って近所の家に行き、そこの主人に「キディーの羊が病気にかかっている。スクレイピーだ。よりによって、優勝した羊が」と告げます。

 スクレイピーにかかっているとなると、不治の伝染病ですから、この辺りで飼育されている羊を全て殺処分しなければなりません。
 さあ、どうなるのでしょうか、………?

 アイスランド映画は始めてながら、隣り合わせの牧場で羊を飼う兄弟を巡って描かれる本作では、長い年月にわたる兄弟間の確執が、恐ろしい伝染病に羊が感染してしまう事態を迎えて次第に変化していく様子が映し出され、なかなか興味深い作品になっています。それにしても、なだらかな山間に広がる牧場は広大で、実にゆったりとした印象を見る者に与えるものの、冬の吹雪となるとそのすさまじさは想像を絶し、アイスランドの地理上の位置というものに思いを致させます。

(2)グミーとキディーの確執の原因が何なのか本作では描かれていませんが(注3)、低い山が連なるあまり変化のないベッタリとした風景を見ていると、それが40年も続いてしまったのも分かるような気がしてきます。
 加えて、兄弟はどちらも結婚はしておらず、更には家政婦も雇っていませんから、仲を取り持つ人が誰も見当たらないことになります(注4)。



 でも、完全に関係が途切れてしまっているわけでもなさそうで、グミーは、それとなくキディーに気を使ったりします(注5)。
 キディーも、自分の羊がスクレイピーにかかったのはグミーのせいだとして(注6)、グミーの家に銃弾をぶち込んだりするものの、ギミーの地下室に隠されているものを発見した時は、自分と同じ思いを弟がしていると悟り、二人の間の確執が解けていくのです。
 ここらあたりの描き方が本作の優れているところではないかなと思いました。
 それに、本作にはユーモアも見受けられます(注7)。

 アイスランドの片田舎という地域性に依存した作品ながらも、かなりの普遍性を同時に備えたものになっていると思いました(注8)。
 ただ、せっかくのアイスランド映画ですから(注9)、若い女性として獣医のカトリンシャルロッテ・ボーヴィング)が少々登場するだけというのは寂しい気がしました。

(3)『週刊文春』掲載の「シネマチャート」では、例えば、森直人氏は、「牧歌的どころかハードコアな抉り方に驚く。酪農の現実問題と共に、密着性の高い辺境の人間関係に迫る。後半は圧巻だ」として★4つをつけています。
 遠山清一氏は、「作品冒頭の牧歌的な情景の中で不仲な二人が、ひつじたちに気を配る姿から悲惨な出来事をとおして命を懸けた和解を示唆していくストーリー展開に希望への光と温もりを感じさせられる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、アイスランドのグリームル・ハゥコーナルソン
 原題は「Hrútar」(英題は「RAMS」)。

(注2)風貌からすると、二人とも65歳以上の老齢者のように見えます。

(注3)グミーの話によれば、父親が兄の相続を認めなかったために、キディーの管理する土地の所有権はグミーが持っているとのこと。そんなことからすると、遺産相続に絡んで確執が生じたのかもしれません。

(注4)ギリギリで連絡をする必要がある場合には、キディーが飼っている犬が手紙などを相手に届けています。

(注5)キディーが酒を飲み過ぎてグミーの家の前で倒れこんでしまった時には、グミーは、キディーを家の中に入れて、服を脱がせてソファーに寝かせ、その上に毛布をかけてやったりします。

(注6)どうやら、自分の羊がキディーの羊に負けたのを妬んで要らぬ告げ口をグミーがしたんだと、キディーは考えたようです。

(注7)例えば、上記「注4」の時とは別に、キディーが酒を飲み過ぎて家のソバの雪の上で倒れこんでしまっているのを発見したグミーは、ショベルカーを持ち出してきて、そのアームの先端に取り付けたバケットの中にキディーを入れ込むと、そのままショベルカーを動かして街の病院の玄関先まで行き、そこにキディーを置いたまま、再び自分の家に戻ってきてしまいます。

(注8)といって、国境を接する2つの国の間のいがみ合いまでもこの映画から読み取っていく必要性もないように思われます。

(注9)何しろ、アイスランドで知っていたのは、地熱発電と金融危機ぐらいなのですから。



★★★☆☆☆



象のロケット:ひつじ村の兄弟

アンジェリカの微笑み

2015年12月18日 | 洋画(15年)
 『アンジェリカの微笑み』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)本年4月に亡くなったポルトガルのオリヴェイラ監督が101歳の時に制作した作品(2010年公開:注1)というので、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、詩人のアンテロ・デ・ケンタルの言葉(注3)が引用された後、河沿いに走る道路と市街(注4)の夜の景色を対岸から撮っている映像が、タイトルクレジットの背景としてしばらく流れます。

 次いで、雨が降る中、石畳の道を車が走ってきて、FOTO GENIAの看板のある家の前で止まります。
 車から傘をさした男が降りてきて呼び鈴を鳴らしますが、何の反応もありません。
 ようやく3回目で2階に明かりが点き、傘をさしながら女がベランダの戸を開けて出てきて、階下の男に向かって「どなた?」と尋ねます。
 それに対し男は、「ポルタス館の執事だが、奥様が写真屋を呼んできてと言っています」と答えます。
 すると、2階の女は、「もう夜中よ。それに夫はポルトに外出中で、明後日にならないと帰らない」と言います。
 そこへ別の男が通りかかり、「趣味で写真を撮っている男を知っている。ユダヤ人だが」と言うので、困っていたポルタス館の執事は「是非お願いします」と言って、その男を車に乗せます。

 更に画面は、下宿先に一人で住んでいるイザクリカルド・トレパ)の部屋。
 イザクは、中央に置かれたテーブルの上でラジオらしきものを修理しています。ですが、なかなかうまく行きません。いらついて、同じ机の上にあった数冊の本を下に落としてしまいます。その中には、表紙に“ダビデの星”が描かれている本があります。
 そこへ下宿の女主人ジュスティナアデライド・テイシェイラ)がやってきて、「下にポルタス館の執事が来ている。そこの奥様が娘の写真を撮って欲しいそうで、あなたに来てもらいたいとのこと。あの方のご主人はとても偉い方だ」というので、イザクは「行きます」と答えます。

 雨の坂道をイザクが乗った車が登って行き、ポルタス館に到着します。
 「結婚したばかりの妹のアンジェリカピラール・ロペス・デ・アジャラ)が亡くなり、母が思い出に写真を、と言っています」と、尼僧(アンジェリカの姉マリアサラ・カリーニャス)がイザクに告げます。

 カメラ(注5)の入ったかばんを下げたイザクは、姉マリアとともに館の中に入っていきますが、さあどんなことになるのでしょうか、………?



 本作は、若い二人の純愛を幻想的に描き出していて、とても101歳の監督の手になるとは思えないほどのみずみずしさを湛えています。その上、ショパンのピアノ曲(注6)が流れる中に、いろいろな対立構造がうかがわれ、なかなか興味深い作品となっているなと思いました。

(2)本作の主人公イザクが、姉のマリアらに連れられて部屋の中に入って行くと、周囲の椅子に親族が座って見守る中、アンジェリカの遺体は白い衣装に包まれて寝椅子に横たわっています(注7)。



 アンジェリカの死に顔は大層穏やかなのですが、イザクが写真を撮ろうとしてファインダーを覗きピントが合った瞬間、驚いたことに、アンジェリカが目を開けてイザクに微笑みかけるのです!
 見ている方としては、本作はホラー映画なのか、はたまたコメディ映画なのかと思ってしまいますが、ファインダー越しに見る微笑むアンジェリカの美しさに見入ってしまい、イザクがたちどころにアンジェリカに心奪われてしまうのもよく分かる感じになります。
 そして、イザクの目にアンジェリカの幻影が映るようになって、二人で河や市街の上空を飛んだりするのですが、その姿は、実に単純な映像ながらも、それこそ幸福感にあふれています。

 他方、イザクの下宿先の女主人ジュスティナは、いかにも下世話な庶民代表という顔。下宿人たちが話す高級な話(注8)には乗らないものの、イザクについては母親のように接します。なにしろ、ポルタス館に行った日から、イザクは彼女が用意する朝食をほとんどとらなくなってしまったのですから(注9)、心配するのも無理はありません。
 そればかりか、イザクが夜中に発するうめき声で夜も眠れないほどだ、ともジュスティナは他の下宿人に言い、イザクには「こんな生活を続けていてはダメ。体に注意しなくては」と注意します。

 そのイザクが暮らす下宿の河を隔てた対岸に古くからのぶどう畑があり、イザクが双眼鏡を使ってよく見ると、その畑で鋤を振るい労働歌を歌いながら昔ながらに働く労働者が何人もいます。イザクは、慌てて部屋を飛び出し彼らのそばまで行き、その働く姿をカメラに収めます。
 そして、ぶどう畑からもう一度自分の下宿のある対岸を見ると、下宿よりやや離れたところにカトリックの教会が見え、アンジェラの葬列が古くからのしきたりに従って進んでいくのが見えます。

 他方、イザクは、石油関係の仕事をしているということですし、また下宿のベランダから見えるすぐ下の道路には、タンクローリー車が何台も轟音を立てて走ってもいますし、また下宿人たちが食堂でする会話の中でも、「現在の経済危機で、河の開発計画が中止になった」とか「大気汚染が問題」といったことが話題になりますから、現代的要素のまっただ中にいる感じでもあります(注10)。

 こうした様々に対を成すものが、何か時間が止まっているような殺風景な感じのイザクの部屋の映像(注11)と、その外の日常的な動きのある光景の映像とが交互する中で描かれていて、なんとも言えない不思議な雰囲気を見ている者にもたらします。

 騒々しい映画を普段見つけているせいか、こうした物語的な起伏が少なく動きも総じて少ない作品を見ると、逆に心が洗われるような感じがしてきます。

(3)渡まち子氏は、「100歳を越えた巨匠が最後に残したのが、こんな甘美なラブ・ストーリーだとは。この不可思議な世界観は唯一無二のものだ」として65点をつけています。
 中条省平氏は、「今年106歳でついに亡くなったマノエル・ド・オリヴェイラ監督の最後から2番目の長編。非の打ち所のない完成度の高さと、変幻自在の手管の妙を共存させ、見る者を映画的至福の境へと誘ってくれる」として★5つ(「今年有数の傑作」)をつけています。
 山根貞男氏は、「一番の驚きは全編のみずみずしさで、101歳の作品とは思えない。青年と美女の時空を超えた滑空が示すように、映画の自由奔放さを確信する巨匠の精神が若々しいのである」と述べています。
 小梶勝男氏は、「スクリーンの中で、世界は詩となり、生と死が曖昧な中、美だけが静かに輝きを放つ。映画の、そしてオリヴェイラの魔力というほかない」と述べています。



(注1)日本では、新藤兼人監督が100歳で亡くなり、99歳の時の作品『一枚のハガキ』が遺作となりました。

(注2)監督・脚本は、『夜顔』のマノエル・ド・オリヴェイラ
 原題は「O Estranho Caso de Angélica 」(英題は「The Strange Case of Angelica」)。

(注3)「遥かなる天の百合よ 枯れてもまた芽生えよ 我らの愛が滅びぬように」(公式サイトの「ストーリー」より)。

(注4)ロケ場所は、ポルトガル北部に流れるドウロ河と河沿いの町レグア

(注5)本作でイザクが使用するカメラはデジタルではなく、フィルムを使う旧来の小型一眼レフ。
 カメラは古いものの、そして携帯こそ登場しないとはいえ、イザクが乗ってポルタス館に行く車は新しい型ですし、映画の時点は現代なのです。

(注6)ショパンのピアノソナタ第3番など(マリア・ジョアン・ピレシュ演奏:彼女の演奏映像はこちら)。
 クリスチャン新聞の遠山清一氏は、「ショパンのピアノソナタ3番ロ短調3楽章「ラルゴ」の旋律にのって、死者の美しさに囚われた魂が、夢の中でアンジェリカとの“完全愛”を確信するイザクの悩ましさと憧憬が美しく描かれていく」と述べています。

(注7)時計の音が午前3時を知らせます。

(注8)下宿人の一人が「イザクには絶望が現れている」と言うと、他の下宿人が「誰もイザクの過去を知らない。オルテガ・イ・ガセットが「人は人と人との環境である」と言っている。人は過去の延長だ(その過去を知らないのだからイザクのことはわからない)」と混ぜっ返したりしますし、また下宿人の技師がブラジルの女技師クレメンティナを連れて来て、物質と反物質などの話をします(なお、反物質という言葉を聞いて、イザクは耳をそばだてます。あるいは、アンジェリカに結びつけているのでしょうか)。

(注9)たまに食堂に顔を出しても、イザクは心ここにあらずといった感じでコーヒーを飲むだけで、他の下宿人が話している話題に入り込もうとはしません。
 なお、イザクの住んでいる下宿では、ヨーロッパのホテルと同じように、朝、コンチネンタルの朝食(パン+コーヒー)が食堂に用意されます。

(注10)対岸のぶどう畑にも、現代のブルドーザーが入ってきて畑を機械で耕したりしますし(イザクは、その様子もカメラに収めます)。

(注11)イザクは、その部屋で写真の現像をし、出来上がった写真をロープに洗濯バサミで吊るします。その中のアンジェリカの写真を見ると、アンジェリカがイザクに微笑みかけるのです。
 なお、イザクの部屋の映像は、ベランダへの出入り口を画面の中央に据えるアングルが多用されていて、動きの少ない画面がより一層固まったような感じになります(イザクがベランダを向いていない場合でも、ワードローブの鏡が画面の中央に置かれます)。





★★★★☆☆





裁かれるは善人のみ

2015年12月12日 | 洋画(15年)
 『裁かれるは善人のみ』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)評判が良いのを耳にして、これもまたひどく遅ればせながら映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、北極圏の海岸の酷く荒涼とした風景がじっくりと映し出されます。朽ちて竜骨や肋骨がむき出しになった船が、何艘も波打ち際に横たわっています(注2)。

 海岸近くの2階建ての大きな家から主人公のコーリャアレクセイ・セレブリャコフ)が出てきて、外階段を降りて車に乗ります。
 車は街中を通って、駅に。
 列車が到着し、降りてきたディーマウラディミール・ヴドヴィチェンコフ)は、出迎えのコーリャと抱きあい車に乗ります(注3)。



 ディーマは一旦ホテルにチェックインした後、再び車に乗ってコーリャの家に向かいます。

 途中で、警官のパーシャアレクセイ・ロージン)が車を止め、仲間のステパニッチが車の修理をして欲しいと言っている、とコーリャに伝えます(注4)。
 コーリャは、今日はお客があるから無理だと伝えてくれ、とパーシャに言います。
 車の中で、コーリャはディーマに、「ステパニッチはケチな警官。汚職の金を貯めれば5年で車が買えるのに」と話します。

 コーリャの家では、妻のリリアエレナ・リャドワ)と息子のロマセルゲイ・ポホダーエフ)がコーリャたちを待っています。



 リリアが「お早うは?」と訊くと、ロマは「さあね」と答え、さらにリリアが「顔は洗った?猿じゃないのよ」と言うと、ロマは「猿はあんただ。目障りだ」と応じます(注5)。
 そこへ車が到着したので、ロマは勢い良く飛び出して、土産を渡すディーマと抱き合います。

 家の中に入って、ロマがコーリャに「一緒に連れていってよ」と頼むと、リリアは「テストの勉強があるのでは?」と言い、コーリャが「母さんの言うことに従いなさい」というので、ロマは「母さんじゃない」と言って席を外してしまいます。
 ロマを追ってコーリャが席を外した後、ディーマがリリアに「調子はどう?」と尋ねると、リリアは「まあまあ。家を探している。町を出たいの」と答えます。

 この後、ディーマがわざわざモスクワからやってきた理由が明らかにされますが、一体物語はどのように展開するのでしょう、………?

 本作は、ロシア北部の小さな町を舞台とし、自分の土地を強権的な市長に取り上げられそうになった主人公が、モスクワから友人の弁護士を呼んで対抗するものの、徹底的に叩きのめされるという救いのない物語が映し出されますが、強欲な権力対無辜の市民というありきたりな図式に収まらない人間模様を描いていて、140分の長尺ながら、最後まで見る者を飽きさせません。

(2)強欲な市長のヴァディムロマン・マディアノフ)は、コーリャの土地を酷く安い価格で買い上げて再開発しようとし(注6)、それに不服なコーリャは裁判を起こし、1審で負けたためにモスクワからディーマを呼んだのでしょう。
 ディーマも、コーリャの家に着くと、「市長についておそろしい秘密をつかんだ。控訴審で望む判決は得られないだろう。しかし、この情報をネタに奴に考えさせる。急所をつかんで考え直させ、叩き潰す」と大層強気の姿勢を見せます。

 確かに、市長は、ディーマにその情報を見せられると、1年後の市長選のこともあり、慌てふためきます(注7)。
 しかし、権力を持つ市長がそんなに簡単に引き下がるはずがないのは火を見るよりも明らか。
 ディーマも、夜、コーリャの家にやってきた市長の態度を見れば、一筋縄ではいかないことはすぐに分かるのではないでしょうか(注8)?
 にもかかわらず、ディーマは、市長らに簡単に拉致され手酷く傷めつけられると(注9)、すぐさま尻尾を巻いてモスクワに退却してしまいます。
 そのくらいの度胸しかないのなら、どうしてディーマはあのような強気なことをコーリャに言って安心させたのでしょうか?

 そして、本作の転回点とも思えるのが、そんなひ弱な男にもかかわらず、ディーマに心が傾いてしまったリリアが、ディーマの宿泊するホテルに行って、すぐにベッド・インしてしまうことでしょう。
 いくら、コーリャがしがない自動車修理工で飲んだくれだとしても、またロマが自分に少しも懐かないといっても、そしてディーマがモスクワの人間で格好良く見えるとしても、そんなに簡単になびいてしまうものでしょうか?

 それはさておき、この情事が本作にとって重要と思えるのは、悪徳な権力側対イノセントな庶民というそこまでの常識的な構図が破れてしまって、権力側も庶民も同じ穴のムジナではないかという感じが漂ってくるからです(注10)。
 そうなれば、庶民の方では依って立つベースがなくなってしまい、権力側の傍若無人な振る舞いを為す術もなく見守るだけとなってしまうでしょう。

 映画のラストは、コーリャの家があった辺りが整地されて新しくロシア正教の教会が建てられており(注11)、また海岸にはレビヤタン(注12)と思しきクジラの巨大な骨格とか朽ちた船がいくつも転がっている様が映し出されることになります。

(3)中条省平氏は、「監督の、いやロシアの有意の人々にとって、この国への絶望がどれほど深いものか、息苦しくなるほど身に染みて感じられる」が、「これでもかこれでもかと不幸が連続する物語は単調に通じ、登場人物たちの造形もいささか型どおりのような気がする」として★3つをつけています。
 藤原帰一氏は、「小さな町の小さな事件。でも、ひとりひとりの人間にはいろいろな謎が潜んでいるわけで、丁寧な人間描写から深みが生まれます。普通なら文学の特技ですが、 それを映画によって実現したのがこの作品の功績。映画だってまだまだできることがある。現代映画への信頼を取り戻させてくれる作品」と述べています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「楽しさも感動もなく、不快感がこみ上げる。だけど映像から目をそらすことができなかった」、「悲しみを閉じこめたような青ざめた空気感の映像美。吹きすさぶ寒風に身をさらす気分になり、苦い後味がいつまでも残る」と述べています。



(注1)監督・脚本は、アンドレイ・ズビャギンツェフ
 本作の脚本は、カンヌ国際映画祭で脚本賞を授賞。
 英題は『LEVIATHAN』。

 なお、本作は、公式サイトの「イントロダクション」によれば、「アメリカで実際に起きた土地の再開発をめぐる悲劇的な事件(2004年のキルドーザ事件)をベースに、無実の罪を問われて財産を奪われた男の物語「ミヒャエル・コールハースの運命」、旧約聖書「ヨブ記」、そしてトマス・ホッブズによって書かれた国家についての政治哲学書「リヴァイアサン」などから着想を得て作られた」とのこと。

(注2)ラストに映し出される光景と同じような感じがしますが、ラストでは、冒頭では見られなかったクジラの骨格が海岸に置かれています。

(注3)ディーマはモスクワの弁護士。20年前、軍隊に入っていた時、コーリャはディーマの上官だったようです。

(注4)コーリャは自動車修理工。警官たちの車をよく修理しているようです。

(注5)リリアはロマにとって継母。ロマは、リリアを母親と認めようとはしません。
 ただ、この点を本作のように強調するのであれば、実母とロマの関係を一度くらい描き出してみても良かったのでは、と思いました。

(注6)市側の買取価格(約140万円)はコーリャの要求額の5分の1ほど(公式サイトの「ものがたり」によります)。

(注7)市長は、一旦は、コーリャの要求額を支払うことをディーマに約束します。

(注8)翌日、ディーマは、市長の不法侵入を告訴しようと警察、検察、裁判所に出向きますが、それらを完全に掌握する市長の差し金によって(特に、裁判所は、市長の思うがままの判決を出すようです)、どこも担当者が不在ということで告発状を受け取ってもらえません。

(注9)ディーマは、身を守る算段を何もせずに、よくも秘密情報を市長に見せてしまったものだと思います。そんなディーマは、何の疑いもせずにアッサリと市長の車に乗り込んでしまい、挙句、殺される一歩手前のところまで追い込まれます。

(注10)客観的に見れば、リリアの不倫は悪徳ではないでしょう。
 でも、例えば、ロマにとっては考えられないことであり、にも関わらず、コーリャはリリアとよりを戻そうとし、その現場をロマは目撃してしまうのです(家を飛び出したロマは、海岸でクジラの骨格を見ながら考え込みます)。

(注11)新しく作られた教会では、市長がなんども相談していた司祭が、「教会はロシアの魂」「神は力ではなく、真実に宿る」「ロシア正教の教えを守り、真実を守ることが大切」などと説教をします。
 そこには、市長とその妻が子どもを連れて列席しています。

(注12)公式サイトの「キーワード」によれば、「旧約聖書に登場する海の怪物。リヴァイアサンは英語表記に準じている」とのこと。



★★★☆☆☆



象のロケット:裁かれるは善人のみ

ラスト・ナイツ

2015年12月10日 | 洋画(15年)
 『ラスト・ナイツ』を新宿バルト9で見てきました。

(1)クマネズミは、この映画を制作した紀里谷和明監督のこれまでの作品について、世に言われるほど酷くないと思っていて、本作も悪くないのではと期待し、ひどく遅ればせながら映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、領主のバルトーク卿(モーガン・フリーマン)のモノローグで、「暗黒の戦国時代に、選びぬかれた騎士の一団が誕生した。何年にもわたる戦いの中から帝国が生まれ、様々の肌の色や信条の持ち主が取り込まれた。しかしながら、その中で騎士の魂は失われていった。だが、この騎士団は違った」と語ります。
 画面では、隊長のライデンクライヴ・オ―ウェン)以下の騎士団に、待ち伏せていた山賊たちが襲いかかるものの、逆に騎士団は敵をなぎ倒していきます。



 追い詰めた山賊の頭目に対し、ライデンが「剣を収めれば見逃してやる」と言うと、相手は切りかかってくるので、仕方なくライデンは斬り倒します。

 場面は変わって、雪の中、疾駆する馬。
 馬に乗る者はバルトーク卿の城に入り、「皇帝の使者だ」と告げます。
 ライデンが出てきて「私が受け取る」と対応すると、使者は「皇帝の書状を領主の部下には渡せない」と拒みます。
 使者が、さらに「お前の名は?」と尋ねると、ライデンは「ライデン隊長だ」と名乗ります。
 すると使者は、「その名はよく知っている。ご無礼を謝る」と言って、皇帝の文書をライデンに渡します。

 皇帝からの書状を受け取って読んだバルトーク卿は、書状を放り出し、ライデンに向かって、「都に上り、大臣のギザ・モットアクセル・ヘニー)に会えとの命令だ。これは、奴に賄賂を渡せということだ。だが、賄賂を支払うつもりはない」と言います。



 ライデンが、「それなら、もっと早く立ち上がるべきだったのでは?殿下のプライドが傷ついただけのことでは?」と言いますが、バルトーク卿は、「あんな男が公然と賄賂を要求するとは、国は危うい」と応じた後、腹を押さえてしゃがみ込みます。
 ライデンが近寄ると、「診察は受けた。このことは他言無用だ」と言います。

 結局、バルトーク卿は、ライデンらの騎士団を従えて都に旅立ちますが、さあ、都では一体何が待ち受けているのでしょうか、………?

 本作は、日本の『忠臣蔵』を西欧中世の騎士の世界に置き換えて映画化したもので、舞台として映し出される中世の世界の重厚さ、それに的確な演出や出演者の素晴らしい演技によって、とても引き締まった充実した映像・内容になっており、ストーリーはよくわかっているはずながら、知らず知らずのうちに作品の中に引き込まれてしまい、圧倒されてしまいました(注2)。

(2)この映画を見ると、よく知る『忠臣蔵』との違いが少々気になります(注3)。
 例えば、『忠臣蔵』でも本作でも、家臣団の復讐は、主君の事件があってからしばらく時間が経過してから実行されます。その間、大石内蔵助にしても、ライデンにしても、相手方の警戒心を解くために腐心します。ただ、『忠臣蔵』では、大石内蔵助は祇園一力茶屋で大層派手に遊んでいたとされますが、本作では、随分とうら寂しい飲み屋で独り酒を煽っているにすぎないシーンが多いように思います(注4)。

 また、『忠臣蔵』では、天野屋利兵衛という町人が、討入り時に赤穂浪士達が使う様々な武具を隠し持っていたとされますが、本作ではそのような民間人は登場しません。ギザ・モットの城を攻撃しようと騎士団が立ち上がると、どこからともなく剣や甲冑などが持ち込まれてきます。

 さらに、『忠臣蔵』では、大石たちは、浅野家の再興がかなわないことを知って討入りを実行に移しますが(注5)、本作の場合は、首相が亡くなってギザ・モットが首相になり、皇帝の命令で警護の兵隊(注6)の数を大幅に減らさざるをえなくなった頃を見計らって、ライデンらは立ち上がります。

 でも、想定される世界が違っているのですから、いろいろ差異があって当然でしょう(注7)。

 そんなことより、前半のライデンがバルトーク卿の首を跳ねることになるまでの経過や、後半のギザ・モットの城にライデンの騎士団が攻撃をしかけ彼を打ち倒すまでの展開という2つの山場は、見る者を引き込まずにはおられません。
 特に、ライデンとイトー伊原剛志)との一騎打ちは、ソードアクションとして1級品ではないでしょうか(注8)?

 それと、本作に見られるグローバルなキャスティングには驚きました。
 主役のライデンを演じるクライヴ・オーウェンこそ英国出身ですが、例えば、その主君であるバルトーク卿には米国の黒人俳優モーガン・フリーマンが扮していますし、ライデンらの復讐相手のギザ・モットを演じているのはノルウェー出身のアクセル・ヘニー、彼を警護するイトーには日本の伊原剛志、皇帝にはイラン人のペイマン・モアディ、良識派の領主・オーガストには韓国人のアン・ソンギ、といった具合です。



 こうすることで、元々の史実(赤穂事件)に拠りつつも、それを『太平記』の世界の中で描いた『仮名手本忠臣蔵』と比肩しうる幻想的な世界(舞台は西欧の暗黒時代としても、相当する国は存在しません)を作り出すことが出来たのでは、と思えました。

 総じて言えば、やはり本作の世界は個人主義的で、『忠臣蔵』は集団主義的だなという感じがし(注9)、また本作の世界はタテの動きが多いのに対し、『忠臣蔵』はどちらかと言えばヨコの感じがするように思いました(注10)。

(3)渡まち子氏は、「ともあれ、「GOEMON」「CASSHERN」のようなトホホ感がないだけありがたいし、記念すべきハリウッド・デビュー作に“日本”をぶつけたところに監督の武士道(騎士道)があると解釈したい」として60点をつけています。



(注1)監督は、『GOEMON』や『CASSHERN』の紀里谷和明

(注2)出演者の内、最近では、モーガン・フリーマンは『LUCY ルーシー』、伊原剛志は『超高速!参勤交代』、ペイマン・モアディは『別離』で、それぞれ見ました。

(注3)と言っても、『忠臣蔵』は様々な形で物語られていますから、クマネズミが密かにイメージしている個人的な『忠臣蔵』との違いに過ぎませんが。

(注4)本作では、さらに、ライデンは、バルトーク卿から授けられた剣を売り払ったり、またバルトーク卿の娘リリーローズ・ケイトン)が娼婦になっているのを知りながら助けなかったりします(これらの場面を、ギザ・モットの護衛官イトーが密かに見ているのを、ライデンは承知しているのでしょう)。

(注5)ブログ『ふじき78の死屍累々映画日記』のエントリで「ふじき78」さんは、「領主領家再興」の話が本作においては全く無視されているという点を疑問視されています。
 実に鋭い指摘ながら、バルトーク卿が、自分には後を継ぐ者がおらず、10代目の自分でバルトーク家は終わるとライデンに言っていたりするので、クマネズミにはあまり気になりませんでした。

 なお、バルトーク卿は、実質的に自分の後を継ぐ者はライデンだとして自分の剣を与えますが、ライデンにはナオミアイェレット・ゾラー)という妻がいますから、仮にそうなった場合には、新しい家を起こすことになるでしょう。
 また、ライデンには大石主税に相当する息子は想定されていません。あるいは、騎士団最年少の騎士ガブリエルノア・シルヴァー)が考えられているのでしょうか。

(注6)ギザ・モットは、妻のハンナパク・ション)の父親であるオーガスト卿に、自分の警護のために兵を差し出すよう命じています。
 なお、ギザ・モットは、ハンナに対しDVを振るったりして、かなりの性格破綻者として描き出されています(浅野内匠頭を“虐める”吉良上野介というイメージに相当するのでしょう)。

(注7)もっと挙げれば、例えば、『忠臣蔵』では、赤穂浪士の討ち入り直前、大石内蔵助は浅野内匠頭の正室・瑤泉院のところへ最期の挨拶に行きますが(いわゆる「南部坂雪の別れ」)、本作では、ライデンがバルトーク卿の死を報告した時に、卿の妻のマリアショーレ・アグダシュルー)がライデンの頬を打つシーンがあるいは対応するのかもしれません。

(注8)劇場用パンフレット掲載のインタビューで、イトー役の伊原剛志は、「イトーの最後の“やられ方”に関しては、僕から監督に提案しました。……イトーの刀は折れてしまうけど、バルトークから授かったライデンの刀は折れずにイトーの体を貫いた。つまり、イトーは実力でライデンに屈したのではなく、主君の違いによる剣の力と正義の力に負けたのだと」と述べています。

(注9)『忠臣蔵』では、赤穂浪士は全員が同じ装束に身を包み、山鹿流の陣太鼓によって皆が動きます。これに対して、本作では、騎士団は比較的統制の取れた動きをするとはいえ、例えば、ライデンは独りでイトーと対峙し、また独りでギザ・モットを打倒します(『忠臣蔵』では、お項浪士たちが皆発見された吉良上野介の回りに集合します)。

(注10)『忠臣蔵』は、歌舞伎で上演されることが多いためか、なんとなく横長の印象を持っていますが、本作では、バルトーク卿とライデンの打首が最初と最後にあったり(切腹にも介錯はありますが、基本は腹を水平に切ることでしょう)、ギザ・モットの城を攻撃する際にも上下の動きが多いように感じたりしました。



★★★★☆☆



象のロケット:ラスト・ナイツ

黄金のアデーレ 名画の帰還

2015年12月05日 | 洋画(15年)
 『黄金のアデーレ 名画の帰還』を渋谷のシネマライズで見ました(注1)。

(1)『マダム・マロリーと魔法のスパイス』のヘレン・ミレンの主演作というので映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭は、オーストリアの画家・クリムトが、絵(注3)を制作しているシーン。金箔を半分に切って、刷毛でキャンバスの上に置いています。
 クリムトが「もう少し左の方へ」と言うと、モデルのアデーレアンチュ・トラウェ)(注4)は左へ動きます。



 さらに、クリムトが「アデーレ、落ち着かないね」と言うと、アデーレは「心配しているの。これからのことで」と答えます。

 舞台は変わって、1998年のロスアンジェルス。
 マリアヘレン・ミレン)が、姉のルーズの棺が収められたお墓の前で、「私たち姉妹は、お互いに愛し合っていましたが、実際は競争していました。でも、勝ち残ったのは私の方です」などと挨拶して、葬儀参列者が笑います。



 葬儀からの帰り道で、マリアは親友のバーバラフランシス・フィッシャー)に、「あなたの息子さん(ランディライアン・レイノルズ)は弁護士では?うまくいってるの?」と尋ねると、バーバラは、「パサデナで事務所を開いたものの、うまくいかなくて。奨学金の返済に追われている」と答えます。
 マリアは、さらに「姉が遺した所持品の中に手紙が見つかり、誰か信頼できる人のアドバイスが必要なの」と付け加えるので、バーバラは「じゃあ、私が息子に電話しておく」と答えます。

 そのランディは、仕事を求めて大きな法律事務所を訪問した後(注5)、マリアの家に向かいます。



 家で、マリアは、姉ルイーズが持っていた1948年の手紙(注6)をランディに見せます。
 さあ、これから物語はどのように進展していくのでしょうか、………?

 本作は、画家クリムトが描いた『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』という絵画の返還を巡って、ナチスの席巻するオーストリアから逃れてアメリカで暮らす老齢の女性が、前世紀の末にオーストリア政府を訴え、とうとう8年後にウィーンでの調停裁判で勝利するまでを描いています。
 ヘレン・ミレンは、主役の意志強固な女性にまさにうってつけの女優であり、また彼女をサポートする弁護士役のライアン・レイノルズも好演していて、まずまず面白く映画を見ることが出来ました(注7)。

(2)このところ、『ミケランジェロ・プロジェクト』、『FOUJITA』、そして本作と、戦争と絵画を巡る映画を立て続けに見た感じがあります。
 尤も、『ミケランジェロ・プロジェクト』と本作は、戦争に翻弄される絵画を巡る話であり、『FOUJITA』は戦争に翻弄される画家を巡る話ですが。
 それにしても、いずれも第2次世界大戦が関係しています。
 翻って昨今の対テロ戦争ですが、絵画が登場する機会は余りなさそうに思えます。
 あるいは、関与するイスラム世界では絵画が重要視されていないためかもしれませんが、あるいは絵画のポジションが昔に比べて総じて低下してきているためなのかもしれません。

 そんな駄弁はともかく、本作は、マリアとランディのタッグが、様々な困難を乗り越えて最終目的に突き進んでいく様子がうまく描き出されていて、思わず見入ってしまいます。

 でも、わかりづらいところがいくつかあります。
 まず、問題となっているアデーレの肖像画ですが、公式サイト掲載の「マリア・アルトマン」に関する年譜では、1938年にナチスがオーストリアに入ってきた際に、「肖像画を含む価値ある家財道具がナチスに奪われる」とされていながら、1943年に「オーストリア国立ベルベデーレ美術館に展示される」と記載されています(注8)。
 本作の中でも、アデーレが身に着けていた豪華な首輪は、ゲーリング元帥の妻に送られたとされているところ(注9)、なぜ、アデーレの肖像画は、例えば、『ミケランジェロ・プロジェクト』で描かれたような運命(岩塩坑に隠匿されるなど)を辿らなかったのでしょうか(注10)?

 また、アデーレが遺した遺言書が発見され、そこには肖像画は美術館に寄贈すると書かれているのです。それに従って、件の絵画は美術館の所蔵となっているのではと思われるところ、どうしてマリアが所有権を持つとされるのか、あまり良くわかりませんでした(注11)。

 さらに、マリアとその夫(マックス・アイアンズ)はやっとの思いでウィーンを脱出しますが、乗った飛行機の行く先はドイツ国内のケルンであり、ユダヤ人に対する取り締まりが一層厳しいと思える場所です。むしろ、そこからの脱出の方が大変なのではと推測されるところ、映画ではなぜかオミットされてしまっています(注12)。

 でもまあ、そんなところは本作にとってどうでもいいことなのかもしれません。
 戦前・戦後のオーストリアの人々、そしてそれを代表するオーストリア政府の自分たち家族に対する非道な仕打ちに対して立ち上がった一女性の姿が、本作では大層くっきりと描かれていて、それをヘレン・ミレンが見事に演じているのですから。

 そして、『ミケランジェロ・プロジェクト』で描かれているMonuments Menの精神からすれば、クリムトが描いた『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』はオーストリアの美術館で展示する方がベターだと思えますが(注13)、そんなことも本作にとっては二の次の問題なのでしょう。

(3)渡まち子氏は、「今まで避けてきた悲痛な過去に向き合いながら、裁判を戦い抜くマリアの姿は、実にりりしい。シリアスな中にも、そこはかとないユーモアを感じさせる演技は、さすがは名女優ヘレン・ミレンである」として70点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「「皆さんには高価な名画でも私には家族の形見」とランディの説得で証言台に立ち、静かに語るマリアの言葉は、やがて民族の誇りを踏みにじられたユダヤ人の悲しみと怒りをこめた弁護士ランディの最終弁論へと繋がって胸のすく結末が訪れる。許す、でも決して忘れないというユダヤ人の心情が伝わってくる」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)来年1月で閉館するシネマライズの最後の公開映画とのこと。

(注2)監督は、『マリリン 7日間の恋』のサイモン・カーティス
 原題は「Woman in Gold」。

(注3)後に『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』(1907年)として知られることになります。
 なお、「Ⅱ」は1912年に制作されています〔追記:「Ⅱ」も「Ⅰ」と同時にマリア側に返還され、オークションの際に「Ⅰ」とは別の人に落札され、今はニューヨーク近代美術館(MOMA)に寄託されているようです〕。

(注4)アデーレは、本作の主役のマリアの母親の妹。
 なお、マリアの父親とアデーレの夫も兄弟で、2つの家族はウィーンで一緒に暮らしていました。

(注5)ランディは、パサデナの法律事務所をたたんで、ロス市内の法律事務所で働くことになります。
 なお、ランディは、正式にはランドル・シェーンベルクと言い、著名な音楽家のシェーンベルクの孫であり、またランディの父親も裁判官でした。

(注6)オーストリアの弁護士から姉のルイーズに宛てた手紙で、アデーレの遺言書に従ってその肖像画はオーストリアの美術館に寄贈されたものであり、オーストリア政府はその肖像画を手放すことはしないと決定した、という内容。但し、その弁護士は、遺言書そのものは見ていないと言っています。

(注7)出演者の内、ヘレン・ミレンは『マダム・マロリーと魔法のスパイス』や『ヒッチコック』、ライアン・レイノルズは『デンジャラス・ラン』や『リミット』、オーストリアの雑誌記者に扮するダニエル・ブリュールは『誰よりも狙われた男』や『ラッシュ/プライドと友情』、ランディの妻・パムに扮するケイティ・ホームズは『陰謀の代償 N.Y.コンフィデンシャル』で、それぞれ見ました。

 〔追記:ダニエル・ブリュールが演じるオーストリアの雑誌記者は、本作では大した働きをしませんが、この記事によれば、実際には、本件でかなり大きな働きをしたようです(言われてみれば、ドイツ語の読めないランディがウィーンで資料探しなんてできるはずがありませんし)〕。

(注8)映画の中では、「1941年に美術館に送られた」とされていたように思います。
 1941年にしても1943年にしても(前者が搬送年で後者が展示年でしょうか)、アデールの夫の1945年の死より前のことです。この点が、下記「注11」で触れている事柄に関係してくるのでしょう。

(注9)また、マリアの家に入り込んできた親衛隊が、マリアの父親が愛用していたチェロがストラディバリのものであることを見ぬいて没収していましたし。

(注10)もしかしたら、ナチスはクリムトの奔放な作風を嫌っていたのかもしれません。
 なにしろ、マックス・エルンストやパウル・クレーなどの作品が「退廃芸術」だとされて、彼らは絵画を制作できなくなってしまったくらいなのですから。
 それとも、描かれている人物(アデーレ)がユダヤ人であるからでしょうか?
 公式サイト掲載の「プロダクションノート」の「実在のマリア・アルトマン」によれば、美術館に展示された時、タイトルが「Lady in Gold」に変えられたそうです。この記事によれば、描かれているのがユダヤ人であることを隠すために、そのようにタイトルを変えたとのこと〔そうであれば、米国での略称が今では「Woman in Gold」とされていますが(映画の原題にもなっています!)、ユダヤ人隠しが引き継がれているようにも思われます〕。

(注11)あるいは、事業を営んでいるアデーレの夫が全ての財産権を持っているのであって、夫が死なないかぎりアデーレは、肖像画を含めて家の財産は自分のものとならないということでしょうか。そして、アデーレは43歳で若死にしますから、たとえ遺言書があったとしても、財産を勝手に処分できなかったのかもしれません〔Wikipediaのこの項の記述によれば、アデーレの夫は、「これらの肖像画の所有権はもともと自分にあるとして、アデーレの遺言を実行に移さなかった」ようです〕。
 でも、アデーレは、自分を描いたものだから、この肖像画は自分のものだと思っていたのではないでしょうか(それで、夫の死後でいいから、肖像画を美術館に寄贈してくれと遺言したのではないでしょうか←上記「注8」が関係してくるでしょう)?

(注12)マリアと夫のケルン行きが、本文(2)の冒頭で触れたマリアの「年譜」にあるように1938年とすれば、まだナチスドイツはオランダに侵攻しておりませんから、そちらに逃げて、アメリカに亡命したのでしょう(この記事によれば、オランダからイギリスのリヴァプールを経由してアメリカに逃げているようです)。

 〔追記:この記事によれば、マリアの夫Fritz Altmannは、米国亡命後はオペラ歌手にならずに、まずはロッキードで働いた後、カシミアセーターなどの衣料品を扱う商売に従事し、1994年に亡くなったようです〕

(注13)現在は、ニューヨークのノイエ・ギャラリーで展示されています(例えば、この記事が参考になります)。



★★★☆☆☆



象のロケット:黄金のアデーレ 名画の帰還


マルガリータで乾杯を!

2015年11月26日 | 洋画(15年)
 『マルガリータで乾杯を!』を銀座シネスイッチで見ました。

(1)上映時間が時間の隙間にちょうど上手く嵌っていたので、何はともあれと事前情報を一切持たずに映画館に飛び込みました。

 本作(注1)のはじめは、母親の運転するバンが道路を走っている場面。 そのバンには主人公・ライラカルキ・ケクラン)の一家が乗っています。
 助手席の父親が歌を歌い始めると、息子が「音痴なんだから代金をくれ」と言い、父親が「大金をやるから聴け」と答えると、息子は「要らない」と応じます。
 最初の地点でバンから父親が降り、次の地点で、母親(レーヴァティ)がバンから車椅子を降ろして、それに乗って娘はデリー大学の教室に入っていきます。

 大学では、幼馴染で同じように車椅子に乗っているドゥルヴフセイン・ダラール)が、「ボクの花嫁候補は君だ」などと言ってくれます。



 ですが、ライラは、バンドでヴォーカルをやっているニマに恋してしまいます。なにしろ、ライラが自分で書いた詩をニマに送ると、ニマはそれに素晴らしい曲をつけてくれるのですから(注2)。
 スッカリ舞い上がってしまったライラは、ドゥルヴが「メールで俺を無視している」と詰ると、「私のことは忘れて、さよなら」と言ってしまいます。
 ドゥルヴは「健常者と付き合っても健常者にはなれないぞ」と警告しますが、ライラは「嫌なやつ」と突き放ちます。

 母親に対して、ライラは「好きな人が出来たの。彼も音楽が好きなの」と打ち明けます。



 さらに、音楽のコンテストが開催され、ニマのバンドは、ライラの歌を歌って優勝します。
 ですが、司会者が「障害者が書いた歌だというので優勝にした」と発言したために、ライラは引いてしまいます。
 それに、ニモの方も、ライラの詩作の才能は認めるものの、恋愛感情は持っていないことが分かってしまいます(注3)。
 ライラは母親に、「私バカみたい。彼は私のこと愛していなかったの。もうこの大学には通いたくない」と言います。
 さあ、ライラはこれからどうするのでしょうか、………?

 チケットを買うときにインド映画だと分かり、タイトルと考え合わせると(何しろ“乾杯”なのですから!)、例の歌あり踊りありの楽しいボリウッド映画に違いないと思っていました。
 ところがさにあらず、ボリウッド映画につきものの群衆の乱舞といったシーンなど全くありません。
 それどころか、これまで見た映画の印象から、インド映画界は至極保守的なところではないかと思っていたところ、邦画でもなかなか見られないような先端的な話題をふんだんに取り入れた映画に思いがけずぶち当たってしまったのです。
 一方で見入ってしまうと同時に、他方で酷く戸惑ってしまいました。

(2)なにしろ、主人公・ライラは脳性麻痺の障害者でありながらインドの名門大学に通う19歳の女子大生なのです。言葉を明瞭に発することが出来ず、また車椅子で生活しています。
 なおかつ、ニューヨーク大学に留学するのですが、そこで目の不自由な女子学生・ハヌムサヤーニー・グプター)と性的な関係を持ち一緒に同棲生活をするようになってしまうのです(注4)。



 そればかりか、アメリカからハヌムと春休みに一時帰国したら、ライラは、母親が結腸がんでステージ2であることを父親から告げられるのです。
そのうちのどれか一つでも重すぎる問題であり、そんな問題がこうも重なれば、見ている方としてはとてもついていけない気分になってきます(注5)。

 しかしながら、本作は、ライラを、過酷な運命に押さえつけられた暗い女性としては決して描かずに、絶えず前向きにポジティブに生きていこうとする好奇心旺盛な女性として描き出しています(注6)。

 それに、主役のカルキ・ケクランが言うように(注7)、「“たまたま車いす子に乗っている普通の女の子”がティーンエイジャー特有の恋愛や家族からの自立などの問題に直面する姿が描かれてい」るというように本作を見れば、本作が実にみずみずしく描かれていることもわかってきます(注8)。

 とはいえ、いろいろの観点から見ることができる作品ながら、もう少しすっきりと描いた方が見る者により強く訴えかけるのでは、と思いました(注9)。

(3)藤原帰一氏は、「確かに脚本は詰め込み過ぎだし、カメラにも取り柄はない。でも障害を抱える少女の性の目覚めをくっきりと表現しただけでお手柄。新しいものを見た幸せを与えてくれる作品」と述べています。
 暉峻創三氏は、「描かれる内容はセンセーショナルだが、それを終始淡々と語り進めていく監督の確信に満ちた態度が、映画をなおいっそう輝かせる。監督の人間観察力とケクランの演技力が、奇跡のような化学反応を起こした名作だ」と述べています。
 読売新聞の大木隆士氏は、「障害者の恋愛や性についても、避けることなく見つめる。深刻になりそうな題材だが、常に前を向き、失敗を重ねつつも成長していくヒロインの姿を、爽やかに描き出した」と述べています。



(注1)監督・脚本はショナリ・ボース
 原題は「Margarita with a Straw」。

(注2)その曲が「ドゥソクテ」(“君の瞳に”という意味)という歌で、こちらのURLの中で歌を聞くことが出来ます(歌詞を翻訳したものは、劇場用パンフレットに掲載されています)。

(注3)ライラが「あなたのことだけ思っている」と言っても、ニモは「バンドのみんなが君を好きだ」とか「みんながあなたを待っている」と答えるだけでした。

(注4)主人公・ライラは、レポート作成を手伝ってくれる男子学生・ジャレッドウィリアム・モーズリー)とも性的関係を持ちますから、バイセクシャルなのです。

(注5)ここに掲げた3つの問題でも深刻な消化不良を起こしてしまうほどにもかかわらず、劇場用パンフレットに掲載の松岡環氏のエッセイ「主人公の母娘と監督に乾杯!」によれば、父親と母親との間には、「異なる宗教の信者同士のカップル」(シク教徒とヒンズー教徒)であり、さらに「州をまたいで結婚」(パンジャーブ州出身者とマハーラーシュトラ州出身者)しているという問題までも設定されているのです。

(注6)ストローでマルガリータを飲んでいるラストシーンでのライラの姿がとても印象的です。

(注7)公式サイトの「Cast」掲載の「Interview」より。

(注8)例えば、最初の頃は口紅を塗り出したりするくらいですが(パソコンで怪しい画像を見たり一人エッチをしたりします)、ニモが好きになると、毎日母親に髪の毛を洗ってもらうようになったりします(母親が「昨日も洗ったはずなのに」といぶかしがります)。

(注9)本作は、障害者を描いても、例えば『くちづけ』のように“感動”を見る者に強制するような仕上がりにはなっていない点が評価できるのではと思いました。



★★★☆☆☆




ミケランジェロ・プロジェクト

2015年11月24日 | 洋画(15年)
 『ミケランジェロ・プロジェクト』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)ジョージ・クルーニーが監督・主演の作品だということで見に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、「Based on a true story」のクレジットが映し出された後、ベルギーのヘントの大聖堂の中。ファン・アイクの祭壇画に毛布がかけられてトラックに積み込まれます。男が「裏道を通って行け。南からドイツ軍がやってくる」と、出発するトラックに向かって言っています。

 次いで、1943年3月のパリ。
 ルーブル美術館でしょう、ベラスケスなどの絵画がたくさん並べられた部屋にゲーリング元帥が入ってきます。
 その素晴らしさにゲーリングがシャンパンで乾杯しようと言い出し、親衛隊のシュタールが秘書のクレールケイト・ブランシェット)にグラスを用意させますが、彼女は、唾を垂らしたシャンパングラスを持ってきます。
 シャンパンを飲みながら、ゲーリングは「これとこれを別荘へ運べ。ベルヒテスガーデンの総統への贈り物にするのだ」と命じます。

 次の画面では、ミラノにある僧院の3方の壁と屋根が、英軍の爆撃によって崩れてしまっている様子が映し出されます。その僧院の壁には、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が描かれているのです。
 そして、その映像を使ってストークス教授(ジョージ・クルーニー)が大統領に説明をしています。「ヘントの祭壇画がナチスによって略奪されました」「我々は、戦争に勝つでしょう。しかし、これらが破壊されたら、取り返しがつきません」「「モナリザの微笑」を誰が守るのでしょうか」。

 大統領は「戦争中なのだから仕方がない」と言うものの、ストークスがリーダーとなって7人から成る特殊部隊「monuments men」が結成され、ナチスが略奪した美術品の奪還作戦を遂行することになります。



 さあ、うまくいくのでしょうか、………?

 本作は、第2次大戦末期、ヒトラーが、総統美術館の建設を目指してヨーロッパの美術品を集めているというので、それを阻止すべく立ち上がった7人の男の物語。
 実話に基づいていて、映画の中には、ファン・アイクの祭壇画などよく知られた絵画などがふんだんに登場します。その上、ジョージ・クルーニーだけでなく、マット・デイモンやビル・マーレイ、ケイト・ブランシェットなど名だたる俳優が登場しますから、見ていて飽きません。
 とはいえ、相変わらずの正義の味方の米軍という描き方や、消化不良になるくらい盛りだくさんのエピソードがこれといった山場なく繋げられているといった点で、イマイチの感もありますが(注2)。

(2)なにしろ、本作では、ファン・アイクの祭壇画ばかりでなく、フェルメールの「天文学者」などの名品が次々に映し出されます。

 それはそれでとても興味深いものの、「Monuments men」の構成メンバーをそうそうたる俳優が演じているために、一人一人にエピソードが割り当てられている感じがします。
 例えば、ヒュー・ボネヴィルは、ミケランジェロの聖母子像(注3)を教会で独りで守っていたところ、その彫像を運び出しに来たナチスの将校によって射殺されてしまいます。
 また、ビル・マーレイボブ・バラバンが、パリで学んだという美術愛好家の家に行った際に、壁にかけられているセザンヌやルノアールの絵が、レプリカなどではなく本物であることがわかり、同時にその家の主人がナチス親衛隊のシュタールであることも明らかになります(注4)。
 さらには、リーダーのストークスが、ソ連軍が接収のために間際まで接近しているさなかに、岩塩坑の奥に「ミケランジェロの聖母子像」を見つけるのです。
 こうしたエピソードが、次々に描き出されるために、イマイチ盛り上がりが乏しく、全体としてとても平板に見えてしまいます。

 それに、ソ連軍の行動が、まるでナチスの行動をなぞっているように描かれている点もどうなのかなと思ってしまいます。
 確かに、そうした面はあったのでしょう(何しろ、同じような独裁国家だったのですから)。
 でも、そう描き出すことによって、民主主義を守る正義のアメリカ軍といったお馴染みの戦争映画の範疇にこの作品も入ってしまうように思われますし、また、ヒトラーの暴虐の要素も薄められてしまうのではないでしょうか?

 例えば、ソ連軍の話のウエイトをもっと低くした上で、ファン・アイクの祭壇画の略奪からその再発見に至る話だけにフォーカスを絞って描き出すようにしてみたら、この映画はもっと面白い作品に仕上がったのではないでしょうか(注5)?

 それにしても、ヒトラーが美術品に絡むと、どうして“ミケランジェロ”が登場するのでしょうか?
 というのも、以前見た『ミケランジェロの暗号』においても、ヒトラーがムッソリーニに贈呈しようとして「ミケランジェロの素描」を親衛隊に探させるお話でしたから。

(3)渡まち子氏は、「(本作は)そんな中止・延期の果てに公開された、いわくつきの作品」、「とにもかくにも(小規模ながら…)公開にこぎつけたのは、映画ファンとしては喜ばしいことと言えるでしょう」と述べています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「クルーニーは目配りが利いた脚本、構成で、人類の文化遺産を救った英雄、モニュメンツ・メンの活躍に光をあてた」と述べています。
 日経ビジネスオンラインの池田信太朗氏は、「美術品は誰のものか――。19世紀から20世紀にかけての戦火がもたらした混乱は、いまだ解決されていない。『ミケランジェロ・プロジェクト』を観ながら、そんなことを考えた」と述べています。



(注1)本作の監督・脚本・製作はジョージ・クルーニー
 原作は、ロバート・M・エドゼル著『ミケランジェロ・プロジェクト』(角川文庫:未読)。

(注2)出演者の内、最近では、ジョージ・クルーニーは『トゥモローランド』、マット・デイモンは『インターステラー』、ビル・マーレイは『ヴィンセントが教えてくれたこと』、ケイト・ブランシェットは『ブルージャスミン』、ジョン・グッドマンは『フライト』、ジャン・デュジャルダンは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』、ボブ・バラバンは『ジゴロ・イン・ニューヨーク』で、それぞれ見ました。

(注3)ベルギーのブリュージュにあるノートルダム聖母教会内に置かれています(例えばこの記事を参照)。

(注4)ボブ・バラバンが、セザンヌの画の裏側にロスチャイルドの署名があることを見つけたことによって(更には、子どもたちが「ハイル・ヒトラー!」と叫んで遊んでいることによっても)。

(注5)あるいは、マット・デイモンとケイト・ブランシェットが絡む話をメインに据えてみたらと思います。



 ただし、ケイト・ブランシェットが扮する秘書のクレールのモデルは、実在した美術館職員のローズ・ヴァランであり、彼女が書いたノンフィクション『美術戦線』に基づいて『大列車作戦』が制作されていますから、二番煎じになりかねませんが。



★★★☆☆☆



象のロケット:ミケランジェロ・プロジェクト

アクトレス 女たちの舞台

2015年11月20日 | 洋画(15年)
 『アクトレス 女たちの舞台』を新宿シネマカリテで見ました。

(1)ジュリエット・ビノシュが出演する映画だというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭はスイスを走る列車の中。
 大女優マリアジュリエット・ビノシュ)の個人秘書のヴァレンティンクリステン・スチュアート)が、電話で、「撮影は1日だけニューヨークで。きついけど、そういう約束。またかけ直して」、「マリアはパリにいません。彼女は今列車に乗っています」、「よく聞こえません。アルプスなので」、「X-MENの続編から名前は削除して」などと、マリアのスケジュール調整などにあたっています。

 マリアが、ヴァレンティンに隠れて、係争中の離婚訴訟について弁護士と電話で話していると、ヴァレンティンが「ヴィルヘルムが亡くなった」と知らせに来ます。
 ヴァレンティンは、「劇作家ヴィルヘルム 72歳 死去」を報じている新聞を読みますが、どうやらマリアは、ヴィルヘルムに与えられる賞を彼に代わって受け取りにチューリッヒに向かっているようです。

 ヴァレンティンが、「予定とは大分変わる。悲しい授賞式になる」と言うと、マリアは「辞退して帰るべき」と応じ、さらにヴァレンティンが、「あなた以外にいない。彼のことを思うなら出席すべき」と言うと、マリアは「でも、彼のことをよく知らない」と答えます。

 マリアは、フランスのラジオ局からのインタビューに携帯で応じます。



 列車がチューリッヒに到着すると、出迎えの男たちとともにマリアたちは車に乗ります。
 車の中で、授賞式関係の男が、「ヘンリクハンス・ツィシュラー)を招きました。彼が、代わりに賞を受け取ってもかまわないと言っています。ヴィルヘルムの作品の多くは彼のために書かれましたから」と述べます。

 この後授賞式があり、ホテルに戻ると、新進の演出家のクラウスラース・アイディンガー)が来ていて、マリアにある企画を話します。
 さあ、その内容はどんなものであり、マリアはどう対応するでしょうか、そして話は、………?

 本作では、主人公の大女優マリアが、かつて若い時分に演じた舞台劇に違う役柄で再出演することになり、その劇の上での女性同士の関係と、マリアと彼女の若い女性秘書との関係や、マリアとその再演劇で昔彼女が演じた役を演じる若い女優との関係が重なり合ってきて、随分と見応えある作品となっています。加えて、舞台となるスイスの山々の風景がとても美しく描き出されているので、大層面白く映画を見ることが出来ました(注2)。

(2)本作においては、前回のエントリで取り上げた『起終点駅 ターミナル』において見られた関係の2重写しが、3重構造にもなっているところが興味深い点だと思います(注3)。
 なにしろ、ヴィルヘルムの戯曲「マローヤの蛇」におけるジグリットとヘレナ、同戯曲の再演に際してヴィルヘルムの山荘で台詞の練習するマリア(ヘレナ役として)とヴァレンティン(ジグリット役として)、さらに実際の再演の舞台におけるマリア(ヘレナ役として)とジョアン(ジグリット役として:クロエ・グレース・モレッツ)というような重なりが見られるばかりか、実際にも、マリアとヴァレンティン、マリアとジョアンとの間には、戯曲のジグリットとヘレナの間に描かれているような愛憎入り混じった関係が見られるのです(注4)。

 とはいえ、実際に映画を見ている最中は、決して図式的に感じられることもなく、次々に様々の試練がマリアに襲ってくるものだと思えるに過ぎませんでしたが。

 そして、クマネズミには、そのような試練をマリアが被るように仕向けたのが、自殺した劇作家のヴィルヘルムのように思えて仕方ありませんでした。
 というのも、ヴィルヘルムは、マリアが世に出るきっかけとなった戯曲「マローヤの蛇」を書いた人物であり、個人的な関係はなかったように見えるとはいえ(注5)、その劇で主人公の20歳のジグリットを演じたマリアに、今度はその相手役で自殺する40歳のヘレナを演じさせたら、相当混乱するだろうことがわかっていたのではないかと思われるからですが。
 そんなヴィルヘルムが、自分の代わりにマリアに賞を受け取ってくれと依頼して(注6)、自分の山荘にまで呼んでおきながら、そのまさに授賞式当日に自殺してしまうとは、背後に何か計画的なものがあるように思えてしまいます。
 クマネズミの妄想に過ぎませんが、新進演出家のクラウスが、ヘレンの役で「マローヤの蛇」の再演に出演してくれとマリアのもとに依頼しにやってくるというのも、ヴィルヘルムの意向を踏まえてのものではないでしょうか(注7)?

 そんなことはともかく、こうしたことが描かれる舞台の背景となっているのが、原題に使われているシルス・マリアという土地であり、「マローヤの蛇」という現象です。



 マリアを「マローヤの蛇」が見える山に連れて行ったヴィルヘルムの妻・ローザアンゲラ・ヴィンクラー)は、「これは秘密だが、夫はここを見せたかった代わりに命を絶った」と言い(注8)、「マローヤの蛇」についてマリアが質問すると、「雲の形が蛇のようだから。雲はイタリアから蛇のようにやってくる」と答え、さらに、映画では『マローヤの雲の現象』という映画が映し出されます(注9)。

 こうなると、本作で「マローヤの蛇」が象徴しているものは何なのかとちょっと考えてみたくなります。
 例えば、どんどん雲が形を変えて流れ去っていくところから、時は留まらないのだという思いに繋がり(注10)、ひいてはマリアのように過去に囚われるべきではないということになるかもしれませんし、逆に、同じ形の雲がいくつもいくつも繰り返し流れてくるところから、マリアのように過去を愛する姿勢を受け入れるべきだということになるかもしれません(注11)。

 そんないい加減な解釈はさておいて、本作は、様々な視点からの議論を誘発する実に興味深い作品ではないかと思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「大女優を演じるビノシュの複雑な表情、若手女優を演じるモレッツの輝きと、女優陣は皆、好演だが、何と言っても達観した位置にいながら愛憎を内包するヴァレンティンを演じたクリステン・スチュワートの演技が見事に際立った」として70点をつけています。
 中条省平氏は、「3人の女優が絡む人間ドラマがじつに濃密だ。貫禄をつけたビノシュに挑む秘書役のスチュワートが素晴らしくシャープだが、モレッツもラストの捨て台詞ひとつで見せ場をさらう。これは往年の名画『イヴの総て』を見事に現代化した作品なのである」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「「女優」という題名からは、映画界の舞台裏を巡る華やかなドラマが連想される。だが描かれるのはむしろ、時間に呪われた女優の孤独と焦燥だ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『夏時間の庭』(この拙エントリの(2)で若干触れています)のオリヴィエ・アサイヤス
 原題は「Sils Maria」(英題は「Clouds of Sils Maria」)。

(注2)出演者の内、最近では、ジュリエット・ビノシュは『GODZILLA ゴジラ』、クリステン・スチュワートは『アリスのままで』、クロエ・グレース・モレッツは『モールス』で、それぞれ見ました。

(注3)3重構造といえば、本作では、劇作家ヴィルヘルムの自殺の知らせで幕を開けますが、その作家が書いた戯曲「マローヤの蛇」の中でヘレナは自殺しますし、またその戯曲の再演の舞台で主役ジグリットを演じるジョアンの恋人(ジョニー・フリン)の妻も自殺を図り、都合、「自殺」が3度も出てくるのです。

(注4)例えば、マリアとヴァレンティンは、一緒に裸になって湖で泳ぐかと思えば、役者のヘンリクについて、「顔も見たくない」と言うマリアに対し、ヴァレンティンは「役者として好きよ」と言ったりします(あるいは、戯曲「マローヤの蛇」についての解釈を頑として変えないマリアに対して、ヴァレンティンは「戯曲は物体にすぎない。様々な立場から異なった見方ができる」と反論したりします)。



 また、ジョアンは、一方で、マリアに対し「あなたとの共演は光栄」「ハリソン・フォードと共演の映画は15歳の時に見た」「「かもめ」の舞台も見た」などと言いながら、他方で、再演の「マローヤの蛇」のリハーサル中に、マリアはジョアンに「今の演じ方だとヘレナが存在していないように見えてしまう」「少し間を置いて欲しい」と意見すると、ジョアンは「ヘレナなんか誰も気にしていない」と一蹴してしまいます。



(注5)上記本文の(1)に書きましたように、ヴィルヘルムの訃報を耳にしたマリアは、授賞式に出席すべきとするヴァレンティンに対して、「彼のことをよく知らない」と言って欠席しようとします。
 ですが、ヴィルヘルムの山荘での会話の中で、ヴァレンティンに対してマリアは、「ヴィルヘルムに惹かれていた」「これ以上の関係は危険だと思った」「恋以上のものだった」などと語っています。

(注6)なぜヴィルヘルムは、よく知っているヘンリクではなしに(ヴィルヘルムの妻ローザは、「ヘンリクについて夫は、「考えなければいいやつだ」と言っていた」とマリアに語っています)、マリアに授賞式に出席するように要請したのでしょうか?

(注7)これらがクマネズミの妄想に過ぎないと思えるのは、ヴィルヘルムがそんなことをする動機がよくわからないからですが。
 ただ、マリアは、授賞式にやってきた俳優のヘンリクについて、「役者としては評価するが、顔も見たくない。私が言いなりにならなかったから激怒したのだ」と述べています。上記「注5」で申し上げた点もありますから、あるいは同じようなことがマリアとヴィルヘルムとの間にも起きていたのかもしれません。

(注8)ローザは「夫は、ずっと病気のことを隠していたの」と言い、ヴィルヘルムの自殺もそれに関係しているのかもしれませんが、このローザの言葉からすれば、あるいは何か目的を持ってのことなのかもしれません。

(注9)ローザは、「夫はこの映像に夢中だった」と述べます。
 ちなみに、この作品はこのYouTubeで見ることが出来ます。

(注10)もしかしたら、『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」云々に繋がるのでしょうか?

(注11)あるいは、シルス・マリアで晩年を過ごしたF・ニーチェの「永劫回帰」の思想につながってくるのでしょうか?



★★★★☆☆



象のロケット:アクトレス 女たちの舞台

マイ・インターン

2015年11月10日 | 洋画(15年)
 『マイ・インターン』をTOHOシネマズ新宿で見ました。

(1)一度はパスしようかと思っていたところ、評判がかなり良さそうなので遅ればせながら映画館にいくことにしました。

 本作(注1)の冒頭では、ブルックリンにある公園の樹の下で太極拳をしているグループが映し出されます。その中には本作の主人公・ベンロバート・デ・ニーロ)が混じっていて、他の人と同じように体を動かしています。
 ナレーションでベンが、「愛と仕事、それが全てだ、とフロイトは言っている。私は退職したし、妻は死んでしまった。いくばくかの時間が私の手元に残された」と言っています。
 更に、家でカメラに向かって、ベンは、「妻は3年半前に死んだ。そして退職。最初のうちは、その状況を楽しんだ。世界旅行もした。でも、家に戻ってくると、虚しさを感じてしまう。ゴルフ、映画、読書などなど、なんでもやった。それに葬式に参列することも。最近した旅行といえば、サンディエゴにいる息子夫婦を訪ねたことだ」などとしゃべります。



 次の場面は、スーパーで食料品を買い込んでいるベン。
 スーパーに設けられている掲示板に、ある会社の「シニア・インターンシップ・プログラム」のチラシがあるのを見つけます。
 チラシでは、履歴がわかるビデオをユーチューブにアップすることが求められています。

 知り合いのパティリンダ・ラビン)の「ラザニア、二人で食べない」という誘いを断って家に戻ったベン。夜中に飛び起きて、自己紹介のビデオを自分で撮影します。
 その中で彼は、「音楽家は、自分の中の音楽が消えてしまった時に初めて音楽をやめる、と本で読んだことがあります。まだ私の中には音楽があります」などと話します。

 今度は、ジュールズアン・ハサウェイ)の経営するファッション通販サイト「アバウト・ザ・フィット(ATF)」の様子が映し出されます。
 ジュールズは、1年半前に25人ほどで会社を立ち上げましたが、大成功して、今では220人の従業員を抱える規模となっています。



 どうやら、ベンは、この会社のインターンになるようです。ですが、70歳のベンが、こうした先端的な企業で上手く働くことができるのでしょうか、………?

 本作では、70歳の退職者が、時代の先端をいく職場で新しいポストを得て蘇る様子が物語られるところ、それを演じるロバート・デ・ニーロは、相手役の会社社長に扮するアン・ハサウェイともども、とても魅力的に描かれています。ただ、現代のお伽話であり、全体として全て丸く収まってしまうとはいえ、もう少し目覚ましい出来事があってもいいのではないかとも思いました(注2)。

(2)本作の邦題が「マイ・インターン」とされているのは(原題も『The Intern』)、映画の中で、ジュールズの会社ATFが募集していた「シニア・インターン・プログラム」(注3)にベンが応募して、シニア・インターンとして採用されることから来ているのでしょう(注4)。
 ただ、そのプログラムで採用されたベンらは、“インターン”らしいことをしているようにはあまり思えないところです。
 一般に“インターン”というのは、以前の医者に関する「インターン制度」が典型なのでしょうが、業務に正式に就く前の見習い研修生のようなものではないでしょうか?
 ですが、ベンは、ATFに今後正式に採用されることを見越してインターンに選ばれたようには見えない感じがします。
 ベンは、以前電話帳を作成する会社に勤務していた高齢者というわけですから、時代の最先端を行く企業であるATFの業務にはとても付いていけそうもありません。そんなベンを正式採用するとしたら、インターン期間中に会社の業務を身につけることができるような教育プログラムがあってしかるべきです。
 でも、この「シニア・インターン・プログラム」を担当する者は、いとも簡単に彼をジュールズの直接の配属にして、あとは放ったらかしにするだけです(注5)。
 これでは、“インターン”とされていても、ベンは単に、ジュールズの世話係、それも無給のアルバイト(注6)にすぎないのではないでしょうか(注7)?

 それに、邦題の「マイ・インターン」ですが、いったい誰にとっての「マイ」なのでしょうか?
 インターンになるのがベンなのですから、“ベンの”ということではないでしょう。
 としたら、“ジュールズの”ということになるのでしょうが、でも、この映画がW主役だとしても、中心になるのはあくまでもベンであって(注8)、冒頭も、ベンの語りから始まっているのですから、そうだとしたら、なんだか座りがとても悪い気がします(注9)。

 でも、それらはどうでもいいことでしょう。
 本作は、ジュールズが会社のフロアを自転車で移動する場面が描かれるなど(注10)、現実世界ではありえないようなファンタジーの世界を描いた現代お伽話なのでしょうから(注11)。

 そう思ってみると、ベンが70歳にもかかわらず、パティに誘われたり、すぐにATFの専属マッサージ師・フィオナレネ・ルッソ)と親密になったりするなど、ありえないほど魅力的に描かれていても、またジュールズに扮するアン・ハサウェイが相変わらずの美貌で、その上に「セリーヌ、サンローラン、ヴァレンティノ、エルメス、そしてパリのデザイナー、セドリック・シャルリエの作品をたくさん使った」ものを身に付けてアチコチ飛び回っていても(注12)、何であっても許してしまいます(注13)。

 ただ、せっかくのファンタジーなのですから、もう少し目を引くような出来事が描かれていてもいいのかなとは思いましたが(注14)。

(3)渡まち子氏は、「ナンシー・マイヤーズ監督らしい女性応援ムービーだが、恋愛要素より友情を全面に出したことでさわやかな作品に仕上がった」として65点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「見た目がお洒落(しゃれ)な変形版ビジネス書?愉快で役に立ちそうなのがなにより」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「高齢化時代の生きがい探し、女性の社会進出などの同時代的トピックを盛り込み、新しい役割分担を迫られる老若男女を描いているが、人間関係の中身は結構古風。働く女の葛藤のドラマも薄味だ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『恋愛適齢期』や『ホリディ』(この拙エントリの「注4」を参照)、『恋するベーカリー』のナンシー・マイヤーズ

(注2)出演者の内、最近では、ロバート・デ・ニーロは『アメリカン・ハッスル』、アン・ハサウェイは『ブルックリンの恋人たち』で、それぞれ見ました。

(注3)会社の役員であるキャメロンアンドリュー・ラネルズ)の発案によっているようです。ただ彼は、ジュールズに事前に了解を取り付けたと言いますが、彼女の方では、聞いていないと反論します。

(注4)本作の公式サイトの「プロダクション・ノート」においてナンシー・マイヤーズ監督は、「年配の男性が創業間もない会社でインターン(見習い社員)になるというアイデアを思いついた」と述べています。

(注5)元々、こんな若い会社に、高齢者の教育係が務まる社員がいるとはとても思えませんし。

(注6)この記事を参照。

(注7)ゴミが山積みになった机をベンが早朝出勤して片付けると、気にしながらも社員に片付けを言い出せなかったジュールズが酷く喜ぶシーンがあります。ただ、それくらいでいいのなら、ベンは、有り体に言えば、昔の小学校によくいたとされる“小使いさん”(それも無給の)的な存在のようにも見えてきます。

(注8)例えば、女性限定試写イベントについてのこうした記事があるように、日本ではアン・ハサウェイが演じるジュールズにもっぱら焦点が集められている感じがしますが。

(注9)それに、ベンはあくまでもATFという会社のインターンであって、ジュールズが個人的に契約している者ではないはずです。

(注10)ローラースケートに乗って会社の中で書類を配るアルバイトといったことなら分からないではありませんが。



(注11)この拙エントリの(1)でも「現代のお伽話」と申し上げました。
 ただ、ファンタジーにしては、ベンが運転する車の中でジュールズが大イビキをかいてしまうというとんでもないシーンが描かれていましたが〔元々、イビキは治療によって治るとされていますし、あんな大イビキなら、夫のマットはスグにも逃げ出してしまうのではないでしょうか?〕!

(注12)上記「注4」で触れた「プロダクション・ノート」において、衣裳担当のジャクリーン・デメテリオが述べています。

(注13)さらに言えば、ベンが、70歳以上であるにもかかわらず自動車運転の「高齢者講習」を受けているようには見えないとしても(!?)。

(注14)映画の中で起きる出来事といえば、ジュールズの夫・マット(専業主夫:アンダーズ・ホーム)の浮気ぐらいで、これも最後はジュールズが許してしまうのです。
 ただ、この点も、ラストを次のように解釈すればいいのかもしれませんが。
 ラストでは、本作の冒頭のシーンと同じように、ベンは太極拳をしています。そこに、ジュールズがやってきて「いい知らせが」と言います。
 これは、休暇をとって太極拳をしているベンのところに、「CEOの招聘を止める」とジュールズが言いに来ただけのことかもしれません。
 ですが、ベンが太極拳をしていたのは、インターンの期間が終了して元の生活に戻ったことを意味し、ジュールズはベンに「会社のCEOに就任してほしい」と言いに来たのだ、と解釈できないでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:マイ・インターン


メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮

2015年11月06日 | 洋画(15年)
 『メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)シリーズ第1作目の『メイズ・ランナー』をDVDで見て面白かったので(注1)、第2作目もと思って映画館に行ってきました。

 本作(注2)の最初の方では(注3)、巨大迷路から脱出したトーマスディラン・オブライエン)らが、「クランクが来るぞ、ここは危ない」と叫ぶ兵士らによってヘリコプターに乗せられて(注4)、巨大な施設に連れていかれます。
 そのドアが開くと男(エイダン・ギレン)が待ち構えていて、「クランクが来て騒がしかった。我々は君らの命を救った者だ。私はジャンソン」、「ここは外の世界から遮断された場所で、聖域だ。WCKD(注5)は絶対に来ない」と言います。
 トーマスが、「なぜ救ける?」と尋ねると、ジャンソンは、「君らは追われる身。この扉は、新しい人生への入り口だ」と答えます。

 トーマスらは、迷路を脱出する際に付いた臭いを落とすためにシャワーを浴び、さらに栄養素が入っている注射を受けます。

 次いで、トーマスはジャンソンに呼ばれて質問を受けます。



 ジャンソンが「よく来てくれた。2人きりで話がしたい。質問は一つだ。WCKDの記憶はあるのか?君はどちらの側なのか?」と訊くと、トーマスは、「僕はWCKDで働いていたが、迷路に送り込まれた。仲間が次々と死んだ。僕は仲間の側だ」と答えます。

 トーマスらは他の仲間のところに連れて行かれます。
 そこには大勢の若者がいて、ミンホーキー・ホン・リー)は「迷路は一つじゃなかったんだ」と言います。
 トーマスはガラス越しにテレサカヤ・スコデラリオ)を見つけて走り寄ろうとしますが、なぜか兵士によって阻止されます。
 そればかりか、若者の一人エリスジェイコブ・ロフランド)に密かに導かれ排気口のトンネルを伝って行った先の別の部屋に、トーマスは大変なものを見てしまいます。
 さあ、それはどんなものでしょうか、ジャンソンらの組織は一体何なんでしょうか、トーマスらをこれから待ち受けている運命はいかなるものなでしょうか、………?

 まあ、本作では、基本的にスリルに満ちた追っかけごっこが描かれているのですから、最後までまずまず面白く見ることが出来ます。でも、本作には、第1作目で見る者を圧倒した“迷路”はどこにも出てきませんし、主人公たちを追い詰めるのはもっぱらゾンビというのでは、『ワールド・ウォーZ』などのゾンビ映画とどこが違うのか、という感じにもなってしまいます。

(2)本作では、迷路から脱出してきた若者たちを保護したジャンソンの組織もまたWCKDとつながっていて、WCKDが全体で何を企んでいるのかがおぼろげながら明らかとなります(注6)。
 それが分かったトーマスらは、このままでいるとWCKDによって殺されてしまうと考え、慌ててそこから逃げ出します。



 ところが、逃げ出した先には荒涼とした砂漠が広がっています。
 あるいは、この灼熱の砂漠こそが“迷路”(あるいは「迷宮」)なのかもしれません。
 でも、遠くの方に山が見え、ともかくもそこに行ってみようということになるのです(注7)。それでは、いくら砂漠の横断が難行苦行だとしても、とにかく向かう方向がはっきりしていて、とても迷路とは言えないように思います(注8)。

 また、若者らが、砂漠を歩いている最中に建物の中に飛び込むと、そこに待ち受けていたのはクランクと呼ばれるゾンビたちなのです。
 彼らは、フレアに感染してゾンビ状態になってしまったのですが、このクランクは、通常のゾンビとは異なって、ものすごい速度で若者らを追跡するのです。
 こうした点や(注9)、さらには、治療薬を探しだそうとしている点で(注10)、本作は『ワールド・ウォーZ』とよく似ている感じがしてしまいます。

 第3作は2017年2月にアメリカで公開されるとのこと(例えば、この記事)。
 第1作と第2作との公開日の間隔(5カ月)と比べると異常に長い気がします。まだまだ謎の部分がいろいろ残されていて、それがどう解明されるのか知りたいところではあるものの、そんなに長く待てませんし、本作の内容からしても、第3作はDVDで見ればいいのかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「仲間を奪われてついに戦う決心をした主人公トーマスの運命も含めて、怒涛の展開と謎解きが待つであろう最終章への期待は大いに高まった」として60点をつけています。



(注1)第1作目では、理由がはっきり明示されないまま、若者が何人も一箇所に閉じ込められ、一部の若者の勇敢な行為によって、彼らを取り巻く巨大な迷路から脱出する様子がハイテンポで描かれていて、なかなか面白く見ることが出来ました。
 特に、若者たちの前に立ち塞がる巨大な迷路は、最近見た『進撃の巨人』で描かれる巨大な壁に類似しており、そこに出現するグリーバー(脚が鋼鉄製の蜘蛛のようなモンスター)も『進撃の巨人』における巨人のような感じがしたりして、興味深いものがありました。

 なお、トーマスらが巨大迷路の施設に閉じ込められた理由については、第1作目の最後の方で、その施設の責任者と称するペイジ博士(パトリシア・クラークソン:『人生万歳!』で見ました)が、次のようなことをトーマスらが見ている映像の中で話します。
 「太陽が地球を焼き尽くした。フレアと名づけられたウィルスが治療不能の病気を蔓延させ、人類は滅亡の淵に立たされた。しかし、フレアに侵されても死なない若者が現れた。そこで、その若者たちを厳しい環境のもとにおいて、なぜ死なないかの理由を探る実験が始まった」。

 その映像では、ペイジ博士は、そう述べた後にピストル自殺するのですが、第1作目のラストでは、同博士は生きていて、「生存者数が予想以上だったが、迷路実験は大成功。トーマスは期待以上の働きをした。今彼らはエサに食いついてくれた。これから実験は第2段階だ」と述べます。
 ただ、こう言われても何のことやらサッパリわかりません。若者がフレアで死なない理由を探るためにどうしてあのような巨大な迷路を作り上げる必要性があるのでしょうか?
 この点は、本作になっても依然として謎のままです。

(注2)監督は、第1作に引き続いてウェス・ボール
 原題は、「Maze Runner The Scorch Trials」。
 原作は、ジェイムズ・ダシュナー著『メイズ・ランナー2:砂漠の迷宮』(角川文庫:未読)。

(注3)冒頭では、トーマスの幼い頃の記憶なのでしょうか、吹雪の中鉄条網の内に集められている人々の間からトーマスが兵士によって連れだされて列車に乗せられるシーンが描かれますが、よくわかりません(母親らしい女性が、トーマスに「大丈夫よ」と言ったりします)。

(注4)第1作目の最後の方では、迷路から脱出した時、迷路の中の居住区(The Glade)にとどまっていたはずの反トーマス派のボスであるギャリーウィル・ポールター)が現れ、トーマスに銃口を向けます。ミンホの投げた槍でギャリーは死にますが、ギャリーが放った銃弾がチャックブレイク・クーパー)に命中しチャックも死んでしまいます。
 その時兵士が現れ、トーマスらを連れ出しヘリコプターに乗せて脱出させるのです。その際、兵士らはトーマスらに向かって、「みんな大丈夫か、心配ない、もう安心だ」、「リラックスしろ。これから全てが変わる」などと叫びます。
 ここのところと、第2作目の最初の方とが繋がります。

(注5)WCKDは「The World Catastrophe Killzone Department」の略とされますが(この記事によります)、実態のわからない謎の組織です。

(注6)上記「注1」を参照。
 本作のラスト近くでも大型ヘリに乗ってペイジ博士が現れ、同じようなことを述べます(「治療法を見つけなければならない」)。

(注7)若者らは、WCKDに対抗する集団のRA(ライト・アーム)がその山にいるらしいという情報を得て(エリスが、ジャンソンがそれらしいことを話していたと言います)、山の方に向かいます。

(注8)映画ポスターには「本当のメイズは、ここから始まる」とありますが、“本当に”そうでしょうか?

(注9)『ワールド・ウォーZ』に関する拙エントリの「注3」や「注5」で触れましたように、映画ライターの高橋諭治氏は、同作や本作で描かれているようなゾンビについて、「ウィルス感染者というれっきとした“生者”であり、一度死んで甦った(古典的な)ゾンビとは別物」であると述べています。さらに、こうした「21世紀型ゾンビ」は、「牧歌的なくらい動きがのっそりしていた」かつての「古典的なゾンビ」とも異なっている点を指摘しています。

(注10)『ワールド・ウォーZ』では、主人公(ブラッド・ピット)の活躍によってワクチンの作成が可能になったためにゾンビ対策が打てるようになります。これに対して、本作では、ペイジ博士のWCKDがフレア対策用の治療薬(血清?)を作ろうとしているようです。



★★★☆☆☆



象のロケット:メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮