アイスランド映画『ひつじ村の兄弟』を新宿武蔵野館で見ました。
(1)カンヌ国際映画祭「ある視点部門」でグランプリを獲得した作品というので、映画館に行ってきました。
本作(注1)の舞台は北アイスランド。
冒頭では、随分となだらかな山を背景にした牧草地をグミー(シグルヅル・シグルヨンソン)が歩いています。2頭の羊を見つけ、抱きついて、「ルリカよ、モット食べろ」と言います。
さらに、隣の牧場〔兄のキディー(テオドル・ユーリウソン)が管理しています〕との境にある柵を治したりしていると、隣の牧場の中に羊の死骸を見つけます。
そして、そのソバにいた1頭の羊を、グミーは抱え上げてキディーの家に届けます。
別の日でしょうか、グミーは、自分の羊のうちの1頭をバギーカーに乗せて家を出ます。
すると、隣の家のキディーのバギーも羊を乗せて出てきて、グミーを追い越します。
二人は、今年の羊の品評会に自分の自慢の羊を出そうというのです。
品評会の結果は、僅か0.5点の差でキディーの羊がグミーの羊をおさえて優勝します。
面白くないグミーは、皆が品評会の後のパーティーを楽しんでいる最中に、その会場を抜けだします。
というのも、キディーとグミーは兄弟とは言いながら、この40年間互いに反目しあっていたからです(注2)。
品評会の会場を去る際に、グミーは、優勝したキディーの羊を触ってみて「なんだか元気がないな」とつぶやきます。
そして、連れて戻った自分の羊をバスタブに入れて、ゴシゴシ洗います。
夜になると、グミーは、隣家のキディーの羊小屋に忍び込んで、優勝した羊の歯茎とか目を入念に調べます。
翌朝、グミーはトラクターに乗って近所の家に行き、そこの主人に「キディーの羊が病気にかかっている。スクレイピーだ。よりによって、優勝した羊が」と告げます。
スクレイピーにかかっているとなると、不治の伝染病ですから、この辺りで飼育されている羊を全て殺処分しなければなりません。
さあ、どうなるのでしょうか、………?
アイスランド映画は始めてながら、隣り合わせの牧場で羊を飼う兄弟を巡って描かれる本作では、長い年月にわたる兄弟間の確執が、恐ろしい伝染病に羊が感染してしまう事態を迎えて次第に変化していく様子が映し出され、なかなか興味深い作品になっています。それにしても、なだらかな山間に広がる牧場は広大で、実にゆったりとした印象を見る者に与えるものの、冬の吹雪となるとそのすさまじさは想像を絶し、アイスランドの地理上の位置というものに思いを致させます。
(2)グミーとキディーの確執の原因が何なのか本作では描かれていませんが(注3)、低い山が連なるあまり変化のないベッタリとした風景を見ていると、それが40年も続いてしまったのも分かるような気がしてきます。
加えて、兄弟はどちらも結婚はしておらず、更には家政婦も雇っていませんから、仲を取り持つ人が誰も見当たらないことになります(注4)。
でも、完全に関係が途切れてしまっているわけでもなさそうで、グミーは、それとなくキディーに気を使ったりします(注5)。
キディーも、自分の羊がスクレイピーにかかったのはグミーのせいだとして(注6)、グミーの家に銃弾をぶち込んだりするものの、ギミーの地下室に隠されているものを発見した時は、自分と同じ思いを弟がしていると悟り、二人の間の確執が解けていくのです。
ここらあたりの描き方が本作の優れているところではないかなと思いました。
それに、本作にはユーモアも見受けられます(注7)。
アイスランドの片田舎という地域性に依存した作品ながらも、かなりの普遍性を同時に備えたものになっていると思いました(注8)。
ただ、せっかくのアイスランド映画ですから(注9)、若い女性として獣医のカトリン(シャルロッテ・ボーヴィング)が少々登場するだけというのは寂しい気がしました。
(3)『週刊文春』掲載の「シネマチャート」では、例えば、森直人氏は、「牧歌的どころかハードコアな抉り方に驚く。酪農の現実問題と共に、密着性の高い辺境の人間関係に迫る。後半は圧巻だ」として★4つをつけています。
遠山清一氏は、「作品冒頭の牧歌的な情景の中で不仲な二人が、ひつじたちに気を配る姿から悲惨な出来事をとおして命を懸けた和解を示唆していくストーリー展開に希望への光と温もりを感じさせられる」と述べています。
(注1)監督・脚本は、アイスランドのグリームル・ハゥコーナルソン。
原題は「Hrútar」(英題は「RAMS」)。
(注2)風貌からすると、二人とも65歳以上の老齢者のように見えます。
(注3)グミーの話によれば、父親が兄の相続を認めなかったために、キディーの管理する土地の所有権はグミーが持っているとのこと。そんなことからすると、遺産相続に絡んで確執が生じたのかもしれません。
(注4)ギリギリで連絡をする必要がある場合には、キディーが飼っている犬が手紙などを相手に届けています。
(注5)キディーが酒を飲み過ぎてグミーの家の前で倒れこんでしまった時には、グミーは、キディーを家の中に入れて、服を脱がせてソファーに寝かせ、その上に毛布をかけてやったりします。
(注6)どうやら、自分の羊がキディーの羊に負けたのを妬んで要らぬ告げ口をグミーがしたんだと、キディーは考えたようです。
(注7)例えば、上記「注4」の時とは別に、キディーが酒を飲み過ぎて家のソバの雪の上で倒れこんでしまっているのを発見したグミーは、ショベルカーを持ち出してきて、そのアームの先端に取り付けたバケットの中にキディーを入れ込むと、そのままショベルカーを動かして街の病院の玄関先まで行き、そこにキディーを置いたまま、再び自分の家に戻ってきてしまいます。
(注8)といって、国境を接する2つの国の間のいがみ合いまでもこの映画から読み取っていく必要性もないように思われます。
(注9)何しろ、アイスランドで知っていたのは、地熱発電と金融危機ぐらいなのですから。
★★★☆☆☆
象のロケット:ひつじ村の兄弟
(1)カンヌ国際映画祭「ある視点部門」でグランプリを獲得した作品というので、映画館に行ってきました。
本作(注1)の舞台は北アイスランド。
冒頭では、随分となだらかな山を背景にした牧草地をグミー(シグルヅル・シグルヨンソン)が歩いています。2頭の羊を見つけ、抱きついて、「ルリカよ、モット食べろ」と言います。
さらに、隣の牧場〔兄のキディー(テオドル・ユーリウソン)が管理しています〕との境にある柵を治したりしていると、隣の牧場の中に羊の死骸を見つけます。
そして、そのソバにいた1頭の羊を、グミーは抱え上げてキディーの家に届けます。
別の日でしょうか、グミーは、自分の羊のうちの1頭をバギーカーに乗せて家を出ます。
すると、隣の家のキディーのバギーも羊を乗せて出てきて、グミーを追い越します。
二人は、今年の羊の品評会に自分の自慢の羊を出そうというのです。
品評会の結果は、僅か0.5点の差でキディーの羊がグミーの羊をおさえて優勝します。
面白くないグミーは、皆が品評会の後のパーティーを楽しんでいる最中に、その会場を抜けだします。
というのも、キディーとグミーは兄弟とは言いながら、この40年間互いに反目しあっていたからです(注2)。
品評会の会場を去る際に、グミーは、優勝したキディーの羊を触ってみて「なんだか元気がないな」とつぶやきます。
そして、連れて戻った自分の羊をバスタブに入れて、ゴシゴシ洗います。
夜になると、グミーは、隣家のキディーの羊小屋に忍び込んで、優勝した羊の歯茎とか目を入念に調べます。
翌朝、グミーはトラクターに乗って近所の家に行き、そこの主人に「キディーの羊が病気にかかっている。スクレイピーだ。よりによって、優勝した羊が」と告げます。
スクレイピーにかかっているとなると、不治の伝染病ですから、この辺りで飼育されている羊を全て殺処分しなければなりません。
さあ、どうなるのでしょうか、………?
アイスランド映画は始めてながら、隣り合わせの牧場で羊を飼う兄弟を巡って描かれる本作では、長い年月にわたる兄弟間の確執が、恐ろしい伝染病に羊が感染してしまう事態を迎えて次第に変化していく様子が映し出され、なかなか興味深い作品になっています。それにしても、なだらかな山間に広がる牧場は広大で、実にゆったりとした印象を見る者に与えるものの、冬の吹雪となるとそのすさまじさは想像を絶し、アイスランドの地理上の位置というものに思いを致させます。
(2)グミーとキディーの確執の原因が何なのか本作では描かれていませんが(注3)、低い山が連なるあまり変化のないベッタリとした風景を見ていると、それが40年も続いてしまったのも分かるような気がしてきます。
加えて、兄弟はどちらも結婚はしておらず、更には家政婦も雇っていませんから、仲を取り持つ人が誰も見当たらないことになります(注4)。
でも、完全に関係が途切れてしまっているわけでもなさそうで、グミーは、それとなくキディーに気を使ったりします(注5)。
キディーも、自分の羊がスクレイピーにかかったのはグミーのせいだとして(注6)、グミーの家に銃弾をぶち込んだりするものの、ギミーの地下室に隠されているものを発見した時は、自分と同じ思いを弟がしていると悟り、二人の間の確執が解けていくのです。
ここらあたりの描き方が本作の優れているところではないかなと思いました。
それに、本作にはユーモアも見受けられます(注7)。
アイスランドの片田舎という地域性に依存した作品ながらも、かなりの普遍性を同時に備えたものになっていると思いました(注8)。
ただ、せっかくのアイスランド映画ですから(注9)、若い女性として獣医のカトリン(シャルロッテ・ボーヴィング)が少々登場するだけというのは寂しい気がしました。
(3)『週刊文春』掲載の「シネマチャート」では、例えば、森直人氏は、「牧歌的どころかハードコアな抉り方に驚く。酪農の現実問題と共に、密着性の高い辺境の人間関係に迫る。後半は圧巻だ」として★4つをつけています。
遠山清一氏は、「作品冒頭の牧歌的な情景の中で不仲な二人が、ひつじたちに気を配る姿から悲惨な出来事をとおして命を懸けた和解を示唆していくストーリー展開に希望への光と温もりを感じさせられる」と述べています。
(注1)監督・脚本は、アイスランドのグリームル・ハゥコーナルソン。
原題は「Hrútar」(英題は「RAMS」)。
(注2)風貌からすると、二人とも65歳以上の老齢者のように見えます。
(注3)グミーの話によれば、父親が兄の相続を認めなかったために、キディーの管理する土地の所有権はグミーが持っているとのこと。そんなことからすると、遺産相続に絡んで確執が生じたのかもしれません。
(注4)ギリギリで連絡をする必要がある場合には、キディーが飼っている犬が手紙などを相手に届けています。
(注5)キディーが酒を飲み過ぎてグミーの家の前で倒れこんでしまった時には、グミーは、キディーを家の中に入れて、服を脱がせてソファーに寝かせ、その上に毛布をかけてやったりします。
(注6)どうやら、自分の羊がキディーの羊に負けたのを妬んで要らぬ告げ口をグミーがしたんだと、キディーは考えたようです。
(注7)例えば、上記「注4」の時とは別に、キディーが酒を飲み過ぎて家のソバの雪の上で倒れこんでしまっているのを発見したグミーは、ショベルカーを持ち出してきて、そのアームの先端に取り付けたバケットの中にキディーを入れ込むと、そのままショベルカーを動かして街の病院の玄関先まで行き、そこにキディーを置いたまま、再び自分の家に戻ってきてしまいます。
(注8)といって、国境を接する2つの国の間のいがみ合いまでもこの映画から読み取っていく必要性もないように思われます。
(注9)何しろ、アイスランドで知っていたのは、地熱発電と金融危機ぐらいなのですから。
★★★☆☆☆
象のロケット:ひつじ村の兄弟