映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ヘヴンズ ストーリー

2010年11月28日 | 邦画(10年)
 近年稀に見る長さの映画だということに興味をひかれて、少し前になりますが、『ヘヴンズ ストーリー』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)長時間映画と言えば、クマネズミにとっては、『ユリイカ』(青山真治監督、2000年)の217分とか、『愛のむきだし』(園子温監督、2009年)の237分、『沈まぬ太陽』(若松節朗監督、2009年)の202分などですが、この映画はそれらをもはるかに超える278分の長さです。
 途中に休憩をはさむため、特段腰が痛くなることもなく見終わることができました。
 とはいえ、映画にずっと惹きつけられたから、というわけでもありません。見終わって感想を取りまとめようとしても、ばらばらな印象が頭に残っているだけで、とてもうまく書けそうにありません(マア印象が散漫になってしまう点が、長時間作品の問題点といえばいえるかもしれないとはいえ、単なる言い訳にしかならないでしょう)。
 以下は、備忘録的に思いついたことだけを簡単に書いておこうと思います。

 この映画でクマネズミが興味を惹かれた話は、3つあります。
 一つ目は、祖父の家に行っている間に家族を殺されて孤児になってしまった少女・サト寉岡萌希)の話。



 二つ目は、警察官でありながら、副業として、依頼によって見ず知らずの他人を殺してしまう復讐代行男・カイジマ村上淳)の話。
 三つ目は、刑務所から出所した男・ミツオ忍成修吾)と若年性認知症の女・恭子山崎ハコ)の話。



 これらを全体として統合する役目を与えられているのが、最初と真ん中と最後に描かれる人形による踊りでしょう。

 これだけですと、これら3つの話は、それぞれ独立しているようにみえるでしょう。
 ですが、お互いに相当入り組んだ関係が設定されているのです(なにより、これらの話は、それぞれが独立して描かれているのではありません)。
 ただ、二つ目の話は、現実性が乏しく感情移入しにくいものながら、それだけでまとまっているようにも見えます。動物園でカイジマが男を射殺する話は、他の物語と何も関係しませんし、とりわけ、この二つ目の物語には佐藤浩市が登場しますから、何か彼がはかばかしい活躍をして映画全体の中心になるのかなと思いきや、さんざんカイジマをてこずらせはするものの、最後はいともアッサリと射殺されてしまうのです。
 とはいえ、この佐藤浩一が殺される場所は、閉山となって見捨てられた社宅アパートの屋上なのですが、ここは三番目の話において、重要な舞台となるのです。
 また、一つ目の話の末尾で、港から出て行く船をサトが見送りますが、そこにはカイジマの愛人が現れ、あろうことか殺されたはずのカイジマまでも出現するのです!というのも、港でサトが見送っているのは、カイジマの一人息子なのですから。
 という具合に、二つ目の話も、他の話とレベルは低いものの有機的につながっています。

 とすれば、一つ目の話と三つ目の話のつながりは、もっと強いはずと簡単に推測できましょう。なんといっても、一つ目の話に登場する男・トモキ長谷川朝晴)が、サトの唆しによって、平和な暮らしを投げうち、ついには刑務所から出所した男・ミツオを殺そうとし、結局は両者とも死ぬ破目になるのですから。
 それも、トモキが若年性認知症の女を殺したからという理由で。



 特に、なぜサトがトモキをそそのかすと言えば、同じように家族を殺されたトモキが、記者会見の席で、18歳であるために無期懲役になった犯人の少年を“絶対に殺してやる”と明言していたにもかかわらず、暫くしたら別の女性と家庭を営んでいたからです。
 どうやら、サトの生き甲斐は、トモキがミツオを殺す事にあったかのようです(というのも、サトの家族を殺した犯人はすぐに自殺してしまっていたので、復讐しようにも不可能だったからです)。

 こうみてくると、この映画は、3つの話から構成されていると言っても、お互いに有機的に絡み合っていて、その絡みの始まりの始まりが、サトの家族が理由もなく殺されてしまったことにあるだろうことがわかってきます。
 としたら、一方でその事件の関係者が皆死んだりして片がついてしまい、他方で新しく子供も生まれ、全体としては、これでひとまず決着したのかと思ったところ、最後の人形の踊りからは、まだ決して何も終わってはいないという厳しい事態のようにも見えてきます。
 等身大の人形を背後で操っていた人間が、サトの殺された家族であることが露わになるものの、サトが、その両親たちと一緒に再会を喜んでも、続いて彼らの世界に入ろうとすると、かたくなに拒まれ、彼らは自分たちの世界に舞い戻ってしまうのです。

 こういった作品から、家族の崩壊と再生、さらには死と生などというように、何か統一的なメッセージを掴みだそうとしても、仕方がないのではと思います。むしろそんな風にまとめてしまったら、わざわざ278分もの長い時間、この映画に付き合ったことの意味が消えてしまうのではないでしょうか?むしろ、『愛のむきだし』でもそうですが、このまま放っておいて、別の映画を見た折になど、そう言えばこれはあの場面に通じるところがあるな、あの場面が意味するところはあるいはこんなことかもしれない、などと思い返すことの方に価値があるのではないかと思います(言うまでもなく、メッセージを抽出できないことの言い訳、開き直りです)。

(2)この長い映画を見ながら、なんとなくではありますが、冒頭で触れました『ユリイカ』を思い出してしまいました。



 極めて大雑把ながら、類似する点をいくつか感じるからです。例えば、
・両作品とも、現実に起きた事件が物語の発端に置かれています。『ユリイカ』が、西鉄バスジャック事件(2000年5月)を下敷きにしているのに対応して(注1)、『ヘヴンズ ストーリー』は光市母子殺害事件(1999年4月)を下敷きにしているようです(ただ、サトの家族が殺される事件ではなく、トモキの家族がミツオによって殺される方ですが)。
・両作品とも、冒頭の殺人事件の後も、物語が展開するに従って、次々と人が殺されていきます。『ユリイカ』では、主人公達の周囲で次々に連続殺人事件が起きますし、『ヘヴンズ ストーリー』でも、殺人請負人・カイジマまで登場します!
・両作品とも、少女が大きな役割を果たします。『ユリイカ』では田村梢(宮崎あおい)、『ヘヴンズ ストーリー』ではサト(寉岡萌希)。
・両作品とも自然の描写が印象的です。『ユリイカ』では、ラストで、阿蘇の大観峰が、空中からの撮影で実に雄大に捉えられていますし、『ヘヴンズ ストーリー』でも、岩手の松尾鉱山跡の廃墟については、雪と緑の時期との2度にわたって広大な景色が描き出されています。

 単なる印象に過ぎませんが、『ユリイカ』は、酷い事件に巻き込まれた運転手(役所広司)や兄妹(宮崎将と宮崎あおい)らが、なんとかして被った傷から立ち直ろうとする様子が詳細に描き出されていますが、他方『ヘヴンズ ストーリー』では、サトにそそのかされたトモキはミツオ共々死んでしまいますし、ラスト近くでカイジマが資金援助していた女に子どもが産まれるという明るい面はあるものの、未来に希望が見えるわけにはいかない感じです。
 これも、酷く大づかみに言えば、それぞれの映画が制作された時代の差と言いうるのかもしれません。

 以上のことから、酷く個人的な感想になってしまいますが、この『ヘヴンズ ストーリー』は、大好きな『ユリイカ』を10年後に瀬々敬久監督(注2)が渾身の力で解釈し直した作品とも考えられ、仮にソウだとすれば(そうでなくとも)、クマネズミは酷く興味を惹かれ、高く評価したくなってしまいます!


(注1)実際には、下記のコメントで指摘されているように、映画『ユリイカ』の公開は2000年1月でした。クマネズミは、なぜか逆に思い込んでいたようです。

(注2)瀬々敬久監督の作品レビューについては、2011年1月12日の記事をご覧ください。


(3)この映画の公式サイトには評論家等のレビューが掲載されています。
 秦早穂子氏は、「題名の<ヘヴン>は既存の宗教と同意義ではないが、死者は生きる者を見守り、生者は死んだ人を思う。再会の場としての共通点はあろう。復讐を超え、肉親の死を受け入れるサト18歳。成長し、初めて前を見る。決して、決して、すぐの答えなどないが、これからが出発。独自の世界観に、深い暗示がある」と述べています(10月6日朝日新聞)。
 恩田泰子氏は、「瀬々監督は、これまでにも現実に着想を得て、殺し、殺される者たちを描いてきた。今回は、楽園からこぼれ落ちてしまった人間たちの愛と憎しみの物語を重層的に描くことで、誰もが殺人事件の当事者になるやもしれぬ理不尽な私たちの世界を丸ごととらえてみせる。ただ、絶望では終わらない。地べたをはいずり回った後、女たちはもう一度生をつないでいく。そして、作品は普遍性を獲得する」と述べています(10月1日 読売新聞)。


★★★★☆


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裁判長!ここは懲役4年でどうすか

2010年11月27日 | 邦画(10年)
 渋谷のヒューマントラストシネマで、『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』を見てきました。

(1)まず登場した女性映画プロデューサーが、「愛と感動」のテーマでヒットを狙うのであれば法廷物だ、特に今は裁判員制度が始まったばかりだから時期も良し、と述べ、主人公の放送作家・南波タモツ(バナナマンの設楽統)に、脚本作成に必要な取材のために裁判を見学することを命じます。
 南波にとって、裁判所見学は初めてながら、傍聴マニアと知合いになったりして、次第に裁判傍聴が楽しみになっていきます。
 しかし傍聴するだけではつまらないと思っていると、知り合いになった傍聴マニアから、自分たちでも裁判に何かしらの影響力を持つことができる、と言われます。
 そこで、冤罪ではと思われていて裁判所の外でも抗議活動が起きている放火魔事件についての裁判で、逆転無罪を勝ち取ろうと、南波は大わらわで取り組みます。たとえば、担当の弁護士(堀部圭亮)にもっと派手なパフォーマンスをしたらどうかなどのアドバイスをしたり(匿名の手段を使って)、母親を亡くしたばかりの担当裁判官の心情に訴える手に出たりします(被告の母親に冤罪を訴えるチラシを裁判所の前で配らせます)。
 はたしてその結果は、……。

 この映画では、映画と同タイトルの原作(北尾トロ著)と同様、様々なエピソードが次から次へと描き出されます。ただ、そのままでは作品としての統一感がなくなってしまいます。そこで、物事がとんとん拍子にうまい具合に進行すると、最後の方になって反対方向に逆転してしまう、そういったエピソードに主たる焦点をあてることで滑稽感を作り出し、合わせて、作品に山場を作り出したり、まとまりをつけようとしているように思われます。
 まずは、上記の放火魔事件の裁判が、この映画の山場と言えるでしょう。こんなに八方手を尽くしたのだから無罪判決間違いなしと南波らが固唾を呑んで見守っていたところ、これまで無実を主張していた被告人が、裁判冒頭で、なんと事件は自分がやりましたと大告白をしてしまって、それまでの努力も水の泡になってしまうのですから。
 さらに、こうした様々の出来事をもとにして、南波は脚本を書き上げようとするわけですが、最後になって、南波に脚本を依頼した女性プロデューサー自身が警察に捕まって留置場入りしてしまう、というこれまた逆転が起きます。このエピソードは映画の最初と最後に分割して置かれていますから、この映画全体を一つの作品にまとめる役目を果たしているのでしょう。
 ただ、こんなに何度も梯子を外されてしまうと、見ている方はあざとさを感じて白けてしまい、笑うどころではなくなってくるのではないでしょうか?

 全体として、自分の目で実際の裁判を見たことがない人がまだまだ多い現状では、こうした映画も啓蒙的な意味合いがあるのかもしれませんが、作品の出来栄えとしては今一かなと思ったところです。

 なお、この映画の原作が出版されたのが2003年ですから、映画化されるまでに7年もかかっています。こうなったのも、おそらく昨年5月から導入された裁判員制度を見越してのことではないかと思われます。
 ですが、この映画では、裁判員制度のことがほどんど取り扱われていません。むろん、元の原作が裁判員制度導入以前に起きた事件を取り上げていることにもよっているでしょう。でも、そんなことはいくらでも作りかえることは可能だと思われます(注1)。
 そんなこんなしているうちに、今月の17日には、この裁判員制度の下で初の死刑判決が出てしまったわけですから、映画自体が時代に取り残されてしまっていると言えるのではないでしょうか?

 主演の設楽統は、映画初主演ながら、傍聴マニアという至極地味な役柄(実際には、裁判所の傍聴席で座っているだけのことですから)をうまくこなしているのではと思いました。
 相手役となるはずの片瀬那奈は、ばりばりの美人検事という役柄のためか(注2)、あまりうまく設楽統と絡んではいないものの、これからが期待されるでしょう。

(2)裁判を取り扱った映画は数多くありますが、最近の邦画では『それでもボクはやってない』(2007年)が印象に残ります。ただ、これは専ら被告人に焦点を合わせています。また、見てはおりませんが、『BOX 袴田事件 命とは』(2010年)は、裁判官を取り上げているようです。
 ですから、今回の映画のように傍聴人を取り上げている映画は、これまで殆ど制作されていないのではないでしょうか〔ただ、『ぐるりのこと』(2008年)では、リリー・フランキー扮する夫が法廷画家の職を友人から引き継いで、裁判を傍聴する話になっていて、興味を惹かれました〕?
 なお、先月の23日にNHKTVで放映された『手のひらのメモ』は、裁判員になって裁判に臨んだ主人公(田中好子)に焦点を当てた作品でした(注3)。

(3)映画評論家の方では、渡まち子氏は、「法廷や裁判という極めて硬いモチーフを、ユーモラスな語り口で描いた社会派コメディーで、映画の内外で、裁判をネタに映画の脚本を作ろうとする発想が面白い」、「本作のスピリットは、法と裁判を笑い飛ばすブラックな精神」として50点を与えています。
 また、粉川哲夫氏は、「エピソード的に挿入される法廷シーンも、手抜きがない。映画の法廷シーンや留置場・刑務所・面会室などのシーンには、いいかげんなものが多いが、この映画はまあまあ事実通りに撮っている。設楽統を主役にしたのは、グッド・チョイスだった。彼は、笑えるけれどどこか淋しくなさけない男を天才的に演じる才能を持っているからだ」、「しかし、北尾の原作が持っている毒を蛍雪次朗演じる西村とその仲間にだけまかせてしまうのは、安直すぎるだろう」云々と述べています。


(注1)残念ながら見てはおりませんが、映画の原作(むしろ漫画の方でしょうか)を基にして作られたTVドラマ(昨年後半10回にわたり放映)では、向井理の主人公が裁判員に選ばれる回もあったようです。
(注2)上記注のTVドラマでは、定型通り、検事を目指している美和という女性を配して主人公とうまく絡ませているようです。
(注3)TVドラマ『手のひらのメモ』は、夏樹静子の原作を基にしていて、喘息持ちの子供を死なせてしまった母親の裁判で裁判員になった専業主婦の物語です。主演の田中好子は久しぶりで見ましたが、自分の家庭に反抗期の子供を抱えながら裁判員を務める主婦を好演していて、良いドラマに仕上がっていたと思います。



★★★☆☆


象のロケット:裁判長!ここは懲役4年でどうすか

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ゴッホについて若干のこと

2010年11月24日 | 美術(10年)
 日本におけるゴッホの人気は昔から途轍もなく高いわけですが、1987年3月に安田火災海上が3992万1750ドル(当時のレートで約58億円)で『ひまわり』(上記の画像)を購入した頃が一つのピークだったのかもしれません。
 ですが、これだけ人気者になると、ゴッホ研究書は汗牛充棟の感があるところ、愛知県立芸術大学教授の小林英樹氏は、その著『ゴッホの復活』(情報センター出版局〔2007年〕)において、あろうことかこの東京にある『ひまわり』は贋作であると強く主張しています。




 さて、ブログ「はじぱりlite!」の10月3日の記事によれば、ブログ管理人のtrippingdog氏は、「ゴッホが死の間際に逗留していた街」であるオーベール=シュル=オワーズ(注1)を訪れたとのこと。
 そのブログの中で、trippingdog氏は、ゴッホ作『オーベールの教会』などについて、自分で撮影した写真をも掲げながら、次のように述べています。





 「こうして実際の風景を見てみて思うのは、画家たちが、目に映る風景を、かなり凝縮して画布に描いているということです。ゴッホの教会も、セザンヌの首吊りの家も、まるでそこだけ他とは違う重力が奥に向かって働いているかのような、あるいは、建物が、狭い穴を無理やりこじ開けて出現してきたかのような、そんな印象を受けます。/それはきっと、画家の風景に対する集中というか、没入の力強さでもあり、また同時に、彼らに対する風景の存在感というか、切迫の力強さでもあるのでしょう。彼らは、ただ事物が「ある」ということを、まるで異世界の出現といったような、途轍もない出来事として受け取っているかのようです。」

 ゴッホが見た風景をゴッホと同じように率直に見ることのできた者が持つことのできるリアルな感慨が書きとめられている、と思われるところです。

 他方で、冒頭に記した小林英樹教授は、その著書において、次のように述べています。
 「『オーヴェルの教会』は、自らを葬る前に地上に残した唯一の自叙伝であり、自ら葛藤する姿をそのまま象徴するかたちで刻んだ、最後の記念碑でもあ」り、「『オーヴェルの教会』にあるのは、一通り行うべきことを行い、見るべきものは見てきた者の静かな述懐である」(P.327)。

 大変精神性に富んだ優れた見解だと思われます。
 ただ、こうした見解は、ゴッホがこの絵を描いた後、それほど日を経ずに自ら命を絶ったという事情を予め踏まえた上でのものではないか、とも思えます。
 最近、文星芸術大学教授の小林利延氏は、ゴッホの死はいわれるような自殺ではなく、弟のテオが殺したのだとの驚くべき見解を出しています(『ゴッホは殺されたのか 伝説の情報操作』〔朝日新書 2008年〕)。
 こうした見解が正しいとされた場合にも、小林英樹教授はご自分の見解を果たしてそのまま維持されるのでしょうか、酷く疑問に思えるところです。

 そんなことはさておき、丁度今、東京では新国立美術館で「没後120年 ゴッホ展」が開催中(12月20日まで)であり、ゴッホの作品は70点近く展示されています(注2)。
 そんなに数が揃っているのなら、必ずや同展でもオーベール=シュル=オワーズでの作品を見ることが出来るに違いないと思って、六本木まで出かけてきました。
 確かに、会場は6つに分けられて、その最後は「Ⅵ さらなる探求と様式の展開―サン=レミとオーヴェール=シュル=オワーズ」と題されていますから、一層の期待が高まります(なにしろ、ゴッホは、オーベール=シュル=オワーズで過ごしたおよそ70日の間に、約70点もの油彩画を描いたとされますから!)。
 ですが、オーベール=シュル=オワーズにおける作品は、実際には、『ガシェ博士の肖像』と題するエッチング2点と、『麦の穂』という作品だけですから、酷く失望してしまいました。

 前者は、ゴッホが初めて試みたものながら、版画ですから増し刷りができ、約70枚が知られているそうです(不思議なことに、ゴッホとかオーベール=シュル=オワーズには、「70」という数字が絡みついているようです!)。



 後者の油彩画は、麦の穂が同じように繰り返し描かれていて、ゴッホには余り見かけない装飾的な感じがする作品です〔同じ年に描かれた肖像画の背景に、このイメージが使われているそうです〕。



 なお、同展では、ゴッホが所持していた豊原国周の『隅田川夜ノ渡シ之図』(1855年)が展示されていますが(注3)、これなどは先日の記事「セーヌと隅田」で取り上げた「隅田川展」で展示されていても全然オカシクない浮世絵です(ちなみに、同展では、同じ豊原国周筆の『両国大花火夕涼之景』〔1887年、井上探景が背景を描いています〕が展示されていました)。ことによったら、ゴッホという媒介項を通じて、セーヌ川と隅田川とが結びつくのかも知れません!



 また、最近、日本では、あのフランス映画『死刑台のエレベーター』のリメイク作が公開され、そのオリジナル作(1958年)についても関心が高まっているところ、驚いたことに、元の映画では、花屋の売り子ベロニックが住むアパートの部屋の壁にゴッホが描いた自画像(今回の東京の展覧会でも展示されている『灰色のフェルト帽の自画像』)の複製が貼ってあるのです!
 リメイク作において、北川景子の部屋の壁に何が貼ってあったのかは、DVDが出たら調べてみることにいたしましょう。



 ゴッホを巡る話のタネは、これからも尽きることがないように思われるところです。



(注1)Auvers-sur-Oise。パリの北30㎞、電車で約1時間のところにある町。
 なお、町名の表記は、Google地図やwikiでは「オーヴェル=シュル=オワーズ」。ただし、以下ではtrippingdog氏に従います。
(注2)しかたのないことですが、展示された作品にはスケッチなどが多く、めぼしい作品は、『自画像』とか『アルルの寝室』など10点に満たないでしょう。としたら、この間世田谷美術館で開催されていた展覧会「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール」(9月5日の記事の中で少しだけ触れました)では、ゴッホの作品としては『郵便配達人 ジョゼフ・ルーラン』がひとつだけ展示されていましたが、その方がむしろ強い印象を受けました。
(注3)掲載の画像は絵の一部。なお、ゴッホは400点を越える浮世絵を所有していたそうです。
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リミット

2010年11月21日 | 洋画(10年)
 予告編で見て面白そうだと思い、『リミット』を見に渋谷シネセゾンに行ってきました。

(1)物語は、イラクでトラック運転手をしていたポール・コンロイが、テロリストに誘拐されて、棺の中に押し込められ、砂漠に埋められたのですが、その棺の中でコンロイが目を覚ますところから始まります。
 といって、映像は一度もその外に出ることはなく、そこから終わりまで90分間、すべてこの棺の中のシーンなのです(「ワン・シチュエーション・スリラー」というようです)。
 ごく短い時間だけ携帯電話の画像に登場する女性はいますが、あくまでも登場人物はポール・コンロイただ一人。従ってキャストといっても、そのポール・コンロイに扮するライアン・レイノルズだけで、残りは声のみの登場です。
 こんな極端な設定の映画ですから、単調で退屈するかと思いきや、そこは様々の手を使って観客の興味をつないでいくので、90分間飽きることはありません。

 全体的な状況としては、誘拐犯の方は、コンロイを棺に閉じ込めておくことによって、逃亡を防ぐだけでなく、指示に従わないと砂の中に埋めてしまうという脅しをかけることができます。というのも、棺の中で確保されている空気の量には限りがあり、コンロイの方も悠長にしてはいられませんから。
 それに、室内に監禁する場合と比べて、砂の中に埋められた棺の中には、外界の物音がほとんど侵入してきませんから、おのずと誘拐犯の命令に集中することになってしまいます。

 より個別的な点では、誘拐犯は、棺の中に、携帯電話、ジッポーライター、ナイフ、ウイスキーの入った小さな容器、鉛筆、懐中電灯といった必要最小限のものを置いています。
 要するに、これらのものを駆使して、誘拐犯の要求を関係者に伝え、一定の時間までにそれを実現させろ、ということでしょう。
 そこで、コンロイはアチコチに電話をかけまくりますが、肝心の彼の妻はズット外出中だっりして、なかなか思うように行きません。
 一体全体、彼はうまく救出されるのでしょうか、……。

 なかなかうまい設定で、最後まで息が吐けません。
 ただ、これだけ同じ状況を長く見せられているとイロイロな疑問が浮かんできてしまいます(誰しも考えることに過ぎませんが)。
・携帯電話が十分通じる深さのところに埋められているわけで(数十センチとされています)、だとしたらナイフを使って棺の一部を壊して(粗末な板で作られた箱に過ぎなさそうですから)、そこを梃子にしてなんとか地上に脱出出来ないものでしょうか?
・特に、途中で、蛇が棺の中に入り込んできますが、コンロイはそれを外に追い払うことだけに夢中になってしまうところ、蛇が逃げ出した穴の先は、狭いにしても脱出口になるのではないでしょうか(蛇は自由に地上と行き来をしているはずでしょうから)?

 そして一番分からないのは、ラストのシーンです(ここからはネタバレになってしまいますのでご注意下さい)。
 携帯電話から発信される電波によって、コンロイの位置がアメリカの救出班の方で確認され、埋められている附近が空爆されます。
 ただ、その衝撃によって棺の一部が壊され、ドンドン砂が上から落ちてきて、コンロイは砂に埋まっていきます。
 こに、救出班から「今助ける」との連絡が入り、砂にかなり埋まってしまっているコンロイも、期待に胸をふくらませます。
 ですが、突然、「間違えた、マーク・ホワイトの棺だった、すまない」との連絡がコンロイに入って、それでおしまいなのです。

 クマネズミは、最初は、一大悲劇を見せられたという気分になり、その衝撃で声も出ませんでした。なにしろ、あれだけ棺の中で格闘したにもかかわらず、結局は生き埋めになってしまうのですから。
 また、クマネズミは、最初は、この映画は、人質救出のための訓練状況を描いたもので、最後になれば、“すべて訓練だった”という種明かしがなされるのでは、とタカを括っていました。
 ですから、コンロイが砂に埋まっていくのを見ていながら、酷く戸惑ってしまいました。

 ただ、暫くすると、「マーク・ホワイト」で誰だっけと思い直し、そう言えば、最初の頃、FBIが救出したことのある人質の名前として言われていたのではなかったか、と思い出します。
 そうだとすれば、何でこんなところにその名前が飛び出すのでしょうか?
救出班は、別の場所に埋められていた別の人物の棺を開けたということなのでしょうか?
 ですが、コンロイの携帯電話の電波から場所が特定されたとしたら、場所のズレはそれほどあるとは思えないところです(最新の技術では、数メートルの誤差では?)。
 また、マーク・ホワイトは既に救出されて大学に通っていることになっていたはずです。あるいは、その情報は、コンロイを勇気づけるために、電話口の担当者がでまかせをいったのでしょうか?
 あるいはそうかもしれません。人質で救出された者のことをそのような符号で言っていたのかも知れません(今回も、救出班が救った人なのですから、マーク・ホワイトなのでしょう)。
 ただ、別の場所で別の人物が救出されたとしても、コンロイはどうして砂に埋まっていくのでしょうか?誰かが掘り出そうとしているからこそ、棺が次第に壊れていくのではないでしょうか?
 仮に、そうではないとしても、地下数十センチのところに埋められているだけで、そして棺が半ば壊れかかっているのであれば、コンロイは自力で脱出できるのではないでしょうか?

 意表を突くシチュエーションで、それだけで十分に見応えがある作品だとは思うものの、細部にヤヤ難点があるのではと思ったところです(一体、彼は助かったのでしょうか、ダメだったのでしょうか?)。

(2)受ける印象が、『フローズン』となんとなく似ているのではと思いました。
 一方は、ストップしてしまったスキーリフトの上、他方は砂の中に埋められた棺の中と、非常に厳しい状況に置かれ(「ワン・シチュエーション」!)、そこからの脱出も、一方は地上15メートルの高さと狼の群れのために、他方は周りが砂で取り囲まれているために、それぞれ酷く困難なわけです。
 ただ、一方は、さらに携帯電話をロッカーに置いてきてしまい使えない状況ですが、他方はむしろ使えるようにそばに置いてあるという具合。とはいえ、これは誘拐犯の要求を伝達させるためのものであり、実際に自分の救出に使おうとすると、相手側がいなかったり、相手側がコンロイが置かれている状況をなかなか理解してくれなかったり、とうまくいきません。最後のシーンを見ると、むしろなかった方が良かったかもしれません。
 なお、『フローズン』と比べて思いついたのは、コンロイの場合、トイレの問題はどうなったのかという点です。ただ、今回の映画の場合、登場人物は一人の男性だけですが、他方の『フローズン』では女性が一人混じっていましたから、この問題がクローズアップされたのかもしれません!

 あるいは、『ソウ(SAW)』と比べてもいいかもしれません。
 主人公が置かれているのは、今回の映画では棺の中ですし、『ソウ』では密閉された浴室なのですから(それも、足首に鎖を嵌められて動ける範囲が限られているという状況を見れば、棺の中とほぼ同じでしょう)、「ワン・シチュエーション」という点からすると同じかもしれません。
 なにより、誘拐犯の過酷な要求にうまく答えられないと、置かれた状況から脱出できないのですから、両作品は類似していると言えるでしょう。
(それに、『リミット』では、コンロイが指を切り落としますが、『ソウ』でも、浴室に置かれた男の一人が足を切断します)
 ただ、『リミット』では、登場人物がコンロイ一人なのに対し、『ソウ』の方では、拉致された2人だけでなく、浴室には誘拐犯とか病院の雑役係なども登場するのです。もちろん、『リミット』でも、携帯電話の声を通して様々な人物が登場するものの、やはり画面には一人の男しか映っていないという点が重要なのではと思います。
 加えて、『リミット』では終始棺の中の映像しか映し出されませんが、『ソウ』の方では、拉致に至るまでの経緯などが詳細に映像で描き出されます(アマンダが拉致されて、首枷を外すために残虐なことまでしてしまう場面など)。
 結局のところ、両者を比べる意味はあまりないのではという気がします。

(3)前田有一氏は、「おそろしいほどに強烈かつ斬新な映画である。これほどに制限された舞台設定で、おもしろい映画を作る、おもしろい脚本を作るというだけでも大変なことなのに、そこに2010年の今、世界に公開するにふさわしい時代性豊かな社会派のテーマを盛り込んである。こんな離れ業ができる脚本家、映画監督がいったい世界中に何人いるだろう」として98点もの高得点を、
 渡まち子氏も、「究極の一人芝居で描く生き埋め脱出劇だが、緊張感が持続して、まったく退屈しない」、「何より、たった一人で過酷な環境の中で演じきったライアン・レイノルズの熱演が光った。ついでに、映画館にいながらにして閉所の息苦しさを味わえるという、困った面白さも」として80点の高得点を、
それぞれ与えています。



★★★☆☆



象のロケット:リミット
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隠された日記

2010年11月20日 | 洋画(10年)
 久しぶりのカトリーヌ・ドヌーブ出演作ということで、『隠された日記 母たち、娘たち』を銀座テアトルシネマで見てきました。

(1)物語は、カナダのトロントで暮らすオドレイ(マリナ・ハンズ)が、故郷アルカション〔ボルドーの西の大西洋岸にある小さな町〕に戻ったときから始まります。久しぶりに戻ってきた娘を駅で出迎えたのは父親だけ。家ではさすがに母親マルティーヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)が出迎えるものの、よそよそしさが漂っています(再会した娘に対して、「仕事が忙しいのなら来なければよかったのに」などと母親は言うのですから!)。
 父親は、そんな二人の間に立って調整しようとしますが、余りうまくいきません。
 母親が自分に対して冷たい態度を取るのかなぜなのか、というのがオドレイの疑問ですし、観客にとっての疑問ともなります。
 そうこうするうちに、オドレイが、隣に建っている祖父の家〔祖父が亡くなってからは無人〕の中を片付けている最中に、台所の戸棚の奥から、祖母ルイーズ(マリ=ジョゼ・クローズ)が付けていた日記が見つかります。
 映画は、それ以降、この祖母を交えての話に広がります。
 といっても、祖母は、母親がまだ幼い頃(50年も昔)に家を出てしまって行方不明になっていますから、映像で登場しますが、オドレイの想像したものに過ぎず、顔つきは日記に挟まれていた写真のまま、行動も、日記に書かれていることからオドレイが頭に描き出しているものです。
 それでも、縛りを逃れ自由を求めて祖母は家を出て行ったのだな、自立した女性になるようにと祖母が母親に言ったことから、母親は医師になったのだな、などといったことが次第に分かってきます。としたら、仕事をしようとカナダに渡った自分に対して、なぜ母親は冷淡なのだろうか、と娘の疑問は深まるばかりです。

 とはいえ、ここで終われば、この作品は、女性の自立という観点から、祖母ルイーズ‐母親マルティーヌ‐娘オドレイの3代にわたる女性の姿を描き出したものと言えるでしょう。
 ただ、そうした作品ならば、これまで世の中に随分と出回っているのではないでしょうか?

 この映画は、そこにとどまらないで、さらにもう一つの事情を最後になって明らかにします。
 この点に関しては、下記の(4)でも触れるように、評論家の粉川哲夫氏が、「最後に明かされる事件は必要なかったのではないか?」と述べています。
 確かに、かなり前のことを今更持ち出すことにどんな意味があるのかと問われれば、黙るほかありませんし、なにより余りにも唐突なのです。
 ですが、自分の母親なのにマルティーヌはこれまでなぜ探そうとしなかったのか、少なくとも祖父の葬儀に際しては調査すべきではなかったのか、元々家出が明らかになったとき、決して貧しい家ではなかったのですから探そうとすれば簡単に見つかったのではないか、などなど変な感じが見ながらしていましたから、何かこうした落とし所でも持ち出してもらわないと、観客としては宙ぶらりんのまま映画館を後にせざるを得なくなります。

 この映画は、このほかにもオドレイの妊娠、生まれてくる子供の父親がカナダからオドレイの家までやってくる話、オドレイが母親マルティーヌにプレゼントする奇抜なドレス、などなど実に盛り沢山の話題が詰め込まれていて、それらを一つ一つ反芻しながら意味合いなどを考えたりすれば、さらに楽しく過ごせるでしょう。

 主演のカトリーヌ・ドヌーブは、還暦を過ぎて70に近いというのにその美貌は衰えてはいません。太ってはしまいましたが、それは貫禄を与え、存在感が一層増しています。
 実質的な主役である娘のオドレイを演じるマリナ・ハンズも、相当難しい役柄を実にうまくこなしていると思いました。

(2)この映画は、3代に渡る家族、それも女性を中心においた家族を描くという視点からすると、邦画の『Flowers』に類似するところがあるかもしれません。
 ただ、この邦画は、6人の女優の競演という色彩が強く、かつまた「女性とは子供を産んで育てること、家族を作り上げることが幸せなのだ」というメッセージ性が感じ取れるので、この2つを並べると違和感を覚えてしまいます。
 あるいは、最近DVDで見たフランス映画『夏時間の庭』(2008年)にも類似しているでしょう。祖母から長女(ジュリエット・ビノシュ)、それに長男の娘という流れが描かれており、長男の娘が最後に、祖母が長年暮らしていた邸宅が売却されるのを見て涙するところは、今回の映画でオドレイがルイーズのことを想うのとパラレルな関係なのかもしれません。
 ですが、この作品は、祖母から遺された財産の処分を巡っての話が中心となっていて、女性の自立という観点はあまり見ることはできませんので、類似性はそれほど意識されないところです。

 『隠された日記』は3代に渡る女性たちを描いているとはいえ、祖母ルイーズの姿は、娘オドレイが日記や写真から想像したものでしかありません。そいういことからすれば、やはり映画の中心は、母親マルティーヌとオドレイとの関係といえるでしょう。
 そこで、母娘の希薄な(むしろ対立する)関係という点を捉えると、むしろ、大森美香監督の『プール』(2009年)になんとなく似ているような気がします。
 『プール』においては、自分を祖母のところに置きざりにして、タイのゲストハウスで働く母親(小林聡美)の真意を問いただそうと、娘が母親のところにやってくるのですが、はかばかしい答えが得られないまま、その娘はまた日本に帰る、といったあってなきがごとしのストーリーが描かれています。
 娘の年齢が、今回の映画のようには高くないので、あまり“女性の自立”といった観点は強調されていない感じながら、母親がまさに自分の生き方を通そうとしていますから、その意識は強いと言えるでしょう。
 もう一つ上げるとしたら、『オカンの嫁入り』かもしれません。その映画では、母親(大竹しのぶ)と娘(宮崎あおい)とが、それぞれ抱える問題に相手がどう対応するのか、それによって2人の関係がどうなっていくのか、という点がじっくりと描かれています。
 今回の映画のように娘が家を飛び出してしまうことはなく、母親と娘は一緒の家に暮らしてはいるものの、ストーカーによって引き起こされたトラウマによって娘は家に閉じこもりがちですし、母親の方も自分の重大な病気のことを娘に告げてはいませんし、突然随分と年下の青年(桐谷健太)との結婚話を持ち出したりしますから、相互のコミュニケーションがうまく取れているとはいえません(前半では、娘は、いつも母親に腹を立てているように描かれています)。
 その関係の修復に寄与したのが桐谷健太であり、娘もいつまでも母親に頼ってばかりはいられないと、トラウマのために乗れなかった電車にも乗れるようになって、次第に自立の方向に向かっていきます。こう見てくると、この映画も、極めて日本的な枠組みの中ですが、今回の映画との共通項を探し出すことができるように思われます。

(3)映画では、隣家の老婦人との談笑中、オドレイが突然に、「竹下しづの女」の俳句、「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてっちまおか)」を口ずさむので驚きます。オドレイの高い教養を示唆しているのでしょうが、俳句の世界的な広がりを実感します。
 ちなみに、「竹下しづの女」〔明治20(1887)年~昭和26(1951)年〕は、福岡県稗田村(現:行橋市)生まれで、『ホトトギス』同人であり、上記の俳句は大正9年(1920)、作者34歳の時の作です。
 下記の評論家・粉川哲夫氏は、映画では「"Night is too short And what if I abandoned it..."」という台詞だと述べていますが、サンフランシスコ在住の俳人・青柳飛氏による訳、「short summer night ―shall I throw away a baby crying for my milk」の方がわかりやすいのではと思われます。
 としても、「須可捨焉乎(すてっちまおか)」と「shall I throw away」との間には、意味の把握だけでなく表記の違いという点からして、もの凄く大きな懸隔があるのだなと思ってしまいます(逆に、外国の詩の日本語訳にも様々の問題がつきまとうのでしょう)。

(4)映画評論家・渡まち子氏は、「切なくて衝撃的な事実を受け入れた時、母からも娘からも捨てられたと思いこむことで、心を武装して生きてきたマルティーヌは、初めて涙を流すことができ た。好感が持てない母親を演じるドヌーブが、さすがの貫録で上手さを見せる。謎解きを主眼にはせず、女性史を寡黙に語りながら、母と娘の小さな前進をみつめる物語として味わいたい」として60点を与えています。
 評論家・粉川哲夫氏は、「この映画は、50年代に自立を果たせなかった女性の娘が自立し、さらにその娘が両親への依存をはねのけて移住してしまうが、それが子供の母になりそうな事態に陥ったとき、単なる「自立」というコンセプトではうまくいかないことを描く。これは、大きなテーマであり、描きがいのあるテーマだ。しかし、それが最後までは追及されない」のであり、「かなりいい線で進むが、最後がつまらなかった」が、「「つまらない」というのは、それが終盤で急に推理ドラマに変容してしまうところである。50年代のフランスの女性の位置を批判的に描いているのはいいが、最後に明かされる事件は必要なかったのではないか?」と述べています。




★★★☆☆




象のロケット:隠された日記

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セーヌと隅田

2010年11月18日 | 美術(10年)
 上に掲載した画像は、trippingdog氏がFlickrに掲載している写真から選択したものです(「la seine」、本年10月31日にアップされています)。

 ちょうど、東京・京橋にあるブリヂストン美術館では、「セーヌの流れに沿ってー印象派と日本人画家たちの旅」というタイトルの展覧会を開催中です。
 そのHPでは、本展覧会の狙いについて、次のように述べられています。
 「本展ではセーヌ川流域を5つの地域に分け、それらを描いた印象派の作品を中心に、日本人画家たちの滞仏作も含めた19世紀半ばから20世紀にかけての作品群をご紹介いたします。近代絵画の歴史を地理的にたどるとともに、セーヌ川が画家たちによっていかに表現されてきたかについても展観するものです」。

 今回の展覧会では、例えば、次のカミーユ・ピサロの『ポン=ヌフ』(1902年)といったものが代表的といえるでしょう。



 ただ、今回の展覧会では、パリ市内を流れるセーヌ川だけでなく、その上流や下流を描いた絵画も展示されています。
 さらにもう一つ興味をひくのは、セーヌ川を描いている日本人画家の絵も展示されていることです。
 なかでも驚いたのは、このブログの本年4月10日の記事で取り上げました日本画家・小野竹喬の『セーヌ河岸』(1921年)が展示されているのです!



 この絵は、セーヌ川左岸にあるホテルの部屋からノートルダム方面の眺めを描いたとのこと。

 そうなると、セーヌ川に対応するものは日本にも何かあるのかと探したくなるところ、スグニ思いつくのが隅田川でしょう。
 若干しか開催時期は重なりませんでしたが、なんと江戸東京博物館では、「隅田川」展が開催されていたのです(11月14日まで)!
 ただ、「隅田川」展といっても、隅田川の今昔を紹介するというよりも、隅田川が主に絵画でどのように捉えられてきたのか、という観点から展示されています。
 それで、最初の方は、江戸初期の様子が描かれた屏風絵が展示され、その次になると大部分が浮世絵になります。
 面白いのはやはり屏風絵で、隅田川を跨ぐ橋を歩く人々とか、その橋のそばに展開されるさまざまの店の内部の様子などが細かく描き出されていて、興味をひかれます。


(筆者不詳『江戸名所図屏風』;江戸前期の作、上記は両国橋界隈)

 こうした屏風絵が面白いというのも、最近、黒田日出男氏による『江戸図屏風の謎を解く』(角川選書、2010.6)を読んだりして、江戸時代初期の江戸の様子に興味を持ったことにもよるのでしょう(本ブログの10月24日の記事の(2)でも触れました)。

 なお、この「隅田川」展のラストには、フランスから来日したノエル・ヌエット(1885年~1969年)による絵『両国橋』(1936年)が展示されていました。ペン画的な感じがするものの、昭和初期の東京風景とのことです。



 最後に、永代橋から北方向の隅田川の画像です(11月18日のお昼頃:中央に聳えるのが、建設中のスカイツリー←もっと遡って、例えば白髭橋の方から撮れば、ズッと大きく写せるでしょう)。



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マザーウォーター

2010年11月16日 | 邦画(10年)
 「かもめ食堂」のスタッフが再集結して作った作品だというので、これまでの腐れ縁(?!)もあって『マザーウォーター』を見に銀座シネスイッチに行ってきました。

(1)例によってストーリーらしいストーリーは一切ありません。
 登場人物は、小さなバーを営むセツコ小林聡美)、喫茶店を経営するタカコ小泉今日子)、それに豆腐屋のハツミ市川実日子)。
 3人とも地元の人ではなく、別の土地からここに流れてきたようです。
 3人とも一人暮らしで(家族関係は一切不明)、映画開始時点まではお互いの交流もなく、それぞれ毎日、客にウイスキーやコーヒーを出したり、豆腐を売ったりする、一見単純そうな仕事をしているだけです。
 そこに、家具工房で働いているヤマノハ加瀬亮)とか、銭湯を営むオトメ光石研)、オトメ湯の手伝いをしているジン永山絢人)がお客として登場してくると、状況はほんの少しだけ動くように見えます。
 これらすべてをネットに包み込んでいるのがマコトもたいまさこ)という老婦人であり、彼女がよく釣れている赤ん坊のポプラ(オトメの子供でしょうか)です。

 人物設定はこれだけであり、舞台設定も、映像として映される光景から京都の鴨川周辺だとわかりますが、積極的にどこと特定されているわけではありません。なにしろ、登場人物は皆標準語を使いますし、町の人も京都弁丸出しでもありませんから。
 また、豆腐屋は別として、セツコのバーにせよタカコの喫茶店にしても、最小限のものしか置いておらず、飾り気がまるでないのです。
 さらに、セツコの出すアルコールはウイスキーだけですし(理由は、その方がこの土地に合っているからとされます)、タカコもひたすらコーヒーを淹れています。また、ハツミも専ら豆腐を売るだけです(お客は、店先のいすに座って豆腐を食べています)。
 言ってみれば、かなり抽象的な空間に若い女たちが宇宙から降り立って、抽象的に生活しながら、そこにいる年寄りや男らと暫時交流する(あるいは、どこの誰ともわからぬ女たちが、具体性の乏しい土地で、定かでない仕事をしながら、その土地に住んでいるこれまたどこの誰ともわからぬ人たちと、何となく交流を深めていく)、という感じでしょうか。

 出演者に関しては、やっぱりこうした映画には、小林聡美ともたいまさことが不可欠なのだなと説得されてしまいます。ただ、二人とも、今度の作品では、随分と哲学者然とした感じを出しています。
 小林聡美が、コップに大きな氷を入れ、それにウイスキーと水を注ぐ様子は、茶道のお手前とそっくりの雰囲気を持っています。



 また、もたいまさこは、黙って何もしゃべらないところに、観客は何かメッセージ性を感じたわけですが、今回のように人に指針を与えるようなセリフを話すようになると、ややウザッタさを感じてしまいます。




(2)今回の映画は、これまで同じスタッフが製作してきた『かもめ食堂』、『めがね』、そして『プール』で描かれた状況を一段と抽象的にしたように思えます(監督は、前二者が荻上直子、最後が大森美香。今回の作品では松本佳奈)。
 そうであれば、見る方は、色々な手がかりから、勝手に自分だけの解釈を作り上げて映画を具体的にしても、それがいくら突拍子のないものであっても、文句を言われる筋合いはないでしょう!

 そこで、クマネズミとしては、マコト(もたいまさこ)が風呂屋で働くジンに対して、「分析ばっかりしていても仕方ないんだよ。そんな季節はもう終わっちゃっているんだから」と言う場面を基点にして、この映画は“革命”を求めているのではないか、その予兆に登場人物の皆がとらえられるのではないか、と解釈してみたくなりました。
 マコト(もたいまさこ)は、そのことを告げに宇宙のどこかから使わされてきた者であり、告げられた男たちは、同志を集めに行ったりします(ヤマノハは、セツコに促されて、姿を消した同僚に会いに行きます)。また、女たちも、革命の準備に取り掛かります(3人の女たちは、ハツミの出身地に一緒に行ってみようとしています)。
 そして実際の革命の戦士は赤ん坊のポプラなのです(男たちや女たちの間で循環される間に、彼らから革命のエネルギーを貰い受けます)!
 それが実際に達成できるかどうかは、セツコがつくる水割りに使われる水、タカコが淹れるコーヒーに使われる水、そしてハツミが作る豆腐に使われる水の善し悪しによるのでしょうが、藤森神社から汲んできた水を使っているのであれば問題ないでしょうし、なんといっても舞台は鴨川沿いなのですから!

 こんないい加減な空想を許してしまうのですから、今回の作品は、マンネリ化の傾向が窺えるとしても、マズマズの出来栄えではないか、と思ってしまいます。

(3)渡まち子氏は、「物語ともつかないエピソードをコラージュした、人と場所だけを描く映画だ」が、「散歩する人として登場するもたいまさこは、出会う人となんのためらいもなく接しながらも、根本的には「一人で生きている」ことに喜びと誇りを持っている。尊重するのは、ゆるりとつながる関係性。そんなムードが現代社会のやんわりとした孤独にマッチしている」として55点を与えています。




★★★☆☆




象のロケット:マザーウォーター
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クロッシング

2010年11月14日 | 洋画(10年)
 予告編でこれは優れた作品ではないかと思えたので、『クロッシング』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)映画は、ニューヨ-ク市警に勤務する3人の警官の話です。と言っても、3人は、別々の部署に所属するために、邦題は“クロッシング”となっているものの、予想に反して最後まで密接に絡むことはありません(原題は「Brooklyn’s Finest(ブルックリンの警察官)」)。
 それでは、オムニバス形式の映画かというと、そうした構成にもなっておらず、ですが3人の警官の話が相互に巧みに綴り合わされて、全体として緊密なひとつ流れを形成しているように受け止めることが出来ます。
 それというのも、3人が立ち向かう地域が同一で、それもニューヨーク・ブルックリン地区の犯罪多発地域だからでしょう。そこは、罪のない住民が警察官によって射殺されたとして、警察に対するデモが頻繁に行われている地域でもあり、一人一人の警察官の対応がなかなか難しのです。
 この映画で描かれる犯罪は、大部分は黒人によって行われるものです(それも、麻薬にかかわっていますから、目を剥くような多額のお金が絡んできます)。
 そして登場するのが、あと7日で退職予定の警官エディ(リチャード・ギア)、麻薬捜査官サル(イーサン・ホーク)、潜入捜査官タンゴ(ドン・チードル)。
 黒人の犯罪者を取り締まるエディとサルは白人ながら、タンゴは黒人です。ただ、タンゴは、上司の白人の副所長らと鋭く意見対立しますから、映画全体としては白人と黒人の厳しい対立が見えてきます(何しろ、監督アントワン・フークアが黒人なのです)。
 また、それぞれが女性問題を抱えています(独身のエディは黒人娼婦に入れあげていますし、サルの妻は湿気の多い住まいのため喘息が悪化しており、タンゴの妻は離婚しようとしています)。ここには、男対女の現代的構図が見られるでしょう。
 こうした背景の中で、3人それぞれがそれぞれの事件とのっぴきならない関わり合いを持ち、犠牲者も出ることになります。

 各々の事件は、個別に取り出せばありきたりといえるでしょう。ですが、この作品のような描き方をして一続きで見ると、一段とリアリティが高まって見る者に衝撃を与えます。
 特に、サルと親しい同僚の麻薬捜査官が、潜入捜査官とは知らずにタンゴに発砲してしまったり、エディが踏み込んだビルの見張りをしていた男がサルを撃ってしまったりという“クロッシング”が起こるのですからなおさらです。

 出演する俳優が豪華なこととも相まって、警察物として近頃出色の映画と言えるのではないでしょうか。

 出演者の中では、麻薬捜査官サルを演じるイーサン・ホークが印象的です。



 彼については、『その土曜日、7時58分』(2007年)や『ニューヨーク、アイラブユー』を見ましたが、今回の映画では、喘息の妻のために新しい家に引っ越そうとして、捜査で踏み込んだ先に無造作に転がっている現金に手をつけようとしてしまう薄給の警察官の役を見事に演じています。
 普段は寡黙で大人しそうに見えながら、何かを思いつめると、それに向かってとんでもないことをしてしまうと言った役柄に、その風貌がよく似合っていると思いました。

 リチャード・ギアの作品はあまり見ていませんが、6人の俳優がそれぞれのボブ・ディランを演じている『アイム・ノット・ゼア』(2007年)に出演しているのを見て、こんな映画にも出演するのだな、と驚いたことがあります。ですから、今回のような酷く地味な映画に出演していても驚きませんが、ある事件の解決に功績があったにもかかわらず、とても浮かない顔をして引き揚げる様子に、彼の映画人生が凝縮されているような感じを受けました。



 もう一人のドン・チードルは、DVDで見た『ホテル・ルワンダ』が印象的で、この映画でも処遇が恵まれていないことを上司に訴える際の演技は優れていると思いましたが、潜入捜査官として日々危険な淵に立っている様子の方は、今一突っ込みに物足りなさが残りました。




(2)警察官を描く映画は随分とたくさん作られています。
 ここでは比較的最近の作品を取り上げてみましょう。
 アメリカのものでは、『バッド・ルーテナント』(2009年)をDVDで見ました。
 これは1992年のオリジナルのリメイク映画。舞台は、オリジナルのニューヨークからニュー・オーリンズへ移ります。主人公のテンレス・マクドノー(ニコラス・ケイジ)は、ドラッグやギャンブルに溺れ、拳銃を突きつけて売人からヤクを取り上げたりするフザケた悪徳警官ながら、アフリカからの不法移民の一家が殺害された事件の指揮をとったりして、最後は昇進して一応のハッピーエンドです。
 とはいえ、彼の愛人はドラッグを止める努力をしているものの、彼は相変わらずラリって捜査をしているのですから、しばらくしたらそのつけを払わずにはいられなくなるでしょう。
 このテンレス・マクドノーは、『クロッシング』における麻薬捜査官サルに近いところにいると言えるでしょうが、そのいい加減なところは、ひたむきなサルと比べると、南部器質丸出しと言えるのかもしれません。

 日本のものでは、何と言っても『踊る大捜査線』でしょうが、DVDで『笑う警官』(2009年)を見てみました。
 ただこの映画は、北海道警察の不正経理問題を背景としているものの、そのことで道議会の委員会に証人として出席をする警察官に対して、いきなり道警幹部から射殺命令が出されたり(いくらなんでも、そんなことまでするでしょうか?)、またその警察官を救おうとして同僚・有志の集まるバーBlackBirdのシーンが余りにも演劇の舞台然としていて見ている方がズッコケてしまったりと、かなりレベルの低い出来上がりになっているのでは、と思いました。
 とはいえ、実は、証人の警官(宮迫博之)と彼を救おうとする警官(大森南朋)は、かつて娼婦人身売買事件に関して潜入捜査をしたことのある仲だったというところから、『クロッシング』のタンゴ(ドン・チードル)とつながってくることはくるのですが。

(3)映画評論家の渡まち子氏は、「映画は、一人一人の正義を束ねることが出来なければ、どうなるのかを容赦のない筆致で描き切った。これが今のアメリカの閉塞感なのかと思うと陰鬱な気持ち になるが、徹底的に甘さを排除したアントワン・フークアの演出は、凄味がある。信仰心が厚いサルが言う「欲しいのは神の赦しじゃない。神の助けなんだ!」 という言葉は、彼らの人生の中での神の不在の証。目の前の現実と、己が信じる正義の間で揺れる警察官の苦悩が胸を打つ」として70点を与えています。
 また、評論家の粉川哲夫氏は、「3人の警官を描いた3本の映画を1本にまとめたようなところがあり、また、3人を並行的に描きながら、ときどき気になるすれちがい(「クロッシング」)を 見せ、最後に同じ場所に誘導する(しかし「グランドホテル」方式に出会わせるような野暮なことはしない)といった見る者の気をそそる作り方をしている」と述べていますが、凄く要領の良いまとめ方だと思います。
 ただ、「この映画は、マーティン・スコセッシの『タクシードライバー』のシーンの多くが、見方によっては、主人公トラヴィス・ビックルの「夢想」と「幻想」を描写したものである――という解釈が成り立つのと似たような意味で、リチャード・ギアが演じる老警官エディの「夢想」の映像化であるといえなくもないのである」と述べていますが、「「夢想」の映像化」と言ってみても、そう言ったことでこの映画に対する理解度が深まったりするのであれば別ですが、取り立てて何ももたらさないのであれば、そう言ってみるまでもないのではと思われるところです。


★★★★☆



象のロケット:クロッシング
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七瀬ふたたび

2010年11月13日 | 邦画(10年)
 筒井康隆の原作の映画化というので、『七瀬ふたたび』を渋谷のシアターNで見てきました。

(1)この映画は、冒頭に「プロローグ」が置かれ、その監督として“しょこたん”の中川翔子が記されており、それが終わった後に、小中和哉監督による「七瀬ふたたび」の本編が始まるという随分と手の込んだ仕掛けになっているのです。
 そのプロローグ編では、幼い頃の七瀬が母親(多岐川裕美)の手を取って歩きながら、母親の心の中を読み取る場面などが描かれていますが、それが様々な色が混じり合うというイメージで描かれていたりして、なかなか興味深いものになっています。
 ただ、少女時代の七瀬が、通勤電車の中で、周りの男性の心の中に卑猥なものがある様を読み取る場面が出てくるところ、これは原作本にもあるのでやむを得ないことながら、通俗的すぎる印象しか与えません(注)。
 とはいえ、大人の七瀬(芦名星)がカードをやる場面では、自身がカジノの客として登場するなど、“しょこたん”のマルチタレントぶりがヨク発揮されているといえそうです。

 そして本編です。
 人の心を読むことのできる能力を持った女性である七瀬(芦名星)は、同じ能力を持つ少年ノリオとも列車の中で知り合い、もう一人、違う能力を持つ黒人のヘンリー(ダンテ・カーヴァー)と一緒に北海道で暮らしています。
 そこへ、超能力を持つ者は人類の敵だとして、彼らをすべて抹殺しようとする組織が現れます(その組織の指揮官を吉田栄作が扮し、また実戦部隊のトップを河原正彦が演じています)。
 これに対して、七瀬、ノリオ、ヘンリーが立ち向かいますが、さらに藤子(佐藤江梨子)というタイムトラベルの能力を持つ女も加わります〔この他に、途中まで、七瀬に好意を持つ岩淵(田中圭)とか、マカオのカジノで知り合いになった瑠璃(前田愛)がいるのですが、いずれも敵の組織に殺されてしまいます〕。
 果たして、うまく敵を撃退できるでしょうか、……。

 この映画は、どうやら、なぜ「七瀬ふたたび」というタイトルなのか、“ふたたび”ということからすれば「七瀬」と題する映画が先にあったのか、などという疑問が湧いてしまうような一般の人向けには作られてはいない感じです。あるいは、筒井康隆の原作や、それに基づいて製作されたTV作品などをよく知っている人向けなのかもしれません。
 殆どそうした知識の持ち合わせがないにもかかわらず、ただ何となくの感じでクマネズミは見てしまいましたから、どうも今一乗り切れませんでした。

 登場する俳優も、主演の七瀬を演じる芦名星は、現代的な美人で素晴らしいと思いました。



 ただ、ノリオを演じる子役は台詞を言うととても気持ち悪く、またタイムトラベラー役の佐藤江梨子も甘利魅力的には描かれていないような感じです。
 なお、『死刑台のエレベーター』では暴力団親分役、『スープオペラ』では文学者役と、このところよく見かける平泉成が、この映画でも刑事役として出演しています。ただ、その良さが十分に生かし切れていないと思いました。




(注)全体として、原作はかなり卑猥な表現に満ちています。
 若い女を見ると男は皆が皆すごく卑猥なことを連想し、それが人の心を読む能力を持つ七瀬に全部分かってしまいます。それが嫌で、好きでありながら岩淵は七瀬に会おうとはしないのです。
 また、原作では、七瀬は「ゼウス」という高級バーに勤めていて、そこでの出来事が「邪悪の視線」という章に長々と書かれていますが、いくらなんでもと言うのでしょう、映画ではカットされています。
 この卑猥な表現もまた原作の柱の一つとすれば、それに対応する映像が見られない今回の作品は、原作とは別物と考えるべきなのでしょう。


(2)この映画については、対立する見方があります。
 一方で、映画評論家の渡まち子氏は、「本作では、SFアクションながら、能力者としての苦悩とかなわぬ恋という情緒的な面が前面に出ているため、アクション映画の爽快はほとんどない。何より、敵役の謎の暗殺組織の描写が浅いため、クライマックスのバトルにいたるプロセスがさっぱり盛り上がらないのは残念。しかも、決戦の場へ乗り込むため、仲間の念動力を借りて空を飛び湖を渡る場面があまりに稚拙で、昭和の時代の“なつかしの特撮”のよう」として45点をつけています。
 他方、“つぶあんこ”氏は、「原作を充分に理解した上での、主として脚本面における再構築の見事さの前には、低予算ゆえの特撮のチープさも、子役の気持ち悪さも、相変わらずなサトエリの顔と演技の残念さ加減も、大したマイナスとは思えない。今までの『七瀬ふたたび』映像化の中では、最も意欲的な作品と評して何ら問題ないだろう。よく頑張った」として★5つの最高級の讃辞を与えています。

 両者の距離はかなりあるとはいえ、こういった類いの作品については貧弱な知識しか持ち合わせていない(まあ、他のジャンルの作品についても何も知りませんが)クマネズミとしては、やはり渡まち子氏の評価に共感を覚えてしまいます。

 ところで、論点は2つあるでしょう。
・原作の大幅改変は是は非か。
・肝心の特影シーンが酷すぎるのかどうか。
 渡まち子氏は、特に後者の観点からこの映画を低く評価するのに対して、“つぶあんこ”氏は、前者の観点からこの映画を高く評価しています。
としても、“つぶあんこ”氏も、「低予算ゆえの特撮のチープさ」と述べていることから、やはり主たる問題は前者に関することでしょう。

 そうしたことから、例えばラストのシーンを見てみましょう。
 原作の場合、七瀬に関係する人間(ノリオもヘンリーも藤子も)は、次々と敵の手で倒されてしまいます。最後には七瀬までも(「深い虚無がやってきた」新潮文庫 P.318)。
 他方、映画の場合、一度は七瀬は殺されてしまいますが、そこに駆け付けた藤子によってもとの出会いの場面までタイムスリップしてしまい、さあもう一度やり直そうと言うことになります。
 言ってみれば、原作が悲劇で終わるのに対して、映画の方は、一応ハッピーエンドということになるのでしょうか。

(3)ここで少し触れてみたいのが、藤子がタイムトラベラーだという点です。
 この場合、最近流行りのやり方ですが、以前のようにタイムマシンを使って過去に戻るというのではなく、可能世界(パラレルワールド)に移動するというものです。
 ただ、映画でもそうですが、藤子は自分の持つ能力について疑問を抱き悩んでいます。以前の世界に移動してしまう自分たちはかまわないとしても、元の世界の取り残された自分たち以外の人たちの運命はどうなってしまうのか、という点です(「彼女は、時間旅行者としての自分の存在が、つまり彼女の時間旅行が、多元宇宙の発生につながっているのではないかと疑っている」新潮文庫P.297)。
 たとえば、藤子の超能力によって、死んだはずの七瀬やノリオが生き返って、再び敵を倒そうとするのに対して、元の世界の取り残された人たちは、もはや彼らはいなくなってしまうのですから、敵が跳梁跋扈するのに任せざるを得なくなってしまう、というのでしょう。
 こうした大きな疑問を持っているはずの藤子が、映画の場合、最後にその能力を行使するというのですから、いくら未来に対する信頼を描き出すためとはいえ、首をかしげたくなてしまいます。



★★☆☆☆




象のロケット:七瀬ふたたび
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スープ・オペラ

2010年11月11日 | 邦画(10年)
 『スープ・オペラ』を銀座シネスイッチで見てきました。

(1)物語の主人公はルイ(坂井真紀)。叔母のトバちゃん(加賀まりこ)と長年一緒に暮らしてきたところ、還暦を迎える叔母が青年医師(萩原聖人)と一緒に家を出て北海道に行ってしまいます。ルイは、大きな家に一人暮らしとなるものの、その跡を埋めるように、トニー(藤竜也)と康介(西島隆弘)が出現し、そのうちに彼らはこの家に同居するようになります。
 ルイに見合い話しがあったり、トバちゃんが一時戻ってきたり、トニーの妻(余貴美子)が出現したりと、様々な出来事が起こりますが、結局は、……。

 取り立てて目を引くような事件は何も起こりません。たまには世の中の喧騒を忘れて、こんな物静かなお屋敷町の中にこんな瀟洒な2階屋があってこんな小奇麗な庭があったらいいなというような家で、こんな暖かい人々が一緒に暮らしていたらいいな、という気分にさせてくれる映画です。

 主演の坂井真紀が出演する映画は、これまでも『ノン子36歳(家事手伝い)』などを見てきましたが、今回の作品のようなメルヘンチックな感じを持ったものは初めてです。
 基本的には婚期を逸して一人暮らしを続けるものの、トバちゃんが帰ってくると温かく迎えたり、トニーや康介が出たり入ったりする家を取り仕切ったりするという、いわば避難港的な存在であるルイを、軽い感じを出しながらうまく演じているなと思いました。
 また、康介役の西島隆弘は、いうまでもなく『愛のむき出し』で大活躍した歌手ですが、いわゆる草食系男子で実に明るい青年の役には、まさにうってつけだなと思いました。
 加賀まりこについては、このところ映画ではほとんどみかけませんが、実際には還暦をかなり超えているにもかかわらず、萩原聖人の青年医師にくっついて家を出てしまうという役柄を、持ち前の明るさでこなしています。
 さらに藤竜也は、クマネズミにとっては黒沢清監督の『アカルイミライ』(2003年)以来ながら、コミカルな感じを出して、これならスッと現れサッと消えてしまうトニーが適役でしょう。
 それに、文学者役の平泉成ですが、最近は『死刑台のエレベーター』をはじめとして、随分とあちこちで見かけるところ、この映画では、川上宗薫や宇野鴻一郎もかくありなんといった感じを出していて注目されます。なにしろ、ソバに女性がいないと書けない作家で、これまでその役に就いていた奥さんが故国のチェコに帰ってしまい、その後釜にルイをどうしても、と強請る始末なのです。

(2)この作品の原作は、『週刊文春』のインタービュー記事で著名でもある阿川佐和子氏による同名の小説です(新潮文庫)。
 それを、10月27日の記事で触れた『イキガミ』を制作した監督の瀧本智行氏と、11月3日の記事で触れた『いつか読書する日』の脚本を担当した青木研次氏とが料理したわけですが、映画とその原作とは、かなりの相違が見受けられます。
 たとえば、小説ではルイは、市立大学の事務局職員ですが、映画では図書館職員なのです。また、トバちゃんは、映画では青年医師と一緒に北海道の無医村を回っていますが、小説では奄美大島の方にいるようなのです。
 まあそんなことはドウでもいいことですが、一番大きな違いは、映画では、家の近くに、閉鎖された遊園地があって、話に一段落がつくと、メリーゴーランドの前でアコーディオンやクラリネットの演奏が行われるという点でしょう。
 まさに映画ならではの光景で、いったいいつメリーゴーランドが回りだすのかな、と観客に期待をもたせます。

 ラストも、また小説と映画とでは大きく異なります。小説の場合、ルイとトニーや康介との関係が曖昧のままにルイのところで一緒に暮らすことになります。
 他方、映画の場合は、ルイは一人で家に取り残されてしまいます。でも、それを補う形で、映画のラストでは、メリーゴーランドが回り電飾がキラキラ輝くなかで、登場人物の皆が三々五々ルイの元に集まってくるのです。
 小説のラストにあるルイの手紙にも、色々の人がたくさん集まった前日のクリスマス・パーティのことが書かれているので、実質的には、小説も映画も同じようなことを描いているのだな、とわかります。すなわち、「人間と人間の出会いというものは、そこに恋愛感情とか特別の感情が付随しない場合でも、あるいはかかわった機関がどれほど長くても短くても、それには関係なく、人生にとってかけがえのないものになる場合がある」ということでしょう。

(3)映画評論家の渡まち子氏は、「大人のためのお伽話のようなストーリーは、不思議な共同生活を通してユルく優しい人間関係を肯定する」とし、「終盤の遊園地のファンタジーには少々違和感を感じたのだが、エジプトのバスの挿話は良かった。どこでも乗車でき、どこでも降車できる、それがエジプトのバス。特別な結論を求めないこの物語にピッタリだ。癒しとグルメとファンタジー、やや安易な設定ではあるが、後味は悪くない」として55点を与えています。


★★★☆☆





象のロケット:スープ・オペラ
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