映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ノルウェイの森

2010年12月26日 | 邦画(10年)
 大昔のことでぼんやりとしか覚えてはおりませんが、やはり原作を読んだからということで、『ノルウェイの森』を見に日比谷のTOHOシネマズ スカラ座・みゆき座に行ってきました。

(1)この映画の感想を述べるに当たっては、どうしても著名な原作に引きずられて、原作と比べたりしながらアアダコウダということになりがちです。原作が発揮する強いオーラからしてマア仕方ないところ、でも、やはり映画は映画、原作は原作という原則に則って、できるだけ両者を分けて議論した方がいいのではと思っています(注)。

 という舌の根も乾かないうちで誠に恐縮ながら、様々な三角関係が描かれて複雑で長い原作を、この映画では随分刈り込んでかなりすっきりとさせ、主人公ワタナベ(松山ケンイチ)と直子(菊池凛子)との関係がうまく前面に描き出されているように思いました。
 主人公の大学の後輩・緑(水原希子)がその二人の関係に少々絡んでくる仕掛けになっていて、京都北部の療養所で直子と同室のレイコ(霧島れいか)の役割はかなり背景に退いてしまっています。
 こうした描き方は、監督側のそれなりの見識によるものであり、直ちには問題とすべきではないでしょう。特に、緑との関係はこれからのこととして、映画の中で軽いタッチで描かれるのは十分納得出来ます〔ただ、レイコに関しては、過去の出来事がすべてカットされてしまっているために、ラストの主人公とのラブシーンは唐突な感じを受けてしまいますが。とはいえ、一つの映画に何もかもというのは所詮無理な話ですから、これは仕方のないことでしょう〕。

 としても、そこまで踏み込むのであれば、映画は、何もわざわざ原作と同じ時代設定にする必要はなかったのではないかと思えてきます。
 登場人物たちの服装などは、すべて1967年当時のものでしょう。ただ特段そうせずとも、さらにまた当時の学生運動を画面で無理に描かずとも、この映画は十分に成立しているのではないでしょうか?
 逆に言えば、大学闘争など当時を髣髴とさせる材料がかなりきちんと盛り込まれてはいるものの、この映画を見る上でむしろ邪魔になるのではないか、とも思えてしまいました。むしろそんなものは取りはらって、主人公のワタナベと直子〔それに緑も〕との関係をじっくり描いた方が、観客は映画の中により入り込めるかもしれません。
 というのも、この物語を描くにあたって、どうしてそういった時代設定にしなければならないのか、が強い説得力を持って観客に迫ってこないように感じられるからです。
 この点は、周囲の物事に対し主人公が意識的に距離を取ろうとする姿勢から、特に大学闘争についてあのような描き方になったのだとも思えます。ただ、映画においては、第3者の客観的視点から、主人公と活動家たちとを同じフレームの中で捉えてしまうために、単なる風景にしか見えなくなってしまうのでしょう。
 と言っても、それらは単なる風俗であり、やはり映画にはそういった要素をちりばめることも必要でしょう。ただ、当時の大学闘争には、風俗を越えた何かがあったようにも思えるのです。まして、映画の主人公もイロイロな本を読んでいるのですから、身近で行われている全共闘活動についてマッタク何も喋らないというのは、トテモ理解出来ない感じがしてしまいます。

 また、会話も、原作からイロイロ持ってこなくともよかったのでは、とも思います。下記の渡まち子氏が言うように、「村上春樹の小説の、軽さと深みが絶妙にブレンドされたセリフは文字で読むからこそ素晴らしい」のであって、たとえば、主人公と緑の会話、「僕は時間のあり余っている人間だから」「そんなに余ってるの?」「僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」は(角川文庫・上P.123)、実際に映画の中の会話にしてしまうと鳥肌が立ってしまいます。
 あるいは、こうした会話が成立するのは、舞台設定が1969年とされているからなのかもしれません。なにしろ、主人公のワタナベは、原作にあっては、現代の学生には余り想定できないような読書家なのです(フィツジラルドの『グレート・ギャツビィ』やトーマス・マンの『魔の山』からマルクスの『資本論』まで!)。そういう彼なら、当時、「孤独が好きな人間なんていない。失望するのが嫌なだけだ」などと喋ったとしても(角川文庫・上P.111)、そんなに違和感はなかったかもしれません。
 ですが、舞台設定を現代に置き換えるとしたら、そんな会話などとても聞いてはいられません。そして、この映画からは、上で述べたように、40年前というよりも今の雰囲気が強く漂ってくるのですから、なんだか場違いな感じを受けてしまうのです。

 イロイロ言いましたが、配役陣は頑張っていると思います。
 配役で注目されるのは、菊池凛子でしょう。彼女が出演した作品としては、『バベル』(2007年)とか『サイドウェイズ』を見ましたが、まだまだという感じが残っていたところ、この映画においては、主人公に深く愛されながらも病院に通ったり療養所に入ったりしてしまう精神的に甚だ不安定な女性(「統合失調症」でしょうか)の役を、見事に演じており、やや役が想定している年齢から離れているとはいえ、その美質がよく発揮されていると思います。



 主役の松山ケンイチについては、『ウルトラミラクルラブストーリー』や『カムイ外伝』と毛色の全く異なる作品を見てきましたが、今一彼が映画で引っ張りだこな理由が納得できないでいたところ、今回の映画を見ると、さすが当代有数の売れっ子俳優だなと納得がいきました。 
 本ばかり読む寡黙な人間でありながら、一方で自分が深く愛する直子に自殺され、他方で緑に愛されてしまうという非常に難しい役柄を、説得力ある演技でこなしています。



 ただ、緑に扮した水原希子は、下記の渡まち子氏も言うようにどうもいけません。米国人と韓国人のハーフで、アメリカ生まれ、モデルの経験はあるものの本作で映画デビューというのでは、期待する方が無理とはいえ、本来なら重要な役だけに、実力のある女優を起用すべきだったでしょう(とはいえ、この映画では、原作と異なって主人公と直子との関係にかなりウエイトを置いているので、若くて綺麗なだけが取り柄という女優でも構わなかったのかもしれませんが)。





(注)映画『ゲゲゲの女房』を巡っては、クマネズミとは違い、水木しげるの奥さんが書いた原作本の雰囲気などが違っているからダメという意見どころか、それに基づいて制作された連続テレビ小説から期待されるものと違っているからダメという意見まで登場しました!
 『ゲゲゲの女房』も今回の映画もソウですが、著名な原作(小説、漫画あるいはTVドラマなど)があると、それらに基づいて一定の期待(あるいは予想)をもって人々は映画館に足を運ぶのでしょう。その挙げ句、事前の期待とか予想と外れた内容を見せられると、その作品をこき下ろすことになるのでしょう。
 でも、映画には、そうした先入観をぶちこわす役割もあるのではないでしょうか?だって、原作から一定の感想が得られたのなら、それはそのままにしておけばいいのであって、どうして映画で同じものをもう一度味わう必要があるのでしょうか?
 なお、『ゲゲゲの女房』について、「朝になるたび、いきものがかりの歌が頭に浮かぶ病に犯されている」評論家・前田有一氏は、「NHKのドラマが無料で見られる事を考慮すると、同じ話をわざわざ1800円払ってみるだけの魅力が本映画にあるかというと微妙なところ」などとのトンデモ論評をしているところ、本作についても(下記(3)参照)、「よくこれほどに原作のムードに忠実に映像化したものだと驚かされる」などと、今度は原作に「忠実」という点を捉えて高く評価しています。ここまで姿勢が一貫していると、さすがと言わざるを得ませんが!


(2)この映画で強く印象に残るのは、直子が入っている療養所(阿美寮)の近くの草原の光景だと思います。
 原作においては、この阿美寮は京都の北部にあって、三条にある私鉄バスのターミナルからバスに乗って「だいたい1時間少しかかる」ところとされていますが(角川文庫・上P.188)、太宰治の『パンドラの匣』とは違い架空の療養所であり(注1)、原作で描かれている周囲の風景も作者が作り上げた架空のものでしょう(注2)。
 それを実写化するにはどこであってもかまわないとはいえ、この映画が選定した兵庫県神河町の砥峰高原は、まさにうってつけです(注3)。
 遠くには山が見えるものの、あたり一面草原が大きく広がっていて、その中を2人が歩いたり寝そべったりするシーンは、この映画のハイライトと言えるのではないでしょうか(なにより、下記の前田氏が、「映画史上もっとも美しいブロウジョブとして、人々は菊地凛子の名を記憶にとどめることになるだろう」と絶賛するシーンも描き出されているのですから!)。

 それに、草原の草木が風で大きく揺れるシーンにも素晴らしいものがあります。
 木々が風で大きく揺れる光景については、河瀬直美監督が以前から意識的に映画の中で描いていましたが(注4)、この映画においても、風はとても効果的に使われていると思います。
 ただ、この映画の風は、自然の風の持つ優しさが見られず、すごく威圧的な感じが付きまといます。
 あるところで、主演の松山ケンイチが述べていましたが、京都の山奥の高原で強い風に主人公と直子が煽られる場面では、上空にヘリコプターを飛ばして激しい風を巻き起こしたようです(注5)。そうなるとこの映像で見られる風は、何事かを監督が意図的に象徴させているといえるでしょう(例えば、主人公と直子の心的状況といった)。だとすると、そこには、観客が自由に様々に読み込める自然の風を映像化している河瀬監督との違いを見て取れるのではと思いました。



(注1)昨年の11月14日の記事に書きましたように、太宰治が小説で描いた「健康道場」には、「孔舎衙(くさか)健康道場」という実在するモデルがあります。

(注2)とはいっても、何もないはずがないとしてモデル探しが行われています。たとえば、このサイトでは、「鞍馬の先の大悲山にある『美山荘』」だとされていますし、別のサイトでは、もうひとつ「京都北山修道院村」が挙げられています。

(注3)ちょうど、この映画のロケ地(兵庫県神河町大河内高原〔砥峰高原・峰山高原〕)の写真と原作の文章とを比べて掲載しているサイトがありました(「「ノルウェーの森」ロケ地情報」)。

(注4)初期の『萌の朱雀』(1997年)や、『殯の森』(2007年)とか『七夜待』(2008年)などでも見られますが、クマネズミには、兄が神隠しにあう『沙羅双樹』(2003年)で描かれた木々の揺れが印象的です。

(注5)劇場用パンフレットに掲載されている撮影監督の李屏賓(マーク・リー・ピンビン)氏のインタビュー記事によれば、「撮影を行った場所は山の高い位置にあったので、風を吹かせるのが非常に困難だった」からヘリコプターを使ったとのこと。


(3)映画評論家の見解は分かれるようです。
 前田有一氏は、「原作と比較すれば当然いろいろ省略されているが、違和感はない。むしろ、よくこれほどに原作のムードに忠実に映像化したものだと驚かされる」し、菊池凛子も「透明感と陰の両方を併せ持つ直子というキャラクターを、完全にものにしている。主人公をどこか寄せ付けないようにも、かといって手を放したら消えて無くなりそうにも見える、一筋縄ではいかないヤンデレな魅力をものの見事に表現した」などとして75点をつけています。
 他方で、渡まち子氏は、「問題は、ルックスは可愛らしいがあまりに演技がヘタクソな、緑役の水原希子。そんな彼女に長ゼリフは酷というものだ」としながらも、「この映画の最大の個性は、ベトナム系フランス人で、映像美でならすトラン・アン・ユン監督がメガホンをとっているということ。個人的には、村上春樹の世界には、もっとドライな空気がふさわしいように思うのだが、それはさておき、トラン・アン・ユンらしいしっとりとした美しい映像は堪能させてもらった。撮影は名手リー・ピンピン。深い森を思わせる物語に、日本の四季の移ろいをとらえたビジュアルの美しさが加わり、繊細な余韻を残している」などとして50点を与えています。



★★★☆☆





象のロケット:ノルウェイの森
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武士の家計簿

2010年12月24日 | 邦画(10年)
 『わたし出すわ』の森田芳光監督の作品であり、また原作本を出版直後に読んだことがあり、その内容はすっかり忘れてしまっているものの、やっぱり『武士の家計簿』は見なくてはと思い、渋谷シネパレスに行ってきました。

(1)この映画は、小説とか漫画に基づいて制作されているわけではなく、同タイトルの新潮新書(磯田道史著、2003年)を原作としている点がユニークと思われます。
 ただ、そのためもあってか、どうしても何かのドラマの背景説明といった感が拭えず、見終わると、本当にこれだけなのと考え込んでしまいます。
 なにしろ、加賀藩の御算用者8代目の猪山直之(堺雅人)を中心に、その父親・信之(中村雅俊)とその息子・成之の、どこまでも平穏無事な暮らしぶりを描いているにすぎないのですから。



 確かに、この映画で描き出される武士の日常生活の実際の有様には、これまでほとんど目を向けられませんでした。何となく、家の中は誰かがうまく差配していて、武士はそんなことに頓着せずに天下国家のことなどにかまけていたのでは、と思い込んでいました。
 ですから、こうした日常生活(弁当持参で城に出向き、太鼓の合図で一斉に仕事に取りかかったり止めたりするなど、現代のサラリーマンを髣髴とさせます)の細々したことには興味が惹かれます〔でも、休日はどうだったのでしょう(注1)。まさか週休2日制というわけではありますまい!〕。

 とはいえ、それはあくまでも背景にすぎないのではないのか、それを前提に何か大波乱が起きるのでは、と大方の映画ファンなら予想するのではないでしょうか。ですが、ラストに至っても、主人公の孫に相当する人物が海軍に入ったことをナレーションで紹介するだけなのです。
 確かに、百姓一揆に関連して、直之が、藩経理の不正を暴き出すエピソードが映画では描き出されています。そうした内部告発的行為に対して、保守派の圧力がかかり、直之は能登の閑職に飛ばされる寸前にまで立ち至ります。
 ですが、そこに行って辛酸を舐めることにはならずに、かえって出世してしまうのですから(この件がきっかけで、直之は、藩主の側近(「御次執筆役」)に取り立てらます)、ドラマ性が酷く乏しいのです〔なお、この事件は原作に記載されていないようです(注2)〕。
 たとえば、原作の新潮新書を見ますと、直之や成之は、幕末-維新のころ丁度江戸(東京)にいたのですから、そこに面白いエピソードを創り上げることも可能ではないでしょうか(特に、直之は、「藩主の側近中の側近」とのことですから〔P.160〕)?
 それに、直之の三男の兵助は日露戦争で戦死し、また成之の甥はシーメンス事件にかかわったとの廉で官界から追放されたりしていて、ここまで来ると決して猪山家も平穏無事だったわけではないことが明らかになります(注3)。

 逆に、映画がここまで日常生活に拘るのであれば、原作に記載されているもっと様々な点をも映像化してみたらよかったのかもしれません。
 たとえば、親戚の冠婚葬祭への出席風景です。その際には花代を包んでいく必要があり、これが猪山家の家計を相当圧迫したはずなのです。
 また、成之はいとこのお政と結婚しますが、原作では、成之とお政の「縁組(婚約)」が成立しても、直ちに「結婚」に至るわけではなく、「お試し期間」が3カ月ほど設けられて、その挙句にお輿入れと「披露宴」があったとあります。江戸時代にあっては、家と家との取り決めだけで結婚が行われていたのでは、との常識を覆すやり方が採られていたようであり、実に興味をひかれます。こういったことも、映像化してみたら面白いのではないでしょうか?

 というようにストーリー面で物足りなさがあるせよ、これだけ芸達者な配役陣が揃うと、観客側も安心して見ていることができます。
 表面的には頗る大人しそうに見えても、芯には実にしっかりしたものがあるという猪山直之を演じる堺雅人は、まさに適任といえるでしょう。



 その妻のお駒に扮する仲間由紀恵は、なんだか『Flowers』の「慧」の姿とダブってしまいましたが、(「慧」は、自分の体のことをも顧みずに子供を産みます)、江戸時代の武家の妻ですからやむを得ないものの、もう少し派手な出番があってもと思いました(注4)。
 その他の役者の中では、直之の祖母を演じている草笛光子が出色でした。なにしろ、年寄りにもかかわらず、あの数学書『塵劫記』を手にして問題を解いていた姿には驚かされました(注5)。それでも、草笛光子ば演じていると、さもありなんという感じにさせられます。

 全体としてホノボノ感が横溢しているホームドラマ的な作品ですが、配役陣に救われて、まずまずのレベルになっていると思いました。


(注1)江戸時代における武士の「休み」はどのような実態にあったのでしょうか?
 そんな簡単そうに見えることを調べようとすると、江戸時代を巡る本が相変わらず陸続と出版されているにもかかわらず、なかなか適当なものに遭遇しません。
 そうした中で、西沢淳男氏の『代官の日常生活―江戸の中間管理職』(講談社選書メチエ、2004)は頗る貴重な文献といえるでしょう。
 同書(P.156~)によれば、江戸の馬喰町御用屋敷詰代官・竹垣直道の日記に窺える勤務状況からすると、1850年(嘉永3年)の1年間(354日)について、役所の業務が行なわれていたのは333日間で、残りの21日半が休日、うち2日は同年の臨時的なものですから、定例的には19日間が休日でした。この中には、正月とかお盆の休みとか山王祭りの日などが含まれます。
 現在の日本の祝日は15日(先進国で最多)、さらに夏休みとかお盆休みがあったり、加えて週休2日制も導入されていますから、19日の休日では酷く少ないようにみえます。
 ですが、同書によれば、代官自身は4時間勤務であり、役所も6時間勤務体制にありました。とすると、勤務日数は現代と比べて多いものの、勤務時間からすればあるいは気楽な稼業だったのかもしれません。
 とはいえ、実際のところは、「多彩な交際や出張」などのため、勤務時間でなくともそんなに暇ではなかったようですが。

(注2)月刊『シナリオ』1月号掲載の脚本家・柏田道夫氏インタビューによれば、元は加賀藩の細工場という工芸部門を巡るエピソードだったものを、長くなってしまうために「百姓一揆の話に変えた」とのこと(P.17)。

(注3)上記インタビュー記事には、「人物としては、三代目の成之が一番ドラマティックなんですよ。……そういうエピソードに惹かれて最初は、成之を主人公にした幕末青春物みたいな話も考えたんですね」とあります(P.16)。

(注4)上記インタビュー記事によれば、これでも「仲間さんの見せ場がいるだろう」と、「夫婦愛の方により比重を増やそう」したとのこと(P.15)。

(注5)2010年の「本屋大賞」で第1位となった『天地明察』(冲方丁著、角川書店)では、主人公の渋川春海に老中酒井雅楽頭が「塵劫は読むか?」と尋ねられて、「そのつど新たに出たものを嗜んでおります」と答える場面が描かれています(P.67)。


(2)この映画を見る前に、偶々、友人の薦めで文春文庫『天皇はなぜ万世一系なのか』(本郷和人著、2010年)を読んでいて、「世襲」に興味が湧いていたことから、この映画のそうした点にも目が向きました。
 というのも、この映画の主人公直之の父親は、猪山家に婿養子に入っているのです。すなわち、主人公直之の祖父に当たる綏之(やすゆき)には男子がいなかったので、娘(松坂慶子)に婿養子を取っています。



 原作によれば、こうした「婿養子はすこぶる日本的な制度」であって、「中国や朝鮮には婿養子は少ない」とのこと(P.29)。すなわち、「「祖霊は男系子孫の供物しかうけつけない」とする厳密な儒教社会からみれば、日本の婿養子制度はおよそ考えられない「乱倫」の風習」ですが、社会学者の坪内玲子氏よれば、「加賀藩士は、三人に一人以上が「御養子さん」」だったようです(P.30)。
 主人公直之の父親信之の実兄は、「すでに前田家直参の御算用者に召し抱えられていた」ために、次男の信之は猪山家に養子に入って、暫くしたら実兄同様御算用者に採用されているのです。

 ところで、『天皇はなぜ万世一系なのか』において、著者の本郷和人・東大准教授は、「土地が生み出す恵に支えられた家を、父から子へ、子から孫へと受け継いでいく、それが世襲であり、世襲は武家社会を成り立たしむる根本的な原理だった」と述べていますが、さらに、「世襲は、理念として「血」より「家」」だとし、「当時の人々にとり大事なのは、「血の継続」ではなく、「家の継続」」などだと書いています(P.149~P.152)。
 例としては、鎌倉幕府で「源氏将軍が三代の実朝で絶えたとき」、「頼朝の男系の孫や甥が数人いたにもかかわらず、彼らを無視して京都の摂関家から新将軍を選」んだこととか、江戸時代において、「養子を迎えることが盛んに行われていた」ことなどが挙げられています(P.175)。
 この映画の主人公である直之の父親信之は、まさに「世襲は血ではなく、家」という法則の実例そのものと言えそうです。

(3)渡まち子氏は、「チャンバラだけが時代劇ではない。物語だけが原作ではない。刀だけが武器ではない。この映画は、固定概念を崩し、物事を違う角度から見直すことで、活路を見出すチャンスがあることを示してくれる」「そろばん侍の生き方が、私たちにこんなにもたくさんの生きるヒントをくれるとは。主演の堺雅人をはじめ、出演する俳優たちが皆、絶妙な演技で素晴らしい。何より、監督の森田芳光の的確な演出手腕が光った。このタイムカプセルの中には、家族愛があふれている」として75点をつけています。



★★★☆☆



象のロケット:武士の家計簿
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酔いがさめたら、うちに帰ろう。

2010年12月18日 | 邦画(10年)
 ことさら「海老蔵事件」があったからというわけではなく、好きな俳優の浅野忠信が出演しているというので、『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』を見に、テアトル新宿に行ってきました。

(1)浅野忠信については、『乱暴と待機』でその健在ぶりを目の当たりにしたばかりですが、今回の作品も、瞠目すべき演技を披露してくれました。
 何しろ、10回目の吐血で、実家のトイレを血の海にしてしまうほど酷いアルコール依存症の男を演じているのですから!
 すでに妻(永作博美)とは離婚し、子供たちとは週に1回会うことになっているだけの境遇に落ちぶれて、朝から夜まで飲み続けてばかりいるのです。
 映画の冒頭も、若い人が大勢入っている居酒屋で、ビールをがぶ飲みし、意識不明となって救急車で家に運び込まれるという有様。
 覚めてからは大人しくなり、家の者にも医者にも、もう絶対に飲まないと言いながら、一人になると、奈良漬くらいはかまわないだろう、ビール1杯くらいならいいのでは、日本酒1缶だけなら、などとどんどん酒量が上がり、またもや意識を失って倒れてしまいます。



 ついには、通院では治せないとして、精神病院のアルコール病棟に入ることになります。ここなら閉鎖病棟ですから、アルコールにはありつけませんが、今度は他の患者との関係が難しくなってしまいます。
 それでも、なんとかいい方向に向かっていると思ったら、今度はなんと……とのこと。本当に世の中はままならないものです。

 と綴ってしまえば、この映画は、一人のアルコール依存症の男の酷い話ということになってしまいますが、実際はそんなことはありません。
 むしろ、浅野忠信がこの男を演じていることもあって、確かに、酒を飲むと人格が変わってしまい暴れ出すのですが、それでも実に愛すべき人物であることはうかがわれ、誰も彼を放ってはおけないのです。



 特に、別れたはずの妻は、自分の漫画家としての仕事が忙しいにもかかわらず、彼のことを心配し、世話をしようとするのです。また、子供たちも父親を突き放そうとはせず、毎週の食事会を楽しみにしているようなのです。
 妻が「これでも家族なのかしら」とシミジミ言うと、子供たちが嫌な顔をするので、「やっぱ家族なんだ」と言い直しますが、そのシーンがとてもいいなと思いました。

 この映画は、アルコール依存症という側面から見れば、不十分なのかもしれません(注)。実際には、こんなほのぼのとした雰囲気が漂うことなど稀なのでしょう。
 ですから、むしろ、アルコール依存症を仲立ちにして(?!)描かれる家族愛の物語と捉えた方が座りがいいのではと思われます。
 元より、アルコール依存症のことをきちんと映像化するのであれば、ドキュメンタリー映画に若くはないでしょう。むしろこの映画は、私小説の原作に基づいたフィクションなのですから、そう考えれば大層ヨクできているなと思いました。

 そうしてみると、浅野忠信もさることながら、永作博美の類い稀な演技も注目に値すると思われます(そういえば、『腑抜けども、哀しみの愛を見せろ』(2007年)でも、夫からひどい仕打ちを受けてもその家から離れようとはしない妻の役を実にうまく演じていました←どちらの映画でも夫に投げ飛ばされますが、小柄なので、ボールのように転がってしまいます!)。

(注)劇場用パンフレットに掲載されている原作者の母親の鴨志田千幸氏のエッセイによれば、「映画の中の穣と現実の穣は、まるっきり違います」とのこと。

(2)アルコール依存症(注1)ということで、浅野忠信は、精神病院のアルコール病棟に入ることになりますが、映画の中でも言われるように、精神科医は、この病気に対して有効な治療ができるのか、疑問に思えてしまいます。
 治療の最初に、精神科医は、アルコール依存症になったことに何か心当たりがあるのかを当の患者から聞き出そうとします。ですが、浅野忠信は、そんなことをしてなにか治療に役立つのかと聞き返します。
 確かに、精神科医にとっては、原因究明は必要不可欠なのかもしれませんが、それがわかったところで、治療できるのかと言えば、そう簡単には問屋が卸さないはずです。
 たとえば、この映画の場合、浅野忠信の父親も同じようにアルコール依存症で、かつ家族を顧みなかったようですから、そういったことがトラウマになっているのかもしれません(注2)。また、彼の職業は“戦場のカメラマン”で、目をそむけたくなるような悲惨な現場を沢山見たことが病気の引き金になっているのかもしれません。
 いずれにせよ、そうした原因が特定できたとしても、そんな情報は、現在の彼がアルコールから脱出するには余り役に立たず(注3)、アルコール病棟における患者同士の相互監視と、アルコールを飲むと吐き気を催す抗酒剤の服用くらいしか方法はなさそうと思ってしまいます(注4)。

 ここで一つ問題だと思える点は、アルコールがアルコール依存症という「病気」をもたらすのであれば、なぜその販売を認めているのか、ということです。
 同じように依存症をもたらす覚せい剤の場合には、取引・使用はもちろん、それを所持するだけで犯罪です。
 依存症の症状やそうなる確率などからみて、アルコールと覚せい剤とは違うのだとも考えられるものの、200万を超えるオーダーでアルコールが病人を作り出していることはどうやら確かなことのようです。
 たとえば、タバコについては、相変わらず販売されてはいるものの、ニコチン依存症がいわれ、また肺がんとの関係が強調され出したことから、随分と吸引が規制を受けるようになってきました。
 また、日本はワクチン後進国とされていますが、そうなった大きな理由は、ワクチンが副作用をもたらすから厚労省が認可しないことにあるとされています(注5)。副作用も「病気」でしょうから、そうであるなら、他方で、依存症という病気をもたらすアルコールの方はなぜ野放しになっているのでしょうか?

 とはいうものの、気分転換を図るのに、人とのコミュニケ-ションをスムースにするのに、アルコールが大きな役割を果たしていることも事実でしょうから、話は大変難しくなって、簡単に割り切れるものではなくなってしまいます。


(注1)雑誌『現代思想』の12月号は、「特集-新しい依存症のかたち」とされていて、興味深い記事が掲載されています。
 特集の冒頭記事は、作家で精神科医のなだいなだ氏の「四十六年後の問題提起」ですが、その中では、「アルコール依存症は、現在では病名として定着している」が、つい最近までは、ソウした人たちは「アル中」といわれ、酒も止められない意志の弱い人間だとみなされてきた、などと述べられています。
 ただ、病気だとすると、周囲の人も「仕方がない」と許せるようなのですが、その数の多さから、「病気だから医者が治す」ということには直ちにはならず、「患者が自分で治す」しかなく、それで自助組織が治療の主体となっている、とも述べられています。この映画で描かれている「アルコール病棟」もソウした動きの一つと言えるのでしょう。

(注2)上記雑誌の特集には、文化精神医学の宮地尚子氏の「薬物依存とトラウマ-女性の依存症を中心に」という論考が掲載されていて、そこでは、「薬物依存、および依存一般がトラウマと強い関係があることは、すでに多くの研究で示されている」と述べられています。

(注3)上記注2で取り上げた論考で、宮地氏は、「薬物依存からの回復を目指すにあたって、トラウマ症状の生むやそれへの対処法などを本人や周囲が理解することには、大きな価値がある」と述べていますが、希望的観測と思えてしかたありません。

(注4)上記雑誌の特集には、「「回復」につきあいつづける」との「討議」記事が掲載されていて、その中では、たとえば「薬物依存や乱用を一過性の病気として見るのではなく、慢性疾患として見ろ」と行っている人として日本ダルク代表の近藤恒夫氏が紹介されています。
 今回の映画でも、本文にも書きましたように、断酒した後に、奈良漬から一気に元のアルコール依存症に戻ってしまうシーンが描かれています。、
 また、先日見た『マチェーテ』に出演しているアメリカの女優で歌手のリンジー・ローハス(1986年~)は、作品というよりも私生活のスキャンダルで名を売っていますが、そのスキャンダルというのがなんとアルコール依存症であり、薬物依存症なのです。
 wikiの記事によれば、彼女は、「女性刑務所」への入所、「禁酒教育プログラム」の受講、「アルコール・薬物依存症の更生施設」への通院、といったことを繰り返しているようです。

(注5)NHK「クローズアップ現代」の12月6日放送(このサイトを参照)。


(3)〔追記〕依存症でもう一つ怖いのは、「パチンコ依存症」ではないでしょうか?
 最近、小飼弾氏のブログ記事で知って若宮健著『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』(祥伝社新書、2010.12を)読んでみたのですが、例えば、「毎日、パチンコで負けている人たちを見続けている店員も、依存症になるとは……。何とも、恐ろしい存在がパチンコなのである」などと述べられています(P.82)。
 そういえば、朝日新聞書評で取り上げられた漫画『闇金ウシジマくん』(真鍋昌平、小学館)でも、第一巻の冒頭に描かれているのがこの依存症の主婦たちの姿です!
 ただ、ここまで踏み込むと、インターネット依存症、買い物依存症など、対象はどんどん広がってしまい、途方に暮れてしまいますが(『裁判中毒』(角川oneテーマ21)を著している著者は依存症とは無縁なのでしょうか?)!

(4)この映画は、鴨志田穣氏の私小説を原作としてますが、その妻が漫画家・西原理恵子氏であったことから、映画ではイラストを制作しているシーンが何度か描かれています。



 映画には、彼女が描くイラストがいくつか挿入されていますが、その中に女の子が中年の男性と並んで背中を向けて立っているイラストがあるところ、何となく『パーマネント野ばら』の原作漫画の、主人公と中年の叔父さん(主人公の妄想)とが砂浜で並んで座っている場面と似ている様な雰囲気を感じます。
 この漫画を原作とする映画では、それは主人公の高校時代の先生とされていますが、もう一つの解釈として、亡くなった鴨志田氏ということも成り立つのかなと思いました。

 なお、西原理恵子氏関係の映画は、本作品を含めると、昨年から今年にかけて3本も見たことになります(他に、『女の子ものがたり』と『パーマネント野ばら』)。

(5)渡まち子氏は、「浅野忠信のどこかひょうひょうとした演技のおかげで、主人公の心が回復して行くプロセスが穏やかな時の流れに思えるのがいい。……自分自身の弱さと支えてくれる家族の重みを知った主人公の心のカメラには、深い愛情が記録されたに違いない。黙々と仕事をしながら、母として妻として安行を支える由紀を演じる永作博美が素晴らしい。彼女の強さと弱さの演技がいく層にも重なって、作品を味わい深いものにしている」として65点を与えています。



★★★★☆



象のロケット:酔いがさめたら、うちに帰ろう。
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信さん

2010年12月11日 | 邦画(10年)
 『信さん・炭坑町のセレナーデ』を銀座シネパトスで見てきました。
 銀座シネパトスは、昨年末『黄金花』を見に出かけた映画館であり、それ自体は相変わらずの佇まいながら、周囲のビルは、短い間でも随分と立派なものになっています。特に、三越銀座店の拡張工事が完成し、場違い感は一層募っています。
 でも、新宿西口もそうですが、近代的な立派なビルのすぐそばに、高度成長以前の風情を残している界隈がいまだに存在するというのは、日本の都市の有様を象徴している貴重な光景といえるでしょう。
 なにしろ、このままビルをドンドン新しくしていけば、日本も西欧入りだと考える単細胞的な輩に対して、お前たちの原点はこうした一杯飲み屋街なんだよ、との現実を突きつけているのですから。
 とはいえ、時折聞こえる地下鉄の轟音が、映画のサウンドと区別がつかない感じがしてしまうのは困りものです。

(1)さて、この映画は、映画館・銀座シネパトスを取り巻く飲み屋が象徴するような昭和30年代を舞台にしています。それも、九州の炭坑町におけるお話です。
 映画は、炭坑のある島に向かうフェリーに乗っている美智代(小雪)と守の親子の姿から始まります。
 数本の巨大な煙突が見える島に向かうのですから、これは軍艦島における物語なのかと思っていると、その後のシーンでは、島を取り囲む海があまり見えなかったり、軍艦島の特徴と言える巨大な団地も見当たりません。次第にこの作品では、様々な土地でのロケをつなぎ合わせた夢のような話が描かれているのだなとわかってきます(何より、小さな島には、あのような大きなボタ山はそぐわないでしょう)。
 そうだとしたら、細かいことに余り拘るべきではないのでしょう。
 たとえば、小雪のような女性がいきなり炭坑町に出現したら、とても荒くれ男たちが放ってはおかないのではと思われるところ、むしろ都会よりも静かな生活(洋裁店)を営んでいるようなのです。
 また、親のいない信一は、親戚の家(光石研大竹しのぶの夫婦)に引き取られて生活しているものの、決してその家で厄介者の扱いを受けているわけではなく、その家の娘・美代に兄と慕われています。でも、小雪に出会った途端、小雪が信一にとっての憧れの女性になってしまうのです。
 それも、母親を慕うというより恋人的存在として憧れるというのですから、年齢差を考えてみたらなかなか理解が難しいところでしょう。
 ですが、小学校の担任として赴任してきた大学出立ての若い女性が生徒の初恋の人になってしまう、ということはないわけではありませんから、そんなところは大目に見ることにいたしましょう。
 ただ、ラストの守のナレーションでは、好きだった美代とその後1度連絡をとったことがあるだけ、と厳しい現実が述べられているところ、もっと大雑把に余韻を残すやり方もあるのではと思えたところです。

 映画でやたらとノスタルジーを掻き立てられたくないものですから、クマネズミにとってこの作品の良さは、小雪の美しさをたっぷりと味わうことができる点だと言えます。確かに、小雪は『Always 三丁目の夕日』(2005年)にも出演しているものの、今度の作品では主役を演じている点が大いに違っていると思います。
 さらに言えば、昨年の『わたし出すわ』では主役でしたが、むしろ小池栄子に食われてしまった感がありますし、同じく昨年の『カムイ外伝』における女忍者姿もややどうかと思いましたから、この映画は小雪ファンにとり貴重な作品と言えるのでしょう。

(2)この作品は、『フラガール』(李相日監督、2006年)と類似するところがあるのは誰でも気づくところでしょう。



 この映画は北九州の炭坑町の話ですし、『フラガール』も常磐炭坑の話です。『信さん』は昭和30年代の後半から昭和40年代の前半あたりを取り扱っていますし、『フラガール』も昭和40年の話とされます。それに、映画で描かれる炭坑町も、両者の距離は相当離れていながらも、かなり似通った作りをしています。
 また、『信さん』で在日朝鮮人の役を演じる岸部一徳が、『フラガール』では炭坑会社の職員になっているところなどにも興味を惹かれます。
 とはいえ、『フラガール』は、炭坑会社がレジャー施設に転身して生き残りを図ろうとする話なのに対して、『信さん』は、爆発事故の後、炭坑が閉山し、町の人々も次第にちりじりになってしまうというストーリーですから、両者の違いは大きなものがあるとも言えそうです。
 なにより、『フラガール』で中心的な役割を果たす蒼井優は少女であり、他方『信さん』の主役の小雪は子持ちの母親の役ですから、両者の間には年齢差がかなりあります(むしろ、ダンス講師役の松雪泰子を持ち出すべきかもしれませんが)。また、蒼井優の兄・洋二朗(豊川悦司)は、『信さん』における信一(中岡卓也)に対応するでしょうが、一方の洋二朗は炭鉱が閉山となるまで働き続けると思われるところ、他方の信一は鉱山の爆発に巻き込まれてしまいます。
 これは、同じ様に炭坑町を取り上げている作品ながら、『フラガール』の方は、新しい動きの方を重点的に描いているのに対して、『信さん』の方は、消えゆく炭坑の運命を描くことに焦点をあてているからと言えるのではないでしょうか?

(3)面白いことに、最近見た『へヴンズ ストーリー』(瀬々敬久監督)とも、つまらない点ですが、関係してきます。
 一つは、『へヴンズ ストーリー』で、復讐請負人・カイジマという酷く難しい役柄を大変うまく演じた村上淳が、この映画では、炭坑会社の社員で、かつ美智代を憎からず思っている男の役で登場しています。
 村上淳については、『必死剣・鳥刺し』において連子に入れあげる藩主の役を演じたのを見てから注目するようになりましたが、『ゲゲゲの女房』でも、主人公夫婦が暮らす家の2階に間借りしているうらぶれた似顔絵書きとしても登場しています。
 『信さん』では、極く真っ当な役を演じているものの、どちらかといえば、狂気を胸に秘めた正統から外れたような役柄に合っているような感じを受けています。

 もう一つは、鉱山の廃墟という点です。
 『へヴンズ ストーリー』に登場する佐藤浩市は、カイジマによって射殺されますが、その舞台となるのが、岩手県にある松尾鉱山の社宅跡です。



 こうした光景には、北九州の炭坑跡で見かける廃墟が対応するでしょう(下は軍艦島の廃墟)。



 今回の『信さん』では、廃墟になる前の炭坑町を取り扱っていますからこんな光景は登場しませんが、それでも、子供たちが野球をするグランドの背後に聳える竪坑櫓は、錆ついていて廃墟さながらです。



 とすると、もしかしたら、『信さん』における野球の場面は、米国映画『フィールド・オブ・ドリームス』(1989年)のように、守の見た夢の中の出来事だったのかもしれません。
 もっといえば、冒頭とラストとの間で何年経過しようが小雪の容貌が少しも変わらなくとも、すべて夢の中の話としたら問題にすべきではないのかもしれません!

(4)渡まち子氏は、「高度成長期の昭和が舞台だが「ALWAYS 三丁目の夕日」の陽性なノスタルジーとは違い、ここでは、懐かしい昭和の風景と共に、繁栄から取り残される地方の町の悲哀をも描いていく。過去を美化するわけでもなく、かといって過度に悲壮になるでもなく、日常のディテールの積み重ねと時代の変化を淡々と描くことで、庶民の持つ哀しみとたくましさを浮き彫りにした演出が、クレバーだ」として65点をつけています。



★★★☆☆



象のロケット:信さん
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行きずりの街

2010年12月08日 | 邦画(10年)
 『行きずリの街』を丸の内TOEIで見てきました。

(1)この映画を制作した阪本順治監督については、佐藤浩市が出演した 『トカレフ』(1994年)以来注目してきたこともあって、見に出かけたわけです。

 物語は、丹波篠山で塾を開いている主人公の波多野(仲村トオル)が、東京に行ったきり行方不明になっている教え子の広瀬ゆかり(南沢奈央)を探し出そうと上京したところから始まります。
 その過程で、波多野は、12年前に別れた雅子(小西真奈美)に再会する一方で、教え子探しが深みに嵌り込んで、以前いたことのある学園で引き起こされた陰湿な事件にまで辿り着きます。



 再会した波多野と雅子の関係はどうなるのでしょうか、また学園の事件とはどんな内容であり、波多野は広瀬ゆかりを無事に探し出すことができるでしょうか、……。

 まさに、劇場用パンフレットの「Introduction」が言うように、「謎が謎を呼ぶミステリアスな世界観と大人の恋愛劇」とが合体したものといえるでしょう。
 加えて、このところ進境著しい仲村トオル(『接吻』など)が主演で、相手役に何かと話題の小西真奈美(『のんちゃんのり弁』)や、それに窪塚洋介(『パンドラの匣』)、石橋蓮司(『今度は愛妻家』)、江波杏子など、錚々たる配役陣であることは間違いないでしょう。



 そして映画自体、面白くないわけではありません。
 ですが、何か乗り切れなさも感じてしまいます。

(2)そこで、原作(志水辰夫氏による同タイトルの小説)に当たってみることといたしましょう。
 むろん、映画と原作とは無関係と割り切るべきであり、小説と映画とがいろいろな点で違っているからといって、その映画の出来栄えに問題があるということに直ちにはならないでしょう。
 ただ、映画の問題点を探る上で、一つの大きなよりどころにはなるものと思われます。

 さて、原作は、全体的にハードボイルド仕立てになっているように思われるところ(なにしろ、書名に“行きずりの”とあって、如何にも格好が良いのです)、英語タイトルが“Strangers in the City”とされる映画作品からは、そんな感じがほとんどしてこないのです。

・まず、こうした雰囲気の作品ではふんだんに登場するはずの拳銃が、映画には全く出てきません。
 原作の方では、ラストで、池辺理事(映画では、石橋蓮司が演じます)は座布団の下から拳銃を取り出します(新潮文庫版P.339)。
 ですが、映画の方でも格闘場面はあるものの、登場人物は手で殴ったり足で蹴ったりするだけで、武器といえば、黒板の上部に隠されていた木刀を波多野(仲村トオル)が振り回すぐらいです。

・ですから、原作の方では、その拳銃によって木村美紀(映画では佐藤江梨子が扮します)や中込(窪塚洋介)が死にますが、映画では、いうまでもなく拳銃によって死ぬ者はおりません。
 なお、映画の方でその死が確認されるのは、池辺理事と、広瀬ゆかり(南沢奈央)が身を寄せていた角田(うじきつよし)くらいです〔後者については、実際に殺される場面は描かれませんが〕。

・クマネズミは、こうした映画ならば、少なくとも雅子(小西真奈美)が、たとえば拳銃の流れ弾に当たって死ぬといった悲劇的な場面が最後の方で用意されているのではないかと思っていたところ、拳銃が使われないのですからそんなことは起きるはずもなく、あろうことか、ラストは、波多野と雅子と広瀬ゆかりが手を取り合って笑いながら現場を立ち去るという、至極ホームドラマ的シーンなのです(とはいえ、原作でも、この3人は生き残るのですが)!

・原作でも、主人公波多野の出身地は丹波篠山であり、現在もそこで塾の教師をしていることになっていますが(P.49)、あくまでも説明されるだけで、そこでの行動は一切描かれてはいません。小説で描き出される舞台は、元麻布の真新しいマンションとか、外苑西通り、六本木、といった東京でも流行の先端を行っている、ハードボイルドにはうってつけの場所ばかりです。
 他方、映画の方では、はっきりと明示はされていませんが、波多野が講師をしている田舎の塾の様子とか、波多野の住まい(土間の大きな農家仕立ての家です)まで描き出されます。

・原作では、波多野は2年おきぐらいに東京に出向いていることになっていますが(P.50)、映画では、雅子と別れてから12年間、一度も東京に来たことがないとされています。こんなに間隔が開いてしまったら、東京で大活躍しようにも、勘が鈍ってしまってとてもできない相談になってしまうでしょう!

・映画では、雅子の家でシャワーを浴びる波多野に、雅子が下着を用意したところ、波多野は雅子に対して、「これは彼氏用のものではないか」となじります。実際には、波多野がシャワーを使っている間に、雅子が近所のコンビニで購入してきたもの。ですが、そんな事情を雅子からわざわざ聞かずとも、下着が新品かどうかは、すぐにわかりそうなものなのにと思ってしまいます。
 これに対して、原作の方では、新品であることはすぐにわかりながらも、サイズがピッタリなことにこだわって、雅子の現在の彼氏の存在に波多野が思わず嫉妬しまったことを暴露してしまうのです(P.281)。これならば、なじったことの心理的な意味合いが、読者にすんなりとはいってくるでしょう。

(3)このように、映画の方では、ハードボイルド的なところをあまり見かけることはできませんが、逆に、原作の入り組んだストーリーを刈り込んでスッキリとさせ、その上で波多野と雅子の再会と和解(要すれば、ラブストーリーの方に)に比重を置いて描いているように思われます。
 たとえば、原作では、池辺理事たちが殺したのは、映画のように前理事長ではなく、その妻ということになっています。原作では、池辺理事たちが、前理事長を追い出すべく、彼と雅子の母親との不倫関係をネタに脅しをかけたところ、自ら命を絶ってしまったとされます。
 残るは前理事長の妻ということで、池辺一味は、彼女を軽井沢の別荘にあるプールに沈めて殺してしまいます。
 広瀬ゆかりが身を寄せていた角田にも、もっと別の役割も与えられています。

 ですが、そんなことは全て切り捨てて、映画は、波多野と雅子が、よりを戻しベットをともにするシーンを生々しく描くことの方に向かいます。
 それはそれで一つの選択であり、小西真奈美もよく監督の意図に応えている(無論、かなり限界はあるものの)と思われます。

 この映画は、波多野(仲村トオル)を中心とする男のハードボイルドな世界から、むしろ雅子(小西真奈美)を中心とする女の世界に軸足を移していると考えられ、そういう観点からすればそこそこよくできた作品ではないかと思います。

(4)渡まち子氏は、「ミステリーとラブストーリーが絡み合いながら展開するドラマだが、残念ながら両方とも中途半端になってしまっている。何より作品全体が湿っぽくていけない」、「終盤、廃校舎でのバトルも、バタバタとご都合主義のように終結してしまう。さらに、事件の鍵を握る、建設会社の若くて冷めた部長を演じる窪塚洋介は、何か得体のしれない存在感を漂わせて面白いキャラだっただけに、もっと物語に活かしてほしかった気も。ストーリーそのものには魅力は感じないが、特別なヒーローではなく、ごく平凡な人間の譲れない意地を描いたところが見所か」として40点しか付けていません。



★★★☆☆




象のロケット:行きずりの街
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ゲゲゲの女房

2010年12月04日 | 邦画(10年)
 なにも「ゲゲゲ~」が今年の流行語大賞に選ばれたからと言うわけではありませんが、『ゲゲゲの女房』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)本年上半期に放映されたNHKの連続テレビ小説は一度も見なかったにもかかわらず、放送されていること自体は知っていましたし、“いきものがかり”による主題歌も知っていましたから、何らかの先入観はもちろんあるでしょう。 
 ですが、直接的には、映画館で見た予告編から、これは良さそうな映画ではと思って映画館に出かけたところです。
 それでも、朝の連続テレビ小説の原作本を映画化した作品ということから、ホノボノ感が漂うホームドラマ的なお話なのかもしれないとの危惧はあり、それも宮藤官九郎が出演するというのですからなおさらです。実際にそうだったら嫌だなとは思っていました。
 ですが、そうした予感など木っ端微塵に吹き飛ばすような映画の出来栄えです。

 物語は、主役の29歳の武良布枝に扮する吹石一恵が、島根県安来市にある実家で、家業の酒屋を手伝っているところから始まります。としたところ、突然お見合い話があったと思ったら、5日目で結婚式。夫の武良茂(水木しげる:宮藤官九郎)の家での生活が始まります。
 夫は、布枝より10歳年上の貸本漫画家で、鳥取県境港市出身ながら東京の調布市のボロ家で生活しています(おまけに、戦争で片腕を失っています)。
 でも、二人は昭和36年に結婚しましたから、世は高度成長期、所得アップで人々の生活が次第に充実してきた時代です(現在の中国のような感じでしょう)。二人もそれらのおこぼれに与ったはずと思いきや、夫が情熱を注いで描いていた貸本漫画はトックに斜陽で、世の中の流れとはマッタク無縁、酷い極貧生活に喘ぐことになります。
 そのうちに子どもが産まれ、漫画週刊誌の連載が始まって(昭和40年ころ)、これまでの10倍以上の原稿料がもらえて二人で喜んでいるところで、この映画は終わります。

 確かに、連続テレビ小説とは異なり、水木しげる氏が売れ出してからの事は一切触れていません。また、どうして彼が描く漫画が専ら妖怪物なのかを探り出そうとしているわけでもありません(「妖怪と心中する」とまで言う水木しげる氏の原点は何なのでしょうか?)。それに、時代の進展とは別のところで暮らしていますから、安保闘争とか東京オリンピックといったことは無縁です。
 逆にそうだからこそ、お互いに言葉に出しては言いませんが、夫婦の絆がこの上もなく高まっていく姿が良く描き出されているのではと思います。
 また、この映画は、むしろ二人の極度の極貧生活を描くことに焦点があてられています。とはいえ、世の中が皆そうであった戦後スグの時代ではもうありませんから、『Always 三丁目の夕日』(2005年)のように、時代をソックリそのまま再現してノスタルジックな雰囲気を醸し出すことに重点があるわけでもないようです。
 例えば、吹石一恵が、夫に言われて原稿を出版社に届けて原稿料を貰うべく、調布の駅まで出向いたシーンは、なんと現代の調布駅なのです。おまけに、遠くからですが、今の調布駅前に、2階に間借りする売れない絵描き(村上淳)まで登場します。
 それに、映画の画面には、水木しげるの得意とする妖怪が、夫婦と同じ地平で登場するのです。たとえば、妻の実家では「ぬらりひょん」が皆と一緒に食事をとってますし、夫婦が通り過ぎる川の中では「あずきあらい」が踊っていたりします。
 むろん、アニメーションによって鬼太郎まで登場するのです。

 なにより、極貧生活はセイゼイが4年間ほどであり、その後の水木しげる氏の大活躍を知っていますから、セピア色の画面で昔の感じをいくら出しても、観客の方は安心して極貧生活を見守ることが出来ます。
 ということは、この作品を水木しげる氏の伝記映画と考える必要もそれほどなく、むしろ夫婦の愛情物語の一つとみなした方が受け入れやすいのではないかと思いました。

 主演の吹石一恵は、『十三人の刺客』で二役をこなすなどこのところアチコチで見かけるところ、こうした地味ながら芯のしっかりした女性を演じても、持ち前の演技力で非常にうまくこなしていて、映画に舞台に引っ張りだこなのもよく分かる気がします。



 また、宮藤官九郎は、『大帝の剣』(2007年)などでの演技は余り買いませんが、この映画の演技は素晴らしい出来栄えだと思います。特に、家を飛び出して姉のところに行ってしまった妻を迎えに行って、バス停で出会ったりするところの何とも言えない雰囲気は、この人ならではないかと思いました。



 この他、この映画には、布枝の姉の役で、『スープオペラ』に主演した坂井真紀が、調布の家の二階を間借りしている売れない絵描きの役で、『ヘブンズ ストーリー』に出演していた村上淳が、漫画家を志望するも貧窮のため餓死してしまう青年の役で、『ケンとジュンとカヨちゃんの国』に出演した宮崎将が出ているなど、配役陣の多彩なところも注目されます。

(2)この作品は、漫画家となるべく地方から東京に出てきた青年を描いているという点からすれば、最近見た『おのぼり物語』に似た感じを持っていると言えるかも知れません。
 青年は29歳であり、むしろ武良布枝の歳に近いものの、元同級生の女性とのつきあいとか、東京の西部にあるボロアパートで暮らすこと、描いた漫画が殆ど出版社に採用されないこと、などなど類似する点は多いと思われます。
 ただ、なんと言っても、昭和30年代の後半と現在とでは、取り巻く環境が余りにも違ってしまっています。とりわけ、当時主流だったお見合い結婚が、今や少数派に転落してしまっているのですから〔1960年代前半までは50%を越えていましたが、2000年以降は10%を割っています〕!

 なお、水木しげる氏の漫画の関連で、映画『妖怪大戦争』(三池崇史監督、2005年)を見たことを思い出しました。その映画では、今回の映画にも登場する「ぬらりひょん」や「あずきあらい」も登場しています!

(3)映画評論家の意見は分かれるようです。
 一方で、渡まち子氏は、「映画は、明るくさわやかな連ドラとはまったく違うテイスト」であり、「この物語は成功し尊敬を集める水木しげるの姿は描かない。だからこそ、混沌とした時代を懸命に生きた夫婦の実直さが際立った」とし、「夫は自分の描く作品と独自の作風に確固たる自信と信念を持っている。それが分かると同時に、活き活きと動き始める水木漫画のキャラクターたち。この描写が素晴らしい」として60点をあたえています。
 他方、前田有一氏は、「金をはらって胃が痛くなるようなリアル貧乏を見せられるというのも参るが、さらに本作は成功前までの話なので、いかにその後の現実の大躍進を知っていようと最後までこのモヤモヤは晴れない。希望に満ち溢れたドラマ版とは、そんなわけで鑑賞後感が正反対である。貧乏耐久レースのようなストーリーを、高いリアリティで送るド貧乏観察日記」であり、「NHKのドラマが無料で見られる事を考慮すると、同じ話をわざわざ1800円払ってみるだけの魅力が本映画にあるかというと微妙なところ」として、30点しかつけていません。
 これは、いまだに「朝になるたび、いきものがかりの歌が頭に浮かぶ病に犯されている人」にすぎない前田氏によるトンデモ論評ではないかと思われます。なにしろ、テレビで見たドラマを映画館の大画面で見るつもりで出かけたら、予想に反したシロモノを見せられたと言って憤っているに過ぎませんから!



★★★★☆





象のロケット:ゲゲゲの女房
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うつし世の静寂に

2010年12月01日 | 邦画(10年)
 朝日新聞の11月19日付朝刊に、「支え合い 土地に生きる」との見出しのもと、「都市の「ムラ」描く映画」として『うつし世の静寂(しじま)に』が紹介されていました(このサイトを参照)。
 同記事には、「大都市のベットタウンに、かっての農村そのまま、互助的な「講」を開き、地蔵に手を合わせる人々がいる。その営みの意味を問うドキュメンタリー映画」が公開中とあり、それも、「映画の舞台は川崎市北部の宮前区初山」とあったことから、俄然興味がわきました。なにしろ、クマネズミが住む東京都のすぐ隣にある都市の中の話なのですから!
 早速、ネットで調べてみたところ、映画は渋谷のユーロスペースで公開中ながら、19日のモーニングショーで打切りとのこと。これではDVDでも出されない限り無理だなと思っていたら、なんと横浜の黄金町にあるシネマ・ベティで引き続き上映されるとの情報が見つかりました(12月3日まで)。
 映画を見にそんな遠くまで行ったことがないので逡巡しましたが、たまには河岸を変えてみるのも一興と思い、23日の休日に出かけてみた次第です。

(1)映画では、川崎市宮前区にある小さな十王堂で、閻魔大王などを掃除する世話人の姿がまず映し出され、それから4つのテーマで、「都市の「ムラ」」が描き出されます。



 まず、「」。「無尽講」は、「講」に集まる人々が出し合ったお金を、籤に当たった人が譲り受ける仕組みで、映画では、5万円ずつ2口が支給されています。
 この他に、さらに「念仏講」というのも行われていて、「講」に参加する人々の家(約20軒)を月ごとに巡り、その家の祖先を祈るべく、皆で大きな数珠を回しながら念仏を唱えます(この記事を参照)。



 なお、こうした「講」が開かれる際には、祭壇に、お釈迦様などを描いている掛け軸が掛けられますが、初山の場合、掛け軸の上部に、太平洋戦争中に金属を供出したことに対する政府からの感謝状(東條英機首相とか嶋田繁太郎海軍大臣の名前が記載されています!)が現在でも貼り付けられているのが目を引きます〔映画では、戦時中、「講」が戦争遂行の下部組織として機能した面がある、といった説明がなされています〕。

 次に、「巡り地蔵」。映画では、川崎市高津区にある茂岳山増福寺の地蔵(延命地蔵尊)が、檀家の家々を巡る様子が描かれます。地蔵を納めた大きな箱をリヤカーに乗せて運ぶ場合と、地蔵の入った厨子を背負って運ぶ場合とがあるようです。いずれにせよ、巡ってきた地蔵を、該当の家では縁側から迎え入れて家の中に安置し、皆が拝むわけです。
 この地蔵にはいくつも赤ん坊の涎掛けが取り付けてあることから、乳幼児の死亡率が高かった昔より、生まれた子供の命が長らえるよう、祈ってきたものと思われます。

 さらに、「棚田」。映画では、山に挟まれた三角形の形状をしている「谷戸」といわれる斜面(具体的には、宮前区初山の「とんもり谷戸」)に、鋤を使って棚田を作っていく様子が描かれています。鋤の様々な面を使って「畦(くろ)」を作る様が見事です。
 ただ、こうして丹精込めて作っても、映画の撮影が行われた年は冷夏だったために、思ったほどの収穫はなかったようです。
 なにはともあれ、このような棚田など長野県にでも行かなければ見ることは出来ないと思っていたクマネズミにとっては、こんな近場に見事なものが存在していると分かり、たいそう驚きました〔なお、驚いたことに東京都にも谷戸とか棚田はあり、例えば町田市については、この記事を参照〕。

 最後に、「獅子舞」。毎年10月に、川崎市宮前区にある菅生神社において、神社の前に土俵を作り、そこで舞われています。



 3人の獅子と天狗との4人で舞うもので、前半と後半に分かれ、それぞれ物語を持っているようです。以前は青年が舞手でしたが、現在は小中学生が舞っていて、映画ではその世代交代の様子が描かれています。
 この初山の獅子舞は、元々はあちこちで舞われていたところ、明治になってから付近の神社が菅生神社に合祀されてからは、初山のものだけになったとのこと。
 そこで、かって正八幡神社があったところ(上記の「とんもり谷戸」の中)で、100年ぶりに獅子舞を奉納することとなり、以前舞手だった人たちも参加し、随分と賑やかなものになりました(50年ぶりに舞ったという人も現れ、驚きました)。〔なお、この記事を参照〕

 映画はまた冒頭の十王堂に戻って、今度は世話人の娘さんでしょうか、同じように閻魔大王などを掃き清める姿で終わります。

 全体を見回してみますと、まず小さなお堂を掃除する一人の世話人の姿から始まり、最後はまた世話人の娘さんらしき少女が同じことをしている姿で終わるという対称性のある構造の中に、次第に拡大するパースペクティブが組み込まれているように思いますて(20人ほどの「講」→もう少し地域的広がりを持った「巡り地蔵」→ヨリ大きな自然との共生が見られる谷戸の「棚田」→谷戸の正八幡跡で「獅子舞」を奉納することで、神と自然と地元民とのつながりへ)。
 こうしたよく考えられた構成をとることによって、川崎という大都会の中に古き良きものが残されていることをじっくりと描き出していて、大層感銘を受けました。
 逆に言えば、上で記したように、個々のテーマについては、これまでもある程度様々な形で追跡されているように思われます(ネットでも、随分と関連する記事を読むことが出来ます)。ですから、映画『うつし世の静寂に』の意義は、それらを的確な構成の下で綴り合わせたことにある、と言ってみてもいいかもしれません。
 ただ、この映画で取り上げられているテーマそれぞれについては、川崎市のものではないにせよ何らかの知識は持っていましたが、「巡り地蔵」だけはクマネズミが初めて目にする風習であり、大層興味が惹かれます。ネットで調べてみても、この風習を直接取り上げているサイトは、これまでのところ見あたりません。もしかしたら、この映画の功績の一つは、この風習をテーマとして大きく取り上げたことにもあると言えるのではないでしょうか?

(2)この映画を見た黄金町に東京から行くのに、クマネズミは東急東横線(→横浜からは京急)を使いましたから、南の方をほんの一瞬ながら川崎を通過したわけで、若干因縁めいた感じを覚えました。
 とはいえ、川崎市宮前区初山といきなり言われても、クマネズミを含めて大部分の人にとって、いったいどこらあたりにあるのかはっきりしないことと思います。
 こういう初歩的ながら酷く重要なことが映画では省かれてしまっているものの、やはり正確に何処に位置し、周囲はどのようになっているのかを、先ず最初に描き出すべきではないでしょうか(注1)?

 ついでに言うと、ドキュメンタリー映画の場合、普通のフィクション作品と違って、ストーリーに面白さがあると言うよりも、映画の中で喋られていること、解説されていること、描き出されていることの方が重要だといえるのではないでしょうか?そうだとすると、こうしたレビューを作成するに際しても、できるだけそられの正確な内容を書き込みたいところです。
 その際のよりどころになるのが劇場用パンフレット。
 ですが、映画を制作するのが小さなプロダクションだったりすると、普通の映画館でおいてあるような「劇場用パンフレット」など期待すべくもありません。
 今回の作品についても、チラシに毛の生えた物が置いてあるだけでした。
 以前『しかし、それだけではない。~加藤周一 幽霊と語る』で、記憶だけを頼りにしようとして懲りたことがあったので、手元にあった新書の余白部分に重要と思われる言葉を書き付けておくことにしました。といっても、真っ暗な館内で映画を見ながら適当に手を動かしただけですから、家に帰り着いてから開いてみますと、半分くらいしか読めません(でも、そうして書き付けた語句をヒントに、今度はネットで調べたりすれば、ある程度のことは分かってきます)。
 予算面から難しいかも知れませんが、こうしたドキュメンタリー作品こそ、それを様々に解説したパンフレットを作成していただきたいものだと思います。
 なお、この点からすると、年初に見た『怒る西行』は、特筆に値します。映画館には、驚いたことに映画のシナリオが完全に採録されているパンフレットが置いてあって、そのお陰で、このドキュメンタリー作品と同じ行程をクマネズミも辿ることが出来(注2)、同時にこの作品に込めた沖島薫監督の思いにも、僅かながらにせよ接近することが出来たのではないかと思いました。

(3)冒頭で触れた朝日新聞記事では、ジェフリー・S・アイリッシュ氏(注3)が、「どこかで見守られ、過去の時間とのつながりを持つと、人は安定感を得る。田舎にあるものを都会で探すのは大切です」と述べています。
 それは確かに大切なことかもしれません。
 ですが、田舎でなく、この映画のように都会でそれを探すのであれば、それが都会とどのように有機的につながっているのか、という側面を同時に探し出すことも大切ではないでしょうか(注4)?
 川崎市のように、東京と横浜という大都会に挟まれた都市であれば、いくら「田舎にあるもの」といえども、「都会的なもの」とのつながりなしに存在しているとは思えないところです。
 いうまでもなく、このドキュメンタリー作品に、ソウした繋がりが見いだせないわけではありません。
 現に、「谷戸」の棚田の造成に際しては、すべてを昔通りにやるというのではなく、現代の機械文明が生み出した小型自動耕耘機が使われてもいます。
 初山の「獅子舞」の舞手は、今や青年ではなく小中学生が担っていますが、踊り方の伝達には、東京や横浜方面で働いているに相違ない青年達が当たっています。
 とはいえ、この映画は、「田舎にあるもの」を保存している人たちを取り巻く「都市的なもの」を担っている人たちを、積極的に映し出そうとはしていません。
 例えば、この映画の初めの方で、大きな団地のすぐそばで農業をほそぼそと続けている主婦が描かれているところ、この主婦自身は農業が好きで好きでという類い稀な女性ながら、「自分の子供たちは最早こんな作業を続けないだろう」と言っています。世の中の流れから完全に孤立しているように見えますが、でも、そうやって生産した農作物を、主婦は、団地に住む人たちに売りさばいているのではないでしょうか?
 さらには、「巡り地蔵」が置かれる茅葺き農家のすぐ背後には、巨大なマンションが聳え立っているところ、そのマンションに住む住民と「巡り地蔵」に参加する人たちとの交流といったものは、実際のところどうなっているのでしょうか?
 むろん、大都会のど真ん中で「田舎にあるもの」を保存することは、それだけで大変貴重ですから、この作品の制作方針が間違っているわけではないでしょう。とはいえ、随分と見応えのある素晴らしい出来栄えの作品ながら、はたしてそれだけでおしまいにしていいのかどうか、いささか疑問に思えてきてしまいます。


(注1)これはもう少しよく調べてみなくてはなりませんが、この映画の4つのテーマのうち、「巡り地蔵」を除いた3つのテーマはすべて川崎市宮前区初山にかかわるものです。ところが、「巡り地蔵」は、川崎市高津区にある増福寺に安置されている延命地蔵尊にかかわるようです。
 地図で見ると、両者の間にはある程度の距離があるように思われます。あるいは、昔は「初山」という地域の中に両者が入っていて、区政が敷かれた段階で分割されてしまったのかもしれません〔宮前区は、昭和57年に、高津区西部がから分離して作られたようです〕。
 いずれにせよ、もう少し詳しい説明が必要なのではと思われます。
 としたところ、書店で調べたところでは、大島健彦編『民間の地蔵信仰』(北辰堂、1992年)に収められている白井禄郎氏の「巡行仏」に関する論考には、この「巡り地蔵」について、過不足ない記述がみられます。
 立ち読みしただけながら、戦前には、この「巡行仏」は、東京の赤坂や埼玉の入間といった方面まで足を延ばすような広範囲なものであったとのこと。であれば、高津区から宮前区などはすぐ近所だったということでしょう!
 また、ネットでは、『多摩川誌』の第7編民俗第5章第1節行事の「1.3仏教行事」の項目の中に、「川崎市高津区末長の増福寺の延命地蔵は毎年8月14日から9月13日までの1カ月間と2月14日から3月13日までの1カ月間を近隣各村を回った」とあります。

(注2)映画『怒る西行』についてのレビューは、1月19日の記事だけですが、20日以降、この作品関連の記事を続けて5本も作成してしまいました!

(注3)ノンフィクション・ライター、翻訳業、民俗学研究者。
 詳しい経歴は、このファイルを参照。

(注4)このサイトに掲載されている「短編インタビュー集 2」において、ジェフェリー・アイリッシュ氏は、「コミュニティーがあっていろんな工夫をしてながら伝承しているし、いろんな工夫によってそれぞれのひとが自分の居場所を見つけている」と述べていますが、まさに「いろんな工夫」とはどんな「工夫」なのかが一番知りたいところです。




★★★☆☆



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ヘヴンズ ストーリー

2010年11月28日 | 邦画(10年)
 近年稀に見る長さの映画だということに興味をひかれて、少し前になりますが、『ヘヴンズ ストーリー』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)長時間映画と言えば、クマネズミにとっては、『ユリイカ』(青山真治監督、2000年)の217分とか、『愛のむきだし』(園子温監督、2009年)の237分、『沈まぬ太陽』(若松節朗監督、2009年)の202分などですが、この映画はそれらをもはるかに超える278分の長さです。
 途中に休憩をはさむため、特段腰が痛くなることもなく見終わることができました。
 とはいえ、映画にずっと惹きつけられたから、というわけでもありません。見終わって感想を取りまとめようとしても、ばらばらな印象が頭に残っているだけで、とてもうまく書けそうにありません(マア印象が散漫になってしまう点が、長時間作品の問題点といえばいえるかもしれないとはいえ、単なる言い訳にしかならないでしょう)。
 以下は、備忘録的に思いついたことだけを簡単に書いておこうと思います。

 この映画でクマネズミが興味を惹かれた話は、3つあります。
 一つ目は、祖父の家に行っている間に家族を殺されて孤児になってしまった少女・サト寉岡萌希)の話。



 二つ目は、警察官でありながら、副業として、依頼によって見ず知らずの他人を殺してしまう復讐代行男・カイジマ村上淳)の話。
 三つ目は、刑務所から出所した男・ミツオ忍成修吾)と若年性認知症の女・恭子山崎ハコ)の話。



 これらを全体として統合する役目を与えられているのが、最初と真ん中と最後に描かれる人形による踊りでしょう。

 これだけですと、これら3つの話は、それぞれ独立しているようにみえるでしょう。
 ですが、お互いに相当入り組んだ関係が設定されているのです(なにより、これらの話は、それぞれが独立して描かれているのではありません)。
 ただ、二つ目の話は、現実性が乏しく感情移入しにくいものながら、それだけでまとまっているようにも見えます。動物園でカイジマが男を射殺する話は、他の物語と何も関係しませんし、とりわけ、この二つ目の物語には佐藤浩市が登場しますから、何か彼がはかばかしい活躍をして映画全体の中心になるのかなと思いきや、さんざんカイジマをてこずらせはするものの、最後はいともアッサリと射殺されてしまうのです。
 とはいえ、この佐藤浩一が殺される場所は、閉山となって見捨てられた社宅アパートの屋上なのですが、ここは三番目の話において、重要な舞台となるのです。
 また、一つ目の話の末尾で、港から出て行く船をサトが見送りますが、そこにはカイジマの愛人が現れ、あろうことか殺されたはずのカイジマまでも出現するのです!というのも、港でサトが見送っているのは、カイジマの一人息子なのですから。
 という具合に、二つ目の話も、他の話とレベルは低いものの有機的につながっています。

 とすれば、一つ目の話と三つ目の話のつながりは、もっと強いはずと簡単に推測できましょう。なんといっても、一つ目の話に登場する男・トモキ長谷川朝晴)が、サトの唆しによって、平和な暮らしを投げうち、ついには刑務所から出所した男・ミツオを殺そうとし、結局は両者とも死ぬ破目になるのですから。
 それも、トモキが若年性認知症の女を殺したからという理由で。



 特に、なぜサトがトモキをそそのかすと言えば、同じように家族を殺されたトモキが、記者会見の席で、18歳であるために無期懲役になった犯人の少年を“絶対に殺してやる”と明言していたにもかかわらず、暫くしたら別の女性と家庭を営んでいたからです。
 どうやら、サトの生き甲斐は、トモキがミツオを殺す事にあったかのようです(というのも、サトの家族を殺した犯人はすぐに自殺してしまっていたので、復讐しようにも不可能だったからです)。

 こうみてくると、この映画は、3つの話から構成されていると言っても、お互いに有機的に絡み合っていて、その絡みの始まりの始まりが、サトの家族が理由もなく殺されてしまったことにあるだろうことがわかってきます。
 としたら、一方でその事件の関係者が皆死んだりして片がついてしまい、他方で新しく子供も生まれ、全体としては、これでひとまず決着したのかと思ったところ、最後の人形の踊りからは、まだ決して何も終わってはいないという厳しい事態のようにも見えてきます。
 等身大の人形を背後で操っていた人間が、サトの殺された家族であることが露わになるものの、サトが、その両親たちと一緒に再会を喜んでも、続いて彼らの世界に入ろうとすると、かたくなに拒まれ、彼らは自分たちの世界に舞い戻ってしまうのです。

 こういった作品から、家族の崩壊と再生、さらには死と生などというように、何か統一的なメッセージを掴みだそうとしても、仕方がないのではと思います。むしろそんな風にまとめてしまったら、わざわざ278分もの長い時間、この映画に付き合ったことの意味が消えてしまうのではないでしょうか?むしろ、『愛のむきだし』でもそうですが、このまま放っておいて、別の映画を見た折になど、そう言えばこれはあの場面に通じるところがあるな、あの場面が意味するところはあるいはこんなことかもしれない、などと思い返すことの方に価値があるのではないかと思います(言うまでもなく、メッセージを抽出できないことの言い訳、開き直りです)。

(2)この長い映画を見ながら、なんとなくではありますが、冒頭で触れました『ユリイカ』を思い出してしまいました。



 極めて大雑把ながら、類似する点をいくつか感じるからです。例えば、
・両作品とも、現実に起きた事件が物語の発端に置かれています。『ユリイカ』が、西鉄バスジャック事件(2000年5月)を下敷きにしているのに対応して(注1)、『ヘヴンズ ストーリー』は光市母子殺害事件(1999年4月)を下敷きにしているようです(ただ、サトの家族が殺される事件ではなく、トモキの家族がミツオによって殺される方ですが)。
・両作品とも、冒頭の殺人事件の後も、物語が展開するに従って、次々と人が殺されていきます。『ユリイカ』では、主人公達の周囲で次々に連続殺人事件が起きますし、『ヘヴンズ ストーリー』でも、殺人請負人・カイジマまで登場します!
・両作品とも、少女が大きな役割を果たします。『ユリイカ』では田村梢(宮崎あおい)、『ヘヴンズ ストーリー』ではサト(寉岡萌希)。
・両作品とも自然の描写が印象的です。『ユリイカ』では、ラストで、阿蘇の大観峰が、空中からの撮影で実に雄大に捉えられていますし、『ヘヴンズ ストーリー』でも、岩手の松尾鉱山跡の廃墟については、雪と緑の時期との2度にわたって広大な景色が描き出されています。

 単なる印象に過ぎませんが、『ユリイカ』は、酷い事件に巻き込まれた運転手(役所広司)や兄妹(宮崎将と宮崎あおい)らが、なんとかして被った傷から立ち直ろうとする様子が詳細に描き出されていますが、他方『ヘヴンズ ストーリー』では、サトにそそのかされたトモキはミツオ共々死んでしまいますし、ラスト近くでカイジマが資金援助していた女に子どもが産まれるという明るい面はあるものの、未来に希望が見えるわけにはいかない感じです。
 これも、酷く大づかみに言えば、それぞれの映画が制作された時代の差と言いうるのかもしれません。

 以上のことから、酷く個人的な感想になってしまいますが、この『ヘヴンズ ストーリー』は、大好きな『ユリイカ』を10年後に瀬々敬久監督(注2)が渾身の力で解釈し直した作品とも考えられ、仮にソウだとすれば(そうでなくとも)、クマネズミは酷く興味を惹かれ、高く評価したくなってしまいます!


(注1)実際には、下記のコメントで指摘されているように、映画『ユリイカ』の公開は2000年1月でした。クマネズミは、なぜか逆に思い込んでいたようです。

(注2)瀬々敬久監督の作品レビューについては、2011年1月12日の記事をご覧ください。


(3)この映画の公式サイトには評論家等のレビューが掲載されています。
 秦早穂子氏は、「題名の<ヘヴン>は既存の宗教と同意義ではないが、死者は生きる者を見守り、生者は死んだ人を思う。再会の場としての共通点はあろう。復讐を超え、肉親の死を受け入れるサト18歳。成長し、初めて前を見る。決して、決して、すぐの答えなどないが、これからが出発。独自の世界観に、深い暗示がある」と述べています(10月6日朝日新聞)。
 恩田泰子氏は、「瀬々監督は、これまでにも現実に着想を得て、殺し、殺される者たちを描いてきた。今回は、楽園からこぼれ落ちてしまった人間たちの愛と憎しみの物語を重層的に描くことで、誰もが殺人事件の当事者になるやもしれぬ理不尽な私たちの世界を丸ごととらえてみせる。ただ、絶望では終わらない。地べたをはいずり回った後、女たちはもう一度生をつないでいく。そして、作品は普遍性を獲得する」と述べています(10月1日 読売新聞)。


★★★★☆


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裁判長!ここは懲役4年でどうすか

2010年11月27日 | 邦画(10年)
 渋谷のヒューマントラストシネマで、『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』を見てきました。

(1)まず登場した女性映画プロデューサーが、「愛と感動」のテーマでヒットを狙うのであれば法廷物だ、特に今は裁判員制度が始まったばかりだから時期も良し、と述べ、主人公の放送作家・南波タモツ(バナナマンの設楽統)に、脚本作成に必要な取材のために裁判を見学することを命じます。
 南波にとって、裁判所見学は初めてながら、傍聴マニアと知合いになったりして、次第に裁判傍聴が楽しみになっていきます。
 しかし傍聴するだけではつまらないと思っていると、知り合いになった傍聴マニアから、自分たちでも裁判に何かしらの影響力を持つことができる、と言われます。
 そこで、冤罪ではと思われていて裁判所の外でも抗議活動が起きている放火魔事件についての裁判で、逆転無罪を勝ち取ろうと、南波は大わらわで取り組みます。たとえば、担当の弁護士(堀部圭亮)にもっと派手なパフォーマンスをしたらどうかなどのアドバイスをしたり(匿名の手段を使って)、母親を亡くしたばかりの担当裁判官の心情に訴える手に出たりします(被告の母親に冤罪を訴えるチラシを裁判所の前で配らせます)。
 はたしてその結果は、……。

 この映画では、映画と同タイトルの原作(北尾トロ著)と同様、様々なエピソードが次から次へと描き出されます。ただ、そのままでは作品としての統一感がなくなってしまいます。そこで、物事がとんとん拍子にうまい具合に進行すると、最後の方になって反対方向に逆転してしまう、そういったエピソードに主たる焦点をあてることで滑稽感を作り出し、合わせて、作品に山場を作り出したり、まとまりをつけようとしているように思われます。
 まずは、上記の放火魔事件の裁判が、この映画の山場と言えるでしょう。こんなに八方手を尽くしたのだから無罪判決間違いなしと南波らが固唾を呑んで見守っていたところ、これまで無実を主張していた被告人が、裁判冒頭で、なんと事件は自分がやりましたと大告白をしてしまって、それまでの努力も水の泡になってしまうのですから。
 さらに、こうした様々の出来事をもとにして、南波は脚本を書き上げようとするわけですが、最後になって、南波に脚本を依頼した女性プロデューサー自身が警察に捕まって留置場入りしてしまう、というこれまた逆転が起きます。このエピソードは映画の最初と最後に分割して置かれていますから、この映画全体を一つの作品にまとめる役目を果たしているのでしょう。
 ただ、こんなに何度も梯子を外されてしまうと、見ている方はあざとさを感じて白けてしまい、笑うどころではなくなってくるのではないでしょうか?

 全体として、自分の目で実際の裁判を見たことがない人がまだまだ多い現状では、こうした映画も啓蒙的な意味合いがあるのかもしれませんが、作品の出来栄えとしては今一かなと思ったところです。

 なお、この映画の原作が出版されたのが2003年ですから、映画化されるまでに7年もかかっています。こうなったのも、おそらく昨年5月から導入された裁判員制度を見越してのことではないかと思われます。
 ですが、この映画では、裁判員制度のことがほどんど取り扱われていません。むろん、元の原作が裁判員制度導入以前に起きた事件を取り上げていることにもよっているでしょう。でも、そんなことはいくらでも作りかえることは可能だと思われます(注1)。
 そんなこんなしているうちに、今月の17日には、この裁判員制度の下で初の死刑判決が出てしまったわけですから、映画自体が時代に取り残されてしまっていると言えるのではないでしょうか?

 主演の設楽統は、映画初主演ながら、傍聴マニアという至極地味な役柄(実際には、裁判所の傍聴席で座っているだけのことですから)をうまくこなしているのではと思いました。
 相手役となるはずの片瀬那奈は、ばりばりの美人検事という役柄のためか(注2)、あまりうまく設楽統と絡んではいないものの、これからが期待されるでしょう。

(2)裁判を取り扱った映画は数多くありますが、最近の邦画では『それでもボクはやってない』(2007年)が印象に残ります。ただ、これは専ら被告人に焦点を合わせています。また、見てはおりませんが、『BOX 袴田事件 命とは』(2010年)は、裁判官を取り上げているようです。
 ですから、今回の映画のように傍聴人を取り上げている映画は、これまで殆ど制作されていないのではないでしょうか〔ただ、『ぐるりのこと』(2008年)では、リリー・フランキー扮する夫が法廷画家の職を友人から引き継いで、裁判を傍聴する話になっていて、興味を惹かれました〕?
 なお、先月の23日にNHKTVで放映された『手のひらのメモ』は、裁判員になって裁判に臨んだ主人公(田中好子)に焦点を当てた作品でした(注3)。

(3)映画評論家の方では、渡まち子氏は、「法廷や裁判という極めて硬いモチーフを、ユーモラスな語り口で描いた社会派コメディーで、映画の内外で、裁判をネタに映画の脚本を作ろうとする発想が面白い」、「本作のスピリットは、法と裁判を笑い飛ばすブラックな精神」として50点を与えています。
 また、粉川哲夫氏は、「エピソード的に挿入される法廷シーンも、手抜きがない。映画の法廷シーンや留置場・刑務所・面会室などのシーンには、いいかげんなものが多いが、この映画はまあまあ事実通りに撮っている。設楽統を主役にしたのは、グッド・チョイスだった。彼は、笑えるけれどどこか淋しくなさけない男を天才的に演じる才能を持っているからだ」、「しかし、北尾の原作が持っている毒を蛍雪次朗演じる西村とその仲間にだけまかせてしまうのは、安直すぎるだろう」云々と述べています。


(注1)残念ながら見てはおりませんが、映画の原作(むしろ漫画の方でしょうか)を基にして作られたTVドラマ(昨年後半10回にわたり放映)では、向井理の主人公が裁判員に選ばれる回もあったようです。
(注2)上記注のTVドラマでは、定型通り、検事を目指している美和という女性を配して主人公とうまく絡ませているようです。
(注3)TVドラマ『手のひらのメモ』は、夏樹静子の原作を基にしていて、喘息持ちの子供を死なせてしまった母親の裁判で裁判員になった専業主婦の物語です。主演の田中好子は久しぶりで見ましたが、自分の家庭に反抗期の子供を抱えながら裁判員を務める主婦を好演していて、良いドラマに仕上がっていたと思います。



★★★☆☆


象のロケット:裁判長!ここは懲役4年でどうすか

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マザーウォーター

2010年11月16日 | 邦画(10年)
 「かもめ食堂」のスタッフが再集結して作った作品だというので、これまでの腐れ縁(?!)もあって『マザーウォーター』を見に銀座シネスイッチに行ってきました。

(1)例によってストーリーらしいストーリーは一切ありません。
 登場人物は、小さなバーを営むセツコ小林聡美)、喫茶店を経営するタカコ小泉今日子)、それに豆腐屋のハツミ市川実日子)。
 3人とも地元の人ではなく、別の土地からここに流れてきたようです。
 3人とも一人暮らしで(家族関係は一切不明)、映画開始時点まではお互いの交流もなく、それぞれ毎日、客にウイスキーやコーヒーを出したり、豆腐を売ったりする、一見単純そうな仕事をしているだけです。
 そこに、家具工房で働いているヤマノハ加瀬亮)とか、銭湯を営むオトメ光石研)、オトメ湯の手伝いをしているジン永山絢人)がお客として登場してくると、状況はほんの少しだけ動くように見えます。
 これらすべてをネットに包み込んでいるのがマコトもたいまさこ)という老婦人であり、彼女がよく釣れている赤ん坊のポプラ(オトメの子供でしょうか)です。

 人物設定はこれだけであり、舞台設定も、映像として映される光景から京都の鴨川周辺だとわかりますが、積極的にどこと特定されているわけではありません。なにしろ、登場人物は皆標準語を使いますし、町の人も京都弁丸出しでもありませんから。
 また、豆腐屋は別として、セツコのバーにせよタカコの喫茶店にしても、最小限のものしか置いておらず、飾り気がまるでないのです。
 さらに、セツコの出すアルコールはウイスキーだけですし(理由は、その方がこの土地に合っているからとされます)、タカコもひたすらコーヒーを淹れています。また、ハツミも専ら豆腐を売るだけです(お客は、店先のいすに座って豆腐を食べています)。
 言ってみれば、かなり抽象的な空間に若い女たちが宇宙から降り立って、抽象的に生活しながら、そこにいる年寄りや男らと暫時交流する(あるいは、どこの誰ともわからぬ女たちが、具体性の乏しい土地で、定かでない仕事をしながら、その土地に住んでいるこれまたどこの誰ともわからぬ人たちと、何となく交流を深めていく)、という感じでしょうか。

 出演者に関しては、やっぱりこうした映画には、小林聡美ともたいまさことが不可欠なのだなと説得されてしまいます。ただ、二人とも、今度の作品では、随分と哲学者然とした感じを出しています。
 小林聡美が、コップに大きな氷を入れ、それにウイスキーと水を注ぐ様子は、茶道のお手前とそっくりの雰囲気を持っています。



 また、もたいまさこは、黙って何もしゃべらないところに、観客は何かメッセージ性を感じたわけですが、今回のように人に指針を与えるようなセリフを話すようになると、ややウザッタさを感じてしまいます。




(2)今回の映画は、これまで同じスタッフが製作してきた『かもめ食堂』、『めがね』、そして『プール』で描かれた状況を一段と抽象的にしたように思えます(監督は、前二者が荻上直子、最後が大森美香。今回の作品では松本佳奈)。
 そうであれば、見る方は、色々な手がかりから、勝手に自分だけの解釈を作り上げて映画を具体的にしても、それがいくら突拍子のないものであっても、文句を言われる筋合いはないでしょう!

 そこで、クマネズミとしては、マコト(もたいまさこ)が風呂屋で働くジンに対して、「分析ばっかりしていても仕方ないんだよ。そんな季節はもう終わっちゃっているんだから」と言う場面を基点にして、この映画は“革命”を求めているのではないか、その予兆に登場人物の皆がとらえられるのではないか、と解釈してみたくなりました。
 マコト(もたいまさこ)は、そのことを告げに宇宙のどこかから使わされてきた者であり、告げられた男たちは、同志を集めに行ったりします(ヤマノハは、セツコに促されて、姿を消した同僚に会いに行きます)。また、女たちも、革命の準備に取り掛かります(3人の女たちは、ハツミの出身地に一緒に行ってみようとしています)。
 そして実際の革命の戦士は赤ん坊のポプラなのです(男たちや女たちの間で循環される間に、彼らから革命のエネルギーを貰い受けます)!
 それが実際に達成できるかどうかは、セツコがつくる水割りに使われる水、タカコが淹れるコーヒーに使われる水、そしてハツミが作る豆腐に使われる水の善し悪しによるのでしょうが、藤森神社から汲んできた水を使っているのであれば問題ないでしょうし、なんといっても舞台は鴨川沿いなのですから!

 こんないい加減な空想を許してしまうのですから、今回の作品は、マンネリ化の傾向が窺えるとしても、マズマズの出来栄えではないか、と思ってしまいます。

(3)渡まち子氏は、「物語ともつかないエピソードをコラージュした、人と場所だけを描く映画だ」が、「散歩する人として登場するもたいまさこは、出会う人となんのためらいもなく接しながらも、根本的には「一人で生きている」ことに喜びと誇りを持っている。尊重するのは、ゆるりとつながる関係性。そんなムードが現代社会のやんわりとした孤独にマッチしている」として55点を与えています。




★★★☆☆




象のロケット:マザーウォーター
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