映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

羊の木

2018年02月16日 | 邦画(18年)
 『羊の木』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、「その種子やがて芽吹き タタールの子羊となる 羊にして植物 その血 蜜のように甘く その肉 魚のように柔らかく 狼のみ それを食べる  「東タタール旅行記」より」の字幕。

 次いで、地方都市の魚深市の全景が映し出され、それからその市役所の内部。
 課長(鈴木晋介)が、机の上のパソコンの画面を見てから、部下で主人公の月末錦戸亮)を呼んで、「新規に6名の受入がある」「担当してくれ」と言いますが、月末は「えっ、6名も!」と驚きます。

 先ず新幹線の駅の改札口。
 月末が、「ようこそ魚深市ヘ 福元さん歓迎」のボードを手にして立っています。
 すると、3人の男が、プラットホームに通じる階段を降りてきて改札口に現れ、そのうちの一人が、切符を改札機に入れて出てきます。
 その男が福元水澤紳吾)で、車の中で月末が「今日はどちらから?」と尋ねると、福元は「結構遠かった」と答えます。
 さらに月末が「魚深市は初めてですか?」「結構良いところです、魚も美味しいし」と言うと、福元は「魚、結構苦手です」と応じます。
 途中で入った食堂で、福元は、味噌ラーメンやチャーハンを大慌てで口の中に放り込み、月末は驚いた様子でそれを見守ります。

 今度は飛行場。
 太田優香)を出迎えた月末は、「良いところですよ」「人も良いし、魚もうまいし」と言うと、太田は自分の来ている服の臭いを嗅いで、「服がカビ臭くて」「ずっと保管してもらってたから」と言います。
 そこで、月末が「そこらの店で服を買えば良いのでは?」とアドバイスすると、太田は服を着替えて、「お待たせしました」と言いながら現れます。

 さらに、在来線の駅に、「栗本さん 歓迎」のボードを持った月末がいます。
 月末は、栗本市川実日子)をアパートに連れて行きます。
 アパートでは、栗本が、段ボール箱に入った荷物から新聞紙に包まれた食器を取り出します。他方で月末は、掃除機を押入れの中に運び入れたりします。

 その他、月末は、大野田中泯)、杉山北村一輝)、それに宮腰松田龍平)を迎えに行くことになりますが、さあここからこの物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は6人の仮釈放された元受刑者を受け入れることになったある地方都市でのお話。主人公はその受入を担当することになった市役所職員。彼を中心にして、6人と地方都市の住人等との関わりが形成されるとともに、その地方都市における伝統的なお祭りも絡んできて、物語は思いもよらない方向に展開していきます。なかなか興味深いストーリーとはいえ、タイトルの「羊の木」の意味合いを始めとして、よくわからない感じが絶えずつきまとってもきます。

(2)本作は、原作漫画とは大幅に異なるストーリーが描かれているようです。
 例えば、第1巻だけを見ても、原作漫画の主人公が、映画には登場しない魚深市の市長だったり、本作の主人公で若い市役所職員の月末一が、原作漫画では中年すぎの仏壇店の店主だったり、原作漫画で魚深市が受け入れる元受刑者の人数も11人だったり(その全てが、本作のように殺人犯というわけではありません)、という具合です。

 映画化に際してそんな大胆な書き換えをするのであれば、例えば、登場する元受刑者の人数も3人位に絞り込んで、それぞれが刑務所に入ることになった経緯を描き出すなど、もう少しきめ細かく人物造形をしてみたらよかったのでは、と思ったりしました(注2)。

 それに、本作にはよくわからない雰囲気が終始漂っている感じがします。

 中でもよくわからないのは、タイトルの「羊の木」の意味合いです。
 本作では、冒頭に、上記(1)で示したような字幕が映し出され(注3)、また、栗本が、浜辺を清掃中に「羊の木」が描かれた古い缶の蓋(注4)を見つけて、自分のアパートのドアにぶら下げます。
 でも、本作では、「羊の木」について何も説明されません。
 ただ、劇場用パンフレットの「Key Word」に「羊の木とは?」という項目(注5)があって、「中世の時代、ヨーロッパでは「東方には羊のなる木がある」と信じられていた」と述べられています。
 ですがそれだけでは、本作のタイトルになぜ「羊の木」が使われたのかはわかりません。
 そこで、原作漫画にあたってみると、第1巻だけに過ぎませんが、そのP.49では、額縁に入った「羊の木」の絵が市長室に掲げられていて、魚深市の島原市長が「コロンブスの時代にヨーロッパの人々は 綿を「羊のなる木」と思っていたとか」「まったくうらやましくなるぐらい単純な発想だよ」「今の世の中では通用しないぐらいにね」「うらやましい」と独り呟く場面が描かれています(注6)。
 これからすると、あるいは「羊の木」とは、複雑な現代社会とは対極的な正義が貫徹される単純な世界を表すものといえるのかもしれません(注7)。
 とはいえ、本作のストーリーにそのことがどのように絡んでくるのかは、どうもはっきりとはしません。

 それから、本作で描かれる「のろろ」祭りの意味合いです。
 魚深市の伝統行事「のろろ」が映画では描かれますが、なんだか本作の物語とは遊離している感じがしたところです。
 無論、舞台とされる魚深市は地方都市ですから、伝統的なお祭りがあって当然でしょう。
 でも、本作で描かれるのは、酷く不気味さを湛えたお祭りですし(注8)、海岸べりの崖の上に聳えるのろろ様の巨大像(注9)の首が落ちて、その直撃を受けた宮腰が死ぬというのも、ことさらに伝奇小説じみていて、映画の雰囲気から逸れている感じがしました(注10)。

 もっと言えば、月末と石田文木村文乃)と須藤松尾諭)とが結成しているバンドです。
 このバンドは、月末と石田、それに石田と宮腰との関係を作り出す上で必要な設定なのかもしれません。
 でも、何かに出場するアテもない感じで、ただ3人で同じような曲を繰り返し練習だけしている様子が本作では描かれているところ、なんだか取ってつけたような雰囲気がどうしてもしてしまいます(注11)。

 総じて言えば、本作については、描かれている様々のエピソードや出来事などが、個別の話としては大層興味深いものの、ツギハギで集められていて、全体的なまとまり感が欠けているのでは、という印象を拭い去ることができませんでした。

 とはいえ、それらのことはどうでもいいのかもしれません。
 刑務所の経費削減と地方の過疎対策を狙って、一定数の受刑者を仮釈放することとした場合(注12)、彼らを受け入れた地方自治体でどんなことが起こるのかを描くという本作の基本的なアイデア(注13)は、なかなか面白いと思います。
 特に、地元の魚深市の市民と深く結びついた3人の元受刑者の様子は、観る者に何かしらの光を与えてくれることでしょう(注14)。

 また、主演の錦戸亮や、最近あちこちの映画で見かける木村文乃とか、6人の受刑者を演じた俳優は、それぞれ個性的な演技を披露していて素晴らしいと思いました。
 特に、宮腰を演じる松田龍平は、酷く難しい役柄を持ち前の演技力でとても上手くこなしているように思いました。



(3)渡まち子氏は、「ユーモラスかつスリリングな演出、俳優たちの妙演のアンサンブル、そこに浮かび上がる人間の本性。なかなか奥深い群像劇だ」として70点を付けています。



(注1)監督は、『美しい星』などの吉田大八
 脚本は、『クヒオ大佐』などの香川まさひと
 原作は、山上たつひこいがらしみきおの漫画『羊の木』(講談社)。

 なお、出演者の内、錦戸亮は『抱きしめたい―真実の物語』、松田龍平安藤玉恵は『探偵はBARにいる3』、木村文乃は『火花』、北村一輝は『無限の住人』、優香は『ブルーハーツが聴こえる』、市川実日子田中泯は『DESTINY鎌倉ものがたり』、水澤紳吾は『幼な子われらに生まれ』、松尾諭は『後妻業の女』、山口美也子は『朱花の月』で、それぞれ最近見ました。

(注2)漁船を操縦する杉山は誰に雇われているのかはっきりしませんし、太田が月末の父親(北見敏之)にいきなり強く惹かれてしまうというのも酷く唐突な感じがします。



 また、大野のヤクザぶりは随分と定型的な感じがしてしまいます。
 それで、これら3人の受刑者は省略して、宮脇や栗本、そして福元の過去などをもう少しきめ細かく描いてみたら、もっと映画の中に観る者が入り込めるのではないか、と思ったところです(特に、宮脇についても、杉山同様、魚深市での雇い主が全く現れないのはどうしてなのかなという感じがしました)。

(注3)出典が「東タタール旅行記」とされていますが、ネットで調べても該当する著書は見当たりません。あるいは、映画を観る者を煙に巻こうとして、制作側が作り出した字句かもしれません。

(注4)その「羊の木」の絵には5頭の羊が描かれていますが、原作漫画(P.49とかP.175)や、下記「注5」で触れる澁澤龍彦の本『幻想博物誌』の中に出てくる挿絵(P.13)では、4頭の羊が描かれています。ということは、5頭ということにそれほどの意味合いがないのかもしれません。
 なお、栗本は、魚とか亀などの死骸を、自分が住んでいるアパートの近くの地面に埋めて土饅頭を作っていますが、その数は5を超えているように思います(亀を埋めた土饅頭の頂上からは芽が出てきますが、あるいは「羊の木」になるのでしょうか?!)。



(注5)その項目では、「作家・澁澤龍彦も「スキタイの羊」というエッセイで詳しく触れている(河出文庫「プリニウスと怪物たち」)」と書かれていますが、当該エッセイは、河出文庫・澁澤龍彦コレクション『幻想博物誌』の冒頭にも掲載されています。
 なお、当該エッセイの中に、「スキタイの羊(「韃靼の羊」とも呼ばれる)」とありますから、ここでは、スキタイ=韃靼=タタールとされているのでしょう。

(注6)原作漫画の第1巻のP.175~P.176にも、市長が「最近はあの蜃気楼の街にこそ 「羊の木」の世界があるように思える」と言うと、友人の大塚(和洋食器店の主人)が「キミの家に代々伝わるあの銅版画か」と受け、さらに市長が「はじめて綿というものを見て 羊のなる木を連想する それを信じて疑わない単純さ まったくうらやましくなる世界さ」と言うと、大塚が「確かに今じゃありえないぐらい 牧歌的な世界だね」と受け、市長も「政治の世界にいると さらにそういう世界がうらやましくなる」「人間は何百年もかけて 正しいことなんか絶対に行われないシステムを作り上げてしまったんじゃないかとさえ思うよ」と言う場面が描かれています。

(注7)あるいは、仮釈放で刑務所から出所した元受刑者はすでに罪を償ったのだから、仮に現代が単純な発想をする社会であるとしたら、彼らを普通人としてすんなり受け入れるはず、にもかかわらず様々の問題が起きてしまうのは、「羊の木」が描かれた大昔のヨーロッパと現代社会が違ってしまっているからだ、ということなのでしょうか?
 でも、単純な発想の絵を書いているからと言って、その社会の構成員が社会生活を送る時に単純な発想になるわけではない、というのは言うまでもないことではないでしょうか?

 なお、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「羊の木―「不確実さ」を受け容れますか?」において、斎藤環氏は、「単純な因果律で考えるなら、「人を殺した人間」は服役後も危険人物のままであると考えるのが自然、ということになる」と述べています。
 確かに、そういう考え方もあるかもしれません。でも、そんな考えについて「そういう発想をする世界がうらやましくなる」と原作漫画の島原市長は述べるでしょうか、酷く疑問に思われます。
 また、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、脚本の香川まさひと氏は、「植物というのは、土地に根付いて、再生を繰り返すものですよね。それと同じように人間も、10年、20年とかかっても新たな土壌に溶け込んだり、何度も生まれ変われる存在であってほしい。たとえそれが「木から羊が生える」くらい、ありそうもないイメージだとしても」と述べています。
 ただ、この見方では「羊の木」という具体的なイメージにまで、ちょっと結びつかないように思えますが。
 ともかく、同じ記事で香川氏が言うように、「観た人によっていろんな解釈ができるのが、「羊の木」という話の面白さ」といったところでしょう。

(注8)なにしろ、KKKのようなのろろ様の一行が練り歩くにしても、見てはいけないということで、人っ子一人歩いていない大通りを進むのですから、陰気なことこの上ありません!

(注9)巨大像は縄文時代の土偶にそっくりにもかかわらず、祭りに登場するのろろ役が被る被り物は魚の頭部を象っているのも変な感じがしました。
 それと、すでに指摘されている点ですが、漁港から離れた海岸べりの崖の上から落下したはずの巨大像の頭部が、漁港の海底から引き上げられるというのもわけがわからないところです(海に落ちてからそこまで海底を転がってきたというわけなのでしょうか)。

(注10)原作漫画における「のろろ祭り」の不気味さは、原作漫画全体が醸し出す不気味さにマッチしているように思われますが、本作の全体からは不気味さは立ち上ってきませんので、「のろろ祭り」が浮き上げっているような感じがします(原作漫画の不気味さは、登場人物の大半が中年過ぎで、その顔付きなども殊更歪んでいるところから来るように思われるのですが、これに対して本作の登場人物は、イケメンの若者・青年が多く、不気味な感じがしません)。

(注11)リードギター担当の石田が都会に出ていた間は休止していたはずのバンドが、石田が帰郷すると直ちに再開するというのも、唐突すぎる感じがするところです(その間、3人は心境の変化など何もなかったのでしょうか?)。

(注12)月末の上司の課長は、迎えた6人の様子がおかしいことから疑問をいだいた月末に対し、「このプロジェクトには日本の将来がかかっている」「刑務所に入っている者を仮釈放するには、身元引受人が必要だ。今回、地方自治体が彼らを引き受けることになった」「彼らは、刑期が大幅に短縮されて、仮釈放されることになった」「10年間、当地に定住することが条件になっている」「彼らの勤め先などには、個人情報保護の観点から、こういったことは伝えていない」などと説明します。
ただ、原作漫画のように元受刑者の受入人数が本作の倍近くの11名であっても、そのオーダーであれば、過疎対策としてはとても効果は期待できないでしょうが。

(注13)これは本作のフレームワークにすぎず、実際のところは、吉田監督は「この映画を“友情”(あるいは、「誰かを受け入れる感覚」とも言いかえられると監督は述べています)についての物語にしたいと思うようになった」と述べていますし、脚本の香川まさひと氏は「今回は謎と向き合った際の主人公の困惑や戸惑い、ざわついた皮膚感覚のようなものを、その瞬間ごとに観ている人が体感できる映画にしたかった」などと述べていたりします(いずれも、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事から)。
 要すれば、本作は、様々の観点から議論できる作品となっているというわけでしょう。
 その点からしたら、本作は、月末と石田とのラブストーリーと把握することもできるかもしれません(とはいえ、ラストの方で、それまで月末を冷たくあしらっていたはずの石田が、海に落ちた月末に向かって大声で「月末―ッ」と叫ぶに至るのか、その経緯がよくわからないという問題があるように思いますが)。

(注14)逆に、本作では地元民の雇用主が明示的に描かれていない宮腰と杉山が死亡するというのも興味深い点です。そうだとすると、同じように、雇用主が明示されない栗本は、この先どうなってしまうのか、心配になるところです。



★★★☆☆☆



象のロケット;羊の木


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嘘を愛する女

2018年02月05日 | 邦画(18年)
 『嘘を愛する女』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編を見て面白いのではと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭の時点は、東日本大震災が起きた2011年3月11日。
 人々が、電車から駅のホームに吐き出されます。
 主人公の由加利長澤まさみ)が、満員の電車で気分が悪くなったのでしょう、通勤客の間をフラフラと歩いています。
 とうとう、階段の手すりにつかまりながらしゃがみ込んでしまいます。
 駅のアナウンスが「ゆっくり、慌てずに行動してください」と注意を呼びかけます。

 そこに男(小出桔平高橋一生)が現れて、「大丈夫ですか?」「ちょっと座りましょう」「ゆっくり息をして」と言いながら、由加利の顔を見ます。

 次の場面は、マンションの前。
 タクシーが到着し、運転手が由加利に「お客さん、着きましたよ」と声をかけます。
 それで、それまで寝ていた由加利は目を覚まします。

 車を降りた由加利は、自分の家の前まで来て、ベルを鳴らします。
 中から桔平がドアを開けて、「お帰り」と言って、由加利を迎え入れます。

 翌朝、由加利は「だるい」と言いながら居間に入ってきます。
 桔平がおもちゃの超合金ロボットのカタログを見ているのを見て、由加利が「また見てるの?」「それは持ってるでしょ」と言うと、桔平は「俺が探しているのにぴったりなんだ」などと答えます。
 その後由加利は「今日はまっすぐに帰ります」と言って、出勤します。

 由加利が勤務する食品メーカーでは、由加利が商品の味を調べたりするところを雑誌社のカメラマンが撮影しています。
 さらに、記者の質問に由加利が「半歩先の商品を開発するのが、私の仕事です」などと答えると、記者は「上手く行けば、2年連続でウーマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれるのではないでしょうか」などと持ち上げます。

 また、由加利たちの家。



 由加利が、「お母さん来るって」「表参道でパンケーキを食べたいだって」「キッちゃんもどおって」「一緒に食べたいんだって」と言うと、桔平は「うん」と曖昧にうなずきます。

 ですが、待ち合わせの時刻がかなり過ぎても、由加利とその母親が待つ店に桔平は姿を見せません。
 ここから、本作の物語が動き出しますが、さあ、どのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、キャリアウーマンとして第1線でバリバリ働く主人公の女が、ふとしたきっかけで知り合った男と同棲しますが、5年後にその男がクモ膜下出血で倒れた時に、その男のすべてが嘘と分かり、主人公は探偵を雇ってその過去を調べていくと、…、という物語。過去を探る話はまずまずながら、判明した過去が2人のこれからの人生にどのような影響を及ぼすのかなどについて何も語られておらず、単に調べてみただけで終わっていて、一つの作品としてのまとまりに欠けているように思いました。

(以下では、サスペンス的な要素を持っている本作について、相当程度ネタバレしておりますので、未見の方は十分に注意していただきたいと思います)

(2)本作は、タイトルに「嘘」とあるからでしょうか、何かとわからなさがつきまといます。
 例えば、主人公の由加利と桔平との同棲生活は5年も続いているところ、その間、桔平の職業等に関するに嘘について何もバレなかったというのは考えられない気がします(注2)。

 本作では、由加利のところにやってきた刑事(嶋田久作)によって、桔平の持つ運転免許証の記載内容がでたらめであることを知らされ、さらに桔平が病院で着用していたはずの名札についても、由加利がその病院に行って尋ねるとすべて嘘だったことがわかります。
 とはいえ、運転免許証の記載内容について他人が確認することなど普通考えられないにしても、同棲相手の勤務先に5年間1度も連絡しなかったなどということがありうるのでしょうか(注3)?

 また、本作では、30歳を過ぎた由加利は、桔平とそろそろ結婚しようかと考えていて、母親が上京する機会をとらえて、桔平に母親を会わせようとします。
 そうであれば、由加利は桔平に、出身地やその家族や友人のことなどを、それまでに尋ねているはずです。少なくとも、「あなたのことをもっと知りたいから友人でも紹介して」というくらいのことは言うのではないでしょうか?
 でも、その後の由加利の言動からすると、デタラメにせよそうしたことを彼から聞いたフシがまるでうかがえません(注4)。
 なにしろ、桔平の過去を調査するに際し手がかりとなったものは、桔平が書いた小説だけなのですから。

 その由加利と探偵の海原吉田鋼太郎)による桔平の過去の調査行ですが、それによって明らかになった事柄が今後の2人の関係にどのように影響を及ぼすかが何も描かれていないために(注5)、単に調べただけに終わってしまっている感じがするところです。

 さらに言えば、タイトルが「嘘を愛する」とされていながら、ヒロインの由加利はどこまでも真実を追求する姿勢をとっているのはどうなのかな、と思ってしまいました。
 由加利が本当に“嘘を愛する”女であるのなら、勤務先とされる病院に「小出桔平」なる人物が存在しないとわかった段階で、桔平の“真実”などを調べようとはしないのではないでしょうか?その後の由加利の行動は、むしろ、どこまでも“真実を愛する”女の姿だったように思われます(注6)。

 とはいえ、由加利は、「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたほどの優秀なキャリヤウーマンであり、ここまで主体的に道を切り拓いてきた女性でしょうから、自分が愛する男性が単なる嘘つきでいい加減だったと思いたくはないでしょう。
 それで、詰めの段階になって怯んだりすることもあったりしますが、由加利は、桔平の背後にはきっと何か重大な秘密があるに違いないとして、執拗な調査を続けてしまうのでしょう。
 そして、探偵の海原と一緒になって明らかにした真実を踏まえて、由加利は、意識を回復した桔平と暮らしていくことになるでしょう(注7)。

 その場合、由加利は、明らかになった真実を、意識が戻った桔平には漏らさないで、むしろ、彼が創作した話の方を信じるふりをして今後とも生きていくのかもしれません。
 でも、早晩、2人は結婚式をあげることになると思われるところ、結婚式やその披露宴に親類縁者とか友人を招待しようとした時に、嘘がバレることになる(あるいは、桔平は真実を告白せざるを得なくなる)のではないでしょうか(あるいは、婚姻届だけで済まそうとするかもしれません。でも、それを提出する時には戸籍謄本(あるいは抄本)が必要になり、それを取り寄せた際にバレることになるとも考えられます)?
 そうであれば、由加利にとっては、むしろ、桔平に真実を知っていることを早めに明かして、嘘をついて真実から目をそらすのではなく、真実に真っ直ぐに対峙して生きていくべきだと桔平を説得する方がベターではないか、とも思えるところです。

 それはともかく、ヒロインの由加利を演じる長澤まさみは、『散歩する侵略者』に引き続いて、なかなか質の高い演技を披露しているなと思いました。



 また、映画は、昨年ブレイクした高橋一生からその魅力をうまく引き出しているなと思いました。



(3)渡まち子氏は、「謎めいた疑惑で始まるが、着地点は少々拍子抜けしてしまった。長澤まさみ演じる由加利と、吉田鋼太郎扮する探偵のバディ・ムービーとして楽しむと、意外な味わいがあるかもしれない」として50点を付けています。



(注1)監督は中江和仁
 脚本は、中江監督と近藤希実。

 なお、出演者の内、長澤まさみは『散歩する侵略者』、高橋一生は『ゾウを撫でる』、吉田鋼太郎は『ミックス。』、川栄李奈は『亜人』、黒木瞳は『箱入り息子の恋』で、それぞれ最近見ました。

(注2)ただし、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、中江監督は、「高校時代に辻仁成さんのエッセイを読んだことがきっかけです。その中に実際に起きた事件のことを題材にしたエピソードがありました。その事件とは、50代のある男性が病気になりながらも全く病院に行こうとせず、その行動を不思議に思った内縁の妻が男の素性を調べたところ、名前はおろか、すべてが嘘だったというもの」と述べていて、実際にも起きた出来事が題材となっているようであり、本作で描かれていることは起こり得ないと言い切ることは出来ないかもしれませんが。
 なお、その中で言及されている「実際に起きた事件」とは、この新聞記事(1991年11月4日の朝日新聞)で書かれている事件のようです。

(注3)本作では、刑事の訪問の後に、由加利が桔平の鞄を漁って名札を見つけ、そこに記載されている病院に駆けつけることになっています。そうであれば、由加利は、5年間、1度も勤務先に連絡を取らなかったことになるでしょう。
 尤も、携帯で連絡し合うのであれば、わざわざ勤務先に電話をかける必要はありません。
 ただ、院内への携帯の持ち込みが制限されていたり、携帯が使えないエリアが設けられていたりして、外部から院内の医師に連絡を取るに際しては、病院の固定電話に電話をかける必要があるように思います(なお、医師が所持している「医療用PHS」は、院内での連絡に使われるものだと思われます)。

(注4)上記「注2」で触れた朝日新聞記事によれば、過去がわからない病死した男性は、桔平とは異なり、「「過去」について雄弁だった」そうですが。

(注5)例えば、桔平が隠そうとした事実を眠っている桔平の耳元で呟くことによって、桔平の意識の回復を促そうとするなど、過去のことが現在に関わりを持つように描くこともできるのではないでしょうか?

(注6)由加利は、眠っている桔平に対し、「自分も嘘をついていた」「自分も浮気をしたことがある」「おあいこだね」などと呟きますが、彼女が“嘘を愛する”女であれば、いくら相手に意識が戻っていないとしても、そんな“真実”を言おうとも思わないのではないでしょうか?

(注7)桔平が隠そうとした出来事の核心には、自分が医師の仕事に熱中してしまい家庭を顧みなかったことによって、妻が精神的に大層不安定になってしまい、その結果、愛娘が湯船で溺死してしまったのだ、要すれば、自分が愛娘を死に追いやってしまったという後悔の念があるように思われます。
 それで、桔平は、過去の自分を消去せずには生きていられなかったと考えられます。
 でも、そうであったなら、どうして桔平は、嘘の名前で医師になりすまそうとしたのでしょうか?医師の場合には、調べればすぐに経歴の嘘がバレてしまうのですから(それに、医師の仕事の忙しさが愛娘の死をもたらしたと考えているとしたら、そしてそれを悔いているとしたら、違う職業を選ぶのではないかと思います)。
 でも、他方で由加利は、桔平がそうした人物であることが判明して、自分の選択は間違っていなかったと考えたのかもしれません〔それに、桔平が、秘かに書いていた小説に登場する少女に由加利と同じような身体的特徴(耳の後のホクロ)を与えていることを知って、なお一層、桔平に対する愛を深めたかもしれません〕。



★★★☆☆☆



象のロケット;嘘を愛する女

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勝手にふるえてろ

2018年01月15日 | 邦画(18年)
 『勝手にふるえてろ』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)評判が良さそうなので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、ハンバーガーショップの場面。
 主人公のヨシカ松岡茉優)が、「あたしってクソヘタレで、思っていることたくさんあるのに、何一つ言えてないんですよ」と言うと、金髪店員(趣里)がヨシカの頭を撫でます。



 するとヨシカは、「あなたってフィギュアみたいにかっこいい」「私も触っていい?」と言いながら、金髪店員の頭の髪の毛を撫でます。
 そして、ヨシカは、「一度でいいから金髪に触ってみたかった」「手の届かないものばかり求めてしまう」「イチ(注2:北村匠海)と結婚しても、幸せになれない」「(注3:渡辺大知)なら堪能できちゃう」「だけどやっぱりイチが好き」と呟きます。

 ここでタイトルが流れます。

 ヨシカが勤務する職場(経理課)。
 ヨシカが計算機を叩いていると、営業課のニが書類を差し出します。
 すると、ヨシカが、書類の数字をさしながら「ココ、間違ってます」と指摘します。
 これに対し、ニは「ほんとだ」「俺、今、億動かしてるから、神経が弱ってるんだ」「昨日も3時間しか寝ていない」と応じ、さらにヨシカの机にある鉛筆で数字を直した挙句、「鉛筆借ります」と言います。

 女子トイレの手洗い場。
 ヨシカが「借りました、でしょ」と怒ると、同僚の来瑠美石橋杏奈)が「怒りなさんな」と慰めますが、ヨシカは「経理って、舐められている」と怒りはなかなか静まりません。

 会社の休憩室。
 ヨシカが「営業の出来杉君?」と言うと、来留美は「高杉君」と訂正しますが、ヨシカは「私は、恋愛と仕事は分けたい」と応じます。それに対し、来留美は「イチがずっと好きなんだから」と言います。



 誰かが「電気消すよ」と言うと、休憩室は暗くなり、そこにいた女子職員は皆、横になって午睡を取ります。

 ここで、中学時代の回想が入ります。
 教室でヨシカが、『天然王子』の漫画を机に座って描いていると、イチがやってきて、「なんで王子なの?」と尋ねます。それに対し、ヨシカは「生まれながらの王子だから」と答えます。
 さらに、イチは「変な髪型」と言いますが、ヨシカは自分の髪型について言われたものと思いますが、イチは、漫画に描かれた王子の髪型について言ったようです。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれからどのような物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、作家・綿矢りさの小説『勝手にふるえてろ』を映画化したもの。主人公は若いOLで、中学の同級生に対する片思いを未だに引きずっていながらも、同期入社の社員から告白をも受け、2つの恋の間で思い悩みます。さあ一体彼女はどうするのでしょうかというところですが、コミカルなタッチの中に今時の若い女性の生態も描かれていて、まずまず面白いなと思いました。

(2)本作は、脳内が妄想で一杯の24歳の女の子(注4)の物語。
 であれば、『脳内ポイズンベリー』のような映画になってもおかしくないように思えます。でも、主人公のヨシカは、特段、脳内にいろいろな葛藤を抱え込んでいるわけでもなく、様々な妄想がふくらんでいるだけなので、本作は全然違った味付けの作品となっています。
 例えば、上記(1)の最初の方で描かれているヨシカと金髪店員との会話は、単にヨシカが頭の中で作り上げたもので、実際にはヨシカは金髪店員と何の会話もしていないことが後の方でわかります(注5)。
 また、本作の前半では、ヨシカが駅員(前野朋哉)とか釣り堀のおじさん(古舘寛治)などと大層親しげに話す場面がいくつか映し出されているところ、これもヨシカの妄想の中の出来事と判明します。
 さらには、コンビニの店員(柳俊太郎)とかバスに乗り合わせた編み物おばさん(注6:稲川実代子)などとも、ヨシカの妄想の中で会話します。

 ただ、これらの人達は、原作では見受けられず、映画で初めて登場するのです。
 こうなると、主人公ヨシカの雰囲気は、原作とかなり離れてくる感じがします。
 原作のヨシカは、確かに中学時に同級生のイチを好きになって以来、10年間、ずっとイチのことを思い続けていますが、そのくらいのことなら誰にでも心当たりがあるでしょう。
 原作のヨシカは、少々変わっているとしても(注7)、ごく普通の女の子のように思えます。
 でも、映画で描かれているヨシカのように、外出先で出会う人達と頻繁に妄想の中で会話をするというのは、どうなのでしょう?
 なんだか、統合失調症一歩前といった感じにもなってきます。
 
 それでも、後半になって、イチが自分の名前を知らないことがわかって強いショックを受けると(注8)、ヨシカは、そうした妄想が消滅して、現実的な姿に戻ります(注9)。
 ですから、ヨシカの脳内に妄想一杯という前半の描き方は、妄想が多すぎる感じは否めないとしても、本作を映画として制作するにあたって必要とされたものにすぎないのでは(注10)、と考えた方がいいのかもしれません。

 それと、原作との違いを言えば、タイトルの「勝手にふるえてろ」ですが、原作の場合は、「イチはもう心の支えにはなってくれない。なんで私の名前もおぼえてないわけ、………、もう言い、思っている私に美がある。………私の中で十二年間(注11)育ちつづけた愛こそが美しい。イチなんか、勝手にふるえてろ」という文脈で登場します(文庫版P.131)。
 これに対して、本作では、最後の最後で、ヨシカが自分に対して言う言葉とされています(注12)。
 原作での使い方はよく理解できるものの、本作においては、騒々しいラストでヨシカとニとが抱き合う中で言われるものですから、誰に向かって何のつもりで言っているのか、イマイチピンときませんでした(注13)。

 と言っても、本作は、これまで『リトル・フォレスト』などでしか見たことがなかった松岡茉優が、その持てる才能を十分に発揮した、なかなかの快作といえるように思います。



 特に、途中でヨシカは、ミュージカルのように自分の気持ちを歌い上げるのですが(注14)、なかなか声も良く、実に様になっているなと思いました。
 また、ニに扮した渡辺大知も、二番手という役どころをなかなかうまく演じています。



(3)渡まち子氏は、「イタい笑いたっぷりのラブストーリーだが、同時に個性的な味わいの人生讃歌と見た」として60点を付けています。
 暉峻創三氏は、「現実生活での愛への臆病さと引き換えに、果てしない脳内妄想に生きる滑稽なヒロイン。だが、けっしてやりすぎない演技、やりすぎない演出が、一級のコメディーに結実した」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「本作の主人公ヨシカの悩みも自己中心的なものだが、恵まれた国・日本で、多くの若者たちが抱えている屈折を松岡茉優が高い身体性で演じきった」と述べています。



(注1)監督・脚本は大九明子
 原作は、綿矢りさ著『勝手にふるえてろ』(文春文庫)。

 出演者の内、松岡茉優は『リトル・フォレスト』、石橋杏奈は『22年目の告白―私が殺人犯です―』、北村匠海は『あやしい彼女』、古舘寛治は『淵に立つ』、前野朋哉は『エミアビのはじまりとはじまり』、片桐はいりは『シン・ゴジラ』で、それぞれ最近見ました。

(注2)ヨシカが一番思っている人であり、また原作によれば、名字が「一宮」なので、イチ。

(注3)ヨシカにとって2番目に現れた男性なので、ニ。

(注4)原作では、自分について「江藤良香、26歳」云々とヨシカはニに話します。

(注5)イチからショッキングな話を聞いた後(下記「注8」参照)、ヨシカはハンバーガーショップに入りますが、ヨシカは金髪店員を見て、「この人の名前を知らない」「だって、この人と話したことがないんだもの」と呟きます。それに、ヨシカは、金髪店員が話す外国語が理解できないのです。

(注6)実は、ヨシカの会社の清掃員。

(注7)例えば、ヨシカは、アンモナイトなど絶滅した動物について関心を持っています。

(注8)同窓会が開かれたマンションで、イチと二人きりになれたヨシカは、イチと色々話をしますが、イチがヨシカのことを「きみ」と言うのが気にかかって、「イチ君て、人のことをきみと呼ぶの?」と尋ねると、イチは「ごめん、名前何?」と言うのです。

(注9)ただ、ラストの方で、ヨシカの隣に住むオカリナを吹く女(片桐はいり)とコンビニ店員が、色違いながら同じ柄のかっぱを着て雨の中に立っているのをヨシカは見ますが、これは現実の出来事でしょうか?

(注10)原作のままだと登場人物があまりにも少なく、映画として面白みに欠けるものになってしまう恐れがあります。この点については、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、原作者の綿矢りさ氏が、「登場人物が少ない小説なので、大丈夫かなと。脚本読んだら人が増えていたのでありがたかったです(笑い)」と述べています。

(注11)原作では、ヨシカの年齢は本作よりも2歳上となっています。

(注12)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、監督の大九明子氏は、「自分に向けた言葉にしたいと脚本を書き始めた早い段階で考えていました。若い女の子なんてものはどうせ大変だと言いながら、意外と死なない生きものだから、勝手にふるえてろよ、と。そういう過去の自分に対しての言葉でもありますね」と述べています。

(注13)上記「注12」で記したように、ヨシカが自分の過去に向かって言うとしても、それまでのヨシカはあまり自分を客観視するようなことをしていないので、突如このように突き放つ言葉が言われると、なんだか唐突な感じになってしまいます。

(注14)イチが自分の名前を知らないことにショックを受けたヨシカが、金髪店員やコンビニ店員、釣り堀のおじさんなどを巡り歩いている最中に、大九監督の作詞による「アンモナイト」という歌(♪この人の名前を私は知らない~絶滅すべきでしょうか?♪)を歌い上げます。



★★★☆☆☆



象のロケット:勝手にふるえてろ

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