映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ミックス。

2017年10月30日 | 邦画(17年)
 『ミックス。』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、主人公の多満子新垣結衣)が、あらぬことを呟きながら(注2)、お酒を浴びるように呑んで泣いています。
 翌日、多満子は、ローカル線の列車に荷物を抱えて乗っています(注3)。
 列車の中はガラガラで、たまたま乗り合わせていた萩原瑛太)は、二日酔いの多満子の姿を見てか、あるいは何か魂胆があってか、女子高生が座っている席の方に移動します。
 すると、多満子も席を萩原の方に移します。
 その時、多満子は二日酔いがこうじて吐き気を催します。
 萩原が席を立つと、列車が急ブレーキで大きく揺れて、萩原は多満子に倒れかかりますが、……。

 画面は、多満子の回想。
 母親(真木よう子)が、幼い多満子に卓球の猛特訓を行っています(注4)。
 場所は、自分が創設した「フラワー卓球クラブ」。
 でも、病に倒れた母親は、病床で多満子に、「卓球、止めていいよ」「平凡な人生が一番幸せだから」(「できれば続けてほしいけど」とも付け加えますが)と言います。

 次いで、母親の葬儀の場面。
 司会者が「故人に持っていってもらいたいものがあれば、棺の中にお入れください」と案内したところ、多満子は、卓球道具一式を棺の中にしまい込みます。

 今や28歳になった多満子は、会社の事務員として平凡な生活を送っています。
 ただ、多満子の声で、「相手の不在が、深刻な問題となりつつある」「人生に奇蹟は起きない」。

 ある時、多満子は、山なす書類を腕に抱えて会社の廊下を歩いていたところ、バランスを崩して書類を廊下にぶちまけてしまいます。
 それを、最近卓球選手として入社した江島(注5:瀬戸康史)が、親切にも拾ってくれたのです。



 さらに、会社の卓球部の優勝祝賀会の後、多満子が独りで後片付けをしていたところ、江島がやってきて、「目の前で女性が力仕事をしているのを無視できない」と言って、手伝ってくれます。

 カフェでデートをした時、多満子が「卓球は全然わからない」と言うと、江島は「それが良いんだ」と応じます。
 さらに多満子は、江島に弁当を作ったり、クリスマスにはマフラーを作ってプレゼントしたりします。お返しに、江島は、部屋の鍵を多満子にプレゼントします。

 ですが、江島が、ミックスでペアを組むことになった小笠原永野芽郁)と部屋で抱き合っているところを、多満子は目撃してしまいます。
 多満子は、会社に退職届を提出して、父親(小日向文世)のいる実家に戻ることとします。
 その帰りの列車で、多満子は萩原と出会うことになるのですが、………。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作は、失恋して田舎に逃げ帰った元天才卓球選手と、引退して田舎の現場で土木作業員になっている元プロボクサーが、全日本卓球選手権大会に出場しようとして、云々というお話。よく見かけるスポーツ物といった感じでストーリーは進行していき、結末もお定まりのものになるのですが、今が旬の新垣結衣をふんだんに見ることが出来るので、こんな他愛のない作品でもまあいいかというところでしょう。

(2)世界卓球における日本選手のこのところの躍進ぶり(注6)があってこうした映画が制作されたことと思いますが(注7)、今が旬と思える新垣結衣の頑張りもあって、まずまず面白い作品に仕上がっています。
 それに、新垣結衣が扮する多満子の相手役・萩原を演じる瑛太も、その持ち味を上手く発揮しているように思いました。



 さらに、フラワー卓球クラブのメンバーで多満子をよく知り、多満子を「お嬢」と呼ぶ吉岡を演じる広末涼子もなかなか頑張っています。



 加えて、フラワー卓球クラブのメンバーが行きつけの四川料理店の店員・役の蒼井優のはじけっぷりはものすごいものがあり、目を見晴ってしまいます。

 ただ、萩原がボクシングでサウスポーであり、卓球のミックスで有利な左打ちが出来るとしても、そしていくら猛特訓をするとしても、あれほどの短期間(2年弱)で、予選大会の決勝まで勝ち抜ける力をつけることが出来るのか、そしてその決勝戦で、全国制覇も夢ではない江島・小笠原ペアと接戦を演じてしまえるのか、という点には首を傾げたくなってしまいます(注8)。

 でも、生瀬勝久が扮するジェーン・エスメラルダ(注9)というようなキャラクターが多満子と萩原の対戦相手に登場するファンタジックな要素を持っている本作に、そんなことを言ってみても野暮の極みでしょう(注10)。

(3)渡まち子氏は、「スポーツ映画としても、ラブストーリーとしても、コメディーとしても、今一つ突き抜けていないが、小ネタで楽しませるサービス精神は旺盛。TVドラマ「リーガルハイ」などの売れっ子脚本家・古沢良太の嫌味のない脚本で、薄く浅く、軽く楽しく過ごせる作品だ」として55点を付けています。
 稲田豊史氏は、「予告編を観た多くの観客が想像するであろう展開のほとんどその通りに、実際の本編も進行します。もちろんストーリーの細かい部分までは想像できないでしょうが、「観た後にはきっとこんな感情が湧き上がってくるだろう」という観客の予想と期待は、大方はずれません。映画の最後には、予告編を観た多くの観客が頭に浮かべる「こうなったらいいな」を、9割がた裏切らない結末が待っています」と述べています。



(注)監督は石川淳一
 脚本は、『スキャナー 記憶のカケラをよむ男』などの古沢良太(本作も、同氏のオリジナル脚本)。

 なお、出演者の内、最近では、新垣結衣は『くちびるに歌を』、瑛太遠藤憲一は『土竜の唄 香港狂騒曲』、広末涼子は『想いのこし』、永野芽郁は『帝一の國』、蒼井優は『アズミ・ハルコは行方不明』、真木よう子は『ぼくのおじさん』、吉田鋼太郎は『三度目の殺人』、生瀬勝久は『疾風ロンド』、小日向文世は『サバイバルファミリー』で、それぞれ見ました。

(注2)多満子は、「実は、私、結婚するの」「前からプロポーズを受けていて、私の方が、根負け」「ごめんなさい、あなたを捨てることになって」「相手は、年収4000万のお医者さん」「明日からプロバンスに」などと、ぬいぐるみを相手に呟きます。

(注3)神奈川県内を走るローカル線で、萩原が「山彦駅」(架空)で降りてタクシーに乗ると、その運転手は多満子の父親です。多満子の母親が創設した「フラワー卓球クラブ」もそこらあたりにあるのでしょう。

(注4)多満子の声で、「その球技は、人生における真理をいくつか教えてくれる。「栄光は、人生を狂わせる」「親というのは、我が子を天才と思いがち」「この地獄からいつか王子様が救い出してくれる、というような奇蹟は起こらない」「大切なことを気づいた時はおそすぎる」」、というナレーションが間を置いて挿入されます。

(注5)多満子は、幼い時に出場した全国大会で3位でしたが、その時江島も出場していて優勝していて、実は多満子の方は江島を知っているのです。

(注6)この記事によれば、「1952年~59年の間に日本が優勝した種目数は24。佐藤博治、荻村伊智朗、田中利明、大川とみ、江口冨士枝、松崎キミ代――6人の世界チャンピオンが生まれ、男子団体で世界卓球5連勝を達成した。1950年代、日本の卓球は黄金時代だったのだ」とのこと。
 その後随分と長い暗黒時代が続きますが、このところ、日本勢が大躍進を遂げています。
例えば、この記事によれば、「6月5日に閉幕した卓球の世界選手権個人戦(ドイツ・デュッセルドルフ)で、日本は金1、銀1、銅3の大躍進を遂げた。メダル5個以上の獲得は1975年コルカタ大会以来、42年ぶり」とのこと。
 本作においては、水谷隼選手や石川佳純選手、伊藤美誠選手といったトップクラスの現役選手が出演しています。

(注7)クマネズミがこれまでに見た卓球物としては、韓国映画の『ハナ』があるくらいです。
 そういえば、『ボン・ボヤージュ~家族旅行は大暴走~』では、交通警察の隊長が卓球にうつつを抜かしていました。

(注8)ただ、10月29日放映の『ワイドナショー』(フジテレビ)に出演したボクシングの世界チャンピオンの長谷川穂積氏は、「卓球で、高齢者の中で一番になりたい」と言っていました。
 ネットで調べてみると、こんな記事も見つかります。
 となると、本作の萩原のように、ボクシングの選手が卓球に転向することは、あながち荒唐無稽でもなさそうです。
 それに、長谷川選手は、萩原を演じる瑛太とほぼ同年齢の36歳です。
 ですが、『ワイドナショー』において長谷川氏は、「中学の頃、卓球をやってました」と答えています。
 他方、本作の萩原にはそうした背景が描かれていません(一から、多満子の指導を受けています)。
 やはり、萩原が短期間で大会に出場するのは難しいのではと思えるのですが。

(注9)このサイトをご覧ください。

(注10)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、脚本の古沢良太氏は、「映画としても本当に真っすぐお客さんの心に届く王道の作品になっていて、観ていただいた方に気持ちよくなってもらえるかなと思います」と述べていますが、マアそんなところではないかと思います。



★★★☆☆☆



象のロケット:ミックス。


エルネスト

2017年10月25日 | 邦画(17年)
 『エルネスト』をイオンシネマ板橋で見ました。

(1)オダギリジョーの主演作というので映画館(注1)に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、「もし我々を空想家というのなら、もし理想主義者というのなら、我々は何千回でも答えよう、そのとおりだと」とのチェ・ゲバラの言葉(注3)が字幕で映し出されます。
 そして、フィデル・カストロの革命政権がキューバで樹立された時のニュース画像が流れます(1959年1月)。

 次いで、日本の外務省中南米課。時点は、1959年7月。
 課員が電話で話しています。
 「キューバのどういう人?」「もう、乗ったんだって?」「そっちで止めてほしかった」「広島に着くのは何時?」。
 その課員は、上司に、「大阪分室からの連絡です」「強行されてしまいました」「もう列車の中だそうです」と報告します。

 大阪から広島へ向かう列車の中(注4)。
 在日のキューバ大使が、弁当を買ってきて、キューバ使節団の団長のチェ・ゲバラホワン・ミゲル・バレロ・アコスタ)に渡し、「ベントーです、ゲバラ少佐」と言います。
 ゲバラが「役人が来るのか?」と尋ねると、キューバ大使は「はい」と答え、それに対し、ゲバラは「日本政府は米国に気兼ねして、広島行きを認めない」、「しかし、私は、行きたいところへ行く」と言います。
 ゲバラは、持ってきたカメラを、荷物棚の上に置きます。

 広島県庁での記者会見。
 広報担当が、「突然決まったのですが、キューバの使節団が来ました」「親善目的で、駐日大使が同行しています」「団長は、キューバ人の少佐です」と発表すると(注5)、記者の方からは「少佐じゃあ、大した話は出ないのでは」と失望の声が。

 中国新聞の記者の永山絢斗)が、平和記念公園や原爆資料館を訪れるゲバラたちを取材します。
 原爆死没者慰霊碑に献花して敬礼をしたゲバラが、県庁職員・矢口田中幸太朗)に何事か言ったのを見て、森が矢口に「碑文について聞いていたのでは?」と尋ねると、矢口は「なぜ主語がないのかと尋ねた」と答えます。
 森は、ゲバラに「日本を訪れた目的は?」と尋ねると、ゲバラは「新しいキューバについて説明し、日本と経済交流をしたいと考えている」と答えます。森は、さらにゲバラの軍服姿を見て「新政権は軍人が主体なのか?」と尋ねると、ゲバラは「そうではない。軍服は、革命運動に加わるようになってから着るようになった」と答えます。
 原爆資料館では、ゲバラは、「君らは、アメリカにこんなにひどい目に合わされて、どうして怒らないのだ?」と周囲に尋ねたりします。
 最後に、森がゲバラに対し「ボンボアージュ」と言うと、ゲバラは「ありがとう」と答えます(注6)。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれからどのような物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、医者になるべくキューバの大学に留学したボリビアの日系2世が、フィデル・カストロやチェ・ゲバラの影響を強く受けたのでしょう、ゲバラとともに故国に戻って革命組織に参加するという実話に基づいた物語です。いまどきどうしてゲバラなのかという感じになりますが、主演のオダギリジョーは41歳ながらも、25歳で倒れた青年を実に清々しく演じていて感心しました。

(2)本作の主人公フレディオダギリジョー)は、実在のフレディ・マエムラ・ウルタードに基づいて描かれているとのことですが、本作では、キューバのハバナにある大学へ仲間とともに入学するところから登場します(1962年4月)。



 そして、本作では、キューバ時代のフレディに焦点が当てられています。
 特に、身ごもったルイサジゼル・ロミンチャル)との関係では、フレディの高潔な人柄が上手く描かれていると思いました(注7)。



 ただ、どういう経緯によって、フレディが、自国のボリビアではなくキューバの大学に入ることになったのかよくわからないまま物語は進行します。
 おそらく、ボリビアは、当時、革命政権下にありましたから(注8)、キューバと国交があったのでしょう。それで、フレディらは、ボリビアの大学ではなくレベルの高いキューバの大学に留学したのではないかと思われます。

 その後、フレディは、ボリビアでバリエントスらの軍部がクーデタを起こし革命政府を倒して政権を把握したことを知って(1964年)、医者になる志を投げうって、革命グループに参加することを決意します。

 ただ、ここでも、政権を奪取した軍部の横暴が酷いとする情報がボリビアから送られてきたりはするものの、どうしてそんな決断に至ったのか、よくわからない感じが残ります。
 おそらくは、映画によれば、フレディは、フィデル・カストロロベルト・エスピノーザ・セバスコ)やチェ・ゲバラと言葉をかわす機会を持ち(注9)、その影響を強く受けたことがその背景にあるように思われます。



 でもそれは背景であり、当時のボリビアがどういう状況にあって、いきなり軍隊組織の革命グループにフレディが参加することにどのような意味があったのか、などといった点の方が重要ではないでしょうか?

 それでも、ボリビアでの状況がほんの少しですが本作では描かれます(注10)。
 少年時代のフレディが、貧しい家に自転車に乗ってやってきて、母親にバナナをプレゼントし、さらに、家の中にいた男の子に、「この薬がいいんだ」と言いながら薬を手渡します。
 男の子が、母親に「前は飴をくれた」と言うと、母親は「次に来た時には、洪水で家が流されてるかもしれないよ」とフレディに言います。
 フレディは、男の子の脈を取って「脈が早いね」と診断し、さらに「僕は医者になるんだ」と言って、その家を離れます。
 推測になりますが、フレディは比較的裕福な家で育ち(注11)、ボリビアの貧弱な医療事情を肌で感じて、若い時分から医者になることを志していたようです(注12)。

 ですがこれだけでは、ボリビアに疎い者からすると、いろいろと事情がよくわからない感じが残ってしまいます(注13)。

 まあ、本作のタイトルが「エルネスト」となっているわけで、エルネスト・チェ・ゲバラと(注14)、そのチェ・ゲバラ自身によって、フレディがエルネストという革命グループ内での呼び名が与えられたことを中心的に本作は描き出したかったように思え(注15)、そうであれば、ボリビアのことが疎かになってしまったのも仕方のないところでしょう(注16)。

 なお、本作の主人公がボリビアで射殺されたのは25歳とされ、他方で、オダギリジョーは41歳ですから随分の年齢差があるとはいえ、にもかかわらず、オダギリジョーは随分とみずみずしくフレディを演じていて、そんな年齢差を観客に少しも意識させないのには驚きました。

(3)渡まち子氏は、「全編スペイン語のせりふで静かな熱演を見せるオダギリジョーは素晴らしいし、チェ・ゲバラが日本の広島の原爆慰霊碑に献花した秘話も、とても効果的に描かれていて心に残る」として65点を付けています。
 山根貞男氏は、「阪本監督が工夫した構成により、50年前の青春と今も生々しい核の問題が結び付き、感銘を誘う。これは現在形の映画なのである」と述べています。
 毎日新聞の勝田友巳氏は、「フレディが日系人というだけで日本との関わりは薄く、またゲバラのような大活躍を期待したら肩すかしを食うだろう。しかし熱い時代を誠実に生きた青年の肖像は、寄る辺なき現代だからこそ輝きそう」と述べています。



(注1)てっきり新宿のTOHOシネマズで上映しているものと思っていましたら、公開2週間ほどで打ち切りとなってしまい、仕方なく、東武練馬駅そばのイオン板橋の中にある映画館に行ってきました。
 この映画館は我が家から遠いものの、それを利用する場合には3時間まで駐車料金が無料ということがわかったので、車で行ってきました。
 なお、東武練馬駅が練馬区ではなく板橋区にあるというのも少々おかしな感じがしたところです。

(注2)監督・脚本は、『団地』の阪本順治。
 原案は、マリー前村=ウルタード他著『チェ・ゲバラと共に戦ったある日系二世の生涯~革命に生きた侍~』(キノブックス)。

 なお、出演者の内、最近では、オダギリジョーは『湯を沸かすほどの熱い愛』、永山絢斗は『藁の楯』で、それぞれ見ました。

(注3)この記事によれば、「もし私たちが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう「その通りだ」と」。

(注4)この記事の「日本来訪」によれば、「全日空機で岩国空港に飛んだ」とのこと(あわせて、「夜行列車で広島に向かった」という説もあるが、「しかし、この説を裏付ける証拠はオマール・フェルナンデスの主張以外にはない」とも述べられています)。

(注5)チェ・ゲバラはアルゼンチン人ですが、キューバ革命後、キューバ国籍を与えられています。

(注6)本作ではさらに、チェ・ゲバラは広島原爆病院に行って、一人の女性患者と会うシーンとか、ホテルを一人で抜け出して、平和記念公園に戻って、慰霊碑に花を捧げている日本人の姿を写真に撮ったりするシーが描かれています(こちら)。
 なお、チェ・ゲバラの広島訪問に関しては、この記事が参考になります。

(注7)フレディと一緒にキューバの大学に留学した仲間の一人のベラスコエンリケ・ブエノ・ロドリゲス)がルイサと付き合っていたのですが、彼はルイサと別れ別の女学生と付き合っていて、「今は勉強に集中したい」「生まれる赤ん坊が誰の子かわからない」などと言い逃れをして、責任をとろうとしませんでした。
 これを知ったフレディは、お金のないルイサの窮状を救うために、助手に応募して、受け取った給与をルイサに渡したりします。といっても、フレディは、そうしたルイサにつけこもうとは決してしませんでした。

(注8)この記事の「歴史」によれば、1960年に 第2次パス・エステンソーロ政権が成立しています〔民族革命運動党(MNR)による革命で、パス・エステンソーロは、1952年から1956年まで大統領職にありました〕。

(注9)例えば、チェ・ゲバラが演説した後に、フレディが「あなたの絶対的な自信はどこから?」と尋ねると、チェ・ゲバラは「いつも怒っている。でもそれは憎しみからではない」などと答えます。
 また、フィデル・カストロが、フレディたちの大学にやってきた時に、フレディが「勉強以外に僕達のやるべきことは?」と尋ねると、カストロは「バスケットかな」と答え、後で一緒にバスケットをすることになります。その後で、カストロは、再度フレディに、「やるべきことを他人に聞くな。いつか君の心が教えてくれる」と言います。

(注10)この他、兵隊が農民から収穫物を取り上げる場面をフレディが思い出すシーンもありますが、ごく短いシーンなのでどういうシチュエーションなのか詳細がよくわからない感じです。

(注11)この記事によれば、フレディは、鹿児島県出身の移民一世とボリビア人女性との間に生まれています。中南米に移住した日本人は、各地で大変苦労したようですが、あるいは、フレディの父親は、ボリビアに移住して成功したのかもしれません。

(注12)本作によれば、ボリビアの革命組織に参加したフレディは政府軍に捕まりますが、政府軍の兵士の一人がこの時の少年でした。ですがその兵士が、「こいつは裕福な生まれで、俺たちを支配していた」などと告発したために、上官は彼にフレディの射殺を命じます。

(注13)『チェ 39歳別れの手紙』についての拙エントリで申し上げましたが、「同じような少人数で出発しながら、なぜキューバ革命は成功しボリビアの革命が失敗したのか」という観点から、ボリビアの当時の実状といったものの把握が随分と重要ではないかと考えるところです。

(注14)何しろ、本作の冒頭では、チェ・ゲバラの日本訪問の様子が描かれるのですから。

(注15)まるで3人のパブロ(パブロ・カザルス、パブロ・ピカソ、パブロ・ネルーダ)のように。

(注16)それにしても、なぜ今、こうした映画を制作するのか、その狙いがよくわからない感じがします。
 まあ、本作が、今の日本の青年には見かけない純粋な心を持った人物を描き出したいというのであれば、それはそれでわかりますが、フレディがチェ・ゲバラと一緒になってボリビアの革命グループに参加して軍事的行動をとった点を重視するのであれば、当時のボリビアには他にどのような選択肢がありえて、フレディのとった行動がどこまで是認されるものなのか、かなり検討すべきではないかと思われます(例え、彼の遺骨がキューバにあるチェ・ゲバラ霊廟に安置されているとしても)。



★★★☆☆☆



象のロケット:エルネスト


新感染 ファイナル・エクスプレス

2017年10月21日 | 洋画(17年)
 韓国映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)公開されてからかなり時間が立ちますが(注1)、評判が大層高いので映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、高速道路の料金所の出口で車を停めさせて、防疫の作業員が車に消毒液を噴霧してから通過させています。
 トラックの運転手が「なんだよ?また豚を埋めてんのか?」と訊くと、作業員は「何かが漏れたらしい」と答えます。
 運転手は「また豚だったら、ただじゃおかないぞ」などと文句を言って、一般道に出てトラックを走らせますが、隣の運転席に置かれていた携帯をとろうとして目を前方から逸らした時に、突然ドンという音がして何かにぶつかった感じがしたので、車を停めます。
 鹿が轢かれて道路に倒れています。
 運転手は、トラックを降りてその場を確認して、「なんてこった」「ついてないな、まったく」と言いながら再びトラックに乗って、発進させます。
 しばらくすると、道路に倒れていた鹿が、体をピクピクさせたかと思うと勢い良く立ち上がります。ただ、その目は白く濁っています。

 ここで、タイトルが流れます。

 ソウルにある証券会社。
 ファンドマネージャーのソグコン・ユ)が電話で、「今、手を引かないと、証券が紙切れになってしまう」「関連株を全部投げろ」「個人投資家が買うだろう」などと仕事の話をしています。
 他方で、ソグは、プサンにいる別れた妻とも電話で話しています。
 ソグは「子供は俺が育てる」と言いますが、別れた妻の方では、「スアンが明日来るって言っている。父親なのに知らないの?連れてきてよ。明日はスアンの誕生日なのよ」と言います。

 ソグが家に帰ると、彼の母親が出てきて、「ご飯は?」と尋ねると、ソグは「いらない」と答えます。
 幼い娘のスアンキム・スアン)が出てきて、「プサンに行くって、ママと話した」というと、ソグは「来週なら行けるよ。パパは今忙しい」と答え、さらに「誕生日おめでとう」と言って、プレゼントをスアンに渡します。
 スアンが包みを開けると、Wii ゲーム機が出てきますが、スアンはあまり喜びません。
 なんとそれは、子供の日にソグが買って与えたのと同じゲーム機(スアンの机の上に置いてあります)だったのです。
 スアンは、「明日、プサンに行きたい」「一人で行ける」「パパを困らせない」と言います。
 ソグの母親は、「ご飯を食べながら2人でよく話し合いなさい」と忠告します。
 そして、「お前が学芸会に来なかったから、スアンは寂しがっていた」と付け加えます。

 ソグは、部屋で学芸会のビデオを見ます。
 スアンが舞台で歌を歌っているものの、途中で歌が止まってしまいます。

 結局、ソグはスアンを連れてプサンに行くことになりますが、さあ、この後物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、主人公とその子供がたまたま乗り合わせた釜山行きの特急列車にゾンビが出現し、乗客や車掌らが次々とゾンビ化し、また列車が向かっている先々の都市においてもそこの住民が大量にゾンビ化している中、主人公らが必死になって生き延びようとする姿が描かれています。襲いかかるたくさんのゾンビからいかにして生き抜くかを描いている映画はいくつもありますが、本作は、その事態を特急列車という大層狭い空間の中に持ち込んだ上で主人公らの行動を捉えていて、そのスピード感・切迫感がただごとではなく、最後まで息も吐けないほどの面白さです。

(2)ゾンビが大量に出現する映画として、最近では、『ワールド・ウォーZ』と『アイアムアヒーロー』を見ましたが、前者においては、ブラッド・ピットが扮する元国連職員のジェリーの一家が、後者でも、主人公の漫画家(大泉洋)と2人の女性(有村架純と長澤まさみ)が中心的に描かれます。
 他方、本作においては、主人公のゾクとスアン以外の登場人物にも、随分と焦点が当てられていて、物語の幅を大きくしています。



 例えば、サンファマ・ドンソク)とソンギョンチョン・ユミ)の夫婦。
 体つきのがっしりした筋肉労働者然のサンファは、妊娠中の可愛い妻のソンギョンを必死で守ろうとします。



 また、高校生のヨンソグチェ・ウシク)とジニアン・ソヒ)。
 野球部員のヨンソグはバットを手にして、恋人のジニを救出しようとします。



 他方で、バス会社の幹部のヨンソクキム・ウィソン)は、自分が助かることしか考えておらず、他の人がどうなろうと知ったことではないといった態度を最後まで取り続けます。

 彼らは、ゾクとスアンが乗車したソウル5時30分発プサン行きの特急KTX101号に乗り合わせます(注3)。
 時速300kmでプサンに向かって進む列車の中では、12号車に乗り込んだ女性客がゾンビ化し、彼女に噛まれた女性乗務員も感染し、さらにどんどん感染者が拡大し、後方車両に迫ってきます。
 息詰まるのは、サンファが、迫ってくるゾンビたちに噛まれながらも客室への侵入を防いでいるにもかかわらず、ヨンソクが自分たちだけが助かろうとして、ソグたちが逃げ込もうとする通路のドアをなんとか閉めようとする場面でしょう。
 まさに、「前門の虎、後門の狼」といった感じです。

 ただ、本作に出現するゾンビの扱いは、これまでのものとはどこか違う感じがします。
 というのも、『アイアムアヒーロー』にしても、『ワールド・ウォーZ』にしても、最初のうちは、本作と同じように、主人公らは、ゾンビ化した人間の襲撃から逃げようとむやみと走り回るだけでしたが、そのうちにゾンビらに向き合って撃ち殺したり、はてはゾンビに攻撃されないワクチンを求めたりします。
 要するに、両作においては、ゾンビに向かい合って抵抗することによって、主人公らは活路を見出そうとします。
 ですが、本作の場合、民間人が乗車する列車の中の場面がほとんどで、本来的に乗客らは何の武器も持っていないわけですから(野球のバッドで対抗しても、たかが知れています)、ゾンビに襲われると車内を走って逃げるしか手はありません。
 本作では、最後までそうした状態が続きますが、はたして列車が目的地に到着した後に、人間がゾンビの来襲に対抗できるのかどうか、本作では何も示されないままで終わります。

 なお、主人公のゾクは、証券会社のファンドマネージャーとして仕事を猛烈にこなす仕事人間であり、そのために家族を省みていないという、お定まりの設定になっています。
 屈強なサンファや野球部員のヨンソグも、あるいは悪役を一手に引き受ける会社役員のヨンソクにしても、典型的な人物設定と思えます。
 ですから、本作から、韓国の政治や経済に対する風刺的なものを読み取ったりしても、あまり意味がないような気もしてきます(注4)。
 そんなことよりも、本作の息も吐けない面白さをそのまま受け止めた方が時間の無駄にならないように思えます。

 ところで、冒頭のシーンでは、上記(1)で見るように、トラックに消毒液がかけられますが、それは、トラックがこれから行こうとしている地域をウイルスから守ろうとしてなのでしょうか、それとも、ウイルス汚染地域から来たトラックを殺菌しようとしてなのでしょうか?
 また、トラックが衝突した鹿は、トラックとぶつかったことでゾンビ化したのでしょうか、それともぶつかる前からゾンビ化していたのでしょうか(注5)?

(3)渡まち子氏は、「この移動型密室ゾンビ・サバイバル・ホラー、世界中の映画祭で評判というのが納得の、見事な出来栄えだ。群れになって襲い掛かるゾンビと、醜いエゴまるだしの生存者たち。どっちが怖い? ぜひ映画を見て確かめてほしい」として80点を付けています。
 前田有一氏は、「思わせぶりな社会派の香りを漂わせつつも、エンタメとしての見せ場をこれでもかと詰め込んである。なくなったゾンビ映画の祖ジョージ・A・ロメロ監督作品のような、王道でありながらもローカルな韓国らしさをふんだんに漂わせる。ゾンビ映画の新作としては、非常に良くできた部類に入るだろう」として75点を付けています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「日本の新幹線に引っかけた題名はダジャレのようだが、中身の充実ぶりは目覚ましく、このジャンルにおいては最上級の出来ばえと言い切れる娯楽大作である」と述べています。
 安部偲氏は、「アクション、恋愛もの、ミステリーなどさまざまな韓国映画がこれまでに日本でもヒットしてきているが、この映画は名作と呼ばれる映画の中でも、特に見る価値があると思う。おそらく実際に見て劇場を後にするころにはゾンビ映画ながら感動してしまった自分に気づくに違いない」と述べています。



(注1)日本での劇場公開日は9月1日。

(注2)監督はヨン・サンホ
 脚本はパク・ジュソク。
 英題は「Train to Busan」。

(注3)KTXについてはこちらの記事を。

(注4)プサン市に通じるトンネルの入口では、軍隊が、迫ってくるゾンビたちを銃を構えて待ち受けています。おそらく、プサン市は安全地帯になっているのでしょう。
 こうした状況から、朝鮮戦争における「釜山橋頭堡の戦い」に言及するレビューもあるようです(例えば、こちら)。ですが、朝鮮戦争の際でも、本作のようにプサン市まで戦線は後退しなかったように思いますし、なによりも、肝心の「仁川上陸作戦」に相当するものはどのように考えるのでしょうか?
 それに、主人公らの乗ったKTXはどこで誰が運行をコントロールしているのでしょうか、またゾクはソウルの会社の部下からの電話を受けたりしていますから(キム代理から、「今回のゾンビ騒動の発端は、ブクたちが株で仕掛けたユソン社だといわれています」「僕達に責任はないですよね」といった電話があります)、ソウルが壊滅したわけでもなさそうです。
 そうしたことから、本作の状況は、朝鮮戦争時とは異なっているようにも思えるのですが、実のところはよくわかりません。

(注5)鹿がゾンビ化するくらいなら、映画にはもっとゾンビ化した熊とかイノシシなどが登場しても良さそうに思われますが。



★★★★☆☆



象のロケット:新感染 ファイナル・エクスプレス


ユリゴコロ

2017年10月16日 | 邦画(17年)
 『ユリゴコロ』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)久しぶりの吉高由里子主演作というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、車の中。
 乗っている千絵清野菜名)が、「お父さんが、あなたを男手ひとつで育てたなんて」と言うと、運転をしている亮介松坂桃李)は、「母は、僕を助けようとして、…」と言って(注2)、車のスピードを上げ、前の車を乱暴に追い越します。千絵が、「こういう運転はやめてね」と注意すると、亮介は「うん」と頷きます。

 次いで、亮介が営むペンション&カフェ「シャギーヘッド」。
 亮介の父親(貴山侑哉)が、「良い店になったな」と言いながら現れます。
 亮介は、千絵を父親に紹介し、「俺たち、結婚します」と言います。
 千絵が「よろしくお願いします」と挨拶すると、父親は「至らない息子ですが、よろしく」と応じます。

 翌日、千絵から亮介に電話があり、「風邪気味なので休みます」とのこと。
 それで亮介は、様子を見ようと、夜になって千絵の住むマンションに行ってみます。
 ですが、ベルを押しても反応がありません。
 持っている鍵を使って中に入り、「千絵」と言いながら廊下を進むと、部屋の中はもぬけの殻。亮介はその場にへたり込みます。

 次のシーンでは、父親が亮介に、「膵臓がんは末期で、もう無理だそうだ」、「手術はしない」、「できるだけ家で過ごしたい」と話しています。

 亮介が実家に戻って、「ただいま」と言いながら家の中に入りますが、誰もいない感じです。
 それで、父親の部屋に入るものの、そこにも父親はおらず、ふと見ると、押入の襖が少々空いているのに気が付きます。
 襖を開けると、上段に段ボール箱が置かれていて、その一番上に茶封筒があり、その中から表紙に「ユリゴコロ」と記載された大学ノートが出てきます。
 好奇心にかられて、亮介はそのノートを読み始めますが、次のような文章が書かれていて、本作の主人公の美紗子吉高由里子)が読みあげる声が流れてきます。
 「私のように平気で人を殺す人間は、脳の仕組みがどこか普通とは違うのでしょうか。…」

 画面には、ノートに書かれている出来事と重なるように、美紗子の小さい時分の様子が映し出されます。
 医者が、幼い美紗子(平尾菜々花)に、犬やバナナが描かれているカードを見せ、「リンゴ」とか「バナナ」と言いますが、美紗子は黙ったままです。
 医者は、付添の母親に、「お子さんにはユリゴコロがありません」「言葉を発するには、何らかのユリゴコロが必要なのです」などと話します。

 大人の美紗子の声。「初めての場所に行くのが苦痛でした」「目に見えないたくさんのトゲが私を突き刺してくるようなのです」「いつも恐怖でした」「それは、わたしにユリゴコロがないせいだと思いました」「私は、私のユリゴコロを必死で探しました」。

 こんなところが、本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作では、過去の自分の行動についてサイコパスの女性が書きつけたノートを偶然目にした青年と、その女性とが思いもよらないところからつながってきます。本作はミステリー物ながら、ラブストーリーでもあり家族愛の物語でもあり、なかなか複雑な構造をしています。加えて、久しぶりの主演作である本作において、吉高由里子は彼女ならではの演技を披露しています。ただ、「ユリゴコロ」とは何かなかなか捉え難く、また原作小説からの改変が上手くいっていないように思える箇所もあるように思いました。

(本作はミステリー物ながら、以下ではいろいろとネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作のタイトルである「ユリゴコロ」については、美紗子の大学ノートに、上記(1)で見るように、「お子さんにはユリゴコロがありません」「言葉を発するには、何らかのユリゴコロが必要なのです」と医者が言ったと書かれていたり、「私は、私のユリゴコロを必死で探しました」と美紗子が述べていたりします。
 その後では、「ユリゴコロという言葉がないのは知っていました」「たぶん、医者は「拠り所」と言っていたのでしょう」と美紗子が書いています。
 さらに美紗子は、親友のミチルを池で死なせてしまった時に、「喜びに近い感覚を持った」「その時から、死がユリゴコロになった」と言っています(注3)。
 こうしてみると、主人公の美紗子は、死を心の拠り所にして(死がユリゴコロとなって→殺人を犯すことによって)はじめて、まともな生活を営めるのでしょう(人とコミュニケーションがとれるようになるのでしょう)。

 ですが、美紗子は、洋介松山ケンイチ)との愛情に包まれた生活を開始すると、どうやらそうした拠り所を必要としなくなるようです(注4)。



 あるいは、死に代わって愛が心の拠り所となるのかもしれません。
 とはいえ、そうした生活を乱すことになる者が現れると、その脅迫者を殺して生活を守ろうとします(注5)。
 その場合には、流されてしまったはずの元のユリゴコロが蘇ってくるのでしょうか?愛はどうなってしまうのでしょうか?愛が拠り所になるというのは偽りだったのでしょうか(注6)?
 どうも、ユリゴコロとは何なのか、イマイチ良くわからない感じがします。

 それはさておき、本作の主演の吉高由里子は、『真夏の方程式』以来の映画出演ながらも、その間、2本のTVドラマで活躍していますから(注7)、そんなに間隔が空いたという感じはしません。
 でも、映画では毎回特異なキャラクターを演じているため(注8)、やはりその映画出演を待ち望んでいたところです。
 本作で彼女が扮したのは、殺人を繰り返すサイコパスの女であり、吉高由里子の特色が上手く生かされていますし、彼女の方もなかなかの演技を披露しています(注9)。

 それに、大人の美紗子を演じる彼女に引き継がれる幼い頃の美紗子を演じた平尾菜々花や、中学生の頃の美紗子を演じた清原果耶も、サイコパスの雰囲気を上手く醸し出していた感じです(注10)。



 ただ、失踪した千絵の同僚だとされる細谷については、木村多江では少々ミスキャストではないかと思いました。
 美紗子が整形手術をして細谷となって亮介の前に現れるのですが(注11)、木村多江の雰囲気は、吉高由里子とは正反対ではないでしょうか?
 勿論、両方とも、映画作品等を通じて作られてきたイメージに過ぎないでしょう。
 とはいえ、吉高由里子の持っている雰囲気は動的で活発なものであって、その顔付きは、随分と意志的であり、目的のためならなんでもしかねない感じが漂っています。他方、木村多江を見ると、かなり静的・受身的であり、すべてのことを耐え忍んでしまうように思えてしまいます。
 それで、吉高由里子の醸し出す雰囲気からすれば、千絵の夫のヤクザたちを殺してしまったとしてもマアありうるのかなと思わせますが(注12)、木村多江の感じからするととてもそんなことは考えられません。
 ここは、持っている雰囲気が吉高由里子と同じような感じの女優をキャスティングしてもらいたいところだなと思いました(注13)。

 ここまでくると、逆に、始めから木村多江を使ってみたら本作はどのような感じになったのかな、と考えてみたくなってきます。
 受身的・静的な美紗子が、様々な殺人を犯すわけですから、あるいは、ホラー的な感じがかなり強まってくるのかもしれません(注14)。

 その他の出演者は皆好演していますが、特に、松坂桃李が演技の質をかなり上げているように感じました(注15)。

(3)渡まち子氏は、「サイコ・スリラーから純愛ラブストーリー、そして家族愛のドラマへ。テイストの変化がこの作品の個性だろう」として60点を付けています。



(注1)監督・脚本は、『おと・な・り』の熊澤尚人
 原作は、沼田まほかる著『ユリゴコロ』(双葉文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、吉高由里子は『真夏の方程式』、松坂桃李は『キセキ―あの日のソビト―』、松山ケンイチは『関ヶ原』、佐津川愛美は『だれかの木琴』、木村多江清野菜名は『幸福のアリバイ~Picture~』で、それぞれ見ました。

(注2)原作では、亮介の母親は交通事故で死んだとされていますが(文庫版P.7)、本作では、母親は、川で溺れそうになった亮介を助けたものの、力尽きて川に流された、ということになっています。

(注3)ラストの方では、細谷(=美紗子)が、千絵を監禁した夫らを殺害しますが、そのことを知った亮介は、「俺が殺したかった」と叫びます。それに対し、細谷が「あなたには、人殺しはできない」と言うと、亮介は「できる。俺にはあんたの血が流れている。俺にはユリゴコロがあるんだ」と叫びます。
 ここからすると、ユリゴコロとは、人を殺したい欲求とでも言いうるのかもしれません。

(注4)美紗子は、身籠っていた子(洋介の子ではありませんが)を産むと、「私は、憑き物がとれたようだ」「みつ子やミチルちゃんまで、全部出ていってしまったようだ」と語ります。要するに、死という拠り所が必要なくなって、消滅してしまったということでしょう。
 なお、みつ子佐津川愛美)は、コンビニで知り合った美紗子の友人で、リストカットをのべつ行っています(挙句、自分のリストカットを美紗子に行わせることで死んでゆきます)。



 また、ミチル松浦梨結)については、下記の「注10」をご覧ください。

(注5)下記の「注9」をご覧ください。

(注6)ラストの方では、細谷(=美紗子)が、千絵を監禁した夫らを殺害しますが、これも美紗子に蘇ったユリゴコロのなせる技なのでしょうか?

(注7)NHK連続テレビ小説『花子とアン』と、日本テレビドラマ『東京カラレバ娘』で、クマネズミは2本とも見ました。

(注8)と言っても、クマネズミには、『横道世之介』、『ロボジー』、『婚前特急』、それに『蛇にピアス』(DVD)くらいしか印象に残っておりませんが。

(注9)例えば、本作では、美紗子が働いていた厨房で調理長を大鍋で叩いて殺すシーンとか、この件で美紗子を脅しに来た男を、ラブホテルに連れ込んで、洋介が持っていた青酸カリで殺してしまうシーンとかが描かれていますが、いかにも吉高由里子らしいなと思ったところです。



(注10)幼い頃の美紗子の姿は(友達のミチルちゃんが池に落ちて溺れるのを平然と見ていました)、大人の美紗子の行動を納得させるものですし、中学生の美紗子が、男の子の死に関与したことは(側溝に落ちてしまった妹の帽子をとろうとしている兄の上に鉄板の溝蓋が落ちて兄は死にますが、美紗子はそれに関与しています)、後の美紗子と洋介の関係に大きく影響するので、それらの役柄は重要です。

(注11)原作小説では、亮介の母親は、実は美紗子の妹の英実子が成り代わっていたとされていて、他方で、美紗子は細谷として亮介のカフェで働いていますが、整形手術など受けてはいないようです〔亮介は、細谷の写真を、美紗子に成り代わっている英実子に見せたそうですが、洋介に言わせれば「(細谷=美紗子は)ずいぶん面変わりしているし、おまけに今みたいに眼鏡までかけていた」とのこと(P.315)〕。

(注12)元々、美紗子が何かの武道に長けているのであれば別ですが、映画からはそんなことは少しも伺われず、だとしたら、ヤクザという猛者たちを女性があのように血祭りにあげてしまうことは考えられないところです。
 なお、千絵の夫の塩見から出た血が溜まっているところにオナモミが一つ置かれていたところ、どのような意味があるのでしょう?細谷となっている美紗子が、自分が殺したことを、後から来る亮介に伝えようとして、わざわざオナモミを置いたのでしょうか?でも、洋介とは、二度と姿を見せるなと約束したはずではないでしょうか?

(注13)加えて言えば、キャスティングの問題ではなく、映画のストーリー上の問題になりますが、千絵と昔一緒の職場にいたというだけのことで、細谷が千絵からの伝言を持って突然亮介のカフェに現れ、その後あそこまで調査したりするというのも、とても不自然な気がします。
 原作小説では、細谷は、亮介のカフェで働いていて、千絵がシャギーヘッドで2年前から働くようになってから、「千絵を娘みたいに可愛がっていた」とされているので(P.76)、千絵の失踪後色々調査したりするのも説得力があります。

(注14)ただ、その場合には、本作では木村多江が演じている細谷をどの女優に演じてもらうべきなのか、難しい問題になるかもしれません。

(注15)婚約者の千絵が夫の塩見に監禁されて酷い目に遭っていることを細谷から聞かされて、「その男を殺してやる!」「千絵を奪い返す!」と叫んだ時の松坂桃李の異様な姿は、『秘密 THE TOP SECRET』における鈴木を彷彿とさせますが、本作の亮介の方がより説得力があるように思いました。



★★★☆☆☆



象のロケット:ユリゴコロ


ドリーム

2017年10月13日 | 洋画(17年)
 『ドリーム』をTOHOシネマズ新宿で見ました。

(1)アカデミー賞の作品賞にノミネートされた映画ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「実話に基づく物語(Based on true events)」の字幕が。
 そして、廊下を歩きながら、「14、15、16、素数(17)、18、素数(19)、20 」などと呟いている幼いキャサリンが映し出されます。
 場所は、ウエスト・ヴァージニア州のホワイト・サルファー・スプリングス市。時期は1926年。
 別室では、小学校の校長でしょうか、「ウエスト・ヴァージニア州立大学付属の高校が、黒人に合った学校としてはベストです」と言うと、キャサリンの親でしょう、「娘はまだ8歳ですよ」と答えます(注2)。

 次いで、キャサリンが入学した学校での授業風景。
 先生が「この方程式を解いてみて」と黒板に書かれた算式を指差すと、キャサリンが前に進み出て、「2項の積がゼロならば、どちらかの項はゼロですから、…」と言いながら、黒板を使って方程式をどんどん解いてしまい、先生が驚きます。

 1961年のヴァージニア州ハンプトン(注3)。
 周囲に人家の見えない道路のわきに、車が停まっています。
 ドロシーオクタヴィア・スペンサー)が車の外に出て、あちこち点検しながら「エンジンかけてみて」と言うと、運転席にいて何事か考え事をしていたキャサリンタラジ・P・ヘンソン)が、しばらくして「聞こえた」と応じ、エンジンをかけようとしますがかかりません。
 ドロシーは「スターターだわ」と言い、メアリージャネール・モネイ)は「こんなに遅刻していたら、解雇される」と嘆きます。

 そこへパトカーがやってきます。
 警官が「こんなところでエンスト?」と尋ねると、メアリーが「車がここを選んだのです」と答えるものですから、警官は「舐めてるのか?」と怒り出します。
 でも、3人がNASAで働いていることがわかると、警官の態度が一変し、「宇宙飛行士に会ったことがあるのか?」などと訊いてきたりし、車が動くようになると、「先導してやるよ、遅刻するんだろう」と申し出て、研究所までパトカーがエスコートすることになります。

 画面では、ロケットの打上げのニュース映像。
 「離陸は成功」「後は分離だ」「118秒経過」「ブースター分離」「成功だ」「スプートニクが軌道に乗った」などの音声が入ります(注4)。
 このニュース映像を見ていたのは、NASAの宇宙特別研究本部の幹部たち。
 「忌々しい犬どもめ」と吐き捨てたりします。
 彼らのトップ(注5)が、「大統領は、これ以上の遅れは許さない」と皆に言い渡します。
 また、本部長のハリソンケビン・コスナー)は、「解析幾何学が出来るものがNASAにはいないのか?」と尋ねます。

 次の場面は、宇宙特別研究本部が置かれているラングレー研究所の西計算グループの部屋。
 大勢の黒人女性が机に向かって、計算する仕事を行っています。
 そこに上司のミッチェルキルスティン・ダンスト)が入ってきて、ドロシーに「解析幾何学が出来る人を探している」と言うと、ドロシーは「キャサリンならうってつけです」と答えます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、1960年代初頭、アメリカの有人宇宙飛行計画の実現に大きな貢献をした3人の黒人女性数学者の姿を、実話に基づいて描き出したものです。前回取り上げた『亜人』とは正反対に、本作は、“女性の力、万歳”といった感じです。なにしろ、男性職員ができない難しい計算をやってのけてしまったり、航空宇宙技術士になろうとしたり、出始めのコンピュータの取扱いに精通してしまうのが、皆女性なのですから。この映画のようなハッピーエンドならば、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』のようなハッピーエンドよりも、ずっと心が和んできます。

(2)宇宙開発の世界では、いろいろな計算ミスによって大きな損失がもたらされているようです。
 例えば、1996年6月に、ESA(欧州宇宙機関)が打ち上げたアリアン5の1号機が打ち上げ後40秒ほどしてから爆発しましたが、原因の一つはオペランド・エラーとされています(注6)。
 また、1999年12月には、計算単位が「ヤード・ポンド法」でなされていたのを「メートル法」によるものと誤解していたがため、NASAは火星探査機を失うという事故が起こっています(注7)。
 さらには、最近の事例では、2016年3月に、JAXAがX線天文衛星ASTRO-H「ひとみ」を失った事例があるでしょう。
 この事故では、数値の正負を誤って入力したため異常な噴射が起きました(注8)。

 これらは、コンピュータ時代に入ってからの事例ですが、それでも数値計算が重要な役割を果たしていることがわかります。
 まして、本作のような、コンピュータ時代に入るか入らないかの時期における数値計算は、格段に重要だったように思われます。
 本作は、そんな時代にNASAを支えた3人の黒人数学者を取り扱っている作品です。

 キャサリンは、早熟の天才であり、解析幾何学に習熟していて、条件が変わった場合に、打ち上げられた宇宙船が地球上のどこに着水するのかたちどころに計算してしまう能力を持っていて、ハリソンに重宝がられます。



 ドロシーは、コンピュータがNASAに導入される初期からフォートランを勉強し、同僚の女性らにもコンピュータ時代の到来に対処するようにアドバイスします。



 さらに、メアリーは、エンジニアになるために必要だったカリキュラムを、黒人が入れない学校で習得できるよう裁判長を説得して、単位を得ることに成功します。



 ただ、本作は、そんな彼女らが挙げた事績だけを描いているのではなく、その人間的な側面をも上手く取り上げています。
 例えば、キャサリンとジムマハーシャラ・アリ)とのラブストーリー。
 出会った時に「女にそんな大変な難しそうな仕事をやらせるなんて」と言ってしまってキャサリンを怒らせて失敗してしまうジムながらも、その誠実な人柄で劣勢を挽回して結婚に至る物語は、誠に心を和ませます。

 それに、彼らが受けた差別的な扱いも、色々描かれています。
 例えば、ドロシーは、管理職になりたいとの希望を、上司のミッチェルから簡単に却下されてしまいますし(注9)、メアリーは、NASAで風洞実験などに携わっていて、エンジニアになりたいとの希望を持っているものの、重大な障害があってそれが難しいようです(注10)。

 とはいえ、大層つまらないことながら、一つ疑問が残りました。
 本作では、キャサリンが、仕事の途中で、トイレに行くために、書類をたくさん抱えながら、黒人用のトイレが設けられている西計算グループの建物に駆け込む姿が何度も描かれます。
 たいそう忙しいにもかかわらず、キャサリンの勤務時間にかなりの空白があるのに気がついたハリソンは、キャサリンに理由を質して、ようやく実状を理解します。
 そうして、ハリソンは、「COLORED WOMEN」と書かれていた表示版を叩き壊してしまいます。
 ハリソンの行動は、白人としてすごく格好の良いものです。
 ですが、そんなことをしたら、キャサリンのような黒人女性が入れるトイレがこの研究所内になくなってしまうだけのことではないでしょうか?
 重要なのは、キャサリンが働く建物内にあるトイレの方を黒人が使ってもかまわないようにすることではないかと思われます。

 それはともかく、本作のラストでは、キャサリンは、ラングレー研究所に置かれている宇宙特別研究本部でこれまで通り働くことになりますし、ドロシーは計算グループの管理職(「計算室長」)に就任します。また、メアリーも、黒人初の航空宇宙エンジニアになることができます。
 これは、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』のエンドロールと同じようなハッピーエンドに思えるとはいえ、同作におけるそれは酷く取ってつけた感じなのに対し、本作のそれは十分に納得できるものでした。

(3)渡まち子氏は、「本作は、いくつもの“最初の扉”を開けたアフリカ系アメリカ人の女性たちのチャレンジを痛快なエピソードでテンポ良く描いてみせた快作だ。人種差別や性差別は今も社会にはびこり、アメリカが今までになく不安な時代を迎えている今だからこそ、彼女たちの知的な勇気がより輝いて見える」として80点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「宇宙飛行士を乗せて飛び立つロケットに黒人女性の誇りと夢を重ね、優れた能力で不遇の時代を切り開く女性たちにエールを送るドラマは、見る者をすがすがしい感動に誘い込む」として★5つ(「今年有数の傑作」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「差別され、仕事の機会を奪われてきた黒人女性が、自分の力によって活躍の場を見いだしてゆく。ここまで都合よく話が進んでいいものかという気もしますが、都合のいい展開のおかげで幸せな気持ちになるのも事実。生きる元気が湧いてくる映画です」と述べています。
 朝日新聞のクロスレビューでは、村上明子氏は「こうやって差別と闘った女性たちがいたから、今の私たちがある。自分たちと地続きの歴史を感じました」、小西未来氏は「「ドリーム」はNASAの宇宙開発史や、人種・女性への差別問題に触れながら、エンターテインメント性もある。新しいタイプの映画だと思います。ファレル・ウィリアムスの音楽も素晴らしい」、森本あんり氏は「この映画の後にも見えない差別の現実は続いていたのです」と述べています。



(注1)監督は、『ヴィンセントが教えてくれたことセオドア・メルフィ
 脚本は、セオドア・メルフィ(『ジーサンズ はじめての強盗』の脚本)とアリソン・シュローダー。
 原作は、マーゴット・リー・シェタリー著『ドリーム NASAを支えた名もなき計算手たち 』(ハーパーBOOKS)。

 なお、本作の邦題については、当初は『ドリーム 私たちのアポロ計画』でしたが、公開にあたっては副題が削除され、単に『ドリーム』となっています。これは、本作で中心的に描かれるのが、アポロ計画の前のマーキュリー計画(そのあいだに、ジェミニ計画があります)ですからある意味で当然とはいえ(尤も、キャサリンは、アポロ計画にも大きく関与しています)、でも『ドリーム』ではなんのことやらさっぱりです。映画の中の3人の数学者は、決して夢を描いていたわけではなく、現実的に着々と地歩を築いています。もう少し、原題の『Hidden Figures』にちなんだものにできないのでしょうか(といって、邦訳の副題「ドリーム NASAを支えた名もなき計算手たち」では、よくわかるものの、長すぎるかもしれません)?

 また、出演者の内、最近では、オクタヴィア・スペンサーは『ヘルプ 心がつなぐストーリー』、ジャネール・モネイマハーシャラ・アリは『ムーンライト』、キルスティン・ダンストは『アップサイドダウン 重力の恋人』で、それぞれ見ました。

(注2)この記事によれば、当時、同地方では、小学8年生以上の黒人に対しては公的教育が施されておらず(キャサリンは、1926年当時、既に小学6年生だったようです)、それ以上の教育を受けるためには、別の場所の学校に行かざるを得なかったようです。
 そして、キャサリンは、10歳で高校に入り、14歳でウエスト・ヴァージニア州立大学に入学しています。

(注3)そこには、NASAのラングレー研究所があります。

(注4)ニュース映像を見ているのが1961年であれば、ガガーリンのボストーク1号に関するものがふさわしいと思われますが、映画ではスプートニクに関するものが取り上げられていたように思います(あるいは、クマネズミの勘違いかもしれません)。

(注5)NASAの副長官のジェームズ・ウェッブだと思われます。

(注6)この記事では、「64ビットの浮動小数点数を16ビットの整数に変換する過程でエラーが生じた」とされています(また、この記事を参照)。

(注7)この記事が参考になります。

(注8)例えば、この記事。より詳しくは、こちら〔「入力する際に負値を正値に直さなければならないところを実施しなかった」「当該作業者は、ツールの使用経験はあったが、本作業は初めてであり、符号を直すことを知らなかった」(『X線天文衛星ASTRO‐H「ひとみ」 異常事象調査報告書』のP.64)〕。

(注9)ドロシーがミッチェルに「管理職へ昇格したい」と告げると、ミッチェルは「黒人グループは管理職に向かない」と答え、さらにドロシーが「前職がいなくなってから1年経っている」「私が、その空白を埋めている」と言っても、ミッチェルは「すべて決まっていることだ」と答えるだけです。

(注10)メアリーがエンジニアの資格を得るためには、一つを除いて十分な経歴を持っていました。その一つというのは、白人しか入れない大学で行われている講座を習得することでした。メアリーは、夜間講座を受けるという条件で裁判長の了解を得て、晴れてその講座に出席することができます。



★★★★☆☆



象のロケット:ドリーム


亜人

2017年10月10日 | 邦画(17年)
 『亜人』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)佐藤健綾野剛が共演するというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、字幕で、「亜人とは、死ぬことができない新しい人類である」「26年前、アフリカで初めて発見された」「全世界で46体確認されている」「日本政府は、亜人管理委員会を設置し、日々研究を重ねている」と説明されます。

 次いで、亜人の永井圭佐藤健)の目が大写しに。
 場所は、亜人研究所。
 彼は、包帯でぐるぐる巻きにされて、台の上に横たえられていて、その周りを医師たちが取り囲んでいます。
 「腕を切断します」との声。亜人の圭が唸ります。さらに、「次は、足を切断しろ」の声。
 別室でディスプレイを見ていた亜人管理委員会のトップの戸崎玉山鉄二)が、マイクに向かって、「大きな差異はないな」「リセットだ」と言います。

 ここで、圭の声が「またか?」「いつまで続くんだよ」「いったい、いつからこんなことに」。
 そして、圭がトラックに轢かれる交通事故の映像が挿入されます。
 轢かれて死んだはずの圭が、蘇って立ち上がります。
 「亜人だぞ」との人々の声。そして、「なんで僕が?」との圭の声。

 ここでタイトルが流れ、次いで、TVニュース。
 圭の画像が映し出され、キャスターが、「国内3件目となる亜人が確保されました」「永井圭さんで、東都大学病院の研修医です」とニュースを読み上げます。

 戸崎が、上司に「3日前に亜人と判明しました」と説明すると、上司は「2年前のこともあるからな」と言い、それに対し戸崎は「警備は万全です」と応じます。

 その時、大きな爆発音がし、皆が驚いていると、亜人の佐藤綾野剛)と田中城田優)が現れます(注2)。
 佐藤は、「皆さん、お久しぶり」「この部屋に来るのは3年ぶり」「永井君をいただきに来た」「今や、亜人事情は大きく変わるんだ」と言います。



 戸崎が「眠らせて捕獲しろ」と命じると、警備員たちが麻酔銃を構えます。
 すると、佐藤は「いくよ」と言って、手にしていた銃を撃ち続け、警備員らを倒します。
それでも、警備員の麻酔銃の銃弾が佐藤の腕に刺さると、佐藤はその腕を切り落としてしまいます。
 また、麻酔銃の銃弾が体に突き刺さると、佐藤は自分の銃を首に当てて引き金を引きます。それで佐藤は、倒れるものの、たちどころに蘇ります。

 佐藤は圭に対して、「お早う、永井君、私は君と同じ亜人だ」「この国は、息を吐くように嘘をつくんだ」などと言うと、圭も「政府が亜人を保護しているなどというのは嘘だ」と応じ、それに対し佐藤は、「亜人の未来のために、共に戦おう!」と言います。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、物語はこれからどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、大ヒットコミックを実写化した作品で、何度でも生命が甦るという「亜人」に属する主人公とテロリストの「亜人」との壮絶な戦いが描かれます。いくら銃弾を打ち込まれても死なない「亜人」同士の戦いが、一体どのように決着するのか見ものになりますが、本作は余りにそこに焦点を当てすぎていて、例えば、昨今の映画の流れに反して、女性の役割がかなり限定的になってしまっているようにも思えます。なにしろ、主に登場するのが、主人公の妹だったり、政府要人の秘書の女性だったりするだけなのですから。

(2)本作はアクション物であり、方や文芸物ですから、両者を比較することに意味があるとは思えないものの、最近その原作者のカズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞したこともあって、2011年に公開された『わたしを離さないで』を思い出してしまいました。
 というのも、同作ではクローン人間が描かれていて、彼らに人権はあるのかといったことが一つの問題にされているように思われ、他方、本作でも「亜人に人権はあるのか?」という問題が持ち出されているために、なんだか両作に共通点があるように感じられたからです。

 もう少し申し上げると、『わたしを離さないで』に登場するクローン人間たちは、特定の場所に隔離されて暮らしていて、時期が来て通知があると人間に臓器提供をして死んでしまいます。
 他方本作では、亜人は、亜人研究所において様々な人体実験を受けています。
 こんなところから、クローン人間、あるいは亜人に「人権」はあるのか、と言った問題が提起されることになります。
 ただ、『わたしを離さないで』におけるクローン人間は、幼い頃に受ける教育によるのでしょうか、自分たちの運命を静かに受け入れています。
 他方、本作の亜人たちは、再び蘇るとしても苦痛の大きな実験に堪えきれず、佐藤と田中は研究所から逃げ出し、圭も戸崎らに捕まらないように逃げ回るのです。

 そして、その際の戦いのシーンが、本作の最大の見ものになっています。
 特に、亜人研究の総元締めである厚生労働省を破壊するとして、佐藤が旅客機に乗って同省のビルに突っ込み、現れたSAT(警察の特殊急襲部隊)を佐藤が一人で全滅させてしまう戦闘は迫力満点です。
 また、VXガスを求めて「ファージ重工」を襲撃する佐藤は(注3)、そうはさせまいとする圭と死闘を繰り返しますが、それぞれのIBMまでもが繰り出され、実に凄まじいものがあります。



 とはいえ、佐藤の破壊衝動には凄まじいものがあって、自分が死なないことを最大限に利用しながら、相手をとことん殺戮し続けます。
 この背景には、亜人研究所で受けた苦痛があるのでしょう。
 でも、あそこまでやる必要があるのかと思ってしまいます(注4)。
 他方、この佐藤と対決する圭の心情もよくわからない感じがします。
 彼もまた、亜人研究所での人体実験で苦痛を味わっていて、決して政府側ではないはずです。ならば、なぜ佐藤と同一の行動を取らないのでしょう?
 あるいは、圭は、研修医であり、人間の命を救う側にいて、人間の命をなんとも思わない佐藤とは気が合わないのかもしれません。
 ですが、その程度であれば、佐藤のやることは黙認しつつ、自分は、例えば田舎(吉行和子扮する老婆がいる)に引っ込めば済むのではないでしょうか(注5)?

 加えて言うと、本作に登場するIBMがわけの分からないシロモノです。
 圭は、IBMのことを何度も「ユーレイ」と言いますが、とても実体のあるような生き物とは思えません。
 公式サイトの説明では、「インビジブル・ブラック・マターの略。黒い粒子を放出して戦わせる事ができる(注6)、亜人だけの能力。人間には見る事はできない」とされていますが、どうしてこんな得体のしれないものがわざわざ登場して戦う必要があるのかよくわかりません。
 まあ、そんなことを言えば、肝心の「亜人」にしても、本作においてはほとんど何も説明されていないも同然です。なぜ、こうしたものが突如世界に現れたのか、ウイルスのようなもので他の人に感染するのか、第一、どういうメカニズムで死から蘇るのか、などなど(注7)。

 更に言えば、本作においては、女性の登場人物が副次的な役割しか与えられておらず、昨今の映画の流れからすると、不思議な感じがするところです。
 なにしろ、本作に登場する主だった女性の登場人物は、圭の妹・慧理子浜辺美波)と、戸崎の秘書・川栄李奈)くらいで、泉が亜人として闘う場面が幾つかあるとしても、2人ともストーリーの大きな流れに絡むわけではない感じがします。

 また、原作漫画については、第1巻だけを読みましたが、そこで大きな役割を演じている圭の親友・海斗(カイ)が本作には登場しません(注8)。
 おそらく、本作においては、圭と佐藤との対決に焦点を絞り込もうとしているために、海斗は省略されてしまったのでしょう。
 でも、それはとても残念なことではないかと思いました。

 総じて言えば、本作は、死んでもそのたびに蘇るという亜人という着想はトテモ興味深いものの、ストーリー展開は説明不十分といった感じであり、見どころはアクションシーンと言えるでしょう。
 そうなると、『るろうに剣心』の佐藤健といえども、綾野剛の頗る付きの格好良さに比べると、一歩退いたところにいる感じでした(注9)。



(3)渡まち子氏は、「人間対亜人、亜人対亜人、ループする命、とテーマはかなり深淵なのに、この作品からは深いメッセージ性が感じられなかったのが残念だ」として55点を付けています。



(注1)監督は、『幕が上がる』の本広克行
 脚本は、瀬古浩司。
 原作は、桜井画門著『亜人』(講談社)。

 なお、出演者の内、最近では、佐藤健は『バクマン。』、綾野剛は『新宿スワンⅡ』、玉山鉄二は『阪急電車―片道15分の奇跡―』、城田優は『黒執事』、千葉雄大は『帝一の國』で、それぞれ見ました。

(注2)佐藤と田中は、日本国内で確認された最初の亜人と2番目の亜人で、2年ほど前、亜人研究所から逃げ出しています。

(注3)佐藤は、亜人特別自治区の設置がはかばかしくないのに業を煮やして、東京を亜人特別自治区にしないとVXガスを散布すると通告し、VXガスを製造する「ファージ重工」を襲おうとするのです。

(注4)佐藤は、マスコミを通して、「亜人に市民権を認め、特別自治区を設定してほしい」との要求を政府に突きつけますが、その実現をどの程度本気に考えていたのかわかりません。

(注5)尤も、老婆(吉行和子)が暮らす山村では、TVニュースを通じて、圭が亜人であることがわかると、圭を村から追い出そうとするのですが。
 それで、圭は戸崎と直談判をして、自分に特別のポストを与え、や妹・慧理子を自由の身にする代わりに、戸崎に協力することを約束します。

(注6)劇場用パンフレットの「STORY」の注には、「亜人が放出する黒い粒子の集合体で、人型となり戦わせることができる」とあります。

(注7)亜人は死ぬことができないとされていますが、ラストでは、圭は蘇り、佐藤が消滅したような感じで終わっています。確かに、対亜人専用の部隊によって圭と佐藤は氷漬けにされ、それが打ち壊されて微細な小片になってしまいますが、その小さな破片の中で一番大きなものから佐藤は蘇るのではないでしょうか(圭が腕から蘇ったように)?そうなると、この戦いは終わらなくなってしまうでしょう。

(注8)原作漫画(第1巻)においては、圭が山奥に逃げるにあたって、オートバイに乗った海斗が色々と支援しますが、本作では、山に逃げた圭と妹の慧理子が、見知らぬ農家の老婆(吉行和子)に助けられます。

(注9)佐藤は、失踪していた2年間どこかで訓練を受けていたのではないでしょうか?それに引き換え、圭は研修医として勉強に明け暮れしていたはずですから、いきなり戦闘場面に放り込まれても満足に動けるはずはないので、佐藤と圭とでは、アクションシーンで動きに差が出てしまうのは仕方がないでしょう(圭は、最初のうち、IBMも満足に動かすことはできませんでした)。



★★★☆☆☆



象のロケット:亜人


奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール

2017年10月06日 | 邦画(17年)
 『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)大根仁監督の作品であり、妻夫木聡が出演しているというので映画館に行ってきました

 本作(注1)の冒頭では、ギターを掻き鳴らす音がして、本作の主人公のコーロキ妻夫木聡)のナレーションが入ります。
 「俺があの人を認識したのは、TVのミュージックステーション」「タモさんが「Jパン汚れてるよ」と言ったら、「さっき、ラーメン屋でついた」と答えてた」「その日から、奥田民生はヒーローとなり、奥田民生のような編集者を目指している」。



 そして、場面は、雑誌『マレ(Malet)』の編集部が開いたコーロキの歓迎会。
 同僚となる吉住新井浩文)が「誰が好きなの?」と訊くと、中村李千鶴)が「ジ・インターネットに行った」と答えます。
 さらに、牧野江口のりこ)が「誰が好きなの?」と尋ねると、コーロキは「奥田民生です」と答えます。牧野が「中学の時に、ユニコーンを聞いていた」と応じ、編集長の木下松尾スズキ)も「俺、好きだ。いいものはいい」「インタビューしたことがある。丁度、彼がソロになった頃」と言うと、コーロキは「1994年」と口を挟みます。

 歓迎会は、編集長の「コーロキさん、『マレ』にようこそ」「かんぱい」でお開きになります。
 コーロキの声。「ライフスタイル雑誌に行けといわれて戸惑ったが、この編集長ならなんとかなりそう」。

 次の日の朝。
 アパレル企業「Goffin & King」のプレスのあかり水原希子)が「皆さん、お早うございます」と編集部に入ってきます。



 コーロキは、そんなあかりを見て、ポーッとしてしまいます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあここから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、“奥田民生になりたいボーイ”である雑誌編集者の主人公と、“出会う男すべて狂わせるガール”であるアパレルのプレスの女のラブストーリーです。登場人物が最先端を行く人達のように見え、また全編に奥田民生の曲が流れていて、とてもポップで今風な感じがして、前々回取り上げた『ナミヤ雑貨店の奇蹟』とは真反対の作品のように思いました。

(2)本作は、大根仁監督の『モテキ』と類似するところがあるように思います(注2)。
 同作はニュースサイト、本作はライフスタイル雑誌というように部門が違うとはいえ、両作とも、時代の先端をいく情報機関の企画部門を描いています。
 また、同作の主人公の幸世(森山未來)がみゆき(注3:長澤まさみ)に一目惚れして追いかけ回すのと同様に、本作の主人公のコーロキもあかりにぞっこんになってしまいます。

 とはいえ、本作のコーロキはあかり一辺倒なのに対し、『モテキ』の幸世は「るみ子」(麻生久美子)に慕われたりしますし、唐木(真木よう子)も幸世のことを憎からず思っているようです。
 また、本作で流れる音楽は、ほとんど奥田民生のものですが(注4)、『モテキ』の場合は、くるりの『東京』など様々な曲が流れますし(注5)、幸世がPerfumeとダンスを協演する場面まで設けられています。

 本作と『モテキ』は類似するとはいえ、どうやら、本作がどちらかと言えば「2」(あるいは、“対”でしょうか)の世界であるのに対し、『モテキ』は「3以上」(あるいは、「群」でしょうか)の世界を描いているといえるかもしれません。

 さらに、本作で面白いなと思ったのは、まずは、リリー・フランキー演じるライターの倖田シュウです。



 なにしろ彼は、他の人に当てるべきコラム(注6)を奪い取って自分で原稿を書いてしまい、それが長すぎるとコーロキから文句を言われると、キレてコーロキを非難するツイッターを書きまくり、とうとうコーロキはあかりから抗議を受ける羽目になるのですから。
 そして、そんな性格のねじ曲がった感じのする特異なライターである倖田シュウを、リリー・フランキーは実に楽しそうに演じています(注7)。

 また、コーロキが担当する人気コラムニストの美上ゆう安藤サクラ)も、大層変わったキャラクターです。愛猫ドログバが見つからないと原稿が書けないと言うので、あかりと京都で週末に会う約束があるにもかかわらず、コーロキは、駒沢公園までドログバを探しに行き、やっと猫を見つけて美上に原稿を書いてもらったものの、約束の時間に大幅に遅れてしまい、あかりから「やっぱり合わないんだ、私達。別れよう」と言われてしまう出来事を引き起こします。

 本作で「表層的」(注8)に描かれるコーロキとあかりのラブストーリーは、まあそれほど変わったものではありませんが、いい気になってコーロキが更に一歩を踏み出そうとすると、あかりにスルッとかわされて、むしろ逆襲されてしまうのが特異な点かもしれません。そして、それがラストの驚くようなシーンに繋がるわけですが、それは見てのお楽しみとしましょう。

 なお、ヒロイン役の水原希子については、このところネットで様々に叩かれていますが(注9)、まあそんなことはどうでもいいと思わせる抜群の綺麗さでしたし(注10)、演技の方も本作にピッタリのように思えます(注11)。

 そして、ヒーロー役の妻夫木聡にとっては、『ジャッジ!』以来のコメディ映画の主演作ですが、同作でも本作でもなかなかの演技を披露していて、これからもコメディ作品への出演が期待されます。
 それに、同作ではCMクリエーターという先端的な職業を演じていて、本作でも雑誌の編集者ですから、あるいはそういう方面に似合っているのかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「コーロキの奥田民生愛が感じられず、長い長いタイトルも含めて、すべてが表層的な作品になってしまったのが残念だ」として45点を付けています。
 前田有一氏は、「この長いタイトルの異色なラブコメ映画は、渋谷直角の原作漫画をある意味凌駕する出来栄えで、雑誌業界トリビアも満載で非常に面白いのだが、あとちょっと! と言いたくなる部分もまたある、惜しい一本である」として60点を付けています。
 森直人氏は、「半人前の青二才が繰り広げる悪戦苦闘は、現実への適切な距離感を身につけ、小器用な大人になってしまった「元ボーイ」の胸にこそグッとくる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『SCOOP!』などの大根仁
 原作は、渋谷直角著『奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール 』(扶桑社)。

 なお、出演者の内、最近では、妻夫木聡は『愚行録』、水原希子は『ブルーハーツが聴こえる』、新井浩文は『銀魂』、松尾スズキは『シン・ゴジラ』、安藤サクラは『追憶』、江口のりこは『戦争と一人の女』、リリー・フランキーは『美しい星』で、それぞれ見ました。

(注2)『モテキ』と『バクマン。』と本作とで、大根仁監督の編集部物3部作とのこと。

(注3)なんと編集者なのです。

(注4)この記事を御覧ください。

(注5)この記事を御覧ください。

(注6)アパレル企業「Goffin & King」の社長・江藤天海祐希)が、島田晴雄か村上春樹に書いてもらいたいと言っているのです。

(注7)大根仁監督の『バクマン。』では、リリー・フランキーは、漫画雑誌の編集長役を演じています!

(注8)下記(3)で触れている渡まち子氏の映画レビューの中に出てくる言葉です。

(注9)経緯については、例えば、この記事をご覧ください。
 なお、水原希子は、この記事によれば、「在日韓国人の母親とアメリカ人の父親のもと、アメリカのテキサス州で1990年に誕生。本名はAudrie Kiko Daniel 。米国籍。一家は水原が2歳の時に日本に移り、以後、水原は日本で育つ。兵庫県で育ったため、関西弁。英語はあまり得意ではないと思われる。韓国語を話すかは不明」とのこと。

(注10)映画における水原希子は、クマネズミにとっては、『ブルーハーツが聴こえる』の第5話「ジョウネツノバラ」がその静的で冷たい美しさを描き出しているのに対し、本作は動的で体温を感じる美しさを映し出しているように思います。

(注11)「皆さん好みの女を演じていただけ」と最後に言うあかりは、韓国、アメリカそして日本の狭間にいるような感じの水原希子自身のようにも見えます。



★★★☆☆☆



象のロケット:奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール


散歩する侵略者

2017年10月04日 | 邦画(17年)
 『散歩する侵略者』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)黒沢清監督の作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、金魚が沢山泳いでいます。その金魚が一匹、網で掬われて、容器に移されます。
 次いで、女高生のあきら恒松祐里)が、金魚の入ったビニールを手にぶら下げて、道を歩いています。
 そして、1軒の家に差し掛かると、「只今」と言って家の中に入っていきます。
 しばらくして、「ワーッ」と言って女が出てきますが、また中に引きずり込まれます。
 家の中はメチャクチャになっていて、壁に血が飛び散っています。
 よく見ると、家人が何人か倒れていて、金魚は床の上に。
 あきらの顔や手には血が付いていますが、そのまま家を出て、車の行き交う道路の真ん中を、血の付いたセーラー服を着て歩きます。

 病院で。
 主人公の鳴海長澤まさみ)が、夫の真治松田龍平)を見ると、雑誌を逆さまに読んでいて、「なるほど」と呟いたりしています。
 鳴海は、「冗談はやめて」「何があったの?」と尋ねますが、はかばかしい答えは返ってきません。



 医者は、「ご主人、こんな状態で道を歩いていました」、「あまり深刻にならない方が」、「奥様の支えがあれば、そのうちに正常に戻りますよ」と言うだけです。

 2人は病院の外に出ます。
 真治は歩き出しますが、すぐに倒れてしまいます。
 鳴海は、「立てないの?面倒くさいわね!」と怒ります。

 しばらくして、鳴海は「真ちゃんが私を裏切ったの」、「この間の出張、会社の女の子と行ったんだよね」、「今更ごまかせると思ったら大間違い」と詰め寄りますが、真治は「へー、なるほど」と受け流します。

 次いで、2人は車の中。
 真治が「でも、俺たち夫婦だよね」、「鳴海、俺のガイドになってくれよ、いろいろわからないところがあるから」と言い出します。

 2人は自宅に戻ります。
 TVで気象予報官が「日本は概ね晴れ」と言いながら天気図を説明すると、真治は、予報官の仕草を真似します。
 他方で、鳴海は真治に、「会社どうするの?休むなら、自分で連絡してよ」と言います。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作は、主人公の夫を含めて3人の日本人が、宇宙からの侵略者に乗っ取られてしまうというところから始まります。主人公は、なかなか夫の異変を飲み込めず、何とかして夫を元の姿に戻そうと努めます。残りの2人に取り付いた宇宙人は、ジャーナリストをガイドとして使って、侵略する宇宙人の本隊と連絡しようとします。さあどうなるかというところですが、興味深いのは、3人に取り付いた宇宙人が、人間から「概念」を吸い出して人間というものを理解しようとする点です。この「概念」の使い方に少々違和感を覚えましたが、まずまず面白い着想に基づいた作品と言えるでしょう。

(2)本作においては、宇宙人による地球侵略が描かれますが、その際の事前調査にあたって重要な手段となっているのが、人間から「概念」を奪い取りそれを吸収して、宇宙人が人間を理解しようとすることです。
 クマネズミには、いろいろな意味で、この点が一番興味を惹かれました。

 例えば、家を飛び出してきた鳴海の妹の明日美前田敦子)は、真治に侵入している宇宙人によって、「家族」の概念を奪われてしまいます(注2)。そうなると、明日美は、姉の鳴海に対し急に他人行儀になってしまいます。
 また、あきらを病院で監視している刑事の車田児嶋一哉)は、天野という青年(高杉真宙)と女高生・あきらに侵入している宇宙人によって、「自分」と「他人」という概念を抜き取られてしまいます(注3)。すると、車田は、自他の区別がつかなくなってしまい、あきらが外に出ていくのを簡単に認めてしまいます(注4)。
 それに、鳴海に仕事を依頼する鈴木社長(光石研)は、会社に現れた真治から「仕事」の概念を取り去ると(注5)、会社で仕事をしなくなり、子供のように紙ヒコーキを作って飛ばしたり、机の上に乗っかったりして遊び回ります。

 でも、こうした反応はうまく理解できるでしょうか?
 例えば、「家族」という概念を奪われても、それが「名辞」だけであり、まだ「姉妹」とか「親子」などの低位の概念が明日美に残されているのであれば、急激に鳴海によそよそしくなることもないかもしれません。
 ただ、「家族」という概念を構成する下位の概念までもごそっと宇宙人によって持って行かれてしまえば、あるいは冷淡になるかもしれません。
 でも、一体、どこまでの下位の概念までが「家族」に含まれているというのでしょうか(注6)?

 それに、例えば、「家族」という概念が、「婚姻によって結びつけられている夫婦、およびその夫婦と血縁関係のある人々で、ひとつのまとまりを形成した集団のこと」であり(注7)、その全体がごそっと宇宙人によって奪われてしまうとしても、その家族の概念に付着しているはずの“家族というものは親密に交際するものである”といったイメージまでも取り去られない限り(注8)、明日美が鳴海に冷淡になることもないように思われます。

 もっと言えば、「概念」によっては、その内実をはっきりと示すことが難しいものもあるように思われます。
 例えば、「自分」と「他人」という概念ですが、Wikipediaで「自分」と「他人」を調べてみると、内容がない書き方になっています(注9)。そんな場合に宇宙人は、単なる「名辞」ではないとしたら、一体どんなものを奪うというのでしょうか?

 「仕事」という概念にしても随分漠然としていて、一体どのような内実を持ったものを宇宙人は奪い取るのでしょうか?
 それだけでなく、「仕事」の概念ならば、宇宙人が乗っ取った真治も、会社員ですから、その概念を持っていたはずです。宇宙人は、どうしてその概念を真治自身から抜き取らなかったのでしょう?そして、宇宙人が鈴木社長から奪い取った「仕事」の概念は、真治が元々持っている「仕事」の概念とどのような関係に置かれるのでしょう(注10)?

 ところで、黒沢清監督は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中で、「この映画の中で使っている概念は、自分たちにとっていちばん大切にしているもの、なんとなくその人がその人として社会の中で自分らしさを保ち続けていけるものというふうに位置づけました」「概念って知らないうちに自分自身を縛り付けている何か、なのかもしれないと、今回は想定しています」「人間の数だけ概念はあるんだと思いますね」と述べています(注11)。

 となると、ここでアレコレ取り扱ってきました「概念」と、黒沢監督の考えている「概念」とは、どうも概念がまるで違っている感じもしてきます。
 こんな「概念」に関するとりとめもなく中途半端な議論は、冗談話としてサテおくこととしましょう。

 すると本作は、二つの物語から構成されていることが見えてきます。一つは、真治と鳴海の夫婦の物語であり、もう一つは、ジャーナリストの桜井長谷川博己)を「ガイド」役として使う天野とあきらの物語です。



 勿論、二つの物語は交錯するところもありますが、比較的独立した物語として作られているように思います。
 前者では、冷え切った夫婦関係でありながらも、どうも言うことがはっきりせず、すぐに足元がふらついてしまう夫・真治を見て、放っておけないと思うようになってきたのでしょうか、鳴海は真治をなんとかして守ろうとし出します。



 後者では、天野とあきらに取り付いた宇宙人は、地球を侵略しようとする宇宙人と、通信機器を組み立てて連絡をとろうとします。

 こうした二つの物語は、それぞれなかなか面白い展開をした後、なんと「愛」という概念が絡んできて終盤を迎えます。
 ただ、「愛」という概念によって様々なことに解決がついてしまう、という本作の描き方には、なんだか違和感を覚えてしまいます。何しろ、日本においては(注12)、「愛」という概念は、まだまだそれほど身近なものにはなっていないように感じられるからですが(注13)。

 尤も、黒沢監督もそんなことは百も承知で、真治と鳴海は教会に行って、合唱団の少年・少女とか牧師(東出昌大)に「愛とは何か?」と尋ねますが、はかばかしい答えが返ってこないシーンを描いています(注14)。
 そうなると、やっぱり、このエントリで取り上げてきた「概念」に纏わるクマネズミの議論は、どうやらお門違いだったということになるのかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「絶望を描くかに見えて、今までにない“前向き”なメッセージを感じさせる内容に、黒沢清監督の新たな挑戦を感じる作品だった」として75点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「人間の顔をした侵略者。映画はSFサスペンスの外観を見せているとはいえ、演出はあくまで人間ドラマとしてある。この点にこそ黒沢映画の魅力がある」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 北小路隆志氏は、「他人から全てを奪うことを欲し、それが同時に奪われることでもある情動が「愛」であるとして、宇宙人が地球人から「愛」の概念を奪うとき、そこで何が生じるのか……。驚くべき結末を見届けてほしい」と述べています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「家族、仕事、愛といった人間の“概念”を奪う侵略者の暗躍は、いささか回りくどい印象を受けるが、黒沢監督はそこに深入りすることなく、映画的な快楽を優先」と述べています。



(注1)監督は、『クリーピー 偽りの隣人』の黒沢清
 脚本は田中幸子と黒沢清。
 原作は、前川知大著『散歩する侵略者』(角川文庫:同作は、同じ前川氏の戯曲の小説化)。
(前川知大氏は、『太陽』の原作者でもあります)

 なお、出演者の内、最近では、長澤まさみは『銀魂』、松田龍平は『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、高杉真宙は『カルテット!』、恒松祐里は『くちびるに歌を』、長谷川博己は『シン・ゴジラ』、前田敦子は『モヒカン故郷に帰る』、満島真之介は『三度目の殺人』、児嶋一哉は『恋の罪』、光石研は『彼女の人生は間違いじゃない』、東出昌大は『関ヶ原』、小泉今日子は『ふきげんな過去』、笹野高史は『新宿スワンⅡ』で、それぞれ見ました。

(注2)ここらあたりの経緯は、概略次のようです。
 両親に結婚のことをうるさく言われ、その家を飛び出してきた明日美が、真治に「義理の妹」と自己紹介すると、真治は「こんがらがってきたぞ」と困惑します。明日美が、さらに「皆、家族」と言うと、真治は「家族って?」と訊いてきます。明日美が、「真治さんは、義理の兄」、「鳴海は、私のお姉ちゃん」と答えると、真治は「なるほど。それもらうよ」と言って、明日美の額を指で突く真似をします。すると、明日美はその場に崩折れます。

 ですが、このシーンの描き方では、真治に入り込んでいる宇宙人が、明日美が使った様々の「概念」の中で、いったいどれを抜き取ったのかよくわかりません!

(注3)ここらあたりの経緯は、概略次のようです。
 あきらの病室を監視している車田が、電話で「自分はそう聞いています」と言っているのを耳にしたあきらが「刑事さん、「自分」って何?」と尋ねます。刑事は、「質問には応じられない」と答えますが、あきらは「「自分」のことわかっているのは「自分」だよね」と言うので、車田は「これ以上言うと、麻酔を使うぞ」と威嚇します。
 次いで、あきらの病室にやってきた桜井と天野が病室に入ろうとするので、車田が「あんたは誰だ?」と尋ねます。それに対して、天野が「そう言うあんたは?」と聞き返すと、車田は「自分は自分だ」と答えます。
 そして、あきらが再度「ちゃんと「自分」について教えてよ」と言うと、車田は「自分は自分で他人じゃない」「高卒のヒラの刑事で、大卒のエリートとは違う」と答えます。
 すると、天野は「もらうよ」といって天野の額を指差すと、車田はその場に崩折れます。

(注4)天野とあきらが「行きますよ」と言って病室を出ようとすると、車田は「どうぞ。あなたたちは私なんだから」と応じて、彼らが出るのを認めてしまいます。

 ただ、「自分」や「他人」という概念が頭の中からなくなれば、同時に「私」とか「あなた(たち)」ということもわからなくなってしまうのではないでしょうか?そしてそうなったら、「私」=「あなた(たち)」などと思いつかないことでしょう!

(注5)鈴木社長が鳴海に対して、「これはどういうこと?」「あなたの個性は要らないの」「これは仕事なの!」と怒っていると、真治が会社に現れます。鳴海が「仕事中!」と注意すると、真治は「仕事ってなんですか?」と鈴木社長に尋ねます。社長が「社長と社員との関係」と雑に答えるものですから、真治は「仕事ってなんですか?」「ちゃんとイメージとして頭の中にあるんじゃないですか?」「もっと鮮明に」と言い寄り、そして「それもらった」と言って社長の額に指を向けます。

 このエピソードからすると、宇宙人が人間の頭から抜き取るのは、「概念」ばかりでなく「イメージ」もあるようです。でも、そんなことをしたら、「概念」よりももっと宇宙人の頭が混乱してしまうのではないでしょうか?

(注6)例えば、「果物」という概念の場合、すぐに考えられるのは「りんご」「なし」等の下位概念でしょうが、「果物」という概念を構成するのは何も「りんご」「なし」等の具体的な下位概念ばかりではないでしょう。例えば、「食用になる果実及び果実的野菜のうち、強い甘味を有し、調理せずそのまま食することが一般的であるもの」というのが「果物」という概念を構成する内容だとすれば(Wikipediaのこの記事によります)、そこには「果実」「野菜」といった上位概念と言えるものも含まれてきてしまいます。それに、例えば「りんご」という下位概念にしたって、「ふじ」とか「紅玉」などの沢山のさらなる下位概念の集まりです。

 いったい、ある人間から「概念」を抜くということはどういうことなのでしょうか?
 様々の上位概念まで抜き取ってしまうということであれば、もしかしたら、ある「概念」を抜き取られた人間は、それだけでたくさんの概念も一緒に抜き取られてしまい、何もできなくなってしまうのかもしれませんし、
 抜き取った宇宙人の方も、余りに大量な情報を同時に獲得するために、大混乱に陥るかもしれません。

(注7)Wikipediaのこの記事によります。

(注8)ただ、「イメージ」は、個々の人間によってかなりばらつきがあるように思われます。人によっては、「家族」に対して酷くネガティブなイメージを持っているのではないでしょうか?

(注9)Wikipediaのこの記事では、「他人」について「自分を除いた人間」とされていますが、この記事では「自分」について「一人称として使用されることがある」としか書かれておらず、何も規定されていないも同然ですから、結局、「自分」も「他人」もわけのわからないものとなってしまいます。

(注10)もう一つ興味深い例は、次のようです。
 外をふらついている真治が、見知らぬ大きな家の中に入ろうとします。
すると、その家の持ち主で引きこもりの丸尾満島真之介)が現れ、「そこで何をしているの?」と質します。それに対して、逆に真治が「君はなんでここにいるの?」と聞き返すものですから、丸尾は、当然のように「“俺”の家だから」と答えます。それで、真治は「そうか、“俺”の家か」と言って家の中に入ろうとします。丸尾はそれを押し戻して、「ここは“俺”名義の家」と言い、「おじさんの名は?」と尋ねると、真治は「しんちゃん」と答えます。丸尾が、さらに「ここはおじさんの家じゃない」と言うと、真治は「問題は「の」だな」と呟き、丸尾が「それは所有の「の」のこと」と言うと、真治は「それもらうよ」と応じます。

 ですが、このエピソードで宇宙人が抜き取るのは「の」のように思えるところ、「の」は単なる助詞ですから「概念」とはとてもいえないように思われます(尤も、「の」を奪われた丸尾は、引きこもっていた家から解放されて、外を出歩けるようになるのですが)。

(注11)でも、例えば、明日美にとっていちばん大切にしているもの、あるいは自分自身を縛り付けているものは、はたして「家族」なのでしょうか?そうかもしれませんが、他にも、それこそ「自分」とか「自由」などといったものも考えられるのではないでしょうか?

(注12)なぜか本作の事件は、すべて日本国内だけで起きているようなのです(宇宙人が襲ってくるのも、日本だけなのでしょうか?)。

(注13)Wikipediaのこの記事に、「近代に入り、西洋での語義、すなわち英語の「love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシア的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多様な用法が作られてきた」とあるように、「愛」は西洋起源のものと言った感じがつきまとっています。
 そんなこともあって、『パトリオット・デイ』についての拙エントリの(2)でも書きましたが、「愛」「愛」と臆面もなく声高に言われると、クマネズミはどうも鼻白んでしまいます。

(注14)牧師は、「愛は、あなたの内側にあります」「愛は寛容で親切です」「不正を喜ばず、真理を喜びます」「すべてを我慢し、すべてを期待し、絶えることはありません」などと答えますが、「愛」の本質を捉えておらず周辺的なことばかりだとして、真治は、牧師から「愛」の概念を抜き取ることはしません。



★★★☆☆☆



象のロケット:散歩する侵略者

ナミヤ雑貨店の奇蹟

2017年10月02日 | 邦画(17年)
 『ナミヤ雑貨店の奇蹟』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)東野圭吾の評判の小説を実写化したものとのことなので、映画館に行ってきました

 本作(注1)の冒頭は、1969年の夏。
 2人の男の子が走っています。
 マーケットでは大売り出しの最中で、チンドン屋も繰り出しています。
 2人の男の子は「ナミヤ雑貨店」(注2)の大きな看板のある店に行って、その店先に掲げられている掲示板を見ます。
 男の子が「こんにちは」と言うと、店主の浪矢雄治西田敏行)が「元気か?」と尋ねるので、男の子は「うん」と答えます。
 それから、掲示板の紙を剥がして店内に入ります。
 中に置かれているTVは、丁度、アポロ11号の月面着陸の模様を映し出しています。
 次いで、店主が紙に書いたものを掲示板に貼り付けますが、そこには、「宇宙飛行士は、…」と書かれています(注3)。

 タイトルが流れた後、時点は2012年12月。画面では、夜間、大きな家の中から飛び出した3人の青年が、夜道を懸命に走り、駐車場に1台だけ置かれている車に急いで乗り込みます。
 敦也山田涼介)が、「だめだ、この車、バッテリーが上がっている!」と叫びます。
 仕方なく、3人は車を飛び出し、再び通りを走ります。

 翔太村上虹郎)が、「近くに空き家がある」と言うので、3人は走り続け、「ナミヤ雑貨店」の看板のある空き家にたどり着きます。
 翔太が「ここだ」と言うので、裏に回って中に入ろうとします。



 幸平寛一郎)が、脇についている箱を指して「何これ?」と訊くので、敦也は「牛乳箱だよ」と答えながら、戸をこじ開けて、店の中に入っていきます。



 敦也は、「汚ねー」と言いながら、大きな家から盗んできたカバンを開けて、ハンドバックを取り出し、その中に入っていた財布から金を抜き取り、「すげー入ってる」と言いながら、翔太と幸平に分け与えます。
 幸平は「あの人、あのままで大丈夫かな」と心配すると(注4)、敦也は「自業自得」と答え、更に「朝になったら、通勤客が動き出すから、それに紛れて逃げよう」と言います。

 翔太は、見つけた古い週刊誌(1973年12月の)をパラパラと見ますが、そこに女学生(成海璃子)の写真が挟まっていて、その裏には「昭和2年3月 暁子」と書き入れてあります。
 翔太は「めっちゃ美人」と言いますが、敦也は「めっちゃ古い葉わ気持ち悪いでしょ」といいます。
 その時、シャッターに取り付けられているポストの口から手紙が投函されます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれからどのような物語が展開されるのでしょうか、………?

 本作は、空き家となっている「ナミヤ雑貨店」に入った3人の青年が遭遇した奇蹟の一夜を描くものです。その雑貨店では、30年以上前、店主が手紙による悩み相談を受け付けていましたが、2012年の現時点でも、なおポストに手紙が投函されるのを3人は目撃します。現在の中に過去が入り込むというファンタジックな物語ですから、細かいことに目くじらを立てても仕方がないことながら、いろいろ違和感を覚える点があり、また物語られるエピソードにも新鮮味が感じられず、『彼女の人生は間違いじゃない』などの作品を制作する廣木隆一監督が、どうしてこのようなユルユルの作品を作ってしまうのかと不思議に思えました。

(以下は、いろいろとネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作における「ナミヤ雑貨店」のポストは、様々な人が悩み事を手紙に書いて、それを投函しているはずでしょう。にもかかわらず、描かれるエピソードは、どれも児童養護施設絡みであり(注5)、挙句、大部分の関係者がハッピーエンドになってしまうというのでは(注6)、制作側としては、いろいろとご都合主義に頼らざるをえないでしょうし、観客の方としても、それに目を瞑らなければ見ていられなくなってしまいます。

 一番のご都合主義と思えるのは、魚屋(小林薫)の息子・克郎林遣都)が火事で死んでしまうことを、未来の時点にいる敦也、翔太、幸平の3人の青年は知っていたにもかかわらず(注7)、過去を変える訳にはいかないと手を出さないままでしたが(注8)、他方で、女性起業家・晴美尾野真千子)に対してだけは過去に介入して、バブル景気とかその崩壊の事実を伝えて儲けさせている点ではないでしょうか(注9)?

 それと、この作品に対して肌が合わないなと思ったのは、ナミヤ雑貨店の店主が、自分の三十三回忌になる日に、自分の回答が相談人にとってどのような意味を持っていたのか意見を求める、という点です(注10)。



 確かに、悩み相談の回答者は、自分のした回答がどのくらい質問者の人生に役に立ったのかを知りたいと思うでしょう。ですが、そんなことがわからないのが匿名相談の良いところであり、更に言えば、人生相談の回答の結果報告などというもの(それで、回答が有意味であったかどうか知ること)は酷くおぞましいとしか思えないところです(注11)。

 加えて、30年前の話ですから、当時であれば手紙を書くというのは誰でも行っていたことでしょう。でも、3人の青年は、盗みに入りもする十分な学歴もないようにみえる現代の若者であり、それが、手紙が投函されるとすぐさま返事を紙にペン(ボールペン?鉛筆?)で書く(それも、2枚も3枚も)というのは、とても馴染めない感じを持ちました(注12)。

 もっと言えば、魚屋の父親とその息子のミュージシャンのエピソードを始めとして、描かれるエピソードはどれも使い古しの酷く古典的な内容であり、全体としてどうして今頃このような古色蒼然とした作品をわざわざ制作するのだろうか、と思ってしまいました(注13)。

 とはいえ、収穫がなかったわけでもありません。『無伴奏』以来のとても綺麗な成海璃子を見ることができましたし、このところアチコチで見かける門脇麦が歌う姿も見ることができました。

(3)渡まち子氏は、「登場人物は、2012年も1980年も、共に人生の岐路で迷う人々だ。そんな彼らの背中をそっと押すのが店主役の名優・西田敏行。“白い手紙”という最高難易度の相談に店主がくれた答えが、すべての人々の希望に思えた。泣ける話というより、ほっこりする話として楽しんでほしい」として60点を付けています。
 前田有一氏は、「今回も、ダメ映画を絵にかいたような実写映画に仕上がっている。説明しなくてもいいことをセリフでしゃべらせ、説明しなくてはならないことをスルーしてムダにわかりにくくしている」として35点を付けています。



(注1)監督は、『彼女の人生は間違いじゃない』の廣木隆一
 脚本は、『キセキ―あの日のソビト―』などの斉藤ひろし
 原作は、東野圭吾著『ナミヤ雑貨店の奇蹟』(角川文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、山田涼介は『グラスホッパー』、林遣都は『グッドモーニングショー』、門脇麦は『二重生活』、尾野真千子は『いつまた、君と―何日君再来』、成海璃子は『無伴奏』、西田敏行は『人生の約束』、萩原聖人は『スープ・オペラ』、小林薫は『キセキ―あの日のソビト―』、吉行和子は『家族はつらいよ』、山下リオは『シャニダールの花』、鈴木梨央は『僕だけがいない街』で、それぞれ見ました。

(注2)原作小説では、週刊誌に書いてあったこととして、店主の雄治が次のように話しています。「(悩み相談を受け付ける)きっかけは近所の子供たちとの口げんか。店のことを、ナヤミ、ナヤミとわざと間違えるんです」云々(文庫版P.19)。要するに、“ナミヤ”⇔“ナヤミ”ということでしょう。

(注3)男の子の「宇宙飛行士になりたいが、……」という相談に対する回答のようです。

(注4)3人は、大きな家の主(田村晴美であることが後からわかります)を椅子を背に縛り上げ、屋内を物色した後、そのままその家から逃げてきました。その家の主が、3人が世話になった児童養護施設をラブホに建て替えようとしていることを耳にして、お灸をすえてやろうと盗みに入ったわけです。

(注5)敦也、翔太、幸平の3人の青年は児童養護施設「丸光園」出身ですし、魚屋の息子・克郎は、「丸光園」の火災で焼死します(1988年)。その際に、克郎が救助した子供の姉がセリ鈴木梨央)。
 敦也、翔太、幸平の3人の青年が空き巣に入った大きな家の主の田村晴美も、丸光園出身者。
 そして、30年前に雄治に手紙を書いて悩みを相談した川辺みどり菜葉菜)の娘の映子山下リオ)は、丸光園で育ち、大きくなったセリ(門脇麦)のマネージャーになります。

 加えて、若い時分に雄治と駆け落ちをしようとした皆月暁子成海璃子)が、丸光園を創設したのです。
 本作では、晴美が丸光園を訪れた際に現れた園長の皆月良和PNTA)が、こうした出来事の背後には姉の暁子がいるのだろうと示唆しています。
 それで、本作では、三十三回忌に姿を見せる雄治のそばに暁子も現れるように描き出しています。もちろんこれは、原作にはないシーンですが、一体何を意味しているのでしょう?暁子は、人間を越えた神のような存在なのでしょうか?

(注6)例えば、上記「注5」で触れている克郎は焼死しますが、自分が作った歌「Reborn」(こちらで聴くことができます)をセリが歌い継いでくれたことによって、その歌は世に知られることになりますから、ある意味でハッピーなのかもしれません。

 なお、本作においては、ラストで、3人の青年は、自分たちがなりたいと志していた職業にそれぞれ就いている様子が描き出され、本作のハッピーエンド追求ぶりが一層高められています。
 でも、原作小説は、当然のことでしょうが、そんなにノーテンキではありません(幸平が「逃げるのか?」と尋ねると、敦也は「逃げない。警察が来るのを待つ」と答えます。翔太は「ますます働き口がなくなるぜ」と言いますが、3人は覚悟を決めたようです)。

(注7)国民的な歌手となったセリが歌い続ける「Reborn」や、それに纏わる話は、日本国中に行き渡っていたために、3人の青年は、克郎がこの曲を作った本人だとわかると、その後の経緯についてすぐに想像がついたのでした。

(注8)幸平が「魚屋ミュージシャンに火事のこと教えたら、死ななくて済むんじゃない?」と言うと、敦也が「火事のことも、セリが「Reborn」歌うことも俺たち知っているんだし、過去のことは変えられないんだよ」と応じます。

(注9)本作においては、敦也が中心になって晴美に対する回答を書きます。
 そこには、晴美がいる1980年の時点からすれば未来に起こる事柄が記載されています。
 例えば、「数年後、日本に好景気が来ます」「できたら小さいマンションを買ってください」「さらに繰り返して高い物件を買ってください」「そして、株式やゴルフ会員権を買ってください」「1990年代に入ると、状況は変わります」云々。
 とはいえ、敦也たちがまだ生まれてもいない頃や生まれて間もない頃に起きたことがらについて、このように語れるためには、現代日本経済の流れについてある程度勉強していないと、酷く難しいのではないでしょうか?でも、画面から伺われる雰囲気からすれば、敦也らにそうした勉強の痕跡は全く見られないように思われます。

 なお、原作小説においては、回答文のレベルはもっとずっと高いものになっています(例えば、「これから5年間ほど、経済関連の勉強を徹底的にやってください。具体的には、証券取引と不動産売買です」、「1986年以降、日本には空前の好景気が押し寄せ、不動産物件は必ず値上がりします」、「1990年になると、状況は急に変わります」「90年代は新しいビジネスを起こすチャンスの時代でもあります」など。文庫版P.344~P.346)。でも、いくら携帯を使って昔のことを調べたと言っても、事前に経済についての素養がいくらかでもなければ、そんなことは書くことはできないのではないかと思われます。

(注10)雄治は、息子の貴之萩原聖人)に託した遺言書の中で、「ナミヤ雑貨店の相談窓口を復活する」「かつて相談をして回答をもらった人から、その回答が人生の役に立ったのかどうか意見をいただきたい」という旨を三十三回忌に皆さんに知らせてほしい、と述べています。
 それで連絡のあったのが、かつて雄治に相談した川辺みどりの娘の映子であり、その手紙を読んだ雄治は、「人生の最後にご褒美をもらったようだ」と、そばにいる暁子に告げます。
 ですが、そんな結果報告を求めるようなことをしても良いものでしょうか?

(注11)酷くつまらないことを申し添えれば、人が自分のなしたことが他人にどのような結果をもたらしたのかがよくわからないところが人生の良いところなのかもしれません。

(注12)3人の青年の雰囲気からすれば、彼らに似合うエピソードは、せいぜい「月のウサギ」からの悩み相談(原作小説の第一章が取り扱っています)くらいでしょうが、それは本作ではカットされてしまっています。
 ただし、その相談事にしても、1980年にモスクワで開催され日本がボイコットしたオリンピックが絡んできます。でも、その当時生まれていなかったはずの3人がそのことに気が付くとはとても思えません!彼らがオリンピックに特別の関心を持っていて、過去の出来事までいろいろ調べていたというのであれば話は別ですが、映画からはそのようには見受けませんでした。

(注13)勿論、雄治が健在だったのは30年以上も昔のことであり、その当時の相談事ならば、映画で描かれていることもそんなに古色蒼然としたものではなかったかもしれません。 
 でも、例えば、魚屋ミュージシャンのエピソードにしても、その10年位前から、自分で作詞作曲して歌うミュージシャンが地方から東京に上ってくることが増えていたように思われます。田村晴美のクラブで働く話にしても、不倫相手の子供を産む川辺みどりの話にしても、なんで今更という感じがしてしまいます。なにしろ、本作を見ているのは、2017年の観客なのですから。



★★☆☆☆☆



象のロケット:ナミヤ雑貨店の奇蹟