映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ミステリーズ

2012年10月30日 | 洋画(12年)
 『ミステリーズ運命のリスボン』を銀座シネスイッチで見ました。

(1)ブラジルの旧宗主国であるポルトガルの映画と聞いて、それなら見てみようと思ったわけですが、全部で4時間半近くの大長編(注1)。ただ、全編・後編に分けて上映され、別々に見ることができるとされていましたので、トータルでは100円ほど高くなるものの(続けて見れば一人2,500円)、二日に分けて映画館に足を運びました。
 とはいえ、入り具合は惨憺たる有様。クマネズミが行った時は、二日とも観客が5,6人ほど。ポルトガルの映画で、かつ大長編と聞いて、皆が二の足を踏んだのでしょう!
 ですが、フランスでは1年にも及ぶロングランで、その他の国々でも評判は上々とのこと。やっぱり、ヨーロッパと日本とでは国情が異なるようです。

 物語の舞台は、19世紀前半のポルトガル王国。
 まずは、修道院内の学校にいる少年ジョアンが登場します。



 ジョアンは、クラスメートとの喧嘩で気を失って倒れていて、その間、自分に関係すると思われる人物群の幻を夢見ています。一体彼らは何者なのかが、これからの長い物語の中で解き明かされることになるでしょう(注2)。

 最初は、実の母親・アンジェラ(注3)。



 彼女は、以前愛する男がいて妊娠していたにもかかわらず、父親に結婚を認めてもらえず(注4)、別の男と無理やり結婚させられたのです。
 結婚前に密かに生まれた子供がジョアンで、修道院のデイニス神父が匿っていましたが、彼女は、そのことを知った夫に、8年間も館に軟禁状態にありました。
 あるとき、彼女の夫の留守を知った神父は、彼女を館から連れ出して、14歳になったジョアンに会わせます。二人はしばらく神父の元で一緒の生活をするものの、結局彼女は、修道院に入ってしまいます。

 実は、母親・アンジェラの父親は、横暴な貴族で、母親の愛人とその子・ジョアンを殺してしまうように殺し屋を雇っていました。愛人は、殺し屋が放った銃弾が原因で死んでしまいますし(注5)、殺し屋にさらわれたジョアンも、すんでのところで殺されるところでしたが、デイニス神父が大金を支払って上手く救出します。

 その殺し屋が、しばらくすると、そのとき得た大金を元手に事業に成功したのか(注6)、大富豪・アルベルトとして社交界に登場します。



 ただ、パリ時代につきあっていた女・エリーズが、自分を袖にしてプライドを深く傷つけられたとして、復讐すべく何度も刺客を彼の元に送ってきます。



 ひょんな偶然で、大きくなったジョアン(今ではペドロとされます)もその刺客の一人となって、大富豪・アルベルトと決闘する羽目に。



 さあ、この結末は、……?

 本作は、非常に沢山の人物が登場し、後編冒頭からはデイニス神父の方に焦点があわせられたりするなど(注7)、物語の作りは、上で酷くはしょって申し上げたものよりずっと複雑ですが、それが、ポルトガルの貴族の豪華な生活と、修道院の清貧な生活との対比の中で、さらには人形劇を使ったりして(注8)、実に上手く描き出されていると思いました。

(2)この長い映画については様々な視点から語ることができるでしょうが、例えば、主人公の一人ジョアンが成長していく際に出会った二人の典型的な女性(貞淑なアンジェラと奔放なエリーズ)の物語と見なすことも、あるいはできるのではと思われます。

 アンジェラは、14歳のジョアンと会った後、暫くして夫が病気で亡くなると、夫が残した遺産を受け取ろうともせずに女子修道院に入ってしまいます。
 夫は、妻に子供がいることが分かると、彼女を館の部屋の中に閉じ込めるだけでなく、ポルトガルの社交界に彼女が身元の悪い女なことを言い触らしたり、愛人(注9)までもうけて館に連れ込んだりもするのです。
 でも、死ぬ間際に残した手紙で、夫がアンジェラに対する深い愛を告白したことを知ると、アンジェラは、夫の遺産を受け取らない一方で、自分は修道院に入ってしまうのです(注10)。

 もう一方のエリーズですが、貴族の夫の後、パリの社交界で随分と淫蕩な生活を送っていて、なかでも大富豪のアルベルトをいたく気に入ります。
 ですが、アルベルトは、契約を交わしてごくわずかだけつきあうと、契約に従って大金を支払った後は、彼女が会おうとやってきても追い払ってしまうのでした(注11)。
 それで、エリーズは、自尊心を深く傷つけられて、なんとしても彼を殺そうとします(注12)。

 そんなときに、エリーズが住む邸宅の隣に住む貴族の友人として、ペドロはエリーズと出会うことになり、一目でエリーズに魅入られてしまいます。
 それで、ペドロは、エリーズに唆されてアルベルトと決闘することになるのですが、逆にアルベルトの説得を受けて、その無意味なことを知り、放浪の旅に出ることに。

 こんな両極端の女性を知ることになったペドロ(昔のジョアン)のその後の女性遍歴は、さぞや面白いものとなるでしょうが、残念ながら映画では描かれず、観客の方で想像するしか仕方がありません。

(3)中条省平氏は、「多くの登場人物が交錯する迷宮のように複雑な物語が、最後にはパズルの断片のようにぴたりと嵌まりあい、人間と運命の不可思議を結晶させる。正統的な物語の力と、巧緻な映像の面白さが見事に結びついた傑作である」と述べています。
また、川口敦子氏も、「筋の起伏にのみ込まれつつふと気づくと長まわしのキャメラの優雅な動きの中、幽かに揺れたりゆがんだりしているフレームの周辺部、微妙に遠近が誇張された人物配置と、映像美のそこここに奇妙がぼこぼこと蠢いている。そんな実験性。その妙味。筋を先取りするように登場してくる少年の紙製の人形劇に、はたまた彼の死の床の夢に総てを収斂させるのかと、答えの出ない謎を仕掛けてほくそ笑む鬼才、そのスリリングな挑発に乗ってみたい」と述べています。


(注1)上映時間266分ですから、2年前に見た瀬々敬久監督の『ヘヴンズストーリー』(278分)よりわずかに短いだけです。

(注2)映画のラストでも、別途に横たわって気が遠くなったペドロの周りに同じような幻が見えることになります。

(注3)むしろ、サンタ・バルバラ伯爵夫人と言うべきかもしれませんが、煩瑣になるので、以下では他の登場人物も含めて、できるだけ簡便に記すことといたします。

(注4)父親のモンテゼロス侯爵は、アンジェラが次女のため財産を持たないことから、財力のある男のもとへと嫁がせようと考えていたところ、求婚の申し出にやってきた男ペドロ・ダ・シルヴァが財産を持っていないために(嫡出子ながら庶子扱いされていました)、その申し出を拒絶します。

(注5)実は、愛人のペドロ・ダ・シルヴァは、鉄砲で撃たれた後、デイニス神父の修道院にやってきて助けを求めるものの、暫くして息を引き取ります。

(注6)ポルトガルの社交界で色々の噂が飛び交う中には、アルベルトは、ブラジルで奴隷貿易に従事したことで富を築いた、というものがあります。
 アルベルトとブラジルとの関係は深いようで、気に行ったオペラ歌劇団を丸ごと買い取ってブラジルに持って行こうとしたりします。

(注7)アンジェラの夫がある修道院で息を引き取る際には、知らせを受けたデイニス神父もその修道院に駆け付けるのですが、そこで立ち会った修道士の一人が、実は、54年前に別れたデイニス神父の父親だったのです。



 彼は、友人付き合いをしていた伯爵の夫人を愛してしまい、伯爵が留守をした隙に、夫人と一緒に駆け落ちをして、最後はベネチアまで辿りつき、そこで生まれたのがデイニス神父。
 ただ、夫人は体質のせいでデイニス神父を生むのと引き換えに死んでしまいます。
 そこで、彼の方は修道院に入ることにし、デイニス神父をローマにいた従弟に預けます。
 その次に預けられたモンフォール家では、その家のブノワと兄弟同然に育てられます(なお、ブノワの娘がエリーズだとされています)。
 その後様々な経緯があって、神父になっているというわけです。

(注8)映画の節目では、人形劇の舞台が映し出されます。
 この舞台は、小さく折り畳んで鞄の中に入れることができ、ペドロがあちこち放浪しているときも、いつもそばに持ち歩いているようです。
 ただ、不思議なのは、それを操る人などいないのに自然に動き出しますし、また背景に人の顔が現れたりするのです(鏡になっていて、舞台を見ている人の顔が映るのかもしれません)。

(注9)驚いたことに、大富豪のアルベルトは、この愛人・エウジェニアと結婚するのです。

(注10)その後ポルトガルでコレラが流行すると、彼女はそれに罹って死んでしまい共同墓地に葬られます。その跡を探しにペドロが歩いていると、気が触れて盲目となって乞食に落ちぶれたアンジェラの父親のモンテゼロス侯爵に出会います。

(注11)エリーズは、一週間続けてアルベルトの元にやってきて、「本気になったから、金は返す」と言ったとのこと。

(注12)エリーズがアルベルトも元に送り込んだ刺客の中には、彼女の双子の弟まで入っていて、これは事故に近いのですが、エリーズの弟はアルベルトに殺されてしまうのです。そのことも、エリーズの復讐心を一層燃え立たせています。



★★★★☆



象のロケット:ミステリーズ 運命のリスボン
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最終目的地

2012年10月26日 | 洋画(12年)
 『最終目的地』をシネマート新宿で見ました。

(1)『眺めのいい部屋』(1986年)とか『ハワーズ・エンド』(1992年)を製作したジェームズ・アイヴォリー監督の作品であり、また真田広之が出演することもあって、映画館に行ってみました。

 物語は、アメリカの大学で文学を学んでいる若いオマーオマー・メトワリー)が、わずか1冊の著作を残して自殺してしまったウルグアイの小説家ユルス(映像は一度も出てきません)の伝記を書こうとして、遺族の公認を獲得すべく南米に飛びます。
 ただ、小説家の住んでいた屋敷には、今では、小説家の兄アダムアンソニー・ホプキンス)やその同性愛の愛人ピート真田広之)、さらには小説家の正妻キャロラインローラ・リニー)、そして小説家の愛人アーデンシャルロット・ゲンスブール)の女まで同居しているのです。
 そんな中にアポも取らずにいきなり飛びこんだオマーは、伝記を書くことの許可を得ようとするものの、小説家の妻キャロラインが頑なに拒否し続けます。
 オマーは、許可が得られないとすべてがパーになってしまうため頑張るところ(注1)、さあいったいどうなるでしょうか、……?

 かなり複雑なシチュエーションの上に、さらにオマーの恋人ディアドラアレクサンドラ・マリア・ララ)まで南米にやってきて一層混乱が増したりして、なかなか興味深い文芸作品でした。

 小説家の兄の役を演じるアンソニー・ホプキンスは、『羊たちの沈黙』(1991年)とか『ハワーズ・エンド』などでしか見ておりませんが、70歳を超えてもその存在感に陰りはみられません(注2)。



 その愛人役の真田広之も、最近では『上海の伯爵夫人』(2005年)で見たくらいですが、がっしりとした体つきもあって、他の俳優に少しも引けを取らない演技を見せています。

 キャロラインを演じるローラ・リニーは、『イカとクジラ』(2005年)で見ましたが、本作でもうかがえるようにインテリ女性の役柄に向いているような感じです。



 アーデン役のシャルロット・ゲンスブールは、『メランコリア』での演技が印象に残っていますが、意志の強い女に支配される女という役柄にうってつけなのかもしれません(『メランコリア』の場合は、奔放な主人公ジャスティンの姉クレアの役でした)。



(2)オマーが出現するまでの小説家ユルスの家の中は、その死後、かなりの緊張を孕んでいるにせよ、一応は平静に毎日の生活が営まれてきたようです。

 アダムは、ピートと25年もの間一緒に生活してきました(注3)。ただ、いつまでも彼を自分のもとに縛りつけていたらその人生がダメになってしまうと考え、自分が年老いてしまった今こそ、彼に資金を与えて自立してもらいたいと考えています。
 キャロラインは、教養豊かな女性で、日頃から、絵を描いたりレコードでオペラを聴いたりして暮らしています。ですが、こんな田舎ではなく文化的なものに溢れる大都市で生活したいと考えています。
 アーデンも、ユルスとの間にできたポーシャという娘がいることでもあり、物静かに暮らしています。でも、キャロラインの尻に敷かれるような生活からなんとか脱却したいと考えているようです(注4)。

 そんな状況の中に、オマーがいきなり何の前触れもなしに登場するのです(注5)。



 そのことによって、それまで皆が保ってきた状況が徐々に変化し出します(注6)。

 オマーがアダムに伝記のことを話したところ、直ちにアダムは賛成し、他の2人の説得にも協力しようと言い出しますが、交換条件を持ち出します(注7)。
 また、最初は反対していたアーデンも、次第に賛成してくれます。ただ、その背景には、互いに相手に好意を抱いてしまったことがあるようです(注8)。
 さらに、なかなか認めようとしなかったキャロラインは、アダムの説得が功を奏したのか、結局は賛成してくれます。

 そうした経緯があったあと、最終的には、ピートはこの家の農園の三分の一を譲り受けて経営することとなり(無論、アダムはこの家に残っています)、キャロラインはニューヨークに移り住み(注9)、そしてアーデンは、オマーと結婚することになりウルグアイで生活することになります。

 こうしてみると、この映画は、飛躍し過ぎでお叱りを受けそうですが、内生変数(GDPや物価水準など)の間で一定の均衡状態にあった経済モデルが、ある外生変数(為替相場や技術革新など)の変化によって動かされて、別の均衡状態に至るという、いわば“経済動学”的なシチュエーションを実に的確に描き出したものと言えるかもしれません(注10)。

(3)渡まち子氏は、「新しい何かを手に入れるためには、今持っている古い何かを捨てねばならない。互いに惹かれあうアーデンとオマーだけでなく、誰もが自分の居場所をみつけるラストには、愛憎入り乱れる人間関係の不可思議と共に、柔らかな希望も。人生の機微を知る大人のための物語だ」として65点を付けています。



(注1)よくは分からないのですが、大学院の博士課程にいるオマーは(大学の講師でもあるようですが)、ユルスの伝記を書いて出版するということで研究奨励金を大学より取得していたのですが(当然、遺族の承認は得ているとして)、遺族の承認が得られなければ、偽りの申請を提出したことになってしまい、研究奨励金は返還しなくてはならず、さらには嘘をついたということで大学に残ることもできなくなってしまうのでしょう。

(注2)映画の製作年は2008年とされていて、アンソニー・ホプキンスは、その生年が1937年ですから、70歳を越えたばかりだったのかもしれません。

(注3)映画では、ピートは徳之島生まれで、その後14歳で英国に渡り、そこでアダムと出会ったとされています(現在45歳くらい)。
 なお、原作(ピーター・キャメロン作)ではピートは28歳で、アダムと出会ったのが20歳の時とされているようです。
 あるいは、1960年生まれの真田広之にあわせて、映画では、25年もの長い間アダムと一緒の生活を営んでいたことにしたのかもしれません(映画製作時においては、真田は48歳くらい)。

(注4)映画では、アデーンは、18歳の時に、ユルスによってスペインからウルグアイに連れてこられたようです(すでに両親は飛行機事故で死亡しているとのこと)。
 なお、原作ではアーデンは、元々が米国生まれとされているようで、とすれば、オマーがユルスの家で最初に出会った時に、簡単に話が通じたのも自然なことになります。

(注5)といっても、少し前にオマーは、ユルスの遺族(アダムたち)に手紙を書いて、伝記を書くことの許可を求めているのですが(その手紙に対しては、拒否の返事を遺族はオマーに送っています。それで、今回、オマーが直接交渉にやってきたというわけです←そのこと自体は、ディアトラが言い出したことながら)。

(注6)上記「注1」で触れたように、ユルスの伝記が書けなければ、オマーは、すべてを失ってこの先もディアドラに頼っていかなくてはならなくなってしまい(ディアドラは、普通でなくてもかまわないと言うのですが)、それが耐えられないのだと思われます。
 ですから、その登場で彼らの生活を変えてしまうオマーですが、彼こそが現在の生活を変えたいと一番願っている感じなのです。一緒に行こうかというディアドラの申し出を断って独りでウルグアイにやってきたのも、一人立ちしたいという強い決意からです。

(注7)すなわち、アダムは、母とナチス・ドイツからウルグアイに逃げる時に持ち出したたくさんの宝石を、オマーに米国で売り捌いてほしいと、オマーに要求します(それで得た資金を、ピートの自立のために使いたいからと言って)。
 オマーは承諾したものの、その話を聞いたディアドラは、それは密輸に相当するのだから認めるべきではないと主張し、アダムにもそのように言ってしまいます。
 それに、ピートも、そんな資金よりも、この家に付いている農園の一部を譲ってもらいたいと言い出します。

(注8)意志の強いディアドラの呪縛から逃れて独り立ちしたいと思っていたオマーと、ユルスという後ろ盾を失って心が弱くなっていたアーデンとが、ポーシャを介して最初に出会った時に、なんとなく互いに好意を感じてしまった様子です。
 そのことを見てとったキャロラインが暗にアーデンを詰ると、逆にアーデンは、表向きオマーには「愛していない」と言いながらも、内心の火は大きくなっていたのかもしれません。
 二度目に、これまた突然オマーがウルグアイに現れたとき、最初はオマーを追い返すものの、アダムに促されてもう一度オマーがやってくると、心から彼を受け入れるのでした。

(注9)マドリードのオペラ劇場で、オマーとは別の恋人を連れたディアドラは、彼女が知らない男性と一緒に観劇に来ているキャロラインに出会います。

(注10)本作になぞらえてみるなら、内生変数(アダム、ピート、キャロライン、アーデン)の間で一定の均衡状態(ユルスの家での生活)にあった経済モデルが、ある外生変数の変化(オマーの登場)によって動かされて、別の均衡状態(異なる生活環境:最終目的地!)に至る、というように考えてみてはどうでしょうか。



★★★★☆




象のロケット:最終目的地
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中島みゆき 歌姫 

2012年10月21日 | 邦画(12年)
 『中島みゆき 歌姫 劇場版』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

 中島みゆきのことですから、映画にしてもなかなかチケットが取りにくいのではと思っていましたが(2週間限定公開でもあり)、実際には予約は至極簡単で、当日も半分くらいの入りだったので、意外でした。
 でも、いくら何でもご本人がもう60歳ですから(注1)、最早そんなに入りを見込めなくなったのかもしれませんし、料金も一律2,000円と高目なこともあるでしょう。
 それに、実際の映像は、2004年にロスのソニースタジオで製作されたものが中心で(注2)、それにいくつかのPVが添えられているだけですから(注3)、中島みゆきファンには新鮮味が乏しいとみられたのかもしれません(注4)。
 特に、PVの方は、大きな画面にすると粒子の粗さが目立ってしまい、また映像自体もありきたりな感じのもので、なくもがなと思いました。
 とはいえ、本作のメインとなるロスでのライヴ映像の方は、大画面でも映りはシャープであり、かつ大音量ですから、さすがは中島みゆきと至極感動してしまいました(注5)。




(注1)とはいえ、最近でもドラマとかラジオに出演したり(こんな映像もあります)、またツアーも行なわれるようで、元気一杯です(24日には、ニューアルバム『常夜灯』もリリースされます)!

(注2)「中島みゆきライヴ! Live at Sony Pictures Studios in L.A.」としてDVDが販売されています!

(注3)YouTubeで見ることができるPVもあります(「見返り美人」、「空と君のあいだに」、「愛だけを残せ」、「一期一会」、「恩知らず」)。

(注4)ただ、最後のオマケとして、最新のライヴ映像〔2011年東京国際フォーラムにおける「時代-ライヴ2010~11-」〕が付けられていまて、これは拾い物です。
 なお、映画の中で歌われた歌はこのサイトに記載されています。

(注5)特に、大好きな「歌姫」は8分以上もあり素晴らしいものがあります(歌だけは、このサイトで聴くことができます)。



★★★☆☆

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わたしたちの宣戦布告

2012年10月19日 | 洋画(12年)
 『わたしたちの宣戦布告』渋谷のル・シネマで見ました。

(1)予告編を見て何だか面白そうな作品だなという気がして、映画館に出かけました。

 物語の舞台は10年ほど前のパリ(注1)。
 居酒屋のパーティーで、男が放り投げたキャンディーを女が口で受け止めたことで知り合ったジュリエットヴァレリー・ドンゼッリ)とロメオジェレミー・エルカイム)の二人(注2)。
 その後関係はどんどん進んで、自転車に乗って市内を散策したり、公園でふざけ合ったりします。そして、子供のアダムが生まれます。



 ところが、アダムは泣いてばかりいるのです。
 医者に診てもらうと、泣くとすぐにミルクを与えるからいけないのだと言われます(注3)。
 それで、規則的なやり方をするようになると、アダムの泣く回数は減りますが、でも今度は、ミルクを飲むと吐いてしまうことが頻繁に。
 父親ロメオは、アダムがいつまでたってもうまく歩けないことや頭が傾いていることなども挙げて心配し出し、再度医者に診てもらいますが、顔面非対称(アダムの右目が動かない)だから専門医に診てもらう必要があるとの診断です。
 CTスキャンで診てもらった結果、脳に腫瘍があることが判明(注4)。
 果たして、アダムの腫瘍は治るのでしょうか、ロメオとジュリエットとの関係はどうなるのでしょうか、……?

 監督・主演(母親のジュリエット役)のヴァレリー・ドンゼッリと、相手の父親のロメオ役ジェレミー・エルカイムとが、実生活でパートナーであった時に実際に起きたことに基づいて作られた映画とのことながら(注5)、こんなことが現実に起きたら、本当に大変なことだとは思います。
 でも、だからといって、それだけでは映画として単調でつまらないものになってしまうでしょう(注6)。クラシックからポピュラーまで様々な音楽を使うことによって映画に目覚ましく変化がつけられています。
 果てはロメオとジュリエットがデュエットを披露する場面(アダムの腫瘍のことが分かった後で!)まで映し出されます。加えて、アダムの病状を聞く家族や友人たちの仕草も酷く大げさだったりして(注7)、もう少しで“ミュージカル・夫婦病院奮闘記”になるところでした!



 といって、だから映画の出来が悪いと言いたいわけではありません。むしろ、こうやって様々な創意工夫が凝らされているからこそ、最後まで面白く見続けることができます。

(2)ただ本作は、アダムの治療の有様を描くことが主眼ではなく、それを巡って展開するロメオとジュリエットとの関係、そしてそれぞれの家族や友人たちとの関係を描くことが大きな狙いではないか、と思われます。
 ですが、アダムの腫瘍は二人で乗り切るものの、その後二人は実生活においてはパートナーを解消してしまうところ、そのことについて映画では最後にナレーションでごく簡単に触れられるに過ぎません。
 あるいは、パートナーの解消とアダムの病気とは直接関係がないのかもしれません。
 だったら、ナレーションにせよ、そんなことに触れなければ、本作はラストのシーンで物語として完結したのではないでしょうか。
 ですが、ナレーションにせよ触れたということは、パートナーの解消がアダムの治療と何らかの関係があるのではないかと思わせます。
 さらに、アダムの治療に際して危機に陥った二人の関係が、ジュリエットの言葉(「なぜ、よりにもよって僕らの子が」と言うロメオに対して、ジュリエットは「私たちなら乗り越えられるからよ」と答え、ロメオも「勇気が出たよ」と応じます)によって救われたというのであれば、その後の危機においてもその時の経験が生かされなかったのでしょうか?生かされなかったというなら、今こうした映画を二人で製作することにどんな意味があるのでしょう?
 むしろ、パートナーの解消に至ったことに焦点を当てれば、そこから逆に、アダムの病気治療に関しても違った観点から切り込むことができたかもしれません。

 そして、その部分が明示的に描かれないものですから、本作は、一つの感動的な物語、でもどうも一本調子の物語(アダムを病気から救い出すために、家族・友人を含めて皆が一致団結する)に仕上がってしまったような印象を受けます。

 さらに言うと(かなり言い過ぎではありますが)、こうした映画の作り方をすると、小児ガンというのはそんなに大変なことではないんだ、というような印象を与えかねないのではないでしょうか(注8)?
そして、なんだかフランスの医療体制の質の高さを宣伝しているような感じも受けてしまうところです(注9)。

(3)映画評論家の村山匡一郎氏は、「本作の物語とテーマは深刻かつ痛切である。だが、描かれた世界は重くも暗くもなく、かといって明るく喜劇的でもない。不思議な味わいがある映画である」、「自伝的色彩が濃いとはいえ、いかなる運命にも立ち向かう主人公たちの姿が清々しい」と述べています。



(注1)アダムの病気の真相がまだ分かる前のことですが、ロメオとジュリエットが見ているTVに、イラクの首都の空爆の様子が映し出され、ジュリエットが「ついに宣戦布告ね」と言います。2003年のイラク戦争の始まりでしょう。

(注2)お互いの名前が分かると、ロメオは、「僕らも悲劇の恋人に?」などと言います。その後の思わぬ展開を予測するかの如くに。

(注3)ミルクを与え過ぎ、絶えず満腹状態では吐き気を感じてしまう、と医者に説明されます。

(注4)最初はCTスキャンによる検査で、頭の後部に腫瘍があると判明、さらにMRIにより精密検査をして、早期の種々が必要だとされます(アダムは18ヶ月目だとされています)。

(注5)脚本は、ヴァレリー・ドンゼッリとジェレミー・エルカイムとの共同で作られています。

(注6)劇場用パンフレットに掲載のインタビューにおいて、監督のヴァレリー・ドンゼッリは、例えば、「主人公たちの名前を「ロメオとジュリエット」にしよう、というアイデアを思いついたとき、現実とフィクションの距離を見つけることができました」などと述べています。

(注7)そのときに流れるのがヴィヴァルディの「四季」。

(注8)実際のところ、アダムの病気はラブライド腫瘍とされ、映画の中では、進行が早い腫瘍で、回復の可能性がわずか10%と説明されているのです。
 また、映画では、無菌室に出入りするロメオやジュリエットの様子が描かれて、それはそれで大変なことと派思います。ただ、実際には、アダムに対しては、様々の化学療法や放射線療法が施されたりしているはずで、おそらくは何らかの副作用があるのではないかと推測されます。
 とはいえ、映画のラストに登場してアダムを演じる少年は、ヴァレリー・ドンゼッリらの実子ながら、元気に走り回ったりしていますから、奇跡の中の奇跡が本当に起きたのでしょう!

(注9)フランスで一番の権威がある医師の予約がなんだか簡単に取れ、そしてその先生の手にかかると、困難な手術(9時間!)も上手くいってしまうのです。勿論、他方で、アダムの治療代を支払うために、ジュリエットたちが住む家を売却しなくてはならなかった事情も触れられてはいますが。



★★★☆☆



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新しい靴を買わなくちゃ

2012年10月17日 | 邦画(12年)
 『新しい靴を買わなくちゃ』を渋谷TOEIで見ました。

(1)あの中山美穂が主演の映画と聞いて一抹の不安があったのですが、TVドラマで著名な北川悦吏子氏が監督・脚本、人気の向井理も出演するし、坂本龍一氏が音楽監督ならば、マアいいかもしれないと映画館に行ってみました。

 物語の舞台は、例によって“花のパリ”!
 妹・スズメ桐谷美玲)に無理やり連れてこられた写真家・セン向井理)が、妹とパリに到着します(注1)。
 空港からセーヌ川の川岸にやってきて、タクシーを降りたところで、センは妹においてきぼりを食わされてしまいます。
 泊まるホテルの名前も分からずに途方に暮れたセンは、ちょっとした偶然で、パリに住んでいて日本人向けフリーペーパーの記者をしているアオイ中山美穂)と知り合い、ホテルに連れて行ってもらっただけでなく、食事をしたりお酒を飲んだりし、結局は彼女の家に泊まることに(でも深い関係にはなりません)。
 一方の妹は、一人でパリに修行に来ている恋人の画家志望・カンゴ綾野剛)の家に押しかけます。
 アオイとセンとの関係、それにスズメとカンゴとの関係はいったいどうなるでしょうか、……?

 登場人物たちが皆これから先のことにつき何かしらの問題を抱えているところ(注2)、パリでの3日間でつながりを持つことによって、それをなんとか乗り超えていこうとする気持ちになっていく様子が描かれていて、場所とか出演俳優とかからすれば、まずはこんなところかなと思いました。

 中山美穂は、DVDで『サヨナライツカ』を見たくらいながら、在住10年ということで、さすがにパリに溶け込んでいる雰囲気です。



 向井理は、『ハナミズキ』でも、主人公・紗枝(新垣結衣)の大学で先輩のカメラマン・北見純一を演じていたところ(その映画では、パリではなくニューヨーク在住という設定ですが!)、本作を見てもカメラマン役にはうってつけの感じです(むろん、被写体としての方がズッと適役でしょうが!)。

 桐谷美玲は、恋人とはいえ修行中の彼氏のところにいきなり押しかけて結婚を迫る本作の役柄は、『荒川アンダーザブリッジ』における金星から来たニノとなんとなく似ている感じを受けました。



 綾野剛は、『ヘルタースケルター』で羽田美知子(寺島しのぶ)の恋人役とか『るろうに剣心』の外印役とかでこのところよく見かけるところ(注3)、どんな役でも的確にこなしてしまう演技力を持った俳優だなと思います。

(2)とはいえ、いろいろな疑問点も浮かんできます。
 舞台がパリにしても、どうして、セーヌ川、エッフェル塔、ノートルダム寺院など、格別にありきたりの名所の画像ばかりが映し出されるのでしょう。
 また、主人公たちの職業が、これまたジャーナリストとか写真家というように、今流行のものばかり(カンゴは画家を目指しています)。
 それに、アオイとセン、スズメとカンゴという二つの関係が、映画の中で何も絡み合わないのはどうしたことでしょう。

 でも、そのくらいのことならば、こうした作品を見ようとした段階である程度予測が付いたことですから、今更論ってみても仕方がないでしょうし、また、製作者側でも十分に承知しているはずと思われます。
 ただ、そんな点はあえて目を瞑ってまで、どうしてこうした作品を製作しようとしたのか、なかなか意図がつかみ辛い感じです。

 あるいは、細部に拘ってみたかったのかもしれません。
 アオイは、フリーペーパーに掲載する記事のために、パン屋とかお菓子屋に行って“イースター・エッグ”の取材をします。日本では、イースターの行事は一般化されていませんから、こうした場面はなかなか興味深いものがあります(注4)。
 また、アオイが住んでいる家は、やや広めの1DKといった感じのごく普通のアパルタメントで、周囲もごく普通の人が住んでいる感じです。こんな感じの住居は、従来余り映し出されなかったのではないでしょうか?
 さらに、アオイの友人のフランス人ジョアンヌアマンダ・プラマー)が上の階に住んでいるところ、彼女はドレスデザイナーとして、地下に部屋を借りて作業しています(注5)。
 センは、アオイの家に泊まった翌日の朝は、アオイが起きる前に、拘りのスクランブルエッグを作ったりしていますが、キッチンでの場面がじっくりと映し出されています(注6)。
 それに、日本に戻ったセンがアオイに贈った靴はどうでしょう(注7)。劇場用パンフレットに掲載の記事(注8)によれば、ロジェ・ヴィヴィエの靴だとか。
 もっと言えば、カンゴのアトリエも、様々なものが散りばめられているようです。なかでも目立つのは、壁にかけられた大きな絵。劇場用パンフレットのProduction Noteによれば、すべてプロデューサーの岩井俊二氏の手になるとのこと(注9)。

 もしかしたら、坂本龍一氏が音楽監督ですし、さらには何度もモーツァルトの「メヌエットとトリオ」(メヌエット ト長調K-1e)が登場したりしますから、音楽映画と見ることができるかもしれません。
 特に、モーツアルトの曲は、アオイの子供・シオンが弾いていたもので、この曲を弾くと、シオンが拾ってきた猫が現れたのに、今ではその猫も見かけなくなったようです(注10)。

 そんなこんなで、この映画は、歌こそ出てきませんが、ある意味でオペラのような作品と言ってみたらどうでしょうか。オペラの書割のような背景の中で、心の動きは様々の道具を使ったりしながら二組の恋愛劇が描き出されているのでは、と思えば、なんとか最後まで退屈しないで見ることができるように思われます。

(2)渡まち子氏は、「パリで出会った男女の3日間のラブストーリー「新しい靴を買わなくちゃ」。魅力はパリ!…というより、それしかない」として45点をつけています。



(注1)映画は、最初、パリの街を写した写真が何枚も映し出され(センの写した写真ということでしょうか)、それが空港で手荷物を受け取って外に出る写真につながって、次いでタクシーの中のセンとスズメの場面となりますが、ここらあたりの描き方はまずまずセンスが溢れているのではと思いました。

(注2)主人公アオイは、子供シオンを5歳で失ってしまったという心の傷を抱えており、センは、現在のカメラマンの仕事に行き詰まりを覚えていますし〔写真集を出したり個展を開きたいにもかかわらず、単に顔の修正のうまいカメラマンということになってしまっています(「“高須クリニック”になってしまった」!)〕、カンゴは画家としてはまだ独り立ちできずに修行中、スズメはカンゴと一緒になりたいと一途に思っています。

(注3)そういえば、『はさみ』で弥生(徳永えり)の彼氏役もしていました。

(注4)“イースター・エッグ”は隠されて、イースターの朝に子供たちが探すことになっているようですが、もしかしたら、この場面には、アオイの中で隠されている思いを探して明るみに出す、といったような意味が込められているのではないでしょうか?

(注5)ジョアンナは、センに、アオイが自分の男性を紹介したのは初めてのことであること、さらに5歳の子供を亡くしている女性であることを話します
 勿論、あとで、アオイは自分で子供のことなどをセンに話します。その話によれば、アオイは、美大卒、画廊に努めた関係でパリに来てフランス人画家と結婚したにもかかわらず、すぐに離婚。ただ、その後お腹に子供がいることが分かり出産。でも病弱で5歳の時に亡くなってしまった、とのことです。

(注6)ジョアンナの家で行われるイースターのパーティーのために、アオイとセンとジョアンナでキッシュを作ったりもします(結局、そのパーティーで出れなかった2人は、届けてもらったキッシュをアオイの家で食べることになります)。
 なお、センは、アオイの家でコーヒーを入れますが、カリタ式でお湯を注ぐ際にコツ(最初に、少しお湯を注いで暫く蒸らし、その後で本格的にお湯を注ぐといったようなこと)をアオイに伝授します。アルバイトで喫茶店にいた時に習得したとのことですが、その程度のことなら、今や一般家庭でも普通に行われているのではないでしょうか?

(注7)センから送られた靴をアオイが履いてみたらピッタリ!いつの間にサイズを図ったのでしょう、でもそこにセンの気持ちが託されているように思われます。

(注8)北川悦吏子氏とエル・ジャポン編集長の塚本香氏の対談「新しい靴を見つけるまで」。

(注9)このところ、『ライク・サムワン・イン・ラブ』の矢崎千代二の『教鵡』とか、『テイク・ディス・ワルツ』で映し出されるバリント・サコ(Balint Zsako)の絵など、絵画作品が一定の役割を演じている映画を見ることが多くなっている感じです。
 本作でも、壁にかかっているカンゴの絵を見て、スズメは「どうしてこんな絵を描くの?」と尋ねたりします。無論、カンゴは何も答えませんが、こんなところにも、スズメとカンゴの心に距離が出来てしまったことがうかがわれます。

(注10)これも、アオイの心の空洞を表しているように思われます。




★★★☆☆



象のロケット:新しい靴を買わなくちゃ
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ライク・サムワン・イン・ラブ

2012年10月11日 | 邦画(12年)
 『ライク・サムワン・イン・ラブ』をユーロスペースで見ました。

(1)イランのアッバス・キアロスタミ氏による作品(監督・脚本)でありながら日本語が話される映画として製作され(日仏共同制作)、それに加瀬亮も出演していると聞いて映画館に出向きました。

 映画の冒頭では、カフェに若い男女が集まって話しているところ、その内の一人の若い女性・明子高梨臨)に焦点が当てられます。



 彼女は、携帯電話で、今日会えない理由をくどくどと話していますが(注1)、相手〔ノリアキ加瀬亮)と思われます〕はそれを受け付けないようです。
 そこへ、中年過ぎの男性・ヒロシでんでん)が現れ、「俺の頼みをきいてくれ」と、明子をある人物のもとに送り込もうとするものの、彼女はノリアキに言っていた理由を挙げて、「今日は無理」と言います。
 にもかかわらず、ヒロシは無理やり明子をタクシーに乗せて、その人物のもとに向かわせます(注2)。
 明子を呼んでいた人物・タカシ奥野匡)は、84歳になる老人で、定年まで大学で社会学を教えていたものの、退職後は翻訳や講演をしているとのこと。



 明子はタカシの部屋で一晩過ごしたあと(注3)、たかしの運転する車で大学に向かいます。
 そうしたところ、大学の入口で待ち構えていたのがノリアキ。
 明子はなんとかノリアキを振り切って、テストを受けに大学の中に入ります。
 後に残されたノリアキは、今度は、タバコの火を借りようとして、タカシの車に入り込みます。
 さあ、明子、ノリアキ、タカシの関係はどうなることでしょう、……?

 最初のうち明子がいったいどういう女性なのか把握しがたいままに物語が進行し、また日本で撮影されていながらもシチュエーションが日本離れしているようにも思われ、さらに何も解決しないところで映画が終わってしまうのですが、にもかかわらず、かえって観客を色々な解釈に誘っていて、大層興味をひかれました。

 ノリアキに扮する加瀬亮は、最近は米国映画『永遠の僕たち』に出演するなど随分と幅広く活躍していて、かつそれぞれの作品での演技の質も高いものがあるところ、本作においても、中学での自動車整備工という役柄を的確に演じていると思いました。




(2)本作は、前に見たキアロスタミ監督の『トスカーナの贋作』を思い起こさせます。
 その映画では、主人公の英国作家・ジェームズとフランス人の「彼女」との関係がいかようにでも解釈できるように曖昧なものとなっていますが(まるで夫婦のようですが、偽の夫婦のようにも見えます)、本作においても、明子、ノリアキ、タカシの関係がいまいち明確なものとはなりません。むしろ、そうならないように作られていると言えるのかもしれません。

 明子は、どうやらデートクラブに所属する女の子で、でんでんが扮するヒロシがそこを取り仕切っているようです。元教授のタカシたかしは、何かの機会に明子を見染めて、でんでんを通じて彼女を自宅に呼んだのでしょう。
ところが、明子は、タカシの家の中に入るなり、壁に架けられている絵画に注目して、まるでタカシの親類縁者のような口ぶりなのです(注4)。
 また、明子に思いを寄せているノリアキは、明子とデートクラブとの係わりは過去のこととして(注5)、現在は普通の大学生だとみなしている感じです。明子が乗っていた車を運転するタカシが、明子との関係を「おじいさん」だと告げると、疑いもせずにそれを鵜呑みにしてしまうのですから(注6)。
 その後、明子とタカシの関係が祖父-孫といったものでないことがわかったのでしょう、ノリアキは激怒し、明子が逃げ込んだ先のタカシの家まで押しかけて、タカシの車のガラスを打ち破るは、部屋の窓ガラスは破壊するはなどの乱暴を働くのですが、これも明子が単純な大学生と信じていたからこその行為のように思われます。
 しかしながら、車の中で、タカシが「今日のテストはどうだった、どんな問題が出たの?」と尋ねたのに対し、明子は、「最初に進化論を提唱したのはデュルケームだよね」などと、小学生でも知っている問題について酷く頓珍漢なことを言うのですから(注7)、その大学生ぶりも甚だ怪しいと思えてきます。

 一時は、タカシ-明子が「祖父-孫」の関係、「ノリアキ-明子」が普通の恋人関係(注8)、「タカシ-ノリアキ」が近い将来の縁戚関係という具合になりかけていたものの、そうした偽物の関係(贋作!)は、やはり長続きはせずに簡単に瓦解してしまって後には何も残らない、といった物語のように思えました。

(3)映画評論家の小梶勝男氏は、読売新聞の映画評で、「今年のカンヌ国際映画祭に出品され、キアロスタミは会見で「人生と同じように、映画に始まりも終わりもない」と語った。これはまさに、そんな作品だ」などと述べています。



(注1)明日のテストのために勉強しなくてはならない(今日も寝ていない)とか、今、田舎からおばあちゃんが上京していて相手をしなくてはいけない、などといった理由を電話で相手に話しています。

(注2)一見すると、カフェは新宿にあり、目的地は横浜のように思われます。
 とはいえ、そうはっきりと決められないように撮影されています。
 横浜方面に向かう前に、新宿駅東口を、明子を乗せたタクシーが何度か回るのですが(車窓から見える光景にビックカメラなどが入ってきます)、その中心に鎧兜を付けた銅像が置かれていて、その台座のところに明子のおばあちゃんが立っているのです。もとより新宿駅にそんな銅像など設置されていませんから、場所は架空ということになるでしょう(この記事によれば、銅像は、静岡駅前にある家康公の像とのこと)。
 さらに、高速から降りる際にタクシーが支払う料金が、とても東京から横浜までの金額とは思えないほどの安さです。
 監督は、具体的な場所の特定を、意識的に避けようとしているのでしょう(いわば“偽の場所”を作り出しているのでしょう!)。

(注3)タカシは、明子と、ワインを飲み食事をしつつ話をしようと考えていたようですが、明子の方は、「眠い」と言って先にベッドに入って寝てしまいます。

(注4)壁に架かっているのは矢崎千代二の『教鵡』。



 映画の中で、タカシは、「この絵は、1900年に描かれたもので、オウムに言葉を教えているところ。日本の題材を使って油絵を描いたことで有名」と明子に説明します。
 これに対して、明子は、「この絵好きなんです。14歳ごろ、この絵をもらったことがあるんです」とか、「小さい頃、おばあちゃんに、この絵の人にお前は似ている、と言われた」などと、不思議なことをタカシに話します。
 するとタカシは、「髪の毛をお団子にすれば似ている」などと答えたりするのです。

(注5)ノリアキはタカシに、「明子が東京に出てきたときにデートクラブに所属したことがあり、この間、職場の仲間が、その時の明子が写っているフーゾクのビラ(贋作?)をこれ見よがしに取り出したので喧嘩になった」などと話しています。
 なお、明子のおばあさんは、明子への電話の中で、しきりとそのフーゾクのビラのことを言っています。明子の電話番号が分かったのも、デートクラブでの同僚なぎさの母親から聞いたのだとおばあさんは言っていますし、あるいはおばあさんは、明子の現在の状況を察知しているのかもしれません。

(注6)ノリアキは、明子からおばあさんが上京していることを聞いていたので、自然とそう思ったのでしょう。ただ、それでもノリアキは、明子が現在もデートクラブを続けていると分かっていれば、タカシのことをまずは「客」と考えるのではないでしょうか?

(注7)もちろん、タカシによって「それはダーウィンだよ」とたしなめられますが、たとえ社会進化論としても、その提唱者はスペンサーでしょう。

(注8)どうも明子はノリアキと分かれたがっていたようですが、逆に、ノリアキは彼女との結婚を切望しており、「彼女は、何があっても何も言わない、だから結婚した方がいい、結婚すれば話し合うから」などとタカシに言います(これに対して、タカシは「結婚しても彼女は何も言わないかもしれない、彼女を好きになるのはいい、でも結婚はしない方がいい」などと答えます)。



★★★★☆




象のロケット:ライク・サムワン・イン・ラブ
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コッホ先生と僕らの革命

2012年10月08日 | 洋画(12年)
 『コッホ先生と僕らの革命』をTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)今月上旬に、サッカーのドイツ代表の中心的な選手でMFのM.バラック氏(36歳)が現役引退を表明しましたが(注1)、本作は、ドイツに初めてサッカーが導入されたときのお話です(事実に基づく物語とされています)。

 映画の舞台は、普仏戦争で勝利した直後のドイツ帝国内のブラウンシュヴァイクに設けられている学校。
 イギリス帰りのコッホダニエル・ブリュール)が(注2)、英語教師として母校に赴任します(注3)。
 それは、進歩的な校長が、実験と称して招聘したものなのです。
 ただ、学校では、戦争に勝利したこともあって、すべてにつきゲルマン精神一点張り。
 そこでコッホは、イギリス流のフェアプレーの精神の大切さを教えるべく、英語の授業を通して、ドイツで初めてサッカーを生徒に教えようとします。



 しかしながら、フランスの次は英国を倒せという雰囲気にドイツ全土が包まれていることを背景に(注4)、そんなことは無駄だと、学校の教師も、またその後援会の会長も反対します(注5)。
 でも、コッホが焦らずに授業に取り入れていくと、はじめは批判的な態度を示していた生徒たちは、その面白さに目覚めていきます。



 コッホは、周囲の根強い反対を乗り越えてどうやってサッカーをドイツに導入することに成功するのでしょうか、……?

 時間の隙間を埋めるために見たに過ぎない作品ですが、コッホ先生に扮するダニエル・ブリュール(注6)や、彼が担当するクラスの生徒を演じる子役たちの熱演によって、まずまず楽しく見ることができました。

(2)とはいえ、随分と型に嵌まった映画だなという印象を持ちました。
 例えば、マルクスの『資本論』が出版されたのが1867年であり、この映画の時代設定がそれに近いせいもあるのでしょうか(わずか7年後の1874年)、資本家対労働者という古典的な階級対立の構造が、大層ストレートな形で映画の中に取り込まれてしまっている感じです。
 すなわち、コッホ先生が受け持つクラスには、とびきりの豪邸に住む、後援会の会長の息子・ハートゥングが入っていて、街の鉄工場で働く母親を持つ同級生・ボーンシュテッドに何かと意地悪をして、学校からの追い出しを図ります。
 その背後には後援会会長の父親がいて、ブルジョア階級の者がプロレタリア階級の者と席を同じくするのは問題だと公言したりするのです。

 そんなことは、街の名士でもある後援会会長の力を持ってすれば、簡単と思えるところ、進歩的な校長の抵抗があって、簡単にはいきません。
 でも、ついにボーンシュテッドは退学処分となってしまいます。でも、それでは階級対立が存続したままで解消されないと製作者側はみたのでしょうか、偶然、コッホ先生の学校にやってきたイギリスの生徒たちとの交流試合で、なぜかサッカーの才能にぬきんでたものを持つボーンシュテッドの活躍によって、ドイツチームは勝利を収めることになるのです。
 そして、その試合を観戦していた街の人々(学校の後援会会長も含まれます)は大喜びし、ボーンシュテッドも一躍人気者となります(注7)。

 これでサッカーはドイツの学校で受け入れられるようになるわけながら、しかし階級対立の現実は、そんな単純なことでおいそれと解消するわけはないでしょう!

(3)渡まち子氏は、「素晴らしい教師よって若者が成長する物語には、新味やひねりはないが、その分、いい意味での安定感がある。最後の最後まで決してあきらめない“ゲルマン魂”の源を見た思いだ」として70点をつけています。



(注1)バラック選手については、例えば、この記事が参考になるでしょう。

(注2)コッホは、兵役に就かずにオックスフォード大学に留学したとされています(父親は、戦争で戦死したようです)。
 劇場用パンフレットによれば、実際のコッホ先生は、イギリス留学などせず、学校ではドイツ語と古典語を教えました。サッカーを教育に導入したのは、軍医だった義父の影響によるところが大きいとされています(義父は、イギリスを訪れてサッカーを知ったようです)。

(注3)コッホが担当するのは、第4学年とされています(日本の中学校の何年生に相当するのでしょうか)。

(注4)学校では、イギリスについて、野蛮な国で人は一生肉を食べる、奴隷を飼っている、女帝である、などと教えられています。

(注5)生徒も、英語を教えようとするコッホに対して、「英語の発音より武器の方が重要だ」などと反抗的態度を取ります。

(注6)ダニエル・ブリュールは『サルバドールの朝』で見ましたが、同作品については、『ブラック・ブレッド』についてのエントリの(3)をご覧ください。

(注7)その試合は、丁度、帝国教育庁から派遣された視察団も見学したところ、映画ではその経緯が説明されてはいるものの、いまいちピンときません。
 当初はサッカー反対派だったにもかかわらず心を入れ替えたハートゥングが、「帝国学校条例」を持ち出して、生徒たちとなにやら画策するのですが、条例の規定がどんなものであり、生徒たちが何を企んだのかが描かれていないため、どうしてわざわざ視察団が学校に派遣されることになるのか、よく理解できませんでした。



★★★☆☆



象のロケット:コッホ先生と僕らの革命
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ドビュッシー展

2012年10月06日 | 美術(12年)
 ドビュッシー生誕150年を記念してブリヂストン美術館で開催されている『ドビュッシー 音楽と美術 印象派と象徴派のあいだで』(~10月14日)を見てきました。

 なんだか本ブログのラインに沿った企画だなと思って、随分と期待して美術館に出かけたところですが、展示内容自体はそれほどでもありませんでした。

 確かに、ドビュッシーを巡る様々の絵画がよく集められていると思います。
 例えば、マルセル・バシェクロード・ドビュッシーの肖像」(1885年)。



 ただ、この展覧会に集められている絵画のかなりのものは、ドビュッシーに影響を与えたと考えられる作品(絵画⇒ドビュッシー)と言えそうです。
 すなわち、同展覧会を案内する公式HPに掲載されている記事には、ドビュッシーは「ドガ、ルノワール、モネ、ヴュイヤール、カミーユ・クローデル、モーリス・ドニ、ボナール、ルドンら印象派やポスト印象派、象徴派の美術家たちの作品に多大な関心を寄せるようになったのです。彼は、しばしばそれらからインスピレーションを得て、自らの創造活動に反映させました」とあり(注1)、展覧会では、それらの画家の作品が多数並べられています。
 なかでも、「第9章 霊感源としての自然」の部屋では、やっぱり印象派の絵画が目立ちます。
 例えば、ブリヂストン美術館所蔵のクロード・モネの「睡蓮」。



 しかしながら、ピアニストで文筆家の青柳いずみこ氏は、つとに、『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』(1997年)において、ドビュッシーは「印象派の画家たちがなしたのと同じ種類の革命を、作曲技法上にもたらしたといえる。しかし、技法上の類似と美学的な意味は違う。少なくとも美学的には、ドビュッシーは印象派の影響を何も受けていない」と明快に述べているところです(中公文庫版P.126)。

 また、同じ青柳いずみこ氏による最近著『ドビュッシーとの散歩』(中央公論新社 2012.9)にも、「ドビュッシーは、モネなど印象派の画家たちのように、目に見えたものをそのまま楽譜に写しとろうとした人ではなかった」と述べられています(P.208)。

 もうここらへんで、ドビュッシーとモネの「睡蓮」などを関係づけることは止めにしたらどうでしょうか?

 そして、ここまでくればさらに、逆方向の絵画、すなわち、ドビュッシーの作曲した作品にインスピレーションを得て描かれた絵画(ドビュッシー⇒絵画)というものも考えられるのではないでしょうか?

 ですが、今回の展覧会においてそうした方向性に関連した絵画があるとしたら、せいぜい次のパウル・クレーの「」(1932年)くらいでしょう。
 ブリヂストン美術館のHPに掲載されている記事によれば、クレーは、同作品において、「「ポリフォニー」という音楽の方法論を絵画の世界に取り入れ」たとのこと。
 ただ、残念ながら具体的な曲との繋がりは判然としておりませんが(注2)。




 なお、上で取り上げた青柳いずみこ氏の『ドビュッシーとの散歩』には、実に楽しいエッセイが沢山掲載されているところ、例えば、「21 カノープ」では、ドビュッシーの「前奏曲集第2巻」の第10曲「カノープ」と、「エドガー・アラン・ポーにもとづくドビュッシーの未完のオペラ『アッシャー家の崩壊』(1908~17)」とのつながりが指摘されていて興味深いものがあります(注3)。
 すなわち、同曲では、「全音音階の響きのなかで、嬰ハ音が何度もリピートされ、半音階的に動く。一オクターヴ上がって、もう一度同じことをくり返」しますが、「この連打音のモティーフ」は、「未完のオペラ『アッシャー家の崩壊』からの転用」なのです(P.113)(注4)。
 そんなことが分かって、これまた青柳いずみこ氏が最近出したCDアルバム『ドビュッシーの神秘』の11番目に収められている「カノープ(エジプトの壺)」を聴くと、その面白さが一段と増すように感じられます。

 最後に、当ブログの趣旨からすれば、ここで映画というわけになるところ、クマネズミが専ら頼りにしている青柳いずみこ氏の『ドビュッシーとの散歩』の「12 雨の庭」では、「ちゃんばら映画も大好きで、いちばん苦手なのがジャズと洋画である」と明言されていて(P.66)、手がかりがみつかりません。
 ここは、来春公開されるという邦画『さよならドビュッシー』を待つことといたしましょう!



(注1)つまらないことですが、この文章で挙げられている画家などのうち、「ヴュイヤール、カミーユ・クローデル、モーリス・ドニ、ボナール」は、「印象派やポスト印象派、象徴派」に属さないのではと思われます。

(注2)上で取り上げた青柳いずみこ氏の『ドビュッシーとの散歩』の「36抽象画ふうに」では、ドビュッシーの『前奏曲集第2巻』の第11曲「交替する3度」が取り上げられているところ、同氏は、「楽曲が連想させる絵画は、もちろんモネではなく、ターナーでもなく、マチスやルオーでもなく、たとえばミロやクレーなどの抽象画だ」と述べられています!

(注3)同エッセイは、このサイトの記事で読むことができます(単行本の出版に当たり加筆されているかもしれません)。

(注4)ドビューッシーとポーの『アッシャー家の崩壊』との関係性などについては、このサイトの記事が大変興味を引きます(尤も、青柳いずみこ氏の文章ですから当然ですが!)。

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天地明察

2012年10月03日 | 邦画(12年)
 『天地明察』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)原作〔冲方丁著『天地明察』(角川書店、2009年)〕を本屋大賞受賞の際に読み、大層面白かったので、映画の方はどうかなと映画館に足を運びました。

 映画の冒頭は、屋根に上って夜空の星を見上げている主人公の安井算哲岡田准一)。
 そこへ会津藩士の安藤有益渡辺大)がやってきて、下から「金王八幡神社で面白い算術の設問が掲げられている」と算哲に告げます。算哲が「それを見せてください」と言うと、安藤は「明日のお勤め(上覧碁)が済んでからお見せします」と答えます。
 こんな短い場面ながら、主人公が、天文、算術、そして囲碁に関係していることがすぐさまわかるように作り込まれています。

 次いで、翌日、上覧碁のために江戸城に登城する途中、算哲は、渋谷の金王八幡神社に立ち寄って算術の設問が記載されている絵馬を見ますが、その際に「えん」(宮崎あおい)と初めて出会います(注1)。

 そして、上覧碁(注2)ののち算哲は、会津藩主・保科正之松本幸四郎)から北極出地のため全国を歩いて北極星を見てこいと命じられます(注3)。
 算哲は、将軍家の右筆で観測隊の隊長・建部伝内笹野高史)や御典医で観測隊の副長・伊藤重孝岸部一徳)らとともに江戸を出立します。



 ですが、「えん」に淡い恋心を抱いた算哲は、公務を無事に果たして江戸に戻ってくることができるでしょうか、その間に「えん」はどうなっているでしょうか、そして、算哲の前に待ち構えているものは、……?

 滝田洋二郎監督は、囲碁算術、それに改暦(注4)といった至極地味で辛気臭い題材を、岡田准一と宮崎あおいの当代の人気俳優によるラブ・ストーリーの中で描き出していくという大層困難なことに挑んで、まずまずの娯楽時代劇に仕上げているのでは、と思いました。

 主演の岡田准一は、昨年の『SP 革命篇』で見ましたが、本作と同じように物事に真っ直ぐに突き進んでいく役柄で、本作もまた彼にうってつけと言えそうです。

 ヒロインの宮崎あおいは(注5)、今年は『わが母の記』を見ましたが、暗くなりそうな場面を彼女が存在するだけで明るくしてしまう作用は、本作でも如何なく発揮されています。




(2)しかしながら、最後に断り書きが付けられてもいるように、本作には、史実(それに原作)と違っているところが随分と仕込まれています。
 といっても、算哲の観測所の作りが今の天文台とそっくりなところとか、特別製の眼鏡で日食を見上げる人々の様子(本年5月21日の金環食騒動を彷彿とさせます)や万歩計(江戸時代でもメタボはタブーだった?)とかは、娯楽映画ですからまずまずの御愛嬌でしょう。
 また例えば、佐藤隆太扮する村瀬義益とえんとが兄妹という設定(キャストには「村瀬えん」とあります)も、話の単純化はやむを得ないところでしょう(注6)。

 とはいえ、算哲が、師匠の山崎闇斎白井晃)と一緒に観測所に上がっているところを黒装束の武装集団に襲われ、果ては火矢に当たった闇斎が死亡するというのは、いくら何でもやり過ぎではないかと思いました(注7)。

 むろん、娯楽映画ですから原作とか史実通りに描き出す必要は全然なく、映画なりに色々創意工夫を加えてしかるべきとは思うものの(むしろ、そうせずに作られた映画は、『桜田門外ノ変』ではありませんが、つまらなくて目も当てられません!)、大学者の山崎闇斎をあのように取り扱う必要性が感じられません。
 算哲は闇斎門下であり、さらに闇斎は会津藩主・保科正之に迎えられてもいますから、算哲の改暦作業との直接的な関係を想定しても面白いとは思うものの、それ以上の出来事は呆気にとられるばかりです。

 さらに違和感を持ったのは、ラストの方で、算哲と土御門泰福笠原秀幸:注8)が、仲良く一緒になって京の庶民たちに向かって高いところから演説をする場面です。
 これも、こうした方が場面を短縮できて都合がいいのでしょう。ですが、武家や公家といった支配階級の者が一般の人々に向かって直接演説をして自らの正当性を訴え、挙句に国の方針を変更させようとするなどは、最近に至るもなかなか見かけない光景ではないでしょうか(注9)?

 ただそうだとしても、算哲と「えん」とのラブ・ストーリーが特色あるものとして描き出されていれば、それはそれでかまわないところ(注10)、何の変哲もないママゴトのようなものにしか思えませんから(注11)、クマネズミの本作に対する評価は自ずと低くなってしまいます。

(3)渡まち子氏は、「何より、太平の世に、武士でも公家でもない、一介の碁打ちが、大好きな星を研究することで、ついに歴史を変えてみせたというのが痛快ではないか。「おくりびと」の滝田洋二郎監督の、けれん味のない演出に品格があり、夜空に輝く星の輝きにも似て、壮大で美しい物語に仕上がっている」として70点をつけています。



(注1)原作(以下のページ数はハードカバー版)において算哲が金王八幡で「えん」と初めて会ったのは、22歳の時で(P.33)、えんは18歳でした(P.23)。

(注2)原作では「御城碁」とされて淡々と記載されているところ(P.40)、映画では「囲碁」場面での盛り上がりをはかるべく、算哲は「初手天元」を打ち、さらに途中で日食となって上覧碁は中止となってしまいます。こうでもしないと、観客の興味をつなぎ止めておくことが難しいのかもしれませんが。

(注3)原作では、幕府の老中・酒井忠清から北極出地(その地の緯度を測定するために北極星の高度を測ること)の命を受けます(P.125)。会津藩主から日本全土に渡る命令を受けることは余り考えられないところ(それも、算哲は、囲碁の関係から会津藩邸で暮らしているにすぎないのですから)、時間の関係もあって映画でははしょってしまっているのでしょう。

(注4)算哲の作った暦(大和暦)は、「貞享暦」として、それまで800年以上使われていた宣明暦に代えて採用されました(1685年)。

(注5)このサイトの記事は、「本屋大賞受賞作の映画ヒロインは、どうして宮崎あおいなのか?」という問題提起をし、その上でさらに、「「宮崎あおいが演じそうなキャラが登場すれば、本屋大賞を獲れる」という法則もあり得るのではないか」という観点から、次の本屋大賞を占っています!

(注6)原作では、一方の村瀬義益は、佐渡の出で、算術の好きな小普請役の荒木孫十朗の屋敷の一角に開設されている塾(算術家の礒村吉徳の私塾)を取り仕切っているとされ(P.101)、他方で「えん」は、荒木の娘とされています(P.102)。
 なお、「えん」によれば、父親の荒木は、村瀬が養子に来てくれることを望んでいるとのことですが(P.102)、どうやら村瀬は固辞しているようです。
(しかしながら、村瀬と「えん」との間には何もなかったのでしょうか?)

(注7)原作では、闇斎は天和2年(1682年)に死んでいます(P.439)。

(注8)映画の算哲は、水戸光圀中井貴一)に対して、土御門泰福について、「幼少の頃より、京で山崎闇斎先生にともに教えを受けた」と述べています。
 ですが、算哲と土御門泰福とは闇斎門下であるにせよ、原作では、大老の堀田が「答えよ、算哲。土御門家の者と、いつ親交を持った」と尋ねたのに対し、算哲は「先方と面識はございませぬ」と答えています(P.452)。
 また映画では、土御門泰福について、水戸光圀が「土御門泰福は公家の中で一人改暦に乗り気だと聞く」と算哲に言いますが、Wikipediaの記事を見ると実際はそうでもなかったようです(さらに、こちらの記事でも)。
 まあ、ここらあたりにことは、映画では時間の制約もあり、短縮してしまったのでしょう。

(注9)原作においても、算哲と土御門泰福が、京の梅小路で連日天測を行い、「言うなれば春海は、天体観測にかこつけて、民衆をひっくるめた公開討論の場を作り上げたのだった」とされていますが(P.462)?

(注10)算哲がのめり込んでいる算術と改暦との関係が、映画である程度明確なものとされているならば、それでもいいかなと思いましたが、原作でも曖昧になっているものを映画に求めてもそれは所詮無理というものでしょう(なお、劇場用パンフレットに掲載されている和算研究所理事長・佐藤賢一氏によるエッセイでは、「招差法」や「勾配法」についての解説が見られますが)。

(注11)原作における算哲と「えん」との関係は、映画よりほんの少し複雑です(だからと言って、原作のようにすべきだというわけでもありません)。
 すなわち、原作においては、えんは、算哲が北極出地から戻る直前の20歳頃結婚しています(P.233)。
 他方、算哲は、北極出地から戻ったあと、28歳の時に「こと」(19歳)と結婚しています(P.255)。ですが、「こと」は「もともと蒲柳の質であった」がためでしょう(P.332)、4年ほどで「胃の腑の病」で亡くなっています(P.358)。
 1年半後、算哲は、これまた夫を亡くした「えん」と出会い(「えん」が28歳)、それから6年ほどして、38歳の時に「えん」と結婚します(P.412)。
 原作でも映画同様、「私より前に死なないで」と祝儀の際に算哲が「えん」に言いますが(P.418)、映画のようにこうした経緯が省略されてしまうと、大層浮ついた言葉になってしまうのではないでしょうか?
 加えて、前の夫に離縁されたとされている「えん」が、その後何度か算哲に同じ言葉を言うとなると、映画の簡略な設定に大いに疑問を感じてしまいます。



★★★☆☆



象のロケット:天地明察
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I’M FLASH!

2012年10月01日 | 邦画(12年)
 『I’M FLASH!』をテアトル新宿で見ました。

(1)『モンスターズクラブ』の豊田利晃監督が、今度は宗教関係の作品を制作したというので映画館に出かけてみました。

 映画の冒頭は、海の中から太陽の光を捉えているような映像。
 そのすぐ後のシーンでは、男女が乗っている赤い車が疾走しています。
 さらには、DVDを返しに行ってくるといって家を出て、オートバイにまたがった青年の姿。
 オートバイも車もどんどんスピードを上げています。
 前方にトンネルが。
 どうやら車とオートバイは反対方向からトンネルに接近しているようです。
 そして、衝突直後の場面。
 オートバイの青年は仰向けに倒れています(死んでしまったのでしょう)。
 赤い車からは、カルト宗教の教団「ライフ・イズ・ビューティフル」の三代目教祖・吉野ルイ藤原竜也)が何事もなかったように降りてきますが、車の助手席には流美水原希子)が血だらけの意識不明状態。

 引き続いて、教団本部の場面となり、そのロビーに3人のボディー・ガード(その中の一人が松田龍平の扮する新野)が集められて、秘書(板尾創路)から、教祖ルイの身の安全を守るように委託されます。
 ですが、教祖ルイの方は、自動車事故のこともあるのでしょう、教団の解散を言い出します。
 でもそんなことをされたら、教団関係者はたまったものではありません。
ルイの母親(大楠道代)が、秘書を通じて、ボディーガードたちに、逆にルイを殺すように依頼します。
 さあ、ルイはいったいどうなるのでしょうか?

 本作は、銃撃されても弾が当たらない宗教教団の教祖が登場したり(注1)、殺し屋らによる撃ち合いがあったり、またお笑い芸人の板尾創路が出演したりと、前作『モンスターズクラブ』とは雰囲気がかなり異なっていますが、やはり豊田利晃監督の作品だけあって一筋縄ではいかない感じがして、マズマズ面白く見ることができました。

 主演の藤原竜也は、『パレード』や『あぜ道のダンディ』で見ましたが、純粋培養的に教祖に育て上げられるものの内に別のものを秘めている人間という役柄にぴったりの感じがしました。



 共演の松田龍平は、昨年の『まほろ駅前多田便利軒』や『探偵はBARにいる』とは異なって、本作では、一匹狼然とした殺し屋を演じているところ、そして主役とも見まがう活躍ぶりを見せるわけながら、ここらあたりで本格的な主演作を見たいものです(注2)。



 ヒロインの水原希子は、『ヘルタースケルター』で見たばかりですが、決して悪くはないものの、台詞が多いとその言い回しに難があるところ(前作ではモデル役だったので気になりませんでしたが)が目立ってしまう感じです。




(2)前作『モンスターズクラブ』では、爆弾男の思想が俎上に乗せられましたが、本作では、教祖ルイの言葉や新野の独白などを通して、「死」の問題が取り上げられています。それはそれで興味深いものの、映画としては、むしろ“蘇り”の物語として捉えたら面白いのではないのかな、と思いました。
 教祖としてルイは、たとえば、「魂は、肉体が滅んでも滅びない。死を恐れる必要はない」などと説法するところ、他方で彼に対決することになる殺し屋の新野は、「死ぬよりも生まれる方がいい、死んでしまえばおしまい」などと語り、結局は、その新野によってルイは撃ち殺されてしまうように見えます。
 ですが、その時、植物人間状態で病院のベッドに横たわっていた流美(注3)が起き上がって、窓に近づき、まぶしい太陽の光を浴びます。
 これは、新野に撃たれたルイが流美となって生き返ったことを意味しているのではないでしょうか?
 ただそれは、ルイが言っていたように、魂が魂として存続しているというよりも、むしろ新たに人間として生き続けているということではないでしょうか?
 なんだか、ルイと新野が言っていたことの中間的が起きてしまったような感じがしたところです(注4)。

 さらに、ルイが解散するといっていた教団の方も、ルイの母親は、ルイの姉サクラ原田麻由)の9歳になる息子を4代目にしようと企んでいます。ルイがいくら教団を滅ぼそうとしても、簡単に蘇ってしまうようです(注5)。

 要すれば、本作は、死が描かれているというよりも、魂もその容れ物も何度となく元のように蘇ってしまうような物語になっているように思えます(注6)。

(3)渡まち子氏は、「生と死の狭間で出会った二人の男の運命を描く「I'M FLASH」。常に死を意識した作品を撮る豊田利晃が、アクションも交え、珍しく生への渇望を見せる」として55点をつけています。



(注1)冒頭の交通事故では、助手席の流美は瀕死の重傷を負うものの、ルイは軽傷にすぎませんし、教団の外廊下で別の殺し屋から銃撃された時、いくら彼をめがけて殺し屋が発砲しても一つも当たりません。さらに、ラストの3人の殺し屋との銃撃戦においても、胸に銃弾を受けるのですが、そのまま海岸を目指して走り続け海に飛び込んでしまうのです。
 あるいは、銃弾がルイを捉えているにもかかわらず、その都度ルイは蘇っているのかもしれません。
 ルイは、銛で仕留めた海中の魚を食べていますが、「銛でエラを一発で仕留めた魚はストレスがないから美味い」と言います。そんな新鮮な魚をしょっちゅう口にしているせいでしょうか、母親に「若返ったみたい」などと言われます。あるいは、そんな魚を口にしているからこそ、蘇るのも素早いのかもしれません!

(注2)尤も、『悪夢探偵』は松田龍平の主演作でしたが、クマネズミは見ておりません。
 また、『まほろ駅前多田便利軒』や『探偵はBARにいる』は、主演と言ってもいい位置づけかもしれませんし、本作もむしろ主演の藤原竜也を食ってしまっていると言えるかもしれません。

(注3)病室で、医者に「名前を呼んであげたら、もしかしたら反応するかも」と言われたルイは「名前なんて知らねえ」と冷たく答えますが、とにかく流美は簡単に回復する状態ではありませんでした。
 なお、流美の話によれば、彼女の妹がルイの教団の信者で自殺したとのことです。あるいは、流美はその妹の蘇った姿と言えるかもしれません(流美は、「魂などどうでもいい、肉が付いている方がいい」などと、ルイの教義の反したことを喋りますが)。

(注4)ラストの3人の殺し屋とルイとの対決の場面で、真っ先にルイによって射殺されてしまう殺し屋の一人の青年(永山絢斗)も、あるいは蘇っているのかもしれません。なにしろ、すべてが終わった後、もう一人の殺し屋(仲野茂)が、「あいつと一杯やるか」と言って飲み屋に入っていくのですから(新野はその誘いを断ります)!

(注5)ルイの兄のカオル北村有起哉)の話によれば、教壇に飾ってある1代目(祖父)と2代目(父)の頭蓋骨にも弾痕があるようです。そうだとすると、教祖は代々蘇っているのかもしれません。

(注6)こうなれば、新野が言う「人生は短い」というのとも違い、また「魂は蘇るにしても、肉体は滅びる」とするルイの説法とも違っているようにも思われます。
 もしかしたら、付け焼刃で甚だ恐縮ながら、ニーチェの「永劫回帰」なのかもしれません。



★★★☆☆



象のロケット:I'M FLASH!
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