映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

あん

2015年06月09日 | 邦画(15年)
 『あん』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)本作が、河瀬直美監督(注1)が制作し、第68回カンヌ映画祭「ある視点」部門のオープニング作品となったというので、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭は、早朝、アパートの1室から千太郎永瀬正敏)が出てきて、階段を登り屋上に。そこでたばこを吸いますが、外は桜が満開。
 千太郎は、今度は階段を降り、どら焼き屋の「どら春」を開けて中に入っていきます。
 カーテンを開け、手拭いを頭に巻き、それからどら焼きの皮を作るのでしょう、ボウルでいくつも卵を割っていきます。



 ここでタイトルクレジット。

 次は、郊外電車の踏切の光景。
 主人公の徳江樹木希林)が歩いています。

 また画面が変わって、歩道橋の上で、女子中学生のワカナ内田伽羅)が「高校に行きたい」と母親に言うと、母親(水野美紀)は「高校の勉強じゃ食っていけない」と答えます。

 「どら春」では、千太郎がどら焼きを作り、女子中学生たちが腰掛けに座って、他愛ないおしゃべりをしながらどら焼きを食べたりしています。
 彼女らが帰った後、徳江が入ってきて、「表の紙にアルバイト募集ってあるけど、本当に年齢不問なの?あたしではダメですか?」と言います。
 千太郎が「おいくつですか?」と尋ねると、徳江は「満で76」と答えます。
 さらに、千太郎が「うちは安いですよ。700円」と言うと、徳江は「300円でいいのよ」と応じます。
 千太郎は、「ちょっと無理。腰悪くしますよ。案外、力仕事なんで」と、どら焼きを渡しながら断ると、徳江はそれを受け取って、「また来るわね」と言って手を振りながら立ち去ります。

 徳江は再度店にやって来て、「これちょっと食べてみて」と、あんの入ったタッパーを置いて帰ります。千太郎は、それを食べてみてその美味しさに驚き、結局徳江を雇うことになりますが、さあ、どうなることでしょう、………?



 この映画は、河瀬直美監督の初めて原作物とされていて、元ハンセン病の老女がどら焼き屋で働くことを巡るお話ですが、これまでの河瀬監督の作品と比べると、それが取り扱っている問題は大変重いにしても、かなり素直に映画の中に入り込める感じがしました。ただ、その分だけ、作品のメッセージ性が前面に出てきてしまって煩い感じがしてしまうのではとも思いました(注3)。

(2)本作には、映画からのいろいろなメッセージがアチコチに実にわかりやすく織り込まれているように思います。
 なにしろ、徳江が、ハンセン病を患ったために施設に送り込まれた年齢と同年代の女子中学生が「どら春」の常連ですし(注4)、さらには、裏に引っ込んでいた徳江が店の表に出てきて人々と接触するようになると、客足がぱったり遠のいてしまう状況が描かれたりします。
 さらには、公式サイトの「ストーリー」の冒頭に、大文字で「(本作は)たくさんの涙を超えて、生きていく意味を問いかける」とあり、さらに「私達はこの世を見るために、聞くために、生まれてきた。……だとすれば、何かになれなくても、私達には生きる意味があるのよ」という主人公・徳江の言葉が掲げられてもいます。

 それだけでなく、河瀬監督がこれまでの映画で幾度となく描いてきた“自然と人間との調和的なつながり”(注5)といったものも、本作のあちこちに感じることができます。
 例えば、人間の問いかけに答えるかのような木の葉のそよぎ(注6)。
 また、徳江は、「あんを炊いている時の私は、いつも、あずきの言葉に耳を澄ましていました」などと言ったりします。



 それに、桜を見上げている時の徳江の嬉しそうな顔と言ったらありません。

 逆に言えば、前作『2つ目の窓』についての拙エントリでも申し上げましたが、いつも河瀬監督の作品に感じる“アレッ何だろうこれはといった謎めいた感じ”をほとんど持ちませんでした。
 逆に、映画から余りに一方的にはっきりとメッセージが伝えられると、観客の方では、なにも勉強をしに映画館に行くわけではないのですから、シラけた感じになるように思います。
 ただ、本作の場合は、そんな面が見えるとはいえ、河瀬監督以下のスタッフや樹木希林以下の出演者の実に真摯な取り組み方のゆえでしょう(注7)、素直に映画の中にアクセスできるように思われます。

 なお、まったくどうでもいいことながら、徳江の住処がある施設と「どら春」とは随分離れています(注8)。他方で、徳江は、あんを仕込むために日の出前にはもう「どら春」に来ています。交通機関はまだ動いていない時間でしょうから、どこか店の付近で寝てでもいたのでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「柔らかい光をとらえた映像や、出演者の静かなたたずまいの演技が心に残るが、何よりも、差別のない社会を!と願わずにはいられない」として65点をつけています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「無知は誤解を生み、誤解は偏見とたやすく結びつく。だが、どんなに困難でも、差別をなくす努力を惜しんではならない。この映画を見た人たちが、そのように感じてくれるよう心から願う」と述べています。



(注1)河瀬直美監督の作品は、これまで『2つ目の窓』や、『朱花の月』とか『七夜待』などを見ています。

(注2)本作の監督・脚本・編集は河直美。
 原作は、ドリアン助川著『あん』(ポプラ文庫、2015)。
 なお、著者のドリアン助川氏は、河瀬直美監督の『朱花の月』に、明川哲也という名前で出演しています。

(注3)最近では、出演者の内、樹木希林は『そして父になる』、永瀬正敏は『まほろ駅前狂騒曲』、内田伽羅は『奇跡』、水野美紀は『俺はまだ本気出してないだけ』、「どら春」のオーナー役の浅田美代子は『0.5ミリ』〔真壁(津川雅彦)の姪役〕で、それぞれ見ました。

(注4)女子中学生の一人が、どら焼きの中に見つかった桜の花びらを指して「異物混入だよ、千ちゃん」と言うと、千太郎が「もう一個ずつあげるから帰って」と応える場面がありますが、ブログ「佐藤秀の徒然幻視録」が指摘するように、「この小エピソードが本作全体のトーンになっている」ようにも思われます。
 さらに言えば、ワカナが部屋で狭い鳥かごに入ったカナリアを飼っていることも、14歳で施設に入れられた徳江の状況を思い起こさせます(部屋で飼うことが許されず、ワカナは徳江に託しますが、むろん徳江はカナリアをスグに放してしまいます)。
 ただ、このカナリアを巡るエピソードについては、『2つ目の窓』についての拙エントリの(1)で申し上げたような、「河瀬監督が頭で思い描く観念的な図式に従って登場人物が動かされ台詞を喋っているような感じ」がしてしまうところです。

(注5)『2つ目の窓』についての拙エントリの(1)をご覧ください。

(注6)『2つ目の窓』についての拙エントリの「注15」をご覧ください。

(注7)劇場用パンフレット掲載の小池昌代氏のエッセイ「生命の湯気」では、「河直美の映画においてはしばしばそうだが、「演じる」ということが、ここでは豆の薄皮1枚ほどの幽かさで演技者たちの皮膚に被されている」と述べられています。
 また、千太郎役の永瀬正敏は、劇場用パンフレット掲載の「インタビュー」で、「河瀬監督の作品に出演されたみなさん、同じだと思いますが、現場に芝居を持って行っては駄目なんです。芝居ではなく、人を持って行かないといけない」などと語っています。
 こんなところを見ると、河瀬監督の演出法は、『やさしい女』についての拙ブログの(3)で触れたロベール・ブレッソン監督の方法(玄人役者の演技を排する)に、もしかしたら通じる面があるのかもしれません。

(注8)千太郎とワカナが徳江を訪ねて行くのにバスを使っていますから。
 それにもともと、老人が店まで歩いて通えるような近いところに施設があるとしたら、徳江の手を見て千太郎はすぐに気が付くのではないでしょうか(ただ、劇場用パンフレット掲載の「ストーリー」では、「変形した徳江の指の様子から、千太郎も薄々気づいてはいた。徳江がかつて、人には言いにくい病気を患っていたことを」と記載されていますが)?
 なお、千太郎は、徳江の「この桜は誰が植えたの?」という質問に対し、「ここで育ったんじゃないんで(知りません)」と答えていますから、あるいは施設にまつわる土地の噂を耳にしたことがないのかもしれません。



★★★☆☆☆