『プリンセス トヨトミ』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見てきました。
(1)映画を見る前には万城目学氏の原作(文春文庫)を読まずにいて、予告編の感じだけから、実際の映画では大阪が東京支配に反旗をひるがえして反乱を起こすような、とても壮大な物語を見せてくるものとばかり思っていました。
ところが、どうも期待だけが先走り過ぎたようです。
というのも、
イ)「大阪国」の成立ちなどについて、色々のエピソードがあって面白いはずと思っていたところ、大阪国総理大臣・真田幸一(中井貴一)が長々と演説するだけで、そこには映像としての面白みが全く感じられません。
ロ)わずか5億円の補助金で大阪国が運営されるほど至極小さな組織(事務職員もOJOにいるほんのわずかの人数です)にもかかわらず、府庁舎前に人々が結集するのがよくわかりません(せいぜい区役所前ぐらいなのでは)。
ハ)折角大勢の人々が府庁舎前に集まっていながら、起こる事件と言えば、会計検査院副長・松平元(堤真一)が腕にかすり傷を負う程度というのは、なんともはやという気になります(注1)。
ニ)大阪というと、食い倒れでお好み焼きという定番と、さらに姦しい「大阪のおばちゃん」という定型が、ここでもやっぱり登場するのでは、見ている方としてはやり切れなくなります(後者は、『阪急電車』にも登場しました!)。
ホ)大阪国の幹部の名前が「真田」であったり「長宗我部」であったりするのはわかりますが、東京から調査にやってくる検査院調査官の名前が「松平」や「鳥居」(綾瀬はるか)というのも、ある意味でよくわかりません(徳川家は、豊臣家を倒しましたが、大阪や関西に敵対していたわけではないと思われます。むしろ明治維新政府の方が都を東京に移すなどして、大阪・関西方面の地盤沈下に大きく寄与したのではないでしょうか)。
ヘ)一番問題と思われるのは、ラブストーリーがうまく組み込まれていない点です。最低でも、大阪国のプリンセスの年齢をもっと引き上げて、東京から来た会計検査院調査官・旭ゲーンズブール(岡田将生)と恋愛関係になるくらいのことは描き出してもらわないと、ファンタジーとしてもうまく成立しないのでは、と思われます(そういえば、渋谷ル・シネマで『ゲンズブールと女たち』が公開されています)(注2)。
ト)それに、大阪国の父親は子供に告げるべきものを何か持っていて、真田幸一もそれを自分の息子・大輔に語りますが、真田幸一は、その語り継ぎは、父親が自分の死期を悟った時に1回限り行われると自分で言いながら、その後死ぬ素振りをまったく感じさせませんが、これはどうしたことでしょう!
総じて言えば、映画は、物語の基盤をなす骨格が描かれたにすぎず、この骨格に肉付けして描かれるはずの面白い物語の部分がそっくり抜け落ちてしまっているのでは、との印象を持ちました。
それは続きがあるから?でも、映画は、調査が終わって堤真一らは新幹線で帰京してしまうのですから、そんなものなど望むべくもないのでしょう!
(2)いろいろ難癖ばかりつけましたが、実はこの映画は、一つ許せるものを持っているのです。そうして、それがクマネズミにとっては大きな要素なものですから、実際の評価はそんなには下がりません。
その許せる点とは何か。実は、クマネズミにとっては、トンネルとか洞窟といった地下構造物が画面に登場すると、他の点はともかくも、何しろその作品を許したくなってしまうのです。
例えば、3度も映画化されている『八つ墓村』とか、韓国映画『黒く濁る村』。
本作品の場合、OJOと大阪城の真下にある大阪国の国会とがトンネルで繋がっています。そのトンネルが至極立派なのが玉に瑕ながら、やはりそれがあることで、この映画を許そうかという気になってしまいます(注3)。
ところで、堤真一は、このところ映画でよく見かけますが、どうしてどれも女っ気に乏しい役柄なのでしょうか(この映画でも『SP革命篇』でも独身として描かれている感じですし、『孤高のメス』でもいい感じの間柄になっていた看護婦から身を引いてしまいます)?
せっかく、綾瀬はるかと共演しているのに、怪しい場面など全くなく、せいぜいがソフトクリームを一緒に食べているくらいのことしか描かれていません。
尤も、冒頭近くで、松平元は決して笑わない男だとわざわざ強調されていましたから、この映画は、彼を笑わせることが大きな狙いなのかしらと思っていたら、案の定、ラストで、眠りこける綾瀬はるかを見てニカッとするシーンがあり、これはさすが彼ならではの笑顔だなといたく感心いたしました。
なお、ラストといえば、帰りの新幹線の車窓から、富士山の麓に十字架が沢山立ち並んでいる光景を堤真一が目撃しますが、これは、冒頭で綾瀬はるかが目撃するシーンに対応しているのでしょう。
そこで、これは、彼ら三人の大阪出張はすべて、催眠術(集団の)をかけられて見た夢の中の話なのでは、と思ってみたらまた面白いのではないでしょうか?すなわち、往きに富士山の麓に十字架を見ることによって、三人は催眠術にかかり、また還りにそれを見ることで、催眠術からさめるという具合です。むろん、こうした催眠術を仕掛けたのは、大阪国です。
とはいえ、このところ、『マーラー 君に捧げるアダージョ』でも『アジャストメント』でも、クマネズミのレビューは、“妄想”とか“夢”といったものに逃げ込もうとする傾向が強すぎる感じもします。といった次第で、これは単なるお遊びということにしておきましょう!
(3)この映画では、上に書きましたように、大阪国においては、父親が息子に伝えるべき如何にも重要そうな事柄がなにかあるかのように描かれています。
ここで、なぜ父親から息子という男性路線しかないのか、父親から娘へは何も伝えないのか、シングルマザーに育てられた息子は、親のいない子供は?、などと茶々を入れても仕方のないところでしょう。何しろそれが大阪国なのですから!
むしろ問題は、いったいここで伝えられるものは何なのか、ということでしょう。それさえわかれば、女性路線がなぜ存在しないのかなどといった疑問が解消するかもしれません。
真田幸一の演説からすると、それは大阪国の存在・成立ちだと考えられるところです。
ただ、そうだとすれば、個々の親子にとって随分と抽象的な事柄とはいえないでしょうか?わざわざ1時間という時間を設けて、大阪城の真下に設けられたトンネルという特別の場所において、親子が水いらずで話すというのに、余りに水臭い話の中身ではないでしょうか?そんな貴重な機会ならば、どうして自分たち自身の個別のこと、内密なことを話さないのでしょうか?
それに、そんな事柄なら、何も無理して男性路線でなくとも、という気にもなってきます。
さらに、ラストで松平元が大阪城下のトンネルを一人で歩いて行くと、途中からすでに亡くなっているはずの父親(平田満)が亡霊の姿で彼と一緒に歩きだします。それを松平元は感じ取りますが、別に両者の間で会話などなされているようには窺われません。
これが象徴するように、父親から息子にわざわざ伝えるべきご大層なものなど、実際には存在しないのではないでしょうか(注4)?
昨年見た園子温監督の『ちゃんと伝える』も、タイトルから明らかなように、同じようなことが描かれていました。
ただ、その映画についての記事の中で、クマネズミは、次のように書きました。
映画のタイトルから、〝ちゃんと伝える〟べき事柄、例えば、〝自分はこのように生きてきた、自分はこのように考えている、こんなことをやり残した〟などといった親密な内容の事柄が、映画の中で口にされるのではないかと思っていたところ、実際にはそうしたご大層なことではなく、単に“癌で余命いくばくもない〟というくらいのことを伝えたいだけなのではないか、としか思えませんでした。
(4)渡まち子氏は、「国家予算が豊臣の末裔を守ることにどう使われているかを描かないことや、個性豊かなはずの大阪女をまったく無視したストーリー、商店街の少年と少女の物語に魅力がないことなど、ツッコミどころは多い。だが、後半に大阪中の男たちが集結する場面は、不思議と胸が熱くなる。登場人物の名前に、豊臣、徳川両陣営の歴史上の人物を配するなど、歴史好きをニヤリとさせる仕掛けも楽しかった」などとして55点をつけています。
福本次郎氏は、「公然の秘密を自分だけが知らない不安と緊張がスクリーンからにじみだし大阪の街が異次元空間のように思えてくるほど不気味なリアリティを伴う演出にのめり込んでしまう。さらに歴史から隠ぺいされた出来事を人知れず守る人々の存在が、「ダ・ヴィンチ・コード」風のミステリアスな知的興奮を刺激する」として60点をつけています。
(注1)原作では、銃で撃たれるのは真田幸一の方ですが(P.455)、劇場用パンフレットに掲載されている脚本担当の相沢友子氏の談話によれば、松平元の心変わりを観客に受け入れやすくするように、彼が撃たれることにして、「病院で1ストロークを置いてから結論を出す展開にした」とのこと。なるほど、そうであれば納得がいきます。
(注2)原作では、「鳥居」は男性の調査官であり、「旭ゲーンズブール」が女性なのですが、映画ではそれが正反対になっています。おそらく、綾瀬はるかの出演が先に決まっていて、しかし綾瀬はるかが原作の「旭ゲーンズブール」(ハーバード大卒で、内閣法制局出向経験のある超エリート)を演じるには余りにもイメージが違い過ぎるということで、役柄が入れ替えられたのではと、単なる憶測ですが思われます。仮にそうであれば、観客側がとやかく言ってみても始まらないでしょう。
(注3)そういえば、大阪夏の陣で、プリンセス・トヨトミの祖先(国松)と松平元の祖先とが対峙するのが、大阪城の横穴(「真田の抜け穴」)でした!
こうした「穴」を大阪国がプレイアップできるとしたら、東京から大阪にやってくる調査官達が、“鼻先の長い”新幹線に乗っていたり、車中などで“先の尖った”ソフトクリームを“舐めたり”するのと組み合わせれば、幼稚な精神分析は可能かもしれませんが、まあフロイトが登場する『マーラー 君に捧げるアダージョ』を引き摺りすぎている、と言われるのがオチでしょう!
(注4)原作によれば、より具体的には、「合図」(指定の「場所」にひょうたんが5個以上置かれる)を見たら大阪城に参集すること、とされています。ただ、そんな事務的なことを伝えるのであれば、5分もかからないでしょう。
★★★☆☆
象のロケット:プリンセス トヨトミ
(1)映画を見る前には万城目学氏の原作(文春文庫)を読まずにいて、予告編の感じだけから、実際の映画では大阪が東京支配に反旗をひるがえして反乱を起こすような、とても壮大な物語を見せてくるものとばかり思っていました。
ところが、どうも期待だけが先走り過ぎたようです。
というのも、
イ)「大阪国」の成立ちなどについて、色々のエピソードがあって面白いはずと思っていたところ、大阪国総理大臣・真田幸一(中井貴一)が長々と演説するだけで、そこには映像としての面白みが全く感じられません。
ロ)わずか5億円の補助金で大阪国が運営されるほど至極小さな組織(事務職員もOJOにいるほんのわずかの人数です)にもかかわらず、府庁舎前に人々が結集するのがよくわかりません(せいぜい区役所前ぐらいなのでは)。
ハ)折角大勢の人々が府庁舎前に集まっていながら、起こる事件と言えば、会計検査院副長・松平元(堤真一)が腕にかすり傷を負う程度というのは、なんともはやという気になります(注1)。
ニ)大阪というと、食い倒れでお好み焼きという定番と、さらに姦しい「大阪のおばちゃん」という定型が、ここでもやっぱり登場するのでは、見ている方としてはやり切れなくなります(後者は、『阪急電車』にも登場しました!)。
ホ)大阪国の幹部の名前が「真田」であったり「長宗我部」であったりするのはわかりますが、東京から調査にやってくる検査院調査官の名前が「松平」や「鳥居」(綾瀬はるか)というのも、ある意味でよくわかりません(徳川家は、豊臣家を倒しましたが、大阪や関西に敵対していたわけではないと思われます。むしろ明治維新政府の方が都を東京に移すなどして、大阪・関西方面の地盤沈下に大きく寄与したのではないでしょうか)。
ヘ)一番問題と思われるのは、ラブストーリーがうまく組み込まれていない点です。最低でも、大阪国のプリンセスの年齢をもっと引き上げて、東京から来た会計検査院調査官・旭ゲーンズブール(岡田将生)と恋愛関係になるくらいのことは描き出してもらわないと、ファンタジーとしてもうまく成立しないのでは、と思われます(そういえば、渋谷ル・シネマで『ゲンズブールと女たち』が公開されています)(注2)。
ト)それに、大阪国の父親は子供に告げるべきものを何か持っていて、真田幸一もそれを自分の息子・大輔に語りますが、真田幸一は、その語り継ぎは、父親が自分の死期を悟った時に1回限り行われると自分で言いながら、その後死ぬ素振りをまったく感じさせませんが、これはどうしたことでしょう!
総じて言えば、映画は、物語の基盤をなす骨格が描かれたにすぎず、この骨格に肉付けして描かれるはずの面白い物語の部分がそっくり抜け落ちてしまっているのでは、との印象を持ちました。
それは続きがあるから?でも、映画は、調査が終わって堤真一らは新幹線で帰京してしまうのですから、そんなものなど望むべくもないのでしょう!
(2)いろいろ難癖ばかりつけましたが、実はこの映画は、一つ許せるものを持っているのです。そうして、それがクマネズミにとっては大きな要素なものですから、実際の評価はそんなには下がりません。
その許せる点とは何か。実は、クマネズミにとっては、トンネルとか洞窟といった地下構造物が画面に登場すると、他の点はともかくも、何しろその作品を許したくなってしまうのです。
例えば、3度も映画化されている『八つ墓村』とか、韓国映画『黒く濁る村』。
本作品の場合、OJOと大阪城の真下にある大阪国の国会とがトンネルで繋がっています。そのトンネルが至極立派なのが玉に瑕ながら、やはりそれがあることで、この映画を許そうかという気になってしまいます(注3)。
ところで、堤真一は、このところ映画でよく見かけますが、どうしてどれも女っ気に乏しい役柄なのでしょうか(この映画でも『SP革命篇』でも独身として描かれている感じですし、『孤高のメス』でもいい感じの間柄になっていた看護婦から身を引いてしまいます)?
せっかく、綾瀬はるかと共演しているのに、怪しい場面など全くなく、せいぜいがソフトクリームを一緒に食べているくらいのことしか描かれていません。
尤も、冒頭近くで、松平元は決して笑わない男だとわざわざ強調されていましたから、この映画は、彼を笑わせることが大きな狙いなのかしらと思っていたら、案の定、ラストで、眠りこける綾瀬はるかを見てニカッとするシーンがあり、これはさすが彼ならではの笑顔だなといたく感心いたしました。
なお、ラストといえば、帰りの新幹線の車窓から、富士山の麓に十字架が沢山立ち並んでいる光景を堤真一が目撃しますが、これは、冒頭で綾瀬はるかが目撃するシーンに対応しているのでしょう。
そこで、これは、彼ら三人の大阪出張はすべて、催眠術(集団の)をかけられて見た夢の中の話なのでは、と思ってみたらまた面白いのではないでしょうか?すなわち、往きに富士山の麓に十字架を見ることによって、三人は催眠術にかかり、また還りにそれを見ることで、催眠術からさめるという具合です。むろん、こうした催眠術を仕掛けたのは、大阪国です。
とはいえ、このところ、『マーラー 君に捧げるアダージョ』でも『アジャストメント』でも、クマネズミのレビューは、“妄想”とか“夢”といったものに逃げ込もうとする傾向が強すぎる感じもします。といった次第で、これは単なるお遊びということにしておきましょう!
(3)この映画では、上に書きましたように、大阪国においては、父親が息子に伝えるべき如何にも重要そうな事柄がなにかあるかのように描かれています。
ここで、なぜ父親から息子という男性路線しかないのか、父親から娘へは何も伝えないのか、シングルマザーに育てられた息子は、親のいない子供は?、などと茶々を入れても仕方のないところでしょう。何しろそれが大阪国なのですから!
むしろ問題は、いったいここで伝えられるものは何なのか、ということでしょう。それさえわかれば、女性路線がなぜ存在しないのかなどといった疑問が解消するかもしれません。
真田幸一の演説からすると、それは大阪国の存在・成立ちだと考えられるところです。
ただ、そうだとすれば、個々の親子にとって随分と抽象的な事柄とはいえないでしょうか?わざわざ1時間という時間を設けて、大阪城の真下に設けられたトンネルという特別の場所において、親子が水いらずで話すというのに、余りに水臭い話の中身ではないでしょうか?そんな貴重な機会ならば、どうして自分たち自身の個別のこと、内密なことを話さないのでしょうか?
それに、そんな事柄なら、何も無理して男性路線でなくとも、という気にもなってきます。
さらに、ラストで松平元が大阪城下のトンネルを一人で歩いて行くと、途中からすでに亡くなっているはずの父親(平田満)が亡霊の姿で彼と一緒に歩きだします。それを松平元は感じ取りますが、別に両者の間で会話などなされているようには窺われません。
これが象徴するように、父親から息子にわざわざ伝えるべきご大層なものなど、実際には存在しないのではないでしょうか(注4)?
昨年見た園子温監督の『ちゃんと伝える』も、タイトルから明らかなように、同じようなことが描かれていました。
ただ、その映画についての記事の中で、クマネズミは、次のように書きました。
映画のタイトルから、〝ちゃんと伝える〟べき事柄、例えば、〝自分はこのように生きてきた、自分はこのように考えている、こんなことをやり残した〟などといった親密な内容の事柄が、映画の中で口にされるのではないかと思っていたところ、実際にはそうしたご大層なことではなく、単に“癌で余命いくばくもない〟というくらいのことを伝えたいだけなのではないか、としか思えませんでした。
(4)渡まち子氏は、「国家予算が豊臣の末裔を守ることにどう使われているかを描かないことや、個性豊かなはずの大阪女をまったく無視したストーリー、商店街の少年と少女の物語に魅力がないことなど、ツッコミどころは多い。だが、後半に大阪中の男たちが集結する場面は、不思議と胸が熱くなる。登場人物の名前に、豊臣、徳川両陣営の歴史上の人物を配するなど、歴史好きをニヤリとさせる仕掛けも楽しかった」などとして55点をつけています。
福本次郎氏は、「公然の秘密を自分だけが知らない不安と緊張がスクリーンからにじみだし大阪の街が異次元空間のように思えてくるほど不気味なリアリティを伴う演出にのめり込んでしまう。さらに歴史から隠ぺいされた出来事を人知れず守る人々の存在が、「ダ・ヴィンチ・コード」風のミステリアスな知的興奮を刺激する」として60点をつけています。
(注1)原作では、銃で撃たれるのは真田幸一の方ですが(P.455)、劇場用パンフレットに掲載されている脚本担当の相沢友子氏の談話によれば、松平元の心変わりを観客に受け入れやすくするように、彼が撃たれることにして、「病院で1ストロークを置いてから結論を出す展開にした」とのこと。なるほど、そうであれば納得がいきます。
(注2)原作では、「鳥居」は男性の調査官であり、「旭ゲーンズブール」が女性なのですが、映画ではそれが正反対になっています。おそらく、綾瀬はるかの出演が先に決まっていて、しかし綾瀬はるかが原作の「旭ゲーンズブール」(ハーバード大卒で、内閣法制局出向経験のある超エリート)を演じるには余りにもイメージが違い過ぎるということで、役柄が入れ替えられたのではと、単なる憶測ですが思われます。仮にそうであれば、観客側がとやかく言ってみても始まらないでしょう。
(注3)そういえば、大阪夏の陣で、プリンセス・トヨトミの祖先(国松)と松平元の祖先とが対峙するのが、大阪城の横穴(「真田の抜け穴」)でした!
こうした「穴」を大阪国がプレイアップできるとしたら、東京から大阪にやってくる調査官達が、“鼻先の長い”新幹線に乗っていたり、車中などで“先の尖った”ソフトクリームを“舐めたり”するのと組み合わせれば、幼稚な精神分析は可能かもしれませんが、まあフロイトが登場する『マーラー 君に捧げるアダージョ』を引き摺りすぎている、と言われるのがオチでしょう!
(注4)原作によれば、より具体的には、「合図」(指定の「場所」にひょうたんが5個以上置かれる)を見たら大阪城に参集すること、とされています。ただ、そんな事務的なことを伝えるのであれば、5分もかからないでしょう。
★★★☆☆
象のロケット:プリンセス トヨトミ
> ラブストーリーがうまく
> 組み込まれていない点です。
いや、別にラブストーリーが組み込まれてなくても全然成立する話だったんじゃないですか? 原作とか読んでないから、原作にそういうラインがあるかどうかは分からんですけど。
無論、どんなお話だって「成立」することはしますが、この手の荒唐無稽なファンタジーでラブストーリーがうまく組み込まれていないと、見る方は酷く退屈してしまいます!
なお、原作がどうであろうと映画とは無関係ながら、一応申し上げますと(パラパラと見ただけに過ぎませんが)、松平調査官は39歳の堅物で独身、鳥居調査官も32歳ながら女っ気が全くなく(毎月お見合いをしているとのこと)、旭ゲーンズブール調査官は29歳の独身女性、といったところで、その三人が大阪に出張するにもかかわらず何事も起こらず、今度はベトナムに一緒に出かけるようです。
対峙が語りだけになったのも不満と言えば不満だけど、
そこが見どころと言えば見どころ。
父と息子の物語と思いましたが、
それにしては風呂敷を広げ過ぎたかも。
綾瀬はるか嬢だって、折角映画に出るのだから、ゆっさゆっさのランニングよりは、凛々しいプリンセスになって何かをしでかすほうが、遥かにお似合いのはずだし、そのほうが題名にも通じそうだ。関西側と関東側の様々なニュアンスの違いは、苗字の違いだけではないし、何か得も言われぬものがあるはずだ。新幹線の窓から見て富士山麓に現れたのが「十字架」で、それがマジックの源泉というのなら、それは本来は秀吉のシンボル・千成瓢箪ではないのか。
等々、いろいろ不満な点があり、「豊臣プリンセス」という発想は面白いが、どうも映画とは別の展開を期待するものが多い。この映画の製作者や脚本家には、豊臣魂が欠けていそうで、残念な映画であった。どうも素材を活かしきっておらないようにも感じ、おそらくシナリオ上の問題もあろうと思われ、総じてイマイチかという印象をもったものである。
良い点はというと、あまり質の悪い悪人や敵役が出てこないから、その意味でお気楽に見て、空想を働かせるような余地がある。それにしても、豊臣の子孫はほとんど一子相伝で細々とつながっていたというのだろうか。ともあれ、立ち上がれ、大坂!!
まさにおっしゃるように、「発想は面白い」ものの、「素材を活かしきっておら」ず、また豪華配役陣ももっと面白く使えたはず、と思ってしまいます。
特に、綾瀬はるかについて、「ゆっさゆっさのランニングよりは、凛々しいプリンセスになって何かをしでかすほうが、遥かにお似合いのはず」というのは卓見です!
そして、東日本が大震災等で疲弊している今こそ、「立ち上がれ、大坂!!」ではないかと思います。
松平は携帯が苦手で、大坂国は瓢箪
私は、この通信手段の使い分けに関してはかなり気に入りました。
そう言えば、堤さんは最近「浮いた話(>_<)」が、ないですね。
と、言いますか…本作、せっかく和久井さんや菊池桃子さんもご出演なのに女性の魅力があまり感じられない作品でした。
おっしゃるように、一方の「スマートフォン」といい、もう一方の「瓢箪」といい、「通信手段の使い分け」は興味深いところです。
としても、大阪城下のトンネル内で行われる父から息子への語り継ぎのシーンを見ると、究極的な通信手段はやはり、直接顔と顔を突き合わせて取り交わす肉声なのだな、と思えてきます。
(あるいは、ブログやこうしたコメントも立派な通信手段と言えるでしょう!)