『グラスホッパー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。
(1)伊坂幸太郎氏の原作を映画化した作品というので映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、ハロウィンで大混雑する渋谷ハチ公前のスクランブル交差点。
百合子(注2:波瑠)が信号待ちをしています。
そばにカボチャのお化けに扮した子どもがやってきたので、飴をあげます。
その時、交差点の近くで駐車していた車の中の男が、携帯で「お前は救世主だ」との指令を受けると(注3)、汗をダラダラかきながら薬を飲み込んで車を発進させ、信号が「青」でスクランブル交差点にいた群衆の中に突進。
百合子はその車に跳ね飛ばされ地面に倒れます。
カボチャのお化けに扮した子どもが現れ、落ちていた指輪(注4)を拾います。
交差点の上空ではバッタの群れが乱舞しています。
次いで、遺体安置所で百合子の遺体のそばに佇む鈴木(生田斗真)。
鈴木が、遺品の中にあった指輪ケースを開けると、中は空。
鈴木が、事故のあったスクランブル交差点に行き、百合子が倒れていた地面の辺を見下ろしていると、「本当の犯人は別にいる。フロイラインの寺原親子を調べろ」と書いた紙が落ちてきます。
「1日目」の表示があり、積乱雲が映し出され、ベランダの鉢植えにはバッタが。
鈴木は部屋で、一人で食事をしています。
次いで、鈴木が渋谷で、痩せる薬のキャッチセールスをしている場面。
そこにメッシュの女(佐津川愛美)が現れ、「こんなやり方じゃあ誰もゲットできない。教え子の顔忘れているんだもの。中学の理科、こいつに習った」と、あっけにとられる鈴木に向かって言い放ちます。
鈴木のそばにいたフロイラインの幹部の比与子(菜々緒)が、「知らなかった。道理で使えない新人だなと思った」と言います(注5)。
比与子は、薬について詳しく説明すると言ってメッシュの女をフロイラインの事務室に連れて行きますが、飲み物に睡眠薬を入れて眠らせます。
さあ、これから物語はどのように展開していくのでしょうか、………?
本作は、3人の全く異なるタイプの殺し屋が登場してなかなか興味深いとはいえ、彼らと主人公の元教師との繋がりが至極希薄で、なんだかバラバラな物語を見せられた感じがしてしまいます。それに、タイトルになぜグラスホッパーが用いられるのかについても、いまいちチピンときませんでした。クマネズミは、『ゴールデンスランバー』とか『ポテチ』のように面白いのかなと思っていたところ、やや期待はずれの作品でした(注6)。
(2)確かに、自殺屋と呼ばれる殺し屋の鯨(浅野忠信)とか、押し屋と呼ばれる殺し屋・槿(吉岡秀隆)は、見る者の意表をつく存在と言えるでしょう(注7)。
また、ナイフを使う殺し屋の蝉(山田涼介)も、動きが素晴らしいですし、シジミの泡をしみじみと見つめる場面はユニークです(注8)。
とはいえ、本作の主人公の鈴木が、肝心の鯨と蝉に絡む場面が映画では全く映し出されないために(注9)、見ている方は、何故この3人がことさら映画で描かれるのかよくわからなくなります。
鈴木と鯨、蝉をつなげる者として、裏社会のドンの寺原会長(石橋蓮司)が考えられないこともありません。でも、そのためには、もっと彼を大きな存在として描く必要があるのではないでしょうか(注10)?何しろ、稀代の殺し屋が何人も付け狙う標的なのですから。
さらに、この寺原会長を潰そうとするグループ(注11)が、会長と同じくらい簡単にしか描かれないのも、不可解な感じがするところです(注12)。
それにそもそも、「グラスホッパー」というタイトルの意味がよく理解できません。
思わせぶりにバッタの大写しや大群の様が何度も描き出され、また「群生相」(注13)といった言葉で凶暴化したバッタのことを説明したりしますが、ストーリーとどのように関係するのか、よくわかりませんでした(注14)。
(3)渡まち子氏は、「実は私は、映画化された伊坂幸太郎作品とは相性が良くないのだが、本作には不思議と惹かれてしまった」として65点をつけています。
(注1)監督は、『脳男』や『スープ・オペラ』の瀧本智行。
脚本は、『ツレがうつになりまして。』や『日輪の遺産』の青島武。
原作は、伊坂幸太郎著『グラスホッパー』(角川文庫)。
(注2)百合子は、中学校の給食栄養士で、同じ中学校で理科の教師である主人公・鈴木の恋人。
(注3)指令を出した男が、裏社会のドンである寺原会長のドラ息子(金児憲史)。寺原会長の力によって、この事件はもみ消されてしまいます〔原作では、息子自身が車を運転して鈴木の妻を轢いています(文庫版P.18)〕。
(注4)その指輪は、鈴木が、その日の昼間に百合子にプロポーズした際、彼女の指にはめたもの。映画のラストにも登場します
(注5)鈴木は、百合子の事故死の後中学を辞め、「フロイライン」という会社にそれまでの履歴を隠して潜り込んだようです。
(注6)出演者の内、最近では、生田斗真は『予告犯』、浅野忠信は『岸辺の旅』、麻生久美子は『ラブ&ピース』、吉岡秀隆は『小さいおうち』、波瑠は『みなさん、さようなら』、菜々緒は『神様はバリにいる』、鯨の父親役の宇崎竜童は『ペコロスの母に会いに行く』、村上淳は『新宿スワン』、石橋蓮司は『この国の空』、金児憲史は『日輪の遺産』、佐津川愛美は『悪夢のエレベーター』で、それぞれ見ました。
(注7)ただ、鯨は、標的に催眠術をかけて自殺に追い込むように見えるところ、こうした技法をどのように習得したのか描き出してほしいものだと思いました。
また、「押し屋」については、その存在が裏社会で知れ渡っているのであれば、寺原会長の息子がいくら奔放だとしても、独りで交差点の車道寄りのところに立つという無防備なことはしないのではと思いました。
(注8)蝉の相棒で殺しを請け負う交渉人の岩西(村上淳)も、実在しないミュージシャンの言葉を絶えず引用するユニークな存在となっています。
(注9)ラストの方で、鯨と蝉の亡霊に鈴木は遭遇するものの、お互いに見ず知らずの他人に出会った風情です(前を行く鈴木を見て、蝉が「なんだあいつ?」とつぶやきます)。
原作の方では、蝉は、「押し屋」を探し出だすため鈴木の後を追いかけ、比与子に捕らえられている鈴木を救出するというストーリーになっていて(文庫版P.231~)、かろうじて鈴木と蝉とはつながっています(それでも、鈴木と鯨はつながりませんが)。
(注10)彼の周囲には彼を警護する者しかいないように見え、単なるヤクザの一親分に過ぎない感じがします。“裏社会のドン”というのであれば、大きな組織体のトップであり、いくら病身とはいえ、たえず様々の仕事をこなしているのではないでしょうか?
(注11)最後の方で、槿の妻とされているすみれ(麻生久美子)は、鈴木に、自分たちのことにつき、「あなたが潜り込んだ組織(フロイラインでしょうか)の敵」であり、「寺原親子の度を過ぎた悪意から人々を守るためのアンダーグラウンドの互助会」だと述べています。
(注12)槿たちのグループに属すると思われるメッシュの女が、いとも簡単に寺原会長や比与子を殺してしまうのを見ると、一体この作品は何を描いているんだという気がしてきます〔原作でも、槿の仲間が寺原をアッサリ毒殺(「毒の入ったお茶を飲んで」)しています(文庫版P.311)〕。
(注13)このWikipediaの記事では「群生相」となっていますが、原作では「群集相」となっています(文庫版P.158)。
(注14)「グラスホッパー(トノサマバッタ)は密集して育つと、黒く変色し、凶暴になる。人間もしかり……」と、公式サイトの「STORY」に記載されています。
原作では、トノサマバッタの「群集相」について話す槿は、「群集相は大移動をして、あちこちのものを食い散らかす。仲間の死骸だって食う。同じトノサマバッタでも緑のやつとは大違いだ。人間もそうだ」と言って、「人もごちゃごちゃしたところで暮らしていたら、おかしくなる。人間は密集して暮らしている。通勤ラッシュや行楽地の渋滞なんて、感動ものだ」と付け加えます。
こうした説明からすれば、渋谷のスクランブル交差点が象徴する如く、今の人間社会(特に大都会)そのものが「群集相」の下にあると言っているのでしょう。
現に、鈴木が「人はその、群集相ばっかりってことですか」と問うと、槿は「都会は特に穏やかに生きていくほうがよほど難しい」と答えますから(文庫版P.160)。
ただ、そうだとしたら、鈴木も、さらには事故死した百合子も、またカボチャのお化けになった子どもだって皆群集相の下にあることになりますが、 彼らは、普通の人間と違い“黒く変色”しているのでしょうか?
そうではなくて、鯨や蝉、槿などの殺し屋が「群集相」の下にあると考えられるかもしれません。
ですが、槿の説明に従えば、そんな単独で動いている個人ではなく、一つの集団として「群集相」はあるのではないでしょうか(イナゴの大群のように「大移動」するのですから!)?
それに、鯨や蝉などの殺し屋の来歴の詳細が描かれていませんから、本当に「群集相」と言えるような状況に置かれていたのかどうかもわからないように思われます(それに、彼らが「ちゃごちゃしたところで暮らしていた」としたら、ものすごく大勢の「殺し屋」がこの世に出現していることになるのではないでしょうか?)。
なんだか、ジンギスカンの蒙古軍のような場合に、この「群集相」がうまく当てはまるようにも思えますが、はたしてモンゴル帝国の時代にスクランブル交差点のようなものがあったのでしょうか?
★★★☆☆☆
象のロケット:グラスホッパー
(1)伊坂幸太郎氏の原作を映画化した作品というので映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、ハロウィンで大混雑する渋谷ハチ公前のスクランブル交差点。
百合子(注2:波瑠)が信号待ちをしています。
そばにカボチャのお化けに扮した子どもがやってきたので、飴をあげます。
その時、交差点の近くで駐車していた車の中の男が、携帯で「お前は救世主だ」との指令を受けると(注3)、汗をダラダラかきながら薬を飲み込んで車を発進させ、信号が「青」でスクランブル交差点にいた群衆の中に突進。
百合子はその車に跳ね飛ばされ地面に倒れます。
カボチャのお化けに扮した子どもが現れ、落ちていた指輪(注4)を拾います。
交差点の上空ではバッタの群れが乱舞しています。
次いで、遺体安置所で百合子の遺体のそばに佇む鈴木(生田斗真)。
鈴木が、遺品の中にあった指輪ケースを開けると、中は空。
鈴木が、事故のあったスクランブル交差点に行き、百合子が倒れていた地面の辺を見下ろしていると、「本当の犯人は別にいる。フロイラインの寺原親子を調べろ」と書いた紙が落ちてきます。
「1日目」の表示があり、積乱雲が映し出され、ベランダの鉢植えにはバッタが。
鈴木は部屋で、一人で食事をしています。
次いで、鈴木が渋谷で、痩せる薬のキャッチセールスをしている場面。
そこにメッシュの女(佐津川愛美)が現れ、「こんなやり方じゃあ誰もゲットできない。教え子の顔忘れているんだもの。中学の理科、こいつに習った」と、あっけにとられる鈴木に向かって言い放ちます。
鈴木のそばにいたフロイラインの幹部の比与子(菜々緒)が、「知らなかった。道理で使えない新人だなと思った」と言います(注5)。
比与子は、薬について詳しく説明すると言ってメッシュの女をフロイラインの事務室に連れて行きますが、飲み物に睡眠薬を入れて眠らせます。
さあ、これから物語はどのように展開していくのでしょうか、………?
本作は、3人の全く異なるタイプの殺し屋が登場してなかなか興味深いとはいえ、彼らと主人公の元教師との繋がりが至極希薄で、なんだかバラバラな物語を見せられた感じがしてしまいます。それに、タイトルになぜグラスホッパーが用いられるのかについても、いまいちチピンときませんでした。クマネズミは、『ゴールデンスランバー』とか『ポテチ』のように面白いのかなと思っていたところ、やや期待はずれの作品でした(注6)。
(2)確かに、自殺屋と呼ばれる殺し屋の鯨(浅野忠信)とか、押し屋と呼ばれる殺し屋・槿(吉岡秀隆)は、見る者の意表をつく存在と言えるでしょう(注7)。
また、ナイフを使う殺し屋の蝉(山田涼介)も、動きが素晴らしいですし、シジミの泡をしみじみと見つめる場面はユニークです(注8)。
とはいえ、本作の主人公の鈴木が、肝心の鯨と蝉に絡む場面が映画では全く映し出されないために(注9)、見ている方は、何故この3人がことさら映画で描かれるのかよくわからなくなります。
鈴木と鯨、蝉をつなげる者として、裏社会のドンの寺原会長(石橋蓮司)が考えられないこともありません。でも、そのためには、もっと彼を大きな存在として描く必要があるのではないでしょうか(注10)?何しろ、稀代の殺し屋が何人も付け狙う標的なのですから。
さらに、この寺原会長を潰そうとするグループ(注11)が、会長と同じくらい簡単にしか描かれないのも、不可解な感じがするところです(注12)。
それにそもそも、「グラスホッパー」というタイトルの意味がよく理解できません。
思わせぶりにバッタの大写しや大群の様が何度も描き出され、また「群生相」(注13)といった言葉で凶暴化したバッタのことを説明したりしますが、ストーリーとどのように関係するのか、よくわかりませんでした(注14)。
(3)渡まち子氏は、「実は私は、映画化された伊坂幸太郎作品とは相性が良くないのだが、本作には不思議と惹かれてしまった」として65点をつけています。
(注1)監督は、『脳男』や『スープ・オペラ』の瀧本智行。
脚本は、『ツレがうつになりまして。』や『日輪の遺産』の青島武。
原作は、伊坂幸太郎著『グラスホッパー』(角川文庫)。
(注2)百合子は、中学校の給食栄養士で、同じ中学校で理科の教師である主人公・鈴木の恋人。
(注3)指令を出した男が、裏社会のドンである寺原会長のドラ息子(金児憲史)。寺原会長の力によって、この事件はもみ消されてしまいます〔原作では、息子自身が車を運転して鈴木の妻を轢いています(文庫版P.18)〕。
(注4)その指輪は、鈴木が、その日の昼間に百合子にプロポーズした際、彼女の指にはめたもの。映画のラストにも登場します
(注5)鈴木は、百合子の事故死の後中学を辞め、「フロイライン」という会社にそれまでの履歴を隠して潜り込んだようです。
(注6)出演者の内、最近では、生田斗真は『予告犯』、浅野忠信は『岸辺の旅』、麻生久美子は『ラブ&ピース』、吉岡秀隆は『小さいおうち』、波瑠は『みなさん、さようなら』、菜々緒は『神様はバリにいる』、鯨の父親役の宇崎竜童は『ペコロスの母に会いに行く』、村上淳は『新宿スワン』、石橋蓮司は『この国の空』、金児憲史は『日輪の遺産』、佐津川愛美は『悪夢のエレベーター』で、それぞれ見ました。
(注7)ただ、鯨は、標的に催眠術をかけて自殺に追い込むように見えるところ、こうした技法をどのように習得したのか描き出してほしいものだと思いました。
また、「押し屋」については、その存在が裏社会で知れ渡っているのであれば、寺原会長の息子がいくら奔放だとしても、独りで交差点の車道寄りのところに立つという無防備なことはしないのではと思いました。
(注8)蝉の相棒で殺しを請け負う交渉人の岩西(村上淳)も、実在しないミュージシャンの言葉を絶えず引用するユニークな存在となっています。
(注9)ラストの方で、鯨と蝉の亡霊に鈴木は遭遇するものの、お互いに見ず知らずの他人に出会った風情です(前を行く鈴木を見て、蝉が「なんだあいつ?」とつぶやきます)。
原作の方では、蝉は、「押し屋」を探し出だすため鈴木の後を追いかけ、比与子に捕らえられている鈴木を救出するというストーリーになっていて(文庫版P.231~)、かろうじて鈴木と蝉とはつながっています(それでも、鈴木と鯨はつながりませんが)。
(注10)彼の周囲には彼を警護する者しかいないように見え、単なるヤクザの一親分に過ぎない感じがします。“裏社会のドン”というのであれば、大きな組織体のトップであり、いくら病身とはいえ、たえず様々の仕事をこなしているのではないでしょうか?
(注11)最後の方で、槿の妻とされているすみれ(麻生久美子)は、鈴木に、自分たちのことにつき、「あなたが潜り込んだ組織(フロイラインでしょうか)の敵」であり、「寺原親子の度を過ぎた悪意から人々を守るためのアンダーグラウンドの互助会」だと述べています。
(注12)槿たちのグループに属すると思われるメッシュの女が、いとも簡単に寺原会長や比与子を殺してしまうのを見ると、一体この作品は何を描いているんだという気がしてきます〔原作でも、槿の仲間が寺原をアッサリ毒殺(「毒の入ったお茶を飲んで」)しています(文庫版P.311)〕。
(注13)このWikipediaの記事では「群生相」となっていますが、原作では「群集相」となっています(文庫版P.158)。
(注14)「グラスホッパー(トノサマバッタ)は密集して育つと、黒く変色し、凶暴になる。人間もしかり……」と、公式サイトの「STORY」に記載されています。
原作では、トノサマバッタの「群集相」について話す槿は、「群集相は大移動をして、あちこちのものを食い散らかす。仲間の死骸だって食う。同じトノサマバッタでも緑のやつとは大違いだ。人間もそうだ」と言って、「人もごちゃごちゃしたところで暮らしていたら、おかしくなる。人間は密集して暮らしている。通勤ラッシュや行楽地の渋滞なんて、感動ものだ」と付け加えます。
こうした説明からすれば、渋谷のスクランブル交差点が象徴する如く、今の人間社会(特に大都会)そのものが「群集相」の下にあると言っているのでしょう。
現に、鈴木が「人はその、群集相ばっかりってことですか」と問うと、槿は「都会は特に穏やかに生きていくほうがよほど難しい」と答えますから(文庫版P.160)。
ただ、そうだとしたら、鈴木も、さらには事故死した百合子も、またカボチャのお化けになった子どもだって皆群集相の下にあることになりますが、 彼らは、普通の人間と違い“黒く変色”しているのでしょうか?
そうではなくて、鯨や蝉、槿などの殺し屋が「群集相」の下にあると考えられるかもしれません。
ですが、槿の説明に従えば、そんな単独で動いている個人ではなく、一つの集団として「群集相」はあるのではないでしょうか(イナゴの大群のように「大移動」するのですから!)?
それに、鯨や蝉などの殺し屋の来歴の詳細が描かれていませんから、本当に「群集相」と言えるような状況に置かれていたのかどうかもわからないように思われます(それに、彼らが「ちゃごちゃしたところで暮らしていた」としたら、ものすごく大勢の「殺し屋」がこの世に出現していることになるのではないでしょうか?)。
なんだか、ジンギスカンの蒙古軍のような場合に、この「群集相」がうまく当てはまるようにも思えますが、はたしてモンゴル帝国の時代にスクランブル交差点のようなものがあったのでしょうか?
★★★☆☆☆
象のロケット:グラスホッパー