映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

グラスホッパー

2015年11月28日 | 邦画(15年)
 『グラスホッパー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)伊坂幸太郎氏の原作を映画化した作品というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、ハロウィンで大混雑する渋谷ハチ公前のスクランブル交差点。
 百合子(注2:波瑠)が信号待ちをしています。



 そばにカボチャのお化けに扮した子どもがやってきたので、飴をあげます。

 その時、交差点の近くで駐車していた車の中の男が、携帯で「お前は救世主だ」との指令を受けると(注3)、汗をダラダラかきながら薬を飲み込んで車を発進させ、信号が「青」でスクランブル交差点にいた群衆の中に突進。
 百合子はその車に跳ね飛ばされ地面に倒れます。
 カボチャのお化けに扮した子どもが現れ、落ちていた指輪(注4)を拾います。
 交差点の上空ではバッタの群れが乱舞しています。

 次いで、遺体安置所で百合子の遺体のそばに佇む鈴木生田斗真)。
 鈴木が、遺品の中にあった指輪ケースを開けると、中は空。
 鈴木が、事故のあったスクランブル交差点に行き、百合子が倒れていた地面の辺を見下ろしていると、「本当の犯人は別にいる。フロイラインの寺原親子を調べろ」と書いた紙が落ちてきます。

 「1日目」の表示があり、積乱雲が映し出され、ベランダの鉢植えにはバッタが。
 鈴木は部屋で、一人で食事をしています。
 次いで、鈴木が渋谷で、痩せる薬のキャッチセールスをしている場面。
 そこにメッシュの女(佐津川愛美)が現れ、「こんなやり方じゃあ誰もゲットできない。教え子の顔忘れているんだもの。中学の理科、こいつに習った」と、あっけにとられる鈴木に向かって言い放ちます。
 鈴木のそばにいたフロイラインの幹部の比与子菜々緒)が、「知らなかった。道理で使えない新人だなと思った」と言います(注5)。



 比与子は、薬について詳しく説明すると言ってメッシュの女をフロイラインの事務室に連れて行きますが、飲み物に睡眠薬を入れて眠らせます。
 さあ、これから物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、3人の全く異なるタイプの殺し屋が登場してなかなか興味深いとはいえ、彼らと主人公の元教師との繋がりが至極希薄で、なんだかバラバラな物語を見せられた感じがしてしまいます。それに、タイトルになぜグラスホッパーが用いられるのかについても、いまいちチピンときませんでした。クマネズミは、『ゴールデンスランバー』とか『ポテチ』のように面白いのかなと思っていたところ、やや期待はずれの作品でした(注6)。

(2)確かに、自殺屋と呼ばれる殺し屋の浅野忠信)とか、押し屋と呼ばれる殺し屋・槿吉岡秀隆)は、見る者の意表をつく存在と言えるでしょう(注7)。
 また、ナイフを使う殺し屋の山田涼介)も、動きが素晴らしいですし、シジミの泡をしみじみと見つめる場面はユニークです(注8)。

 とはいえ、本作の主人公の鈴木が、肝心の鯨と蝉に絡む場面が映画では全く映し出されないために(注9)、見ている方は、何故この3人がことさら映画で描かれるのかよくわからなくなります。
 鈴木と鯨、蝉をつなげる者として、裏社会のドンの寺原会長(石橋蓮司)が考えられないこともありません。でも、そのためには、もっと彼を大きな存在として描く必要があるのではないでしょうか(注10)?何しろ、稀代の殺し屋が何人も付け狙う標的なのですから。



 さらに、この寺原会長を潰そうとするグループ(注11)が、会長と同じくらい簡単にしか描かれないのも、不可解な感じがするところです(注12)。

 それにそもそも、「グラスホッパー」というタイトルの意味がよく理解できません。
 思わせぶりにバッタの大写しや大群の様が何度も描き出され、また「群生相」(注13)といった言葉で凶暴化したバッタのことを説明したりしますが、ストーリーとどのように関係するのか、よくわかりませんでした(注14)。

(3)渡まち子氏は、「実は私は、映画化された伊坂幸太郎作品とは相性が良くないのだが、本作には不思議と惹かれてしまった」として65点をつけています。



(注1)監督は、『脳男』や『スープ・オペラ』の瀧本智行
 脚本は、『ツレがうつになりまして。』や『日輪の遺産』の青島武
 原作は、伊坂幸太郎著『グラスホッパー』(角川文庫)。

(注2)百合子は、中学校の給食栄養士で、同じ中学校で理科の教師である主人公・鈴木の恋人。

(注3)指令を出した男が、裏社会のドンである寺原会長のドラ息子(金児憲史)。寺原会長の力によって、この事件はもみ消されてしまいます〔原作では、息子自身が車を運転して鈴木の妻を轢いています(文庫版P.18)〕。

(注4)その指輪は、鈴木が、その日の昼間に百合子にプロポーズした際、彼女の指にはめたもの。映画のラストにも登場します

(注5)鈴木は、百合子の事故死の後中学を辞め、「フロイライン」という会社にそれまでの履歴を隠して潜り込んだようです。

(注6)出演者の内、最近では、生田斗真は『予告犯』、浅野忠信は『岸辺の旅』、麻生久美子は『ラブ&ピース』、吉岡秀隆は『小さいおうち』、波瑠は『みなさん、さようなら』、菜々緒は『神様はバリにいる』、鯨の父親役の宇崎竜童は『ペコロスの母に会いに行く』、村上淳は『新宿スワン』、石橋蓮司は『この国の空』、金児憲史は『日輪の遺産』、佐津川愛美は『悪夢のエレベーター』で、それぞれ見ました。

(注7)ただ、鯨は、標的に催眠術をかけて自殺に追い込むように見えるところ、こうした技法をどのように習得したのか描き出してほしいものだと思いました。



 また、「押し屋」については、その存在が裏社会で知れ渡っているのであれば、寺原会長の息子がいくら奔放だとしても、独りで交差点の車道寄りのところに立つという無防備なことはしないのではと思いました。

(注8)蝉の相棒で殺しを請け負う交渉人の岩西村上淳)も、実在しないミュージシャンの言葉を絶えず引用するユニークな存在となっています。

(注9)ラストの方で、鯨と蝉の亡霊に鈴木は遭遇するものの、お互いに見ず知らずの他人に出会った風情です(前を行く鈴木を見て、蝉が「なんだあいつ?」とつぶやきます)。
 原作の方では、蝉は、「押し屋」を探し出だすため鈴木の後を追いかけ、比与子に捕らえられている鈴木を救出するというストーリーになっていて(文庫版P.231~)、かろうじて鈴木と蝉とはつながっています(それでも、鈴木と鯨はつながりませんが)。

(注10)彼の周囲には彼を警護する者しかいないように見え、単なるヤクザの一親分に過ぎない感じがします。“裏社会のドン”というのであれば、大きな組織体のトップであり、いくら病身とはいえ、たえず様々の仕事をこなしているのではないでしょうか?

(注11)最後の方で、槿の妻とされているすみれ麻生久美子)は、鈴木に、自分たちのことにつき、「あなたが潜り込んだ組織(フロイラインでしょうか)の敵」であり、「寺原親子の度を過ぎた悪意から人々を守るためのアンダーグラウンドの互助会」だと述べています。

(注12)槿たちのグループに属すると思われるメッシュの女が、いとも簡単に寺原会長や比与子を殺してしまうのを見ると、一体この作品は何を描いているんだという気がしてきます〔原作でも、槿の仲間が寺原をアッサリ毒殺(「毒の入ったお茶を飲んで」)しています(文庫版P.311)〕。

(注13)このWikipediaの記事では「群生相」となっていますが、原作では「群集相」となっています(文庫版P.158)。

(注14)「グラスホッパー(トノサマバッタ)は密集して育つと、黒く変色し、凶暴になる。人間もしかり……」と、公式サイトの「STORY」に記載されています。
 原作では、トノサマバッタの「群集相」について話す槿は、「群集相は大移動をして、あちこちのものを食い散らかす。仲間の死骸だって食う。同じトノサマバッタでも緑のやつとは大違いだ。人間もそうだ」と言って、「人もごちゃごちゃしたところで暮らしていたら、おかしくなる。人間は密集して暮らしている。通勤ラッシュや行楽地の渋滞なんて、感動ものだ」と付け加えます。
 こうした説明からすれば、渋谷のスクランブル交差点が象徴する如く、今の人間社会(特に大都会)そのものが「群集相」の下にあると言っているのでしょう。
 現に、鈴木が「人はその、群集相ばっかりってことですか」と問うと、槿は「都会は特に穏やかに生きていくほうがよほど難しい」と答えますから(文庫版P.160)。
 ただ、そうだとしたら、鈴木も、さらには事故死した百合子も、またカボチャのお化けになった子どもだって皆群集相の下にあることになりますが、 彼らは、普通の人間と違い“黒く変色”しているのでしょうか?
 そうではなくて、鯨や蝉、槿などの殺し屋が「群集相」の下にあると考えられるかもしれません。
 ですが、槿の説明に従えば、そんな単独で動いている個人ではなく、一つの集団として「群集相」はあるのではないでしょうか(イナゴの大群のように「大移動」するのですから!)?
 それに、鯨や蝉などの殺し屋の来歴の詳細が描かれていませんから、本当に「群集相」と言えるような状況に置かれていたのかどうかもわからないように思われます(それに、彼らが「ちゃごちゃしたところで暮らしていた」としたら、ものすごく大勢の「殺し屋」がこの世に出現していることになるのではないでしょうか?)。
 なんだか、ジンギスカンの蒙古軍のような場合に、この「群集相」がうまく当てはまるようにも思えますが、はたしてモンゴル帝国の時代にスクランブル交差点のようなものがあったのでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:グラスホッパー

マルガリータで乾杯を!

2015年11月26日 | 洋画(15年)
 『マルガリータで乾杯を!』を銀座シネスイッチで見ました。

(1)上映時間が時間の隙間にちょうど上手く嵌っていたので、何はともあれと事前情報を一切持たずに映画館に飛び込みました。

 本作(注1)のはじめは、母親の運転するバンが道路を走っている場面。 そのバンには主人公・ライラカルキ・ケクラン)の一家が乗っています。
 助手席の父親が歌を歌い始めると、息子が「音痴なんだから代金をくれ」と言い、父親が「大金をやるから聴け」と答えると、息子は「要らない」と応じます。
 最初の地点でバンから父親が降り、次の地点で、母親(レーヴァティ)がバンから車椅子を降ろして、それに乗って娘はデリー大学の教室に入っていきます。

 大学では、幼馴染で同じように車椅子に乗っているドゥルヴフセイン・ダラール)が、「ボクの花嫁候補は君だ」などと言ってくれます。



 ですが、ライラは、バンドでヴォーカルをやっているニマに恋してしまいます。なにしろ、ライラが自分で書いた詩をニマに送ると、ニマはそれに素晴らしい曲をつけてくれるのですから(注2)。
 スッカリ舞い上がってしまったライラは、ドゥルヴが「メールで俺を無視している」と詰ると、「私のことは忘れて、さよなら」と言ってしまいます。
 ドゥルヴは「健常者と付き合っても健常者にはなれないぞ」と警告しますが、ライラは「嫌なやつ」と突き放ちます。

 母親に対して、ライラは「好きな人が出来たの。彼も音楽が好きなの」と打ち明けます。



 さらに、音楽のコンテストが開催され、ニマのバンドは、ライラの歌を歌って優勝します。
 ですが、司会者が「障害者が書いた歌だというので優勝にした」と発言したために、ライラは引いてしまいます。
 それに、ニモの方も、ライラの詩作の才能は認めるものの、恋愛感情は持っていないことが分かってしまいます(注3)。
 ライラは母親に、「私バカみたい。彼は私のこと愛していなかったの。もうこの大学には通いたくない」と言います。
 さあ、ライラはこれからどうするのでしょうか、………?

 チケットを買うときにインド映画だと分かり、タイトルと考え合わせると(何しろ“乾杯”なのですから!)、例の歌あり踊りありの楽しいボリウッド映画に違いないと思っていました。
 ところがさにあらず、ボリウッド映画につきものの群衆の乱舞といったシーンなど全くありません。
 それどころか、これまで見た映画の印象から、インド映画界は至極保守的なところではないかと思っていたところ、邦画でもなかなか見られないような先端的な話題をふんだんに取り入れた映画に思いがけずぶち当たってしまったのです。
 一方で見入ってしまうと同時に、他方で酷く戸惑ってしまいました。

(2)なにしろ、主人公・ライラは脳性麻痺の障害者でありながらインドの名門大学に通う19歳の女子大生なのです。言葉を明瞭に発することが出来ず、また車椅子で生活しています。
 なおかつ、ニューヨーク大学に留学するのですが、そこで目の不自由な女子学生・ハヌムサヤーニー・グプター)と性的な関係を持ち一緒に同棲生活をするようになってしまうのです(注4)。



 そればかりか、アメリカからハヌムと春休みに一時帰国したら、ライラは、母親が結腸がんでステージ2であることを父親から告げられるのです。
そのうちのどれか一つでも重すぎる問題であり、そんな問題がこうも重なれば、見ている方としてはとてもついていけない気分になってきます(注5)。

 しかしながら、本作は、ライラを、過酷な運命に押さえつけられた暗い女性としては決して描かずに、絶えず前向きにポジティブに生きていこうとする好奇心旺盛な女性として描き出しています(注6)。

 それに、主役のカルキ・ケクランが言うように(注7)、「“たまたま車いす子に乗っている普通の女の子”がティーンエイジャー特有の恋愛や家族からの自立などの問題に直面する姿が描かれてい」るというように本作を見れば、本作が実にみずみずしく描かれていることもわかってきます(注8)。

 とはいえ、いろいろの観点から見ることができる作品ながら、もう少しすっきりと描いた方が見る者により強く訴えかけるのでは、と思いました(注9)。

(3)藤原帰一氏は、「確かに脚本は詰め込み過ぎだし、カメラにも取り柄はない。でも障害を抱える少女の性の目覚めをくっきりと表現しただけでお手柄。新しいものを見た幸せを与えてくれる作品」と述べています。
 暉峻創三氏は、「描かれる内容はセンセーショナルだが、それを終始淡々と語り進めていく監督の確信に満ちた態度が、映画をなおいっそう輝かせる。監督の人間観察力とケクランの演技力が、奇跡のような化学反応を起こした名作だ」と述べています。
 読売新聞の大木隆士氏は、「障害者の恋愛や性についても、避けることなく見つめる。深刻になりそうな題材だが、常に前を向き、失敗を重ねつつも成長していくヒロインの姿を、爽やかに描き出した」と述べています。



(注1)監督・脚本はショナリ・ボース
 原題は「Margarita with a Straw」。

(注2)その曲が「ドゥソクテ」(“君の瞳に”という意味)という歌で、こちらのURLの中で歌を聞くことが出来ます(歌詞を翻訳したものは、劇場用パンフレットに掲載されています)。

(注3)ライラが「あなたのことだけ思っている」と言っても、ニモは「バンドのみんなが君を好きだ」とか「みんながあなたを待っている」と答えるだけでした。

(注4)主人公・ライラは、レポート作成を手伝ってくれる男子学生・ジャレッドウィリアム・モーズリー)とも性的関係を持ちますから、バイセクシャルなのです。

(注5)ここに掲げた3つの問題でも深刻な消化不良を起こしてしまうほどにもかかわらず、劇場用パンフレットに掲載の松岡環氏のエッセイ「主人公の母娘と監督に乾杯!」によれば、父親と母親との間には、「異なる宗教の信者同士のカップル」(シク教徒とヒンズー教徒)であり、さらに「州をまたいで結婚」(パンジャーブ州出身者とマハーラーシュトラ州出身者)しているという問題までも設定されているのです。

(注6)ストローでマルガリータを飲んでいるラストシーンでのライラの姿がとても印象的です。

(注7)公式サイトの「Cast」掲載の「Interview」より。

(注8)例えば、最初の頃は口紅を塗り出したりするくらいですが(パソコンで怪しい画像を見たり一人エッチをしたりします)、ニモが好きになると、毎日母親に髪の毛を洗ってもらうようになったりします(母親が「昨日も洗ったはずなのに」といぶかしがります)。

(注9)本作は、障害者を描いても、例えば『くちづけ』のように“感動”を見る者に強制するような仕上がりにはなっていない点が評価できるのではと思いました。



★★★☆☆☆




ミケランジェロ・プロジェクト

2015年11月24日 | 洋画(15年)
 『ミケランジェロ・プロジェクト』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)ジョージ・クルーニーが監督・主演の作品だということで見に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、「Based on a true story」のクレジットが映し出された後、ベルギーのヘントの大聖堂の中。ファン・アイクの祭壇画に毛布がかけられてトラックに積み込まれます。男が「裏道を通って行け。南からドイツ軍がやってくる」と、出発するトラックに向かって言っています。

 次いで、1943年3月のパリ。
 ルーブル美術館でしょう、ベラスケスなどの絵画がたくさん並べられた部屋にゲーリング元帥が入ってきます。
 その素晴らしさにゲーリングがシャンパンで乾杯しようと言い出し、親衛隊のシュタールが秘書のクレールケイト・ブランシェット)にグラスを用意させますが、彼女は、唾を垂らしたシャンパングラスを持ってきます。
 シャンパンを飲みながら、ゲーリングは「これとこれを別荘へ運べ。ベルヒテスガーデンの総統への贈り物にするのだ」と命じます。

 次の画面では、ミラノにある僧院の3方の壁と屋根が、英軍の爆撃によって崩れてしまっている様子が映し出されます。その僧院の壁には、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が描かれているのです。
 そして、その映像を使ってストークス教授(ジョージ・クルーニー)が大統領に説明をしています。「ヘントの祭壇画がナチスによって略奪されました」「我々は、戦争に勝つでしょう。しかし、これらが破壊されたら、取り返しがつきません」「「モナリザの微笑」を誰が守るのでしょうか」。

 大統領は「戦争中なのだから仕方がない」と言うものの、ストークスがリーダーとなって7人から成る特殊部隊「monuments men」が結成され、ナチスが略奪した美術品の奪還作戦を遂行することになります。



 さあ、うまくいくのでしょうか、………?

 本作は、第2次大戦末期、ヒトラーが、総統美術館の建設を目指してヨーロッパの美術品を集めているというので、それを阻止すべく立ち上がった7人の男の物語。
 実話に基づいていて、映画の中には、ファン・アイクの祭壇画などよく知られた絵画などがふんだんに登場します。その上、ジョージ・クルーニーだけでなく、マット・デイモンやビル・マーレイ、ケイト・ブランシェットなど名だたる俳優が登場しますから、見ていて飽きません。
 とはいえ、相変わらずの正義の味方の米軍という描き方や、消化不良になるくらい盛りだくさんのエピソードがこれといった山場なく繋げられているといった点で、イマイチの感もありますが(注2)。

(2)なにしろ、本作では、ファン・アイクの祭壇画ばかりでなく、フェルメールの「天文学者」などの名品が次々に映し出されます。

 それはそれでとても興味深いものの、「Monuments men」の構成メンバーをそうそうたる俳優が演じているために、一人一人にエピソードが割り当てられている感じがします。
 例えば、ヒュー・ボネヴィルは、ミケランジェロの聖母子像(注3)を教会で独りで守っていたところ、その彫像を運び出しに来たナチスの将校によって射殺されてしまいます。
 また、ビル・マーレイボブ・バラバンが、パリで学んだという美術愛好家の家に行った際に、壁にかけられているセザンヌやルノアールの絵が、レプリカなどではなく本物であることがわかり、同時にその家の主人がナチス親衛隊のシュタールであることも明らかになります(注4)。
 さらには、リーダーのストークスが、ソ連軍が接収のために間際まで接近しているさなかに、岩塩坑の奥に「ミケランジェロの聖母子像」を見つけるのです。
 こうしたエピソードが、次々に描き出されるために、イマイチ盛り上がりが乏しく、全体としてとても平板に見えてしまいます。

 それに、ソ連軍の行動が、まるでナチスの行動をなぞっているように描かれている点もどうなのかなと思ってしまいます。
 確かに、そうした面はあったのでしょう(何しろ、同じような独裁国家だったのですから)。
 でも、そう描き出すことによって、民主主義を守る正義のアメリカ軍といったお馴染みの戦争映画の範疇にこの作品も入ってしまうように思われますし、また、ヒトラーの暴虐の要素も薄められてしまうのではないでしょうか?

 例えば、ソ連軍の話のウエイトをもっと低くした上で、ファン・アイクの祭壇画の略奪からその再発見に至る話だけにフォーカスを絞って描き出すようにしてみたら、この映画はもっと面白い作品に仕上がったのではないでしょうか(注5)?

 それにしても、ヒトラーが美術品に絡むと、どうして“ミケランジェロ”が登場するのでしょうか?
 というのも、以前見た『ミケランジェロの暗号』においても、ヒトラーがムッソリーニに贈呈しようとして「ミケランジェロの素描」を親衛隊に探させるお話でしたから。

(3)渡まち子氏は、「(本作は)そんな中止・延期の果てに公開された、いわくつきの作品」、「とにもかくにも(小規模ながら…)公開にこぎつけたのは、映画ファンとしては喜ばしいことと言えるでしょう」と述べています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「クルーニーは目配りが利いた脚本、構成で、人類の文化遺産を救った英雄、モニュメンツ・メンの活躍に光をあてた」と述べています。
 日経ビジネスオンラインの池田信太朗氏は、「美術品は誰のものか――。19世紀から20世紀にかけての戦火がもたらした混乱は、いまだ解決されていない。『ミケランジェロ・プロジェクト』を観ながら、そんなことを考えた」と述べています。



(注1)本作の監督・脚本・製作はジョージ・クルーニー
 原作は、ロバート・M・エドゼル著『ミケランジェロ・プロジェクト』(角川文庫:未読)。

(注2)出演者の内、最近では、ジョージ・クルーニーは『トゥモローランド』、マット・デイモンは『インターステラー』、ビル・マーレイは『ヴィンセントが教えてくれたこと』、ケイト・ブランシェットは『ブルージャスミン』、ジョン・グッドマンは『フライト』、ジャン・デュジャルダンは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』、ボブ・バラバンは『ジゴロ・イン・ニューヨーク』で、それぞれ見ました。

(注3)ベルギーのブリュージュにあるノートルダム聖母教会内に置かれています(例えばこの記事を参照)。

(注4)ボブ・バラバンが、セザンヌの画の裏側にロスチャイルドの署名があることを見つけたことによって(更には、子どもたちが「ハイル・ヒトラー!」と叫んで遊んでいることによっても)。

(注5)あるいは、マット・デイモンとケイト・ブランシェットが絡む話をメインに据えてみたらと思います。



 ただし、ケイト・ブランシェットが扮する秘書のクレールのモデルは、実在した美術館職員のローズ・ヴァランであり、彼女が書いたノンフィクション『美術戦線』に基づいて『大列車作戦』が制作されていますから、二番煎じになりかねませんが。



★★★☆☆☆



象のロケット:ミケランジェロ・プロジェクト

アクトレス 女たちの舞台

2015年11月20日 | 洋画(15年)
 『アクトレス 女たちの舞台』を新宿シネマカリテで見ました。

(1)ジュリエット・ビノシュが出演する映画だというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭はスイスを走る列車の中。
 大女優マリアジュリエット・ビノシュ)の個人秘書のヴァレンティンクリステン・スチュアート)が、電話で、「撮影は1日だけニューヨークで。きついけど、そういう約束。またかけ直して」、「マリアはパリにいません。彼女は今列車に乗っています」、「よく聞こえません。アルプスなので」、「X-MENの続編から名前は削除して」などと、マリアのスケジュール調整などにあたっています。

 マリアが、ヴァレンティンに隠れて、係争中の離婚訴訟について弁護士と電話で話していると、ヴァレンティンが「ヴィルヘルムが亡くなった」と知らせに来ます。
 ヴァレンティンは、「劇作家ヴィルヘルム 72歳 死去」を報じている新聞を読みますが、どうやらマリアは、ヴィルヘルムに与えられる賞を彼に代わって受け取りにチューリッヒに向かっているようです。

 ヴァレンティンが、「予定とは大分変わる。悲しい授賞式になる」と言うと、マリアは「辞退して帰るべき」と応じ、さらにヴァレンティンが、「あなた以外にいない。彼のことを思うなら出席すべき」と言うと、マリアは「でも、彼のことをよく知らない」と答えます。

 マリアは、フランスのラジオ局からのインタビューに携帯で応じます。



 列車がチューリッヒに到着すると、出迎えの男たちとともにマリアたちは車に乗ります。
 車の中で、授賞式関係の男が、「ヘンリクハンス・ツィシュラー)を招きました。彼が、代わりに賞を受け取ってもかまわないと言っています。ヴィルヘルムの作品の多くは彼のために書かれましたから」と述べます。

 この後授賞式があり、ホテルに戻ると、新進の演出家のクラウスラース・アイディンガー)が来ていて、マリアにある企画を話します。
 さあ、その内容はどんなものであり、マリアはどう対応するでしょうか、そして話は、………?

 本作では、主人公の大女優マリアが、かつて若い時分に演じた舞台劇に違う役柄で再出演することになり、その劇の上での女性同士の関係と、マリアと彼女の若い女性秘書との関係や、マリアとその再演劇で昔彼女が演じた役を演じる若い女優との関係が重なり合ってきて、随分と見応えある作品となっています。加えて、舞台となるスイスの山々の風景がとても美しく描き出されているので、大層面白く映画を見ることが出来ました(注2)。

(2)本作においては、前回のエントリで取り上げた『起終点駅 ターミナル』において見られた関係の2重写しが、3重構造にもなっているところが興味深い点だと思います(注3)。
 なにしろ、ヴィルヘルムの戯曲「マローヤの蛇」におけるジグリットとヘレナ、同戯曲の再演に際してヴィルヘルムの山荘で台詞の練習するマリア(ヘレナ役として)とヴァレンティン(ジグリット役として)、さらに実際の再演の舞台におけるマリア(ヘレナ役として)とジョアン(ジグリット役として:クロエ・グレース・モレッツ)というような重なりが見られるばかりか、実際にも、マリアとヴァレンティン、マリアとジョアンとの間には、戯曲のジグリットとヘレナの間に描かれているような愛憎入り混じった関係が見られるのです(注4)。

 とはいえ、実際に映画を見ている最中は、決して図式的に感じられることもなく、次々に様々の試練がマリアに襲ってくるものだと思えるに過ぎませんでしたが。

 そして、クマネズミには、そのような試練をマリアが被るように仕向けたのが、自殺した劇作家のヴィルヘルムのように思えて仕方ありませんでした。
 というのも、ヴィルヘルムは、マリアが世に出るきっかけとなった戯曲「マローヤの蛇」を書いた人物であり、個人的な関係はなかったように見えるとはいえ(注5)、その劇で主人公の20歳のジグリットを演じたマリアに、今度はその相手役で自殺する40歳のヘレナを演じさせたら、相当混乱するだろうことがわかっていたのではないかと思われるからですが。
 そんなヴィルヘルムが、自分の代わりにマリアに賞を受け取ってくれと依頼して(注6)、自分の山荘にまで呼んでおきながら、そのまさに授賞式当日に自殺してしまうとは、背後に何か計画的なものがあるように思えてしまいます。
 クマネズミの妄想に過ぎませんが、新進演出家のクラウスが、ヘレンの役で「マローヤの蛇」の再演に出演してくれとマリアのもとに依頼しにやってくるというのも、ヴィルヘルムの意向を踏まえてのものではないでしょうか(注7)?

 そんなことはともかく、こうしたことが描かれる舞台の背景となっているのが、原題に使われているシルス・マリアという土地であり、「マローヤの蛇」という現象です。



 マリアを「マローヤの蛇」が見える山に連れて行ったヴィルヘルムの妻・ローザアンゲラ・ヴィンクラー)は、「これは秘密だが、夫はここを見せたかった代わりに命を絶った」と言い(注8)、「マローヤの蛇」についてマリアが質問すると、「雲の形が蛇のようだから。雲はイタリアから蛇のようにやってくる」と答え、さらに、映画では『マローヤの雲の現象』という映画が映し出されます(注9)。

 こうなると、本作で「マローヤの蛇」が象徴しているものは何なのかとちょっと考えてみたくなります。
 例えば、どんどん雲が形を変えて流れ去っていくところから、時は留まらないのだという思いに繋がり(注10)、ひいてはマリアのように過去に囚われるべきではないということになるかもしれませんし、逆に、同じ形の雲がいくつもいくつも繰り返し流れてくるところから、マリアのように過去を愛する姿勢を受け入れるべきだということになるかもしれません(注11)。

 そんないい加減な解釈はさておいて、本作は、様々な視点からの議論を誘発する実に興味深い作品ではないかと思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「大女優を演じるビノシュの複雑な表情、若手女優を演じるモレッツの輝きと、女優陣は皆、好演だが、何と言っても達観した位置にいながら愛憎を内包するヴァレンティンを演じたクリステン・スチュワートの演技が見事に際立った」として70点をつけています。
 中条省平氏は、「3人の女優が絡む人間ドラマがじつに濃密だ。貫禄をつけたビノシュに挑む秘書役のスチュワートが素晴らしくシャープだが、モレッツもラストの捨て台詞ひとつで見せ場をさらう。これは往年の名画『イヴの総て』を見事に現代化した作品なのである」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「「女優」という題名からは、映画界の舞台裏を巡る華やかなドラマが連想される。だが描かれるのはむしろ、時間に呪われた女優の孤独と焦燥だ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『夏時間の庭』(この拙エントリの(2)で若干触れています)のオリヴィエ・アサイヤス
 原題は「Sils Maria」(英題は「Clouds of Sils Maria」)。

(注2)出演者の内、最近では、ジュリエット・ビノシュは『GODZILLA ゴジラ』、クリステン・スチュワートは『アリスのままで』、クロエ・グレース・モレッツは『モールス』で、それぞれ見ました。

(注3)3重構造といえば、本作では、劇作家ヴィルヘルムの自殺の知らせで幕を開けますが、その作家が書いた戯曲「マローヤの蛇」の中でヘレナは自殺しますし、またその戯曲の再演の舞台で主役ジグリットを演じるジョアンの恋人(ジョニー・フリン)の妻も自殺を図り、都合、「自殺」が3度も出てくるのです。

(注4)例えば、マリアとヴァレンティンは、一緒に裸になって湖で泳ぐかと思えば、役者のヘンリクについて、「顔も見たくない」と言うマリアに対し、ヴァレンティンは「役者として好きよ」と言ったりします(あるいは、戯曲「マローヤの蛇」についての解釈を頑として変えないマリアに対して、ヴァレンティンは「戯曲は物体にすぎない。様々な立場から異なった見方ができる」と反論したりします)。



 また、ジョアンは、一方で、マリアに対し「あなたとの共演は光栄」「ハリソン・フォードと共演の映画は15歳の時に見た」「「かもめ」の舞台も見た」などと言いながら、他方で、再演の「マローヤの蛇」のリハーサル中に、マリアはジョアンに「今の演じ方だとヘレナが存在していないように見えてしまう」「少し間を置いて欲しい」と意見すると、ジョアンは「ヘレナなんか誰も気にしていない」と一蹴してしまいます。



(注5)上記本文の(1)に書きましたように、ヴィルヘルムの訃報を耳にしたマリアは、授賞式に出席すべきとするヴァレンティンに対して、「彼のことをよく知らない」と言って欠席しようとします。
 ですが、ヴィルヘルムの山荘での会話の中で、ヴァレンティンに対してマリアは、「ヴィルヘルムに惹かれていた」「これ以上の関係は危険だと思った」「恋以上のものだった」などと語っています。

(注6)なぜヴィルヘルムは、よく知っているヘンリクではなしに(ヴィルヘルムの妻ローザは、「ヘンリクについて夫は、「考えなければいいやつだ」と言っていた」とマリアに語っています)、マリアに授賞式に出席するように要請したのでしょうか?

(注7)これらがクマネズミの妄想に過ぎないと思えるのは、ヴィルヘルムがそんなことをする動機がよくわからないからですが。
 ただ、マリアは、授賞式にやってきた俳優のヘンリクについて、「役者としては評価するが、顔も見たくない。私が言いなりにならなかったから激怒したのだ」と述べています。上記「注5」で申し上げた点もありますから、あるいは同じようなことがマリアとヴィルヘルムとの間にも起きていたのかもしれません。

(注8)ローザは「夫は、ずっと病気のことを隠していたの」と言い、ヴィルヘルムの自殺もそれに関係しているのかもしれませんが、このローザの言葉からすれば、あるいは何か目的を持ってのことなのかもしれません。

(注9)ローザは、「夫はこの映像に夢中だった」と述べます。
 ちなみに、この作品はこのYouTubeで見ることが出来ます。

(注10)もしかしたら、『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」云々に繋がるのでしょうか?

(注11)あるいは、シルス・マリアで晩年を過ごしたF・ニーチェの「永劫回帰」の思想につながってくるのでしょうか?



★★★★☆☆



象のロケット:アクトレス 女たちの舞台

起終点駅 ターミナル

2015年11月17日 | 邦画(15年)
 『起終点駅 ターミナル』を渋谷TOEIで見ました。

(1)佐藤浩市の主演の映画だということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台は北海道で、冒頭は、吹雪の中の駅で呆然と立ちつくす主人公・鷲田完治佐藤浩市)の姿。



 そして、25年前の旭川地方裁判所の場面。
 事務室で事務官が「東京での夏休みは如何でした?」と尋ねると(注2)、鷲田は「こちらの夏が懐かしかった」と答え、さらに事務官は「今度は雪を見ることになりますよ。2年なんてすぐですよ」と言います。
 それから、法廷の場面。
 鷲田が、裁判長として、「それでは、被告に対する覚醒剤取締法違反事件に対する審理を始めます」と宣言した後、被告の結城冴子尾野真千子)の顔を見て驚きます。



 いったい鷲田は冴子とどんな関係があったのでしょう、………?

 さらに、2014年の時点で鷲田は釧路で法律事務所を開いていますが、国選弁護しとして担当した覚醒剤取締法違反事件の被告の椎名敦子本田翼)が、執行猶予付きの判決を受けた後、鷲田の家にやってきます。



 さあ、敦子は何のために鷲田の家にやってきたのでしょうか、………?

 本作は、主な舞台を釧路としながら、裁判官時代の主人公と学生時代の恋人との関係が、裁判官を辞めて弁護士になった主人公と被告との関係に重なるように描き出され、なかなか興味深い内容になっていて、さらに出演者のそれぞれも好演しているとはいえ、北海道新幹線の開業を前にしたJR北海道のPR映画のような雰囲気が濃厚に漂っていて、ちょっと引けてしまう感じにもなりました(注3)。

(2)本作では、佐藤浩市と尾野真千子との関係が、25年後の佐藤浩市と本田翼との関係に上手く重ねられて描かれています。
 まさに定石通りに、最初の関係は悲劇として、そして2番目の関係は喜劇(むしろ、明るいハッピーな物語)となっています(注4)。
 そんな点を考えつつ、映し出される北海道の様々な風景を味わいながら、佐藤浩市の落ち着いた深みのある演技や本田翼のみずみずしい演技などを見ることが出来ます。

 とはいえ、本作についてはいろいろの疑問点も湧いてきます。
 例えば、主人公の鷲田と冴子との関係はどうも不可解な感じがします。
 いったいどうして冴子は、鷲田が司法試験に合格すると、いともアッサリと身を隠してしまったのでしょうか?
 それは、鷲田の今後の飛躍に負担にならないようにという思いからなのかもしれないとはいえ、すっきりしないものが残ります。
 そして、10年後に再会して、鷲田が一緒に暮らそうと言うのに対して、なぜ自殺で答えるのでしょうか?今度も鷲田に負担にならないようにしたいというのであれば(注5)、再度10年前と同じように身を隠せば十分ではないかと思われるところです。

 また、本作の舞台とされる時点ですが、鷲田と敦子の関係が描かれるのは「平成26年春」(2014年)とされ、鷲田と冴子が再会するのがその25年前の1988年、そして鷲田と冴子が出会うのが学生運動のさなかの「昭和53年春」(1978年)とされています。
 ですが、学生運動が燃え盛ったのは、原作にあるように「1960年代後半」のことではないでしょうか(注6)?

 それから、冒頭のシーンはどこの駅なのでしょうか?
 冴子が列車に飛び込んでしまう駅は、跨線橋が設けられているそれなりの構造をしています。ですが、冒頭で鷲田が、列車が行ってしまった線路の先を見ながら佇んでいる駅は、どうみてもごく小さな無人駅のような感じがしてしまいます。
 そんな小さな駅しか設けられていない町に、冴子のいるスナック「慕情」などが集まった飲み屋街があるとはとても思えません(注7)。

 それに、ラストで、東京で行われる息子の結婚式に出席するために、なぜ主人公は、わざわざ鉄道を利用すべく釧路駅に出向くのでしょうか?
 なにより、そう描かれることで、原作とラストが全く異なってしまうのです(注8)。
 また、釧路から東京に向かう場合には、常識的には飛行機を利用するものと思います(注9)。まして、息子の結婚式が間近に迫っているのですから。
 こんなことになるのは、来春3月36日の北海道新幹線の開業を控えて、鉄道の良さをプレイアップしたいとするJR北海道(注10)の意向を踏まえて本作が制作されているからではないか、と勘ぐってしまいたくなります。

 まあ、これらは些細な点かもしれません。ですが、そう言ってしまうためには、他方で、もう少し目を引くような出来事(注11)が描かれている必要があるのでは、とも思いました。

(3)渡まち子氏は、「これはいったいいつの時代?と思わず首をかしげたくなるほど、古色蒼然としたドラマだが、時の流れに取り残された男の再生の物語には、その方がむしろしっくりくるかもしれない」として60点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「監督は、「深呼吸の必要」や「山桜」などで知られる篠原哲雄。気負いのない演出で、日常的な生活感から人生の機微をじんわりと広げて、観客の心に沁み渡らせる手腕はさすがである」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「1988年は平成となる前年だ。ぎりぎり昭和という時代設定がうまい。恋人の死で時間を止めてしまった鷲田が、昭和から平成へ、時代に乗り移れなかった男に思えてくる。同じように、乗り移れない部分を抱えた人々は少なくないだろう」などと述べています。



(注1)監督は、『小川の辺』などの篠原哲雄
 脚本は、『柘榴坂の仇討』などの長谷川康夫
 原作は、桜木紫乃著『起終点駅 ターミナル』(同タイトルの小学館文庫に所収の短編)。

(注2)原作では、旭川時代の鷲田は、任地の旭川で妻や息子と一緒に生活していました(文庫版P.127)。
 これに対して本作では、「家族は旭川?」と尋ねる冴子に、鷲田が「家族は東京。単身赴任だ」と語っており、彼は、夏休みをとって東京の家族のもとに行っていたのでしょう。

(注3)出演者の内、最近では、佐藤浩市は『バンクーバーの朝日』(『ギャラクシー街道』でもカメオ出演していますが)、本田翼は『ニシノユキヒコの恋と冒険』、鷲田弁護士に開所顧問になるようしつこくつきまとう大下役の中村獅童は『銀の匙 Silver Spoon』、釧路における鷲田宅の隣りに住む老人の息子役の音尾琢真は『ジーン・ワルツ』、尾野真千子は『きみはいい子』で、それぞれ見ました。

(注4)この拙エントリの「注2」で触れたカール・マルクスの言葉より。

(注5)寝物語で、「ここを出て、どこか小さな町で法律事務所を開いて、一緒に暮らそう」と言う鷲田に対して、冴子は、「誰かの負担になるのなら寒すぎる」と言っています。おそらく、冴子は、鷲田が冴子のことを考えて無理をしているのだと思っているのでしょう(劇場用パンフレットに掲載の「特別対談2」の中で、篠原監督は、「(佐藤浩市から)完治は冴子に別れを告げるつもりなんだけど、ここに来てまだ決断できないんだと(いうことで、雪の中でタバコを吸いたいという提案があった)」と述べています。そんなところを冴子は察知したのでしょう)。

(注6)文庫版P.116には、「1960年代後半、完治は学生運動の真ん中にいた」と記載されています。
 確かに、本作に映し出されるタテカンなどには“三里塚闘争”のことが書かれています。
 とはいえ、よくわかりませんが、その当時の闘争は「1960年代後半」のものに比べたらセクト色が相当強まっていて、映画で描かれているような牧歌的なものではなかったのではないでしょうか(劇場用パンフレット掲載の川本三郎氏のエッセイ「悲しみが二人を近づける」でも、「年齢からいって、いわゆる全共闘世代らしい」と述べられています)?
 なお、完治が参加していた学生運動の時点を本作が10年繰り上げたのは、本作の現時点を「2014年」にするためと、敦子の年齢を、彼女を演じる本田翼の年齢(23歳)に近いものにするためではないかと推測されます(本作では、鷲田が旭川から釧路にやってきて住み着いた年数を、原作の「30年」から「25年」に短縮しています←下記の「注11」を参照)。

(注7)原作では、冴子がいるところは「留萌」とされているところ(文庫版P.119)、同駅は決して無人駅ではありません(この記事を参照)。
 ちなみに、劇場用パンフレット掲載の「Location」によれば、スナック「慕情」の撮影場所は、釧路市の「有楽街センター」にある「スナック八重ちゃん」とのこと。
 こんなところから、原作では留萌とされていた冴子の住所地が、映画では釧路とされているのかな、とも思えますが、釧路は釧路地方裁判所が管轄しており、鷲田が旭川から月1で出張する場所としては考えられないところです(この映画を全て釧路を巡るお話と考えれば、タイトルも受け入れやすい感じもするのですが。ただし、根室本線が釧路駅に通っているとはいえ、その終点は根室駅です)。

(注8)原作の鷲田は、2度にわたって息子から電話がかかってくるものの、最終的には欠席の旨を伝えておりますし(文庫版P.126とP.150)、ラストでも鷲田は、相変わらず釧路の裁判所への急な坂道を上っていくだけなのです。

(注9)旭川裁判所の事務官が、東京高等裁判所の裁判官に任命された鷲田に対して、「飛行機の手配をしましょうか?」と尋ねます。住んでいるところが、旭川から今や釧路に変わっているとはいえ、飛行機が常識でしょう。
 尤も、その際鷲田は、「いや、一度は列車で東京まで帰ってみたい」と答えるのです。その気持を、25年間も保ち続けていたというのでしょうか?

(注10)JR北海道は、エンドロールに「特別協力」として記載されています。

(注11)例えば、もう一歩踏み出して、敦子は、25年前に鷲田と冴子の間にできた子供であって、冴子は妊娠したがために、鷲田に黙って身を隠したとするストーリーにしたらどうでしょうか(原作では、冴子は30歳とされていて、鷲田が旭川から釧路にやってきて住み着いた年数と同じなのです)?
 尤も、そうなると、鷲田が敦子に抱く感情は恋愛ではなくて父親としての愛情ということになってしまい、鷲田と冴子の関係がそこに2重写しになるのも薄れてしまいますが。
 あるいは、劇場用パンフレット掲載の「特別対談1」で、原作編集担当の幾野克哉氏が、「初稿時は桜木さん、鷲田完治が大下一龍に殺される話にしていました」と述べているところ、確かに、このくらいの展開が描かれていたら、もっと印象深い映画になっていたのかもしれません。
 なお、原作者の桜木氏は、幾野氏に「桜木さんにアクションシーンは求めていません」と言われて書き直したわけですが、いったいこの“原作編集担当”って何なのでしょうか?『バクマン。』の服部(山田孝之)的な存在なのでしょうが、それは漫画の世界であって、そんな人が小説の世界でも存在するとは思ってもみませんでした。



★★★☆☆☆



象のロケット:起終点駅 ターミナル


マイ・インターン

2015年11月10日 | 洋画(15年)
 『マイ・インターン』をTOHOシネマズ新宿で見ました。

(1)一度はパスしようかと思っていたところ、評判がかなり良さそうなので遅ればせながら映画館にいくことにしました。

 本作(注1)の冒頭では、ブルックリンにある公園の樹の下で太極拳をしているグループが映し出されます。その中には本作の主人公・ベンロバート・デ・ニーロ)が混じっていて、他の人と同じように体を動かしています。
 ナレーションでベンが、「愛と仕事、それが全てだ、とフロイトは言っている。私は退職したし、妻は死んでしまった。いくばくかの時間が私の手元に残された」と言っています。
 更に、家でカメラに向かって、ベンは、「妻は3年半前に死んだ。そして退職。最初のうちは、その状況を楽しんだ。世界旅行もした。でも、家に戻ってくると、虚しさを感じてしまう。ゴルフ、映画、読書などなど、なんでもやった。それに葬式に参列することも。最近した旅行といえば、サンディエゴにいる息子夫婦を訪ねたことだ」などとしゃべります。



 次の場面は、スーパーで食料品を買い込んでいるベン。
 スーパーに設けられている掲示板に、ある会社の「シニア・インターンシップ・プログラム」のチラシがあるのを見つけます。
 チラシでは、履歴がわかるビデオをユーチューブにアップすることが求められています。

 知り合いのパティリンダ・ラビン)の「ラザニア、二人で食べない」という誘いを断って家に戻ったベン。夜中に飛び起きて、自己紹介のビデオを自分で撮影します。
 その中で彼は、「音楽家は、自分の中の音楽が消えてしまった時に初めて音楽をやめる、と本で読んだことがあります。まだ私の中には音楽があります」などと話します。

 今度は、ジュールズアン・ハサウェイ)の経営するファッション通販サイト「アバウト・ザ・フィット(ATF)」の様子が映し出されます。
 ジュールズは、1年半前に25人ほどで会社を立ち上げましたが、大成功して、今では220人の従業員を抱える規模となっています。



 どうやら、ベンは、この会社のインターンになるようです。ですが、70歳のベンが、こうした先端的な企業で上手く働くことができるのでしょうか、………?

 本作では、70歳の退職者が、時代の先端をいく職場で新しいポストを得て蘇る様子が物語られるところ、それを演じるロバート・デ・ニーロは、相手役の会社社長に扮するアン・ハサウェイともども、とても魅力的に描かれています。ただ、現代のお伽話であり、全体として全て丸く収まってしまうとはいえ、もう少し目覚ましい出来事があってもいいのではないかとも思いました(注2)。

(2)本作の邦題が「マイ・インターン」とされているのは(原題も『The Intern』)、映画の中で、ジュールズの会社ATFが募集していた「シニア・インターン・プログラム」(注3)にベンが応募して、シニア・インターンとして採用されることから来ているのでしょう(注4)。
 ただ、そのプログラムで採用されたベンらは、“インターン”らしいことをしているようにはあまり思えないところです。
 一般に“インターン”というのは、以前の医者に関する「インターン制度」が典型なのでしょうが、業務に正式に就く前の見習い研修生のようなものではないでしょうか?
 ですが、ベンは、ATFに今後正式に採用されることを見越してインターンに選ばれたようには見えない感じがします。
 ベンは、以前電話帳を作成する会社に勤務していた高齢者というわけですから、時代の最先端を行く企業であるATFの業務にはとても付いていけそうもありません。そんなベンを正式採用するとしたら、インターン期間中に会社の業務を身につけることができるような教育プログラムがあってしかるべきです。
 でも、この「シニア・インターン・プログラム」を担当する者は、いとも簡単に彼をジュールズの直接の配属にして、あとは放ったらかしにするだけです(注5)。
 これでは、“インターン”とされていても、ベンは単に、ジュールズの世話係、それも無給のアルバイト(注6)にすぎないのではないでしょうか(注7)?

 それに、邦題の「マイ・インターン」ですが、いったい誰にとっての「マイ」なのでしょうか?
 インターンになるのがベンなのですから、“ベンの”ということではないでしょう。
 としたら、“ジュールズの”ということになるのでしょうが、でも、この映画がW主役だとしても、中心になるのはあくまでもベンであって(注8)、冒頭も、ベンの語りから始まっているのですから、そうだとしたら、なんだか座りがとても悪い気がします(注9)。

 でも、それらはどうでもいいことでしょう。
 本作は、ジュールズが会社のフロアを自転車で移動する場面が描かれるなど(注10)、現実世界ではありえないようなファンタジーの世界を描いた現代お伽話なのでしょうから(注11)。

 そう思ってみると、ベンが70歳にもかかわらず、パティに誘われたり、すぐにATFの専属マッサージ師・フィオナレネ・ルッソ)と親密になったりするなど、ありえないほど魅力的に描かれていても、またジュールズに扮するアン・ハサウェイが相変わらずの美貌で、その上に「セリーヌ、サンローラン、ヴァレンティノ、エルメス、そしてパリのデザイナー、セドリック・シャルリエの作品をたくさん使った」ものを身に付けてアチコチ飛び回っていても(注12)、何であっても許してしまいます(注13)。

 ただ、せっかくのファンタジーなのですから、もう少し目を引くような出来事が描かれていてもいいのかなとは思いましたが(注14)。

(3)渡まち子氏は、「ナンシー・マイヤーズ監督らしい女性応援ムービーだが、恋愛要素より友情を全面に出したことでさわやかな作品に仕上がった」として65点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「見た目がお洒落(しゃれ)な変形版ビジネス書?愉快で役に立ちそうなのがなにより」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「高齢化時代の生きがい探し、女性の社会進出などの同時代的トピックを盛り込み、新しい役割分担を迫られる老若男女を描いているが、人間関係の中身は結構古風。働く女の葛藤のドラマも薄味だ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『恋愛適齢期』や『ホリディ』(この拙エントリの「注4」を参照)、『恋するベーカリー』のナンシー・マイヤーズ

(注2)出演者の内、最近では、ロバート・デ・ニーロは『アメリカン・ハッスル』、アン・ハサウェイは『ブルックリンの恋人たち』で、それぞれ見ました。

(注3)会社の役員であるキャメロンアンドリュー・ラネルズ)の発案によっているようです。ただ彼は、ジュールズに事前に了解を取り付けたと言いますが、彼女の方では、聞いていないと反論します。

(注4)本作の公式サイトの「プロダクション・ノート」においてナンシー・マイヤーズ監督は、「年配の男性が創業間もない会社でインターン(見習い社員)になるというアイデアを思いついた」と述べています。

(注5)元々、こんな若い会社に、高齢者の教育係が務まる社員がいるとはとても思えませんし。

(注6)この記事を参照。

(注7)ゴミが山積みになった机をベンが早朝出勤して片付けると、気にしながらも社員に片付けを言い出せなかったジュールズが酷く喜ぶシーンがあります。ただ、それくらいでいいのなら、ベンは、有り体に言えば、昔の小学校によくいたとされる“小使いさん”(それも無給の)的な存在のようにも見えてきます。

(注8)例えば、女性限定試写イベントについてのこうした記事があるように、日本ではアン・ハサウェイが演じるジュールズにもっぱら焦点が集められている感じがしますが。

(注9)それに、ベンはあくまでもATFという会社のインターンであって、ジュールズが個人的に契約している者ではないはずです。

(注10)ローラースケートに乗って会社の中で書類を配るアルバイトといったことなら分からないではありませんが。



(注11)この拙エントリの(1)でも「現代のお伽話」と申し上げました。
 ただ、ファンタジーにしては、ベンが運転する車の中でジュールズが大イビキをかいてしまうというとんでもないシーンが描かれていましたが〔元々、イビキは治療によって治るとされていますし、あんな大イビキなら、夫のマットはスグにも逃げ出してしまうのではないでしょうか?〕!

(注12)上記「注4」で触れた「プロダクション・ノート」において、衣裳担当のジャクリーン・デメテリオが述べています。

(注13)さらに言えば、ベンが、70歳以上であるにもかかわらず自動車運転の「高齢者講習」を受けているようには見えないとしても(!?)。

(注14)映画の中で起きる出来事といえば、ジュールズの夫・マット(専業主夫:アンダーズ・ホーム)の浮気ぐらいで、これも最後はジュールズが許してしまうのです。
 ただ、この点も、ラストを次のように解釈すればいいのかもしれませんが。
 ラストでは、本作の冒頭のシーンと同じように、ベンは太極拳をしています。そこに、ジュールズがやってきて「いい知らせが」と言います。
 これは、休暇をとって太極拳をしているベンのところに、「CEOの招聘を止める」とジュールズが言いに来ただけのことかもしれません。
 ですが、ベンが太極拳をしていたのは、インターンの期間が終了して元の生活に戻ったことを意味し、ジュールズはベンに「会社のCEOに就任してほしい」と言いに来たのだ、と解釈できないでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:マイ・インターン


メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮

2015年11月06日 | 洋画(15年)
 『メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)シリーズ第1作目の『メイズ・ランナー』をDVDで見て面白かったので(注1)、第2作目もと思って映画館に行ってきました。

 本作(注2)の最初の方では(注3)、巨大迷路から脱出したトーマスディラン・オブライエン)らが、「クランクが来るぞ、ここは危ない」と叫ぶ兵士らによってヘリコプターに乗せられて(注4)、巨大な施設に連れていかれます。
 そのドアが開くと男(エイダン・ギレン)が待ち構えていて、「クランクが来て騒がしかった。我々は君らの命を救った者だ。私はジャンソン」、「ここは外の世界から遮断された場所で、聖域だ。WCKD(注5)は絶対に来ない」と言います。
 トーマスが、「なぜ救ける?」と尋ねると、ジャンソンは、「君らは追われる身。この扉は、新しい人生への入り口だ」と答えます。

 トーマスらは、迷路を脱出する際に付いた臭いを落とすためにシャワーを浴び、さらに栄養素が入っている注射を受けます。

 次いで、トーマスはジャンソンに呼ばれて質問を受けます。



 ジャンソンが「よく来てくれた。2人きりで話がしたい。質問は一つだ。WCKDの記憶はあるのか?君はどちらの側なのか?」と訊くと、トーマスは、「僕はWCKDで働いていたが、迷路に送り込まれた。仲間が次々と死んだ。僕は仲間の側だ」と答えます。

 トーマスらは他の仲間のところに連れて行かれます。
 そこには大勢の若者がいて、ミンホーキー・ホン・リー)は「迷路は一つじゃなかったんだ」と言います。
 トーマスはガラス越しにテレサカヤ・スコデラリオ)を見つけて走り寄ろうとしますが、なぜか兵士によって阻止されます。
 そればかりか、若者の一人エリスジェイコブ・ロフランド)に密かに導かれ排気口のトンネルを伝って行った先の別の部屋に、トーマスは大変なものを見てしまいます。
 さあ、それはどんなものでしょうか、ジャンソンらの組織は一体何なんでしょうか、トーマスらをこれから待ち受けている運命はいかなるものなでしょうか、………?

 まあ、本作では、基本的にスリルに満ちた追っかけごっこが描かれているのですから、最後までまずまず面白く見ることが出来ます。でも、本作には、第1作目で見る者を圧倒した“迷路”はどこにも出てきませんし、主人公たちを追い詰めるのはもっぱらゾンビというのでは、『ワールド・ウォーZ』などのゾンビ映画とどこが違うのか、という感じにもなってしまいます。

(2)本作では、迷路から脱出してきた若者たちを保護したジャンソンの組織もまたWCKDとつながっていて、WCKDが全体で何を企んでいるのかがおぼろげながら明らかとなります(注6)。
 それが分かったトーマスらは、このままでいるとWCKDによって殺されてしまうと考え、慌ててそこから逃げ出します。



 ところが、逃げ出した先には荒涼とした砂漠が広がっています。
 あるいは、この灼熱の砂漠こそが“迷路”(あるいは「迷宮」)なのかもしれません。
 でも、遠くの方に山が見え、ともかくもそこに行ってみようということになるのです(注7)。それでは、いくら砂漠の横断が難行苦行だとしても、とにかく向かう方向がはっきりしていて、とても迷路とは言えないように思います(注8)。

 また、若者らが、砂漠を歩いている最中に建物の中に飛び込むと、そこに待ち受けていたのはクランクと呼ばれるゾンビたちなのです。
 彼らは、フレアに感染してゾンビ状態になってしまったのですが、このクランクは、通常のゾンビとは異なって、ものすごい速度で若者らを追跡するのです。
 こうした点や(注9)、さらには、治療薬を探しだそうとしている点で(注10)、本作は『ワールド・ウォーZ』とよく似ている感じがしてしまいます。

 第3作は2017年2月にアメリカで公開されるとのこと(例えば、この記事)。
 第1作と第2作との公開日の間隔(5カ月)と比べると異常に長い気がします。まだまだ謎の部分がいろいろ残されていて、それがどう解明されるのか知りたいところではあるものの、そんなに長く待てませんし、本作の内容からしても、第3作はDVDで見ればいいのかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「仲間を奪われてついに戦う決心をした主人公トーマスの運命も含めて、怒涛の展開と謎解きが待つであろう最終章への期待は大いに高まった」として60点をつけています。



(注1)第1作目では、理由がはっきり明示されないまま、若者が何人も一箇所に閉じ込められ、一部の若者の勇敢な行為によって、彼らを取り巻く巨大な迷路から脱出する様子がハイテンポで描かれていて、なかなか面白く見ることが出来ました。
 特に、若者たちの前に立ち塞がる巨大な迷路は、最近見た『進撃の巨人』で描かれる巨大な壁に類似しており、そこに出現するグリーバー(脚が鋼鉄製の蜘蛛のようなモンスター)も『進撃の巨人』における巨人のような感じがしたりして、興味深いものがありました。

 なお、トーマスらが巨大迷路の施設に閉じ込められた理由については、第1作目の最後の方で、その施設の責任者と称するペイジ博士(パトリシア・クラークソン:『人生万歳!』で見ました)が、次のようなことをトーマスらが見ている映像の中で話します。
 「太陽が地球を焼き尽くした。フレアと名づけられたウィルスが治療不能の病気を蔓延させ、人類は滅亡の淵に立たされた。しかし、フレアに侵されても死なない若者が現れた。そこで、その若者たちを厳しい環境のもとにおいて、なぜ死なないかの理由を探る実験が始まった」。

 その映像では、ペイジ博士は、そう述べた後にピストル自殺するのですが、第1作目のラストでは、同博士は生きていて、「生存者数が予想以上だったが、迷路実験は大成功。トーマスは期待以上の働きをした。今彼らはエサに食いついてくれた。これから実験は第2段階だ」と述べます。
 ただ、こう言われても何のことやらサッパリわかりません。若者がフレアで死なない理由を探るためにどうしてあのような巨大な迷路を作り上げる必要性があるのでしょうか?
 この点は、本作になっても依然として謎のままです。

(注2)監督は、第1作に引き続いてウェス・ボール
 原題は、「Maze Runner The Scorch Trials」。
 原作は、ジェイムズ・ダシュナー著『メイズ・ランナー2:砂漠の迷宮』(角川文庫:未読)。

(注3)冒頭では、トーマスの幼い頃の記憶なのでしょうか、吹雪の中鉄条網の内に集められている人々の間からトーマスが兵士によって連れだされて列車に乗せられるシーンが描かれますが、よくわかりません(母親らしい女性が、トーマスに「大丈夫よ」と言ったりします)。

(注4)第1作目の最後の方では、迷路から脱出した時、迷路の中の居住区(The Glade)にとどまっていたはずの反トーマス派のボスであるギャリーウィル・ポールター)が現れ、トーマスに銃口を向けます。ミンホの投げた槍でギャリーは死にますが、ギャリーが放った銃弾がチャックブレイク・クーパー)に命中しチャックも死んでしまいます。
 その時兵士が現れ、トーマスらを連れ出しヘリコプターに乗せて脱出させるのです。その際、兵士らはトーマスらに向かって、「みんな大丈夫か、心配ない、もう安心だ」、「リラックスしろ。これから全てが変わる」などと叫びます。
 ここのところと、第2作目の最初の方とが繋がります。

(注5)WCKDは「The World Catastrophe Killzone Department」の略とされますが(この記事によります)、実態のわからない謎の組織です。

(注6)上記「注1」を参照。
 本作のラスト近くでも大型ヘリに乗ってペイジ博士が現れ、同じようなことを述べます(「治療法を見つけなければならない」)。

(注7)若者らは、WCKDに対抗する集団のRA(ライト・アーム)がその山にいるらしいという情報を得て(エリスが、ジャンソンがそれらしいことを話していたと言います)、山の方に向かいます。

(注8)映画ポスターには「本当のメイズは、ここから始まる」とありますが、“本当に”そうでしょうか?

(注9)『ワールド・ウォーZ』に関する拙エントリの「注3」や「注5」で触れましたように、映画ライターの高橋諭治氏は、同作や本作で描かれているようなゾンビについて、「ウィルス感染者というれっきとした“生者”であり、一度死んで甦った(古典的な)ゾンビとは別物」であると述べています。さらに、こうした「21世紀型ゾンビ」は、「牧歌的なくらい動きがのっそりしていた」かつての「古典的なゾンビ」とも異なっている点を指摘しています。

(注10)『ワールド・ウォーZ』では、主人公(ブラッド・ピット)の活躍によってワクチンの作成が可能になったためにゾンビ対策が打てるようになります。これに対して、本作では、ペイジ博士のWCKDがフレア対策用の治療薬(血清?)を作ろうとしているようです。



★★★☆☆☆



象のロケット:メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮


ギャラクシー街道

2015年11月03日 | 邦画(15年)
 『ギャラクシー街道』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)三谷幸喜監督の作品というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の時点は2265年。
 先ず、ハンバーガーショップで人々が忙しく立ち働く様を描くアニメが流れた後のシーンでは、「サンドサンドバーガー・コスモ店」の店主・ノア香取慎吾)が、帰国申請書を封筒に入れて切手を貼っています。店の隅では、店員のハナ大竹しのぶ)が椅子に座ってタバコを吸っています。

 スペース国交省のハシモト段田安則)が、店の席に座りながら、この付近の現状について報告書を作成しています。



 その内容がナレーションで流れて、「太陽系、第5惑星(木星)と第6惑星(土星)の間に浮かぶスペースコロニー「うず潮」、それと地球を結ぶ幹線道路のギャラクシー街道、その中央にあるハンバーガー店のサンドサンドバーガー・コスモ店」、「ここにはシャトルバスの停留所が置かれているため客がいるとはいえ、いつもまばら。継続すべき理由はない。即刻撤退すべき」云々。

 次の場面では、ノアが「週刊少年ジャンプ」を読んでいたり、ノアの妻・ノエ綾瀬はるか)が「ごめんなさい、遅くなっちゃって」と言いながら店に出てきたり、ハナがフライを揚げていたりします。



 別の場所では、客引きのゼット山本耕史)が、医者のムタ石丸幹二)に対して、「何も気にする必要はありません。今日は、非常に珍しいSES(スーパーエロティカストレート)の日。すべてのものにエロスが萌えています」云々と売り込みにかかっています。

 カエル型宇宙人のズズ西川貴教)が、レジのノエにハンバーガーを注文すると、背後でノアが、「帰ってもらえ、あいつらは好きになれん。席がびしょびしょになる」と言います。
 ノエが「歌がうまい」と言ってズズを擁護すると、ノアは「ブルーシートを使え」と指示します。

 そして、コンピュータの堂本博士(ホログラムによって顔だけが見えます:西田敏行)に向かって、ノアが悩み事を打ち明けています。「そろそろ踏ん切りをつけたい。帰国申請書が受理されればアースに帰れる。それに、ノエには男がいる。今日もなかなか戻ってこなかった。男と会っているんだ」云々。

 という具合に映画は展開していきますが、さあこの後どうなるのでしょうか。………?

 本作は、「コメディ」と銘打たれている作品にもかかわらず(注2)、まるで面白くありません。
 全体的には、先月末、渋谷や六本木で見受けられたハロウィンの仮装・コスプレを見ているような感じで、やっている(あるいは、作っている)ご本人たちは面白いのかもしれませんが、それを見ている者にとっては、一体何でそんなことをしているのだろうと酷く訝しく思えるだけでした(注3)。

(2)三谷監督自身は、この記事において、「「ギャラクシー街道」はこれまでの僕の映画とは、かなり雰囲気が違う」、「僕は、これまで大宇宙を舞台にした映画の中で、もっともチマチマした作品を作ってみたかったのだ」として、「爆笑にはならないけど、そんな「説明のつかないこと」と「説明のつかないことへの戸惑い」から生まれる小さな笑い。それがこの作品のテイスト」なのだと述べています。ですが、とにかく笑えるシーンが殆ど見当たらないのですから、「テイスト」を云々する以前の話ではないかと思えてしまいました。

 確かに、見る前のクマネズミは、三谷監督が当該記事で、「今までだったら、もっと彼ら(ノアとノエ)にはドラマチックな事件が起きただろうし、様々な異星人を巻き込んでのドタバタ、そして様々な伏線が一つにまとまっての大団円と、例えばそんなストーリーになっていたはず」と述べているような「全体を引っ張るストーリー」、それもとびきり面白い「ストーリー」を期待していたところです。
 ですが、三谷監督自身が言うように「今回はなにもない」のです。
 本作を構成する個別のエピソードのそれぞれが、他のエピソードと殆ど関係しないで展開されるだけなのです(注4)。
 だったら、個別のエピソードのそれぞれが眼を見張るような面白いものになっているかというと、そういうこともなく(注5)、「ごくごく日常的なものばかり」です(注6)。

 三谷監督は、「喜劇にはいろんなジャンルがあるわけで、喜劇作家としては、これも有意義な経験」であり、「僕は楽しんで台本を書いたし(注7)、役者さんは素晴らしかった」と述べています。
 きっとそうに違いありません。
 でも、そうした作品を見せられる観客のことまで、三谷監督は本当に考えていたでしょうか(注8)?

(3)渡まち子氏は、「豪華キャストの群像劇であることは、いつもと同じだが、今回はずいぶん残念な出来栄えだ。笑えず、泣けず、感動できずで、ファンはがっかりするだろう」として30点をつけています。



(注1)本作の監督・脚本は、『清須会議』や『ステキな金縛り』などの三谷幸喜
 三谷監督の映画作品は、これまで殆ど見ておりますが、DVDで見た初期の『ラジオの時間』や『みんなのいえ』こそ手放しで面白かったものの、続く『The有頂天ホテル』や『ザ・マジックアワー』、『ステキな金縛り』はどうかなといった感じでした。とはいえ、2年前の『清須会議』は、設定の面白さが引っ張っていながらも、なかなか面白い出来栄えでした。それで本作にも期待したのですが、…。

(注2)本作の公式サイトの「Introduction」では「シチュエーションコメディ」とされています。劇場用パンフレット掲載の「Director’s Interviw」においては、インタビュアーが「スペース・ロマンティック・コメディ」とし、また三谷監督は「群像劇という形式を用いたラブコメ」と答えています。
 なにはともあれ、とにかく「コメディ」なのでしょう。

(注3)出演者の内、最近では、香取慎吾は『人類資金』、綾瀬はるかは『海街diary』、警備隊のハトヤ隊員役の小栗旬は『踊る大捜査線 The Final―新たなる希望』、ノアの元恋人・レイ役の優香は『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』、遠藤憲一は『土竜の唄 潜入捜査官Reiji』、ピエロ役の浅野和之は『脳内ポイズンベリー』、山本耕史は『ステキな金縛り』、大竹しのぶは『トイレのピエタ』、西田敏行は『ラブ&ピース』で、それぞれ見ました。

(注4)例えば、上記(1)で触れた客引きのゼットと医者のムタが絡むエピソードは、ムタとイルマ田村梨果)の話に展開するとはいえ、ノアとかノエなどは絡んでこずに、それはそれでおしまいになってしまいます。
 なお、劇場用パンフレット掲載の「Director’s Interviw」において三谷監督は、「今回はエロスの世界にも入り込んでいます。あの星の人から見たら赤面するような、モザイクをかけないといけないようなシーンすら出てくる」と述べていますが、観客の地球人が見ると、とてもエロスを感じることは出来ません。



(注5)例えば、三谷監督は、「(リフォーム業者・メンデス役の)遠藤憲一さんの出産シーンなど、派手な笑いもあるけれど」と述べているところ、ひょろ長い男優が卵を生むシーンなどに「派手な笑い」があるとはとても思えません。



 劇場用パンフレット掲載の「Director’s Interview」においても三谷監督は、「(遠藤憲一さんは)笑いのセンスも抜群で、あれほど現場で笑いを堪えたのは久々です」と述べています。ですが、あのシーンでそうだとしたら、このところの作品で笑えるシーンが少なかったようにクマネズミに思えるのもむべなるかな、というところです。

(注6)例えば、三谷監督は、「初めて会った宇宙人に握手を求めたら、いきなり1メートル近い舌でぺろりと鼻を舐められるという、いかにもSFコメディ的なシーン」と述べていますが、嫌悪感の方を先に覚えてしまい、「小さな笑い」にもならないのではないでしょうか?

(注7)劇場用パンフレット掲載の「Director’s Interview」においても三谷監督は、「今までの映画の中で、いちばん楽しんで作ることが出来ました」と述べています。

(注8)三谷監督は、当該記事の末尾の方で、「試写会の反応を見ると、案の定、抵抗を感じた方がいらっしゃるようだ。すごく楽しめたという意見もあれば、まったく笑えなかったという人も」と述べているところ、「すごく楽しめたという意見」の方に、実際のところどの点が楽しめたのか聞いてみたい気がしてしまいます(もちろん、映画の感想は十人十色ですから、そうした方がいらっしゃるのは事実でしょう)。



★★☆☆☆☆



象のロケット:ギャラクシー街道