映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

カノジョは嘘を愛しすぎてる

2013年12月27日 | 邦画(13年)
 『カノジョは嘘を愛しすぎてる』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)友人の紹介で見に行ったのですが、映画館が女子高生であふれていたのには驚きました。でも、原作がベストセラー漫画(青木琴美作)で、映画の主人公を人気の佐藤健が演じ、ヒロイン役がオーディションで選ばれた女子高生なのですから当然かもしれません。

 本作の冒頭では、渋谷にあるビルの屋上にいる主人公・アキ佐藤健)のところに、ヘリコプターが空から舞い降りてきて、中から大人気のバンドCRUDE PLAY(通称クリプレ)の4人が出てきます。



 中の一人が、「リーダーを迎えに来た」と言うと、アキは「ヘリで来るなよ、タクシーでよかった」と答えます。そして、バンドのベーシスト・シンヤ窪田正孝)が、「僕はここで。先にパーティー会場に行っている。後は、昔の4人で楽しんで」といってその場を離れます。残った4人は、「アルバムV3達成!」とシャンパンで乾杯します。

 この場面は、アキがどういった位置にいるのかを暗に示しています。すなわち、アキは、クリプレの影のリーダー的な存在であり、またシンヤを除くメンバーと昔は仲良しだったようなのです(注1)。



 ただ、冒頭のシーンの最後に、「あの頃の僕は大体が不機嫌だった。しかし、その理由ははっきりわからなかった」というアキの音声が被って、タイトルクレジットが流れます。

 続いて、アキは音楽スタジオでキーボードに向かいますが、「何も持っていなかった頃より、僕は空っぽだ。本当に欲しかったものを何一つ持っていないからかもしれない」と彼の喋る音声が流れます。
 そして、自分の部屋に戻ると、そこには恋人の茉莉相武紗季)がベッドにいて、「できた?あたしの曲」と尋ねるので、アキは「もう高樹(音楽プロデューサー:反町隆史)のゴーストはやらないって言ったよね」、「モウこれ以上は無理だ。高樹とお前が寝ているところを想像すると、頭が狂いそうになる」、「鍵は置いていって」と答えて部屋を飛び出してしまいます。

 そんなアキが、自分の部屋のソバの隅田川の川べりで手すりに持たれながら鼻歌を口ずさんでいると、青果店の娘で高校生のリコ大原櫻子)が、押してきた自転車を倒してしまい、荷台にあった箱から果物や野菜が転がり落ちてしまいます。



 それを拾ってあげるアキが、唐突に「一目惚れって信じますか?」と尋ねると、リコは、「信じます。だって、一目惚れしちゃった。今の鼻歌に鳥肌が立った。名前を教えてください」と答えます。 それに対してアキは、なぜか「シンヤ」と嘘を答えてしまうのです(注2)。



 そんな出会いからアキとリコとのラブストーリーが始まるわけですが、はたして二人は上手くゴールに到達できるのでしょうか、………?

 本作では、酷く屈折した心の持ち主の主人公と、純真そのもののヒロインとの組み合わせが物語の展開をなかなか面白くしています。さらに、その背景として渋谷とウォーターフロント周辺というのもよくマッチしています。最近のラブストーリーとしてはまずまずの出来栄えだと思いました(注3)。

(2)アキとリコとが初めて出会うまでの経緯などは実に手際よく描かれていて感心します。
 飛躍の多い展開も見られるところ(注4)、本作は台詞の多い(歌の少ない)ミュージカルではないかと思えば、それらに一々突っ込まずに楽しく見ることが出来そうです。

 でも、最後のアキとリコによる「ちっぽけな愛のうた」で大きく盛り上がるのですから(注5)、その後のシーンやエンドロール後のおまけシーンはなくもがなという感じがするところです。

 もう一つ残念だったのは、クリプレの演奏のTV録画収録風景をリコたちが見るときに、彼らが実際には演奏していないこと(あるいはCDで聞く演奏とだいぶ違うな)に気がついて、おかしいな、自分たちもああなるのかな、嫌だなと思うシーンがあれば、その後違った展開になるかもしれないと思える点です(注6)。

 とはいえ、本作に登場するクリプレや「MUSH&Co.」(リコとその仲間の2人)のように、ライブ活動をするバンドがスタジオ・ミュージシャンにまるきり依存してしまうのかどうか、よくわからないところです(注7)。

(3)渡まち子氏は、「人気俳優の佐藤健と、オーディションで選ばれたシンデレラ・ガールの大原櫻子の相性がよく、3回登場するキス・シーンは原作ファンならずともうっとりするはず。加えて、大原櫻子のびやかな歌声と素朴な笑顔が大きな魅力だ」として55点をつけています。
 ただ、柳下毅一郎氏は、「例によってセリフですべて心情を説明する副音声映画であるうえに、物語も別に起伏がないので本当につまらない。俳優は平凡。演奏は口パク。単純につまらない」と酷評しています(注8)。
 とはいえ、例えば、柳下氏は、「ゴージャスな美形ばっかり出てくる少女漫画の映画化にしてはびっくりするほど高級感がない下町人情話が展開する」と述べていますが、確かにヒロインは「青果店」の娘(柳下氏は「八百屋の娘」としていますが)ながら、「下町人情話」に特有の人の良い一族郎党とか近所の八つぁん熊さんなどは一切登場しないのですから、ちょっと言い過ぎではないかと思いますが。



(注1)さらに主人公・アキは、時間が空くと隅田川の川べりで、ラジコンヘリを飛ばすのが趣味でもあります。リコとの初めての出会いの前にもラジコンヘリを飛ばしていましたが、酷く苛ついて墜落させ、壊してしまいます。

(注2)このシーンの最後には、「付き合い始めたあの頃は、これっぽっちも好きじゃなかった」とか、「全部嘘。でも、彼女は僕のことを正直な人と言うんだ」といったアキの音声が流れます。

(注3)佐藤健は、最近では、『リアル~完全なる首長竜の日~』を見ました。
 なお、佐藤健は、これまた青春音楽映画である『BECK』に出演していて、同作でもギターを弾くものの、むしろ「天才的な歌手」であることが前面に出され、さらにまたラブストーリー絡みでもありませんから、本作と比較しても仕方がないでしょう〔ただ、本作の主人公アキは「天才サウンドクリエーター」とされ、また、音楽プロデューサー・高樹はリコについて「天才を見つけちゃった」と言ったりして(同じ言葉を、高樹は茉莉にも以前言ったことがあるようです)、両作で「天才」という言葉が大安売りとなっています。音楽畑では「天才」があちこちでみかけられるようです!〕。

(注4)なにしろ、例えば、アキがリコと出会うのと時を同じくして、高樹が、川べりで歌うリコの歌声を聴いて、すぐにデビューさせようとするのですから!
 その上、リコとその仲間2人とのバンド「MUSH&Co.」のプロデューサーにシンヤが名乗りを上げるのです。

(注5)アキは、茉莉の言う条件を飲んでリコと別れることにしたのですから、さらにはリコがシンヤの曲を歌っている姿を見て感じるところ(リコは、もう蛹からかえったアゲハチョウのように一人で飛び立てる)があったのですから、最後の「ちっぽけな愛のうた」は2人の別れの最終仕上げであって(♪……/手のひらに掴んだ夢を/今は追い続けていこう/一人でもきっと越えてゆける/……♪)、それ以降の展開は考えられないのではないでしょうか?たとえアキがロンドンから戻ってきてリコを再度愛するようになるにしても、それは別の物語でしょう。

(注6)「MUSH&Co.」のデビュー・ライブ演奏をリコとその仲間がすっぽかして、リコはアキと一緒にロンドンに旅立つというのはどうでしょう(でも、これだと茉莉との約束をアキは破ってしまうことになってしまい、またリコの独り立ちもご破算になってしまいますが)。

(注7)クリプレがスタジオで練習をしている時に高樹が現れたので、メンバーが「今度の曲は自分たちで演奏してみたい」と言うと、高樹は「冗談言うな。誰が素人の演奏に金など払うか。だが、練習するのは悪くない。弾くふりがうまくなるからな」と言い放ちます。
 これに対してメンバーは怒り狂いますが、リーダーのシュン三浦翔平)は、「クソみたいな演奏しか出来ない俺達が悪いんだ」と宥めます(なお、クリプレの場合に問題となるのは、後から加わったベーシストのシンヤはプロですから、ドラマーのテッペイと、ギタリストのカオルでしょう)。

 とはいえ、CDやTV等では、スタジオ・ミュージシャンを使った演奏で済ますことが出来ますから、問題はライブ演奏ではないかと思われます。

 「MUSH&Co.」の場合、高樹から「デビュー決定、おめでとう」と言われて、仲間の一人が「自分たちは演奏を始めて少ししか経っていない」と言うと、高樹は「演奏なんか出来なくても関係ない。後ろでプロがやってくれる」と答えます。
 実際にも「MUSH&Co.」のデビュー・ライブ演奏では、仲間の2人の他に、バックに2人ほどスタジオ・ミュージシャンが立っています。

 ただ、何人もギタリストがステージに立っていてもそれほどおかしくないかもしれませんが、ドラムスの場合、ライブではどうするのでしょうか?
 現実の話として、下手くそな演奏しか出来ないバンドがメジャー・デビューすることはそんなに多くないのではとも思えるのですが。

(注8)つまらないことながら、クリプレや「MUSH&Co.」が広い意味で「口パク」であることは映画の中で言われていることですから、ことさら非難するに値しないと思われますが(元々、映画における演奏シーンが「口パク」ではなくリアルなものだとは、一般に思われていないのではないでしょうか)。


★★★☆☆



象のロケット:カノジョは嘘を愛しすぎてる

ザ・コール 緊急通報指令室

2013年12月24日 | 洋画(13年)
 『ザ・コール 緊急通報指令室』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思い映画館に行ってきました。

 本作のはじめの方で、主人公のジョーダンハル・ベリー)が、「911」の緊急通報指令室に入ってきた携帯電話からの通報を受け取ります。
 それが「誰かが家の中に入ってくる!独りなの」という内容だったことから、ジョーダンは、一方で、「現場に急いで」とパトカーに連絡するとともに、他方で通報者の少女レイアには、「直ぐに警察が着く」、「電話は切らないで」、「窓はある?」などと話します。
 窓ガラスを割って家の中に侵入した男は、あちこち探し回った挙句、窓が開いていてその下に靴が投げ出されるのを見ると、家から出ていこうとします。
 ホッとしたレイアが携帯を切ってしまうと、丁度その時に、ジョーダンから電話が入り、レイアが手にしている携帯の呼び出し音が鳴ってしまいます。
 その音に気づいた男が戻って、ベッドの下に隠れているレイアを引きずり出して、………。

 その時の失敗にジョーダンは酷く落ち込みますが、気を取り直して新人研修を行っています。講義の後に新人たちと緊急通報指令室内を見回っている最中、男に誘拐されて車のトランクに押し込められた少女ケイシーアビゲイル・ブレスリン)が、「911」に携帯電話をかけてきたのに遭遇します。
 事態の重大さを見てとって、ジョーダンが受け取って対応することになります。



 ですが、ケイシーが運ばれている車の位置がなかなか判明しないため、ケイシーもジョーダンも焦ります。時間が無駄に流れていきますが、ケイシーは無事に助かるのでしょうか、………?

 見る前は、緊急通報指令室と通報者とのやり取りが描かれるサスペンス作品なのかなと思っていたのですが、実際にはホラー映画まがいのサイコ・スリラーとなっていて驚きました。でも、その緊迫感たるや普通でなく、巷の評判が高いのもよくわかります。

(2)本作については、何よりとにかく映画を見て楽しんでいただく必要があり、いろいろ言い立てても意味がないように思われます。
 それでも言うとしたら、一方で面白いと思ったのは、ご都合主義的と思わせる状況が次々に打ち破られて(注1)、ついにジョーダンはケイシーとマッタク連絡が取れない状況に陥ってしまい、一体どうしたらいいのかというギリギリのところまで追い詰められてしまうという点でしょうか。

 他方で問題があるとしたら、最近の映画の全般的な傾向がそうともいえるところ、本作はまさに女性だけが主体的な作品であり、男性がホンの添え物になっているにすぎないという点なのかもしれません(注2)。
 例えば、ジョーダンの職場は男性職員が混じっているにもかかわらず、彼女の上司は女性ですし、また、ジョーダンの恋人は警察官で、ケイシーの捜索に加わっているものの(注3)、ケイシーを彼の手によって発見することは出来ません(注4)。



 ラスト近くになると、なんとジョーダンの単独行動になってしまうのです(注5)。

 まあ、こうなるのも、レイプ事件や誘拐事件が異常に多いアメリカの状況に対する女性側からの抗議の意味合いもあるのかもしれないと思えて納得するのですが(注6)。

(3)渡まち子氏は、「ラストには疑問が残る」など「いろいろと文句を付けてはいるが、この作品のユニークさ、テンポのよさ、無駄のない脚本には実に感心させられる」として70点をつけています。



(注1)ケイシーは、友人が置き忘れていった携帯をパンツのポケットに入れていたために、誘拐された時に、自分の携帯を落としてしまいましたが、友人の携帯を使って「911」に連絡することが出来ました。
 さらには、ケイシーは、ジョーダンからの指示に従って、トランク内にある器具を使って、車のテールランプを外側に外します。そしてそこにできた穴から、手を出してみたり、トランク内にあったペンキを車の外に流したりします。トランク内によくペンキ缶が置いてあったと思いますし、ケイシーがこうした作業を行っても、運転する車内の男に聞こえなかったのは、男が大きな音量でカーステレオをつけていたからです。こうした好都合な状況にもかかわらず、捜索しているヘリコプターは、路上に付けられたペンキの跡を見つけることは出来ませんでした。

(注2)本作は、ある意味で、『リミット』と対極的な作品といえるかもしれません。
 本作が、誘拐犯によって被害者が車のトランクに押し込められてしまうのと同様に、同作は、テロリストによって主人公は棺桶の中に押し込められ砂漠に埋められてしまうという話であり、さらに外界との連絡は携帯電話しかないという点もあわせ、両作は酷く類似している感じながら、本作の被害者が少女であるのに対し同作の主人公は男性ですから。
 また、本作では、携帯の連絡先である緊急通報指令室のジョーダンが大活躍するのに対し、同作では、埋められた男に連絡してくる人物は画面に一切登場しないのです。

(注3)警察は、誘拐犯人の特定までいきますが(病院の検査技師で、その自宅まで踏み込みます)、道路の検問とか乗り捨てられた車の調査等くらいではなかなか犯人の居場所まではたどり着けません。

(注4)その他には、ケイシーの機転によって、ガソリンスタンドの男が誘拐犯に気が付きますが、逆にガソリンを浴びせられて殺されてしまいます。さらにもう一人、誘拐犯の行動を怪しいと睨んだベンツに乗る男がいるものの、不注意な行動によって、この男も誘拐犯に殺されてしまいます。

(注5)ジョーダンは単なる電話オペレーターに過ぎず、武器を携行していないにもかかわらず、単身で酷く怪しい場所に入り込んでいくのです(尤も、連絡を取ろうとした携帯を落としてしまったこともあるのですが)!

(注6)ジョーダンとケイシーが取り押さえた誘拐犯を警察に引き渡すことをしないラスト(二人は、犯人に「モウ手遅れよ」と言い残します)も、アメリカ社会に対する強い抗議の意味合いがあるのではないでしょうか?



★★★☆☆




42 世界を変えた男

2013年12月20日 | 洋画(13年)
 『42 世界を変えた男』を丸の内ピカデリーで見ました。

(1)評判がよさそうなので、公開終了間際でしたが映画館に行ってきました。

 本作は、アメリカのメジャーリーグで最初の黒人選手となったジャッキー・ロビンソンチャドウィック・ボーズマン)を描いたものです(「42」はその背番号)。



 第2次大戦が終わると、スタン・ミュージアムとかジョー・ディマジオといったスター選手らが大リーグに戻ってきて、1946年当時、16球団のメジャーリーグに登録されている400人のすべてが白人でした。
 他方、黒人選手だけのプロ野球チームで「ニグロリーグ」が結成され、全米を巡っていたようです。

 そんな状況の下、ブルックリン・ドジャーズのGMのブランチ・リッキーハリソン・フォード)は、ニグロリーグから「黒人選手を入れる」と決断します(注1)。



 これに対して、事務所の男は「そんなことをしたら、新聞にこっぴどく叩かれる」と言いますが、リッキーは「法律で禁じられているわけではない」と答え、男が「それでも慣習というものがあり、それを破ると社会から排斥される」と心配しますが、リッキーは「かまわない」と応じます。

 そして、リッキーは、ニグロリーグで活躍するジャッキー・ロビンソンに着目し、まずは傘下のモントリオール・ロイヤルズと契約させ、そこでジャッキーが好成績をあげると、1947年についにドジャーズに昇格させるのです。

 ジャッキーが白人400人の一角を崩したのが、1964年の公民権法成立より17年も前の1947年のことなのですから驚きです(注2)。これも、本人の類まれなる才能によることは勿論ですが、あくまでも彼をレギュラーとして使い続けたドジャーズのリッキーの力量にもよるのでしょう。でも、専ら実力という観点から選手を評価するという彼の方針は、過去の慣例を重視する日本的な社会(注3)では、とても通用しないことでしょう!

(2)とはいえ、こうした感動作につまらない茶々を入れるのは気が引けますが、実のところ本作は、大きな盛り上がりの少ない作品ではないかと思いました。
 確かに、ニューヨーク・ヤンキースのベン・チャップマン監督の耳を塞ぎたくなるような野次とそれを必死に堪えるジャッキー、そしてそのジャッキーを宥めるリッキー(注4)という場面は、本作の中で大きな盛り上がりを見せるものの、その他の差別のシーンはこれまでもよく映画等で見かけるものとそう大差がないような印象を受けました(注5)。



 さらに、野球の試合そのものにおいても、本作が焦点を1945年から1947年の3年間に絞り込んだこともあって、1955年のワールドシリーズにおける有名なホームスチールもエンドロールの写真で見せるだけという具合に、盛り上がりが欠けてしまっています。

 元々がジャッキーは、本塁打がそれほど多くはない(注6)、どちらかというとそれほど派手な選手ではなかったようにも思われます(注7)。
 加えて、モントリオール・ロイヤルズとの契約に際して、ジャッキーはリッキーから、「やり返さないことに勇気を持つことだ」、「優れたプレーヤーになって敵をねじ伏せろ、立派な紳士であり優秀なプレーヤーであることを示すのだ」などと説得されると、それ以降は「忍」の一字で厳しい場面も乗り越えていくのですから、派手派手しい場面が少なくなってしまうのも当然かも知れません。
 さらには、映画化に際して、主演のチャドウィック・ボーズマンがロビンソン夫人のレイチェルに会った時に、彼女から「過ちや欠点については、あまり描かないでほしいと頼まれた」そうですが、彼女は非営利の「ジャッキー・ロビンソン財団」を設立したりして健在ですから、夫の内幕を暴くような映画の制作に許可を与えるはずもないところでしょう(注8)。

 としても、これらの点は、海の向こうの実態を何も知らない井の中の蛙による戯言なのでしょう、映画は映画として素直に受け止めるべきだとは思いますが。

(3)渡まち子氏は、「黒人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンの伝記映画「42 世界を変えた男」。主人公の尊い精神に心から感動する」、「野球好きはもちろんのこと、何か新しいことにトライし改革を志す人には必見の1本だ」として70点をつけています。
 また、前田有一氏は、「伝記ドラマとしても、野球映画としても及第点。悪くはないが、期待を上回る何かがあるわけでもない。主人公の受ける差別行為や、それを打ち破ろうとする努力、周囲の変化や支えもすべてが予想の範疇。各人の演技力も平均的で、野球シーンを含めた演出面でもとくに問題なし」として55点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「スポーツのもつパワーを、まざまざと思い知らされる感動ドラマであった」が、「ゲームとしての野球映画本来のエンタメ要素はオミットされており、やや淡白な印象になってしまったのは否めない」と述べています。




(注1)ハリソン・フォードについては、最近では『恋とニュースのつくり方』を見ています。

(注2)NBAでは、1950年に、チャック・クーパーが黒人選手として最初にドラフトで指名を受けたとのことですから、1947年のジャッキーのMBA入りは画期的なことと思われます。

(注3)例えば、評論家の池田信夫氏によれば、「ほとんどの日本人は過剰に空気を読む病にかかっているのではないか」とのことですが。

(注4)リッキーはジャッキーに、「グランドに出て打つんだ、皆の前で試合に勝て、君が世界を変えるんだ!」などと言います。

(注5)当時南部諸州では、ジム・クロウ法〔白人以外の人種(特に黒人)が公共施設を利用することを禁止・制限した州法〕なるものがあって、例えば、「ニグロリーグ」の時代、チームの乗っているバスがガソリンスタンドで給油中に、ジャッキーがトイレを借りようとすると、店の者が「使うな」と言ったり(ジャッキーは怒って給油を中止させると、店の者はしぶしぶトイレを使わせます)、またドジャーズ時代、予約してあったホテルからチームが締め出しを食らわされたりするのです。
 なお、トイレの件は、『ヘルプ』でも描かれていました。

(注6)最多は、1951年度と1952年度の19本(平均は、13本少し)。

(注7)なんだか、日本のイチローのような感じもしてしまいます〔イチローがマリナーズに入団した歳と、ジャッキーがドジャーズと契約した歳とはほぼ同じ(イチローが27歳、ジャッキーが28歳)〕。
 ちなみに、両者をごく簡単に比較すると、
            ホームラン 打率  打点  盗塁
ロビンソン(10年間)… 137  0.311  734  197
イチロー(13年間)…  111  0.319  695  472

(注8)ジャッキーとレイチェルとの関係も、華やかなラブロマンスがあるわけでもなく、堅実そのものだったように思われます(彼がモントリオール・ロイヤルズへ入団するとすぐに結婚し、子どもを設けています)。




★★★☆☆




象のロケット:42 世界を変えた男

ジ、エクストリーム、スキヤキ

2013年12月17日 | 邦画(13年)
 『ジ、エクストリーム、スキヤキ』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)少々時間的な余裕ができたので、何の気なしに近くの映画館で見てきましたが、拾い物でした。

 本作のストーリーはごく単純で、40歳間際の洞口井浦新)が、学生時代の親友・大川窪塚洋介)のところに15年ぶりに突然現れ、大川の同棲相手の倉科カナ)と、洞口と昔付き合っていた京子市川実日子)を巻き込んで、車で海岸に向かい、公園でスキヤキを一緒に食べて帰るというものです(注1)。




 洞口は、大学を出て会社に就職して10年以上勤務したものの肌が合わずに辞め、その後はなんとなくブラブラして、最近自殺を計ったものの失敗したという過去があり、その他の者も皆先行きに大きな不安を抱えていて、それで楽しかった大学時代のつながりを求めてしまうようです(楓だけは違いますが)。
 なにか、中年一歩手前の人たちの気分の一端を表しているのかもしれないと思えて、興味を引かれました。

(2)本作を制作した前田司郎監督(注2)が原作・脚本を担当した『生きてるものはいないのか』では、「映画に登場する人物は、とにかくなんだか分からない原因で次から次へと死んでいくのです」が(注3)、本作でも死の匂はうかがわれます。
 本作の冒頭では洞口の自殺シーンがあり、また既に亡くなっている洞口らの共通の友人で自殺した峰村(写真でしか登場しません)の影が彼らの話のそこここに現れ(注4)、さらには大川の彼女・楓は先天性の病気で死を予期しているようなのです(注5)。

 といって本作は決して暗鬱な雰囲気の作品ではなく、映画撮影用機材を物色しに「かっぱ橋」界隈(注6)を歩いているシーンとか旅館の風呂場シーンにおける洞口と大川のやり取りなどなかなか秀逸で、むしろコメディ作品と言った方がいいかもしれません。

 でもまた、4人それぞれが抱える悩みも大きく、結局のところ不安と楽しさがゴッタ煮になっている作品ということで、特別仕立ての「スキヤキ」映画ではないでしょうか(注7)!

(3)本作の洞口のように、自殺を図ったとされる人物が実は生きていて物語に登場するというストーリーは、最近レンタルできるようになったDVDで見た『ペタルダンス』を思い起こさせます



 同作は、ジンコ宮崎あおい)と素子安藤サクラ)が、6年前の大学時代に友人だったミキ吹石一恵)が海に飛び込んだものの救出されたとの話を聞いて、ジンコが連れてきた原木忽那汐里)の運転で、北にある地元に戻って、3人でミキに会うというお話です。

 ただ同作は、ミキの自殺未遂の話ばかりでなく、原木も、その友人がある時会って以来音信不通になってしまったという事情を抱えていたり、ジンコと原木が知り合いになったというのも、駅における原木の行動を自殺と勘違いしたことがきっかけだったりと、全編にわたって死の影が強く漂っていて、かなりコミカルな感じがする本作とは雰囲気が違っていることもたしかでしょう。

 とはいえ、両作ともロードムービー的ですし、飛行機に一定の役割が与えられていたり(本作では旅客機ですが、同作ではグライダー)、登場する4人のうち一人が異質な人物(本作では楓、同作では原木)だったり、会話が自然な感じがしたり(ただ、本作では脚本にある台詞に沿って会話がなされますが、同作では脚本に頼らずにアドリブとのこと)するなど、類似点も多く見られます。

 あるいは、本作の登場人物が40歳間際であるのに対して、同作の登場人物は30歳くらいだという点が、作品の与える印象がかなり違っていることの大きな要因なのかもしれません。

(4)なお、本来的な作品の成り立ちから言えば、冒頭で自殺した洞口が蘇生し大川に電話をかけて、その後4人で旅行に出かける、という物語の流れに違いないところ、あるいは、ラストで東京に戻った洞口が、他の3人がそれぞれの家に戻ると独り取り残されてしまい、一時は皆でスキヤキ鍋をつつきながらこれから頑張ってやっていこうと思ったにしても、やはり自分はまだ“デボン紀”にあるという気分からそんなに簡単には脱却できずに(注8)、自殺を図ってしまうというストーリーが考えられないわけでもない、とも思えてきます(注9)。
 ただ、仮に、冒頭のシーンが4人による旅行の後の出来事だとしても、自殺した洞口が蘇生してまたまた大川に電話するとしたら、このサイクルは無限に続いてしまうことになります。あるいは、大川が作った大きなブーメランが、投げた海岸に戻ってくるというのは(注10)、そのことを意味しているのでしょうか?

(5)小梶勝男氏は、「(前田監督が脚本を書いた)「世之介」と印象は逆でも、登場人物を見つめる温かく、優しいまなざしは変わらない。それがまた、胸に染み入る」と述べています。




(注1)最近では、井浦新は『千年の愉楽』などで、窪塚洋介は『モンスターズクラブ』で、市川実日子は『マザーウォーター』で、倉科カナは『みなさん、さようなら』で、それぞれ見ています。

(注2)前田司郎監督は、自身の小説を映画化した『大木家のたのしい旅行』の脚本を担当し、また『横道世之介』の脚本も手がけています。

(注3)本作の前半に、洞口と大川が公園で寝転んで空を飛ぶ旅客機を見るシーンがありますが、旅客機が空から墜落していく様が描かれている『生きてるものはいないのか』のシーンを思い出しました。

(注4)ラストの方でも、車の中にムーンライダーズの曲が流れると、京子が「峰村君が勧めてくれたバンド」などと言ったりして、何かというと3人の会話の中で峰村のことが思い出されます。

(注5)旅館で風呂に浸かっている時に、洞口が大川に「楓ちゃんと結婚する気あるの?」と尋ねると、大川は洞口に、「あいつ、死ぬんすよ」、「先天性の何かだって」と答えます。

(注6)実際には、上野駅から「かっぱ橋道具街」に行く途中の「仏壇通り」(浅草通りの)界隈ではないかと思われます。言ってみれば、二人は、秋葉原の「電気街」に行こうとして「かっぱ橋道具街」へ来てしまったと思ったものの、実際は「仏壇通り」だったということでしょうか。

(注7)最初の方で、大川は豚肉の入ったスキヤキを食べていて、楓が「これスキヤキじゃないよ」と言うと、大川は「スキヤキでしょ?」と答えますが、彼らのスキヤキはなんでもありということではないでしょうか?
 あるいは、歌詞に出てこないスキヤキがタイトルになって欧米で大ヒットした坂本九の「SUKIYAKI」にもなぞらえられるのかもしれません(彼らは、スキヤキ鍋を食べながら、15年以上昔で今やその実体のない思い出に囚われているのですから)。

(注8)旅館での洞口と京子との会話で、京子が「遠くになっちゃった。あのときが“デボン紀”(「地質時代」の最初の方の「古生代」の4番目:4億年くらい前)で、今がモウ現代」と言うと、洞口は「俺はまだ“デボン紀”終わっていない」と応じます。
 洞口は、自分の「モラトリアム期間」はまだ終わっていないと言っているわけで、京子は「まだ決まっていない不確定な真っ暗な方を見て行かなくてはいけないと思う」と批判します。ですが、京子自身も今回の4人の旅行を十分楽しんでいるのであり、あるいは皆モラトリアム人間なのかもしれません(楓は違うのでしょうが)。

(注9)劇場用パンフレット掲載の「前田司郎インタビュー」で、前田監督は、「「死に向かっていく話」として見る人がいてもいいんじゃないか」とも述べています。

(注10)大川が投げたブーメランが一瞬視界から消えてしまったのを見て、洞口が「一回こっきりで後戻りできない人生みたいじゃないか」とわかったような口を利くと、実際にはブーメランは離れた海岸に突き刺さっているのです!



★★★★☆



象のロケット:ジ、エクストリーム、スキヤキ

キャプテン・フィリップス

2013年12月13日 | 洋画(13年)
 『キャプテン・フィリップス』を吉祥寺のバウスシアターで見てきました。

(1)予告編を見て面白いのではと思い映画館に出かけてみました。

 本作の冒頭は、2009年の3月28日、バーモント州アンダーヒルにある主人公のフィリップス船長(トム・ハンクス)の自宅。
 彼は、勤務先のマースク社の海員証や船長予定表といった必要書類等をカバンに詰め、車に載せます。そして、妻(キャサリン・キーナー)と一緒に空港に向かいますが、車の中で、妻が「歳をとると家を守るのも辛くなる」とこぼすと、彼も「出かける方もね」と応じ、さらに子どものことを心配しますが、妻は「わかるけど、うちは大丈夫よね」と言ったりします。
 空港に着くと、妻は「気をつけて」と言い、フィリップス船長はいつものように、船のある港に向かって出発していきます。
 今回は、中東オマーンのサラーラ(オマーン第2の都市)。そこからケニアのモンバサまで、援助物資などを積んだコンテナ船マースク・アラバマ号(アメリカ船籍)を航行させることになります(4月1日)。
 ところが、フィリップス船長及び20人の船員が乗るマースク・アラバマ号がソマリア海域に入ると、不審なボートに追尾され、様々の防衛行動を取るも、ついに武器を持った4人のソマリア人海賊に船は乗っ取られてしまいます(注1)。



 いったい、フィリップス船長以下の乗組員は、どうやってこの窮地を脱出するのでしょうか、………?

 最新の銃器を持っている海賊に襲撃される可能性が高いにもかかわらず、なんの武器も持たずに(あるいは、警備員を置かずに)危険な海域にどうして船が入り込んでしまったのか、などよくわからない面もありますが、アクション映画として最後まで観客の手に汗を握らせ、なかなか良く出来た作品ではないかと思いました。

 本作は、ソマリア人海賊に扮した4人の俳優(注2)や、シェイン・マーフィー(一等航海士)に扮したマイケル・チャーナスなどがそれぞれ好演しているとはいえ、やはり主役のトム・ハンクスの一人舞台といってもよいくらいその演技は傑出し、感動的です(注3)。



(2)大層面白い作品とはいえ、初めの内どうしても気になってしまうのが、上で申し上げたことながら、そして皆さんが指摘していることながら(注4)、マースク・アラバマ号は、危険な海域に入り込むことがわかっているにもかかわらず、なぜ武器を何一つ持っていなのかという点です(注5)。

 海賊がボートに乗って接近してくる時、特にハシゴをかけて船腹を登ってくる時などは、海賊側は大きな波に揺られているのですから、マースク・アラバマ号の方から発砲すれば、彼らを撃退するのはそれほど難しいことではなかったのではと、素人ながら思えるところです。
 でも、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」によれば、「海賊に襲撃された時、アラバマ号は武装していなかった」が、「結局、アラバマ号襲撃が業界に変化をもたらし、マークス社やその他の海運会社は、危険性が極めて高いルートでは武装した警備員(その多くは元海軍SEAL隊員)を船に乗せるようになった」とのことですから、この時点では仕方がなかったのかもしれません。

 もう一つは、4人のソマリア人海賊と一緒にフィリップス船長までもが救命艇に閉じ込められて、結局、彼は海賊の人質になってしまったのはどうしてなのか、という点でしょう。なにしろ、アラバマ号の船員の活躍によって海賊のリーダーを捕まえたのですから、事件はそのまま無事に解決してもよかったところなのです。
 ただ、この点については、劇場用パンフレットの「Highlights of the film」によれば、「船長自身、自らの著書で「間違いを犯した」と言っているシーン」とのことであり、さらにまた「フィリップ船長は一刻も早く海賊たちをマースク・アラバマ号と船員たちから引き離す必要があった」という事情もあったようです。

(3)渡まち子氏は、「圧巻はクライマックスのハンクスの演技だ。緊張感がマックスに達し、二度と会えないかもしれない家族への思いや、恐怖心が爆発するその場面には圧倒された」として75点をつけています。
 相木悟氏は、「観始めたら最後、2時間14分緊張しっ放しのノンストップ・ムービーであった」と述べています。




(注1)本作では、ソマリアの海賊の村エイルの様子も描かれます。
 海岸で男たちがたむろしているところに、突然何台もの車が到着し、その中から出てきた者が、男たちに向かって「ボスは今金が要るんだ。海へ出ろ」、「船に乗る者を集める、でかく稼げるぜ」と叫びます。それに応じて男たちが集まりますが、その中から、後でマースク・アラバマ号を乗っ取ることになる4人を含めた者が選別されます。

(注2)劇場用パンフレット掲載に「Production Notes」によれば、「アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスにある、アメリカで最大規模のソマリア系アメリカ人コミュニティー」に行って、オーディションで選んだとのこと。

(注3)トム・ハンクスについては、最近では、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を見ています。

(注4)例えば、劇場用パンフレットに掲載のレビューで、田原総一朗氏は、「意外だったのは、ああいう民間の船って海賊とかに備えてもっと武装しているかと思っていたら、実はそうではない」と述べています。
 また、同パンフレット掲載の原作者インタビューにおいて、著者リチャード・フィリップスは、「あれは私が近年航行する中で、初めて乗った武装していない船だった。他の船には大抵いくつかの武器が備わっている」と述べています。

(注5)一応は、アラバマ号は、一斉放水によって水のカーテンを作ったり、また周囲に大きな波を引き起こしたりして、妨害工作は行うのですが。




★★★★☆




象のロケット:キャプテン・フィリップス

ハンナ・アーレント

2013年12月11日 | 洋画(13年)
 『ハンナ・アーレント』を岩波ホールで見ました。

(1)哲学者を主人公にした酷く地味な作品ながら、大層評判が高いと聞いて(注1)、神田神保町まで足を伸ばしてみました。

 本作(注2)は、専ら、アドルフ・アイヒマン(注3)に対する裁判(1960年)をめぐって主人公のハンナ・アーレントバルバラ・スコヴァ)(注4)がどんな行動をとったのかを、実話に基づいて描いているものです(注5)。



 アーレントは、ナチスドイツからアメリカに渡った哲学者(注6)であり、高い評価を得ている著書をいくつか著していましたが、アイヒマン裁判を傍聴するためにイスラエルに飛び、帰国後その報告を雑誌『ニューヨーカー』に発表します(注7)。
 ところが、記事の内容について、特にアメリカのユダヤ人社会から強い非難の声が上がります。
 というのも、アイヒマンは、ホローコーストに強く関与していたナチス親衛隊中佐でしたから、「凶悪な怪物」として彼のことを描き出すべきなのに、アーレントは、彼について、上司の命令に忠実に従った「凡庸(平凡)な人間」だと書いたからです(注8)。そればかりか、ナチスに協力的だった「ユダヤ人評議会」のことも明るみに出したのです(注9)。
 その結果大騒ぎとなったのですが、彼女を非難する友人や同僚は、彼女の議論を全く受け入れませんでした(注10)。



 彼らの態度は、従来からのユダヤ人社会に定着しているものの見方に囚われたものに過ぎないように見えます。アーレントはアイヒマンのことを「思考不能の人間」と規定していますが(注11)、アイヒマンとまさに同じように、彼らも現実の有り様について(全体主義について、ナチスについて、アイヒマンについて、等々)柔軟に思考できていないように思えます。
 そんな二重の構造が描かれているのが、この映画の優れている点ではないかと思いました。

 なお、アーレントがアイヒマン裁判を通じて柔軟な見解を持つに至ったのには、様々な要因が考えられるところ、彼女が故国ドイツを離れてアメリカで生活していた女性であったという点も挙げられるのではないでしょうか?要すれば、彼女はアメリカの異邦人として、それも女性であることから(アメリカといえども、戦後すぐの時点では、女性の社会進出はまだそれほど進んではいなかったのではないでしょうか)、それまでに作り上げられてきた伝統的なものの見方にとらわれることなく、斬新な観点からものごとを見ることができたのではないかとも考えられるところです。本作を見ると、ドイツから脱出してきた人々が彼女の周りには大勢いたところ、男性の同僚などはかなり彼女から離れてしまうものの、メアリー・マッカーシー(アメリカ生まれですが)などは友情関係を保ち続けます。

(2)本作では、アイヒマン裁判関係だけでなく、大哲学者のハイデッガーとアーレントの恋愛関係も描かれています。とりわけ、ハイデッガーがアーレントのアパートにやってきて彼女の膝に顔を埋めるシーンが描き出され、二人の情事が仄めかされてもいます(注12)。

 ただ、二人の関係は複雑で、なかなか外部からはうかがい知れないところがあるようです。特に、ナチスに関わったハイデッガーについてのアーレントの評価ということになると難しいようですが(注13)、本作でも、ハイデッガーと戦後再会した際に、アーレントが、「(フライブルク大学)学長就任演説にはめまいがしたわ。思考を教わった恩師があんな愚かなことを」と批判します(注14)。

 このハイデッガーとアーレントの関係は、本作で中心的に描かれるもの(アイヒマン裁判を巡るアーレントたちの動向)と直接関係しないように見えるところです。ただ、ラストの方で、アーレントの旧友であるハンス・ヨナスが彼女に向かって、「ユダヤのことを何も分かっていない。だから裁判も哲学論文にしてしまう」と言うところに、アイヒマン裁判とハイデッガーとの関係性がわずかながらも仄めかされているのではないでしょうか?

 それはともかくとして、本作でハイデッガーを演じる俳優はどう仕様もありません(注15)。本作は、アーレントと彼女を取り巻く人々(夫や同僚など)が中心的に描かれるために仕方のないとはいえ、哲学者の中山元氏が言うところによれば、「アレントがまだフライブルク大学の学生だった頃から、ハイデガーの魅力は若者たちを圧倒的に惹きつけた」とのことですから(注16)、もう少し何とかならなかったのでしょうか?

(3)中条省平氏は、「思考する人間を映画で見せるには緻密な台詞が不可欠である。映画の成否は、この言葉を担う人間像の厚みにかかっている。ヒロインを演じるバルバラ・スコヴァはその人間造形にみごと成功した」と述べています。
 藤原帰一氏は、「どうして映画にしたのか?それは、「ほんとうのこと」を知ろうとするアーレントの姿を描きたかったからではないかと思います」と述べています。
 小梶勝男氏は、「周囲に屈しないアーレントを描くことで、「悪の凡庸さ」の主張をくっきりと浮かび上がらせた。思考が生き方となり、強さとなって、周囲を圧倒していく様子 が爽快だ。しかし、感動ものになりそうになると、直後に冷や水を浴びせるような場面を続ける。単なる偉人伝にしなかったフォン・トロッタ監督の冷徹な視点 を感じる」と述べています。
 佐藤忠男氏は、「「悪の凡庸さ」の一言は、軍国主義を経験したわれわれの心もぐさりと刺さずにはおかない。かつて戦争犯罪に問われたわれわれの先輩たちも、多くは「命令だったから」と弁明した。それを思うと見ながらはもちろん、見たあとにも多くのことを考え込んでしまう」と述べています。



(注1)例えば、アーレントの主著『人間の条件』(ちくま学芸文庫)を覗くと、その第3章「労働」は「以下の章ではカール・マルクスが批判されるであろう」という文章で始められています。
 にもかかわらず、本作が、いわゆる左翼言論人の牙城の一つとおぼしき岩波書店に関係する岩波ホールで上映されているばかりか、そこが連日大入り満員だというのが実に不思議です。
 現にクマネズミが出かけた時も、開場(上映の40分前)の1時間も前から入口には人が集まりだし、30分前くらいになると入口近くにある階段に長い行列が出来てしまったほどです!

 この点について、金沢大学の仲正昌樹教授の『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書、2009年)では、「アーレントが日本の左派の間で意外と好意的に受け止められている理由」として、「1990年代の半ば以降、アメリカのフェミニスト、あるいは女性の政治・社会理論家の間で、近代市民社会の「公私二元論」の問題に鋭く切り込んだ思想家としてアーレントを再評価する動きが起こり、それが日本に伝わって、主として「左」の側で人気が広がったこと」とか(P.28)〔「アーレント・ルネサンス」といわれているようです。例えば、この論文の「はじめに」を参照〕、さらには「彼女が「全体主義」という現象をユニークな方法で分析し、巧みに定義したこと」が挙げられています(P.30)。

(注2)以下において、本作の台詞の引用は、専ら、劇場用パンフレットに掲載の「採録シナリオ」に依っています。

(注3)本作の冒頭では、アルゼンチンに潜伏していたアイヒマンが、モサドによって捕らえられるシーン(バスから降りた男が夜道を一人で歩いていると、後ろからトラックが近づき、トラックから飛び降りた者がその男を捕らえて荷台に押し込みます)が映しだされます。

(注4)本作の監督・脚本のマルガレーテ・フォン・トロッタは、劇場用パンフレットに掲載されたインタビュー記事において、バルバラ・スコヴァを起用したことについて、「アーレント役には、思考する姿を見せることができる女優が必要でした。そうした困難な役柄を演じられるのは、彼女しかいません」と述べています。
 確かに、彼女は素晴らしい演技を披露していると思います。ただ、どんなに頑張ってみても、映画では、どうしてアーレントがあのような見解に至ったのかを描くことは出来ないのではと思います。これは、例えば、素晴らしかった『セラフィーヌの庭』において、にもかかわらずなぜセラフィーヌがあのような特異な絵画を描くに至ったのかが描けないのと同じことではないのか、と思いました。

(注5)本作のフォン・トロッタ監督は、『ローザ・ルクセンブルク』(1986年)を制作しているところ、アーレントの夫のハインリヒ・ブリュッヒャーが、若い頃、ローザ・ルクセンブルクの率いるスパルタクス団員だったこと(下記「注6」で触れる『ハンナ・アーレント伝』P.186)も関係しているのでしょうか?
 ちなみに、本作の主演女優バルバラ・スコヴァは、同作に出演しカンヌ国際映画祭最優秀主演女優賞を受賞しています。

(注6)本作の中でも言われているように、アーレントは、最初はドイツからフランスに逃れ、でも1940年にフランスがドイツに侵攻されると、彼女は「ギュルス抑留キャンプ」に収容され、そこから夫や母親とともにアメリカに脱出します(「アメリカのビザで。旅券がないから、18年間無国籍でした」と彼女は学生に話します)。
 ここらあたりの経緯については、エリザベス・ヤング=ブルーエル著『ハンナ・アーレント伝』〔(晶文社、1999年(原著は1982年)〕の第4章「パリの無国籍人」に書かれていますが、「彼らの脱出はあらゆる点で運が良かった」ようです(P.229)。

(注7)アーレントは、1963年に、雑誌掲載をまとめたものを『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳、みすず書房1969年)として出版しています。

(注8)本作においてアーレントは、大教室を埋める学生に向かって教壇から、「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです」、「この現象を、私は「悪の凡庸さ」と名づけました」と述べます。
 ちなみに、上記「注7」で触れた著書の副題は「悪の陳腐さについての報告」(A Report on the Banality of Evil)とされています。
 なお、同書を手にとってみると(訳本をざっと眺めたに過ぎませんが)、「悪の陳腐さ」という言葉自体は、タイトルの副題以外にはほとんど登場しません(第15章の末尾と「あとがき」くらいでしょうか)。おそらく、同書全体でそのことについて報告しているということなのでしょう。

(注9)上記「注8」で触れた講義において、聴講していたトーマス・ミラー教授から、「先生は、「ユダヤ人指導者の協力で死者が増えた」と主張してますよね?」と質問されると、アーレントは、「ユダヤ人指導者は、アイヒマンの仕事に関与してました」と述べます。
 ちなみに、上記「注7」で触れた著書においては、例えば、「自分の民族の滅亡に手を貸したユダヤ人指導者たちのこの役割は、ユダヤ人にとっては疑いもなくこの暗澹たる物語全体のなかでも尤も暗澹とした一章である」と述べられています(P.93)。

(注10)例えば、本作においては、アーレントと同僚のトーマス・ミラー教授は、「ユダヤ人を批判するとはな。殺人鬼を責めるべきだ」が言うと、もう一人は「しかもその殺人鬼は道化でヒトラーの愚かな従僕だと」と答え、さらにミラー教授は「“平凡な人”だとさ」と話します。
 アーレントの友達のなかには彼女から離反する者が現れますが、一番堪えたのは、彼女が「家族だ」とみなしていたクルト・ブルーメンフェルトが死の床についたというので、わざわざイェルサレムに出向いたにも関わらず、彼が彼女にクルッと背を向けたことだったのでは、と思われます。



 また、本作で、若い時分にアーレントと一緒にハイデッガーの講義を聞いたことのあるハンス・ヨナス(夫のハインリヒは「(ハンスは)昔から君に惚れている」「(ハンスにとって)ハイデッガーはナチである以上に恋敵だ」と妻のアーレントに言います)は、アーレントに向かって「あんな原稿は載せないでくれ」と要請するのです。

(注11)上記「注8」で触れた講義において、アーレントは、「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです」と述べます。
 ちなみに、上記「注7」で触れた著書においては、例えば、アイヒマンは「愚かでではなかった。完全な無思想性―これは愚かさとは決して同じではない―、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ」と書かれています(P.221)。

(注12)フランスの精神分析家のジュリア・クリステヴァによる『ハンナ・アーレント』(作品社、2006.8)では、「1924年2月に秘密の清純な恋が始まった。その時、ハンナは18歳、マルティン・ハイデガーは35歳だった。最近出版されたハンナ・アーレントとハイデガーのあいだの書簡集が、エルジビュータ・エティンガーの論争的な本に加わって、その不可能性と同じくらい強いこの〔二人の〕絆の力を再構成性できるようになった」などと述べられています(P.32)。
 ちなみに、それら2つの本は、みすず書房から出版されております。

(注13)哲学者の中山元氏は、『ハンナ・アレント〈世界への愛〉-その思想と生涯』(新曜社、2013.10)で、一方で、アーレントが、1946年に発表した論文の脚注でハイデッガーを断罪したり(「ハイデガーはフライブルク大学総長という地位を用いて、彼の師にして友人でもあり、また講座の前任者であるフッサールにたいして、彼がユダヤ人であるという理由から、大学教員の一員として構内に入るのを禁じた」)、またヤスパースへの1946年の書簡の中で「ハイデッガーを潜在的な殺人者とみなさざるをえないのです」と書いたりしていると指摘しています(P.377~P.378)。ただ、他方で同氏は、アーレントは「ハイデッガーの哲学をナチスの哲学とみなしたことはないことを確認しておこう」とも述べているのです(P.381)。
 要すれば、アーレントは、フライブルク大学総長時のハイッデガーについてかなり「批判」をしながらも、ただし一定の範囲内で、ということではないかとも推測されるところです。

(注14)Wikipediaによれば、「ナチス党がドイツの政権を掌握した1933年の4月21日、ハイデッガーはフライブルク大学総長に選出さ」れ、「5月27日の就任式典では就任演説『ドイツ大学の自己主張』を行い、ナチ党員としてナチス革命を賞賛し、大学をナチス革命の精神と一致させるよう訴えた」とのこと。

(注15)粉川哲夫氏は、「クラウス・ポールという俳優による陳腐な演技」と述べています。

(注16)上記「注13」で触れた『ハンナ・アレント〈世界への愛〉-その思想と生涯』P.368。



★★★★☆



象のロケット:ハンナ・アーレント

かぐや姫の物語

2013年12月07日 | 邦画(13年)
 『かぐや姫の物語』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)高畑勲監督が、製作期間8年、総製作費50億円を費やして作ったアニメだということで、映画館に行ってきました。

 本作は、原作の『竹取物語』にかなり忠実に従いながらも(登場人物を若干増やしていますが)、なぜかぐや姫は地球にやってきて、物語の最後に月に帰還することになるのかという点につき独自のアイデアを入れ込み(注1)、なかなか見応えのあるアニメに仕立てられています。
 特に、キャラクターと背景とが同一の水彩画風に描かれ、キャラクターはスケッチ画風の粗い線で描かれているのは、他のアニメでは余り見られない新鮮さがあります(注2)。
 ただ、どれもこれも大層綺麗な画像であることは間違いないものの(注3)、それを137分間も見せ続けられるといささか辟易しますし、また喧騒の都と鄙びた田舎というおなじみの構造を持ち込まれると(注4)、またあのいわゆる環境派の作品かという気にもなってきてしまうのですが(注5)。



(2)本作を見て、以前このエントリで取り上げた問題にまたまた逢着してしまいました。
 すなわち、本作における高畑勲監督の役割はどんなことなのかということです。
 同じジブリの宮駿監督の『風立ちぬ』の場合は、同氏の漫画から出発していますし、脚本なども担当しますから余り疑問に思わないのですが、高畑監督の場合、絵を描きませんから、未熟なクマネズミには、アニメーションを制作するといってもその役割がよくわからない感じがしてしまうのです(注6)。
 まして今回の作品の場合(注7)は、『サマーウォーズ』の細田守監督と違って、原作を創作したわけでもなく、古典の『竹取物語』に明確に依っているのですから。

 でも、同エントリでも申し上げましたが、「現在制作されているアニメでは、誰が画面を描いているかはさして重要ではなく、実写映画との違いは、極端にいえば、手書きのキャラクターが画面で活躍するということだけ」なのであって、アニメの監督も実写映画の監督も同じ立場にあるといえるのでしょう。

 そして、高畑監督のこれまでの話などからも(注8)、その役割がわからないでもないながら、やはりアニメの制作の主役は漫画家なのではないのかなと思えてしまうのですが。

(3)ところで、本作の元になった『竹取物語』に関しては、在野の古代史研究者・宝賀寿男氏(注9)が著した『神功皇后と天日矛の伝承』(法令出版、2008.4)に、実に興味深いコラム記事が掲載されています(P.184~P.189)。



 すなわち、「〈コラム2〉かぐや姫の物語」では、「このよく知られた物語にはモデルがあり、そのモデルが記紀の三韓征伐で有名な神功皇后だった」とあり(注10)、さらに、概略次のように述べられています。
イ)『古事記』や『日本書紀』には「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)という女性が登場するが、人名対応から見て神功皇后にあたる。
ロ)『日本書紀』では、神功皇后のプロフィールについて、幼時から聡明・叡智で、かつ父がいぶかしく感じるほど容貌が優れて美しいとまで書かれている。
ハ)かぐや姫が「竹の筒」から生まれることは、迦具夜比売命の曾祖母あるいは姉妹とされるのが竹野媛(たけのひめ)といい、丹波の大豪族丹波大県主・竹別(たけのわけ)一族の出自であったことにつながる。
ニ)神功皇后が先祖ゆかりの異国の地たる韓土へ征討に行くという伝承が、『竹取物語』では、天皇に求婚された姫が故地の月という異郷に帰ることになっている。
ホ)かぐや姫に求婚した5貴人は、文武天皇(8世紀初め頃)の朝廷の重臣に関連し(注11)、また仲哀紀(注12)に神功皇后の重臣として見える武内宿祢(注13)と4人の大夫にも関連する。
 例えば、『竹取物語』に登場する「大納言大伴のみゆき」は、仲哀紀に見える大伴武以(たけもち)の子孫の大納言大伴御行である(注14)。
ヘ)『竹取物語』は、武内宿祢の後裔と称する紀氏一族の手により作られたものか(文武朝の重臣のなかには5貴人との関連が考えられなさそうな大納言紀麻呂(きのまろ)という者がおり、また、紀氏一族は藤原氏に冷遇されていた)。

 勿論、『竹取物語』については、その成立年や作者について何もわかっていませんから(注15)、本作のように描くことは十分可能なのですが、こうした宝賀氏の見解をもよりどころとしながら、物語の後半の舞台を、例えば奈良(またはその周辺)とし、寝殿作りの屋敷とか牛車が行き交う大路があったりする京よりはズッと古い都の様子を描くこともあるいはできるのかな、と想像してみるのもまた楽しいのではないでしょうか?

(4)渡まち子氏は、「日本映画としてはとてつもない規模の作品ながら、親しみやすさと哀しさ、オリジナリティと革新性をみせつける、とんでもない秀作アニメ。高畑勲監督の渾身の1本に仕上がった」として75点をつけています。
 また、相木悟氏は、「巨匠だからこそ造りえた、贅沢かつ冒険心に溢れた一級品であった」と述べています。
 さらに、映画評論家の森直人氏は、「高畑は、この14年ぶりの新作で孤高のアニメーション作家の凄(すご)みをさらに強めた。最近「かぐや姫の物語」ほど、ラジカルな表現を備えた商業アニメは他に見当たらないのではないか」と述べています。
 読売新聞の近藤孝氏は、「かぐや姫の怒りの感情が、これほど簡潔な線の勢いで表現されるとは。ベタッと塗った映像に慣れた目には新鮮に映る。アニメーションの技術と思想が高度に結びついたまれにみる作品だ」と述べます。



(注1)原作の『竹取物語』にある「昔の契りありけるによりてなむ、この世界にはまうで来たりける」とか「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かくいやしきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。罪のかぎり果てぬれば、かく迎ふる」をどう高畑氏が解釈したのかの詳細については、同氏による「企画書」(劇場用パンフレットに掲載)を見ていただきたいのですが、要すれば、かぐや姫は「「愛」を享受するため」に地球にやってきたのであり、帰ることになったのは、「ある時点で、姫が心の中で「死にたい!」と叫んでしまったから」、ということでしょう。

(注2)とはいえ、映像としての斬新さという点では、『Short Peace』の方に軍配があがるのでは、と思います。

(注3)ただ、かぐや姫が怒って屋敷を飛び出していくところは実に荒々しい表現で描かれていて、こうした描き方は前作『ホーホケキョとなりの山田くん』でも見られるものの(例えば、いなくなったのの子を探しに一家が車を走らす場面など)、より高度に洗練されたものになっているように思いました。



(注4)例えば、公式サイトの「プロダクションノート」には、「『ハイジ』と『かぐや姫』には多くの共通点がある。共に自然に囲まれて山でのびのびと育った少女。しかし、周囲の大人の意思により山を離れて都会へ出てくることになる。二人は都会で暮らしながら、山での生活、自然への思いを募らせていく」云々と述べられています。
 ちなみに、原作の『竹取物語』では、かぐや姫は鄙びた田舎で育ってから都に出てきたようには書かれていませんし、またその話のかなりの部分は5人の貴人とかぐや姫とのやりとりですから、本作の前半の大半は今回創作したものといえるでしょう。

(注5)ここは政治的な議論をする場ではないので指摘するにとどめますが、高畑氏は宮駿氏らと一緒に、12月3日に発足した「特定秘密保護法案に反対する映画人の会」の「呼びかけ人」になっています(この記事)。

(注6)こうした疑問は、高畑氏にもぶつけられているようで、「ほぼ日刊イトイ新聞」掲載のこの記事(2004.7.29)では、同氏は「こういう話をしていると、「あなたは、絵を描かないのに、 なぜアニメーション監督をやっているのか?」というような疑問を持つ人がいるかもしれません。ぼくは最近いつも、そう聞かれたときには、「ディズニーという人もそうなんです」と答えています」と話しています。

(注7)高畑監督の前作『ホーホケキョとなりの山田くん』の場合も、いしいひさいち氏の4コマ漫画に依っています。



 なお、このアニメでは、桃の中からのぼるが、そして竹の筒の中からのの子が生まれる様が描かれています!

(注8)上記「注6」で触れた記事で、高畑氏は、「絵描きではないにしても、絵への感覚を研ぎ澄ませて「絵がわかる」という状態を持っていれば……「さまざまな才能と組むことができる」のですね。しかも、自分で描かないという立場であれば、才能を持っている人を自分の色にねじふせて絵を描かせるのではなくて、「その人の絵の才能を発揮してもらう」という方向にもっていけるのではないでしょうか。いや、もっていくしかないんです」とか、「ぼくは、自分が絵を描かないでアニメーションの演出をやっていることは、決して弱点とは言えないのではないかと思っていますし、実際にそういう立場で作品を作ってきました」と述べています。
 さらに、この記事では、「できるだけ、捨てる絵を減らすために、スタッフに描いてもらう絵は、はやい段階でまちがいのない方向へと導かなければならない。それが設計ということで、ぼくらの場合では、できるだけ緻密な「絵コンテ」をつくる、ということなのです」とか、「そういった設計をすることについては、絵が描けるか描けないかというよりは、むしろある種の想像力があるか、計算ができるかどうかという問題です」などと述べています。

(注9)宝賀寿男氏の著作については、これまで本ブログにおいて、このエントリこのエントリ(いずれも『巨大古墳と古代王統譜』)、さらにはこのエントリ(『越と出雲の夜明け―日本海沿岸地域の創世史―』)、そしてこのエントリ(『神武東征服」の原像』)で触れてきたところです。

(注10)『神功皇后と天日矛の伝承』では、神功皇后は、津田史学の流れがまだ主流を占める戦後の古代史学界でその実在性が否定されてきたが、それは誤りであって、実は日葉酢媛であり、ただ記紀にあるように垂仁天皇の2番目の皇后ではなく、成務天皇(4世紀中頃)の皇后であった、とされています。

(注11)Wikipediaによれば、江戸時代の国文学者・加納諸平が指摘しています。

(注12)『日本書紀』のうち仲哀天皇(上記「注10」で触れる成務天皇の次の天皇で4世紀後半)の事績を述べている部分。

(注13)宝賀寿男氏の著書『古代氏族の研究② 葛城氏―武内宿祢後裔の宗族』(青垣出版、2012.10)においては、「武内宿祢は非実在の人物で古代の7雄族の祖として後世に蘇我馬子や中臣鎌足など、1人ないし複数の人物をモデルにして創作されたものだと、津田亜流の学究の多くから考えられている」が、「これは皮相的な見方にすぎ」ず、「記紀の記事をそのまま素朴に受け取り、全面否定につなげる例の手法であって、合理的な解釈とは言い難い」と述べられているところです(P.25)。

(注14)宝賀寿男氏の最新の著書『古代氏族の研究④ 大伴氏―列島原住民の流れを汲む名流武門』(青垣出版、2013.10)においては、「御行(みゆき)」に関して、「壬申の乱(672年)が起きると、大伴氏では一族をあげて大海人皇子側につき大活躍をする」のであり、「大伴長徳の子の御行(みゆき)も功があって、功封百戸を賜り、後に氏上や大納言となって、その死後には正広弐右大臣を贈られた」と述べられています(P.73)。

(注15)Wikipediaによれば、『竹取物語』は「遅くとも平安時代初期の10世紀半ばまでには成立したとされ」ているようで、その作者としては、源順、源融、遍昭、紀貫之、紀長谷雄、空海などが挙げられているとのこと。



★★★☆☆



象のロケット:かぐや姫の物語

ペコロスの母に会いに行く

2013年12月04日 | 邦画(13年)
 『ペコロスの母に会いに行く』を吉祥寺のバウスシアターで見ました。

(1)本作は、ペコロス(小さなタマネギ)という愛称の主人公・雄一岩松了)が、10年前に認知症を発症した母親・みつえ赤木春恵)を介護する様子を描き出した作品です。

 舞台は長崎。主人公の雄一は、広告代理店に勤めながらも、勤務は適当に流して、漫画を書いたり音楽活動をしたりするダメサラリーマン。
 その上に、母親が認知症ですから大変です。
 雄一が仕事で出かけ1人でいる時にオレオレ詐欺の電話がかかってくるのですが、みつえは、他のことに気を取られて受話器を置いて別室に行くと、電話のことを忘れてしまいます。
 これは実害がなくていいのものの、ダメだといくら雄一が言っても、駐車場で雄一が帰ってくるのを待ち構えていたり、既に亡くなっている夫のためといって酒屋に酒を買いに出たりしてしまいます。



 そこで、雄一と息子のまさき大和田健介)は、ついにみつえを介護施設に入れることにします。
さあ、うまくいくでしょうか、………?

 本作は、進行する認知症の母親を息子が介護するという大層厳しい状況を描きつつ、さらには母親の幼い頃や戦後の苦しい時代のエピソードがしばしば挿入されるものの、全編にわたり実に優しい眼差しに溢れ、見終わるとほのぼのした感じなります(注1)。

 主人公の雄一を演じる岩松了は、持ち味のひょうひょうとした雰囲気を出しながら味わいのある演技を披露しますし、また母親役の赤木春恵も、89歳とはとても思えないしっかりとした演技で観客を驚かせます。

(2)介護施設を描いたものとしては、最近では『ばしゃ馬さんとビッグマウス』があります(注2)。その中で、主人公のみち代(麻生久美子)が、シナリオを書くための取材ということで、ボランティアとしてごく短期間ながら働いたりします。
 ただ、その映画で描かれる介護施設では、入所している老人たちが簡単にはみち代を受け入れてくれず、おまけに早々に退散せざるを得ない事件が起こったりします(注3)。

 これに対して、本作で描き出される介護施設は、実に和やかな雰囲気が漂い、大きな問題は何も起こらなそうな印象を受けます(注4)。

 とはいえ、認知症の場合、実のところ病気は次第に進行し、記憶についても、初めのうちは最近起きたことを忘れてしまいますが、次第に過去のことも忘れてしまうとのこと(注5)。
 みつえの場合、上で触れたように、オレオレ詐欺の電話がかかってきてもそのこと自体を忘れてしまったりしますが、どうやら病気の初期症状のように思われます。
 その代わりに、過去のことはかなり鮮明に覚えています。本作では、みつえの幼い時分のエピソードや、夫・さとる加瀬亮)との結婚にまつわる出来事などが思い出として度々挿入されます(注6)。
 挙句は、みつえの目には、過去の人々(注7)が実在するかのように見えているようなのです(注8)。

 こうした有り様を見て、雄一は、映画のラストの方で、「ボケても、悪いことばかりじゃないかもしれない」とつぶやきます。

 確かに、認知症の場合そうした側面はあるのでしょうし、本作がその点を強調するのは斬新な視点とも言えるでしょう。
 でも、実際には病気はどんどん進行して、大層厳しい局面に至るのも事実のようです。
 「ハートウォーミングコメディ」として本作はまずまずの出来栄えとは思いますが、それはそれとして、他方で現実の有り様も忘れるべきではないのではと思います。

(3)読売新聞編集委員の福永聖二氏は、「森崎監督は、介護という深刻になりがちな題材を、少しも湿っぽくなく描き出した。優しさに満ちた秀作だ」と述べています。
 また、映画評論家の秦早穂子氏は、「同じ長崎生まれ、85歳の森崎東監督の確かな目が光り、赤木春恵89歳、初の映画主演という。日本人が本来持つ明るさ。溢れる生命力。断ちがたき親子の情。そこに、なんの理屈があろう」と述べています。




(注1)ただ、雄一の妻でまきおの母親である女性のことが、映画の中では触れられていないようなのはどうしてでしょうか?

(注2)この点については、「ふじき78」さんが既に指摘しているところです。

(注3)入所者の老人が吐瀉物まみれになってしまいますが、みち代はそれに対して何も対応できませんでした。

(注4)本作の介護施設では、入所者らが歌を合唱するくらいなのです。それに、本田竹中直人)の母親は女学生時代の恋人に恋心を抱いているようで、また人形を背中におぶって歩きまわっている老女(白川和子)もいたりして、多士済々の老人が楽しげに徘徊しています。
 こうなるのは、一つには、ロケの場所がデイサービス施設(北九州市の「さくら館」)であることも与っているのではないでしょうか?
 (どちらかといえば、『きいろいゾウ』でムコ(向井理)が介護士として働く特養ホーム「しらかば園」の描き方に近いのかもしれません)

(注5)例えば、このサイトの記事には、「認知症のごく初期では、まず近時記憶(数分前のことを覚えている)があやふやになり、やがて短期記憶(数日内のことを覚えている)が働かなくなりますが、遠隔記憶(それ以前のことを覚えている)には問題がないことが少なくありません」などと述べられています。

(注6)思い出のシーンから描き出されるみつえは、大家族の長女として生まれたために、畑仕事を手伝わされたり大勢の兄弟の面倒を見させられたりするなど、大層苦労し、さらには長崎に投下された原爆のキノコ雲も目撃しています。また戦後になると、結婚した夫・さとるがアル中で、みつえはDVを受けたりし、決して平坦な道ではありませんでした。



 さらに、音信不通になっていた親友・ちえこ原田知世)と遊郭でばったり出会ったりもします。
 本作の初めの方で、幼いみつえとちえこが、学校の窓から、音楽の先生(宇崎竜童)が合唱で「早春賦」を指導しているのを覗いたりするシーンがありますが(昭和18年の天草)、ちえこは被曝して10年後に亡くなっています(なお、みつえの若いころを演じるのが原田貴和子ですから、本作では姉妹共演ということになります)。



(注7)夫・さとる、幼馴染みのちえこ、それに8歳で亡くなった妹・たかよが、幻覚としてみつよに現れます。

(注8)上記の「注5」で触れたサイトの記事からすると、みつえは「アルツ八イマー型認知症」(「症状は記憶障害に始まり、初期には抑うつがみられたり、進行すると徘徊や妄想、幻覚がみられたりすることもあります。最終的には脳全体が萎縮するので身体機能そのものが低下しますが、表情はおっとりとして幸せそうなケースもみられます」)なのかもしれません。



★★★☆☆



象のロケット:ペコロスの母に会いに行く

悪の法則

2013年12月02日 | 洋画(13年)
 『悪の法則』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作に主役級の俳優が5人も揃って出演するというので興味を掻き立てられ(注1)、映画館に足を運びました。

 映画の原題は「Counselor(弁護士)」で、映画の中でも単にカウンセラーと呼ばれる弁護士の男(マイケル・ファスベンダー)が主役。
 舞台は主に、メキシコ国境に近いテキサス州の街。
 カウンセラーは、一方で、恋人のローラペネロペ・クルス)と結婚の約束を交わし幸福な時を過ごしていますが、他方で欲をかいて、友人の実業家ライナーハビエル・バルデム)や裏のブローカーのウェストリーブラッド・ピット)と組んで危ない事業に手を出そうとします。




 ですが、うまくいくかと思われた事業に齟齬が生じ、取引相手のメキシコ人組織から関係者全員が付け狙われることに。
 それにどうやら、ライナーのもとにいる元ダンサーのマルキナ(キャメロン・ディアス)も一枚噛んでいるようなのです。さあどうなるのでしょう、………?

 5人の俳優が、これまでのイメージとはかなり違った役柄に挑戦する様を見るのが面白い上に、映画全体が緊迫感に溢れていて、2時間の上映時間が短く感じられるほどです。といっても、これだけ豪華俳優を揃えているのであれば、きっと何か凄いことが起こるに違いないという思い込みから生じる緊迫感に過ぎないのですが、………。

(2)出演する5人の俳優は、それぞれ持ち場、持ち場でさすがの存在感を示しているものの(注2)、5人が一緒に登場して絡むシーンはなく拍子抜けであり(注3)、それに何と言っても脚本(コーマック・マッカーシー)自体に面白みが欠けるように思いました。
 例えば、
・カウンセラーは、友人のライナーと組んで凄い事業をやるのだと言っていて、それなら麻薬などありきたりなものを扱うのではなく、さぞかし奇想天外なアイデアがあるに違いないと観客に期待を抱かせるのですが、やっぱり………(注4)。
・カウンセラーが危険な事業に乗り出すことに対し、友人のライナーなどが強く警告しますが、カウンセラー自身はメキシコ国境近くの街で弁護士活動をしているわけですし、また日本にも例えばこのようなサイト記事があるくらいですから、そんなことを言われなくとも、危険なことは百も承知なのではないでしょうか?
・思わせぶりな会話が溢れ返っていますが、その最たるものは、メキシコ人の麻薬カルテルのボス・ヘフェルーベン・ブラデス)が、電話でカウンセラーに対し、「おまえは既に選択しているんだ。選択しようとしたって、今さら選択する道などない。お前が置かれている現実をよく見ろ。お前は最早、自分が創りだした世界にいるのだ」云々と説教じみたことを話す場面ではないでしょうか?
 単に「お前らを処分する決定は既に下されていて、それをくつがえすことはできない」ということを、酷く曖昧に哲学風〔よくいえば、サルトルの実存哲学風のこと(人間は、自分のそのつどの選択と決断とによって、みずから自己をつくっていく存在)〕に述べ立てているにすぎないように思えました。

 全体として、肝心のストーリー自体は単純そのものと思われるものの(注5)、個々の出来事をはっきりとは描写せず酷く曖昧にしてしまい、なおかつ映画の途中で、伏線というよりも飾り物風の映像とか会話があちこちに横行していて(注6)、ラストでは「エッ、これでおしまい?」といった感じで観客は投げ出されてしまいます。

(3)渡まち子氏は、「全体を通して会話劇で成り立っている作品なのに、こんなにも緊張を強いられるとは。人間性の極北をドライに描いた恐ろしい傑作である」として75点をつけています。
 また、前田有一氏も、「こいつはホラー映画でもないくせにやたらと怖い、きわめて危険な一本である」などとして85点をつけています。
 相木悟氏は、「“おもしろい”けど、“つまらない”。矛盾した感情を犯罪映画ファンに抱かせ、困惑させる問題作であった」と述べています。 

 なお、上記の前田氏は、「法則のわからぬ悪意に対し、我々一般人は打つ手がない。この映画はそれをイヤというほど繰り返すことで、私たちには倫理や法律、そうした法則・きまりごとの元で正しく生きることがなにより大事なのだと、そういうことを教えている」と述べていますが、私たちが映画を見るのは、はたして映画で何事かを勉強するためなのでしょうか(注7)?それも、よりによって「正しく生きることがなにより大事」などといった陳腐な道徳訓話を(注8)?!




(注1)最近では、マイケル・ファスベンダーは『ジェーン・エア』で、ペネロペ・クルスは『ローマでアモーレ』で、ハビエル・バルデムは『BIUTIFUL ビューティフル』で、ブラッド・ピットは『ワールド・ウォーZ』で、キャメロン・ディアスは『恋愛だけじゃダメかしら?』で、それぞれ見ています。

(注2)特に、キャメロン・ディアスは、クマネズミが見ている『私の中のあなた』、『運命のボタン』などからすると考えられないような妖艶な役柄を演じていて、流石の貫禄を示しています。



(注3)これは、『コンテイジョン』を見た時にもそう思ったのですが、「出演した著名俳優の出演料が高すぎて、それぞれ拘束時間が十分に取れなかったこと」にもよるのではないでしょうか?
 なにしろ、そちらでは、マット・デイモン、マリオン・コティヤール、ジュード・ロウ、ケイト・ウィンスレット、グイネス・バルトロウなどが出演しているのです!

(注4)尤も、最初の方で、薄暗い工場の中に置かれたバキュームカーの中にドラム缶を詰め込むシーンがあり、何をやろうとしているのかは薄々わかるのですが。

(注5)ズブの素人(カウンセラー)が、なぜか金に目が眩み、酷く危険な麻薬取引に乗り出して致命的な大火傷をするという、ありきたりな話にすぎないでしょう。

(注6)例えば、最初の方でライナーとマルキナが、2頭のチーターをペットとして飼っていて、うさぎを追う様を双眼鏡で眺めて楽しむシーンがあり、チーターのように獲物を追いかけて逃さないその後のマルキナ(何しろ、チーター模様のタトゥーを背中にしているくらいなのです)を暗示している風です。

 また、カウンセラーがアムステルダムで恋人ローラに贈る高価なダイヤモンド(vs-1の3.9カラットで約30万ドル)を購入する場面がありますが、宝石商は「警告のダイヤ」の話をしたりします。これは、その後、危険な事業に手を出そうとするカウンセラーに与えられる様々の「警告」を暗示している風です。

 特に、ウェストリーは強くカウンセラーに警告しますが、その中の「殺人ビデオ」の話は、その後のローラの身の上に起きたことを暗示している風です。

 それに、ライナーも唐突に「ボリート」(ワイヤーとモーターで出来た絶対に外れない絞殺器具)の話をカウンセラーにしますが、これも、ラストの方でのウェストリーの顛末を暗示している風です。

(注7)さらに、この映画の中で「最凶」(劇場用パンフレット掲載のエッセイ「意外性を発揮するスターたちの凶暴なアンサンブル」)を演じる人物が、最後には生き残るわけですから、果たしてこの映画は道徳な作品と言えるのでしょうか(尤も、実際には、あんな派手な生活をしていたら、地球上のどの都市に行っても、すぐさま見つけ出されて麻薬カルテルに始末されてしまうのでしょうが。でもそれは、この映画を超えた話です)?

(注8)もっといえば、前田氏は、「この映画は要するに「法則無き恐怖」を観客に味あわせようという、意地悪な企画ということである」と述べているところ、確かに、「この映画が描くメキシコ麻薬カルテルには、まさに世間の常識、道徳、普遍の法則といったものがまったく通用しない」なのでしょうが、そこは日本のヤクザの世界がそうであるのと同じように(ヤクザの掟!)、別の「常識、道徳、普遍の法則といったもの」が存在していて、この映画は、別にあちらの世界が無「法則」であるというよりも、こちらの世界からそちらの世界に入り込んだらそちらの世界の「法則」に従わざるをえないと言っているのにすぎないのではないでしょうか?




★★☆☆☆




象のロケット:悪の法則