映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

一命

2011年10月30日 | 邦画(11年)
 『一命』を吉祥寺のバウスシアターで見ました。

(1)原作の滝口康彦著「異聞浪人記」(注1)を映画化したものとしては、小林正樹監督の『切腹』(1962年)があり、それに甚だ感銘を受けたことがあり、また『十三人の刺客』の三池崇史監督の作品ということもあって、映画館に行ってみました。

 原作では、結核に冒された妻や子供の治療代を“狂言切腹”で手にしようとした浪人・千々岩求女の哀れな顛末と、その理不尽さを暴こうとした義父・津雲半四郎の誇り高き姿が簡潔に描き出されています。
 その原作を、本作はどのように料理しようとしたのでしょうか?

 この点を巡っては、本作が、『切腹』をオリジナルとするリメイクとはされておらず(注2)、あくまでも原作との関係が強調されていることが注目されます(注3)。
 すなわち、『切腹』(最近、DVDを借りてきて、再度見てみました)は、原作を復讐譚として捉えていると考えられるところ、本作は、その要素をできるだけ排除しようとしていると言えると思います(注4)。

 具体的には、例えば、『切腹』のラストでは、津雲(仲代達矢)が刀を抜いて、井伊家の家臣たちと斬り合いを演じ、4名を斬り殺したりするのですが、本作では、津雲(市川海老蔵)は、なんと竹光を抜いて家臣団と対峙するのです(注5)。
 また、『切腹』における斎藤勘解由は、原作に随分と近い姿で描かれているように思われます。原作においては、勘解由は、津雲半四郎が玄関先に現れた際の委細を聞くと、「またも来おったか、性こりもなく」と言って「にやりと笑った」とありますし(P.9)、また庭先で津雲の話を聞いたあとにも、「勘解由の口もとには、すぐにふてぶてしい笑いが刻まれた」と述べられているところ(P.35)、『切腹』における勘解由の描き方はほぼその通りであり、さらに勘解由を演じるのが三國連太郎であることがその感を一層強くします。

 他方、本作における斎藤勘解由は、役所広司が演じることもあって、一切そのような素振りは見せませんし、津雲と勘解由とのやりとりの内容自体は、両作でそれほど異なるとは思われませんが、勘解由は大層真摯に対応しているフシがうかがわれます。
 それに、勘解由は、足に障害があるような歩き方までするのです(注6)。



 モット言えば、自宅に戻ってきた千々岩求女の遺体には、井伊家で求女に差し出された菓子が添えられていたところ、妻の美穂満島ひかり)は、それをわざわざ死んでいる子供の口につけてから自分の口に入れた後、懐剣で自害するのですが、あたかも津雲に対して、井伊家への復讐などするな、と言っているような感じです。

 こんなところから、本作は、『切腹』とはかなり異なる作品ではないかとも考えられるところです。
 ただ、そうだからと言って、本作に対する評価が高まるとは直ちには言えない気もします。
 やはり、『切腹』におけるように、「復讐譚」とする方がスッキリと分かりやすいですし、ラストの殺陣の場面も、竹光と真剣の対峙では見ている方で拍子抜けしてしまいます。
 また、『切腹』では津雲(仲代達矢)と沢潟彦九郎丹波哲郎)とのチャンバラシーンが一つの山場となっているところ、本作ではそうしたシーンはいともアッサリと描かれてしまっているだけなのも、なにか物足りない感じがしてしまいます(注7)。

 また、『十三人の刺客』と比べると、冒頭に大名屋敷の大きな門が出てくるところ(『十三人の刺客』は、そこで家老が“切腹”をするところから始まります!)、事件の発端に女性が絡んでいることとか(本作では妻の満島ひかり、『十三人の刺客』では谷村美月と“芋虫”状態になった女)、少人数(本作では1人ですが)が多数を相手に挑みかかること、など類似する点があるものの、肝心の殺陣の場面では『十三人の刺客』に及びませんでした(義父の刀が竹光では致し方ありません!)。

 とはいえ、“狂言切腹”でありながら切腹する破目に追い込まれてしまう若い浪人を演じる瑛太も、なかなかよくやっていると思います。



 また、こうした時代劇となれば、その義父を演じる市川海老蔵は抜きんでていると思いました(ところどころは、台詞回しやしぐさが余りに歌舞伎調になるフシもうかがえるものの、大した役者だなと思います。とはいえ、現代劇ではどうなのでしょうか?)。



 さらに、千々岩求女の妻の美穂を演じる満島ひかりは、これまでの役柄とは全く違って、若い妻の役を実に初々しくこなしていますが、やはり『愛のむきだし』や『川の底からこんにちは』のような元気のいい彼女を見たいものだと思いました。



 なお、この映画には3D仕立てのものもありますが、3Dは『トランスフォーマー3』でもう結構と思いましたので、最初から見る気はありませんでした。

(2)この物語には、思いつきめいた事柄で恐縮ですが、いくつか問題点があるように思われます。

a.物語の背景として(注8)、大名改易に伴って大量の失業者(浪人)が出たとされますが(注9)、津雲半四郎と千々岩求女の場合、自業自得の面もあるとはいえ、なぜあれほど酷く困窮しているのだろうかと、いささか不思議な感じがします。
 というのも、例えばこのサイトを見ると、改易された大名家の家臣が他家に仕える例がないわけではなさそうですし、そうでない場合にも、津雲は、剣術の腕前は相当のものがあるのですから、道場を開くこともできたでしょうし、千々岩も、高い教養を身に着けているのですから、寺子屋の教師としてもっと活躍できたように思えます。

 それに、彼らは、福島家が改易されたときに、どこに住んでいたのでしょうか?本作では、広島城とか千々岩家の屋敷が描かれていることからすると、広島の城下にある程度の広さを持った屋敷を所有していたものと思われます。主家の改易に伴い、その屋敷にいられなくなったのかもしれませんが、どうしてわざわざ江戸まで出てくる必要があったのか、よくわかりません(広島に居さえすれば、親類縁者もいることでしょうし、ある程度の暮らしは維持できたのではないでしょうか?)(注10)。

b.原作でも本作でも、巷では「狂言切腹」が流行り出しているとされているところ(注11)、口上として言われるものには飛躍がある感じで(注12)、果たしてこんな言い草で切腹が認められるものなのか、疑問に思えるところです。

c.原作では(『切腹』も同様ですが)、本作と異なり、浪人・求女が苦しさの余り舌を噛み切ってから介錯したとされていますが(注13)、それではわざわざ介錯人を設ける意味がなく、また作法通りとも言えないのではと思われます。
 それはともかく、井伊藩としては、こうした「狂言切腹」の再来を防ぐべく求女の口上に従うとしても、切腹の作法どおり取り行えば済むところを、なぜあのように凄惨な結果を招くことになってしまったのか、責任問題が発生するものと思われますが、そんな気配は映画からは窺えません。

d.特に本作では、介錯人・沢潟彦九郎がなかなか刀を振り下ろそうとしないのに業を煮やした江戸家老・斎藤勘解由が、自分自身で求女の介錯をしますが、これは単に作法通りのことをしたまででしょう。
 ただ、勘解由は、そこまで本件にかかわるのであれば、作法どおり行動しなかった沢潟彦九郎らを処罰すべきではなかったでしょうか?そうはせずにそのままにしておいたために、津雲の登場となったものと思われます。
 井伊藩における津雲の狼藉の責任は、ひとえに勘解由の責任と見ることもできるのではないでしょうか(注14)?

e.にもかかわらず、津雲の非難は、沢潟彦九郎らの求女切腹に直接かかわった者にだけ向けられて、その場の全体責任者である斎藤勘解由には向けられてはいないように見えます(この点にも、本作の復讐譚でないとする姿勢が表れているように思われますが)。

f.それに、沢潟彦九郎らに対しその理不尽な対応の仕方を非難するのであれば、津雲は、彼らに武士にあるまじき恥辱を与えるべきであり、単に髻を切っただけでは不十分ではなかったでしょうか?現に、3人とも、“武士らしく”切腹しているのですから!



(3)なお上記(1)で、“映画『切腹』は、原作を復讐譚として捉えていると考えられるところ、本作は、その要素をできるだけ排除しようとしている”、と申し上げましたが、だからといって、本作が『切腹』とマッタク無関係に制作されているかというと、その点は大いに疑問です。

 このあたりについては、ブログ「お楽しみはココからだ~映画をもっと楽しむ方法」の10月19日のエントリで展開されているブログ管理者の「Kei」さんの見解は、実に鋭い点を衝いていると思われます。

 すなわち、ブログ管理者の「Kei」さんは、「なんとまあ、橋本忍の脚本をほとんどなぞっている。井伊家の門前に半四郎が訪れる冒頭、斎藤勘解由の語りに始まり、半四郎の回想を挟んだ全体の構成、最後の大乱闘…と、ほとんど同一脚本と言っても過言ではない。/特に、原作では後ろの方で明らかになる、求女の切腹場面を前に持って来て、しかも原作では詳細が描かれていない、竹光で切腹する残酷なシークェンスを追加したり、これも原作では1行であっさり片付けている半四郎の最期を、怒りに燃えた大乱闘アクションへと展開したり、といった橋本忍がオリジナルで改変し、膨らませた部分がそのまま登場している。/半四郎が井伊家の宝=赤備えの甲冑をぶっ壊す、これも原作にない橋本オリジナルの重要シーンも、若干変えてはいるがちゃんと盛り込まれている…等、これではどう見ても橋本忍脚本のコピーである」と述べておられます。

 ただ、「井伊家の門前に半四郎が訪れる冒頭、斎藤勘解由の語りに始まり、半四郎の回想を挟んだ全体の構成」といったものは、滝口康彦の原作の通りであって、ことさら橋本忍のオリジナルだとはいえないのでは、と思われます。
 更に、「原作では後ろの方で明らかになる、求女の切腹場面を前に持って来て、しかも原作では詳細が描かれていない、竹光で切腹する残酷なシークェンスを追加した」とされる部分は、原作でもほぼ中央に置かれており、「竹光で切腹する残酷なシークェンス」もそれなりに原作で描かれていると思われます。

 とはいえ、「原作では1行であっさり片付けている半四郎の最期を、怒りに燃えた大乱闘アクションへと展開」したり、「半四郎が井伊家の宝=赤備えの甲冑をぶっ壊す」場面などは、本作にも取り入れられているところです。
 それだけでなく、千々岩求女が切腹をする井伊家藩邸の中庭とか、求女と美穂が暮らす廃寺の様子なども、『切腹』と同じような感じになっていると思われます。

 そんなことから、本作は、大枠のところでは『切腹』に依拠している、あるいは相当の影響下にあると考えられるところです。
 ただ、本作を復讐譚としないとするという基本的コンセプトを重要視するとすれば、「Kei」さんがおっしゃるように「原脚本:橋本忍、潤色:山岸きくみ」とまで記する必要があるのか疑問に思えるところです。

(4)渡まち子氏は、「終盤のクライマックスの大立ち回りは、リアリティよりも、映像美を優先した独創的なものだ。実年齢で5歳しか違わない市川海老蔵と瑛太を父子役に据えるの は、あまりに無理があるのだが、無理を押してまで、海老蔵の所作の美しさを優先させたことを見れば、様式美へのこだわりが理解できる」として65点を付けています。
 また、福本次郎氏は、「倒産した会社の元社員が日雇派遣に転職したり、生活費や家のローンに困った挙句に心中を図るなど、21世紀の現代でもありそうな題材で求女らの置かれた状況が非常に身につまされる作品だった」として60点を付けています。



(注1)講談社文庫『一命』所収。

(注2)劇場用パンフレットの「カンヌ国際映画祭ルポ」と題する記事によれば、三池監督は、「『十三人の刺客』はリメイクでしたが、『一命』は再映画化です」と述べています。

(注3)ちなみに、米国映画『モールス』は、スウェーデン映画『ぼくのエリ』をオリジナルとするリメイク作だとされますが、実際のところは、映画のタイトルからしても原作小説(『モールス』)を再映画化したものと考えるべきだと考えます。

(注4)上記「注2」で触れた「カンヌ国際映画祭ルポ」によれば、「今なぜこの作品を?」との記者質問に対し、三池監督は、「原作の津雲半四郎は誰も殺さないんです。彼は復讐ではなく、武士の本分というものを正しに行った。……そこで仇を斬っちゃったら終わりなんですよ。斬ってしまったら、何を言ったって復讐の連鎖を呼ぶ。……」と言います。
 また、脚本の山岸きくみ氏も、「この映画は復讐譚ではない。ですから半四郎は求女同様、自分をゼロにして竹光で対峙する、その姿を描きたかったのです」と述べています。

(注5)原作では、「津雲半四郎が、乱刃に斬り苛まれて息絶えた」とだけ述べられています(P.39)。

(注6)本作における斎藤勘解由に足の障害があるのは、関ヶ原の戦いによるものと想像され、津雲半四郎と同様、彼に実戦経験があるところを強調するためだと思われます(劇場用パンフレットにおいて、脚本の山岸きくみ氏は、「上映時間の関係などもあり、本編の中では描かれてい」ないものの、「この2人は関ヶ原でアイコンタクトをしていた……という設定で書き進めていきました」とまで述べています)。

(注7)ただ、この点に関し、『切腹』には疑問があります。丹波哲郎演じる沢潟彦九郎は神道無念一流の達人とされ、津雲半四郎も随分と手こずりますが、そうした立派な武人であるなら、千々岩求女の切腹に際し竹光の脇差しを使わせるような理不尽なことをさせなかったと思われ、また津雲に髻を切られたなら、恥辱の余りその場で直ちに自害したのではないかと推定されるところです。それを、おめおめと自宅に戻って、病と称して隠れ潜んでいたとは、剣術の達人とも思えません。
 この点は、本作『一命』における沢潟(青木崇高)の描き方の方が、受け容れやすいのではと思われます。

(注8)時代設定は、原作が「寛永年間」としているところ、本作では「寛永十一年」(1634年)と特定されています。

(注9)Wikipediaによれば、福島正則は、元和五年(1619年)に、安芸・備後50万石を没収され、信濃国川中島四郡中の高井郡及び越後国魚沼郡〔4万5,000石(高井野藩)〕に減封されています。

(注10)原作には、「主家没落ののち、愛宕下の藩邸を立ち去る時は、美穂はまだあどけない少女にすぎなかった」とあり(P.26)、これからすると、津雲や千々岩は江戸詰めの家臣ではなかったか、とも思われるのですが。

(注11)原作には、「元和のなかばから、寛永の初めにかけて、改易、あるいは厳封された諸侯の名は、数えるに暇もないくらいであった。そして、主家の廃絶によって、いやおうなく路頭に投げ出されたおびただしい浪人の群は、うたかたのようにはかない仕官の望みを抱いて、その大部分が江戸へ集まっているのである」(P.12)とあります。

(注12)原作では、「今日まではなんとか糊口をしのいできたものの、もはやこれ以上の辛抱はなりかねる。このままむなしく陋巷に呻吟していつまでも生き恥をさらすより、武士らしく、いっそいさぎよく腹かっさばいて果てようと思う故、晴れの死場所に、願わくは御当家の玄関先を貸してはいいただけまいか」といったような意味合いのことを津雲半四郎が述べたとされています(P.9)。
 ただ、こうした口上を述べる浪人と「御当家」との間に何らの関係もないのが普通でしょうから、いくら面倒なことを避けたいとしても、上に取り次ぐまでもなく、門番や家臣が直ちに追い出すべきところではないでしょうか?

(注13)「周囲からどっとおこる、嘲罵の渦の中で求女が舌を噛みちぎった時、はじめて解釈人の白刃がひらめいたのである」(P.25)。

(注14)本作においては、江戸家老・斎藤勘解由は、沢潟彦九郎に対し、「どんな輩であれ、当家に参ったのだ。礼は尽くせ」と命じてますが、沢潟彦九郎らのやり方は「礼を尽く」したものとなっていないように思われます。従って、そのことについて、沢潟らを処罰すべきではなかったでしょうか?



★★★☆☆



象のロケット:一命
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ブリッツ

2011年10月29日 | 洋画(11年)
 『ブリッツ』を新宿バルト9で見てきました。

(1)前回と同じように気楽な映画を見ようと思って出かけたのですが、確かにアクション物ではあるものの、『ワイルド・スピ-ド MEGA MAX』よりもずっとシリアスな内容でした。

 主人公は、容疑者に対してすぐに手を出してしまう凶暴性をもったサウスロンドン警察署の刑事ブラントジェイソン・ステイサム)(注1)。彼とペアを組むのが、最近隣のウエストロンドン警察署から異動してきたナッシュ(注2)。



 ブラントは、その乱暴な捜査方法から、絶えず解雇の際に立たされているものの、難しい事件となると、署長にとって一番頼りがいがあるヤツということになります(注3)。
 現下の最大のターゲットは、警官殺しのバリー〔ブリッツ(稲妻)と自称〕。なにしろ、3人もの警察官が彼によって次々に殺されているのです。



 ブラントたちは、一度はバリーを逮捕しますが、証拠不十分で48時間後に釈放せざるを得ませんでした。
 それでバリーは、次の狙いをブラントに定めたようです。果たして、ブラントはそれを回避できるでしょうか、そしてバリーを逮捕できるでしょうか、……。

 ロンドンの古い街並みを舞台にしていること(そのためもあって、米国映画ならカーチェイスになるところが、殺人鬼バリーと刑事ブラントとの追っかけゴッコになります)や、警察内部の闇の部分をいくつか描いていること〔麻薬捜査官が、麻薬依存症になっていることなど(注4)〕などから、随分とリアリティのある作品になっていると思いました。

 とはいえ、警察の同僚が殺されてから、その犯人を追い詰め殺したとしても、虚しいばかりではないかという思いが今回もしました。むしろ、そうならないように、事前に対策を入念に取っておくべきではないのか〔映画の場合、どの警官も、単独でパトロール中に狙われているのですから(注5)、最低限、署を出てパトロールする際には2人以上とするルールの徹底を図っておくべきではなかったか、と思われるところです〕、特に映画の場合、同僚が3人も殺されてから、どんなにブラントらが犯人に報復しても、結局は意味がないのではないか、と思えてきます。

 また、ラストでは、自分についての批判記事を執拗に書いた新聞記者(注6)に対して、猛犬をけしかけますが、いくら留飲を下げるためとはいえ、やらずもがなのことではないでしょうか?

(2)バリーが襲うのは気まぐれでも何でもなく、次第に、これまで彼を逮捕した時に携わっていた警官が狙われているのだということがわかってきます(ブラントも当然、彼の対象に入っています)。
 彼にしてみれば、自分に屈辱を与えた奴だから憎いということかもしれませんが、常識的には、そうだからといって殺すまでのこともあるまい、ということになるでしょう。なにより、逮捕されたにしても、これまでバリーは、そんなに大それた事件を引き起こしているわけでもなさそうですし。
 そういうよくわからなさもあり、また新聞記者に事前予告をしてマスコミから注目されたがっているように見えることもあって、バリーは「愉快犯」とされているようです。
 ただ、一般に「愉快犯」というのは、「劇場型犯罪」を犯して皆が騒ぐのを見て面白がるという面を持っているようですが〔よく言われるのは、“グリコ・森永事件”でしょう(1984年、1985年)〕、バリーには、あまりそんなところは見かけません。
 単に、自分を侮った者に対して復讐しているようにしか思えないところです。
 ただ、3件目の殺人事件に際しては、無残な死体を前にして物を食べたりしていますから、精神的に普通ではないところがあるようです(あるいは、自分の逮捕に関与したものを誇大視しているのかもしれません)。
 ともかく、ブラントとナッシュのペアが、バリーを罠に嵌めて簡単に殺してしまいますから、真相は闇の中になってしまいます。

(3)渡まち子氏は、「劇中に「ブリッツとは稲妻という意味だ」とのセリフがあるが、ザ・ブリッツと言えば、1940~41年の独軍によるロンドン大空襲“電撃戦”をも指す言 葉。ヒトラーの意図は、英国人の士気を砕くことだった。ルール無用の荒くれ刑事役のジェイソン・ステイサムは、“ブリッツ”という言葉そのものを鼻で笑 う。こういうヒネリが効いた演出が、いかにもUK映画らしくて小気味良い」として65点を付けています。
 また、福本次郎氏は、「マスコミをあおり警察の無能をあざ笑う構図は「ダーティハリー」に通じるところがあるが、この作品では対極にあるはずのブラントの闇とブリッツの闇が底流でつながっているかのごとき不気味さを漂わせていた」として50点を付けています。



(注1)何しろ、映画の冒頭は、車をこじ開けて中の物を盗もうとしていた少年3人を、ホッケーのスティックで叩きのめしてしまうシーンなのです(少年たちに、“俺とやる時は武器を選ぶんだな”などと嘯きます)。
 この件については、新聞に大きく報道されてしまい、また専門家による事情聴取もされています。その際に専門家から、“自分の報告の仕方によってはおまえは解雇されるぞ”と脅されますが、ブラントは逆に、“警官はおれの転職なんだ、解雇されたら何をするか分からんぞ”と開き直ります。

(注2)ブラントは兇暴ですが、記憶を失うことがあるという悩みを持っているようです(“ときどきブラックアウトしてしまい、そういう際は、ただ壁をみつめているだけにして何もしない”などとナッシュに話したりしています)。
 また、ナッシュも、ゲイであることを公言したために、酷い差別を受け、暫く自宅から出れなくなったと言ったりしています。

(注3)全く詰らないことですが、ブラントは、ナッシュと一緒に事をしようという時に、ミニマックスがいいといいます。
 字幕からすると、ミニマックスとは「日本食」を指しているようなのです。
 寡聞にして知らなかったので、Wikipediaで「グラハム・カー」を調べてみると、1991年に製作された彼が司会するアメリカの料理番組「世界の料理ショー」では、「それまでグラハムが提供してきた脂肪分たっぷりのスタイルではなく、香りや色彩、食感など素材の味を活かすことに重きを置」き、「健康への害を最小限におさえることを目的としたヘルシーな料理法」が推奨されたとのことで、おそらくそんな彼の料理法(「ミニマックス(Minimax)と称する」)に日本食が該当するところから、「ミニマックス」に「日本食」が当てられているのではと思われます。
 ただ、いくらブラントが病を抱えているからといって、カロリーの低いものばかりを食べていたら、冒頭の少年にだってスタミナ不足で負けてしまうかもしれませんが!

(注4)女性警官フォールズは、追いかけていた麻薬売人が残していった荷物の中から覚せい剤を見つけたものの、その誘惑に負け、またしても依存症に逆戻りしてしまいます。というのも、彼女は麻薬取締官でありながら、麻薬依存症に陥ってしまい、暫く厚生施設に入っていて、最近そこを出所したばかりだったのです。
 なお、彼女は、ブラントのところにやってきて、昇進試験に落ちたことを報告し、どうしたらいいのかアドバイスをしてもらおうとします。こんなところからも、ブラントが、仲間から信頼されていることがわかります。

(注5)最初の女性警官は、一人で巡回中にバリーと遭遇し、いきなり喉を至近距離で撃たれてしまいます。2番目の警官も、パトカーに一人でいるところを、これも至近距離で頭部をバリーに撃たれてしまいます。
 ただ、3人目の犠牲者は巡回中ではなく、マンションに帰宅していたところを、配達人を装ったバリーにハンマーで殴り殺されてしまいます〔殺されたロバーツ警部は、妻の死後―その葬儀にブラントも参加しています―、酒浸りでしたが〕。
 なお、「注4」で触れたフォールズも、自宅入口でバリーの犠牲になるところでしたが、フォールズを慕う少年によって難を免れます(ただ、その少年は、バリーの犠牲になってしまいますが)。

(注6)彼は、「注1」で触れた少年殴打事件を大々的に取り上げた新聞記者ですが、それでバリーに目を付けられて、犯行の事前予告を受けることになります。また、バリーが、証拠不十分で釈放された時も、待ちかまえて英雄扱いをしようとします。
 彼は、目立ちたがり屋であることは事実ながら、他方で、警察権力の不当な行使を監視しようとしている面もあると言えるでしょう。




★★★☆☆




象のロケット:ブリッツ
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ワイルド・スピード MEGA MAX

2011年10月27日 | 洋画(11年)
 『ワイルド・スピ-ド MEGA MAX』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)荒唐無稽なものも見てみたくなったのと、映画の舞台がブラジルと聞いたので、事前の情報をほとんど持たずに映画館に入ってみました。

 映画がシリーズ物の最新作だ、ということも知らなかったくらいですが(注1)、娯楽映画としてまずまず楽しめました。

 主人公のトレットヴィン・ディーゼル)は、アメリカで懲役25年の判決を受けるも、彼の妹ミアジョーダナ・ブリュースター)と恋仲になっている元刑事のブライアンポール・ウォーカー)の手助けで護送車から逃亡。3人は暫くしてリオで落ち合いますが、列車に積まれている車を強奪する仕事を依頼されます。ただ、仕事自体は何とかやり遂げるものの、何者かに襲撃されてしまいます。



 元々目的の車は麻薬取締局が押収したもので、それに付いているPCに挿入されていたマイクリチップに、リオの裏社会を牛耳るギャング団のボス・レイエスヨアキム・デ・アルメイダ)の金銭の出入りが克明に記録されていたのです。レイエスは、そのチップが官憲の手に渡らないように、まずトレットらに仕事をさせた上で、最後は自分のものにしようと襲撃した、というわけです。
 レイエスは、今やトレット達の手に渡ったチップを奪い取るべく、手下を彼らのもとに送り込みます。更に、トレットらを逮捕すべく、部下とともにブラジルに乗り込んできたFBI特別捜査官ホブス(ドウェイン・ジョンソン)も迫ります(注2)。



 これに対して、トレットらは単に逃げ回るだけではありません。行がけの駄賃として、レイエスが保有する1億ドルを奪い取ってしまおうと考え、そのために腕のたつドライバーを世界中から集めます。
 さあ、どんな強者が参集するのでしょうか?
 そして、レイエスは1億ドルもの大金を奪取されてしまうのでしょうか?

 本作では、なにしろ、200台くらいの車がド派手に、そして無意味に次々と破壊されまくりますから、息つく暇がありません(カーチェイス物は、これを見たら卒業できるのではないでしょうか?)。
 予告編には観客の度肝を抜くシーン(鉄橋から車と人間が落下します!)が使われているところ、それは話の初めの出来事に過ぎないのですから、驚いてしまいます。

 とはいえ、オカシナ感じがするところはいくつもあります。
 例えば、トレットらは、リオのファベイラ(貧民窟)の中に逃げ込むところ、そのファベイラはギャング団のボスのレイエスが君臨しているのです(注3)。ですから、彼らはレイエスによって保護されていると言ってもいいでしょう。にもかかわらず、逆に、レイエスのやり方が許せないとして、トレットらは、彼が貯め込んでいる1億ドルを強奪してしまおうとするのですから、わけが分かりません(それくらいの資金があれば、今後犯罪に手を染めないでも済む、といった尤もらしくみえるものの自分勝手すぎる理屈に立って!)。

 さらに、レイエスは、自分の財産(それを現金で保有しているのもよく分かりませんが)が狙われていると分かると、それをこともあろうに警察本部の地下金庫に移し替えて、普段から手なずけている警察の手で守ってもらおうとします。
 アイデアとしては意表を突いていて面白いものの、地下駐車場の壁を破ると簡単に金庫の扉の前に到達でき、あろうことか車2台でその金庫を引き摺り出せてしまう、というのは余りに馬鹿馬鹿しい感じがしてしまいます(マア、銀行ならいざ知らず、元々警察にそんなに頑丈な金庫が設けてあるはずもありませんが)。
 オマケに、その10tもの重量の金庫を引き摺る2台の車を、パトカーが何台も後ろから追いかけるというのですから、常識を越えるものがあります。

 ラストでレイエスは、全財産をふんだくられた上に、ホブスによって簡単に射殺されてしまいます。レイエスは、それまでにもたくさんの殺人を犯しているでしょうから(注4)、当然の報いなのかもしれないものの、本作を見た限りでは、何もそこまでせずともという気にもなります(確かに、ホブスの部下は、レイエスの手下によって何人も殺されていますが、レイエスの手下だって殺されていますし、元々ホブスが他所の国にまで押し掛けて警察権を行使すること自体、甚だ疑問です)。

 ですが、そんな他愛もないチャチャを入れずに(元々荒唐無稽を承知で見に行ったわけですから)、ボケーッと2時間10分(とはいえ、長尺過ぎます!)を過ごすべきでしょう。チキンと細部まで整ったストーリーを観客に提供することよりも、なにしろ目を瞠る凄い車の素晴らしい走りっぷりを観客に見せることに狙いを絞っているのでしょうから!

 そういうことからすると、映画の主要な登場人物であるトレットを演じるヴィン・ディーセルも、FBI特別捜査官ホブスに扮するドウェイン・ジョンソンも、鍛えぬいた筋肉で構成されている見事な肉体を披露していて、車と並びまた見所といえるでしょう。



(2)本作は、クマネズミにとって至極懐かしいブラジルが舞台だと聞いて期待したところ、実際に見てみると、別にブラジル、それもリオを舞台にせずともいいのでは、という疑問が湧いてきます。
 映画でリオを使う理由としてすぐに考えられるのは、その風光明媚な景色などを物語の中に取り込むことでしょう。
 でも、この映画では、コルコバードのキリスト像や奇岩ポン・ジ・アスカールなどといったおなじみの光景が何回か映し出されるものの、いつも遠景だけで、そうした名所をストーリーの上で積極的に利用しているわけではありません。
 例えば、カーニバルの大賑わいの中にトレット達を紛れ込ませることもあるのかな、とも期待したのですが、見事外れました!

 映画で専ら描き出されるのは、リオの裏山に広がるファベイラ(貧民窟)の有様です。
 ただ、確かに遠景としてみればリオのファベイラながら、ひとたびその中に入ってしまうと、何処にでも見かける貧民街ですから、リオだと特定できるわけでもありません(トレット達が、レイエスの部下やホブス達に追われて逃げ回るシーンは、実際にはプエルト・リコで撮影されたようです)。

 舞台はリオとされていますが、カーチェイスといった重要な場面でもどれだけ現地ロケされているのか、疑問に思えたところです。

(3)福本次郎氏は、「冒頭から繰り広げられるスリルとスピードたっぷりの映像には圧倒される。その後も、“よくこんなアホなアイデアを考えつくな”と思えるような荒唐無稽なシチュエーションを映像化、そこでもディテールを描き込んでリアリティを持たせることに大成功。この旺盛なサービス精神に、何度も椅子からずり落ちそうになながらも完全に時間を忘れ、130分があっという間だった」として70点を付けています。
 また、渡まち子氏は、「シリーズの魅力であるカーアクションは、冒頭から常識はずれの派手なものばかり。登場するのは、暴走する列車からの車強奪、装甲車で公道をぶっ飛ばすかと 思えば、大型金庫を引きずりながらのカーチェイスまで。“ありえない”の連続なのだが、荒唐無稽さとド派手な演出が、このシリーズのいいところだ」として65点を付けています。



(注1)邦題に小さく「Fast Five」とあるのは(実は、これが原題なのですが)、速さを競う5人の男ではないかと思ったところ、シリーズ第5作目という意味のようです。

(注2)1989年に米国海兵隊が、アメリカで裁判を受けさせるべくノリエガ将軍を拉致しようとパナマに侵攻した事件などを思い出させます。

(注3)映画の中でレイエスは、“ポルトガルは、スペインと違って力づくで植民地を支配しようとしなかった。それと同じように、自分も、ファベイラに住む人々にいい生活を味わわせた上で牛耳っているのだ”、などといった考え方を披露します。
 なお、驚いたことに、演じる俳優のヨアキムについては、劇場用パンフレットにはその名前しか記載がありません(ネットで調べると、ヨアキムは、ポルトガルのリスボン出身で1957年生まれとのこと)!

(注4)現金の管理をしている隠れ家をトレットらは襲撃しますが、レイエスは、そこを担当している手下を、怒りに任せて殴り殺してしまいます。



★★★☆☆




象のロケット:ワイルド・スピード MEGA MAX
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ペーパーバード

2011年10月25日 | 洋画(11年)
 『ペーパーバード 幸せは翼にのって』を銀座テアトルシネマで見ました。

(1)この映画はずっと前に見たものの(東京での上映は既に完了しています)、なぜかなかなかアップできずにいて、もう無視してしまおうかなとも思いましたが、本ブログは備忘録的な意味合いもありますので、内容はともかく、簡単にでもレビューを記載しておこうと思います。

 映画は、スペイン内戦の末期から戦後という時代の中で、ドサ周りをしている弱小劇団に所属しているボードビリアンたちを描いています。
 主人公のホルヘ(注1)は、いつも金に追われてピーピーしているものの、舞台を終えて家に帰れば妻と息子が待っているという幸せがあります(注2)。ところが、フランコ側の空爆で妻と息子が死んでしまうという不幸に突如遭遇します(ここら辺りは、時代設定は異なるものの、『復讐捜査線』などと同じような進行ぶりです)。
 それから1年の空白があって、ホルヘは元の劇団に戻り、腹話術師でコンビを組んでいたエンリケとも再会し、さらにエンリケが引き取っていたミゲルという孤児も仲間に加えて、以前と同じように舞台に立つようになります。



 こうして、マドリッド周辺の村々を巡回しますが、この劇団にも、反フランコ派を捕えるべく軍の手が伸びてきます。そんな中で、彼らが演じる舞台を見ようと、あのフランコ総統がわざわざ見物にやってくることになりました。さあどうなることやら、……(注3)。

 タイトルの「ペーパーバード」とは、日本の折鶴と全く同じものですが、何回か小道具的に使われます。それと、ボードビリアンたちの貧しい暮らしぶり、内戦終結後の荒廃した街における庶民たちの生きざまなどが描かれているせいでしょう、全体としてなんだか昔のヒューマニズム映画を見ているような感じにとらわれてしまいます(注4)。

 見どころは、ミゲルに対して、初めのうちは冷淡だったホルヘが、失ってしまった自分の息子のことを次第にオーバーラップさせていって、色々な芸を仕込んでいき、最後はミゲルから「パパ!」と呼ばれるようになるまでのプロセスではないかと思います(注5)。




(2)福本次郎氏は、「小さな幸せも戦争の前ではあっけなく崩れ去り、主人公はコメディアンであるにもかかわらず、舞台を離れるといつも苦虫をかみつぶした顔になってしまう。反体制派のレッテルを張られてもなお権力を風刺し続ける彼の、不器用だが筋の通った生き方が美しい」として60点をつけています。



(注1)演ずる俳優はイマノル・アリアス。なんだかイッセー尾形のソックリサンのような気がして仕方ありません。

(注2)停電で暗い中、暖炉の火の明かりで食事をしていますが、却って温かみが感じられます。

(注3)実は、劇団を内偵させていた大尉が反政府側の人物で、フランコ総統の警護が緩くなるこの機会を狙っていたようなのです。
 他方、ホルヘは、劇場で事件が起こりそうなのを知って、エンリケとミゲルと一緒に国外脱出を図ろうとして、列車に乗り込むべく駅に向かうのですが、……。

(注4)フェリーニの『道』とか、小津安次郎の『浮草』など〔『ニュー・シネマ・パラダイス』のような受け狙い的な要素が詰め込まれている、と言ったら言い過ぎなのかもしれませんが〕。
 特に、地方のドサ周りをしている最中に、泥棒に入られて道具を皆持って行かれてしまう様子が描かれていますが、『浮草』で座員が有り金を持ってドロンしてしまうのとよく似ているのでは、と思いました。

(注5)ある時見たニュース映画を見て、ミゲルが「ママがいる」と叫んだことから、ホルヘはミゲルの母親を探し出して愛に行きますが、彼女は精神がやられていて夫のことしか言わないために、戻ってからミゲルには母親のことを何も言いませんでした。




★★★☆☆


象のロケット:ペーパーバード
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夜明けの街で

2011年10月23日 | 邦画(11年)
 『夜明けの街で』を新宿の角川シネマで見てきました。

(1)映画『セカンドバージン』では実にツマラナイ描き方しかされなかった深田恭子が、主人公と不倫関係にあるヒロインを演じるというので、映画館に行ってみました。

 タイトルからは『行きずりの街』と似たような作品かな、でも東野圭吾氏の原作(角川文庫)によっているのだから何かしらの事件は起きるに違いないと思って見ていました。
 確かに、事件は描かれます。ですが、それは15年前の話。そして、その時効が半年後にくるという点が、この映画の一つのポイントになっています。

 それはさておいて、主人公の渡部岸谷五朗)が勤める会社に、最近派遣会社から派遣されてきた女性・仲西秋葉深田恭子というわけです。
 そして、ひょんなところで出会った秋葉が飲み潰れてしまったため、渡部は、彼女を自宅まで送り届けたことが切っ掛けとなり、最初の内は単なる遊びに過ぎなかったものの、だんだん深みにはまっていくという、マサニよくあるパターンに従って話は展開していきます。

 普通のサスペンス物だったら、話の途中で渡部の妻・有美子木村多江)が絡んできて、それで何らかの事件が起きてということになるでしょう。ですが、この映画で起こる事件は15年前のものだけなのです。それも、秋葉の父親(中村雅俊)の秘書・麗子の死体が、秋葉の実家で発見されたという事件。
 そうなると、メインの不倫関係とその事件とはどんな関係があるのか、という点に観客は興味を持つようになるでしょう(いうまでもなく、事件の頃、彼らは不倫関係になどありませんでしたから!)。
 でもそこにあるのは、単に15年前に秘書が死んだということにしかすぎません(注1)。
 ラストの方での秋葉の説明によれば、自分の母親を自殺に追いやった父親を罰するために、あえて真相を今まで隠していた、ですが時効が完成した今や、真相を明らかにして皆を解放してあげる、そして自分も皆の前から消える、ということなのでしょう。
 しかしながら、時効というのは単に法律上のことにすぎませんから、どうしてそんなものが判断の基準となるのか、説得力のある説明になってはいないと思われます。自分の母親を死に追い込んだ憎い父親というのであれば、秋葉は、ずっと最後まで黙っていることも可能だったでしょうに(注2)。

 主役の岸谷五朗は、アチコチで見かけている感じながら、映画で見るのは初めてですが(『キラー・ヴァージンロード』は監督作品でした)、例えば、自分のマンションに橋を渡って帰って行く時の後ろ姿には、不倫関係に悩む主人公の苦悩が漂っていて、なかなか上手い俳優だなと思いました。



 また深田恭子はヒロインですから、『セカンドバージン』よりズット出番は多く、持ち前の美しさをふんだんに見せてくれますが、それまでの可愛い女性という役柄を脱皮してこういう役に取り組むというのであれば、30の節目も近づいていることもあり、それなりの気持ちの切り替えが必要なのではないでしょうか?
 そうでなければ、『下妻物語』や『ヤッターマン』の路線を続けるべきでしょう(注3)。



 岸谷吾朗の妻を演じた木村多江は、出番は少ないながら、一番注目が集まる大層オイシイ役を演じています。以前の『ぐるりのこと』では、うつ状態に陥ってしまった妻を好演していたところ、本作でも、夫の不倫について、何も知らない素振りをしながらも実はよく分かっていた妻という難しい役どころですが、目を瞠るような演技でした(注4)。




(2)映画と原作との違いとしては、死んでいた秘書・麗子の妹に当たる人物・釘宮真紀子だけでなく、さらには刑事・芦原(15年間、断続的に捜査を続けている)までもが、映画に登場しないという点が大きいのでは、と思われます。
 というのも、映画では、秋葉が、秘書の死について関心を持つ唯一の人物ですが、原作ではその2人が、事件について大きな疑問を持ってあちこちに出没することによって、秘書の死に大きなウエイトが置かれていることが読者に了解できるところ、映画のようにその2人を排除してしまうと、その事件は単なる一つのエピソードにすぎない位置づけになってしまうのです。

 そのように単純化することによって、映画では、事件のことよりも、むしろ渡部と秋葉の不倫関係に専ら焦点を当てようとしたのでしょう(サスペンスではなく、ラブストーリーというわけでしょう!)(注5)。ですが、不倫相手が深田恭子では、その描き方にかなり限界があるのだろう、ということくらい、見る前から観客も弁えています。
 そのため、映画で最後になって秋葉があれこれ事情を説明しても、元々ウエイトが置かれていないのですから、何だか取ってつけたような感じが否めず、結局、事件のことでもなく不倫関係でもなく、何に重点を置いて描こうとしたのかよく分からないどっちつかずの中途半端な印象しか、観客は持てないのではと思われます。

 ただ、何も原作通りにする必要など全くないわけで、原作から主にラブストーリーの要素を取り出して、それを中心に映画を製作するしても、それはそれで構わないと思います。
 ただ、そうするのであれば、深田恭子に大人の演技をしてもらう必要がありますし、それが難しいというのであれば、それが出来る女優を選択すべきだったのではないでしょうか(注6)?

 それと、映画『白夜行』の原作でも、東野圭吾氏は「時効」の問題を取り扱っていますが、映画では、時効の取扱いに法律上変更があったことから、あえてそれに触れてはいません。
 ですが、秋葉はあくまでも、事件の「時効」の成立をもって詳しい事情を説明すると言っているために、本作でも「時効」に触れざるを得ません。それならば、映画としても、「時効」が有効であった時期に舞台を設定し直す必要があると思われますが、そうすることもなく、現時点を舞台に設定していますから、なにか違和感を感じざるを得ないところです(尤も、殺人事件についての時効が廃止になったのは昨年の4月ですから、微細な問題といえるかもしれませんが!)。

(3)渡まち子氏は、「ラブストーリーとしてもミステリーとしても中途半端だが、従順な妻を演じる木村多江の最後の演技で救われている」として50点をつけています。
 また、福本次郎氏は、「もっと今の時代を感じさせてくれる新しさを見せてほしかった。また渡部の態度があまりにも真面目。不倫するやつがバカなのではなく、不倫にのめり込むやつがバカなことをこの男は知るべきだった」などとして40点をつけています。



(注1)それも、登場人物の誰かが関係する殺人事件というのであればまだしも、結局は、秘書が自分で旨を突いて自殺しただけのことですがら、インパクトの弱い点で甚だしいものがあります。

(注2)そこには、母親の妹(萬田久子)と父親が不倫関係にあったことを暴露するという意味合いもあったでしょうが、それも秘書の死にかかわる時効問題とは何の関係もないのではないでしょうか?

(注3)最近始まったTVドラマ『専業主婦探偵~私はシャドウ』は、深田恭子が演じるドンくさい専業主婦が思いがけずに探偵となって、という内容で、彼女は、やはり従来路線を続けていく様に思われます。

(注4)映画の途中では、岸谷が夜の予定などを詳しく説明しようとすると、スグにそれを遮って子供の話をし出したりするところから、なんだか彼女は薄々気がついているのでは、と観客に思わせておき、卵の殻で拵えたサンタクロースを手で握りつぶすシーンが入った後、ラストになると、トドメの言葉を独特の目つきで岸谷に投げかけ、岸谷ばかりか観客を凍り付かせるのですから、むしろこの映画の隠れた中心は木村多江ではないのか、と思えるほどです。

(注5)この映画では、舞台を横浜として、インターコンチネンタルホテルなどを使って一定の雰囲気を作りだしてはいますが、二人の恋愛関係の中身が薄いために、それらしい格好を付けただけのものとしか思えません。

 また、渡部の親友・新谷石黒賢)が、ところどころで登場し、渡部が深みにはまらないように、例えば、「お前を信じて暮らしてきた家族を不幸にする覚悟がお前にあるのか」など、もっともらしいことを言う場面があります。
 ただ、原作だと、物語が終わった後に、「新谷君の話」という「おまけ」が置かれていて、実は彼自身が渡部と同じようなシチュエーションにあったと言うのです。そして、渡部だけが上手い具合に行かないように彼にアドバイスをし続けてきたのだ、と述べます。
 原作者の東野圭吾氏は、新谷が口にする話の説教臭さを払拭しようとして、この「おまけ」を設けたのではないでしょうか?

(注6)別に不倫を描いた作品ではありませんが、『蛇にピアス』の吉高由里子ほどではないにせよ(本年4月24日の記事の(2)で触れました)、せめて『軽蔑』の鈴木杏くらいの演技はどうしても必要でしょう。




★★☆☆☆




象のロケット:夜明けの街で
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極道めし

2011年10月22日 | 邦画(11年)
 『極道めし』を新宿バルト9で見てきました。

(1)東京ではこの映画館のみの上映で、また上映時間がいつも変わっているなどアクセスが難しかったのですが、連休を利用して何とか映画館に潜り込むことが出来ました。

 物語は単純で、刑務所で同室となった5人が、年末行事として、正月元旦に出される「おせち料理」を奪い合うバトルを繰り広げるというだけのものです。
 ただバトルといっても、肉弾戦ではなく、それまでに出会った料理のなかで最上のものについて皆の前で語り、生唾を飲み込んだ者が最も多い話をしたら勝者となるという戦い。勝者は、各人に配られる「おせち料理」の中から、それぞれ好きな品を一つずつ奪えるのです。
 こうなると、観客の興味は、果たしてどんな料理が5人から語られるのかに移ります。といっても、当然のことながら、料理だけが語られるのではなく、それにまつわる話、その料理を食べるに至った背景、といったところが語られるわけで、そうなれば必ずや「お袋の味」の類いが入っているななど、あらかた予想がつく感じです。
 というのも、各人はチンケな犯罪を犯して刑務所に入っているわけで(注1)、そんなに豪華な話を元々持っているはずもないと思われるからでもありますが。
 ですから、それぞれが語る料理よりも、最後に出されるお正月の「おせち料理」の方が豪華だともいえ、飽食の時代、スクリーンに映し出される料理で、果たして観客は生唾を飲み込むだろうか、と少なからず疑問を感じてもしまいます。
 とはいえ、むしろ、制作者側の狙いも、あるいは今の飽食の世の中を批判したいということがあるのかもしれません(注2)。

 この映画の主役は永岡佑でしょうが、むしろ麿赤児の存在感が圧倒的です。
 最近では、『日輪の遺産』での杉山司令官役とか、『一枚のハガキ』での和尚役(義母の葬式に読経しに来た僧侶)など、様々の映画に登場して活躍していますが、本作では、最古参の服役者ということで、同室者から一目置かれた存在で(“極道”と誤解されています)、その個性をいかんなく発揮しています。

 もう一人注目されるのが、『冷たい熱帯魚』で極悪人・村田を演じたでんでんでしょう。ただ、『大木家のたのしい旅行』で赤鬼を演じたり、本作では木工の作業場で心臓まひのため死んでしまう服役者に扮したりしていますが、下記の『幸福の黄色いハンカチ』における気の良い船長役の方が似合っている感じです。

(2)さて、この映画の主人公は、刑務所の部屋に最後に入ってくる栗原永岡佑)です。
 彼は、街のチンピラで傷害事件を起こして服役するところ、別れた恋人(木村文乃)が忘れられないのです。にもかかわらず、酷く冷たい別れ方をしてしまったために、出所しても再会は難しいかもしれないと思い悩んでいます。彼の最高の思い出の一品とは、別れ際に、その彼女が彼のために作ってくれたラーメンです(ちなみに、彼の話の点数は3点でした)。

 この話は、どこか『幸福の黄色いハンカチ』に似たところがあります〔丁度10月10日にNTVで、映画とは一部話がアレンジされたものが放送されました(注3)〕。
 というのも、こちらは、傷害致死事件を起こして7年の刑で刑務所に入っていた阿部寛が主人公で、入所早々面会に来た妻の夏川結衣に、判をついた離婚届を渡し、離婚して別の人生を歩んでくれと言うのです。
 栗原の場合も、面会に来た恋人が「あのラーメンの味はどうだった?」と尋ねても、何も答えず、「俺のことは忘れて」という感じで面会室を出てしまいます。

 ただ、出所後の話の展開はだいぶ異なっています。
 『幸福の黄色いハンカチ』の場合、妻がそのまま阿部寛を待っていてくれたのですが、栗原の場合は、やっとのことで探し当てた恋人が営んでいるラーメン屋に入ると、夫も子供もいることがわかり、何も声をかけずに栗原は立ち去ってしまいます(注4)。




(3)「おせち争奪戦」について、上では、それほど大した料理が映し出されるわけではないと申し上げましたが、さらに問題点を挙げるとすれば、次のようなことになるでしょうか。
 受刑者の一人相田落合モトキ)が、「今年もやりますよね」というと、勝村政信)が「やらないとシメシがつかない」、チャンコぎたろー)も「伝統行事だから」と応え、最後に最長老の八戸麿赤児)が「やらないとなあ」と答えて、それで「おせち争奪戦」が行われるわけですから、これ以前に何回か行われていることになります(注5)。
 とすれば、“これまでに人生で出会った一番旨かった料理”を皆の前で話すとされているにもかかわらず、その“一番”がいくつか存在することになるわけです。
 ということから、ここで5人から話される話や料理は、口から出まかせのものも当然含まれていると見る必要が出てくるでしょう。
 現に、相田は、「おふくろ話だったら騙せると思ったんだけど」などと口を滑らせてしまうわけです(注6)。
 また、話の基づいて映し出される映像自体も、栗原のものを除き、どれも現実のものではないことを強調しているようにも見受けられます(注7)
 こうなると、刑務所全体でこの「おせち争奪戦」を開催したら、詐欺罪で服役中の者が上位を独占することになるのかもしれません。

(4)この映画も、料理という点で『家族X』とか『幸せパズル』とつながる点を持っていると言えるでしょうが、あまりそんなことをことさらめかしく申し上げても仕方ないでしょう。
 ただ、『家族X』における橋本家の長男・宏明にしても、『幸せパズル』の2人の息子にしても、母親の作る手料理をそんなにも拒否したら、将来仮に罪を犯して刑務所に入って「おせち争奪戦」をやる羽目になった時には、持ち駒不足に慌てても時すでに遅しだ、ということだけを申し上げておきましょう。

(5)渡まち子氏は、「過去の描写はあえて作り物の感じを上手く残していてファンタジー色も加味し、塀の中にいる今との対比を際立たせているのが上手い。おせち料理ははたして誰の手(口)に? 気のいい受刑者たちのその後とは? 話はライト感覚だが、ラストにそれぞれのその後のエピソードが語られ、ほろ苦くも“おいしい”後味が残る」として60点をつけています。



(注1)この5人の罪状は、劇場用パンフレットでとりまとめられている表を見ると、「傷害罪」か「窃盗罪」で、刑期も長いもので6年(最古参の八戸)、短いものは3年(主役の栗原)にすぎません。

(注2)あるいは、個々の料理が絶対的に旨いというのではなく、それを食べるに至った経緯等、それぞれの料理にまつわる話があってこそ味わえるのではないか、というのかもしれません。

(注3)映画は、高倉健主演で1977年に公開されました。NTVのもの(夕張が焼尻島に変えられたりするなど、変更点がいくつもあります)と比べると、この物語の大元は外国のものとはいえ、やはり高倉健用として作られている感を強くしてしまいました。
 なお、NTVのドラマについては、小林信彦氏が、『週刊文春』10月27日号の「本音を申せば」で、「なぜ2011年にリメイクするのかは、ぼくにはわからない」と述べながらも、「飲食店で働く娘が堀北真希で、彼女はさりげなく演じてうまい。こういう役を演じたら、方言もふくめて、いまベストだろう」としているのにまったく同感です。

(注4)これが映画のラストにもなるのですが、ここにトータス松本の歌う『上を向いて歩こう』が被ってきます。そういえば、『コクリコ坂から』といい、今年はなぜかこの歌の当たり年になっているようです。

(注5)現に原作漫画の第1巻では、南の話に対して、「その話、去年聞いたで」「自分の話くらい 覚えとけや」「出だし聞いただけで わかったで」という声がかかります(P.79)。

(注6)あるいは照れ隠しで、相田はそう言ったのかもしれませんが。

(注7)たとえば、南の話の場合は、青いビニールを海に見立てて、その前で息子とバーベキューを行っている映像ですし、チャンコの話には、特大・特製オムカレボナーラとかバカでかいオッパイプリンが登場するのです!








★★★☆☆





象のロケット:極道めし
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幸せパズル

2011年10月20日 | 洋画(11年)
 『幸せパズル』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)映画はアルゼンチンのもので、同国の映画は、昨年は『瞳の奥の秘密』を見ましたが、なかなか印象深い作品でしたので、この映画もと期待しました。

 ですが、映画は、殺人事件を巡って展開される『瞳の奥の秘密』とは打って変って、中年の主婦を巡るちょっとした出来事(まあホームドラマといえるでしょう)が描かれているにすぎません(原題Rompecabezas:英題Puzzule)。
 でも、だからといって、つまらないというわけでは決してなく、むしろなかなか味わい深い、したたかな作品ではと思いました。

 主人公となる主婦が、誕生日の贈り物としてジグソーパズルを親戚からもらって、試しにやってみたところ、その面白さにはまってしまい、ついには競技大会に出場し、優勝してしまうに至るというストーリーです。
 とはいえ、いうまでもありませんが、映画は、そのような出来事を描くことだけが狙いではなさそうで、むしろジグソーパズルにのめり込む主人公を取り巻く人間関係の変化を子細に描き出したいのだと思われます。
 一番の中心は、もちろん主人公の主婦マリアマリア・オネット)と、彼女とペアを組むことのなる金持ちのロベルトアルトゥーロ・ゴッツ)との関係でしょう。それと、彼女とその旦那フアンガブリエル・ゴイティ)との関係、さらには彼女と二人の息子との関係、があります。
 主人公が、パズルにはまる前に占めていた家の中での位置が、物語の展開とともに微妙に変化していき、ラストになるとさらに変化が見られます。

 簡単に言えば、物語の展開は次のようなものでしょう。
 主婦のマリアは、料理等の家事をせっせとこなしているにもかかわらず、このところ、夫のフアンや2人の息子との間に溝ができている感じです(注1)。



 そうしたところ、50歳の誕生日に贈られたジグソーパズルにはまり込んでしまい、挙句は、その競技大会に出場すべく、富豪のロベルトのところに密かに出かけて練習をするようになります(注2)。
 そうなると、家族との溝は一層深まり出すものの(注3)、マリアとロベルトのペアは、とうとう大会で優勝してしまいます。
 そこでもう一歩先へとなるところ、なんとか踏みとどまって(注4)、また夫たちもマリアの優勝を祝福し、そしてまたもとの家族関係を取り戻そうと皆が努めます(注5)。



 ラストでは、湖畔の土地で、マリアが一人で果物を食べている姿が映し出されますが、はたしてマリアの気持ちは天気のように晴れやかなのでしょうか?

 マリアの役を演じる主演のマリア・オネットは、この映画で初めて見ましたが、自分の家でせっせと料理を作りながらも、他方でいそいそとロベルトのもとに通うという、一歩間違えば不倫関係になってしまいそうな微妙なところを、実にうまく演じているなと感心しました。




(2)普通の主婦にすぎないマリアがジグソーパズルに目覚める前兆となるのは、彼女の誕生日のホームパーティの際に、うっかり落としてしまった皿の破片を拾って、椅子の上で元の形になるように繋ぎ合わせようとしたことです。 
 そういうことがあってから偶然贈られたジグソーパズルを手にしたために、これは面白いに違いないと感じるものが内にあったのでしょう、ドンドンはまってしまうのです。

 ところで、このジグソーパズルについては、粉川哲夫氏が、そのレビューで、「断片が組み合わさって全体を形成するジグゾーが一つのメタファーになっていないわけではないが、そのメタファーは、むしろ、人間の「欲望」(ガタリ/ドゥルーズ以後の)の形態と動態を示唆する。人は、ふと、ジグゾーの破片が欠如したような「欠乏」の経験(虚しさ)を感じ、それを埋めようとする。破片が埋まったとき、ハッピーな気持ちを経験する。が、ジグゾーにさまざまな(ほとんど無限に)セットがあるように、欲望の充足は、かぎりない。一つのセットを組み上げたら、また次のセットに挑戦すればよい。ジグゾーの破片の「欠如」も、いずれは埋めれれるべき「欠如」であって、欠けているのは一時的なものにすぎない」と述べています。

 むろん、そうした見方もできるでしょうが、ジグソーパズルは、それが完成しても何か新しい絵を創造するわけのものではなく、予め描かれている絵を取り戻すにすぎないものだ、とも解釈できるのではないでしょうか(注6)。
 主婦マリアに様々な出来事が起こりますが、結局はジグソーパズルと同じで、予め決められている位置にスポッと再度はまり込んで、元の構図が再生産されるだけのことにすぎない、と見ることもできるのではないでしょうか(注7)。
 つまりは、粉川哲夫氏が、本作について、「この映画の面白さ、新しさは、マリアがロベルトと出逢い、やがて性的な関係を結ぶことになっても、それで夫との関係がダメになるわけではない――という雰囲気を映画として生み出した点だ」と述べていることも、ジグソーパズルの持つ意味合いそのものなのでは、と思えてきます。

(3)本作も、前回取り上げた『ツレがうつになりまして。』と同じように、『家族X』と関連付けられる面を持っています。
 というのも、『家族X』では、家族内のコミュニケーションがうまくいかないのですが、その表れとして会話がないというだけでなく、妻の路子(南果歩)が時間をかけて作る料理に対して、夫の健一も長男の宏明も、ほとんど関心を示さなくなっているのです。
 せっかく料理を作っておいても、帰りが遅くて食べなかったり、朝の忙しさで食べずに出かけて行ってしまったりして、結局は路子が一人で食べることになり、余ったものは捨てざるを得なくなってしまいます。
 これなら、スーパーでお弁当を買ってきても同じじゃないとして、路子はいくつか買ってくるのですが、それも結局路子が全部食べてしまいます。
 いったい、自分はこの家で何の位置も占めていないのでは、という思いに路子は囚われていきます。

 翻って、本作の場合、マリアは、大勢が集まるホームパーティに際しても、すべての料理を自分で作るほどの力を持っています。にもかかわらず、夫フアンは、食事療法の観点からその料理に文句を言い、また息子たちもベジタリアン的なことを言い出したりして、長年の彼女の努力を評価しようともしません。
 また、食事の際には、父親と息子達とで、マリアをそっちのけにして、サッカーの話に興じたりしてしまいます。
 マリアの場合は、ジグソーパズルという興味の対象を見出したからいいようなものの、そうしたものが手近になければ、『家族X』の路子のように、ブチ切れて家を飛び出してしまうことになったかもしれません!

(4)福本次郎氏は、「物語は幸福な隷属に甘んじている専業主婦が味わう束の間の自由と、その変化に対応しきれない男たちの戸惑いを描く。ヒロインの繊細な胸の内をマリア・オネットがミニマルな感情表現で演じ、甘酸っぱい余韻を残す」として60点をつけています。



(注1)マリアは、郊外の湖の近くに持っている別荘用の土地を売却し、それで得たお金を息子にあげて住宅を購入してもらおうとしたところ、長男は自分で稼ぐから要らないと言い(元々、父親が携わっている家業を継がず、別のところで働きたいと考えています)、次男はそれでインドに半年ばかり旅行に行きたいと言い出す有様。
 この家族は、『家族X』と違って、相互のコミュニケーションはあるとはいえ、実際にはバラバラになりかかっていると言えるでしょう。

(注2)主婦マリアと富豪のロベルトとの関係は、ジグソーパズル専門店で、競技大会出場のためにパートナーを求める案内ポスターを見たのが切っ掛けです。
 マリアの方からロベルトを訪ねると、ロベルトは、マリアのやり方が普通とは違うものの大変な才能があることを認め、ペアを組んで大会に出ようと誘い、マリアも、暇を盗んで(いうまでもなく、フアンの目から隠れて)ロベルトの家に通って練習を積むことになります。

 なお、映画によれば、ジグソーパズルの普通のやり方は、先ず枠を作ってから中をこしらえていくというもの、ところがマリアの方法は、中からドンドン作って行ってしまいます。でも、こうしたやり方をそのまま続けた結果、彼らのペアは、全国大会で優勝してしまうのです。

(注3)フアンは、「お前は、パズル漬けになって、俺の食事療法のことも考えないし、息子が探した家を見ようともしない」などとマリアを非難し、午前3時過ぎまでパズルをやっているときには、そのパズルを壊してしまったりします。

(注4)国内大会に優勝した日、マリアはロベルトとベッドをともにしますが、世界大会にドイツへ一緒に行こうとの誘いは断って、ロベルトとの関係もそれきりにしてしまいます。
 ただ、帰宅する途中で涙が出てきたことや、ドイツ行きの航空券を破棄しないで残しておいていることなどから、未だ未練は残っているのかもしれません。

(注5)マリアは、家の倉庫の片づけに精を出したりします。

(注6)映画では、マリアが取り組むジグソーパズルには、エジプトの「王妃ネフェルティティ」(イクナートンの正妃)が描かれています。

(注7)劇場用パンフレットに掲載されているインタビュー記事おいて、本作のナタリア・スミルノフ監督は、「映画づくりはジグソーパズルと似ているのでは?」との質問に対し、「もちろん!ただし、百万ピースのパズルですね」云々と述べていますが、いくら一つ一つのピースをよく知らないと全体が完成しない点が似ているとしても、映画作品の場合は、元の絵に相当するものが存在せず、できあがったものがオリジナルだ、という点でジグソーパズルとは異なる、とも言えるでしょう。





★★★★☆






象のロケット:幸せパズル
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ツレがうつになりまして。

2011年10月18日 | 邦画(11年)
 『ツレがうつになりまして。』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)現代病と言われるうつ病を巡る映画にもかかわらず、宮崎あおいと堺雅人とのコンビが絶妙で、実に清々しい気分で映画館を後にすることができました。

 映画では、外資系ソフト会社のサポートセンターで懸命に働く夫・ツレ堺雅人)―結婚5年目―が、睡眠不足気味になり、食欲不振や体のダルさを訴えるようになり、いつも自分で支度している弁当が作れなくなって、妻・ハルさん宮崎あおい)の勧めで心療内科を訪れると、医師から「典型的なうつ病ですね」と言われてしまいます。
 ツレは、病院に通って薬をもらいながら仕事は続けるものの(注1)、通勤電車に乗り込めず、また駅のトイレで吐いてしまったりします。それで、とうとうハルさんから、「会社辞めないなら離婚する」といわれてしまい、ついに退職届を出す羽目になります。

 実は、ハルさんは、結婚するときに、ツレから「君にはマンガの才能がある。君がマンガを描けば、面倒は僕がみる」と言われていました。それでこれまで、好きなようにハルさんはマンガを描いてきたのですが、どうもうまくいかず先細りです。まさにそういう厳しい時にツレが会社を辞めたのですから、家計は火の車(貯金が26万円に!)。
 そこで、ハルさんは、心機一転、自ら進んで「ツレがウツになりまして。仕事をください」と出版社にかけあいに行きます。
 そこらあたりから、この物語にも幾分か光明が開けてきます(注2)。

 といっても、この映画では、うつ病を巡る様々の大変な状況が描かれていることは確かですが、それもさることながら、そして、実際のうつ病は映画で描かれているよりズット大変なものだ、とかなんとか議論するよりも、むしろ世にも稀な夫婦関係の有様を描いたものと受け取った方がいいのでは、と思いました。
 冒頭に申し上げたように、とにかく宮崎あおいと堺雅人とのコンビが絶妙なのです。
 とりわけ、宮崎あおいの演技が素晴らしいと思いました。うつ病になっても、家族にこんな風に対応してもらえるのであれば、むしろうつ病になってもいいかなと思うくらいです。
 また、堺雅人も、『武士の家計簿』で仲間幸紀恵と夫婦を組んでいましたが、本作の夫婦関係の方がずっとしっくりいっているような感じを受けます。

(2)ところで、ツレの病気について、劇場用パンフレットには、「心因性うつ病」との記載があります。ですが、Wikipediaの「うつ病」の項によれば、これは「古典的分類」であり、そこでは「「心理的誘因が明確でない内因性うつ病」と、「心理的誘因が特定できる心因性うつ病」の二分法が中心となっている。狭義には前者が“うつ病”とされ、心因性のものは“適応障害”などに分類されることが多い」とされていたりします。

 また、昔から、うつ病は一般に、医師によって処方される薬をきちんと飲み続けていれば治る病気であり、またうつ病患者に対しては「がんばれ」などといった言葉はかけない方が良いと、されてきました。
 ところが、このところ、抗うつ剤には副作用があることがしばしば言われるようになりました(注3)。
 さらに、劇場用パンフレットに掲載されているメディカルケア虎ノ門の五十嵐良雄院長のインタビュー記事によれば、「「がんばれ」という言葉をかけてはいけないというのではなく、はげましていい時期、はげましてはいけない時期があ」るとのこと(注4)。

 世間に流布しているうつ病関係の記述とか常識には疑わしい点(あるいは単純過ぎる面)がある感じで、素人判断はどうも禁物のようです。

(3)この映画は、前回取り上げた『家族X』との関係でとらえてみても面白いのではと思いました。
 その映画では家族が崩壊している様子が丹念に描き出されているのですが、そうなった原因の一つが家の間取りではないかとも考えられるのです。家の間取りから、台所や居間にいることの多い母親と、全く顔を合わせることなく父親や長男は家の出入りができるのです。これでは、相互のコミュニケーションがなくなってしまうのも不思議ではありません。

 逆に、この映画では、一昔前まで普通に見られた和風の平屋の間取りとなっています(この家の間取りも、『家族X』と同じように、劇場用パンフレットに掲載されています!)。それぞれの部屋が単に横につながっていて、庭に面した方に縁側があり、家族の動きがどこにいてもすぐに分かる感じがします。それに家の中が畳敷きですから、どこでもゴロンと寝そべることができますし、天気のいい日には縁側で日向ぼっこもできます(注5)。



 こんな昔風の温かい雰囲気の家屋なら、『家族X』の橋本家のような事態にはならなかったのでは、と思えてくるところですし、他方、逆に本作ではどうしてツレはうつ病になど罹ってしまったのだろうか、と不思議に思えてもきます。
 もしかしたら、外資系ソフト会社の苦情処理係というまるで違った雰囲気の職場(ある意味で、現代最先端の職場でしょう)に毎日通うものですから、その大きな落差にツレの精神が耐えることができなかったのではないか、とも考えられます。仮にそうだとしたら、ハルさんが、ツレに会社を辞めてもらったのは正解と言うべきでしょう。こうした温々した家屋にいる時間が長ければ長いほど、その病気は治ってくるのではないかと考えられますから。

 なお、原作は住まいの状況を明確に描いていないところ、映画では、監督の意向から、むしろ積極的にこうした作りの家屋に彼らを住まわせることとしたようです。劇場用パンフレットによれば、佐々部清監督は、「日本家屋にこだわった理由は、人間とイグアナと床との距離感を近くすることで埼家の温かさをより表現できると考えたから」であり、「「どこかで『東京物語』がやりたかったんですよね。だから、笠智衆さんと東山千栄子さんがぽつんといるようなあの縁側も必要だった」という監督の希望」を美術監督が叶えたからだとされています(注6)。

 とはいえ、こうした作りの家に今でもまだ若い夫婦が暮らしているなどとは、あまり考えられないのでは、と思ってしまいます(無論、内装等はセットとはいえ、類似の外観を持った家が見つかってロケしているところからすれば、あり得ないことではないでしょうが)。



 あるいはこれは、最近見た『神様のカルテ』の「御嶽荘」と類似するものと考えられるかもしれません(なにしろ、そこでは宮崎あおいが“ハル”として、櫻井翔のイチと暮らしてもいるのですから!)。
 となると、「御嶽荘」についてクマネズミが思ったように、この埼家も夢の中の家、幻想の家とみなすことも可能ではないでしょうか(なにしろ、イグアナが徘徊し、CDではなくレコードがいまだに掛けられている家なのです!)?
 誰の?ハルさんの夢としても構わないでしょうが、ツレの幻想としてみたらどうでしょうか。会社を辞めるにやめられずに思い悩んでいる時の夢としても、ビルの屋上から飛び降りたときに頭の中を駆け巡った幻想としても(こんなふうにこの家でうつ病が治っていけばいいな、という願望の表れとしての夢とか幻想として)、もしかしたら面白いのではないでしょうか?

(4)渡まち子氏は、「この映画では、心因性うつ病を“宇宙かぜ”と呼ぶ。現代の社会問題であるうつ病には、実際にはより重い側面もあろう。だが、あえて深刻ぶらずに描き、上手な付き合い方をエッセイ風に指南する軽やかさが心地よかった」として65点をつけています。
 また、福本次郎氏は、「痛かったり辛かったりといった肉体的な苦しさではなく、頭に霞がかかって思考力が衰え何をするにも体がだるい。映画は、そんな夫と暮らす妻の視線で、うつ病患者との距離の取り方を手探りで模索」し、「ツレを通じて晴子もまた成長していく姿がいとおしくなるほどの温かさに包まれた作品だ」として50点をつけています。



(注1)ツレは、この段階では、「自分が休むと、会社の同僚に迷惑をかけてしまう。自分の体のことは自分が一番よく知っている。だから大丈夫」などと、よく誰もが口にする言葉を吐いています。
 さらにツレは、職場の上司に、うつ病であることを告げると、上司は、「こんな忙しいとみんながうつ病なんだよ。泣き言など言わないで、リストラされたやつの分もがんばってくれよ」とニベもありません(社会の状況がまだまだこんなだから、原作者もこうしたコミック・エッセイを書いたのでしょう)。



(注2)原作では、ツレの日記を読んで初めて、ツレが自殺しようとしていた事実を知ったとありますが〔細川貂々著『ツレがウツになりまして。』(幻冬舎文庫)P.63〕、映画ではツレの自殺未遂の場面(ハルさんが駆けつけて事なきを得ます)が一つの山場として描かれています。

(注3)Wikipediaの「抗うつ剤」の項には、「年齢に関わりなく、抗うつ薬(特にSSRI)の処方開始直後に、未遂を含めた自殺のリスクが上昇するという報告があり、アメリカ食品医薬品局(FDA)から警告が発せられた」との記述があります。
 また、このサイトの記事は、D.ヒーリー著(田島治監修)『抗うつ薬の功罪』(みすず書房、2005年)からの引用が掲載されています。
 さらに、NHKTVでもこうした関係の番組が放送されました。

(注4)また、たとえばこのサイトの記事によれば、「普通のうつ病(定型うつ病)では、とにかくゆっくりと体を休め、休養をとることが必要。周囲の人が「がんばれ」と言葉をかけたり、励ますと、本人が自分自身を追い込んでしまうため、よくありません」が、「非定型うつ病の場合は、少し励ますことがかえって本人のためになります」とのこと。
 なお、原作においても、「PART4」のタイトルが「少しずつ、上を向いてあるこう」となっていて、「その1」から11回にわたり、次第にツレの病状が改善していく様子が描かれています。たとえば、「その2」ではツレが、「電車……乗れるようにがんばってみるよ」と言い出します(実際にはこの段階では、未だ無理でしたが)。そして、「その7」になるとツレは、「今年の確定申告はボクがやるよ。がんばってみるよ」と言います(実際にもやり遂げました)。

(注5)宮崎あおいが“月子”の役で出演した『オカンの嫁入り』の舞台となった家屋とも類似しています〔『家族X』についての記事の(2)でも触れましたが〕。

(注6)『東京物語』との関連性で言えば、ハルさんの実家の大杉連と余貴美子の床屋は、杉村春子の美容室(夫は中村伸郎)に相当するのかもしれません。
 ちなみに、『私が結婚できるとは―イグアナの嫁2』(幻冬舎文庫)によれば、少なくとも母親は「フツーの専業主婦」とのこと(p.24)。本作のような設定にしたのには、監督の意向が強く働いているのではないでしょうか?





★★★★☆




象のロケット:ツレがうつになりまして。
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家族X

2011年10月16日 | 邦画(11年)
 『家族X』をユーロスペースで見ました。

(1)『阪急電車』や『ジーン・ワルツ』などに出演した南果歩や、『あぜ道のダンディ』などに出演した田口トモロヲが出ており、また若手監督が制作した作品というので見に行きました(注1)。

 映画は、現代日本の中流家庭ならば何処でもよく見かける光景を最初から最後まで映し出すだけのもので、これといったストーリーはなく(黒沢清監督の『トウキョウソナタ』と類似する設定ながら、まるで違った雰囲気です)、かつまた会話もほとんど行われません。というか、家庭内のコミュニケーションが破綻している様子を描き出しているわけです。
 そんなどこでもよく見かけるありきたりの光景をまたまた映画にしてどんな意味があるのか、この監督は何を考えているのか、と言いたくなってしまいますが、逆にそう考えさせるように映画を作っているのかもしれないとも思えてきます。

 最初の方を少しばかりのぞいてみましょう。
 まず、妻・路子南果歩)が洗濯物を乾すシーンが映し出されます。ワイシャツを、ことのほかきちんと干そうとしています。
 次いで、夫・健一田口トモロヲ)が、部屋でワイシャツを着て、ネクタイを締めるシーン。
 それから、路子が、台所で手袋をはめて食器を洗っていると、背広を着た健一が、黙って玄関から出かけます。
 路子がゴミ出しをしていると、長男・宏明が帰宅。
 同じようにゴミ出しに来ていた隣の主婦がそれを見つけて、「宏明君、久し振り、今帰り?、お仕事大変なんだね」などと言いますが、宏明は黙って家の中に。
 家の中では、路子が宏明に「バイトなの?」と聞くと、彼は「そう。そんなにやらないから大丈夫」などと答え、さらに、「ご飯は?」との問いに、「置いておいて」と答えると、宏明はすぐに自分の部屋に行ってしまいます。
 路子は、独りで食事をした後TVを消し、リモコンを3つきちんと並べます。

 ざっとこんな具合で、毎日、同じ生活が継続しているようです。
 見られるように、家の中では殆ど会話がなく、あったとしても必要最小限です。

 家の中だけでなく、勤務先でも夫・健一は殆ど黙ったまま。
 彼は会社では戦力外とされ、仕事らしい仕事も殆ど与えられず(部内会議にもお呼びがかかりません)、にもかかわらず毎日出勤し、一日PCの前で座っているのです(注2)。
 また、長男・宏明は既に大学を卒業しているものの、正社員になれず、派遣社員としてイロイロな職場を渡り歩いているため、同僚との会話といったものは望めないでしょう(注3)。

 なんだか“自閉症一家”とでも言えそうな雰囲気です。

 ただ、そこにも少しずつ変化の兆しが見えてきます。
 宏明は、派遣先が引越会社に移りますが、引越トラックを運転する先輩(村上淳)から、その仕事ぶりを褒められます(注4)。
 また、健一は、会社で上司からリストラを通告されたようです(注5)。

 他方、路子の方は、誰から何も期待されない毎日の単調な生活に押しつぶされてしまったのでしょう、あるときから家事を殆どしなくなり、その挙げ句、台所にある物を次々に放り投げたかと思うと、いきなり外に飛び出して、何処か分からない方向にドンドン歩いて行きます(注6)。
 帰宅した健一が、家の中が酷く乱雑で、おまけに妻が見当たらないため(注7)、殆ど使われていないように思える車で彼女を探しに行きます。また、そのあとで家に戻った宏明も、自転車に飛び乗って探しに出ます。

 結局、健一は、彼らが昔家族でよく行ったことのあるレストランで、路子を発見することが出来(注8)、その運転する車で自宅に連れ帰る途中、同じく母親を捜している宏明の自転車も同じ道路を走っている光景が映し出されてジ・エンドとなります。
 果たして、この事件が家族が立ち直る切っ掛けとなっていくのでしょうか?


 主演の南果歩は、殆ど台詞はないものの、壊れつつある中年主婦の有様を実に上手く演じていると思います。



 また、夫を演じる田口トモロヲも、『あぜ道のダンディ』とは打って変わって寡黙な役柄ですが、会社の隅でPCを前にして座っている姿は、やはりこの俳優ならではの雰囲気が漂っています。

(2)この映画を見て、他の映画とはやや違うかなと思われたのは、家族それぞれが家の中にいるときは、大部分、人物に凄く接近して撮影されている点です。その結果、各人物は、顔を中心としてスクリーンに大写しになります。
 その反面、下半身がいつも隠されているような感じを受けました。

 それで、一つは、家族を構成する3人は、家の中では足のないいわばゴースト的存在となっているような印象を受けます。この点は、各人が家の中では、殆どお互いに会話らしい会話をしない点でも強化されています。要すれば、3人家族と言ってみても、お互いにいてもいなくても何の違いもない、消えかかった存在(外形だけは保存されているとはいえ)になっているように見えます(注9)。

 もう一つは、下半身が積極的に画面に映し出されないために、彼らが住んでいる一戸建ての家の間取りが、今一判然としないのです。なんだか、帰ってきたなと思うとすぐに消えてしまったり、いきなり玄関から立ち去ってしまったりするものですから、いったい家の構造はどうなっているのかと不思議な感じにとらわれます。

 ですが後者の問題は、劇場用パンフレットを見ると解消します。橋本家の家の間取り図が1階と2階に分けてきちんと掲載されているのです(注10)。
 それを見ると、玄関を入れば、すぐの左手に「客間(和室)」があって、今ではそこで夫の健一は寝ているのです(朝には、ワイシャツが窓に掛けてあって、それを着て健一は会社に出かけます)。
 また、玄関を入って右手すぐに2階へ上がる階段があって、長男の宏明の部屋も2階にあります(妻の路子の寝室も2階にあります。以前は、その寝室で夫も寝ていましたが、今では別々に寝るようにしているようです)。

 なるほど、こうした間取りならば、誰とも会わずに、そしてはっきりとした会話などしなくとも、それぞれはそれぞれの時間を別々に過ごすことができるわけです。
 家族の間にコミュニケーションがないというのも、無論原因はいくつもあるでしょうが、こうした間取りの家に住んでいることが大きく影響しているのでは、と思えるところです(あるいは、元々、相互のコミュニケーションがないからこそ、こういう家の作りにしたのでしょうか)。

 こうした間取りとは真逆に思えるのが、映画『オカンの嫁入り』の舞台となった家ではないでしょうか。
 そこでは、格子戸を入ると、中庭を挟んで、大家(絵沢萠子)の住む家と、陽子(大竹しのぶ)と月子(宮崎あおい)とが暮らす家とが向かい合っていて、中庭を通じて二つの家は絶えず行き来があります。それには、2軒とも平屋で、かつ縁側付きだということも関係していることでしょう。
 陽子は余命1年と宣告されていますし、月子もストーカー被害に遭ってパニック障害となっているにもかかわらず、映画が大層明るく描かれているのは、むろん演じる俳優によるところが大きいとはいえ、あるいはこうした間取りも大きく影響しているのではないか、と考えています。

 本作『家族X』のラストは、将来への希望が微かに見える感じですが、それをモット確実にするためには、橋本家は、少なくとも今の家を引っ越すべきではないかと思っているところです。



(注1)本作は、「第20回PFFスカラシップ作品」であり、その第19回が『川の底からこんにちは』であり、第18回が『不灯港』です。

(注2)といっても、健一はPCのことは殆どわからず、あるとき社員からPCの不具合を見てくれて言われ、対応できなかったことから、本屋で初歩の本を買っていつもの喫茶店で読み出したりします。

(注3)あるとき、隣家の主婦が、宏明と同い年の息子の就職先が販売する「ウォーターサーバー」を薦めたので、路子は断り切れずに購入してしまいますが、その事情を知った宏明は、自分が正社員になれないでいることに対する母親の嫌味に思え、「使わない物を買うなんて!いつも周りの目を気にしてばかりいて疲れないの?」と激しく反発します。
 ちなみに、夫・健一は、「何これ?」と言いながら1杯だけその水を飲んで、すぐに自分の部屋に入ってしまいます。

(注4)引越を依頼してきた家族は、子供が未だ小さい3人家族で、玄関先で写真を撮ってくれと宏明は頼まれますが、その幸福そうな様子はマルデ自分の家族の昔を見ている感じに囚われたのではないでしょうか(どの家族だって最初はこうなんだ、でもそのうちに……、と思ったのかもしれませんが)。

(注5)健一は、帰宅後、路子に、「会社も不景気で、仕事を変えなくてはいけないようだ。今すぐというわけではないんだけどね」などと言います。

(注6)単なる素人診断に過ぎませんが、路子が、食卓に敷かれるナプキンなどの位置を、物差しでキチンと測って毎日寸分違わないようにしている姿を見ると、鬱病になりやすい気質を持っている感じがしますし(スーパーでお弁当を6個も買ってきて、全部平らげてしまうシーンがありますが、これなども鬱病からきているのかもしれません)、家を飛び出したときに様々の音が聞こえているようなのを見ると(幻聴でしょう)、統合失調症的な症状のようにも思えるところです。

(注7)この場面で初めて、観客は妻の名前が「路子」であることが分かります。

(注8)この場面は、『東京公園』を思い出させました。というのも、その映画では、妻の行動を監視すべく主人公に撮影を依頼した歯科医が、妻が訪れる公園の所在地を辿るとアンモナイト(出会ったときに、歯科医が妻にプレゼントしたもの)の形をしていることに気がつき、妻は自分を裏切ってなどいないのだと納得するのです。

(注9)劇場用パンフレットにおいて、吉田監督は、3人のことを「家庭内行方不明者」と述べています。

(注10)劇場用パンフレットにおいて、吉田監督は、「「家」其の物も、この映画の主役のひとつ」と述べています。



★★★☆☆
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5デイズ

2011年10月15日 | 洋画(11年)
 『5デイズ』(5days of WAR)を渋谷のシアターNで見てきました。

(1) 『スリーデイズ』、『4デイズ』と見てきたからには、いくら内容面で共通項が見当たらないとはいえ、嫌でも本作を見ないわけにはいきません。

 映画は、2008年8月のロシア軍のグルジア侵攻に関するものです。
 当時、グルジアは舵を西欧寄りに切ろうとしていたところ、これに危機感を抱いたロシアが、グルジア国内に居住するオセット人保護の名目で、その軍隊に国境を越えさせました。
 むろん、軍事力の面では、グルジア側が勝つ見込みなど全くありません。圧倒的な勢いで、ロシア軍は攻め入ってきます。

 映画の主人公アンダースルパート・フレンド)はアメリカのフリージャーナリスト。カメラマンのセバスチャンと共にグルジア紛争の真っただ中に入り込んで、目にしたロシア軍(映画では専ら、民兵とか傭兵)の残虐行為をカメラに収め、国際社会に電波を通じて訴えようとします。ところが、まさに北京オリッピックの開会式の日でもあったことから、ニュースを流してくれる放送局は一つも見つからないのです。
 それどころか、グルジアの首脳が西欧各国に働きかけを行っても、対応してくれる国はありません。
 このままでは国が滅びてしまうという間際になって、フランスの仲介もあって、侵攻5日目にして、ロシア軍は停戦に応じることになります。

 現代の戦争の凄惨な面を、これまでの映画以上にうまく抉り出しているのではと思われます。
 空爆による悲惨な有様とか、ヘリコプターによる地上攻撃の凄まじさが、これまでになくリアルに観客に迫ってきます。
 また、戦争になれば、60年以上も昔にナチス・ドイツが行ったのと同じ残虐行為を、ごく当たり前のように行ってしまうのだな、と恐ろしくなりました。

 以上のようなことを背景にしながら、アンダースは、グルジアで一人の女性を知るようになります。
 実は彼は、グルジアを訪れる前にはイラクで取材していました。ですが、その際中に、テロ組織による銃撃を受けて、車に同乗していた恋人を失ってしまったことがあるのです。それ以降、世の中をニヒルな目で見るようになります。
 その彼が、再び戦場記者として出向いたグルジアで、米国留学の経験があるタティアエマニュエル・シュリーキー)という美しいグルジア女性と知り合います。
 彼女の妹の結婚式の日が紛争勃発の日でもあり、妹や父親の安否を尋ねて危険な地帯に、アンダースとともに入り込んでいきます。

 ご都合主義的な点はふんだんに見つかるものの(注1)、この映画は、最後まで見あきることはありません。

 主人公のアンダースを演じるのは、『私の可愛い人』で放蕩息子のシェリに扮していたルバート・フレンド。「イケメンぶりを十分に発揮」していた役柄から、今度は鼻に大きな傷を負ってしまった報道記者へと大きな変身を遂げていますが、土の中に埋められたメモリーカードを、危険を冒しても取りに行く姿などは感動的です。



 タティアを演じるエマニュエル・シュリーキーは、『キャデラック・レコード』に出演していましたが、この映画では知的で随分可愛らしい容姿を披露しています。

(2)ただ、本作には大きな問題点があるように思われます。
 というのも、余りにも一方的にグルジア側の見解を受け入れてしまっていて、この映画を見た人は、ロシアはなんてひどい国だと思わざるを得ないような描き方なのです。
 特に日本では、判官びいきから小国グルジアを応援したくなってしまいがちですが、はたして真実がどこらあたりにあるのか、最初から偏った先入観を持たないようにする必要がありそうです。

 例えば、上記の冒頭で述べたグルジア紛争の始まりについては、次のように述べている本もあります。
 「世界が北京オリンピック開催に沸き立っていた2008年8月7日夕刻、旧南オセチア自治州に展開していたグルジア軍は電撃作戦を実施し、州都ツヒンヴァリを「解放」した。8月初めから緊張は高まっており、グルジア側はロシア軍が先に軍を南オセチアに向け、これに対する自衛のための作戦発動だったとするが、今のところ真相は不明である。コーカサス諸民族の保護者を自認するロシアは、グルジア軍の動きを「大虐殺」と呼び、南オセチアに通じるロキ・トンネルから大軍を侵入させ、激戦のすえ、グルジア軍を南オセチアから撤退させた」(注2)。

 こうなると、虐殺を行ったのは、むしろグルジア軍側かもしれないと思えてもきます(注3)。

 また、映画には、アンディ・ガルシア扮するサアカシュヴィリ大統領が、一方的停戦や、首都防衛に徹するために戦線の縮小を軍に命じたり、さらには側近に西欧諸国の動向に関する情報を求めたりする様子が映し出されたり、国民の前とかTV放送などで何度も演説したりする姿が描かれたりして、彼は実に英雄的な人物であるかのような印象を観客は持ってしまいます(注4)。



 ですが、政治家がそんな美しいベールばかりをまとっているはずもなく、あるいは、北京オリンピックでプーチン首相がロシアを出払っている隙を衝いてグルジア軍を動かしたことも十分に考えられるところです(そうした要因は、無論ロシア側にだってありうるでしょうが)。(注5)

 こう見てくると、アンダースが死守したメモリーカードに保存されていたはずの映像自体にも、疑いの目が向けられてしまうかもしれません。なにしろ、映画では、実際の映像は映し出されることはないのですから。それに、今や、どんな映像でもCG技術の著しい発展によって、人工的に作り出すことが可能なのですから(注6)。

 とはいえ、ともすればチェチェン紛争とごっちゃになってしまいがちなグルジア紛争に目を向けさせてくれたわけですから、そう一概に批判することもないでしょう。
 それに、はらはらさせられる場面が多い戦争アクション映画にもかかわらず、首都トリビシの旧市街の静かで魅力的な佇まいなどを見ることができましたから、マズマズ満足して映画館を後にすることができました。



(注1)たとえば、ラスト近くで、ロシア軍の傭兵ダニール(コサック出身)が、捕えているタティアを、アンダースの所持しているメモリーカード(グルジアに侵攻した軍隊の残虐行為が写っている映像を保存)と引き換えに解放すると、彼に連絡してきます。
 アンダースは、メモリーカードを手渡してタティアナを解放させますが、そこには何も映像が保存されていないことがダニールにわかり、射殺されそうになったところ、ダニールのそれまでの残虐行為を批判的な目で見ていた少年兵によって、ダニールは逆に射殺されてしまい、結局アンダースは無事にタティアのもとに戻ることができます。

(注2)前田弘毅著『グルジア現代史』(東洋書店、ユーラシア・ブックレットNo.131)P.54。

(注3)Wikipediaの「ミヘイル・サアカシュヴィリ」の項には、驚いたことに、「南オセチア紛争に関するサアカシュヴィリ自身の発言も変化し、紛争時に行っていた「先に軍事行動を開始したのはロシア側だ」という主張を翻し、同年11月28日にグルジア側の方が先に軍事行動を開始していたことを認めた」との記載が見受けられます。

(注4)たとえば、ロシア軍の侵入に対して、側近は大統領に対して「反撃を」と進言しますが、大統領は、「反撃はダメだ。それでは戦争になってしまう」と応え、更に側近が「それでは負傷者の回収もできません」と言うと、彼は「今から一方的休戦の演説をする」と答えたりします。

(注5)上記「注2」で取り上げた著書には、「サアカシュヴィリはガムサフルディア(前々大統領)の持つ愛国者と、シュワルナゼ(前大統領)の持った危機の中で現れた有能な指導者としての二つの長所を学んだ」が、「ファシストと揶揄されたガムサフルディアとワンマン政治家のシュワルナゼの二つの負の資質を引き継いだ面もある」とも述べられています(同書、P.55)。

(注6)アンダースは、放送センターのあるゴリという都市に潜入し、コレクトコールでNYに電話を入れて、何とか放送局を見つけるよう依頼しますが断られてしまいます。その後、PCを通して映像を流せるルートが見つかり、設備を備えた車でアップロードしようとしたところ、ヘリコプターの攻撃を受けて、なんとかメモリーカードは取り出したものの、結局は映像を世界に向けて発信できませんでした。最後に、病院で出会ったセバスチャンがアンダースに、「映像は流した」と言います。ただ、話はそれで簡単に終わってしまうので、あるいはアンダースを元気づけるための方便に過ぎないとも受け取れます(なにしろ、皆があれだけ拘ったメモリーカードにもかかわらず、最後は実にアッサリとした取扱いなので)。



★★★☆☆


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