『三度目の殺人』を、TOHOシネマズ渋谷で見ました。
(1)是枝監督の作品ということで映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、夜間、二人の男が河原を歩いています。
突然、後ろに歩いている三隅(役所広司)が、前を歩いている男の頭を手にしていたスパナで殴り、その男が倒れた後も何度も殴りつけます。
三隅は、死体にガソリンをかけ、マッチを点けて放り投げると死体は炎に包まれます。
三隅は、顔に振りかかった血を手で拭います。
次に、画面には海側から見た横浜が映し出され、走っている車を見ると、重盛(福山雅治)、摂津(吉田鋼太郎)、川島(満島真之介)の3人の弁護士が乗っています。
重盛が資料に目を通しているうちに、車は横浜拘置支所に着きます。
3人は廊下で待っています。
川島が「強盗殺人とはエグい」と言い、重盛が「自白してるんだろ?」と尋ねると、摂津は「ああ」と答え、それに対して重盛は「だとしたら、間違いなく死刑だろ」と言います。
摂津は、「俺独りでいいと思ってたが、会うたびに言うことが違っているんだ」と付け加えます。
そして、面会室。
三隅が「お待たせしました」「今日は大勢で」と言いながら現れます。
摂津が重盛を紹介すると(注3)、三隅は「お父さんにはお世話になりました」と応じます。
摂津が「殺害は間違いないのか」「あなたが殺したのね」と言い、さらに重盛が「どうして殺したのですか?」と尋ねると、三隅は「お金に困っていました」「街金から借りたのが溜まって」と答えます。
さらに摂津が、「前から殺してやろうと思っていたと言わなかった?」「スパナで後ろから殴ったのですよね?」と尋ねると、三隅は「はい」と答え、重盛が「殺したことを確認しました?」と訊くと、三隅は「息をしていなかった」と答え、重盛が「ガソリンは?」と訊くと、三隅は「工場に取りに行った」と答えるので、重盛は「最初から持っていたのではないのですね」と念を押します。
面会室の外で。
川島が「やっぱり死刑ですかね」と言うと、重盛は「ああ」と応じます。
事務所で。
重盛が「犯人は減刑を望んでいるんだよね。でも、そうは見えなかった」と言い、「家族は?」と尋ねると、川島が「36の娘が1人、留萌にいます」と答え、重盛は「父親と交流はなかったんだろうな」と呟きます。
ここで事務員の服部(松岡依都美)が、「北海道はカニが美味しいんですよね?」とはしゃぐと、重盛は「留萌はタコなんだよ」と応じます。
さらに、重盛が「これって費用が出るんだよね?」と尋ねると、摂津は「出ない、出ない」と否定しますが、川島が「理解するためには、一度会った方が」と言うと、重盛は「友だちになるのではないから、理解は要らないよ」と答えます。
こんなところが本作の始めの方ですが、さあここからどのように話は展開するのでしょうか、………?
本作は、30年前にも殺人事件を引き起こして仮釈放されながらも再度殺人事件の容疑者として起訴された男を担当する弁護士を描いています。その弁護士は当初、死刑が確実視される本件を無期懲役に持っていこうとしますが、男が供述を二転三転させるのに翻弄され、さらには関係者の中に衝撃的な告白する者が現れるのです。本作は、ストーリーがなかなかおもしろい上に、サスペンスドラマ仕立てながらも謎解きではない別の狙いをもって作られているように思えて、いろいろ問題点があるとはいえ、まずまず興味深いものがありました。
(本作はサスペンス物であるにもかかわらず、以下では様々にネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)
(2)本作で描かれる事件について、被害者を本当に殺したのは誰か、本当の動機は何か、といったことを議論してみても、それほど意味がないものと思います。
何しろ、監督の方では、それをわからなくしようと極力努めているのですから(注4)。
本作は、裁判というものは、そういった真実を明らかにするわけではなく、人間同士が演じる儀式なのだということをよくわきまえていながらも、被告の言動に翻弄されて、真実は何かを追い求めてしまう弁護士の主人公の姿が、なかなかうまく描かれていているように思いました。
ただ、いろいろ問題点もあるように思われます。
例えば、本作の最初の方で、重盛が「被告が自白しているのなら、強盗殺人じゃ死刑だな」というようなことを言います。ですが、本件のように殺されたのが1人の場合、通常なら死刑にはならないのではと思われますが、どうなのでしょう(注5)?
また、裁判長(井上肇)が判決を言い渡す時に、主文を最初に読みましたが、死刑判決の場合、通常は後回しになるのではないでしょうか(注6)?
さらに、留萌出張について、その旅費は出ないとわざわざ言われていたにもかかわらず、重盛と川島の2人が留萌行きをしてしまうのはどうしてなのでしょう(注7)。
それに、主人公の重盛弁護士について、家庭問題(注8)を抱えているとするなど、複雑な設定にしてある上に、さらに、三隅が30年前に引き起こした留萌殺人事件に関し、重盛の父親(橋爪功)が担当裁判官だったという設定まで、本作に必要なのでしょうか(注9)?
ですが、こうした事柄は制作者側の方で予めよくわきまえた上で(必ずや弁護士等による監修を十分に受けていることでしょうし)、映画制作上の必要性もあって、本作のように作られているように思います。
ですから、そうした揚げ足取りめいたことを述べてみても、それほど意味があるとも思えません。
とはいえ、本作制作の狙いからでしょう、是枝監督は、「サスペンスや法廷劇は本来、神の目線がないと成り立たないジャンルですよね。それなのに僕はやはり神の目線を持ちたくなかったので、そのせめぎあいで苦悩しました」と述べていますが、仮にそうだとすると、例えば、上記(1)に書きましたが、冒頭の殺人シーンはどうなのでしょう?
本作が、「神の目線」が存在しない作品だとすると、このシーンは、主人公の重盛が想像したものということになるのでしょうか?
あるいはそうかもしれません(注10)。
でも、下記(3)で触れる篠田正浩氏が指摘しているのですが、被害者の妻(斉藤由貴)と娘・美咲(広瀬すず)との2人だけのシーンはどうなのでしょう?これもはたして、重盛の想像によるものなのでしょうか(注11)?
それから、拘置所の部屋で、三隅が外の鳥に餌をやろうとしたり、またピーナッツバターを塗ってパンを食べたりするシーンがありますが、これも重盛の想像によるものでしょうか(注12)?
それはともかく、本作における役所広司の演技は、『関ヶ原』における徳川家康役をも上回る物凄さだと思いました。なにしろ、役所広司が演じる三隅は、重盛らが面会に来るたびに、異なった態度で違ったことを言って、重盛らを酷く翻弄してしまうのですが、確かにこんな動作・顔付きをされたら、それに接する者は大層動揺してしまうだろうなと思わせます。
クマネズミには、役所広司は、『関ヶ原』でも主演の岡田准一を食ってしまった感がありましたが、本作においても主演の福山雅治を上回ってしまっているように思われました(注13)。
その福山雅治ですが、確かによくやっていると思います。
これまで抱いてきた裁判に対する姿勢を突き崩すような被告の言動に直面して大きく動揺する主人公の姿を、随分と上手く演じているものと思います。
ただ、被告の三隅にさんざん翻弄されて、最後に四つ辻で途方に暮れた姿が映し出されるのでは、少々サエない感じがつきまとってしまうのも仕方がないでしょう(注14)。
(3)渡まち子氏は、「映画は、人が人を裁くことの意味を問うが、崩壊した家庭と不条理がまかり通る社会が、裁きと真実を遠ざけているような気がしてならない。重苦しい空気に覆われた物語の中で、重盛と三隅の故郷である北海道の雪景色が、一筋の明かりのようにまぶしかった」として70点を付けています。
中条省平氏は、「推理小説のような明らかな謎解きは行われないが、それがまったくごまかしではなく、欲求不満を感じさせない。三隅と咲江だけが知る真実を示唆して、人間の心の奥深さを透かし見せる。役者たちの健闘、静謐で力のこもった美術と映像の共同作業も素晴らしい」として★5つ(「今年有数の傑作」)を付けています。
朝日新聞のクロスレビューで、篠田正浩氏は、「是枝さんはこの映画を重盛の視点で描いています。彼の知らない真実は観客にも知らされない。だから真実は最後までわからない。ところが時々、重盛が知り得ないことが紛れ込むんです」「神の不在を描こうとしているのに、これは手落ちではないでしょうか」と述べ、内田也哉子氏は、「そこはかと流れる不穏な空気の中、根底には普遍的な人間の営みが描かれ、崇高なテーマと緻密な娯楽性が共存している。これはグリム童話のようだと思いました」と述べ、佐々木知子氏は、「弁護士や検事をことさら悪者に仕立ててはいない。中立に描いて真実も結局は観客の判断の中にある。事件を各視点から見ることで人間の普遍的とも言える悲しみが描かれ、秀逸だと思いました」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『海よりもまだ深く』の是枝裕和。
なお、出演者の内、最近では、福山雅治は『SCOOP!』、役所広司は『関ヶ原』、広瀬すずは『怒り』、満島真之介は『無限の住人』、吉田鋼太郎は『ちょっと今から仕事やめてくる』、市川実日子は『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、橋爪功は『海よりもまだ深く』で、それぞれ見ました。
(注3)国選弁護人として、当初は摂津が選任されていましたが、摂津は、自分ひとりでは手に余るとして、重盛応援を求めたようです(川島は、弁護士になってから日が浅く、重盛の事務所にデスクを借りている「軒弁」ですが、勉強ということで参加しているようです)。
(注4)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、是枝監督は、「結局、何が真実なのかわからないような法廷劇を撮ってみようと思いました」と述べています。
(注5)とはいえ、このサイトの記事を見ると、「死者数」が1の場合でも、本件の三隅の場合のように、「無期懲役仮釈放中の犯行」の場合「死刑」判決となっている場合が随分と多いことがわかります。それからすれば、重盛の言っていることは妥当と思われます。
ですが、その記事が言っているように、「殺人前科があったとしても、当該事件の殺人計画性が希薄であったり、罪質が利欲的でなかったり、酌むべき事情が多かったりすれば、死刑がやむを得ないとは言い難いので、死刑回避される場合」があるようです。
その記事では、実例として、「東京南青山強殺事件」が挙げられています。
以前2人を殺して懲役刑を受けた男が、再度強盗殺人事件で起訴されて無期懲役になっています(2015年2月)。
この記事を見ると、最高裁は、「被告の前科については、………、過度に重視すべきではないとの見方を示した」とのこと。
同事例は、懲役20年の刑期を終えて出所後の犯行であり、本作の三隅は「無期懲役仮釈放中の犯行」で異なっているとはいえ、最高裁の判決を踏まえれば、そうは簡単に「死刑だな」とは言えないような気もします。
(注6)まあ、慣習でしょうから、主文が最初に読み上げられる場合もあることはあるのでしょう(最初に「死刑」と言い渡すと、被告がショックで判決理由が耳に入らなくなるから後回しにする、ともいわれていますが、主文を後回しにすれば死刑判決だということが被告に分かってしまいますから、余り理由にはならないように思われます)。
(注7)まして2人は、三隅の娘に会えなかったわけで、ほとんど出張の成果がなかったように思われます(担当した元刑事から、「三隅は、“空っぽの器”のようだった」との証言を得ますが)。
(注8)重盛がワーカホリックであったがために、妻とは離婚調停中であり(重盛は父親にそう言います)、中学生の娘・ゆか(蒔田彩珠)との関係もうまくいっていません(ゆかが万引きをしたために、忙しいさなか、重盛はスパーマーケットに行かざるを得なくなります)。
(注9)重盛の父親は、わざわざ上京して事務所に現れて、三隅に対する判決文を書いた時の状況(「当時は、犯罪を生み出した社会が悪いなどということが強く言われていた」)を述べたり、「三隅は、楽しみのために殺すような「獣みたいな人間」だ」「あんなやつ、理解しようとするだけ無駄」と言ったりしますが、そうした通常ルートでは得られないような担当裁判官の心情を重盛たちの耳に入れるがために、そのような設定にしたのでしょうか?でも、その話が、本作のその後の展開に効果的な影響を及ぼしているようには思えません。
さらに言えば、三隅の娘・咲江が、被害者の娘と同様に足が悪いという設定になっていますが、わざわざそうする必要性があるのでしょうか(あるいは、三隅が咲江に強い同情心を抱くようにするために、そのような設定にしたのでしょうか)?
(注10)被害者の娘・美咲が、顔に付いた血を拭うシーンもありますが、それも重盛の想像のうちということになるのでしょう。
とにかく重盛は、三隅が重盛の父親に書いた手紙を読んでさえ、三隅と一緒に雪合戦をしているところを想像してしまうほど、想像力に酷く豊んだ人物として描かれています!
(注11)重盛の想像にしては、被害者の妻が、「保険金がなかなかおりないのは、保険会社も、あたしが依頼したと思っているからなのか」とか、「あんたが北大に行ってしまったら寂しくて死ぬ」と美咲に言ったりして、とても想像とは思えない随分とリアルなシーンになっている感じがします。
(注12)重盛は、三隅が暮らしていたアパートの外に、三隅が飼っていたカナリアの死骸を埋めた墓を見つけたり、また三隅にピーナッツバターを差し入れたりしていますから、そうした想像をしてもおかしくはないのでしょうが。
(注13)ただ、なぜ三隅がそのようにわざわざ態度や言い分をコロコロ変えるのかは、よくわからない感じがするところです。
最初、三隅が減刑を望んでいたのは、摂津の常識通りのアドバイスに従ったからでしょう〔重盛が「社長を殺したことを後悔してるんですよね?」と尋ねると、三隅は「(摂津が上申書を)書け書けと言うもんだから」と答えます←もしかしたら、三隅は、裁判長に媚びる態度を示してまで減刑してほしくなかったのかもしれません。「裁くのは私じゃない。私は、裁かれる方だ」とか「人の命を弄ぶ人が何処かにいるんでしょうか。会って、言ってやりたい、理不尽だって」などと言う三隅は、裁判制度に大きな疑問を持っていたようでもありますし〕。
その後自分で週刊誌に「独占告白」をしたのは、あるいは、減刑を確実なものにしようとしたからでしょうか(ただ、仮にそうだとすると、重盛の「あまり減刑を望んでいるように見えなかった」との発言とは齟齬してしまいます)?
そして、最後になって三隅が犯行自体を否認するに至ったのは、三隅のために美咲が法廷で証言するかもしれないと知り、それを阻止しようとしたからと推測されますが、はっきりとはわかりません(三隅が自分から言うように、「それが本当なら良い話」「こんな私でも誰かの役に立つということですが、仮に本当ならば」となるでしょう)。
三隅は、重盛から美咲の証言の話を聞いた直後に犯行を否認すると言い出していて、そんなにあれこれ考える余裕がなかったようにも見えるところです〔むしろ、美咲の話とは無関係に、犯行の否認を持ち出している感じもしてしまいます。あるいは三隅は、最初から「自分は生まれてこなければよかった」と思っていて、死刑になることを望んでいたのかもしれません(最初の事件に際しても)。それを摂津に促されて、減刑を望んでいるような姿勢で当初は裁判に臨み、途中で、裁判官の心証が悪くなると十分に承知しながら犯行を否認して、望みどおりに死刑判決を得たようにも見えます〕。
(注14)福山雅治が演じる重盛についても、よくわからない感じが残ります。
三隅が犯行を否認したら、それに応じて、重盛が弁護方針を切り替えてしまったのはどうしてなのでしょう?
本作で取り上げた事件は、もともと物的証拠に乏しい事件であり、三隅の当初の自白が大きなウエイトを持っているのかもしれません。でも、裁判の途中で被告が、客観的な裏付けもなしに(そのように見えますが)当初認めた自白を覆したら、摂津でなくとも「裁判に負ける」と考えるのではないでしょうか?
あるいは、美咲に裁判で証言させないとする三隅の密かな願いに重盛が同調したからなのでしょうか?ただ、美咲を証言台に立たせないようにするには、三隅が犯行を否認せずとも、美咲を説得するか(実際にも、証言台に立ちませんでした)、もともと弁護側で証人申請しなければ済むのではないでしょうか?
加えて、重盛は、三隅が犯人ではないとして弁護したわけですから、死刑判決が出たら、アレコレ逡巡する暇もなく控訴手続きに入る必要があるように思われるのですが?
ただ、三隅が控訴しないと強硬に主張したのかもしれません(死刑判決後、三隅は重盛に「有難うございました」と言って手を握っています)。でも、重盛が三隅の言うことを信じているのであれば、三隅を説得して控訴に持ち込むべきではないかと思われますが。
あるいは、重盛は、被告の意向に沿って弁護しているだけであって、三隅の言うことなど信じてはいないのかもしれません。でも、それなら、ラストシーンの意味合いは何でしょう?
(もともと、裁判は真実を追求する場ではないとみなしていた重盛が、三隅に幻惑されて、一時的に真実追求路線にはまり込んだものの、最後に三隅に突き放されて、目が覚めたというのであれば、話はわからないでもありませんが。ただ、その場合には、ラストのシーンは不要となるでしょう)
★★★☆☆☆
象のロケット:三度目の殺人
(1)是枝監督の作品ということで映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、夜間、二人の男が河原を歩いています。
突然、後ろに歩いている三隅(役所広司)が、前を歩いている男の頭を手にしていたスパナで殴り、その男が倒れた後も何度も殴りつけます。
三隅は、死体にガソリンをかけ、マッチを点けて放り投げると死体は炎に包まれます。
三隅は、顔に振りかかった血を手で拭います。
次に、画面には海側から見た横浜が映し出され、走っている車を見ると、重盛(福山雅治)、摂津(吉田鋼太郎)、川島(満島真之介)の3人の弁護士が乗っています。
重盛が資料に目を通しているうちに、車は横浜拘置支所に着きます。
3人は廊下で待っています。
川島が「強盗殺人とはエグい」と言い、重盛が「自白してるんだろ?」と尋ねると、摂津は「ああ」と答え、それに対して重盛は「だとしたら、間違いなく死刑だろ」と言います。
摂津は、「俺独りでいいと思ってたが、会うたびに言うことが違っているんだ」と付け加えます。
そして、面会室。
三隅が「お待たせしました」「今日は大勢で」と言いながら現れます。
摂津が重盛を紹介すると(注3)、三隅は「お父さんにはお世話になりました」と応じます。
摂津が「殺害は間違いないのか」「あなたが殺したのね」と言い、さらに重盛が「どうして殺したのですか?」と尋ねると、三隅は「お金に困っていました」「街金から借りたのが溜まって」と答えます。
さらに摂津が、「前から殺してやろうと思っていたと言わなかった?」「スパナで後ろから殴ったのですよね?」と尋ねると、三隅は「はい」と答え、重盛が「殺したことを確認しました?」と訊くと、三隅は「息をしていなかった」と答え、重盛が「ガソリンは?」と訊くと、三隅は「工場に取りに行った」と答えるので、重盛は「最初から持っていたのではないのですね」と念を押します。
面会室の外で。
川島が「やっぱり死刑ですかね」と言うと、重盛は「ああ」と応じます。
事務所で。
重盛が「犯人は減刑を望んでいるんだよね。でも、そうは見えなかった」と言い、「家族は?」と尋ねると、川島が「36の娘が1人、留萌にいます」と答え、重盛は「父親と交流はなかったんだろうな」と呟きます。
ここで事務員の服部(松岡依都美)が、「北海道はカニが美味しいんですよね?」とはしゃぐと、重盛は「留萌はタコなんだよ」と応じます。
さらに、重盛が「これって費用が出るんだよね?」と尋ねると、摂津は「出ない、出ない」と否定しますが、川島が「理解するためには、一度会った方が」と言うと、重盛は「友だちになるのではないから、理解は要らないよ」と答えます。
こんなところが本作の始めの方ですが、さあここからどのように話は展開するのでしょうか、………?
本作は、30年前にも殺人事件を引き起こして仮釈放されながらも再度殺人事件の容疑者として起訴された男を担当する弁護士を描いています。その弁護士は当初、死刑が確実視される本件を無期懲役に持っていこうとしますが、男が供述を二転三転させるのに翻弄され、さらには関係者の中に衝撃的な告白する者が現れるのです。本作は、ストーリーがなかなかおもしろい上に、サスペンスドラマ仕立てながらも謎解きではない別の狙いをもって作られているように思えて、いろいろ問題点があるとはいえ、まずまず興味深いものがありました。
(本作はサスペンス物であるにもかかわらず、以下では様々にネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)
(2)本作で描かれる事件について、被害者を本当に殺したのは誰か、本当の動機は何か、といったことを議論してみても、それほど意味がないものと思います。
何しろ、監督の方では、それをわからなくしようと極力努めているのですから(注4)。
本作は、裁判というものは、そういった真実を明らかにするわけではなく、人間同士が演じる儀式なのだということをよくわきまえていながらも、被告の言動に翻弄されて、真実は何かを追い求めてしまう弁護士の主人公の姿が、なかなかうまく描かれていているように思いました。
ただ、いろいろ問題点もあるように思われます。
例えば、本作の最初の方で、重盛が「被告が自白しているのなら、強盗殺人じゃ死刑だな」というようなことを言います。ですが、本件のように殺されたのが1人の場合、通常なら死刑にはならないのではと思われますが、どうなのでしょう(注5)?
また、裁判長(井上肇)が判決を言い渡す時に、主文を最初に読みましたが、死刑判決の場合、通常は後回しになるのではないでしょうか(注6)?
さらに、留萌出張について、その旅費は出ないとわざわざ言われていたにもかかわらず、重盛と川島の2人が留萌行きをしてしまうのはどうしてなのでしょう(注7)。
それに、主人公の重盛弁護士について、家庭問題(注8)を抱えているとするなど、複雑な設定にしてある上に、さらに、三隅が30年前に引き起こした留萌殺人事件に関し、重盛の父親(橋爪功)が担当裁判官だったという設定まで、本作に必要なのでしょうか(注9)?
ですが、こうした事柄は制作者側の方で予めよくわきまえた上で(必ずや弁護士等による監修を十分に受けていることでしょうし)、映画制作上の必要性もあって、本作のように作られているように思います。
ですから、そうした揚げ足取りめいたことを述べてみても、それほど意味があるとも思えません。
とはいえ、本作制作の狙いからでしょう、是枝監督は、「サスペンスや法廷劇は本来、神の目線がないと成り立たないジャンルですよね。それなのに僕はやはり神の目線を持ちたくなかったので、そのせめぎあいで苦悩しました」と述べていますが、仮にそうだとすると、例えば、上記(1)に書きましたが、冒頭の殺人シーンはどうなのでしょう?
本作が、「神の目線」が存在しない作品だとすると、このシーンは、主人公の重盛が想像したものということになるのでしょうか?
あるいはそうかもしれません(注10)。
でも、下記(3)で触れる篠田正浩氏が指摘しているのですが、被害者の妻(斉藤由貴)と娘・美咲(広瀬すず)との2人だけのシーンはどうなのでしょう?これもはたして、重盛の想像によるものなのでしょうか(注11)?
それから、拘置所の部屋で、三隅が外の鳥に餌をやろうとしたり、またピーナッツバターを塗ってパンを食べたりするシーンがありますが、これも重盛の想像によるものでしょうか(注12)?
それはともかく、本作における役所広司の演技は、『関ヶ原』における徳川家康役をも上回る物凄さだと思いました。なにしろ、役所広司が演じる三隅は、重盛らが面会に来るたびに、異なった態度で違ったことを言って、重盛らを酷く翻弄してしまうのですが、確かにこんな動作・顔付きをされたら、それに接する者は大層動揺してしまうだろうなと思わせます。
クマネズミには、役所広司は、『関ヶ原』でも主演の岡田准一を食ってしまった感がありましたが、本作においても主演の福山雅治を上回ってしまっているように思われました(注13)。
その福山雅治ですが、確かによくやっていると思います。
これまで抱いてきた裁判に対する姿勢を突き崩すような被告の言動に直面して大きく動揺する主人公の姿を、随分と上手く演じているものと思います。
ただ、被告の三隅にさんざん翻弄されて、最後に四つ辻で途方に暮れた姿が映し出されるのでは、少々サエない感じがつきまとってしまうのも仕方がないでしょう(注14)。
(3)渡まち子氏は、「映画は、人が人を裁くことの意味を問うが、崩壊した家庭と不条理がまかり通る社会が、裁きと真実を遠ざけているような気がしてならない。重苦しい空気に覆われた物語の中で、重盛と三隅の故郷である北海道の雪景色が、一筋の明かりのようにまぶしかった」として70点を付けています。
中条省平氏は、「推理小説のような明らかな謎解きは行われないが、それがまったくごまかしではなく、欲求不満を感じさせない。三隅と咲江だけが知る真実を示唆して、人間の心の奥深さを透かし見せる。役者たちの健闘、静謐で力のこもった美術と映像の共同作業も素晴らしい」として★5つ(「今年有数の傑作」)を付けています。
朝日新聞のクロスレビューで、篠田正浩氏は、「是枝さんはこの映画を重盛の視点で描いています。彼の知らない真実は観客にも知らされない。だから真実は最後までわからない。ところが時々、重盛が知り得ないことが紛れ込むんです」「神の不在を描こうとしているのに、これは手落ちではないでしょうか」と述べ、内田也哉子氏は、「そこはかと流れる不穏な空気の中、根底には普遍的な人間の営みが描かれ、崇高なテーマと緻密な娯楽性が共存している。これはグリム童話のようだと思いました」と述べ、佐々木知子氏は、「弁護士や検事をことさら悪者に仕立ててはいない。中立に描いて真実も結局は観客の判断の中にある。事件を各視点から見ることで人間の普遍的とも言える悲しみが描かれ、秀逸だと思いました」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『海よりもまだ深く』の是枝裕和。
なお、出演者の内、最近では、福山雅治は『SCOOP!』、役所広司は『関ヶ原』、広瀬すずは『怒り』、満島真之介は『無限の住人』、吉田鋼太郎は『ちょっと今から仕事やめてくる』、市川実日子は『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、橋爪功は『海よりもまだ深く』で、それぞれ見ました。
(注3)国選弁護人として、当初は摂津が選任されていましたが、摂津は、自分ひとりでは手に余るとして、重盛応援を求めたようです(川島は、弁護士になってから日が浅く、重盛の事務所にデスクを借りている「軒弁」ですが、勉強ということで参加しているようです)。
(注4)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、是枝監督は、「結局、何が真実なのかわからないような法廷劇を撮ってみようと思いました」と述べています。
(注5)とはいえ、このサイトの記事を見ると、「死者数」が1の場合でも、本件の三隅の場合のように、「無期懲役仮釈放中の犯行」の場合「死刑」判決となっている場合が随分と多いことがわかります。それからすれば、重盛の言っていることは妥当と思われます。
ですが、その記事が言っているように、「殺人前科があったとしても、当該事件の殺人計画性が希薄であったり、罪質が利欲的でなかったり、酌むべき事情が多かったりすれば、死刑がやむを得ないとは言い難いので、死刑回避される場合」があるようです。
その記事では、実例として、「東京南青山強殺事件」が挙げられています。
以前2人を殺して懲役刑を受けた男が、再度強盗殺人事件で起訴されて無期懲役になっています(2015年2月)。
この記事を見ると、最高裁は、「被告の前科については、………、過度に重視すべきではないとの見方を示した」とのこと。
同事例は、懲役20年の刑期を終えて出所後の犯行であり、本作の三隅は「無期懲役仮釈放中の犯行」で異なっているとはいえ、最高裁の判決を踏まえれば、そうは簡単に「死刑だな」とは言えないような気もします。
(注6)まあ、慣習でしょうから、主文が最初に読み上げられる場合もあることはあるのでしょう(最初に「死刑」と言い渡すと、被告がショックで判決理由が耳に入らなくなるから後回しにする、ともいわれていますが、主文を後回しにすれば死刑判決だということが被告に分かってしまいますから、余り理由にはならないように思われます)。
(注7)まして2人は、三隅の娘に会えなかったわけで、ほとんど出張の成果がなかったように思われます(担当した元刑事から、「三隅は、“空っぽの器”のようだった」との証言を得ますが)。
(注8)重盛がワーカホリックであったがために、妻とは離婚調停中であり(重盛は父親にそう言います)、中学生の娘・ゆか(蒔田彩珠)との関係もうまくいっていません(ゆかが万引きをしたために、忙しいさなか、重盛はスパーマーケットに行かざるを得なくなります)。
(注9)重盛の父親は、わざわざ上京して事務所に現れて、三隅に対する判決文を書いた時の状況(「当時は、犯罪を生み出した社会が悪いなどということが強く言われていた」)を述べたり、「三隅は、楽しみのために殺すような「獣みたいな人間」だ」「あんなやつ、理解しようとするだけ無駄」と言ったりしますが、そうした通常ルートでは得られないような担当裁判官の心情を重盛たちの耳に入れるがために、そのような設定にしたのでしょうか?でも、その話が、本作のその後の展開に効果的な影響を及ぼしているようには思えません。
さらに言えば、三隅の娘・咲江が、被害者の娘と同様に足が悪いという設定になっていますが、わざわざそうする必要性があるのでしょうか(あるいは、三隅が咲江に強い同情心を抱くようにするために、そのような設定にしたのでしょうか)?
(注10)被害者の娘・美咲が、顔に付いた血を拭うシーンもありますが、それも重盛の想像のうちということになるのでしょう。
とにかく重盛は、三隅が重盛の父親に書いた手紙を読んでさえ、三隅と一緒に雪合戦をしているところを想像してしまうほど、想像力に酷く豊んだ人物として描かれています!
(注11)重盛の想像にしては、被害者の妻が、「保険金がなかなかおりないのは、保険会社も、あたしが依頼したと思っているからなのか」とか、「あんたが北大に行ってしまったら寂しくて死ぬ」と美咲に言ったりして、とても想像とは思えない随分とリアルなシーンになっている感じがします。
(注12)重盛は、三隅が暮らしていたアパートの外に、三隅が飼っていたカナリアの死骸を埋めた墓を見つけたり、また三隅にピーナッツバターを差し入れたりしていますから、そうした想像をしてもおかしくはないのでしょうが。
(注13)ただ、なぜ三隅がそのようにわざわざ態度や言い分をコロコロ変えるのかは、よくわからない感じがするところです。
最初、三隅が減刑を望んでいたのは、摂津の常識通りのアドバイスに従ったからでしょう〔重盛が「社長を殺したことを後悔してるんですよね?」と尋ねると、三隅は「(摂津が上申書を)書け書けと言うもんだから」と答えます←もしかしたら、三隅は、裁判長に媚びる態度を示してまで減刑してほしくなかったのかもしれません。「裁くのは私じゃない。私は、裁かれる方だ」とか「人の命を弄ぶ人が何処かにいるんでしょうか。会って、言ってやりたい、理不尽だって」などと言う三隅は、裁判制度に大きな疑問を持っていたようでもありますし〕。
その後自分で週刊誌に「独占告白」をしたのは、あるいは、減刑を確実なものにしようとしたからでしょうか(ただ、仮にそうだとすると、重盛の「あまり減刑を望んでいるように見えなかった」との発言とは齟齬してしまいます)?
そして、最後になって三隅が犯行自体を否認するに至ったのは、三隅のために美咲が法廷で証言するかもしれないと知り、それを阻止しようとしたからと推測されますが、はっきりとはわかりません(三隅が自分から言うように、「それが本当なら良い話」「こんな私でも誰かの役に立つということですが、仮に本当ならば」となるでしょう)。
三隅は、重盛から美咲の証言の話を聞いた直後に犯行を否認すると言い出していて、そんなにあれこれ考える余裕がなかったようにも見えるところです〔むしろ、美咲の話とは無関係に、犯行の否認を持ち出している感じもしてしまいます。あるいは三隅は、最初から「自分は生まれてこなければよかった」と思っていて、死刑になることを望んでいたのかもしれません(最初の事件に際しても)。それを摂津に促されて、減刑を望んでいるような姿勢で当初は裁判に臨み、途中で、裁判官の心証が悪くなると十分に承知しながら犯行を否認して、望みどおりに死刑判決を得たようにも見えます〕。
(注14)福山雅治が演じる重盛についても、よくわからない感じが残ります。
三隅が犯行を否認したら、それに応じて、重盛が弁護方針を切り替えてしまったのはどうしてなのでしょう?
本作で取り上げた事件は、もともと物的証拠に乏しい事件であり、三隅の当初の自白が大きなウエイトを持っているのかもしれません。でも、裁判の途中で被告が、客観的な裏付けもなしに(そのように見えますが)当初認めた自白を覆したら、摂津でなくとも「裁判に負ける」と考えるのではないでしょうか?
あるいは、美咲に裁判で証言させないとする三隅の密かな願いに重盛が同調したからなのでしょうか?ただ、美咲を証言台に立たせないようにするには、三隅が犯行を否認せずとも、美咲を説得するか(実際にも、証言台に立ちませんでした)、もともと弁護側で証人申請しなければ済むのではないでしょうか?
加えて、重盛は、三隅が犯人ではないとして弁護したわけですから、死刑判決が出たら、アレコレ逡巡する暇もなく控訴手続きに入る必要があるように思われるのですが?
ただ、三隅が控訴しないと強硬に主張したのかもしれません(死刑判決後、三隅は重盛に「有難うございました」と言って手を握っています)。でも、重盛が三隅の言うことを信じているのであれば、三隅を説得して控訴に持ち込むべきではないかと思われますが。
あるいは、重盛は、被告の意向に沿って弁護しているだけであって、三隅の言うことなど信じてはいないのかもしれません。でも、それなら、ラストシーンの意味合いは何でしょう?
(もともと、裁判は真実を追求する場ではないとみなしていた重盛が、三隅に幻惑されて、一時的に真実追求路線にはまり込んだものの、最後に三隅に突き放されて、目が覚めたというのであれば、話はわからないでもありませんが。ただ、その場合には、ラストのシーンは不要となるでしょう)
★★★☆☆☆
象のロケット:三度目の殺人