映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

三度目の殺人

2017年09月26日 | 邦画(17年)
 『三度目の殺人』を、TOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)是枝監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、夜間、二人の男が河原を歩いています。
 突然、後ろに歩いている三隅役所広司)が、前を歩いている男の頭を手にしていたスパナで殴り、その男が倒れた後も何度も殴りつけます。
 三隅は、死体にガソリンをかけ、マッチを点けて放り投げると死体は炎に包まれます。
 三隅は、顔に振りかかった血を手で拭います。

 次に、画面には海側から見た横浜が映し出され、走っている車を見ると、重盛福山雅治)、摂津吉田鋼太郎)、川島満島真之介)の3人の弁護士が乗っています。
 重盛が資料に目を通しているうちに、車は横浜拘置支所に着きます。

 3人は廊下で待っています。
 川島が「強盗殺人とはエグい」と言い、重盛が「自白してるんだろ?」と尋ねると、摂津は「ああ」と答え、それに対して重盛は「だとしたら、間違いなく死刑だろ」と言います。
摂津は、「俺独りでいいと思ってたが、会うたびに言うことが違っているんだ」と付け加えます。

 そして、面会室。
 三隅が「お待たせしました」「今日は大勢で」と言いながら現れます。
 摂津が重盛を紹介すると(注3)、三隅は「お父さんにはお世話になりました」と応じます。
 摂津が「殺害は間違いないのか」「あなたが殺したのね」と言い、さらに重盛が「どうして殺したのですか?」と尋ねると、三隅は「お金に困っていました」「街金から借りたのが溜まって」と答えます。
 さらに摂津が、「前から殺してやろうと思っていたと言わなかった?」「スパナで後ろから殴ったのですよね?」と尋ねると、三隅は「はい」と答え、重盛が「殺したことを確認しました?」と訊くと、三隅は「息をしていなかった」と答え、重盛が「ガソリンは?」と訊くと、三隅は「工場に取りに行った」と答えるので、重盛は「最初から持っていたのではないのですね」と念を押します。

 面会室の外で。
 川島が「やっぱり死刑ですかね」と言うと、重盛は「ああ」と応じます。

 事務所で。
 重盛が「犯人は減刑を望んでいるんだよね。でも、そうは見えなかった」と言い、「家族は?」と尋ねると、川島が「36の娘が1人、留萌にいます」と答え、重盛は「父親と交流はなかったんだろうな」と呟きます。
 ここで事務員の服部松岡依都美)が、「北海道はカニが美味しいんですよね?」とはしゃぐと、重盛は「留萌はタコなんだよ」と応じます。
 さらに、重盛が「これって費用が出るんだよね?」と尋ねると、摂津は「出ない、出ない」と否定しますが、川島が「理解するためには、一度会った方が」と言うと、重盛は「友だちになるのではないから、理解は要らないよ」と答えます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあここからどのように話は展開するのでしょうか、………?

 本作は、30年前にも殺人事件を引き起こして仮釈放されながらも再度殺人事件の容疑者として起訴された男を担当する弁護士を描いています。その弁護士は当初、死刑が確実視される本件を無期懲役に持っていこうとしますが、男が供述を二転三転させるのに翻弄され、さらには関係者の中に衝撃的な告白する者が現れるのです。本作は、ストーリーがなかなかおもしろい上に、サスペンスドラマ仕立てながらも謎解きではない別の狙いをもって作られているように思えて、いろいろ問題点があるとはいえ、まずまず興味深いものがありました。

(本作はサスペンス物であるにもかかわらず、以下では様々にネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作で描かれる事件について、被害者を本当に殺したのは誰か、本当の動機は何か、といったことを議論してみても、それほど意味がないものと思います。
 何しろ、監督の方では、それをわからなくしようと極力努めているのですから(注4)。

 本作は、裁判というものは、そういった真実を明らかにするわけではなく、人間同士が演じる儀式なのだということをよくわきまえていながらも、被告の言動に翻弄されて、真実は何かを追い求めてしまう弁護士の主人公の姿が、なかなかうまく描かれていているように思いました。



 ただ、いろいろ問題点もあるように思われます。
 例えば、本作の最初の方で、重盛が「被告が自白しているのなら、強盗殺人じゃ死刑だな」というようなことを言います。ですが、本件のように殺されたのが1人の場合、通常なら死刑にはならないのではと思われますが、どうなのでしょう(注5)?

 また、裁判長(井上肇)が判決を言い渡す時に、主文を最初に読みましたが、死刑判決の場合、通常は後回しになるのではないでしょうか(注6)?

 さらに、留萌出張について、その旅費は出ないとわざわざ言われていたにもかかわらず、重盛と川島の2人が留萌行きをしてしまうのはどうしてなのでしょう(注7)。

 それに、主人公の重盛弁護士について、家庭問題(注8)を抱えているとするなど、複雑な設定にしてある上に、さらに、三隅が30年前に引き起こした留萌殺人事件に関し、重盛の父親(橋爪功)が担当裁判官だったという設定まで、本作に必要なのでしょうか(注9)?

 ですが、こうした事柄は制作者側の方で予めよくわきまえた上で(必ずや弁護士等による監修を十分に受けていることでしょうし)、映画制作上の必要性もあって、本作のように作られているように思います。
 ですから、そうした揚げ足取りめいたことを述べてみても、それほど意味があるとも思えません。

 とはいえ、本作制作の狙いからでしょう、是枝監督は、「サスペンスや法廷劇は本来、神の目線がないと成り立たないジャンルですよね。それなのに僕はやはり神の目線を持ちたくなかったので、そのせめぎあいで苦悩しました」と述べていますが、仮にそうだとすると、例えば、上記(1)に書きましたが、冒頭の殺人シーンはどうなのでしょう?
 本作が、「神の目線」が存在しない作品だとすると、このシーンは、主人公の重盛が想像したものということになるのでしょうか?
 あるいはそうかもしれません(注10)。
 でも、下記(3)で触れる篠田正浩氏が指摘しているのですが、被害者の妻(斉藤由貴)と娘・美咲広瀬すず)との2人だけのシーンはどうなのでしょう?これもはたして、重盛の想像によるものなのでしょうか(注11)?



 それから、拘置所の部屋で、三隅が外の鳥に餌をやろうとしたり、またピーナッツバターを塗ってパンを食べたりするシーンがありますが、これも重盛の想像によるものでしょうか(注12)?

 それはともかく、本作における役所広司の演技は、『関ヶ原』における徳川家康役をも上回る物凄さだと思いました。なにしろ、役所広司が演じる三隅は、重盛らが面会に来るたびに、異なった態度で違ったことを言って、重盛らを酷く翻弄してしまうのですが、確かにこんな動作・顔付きをされたら、それに接する者は大層動揺してしまうだろうなと思わせます。
 クマネズミには、役所広司は、『関ヶ原』でも主演の岡田准一を食ってしまった感がありましたが、本作においても主演の福山雅治を上回ってしまっているように思われました(注13)。

 その福山雅治ですが、確かによくやっていると思います。
 これまで抱いてきた裁判に対する姿勢を突き崩すような被告の言動に直面して大きく動揺する主人公の姿を、随分と上手く演じているものと思います。
 ただ、被告の三隅にさんざん翻弄されて、最後に四つ辻で途方に暮れた姿が映し出されるのでは、少々サエない感じがつきまとってしまうのも仕方がないでしょう(注14)。

(3)渡まち子氏は、「映画は、人が人を裁くことの意味を問うが、崩壊した家庭と不条理がまかり通る社会が、裁きと真実を遠ざけているような気がしてならない。重苦しい空気に覆われた物語の中で、重盛と三隅の故郷である北海道の雪景色が、一筋の明かりのようにまぶしかった」として70点を付けています。
 中条省平氏は、「推理小説のような明らかな謎解きは行われないが、それがまったくごまかしではなく、欲求不満を感じさせない。三隅と咲江だけが知る真実を示唆して、人間の心の奥深さを透かし見せる。役者たちの健闘、静謐で力のこもった美術と映像の共同作業も素晴らしい」として★5つ(「今年有数の傑作」)を付けています。
 朝日新聞のクロスレビューで、篠田正浩氏は、「是枝さんはこの映画を重盛の視点で描いています。彼の知らない真実は観客にも知らされない。だから真実は最後までわからない。ところが時々、重盛が知り得ないことが紛れ込むんです」「神の不在を描こうとしているのに、これは手落ちではないでしょうか」と述べ、内田也哉子氏は、「そこはかと流れる不穏な空気の中、根底には普遍的な人間の営みが描かれ、崇高なテーマと緻密な娯楽性が共存している。これはグリム童話のようだと思いました」と述べ、佐々木知子氏は、「弁護士や検事をことさら悪者に仕立ててはいない。中立に描いて真実も結局は観客の判断の中にある。事件を各視点から見ることで人間の普遍的とも言える悲しみが描かれ、秀逸だと思いました」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『海よりもまだ深く』の是枝裕和

 なお、出演者の内、最近では、福山雅治は『SCOOP!』、役所広司は『関ヶ原』、広瀬すずは『怒り』、満島真之介は『無限の住人』、吉田鋼太郎は『ちょっと今から仕事やめてくる』、市川実日子は『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、橋爪功は『海よりもまだ深く』で、それぞれ見ました。

(注3)国選弁護人として、当初は摂津が選任されていましたが、摂津は、自分ひとりでは手に余るとして、重盛応援を求めたようです(川島は、弁護士になってから日が浅く、重盛の事務所にデスクを借りている「軒弁」ですが、勉強ということで参加しているようです)。

(注4)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、是枝監督は、「結局、何が真実なのかわからないような法廷劇を撮ってみようと思いました」と述べています。

(注5)とはいえ、このサイトの記事を見ると、「死者数」が1の場合でも、本件の三隅の場合のように、「無期懲役仮釈放中の犯行」の場合「死刑」判決となっている場合が随分と多いことがわかります。それからすれば、重盛の言っていることは妥当と思われます。
 ですが、その記事が言っているように、「殺人前科があったとしても、当該事件の殺人計画性が希薄であったり、罪質が利欲的でなかったり、酌むべき事情が多かったりすれば、死刑がやむを得ないとは言い難いので、死刑回避される場合」があるようです。
 その記事では、実例として、「東京南青山強殺事件」が挙げられています。
 以前2人を殺して懲役刑を受けた男が、再度強盗殺人事件で起訴されて無期懲役になっています(2015年2月)。
 この記事を見ると、最高裁は、「被告の前科については、………、過度に重視すべきではないとの見方を示した」とのこと。
 同事例は、懲役20年の刑期を終えて出所後の犯行であり、本作の三隅は「無期懲役仮釈放中の犯行」で異なっているとはいえ、最高裁の判決を踏まえれば、そうは簡単に「死刑だな」とは言えないような気もします。

(注6)まあ、慣習でしょうから、主文が最初に読み上げられる場合もあることはあるのでしょう(最初に「死刑」と言い渡すと、被告がショックで判決理由が耳に入らなくなるから後回しにする、ともいわれていますが、主文を後回しにすれば死刑判決だということが被告に分かってしまいますから、余り理由にはならないように思われます)。

(注7)まして2人は、三隅の娘に会えなかったわけで、ほとんど出張の成果がなかったように思われます(担当した元刑事から、「三隅は、“空っぽの器”のようだった」との証言を得ますが)。

(注8)重盛がワーカホリックであったがために、妻とは離婚調停中であり(重盛は父親にそう言います)、中学生の娘・ゆか蒔田彩珠)との関係もうまくいっていません(ゆかが万引きをしたために、忙しいさなか、重盛はスパーマーケットに行かざるを得なくなります)。

(注9)重盛の父親は、わざわざ上京して事務所に現れて、三隅に対する判決文を書いた時の状況(「当時は、犯罪を生み出した社会が悪いなどということが強く言われていた」)を述べたり、「三隅は、楽しみのために殺すような「獣みたいな人間」だ」「あんなやつ、理解しようとするだけ無駄」と言ったりしますが、そうした通常ルートでは得られないような担当裁判官の心情を重盛たちの耳に入れるがために、そのような設定にしたのでしょうか?でも、その話が、本作のその後の展開に効果的な影響を及ぼしているようには思えません。
 さらに言えば、三隅の娘・咲江が、被害者の娘と同様に足が悪いという設定になっていますが、わざわざそうする必要性があるのでしょうか(あるいは、三隅が咲江に強い同情心を抱くようにするために、そのような設定にしたのでしょうか)?

(注10)被害者の娘・美咲が、顔に付いた血を拭うシーンもありますが、それも重盛の想像のうちということになるのでしょう。
 とにかく重盛は、三隅が重盛の父親に書いた手紙を読んでさえ、三隅と一緒に雪合戦をしているところを想像してしまうほど、想像力に酷く豊んだ人物として描かれています!

(注11)重盛の想像にしては、被害者の妻が、「保険金がなかなかおりないのは、保険会社も、あたしが依頼したと思っているからなのか」とか、「あんたが北大に行ってしまったら寂しくて死ぬ」と美咲に言ったりして、とても想像とは思えない随分とリアルなシーンになっている感じがします。

(注12)重盛は、三隅が暮らしていたアパートの外に、三隅が飼っていたカナリアの死骸を埋めた墓を見つけたり、また三隅にピーナッツバターを差し入れたりしていますから、そうした想像をしてもおかしくはないのでしょうが。

(注13)ただ、なぜ三隅がそのようにわざわざ態度や言い分をコロコロ変えるのかは、よくわからない感じがするところです。
 最初、三隅が減刑を望んでいたのは、摂津の常識通りのアドバイスに従ったからでしょう〔重盛が「社長を殺したことを後悔してるんですよね?」と尋ねると、三隅は「(摂津が上申書を)書け書けと言うもんだから」と答えます←もしかしたら、三隅は、裁判長に媚びる態度を示してまで減刑してほしくなかったのかもしれません。「裁くのは私じゃない。私は、裁かれる方だ」とか「人の命を弄ぶ人が何処かにいるんでしょうか。会って、言ってやりたい、理不尽だって」などと言う三隅は、裁判制度に大きな疑問を持っていたようでもありますし〕。
 その後自分で週刊誌に「独占告白」をしたのは、あるいは、減刑を確実なものにしようとしたからでしょうか(ただ、仮にそうだとすると、重盛の「あまり減刑を望んでいるように見えなかった」との発言とは齟齬してしまいます)?
 そして、最後になって三隅が犯行自体を否認するに至ったのは、三隅のために美咲が法廷で証言するかもしれないと知り、それを阻止しようとしたからと推測されますが、はっきりとはわかりません(三隅が自分から言うように、「それが本当なら良い話」「こんな私でも誰かの役に立つということですが、仮に本当ならば」となるでしょう)。
 三隅は、重盛から美咲の証言の話を聞いた直後に犯行を否認すると言い出していて、そんなにあれこれ考える余裕がなかったようにも見えるところです〔むしろ、美咲の話とは無関係に、犯行の否認を持ち出している感じもしてしまいます。あるいは三隅は、最初から「自分は生まれてこなければよかった」と思っていて、死刑になることを望んでいたのかもしれません(最初の事件に際しても)。それを摂津に促されて、減刑を望んでいるような姿勢で当初は裁判に臨み、途中で、裁判官の心証が悪くなると十分に承知しながら犯行を否認して、望みどおりに死刑判決を得たようにも見えます〕。

(注14)福山雅治が演じる重盛についても、よくわからない感じが残ります。
 三隅が犯行を否認したら、それに応じて、重盛が弁護方針を切り替えてしまったのはどうしてなのでしょう?
 本作で取り上げた事件は、もともと物的証拠に乏しい事件であり、三隅の当初の自白が大きなウエイトを持っているのかもしれません。でも、裁判の途中で被告が、客観的な裏付けもなしに(そのように見えますが)当初認めた自白を覆したら、摂津でなくとも「裁判に負ける」と考えるのではないでしょうか?
 あるいは、美咲に裁判で証言させないとする三隅の密かな願いに重盛が同調したからなのでしょうか?ただ、美咲を証言台に立たせないようにするには、三隅が犯行を否認せずとも、美咲を説得するか(実際にも、証言台に立ちませんでした)、もともと弁護側で証人申請しなければ済むのではないでしょうか?

 加えて、重盛は、三隅が犯人ではないとして弁護したわけですから、死刑判決が出たら、アレコレ逡巡する暇もなく控訴手続きに入る必要があるように思われるのですが?
 ただ、三隅が控訴しないと強硬に主張したのかもしれません(死刑判決後、三隅は重盛に「有難うございました」と言って手を握っています)。でも、重盛が三隅の言うことを信じているのであれば、三隅を説得して控訴に持ち込むべきではないかと思われますが。
 あるいは、重盛は、被告の意向に沿って弁護しているだけであって、三隅の言うことなど信じてはいないのかもしれません。でも、それなら、ラストシーンの意味合いは何でしょう?
(もともと、裁判は真実を追求する場ではないとみなしていた重盛が、三隅に幻惑されて、一時的に真実追求路線にはまり込んだものの、最後に三隅に突き放されて、目が覚めたというのであれば、話はわからないでもありませんが。ただ、その場合には、ラストのシーンは不要となるでしょう)



★★★☆☆☆



象のロケット:三度目の殺人

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パターソン

2017年09月21日 | 洋画(17年)
 『パターソン』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)予告編で見て良さそうだなと思い、映画館に行ってみました。

 本作(注1)の冒頭では、「月曜日」の字幕が映し出され、主人公のパターソンアダム・ドライバー)とその妻・ローラゴルシフテ・ファラハニ)がベッドで眠っています。
 パターソンは、目を覚まし、小机に置かれている時計を見ると朝の6時10分。
 その時計を腕にはめ、ローラにキスをします。
 ローラが「素敵な夢を見た。双子がいるの」「子供を作るなら、双子が良い?」と尋ねると、パターソンは「いいね」と答え、ローラは「私達一人に一人ずつ」と言います。

 パターソンは、起き出して朝食をとりますが、机の上にあった“オハイオ印のブルーチップ・マッチ”を見ます。
 それから、昼食の入った小さな手提げを持って家の外に出て、勤務先に向かいます。

 パターソンの声。
 「我が家には沢山のマッチがある。いつもマッチを手元に置いている」。

 パターソンは、ベンチに座る老人に挨拶をして道を進みます。
 そして、バスの車庫に入り、バスに乗ってその運転席に座ります。



 パターソンは、運転席で小さなノートを開いて、そこに詩を書き付けます。
 「家には沢山のマッチがある」「今お気に入りのマッチは、オハイオ印のブルーチップ」「以前は、ダイアモンド印だったけれど」

 パターソンの運転するバスは、車庫を出て通りを進みます。
 バスは、合図があって停留所に着き、数人の乗客が降り、2人の少年が乗ってきます。
 そのうちの1人の少年が、「パターソン市にはハリケーン・カーターが住んでいた」「デンゼル・ワシントンそっくりだった」「バーで数人を射殺したために、刑務所行きになった」などと、もうひとりの少年に話します(注2)。
 また、「ハローウィンはどうするの?」「影になるとおもしろいかも」等と話し、2人は学校近くの停留所で降ります。

 パターソンの声(注3)。
 「それは、オハイオ印のブルーチップを見つける前のこと」「そのマッチは素晴らしいパッケージの小箱」「ブルーの濃淡と白のラベル」「言葉がメガホン形に書かれている」「これが世界で最も美しいマッチだ、と叫んでいるようだ」
 パターソンは、名所の「グレートフォールズ」(注4)を前にしたベンチに座って、ノートに詩を書き付けています。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから映画はどのように綴られていくのでしょうか、………?

 本作は、自治材するアメリカの都市・パターソン市でバスの運転手をしている主人公・パターソンの1週間について描き出している作品。作品の中で起こる目ぼしい出来事はごくわずか、総じて平穏無事な日常生活が続いていくだけの映画ながら、パターソンの詩のみならず、アメリカの詩人の詩がいくつか読み上げられたりすることもあり、この作品自体が一つの詩になっているような雰囲気が醸し出され、なんともいい気分にさせられます。

(2)ジム・ジャームッシュ監督の作品は、いくつか見ているものの、どれもよくわからない感じがつきまとい、特に最後に見た『リミッツ・オブ・コントロール』はとても理解できませんでしたので、本作もおそるおそる見たところ、あにはからんや、大層愛すべき作品に仕上がっていて、逆に驚きました。

 とはいえ、映画の中では出来事らしい出来事は何一つ起こらず(注5)、パターソン市に住むバスの運転手の日常が、ある週の月曜日から翌週の月曜日まで淡々と描かれているだけであり、その点からしたら、いかにもジム・ジャームッシュらしい作品と言えるのでしょう。

 それだけでなく、本作においては、詩が重要な役割を演じていて、パターソンが書く詩がいくつか文字で示されますし(注6)、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「パターソン、ウィリアムズ、パジェット」において、早大教授の江田孝臣氏は、「(本作は、)20世紀アメリカ詩を代表するウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(1883-1963)の長編詩「パターソン」に想を得ている」と述べています。
 もしかしたら、パターソンがノートに書き留める詩は、どれもウィリアム・ウィリアムズの影響を強く受けたものかもしれませんし、更に言えば、本作自体が、彼の「パターソン」という詩を様々に踏まえて作られているのかもしれません。なにしろ、江田氏によれば、「詩の舞台も主としてニュージャージー州の古い産業都市パターソンであり、(詩の)主人公の名前もまたパターソン」なのですから(注7)。

 また、本作では、「対」ということことさらなに関心が持たれている感じです。
 上記(1)でみたように、本作ののっけから「双子」という言葉が出てきますし、パターソンのバスに乗ってくる少年2人もお互いによく似ています。
 それだけでなく、パターソンが通りすがりに挨拶する老人も双子のようですし、また、車庫を出て家に帰る途中でパターソンが出会う「ママを待っている」と言う少女も、ママと一緒に、双子の姉の方が現れます(注8)。

 さらに本作には、双子以外にも対となる組み合わせが多く登場します。
 例えば、パターソンとローラの組み合わせが、各曜日の始めに映し出されますし、夜になると、パターソンと愛犬のマーヴィンとが一緒にバーまで出かけます。
 また、ラストの方では、パターソンと日本の詩人(永瀬正敏)が同じベンチに座って詩の話をします(注9)。



 こうしたことも、ジム・ジャームッシュらしさなのかもしれません(注10)。

 本作で気に入った点を上げれば、例えば、次のようでしょう。

 先ず、登場する俳優が気に入りました。
 『スター・ウォーズ フォースの覚醒』のカイロ・レンとは打って変わって、本作におけるアダム・ドライバーは、物静かで知的で、それでいてどこにでもいるバスの運転手という役柄を、実に雰囲気良く上手く演じています。
 また、『彼女が消えた浜辺』でその美しさに驚いたゴルシフテ・ファラハニは、本作では、家にあるカーテンなどのインテリアの制作に余年がなかったり、購入したギターを弾きながら歌ったり、カップケーキを作って売りに出したりと、ドンドン前向きに行動するとても可愛らしい妻を演じています。



 さらに、本作の舞台であるパターソン市は、買っては産業都市として盛んだったものの、今では産業が衰えて寂れてしまったとされていますが、画面に映る市の様子からすると、とても落ち着いた雰囲気のある都市のように思え、気に入りました(注11)。
 なにしろ、豊かな水量を誇る滝まであるのですから。

 そして、この映画全体が醸し出す雰囲気そのものが気に入った次第です。

(3)渡まち子氏は、「この穏やかな映画は、平凡な日常の美しさと奥深さをつかめたなら、人生はきっと豊かなものになると教えてくれる。イングリッシュ・ブルドッグの名演と、まったりと流れる音楽が隠れた魅力だ」として70点を付けています。
 山根貞男氏は、「小さなエピソードの数々が、夫婦の日常を豊かに織り上げる。平凡な人生の非凡さを軽妙洒脱に描くわけで、並の手腕ではない。そんなジャームッシュに敬意を表すかのように、終盤、永瀬正敏が詩人の役で登場し、いい味を醸す」と述べています。
 藤原帰一氏は、「この映画は、ジム・ジャームッシュが、昔から歌い続けてきた歌。変化も発展もないその歌が、限りなくいとおしい。この監督と同時代を生きることのできた幸せに感謝します」と述べています。
 日本経済新聞の古賀重樹氏は、「物語性が希薄なジャームッシュ映画の根底にあるのは詩心だと思う。この作品も詩についての映画というより、この映画自体が詩なのだ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『リミッツ・オブ・コントロール』のジム・ジャームッシュ

 なお、出演者の内、最近では、アダム・ドライバーは『沈黙-サイレンス-』、永瀬正敏は『』、ゴルシフテ・ファラハニは『パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊』(魔女)シャンサの役)で、それぞれ見ました。

(注2)ここらあたりは、この記事が参考になります。

(注3)以下の文章は、その前、バスの運転席でノートに書きつけられた詩の続き。
 詩の全体は、この記事の中に掲載されています(「Love Poem – by Ron Padgett」)。

 なお、「オハイオ印のブルーチップ・マッチ」の画像は以下のようです。



(注4)この記事が参考になります。

(注5)本作の中で描かれる出来事と言えば、例えば、次のようなものです。
・パターソンの運転するバスが、電気系統の故障で動かなくなります。
・愛犬のマーヴィルが、パターソンが詩を書き記していたノートを食いちぎってしまい、読めなくなってしまいます。
・ローラが購入したギターが届きます。
・パターソンが通うバーで、マリーチャステン・ハーモン)とエヴェレットウィリアム・ジャクソン・ハーバー)のあいだで別れ話が持ち上がり、エヴェレットが拳銃を取り出して自殺しようとしますが、それはおもちゃでした。

(注6)全部で7つありますが、すべてロン・パジェットこちらに履歴などが)によるものです。
 その全ては、この動画の中に出てきます(「Love Poem」「Another One」「Poem」「Glow」「The Run」「Pumpkin」「The Line」)。

(注7)ウィリアム・ウィリアムズの詩については、この記事が参考になると思います(そこでは、「沢崎順之介訳『パターソン』[思潮社]、p.79-111」が引用されています)。

(注8)その少女にパターソンは、「エミリー・ディキンソンが好きなバスの運転手さん」と言われます。

(注8)永瀬正敏が演じる「日本人の詩人」は、「ウィリアム・C・ウィリアムズが暮らした街が見たかったのでパーソンズ市にやってきた」とか「アレン・ギンズバーグもこの街の出身」などと言います。そして、パターソンにノートを贈り、パターソンはそこに詩「The Line」(「古い歌がある 祖父がよく歌っていた 君は魚になりたいか? その歌はそれを繰り返す 僕の頭に響くのは魚の歌 ただその1行だ それ以外の歌詞は必要ないかのように」)を書き留めます。

(注10)とはいえ、他の映画とは雰囲気の異なる点を、単に「ジム・ジャームッシュらしい」と言っているに過ぎませんが。

(注11)本文の(2)で触れた江田孝臣氏のエッセイでは、「パターソン市は失業率が高く、治安はマンハッタンなどに比べて格段に悪いので、注意が必要である」と述べられています。



★★★★☆☆



象のロケット:パターソン

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幼な子われらに生まれ

2017年09月19日 | 邦画(17年)
 『幼な子われらに生まれ』をテアトル新宿で見ました。

(1)浅野忠信の主演作ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、遊園地の入口。
 親子連れが何組も見受けられ、子どもたちが「パパ、早く」などと言って走ったりしています。
 浅野忠信)は、しゃがんで靴の紐を結び直して後ろを振り向くと、沙織(注2:鎌田らい樹)が「パパーッ」と言いながら歩いてきます。
 信は「お早う」「また大きくなったな」と応じると、沙織は「157cm」と答えます。
 さらに沙織が「パパ、元気だった?」と訊くと、信は「元気だよ」と答えます。
 2人は遊園地に入って、メリーゴランドやゴーカートに乗ります。

 遊園地内の池の前にあるテーブル席に2人は座ります。
 沙織が「パパと会うと、いつもお昼はホットドッグ」と文句を言うと、信は「その方が夕ご飯に期待が高まるでしょ」と応じます。
 笑顔で沙織を見ながら、信が「本当に大きくなったね」と言うと、沙織は「だって小6だから」と答え、更に信が「あっと言う間だった」と言うと、沙織は「薫ちゃんもそうでしょ?」と尋ねます。それに対し信は、「毎日会っていると、そういう気がしない」と答えます。

 次いで、観覧車のキャビンの中。
 信が「沙織、弟か妹ができたらどうする?」「もしもできたら反対する?」と尋ねると、沙織は「反対しない」「あたしが余りになっちゃうんだ。でも、お父さんは私を余りになんかしない」と答えます。

 次の場面で信は、途中でケーキを買ってから、通勤電車に乗って、随分と高いところにあるマンションの自宅に戻ります(注3)。
 信が鍵でドアを開け、ポストから新聞を取り出すと、恵理子新井美羽)が「パパ、お帰り」と出てきて、「早く来て」と信の手を引いて、子供部屋に連れていきます。
 そして、「上手でしょ?」と言いながら、一枚の絵を見せます。そこには「おとうと」「いもうと」と書いてあり、2人の子供が描かれています。
 信が、出てきた奈苗(注4:田中麗奈)に「言っちゃったの?」と尋ねると、奈苗は「言わない方が良かった?」と聞き返します。
 恵理子は「どっちかな、赤ちゃん。男の子かな、女の子かな」とはしゃぎ、「えり、こっちが良い」と男の子の絵の方を指します。
 信は「弟が良いの」と応じ、さらに「下駄箱の上にケーキがあるよ」と言います。

 テーブルでは、奈苗と恵理子がケーキを食べています。
 信は、「南沙良)、まだ食べないのか?」と子供部屋の方に向かって叫びます。
 奈苗は「ショックだったみたい」、「やっぱり、言わなかった方が良かったみたい」と言います。
 信はさらに、「薫、ビール飲まないかい?乾杯しよう」と言いますが、奈苗は「何に乾杯するの?」と訝しがり、薫からの返事はありません。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これからどのような物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、バツイチの主人公が、2人の子供を持つ女性と再婚して、新たに子供が生まれる事態になった時、離婚した妻に引き取られた子供をも含めて、子どもたちと主人公の関係がどうなるかを描いています。それを通じて、主人公と現在の妻や元妻、現在の妻の元夫といった人たちとの関係が少しずつ変化する様も描き出され、ホームドラマではありながらも、現代社会の一端をうまく捉えている感じがして、興味深いなと思いました。

(2)本作の脚本を荒井晴彦氏が書いたということを知り(注5)、「荒井氏は、こんなホームドラマそのものみたいな作品も書くんだ」と驚いてしまいました。
 と言って、クマネズミは、荒井氏の作品をそんなに知っているわけではありません。
 ただ、この拙エントリの(2)でも申し上げましたが、『さよなら歌舞伎町』とか『海を感じる時』のように性的シーンが多い作品でないとしたら、『戦争と一人の女』や『共喰い』のように体制批判的・反戦的な要素が加味された作品になるのかな、と思って映画館に出かけたものですから、「アレッ」と思ったところです(注6)。
 とは言え、本作においても、奈苗の前の夫で、薫や恵理子の父親である沢田宮藤官九郎)の職業が、自衛隊の給食を担当する調理師であり、信は、横田基地のゲート前で沢田と会ったりするのです(注7)。
 でも、そのシーンはごく短く、そのことが本作において何らかの意味を持っているようには思えません。

 本作で専ら描かれるのは、再婚相手の奈苗に子供が生まれることがわかった時に、主人公の信及びその関係者がどのように振る舞い、そしてどのように変化するのか、ということでしょう。

 主人公の信は、奈苗に自分の子供が生まれることに、そんなに積極的ではなさそうです。
 例えば、上記(1)に書きましたように、沙織に対し、「今度、子供が生まれるんだけど」と断定的に言わないで、「もし子供ができたら、反対する?」などとかなり曖昧な言い方をしていますし、奈苗が、薫や恵理子に妊娠を喋ってしまったことについて、「言わない方が良かった?」と尋ねたのに対し、「だって、まだ、…」と逃げるような返事をします(注8)。

 これに対し、奈苗の方は、信との絆がしっかりすると考えたのでしょう、産むことにずっと前向きです。上記(1)に書いたシーンの直後のシーンで、奈苗は信に対し「産んでもいいのよね」と念押しをします(注9)。

 さらに、幼い恵理子は手放しの喜びようですが、小6の薫は、丁度初潮を迎えたこともあり(注10)、信に対し酷く反抗的になります。例えば、薫は信に、「あたし、この家、嫌だ」「(実の)パパと会いたい」「関係ない人と一緒にいたくない」などと言います(注11)。



 また、信の前の妻・友佳寺島しのぶ)に、信が奈苗の妊娠を告げると、友佳は「沢山、後悔することがあった」「赤ちゃん、堕ろさなきゃよかった」「沙織、産まなきゃよかった」などと言います。

 これらのことを背景に一つの山場が描き出されます。
 沙織の継父・江崎の臨終のシーンです(注12)。
 入院先の病院に沙織を乗せた車が着き(注13)、沙織が病院の中に入っていくと、信は、同乗していた奈苗に「一緒に行ってあげなさいよ」と言われて、沙織を追いかけます。
 それで追いついた信に、「お見舞いに行っても、泣けない」と言っていた沙織は、「あたし泣ける」「あたしのお父さんに会って」と言い、信も病室に入ります。



 江崎の手にすがって泣いている沙織の様子を見て、信は江崎に対して、「沙織を育ててくれて有難うございます」「大好きでいてくれて有難うございます」と言うのです。

 もしかしたら、信は、沙織と江崎との関係を目の当たりに見て、それまでの自分の薫や恵理子に対する接し方が甘かったのではないか、自分としては随分と頑張ってきたものの(注14)、やっぱり血の繋がらない子供として見てしまっていたのではないか、などと気がついたのではないでしょうか?
 それで、薫や恵理子に接する時に無意識的に装っていた鎧が、信から消え去ったのかもしれません。
 そして、そうだからこそ、約束を破って家にいた薫(注15)に信が相対した時、薫は信を受け入れたのではないか、と思います。

 とにかく、本作全般に渡って、信を演じる浅野忠信の演技が素晴らしいなと思いました。
 職場では、配送センターのようなところでロボット同然の仕事をして、上司から成績を上げてもらわないと困ると言われ、家に戻ると、女3人が待ち構えていてやいのやいの言う、という息も継げないような生活をしているサラリーマンを演じているのですが、その生活ぶりがとてもリアルに見る者に迫ってきます。

(3)渡まち子氏は、「観ている間はずっと息苦しいのだが、悩んだり失敗したり、傷ついたり傷つけられたりしながら、懸命に家族になろうとする不器用な人々の姿には、感動すら覚える」として、65点を付けています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「原作は21年前に書かれた重松清の小説。社会の空気も夫婦の力関係も微妙に変わったが、脚本の荒井晴彦、監督の三島有紀子はそんな変化を取り込み、現代の物語に仕上げた。女の寸鉄は三島の手柄。そこから波立つ男の感情を繊細に表現する浅野の演技力に驚いた」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 金原由佳氏は、「(三島有紀子監督は、)主人公、田中信が直面する「中年期の憂鬱」に伴う苦みを真正面から観客に提示する。それは、脚本家、荒井晴彦がまぶす毒に加え、浅野忠信による暴発寸前の、耐える夫像、父親像の表現力が大きい」などと述べています。



(注1)監督は三島有紀子
 脚本は、『この国の空』の荒井晴彦
 原作は、重松清著『幼な子われらに生まれ』(1996年作、幻冬舎文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、浅野忠信は『沈黙-サイレンス-』、田中麗奈は『葛城事件』、宮藤官九郎寺島しのぶは『ぼくのおじさん』、水澤紳吾は『怒り』、池田成志は『ちょっと今から仕事やめてくる』で、それぞれ見ました。

(注2)沙織は、信と、別れた妻・友佳との間にできた子供(小6の薫と同い年なのでしょう)。信は、年に4回、会うことになっています。

(注3)本作で映し出されるマンションは、このブログ記事によれば、「グランドメゾン西宮名塩」のようです。ただ、本作全体は、東京を舞台にしていると思います。
 なお、信が通勤で乗り降りする駅については、下記の「まっつぁんこ」さんのコメントと、それに対するクマネズミのコメントをご覧ください。

(注4)奈苗は、信の再婚相手で、結婚する時、奈苗は薫と恵理子の2人の子供を連れていました。

(注5)雑誌『映画芸術』2017年夏季号(第460号)に掲載の原作者・重松清氏と脚本家・荒井晴彦氏の対談において、荒井氏は「(原作が出版された翌年の)98年に初稿を書いた」と述べています。
 なお、つづけて荒井氏は、「あの時は松岡錠司とやろうとした」「主人公は役所広司」「半家庭主義者の父親は柄本明で考えていた」と述べています。

(注6)尤も、本文で触れた拙エントリの(2)でも書きましたように、『この国の空』では、かなりこうした傾向は後退しているように思いました
 また、『大鹿村騒動記』では、ここで挙げた2つの傾向は全く見当たりません。あるいは、阪本順治監督が脚本作りに加わっているためでしょうか?

(注7)原作小説では、沢田の職業は建設会社の社員のようですが、荒井氏が脚本を書く際に、自衛隊関係者に改めています。
 さらに、横田基地は米軍基地ではないのかと思っている信に対して、沢田は、米軍再編に際して、府中基地から航空自衛隊が移転してきていること(2012年)を説明します。
また、空には、輸送機が飛んでいます。

(注8)奈苗が「おしっこに蛋白が出た。妊娠高血圧症になる恐れがあるって医者が言っていた。どうすれば良い?」と尋ねた時、信は、「俺に聞かれてもわかんない。堕ろすしかない」、「子供堕ろして別れようよ」とまで言います。

(注9)奈苗の念押しに対し、信は「うん」と頷くばかりです。

(注10)恵理子が信に、「お姉ちゃん、お腹が痛いって、病気なの?」と訊くと、信が「病気じゃなくてもお腹が痛くなることがあるよ」と答えるシーンがあります。

(注11)信は、薫の父親の沢田にお金を支払ってまで、薫と会わせようと段取りを付けます(あるデパートの屋上で沢田が薫と会う日時を取り決めます)。



(注12)友佳の今の夫・江崎は大学教授。ただ、まだ40代にもかかわらず末期がんとのこと。

(注13)沙織が信と会っている時に、友佳から沙織に江崎の危篤の知らせが入り、ただ、雷雨のために電車が止まってしまったために、信が奈苗に連絡を取り、車で迎えに来てもらい、その車で病院に向かいます。

(注14)信は、一家団欒用に帰宅途中でケーキを買ってきたり、薫が「(実の)パパに会いたい」と言えば、沢田と会うよう段取りをつけたり、薫が部屋に鍵をつけてと要求すれば鍵を取り付けたりするなど、精一杯頑張っているのですが。

(注15)上記「注11」で述べたような経緯があったにもかかわらず、薫は、決められた場所に当日姿を見せませんでした(そのことは、信がその日時にデパートの屋上に行ってみてわかります)。
 薫は、一緒に暮らしていた当時、沢田からDVを受けていますから、実際は会いたくなかったのでしょう。ただ、信が沙織と定期的に会っていることや、信に対する反発心から、「自分も(実の)パパに会いたい」と言ったのでしょう。



★★★★☆☆



象のロケット:幼な子われらに生まれ

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ワンダーウーマン

2017年09月16日 | 洋画(17年)
 『ワンダーウーマン』を、渋谷シネパレスで見ました。

(1)評判が良さそうなので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、本作の主人公のダイアナガル・ガドット)のモノローグ。
 「世界を救おうとしたあの頃、世界は美しかった」「しかし、私は何も知らなかった」「より近づいてみると、その中では闇が渦巻いていた」「今の私は、昔の私ではない」。
 そして画面は、地球全体の画像からだんだん地球に接近し、さらにパリが映し出され、遂にはルーヴル美術館の上空にたどり着きます。

 ダイアナが、同美術館の中庭にあるルーヴル・ピラミッドのそばを歩き、美術館の中に入っていきます。
 他方、ウェイン・エンタープライズ(注2)のマークのあるバンも美術館の中庭に停まっていて、警備員が車を降り、後部のドアを開けて、中からアタッシュケースを取り出します。

 警備員の届けたアタッシュケースが、職員の手を経て、執務室にいるダイアナに手渡されます。
 その中には、古い写真と、「原版を手に入れた。いつの日か、あなたの物語を聞かせてくれ」との手紙(注3)が入っています。
 写真には、昔のダイアナ自身と4人の男が写っています(注4)。
 そして、ダイアナが自分の画像に見入っていると、幼い頃のダイアナに映像が移行します。

 舞台は、アマゾン族が暮らすパラダイスの島・セミッシラ。
 画面では、幼いころのダイアナが市場のようなところを走り抜けます。
 周りの女たちから、「こんにちは、ダイアナ様」と声をかけられます。
 彼女はドンドン走って、女戦士たちが戦いの訓練をしている場所を見下ろす岩場にたどり着きます。
 ダイアナが、戦士たちの動作を真似て手足を動かしているのを、戦士の訓練を指導・監督するアンティオペ将軍(ロビン・ライト)が見咎めます。

 ダイアナは、彼女を追ってきた家臣らから逃げるため城壁の下に飛び降りようとしますが、その手を母親のヒッポリタ女王(コニー・ニールセン)に握られ、捕まえられて宮殿に連れていかれます。
 途中で、一行はアンティオペに出会います。
 アンティオペが、「私が鍛えます。万一の侵略の際に、自分自身の身を守る術を」と言うと、姉でもあるヒッポリタは、「まだ子供よ。それも、この島でただ一人の子供」「訓練はダメ」と答えます。

 それでも、ダイアナに対するアンティオペの訓練は継続されますが、さあこの後、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、DCコミックスのスーパーヒーローの物語を実写化したもの。女性だけのアマゾン族が平和に暮らしていた島に小型飛行機が墜落し、それに乗っていたパイロットとともに、アマゾン族のプリンセスが第1次世界大戦末期の人間界に行って、云々というお話。主人公は、驚異の身体能力と、投げ縄や剣・盾などを縱橫に使いながら、近代兵器で装備されたドイツ軍、ひいては軍神アレスに立ち向かうという、まずまず面白い着想の物語です。主演の美女は、30歳過ぎながら、こうした分野で今後どんどん活躍していくことでしょう。

(2)予告編をいい加減に見ていたがために、クマネズミは、本作ではてっきりギリシア神話の世界が描かれるとばかり思い込んでいたところ、アマゾン族が暮らす島・セミッシラの近海に小型飛行機が墜落して、それに乗っていたスティーブクリス・パイン)がダイアナによって助け出され、その後、スティーブの案内でダイアナが第1次世界大戦中のイギリスに行く、という物語の展開には目を見張りました。



 まあ、神話の世界に話が限定されてしまったら、今時そうした映画を制作する意味についてあれこれ議論せざるをえず、大層面倒くさくなりますから、本作のように、いきなり現代社会、それも戦争のさなかのヨーロッパにダイアナを放り込んでしまうのは、確かにうまいやり方でしょう。
 ただ、第1次大戦というと、今の日本人にとっては、第2次大戦に比べて、持っている知識が相当に貧弱であり、かなり間遠な感じがしてしまうのではないでしょうか?なにしろ、戦場の大部分がヨーロッパなのですから(注5)。
 例えば、ルーデンドルフ総監(ダニー・ヒューストン)が登場しますが、エーリヒ・ルーデンドルフという大将(注6)が第1次大戦の時にドイツ軍に実在していて、本作のルーデンドルフ総監の行動もある程度実在の人物を踏まえていることなど(注7)、戦史に通じていないとなかなかリアルに把握し難いのではないでしょうか(注8)?

 このルーデンドルフ総監が、まずはダイアナと対峙します。
 総監は、マル博士(エレナ・アナヤ)が作った毒ガスを吸って強力なパワーを身につけていて、ダイアナが倒そうとした軍神アレス(注9)そのものに見えます。
 ところが、ダイアナがゴッドキラー(注10)でルーデンドルフを倒しても、戦争は終わらないのです(注11)。
 戦争の張本人の軍神アレスは別にいるようです。
 そして、軍神アレスが成り代わっている人物が登場すると、ダイアナは、その人物に戦いを挑みます(注12)。
 ただ、どうしてルーデンドルフ総監を軍神アレスの成り代わりとせずに、わざわざ別の人物を登場させるのか、あまりよくわからない感じがしました(注13)。

 他にも、本作にはチョットわからないところがあります(注14)。
 例えば、スティーブは、パラレルワールドからダイアナたちの島にやってきたようにも思えますが(下記のKGRさんのコメントをご覧ください)、どういう方法によっているのかについては、本作の中で何も説明されていません。
 スティーブがダイアナを連れて元の世界に戻る場面をも見ると、そのやり方について、スティーブが何らかの知識を持っているようにも思えてきます(注15)。
 ただ、仮にそうだとしたら、どうしてダイアナの母親のヒッポリタがダイアナに、「人間の世界に行ったら、2度とこの島には戻れない」などと言うのでしょう?その方法をスティーブから聞き出せば、ダイアナは再度セミッシラに戻ることが出来るのではないでしょうか?
 また、スティーブは、毒ガス弾を大量に積んだ爆撃機を、なぜ別の宇宙に放り込んでしまわなかったのでしょう(注16)?

 でも、本作にとり、それらのことはどうでもいいでしょう。
 何しろ本作において、ダイアナというスーパーヒーローが華々しく登場し、彼女に神をも打ち倒す力があることが上手く描き出されさえすれば、観客は、次回作を待ち望むことになるでしょうから。そして、それらの点については、本作はまずまずのレベルに達しているように思われました。
 それに、本作の主演のガル・ガドットですが、ミス・イスラエルでもあったことから、その美貌は折り紙つきであり、さらに、12年間ダンサーをしていたそうで(注17)、戦闘シーンにおける体のキレも抜群。これからの活躍が期待されます。



(3)渡まち子氏は、「最強美女戦士の深い慈愛という通奏低音が、本作を崇高なヒーローアクション映画に引き上げている」として85点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「女性のダイアナが凛々しく戦えば、スティーブは自己犠牲で理想の男性の存在を証明する。これが本物のフェミニズム映画だ!」として★3つ(「見逃せない」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「悪を倒せば世界が平和になると考えるワンダーウーマンは、戦争を否定しながら正義の戦争を進めるアメリカの二面性を象徴しています。よくできた映画だけに、考えこんでしまいました」と述べています。



(注1)監督はパティ・ジェンキンス
 脚本はアラン・ハインバーグ

 なお、出演者の内、最近では、クリス・パインは『イントゥ・ザ・ウッズ』、ロビン・ライトは『誰よりも狙われた男』、ダニー・ヒューストンは『ビッグ・アイズ』で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、この記事が参考になるでしょう。

(注3)ウェイン・エンタープラオズのマークの入った用紙に手書きで書かれているので、「私」とは会長のブルース・ウェインなのでしょう。

(注4)この写真は、本作のラストでもう一度映し出され、ダイアナはウェイン会長に返事を書きます。

(注5)と言っても、Wikipediaのこの記事によれば、兵士の戦死者だけでも900万人以上も出ている大変な戦争でした。
 日本も参戦していて、中国山東省青島とか南洋諸島を攻略しています。

(注6)Wikipediaのこの記事を参照してください。

(注7)実在のルーデンドルフは、上記「注6」で触れた記事によれば、一時は休戦に傾いていたものの、ウィルソン米国大統領の要求内容が厳しいことがわかると、「徹底抗戦を主張して休戦反対派に転じた」とのこと。これは、本作のルーデンドルフ総監が、休戦派の者らを殺害してしまう姿に通じるものがあります。

(注8)勿論、そんな知識がなくとも、本作を楽しく見ることができます。

(注9)ゼウスの息子とされ(ダイアナも、母親ヒッポリタがゼウスに願い出て授かった娘ですから、2人は兄妹の関係にあるとも言えるでしょう)、父ゼウスとの対立から、人間界に戦争をもたらしています(なお、この記事も参考になります)。

(注10)神をも倒すことの出来る最強の剣だと言われています。ただ、これには秘密があるようです。

(注11)ダイアナがスティーブに、「ルーデンドルフを殺した。でも戦争は続いている」、「軍神アレスが死んだはずなのに」と言うと、スティーブは「皆が善人じゃないんだ。それが人間なんだ」と答えます。すると、ダイアナは、「こんな世界はありえない。わけも分からずに殺し合うなんて」、「こんな世界は、私の母が言ったように、救済するに値しない」と言います。それに対して、スティーブが「皆の責任なんだ。僕にも責任がある」「この戦争を終わらせたい。力を貸してくれ」と要請すると、ダイアナは首を振るばかりです。

(注12)ダイアナは、上記「注11」に書きましたように、これ以上戦争に関わりたくないと思ったものの、スティーブが自身を犠牲にすることを厭わずに戦争の阻止に向かって突き進んだことを知ると、軍神アレスに闘いを挑むのです。

(注13)ラストの方で、軍神アレスは「人間は、滅亡するのが望ましい」、「私は、人間の本性を知っている」、「人間は最強の悪を生み出す」「人間の生み出したものをすべて破壊すれば、元の楽園に戻る」「人間には守る価値などないぞ」などとダイアナに言いますが、そんな大言壮語は、ルーデンドルフとは別の人物にわざわざ言わせずとも、酷く不合理な戦争の様子が本作では描かれているのですから、こうした場面はなくもがなではないかと思ってしまいました。
 尤も、軍人アレスが成り代わっている人物がスティーブだ、などということにでもなれは、俄然話は面白くなるのでしょうが!

(注14)他にも、本作では、ダイアナが、最後に軍神アレスを倒したことによって、世界に平和が訪れたように描かれているところ、実際の歴史においては、その後すぐにヒトラーなどが世界に台頭し、第2次大戦がもたらされました。
 となると、アレスのような軍神が他にいく柱も存在していることになるのかもしれませんし、あるいは戦争は、軍神の手によってではなく、スティーブが言うように、人間の手によって引き起こされることになるのかもしれません〔上記「注11」を参照してください。そこでスティーブが言いたいのは、戦争は軍神が引き起こすのではなく、人間自身が引き起こすのだ、ということでしょう〕。
 そうだとしたら、ダイアナが軍神アレスを倒したことにどんな意味があったのでしょう?

(注15)スティーブが、自分の世界にダイアナと一緒に戻る時は船を使いますが、ダイアナは何もせずにいて、彼女が目を覚ますと、乗っていた船はテムズ川を遡ってロンドンに到着する間際でした。これを見ると、2つの世界を移行する方法を知っているのはスティーブのように思えます。
 なお、最初の方でスティーブを追跡してきたドイツ軍も、船に乗って出現しましたから(彼らは、いったいどういう方法を使ってセミッシラに現れたのでしょう?)、あるいは、海を介して、スティーブの世界とダイアナの世界とがつながっているのかもしれません(ただ、スティーブの乗った飛行機が空から墜落してきましたから、2つの世界は、巨大な壁によって海から空まで仕切られているのかもしれません)。

(注16)あるいは、そんな爆撃機を放り込まれた世界の方で被害者が出てしまうことをスティーブは恐れたのでしょうか?でも、スティーブがダイアナの世界に現れた時のように、この爆撃機を別の世界の海に墜落させれば、何の問題もないと思われますが。

(注17)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事より。



★★★☆☆☆



象のロケット:ワンダーウーマン

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エル(ELLE)

2017年09月12日 | 洋画(17年)
 『エル ELLE』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)主演のイザベル・ユペールがこの作品で様々な賞を受けているとのことなので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭の舞台は、パリ郊外の高級住宅地。
 主人公のミシェルイザベル・ユペール)が、黒猫を家の中に入れようと庭に出るドアを開けたところ、突然黒いマスクをした男が侵入してきてレイプされてしまいます(注2)。
 その様子を黒猫が見ています。
 ミシェルは倒れたままながら、男は起き上がってズボンを上げて、外に出ていきます。
 ミシェルはゆっくりと起き上がりしばらく呆然としていますが、気を取り直すと、床に散らばっている壊れた食器をホウキとちりとりでかき集め、ゴミ箱に捨てます。



 さらに、着ているものを脱ぎ捨て、これもゴミ箱に捨てます。
 そして、バスタブに浸かった後、ベッドに座りながら携帯でスシ(注3)を注文します。

 そこに、息子のヴァンサンジョナ・ブロケ)が、「ご免、遅れた。残業だった」と言いながら家の中に入ってきます。
 ヴァンサンは、ミシェルの顔の傷を見て、「その傷は?」と尋ねますが、ミシェルは「自転車で転んだの」と答えます。それに対して、ヴァンサンが「自転車は汚れていないけど」と言うと、ミシェルは「どんな仕事なの?」と話をそらします。
 ヴァンサンは、「まだ応募しただけ(注4)。でも、昇進が望めるんだ」と答え、「プレゼントがある」と言いながら、彼女との2人の写真が入った写真立てをサイドボードの上に置き、「ジョジーアリス・イザーズ)は妊娠している」と付け加えます。
 ヴァンサンは、「子供が生まれたら、新しい写真を持ってくるよ」と言うのですが、ミシェルは取り合わずに、「家賃はどうなの?」と尋ねます。
 ヴァンサンが「援助なんて要らない」と答えると、ミシェルは「訊いただけよ」、「彼女は常識はずれ」「不潔な地域で育った人」と言います。
 ヴァンサンが「アーチストが多いところだ」と言うと、ミシェルは「3ヶ月分の家賃を支払うから、アパートを見せて」と応じます。

 次の場面では、ミシェルは引き出しから金槌を取り出し、ガラス窓から外を見ます。
 部屋の明かりを消し、ベッドで横になりながらTVを見ます。
 TVはつけっぱなしのまま、手に金槌を握りしめて寝てしまいます。

 さらに、ミシェルの会社の場面。
 ミシェルらは、怪物が女を襲うシーンのあるゲームをディスプレイで見ています。
 ミシェルが「オーガズムが弱すぎる。セックスを怖がっているみたい」と言うと、カートリュカ・プリゾール)が、「問題は他にある。リアリズムを求めても意味がない」「コントローラーに問題がある」「あなたが文芸部の出身だから、プレーヤーのことを考えていないんだ」と反発します。
 これに対し、ミシェルは、「多分、私とアンナアンヌ・コンシニ)は別の分野で会社を起こしたほうが良かったのでしょう」、「でもこの会社の社長は私」「とにかく、半年、遅れている」「ヤツの内蔵をえぐるのなら、血が流れていないと」と答えます。
 そして、皆に「良いわね」と言って仕事を続けさせます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、物語はここからどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、小説を実写映画化したエロティックサスペンスで、主人公の女性の家に、ある日突然覆面の男が侵入し、彼女をレイプして立ち去ってしまうところから物語が始まります。主人公は犯人を突き止めようとしますが、思いがけないことが次々と起こりますから、130分の長尺ながら、最後まで見るものを飽きさせません。それに何より、主人公を演じるイザベル・ユペールが、とても64歳とは思えないみずみずしい演技を披露していることも、本作の面白さを倍加させていると思います。

(2)本作では、主人公のミシェルには、実に様々なファクターが盛り込まれています。
 まず、父親が39年前に大量殺人を犯して、終身刑で服役中(注5)。
 母親・イレーヌジュディット・マーグル)は、若い恋人と再婚しようとしています。
 自身は、夫・リシャールシャルル・ベルリング)と別れて、一人で広い大きな家で暮らしています(注6)。
 息子のヴァンサンがいますが、どうもしっかりとせず、妊娠している恋人のジョジーと暮らそうとしますが、ミシェルはジョジーを酷く嫌っています。
 また、親友のアンナとビデオゲーム会社を設立しているところ、ワンマン経営者振りを発揮して社員との関係がうまくいっていない感じです(注7)。
 その上、アンナの夫のロベールクリスチャン・ベルケル)と肉体関係を持っています。

 こんなミシェルが、上記(1)に書きましたように、自宅で何者かにレイプされてしまいます。
 ミシェルは、その件を警察に通報せずに(注8)、自分で探し出そうとしますが、自分の会社の社員とか隣人のパトリックロラン・ラフィット)まで含めると、怪しい人間は随分いそうです(注9)。

 それだけでなく、被害者であるミシェル自身が、どうも常識から逸脱している感じがします。
 例えば、元夫・リシャール、アンナ、その夫のロベールと一緒に食事をした際に、いともあっさりと「実は、襲われたの。自宅でレイプされた」と喋ってしまうのです(注10)。
 また、上で見たように、親友の夫・ロベールと肉体関係を持っていながら、このところは彼を避けるようになってきていて(注11)、むしろ前の家に住むパトリックの方に色目を使い出しています(注12)。
 なにより、自分をレイプした男に再度襲われた時に、犯人の顔を見てしまうのですが、ミシェルは取り立てて何もしないのです。

 こんなに様々のことが一人の人物の中に盛り込まれているのですから、普通だったら、酷くグロテスクでまとまりのつかないことになってしまうでしょう。
 ですが、主役をイザベル・ユペールが演じていることによって、ミシェルは、むしろとてもユニークで興味深い人物として浮かび上がってきます。



 イザベル・ユペールについては、最近作の『未来よ こんにちは』で見たばかりながら、同作でも、本作と同じような雰囲気を醸し出していたように思います(注13)。
 同作で、ユペールは哲学の高校教師・ナタリーを演じているところ、思索的というよりもむしろ行動的であり、いつもせかせかと動き回ります。
 夫から、「愛人ができたので家を出ていく」と言われても、ナタリーは、それで思い悩むというわけではなく、「馬鹿みたい」と言って態度を切り替えてしまいます。
 本作のミシェルも、レイプされた後、そのことにつきクヨクヨするわけでもなく、すぐに元の姿勢を取り戻して、息子と会ったり、翌日は会社に出社したりします(注14)。
 普通だったら大きくブレーキがかかるような出来事に遭遇した場合、『未来よ こんにちは』のナタリーにしても、本作のミシェルにしても、何事もなかったようにそれを素通りさせてしまう感じなのです。
 これは、主に、2人の登場人物に扮するユペールの顔の独特の表情から、そう感じるのかもしれません。そして、彼女の確かな演技力が(注15)、そうしたものを背後から支えていることも確かでしょう。

 次の出演作の『ハッピー・エンド』(注16)がとても楽しみとなりました。

(3)渡まち子氏は、「本作のヒロインに感情移入するのは難しいが、イザベル・ユペールの非凡な才能なしには成立しない逸品なのは確かだ。年齢を重ねるごとに魅力が増すフランスの大女優に脱帽である」として70点を付けています。
 中条省平氏は、「絡みあった挿話にはそれなりに必然的な結末が示されるが、最終的に物語を牽引(けんいん)するのは、ミシェルという人物の不可思議な精神の屈折なのだ。そこを面白いと感じるかどうかは観客の判断に委ねられるだろう」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 秦早穂子氏は、「進んで挑戦するユペールは特異な彼女(エル)の性癖を表現するだけでなく、監督の思惑を遥かに超え、普遍の女の本性まで抉り出す。抑制された演技、知的で新しい」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「既存の価値観に斜めに切り込むような場面が次々と続き、その度に見る側は幻惑されていく。「どう生きるかは人に任せず自分で考えろ」と、老監督にハンマーで頭をたたきつけられるような衝撃作である」と述べています。



(注1)監督はポール・ヴァーホーヴェン
 脚本はデヴィッド・バーク。
 原作は、フィリップ・ディジャン『エル ELLE』(ハヤカワ文庫:なお、同文庫版では、作者名はフィリップ・ジャン←Philippe Djianの『Oh... 』)。
 原題は「ELLE」。

(注2)ミシェルは、アンナたちと食事をした際に、「木曜日の午後3時だった」と話します。

(注3)ミシェルは、ハマチとかホリデー巻き(例えば、こういったものでしょう)を注文します。
 なお、この記事の中では「スシ宅配専門店」が触れられています。また、この記事も参考になります。

(注4)どうやら、ヴァンサンは、ファーストフードの店員に応募したようです。

(注5)父親・ルブランの大量殺人事件が39年前とされ(ルブランから出された保釈申請の審理に関するTVニュースの中で、39年前の1976年12月に起きた事件のことが言及されます)、ミシェルがその当時10歳であったともされていますから、本作の現在時点でミシェルは49歳なのでしょう。

(注6)リシャールは、ジムで体操のインストラクターをしている若いエレーヌヴィマラ・ポンス)と関係があるようです。

(注7)ミシェルはアンナに、「カートだけでなく、他の社員も私を嫌っている」と言います。

(注8)39年前の父親の事件に際して警察がとった態度から、ミシェルは警察に対して不信感を募らせているのでしょう。

(注9)ミシェルは、母親・イレーヌが「再婚したらどうする?」と訊いた際に、「殺す」と答えていましたから、イレーヌがつきあっている若い男もミッシェルに良い感情を持っていなかったでしょう。

(注10)ですが、ミシェルは、他の3人の反応を見て、すぐに「言わなきゃよかった」と呟き、「いつ?」の質問には答えたものの(上記「注2」)、その後の「警察は?」などの質問には一切答えず、「この話はおしまい。注文しましょう」と話をそらししてしまいます。

(注11)ミシェルは、関係を迫ってくるロベールに、何度か「友達関係でいましょう」と言います。

(注12)ミシェルは、自分の家に、前の夫・リシャールとその彼女のイレーヌや、息子のヴァンサンとジョジーをディーナーに呼んだ際、前の家のパトリックとその妻のレベッカヴィルジニー・エフィラ)をも招待するのですが、食事の最中、テーブルの下で、ミシェルはパトリックの足に自分の足を絡ませたりするのです。

(注13)イザベル・ユペールは、『未来よ こんにちは』では、実年齢(64歳)より5、6歳若い50代後半の高校教師の役を演じていましたが、本作のミシェルは49歳ですから、実年齢よりも15歳位若い役を演じていることになります(尤も、本作撮影時点は、今よりも1、2年ほど前でしょうが)。

(注14)ユペールは、このインタビュー記事の中で、「ミシェルは、思い切った行動に出る女性で、つかみどころのない、複雑な人物です」と述べています。

(注15)ユペールでは、このインタビュー記事で、「脚本は作品の情報を俳優に知らせる材料ですが、撮っていると、脚本にない、誰も知らない何かが降ってくることがあります。偶然の光、音、リズムなどがイメージになり、ミラクルを作る。だから演者は、すでに知っていることを演じるより、やがてミラクルが起こると信じ、それを待つのが仕事なんです。すべて波まかせに進む船に乗り込むかのようです」と述べています。
 また、このインタビュー記事でも、「画家の(ピエール・)スーラージュが『探すことで、自分が探しているものが見つかる』と言っていますが、演じているうちに、意識せずとも役がおりてくる。映画がその人物像について教えてくれます」と述べています。
 本作においても、ミシェルを演じるユペールには、必ずや“何か降りてくる”ものがあったことでしょう。

(注16)関連情報はこちらで。



★★★★☆☆



象のロケット:エル ELLE

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関ヶ原

2017年09月08日 | 邦画(17年)
 『関ヶ原』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編を見て良さそうと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、1600年の戦いの前日の関ヶ原。
 ススキの生い茂る野原を、西軍の石田三成岡田准一)や島左近平岳大)らの少人数の武将が馬で進んで、周りの状況を調べています。
 また、彼らとは別の方角に歩く少人数の侍たち(東軍でしょう)もいます。
 三成は、土に埋もれている地蔵を掘り出して据え直し、それに祈りを捧げます(注2)。

 次いで、木場勝己によるナレーションが入ります。
 「いま、憶いだしている。筆者は少年の頃、近江国のその寺に行った記憶がある」云々(注3)。
 そして、画面では、日傘と扇子を手にした老人(注4:鴨川てんし)が登場して、「ここに太閤さんが座っていた」と付いてきた子供(林卓)に説明すると、その子供が「それって何年前のこと?」と尋ねるものですから、老人は「350年前」と答えます(注5)。
 またナレーションです。
 「少年のころの情景が、昼寝の夢のように浮かび上がった」、「ヘンリー・ミラーは「思いついたところから書き出すとよい」といったそうだ」、「そういうぐあいに話をすすめよう」。

 そして、「1522年」(注6)。
 このあたりに鷹狩にきていた秀吉滝藤賢一)がいきなり寺に入って、茶を所望します。
そして「三献茶」の逸話が描かれます(注7)。
 秀吉は少年の頃の三成(河城英之介)に「お前の名は?」と尋ねると、三成は「佐吉と申します」と答え、秀吉は「コヤツ、気に入った」と呟きます。

 次は「1558年」の大阪城。
 秀吉が三成に「次は伏見に城を設ける」と言うと、三成は「その次は?」と尋ねます。
 すると、秀吉は、「明国に決まっている」「すべてを臣下にしないと、戦は終わらない」と言います。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれからどんな物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、よく知られている1600年の関ヶ原の戦いを、司馬遼太郎の小説を原作にして映画化したものです。従来の常識的なイメージを改めて、石田三成をむしろ正義を重んじロマンに生きる武将として、徳川家康役所広司)を、それに対する野望に燃える狡知な武将として描き出そうとしています。ただ、沢山の人物が登場するので、予備的な知識がないと混乱する感じであり、なおかつ、セリフがよく聞き取れない箇所が多々あります。その上でのメインの関ヶ原の戦いとなるわけで、いったいこれは誰でそれがどうしたのかがはっきりしないままに、東軍の勝利となってしまう感じでした。

(2)本作は、上記(1)からもわかるように、かなり原作を意識して制作されています。
 なにしろ、原作の冒頭がナレーションで読み上げられるだけでなく、原作者の司馬遼太郎と思しき人物までも、少年としてですが登場するのです(注8)。
 そうであれば、本作全体も、かなり原作に忠実に制作されているのでは、と思いたくなってしまいます。
 ところが、本作では、例えば、上記(1)に引き続いて1595年の伏見城の場面が描かれ、関白秀次の正室や側室、侍女までもの処刑が決められ、次いで三条河原での処刑の場面となりますが、原作には対応する場面が見当たらないのです。

 とはいえ、本作は、原作の実写化とか、史実そのママを描き出すことが狙いではないのでしょうから、このようなストーリーを嵌め込んだとしても、そのこと自体何の問題もないでしょう。
 特に、本作では秀次事件を取り上げることによって、三成が家康のラフな格好を咎め立てするシーンを描き(注9)、また、初芽有村架純)を駒姫(注10)の侍女として登場させ三成と対峙させてもいます(注11)。



 原作にない場面を描き出すことによって、その後のストーリーの展開がスムースになっているように思われます。
 ですが、そうであるなら、本作が司馬遼太郎の『関ヶ原』に依拠することを、本作の始めの方のような形で前面に出す必要はないように思えました(注12)。

 としても、本作は、かなりの部分を原作に依っています。
 例えば、本作の主要登場人物である石田三成と徳川家康は、大体のところ、Wikipediaの「関ヶ原 (小説)」の「主な登場人物」の項で述べられているような人物像として描き出されています。
 すなわち、三成については、同記事において、「豊臣家に対する忠誠心は非常に強く、秀吉の死後に野心を露わにした家康を弾劾し、反家康勢力を取りまとめて総勢十万にも及ぶ大軍勢を組織し、未曾有の大戦を挑んだ。道理と信義を何よりも尊び、背腹離叛が日常の乱世において珍奇なほどの理想主義者。天下簒奪を狙う家康を「老奸」と呼んで目の仇とし、保身しか考えず家康に媚びる諸大名を憎悪する」云々と述べられています。
 そして、本作においても、三成は島左近に、「太閤様が信長様から受け継がれた義を受け継ぐ必要がある」と述べたり、小早川秀秋東出昌大)を説得するのに、「義のみが世の中を立て直す」などと言ったりします(注13)。

 ただ、原作は、文庫本で上・中・下の3冊であり、それらを合わせるとおよそ1,500ページ、とても1本の映画に収まりきれる分量ではありません。
 著名な場面がいくつも割愛されているだけでなく、描き出された場面においても、例えば、台詞の量が膨大なものとなっているばかりでなく、凄い早口で喋られる場合が多く、観客にとってはなかなか理解し難いものとなってしまっています(注14)。

 とはいえ、本作のクライマックスである関ヶ原の戦いの映像は、実際に誰が誰であり、画面に現れる武士たちがどの集団に所属するのが判然としない憾みがあるとはいえ、母衣をつけた騎乗の武士たちが駆け抜けたり、鉄砲や大砲の射撃が行われたり、長槍を持った集団が戦ったりと、なかなか迫力に満ちていました。



 また、いつもながらの生真面目さを全面に出した岡田准一の演技は、本作の三成によく適合していると思いますが(注15)、クマネズミには、役所広司が力いっぱいに演じる徳川家康の人物像に一層の興味を惹かれました。



 総じて言えば、2時間30分近くの映画の中に、実にたくさんのものが詰め込まれていて、予め原作を読んで頭のなかに入っている人なら別でしょうが、そうでもなくて漫然と本作を見たら、猫に小判といった状態になってしまうのではないか、と思いました。

(3)渡まち子氏は、「三成と初芽の秘めた恋は、ヴィジュアルは華やかになるが、正直、必要ないとも思う。登場人物があまりに多く、セリフも膨大なので、歴史によほど詳しくないと、混乱してしまうのは、致し方ないところか」として55点を付けています。
 毎日新聞の細谷美香氏は、「原田監督の「駆込み女と駆出し男」と同様、膨大な情報量とスピード感に振り落とされないよう、付いていくのがやっとという部分も。誰もが結末を知る戦いだが、錯綜する人間関係についての知識を持って鑑賞したほうが戦いのただ中に身を置く感覚を味わえるのでは」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『日本のいちばん長い日』などの原田眞人
 原作は、司馬遼太郎著『関ヶ原』(新潮文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、岡田准一は『追憶』、役所広司中嶋しゅうは『日本のいちばん長い日』、有村架純は『アイアムアヒーロー』、平岳大は『のぼうの城』、東出昌大は『クリーピー 偽りの隣人』、北村有起哉は『オーバー・フェンス』、音尾琢真は『森山中教習所』、キムラ緑子は『ぼくのおじさん』、滝藤賢一は『SCOOP!』、西岡徳馬は『神様のカルテ』、松山ケンイチは『怒り』で、それぞれ見ました。

(注2)本作では、戦いが終わった後、今度は家康がこの地藏と向かい合います。
 なお、この地蔵は、あるいは道祖神なのでしょうか?

(注3)本作では何の説明もありませんが、司馬遼太郎の『関ヶ原』の冒頭の部分。「筆者」とは司馬遼太郎のことでしょう。
 ただ、こうしたことを事前に知らずにこの部分を耳にする大部分の観客は、大いに戸惑ってしまうことでしょう(また、仮にその本を読んでいるとしても、そんな詳細を記憶している者はごく少数ではないでしょうか?)。

(注4)原作には、「老人は、洋日傘と、扇子を一本もち、糊のきいたちぢみのシャツとズボン下の上に、生帷子の道服じみたものを一枚身につけている」とありますが(文庫版P.10)、さらにカンカン帽をかぶっていることを除いて、この表現とぴったり合った服装の老人が本作に登場します(ちなみに、原作では、この老人のことは「かいわれさん」と呼ばれています)。

(注5)「350年前」というのは、クマネズミの聞き間違いかもしれません。
 ここで描かれる「三献茶」の逸話があったのは、小和田哲男氏のこの記事によれば、「時は、天正二年、秀吉39歳、三成15歳のとき。場所は近江の国(滋賀県)にある観音寺」とのこと。仮にそうだとしたら、逸話の出来事があったのは1575年で、それから「350年後」となると、1925年(大正14年)になります。他方で、「筆者」の司馬遼太郎は1923年生まれですから、ここに登場する少年よりも4、5歳ほど小さかったはずです。
 なお、この逸話に関する本作でのロケ場所は天寧寺

(注6)上記「注5」を参照してください。
 逸話の出来事については、司馬遼太郎の『関ヶ原』には「十代のはじめころであった」とされています(文庫版P.11)。従って、1522年とする方が三成の歳も12歳くらいとなりますから、より原作に合っています。ですが、そうだとしたら、司馬遼太郎がこの話を耳にする歳が0歳になってしまいます(あくまでも「350年前」とする場合ですが)。

(注7)上記「注5」で触れている記事、あるいはこの記事を参照してください。

(注8)上記「注5」や「注6」を参照してください。

(注9)家康が伏見城に参上する際に、家臣の本多正信久保酎吉)が「胴着のままではありませんか」と注意するものの、家康は「略装おかまいなし」と言って、聞き入れませんでした。
 それを、秀吉の前で行われた評定に際して、三成が「失礼ではないか」と見咎めるのですが、ただ隣の者に小声で言うばかりでした。

(注10)三成は、駒姫の助命を秀吉に嘆願しますが、秀吉は拒否します。

(注11)本作の初芽は、駒姫の侍女の設定ですが、原作の初芽は淀殿の侍女で、藤堂高虎から「淀殿にさまざまの告げ口をし、三成とのあいだを割くように」と命じられて送り込まれています(文庫版P.50)。
 〔劇場用パンフレット掲載のロバート・キャンベル氏との対談の中で、原田監督は、「映画の初芽は三条河原の処刑場から登場しますけれど、あの部分は原作にはない本作のオリジナルです」と述べています。〕
 加えて、本作では、この処刑場に島左近がやってきたのを三成が見つけ、その後を追って三成は、遂には島左近を自分の家臣とすることに成功するのです(三成は、自分の禄高の半分を与えると島左近に申し出ます)。
 原作でも、三成が島左近を家臣にする時の話が書かれていますが(文庫版P.19~P.22)、秀次事件のからみで書かれているわけではありません。

(注12)「三献茶」の逸話を描くのは構わないとしても、洋日傘と扇子を手にした老人と少年をわざわざ画面に登場させるまでの必要性は乏しいと思います。

(注13)本作の原田監督は、公式サイトの「スタッフ」に掲載されているコメントにおいて、「国家の在り方が問われるこの不確かな時代をいきぬくために、我々にはもう一度、それぞれの立場で「正義」を問い直し実践する必要があります」、「正義とは一言で言えば、人間の価値です」「今三成の血を継承することの重要性を感じています」などと述べています。
 また、劇場用パンフレット掲載のロバート・キャンベル氏との対談の中で、原田監督は、「今の政治の行方を見ていると、これだけものが言えない、また不正を疑われる閣僚がいる政権はないじゃないですか」、「三成が1万人もいれば、日本は変わるんじゃないか」などと述べています。
 さらに、映画評論家の小野寺系氏は、この記事の中で、「本作はここに、利益第一主義に奔走する現代の日本社会という問題を持ち出し、その原因を、三成の死、すなわち“正義の死”として表現することによって、現代的な視点からの思想的な意味づけを与えているのだ」と述べています。
 いずれも、司馬遼太郎の原作(あるいは、それに基づく本作)が描き出す三成像の中に、どこまでも「正義」を実現しようとする姿勢を見出し、それは現代社会の中で見られなくなってしまったものだと嘆きます。そして、三成の真反対に位置するものが家康であり、彼によって徳川幕府が築かれたことによって、現代まで続く「利害で固まった秩序」が確立してしまったのであり、現代に必要なのは、そうした「秩序」を打破する「三成の血の継承だ」というわけでしょう。

 でも、三成も家康も「天下泰平」を大きな旗印に掲げていたように思われますから、三成の「義」というのは、より具体的には、豊臣家を中心とする支配体制の確立ということであり、そのレベルで言えば、家康の「徳川家を中心とする支配体制の確立」と大差ないように思われます。
 また、家康を「利害で固まった秩序」を求めるリーダーとした場合、それに対立する三成の命題はどのようなものになるのでしょうか?あるいは、原田監督が言う「人間の価値」の尊重ということにでもなるのでしょうか?でも、三成が、小早川秀秋の慶長の役での戦いぶりに対して批判したことなどからすると、果たして彼が「人間の価値」を尊重する人物だったのかどうか、よくわからなくなってきます。むしろ、「利害」を重んずる家康の方が、もしかしたら「人間の価値」を認めているのかもしれません。

(注14)加えて、劇場用パンフレット掲載の「企画」担当の鍋島壽夫氏の談話「原田監督執念の作品『関ヶ原』の公開にあたって」に、「今回、監督は近江弁と尾張弁、さらには島津勢らが話す薩摩弁など、方言での会話にこだわっていました」とあるように、映画の中で多用される訛りのある話し方によっても、会話の中身がよく理解できないところがありました。

(注15)劇場用パンフレット掲載のロバート・キャンベル氏との対談の中で、原田監督は、「原作だとわりと早く初芽は三成のお手付きになるんです。でも僕は三成の潔癖性、正義性を際立たせる意味でも、初芽に手を付けないほうがいいと思いました」と述べているので仕方がないのですが、ただせっかく原作に、「初芽、今夜は咄の相手をせよ」と三成が初芽に言う場面が書き込まれているにもかかわらず(文庫版P.198~P.200)、そうした場面が本作に描かれていないのは大層残念なことです(いうまでもなく、仮に原田監督がこの場面を取り入れようとしたところで、岡田准一と有村架純をキャスティングした段階で、このシーンは消滅してしまったのでしょうが!)。



★★★☆☆☆



象のロケット:関ヶ原


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スパイダーマン ホームカミング

2017年09月04日 | 洋画(17年)
 『スパイダーマン ホームカミング』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)評判が良さそうなので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台はニューヨーク(注2)。
 始めの方では、エイドリアン・トゥームスマイケル・キートン)らが、破壊されたニューヨークの街(注3)で、散らばっている瓦礫の撤去や放置された様々の機械の解体などの作業を行っています。
 トゥーマスは、合間に、自分の娘が描いた絵を部下(マイケル・チェルナス)に見せて、「世界は変わったんだ」「見ろ、宇宙人だ」「昔だったらカウボーイを描くところだが」などと言うと、部下は「悪くない絵だ」「将来が楽しみだ」などと応じます。
 トゥーマスは、「それじゃあ切断できない」などと言いながら、他の部下にカッターの使い方を教えたりしています。
 そこに、ダメージ・コントロール局の職員たちがやってきて、その責任者の女性(タイン・デイリー)が、「我々が残骸処理を引き受ける」「あなたたちはここから出ていって」「集めたものはすべてここに置いていって」と言うので、トゥーマスは「こちらは市と契約を結んでいるんだ」と拒否します。
 ですが、さらに相手は「権限は全て私達の方に移っている」と言い、トゥーマスは「トラックも雇ったんだ。そんなことを言われても困る」と応じますが、「不服なら上司に言って」と取り合ってくれません。

 次いで、「8年後」の字幕。
 トゥーマスの会社。
 流れ作業の模様や、トラックに荷物を積む様子が描かれます。
 トゥーマスは、ウイングスーツを着装して飛んできます。
 どうやら、トゥーマスらは、ダメージ・コントロール局の警告を無視して以前と同じような作業を継続して行っていて、それもかなり儲かっているようです。

 ここで「a Film by Peter Parker」との字幕が現れ、ピーター・パーカートム・ホランド)自身が撮影した映像が流されます(注4)。
 映像は、ピーターが、ハッピー・ホーガン(注5:ジョン・ファブロー)に連れられてヨーロッパに行った時のもの。
 目的は、トニー・スタークロバート・ダウニー・Jr)の会社の研修であり、その際ピーターは、スパイダーマンの新しいスーツをもらいます。
 映像の最後の方では、ハッピーが運転する車の中で、トニーとピーターが後部座席に座っています。ピーターが「次の研修はいつ?」と尋ねると、トニーは「誰かが連絡する」と答えます。

 それから2か月が経って、ピーターが学校へ行くところから本編が始まりますが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 これまでスパーダーマンを主人公とする作品はいろいろ作られていますが(注6)、本作はこれだけでも楽しめる作品となっているように思います。何しろ、高校生の主人公が、自分をアイアンマンに認めてもらおうと単独で敵と立ち向かうというのですから。スパイダーマンが決して万能でも最強でもなく、何度も危ない目に遭うというのも面白さを増します。ただ、今回の敵が、それほど大物でもないように描かれているのは、少々残念な気がしましたが。

(2)本作でスパイダーマンが対決するヴィランは、トゥーマスがウイングスーツを着装してなりすますヴァルチャーですが、それをマイケル・キートンが演じていることが面白いなと思いました。



 ヴァルチャーらは、異星人(注7)が地球に残していった様々なメカを回収し、それらから彼らの技術を盗んで新しい兵器を作って売りさばいて儲けをあげているのです。
 また、ヴァルチャーらは、引っ越し作業で兵器を色々積載しているスターク社の飛行機を奪い取ろうとまでします。
 こうしたところは、『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』においてマイケル・キートン扮するレイ・ロックが、マクドナルド兄弟が創出した大層効率的なシステムを乗っ取って、世界的な大企業を作り上げたのと随分と類似しているなと思えました。
 というのも、ヴァルチャーにしても、レイ・ロックにしても、事業の大元となるものは自分で作り出してはおらず、他人が考えたものなのですから(注8)。

 ヴァルチャーは、こうした背景を持ったヴィランですから、実際にはスパイダーマンは大変な目に遭うものの(注9)、その強敵にはなりえないでしょう。
 まだ15歳のピーターがヴィランの相手というわけで、本作のヴァルチャーくらいで仕方がないのかもしれません。でも、スパイダーマンが相手にするヴィランとしてはやや小作りではないかと思いました。

 また、ヴァルチャーらが武器取引をするフェリーでのスパイダーマンの働きぶりについて、アイアンマンのトニーはピーターを叱責し(注10)、さらに「スパイダーマンのスーツは返せ」と命じるのです。
 にもかかわらず、ピーターは、トゥーマスの悪だくみがわかると、取り上げられたはずのスパイダーマンのスーツを着装するために学校に急いで戻り、いつもの隠し場所からそのスーツを取り出してスパイダーマになるのです。
 クマネズミは、“アレッ、いつの間にスーツが戻されていたの?”、“もしかしたら、スーツは何着もあるの?”と思ってしまいました(注11)。

 でも、そんなことはともかく、本作におけるスパイダーマンの戦いぶりは、なかなか目覚ましいものがあり(注12)、特に、トニーが用意した新しいスーツは、面白い機能をいくつも持っています(注13)。

 さらにまた、本作では、15歳のピーターの特色ある学園生活が色々描き出されていて、興味が惹かれます。
 例えば、「全米学力コンテスト」に参加すべく、ピーターたちはワシントンDCに行ったりしますし(注14)、また「ホームカミング」(注15)のパーティーが開かれたり、ピーターが学校で思いを寄せるリズ(注16:ローラ・ハリアー)の家で催されるホームパーティーにピーターが呼ばれたりします(注17)。

 いずれにしても、スパイダーマンは、本作を契機にして今後新しい姿で活躍するものと思われ、次回作ではどんなヴィランとどのように闘うことになるのか興味が持たれるところです。

(3)渡まち子氏は、「スパイダーマンは、やっぱり愛すべき“ご近所のヒーロー”だ。まだ表情に幼さが残る若手俳優トム・ホランドのフレッシュな魅力が、スパイダーマンに新鮮な息吹を吹き込んでくれた。次回作にも大いに期待!である」として80点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「普通の人のドラマが見たい観客には複雑な思いが残りそうだが、アメコミ・ヒーローを借りて普通の学園生活を描くアイデアは悪くない」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 毎日新聞の勝田友巳氏は、「若さゆえのイキのよさと未熟さが持ち味で、片思いしたりヒーローを夢見てムチャしたりと、戦いながら成長する青春映画でもある」と述べています。



(注1)監督はジョン・ワッツ
 脚本はジョン・ワッツら。

 なお、出演者の内、最近では、マイケル・キートンは『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』、ロバート・ダウニー・Jrは『シャーロック・ホームズ』、マリサ・トメイは『マネー・ショート 華麗なる大逆転』で、それぞれ見ました。

(注2)舞台がニューヨークであることについては、この記事を参照。

(注3)直前にあったアベンジャーズとチタウリの戦い(『アベンジャーズ』で描かれています)によって、破壊されてしまいました。

(注4)その映像は、こちらで見ることが出来ます。

(注5)『アイアンマン』ではトニー・スタークの運転手。本作では、トニー・スタークの秘書で、ピーター・パーカーの監視役。

(注6)それらの作品から本作に至る流れの概要については、こちらの記事が随分とよくまとまっていると思います。

(注7)上記の「注3」で触れたチタウリ。

(注8)さらに言うと、ヴァルチャーになるトゥーマスは、ピーターが学校で思いを寄せるリズの父親であることもわかります。
 ピーターが、「ホームカミングのパーティーに僕と一緒に行かない?」と思い切ってリズに尋ねたところ、リズから「いいわよ」との返事をもらいます。



 有頂天になったピーターは、メイおばさん(マリサ・トメイ)に手伝ってもらって、ネクタイを結ぶとかダンスの練習をしたりします。
 そして、当日、メイおばさんに「本番よ、さりげなく」と言われて、プレゼントを手にしてリズの家に行きます。ですが、ドアを開けて出てきたのが父親のトゥーマスで、彼がヴァルチャーであることがその顔を見てピーターには分かってしまいます。
 その後、リズとピーターは、トゥーマスの運転する車で「ホームカミング」のパーティー会場に連れて行ってもらいます。ただ、その車の中で、リズがピーターについて「彼は、スターク社で研修を受けている」とか「スパイダーマンと知り合い」などと話すものですから、トゥーマスもピーターがスパイダーマンであることに気付きます。

(注9)ピーターはスパイダーマンとなって、トゥーマスラの工場に行くのですが、ヴァルチャーによって崩された天井の石の瓦礫の下に埋まってしまいます。

(注10)トニーは、「馬鹿なことをするなと言ったのに、君はそれを無視した」「君は期待はずれだった」「君を推したのは私だ。誰かが死んだら、私の責任になる」などと言い、ピーターからスパイダーマンのスーツを取り上げます。その際、ピーターが「いつまで?」と尋ねると、トニーは「永遠にだ」と答えます。

(注11)もしかしたら、トニーに取り上げられたのは、スターク社が開発した新テクノロジー満載のスーツの方で、ここでピーターが着装したのは、もっとずっと中身のないスーツ(自作の)の方なのかもしれません。
 確かに、トゥーマスの後を追ってその工場に行ったスパイダーマンのピーターは、スーツに備わっているはずのいろいろな機能を何も使わなかった感じです。
 でも、仮にそうだとしたら、あの重い何重もの石の瓦礫を持ち上げる力は、どうやってピーターに湧いてくるのでしょう?自作のスーツでそんな力を発揮できるのであれば、何も新しいスーツなど必要ないようにも思えるのですが。

(注12)例えば、2つに切断されたフェリーが分離してしまわないように、スパイダーマンはウェブ・シューターからクモ糸を発出してつなぎとめようとします(尤も、クモ糸の強度不足で、フェリーは分離して沈んでしまいそうになり、結局アイアンマンの助けが必要となってしまいますが)。



(注13)例えば、この記事に簡単に記載されています。
 中でも、声の調子が変わる「強化尋問モード」には笑ってしまいます。

(注14)ピーターが通う高校では、リズをリーダーとするチームが参加します。
 なお、本作で言われる「全米学力コンテスト」は、この記事で言う「全米アカデミック・デカスロン大会」に依っているように思われます(より詳しい記事は、こちら)。

(注15)例えば、この記事を参照。

(注16)でも、本作のヒロインはミッシェルゼンデイヤ)なのでしょうか?でも、それほどピーターに絡んで来ない感じです。

(注17)一緒に呼ばれたネッドジェイコブ・バタロン)は、ピーターがスパイダーマンであることを知っているので、ピーターに「早くスパイダーマン化しろ」と急かしますが、ピーターは「コスプレじゃないんだ。素の僕で勝負するんだ」と拒否します。



★★★☆☆☆


象のロケット:スパイダーマン ホームカミング
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