映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

一命

2011年10月30日 | 邦画(11年)
 『一命』を吉祥寺のバウスシアターで見ました。

(1)原作の滝口康彦著「異聞浪人記」(注1)を映画化したものとしては、小林正樹監督の『切腹』(1962年)があり、それに甚だ感銘を受けたことがあり、また『十三人の刺客』の三池崇史監督の作品ということもあって、映画館に行ってみました。

 原作では、結核に冒された妻や子供の治療代を“狂言切腹”で手にしようとした浪人・千々岩求女の哀れな顛末と、その理不尽さを暴こうとした義父・津雲半四郎の誇り高き姿が簡潔に描き出されています。
 その原作を、本作はどのように料理しようとしたのでしょうか?

 この点を巡っては、本作が、『切腹』をオリジナルとするリメイクとはされておらず(注2)、あくまでも原作との関係が強調されていることが注目されます(注3)。
 すなわち、『切腹』(最近、DVDを借りてきて、再度見てみました)は、原作を復讐譚として捉えていると考えられるところ、本作は、その要素をできるだけ排除しようとしていると言えると思います(注4)。

 具体的には、例えば、『切腹』のラストでは、津雲(仲代達矢)が刀を抜いて、井伊家の家臣たちと斬り合いを演じ、4名を斬り殺したりするのですが、本作では、津雲(市川海老蔵)は、なんと竹光を抜いて家臣団と対峙するのです(注5)。
 また、『切腹』における斎藤勘解由は、原作に随分と近い姿で描かれているように思われます。原作においては、勘解由は、津雲半四郎が玄関先に現れた際の委細を聞くと、「またも来おったか、性こりもなく」と言って「にやりと笑った」とありますし(P.9)、また庭先で津雲の話を聞いたあとにも、「勘解由の口もとには、すぐにふてぶてしい笑いが刻まれた」と述べられているところ(P.35)、『切腹』における勘解由の描き方はほぼその通りであり、さらに勘解由を演じるのが三國連太郎であることがその感を一層強くします。

 他方、本作における斎藤勘解由は、役所広司が演じることもあって、一切そのような素振りは見せませんし、津雲と勘解由とのやりとりの内容自体は、両作でそれほど異なるとは思われませんが、勘解由は大層真摯に対応しているフシがうかがわれます。
 それに、勘解由は、足に障害があるような歩き方までするのです(注6)。



 モット言えば、自宅に戻ってきた千々岩求女の遺体には、井伊家で求女に差し出された菓子が添えられていたところ、妻の美穂満島ひかり)は、それをわざわざ死んでいる子供の口につけてから自分の口に入れた後、懐剣で自害するのですが、あたかも津雲に対して、井伊家への復讐などするな、と言っているような感じです。

 こんなところから、本作は、『切腹』とはかなり異なる作品ではないかとも考えられるところです。
 ただ、そうだからと言って、本作に対する評価が高まるとは直ちには言えない気もします。
 やはり、『切腹』におけるように、「復讐譚」とする方がスッキリと分かりやすいですし、ラストの殺陣の場面も、竹光と真剣の対峙では見ている方で拍子抜けしてしまいます。
 また、『切腹』では津雲(仲代達矢)と沢潟彦九郎丹波哲郎)とのチャンバラシーンが一つの山場となっているところ、本作ではそうしたシーンはいともアッサリと描かれてしまっているだけなのも、なにか物足りない感じがしてしまいます(注7)。

 また、『十三人の刺客』と比べると、冒頭に大名屋敷の大きな門が出てくるところ(『十三人の刺客』は、そこで家老が“切腹”をするところから始まります!)、事件の発端に女性が絡んでいることとか(本作では妻の満島ひかり、『十三人の刺客』では谷村美月と“芋虫”状態になった女)、少人数(本作では1人ですが)が多数を相手に挑みかかること、など類似する点があるものの、肝心の殺陣の場面では『十三人の刺客』に及びませんでした(義父の刀が竹光では致し方ありません!)。

 とはいえ、“狂言切腹”でありながら切腹する破目に追い込まれてしまう若い浪人を演じる瑛太も、なかなかよくやっていると思います。



 また、こうした時代劇となれば、その義父を演じる市川海老蔵は抜きんでていると思いました(ところどころは、台詞回しやしぐさが余りに歌舞伎調になるフシもうかがえるものの、大した役者だなと思います。とはいえ、現代劇ではどうなのでしょうか?)。



 さらに、千々岩求女の妻の美穂を演じる満島ひかりは、これまでの役柄とは全く違って、若い妻の役を実に初々しくこなしていますが、やはり『愛のむきだし』や『川の底からこんにちは』のような元気のいい彼女を見たいものだと思いました。



 なお、この映画には3D仕立てのものもありますが、3Dは『トランスフォーマー3』でもう結構と思いましたので、最初から見る気はありませんでした。

(2)この物語には、思いつきめいた事柄で恐縮ですが、いくつか問題点があるように思われます。

a.物語の背景として(注8)、大名改易に伴って大量の失業者(浪人)が出たとされますが(注9)、津雲半四郎と千々岩求女の場合、自業自得の面もあるとはいえ、なぜあれほど酷く困窮しているのだろうかと、いささか不思議な感じがします。
 というのも、例えばこのサイトを見ると、改易された大名家の家臣が他家に仕える例がないわけではなさそうですし、そうでない場合にも、津雲は、剣術の腕前は相当のものがあるのですから、道場を開くこともできたでしょうし、千々岩も、高い教養を身に着けているのですから、寺子屋の教師としてもっと活躍できたように思えます。

 それに、彼らは、福島家が改易されたときに、どこに住んでいたのでしょうか?本作では、広島城とか千々岩家の屋敷が描かれていることからすると、広島の城下にある程度の広さを持った屋敷を所有していたものと思われます。主家の改易に伴い、その屋敷にいられなくなったのかもしれませんが、どうしてわざわざ江戸まで出てくる必要があったのか、よくわかりません(広島に居さえすれば、親類縁者もいることでしょうし、ある程度の暮らしは維持できたのではないでしょうか?)(注10)。

b.原作でも本作でも、巷では「狂言切腹」が流行り出しているとされているところ(注11)、口上として言われるものには飛躍がある感じで(注12)、果たしてこんな言い草で切腹が認められるものなのか、疑問に思えるところです。

c.原作では(『切腹』も同様ですが)、本作と異なり、浪人・求女が苦しさの余り舌を噛み切ってから介錯したとされていますが(注13)、それではわざわざ介錯人を設ける意味がなく、また作法通りとも言えないのではと思われます。
 それはともかく、井伊藩としては、こうした「狂言切腹」の再来を防ぐべく求女の口上に従うとしても、切腹の作法どおり取り行えば済むところを、なぜあのように凄惨な結果を招くことになってしまったのか、責任問題が発生するものと思われますが、そんな気配は映画からは窺えません。

d.特に本作では、介錯人・沢潟彦九郎がなかなか刀を振り下ろそうとしないのに業を煮やした江戸家老・斎藤勘解由が、自分自身で求女の介錯をしますが、これは単に作法通りのことをしたまででしょう。
 ただ、勘解由は、そこまで本件にかかわるのであれば、作法どおり行動しなかった沢潟彦九郎らを処罰すべきではなかったでしょうか?そうはせずにそのままにしておいたために、津雲の登場となったものと思われます。
 井伊藩における津雲の狼藉の責任は、ひとえに勘解由の責任と見ることもできるのではないでしょうか(注14)?

e.にもかかわらず、津雲の非難は、沢潟彦九郎らの求女切腹に直接かかわった者にだけ向けられて、その場の全体責任者である斎藤勘解由には向けられてはいないように見えます(この点にも、本作の復讐譚でないとする姿勢が表れているように思われますが)。

f.それに、沢潟彦九郎らに対しその理不尽な対応の仕方を非難するのであれば、津雲は、彼らに武士にあるまじき恥辱を与えるべきであり、単に髻を切っただけでは不十分ではなかったでしょうか?現に、3人とも、“武士らしく”切腹しているのですから!



(3)なお上記(1)で、“映画『切腹』は、原作を復讐譚として捉えていると考えられるところ、本作は、その要素をできるだけ排除しようとしている”、と申し上げましたが、だからといって、本作が『切腹』とマッタク無関係に制作されているかというと、その点は大いに疑問です。

 このあたりについては、ブログ「お楽しみはココからだ~映画をもっと楽しむ方法」の10月19日のエントリで展開されているブログ管理者の「Kei」さんの見解は、実に鋭い点を衝いていると思われます。

 すなわち、ブログ管理者の「Kei」さんは、「なんとまあ、橋本忍の脚本をほとんどなぞっている。井伊家の門前に半四郎が訪れる冒頭、斎藤勘解由の語りに始まり、半四郎の回想を挟んだ全体の構成、最後の大乱闘…と、ほとんど同一脚本と言っても過言ではない。/特に、原作では後ろの方で明らかになる、求女の切腹場面を前に持って来て、しかも原作では詳細が描かれていない、竹光で切腹する残酷なシークェンスを追加したり、これも原作では1行であっさり片付けている半四郎の最期を、怒りに燃えた大乱闘アクションへと展開したり、といった橋本忍がオリジナルで改変し、膨らませた部分がそのまま登場している。/半四郎が井伊家の宝=赤備えの甲冑をぶっ壊す、これも原作にない橋本オリジナルの重要シーンも、若干変えてはいるがちゃんと盛り込まれている…等、これではどう見ても橋本忍脚本のコピーである」と述べておられます。

 ただ、「井伊家の門前に半四郎が訪れる冒頭、斎藤勘解由の語りに始まり、半四郎の回想を挟んだ全体の構成」といったものは、滝口康彦の原作の通りであって、ことさら橋本忍のオリジナルだとはいえないのでは、と思われます。
 更に、「原作では後ろの方で明らかになる、求女の切腹場面を前に持って来て、しかも原作では詳細が描かれていない、竹光で切腹する残酷なシークェンスを追加した」とされる部分は、原作でもほぼ中央に置かれており、「竹光で切腹する残酷なシークェンス」もそれなりに原作で描かれていると思われます。

 とはいえ、「原作では1行であっさり片付けている半四郎の最期を、怒りに燃えた大乱闘アクションへと展開」したり、「半四郎が井伊家の宝=赤備えの甲冑をぶっ壊す」場面などは、本作にも取り入れられているところです。
 それだけでなく、千々岩求女が切腹をする井伊家藩邸の中庭とか、求女と美穂が暮らす廃寺の様子なども、『切腹』と同じような感じになっていると思われます。

 そんなことから、本作は、大枠のところでは『切腹』に依拠している、あるいは相当の影響下にあると考えられるところです。
 ただ、本作を復讐譚としないとするという基本的コンセプトを重要視するとすれば、「Kei」さんがおっしゃるように「原脚本:橋本忍、潤色:山岸きくみ」とまで記する必要があるのか疑問に思えるところです。

(4)渡まち子氏は、「終盤のクライマックスの大立ち回りは、リアリティよりも、映像美を優先した独創的なものだ。実年齢で5歳しか違わない市川海老蔵と瑛太を父子役に据えるの は、あまりに無理があるのだが、無理を押してまで、海老蔵の所作の美しさを優先させたことを見れば、様式美へのこだわりが理解できる」として65点を付けています。
 また、福本次郎氏は、「倒産した会社の元社員が日雇派遣に転職したり、生活費や家のローンに困った挙句に心中を図るなど、21世紀の現代でもありそうな題材で求女らの置かれた状況が非常に身につまされる作品だった」として60点を付けています。



(注1)講談社文庫『一命』所収。

(注2)劇場用パンフレットの「カンヌ国際映画祭ルポ」と題する記事によれば、三池監督は、「『十三人の刺客』はリメイクでしたが、『一命』は再映画化です」と述べています。

(注3)ちなみに、米国映画『モールス』は、スウェーデン映画『ぼくのエリ』をオリジナルとするリメイク作だとされますが、実際のところは、映画のタイトルからしても原作小説(『モールス』)を再映画化したものと考えるべきだと考えます。

(注4)上記「注2」で触れた「カンヌ国際映画祭ルポ」によれば、「今なぜこの作品を?」との記者質問に対し、三池監督は、「原作の津雲半四郎は誰も殺さないんです。彼は復讐ではなく、武士の本分というものを正しに行った。……そこで仇を斬っちゃったら終わりなんですよ。斬ってしまったら、何を言ったって復讐の連鎖を呼ぶ。……」と言います。
 また、脚本の山岸きくみ氏も、「この映画は復讐譚ではない。ですから半四郎は求女同様、自分をゼロにして竹光で対峙する、その姿を描きたかったのです」と述べています。

(注5)原作では、「津雲半四郎が、乱刃に斬り苛まれて息絶えた」とだけ述べられています(P.39)。

(注6)本作における斎藤勘解由に足の障害があるのは、関ヶ原の戦いによるものと想像され、津雲半四郎と同様、彼に実戦経験があるところを強調するためだと思われます(劇場用パンフレットにおいて、脚本の山岸きくみ氏は、「上映時間の関係などもあり、本編の中では描かれてい」ないものの、「この2人は関ヶ原でアイコンタクトをしていた……という設定で書き進めていきました」とまで述べています)。

(注7)ただ、この点に関し、『切腹』には疑問があります。丹波哲郎演じる沢潟彦九郎は神道無念一流の達人とされ、津雲半四郎も随分と手こずりますが、そうした立派な武人であるなら、千々岩求女の切腹に際し竹光の脇差しを使わせるような理不尽なことをさせなかったと思われ、また津雲に髻を切られたなら、恥辱の余りその場で直ちに自害したのではないかと推定されるところです。それを、おめおめと自宅に戻って、病と称して隠れ潜んでいたとは、剣術の達人とも思えません。
 この点は、本作『一命』における沢潟(青木崇高)の描き方の方が、受け容れやすいのではと思われます。

(注8)時代設定は、原作が「寛永年間」としているところ、本作では「寛永十一年」(1634年)と特定されています。

(注9)Wikipediaによれば、福島正則は、元和五年(1619年)に、安芸・備後50万石を没収され、信濃国川中島四郡中の高井郡及び越後国魚沼郡〔4万5,000石(高井野藩)〕に減封されています。

(注10)原作には、「主家没落ののち、愛宕下の藩邸を立ち去る時は、美穂はまだあどけない少女にすぎなかった」とあり(P.26)、これからすると、津雲や千々岩は江戸詰めの家臣ではなかったか、とも思われるのですが。

(注11)原作には、「元和のなかばから、寛永の初めにかけて、改易、あるいは厳封された諸侯の名は、数えるに暇もないくらいであった。そして、主家の廃絶によって、いやおうなく路頭に投げ出されたおびただしい浪人の群は、うたかたのようにはかない仕官の望みを抱いて、その大部分が江戸へ集まっているのである」(P.12)とあります。

(注12)原作では、「今日まではなんとか糊口をしのいできたものの、もはやこれ以上の辛抱はなりかねる。このままむなしく陋巷に呻吟していつまでも生き恥をさらすより、武士らしく、いっそいさぎよく腹かっさばいて果てようと思う故、晴れの死場所に、願わくは御当家の玄関先を貸してはいいただけまいか」といったような意味合いのことを津雲半四郎が述べたとされています(P.9)。
 ただ、こうした口上を述べる浪人と「御当家」との間に何らの関係もないのが普通でしょうから、いくら面倒なことを避けたいとしても、上に取り次ぐまでもなく、門番や家臣が直ちに追い出すべきところではないでしょうか?

(注13)「周囲からどっとおこる、嘲罵の渦の中で求女が舌を噛みちぎった時、はじめて解釈人の白刃がひらめいたのである」(P.25)。

(注14)本作においては、江戸家老・斎藤勘解由は、沢潟彦九郎に対し、「どんな輩であれ、当家に参ったのだ。礼は尽くせ」と命じてますが、沢潟彦九郎らのやり方は「礼を尽く」したものとなっていないように思われます。従って、そのことについて、沢潟らを処罰すべきではなかったでしょうか?



★★★☆☆



象のロケット:一命


最新の画像もっと見る

16 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
『一命』の主張 (秀樹)
2011-10-31 00:03:34
今回は役所浩司が温情家老になっているところが前作とおおいに違っているところでしょう。又半四郎が娘婿が既に刀も売り、井伊家にゆすりたかりにまで行ったのに、自分はまだ武士(刀)にしがみついていたという反省が半端ないのですから、ここで復讐劇は絶対可笑しいしいです。父子2代のいちゃもん劇と言う事になります。
『武士の体面をお教え頂きたい』と叫んでおきながら、バッタバッタと殺してはそれこそ本末転倒。赤備えは修繕しても、あの場にいたものが、一生何かを考えてくれたらそれでいい。
関ヶ原で戦った剛の者が、脳内剣道しかしらない井伊家の家来たちにあれだけ竹光で応戦出来たのも、現代の若者たちを皮肉っているようで面白かった。
前作が痛快時代劇としたら、今回は実にリアルな芸術作品です。
恐るべき三池崇史監督。
恐るべき市川海老蔵。
このコンビで黒沢作品を抜くような世界を震撼させられる良作を作って行って欲しいです。
返信する
ご指摘の件につきまして (Kei)
2011-10-31 00:29:32
クマネズミさん。拙ブログ記事の紹介ありがとうございました。

ご希望に応じまして、いくつか書かせていただきます。

(1)>「井伊家の門前に半四郎が訪れる冒頭、斎藤勘解由の語りに始まり、半四郎の回想を挟んだ全体の構成」といったものは、滝口康彦の原作の通りであって、ことさら橋本忍のオリジナルだとはいえないのでは…
その部分に関しては、おっしゃる事はごもっともです。
ただ、これは、私の文章が少々舌足らずなせいで、「門前に半四郎が訪れる冒頭」で、「切腹」ではまず最初に赤備えの豪華な甲冑や、井伊家正面の贅沢な門構え、等の映像が積み重ねられ、“井伊家の格式の高さと威信”を観客に強くアピールしておりました。原作ではそこまで描いておらず、これは「切腹」のオリジナルと思うのですが、「一命」でも井伊家屋敷の豪華な欄間や、やはり正面の門構えを映像で強烈に示しておりました。
さらに「切腹」では上り口に虎の絵があって、こちらを睨んでいるかの如き迫力がありましたが、「一命」でもこちらを睨んでいる牛の絵がありました。これも“居丈高な井伊家”を暗喩する映像効果でしょう。
私が“冒頭”と書いたのは、そうした強烈なイメージショットの羅列も含めての類似性を指摘したつもりだったのですが、言葉が足らなかったようです。申し訳ありませんでした。

(2)>原作でもほぼ中央に置かれており、「竹光で切腹する残酷なシークェンス」もそれなりに原作で描かれていると思われます…
原作では、求女が切腹を命ぜられる所までで勘解由の語りは終わり、それから庭の半四郎の切腹の場に移り、求女が竹光で切腹させられる描写はしばらく経った中盤に出てきます。「切腹」では、求女の凄惨な切腹描写は勘解由の語りの回想で描かれ、それが終ってから庭の場面に移る、という原作からの重要な改変が行われておりますが、「一命」も丸々同じ展開だったと記憶しています。記憶違いであればお許しください。
また、原作では竹光を腹に突き立てる、と書いてはいますが、凄惨さはあまり感じられません。「切腹」では鮮血が飛び散り辺りは血まみれ、最初観た時には目を背けたほどの残酷描写でした。これも橋本脚本のオリジナルだと思います。

なお本作の監督たちが「この映画は復讐譚ではない」としているそうですが、沢潟らの髷を切り取り、赤備えの甲冑をぶっ壊した時点で十分復讐になってるはずです。由緒ある井伊家の武家の面目丸潰れですから。
原作を読めば、これが見事な復讐劇である事は一目瞭然です。勘解由のプライドはズタズタにされたわけですし、表向きは何事もなかったように取り繕おうと、この敗北感は勘解由以下、事件を目撃した井伊家の家臣全員の心に重くのしかかるはずです。
だいたい、復讐譚でないとするなら、ラストの大乱闘は不要でしょう。「斬ってしまったら、何を言ったって復讐の連鎖を呼ぶ」と監督は言ってるようですが、半四郎も死んでしまったので津雲家は全員死に絶え、連鎖しようがないじゃないですか(笑)。「恥をかかされ、復讐しようにも相手はもういない」これこそ半四郎なりの、最高の復讐なのです。

ついでですが、クマネズミさんの疑問にも私見を…
c.>求女が苦しさの余り舌を噛み切ってから介錯したとされていますが、それではわざわざ介錯人を設ける意味がなく、また作法通りとも言えないのでは…
>なぜあのように凄惨な結果を招くことになってしまったのか、責任問題が発生するものと思われますが…
切腹というのは、本来「腹に小刀を当てると同時に、介錯人が首を切り落とす」のが作法で、切腹の場には必ず介錯人を設けなければいけません。沢潟彦九郎は求女を徹底して苛める為に舌を噛み切るまで介錯を遅らせただけで、作法どおり行動しなかったのではなく、介錯する前に勘解由が出しゃばってしまっただけの事です。却って、介錯人でもない勘解由が介錯する方が作法に反してます。「切腹」の方が彦九郎も介錯を完了してますし、納得出来ます。
なお真剣で切腹した場合、腹の据わった侍は自分の腸を掴みだす者もあったそうで、切腹の場が凄惨になるのは珍しくなく、そもそも首を切り落とせば首はゴロンと転がり、辺りは血の海になります。切腹って、凄惨なのが当たり前で、それを立会人も平然と見てるわけです。よって、あの程度では特に問題にもなりません。

f.の>津雲は、彼らに武士にあるまじき恥辱を与えるべきであり、単に髻を切っただけでは不十分ではなかったでしょうか?
殺さずに、髷を切り取られる事こそ武士にとって最大の恥辱です。ただ彦九郎たちは、半四郎が武士の情けでその事を井伊家に伝えないかも知れないと考え、自宅に篭って様子を見てたのでしょう。
原作の最後の行にあるように、「本日、切り取った髷を井伊家に持参する」と伝えて来たので、もはやこれまで、と切腹を決行したのでしょう。その点も「切腹」の方が納得出来ます。ほっかむりしてノコノコ井伊家にやって来るなんて、ありえません(笑)。

長々と書きまして申し訳ありませんが、ご納得いただけましたら幸いです。

なお、余計な事で申し訳ないですが、俳優の名前が間違っております。仲代達也→仲代達矢、中村海老蔵→市川海老蔵 です。
返信する
捉え直し (クマネズミ)
2011-10-31 20:47:38
「秀樹」さん、わざわざコメントをいただきありがとうございます。
「前作が痛快時代劇としたら、今回は実にリアルな芸術作品」と述べておられますが、前作は、護持院ヶ原の決闘シーンや、ラストの津雲半四郎と井伊家家臣団とのチャンバラシーンなど、時代劇として大変面白い場面をいくつも描き出していると思います。
他方、本作は、今の時点で原作を捉えなおしてみたら、どんな視点から描き出せるかということにこだわって制作されたものと思われます。それが「リアルな芸術作品」になっているかどうかについては、また見る側の判断が分かれるかもしれませんが、三池監督が、本作について、前作のリメイクではなく原作の再映画化だと言っているそのアグレッシブな姿勢を買いたいと思います。
返信する
リメイクか再映画化か (クマネズミ)
2011-10-31 20:49:04
「Kei」さん、今晩は。
早速、懇切なご回答をいただき、誠にありがとうございます。
特に、「仲代達也→仲代達矢、中村海老蔵→市川海老蔵 」との実にお恥ずかしいインプットミスをご指摘いただき、感謝申し上げます。直ちに修正いたしました。
さて、ご回答ですが、「Kei」さんがエントリに記載されている事柄について、実際にはさらに深いところまで検討されていらっしゃることがわかり、またまた感服いたしております。

丁寧なコメントをいただきながら甚だ恐縮ですが、いただいたコメントについて、再度コメントさせていただきたいと思います。
a.「Kei」さんのコメントの(1)については、「Kei」さんのエントリで、「橋本忍の脚本をほとんどなぞっている」とか「ほとんど同一脚本と言っても過言ではない」などと述べられていることから、専らそうした面につきコメントを行った次第です。
「井伊家屋敷の豪華な欄間や、やはり正面の門構え」などの映像を取り上げられるのであれば、脚本家のみならず、撮影監督、美術監督、そして勿論監督などが総合的に関与してくるでしょう。そうなると、脚本家・橋本忍につき一言も触れられていない点もさることながら、むしろ、原作の「再映画化」と監督が言っている点が、「Kei」さんにとっては問題となるのではないでしょうか?
ただ、そうなると、映画を制作する際の基本的なコンセプトをどこまで重視するのか、といった問題となり、基本的なコンセプトが異なるのだから、今度の『一命』は『切腹』のリメイクには相当しない、とする立場もありうるのではないか、と思われます。

b.「Kei」さんのコメントの(2)に、「「切腹」では、求女の凄惨な切腹描写は勘解由の語りの回想で描かれ、それが終ってから庭の場面に移る、という原作からの重要な改変が行われて」いるとある点については、『一命』においては、「求女が切腹を命ぜられる所までで勘解由の語りは終わり」、勘解由が「いかがかな、今の話は」と述べるシーンが挟まって、また求女の切腹シーンとなりますから、『切腹』と「丸々同じ展開」というより、僅かながら原作寄りに描かれています。
むしろ問題は、「求女の凄惨な切腹描写」に関し、原作が半四郎の回想の中で描いているところ、映画で「勘解由の語りの回想で描」いていることは「重要な改変」だ、と「Kei」さんがおっしゃっている点ではないかと思います。
というのも、原作では、半四郎が勘解由に対して「なかなか面白い話でござった」と述べていて、求女の切腹場面の話を勘解由からすべて聞いた上で、半四郎は庭に移っていることがわかるようになっています。ですから、クマネズミには半四郎の回想から勘解由の回想への移行がそれほど重要な「改変」とは思えないのですが(特に、求女が切腹するに至る話は、原作でも映画でも、第三者的立場からする客観的な描写となっているので、その挿入位置はあまり大きな問題とならないように思われます)。

c.「Kei」さんのコメントの(2)に、「原作を読めば、これが見事な復讐劇である事は一目瞭然」とありますが、『一命』の場合、監督及び脚本家は、原作の津雲半四郎が誰も殺さないところを起点に、「復讐劇」ではないように原作を解釈し直して映画化していると思われます。こうした解釈は十分成立すると思いますし、仮に原作が復讐劇以外には読めないとしても、映画と原作は別物であるとクマネズミは考えておりますので、これはこれで構わないことだと思います。
加えて、「Kei」さんは、「斬ってしまったら復讐の連鎖を呼ぶ」と言う監督に対して、「半四郎も死んでしまったので津雲家は全員死に絶え、連鎖しようがない」とおっしゃっています。
ただ、それは言ってみれば表面的な事柄であって、斬られた者やその親族の無念の思い(怨念)は後々まで残り、そのことの方が、実際に復讐を成し遂げることよりも由々しい事態なのではと思います。

d.「沢潟彦九郎は求女を徹底して苛める為に舌を噛み切るまで介錯を遅らせた」ことに関してですが、「腹に小刀を当てると同時に、介錯人が首を切り落とす」のが本来的な作法だとしたら、少なくともそれには反しているのでは、と思ったところです。
とはいえ、「介錯人でもない勘解由が介錯する方が作法に反して」いるのかもしれません。ただ、Wikipediaの「切腹」の項に、「白布を敷いた畳の上に白装束、奉書紙に巻いた拵え無しの刀を用いての切腹シーンが登場するが、史実ではこのような作法での切腹はいかなる時代・地方においても存在しない」とあることからすると、こうした時代劇に関して「切腹の作法」を持ち出すのも程度問題であって、制作者側の考え方がうまく反映するように場面を作り上げても、それはそれでかまわないのでは、と思っています。

e.「Kei」さんのご回答の末尾に、「「本日、切り取った髷を井伊家に持参する」と伝えて来たので、もはやこれまで、と切腹を決行したのでしょう」とあるところ、沢潟彦九郎(あれだけの剣の達人が「自宅に篭って様子を見てた」というのも不可解千万ですが)を別にして、残りの2人は、『切腹』においても、ラストで勘解由の命があるまで自発的に切腹をしていないものと思います。
なお、『一命』において3人が「ほっかむりしてノコノコ井伊家にやって来」たのは、家臣に引き立てられて連れてこられたためであって、自発的に「ノコノコやって来」たわけではないものと考えられます。

とはいえ、以上のように申し上げたからと言って、映画についての評価とは別問題で、エントリ本文でも述べているように、エンターテインメントとしては、『切腹』の方がずっとおもしろいのではないかと思っています。
ただ、評価の大変高い『切腹』に対して、三池監督らの制作陣が体当たりでぶつかってなんとか別のものを作り上げようとしたその心意気は、十分に評価してあげたいと思っているところです。
返信する
切腹 (milou)
2011-11-01 09:54:10
すみません。映画は見ていないし見れるかどうかも分かりません。
> 時代劇に関して「切腹の作法」を持ち出すのも程度問題であって…

確かに一般的に何事においても映画で表現される“作法”と現実が一致しないのは当然ですが
差異に違和感を覚えるか、許容できるかは映画の質(出来の問題ではない)によるでしょうが
極論すれば見た人が作品を面白いと評価できるかどうかで大きく変わるでしょう。

さてどこかで読んだが切腹の作法も西と東でも
違うらしい。多分WIKIにもあるだろうが基本的に腹を切っただけでは死に至るまで長時間かかるので介錯人が首を切り落とすわけですが、
そうであればギロチンのように大きく体を前に傾けないと水平には切れないため、わざと手が届かないほど前方に刀を置き、取るため大きく体を前方に傾けたところを切り落としたとか。
だとすれば切腹といっても腹に刀を当てることすらしないことになる。
いずれにしても切腹自体も最初のときからは大きく変わったはずなので厳密に時代考証(検証)すればウソだらけになるのは当然ですね…
返信する
切腹の作法 (クマネズミ)
2011-11-01 22:17:24
「milou」さん、コメントをありがとうございます。
おっしゃるように、「切腹自体も最初のときからは大きく変わったはず」というのは、Wikipediaを見ると納得できるところです。そこに、「切腹の作法が制定された時期については諸説あるも、18世紀の初め(享保年間の前後)という説が有力である」とあるところからすると、映画の舞台とされる寛永十一年(1634年)ころでは、まだ流動的だったのかもしれません。
ただ、「差異に違和感を覚えるか、許容できるか」は、「見た人が作品を面白いと評価できるかどうかで大きく変わる」という点は、なかなか難しい問題かもしれません。
例えば、本文の「注7」で申し上げましたが、『切腹』の場合、介錯人の沢潟(丹波哲朗)は剣の達人で、切腹する求女に対し滔々とその仕方を述べていながら、護持院ヶ原の決闘で津雲にあえなく敗れ、髻を切られるという恥辱を受けると、病気と称して自宅に暫く潜んでしまうという侍なのですから、求女が舌を噛み切るに至ってはじめて介錯するという場面には何か違和感を感じてしまいます。
これは、『一命』の青木宗高のように、求女の凄惨な姿を見て腰が引けて介錯できなくなってしまう姿の方が、つじつまが合っているような感じがしました。
でも、『切腹』の護持院ヶ原の決闘は、大層面白いチャンバラシーンですし、『一命』でそれがないのは、何か拍子抜けの感じがしてしまうのです。
返信する
RE:リメイクか再映画化か (Kei)
2011-11-02 02:09:18
クマネズミさん、再度のご指摘ありがとうございます。

原作の再映画化なのか、「切腹」のリメイクなのか、は解釈の分かれる所でしょう。それは、人によっていろんな意見があってもいいと思います。

ただ、私の今まで見聞きしてきた知識から申しますと、映画における、特に原作を元にした作品の脚本の力というのは、とても大きなものがあります。
「脚本は映画の設計図のようなものである」という事が、いろんな映画の教科書にも書いてあります。
橋元忍氏の著書「複眼の映像」の中でもこの事を書いてあります。「シナリオは映画の設計図であり、設計図が悪ければ、どんなにがんばってもその映画は良くならない」

「切腹」の素晴らしさは、原作の短編を再構成し、物語を膨らませ、読むだけでも映像が頭の中に浮かび上がって来る程、映像化を前提として実に緻密に設計されている点です。文献を調べる等、相当時間をかけて練り上げられたものと思われます。
冒頭の甲冑と、井伊家正面の贅沢な門構えの絵を並べる事で井伊家の威信を表現する描写はおそらく橋本脚本にも書かれているはずです。
そうした、橋本氏苦心の設計図を、「一命」はかなり参考にしているフシが覗えると私は判断しましたので、ああ書かせていただきました。
ただクマネズミさんも書かれております通り、脚本には不満はありますが、
>三池監督らの制作陣が体当たりでぶつかってなんとか別のものを作り上げようとしたその心意気は、十分に評価してあげたいと思っているところです…
に関しては、私も同意見です。もっと実績のある脚本家を起用していれば、さらにいい作品になり得たかも知れません。

あと1点、家臣に引き立てられたとは言え、3人がおめおめと井伊家に現れるのはどう考えても納得が行きません(それをノコノコと表現しました)。原作、及び「切腹」にある通り、髷を切られた事が露見した時点で、自宅で切腹する(またはさせる)のが妥当でしょう。なお原作では3人ともほぼ同時刻に切腹していたようですが、「切腹」で、彦九郎以外の2人が切腹していなかったのは、彼らが侍にあるまじき臆病者である事をさらに強調させたかったのかも知れません。
それでも、相当の剣の使い手であるはずの彦九郎でも、すぐに切腹せず数日間自宅に篭っていたのは、やはり成り行きを覗っていたとしか思えません。

まだ書きたい事はありますが、長々と貴ブログのお手を汚すのもどうかと思いますので、この辺で退散させていただきます。ありがとうございました。
返信する
脚本の力 (クマネズミ)
2011-11-02 06:06:29
「Kei」さん、ご親切にも2度まで対応していただき、心から感謝申し上げます。
いずれも甚だ丁寧に回答していただき、本当にありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。

なお、今回ご回答いただいたことに関し若干触れてみますと、
イ)「映画における、特に原作を元にした作品の脚本の力というのは、とても大きなものがあ」るとのご指摘は、まさにその通りだと思います。
ただ、日本の場合は、ハリウッドと違って脚本家の独立性が余り強くなく、事前打ち合わせや撮影現場、編集といった段階で手が入り、当初のシナリオと出来上がった映画との間にかなりの差が生じることがあるとも聞いております。
とはいえ、月刊「シナリオ」1971年9月号掲載の対談には、橋本氏の談として、 「映画になるかならないかを度外視して、二週間で脚本を書いたんです」、「そこへたまたま小林正樹さんがこられて、時代劇を一本書いてくれというわけです」、「時代劇だったらこういうものがあるんですが、面白かったら読んでみて下さい、と渡したんです」とありますから、橋本氏のイニシアティブが相当大きかったと考えられるところです(HP「脚本職人 橋本忍の世界」によります)。
山岸きくみ氏の『一命』のシナリオについては、月刊「シナリオ」の本年11月号に掲載されたものが手元にあるところ、橋本忍氏の『切腹』のシナリオを何とか探してみようと思っているところです。

ロ)「もっと実績のある脚本家を起用していれば、さらにいい作品になり得たかも知れ」ないとのご指摘は、Keiさんの『座頭市 The Last』に関するレビュー(昨年6月12日)からも十分予想がつくところです。

ハ)『切腹』でも、3人の様子を見に行き報告する家臣(三島雅夫)に対して勘解由(三國連太郎)が、「なぜその場で切腹を申しつけなかったのか」と叱責する場面などが挿入されていて、井伊家の中が相当混乱している様が描かれているのではと思いました。
返信する
Unknown (えい)
2011-11-03 12:51:29
こんにちは。

この映画、ずいぶん前に『一命』というタイトルになったことに関して、
某脚本家の方が
「さすが橋本忍」とおっしゃっていました。
それは「同じタイトルを付けることを(橋本忍が)認めなかった」という意味と、
ぼくはとらえていたのですが、
実際はどうだったんでしょう?
Keiさんの書かれていることも含め、
コトの真相が知りたい気がします。

返信する
月代 (milou)
2011-11-04 23:36:22
僕も正確なところは分かっていないが時代劇を見ていつも月代が気になります。ウィキによると
“公卿、浪人、山伏、学者、医師、人相見、物乞いなど”以外は月代を剃るはずですが沢潟は剃っていない。何か根拠はありますか?

ちなみに以前カメラマンの森田富士郎氏が時代劇で庶民まで月代を“綺麗に”剃っているのは歌舞伎の悪影響だと言っていました。つまりヒゲ同様、毎日剃らないとあんなに綺麗にはならない。庶民にはそんな時間も余裕もないはずだと。

ただ、毎度の話ですが“現実”を現実どうり描くのが映画ではない、という問題はありますが。例えば『一命』でもほとんどライトを(目立つようには)使わず“暗い”場面が多いのですが、その時代は暗かったから、と言うのが“現実”を描くためという理由なら愚かなことです。それならセットの材質からすべて昔の“現実”を再現すべきで刀も真剣でなければ意味がなくなってしまうはずですから。
返信する

コメントを投稿