映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

海賊とよばれた男

2016年12月20日 | 邦画(16年)
 『海賊とよばれた男』を吉祥寺のオデヲン座で見ました。

(1)原作が本屋大賞を受けているので面白いかなと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「inspired by true events」の字幕があり、B29の前面の大写しがあった後、その胴体が開いてたくさんの焼夷弾が落とされます。
 地上では、それらが屋根に落ちたりして大火災となり、人々が逃げ惑います。
 飛行場の隅にはパイロットたちが集まっています。
 中の一人が「どうして2機しか飛べないのか?」と怒鳴ると、整備員は「燃料がないのです」と答えます。
 それでも、2機(注2)が飛び立って敵機に挑みますが、逆に撃ち落とされてしまいます。
 次いで、山の上から空襲の有様を見る主人公の国岡鐵造(60歳:岡田准一)の姿。

 そして、「1945/8/17」の字幕。
 まわりが焼け野原の中で焼け残った「國岡舘」の文字が見えるビルに、車が着きます(注3)。
 国岡商店の店員たちが広い部屋に集まっています。
 店員たちは、「何を話すのだろう?」、「ここの解散だろう」、「ここがなくなったら、明日からどうやって暮らしていけばいいのか?」など口々に話しています。
 そこに鐵造が入ってきて、「よう無事でいてくれた。先ずは愚痴をやめよう。戦争に負けたからといって、誇りを失うな。日本人がいる限り、この国は再び立ち上がる」、「この国は石油で戦い、石油で敗れた」などと話します。
 店員の一人が「ここに残っていいということですか?」と尋ねると、鐵造は「心配するな、一人もクビにはしない」と宣言します。

 あとで幹部が「店主、あの宣言はまずいのでは」と言うと、鐵造は「うるさい、クビを切るのは簡単だ」、「仕事はつくるもの」、「石油の商いを何とかする。それがダメなら、皆で乞食をしよう」と答えます。

 しかしながら、鐵造が「石油を融通してもらえないか」と石統(石油配給統制会社:注4)の社長の鳥川國村隼)に要請すると、鳥川は「あなたのところへは石油は回せない。あなたたちは、汚い手を使って、石油を横取りしたではないか」と答えます。
 さらに、「せめて石統に加入させてもらえないか」と鐵造が頼んでも、鳥川は「入れてもらえると思っているのか?甘いよ」とのツレナイ返事。

 こんなところから本作は始まりますが、さあ、物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、百田尚樹氏が出光佐三(注5)をモデルに書き上げた原作を映画化したもの。主人公は、早くから石油の重要性に目をつけ、メジャーの支配が厳しい石油業界の中にあって、その圧力に屈せずに強固な意思を持って業績を拡大した男です。それはそれでなかなか面白く描けているとはいえ、時流に反して、女性の役割が随分と小さく描かれているように感じました。

(2)本作は、近頃あまり見かけない男性路線を取っているように思いました(注6)。
 何しろ、目立つ女性のキャラクターとしては、綾瀬はるかが演じる主人公の最初の妻・ユキくらい。その彼女も、ほんの少し登場したかと思えば、すぐに離婚して画面から消えてしまうのですから(注7)、いったいどうしたことなのかなと訝しく思えてしまいます。



 実際の出光佐三氏は、後添えを娶り、5人の子供までいるのです(注8)。
 本作でも、そのことを全く無視しているわけではありません。主人公の最後の場面では、多くの親族が彼の病床の周りに集まるシーンが描き出されているのですから(注9)。

 でも、ラストの方で、小川初美黒木華)が、96歳になった鐵造のところに大叔母にあたるユキの遺品をもってくるというシーンがあって、鐵造はユキの思いを知ることになります(注10)、
 これによって、鐵造とユキの一途の愛が描かれたことになるわけでしょう。
 そして、ラストのシーンでは、北九州の海を突き進むポンポン船に、鐵造など國岡商店を支えた重要人物が乗り合わせている幻想的なシーンが映し出され、その中にユキが混じっているのです。
 ですがそこまでされると、見ている方としては、後妻さんの立場はどうなるの、鐵造の事業に何の関わりもなかった人なの、と思えてしまいます(注11)。

 さらに言えば、このような純愛路線に沿って鐵造のキャラクターを作り上げてしまうと、どうもその人物像が、ある意味で薄っぺらなものに見えてしまいます。
 確かに、本作では、海賊と呼ばれ不撓不屈の精神力を備えた鐵造の姿を、主演の岡田准一がなかなかの演技力をもって演じてはいます。
 ただ、いつも額にシワを寄せて眼光鋭く未来を見据える姿ばっかりというのでは、鐵造が持っていたに違いない幅の広さとか包容力の大きさといったものは、控えめな感じになってしまうのではないでしょうか?
 クマネズミには、鐵造が女性に対してどのように接したのか(注12)、といった彼のプライベートな面が同じようなウエイトを持って描かれて初めて、鐵造の全体像が見えてくるように思うのですが。

 尤も、本作のモデルとなった出光佐三氏は1981年(昭和56年)に亡くなった人物ですから、そのプライベートな面を直接的に描こうとすると、いくら登場人物の名前を変えたりしても差し障りが出てきてしまうのでしょう(注13)。
 とすると、例えば最近見た『ブルーに生まれついて』のように、実在のジャズ・トランペット奏者のチェット・ベイカーを描きながらも、実在しなかった人物をヒロインに仕立て上げ一種のファンタジーにしてしまうのも、一つのやり方でしょう。
 あるいは、『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』のように、主人公の生涯のある一時期に焦点を絞って描くというやり方もあるでしょう(注14)。

 本作のように、立志伝中の人物を巡って、その若い時分から96歳で亡くなるまでのほぼ70年間をほぼ時系列に沿って描く(回想シーンが何度も挿入されますが)というのも一つのやり方でしょうが、また違ったアプローチの仕方もあったのではないか、と思ってしまいました。

(3)渡まち子氏は、「「永遠の0」の作者、監督、主演が再び集結しているが、VFXの使い手の山崎貴監督がロケ撮影を駆使しているところに注目したい。特に海のシーンがいい。どんな苦境にもチャレンジ精神を忘れず立ち向かった主人公には、潮風が香る大海原が良く似合う」として70点を付けています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「伝馬船の旗、タンカーの旗、船を迎える人々の旗。そのはためきが鐵造の闘志を物語る。すべて視覚で表現しようとする山崎貴の力業だ」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。



(注1)監督・脚本は、『永遠の0』や『寄生獣』の山崎貴
 原作は、百田尚樹著『海賊とよばれた男』(講談社文庫:未読)。

 なお、出演者の内、最近では、岡田准一は『エヴェレスト 神々の山嶺』、吉岡秀隆は『64 ロクヨン 後編』、染谷将太は『俳優 亀岡拓次』、鈴木亮平は『海街diary』、野間口徹は『シン・ゴジラ』(資源エネルギー庁の課長役)、ピエール瀧は『怒り』、綾瀬はるかは『高台家の人々』、堤真一は『日本のいちばん長い日』、國村隼は『ちはやふる 上の句』、小林薫は『深夜食堂』、黒木華は『永い言い訳』、光石研は『森山中教習所』、近藤正臣は『龍三と七人の子分たち』で、それぞれ見ました。



(注2)劇場用パンフレット掲載の「STORY」によれば、夜間戦闘機「月光」を指していますと(Wikipediaのこの記事によれば、「速度や高々度性能の不足、また飛来するB-29に比して迎撃機数が少ないこともあって、十分な戦果を挙げることはできなかった」)。

(注3)上記「注2」で触れた「STORY」によれば、「國岡舘」は銀座にありました。
 実際には、このサイトに掲載されている写真の「出光館」でしょう。

(注4)「石統」については、例えばこの記事をご覧ください。

(注5)出光佐三については、Wikipediaのこの記事をご覧ください。

(注6)クマネズミは、ダメな男、しっかり者の女というパターンの映画(特に、邦画で)がこのところ多くなっているのでは(例えば、『湯を沸かすほどの熱い愛』のような)、と思っているところです。

(注7)鐵造が部下の長谷部染谷将太)を連れて満州に出向いている最中に、ユキは離別の手紙を残して実家に戻ってしまいました。その手紙には、「ずっと考えておりましたが、この結婚は失敗でした。あなたは仕事に追われ、うちは寂しい思いが募るばかり。お暇をいただきたいと思います」と書かれていました。

(注8)このサイトの記事を見ご覧ください。

(注9)鐵造の孫に当たると思われる男の子が、ガラスケースに入った「日承丸」の模型を見るというシーンまであります〔盛田船長(堤真一)の「日承丸」は、実際には「日章丸」。「日章丸事件」については、この記事をご覧ください〕。

(注10)遺品のスクラップブックには国岡商店に関する記事がたくさん貼り付けてあり、鐵造が「あいつは俺に愛想を尽かして出ていったはず」と訝しがると、初美は「大叔母は、国岡さんの話を喜んでしていました。彼女は、出ていったのではなく、身を引いたのだと思います」「彼女はその後結婚せず、群馬の老人ホームで亡くなりました」と言い、鐵造はユキの思いを知ることになります。

(注11)そのように観客に思わせないようにするには、例えば、日承丸が原油を積み込んで日本に戻った時点で映画を終わらせればよかったでしょう。でも、そうすると、本作のもう一つの柱である鐵造とユキの純愛路線が描けないことになってしまいますが。

(注12)例えば、上記「注5」で触れたWikipediaの記事の「その他」のところに、「娘・真子は「父・佐三は徹底した儒教的・家父長的男女観を抱いていて妻と娘4人を「女こども」として軽蔑し、その自立を否定し人格的に抑圧した」と述べている」とあります(より詳しくは、上記「注8」で触れた記事をご覧ください)。

(注13)本作では、鐵造の親族としては兄の万亀男光石研)くらいしか登場しませんが、実際には、上記「注8」で触れた記事を見ると、その弟が出光興産の2代目社長になったりしていますから(「日章丸事件」の際は専務)、色々複雑な事情があったのでしょう(例えば、この記事の年表を見ると、2000年に「会長の出光昭介(佐三の長男)氏と社長の出光昭氏(出光計助の次男)が対立」したとか、本年に「昭和シェル石油との経営統合において昭介氏が異議を唱える」とかが記載されています←本作の裏の狙いは、経営統合問題における創業家支持?!)。

(注14)同作では、実在した作家のトマス・ウルフの書いた原稿が、実在する編集者のパーキンズのもとに持ち込まれるところから描き出されます。



★★★☆☆☆



象のロケット:海賊とよばれた男


疾風ロンド

2016年12月09日 | 邦画(16年)
 『疾風ロンド』を渋谷TOEIで見ました。

(1)阿部寛が主演の作品だということで、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、雪山の景色が映し出されます。
 カメラが接近すると、長く伸びているスキーコースを滑り降りる一人のスキーヤーの姿。
 次いで、医科学研究所で研究員が、試験管やシャーレを使って細菌を培養している様子が映し出されます。

 2つの場面が交互に映し出された後、ある地点で止まったスキーヤーの男は、周りを見回し、雪を掘り、持ってきたボックスから瓶状のものを取り出して、そこに埋めます。
 それから、すぐそばの木の幹に釘を打ってテディベアを掛けます。
 次いで、発信機と受信機をセットして、「さあ、ゲームの始まりだ」と呟きます。

 タイトルが流れ、「月曜日」の字幕(注2)。
 主人公の栗林阿部寛)の家の朝。栗林は、玄関の上り口で、滑って転びます。
 彼は「お前、またワックスかけたのか?」と息子の秀人濱田龍臣)に怒ると、秀人は「次からは気をつける。買ってもらったときの約束だから」と答えます(注3)。

 秀人は、誘いに来た友人と一緒に学校に向かいます。
 友人が「また喧嘩?」と尋ねると、秀人は「うるさいんだから」と応じます。
 さらに友人が「オヤジさん、何やってるの?」と訊くと、秀人は「研究所に行っている。でも、最近、研究していないみたい」、「中間管理職なのかな」と答えます。

 他方、栗林は、仏壇の妻の位牌に向かって、「年頃の男の子は難しいんだよ。お前がいてくれたら」と嘆いた後、出勤します。

 栗林は、研究所に着いて保管庫を調べると、重要な物がなくなっているのに気が付きます。
 大急ぎで所長室に行ってそのことを報告すると、所長の東郷柄本明)は「やっぱり本当か」と呟きます(注4)。
 所長は、「盗んだ葛原(戸次重幸)が3億円要求してきた」と言い(注5)、驚いた栗林が「3億円も用意できるのですか?」と尋ねると、所長は「負けてもらう」と答え、さらに栗林が「警察に連絡を」と進言すると、所長は「これがバレたら、皆クビだぞ」と答え、通報を拒否します。



 そんなところに、警察から「葛原さんが、事故で亡くなりました」との連絡が入るのですが、さあ、この後物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、人を大量に死に至らしめる恐ろしい炭疽菌が盗まれ、それを必死に探し出そうとする主人公らを巡るサスペンスコメディ。ですが、主役の阿部寛が、最後の肝心な時にも、事態が推移するのをただ待っているだけというのでは、しまりがなさすぎ。それに、炭疽菌という生物兵器にもなる恐ろしいものを取り扱っている映画にしては大味で、総じて「ゆるすぎる」感じがしました。

(以下は、本作がサスペンス物であるにもかかわらず、あちこちでネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作の主人公の栗林は、所長の厳命で、野沢温泉スキー場に行って炭疽菌の入った瓶を秘密裏に探すことになります(注6)。
 とはいえ、栗林は、スキーを大学の時に少しやったくらいで全くの素人だという設定(注7)。
 おまけに、スキーを履いて少々滑ったら、木に激突して靭帯を損傷し満足に動けなくなってしまいます。
 それで、炭疽菌の探索は、専ら、スキー場のパトロール隊員の根津大倉忠義)と、彼の後輩でスノーボードクロス選手の千晶大島優子)に任せ切りになってしまい、栗林自身は、スキー場のレストランなどでウロウロするばかりです。
 レストランの椅子に座って、頭髪をかきむしりながら、時間がただ経過するのを待つだけの主人公では、滑稽で面白いとしても、どうしようもありません(注8)。

 それに、本作は、危険極まりないとされる炭疽菌を巡るお話のはずですが、肝心の炭疽菌の取扱いがとても杜撰に見えるのはどうしたことでしょう?
 本来ならば、当初、栗林が炭疽菌の所在を保管庫で確かめようとする際に着用していた防護服が、どんな場合にも最低限必要なのではないでしょうか(注9)?
 もちろん、栗林以外の登場人物は、瓶の中身を正確には知らないのですから、普段通りで仕方ないにしても、炭疽菌の怖さをよく知っている栗林までも、炭疽菌の入った瓶を実に不注意に取り扱おうとします(注10)。

 この他にも、突っ込みどころは色々あるでしょう(注11)。

 とはいえ、炭疽菌を栗林が探索するというメインの物語の他に、医科学研究所の研究員・折口堀内敬子)の指示を受けてワダムロツヨシ)が炭疽菌を奪おうとする話なども絡んできて(注12)、それなりに飽きさせません。



 また、瓶を奪い取ったワダがスキーを滑らせて逃げるところ、それをスノーボードを履いた千晶が追う追跡劇は、なかなか見応えがあります。
 なにしろ、千晶役の大島優子が代役なしに演じたようで(注13)、最後はワダ゙とストックでチャンバラまがいのことまでするのですから。



(3)渡まち子氏は、「監督が「サラリーマンNEO 劇場版(笑)」の演出を手掛けた吉田照幸と聞いて、本作の脱力系ギャグに大いに納得。緊張と緩和がほどよいウェルメイドな娯楽作だ」として60点を付けています。



(注1)監督は吉田照幸(脚本にも参加)。
 脚本はハセベバクシンオー
 原作は東野圭吾著『疾風ロンド』(実業之日本社文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、阿部寛は『海よりもまだ深く』、大島優子は『ロマンス』、ムロツヨシは『金メダル男』、堀内敬子は『永い言い訳』、戸次重幸は『ぼくのおじさん』、柄本明は『後妻業の女』、麻生祐未は『麦子さんと』、堀部圭亮は『殿、利息でござる』(代官役)、生瀬勝久は『謎解きはディナーのあとで』で、それぞれ見ました。

(注2)ただし、その後の話の流れからすると、ここまでの話が「月曜日」の出来事で、ここからの話は「火曜日」の出来事であり、栗林たちが野沢温泉スキー場に出向くのは「水曜日」のように考えられます。

(注3)おそらく、秀人(中学2年生)が熱中しているスノーボードを父に買ってもらった時に、使ったワックスの後始末をちゃんとやるという約束をしたのでしょう。

(注4)というのも、なくなっているのは、研究員の葛原が培養した危険極まりない「炭疽菌k-55」。葛原は「究極の兵器だ」と豪語し、それを聞いた所長は彼を解雇していたのです。解雇を恨みに思った葛原は、「後で後悔するぞ」と所長に言い、とうとう「k-55」を研究所から盗み出しました。

(注5)さらに所長は、葛原から送られてきた写真を栗林に見せながら、「ぬいぐるみは発信機だ」、「瓶はその下に埋めてあるらしい」、「金を用意すれば、瓶がある場所を教えてくれる」などと言います。

(注6)事故で死んだ葛原の遺品から、瓶が野沢温泉スキー場のどこかに埋められていることがわかります。ただ、テディベアに仕組まれた発信機からの電波を受信する受信機も遺品の中にありましたが、発信機の電池の寿命があと4日間で尽きるので、金曜日までに探し出す必要があります。

(注7)栗林は、ボーゲンでゆっくり滑ってもバランスを崩してしまうほどで、スキー場で知った幼い女の子・ミハル大田しずく)〔父親(堀部圭亮)に連れてきてもらっています〕に、栗林が「気をつけて」と言ったところ、ミハルから「オマエモナ」と言われてしまう始末。

(注8)炭疽菌の入った瓶は、最後には、栗林の息子・秀人の機転によってすり替えられており、結局、栗林自身は、この炭疽菌探索行においては何一つ貢献できませんでした。
 原作者の東野圭吾氏は、劇場用パンフレット冒頭の「AUTHOR’S COMMENT」において、「主人公の栗林和幸は、決して無能な人間ではありません。むしろ優秀で、状況によってはヒーローになれる人材でしょう」と述べていますが、本作からはそんな風にはとても思えません。

(注9)炭疽菌を持って出国しようとした折口とワダが成田空港で捕まった際、爆発物処理班の警察官(生瀬勝久)が、完全装備をして登場します(炭疽菌に対する配慮と言うなら、少なくともそのくらいはするべきでしょう。ただ、その警察官が瓶の中身を確かめますが、でてきたのは、……)。

(注10)いい加減な取扱いから、栗林は瓶を床に落としてしまい、瓶が割れて中身が外に出てしまいます(栗林が、慌てて「生物兵器だ」などと叫ぶものの、中身はすり替えられていて、単なる胡椒でした。根津が「今、生物兵器とか言いませんでした?」と尋ねると、栗林は「そんなこと言わないよ」と猫をかぶります)。

(注11)例えば、医科学研究所の東郷所長役の柄本明は演技過剰気味で、一人だけ浮き上がっている感じがします。

(注12)栗林の息子・秀人は、野沢スキー場で地元の中学生・育美久保田紗友)と知り合いになりますが、育美の同級生の母親(麻生祐未)が娘をインフルエンザで最近亡くしていることから、本作の話に絡まってきます。ただ、このエピソード自体、地元の中学生を話に絡めようとするために作られたような取ってつけたわざとらしい感じがしてしまいますが。

(注13)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、大島優子は、「9歳からやっていたスノーボードを、仕事に活かすことができて、とても嬉しい」などと述べています。



★★☆☆☆☆



象のロケット:疾風ロンド

幸福のアリバイ

2016年11月29日 | 邦画(16年)
幸福のアリバイ~Picture~』を渋谷TOEIで見ました。

(1)俳優の陣内孝則が監督の作品というので、映画館に行ってみました。

 本作(注1)の冒頭で「葬式 Last Request」の字幕。
 次いで、通夜の模様が映し出され、僧侶の読経(般若心経)や木魚などの音がし、お焼香が執り行われています。
 亡くなったのはヤクザの親分・松田鏡蔵山田明郷)。
 その子分でしょうか、遺影の置かれている座敷で、男が二人話しています。
 男1(谷田歩)「大変だよな、お前のところいくつだ?」。
 男2(坂田聡)「オヤジが71、オフクロが69」。
 男1「じゃあ、まだだな。うちなんか80だ」。
 男2「上に2人いるんだろ?」。
 男1「だから、余計面倒くさいんだ」。
 そこへ、喪主(親分の息子:平賀雅臣)の妻(小野ゆり子)が、「足りてます?お酒。どうぞごゆっくり」と言って現れ、またすぐに出ていきます。

 隣の部屋からは、「断固反対です」と遺族の怒鳴り声が聞こえてきます。
 男1「まだ揉めてんのか、ちゃんとしないとダメだな、遺言は」。
 男2「気を使えよ、デリケートなもんだよ」。
 男1「書かせたのか、お前んとこ?ここみたいになったら、大変だ」。
 男2「黙れ」。

 そこに葬儀屋(佐藤二朗)が、「こちらで打ち合わせをしても?」と言って、部屋に入ってきます。
 男1「まだ揉めてんの?」。
 葬儀屋「いやまあ」。
 男1「やっぱ必要?遺言」。
 葬儀屋「やっぱ、あった方が」、「失礼ですが、喪主様とはどのようなご関係で?」。
 男1「会社の後輩」。
 葬儀屋「ちなみに、会社というのは?」、「ご家族が、どなたも話をしてくれないもので」。
 男2「強いて言うなら、サービス産業」。

 ここまではほんのはじめの部分。この後、話はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、人生の節目となる葬式、結婚、誕生などのイベントを5つの短編で繋いだ作品。最近では女性がメインとなる映画が多い中で、本作はどちらかと言えば男性がメインとなって描かれており、さらにどの短編もコミカルな味付けがなされていて、まずまず面白く見ることができました。

(2)本作は、副題に「Picture」とあるように、写真を巡って5つの話がオニムバス形式で描かれます。
 例えば、上記(1)でごく最初の部分を紹介した「葬式 Last Request」では、亡くなった親分・松田の遺言状が騒動の種となります。
 と言うのも、そこには相続のことは何も書かれていない代わりに、残した写真を皆に見せてくれと言っているだけながら、その写真にはとんでもないものが写っているからなのです(注2)。
 騒動の輪は広がりますが、結局、通夜にやってきた別の組の親分(大地康雄)が、「死んだ親分は、皆に笑ってもらいたいのだ。そういうヤツなんだよ、お前のオヤジは」と喪主に言い、死んだ親分が幸せそうに笑っている写真を皆が一緒に見て、お互いに笑い合うことになります。



 本作は、「葬式 Last Request」に続いて、「見合い Gift」、「成人 Suits」、「誕生 Father in Law」、「結婚 Wedding March」と4つのエピソードが綴られますが、どれも写真が意味を持ってきます。
 この点について、本作を制作した陣内孝則監督は、次のように述べています(注3)。
 「「なんで人間って、写真を撮りたがるのかな」っていうところから始まったんですよ。僕、こういう仕事をしているのに、写真が嫌いなんです。それで逆に、写真を撮る時に見えてくる人間模様が面白いんじゃないかと思ったんです。写真といえば冠婚葬祭で、葬式なら遺影、結婚式なら結婚写真や集合写真など、いろんな写真があるじゃないですか。だから、写真で始まって写真で終わる形で、その中の人間模様を切り取れないかな、というところからの発想です」。

 確かに、人生の節目となるイベントでの写真が本作では取り扱われています。
 それらの写真はどれも、如何にも幸福そうに人物が写っていますが、でも、その背後にはそれぞれの複雑な思いが隠れているのだ、ということがそれぞれのエピソードで綴られています(注4)。
 それで本作は、静止画である写真が主役のようでありながらも、それを動画で描き出しているところが面白いなと思います。
 というか、写真の方が、むしろ動画よりも背後の思いを強く感じさせることがあるようです。
 例えば、唐突ですが、『八日目の蝉』におけるこの写真(注5)。



 本作で言えば、特に、「誕生 Father in Law」のエピソードにおけるCDのジャケットの写真(注6)。
 それに、「結婚 Wedding March」のエピソードにおける最後の集合写真。
 そこでは、式場カメラマンのサラ木南晴夏)が写真を撮るのですが、打ちひしがれたサカキ山崎樹範)は写真の枠組みから外れていることでしょう。

 なお、そのエピソードは、「見合い Gift」のエピソードの後日譚のようでもあります。
 こうしたところを見ると、陣内監督はオムニバス形式のものは当たったことがないと述べているのですが(注7)、その理由の一つが分かる感じがします。
 というのも、短編のあつまりにすると、展開が不十分だと思えてくるのではないでしょうか?
 確かに、「見合い Gift」でもオチはついているように思えるものの、「幸福のアリバイ」という総タイトルからすれば、充分に描き切っているといえないかもしれません。それで、「見合い Gift」に登場するサカキとサラが、最後のエピソードに再度登場することになったのではないでしょうか(注8)?






(注1)原案・監督は陣内孝則
 脚本は、『桐島、部活やめるってよ』や『幕が上がる』の喜安浩平

 なお、出演者の内、最近では、中井貴一木南晴夏は『グッドモーニングショー』、柳葉敏郎は『踊る大捜査線 The Final―新たなる希望』、木村多江清野菜名は『金メダル男』、坂田聡は『百円の恋』で、それぞれ見ました。

(注2)親分が残した写真には、亡くなった親分がにこやかに愛人と一緒にいる姿が写っていたり、男1が「ダメよ、ダメダメ」(日本エレキテル連合の朱美ちゃん)の仮装をして親分と写っていたりするものや、男2がカツラを被っていることが分かる写真、それに政治家が親分からカネを受け取っているところを写した写真があるのです。
 喪主は、「オヤジがこんなに笑っているところを見たことがない」と言います。
 ただ、喪主は、愛人が写っている写真について、「ばあさんなんか鼻血を出して、葬式なんかしなくていいと言っている」と話します。
 それに、男1は、自分の写真を皆に見せてはダメだと言いますし、男2も、彼の写真を見せると喪主が言うと、懐から短刀を出します。さらに、政治家との写真が知れ渡ると組の存続が危うくなってしまうと、喪主が言います。

(注3)この記事より。

(注4)ただ、細かく見ていくと、2番目の「見合い Gift」で登場する「見合い写真」は、他のエピソードにおける写真とは違って実に形式的なものであり、背後の「思い」が何もないように思われます。もしかしたら、「見合い写真」に添えられている履歴書が、その背後にある「思い」なのかもしれませんが(なにしろ、写真の人物は、37歳のダサい男ながら、開業医で年収がものすごいのですから)。
 なお、タイトルにある「Gift」とは、見合い写真が、送り主である父親から娘・サラへの「お届け物」(配達人がそう言います)ということなのでしょう。

(注5)あるいは、『非情城市』(1989年)におけるこの写真。



(注6)義父(柳葉敏郎)の一人娘・ヒロミ清野菜名)が小学校入学の時の写真。義父がヒロミの相手の男(浅利陽介)に話したところによれば、この写真はヒロミの母親が撮ったが、彼女はその後すぐに失踪してしまったとのこと。

(注7)このインタビュー記事において、陣内監督は、「(オムニバス映画は、)みなさんから興行的にどうなのかといわれたが、当たったことがないから面白いんじゃないかという考え方もありますからね」、「あえてオリジナルで、オムニバスで、しかも俳優上がりの監督でという、それだけマイナス要素が重なれば、逆に面白いんじゃないか」などと述べています。

(注8)その点からすれば、「成人 Suits」も、一応、父親(中井貴一)と母親(木村多江)と成人式を迎えた息子(柾木玲弥)の写真は撮れてオチはついたものの、息子がどういう格好で成人式に臨むのかという当初の問題は何も解決はしていません。





★★★☆☆☆



象のロケット:幸福のアリバイ

この世界の片隅に

2016年11月25日 | 邦画(16年)
 アニメ『この世界の片隅に』をテアトル新宿で見ました。

(1)予告編を見て良い作品に違いないと思って、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、昭和8年12月(注2)の広島市江波
 8歳のすず(声は「のん」)が、川(注3)沿いの道を荷物を背負って歩いています。
 「うちは、よう、ボーッとした子じゃと言われた」とのモノローグ。
 ちょうど通りかかった砂利を運搬する舟に乗せてもらうと、すずは船頭に、「海苔を届けます。本来は兄の役目ですが、風邪を引いたので代わりに私が。海苔を届けたら、兄と妹にお土産を買って帰ります」と話します。
 船着き場に着くと、すずは船頭に礼を言い、舟を降りて、再び荷物を背負い階段を上がります。
 すずは賑わう街中を歩いていきます。
 「チョコレート10銭」の札が見えたりします。
 そして、「悲しくてやりきれない」(注4)の歌と共に、タイトルクレジットが流れます。

 すずは道に迷ってしまい、かごを背負った大きな男に、目的の料理屋の場所を尋ねます。
 すると男は、すずを肩に担ぎ上げて、「高いところなら見つかるだろう」と望遠鏡を渡します。
 ですが、すずは、男が背負っている籠の中に落ちてしまいます。
 籠の中には男の子(注5)が先にいて、「あいつは人さらいだ」と言うのです。
 結局、すずの機転によって男が横になって寝たところで、二人は籠を抜け出します。
 男の子はすずに、「あんがとな、浦野すず」と言うので、すずは「いつの間にうちの名前を」と驚きます。男の子は「ももひきの裾に書いてあった」「元気でな」と言って立ち去ります。

 次いで、昭和10年8月(注6)。
 朝早くに潮が大きく引いた海岸を見たすず(10歳)のモノローグ、「昨夜はあんなだったのに、今朝になるとこうだ」。
 すずは、両親や兄、妹のすみと一緒に草津に行くことに。
 そこには、すずたちの叔父の一家と祖母が住んでいます。
 すずのモノローグ「お祖母さんは、毎年、新しい着物を作って待っていた」。
 すずに着物を着せると、祖母は「べっぴんさんや」と言います。
 すずのモノローグ「いろいろあるけれど、子供であるのは悪くない」。

 3人は川の字になって昼寝。
 すずが目を覚まして天井を見ると、そこから子供が降りてきて、スイカの食べ残しを食べます。その話を聞いた兄は、「すずが見たのは座敷わらしに違いない」と言います(注7)。

 こんな風に物語は始まりますが、さあ、これからどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、終戦前の18歳で広島から呉に住む男の元へ嫁いできた主人公をめぐるお話。



 広島や呉の市街地の様子とか、日々の生活の有様といったものが、実に丹念に描き込まれているだけでなく、戦争がじわじわと主人公らの生活を脅かしていく中で、次第に夫への愛情を深めていく主人公の物語も大いに共感でき、素晴らしい感動作になっているなと思いました。

(2)今年は、4月に広島を舞台とする『モヒカン故郷へ帰る』が公開され(注8)、5月にオバマ大統領が広島を訪れ、さらに9月には広島カープがセ・リーグを制し、そして11月の本作の公開、という具合に、1年を通して広島の年だったという感じです。

 もっと言うと、『モヒカン故郷へ帰る』に登場する主人公(松田龍平)の名前の永吉は、その父親(柄本明)が心酔する矢沢永吉に由来するものですが、矢沢永吉の父親は被爆して、彼が少学2年生の時に亡くなっています(例えば、この記事)。
 また、広島カープは、1950年に誕生し、戦後復興の象徴とされてきました(例えば、この記事)。
 オバマ大統領の広島訪問や本作については、言わずもがな。
 こう見てくると、今年を広島の年にしているいろいろな出来事は、多かれ少なかれ、前の大戦に絡んでいるようにも思われます。

 このような様々の関係性から、本作が、本年の押し詰まってきた頃に公開されるというのも、とても意味深に思えてきます。

 それはともかく、本作を見て教えられることばかりだというのが実感です。
 例えば、炒った玄米に水を一晩吸わせて炊き上げる「楠公飯」という節米料理は、本作で初めて見ました(注9)。



 また「入湯上陸」というシステムが海軍にあったことも知りませんでした(注10)。

 さらに言えば、昭和20年になると、呉はなんども空襲に遭いますが、どうも広島はそれほどでもなさそうなのです。
 すずの妹・すみがすずの嫁ぎ先にやってきて(昭和20年7月)、その家から見える呉市街の焼け野原を見て、「呉は何遍も空襲があって大変だね。広島に帰っておいで。空襲もないし、来月の6日にはお祭りもあるし」と言います。
 このセリフを聞いてハッとしました。米軍は、8月の原爆投下に備えて広島の空襲を控えていたのではないのか、と気がついたからです(注11)。

 また、すずと晴海(義姉の娘)が遭遇した時限式爆弾のことも知りませんでした(注12)。

 つまらないことですが、クマネズミが広島で暮らしている時に何度か買い物に行ったことのある「福屋百貨店」が、今と同じ姿で戦前からあったのを知って驚きました。



 本作では、終戦前後の人々の実際の生活ぶりがどのようなものであったのか、実にリアルに描かれていますし、戦争がヒタヒタと近づいて、そうした生活を根底から脅かしていく様子も大層巧みに描かれているように思います。
 ただ、それだけでなく、主人公のすずと夫の周作との関係についても、微細な感情の揺れ動きまで描かれていて、見る者に大きな説得力を持って迫る仕上がりになっていると思いました(注13)。

(3)渡まち子氏は、「観客は、映画を見て泣いてしまうのに、希望を感じるはず。なぜなら、この珠玉の映画には、生きることの喜びと素晴らしさがあふれているからなのだ」として85点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「戦時下の生活を中心にした主人公の年代記的な出来事と時代の変化が緩急をつけて巧く構成され、現実味ある世界にアニメ特有の不思議な雰囲気が漂っていて魅了される」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「戦争や貧困、家制度の中で抑圧を受けながらも、手を取り合って生きる女性たちの姿を丹念に描ききったアニメ作品。世界の片隅に生きる人々の心の中にこそ、砲弾や原爆よりはるかに強いものがあることを示すラストはこれ以上ない人間賛歌のドラマである」と述べています。



(注1)脚本・監督は、片渕須直
 原作は、こうの史代著『この世界の片隅に』(双葉社:上巻のみ既読)。

 なお、すずを演じている「のん」は、能年玲奈の時に、『グッモーエビアン!』や『カラスの親指』で見ています。

(注2)原作漫画で対応するのは、上巻の冒頭に掲載されている「冬の記憶」ですが、そこでは「9年1月」とされています。
〔この点については、片渕須直氏による「1300日の記録」に掲載されている「第15回8年12月」の「2011年7月15日金曜日(344日目)」をご覧ください←ナドレックさんのTwitterの記事に導かれてわかりました〕

(注3)旧太田川(通称「本川」)。

(注4)本作では、コトリンゴが歌っています。

(注5)実は、後にすずの夫となる周吉。

(注6)ここは、原作漫画の上巻の冒頭に掲載されている「大潮の頃」に対応し、時点は原作漫画と同じです。

(注7)座敷わらしについては、Wikipediaのこの記事
 ただ、そこでは、「主に岩手県に伝えられる精霊的な存在」とあり、「柳田國男の『遠野物語』や『石神問答』などでも知られ」ると記載されています。それが本作の広島県の話に登場するのは、すずの兄が学校で習ってきたからでしょう。
 なお、本作のエンドロールで描かれていることからすれば、この座敷わらしが「リン」になるようです(「リン」については、下記の「注13」を参照してください)。

(注8)ただ、沖田修一監督のこのインタビュー記事においては、「台本を書いている段階で、帰郷の話だとしたら、帰りたくなくなるぐらいに距離感があって、遠い場所がいいなと思ったんです。そう考えた時に、じゃあ“島”だなと。海辺の雰囲気や穏やかな町のイメージが湧いたので、そういうイメージがある瀬戸内海を中心にロケハンをし始めました。広島の四島に決めたのは、観光地という感じがなく、どこにでもあるような町の雰囲気がすごくいいなと思ったからです」とあり、制作者の広島へのこだわりからこうした作品を作ったわけではなさそうです。

(注9)本作では、すずが嫁ぎ先でこの「楠公飯」を炊くのですが、御飯の量は増えるものの、味が薄くなってしまい、夫・周作の母親から、「あれを喜んで食べる楠公は本当の豪傑だ」と皮肉られてしまいます(昭和19年)。

(注10)この記事によれば、「実施部隊(実戦航空隊)へ行けば一日置きに上陸できたがこれを入湯上陸といった」とのこと。
 本作では、この入湯上陸で、すずの高等小学校時代の同級生の水原が、すずの嫁ぎ先にやってきて、一晩泊ります(昭和19年12月)。

(注11)呉は軍港でしたから空襲を受けて当然ながら、広島にも軍関係の施設はかなり設けられていたはずです。にもかかわらず、空襲をそれほど受けていないということは、この記事が言うように、「5月28日には、原爆の効果を正確に測定できるよう、同規模の都市が空襲を受ける中、投下目標都市に対する空襲が禁止され」たことによるのでしょう。

(注12)すずは、呉工廠に対する空襲の後、晴海と連れだって歩いていますが、壁の壊れたところに穴が開いているのが見えます。その時、軍の関係者から教わった時限爆弾のことを思い出して、慌てて晴海の腕を引っ張ってその場所を離れようとするのですが、…。
 このときの爆弾については、片渕須直監督が、このコラムで次のように述べています。
「この6月22日の空襲は、呉海軍工廠の南の端に位置する造兵部だけを目標にしたものだった。一般市街地空襲ではなく、純然たる軍事目標の破壊を目的としたものだったので、投下弾種は焼夷弾ではなく爆弾に絞られていた」、「これらの爆弾には、コンクリートを突き破り、地中に入ってから爆発する1/40秒遅動信管が多く使われた。このように地中に貫入してから爆発するものは「地雷弾」と呼ばれ、大きなクレーターを残した」、「中には空襲終了後の日本側による消火作業や修復作業を妨害するために時限信管を着けたものも混ぜられていた。この場合、最短約5分より最長304時間までの時限爆弾となる」。
 他には、例えば、Wikipediaのこの記事には、「4月21日  鹿児島空襲 鹿児島市電上町線の一部区間が被害を受けた。時限爆弾が投下され、5月末ごろまで昼となく夜となく爆発を続けたため、熊本第6師団から歩兵1個中隊と工兵隊1分隊が、時限爆弾とこの不発弾処理にあたった」という記述があります(この記事にも、類似の記載があります)。

(注13)すずと周吉の初めての出会いは、本文(1)で触れたように、ふしぎな大男の籠の中(ただ、この話は、すずが妹のすみに話しているものであり、本当にあったことなのかどうかはわかりません)。その時に周吉はすずに好印象を持ち、それで10年後の結婚に結びつきます。
 とはいえ、すずは、高等小学校の同級生の水原を憎からず思っていて、そのことは周吉も察知します(上記「注10」の話が絡んできます)。でも、あれやこれやがあるものの、結局は、すずの言葉「周作さん、ありがとう。この世界の片隅にうちを見つけてくれて」に行き着きます。

 なお、このブログ記事に導かれて読んだこのブログ記事に、「私は、映画を見て監督は「白木リン」というキャラクターをすごく軽視しているのではないかと怒りを感じたが、実際はむしろその真逆で、片渕監督は彼女がすごくこの作品において重要であることを理解したうえで、このような映画版に仕上げたのだと言う事がわかった」とあるのを見て、大層驚きました。
 実は、クマネズミは、映画を見てから原作漫画の上巻だけを読んだのですが、そこには登場しない「白木リン」(本作では、遊郭のあるところで道に迷ったすずに、遊女のリンが話しかけるだけです)が、原作漫画の中巻以降ではではかなり重要な役割を演じていることがわかったからです。にもかかわらず、なぜ片淵監督が映画版のような扱いにしたのかが、この記事を読むと理解できます。



★★★★★☆



象のロケット:この世界の片隅に

ぼくのおじさん

2016年11月15日 | 邦画(16年)
 『ぼくのおじさん』を渋谷TOEIで見ました。

(1)北杜夫の原作を松田龍平の主演で映画化したというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は小学4年生のクラスで、中に春山雪男大西利空)が座っています。
 担任のみのり先生(戸田恵梨香)から、皆のまわりにいる大人の人について誰でもいいから作文を書いてくるよう、宿題が出されます。優秀なものは作文コンクールに出すとのこと。



 家に帰る途中、雪男の仲間は家族の誰かを書くようで、雪男に「雪男くんの家は?」と尋ねるので、雪男は「パパ(宮藤官九郎)は公務員で課長、ママ(寺島しのぶ)は専業主婦だけど」と答えます。

 家に戻ると、雪男は机に作文用紙を開いて、「ぼくのお父さん」とか「ぼくのお母さん」のタイトルを書き入れますが、書き倦んでしまいます。



 妹が「おやつよ」と呼びに来たので、机の上の作文用紙をクシャクシャにまるめて、別の用紙を開いて「ぼくの妹」と書き込むものの、すぐに「ダメダメ、大人じゃないと」と呟きます。

 そこに、この家に居候をしている“おじさん”(雪男の父の弟:松田龍平)が、「雪男君、勉強中?お邪魔?」と言いながら顔を出します。



 雪男が「いや、休憩中」と応じるものですから、おじさんは、「『少年キック』の発売日では?」と訊きます。それに対し、雪男は「あれはママに止められた。高学年になったらもっと高級な本を読まないと」と答えます。
 するとおじさんは、「ボクにはマンガが必要。頭を休ませないといけない。それに、現代の哲学者は、マンガを語らなくてはならないのだ」と言います。
 雪男は「ママに叱られる」と嫌がるところ、おじさんが「本にカバーをかければいい」となおも迫るものですから、仕方なく雪男が「お金を」と言うと、おじさんは「お前も読むのだから、3分の1は出す」と応じます。

 おじさんは、雪男が買ってきた漫画雑誌を万年床に寝っ転がって読み、時折笑い声を立てます。それを聞いた雪男は、机の上の作文用紙に「ぼくのおじさん」とのタイトルを書き込みます。

 こうして、雪男の書く作文が読み上げられるという形でこのおじさんを巡る物語が描かれていきますが、さてどのような展開となるのでしょうか、………?

 本作は、兄の家に居候する哲学の非常勤講師の物語。ひょんなことからハワイで農園を営む女性に一目惚れしたおじさんと甥っ子のハワイ旅行の話が中心のコメディ。松田龍平が好演するおじさんののんびりした様子には心が癒やされるものの、原作が書かれた60年ほど前ならともかく、今時こうした雰囲気はなかなか見かけないのではとも思えてしまいます。

(2)「東映」のサイトに掲載されている「ぼくのおじさん」の「イントロダクション」には、「ダメ人間だけどどこか面白おかしい“おじさん”の物語は、大人も子供も誰もが楽しめるあの名シリーズ「寅さん」を彷彿とさせます」とあり、また『男はつらいよ』シリーズ自体にタイトルが『男はつらいよ ぼくの伯父さん』(第42作:1989年)という作品があります(注2)。
 確かに、本作は、おじさんが主人公の笑える場面がいくつもあるコメディ作品であり、かつまたそのおじさんの悲恋物語でもありますから、『男はつらいよ』シリーズとの類似性は高いものと思います。
 特に、『男はつらいよ ぼくの伯父さん』以降のいくつかの作品では、甥の満男吉岡秀隆)とおじさんの寅さん渥美清)との関係が描かれていますから、なおさらでしょう。

 ただ、『男はつらいよ』の主人公の車寅次郎がテキ屋家業を生業としているのに対し、本作の主人公は、大学の哲学の非常勤講師なのです(注3)。世の中の中心ではなく、隅の方でうごめいている人物という点は案外共通しているかもしれないとはいえ、時々カントを引用したりする本作のおじさんの雰囲気は(注4)、「結構毛だらけ猫灰だらけ」などが口癖の車寅次郎とは全く別物と言えるでしょう。
 なにより、きっぷの良さが売り物の車寅次郎と、どこかネジの外れた感じのする本作のおじさんとは、キャラクターが随分と違っています。
 それに、寅さんは、全国を股にかけて歩き回っていて、殆ど家にいませんが、本作の主人公は、哲学的思索にふけるためか、居候先の部屋に敷かれた万年床で横になっていることが多そうです。

 とはいえ、美人に対する感度が鋭いのは両作に共通しているように思われます。
 寅さんは、第1作の冬子光本幸子)を始めとして、毎回マドンナを見つけては振られますが、本作のおじさんも、稲葉エリー真木よう子)に簡単に一目惚れをしてしまいます。



 そして、エリーのことが忘れられないおじさんは、雪男とともに一足飛びにハワイに行くことになりますが、寅さんの場合は、日本全国を股にかけるとはいえ、海外には殆ど出ません(注5)。

 こんなふうに本作と『男はつらいよ』とを比較していくとネタは尽きないながらも、本作だけを見た場合には、少々違和感を覚えるところもあります。
 例えば、本作は、携帯電話が使われているなど、時点は現代を想定していますが、哲学を研究しているというおじさんの風采は、一昔前のいわゆる“デカンショ”節を歌う旧制高校的な“学士様”の感じがしてしまいます(注6)。
 丸メガネをかけ、寝癖でボサボサの髪の毛で、部屋に万年床を敷き、そのまわりに乱雑に本が置かれている、などというのは、はたして今時の哲学研究者に見いだせるのでしょうか?

 それに、おじさんが大の苦手とする伯母(キムラ緑子)が見合い話を持ち込みますが、今時、こんなにまともな見合い話が行われるとも思われないところです(注7)。まして、エリーのような美女がお見合いの席に登場するなんて(注8)!

 尤も、稲葉エリーの話は原作には見当たらないようですですが(注9)。
 その関連で言えば、彼女が引き継ごうとしているハワイのコーヒー農園「INABA FARM」は、農園を取り仕切るボブサイモン・エルブリング)の話によれば経営が上手く言っていないとのことながら、急きょ、なぜか日本のデパートが取引契約することになって持ち直すようなのです(注10)。

 とはいえ、これらの点はつまらないことがらであり、総じて、全編にあふれるユーモアとゆるいほのぼのとした感じを味わえば十分なのかな、と思いました。

(3)渡まち子氏は、「ユルい笑いと共に市井の人々が持つおかし味をあたたかくみつめる山下敦弘監督らしさがにじむ佳作に仕上がった」として65点を付けています。
 森直人氏は、「これはキャラクター映画として絶品だ。作家・北杜夫が約45年前に発表して以来、長く愛される児童文学の名作が、疑似親子的な男同士の小さな冒険を描くキュートなバディ(相棒)ものになった」と述べています。



(注1)監督は、『オーバー・フェンス』の山下敦弘
 脚本は、須藤泰司(本作は春山ユキオの名義)。
 原作は、北杜夫著『ぼくのおじさん』(新潮文庫)。

 出演者の内、最近では、松田龍平は『殿、利息でござる!』、大西利空は『金メダル男』、真木よう子は『海よりもまだ深く』、寺島しのぶは『シェル・コレクター』、宮藤官九郎は『バクマン。』、キムラ緑子戸田恵梨香は『日本のいちばん長い日』で、それぞれ見ました。

(注2)劇場用パンフレット掲載の川本三郎氏のエッセイ「困ったおじさんではあるけれど」でも、「フランス映画『ぼくの伯父さん』(58年)のジャック・タティや、わが山田洋次監督『男はつらいよ』シリーズの渥美清演じる寅さんがすぐに思い浮かぶ」と述べられています。

(注3)哲学に携わる人を描いた最近の映画作品に関しては、この拙エントリの(注1)をご覧ください。

(注4)カントが臨終の際に言ったとされる「Es ist gut」を、おじさんは時々口にします。

(注5)ただし、41作目の『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』(1989年)では、寅さんはウィーンに降り立ちます。

(注6)Wikipediaのこの記事によれば、原作は1972年に刊行された単行本(旺文社)に収められていますが、実際には、旺文社の雑誌『中二時代』で昭和37年(1962年)5月号から翌年『中三時代』まで連載されたものであり、さらに、「おじさん」のモデルは作者の北杜夫自身」とすれば〔劇場用パンフレット掲載の「INTORODUCTION」には、「作家本人が自らをモデルに、兄の家に居候していた頃の体験を膨らませて、ユーモアたっぷりに描いたもの」と述べられています〕、原作は昭和30年代前半(作者の北杜夫が30歳位としたら、)を踏まえてのものだと思われます。要するに、現時点から60年余り昔の状況が原作には書き込まれているのではないでしょうか?

 なお、本文の(2)で触れた「東映」サイトに掲載されている「イントロダクション」では、「昭和40年代をベースに書かれている原作を、時代設定は現代に置き換えつつ、家族とのやり取りに感じられるどこか懐かしい昭和感は健在」と述べられていますが、クマネズミは読んでいないにもかかわらず、原作は「昭和30年代をベース」にしているのではないかと考えます。

 また、話が飛躍してしまいますが、アニメ『コクリコ坂から』では、昭和38年頃、学園内に設けられている「カルチェラタン」に設けられている「哲学部」の部室に、戦前の旧制高校生然とした図体の大きな生徒がいる様子が描かれています〔同作に関する拙エントリの(1)のニをご覧ください〕。

(注7)この記事によれば、「お見合い結婚は約6%、一方で恋愛結婚は約87%を占めます。もう圧倒的に恋愛結婚」とのこと。さらに、「1960年代にお見合い結婚と恋愛結婚の比率が逆転」したとのことですから、原作の物語は書かれた当時の状況を踏まえていることになるのでしょう。

(注8)モット言えば、おじさんは非常勤講師として哲学の授業を週に1コマ持っているようですが、それだと月収はせいぜい5万円弱くらいでしょうから、お見合いするに足る書類条件に全く適っていないように思われます。

(注9)山下敦弘監督のこのインタビュー記事では、「山下監督の「原作のセリフを変えるとつまらなくなる」という思いから、「前半はほぼ原作通り」だが、後半はおじさんの恋愛を主軸にしたオリジナルストーリーが展開する」と述べられています。
 『高台家の人々』を見たときにも感じたのですが〔同作に関する拙エントリの(2)をご覧ください〕、原作に沿って展開する前半部分の面白さに比べて、オリジナルストーリーになる後半部分がどうしても息切れ気味になってしまっているように思いました。

(注10)それまで稲葉農園で生産されるコーヒー豆については、買い手がつかなかった状況だったにもかかわらず、いくら有名菓子店の社長の青木戸次重幸)の画策があるとはいえ、日本のデパートが突然契約をするというのは、もう少し説明してもらわないと理解しがたい感じがしてしまいます(たぶん、稲葉農園のコーヒー豆の価格が他の農園に比べてかなり高いのだろうと思われます。それをそのままに契約すれば、今度はデパート側に損が発生するかもしれません。それに、今の時代、デパートが直接こうした商取引をするとも思えません。常識的には、そこに店舗を出している企業が契約をするのではないでしょうか)。



★★★☆☆☆



象のロケット:ぼくのおじさん

湯を沸かすほどの熱い愛

2016年11月11日 | 邦画(16年)
 『湯を沸かすほどの熱い愛』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)宮沢りえの主演作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、銭湯の煙突。ですが、煙が出ていません
 銭湯の入口も閉まっていて、「店主が蒸発し、お湯は沸きません  幸の湯」の張り紙。

 次いで、幸の湯の店主・幸野一浩オダギリジョー)の妻・双葉宮沢りえ)が、ベランダで洗濯物を干しています。洗濯物の中に娘のブラジャーがあるのを取り出して、「まだ大丈夫」と呟きます。



 さらに、朝食の光景。
 TVを見ながら食べている娘の安澄杉咲花)に向かって、双葉が「食べるか見るか、どっちかにして」と叱ります。すると、安澄が食べないでTVを見ようとするので、双葉はTVを消して「食べて、遅刻する」と注意します。
 安澄は味噌汁に口をつけて、「違う、一昨日もそう言ったじゃない?」と言うと、双葉は「文句言う人は食べなくていい」と応じます。それに対し、安澄が「食べろと言ったり、食べなくていいと言ったり」と反論します。

 次いで、玄関。
 安澄が「お腹が痛い」「頭が痛い」と言って学校に行くのを渋ると、双葉は「学校裏のコロッケが美味しい店に帰りがけに行って、4つ買ってきてくれる?」と頼みます。
 仕方なく安澄が玄関を出ると、双葉は「ハンカチ持った?」と尋ねて、自分のハンカチを安澄に渡します。すると、安澄は「お母ちゃん臭い」と嫌がりますが、双葉は「文句言わない」「行ってらっしゃい」と安澄を外に出します。
 双葉が「(自転車に)途中まで乗ってく?」ときくと、安澄は「親と二人乗りは恥ずかしい」と拒否します。これに対し、双葉は「恥ずかしい親で悪かったわね」と応じます。

 2年C組の教室。
 安澄が席に座っていると、クラスの女生徒が次々と安澄の机を足で蹴ります。どうやら、安澄はイジメに遭っているようです。

 これが本作のごく始まりのところですが、さあこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、余命2ヶ月と宣告された主婦の頑張りの物語。それだけでなく、自分自身や自分の娘などにも出生の秘密があったりして、感動を盛り上げる要素に事欠きません。ただ、決して単純なお涙頂戴の作品ではなく、主人公が短い期間の内に様々の問題を解決してしまおうとするその情熱の凄さが描かれるので、見終わってもジメッとならず、むしろカラッとした気持ちになってしまいます。宮沢りえは本当に大した俳優になったものだと思いました。

(2)本作の主人公の双葉は、癌のために余命2ヶ月と宣告されますが、こうした設定の作品は、同じ時期に公開されている邦画の『ボクの妻と結婚してください』(注2)のみならず、これまでにも色々作り出されています。
 最近の洋画でみても、例えば、『きっと、星のせいじゃない。』(注3)とか、『永遠の僕たち』(注4)や『50/50』(注5)と『私だけのハッピー・エンディング』(注6)などなど、目白押し状態です。
 本作は、それに加え、双葉の夫・一浩が失踪していたり、さらに、双葉自身や娘の安澄の出生には大きな問題がありますし、安澄は学校でイジメに遭ったりしています。
 さらに、一浩は、幸の湯に戻ってくる際に、それまで一緒にいた女との間にできた子供・鮎子伊東蒼)を連れてくるのです。



 これほど様々な問題をてんこ盛りされると、見る者は、一々涙を流してばかりいられなくなり、返って、一体これらは映画の中でどのように処理されるのか、ということに関心を持つようになってきます。
 そこでまさに、宮沢りえ扮する双葉の八面六臂の活躍に目を見張ることになります。
 例えば、安澄が学校でイジメを受けていることがわかりながらも、双葉は、「逃げちゃダメ。今時分で立ち向かわないと」と言って、休もうとする安澄を無理やり学校に送り出しますし(注7)、母親を求めていなくなってしまった鮎子の居場所をカンを働かせて探し出して、家に連れ帰ったりします。

 こうなると、彼女の周囲の男性は、当然のことながらダメ人間となるでしょう。
 例えば、一浩は、自分がいなくなれば幸の湯が営業できなくなることを承知していながら、浮気相手だった女に出会うと、一緒に生活するために双葉のところから失踪してしまいます。
 駐車場で双葉たちがたまたま出会ったヒッチハイカーの拓海松坂桃李)は、まったく目標・目的を定めずにヒッチハイクを続けています(注8)。

 また、本作で描かれる大人の女性も、主人公の双葉を除けば、登場する男性側に負けず劣らずダメ人間と言えるかもしれません。
 例えば、安澄の実母である君江篠原ゆき子)は、以前一浩と結婚しており、その時安澄が生まれたものの、世話ができずに逃げ出してしまいました(注9)。
 鮎子も、一浩の子供らしいのですが、母親・幸子(本作には登場しません)は、二人を残して逃げ出してしまいます(注10)。

 こうした人たちに取り囲まれながら、双葉は、自分自身だけでなくこれらのダメ人間が抱える問題についても、解決の方策をそれぞれ提示しているのです。
 例えば、一浩の居場所がわかると、双葉は出向いていって、自分の窮状を話し、一浩の自覚を促しますし、拓海には「日本の最北端」という具体的な目的地を提示したりします(注11)。



 本作は、いわゆる“余命物”にありがちな雰囲気はほとんど感じさせず、むしろユーモアすら見出せ、なるほどそうなのかと思わせるラストシーンをも含め、むしろカラッとした明るい感じで映画館を後にすることができました。
 そうなる要因の大きなものは、おそらく主演の宮沢りえの素晴らしい演技でしょう。
 『紙の月』におけるリアルな演技もよかったですが、本作の肝っ玉母さん的なものも感銘を受けました(注12)。

(3)渡まち子氏は、「身体は細いが、心は大きくたくましい、肝っ玉母さんのような双葉を演じる宮沢りえをはじめとして、キャストはすべて好演で、家族としてのアンサンブルは劇中に登場するピラミッドのごとく絶妙なバランスだ」として75点をつけています。
 宇田川幸洋氏は、「見る者の興味をひきつけつづける、たくみで熱いかたりくち。オリジナル脚本と監督は、これがいわゆる商業映画デビューとなる、「チチを撮りに」(2012年)の中野量太。力量を感じさせる」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。
 暉峻創三氏は、「これは病弱な女とその近親者の幸薄い物語ではない。死期迫った強い女が、次の世代の強い女を育て上げようとする、最後まで前向きな物語だ」と述べています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「母ものと余命ものを合わせた家族ドラマと聞くと「またか」と思わされるが、これは優れた配役とよく練られたオリジナル脚本で見せる一本。決してスーパーウーマンではない普通の母親の強さ、たくましさを表現した宮沢、つらい現実から逃げない勇気をしぼり出す娘をひたむきに演じた杉咲が共に素晴らしい」と述べています。



(注1)監督・脚本は、中野量太

 なお、出演者の内、最近では、宮沢りえは『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、杉咲花は『スキャナー 記憶のカケラをよむ男』、オダギリジョーは『オーバー・フェンス』、松坂桃李は『秘密 THE TOP SECRET』、篠原ゆき子は『二重生活』、りりィは『リップヴァンウィンクルの花嫁』で、それぞれ見ました。

(注2)公式サイトの「ストーリー」によれば、同作の主人公は、「すい臓がん。しかも末期。余命6か月」と検査で宣告されます。

(注3)17歳で末期ガンを患っている少女・ヘイゼルシャイリー・ウッドリー)が主人公。

(注4)脳腫瘍のため余命3カ月と宣告された少女・アナベルミア・ワシコウスカ)が登場します。

(注5)脊髄癌(悪性神経鞘腫)のため5年後の生存率がフィフティ・フィフティと宣告された若者・アダムジョゼフ・ゴードン=レヴィット)が主人公。

(注6)大腸癌のため余命半年と宣告された30歳の女性・マーリーケイト・ハドソン)が主人公。

(注7)その結果、安澄はイジメを跳ね返すことができるのですが、帰宅後に安澄が双葉に言った言葉(「お母ちゃんの遺伝子がちょっとだけあった」)は、その後の経緯を考えると涙を誘います。

(注8)さらに言えば、興信所の滝本駿河太郎)は、双葉が依頼した件(失踪した夫・一浩、安澄の実母、自分の実母の居場所の調査)をすぐに解決してしまう腕を持っていますが、妻を亡くしたために、娘の真由)をいつも連れ歩いています。

(注9)双葉が安澄に話すところによれば、君江は、耳が不自由で安澄の泣き声が聞こえなかったことから、育てることに自信が持てなくなって逃げ出したとのこと。でも、世の中には、耳が不自由でも子育てをしている女性がいくらでもいることでしょう。

(注10)さらには、双葉の実母・向田都子りりィ:11月11日に亡くなりました)は、双葉がやっとの思いで訪ねてきても、会おうとはしません。

(注11)無論、すべての問題が解決されるわけではなく、例えば、双葉の実母・向田都子や鮎子の母親・幸子については手付かずのままとなります。

(注12)TSUTAYAに行ったら、本作関連コーナーに『オリヲン座からの招待状』が置かれていたので、釣られて借りてきて見てしまいました。同作は、ストーリー的にはイマイチの感があるものの、10年ほど前の宮沢りえの魅力溢れる映像を見ることができます。



★★★★☆☆☆



象のロケット:湯を沸かすほどの熱い愛


金メダル男

2016年11月08日 | 邦画(16年)
 『金メダル男』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)コメディアンの内村光良の監督作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、チャップリン桑田佳祐出川哲朗などの言葉が字幕で引用されます。
 次いで、主人公の秋田泉一内村光良)の語り。
 「東京オリンピックが開催され、高度成長まっしぐらの1964年に、長野県塩尻市で生まれた」、「両親(平泉成宮崎美子)は同じデパートに勤めていて、慰安旅行先の旅館で合体」、「名前の泉一の“泉”は温泉の“泉”から来ている」、「幼いころはごくフツーの子供だった」。
 でも、「小学校の運動会の徒競走で転機が訪れた」。
 泉一(大西利空)は、徒競走で1位になり、女の子が金メダルを渡してくれます。
 両親が喜び、皆が拍手します。



 泉一の語り。「1等賞、素晴らしく歓喜な響き。唯一無二の存在」、「ありとあらゆる1等賞に取り憑かれた」、「私の人生が始まった」。
 そして、ここでタイトルが流れます。

 次いで、絵を描いている泉一少年が映し出され、泉一の声で、「この絵が子供絵画コンクールで金賞」、「この時、自分探しの旅に出て家にいない父について母は真剣に離婚を考えていた」。
 にもかかわらず、「私は、1等賞をとることにのめり込んでいった」として、火おこし大会、大声コンテスト、鱒のつかみ取り大会などで1等賞を取り続けます。

 小学校の教室で、先生が「将来なりたいものは?」と質問したところ、泉一少年が、「すべてのことで1等賞をとること。これが僕の将来の夢」と答えるものですから、先生は「中学に行って、ゆっくり考えなさい」と言うしかありません。

 泉一は中学に入学します。
 泉一によれば、「私の名は既に轟いていた」。
 水泳部に入った泉一(知念侑李)は、「50m無呼吸泳法」で1番を確保していましたが、ある日、1年先輩の黒木よう子上白石萌歌)の水着姿を見ようとして、溺れてしまうのです(これが最初の挫折!)。

 さあ、こんな泉一ですが、その後はどうなるのでしょうか、………?

 本作は、コメディと銘打たれているにもかかわらず(注2)、笑える要素は殆ど見かけませんでした。小学校の運動会の徒競走で1位となり金メダルをもらったことから、なんでも一番になって金メダルを獲得していこうと頑張る男の物語。とはいえ、幼い頃はいろいろ金メダルを獲得したものの、その後はうまくいかなくなり、さあどうするのでしょうかというところですが、様々の分野で主人公の頑張る姿が描かれているだけのことであって、おかしさを感じさせるシーンが殆ど見られないというのでは、『ギャラクシー街道』に感じたものを本作にも感じざるを得ませんでした。

(2)8月に開催されたリオ・オリンピックで、日本選手団は「金メダル」を12個も獲得し(注3)、マスコミで随分と騒がれましたが(注4)、ようやくそれも沈静化してホッとしたなと思ったら、本作の公開です。
 またまた“金メダル”なのかと食傷気味のクマネズミはかなり躊躇したものの、ウッチャンが作るコメディ作品ならきっとおもしろいに違いないと映画館に行きました。
 確かに例えば、高校時代の泉一は、一人で「表現部」を立ち上げて(注5)、学校の中庭で「坂本龍馬 その生と死」を演じるのですが、なかなか良く考えられているシーンでしょう。

 幼い時からそこらあたりまで、本作は、まずまずの展開を見せています。
 でも、正月のTVニュースで原宿の賑わいを見て(注6)、「東京へ行こう。そこで1番になろう」と決意して上京し、寿司屋(注7)でバイトをするなどというのは、当時ごくありきたりなコースではなかったでしょうか?
 それから、泉一は、劇団(注8)に入って役者になった後、それが挫折すると、世界に旅立って世界一を目指します(注9)。ただ、劇団の役者時代は、劇団代表に扮するムロツヨシの演技もあってまずまずなものの、その後の世界旅行は、あまりに急ぎ過ぎであり、なくもがなの感じがします。

 さらに、「手漕ぎボート太平洋横断」で遭難するも、無人島に漂着し7ヵ月経過したところで救い出され、一躍超有名人になるというエピソードが続きます。
 でもそれよりも、イベントマネージャーの亀谷頼子(注10:木村多江)と組んで漫才(注11)をやる話を膨らませた方が面白いのでは、と思ったりしました(注12)。



 総じて言えば、本作において1等賞をとろうとする話がこれでもかという具合にてんこ盛りされているところ、むしろ、ウッチャンの得意分野であるお笑いとか演劇といった分野に絞ってストーリーを展開したら、それも1等賞をその分野でとるためにどんな努力を泉一が払ったのかをも合わせて描くようにしたら、こんなに慌ただしい感じを見る者に抱かせず、またもっと笑いを誘う作品に仕上げることができたのでは、と全くの素人ながら思ってしまいました。

 ラストで泉一は、50歳を超えてなお、「これまで取り組んだことのなかった新しい分野に挑戦する」と豪語しますが(注13)、どうせやるのであれば、そんな手垢まみれの既存分野ではなく、奇想天外な新分野を創出して1等賞を目指してもらいたいものです(注14)。

(3)渡まち子氏は、「どこまでも前向きな主人公の、たくさんのエピソードをポンポンつないでいく構成は楽しいが、やはり映画はじっくりとみたいという思いと重なった」として55点をつけています。



(注1)監督・脚本は、『ボクたちの交換日記』(DVDで見ました)の内村光良
 原作は、内村光良著『金メダル男』(中公文庫)。
 原案は、内村光良作『東京オリンピック生まれの男』(一人舞台)。

 なお、出演者の内、最近では、知念侑李は『超高速!参勤交代 リターンズ』、木村多江は『くちびるに歌を』、ムロツヨシは『ヒメアノ~ル』、土屋太鳳は『るろうに剣心 伝説の最後編』、平泉成は『シン・ゴジラ』、宮崎美子は『かぞくのくに』、笑福亭鶴瓶は『後妻業の女』で、それぞれ見ました(他にも知っている俳優が大勢出演していますが、省略します)。

(注2)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、内村監督は、「映画館でお客さんに笑ってもらいたくて、この映画を撮ったようなものなので、大勢の人に笑って貰いたいのが、今一番の願いです」、「コメディとして作りましたから、笑って劇場を後にしてもらえたらそれが一番です」などと述べています。

(注3)史上最多かと思ったら、この記事を見ると、1964年の東京大会や2004年のアテネ大会で日本は16個も獲得しているのですね。

(注4)極めつけは、10月7日に行われたメダリストの銀座凱旋パレードでしょう。どうして、オリンピックでメダルを獲ることにこれほど皆がこだわるのか、よくわからない感じがするのですが。

(注5)「表現部」に横井みどり土屋太鳳)が入部し、泉一と2人で鳥の求愛ダンスをするシーンがありますが、『オーバー・フェンス』の蒼井優を思い出しました。



(注6)1983年のこととされ(泉一は19歳くらい)、TVニュースでは中曽根内閣組閣が映し出されています。原宿が「若者の街」とされ、「ローラー族」が紹介されます。

(注7)寿司屋は笑福亭鶴瓶がやっていて、「俺がみっちり教えたるわ」などと言うので、泉一は「江戸前寿司なのに関西弁?」と訝しがりますが。

(注8)ムロツヨシが扮する村田が主宰する「劇団 和洋折衷」で、日本と西洋の芸術を折衷することを狙っています。泉一は「何だこの劇団は?」と思いながらも、村田はこの劇団で天下を取ると言い、泉一も、今までのように独りで一番になるというのではなく、皆で力を合わせて一番になるのだという考えになります。でも、村田(泉一と親密な仲になろうとしたものの拒否されてしまいます)が突然ニューヨークに行ってしまい、劇団は解散の憂き目に。

(注9)泉一は、ピザ大食い大会に出場したり、自転車やスクーター等による世界一周を狙いますが、ことごとく失敗します。

(注10)少女時代は、以前泉一がファンだったアイドル・北条頼子清野菜名)。

(注11)コンビ名は「東京アイランド」とされます。これは、泉一が無人島から生還したことを踏まえているのでしょうが、あるいは、木村多江の主演作『東京島』を踏まえているのかもしれません。

(注12)泉一と妻の頼子は、「MANZAI日本一」に出場しますが、スベリまくり笑いを取ることができませんでした。でも、一度の挑戦で尻尾を巻いて退散してしまうのでは、1等賞を獲得することなどもとよりできないことでしょう!

(注13)泉一は、「プロのカメラマンとしてこの後の人生を歩んでいくつもりはありません」と言って、ゴルフに打ち込んでおり、「4年後の東京オリンピックを目指している」とも語ります。

(注14)本作は、泉一の1等賞獲りを巡るお話と受け取れますが、もう一つ、泉一と両親とを巡るお話とも受け取れるように思います。
 なにしろ、小学校の時、徒競走で1等賞を獲った時に大層喜んだのが両親ですし、金賞を獲った絵のタイトルは「お母さん」、大声コンテストで「お父さん、ここにいるよ」と叫んだら、旅に出ていた父親が家に帰ってきます。さらに、高校に入って竹越(竹岡啓二)という友人ができたことを泉一は父親に報告しますし、上京する時は両親が揃って見送ります(母親は「信じてる」と言います)。また、世界旅行をする時に家に電話を入れると、母親は「あんたには何かある。思った通りに生きなさい」と励まします。はては、無人島に漂着して7ヶ月目に沖合に船を見た時、泉一が「お父さん、ここにいるよ」と叫んだら、救出されて無事に日本に帰還できますし、フォトコンテストでグランプリを獲った写真は、両親が横断歩道を渡る姿を撮ったもの。
 泉一は、ずっと一人で頑張ってきたように見えますが、結局は両親の掌の中で生きてきたようにもみえます。
 とはいえ、こうした視点から本作を見るにしても、ことさら新しい事柄が描かれているわけでもないように思います。



★★☆☆☆☆



象のロケット:金メダル男


永い言い訳

2016年11月01日 | 邦画(16年)
 『永い言い訳』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)西川美和監督の作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、椅子に座った衣笠幸夫(小説家の筆名は津村啓本木雅弘)の髪の毛を、妻の夏子深津絵里)がハサミを入れて切っています。
 TV画面には、幸夫が出演しているバラエティ番組が映し出されていて、それを見ながら夏子が笑います。
 すると、幸夫は「もう消せよ、くだらない」「ヌエ(鵺)のことなんか語ってどうすんだって思ってるんだろ?」と詰りますが、夏子は「思ってません」と答えます。
 幸夫がTVを消すと、夏子は「そう言えば、小学校の同級生から電話があった」と名前を言うと、幸夫は「地元を出てから一度も会ってないやつだ」と答えます。
 夏子は、「幸夫くんのこと、色々応援していると言っていたけど」と付け加えます。
 すると幸夫は、「編集者が来た時に“幸夫くん”と呼ぶのを何とかしてくれない?」と言います。
 それに対し夏子は、「そんなことしていない」と答えるのですが、幸夫は「俺に恥をかかせようとして何回もそう呼んだ」、「鉄人キヌガササチオの代理にすぎない」、「あなたもそういう名前に生まれついたことがあるのですか?」などと言い募ります。
 夏子が「衣笠幸夫という名前が素晴らしい、結婚した時そう思った」と言うと、幸夫は「その頃の話はいいよ」と話を打ち切ります。
 そして、夏子の作業が終わると、幸夫は「おしまい?」と訊き、夏子は「完璧」と答えます。
 幸夫が「間に合うの?」「明日のパーティーの服は?」と尋ねると、「寝室に架かってる」と答えます。

 夏子は外出の準備を整えるために部屋に戻り、再度幸夫の前に現れ、「悪いけど後片付けはお願いね」と言って玄関から出ていきます。
 それを見てから幸夫は携帯電話を手にします。

 次の場面では、夏子は親友の大宮ゆき堀内敬子)と会って、一緒に深夜のスキーバスに乗り込みます。
 他方で、幸夫の家には編集者の福永黒木華)が入っていきます。
 さあ、この後、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、妻が、その親友とともにバス旅行中に事故に遭遇して死んでしまったところ、後に遺された夫の人気作家が、親友の夫や2人の子供と深く接していく内に、これまでの妻との関係を見つめ直す、という物語。主人公の作家を演じる本木雅弘や、妻の親友の夫を演じる竹原ピストルの演技が優れており、さらに出番は短いものの、主人公の妻を演じる深津絵里が印象的な作品です。

(2)最近の邦画の流れから本作を見てみると(注2)、家族の中でのコミュニケーションが希薄になっている点が共通するとはいえ、家族という共同体への異邦人の侵入という形式をとっておらず(『淵に立つ』)、また共同体の構成員が特異な行動をするようになるわけでもなく(『だれかの木琴』)、本作では、ある時突然、共同体の構成員の一人が消滅してしまうのです。

 すなわち、上記の(1)からもある程度おわかり願えると思いますが、本作の幸夫と夏子との間では、このところ親和的なコミュニケーションが行われておりません。
 特に、幸夫は、夏子が言うことをそのまま素直に受け取ろうとせずに、その裏に含まれていると思われることを意地悪く探り出して批判したりします。



 それで二人の会話はすぐに途切れてしまいます(注3)。
 さらに幸夫は、編集者の福永と不倫の関係を持ってもいます。
 そうしたところに、何の前触れもなく、夏子が突然この世から消えてしまうのです。
 その結果、本作では家族関係も直ちに消滅してしまうのですが、妻の親友の夫・大宮陽一竹原ピストル)やその子供たちとの関係が入り込んでくることによって、逆に、消えたはずの家族関係が蘇ってくるようにも思われます。

 この場合、陽一は、幸夫とは正反対な人間として設定されています。



 トラック運転手として家にいないことが多いものの、陽一は、直情的な人間で、まっすぐに妻のゆきや子供の真平藤田健心)や白鳥玉季)を愛しています(注4)。
 普通であれば、幸夫はこのような陽一と付き合わないでしょう。現に、夏子とゆきが親友であったにもかかわらず、幸夫と陽一とは何の付き合いもありませんでした(注5)。
 それが、同じ事故で妻を亡くしてしまったことから付き合いが始まり、はては、陽一の代わりとなって真平と灯の面倒を見ることにまで進展してしまいます(注6)。



 そうしたなかで、幸夫は、幸せな関係であったときの夏子を思い返したりするようになり(注7)、最終的には『永い言い訳』というタイトルの小説を書いて、気持ちの整理を付けることになります。

 本作を見て、雰囲気はまるで違いますが、以前見たことがある『今度は愛妻家』(2010年)を思い出してしまいました。
 同作においても、妻・さくら薬師丸ひろ子)を突然失ってしまった夫・俊介豊川悦司)の様子が描かれており、さくらが生きているときの俊介は、本作の幸夫と同じように、優しい言葉一つかけることもなく随分と気ままで自堕落な生活を送っていました。ですが、死なれてみると妻のことが強く思い出され、心が落ち着かなくなります。
 ただ、そうした夫の気持ちの整理がつくのに、本作では陽一とか真平や灯といった他者の役割が大きいのに対し、同作では幻影(あるいは幽霊)としての妻・さくらの出現が大きな意味を持っています。
 いずれにしても、この世に存在しなくなった人に対してあとからいくら思いの丈を話そうとしても、文字通り後の祭りだということを、本作も、そして『今度は愛妻家』も、見る者に説得力を持ってわからせてくれる作品だなと思いました(注8)。

(3)渡まち子氏は、「人は時に愚かで間違えることもあるが、それでも人生は続いていき、そのことに向き合ったものには、贖罪や忘却が許される。作り手の鋭くも優しいまなざしを感じる秀作だ」として80点を付けています。
 前田有一氏は、「私の場合は西川作品に求めるハードルが極めて高いので常に辛めの点数になりがちだが、毎度ながら見ておいて損のない、よくできた日本映画である。また、これもいつもながらの話だが、やはり男性にこそ彼女の映画は見て欲しいと強く思う。西川美和監督の真骨頂は、こうした「女性による男性のための男性映画」なのである」として70点を付けています。
 中条省平氏は、「幸夫は妻の死によって自分が人間として犯した罪に気づき、その罪悪感のせいで妻の死を悲しむことができない。しかも、自分の罪を謝ろうにも相手はもうこの世にいない。そんな人間の心の淵を、西川の丁寧な演出と本木の抑制した演技がみごとに表している」などとして★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 佐藤忠男氏は、「西川美和監督はこれまでも人情の機微を一貫して描いてきたが、この作品は格段に良い」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「幸夫が自分自身や夏子と向き合うには、もっと胸をかきむしるような時間が必要だと思うのだが、すっとそれを飛び越えてしまった印象を受けた。それでも、外面と内面に断層を抱える現代人を照らそうとした西川の試みは十分感じられる。見る者は皆、自分の胸に手を当てざるを得ないだろう」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『ゆれる』や『ディア・ドクター』の西川美和
 原作は、西川美和著『永い言い訳』(文春文庫)。

 出演者の内、最近では、本木雅弘は『天空の蜂』、竹原ピストルは『さや侍』、作家・津村啓のマネージャー役の池松壮亮は『だれかの木琴』、黒木華は『エミアビのはじまりとはじまり』、山田真歩は『ヒメアノ~ル』、深津絵里は『岸辺の旅』、堀内敬子は『高台家の人々』で、それぞれ見ました。

(注2)この拙エントリの(2)でも、同じような議論をしています。

(注3)さらに、夏子の死に遭っても幸夫はまず自分のことが気になり、夏子の遺骨を運ぶ車の中で、幸夫は自分の髪の毛の様子をバックミラーで点検したりし、また自宅に戻ると、パソコンで自分のことがどのようにネットで書かれているか検索して調べたりします。
 他方で、夏子の方も幸夫に見切りをつけていたようで、遺された携帯の幸夫宛のメールには、未送信ながら、「もう愛していない。ひとかけらも」の文字が並んでいました(それを見た幸夫は、夏子の携帯を怒りに任せて投げ飛ばしますが)。

(注4)陽一は、事故の模様を説明するバス会社の役員に向かって、「妻を返してくれ!」と怒なりつけたり、妻・ゆきからかかってきた電話を何度も再生して聞きながら涙を流したりします。

(注5)ラストで灯が幸夫に手渡した写真には、夏子とゆきと陽一が一緒に写っていましたから、夏子は陽一を知っていたことになりますが。

(注6)幸夫には子供がおらず、また普段から家事をこなしているようにも見えませんから、真平と灯の面倒を自分が見ようという発想になるとは思えないところ、まあこれも一つの物語ですから(それに、週に2回ほど留守番をするというくらいですし)、あまりとやかく論うまでもないでしょう。

(注7)ただ、決して単線的に物語は進行しません。
 「こども科学館」の学芸員・優子山田真歩)が大宮の家の中に入り込んでくるようになると、幸夫は、嫉妬心からでしょう、自分がないがしろにされていると思い込み、大宮の家に行かなくなってしまいます〔幸夫は、灯の誕生パーティーの際、「先生(優子)にみてもらうのが良いと思うよ。きっと楽しいよ。僕は場違いだ。ごめんなさいね」と陽一に言って、大宮の家を飛び出てしまいます〕)。

(注8)『今度は愛妻家』では、さくらの幽霊が「知らなかったな。私のことそんなに好きだったなんて。何で言ってくれなかったの」と言いますが、本作の夏子も、幸夫のその後の有様を見れば同じことを言ったのかもしれません。



★★★★☆☆



象のロケット:永い言い訳

お父さんと伊藤さん

2016年10月25日 | 邦画(16年)
 『お父さんと伊藤さん』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)久しぶりに上野樹里の主演作ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、コンビニの店内。
 バイト店員の伊藤リリー・フランキー)が、店長らしき若い男に怒られています。
 パート勤務の中年女が「あの男、きっとすごいわよ」と、レジにいる上野樹里)に陰口を叩いたりします。

 そして、彩の声で、「その真偽の程を私が知ることになるなんて、絶対にないと思ってた」、「ふとしたことで飲みに行くことになり、またまた飲みに行くことになって、…」。
 ベッドで二人は寝ていますが、彩が目を覚まして、隣の伊藤の顔を見ます。

 次の場面は、アパートの一室で、二人が食事をしています。
 彩の声で、「そのまま伊藤さんが住み着いたので、あたしたちはここへ引っ越してきた」。

 場面は変わってフルーツパーラー。彩と兄の長谷川朝晴)が話し込んでいます。



 彩が「えっ、お父さんと一緒に暮らせって?」「そんなのいきなり無理」と言うと、潔は「今すぐというわけじゃない。9月中にでも」「未来永劫ではなくて、半年の期間限定でいい」「子供の中学受験が終わるまで。うちは双子だろ、大変さも2倍なんだ」「理々子がとうとう精神的に不安定になって」などと言い訳をします。
 潔は「頼む、頼れるの彩しかいない」と頭を下げるのですが、彩は「でもね」と色よい返事をしません。
 さらに彩が「お父さんに一人暮らしをしてもらったら?」と訊くと、潔は「父さんは74歳で、心臓に持病があるし、母さんを亡くしてもいるし」と答えつつ、「ひょっとしたら、誰か一緒に暮らしている人がいるのか?」と訊き返すので、彩が頷くと、潔は「いてもおかしくないよな」と呟きます。

 フルーツパーラーを出てから、彩が「ごめんね、お兄ちゃん」と言うと、潔は「いいんだ、彩が謝ることじゃない」と強がりを言って立ち去ります。

 それで彩が家に戻って玄関のドアを開けると、まず伊藤の「お帰り」との声がし、次いで父親(藤竜也)の「只今くらい言わんか」との怒鳴り声がします!
 こうして、父親と伊藤と彩の3人暮らしが始まるのですが、さあ物語はどのように展開するでしょうか、………?



 本作は、自分より20歳も年上の男と同棲しているところに、その男よりもさらに20歳年上の父親が転がり込んできて、というお話。上野樹里やリリー・フランキー、藤竜也というとても芸達者な俳優が持てるものを充分に発揮していて、高齢化社会の問題を浮かび上がらせつつまずまず面白い作品に仕上がっているな、と思いました。

(2)本作は、最近見た映画の流れからすれば、『淵に立つ』と同じように、家族という共同体の中に異質の者が外部から侵入するという形をとっています。
 同作における八坂浅野忠信)は、利雄古舘寛治)の知り合いにしても、その妻・章江筒井真理子)や娘・篠川桃音)には赤の他人です。それと同じように、本作の父親は、彩の父親であるにしても、伊藤にとっては初対面です。
 それに、同作の八坂は刑務所帰りで、利雄の過去を知る不気味な存在であり、章江や蛍がいろいろ影響を受け、鈴岡という家族は壊れてしまいます。
 本作における父親も、決して親和的な存在ではなく、何かというと口やかましく言い募ります(注2)。3人はそれぞれ、このままの状態ではとても長続きしないと、色々考え始めることになります(注3)。

 でも、こういう比較はあまり意味がないのかもしれません。
 なにしろ、この2つの作品が醸し出す雰囲気がまるで違うのですから。
 『淵に立つ』の方は、娘の蛍が、全身麻痺で意思疎通もできない状態になってしまうだけでなく、章江は蛍と一緒に自殺するまでに追い込まれてしまいます。
 結局、もともと壊れかけていた鈴岡の家族は、八坂の侵入によって完全に壊れてしまうようなのです。
 他方、本作の雰囲気は緩めで、どちらかといえばTVのホームドラマ的のように思えます(注4)。小さなエピソードは色々あるものの(注5)、本作では、家族関係はまずまず維持されていくのでしょう(注6)。

 本作がそうした雰囲気になるのは、もとより、上野樹里やリリー・フランキー、それに藤竜也というとても芸達者な俳優が醸し出すものに依っているのでしょうが、あるいは、本作では、彩と伊藤の性的生活が完全に省略されている点も挙げられるのではないでしょうか?

 原作を少々覗いてみたのですが、2DKの狭いアパートにおいて父親とフスマ一つで仕切られている中で性行為に及ぶ様子が、原作では逃げることなく描かれているのです(注7)。
 クマネズミは、この点はかなり重要な要素であり(注8)、仄めかしさえもなされないまでにオミットされてしまったがために(注9)、本作は全体として緩いTVホームドラマになってしまったのではないか、と思いました(注10)。

 それにしても、リリー・フランキーは最近の邦画でよく見かけるものです(注11)!そして、どの作品においても、水準以上の演技を見せているのですから驚きます。

 なお、父親が、誰にも触れさせずに大切にしていた箱の中身は、自身が万引きして蓄えた安物のスプーンだったことが実家の火事の際にわかりますが、とはいえ、どうして父親はそんなものを万引きして大事に貯めたのか、という点になるとよくわかりません。
 でも、なんでもかんでも映画の中で説明してくれる必要もないわけで、謎は謎のままでもかまわないと思います(注12)。
 ただ、大切な箱の中身が、彩などが想像していたような誰が見ても貴重だと思われる物ではなく(注13)、単なるスプーンだとすると、父親という人間の本質なんてせいぜいそんなものにすぎないと本作が言っていると受け止めることができるかもしれません。
 そして、そんな物ですら火事の騒ぎの中で父親は失ってしまうのですから、ラストの方における父親は、何者でもない裸状態になってしまっている感じです。そんなこともあって、彼は、自ら進んで老人ホームに入ると言い出したのでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「この映画、ボンヤリとユルい話に見えて、なかなか鋭い佳作だ。ヒロインを自然体で演じる上野樹里、ひょうひょうとした伊藤さん役のリリー・フランキー、すっとぼけているのに哀愁があるお父さん役の藤竜也のアンサンブルがいい味を出している」として70点を付けています。
 秦早穂子氏は、「タナダユキ監督は、20歳離れた娘と相方を中心に、父と娘、彼と父、それぞれの関係性を気張らない演出で斜めに見る。そして家族の新しい方向を探る」と述べています。



(注1)監督は、『ロマンス』のタナダユキ
 脚本は、『海のふた』や『ロマンス』の黒沢久子
 原作は、中澤日奈子著『お父さんと伊藤さん』(講談社文庫)。

 なお、出演者の内、上野樹里は『のだめカンタービレ 最終楽章 後篇』、リリー・フランキーは『SCOOP!』、藤竜也は『龍三と七人の子分たち』、長谷川朝晴は『ヘヴンズ ストーリー』で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、伊藤が彩に「昨日買った柿があるんじゃあ?」と尋ねたら、父親は「柿なんか買って食べるものじゃない」「そこらでとってくればいいでしょ」と言います。
 また、父親は彩に、「どうしてあんな歳の人と付き合うんだ?あと6年で還暦だぞ。子供はどうするんだ?」とか、「中濃ソースは悪魔のソース、文明人ならウースター」などと詰ります。

(注3)彩は、父親がなんとか兄のところに戻ってくれればと思っていますし、伊藤は、一緒に暮らすのであれば拝島あたりのモット広い家に引っ越したらどうかと彩に提案します。また、父親も、老人ホームに入ることを考えます。

(注4)ただし、潔の妻の理々子は、父親との同居で精神的にかなり不安定になっていますが。
 彩が、叔母の小夜子渡辺えり)が連れてきた理々子安藤聖)と公園で会ったところ、外を歩いている父親の姿を偶然にも見かけると、理々子は吐いてしまうほどなのです。

(注5)父親は、長いこと空き家だった田舎(都心からそれほど離れてはいませんが、周囲は山)の実家に篭り、そこで一人暮らしをすると言い出します(実際には、その家は火事で燃えてしまって、父親は彩らの家に戻ってくることになりますが)。
 なお、『淵に立つ』でも、八坂を探しに、利雄と章江や蛍、そして八坂の息子の孝司太賀)が車に乗って、山間に建つ家に行くシーンがあります(実際には、八坂はそこで見つかりませんでしたが)。

(注6)本作のラストは、老人ホームに向かう父親の後を彩が追いかけるシーンですが、伊藤の「僕は逃げないよ」と言う声にも押されて、彩は父親を家に連れ戻すことになるものと思われます(そして、拝島あたりに引っ越すのでしょう)。



(注7)文庫版のP.74では、「(伊藤さんは、)横で寝ているあたしの胸から腹をさすりだした。指さきが、さらにしたをなぞる。「だめだよ。隣にいるんだから」/うでを引っぺがしながら、小さな声で抗議すると、「今日はSデイでしょう」………「静かにするから。ね」/耳もとで囁かれ、仕方なく頷いた。………」と書かれています。

(注8)個別の寝室がいくつもある広い欧米の邸宅と違って狭小な日本の家屋においては、他人が同居することでもたらされる問題の中で大きなものは、この点ではないでしょうか?

(注9)彩と伊藤が布団で隣り合わせで寝て、寝物語をするシーンは描かれてはいますが。

(注10)『SCOOP!』でも、肝心なところで二階堂ふみは勝負していないと思いましたが(同作についての拙エントリの「注9」をご覧ください)、本作でも、肝心な描写が欠けているのでは、と思ってしまいました(タナダユキ監督は、『ふがいない僕は空を見た』では田畑智子に体当たりの演技をさせているにもかかわらず)。

(注11)何しろ、今年の映画出演作は、本作以外に、『SCOOP!』、『秘密 THE TOP SECRET』、『二重生活』、『海よりもまだ深く』、『シェル・コレクター』、『女が眠る時』、そして『聖の青春』(これから公開)といったところなのです!

 ちなみに、本作には出演していませんが、吉田羊も、映画にテレビに本当によく見かけます(女のリリー・フランキーといったところでしょうか)。
 本年だけでも、映画については、『SCOOP!』、『グッドモーニングショー』、『ボクの妻と結婚してください』(これから公開)、『嫌な女』(見ていません)に出演していますし、またTVドラマも3本ほど出演している上に、11月には舞台『エノケソ一代記』もやるというのですから、凄まじい限りです。
 それで、この記事によれば、彼女は過労で体調を崩してしまい、自宅療養中とのこと。さもありなんであり、気をつけてほしいものだと思います。

(注12)このインタビュー記事において、タナダユキ監督は、「私の中では家族の食卓の良い思い出という解釈です。家族の幸せの象徴として、お父さんは「食事は家族みんな揃って食べるものだ」という執着があるんだと。だから彩のスプーンの使い方(スプーンを舐めまわす癖)を叱っているシーンはその伏線でもあり、実は音でも色々表現しています」と述べていますが。



(注13)彩と伊藤は、箱の中身について、母親の写真や日記、あるいは恋文ではないかと推測します。



★★★☆☆☆



象のロケット:お父さんと伊藤さん


淵に立つ

2016年10月21日 | 邦画(16年)
 『淵に立つ』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)浅野忠信が出演するというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、少女・篠川桃音)がオルガンを弾いています。しばらくすると、オルガンの上に置かれているメトロノームを動かして弾きます。
 母親の章江筒井真理子)が、朝ごはんができたことを告げます。
 オルガンを弾き止まなかった蛍は、催促の声に促されて食卓に着きます。
 メトロノームは動いたままですが、気がついた蛍が戻ってきて止めます。

 食卓では、章江と蛍がクリスチャンとしてのお祈りをしてから食事を始めますが、父親の利雄古舘寛治)はそれに加わらずに食べ始めます。
 章江は蛍に、「発表会、どうすんの?今の曲いいんじゃない?そろそろ決めないと」と言うと、蛍はそれには答えずに、「こないだの虫、覚えてる?あの蜘蛛。ぐじゃぐじゃに絡まってた」、「お母さん蜘蛛を食べてしまうんだって」「私は、お母さんを食べたくない。不味そうだから」などと話します。
 章江は利雄に、「今日は女性会」と言いますが、利雄は「うん」と答えるだけです。



 次は、金属加工工場の作業場の場面。
 章江が「行ってきます」と言うと、利雄は「いってらっしゃい」と言いながらも、溶接の仕事をし続けます。
 と、利雄が作業場の外を見ると、男(八坂浅野忠信)が立っています。
 八坂が「お久しぶりです」と言うと、利雄は深々と頭を下げます。これに対し八坂は、「大袈裟ですね、相変わらず」と応じ、利雄が「痩せたな」と言うと、八坂は「あそこにいたら痩せますよ」と答えます。
 さらに、八坂が「継いだんですね、ここを。あんなに親父さんと喧嘩してたのに」「結婚して娘もいるんだ、いくつですか?」と話すと、利雄は「敬語を使うのやめろよ」と言います。
 次いで、利雄が「いつ出たんだ?」と訊くと、八坂が「先月」と答えるものですから、利雄は「教えてくれたら迎えに行ったのに」と言い、また利雄が「何してんだ?家とかは?」と訊くと、八坂は「県の施設の世話になっている」と答えます。そして、八坂は「ちょっと相談があるんだが」と利雄に迫ります。

 こうして八坂は、利雄の家に入り込むことになりますが、さあ利雄の家族らはどうなるのでしょうか、………?



 本作では、穏やかで平凡そうに見える三人家族のところに、突如、父親の知人と称する男が入り込んで来ることによって起こる物語が描かれます。その男の来歴が尋常ではないために、次第に家族の関係もギクシャクし出し、挙句の果てに事件が起こります。なにかといえば家族の絆を持ち上げるこのところの風潮に冷水を浴びせかけるような内容で、全体として暗いトーンながら、考えさせる味のある作品ではないかと思いました。

(2)この作品も、最近見た様々の邦画で見受けられるコミュニケーション問題を巡るものといえそうです。
 例えば、家族内でのコミュニケーション不足から、『オーバー・フェンス』の場合、白岩オダギリジョー)は「離婚」せざるを得なくなりますし、『だれかの木琴』では、妻(常盤貴子)の「ストーカー」が引き起こされているように思いました(注2)。また、『聲の形』では、学校内におけるコミュニケーション不足が将也硝子に対する「イジメ」につながっているように思われます。
 本作における鈴岡の家(利雄と章江と蛍)でも、家庭内でコミュニケーションが十分に取られているようには思われません(注3)。
 ただ、本作の場合は、他の作品のように、所属する集団(家庭とか学校といった共同体)の内の誰かにその影響が現れるのではなく、外部の異質の人間(八坂)がその集団に入り込むことによって状況が明るみに出されるように描かれています。

 あるいは、『不機嫌な過去』におけるミキコ小泉今日子)と同じような役割を八坂が果たしているといえるでしょう。
 なにしろ、同作では、もう死んだはずと思われていたミキコが、突如、カコ二階堂ふみ)たちの前に現れるばかりか、カコの部屋に同居までします(注4)。本作においても、八坂が、連絡なしに突然利雄の前に現れ、その日の内に利雄の家に同居することになるのです。
 それも、ミキコは爆破事件の犯人として捕らえられたことがあり、本作の刑務所帰りの八坂と類似する点を持っています。
 そして、ミキコが突然カコの前から姿を消してしまうのと同じように(注5)、八坂もフッといなくなってしまいます(注6)。

 ただ、『不機嫌な過去』におけるミキコの場合、カコに会うことによって、不機嫌一辺倒だった生活から抜け出せる手がかりをカコに与えたようにも思われますが、本作における八坂は、蛍に取り返しのつかない傷を残したまま消えてしまいます。
 そして、実際に八坂が蛍に何をしたのかが不明なために(注7)、八坂が消えて8年経っても、利雄はなんとかして八坂を探し出そうと興信所まで使って調べようとします。
 他方、章江は、8年もの間、身動きが取れず意思疎通のできない蛍(8年後は真広佳奈)の面倒を一人で見てきて、利雄との生活にうんざりしてきています。
 ラストでは、8年前、利雄、章江、蛍と八坂で川遊びに行った時に写した写真のように、利雄、章江、蛍と八坂の息子・孝司太賀)が川原の石の上に川の字になって横たわりますが、さて彼らは蘇るのでしょうか(注8)?

 なお、劇場用パンフレットの「Director’s Statement」において、深田監督は、「私が描きたいのは家族の崩壊ではなく、もともとバラバラである家族が、ああ、自分たちはバラバラで孤独だったんだなあ、ということを発見し、それでもなお隣りにいる誰かと生きていかなくてはいけない、生き物の業のようなものです」と述べています(注9)。
 そのこと自体わからないわけではありませんが、逆にこうも言えるのではないでしょうか?「もともと人は家族(共同体)の中でしか生きていくことができず、たとえそれがバラバラに見えるとしても、結局は一人で生きていけないことを見出すのではないか」。
 とはいえ、こう言ってしまうのも極端でしょうし、実際のところは、両者の中間ぐらいのところかもしれません。
 それで、ラストについても、見る人によって、そこに光明を見出す見方もあるでしょうし、逆に暗闇を見てしまうかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「決して後味がいい作品ではない。いや、むしろ見たことを後悔させる恐れさえある。だが、ただ気持ちよくわかりやすいものだけが映画ではない。この衝撃はまぎれもなく観客に「映画とは何か」と問い詰める」として70点をつけています。
 宇田川幸洋氏は、「深田晃司は、人物の主観的感情よりも、ものがたりの構造を重視する、日本映画では稀少なタイプの映画作家で、ここでは初期設定からの演繹がどんどん悲劇を深めていく。その過程は圧倒的でスリリングだ。だが、最後は深くへ行きすぎ感銘に肉感性がともなわないうらみが、すこしある」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 林瑞絵氏は、「自ら作った正しさに縛られ罪を犯した八坂、そんな彼に惹かれる章江、過去の罪を封印して生きる利雄……。人間の曖昧さと両義性を体現する主演3人の“三つ巴演技”の攻防戦に息を呑んだ」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「全体のトーンは静かだが、幾度か驚くような仕掛けがあり、私がカンヌで鑑賞した時、現地の女性はその度に驚きの声を上げていた。私たちが当たり前に頼っている世界がどれほど脆弱なものであるか、劇場で確かめてほしい」と述べています。



(注1)監督・脚本は深田晃司
 本作は、今年のカンヌ映画祭「ある視点部門」で審査員賞を受賞しています。

 なお、出演者の内、最近では、浅野忠信は『グラスホッパー』、筒井真理子は『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』、古舘寛治は『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、利雄の工場の古株の従業員・設楽役の三浦貴大は『怒り』で、それぞれ見ました。

(注2)ここらあたりのことは、この拙エントリの(2)をご覧ください。

(注3)利雄は、章江が何か言っても、つまらなそうに「ああ」などと応ずるだけで新聞を読むのに熱心だったりしますし、章江と蛍の食事前の祈りに参加しようともしません。また蛍は、家ではオルガンの練習を熱心にしていますが、実は先生が怖くてオルガン教室をズル休みしています(そのことを章江に言ってません)。

(注4)カコが暮らす家の内情は複雑で、カコは、実はミキコの娘にもかかわらず、ミキコは死んでしまったとされて、ミキコの妹・サトエ兵藤公美)の娘として育てられてきました。カコの父親・タイチ板尾創路)も、元はミキコの夫で、ミキコがいなくなった後サトエと結婚しているのです。
 この家には、さらにミキコとサトエの母親・サチ梅沢昌代)がおり、さらには親戚筋のレイ黒川芽以)とかその子のカナ山田望叶)が頻繁に出入りし、なかなか賑やかな感じがします。
 ですが、それは外見だけのことであり、肝心の話はこれらの人たちの間ではなされていないように思われます(例えば、カコがミキコの子供であることを、サトエはミキコが現れてからカコに言います)。そういった意味合いで、ここにもコミュニケーションの問題があると言えるのでは、と思います。

(注5)ミキコは、完全に消えてしまうのではなく、ヤスノリ高良健吾)の部屋に転がり込んでいるにすぎないのですが。

(注6)実際にも、浅野忠信が演じる八坂は、後半部分においては、ラストでほんの一瞬現れるだけでマッタク登場しません。

(注7)利雄が八坂を見つけた時は、頭から血を流して地面に倒れている蛍の前で立ち尽くしている姿でした。蛍が自分で倒れてしまったのか、あるいは八坂が手を下したのかは明らかではありません。

(注8)その前に、蛍がこういう体になってしまったのは自分たちのしたことに対する罰なのだと利雄が言っています(章江もその見方に同意します)



 また、孝司に対し章江が「八坂の目の前であなたを殺す」などと言っていることもあり、利雄以外の3人はそのまま息を吹き返さないのかもしれません(利雄は、生き残るにしても地獄でしょう)。
 でも、孝司は蛍を救い上げているくらいなのですから、息を吹き返すかもしれません。それに、章江と一緒に川に飛び込んだ蛍は、水の中で手足を動かしてもいるので(それまでは硬直していました)、息を吹き返したら、あるいは治癒の可能性が出て来るかもしれません。ただ、すでに章江は利雄に離婚の話を切り出していますから、たとえ二人が息を吹き返すとしても、もはや家族が“元の状態”(?!)に戻ることはないかもしれません(章江は、橋から飛び降りる前に、同じ橋の上に八坂の幻影を見ますが、これは八坂を許すということではないでしょうか)。
 いずれにしても、実質的に壊れかけていた鈴岡の家は、ラストの出来事によって、外見的にも完全に壊れてしまったように思えます。
 にもかかわらず、利雄は、3人を蘇生させようと人工呼吸を懸命にし続けるのです。そのことによって、利雄はいったい何を得ることができるのでしょうか?

(注9)公式サイトのインタビュー記事においても、深田監督は、「私にとって、家族とは不条理です。孤独な肉体を抱えた個々の人間が、たまたま出会い、夫婦となり親となり子となって、当たり前のような顔をして共同生活を営んでいる。しかし、一歩引いて見てみるとそれはとても不思議なことです」と述べています。

 なお、深田監督は、「もともとバラバラである家族が、ああ、自分たちはバラバラで孤独だったんだなあ、ということを発見し、それでもなお隣りにいる誰かと生きていかなくてはいけない、生き物の業のようなもの」を描きたいと述べていますが、例えば、『葛城事件』はどうでしょう?
 同作においては、葛城家は既に酷く崩壊していて、サイコパスの次男が引き起こす無差別殺人によって完全に崩壊してしまいます。それで、父親(三浦友和)は自殺しようとするものの、失敗し、次男の妻になろうとした女(田中麗奈)に「家族になってくれないか」と迫りますが、すげなく断られます。
 同作の場合、「家族の崩壊を悲劇として捉え」ているものの、そのことが、深田監督が言う「壊れる以前の家族を一つの理想として志向してしまう」ようには思えません。なにしろ、「壊れる以前の家族」といったものが見当たらないのですから(父親の独りよがりで作られたマイホームのようであり、ある意味で、初めから崩壊しているかもしれません)。

 さらに、深田監督は「巷に流れる。家族の絆を理想化して描くドラマに、私はもううんざりしています」と述べていますが、その場合の“うんざり”する例として、あるいは石井裕也監督の『ぼくたちの家族』が挙げられるかもしれません。
 それはわからなくもありません。でも、同作のように、家族の中に大病を患う者が出た場合には、「自分たちはバラバラで孤独だったんだ」と考える余裕などないのが実情なのではないでしょうか?



★★★☆☆☆