映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

再生の朝に

2011年03月30日 | 洋画(11年)
 『再生の朝に』を渋谷のシアター・イメージフォーラムで見てきました。

(1)この映画館は、昨年9月に『シルビアのいる街で』を見て以来ながら(どうも半年に1度くらいの割合で出かけている感じです)、余り気が進まないものの時間がうまく適合したということで出かけてきました。
 “余り気が進まない”というのも、死刑を取り扱っているとはいえ、中国と日本とでは法制度が随分と違うために、それほど参考にならないのではないか、と思われたからです。
 実際に見たところからも、制度の違いがかなりあるように思われました。
 例えば、
イ)映画の事例からすると、車2台盗んだだけで死刑になってしまいます。これは、車2台というよりも、その金額が3万元を超えたためであり、そのことが人々に多大な経済的被害をもたらしたとされて、極刑に処せられてしまうようです(劇場用パンフレットに掲載されている田中信之氏のエッセイによれば、こうした具体的な基準は、地方の裁判所が地方の経済水準に合わせて設定することになっているとのこと)。
 さすがに、映画の舞台は1997年とされています。というのも、その年は、まさに刑法の変わり目で、その後はそんなことにはなっていないとのことです。

ロ)死刑相当の重罪を犯した容疑者も、他の容疑者と一緒の房に入れられています(日本では独房でしょう)。ただ、死刑判決を受けた者は、足枷を嵌められ、行動が著しく規制されていますが。

ハ)一応2審制になってはいますが、高等裁判所は、映画の感じからすると、単なる書類の不備などを審査するにすぎず、犯罪行為を再度審議する機関とはなっていないようです。

ニ)他人が犯した重大な犯罪を容疑者が告発すれば、捜査当局に協力した功績があったということで、死刑を免れることがあるようです。

ホ)死刑の執行にあたっては、第1審の裁判官が最終的な責任を持っているようです。
 なお、判決は担当の裁判官が決定するのではなく、実際には、所長以下の裁判所幹部で構成される裁判委員会が決定します。でも、映画の感じからすれば、裁判官の裁量の余地が随分とあるように思われます。
 また、以前は2審制でしたが、最近では、死刑判決については3審制とされているようです。

ヘ)もはや公開処刑は行われてはいないのでしょうが、映画の様子では、かなり遠方からなら処刑の様子を一般人が見ることができそうな感じがします。

 というように、日中で制度がかなり違いますから、この映画から死刑制度を云々してもあまり意味がないでしょう。

 ただ、この映画からは、もう一つの中国の面も見えてきます。
 すなわち、資産家の姿です。登場人物はリーという会社社長ですが、大層瀟洒なマンションに一人で暮らしており、秘書のような女性ともうすぐ結婚するとしていつも一緒にいます。
 ところが、彼は腎臓病を抱えていて、移植手術によって元の元気を取り戻せるとのこと。婚約者や弁護士の尽力で、車2台を盗んで死刑になるはずの男から腎臓の提供を受けれるまで事態が進展してきました。
 サア結末はどうなるでしょうか、……。

(2)この映画は、上記の中国の客観的な側面をつなぐ人間的・主観的な側面も併せ持っています。
 すなわち、裁判官ティエンのプライベートな生活面です。



 彼は、映画に描かれる裁判の前に、一人娘を交通事故で失っているのです。母親は、そこから立ち直れずに、いつも泣いて暮らしていて、挙句はティエンに離婚話を持ち出します。
 要すれば、ティエンからすると、個々の裁判などにかかずらってなどいられない、といった状況なのです。実際には、少しすれば刑法が改正され、車2台の窃盗くらいでは死刑にはならなくなるとは分かっていながらも、法律だからということで、ティエンはいともあっさりと死刑判決を下してしまいます(手続き的には、上記ホで記したように、裁判委員会が決定するのですが)。
 でも、家で飼っていた犬を、規定通りに殺処分しようとする市当局のやり方に憤りを感じたあたりから、彼の心境にも、妻の態度にも大きな変化が見られるようになります。
 このプロセスを描くにあたって、映画は、動きが極度に抑制された同じ角度からのシーンを繰り返し映し出します。すなわち、ティエンの家での食事風景です。最初のうちは、夫婦はなにも喋らずに黙ったまま食事をします。そのうちに、妻の方は台所にも立てなくなり、仕方なくティエンは自分で料理をするようになるのですが、犬の一件の後は、妻も台所にティエンと一緒に立つようになり、最後の頃は2人の会話も復活するのです。

 こうした描き方は、『再会の食卓』でも見られたところで、その映画でも、随分の回数の食事風景が映し出されますが、そのたびに登場人物の心境が変化していくように作り込まれていると思われました。

 この映画は、一方で客観的な中国の現状、他方で人間的な側面とを合わせ描いているところから大変興味深いものの、後者の描き方がやや唐突な感じがして、いまいち馴染めない印象を持ちました。

(3)映画評論家・福本次郎氏は、「近代的国家の官吏として、情に流されず厳格に法を解釈するのが主人公の矜持」だったが、「時代と共に、己の信念が世の中と乖離していると自覚」し、「裁判では頑固なまでに持論を曲げなかったこの男が、屁理屈をこねるように急に法の盲点を突く姿が、人間らしさを取り戻した証拠」といえ、「いくら理論で考えても、行動を促すのは感情なのだ。物語は彼の変化を通じて命の尊さを考えさせる」として50点をつけています。



★★★☆☆





象のロケット:再生の朝に

SP 革命篇

2011年03月27日 | 邦画(11年)
 『SP 革命篇』を新宿ピカデリーで見てきました。
 新宿ピカデリーは、家に帰るのが便利な新宿にあり、かつまた計画停電のため上映スケジュールなどを縮小しているとはいえ、映画の選択の幅が広いため、前回の映画に続けて行くことになりました。
 この映画も、他に空いている映画館が少ないせいなのか、あるいは元々人気が高いためなのか判断がつきませんが、随分と観客が集まっていました。

(1)さて、クマネズミは、フジテレビの「SP 警視庁警備部警護課第四係」や『2夜連続「SP」スペシャル 革命前日』も、また劇場版『SP 野望篇』も何も見ておりません。ですから、完結編とされるこの作品だけを見て正直分かるのかなと不安でした。でも、実際にはこの作品は、それほど複雑なストーリーでもないため、独立した作品として見ることが出来(むろん、ところどころ続き具合が分からない場面がありますが)、余計なことは何も考えずに、ただアクション邦画として捉えるだけであれば、なかなかヨクできているのでは、と思いました。

 映画は、岡田准一らのSPたちが警視庁に出勤する光景から始まり、同時に、岡田准一の上司でもある堤真一をトップとする集団が国会議事堂を占拠するに至るまでが展開していきます。



 占拠方法は彼らによって細部に至るまで練り込んであるため、最小限の人数で効率よく進められていきます。



 そして、衆議院の本会議場の占拠に成功した堤真一たちは、今度は、閣僚に銃を向けながら自分らの要求をつきつけます。それは、閣僚それぞれが犯してきた犯罪的行為を、国民注視の中で閣僚に認めさせ、そのことを通じて国民の奮起を促すというものです。
 ただ、その順番が麻田総理(山本圭)のところまで回ってきたときに、議員の一人(香川照之)が立ち上がり、以降の事態の進行をコントロールして、国政の全権を掌握すべく大声をあげます。



 とそこに登場するのが、……。

 誠に絵に描いたように手際よく物語が展開し、その間に、岡田准一ら4人組と、堤真一配下の者たちとの死闘が随所で繰り広げられます。



 なかでも、岡田準一の活躍ぶりには目を瞠らせるものがあります。堤真一との対決もさることながら、高橋努との地下道での格闘は、これなら岡田がやられてしまうかもしれないと観客に思わせるほど迫真の演技です。

 ただ、国会内部は、大部分が本会議場であり、あとはその周りをいくつもの似たような部屋が取り巻いているにすぎません。ですから、占拠しようとする集団の行動も、すべて必要なことなのでしょうが、見ているとなんだか繰り返しが多いような気分にさせられます。
 それと、国会議事堂内には、通常もっとたくさんの人がいます。映画では少人数の国会見学グループしか描かれてはいないものの、実際は報道関係者、陳情団、政府関係者などで溢れていると言った方が正確だと思います。そういう場合には、この映画のようにはスムーズに物事は進行しないと思います。でもマア、そういう人たちが少ないと見込まれる日を選んで議場占拠が実行されたと考えればいいのでしょう。

岡田准一は、『おと・な・り』の時とは打って変わって激しいアクションを演じて素晴らしいと思いましたし、堤真一も『孤高のメス』と同様、堂に入った役作りをしていますし、香川照之も、議場を圧倒する大音声を発し、『東京ソナタ』とは別の面を見せてくれ、さすがだなと思わせました。

 映画の細部を一つ一つ見ていくと、和製のアクション物として大層熱気がこもっていて面白いと思います。

(2)ですが、問題は、大きなプロットの方にあるのではないでしょうか?

 今さら言い立てても詮のないことですが、「革命篇」と銘打たれてはいるものの、この映画で描かれている事件は、決して「革命」ではありません(堤真一らは、いったいどういう「階級」を代表していると言えるのでしょうか?)。それどころか、「クーデタ」でもありえず(軍隊〔自衛隊〕が何ら関与していないのですから)、単なる小規模なテロ行為にすぎないと言えるでしょう(注1)。
 そのうえ、銃を突きつけたり、何人かの議員に爆弾チョッキを着せたりして、脅迫の下で自分の犯罪行為を個々の閣僚が認めたからと言って、そしてそれを全国民がTV生中継で見たからと言って、そんなテロ行動が何にもならないことは、ここで取り立てて言うまでもありません。
 浪岡一喜が扮する官僚・安斎が、“閣僚が認める犯罪行為などは各々の省庁では周知の事実だよ”、などと訳知り顔で言っているところからすると、すでに検察庁特捜部は動いているはずです。にもかかわらず、閣僚たちが逮捕されていないところを見れば、証拠が十分ではないのでしょう(注2)。にもかかわらず、銃などで脅かして罪を認めさせても、その後の裁判を維持できるわけがありません。
 まさに無意味な行動といえるでしょう。

 ですから、香川照之が扮する伊達國男幹事長が、堤真一からバトンを引き継ぐ形で全権を掌握しようとします。
 このことをどうも堤真一は知らされてはいなかったようです(裏切ったなという目つきで、堤真一は香川照之を睨みつけますから)。
 だとすると、彼は底抜けにお人好しで、周囲のことが見えないどうしようもない人物としか言いようがありません。
 堤真一らの行動は、ある意味で、青年将校が決起した2.26事件と類似する側面があると思われます。当時の政治の中枢部にいた政治家や、軍部等が腐敗しきっているとして、彼らを除去しようと青年将校たちは立ち上がったわけですから。ただその際、彼らは、決起が成功した暁に自分たちで政治を動かしていこうとは思わなかったとしても、荒木貞夫大将らの手に委ねることくらいは考えていたと考えられます。
 これに対して、堤真一は、国民が立ち上がることは求めていたとしても、その後事態をどう収拾して日本をどの方向に持って行こうとするのかについては全く考えてはいなかったようです(三島由紀夫事件との類似性はどうでしょうか)。

 やはり実務家が一枚絡んでこないことにはどうしようもないでしょう。そこで香川照之が登場するわけでしょう。とはいえ、彼もまた、権力は手に入れたいものの、日本をどのような方向に持って行くのかについてのヴィジョンめいたものを持っていないようです。
 それを補佐する集団が、議事堂近くのマンションの1室に陣取っている滝川(平岳大)を筆頭とするキャリア官僚たちなのでしょう。
 ですが、こんな官僚たちがいくら優秀だと言っても、戦時でもない限り、これだけ巨大になった日本をコントロールできるはずはありません。戦時ならば、軍隊と一緒になって様々の統制を行ってコントロール可能かもしれません(全体主義的国家、あるいは長期の戒厳令!)。ですが、今時、日本はどこを相手に誰が戦うと言うのでしょうか?

 この映画は幾分消化不良の感じでジ・エンドとなります。滝川達が事態の推移をTV中継で注視しているマンションが爆破されるところ、リバプールクリーニングの車とおぼしきワゴン車が立ち去る姿が映し出されますし、麻田総理のその後、さらには堤真一や香川照之のその後なども明示されていません。
 とはいえ、劇場版パンフレットには、「『SP』シリーズ、ついに運命の最終章」とか、「壮大なストーリーの結末」、「これでシリーズ完結となりますが」、「これでSPは最後ですが」といった言葉が溢れ返っているところから、続編は考えられないのではないでしょうか?
 それに、こうした作品内容なら、続編は企画しない方が製作者のためだと思われるところです。


(注1)こんなブログで声高に言わずとも、劇場用パンフレットの「story」のページにおいて、「リバプールクリーニング」の一味を「テロリスト軍団」と呼んでいるところです。
 ただ、クマネズミに言わせれば、議場占拠を実行した堤真一以下のSPたちもテロリストであることは間違いありません。

(注2)ここで暴き出されるのが大部分が、またしても、マスコミの好餌となる「政治と金」の問題だ、というところから、話はなお一層次元が低くなってしまいます。いったい、こうした不正があるからといって、短絡的なテロに訴える行動が認められるのかどうか、そうした政治家を排除して独裁国家を築くべきなのかどうか、等々議論すべき点が多々あると思われるところです。


(3)渡まち子氏は、「国会議事堂という象徴的な場所を舞台にしているのに、何だか話が小さく見えたのは私だけだろうか。第一、国会議事堂のセキュリティの甘さはいったいどう納得すればいいのだろう」、「物語の設定には数々の不満はあるが、岡田准一の熱血アクションには感心させられる。特に印象的なのは、見た目がいいワイヤーアクションではなく、時に相手をレスリングのように組み伏せ、自分もダンゴのように丸くなって身を守るという実践的な武術を披露することだ」などとして50点を与えています。


★★☆☆☆




象のロケット:SP 革命篇

アレクサンドリア

2011年03月26日 | 洋画(11年)
 『アレクサンドリア』を新宿ピカデリーで見てきました。

(1)この映画は、古代エジプトを舞台にした作品ではあるものの、そして一人の女と彼女を巡る2人の男の愛の物語ではありながら、あまりに現代の世相に関連するメッセージ性が強くあからさまで、結果として物語の展開が単調なものになってしまっているのでは、と思えます。
 要すれば、古代エジプトの伝統的な宗教と、ユダヤ教、それに新興のキリスト教の争いが、映画の中で中心的に描かれているところ、まさに現代のイスラム原理主義とキリスト教等との争いのアナロジーとしてこれを容易に捉えることができるでしょう(注1)。
 映画では、何度もアレクサンドリアが宇宙的な視点から俯瞰されますが、それは、宗教的な争いといっても、宇宙全体からすればとても小さな揉め事にすぎないと言っているのではと思えますし、最後に主人公ヒュパティアレイチェル・ワイズ)の目が捉えるドームの天井の穴が楕円から円形になるというのも、中心が複数ある楕円という寛容な世の中から、中心が一つの円という不寛容な世の中へ移行していく姿を捉えたものと言えましょう。
 また、次第にアレクサンドリアの権力を掌握していくキュリロス主教サミ・サミール)は、きちんと聖書の言葉を読み上げた上でヒュパティアを弾劾しますが、こんなところは、原理主義的な宗教活動を髣髴とさせるのではないでしょうか?

 とはいえ、こんな風に現代の世相の観点からこの映画を捉えるだけでは、甚だつまらないことになってしまいます。
 なにしろ、現在の姿からは想像も出来ない当時の繁栄したアレクサンドリアの都市の光景が、セットとCGを使いながら、細部に至るまで詳細に映画では描き出されているのですから!

 でも、期待した世界7不思議の一つとされるアレクサンドリアの大灯台は遠景でしか描かれていないのが残念だという点はともかくとしても、主人公ヒュパティアを巡る2人の男の話にしても、ヒュパティアの方が、哲学の研究に専らの関心があって、あまり男に興味を持ってはいないように描かれ、また男たちも、一方は奴隷のダオスマックス・ミンゲラ)であり、もう一方はアレクサンドリアを治める長官のオレステスオスカー・アイザック)というように身分に差があり過ぎて、女を巡る争いといったレベルにならないというのでは拍子抜けです。
 特に、ダオスは、奴隷としていつもヒュパティアの身の回りの世話をしていて、その内に彼女に対し秘めた愛を覚えるのですが、ヒュパティアは彼のことなど眼中に全くないのです(入浴に際し、彼に手伝わせるくらいなのですから!)。



 また、オレステスの方も、皆の前でヒュパティアに対する愛を公言したものの、彼女に袖にされると、以後は彼女を守ることに努めはするものの、一線を越えることはありません。
 これでは、ハリウッド映画得意の恋愛物語にはなりようがないでしょう。



 とはいえ、キリスト教徒たちが、アレクサンドリアの図書館に突入して、様々の石膏像を打ち壊したり、また膨大な数の書物(パピルス)を火にくべる有様など、なかなか緊迫感のある映像を作り出しています。

 さらに、主人公ヒュパティアを演じるレイチェル・ワイズは、『ナイロビの蜂』(2005年)などで見ていましたが、この映画ではまさに中心的な役柄を、その実に威厳のある堂々とした容姿と演技力で実にうまくこなしています。



 総じて、映画を見ることで1600年ほどの昔のことに思いを馳せることができたという点だけでも、この映画は評価できるものと思います。

(2)この映画は、歴史物とはいえ、あくまでも娯楽作品でしょうから、あちこち詮索しても仕方がないでしょう(元々、英語で皆が話すのですから、リアルさを言ってみても仕方ありませんし)。
 とはいえ、映画では、ヒュパティアが惑星の軌道楕円だということ(ケプラーの第1法則〔1609年〕!)を発見するのですが、何かそれを裏付けるとっかかりのような史料が、現在まで残存しているのでしょうか(注2)?



 ヒュパティアの類稀な才能を浮き彫りにするための方便だとしたら、もう少し他にやりようがあったのでは、という気がしないではないものの、あるいはこうした描き方もありうるのかもしれません(地動説にしても、コペルニクスが1543年に唱える前、紀元前280年にアリスタルコスが唱えていたというのですから〔wiki〕、惑星の楕円軌道につきヒュパティアが唱えていたとしても不思議なことではないのかも知れません←何も歴史は直線的に進行するとは限らないでしょうから!)。

 また、ヒュパティアは、キュリロス主教によって「魔女(witch)」と断定されますが、常識的にはその概念は中世のものであって(魔女裁判!)、このズッと古い時代にもあてはまるのか疑問に感じられるところです(マア、クマネズミの無知による疑問なのでしょうが)。

(3)渡まち子氏は、「現在まで連綿と続くさまざまな争いの本質である不寛容の精神を、古代を舞台に描く異色作だが、主人公に実在した女性天文学者をすえた点がユニーク」であり、「本作はスペクタクルな歴史ものではあるが、CGによって再現された古代都市の姿より、通信衛星から撮影された俯瞰映像の方が印象に残る。つまり作り手のアレハンドロ・アメナーバルは、よりグローバルな視点から物語を見ているということだろう。ヒロインは悲劇の道をたどるが、この映画によって蘇ったことを思えば、信念は決して滅びないと信じたい。凛とした美貌のレイチェル・ワイズが好演だ」として65点をつけています。



(注1)さらには、城門を閉じて古代エジプトの伝統を守ろうとする人々に対して、城門の外に群がるキリスト教徒の群衆は、まるで最近のチュニジアとかエジプトの民主化運動を思わせるものがありますが、いくらなんでもそこまで映画製作者らがお見通しだったわけではないでしょう!

(注2)ヒュパティアに関しては、下記の東北大学大学院文学研究科の大谷哲氏による記事がよくまとめられていると思います。
史料翻訳:ソクラテス=スコラスティコス著 『教会史』 第7 巻 第13-15 章―ヒュパティアの死に寄せて―



★★★☆☆




象のロケット:アレクサンドリア

ブンミおじさんの森

2011年03月23日 | 洋画(11年)
 『ブンミおじさんの森』を渋谷のシネマライズで見てきました。

(1)昨年末には、2009年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールに輝いた『白いリボン』を見たばかりですが、2010年のパルム・ドールを獲得したこの作品がシネマライズで公開されていると聞きつけ、渋谷まで出かけたところです。
 日本では、つとに、黒澤明監督による『影武者』(1980年)とか今村昌平監督の『うなぎ』(1997年)などが同賞を受けているところ(2007年には、河瀬直美監督の『殯の森』がグランプリを受賞)、タイとしては初の受賞とのこと。
 『白いリボン』もなかなか簡単には理解しがたい作品でしたが、この映画もそんな感じが漂っています。ただ、『白いリボン』には、何か観客を容易に近づけさせない壁があるように思わせましたが、こちらの方は、タイの田舎に広がる森で起きるファンタジーを描いているのだとわかってくると、その何とも言えない雰囲気にブンミらと共に浸ることができるでしょう。

 冒頭では、まず田園風景と一頭の水牛の姿が映し出されます。そのうちにつながれた綱が自然にほどけると、水牛は森の中に入り込んでいきます。飼い主はそれを探し出して連れ帰るところ、森の中からそれをうかがっている赤い二つの目を持つ猿のような黒い影がボーッと不気味に浮かび上がるのです。





 そのエピソードはそれでオシマイとなり、引き続く話が基幹的なものです。すなわち、腎臓を病んで人工透析を受けているブンミは、亡くなった妻の妹ジュンと青年トンを自分の農園に連れて来ます。ブンミは、自分の死期が近いことを悟って、農園をジュンに引き継いでもらいたいとのこと。

 その夜、ブンミとジュンとトンが食事をしていると、フッと、19年前に42歳で亡くなった妻のフェイが、亡霊の姿、それも当時ママの格好で現れます。そればかりか、9年前に行方不明になった息子まで、猿の精霊の姿で出現します。



 という具合に、現実の話とファンタジーとが融合しているのですが、継ぎ目がスムーズなため違和感を感じさせません。
 それに、妻の亡霊が出てくるのですから、ある意味で『ヒア アフター』的な世界とも言えるでしょう。ただ、『ヒア アフター』のように、生身の世界と死後の世界との間に越え難い溝があるようには描かれてはおらず、むしろ融通無碍に出入りできそうなのです(この感じは、弟の亡霊が出現する『きみがくれた未来』の世界とも違っています)。
 フェイの話からすると、思っている人のそばにいつもいるとのことですが、ブンミは、自分が死んだらどうやってフェイの霊魂を探せばいいのだと言いますから、そう明確に構築された死後の世界があるとも思えません。

 ブンミの人工透析を手助けする青年ジャーイもその場に現れ、亡霊のフェイや猿の精霊の姿に一瞬びっくりはしますが、ブンミが説明するとすぐに納得してしまいます(なお、このジャーイは、ラオスから出稼ぎにタイに不法入国しているようなのです。ブンミの農園には、他にもフランス語が話せるラオス人が何人も働いています。ラオス人は随分と働き者なので、タイでは重宝がられているとのこと。この辺りは、酷く現実的な描写といえるでしょう)。

 ただ、突然、森の中を輿に担がれた王女がやってきて、滝壺に入ってナマズと戯れる話になると、やや唐突で、見ている方も戸惑ってしまいます。これはたぶん過去のことを取り扱っているのでしょう。



 それとは逆に、ブンミが夢見る未来のことも映画では描き出されるので、それはそのまま直に受け入れるしかありません。

 というように、森を基点にして、様々のファンタジーが入り乱れることになります。
 でも、基幹的な物語はズーッと静かに進行していて、ブンミは死を受け入れるべく、森の奥の洞窟に入っていきますが、それにフェイとジュンとトンとが続きます。

 その後は、ブンミの葬儀の模様が映し出されるところ、なんだか日本の葬儀に似ているなと思ったり、またトンが僧侶になりますが、あのタイの僧侶の袈裟は中はあのような構造になっているのかとわかったりと、感心しているうちの映画はオシマイとなります。

 計画停電でもなければ見なかったであろうタイの映画をこうして見ることができ、それも随分と質の高い作品で、いい映画を見たなという思いで家路につくことができたところです。

(2)タイの映画については、ムエタイ映画の『マッハ!!!!!』(2004年)を昔見たことがあるくらいで、何の情報も持ってはおりません。
 ただ、タイを舞台とする邦画、たとえば河瀬直美監督の『七夜待』(2008年)とか大森美香監督の『プール』(2009年)といった作品に登場する都市郊外に設けられている家(長谷川京子が住む高床式の家とか、小林聡美が務めているリゾートハウスなど)のもっと奥に広がる森の中に入っていったら、こんなことが起きても不思議ではないかもしれない、といった感じを受けたところです。
 逆に、同じタイを舞台にしていながら、『闇の子供たち』は、都市ばかりが描き出され森のことは視野に入ってこないからこそ、あのような悲惨な状況になるのではないかとも思えてきます。

(3)映画評論家・土屋好生氏は、「緑したたる森の静けさ。耳に心地よい風の音に虫の鳴き声。そして俳優らのゆったりとしたせりふ回し。そんな自然の情景に溶け込むかげろうのような亡妻の幽霊と、赤い目を輝かせる猿となった息子の精霊。そしてナマズに姿を変える劇中劇の伝説の王女。様々な「変身」から醸し出される巧まざるユーモアと生きることの切なさと。そこには近代化という美名のもとに失われた過去への深い洞察と、激変する時代に抵抗するアピチャッポン・ウィーラセタクン監督独自の世界観が息づいている。自分の故郷を通してタイの今を見つめた鋭い文明批評といえようか」と述べています。
 また、映画評論家・宇田川幸洋氏は、「不思議なものがたりであり、生死の境が曖昧な不思議な世界。それをウィーラセタクン監督独自のしずけさをきわめた、幽玄なかたりくちで見せていく。はじめて見る人は、おどろくだろう。あるいは、ねむけをもよおすかもしれない。しかし、それでも、この映画のやわらかくて濃密な、エロティシズムすらただよう空気につつまれたら魅惑されてしまうことは、まちがいない」と述べています。

 他方、復活した「映画ジャッジ」で、久し振りに登場した福本次郎氏の論評は相変わらずです。なにしろ、「恐ろしく緩慢な話法はイマジネーションを刺激するには程遠く、理解を越えたメタファーの数々には戸惑うばかりだ」とか、「その背景にある仏教的な思想や風習は敷居が高く、最後までこの作品世界についていけなかった」として40点しか与えていないのですから!



★★★★☆





英国王のスピーチ

2011年03月21日 | 洋画(11年)
 『英国王のスピーチ』を、吉祥寺バウスシアターで見てきました。

(1)この映画に関しては、それがアカデミー賞を獲得しようがしまいが、予告編の時から見てみたいと思っていましたから、実際にアカデミー賞の作品賞、監督賞、脚本賞、それに主演男優賞の4冠を獲得したことによって、なお一層弾みをつけられました。
 とはいえ、休日の映画館に出向くと、大変な人だかりとなっていて、見やすい席を確保するのも厳しい事態になっていましたが!

 さて、この映画のようにうまく作られていると、“面白かった”としか言いようがなく、さらに何か述べようとしても、すでにあちこちのブログで言われてしまっていることばかりという状況で、逆に捻くれて、ジョージ(のちに国王ジョージ6世:コリン・ファース)の吃音を、言語聴覚士のライオネルジェフリー・ラッシュ)は「治せます」と言いながら、実際にはスピーチの度に付き添っていたようですから、結局のところは治せなかったのではないかとか、ラストにおけるジョージのスピーチに対して、勇気ある行動だなどと皆が賞賛しているものの、たかが側近が作成した原稿を読み上げただけのことではないか、「勇気」とは何を言っているのか、などと言ってみたくもなってしまいます。


 ジョージ6世役のコリン・ファース


 ライオネル役のジェフリー・ラッシュ(注1)

 でもそんなことをしたら、却ってクマネズミの品性が疑われてしまうだけで、得策でないことは明らかです(尤も、藤原正彦氏の『国家の品性』と同じく、そんなもの何処にあるのと言われれば、身も蓋もありませんが!)。

 ここでは大人しく旗を畳んで、世界の7つの海を制していたイギリスという国の人間に、南半球の周辺国であるオーストラリアからやってきた者が対峙し、それも一方は国王という正統中の正統であるのに対して(といっても、正統な国王である兄が退位したことで王位に就いたのですから、正統の中での異端といえるでしょう)、もう一方は無資格者との構図、にもかかわらず、後者によって前者の治療が行われるわけで、そこには甚だしい地位の逆転があるためそれだけでも面白いのに、さらに吃音治療の光景が何とも言えないおかしさを持っており、逆にラストのスピーチは尊敬に値する見事な内容でした、と言うにとどめておきましょう。

 登場する俳優陣も、普段あまりお目にかからない俳優ばかりなので、下記の渡まち子氏の評に委ねることといたしましょう。

(2)と言っても、それだけでは詰りませんから、映画『わが教え子、ヒトラー』(2008年)に触れてみましょう。というのも、『英国王のスピーチ』の中で、国王一家が、ヒトラーの演説する映像を見て感心してしまう場面があるからです。



 この映画は、映画『善き人のためのソナタ』(『ツーリスト』でも触れました)で一躍注目された独俳優ウルリッヒ・ミューエ(残念なことに、2007年に54歳で亡くなりました)が、ヒトラーにスピーチを教える先生役を演じています。
 あれほど演説の名手だったヒトラーがどうしてそんな手助けが必要になったのかと不思議な感じになりますが、この映画の想定では、ヒトラーは相次ぐ敗戦で心身を病んでいたとされ(1944年末)、その自信を回復させ国民を鼓舞する演説をさせるために、ゲッペルスが、収容所にいたユダヤ人俳優グリュンバウム(ウルリッヒ・ミューエ)を呼び出して、ヒトラーを指導するように命じます(グリュンバウムは、昔ヒトラーに発声法を指導したことがあったとされます)。
 果たしてその成果やいかに、というわけですが、仮にこれが事実であれば、連合国の指導者の一人と、枢軸国のトップの一人とが、同じようにスピーチの指導を受けていたということになって、大変興味深いことです(たぶん、後者はファンタジーでしょう)(注2)。
 とはいえ、ジョージ6世の場合は、ラジオ放送で演説をしただけですが、ヒトラーの場合は大群衆の前で(あるいはカメラの前で)演説をしていましたから、状況はかなり違っていたとも言えます。 
ジョージ6世については、映画によれば、ライオネルがマイクのすぐ近くで国王の指導に当たることができたのに対して、ヒトラーに関しては、グリュンバウムは、最後には演台の中に隠れることまでしなくてはなりませんでしたから(注3)。

(3)渡まち子氏は、「俳優たちのアンサンブルが絶妙なのは言うまでもない。生真面目なコリン・ファースと、飄々としたジェフリー・ラッシュの演技合戦は、品格とユーモアが同居する秀逸なものだ。妻エリザベスを演じるヘレナ・ボナム=カーターも、いつものトンガッた雰囲気とは異なり、ぐっとエレガントで魅力的である」、「華麗な恋愛や派手なアクションなど何一つないこの映画こそ、人と人との信頼関係が、最高の形でスクリーンに結実した傑作だ」などとして90点もの高得点を付けています。

 また、前田有一氏も、「英国俳優界の芸達者勢揃いの、見ごたえある歴史ドラマ。この手のジャンルにありがちな退屈さや、歴史知識不足の観客が受けがちな疎外感を感じることはまったくない。非常にわかりやすく、華やかなこの時代の王室メンバーの魅力を感じさせてくれるとともに、主役二人の身分を超えた名タッグぶりに通快感を味わえる、万人向けの一品である」として75点をつけています。
 ただ、前田氏が引き続いて、この映画が「なぜ今アメリカ人に愛され、アカデミー賞までとってしまったのか」と問題提起し、「現在中東情勢が急速に悪化し、独裁者たちが民衆を武力制圧する事態にまで発展している。いうまでもなくアメリカは、覇権国家としての運命をかけ、この難題に対処してゆかねばならない。そんな時代に『英国王のスピーチ』がアカデミー賞を受賞する。じつにタイムリーというか、意味深ではないか。イギリスの王と首相は、果たしてどういう運命をたどったか」と、「本質」をとらえた回答をご自身で与えていますが、映画に何を読み取ろうとも評者の勝手とはいえ、そこまで言うのは、贔屓の贔屓倒しにならないでしょうか?



(注1)ジェフリー・ラッシュが手塚治虫の『どろろ』に登場する「金小僧」に酷似するとコメントしていただいたブロガーさんに敬意を表し、その画像をここに掲載いたします。


(注2)このサイトの記事によれば、ヒトラーも幼少期には吃音だったとのことです。ちなみに、そこで取り上げられている著書『私はヒトラーの秘書だった』等に基づいて作られたのが映画『ヒトラー ~最期の12日間~』(2005年)。

(注3)尤も、そのために、グリュンバウムは、自分が話したいことを国民に語ることができたわけです。ただし、その結果、……。



★★★☆☆



象のロケット:英国王のスピーチ

太平洋の奇跡

2011年03月19日 | 邦画(11年)
 またまた遅ればせながら、『太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-』を新宿ピカデリーで見てきました。

(1)この映画を見終わって、かなりの人は、どうして主人公の大場大尉竹野内豊)が、米軍に畏敬の念を持って“フォックス”と呼ばれたのだろう、と訝しく思うのではないでしょうか?
 下記の映画評論家の渡まち子氏も、「彼の何がすごかったのかが伝わりにくい」と述べていますし、また前田有一氏も、なぜ彼が「率いるゲリラ軍団が、食料も弾薬もなし、衛生状態も最悪な、あそこまでキツい状況に追い込まれても無駄な抵抗(にしか見えない)を続けているのか、さっぱりわからないのである」と述べています。
 なにしろ、映画における最大のクライマックスが、山の中に入って掃討にきた米軍をギリギリのところでやり過ごして、民間人を含めた一行200人が無事だったという場面なのですから!

 でも、あるいはもしかしたら、大場大尉は、まず民間人を無事に収容所に送り、暫くして軍人47名を率い、粛々と隊列を組んで米軍に投降しますが、それらの行為全般を指して、彼をフォックスと名付けたのではないでしょうか?



 そこら辺りはよくわからないものの、この映画は、日米対決の戦争物というよりも、如何にしてできるだけ少ない犠牲で太平洋の小島での戦争が終結まで辿りついたのか、という点に焦点を当てて描いている、と捉えた方が受け入れやすくなるのではと思いました。

 戦闘場面は、冒頭、米軍の猛爆で、何もしないうちに犠牲者だけがどんどん増えていく状況、指揮官4名が最後の総攻撃を前にして自決する場面、総攻撃といっても米軍の自動小銃に三八式歩兵銃で立ち向かうだけの悲惨な兵士たちの姿(実際には、様々な火器が使われたようですが)、こうしたものが描き出されるだけで十分だと思われます。
 むしろ、この映画では、そうしたこれまでの映画で何度も描き出された場面は極力控え(注1)、それに引き続いて、なんとかして相互のコミュニケーションをスムースなものにしようとする日米両軍の努力を描き出す方に重点が置かれていると考えられます。

 米軍側としては、日本軍側の行動が理解できないとして、問答無用に掃討してしまえとするポラード大佐を更迭し、後任になんとかその行動を理解しようとするウェシンガー大佐を持ってきます(注2)。
 そのことにより、それまでないがしろにされてきたルイス大尉の意見が取り入れられるようになります(注3)。何と言っても彼は、日本に2年間留学したことがあって、日本人の精神構造をよく理解しているのです。たとえば、彼は、将棋の駒を使って、巧みに日本人の精神構造を説明します(注4)。
 と言っても、分かる人にはわかるといったやり方にすぎませんが。



 他方、日本軍側では、食料や医薬品が底をついてしまったため、警戒の緩い収容所や米軍キャンプ地に侵入して、様々なものを掠め取ってきますが、その際に、日本の置かれている状況に関する情報も集まりだします。
 むろん、一息に結論にまで辿りつこうとすれば、跳ね上がり分子(木谷曹長山田孝之〕など)の手によって計画もオジャンになってしまったことでしょう。時間をかけ段階を踏んで、一つずつ確認しながら前進させることで、大場大尉は最後の降伏式にまでたどり着くことができました。

 こうした描き方は、従来の戦争物からすれば、余りにも緩すぎる感じがするものの、現下の世界情勢をも考えに入れると、十分ありうる選択ではなかったかと思います。なにしろ現在は、テロ行為と反テロ行為とが問答無用でぶつかっているだけで、相互のグループの間には憎しみしかなく、コミュニケーションを拡大していこうとする兆しなどほとんど見えないのですから!


(注1)原作のドン・ジョーンズ゛著『タッポーチョ 太平洋の奇跡』(中村定訳、祥伝社黄金文庫)には、「コーヒー山の勝利」など、面白そうな戦闘場面がいくつか描かれていますが、映画では取り上げられていません。

(注2)映画で懐柔派の士官とされるウェシンガー大佐は、原作には登場しません。上記注1と相まって、映画が何を強調したいのかがヨクうかがわれると思います。

(注3)原作では、ルイスは大尉ではなく少佐(途中で中佐に)で、情報将校とされています。なお、原作の冒頭に置かれている「序」においては、日本語が堪能な者として描かれているところ、本文ではなぜか日本語を使う場面は描かれていません。

(注4)映画の中で非常に印象的なこの将棋のエピソードは、原作にはないもので、米国サイドの監督・脚本のチェリン・グラックが書き加えたもののようです。
 ただ、ここで言われている理屈は、西欧人に事態を呑み込ませるには向いているかもしれませんが、当時の日本人の精神構造を説明するモデルとしてはどうかな、という気がします。


(2)この作品で描かれるサイパン島での戦いは、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』で描かれた戦闘と比べてみたくなってしまいます。
すなわち、
 45年2月の硫黄島の戦いでは、11万名の米軍に対し、守備兵力 2万余名が1カ月余り持ちこたえた挙句に玉砕しましたが、この場合、栗原中将以下の部隊は、戦いの前の半年以上前から、広範囲な地下坑道からなる要塞を建設して米軍の上陸に備えるとともに、1,000名ほどの島民は事前に疎開させられたため、戦闘が開始された時点では、徴用された軍属だけが残っていたにすぎません(約230名)。
 他方、サイパン島においては、硫黄島の戦いよりも8か月前ということもあり(44年6月)、3万名強もの日本軍(斎藤中将)がいたにもかかわらず、準備が全く整っておらず、6万名強の米軍に対し3週間ほどで壊滅してしまいました。
 また、民間人についても、2万名以上の在留邦人の半数近くが死亡したようです。

(3)映画評論家の前田有一氏は、上記(1)で引用した文章に続けて、「この映画は、その理由を誰もがわかるように伝えるのが最大の目的ではないのか。原作者は少なくとも、それを伝えたくて書いたと言っている。とすれば、作り手がそもそもよく理解していないと結論づけるほかないではないか」。「そういう事実があったのはわかるものの、もう少し緊張感というものが必要だし、彼らがそこまでして山にいる理由を描き切れていないからおかしなことになっている」。「結局のところ、軍事・戦争に関する想像力が、この映画には決定的に欠如しているのだろう。こういういびつな戦争映画は、おそらく現代の日本以外では作られることはない」等々と述べて、30点しか与えていません。

 ですが、前田氏は、あたかも、「原作者」の意図をそのまま伝えること(「原作者が願ったコンセプトを再現しようとする」)が映画の使命だなどと言っているように思えますが、果たしてそんなものでしょうか?だったら、映画など作らずに、また観客も映画など見ずに、その本を繰り返し読めばいいのではないでしょうか?
 それに元々、原作本から何を読み取ろうと、映画製作者の勝手のはずです。なにも、原作者が読み取ってほしいと考えていることを読み取らずとも、全然構わないのです。
 まして、今回の映画の場合のように、現下の社会情勢を踏まえて、この本に基づいて世界を描いてみたいと映画製作者側が考えたとしたら、まずはそうした点を映画から汲み取ることからレビューを始めるべきではないでしょうか。

 なお、前田氏は、堀内一等兵唐沢俊明)のスキンヘッドに対して、リアルさに欠けると口をきわめて非難しているところ(「だいたい、ろくな水場もないサイパンの山で、あのきれいなスキンヘッドを彼はどう維持しているのか」)、タイガーと呼ばれた堀内一等兵の心情を強調するための道具の一つ、と考えれば済むことではないでしょうか?もとより、とことん戦争のリアルさを描いたとしても、本当の殺し合いの場面を映せるわけでもなく、それらしい演技をするだけのことですから、中にはこうしたデフォルメがあっても、何ら異とするに足りないことと思われます。




(4)また、映画評論家の渡まち子氏も、「物語は、いわゆる戦争秘話なのだが、この映画では、米軍からも恐れられた日本人将校を描きながら、彼の何がすごかったのかが伝わりにくい」。「肝心の主人公・大場大尉の中に、本来、家庭を愛する平凡な男が、いきなり戦場で寄せ集めの部下を率いて戦う矛盾や苦悩がまったく見えないのも人間描写として浅いとしか言えない。強烈な個性を持たない軍人をリアルと見るか、映画の主人公として魅力がないと感じるかで、この映画の評価は分かれそうだ」として50点をつけています。
 おそらく、映画製作者側は、できれば「本来、家庭を愛する平凡な男が、いきなり戦場で寄せ集めの部下を率いて戦う矛盾や苦悩」を描きたかったのではと思われます。でも、全体的な制約から、そうした部分は入りきらなかったのではないでしょうか。あるいは、そういったものは、これまで伝えられている様々の資料などから、観客側である程度推測されるものと考えたのでは、とも思われます。




★★★☆☆



象のロケット:太平洋の奇跡

東日本大震災について

2011年03月18日 | その他
(1)先週の金曜日に東北地方を襲った大津波の実に恐ろしい様子をTVで見て、映画『ヒアアフター』で女性ニュースキャスターが津波に襲われる場面を思い起こしましたが、現実の自然の猛威は、CGを使って描き出された映像を遙かに上回っています!
 また、映画『トスカーナの贋作』を制作したキアロスタミ監督の映画『そして人生はつづく』(1992年:DVDで見ました)では、1990年6月にイラン北西部で起きた大地震(マグニチュード7.7、死者約3.5万人)を題材にしています。こちらは内陸部の地震であり、伝統的な家屋が大量に崩壊している光景は、実に凄まじいものがあります。
 いずれの映画も、大規模な自然災害に伴う「死」が取り扱われているところ、今更ながら、今回の大震災で犠牲になられた大勢の方々に思い至ります。
この場を借りて、ご冥福を心からお祈りいたしたいと思います。

 ところで、今回の大震災の被害が甚大なことを考慮したのでしょう、上記の『ヒアアフター』の公開が打ち切りになってしまい、さらには、『唐山大地震』の公開(今月26日)も延期されることになってしまいました。
 特に、後者について配給会社は、同作品は、「1976年に実際に発生した震災によって引き裂かれた、ある家族の32年にわたる絆と心の復興を描いたドラマであり、地震災害や被災状況を娯楽目的に製作したパニック映画ではありません。しかし、映画の中で描かれる唐山大地震と四川大地震の地震を再現したシーンや被災者の救出シーンなど一部の描写がこの時節柄上映するには相応しくないと判断し、公開の延期を決定致しました」と、オフィシャルサイトで述べています。
 ですが、むしろ話は逆ではないでしょうか?こういう時にこそ、そうした映画を見ることで、観客は自然の恐ろしさとか、それに挑む人間の戦いといったことなどについて、一層深く思いを馳せることが出来るのではないでしょうか?
 なぜ、「地震を再現したシーンや被災者の救出シーンなど一部の描写がこの時節柄上映するには相応しくないと判断」するのでしょうか?なぜ、実際の津波とかヘリコプターによる救出といった事柄はTVで四六時中放映されているのに、映画の場合は「相応しくない」のでしょうか?
 こうした判断の裏には、映画は娯楽にすぎないという自己卑下があるようにも感じられます。
 今被災地で被災者が大変な思いをしているのに、同じような事柄を娯楽的に扱っているのを見て楽しむとは不謹慎、ということなのかもしれません。
 でも、こうした映画は、津波とか地震といった自然災害を実に真摯に取り扱っていると思います(『唐山大地震』については、予告編しか知りませんが)。
 それに、仮に娯楽的に取り扱っているとしても、そもそもこうした時にこそ娯楽が必要なのではないでしょうか?
 また、類似のことを娯楽として扱うことのどこが問題なのでしょうか?
 自然の大災害及びその被害のことをいくら四六時中考えていても、同じ視点からだけでは行き詰ってしまい、いい考えが浮かぶとは限りません。むしろ、違ったシチュエーションで違った観点からとらえ直すことも重要ではないでしょうか?

(2)なお、誠につまらない内容で恐縮ですが(それに、既にアチコチで言われ尽くしているものばかりですが)、先週金曜日の夜、我が家の近く(下北沢の少し先)までオフィス(日本橋)から3時間半歩いたときの経験に基づいて得られた多少教訓めいた事柄を、以下に備忘録的に簡単にまとめてみました。

イ)コンビニに行けば何とかなると考える人が大勢いて、弁当とかおにぎり、サンドイッチなどのしっかりした食べ物がスグニなくなってしまうこと(それらは、消えてしまうと追加の供給がありませんから、どのコンビニの棚もガラーンとしてしまいます)。

ロ)幹線道路の歩道にはもの凄い人数があふれ、渋谷・新宿といった郊外に通じる駅に向かって延々と続くこと。

ハ)幹線道路は大渋滞で車がマッタク動かないこと(地震の際には、本来ならばバスが有効なのでしょうが、下手に乗ると中で身動きが取れないまま長時間待たされ、かえって体力が消耗してしまうでしょう)。

ニ)公衆電話が連絡用としては使えるものの、今や設置台数が酷く減ってしまったため、何処も長蛇の列となっていること(オフィスから我が家への電話は、回線がふさがってしまってマッタク使えませんでした。逆に、家からオフィスには連絡が付くのですから不思議ですが)。

ホ)コンビニのトイレは長蛇の列。

ヘ)食べ物屋に入るなら、ラーメン屋など、人の回転が早いところが向いていること(飲み屋風情のところは、長時間飲み食いして交通機関が動き出すのを待つ客で溢れ、殆ど人の入れ替わりがありませんから、まず利用できません。体を休め暖かいものをとるという目的では、ラーメン屋で十分でしょう)。

(3)今回の地震に関しては、さらに「計画停電」のいい加減さのことも触れてみたいですし、さらには福島原発事故の問題もあります。ただ、いずれも現在進行中の事柄ですので、一段落ついてから、できれば感想などを書いてみたいと思っています(福島原発事故については、一段落といった事態が早く訪れるよう祈るばかりです!)。


ツーリスト

2011年03月13日 | 洋画(11年)
 『ツーリスト』をヒューマントラストシネマ渋谷で見てきました。

(1)今を時めく『ソルト』のアンジェリーナ・ジョリーが、これまた人気では引けをとらない『パブリック・エネミーズ』のジョニー・デップと共演する映画で、あまつさえ舞台がヴェニスとくれば、もうそれだけであとはストーリーなどどうでもかまわないという感じになるところ、監督があの『善き人のためのソナタ』(2006年)を制作したドナースマルクだと聞いたものですから、プラスαが何かあるに違いないと期待したのがやや勇み足でした。
 だって、『善き人のためのソナタ』は、東ドイツの過酷な体制下、真実の姿を西側に伝えようとする知識人たちが遭遇する悲劇を描いたもので、最後になって少しだけ光明が見られるものの、全編に渡って暗鬱なトーンが横溢している映画ですから、そういう映画を制作した監督ならば、いくらアンジーが出演するアクション映画だとしても、何か従来の映画とは違った味付けがなされているのでは、と思うのが人情でしょう。

 ですがこの映画では、……と、ここで本作品の問題点を挙げてみても始まりません。すでに、あちこちのブログなどで様々に指摘されていることでもありますから。
 それに、元々、ドナースマルク監督だったらこうであるはずだ、などという先入観を持つ方が間違いのもとです。というのも、『善き人のためのソナタ』は彼の長編第1作であり、第2作目がこの『ツーリスト』であって、彼の才能とか考え方などについて我々は何も知らないも同然なのですから。

 もっと寛容な目で、この第2作目に当たってみる必要があると思います。
 そこで劇場用パンフレットを開いてみますと、そのIntroductionからすれば、この映画の狙いは、「美しい男優・女優が、夢のような設定の中で、はらはらドキドキのストーリーを展開し観客をうっとりさせる」ことにあるようです。
 そうか、歌舞伎の「顔見世大興行」なんだ、そうであるなら、「はらはらドキドキのストーリーを展開し」の部分を見なかったことにすれば(逆に、そんなものがある方がおかしいかも)、今回の作品は十分にその狙いを達成していると言えるでしょう!
 アンジェリーナ・ジョリーが、素晴らしいファッションでパリの街中を歩く姿、ジョニー・デップが、いつもとは違った素の感じを出しているところ、そして何よりもかによりもヴェニスの景観です(言ってみれば、大阪・道頓堀川の歌舞伎役者による「船乗り込み」でしょうか!)。





 クマネズミは、イタリアを旅行した時に時間がなくてヴェニスに回れなかったせいで期待感がかえって大きくなっているのかもしれないことながら、この映画は、ぜひ行ってみたくなるような光景をいくつも映し出しています。
 ヴェニスといえば、昨年見た映画『ドン・ジョバンニ』でも、その冒頭に、ヴェニスの運河を舟に乗って進むダ・ポンテらの前に、突如として大きな石像を積んだ船が現れるシーンがあり(注1)、夜の場面でかなり不気味な感じがしましたが、本作品は、逆に、まさに明るい南欧の太陽の下のヴェニスといった趣です(たとえば、列車が入り込むサンタ・ルチア駅は海の上に浮かんでいるようですし、フランクが通りかかるサン・マルコ広場も言うことなしですね)。



 こんな感じに浸ってしまうと、カナル・グランデで繰り広げられる追っかけゴッコの緩さも(注2)、これがラテン気質なんだと許してしまいます(ギャングの手下が橋の上から、すぐ下を通過するアンジーらに何発撃とうが、命中する気遣いなどあろうはずもありません。逆に、ギャングの親玉が、不甲斐ない部下を怒りに任せて殺してしまうのは、チョイトやりすぎなのではないでしょうか)。

 とにもかくにも、イタリアを舞台にする映画なのですから、つまらないことなど詮索せずに、おおらかな気分で楽しんで見るに如くはありません!


(注1)1995年にコッポラが制作した映画『ドン・ファン』では、あろうことかジョニー・デップが主役のドンファンを演じているのです(といっても、その映画にヴェニスは出てこなかったと思いますが)!

(注2)下記の前田有一氏も、「ヴェネチアの狭苦しい水路をのろのろと追いかけあうボートチェイスなどは、スピード感はゼロながら、緊張感あふれる見事な演出で、目まぐるしい最近の多カットアクションについていけない人たちにも親切である」と指摘しているところです!


(2)本作品は、イタリアが舞台になっているところから、つい最近見た『トスカーナの贋作』のことが頭に浮かんでしまいます。
 なにしろ、本作は、パリで暮らすエリーズ(アンジェリーナ・ジョリー)が、指示された列車でヴェニスに入るところから物語が始まるところ、『トスカーナの贋作』でも、その場面はありませんが、英国人作家・ジェームズが英国から列車でトスカーナの小都市へやってきて講演をするところが発端となっています。
 また、本作品は、米国人の数学教師のフランク(ジョニー・デップ)と英国人エリーズが、同じ列車に乗り合わせて同席するところでストーリーが本格的に展開し始めますが、『トスカーナの贋作』でも、ジェームズの講演会に出席したフランス人(ジュリエッタ・ビノシェ)が、ジェームズを車で連れ出すところから話が込み入ってきます。
 それになにより、本作品も『トスカーナの贋作』も、言ってしまえば“ニセモノ”を巡る話なのではないでしょうか?
 とはいえ、本作品は銃撃シーンが何度も映し出されるアクション物なのに対して、『トスカーナの贋作』は、いわゆる文芸物といえるでしょうから、観客に与える印象はまるで違いますが!

(3)渡まち子氏は、「アンジェリーナ・ジョリーとジョニー・デップというハリウッドを代表する美男美女の豪華共演というのが、本作最大にして唯一のウリ。黄金期のハリウッド映画のようにスターだけを強調した、とても21世紀とは思えない“トラッド”な作りだ。アンジーとジョニデの2人が出ているというのに、この平凡な出来ばえは、イエローカードを出したくなる」、「舞台は、数々の名画の舞台になった、世界一ロマンティックな水の都で、そこに美男美女が収まっている図はまるで絵葉書のように美しい。抜群のロケーションの旅情サスペンスと割り切れば楽しめる」として50点をつけています。
 他方で、前田有一氏は、「湯けむりサスペンスを見る時のような無防備体制でみているといい具合に騙される、終盤の展開にも満足できよう。思えば役者の演技やせりふなど、伏線は十分仕掛けられていた。なかなかフェアなミステリである」、「上映時間も短いし腹八分目の内容。美しい景色に美しいスターたち。こうした映画の良さがわかるのは、やはりオトナの観客といえるだろう」として75点もの高得点を与えています。
 とはいえ、「ヒッチコック風の古き良きサスペンスドラマ」であり、「往年のハリウッドムービーの楽しさを味わえる」とまで言えるかどうかは、はなはだ疑問ですが!




★★★☆☆




象のロケット:ツーリスト

トスカーナの贋作

2011年03月12日 | 洋画(11年)
 『トスカーナの贋作』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)この映画は、初めのうち美術品の贋作を巡るお話と思わせておきながら、どうやらそれにとどまらず、もっと幅広い視点から「贋作」を捉えていることが次第に分かってきます。
 冒頭は、イギリスの作家ジェームズウィリアム・シメム:オペラのテノール歌手とのこと)が、トスカーナ地方の町で、自分の贋作に関する著書『Copia Conforme』(注1)について講演する場面です。講演者の机には、立派に装丁された本が展示されています。ですが、そんな本など出版されてはいないのですから、それ自体が「贋作」でしょう!



 次いで、その講演会に顔を出したフランス人の「彼女」(ジュリエッタ・ビノシェ)が、ジェームズを連れ出して小さな町の美術館に入りますが、そこには女神ポリムニヤを描いた絵画が展示されています。「トスカーナのモナ・リザ」と言われているこの絵画は、映画の中では、贋作であることがわかったのちも美術館で展示されていると説明されています。もしかしたら、この話自体が作りものかもしれません。
 それに、その絵を巡って、「ダ・ヴィンチのモナ・リザの絵でさえ、モデルのジョコンダ夫人の複製だ」などといった発言がとびだします。そんなことを言い出したら、何でも複製になってしまい、収拾がつかなくなってしまうでしょう!いうまでもないことながら、たとえば、ウィリアム・シメムが演じるジェームズ自体、フィクションですから本物ではあり得ません!
 さらに、フィレンツェのシニョリーア広場に置かれているミケランジェロ作のダビデ像は複製であることが、話の中に出てきます(本物は、アカデミア美術館に置かれています)。

 そして、その辺りから映画の展開が非常に錯綜してきます。
 ジェームズは、その像の前に佇んでいた親子を見たのが、自分が本を書いた動機だ、などと話すのですが、「彼女」の方は、それを聞いて「他人の話ではない」などと言い出し、次第次第に二人は旧知の間柄、まるで夫婦であるかのような会話をフランス語でし始めます。
 アレッ、ジェームズは英語しか話せないはずでは、変だな、と思っていたら、なんとフランス語でどんどん「彼女」と口論までするのです。ここでは偽物の夫婦が登場したような、オカシナ感じが漂ってきます。
 さあこの事態をどう解釈すべきなのでしょうか?

 評論家の粉川哲夫氏は、「映画の「解説」のなかには、「彼女」がジェイムズのファンで、「彼女」がこの機会に彼に接近し、この映画が描く奇妙な「ラブ・ストーリー」が展開するかのような解釈をしているものがる。また、ふたりは、夫婦でありながら、他人同士を装い、ある種のゲームを披露するというふうに解釈したものもある」が、「わたしの解釈では、ジェイムズと「彼女」とは、15年来の愛人関係にあり、たまたまこの映画は、二人があたかも見知らぬ者同士であるかのように「ゲーム」をするのだと思う。その出逢いは、ジェイムズがイギリスに、「彼女」がイタリアにいるという形で長いあいだ引き離されたのちの再会でもいいし、もっとひんぱんに会っているという設定でもいい」と述べています。

 そうか!ここには解釈の余地がたくさんあるのだな、それだったら自分は自分なりの解釈をしてみてもかまわないな、それがどんなに変なものであっても、何か解釈を提起すればこの映画のゲームに参加することになるのかもしれない、などと思えてきます。

 そこで、誠に不束ながら、クマネズミの解釈を申し上げればこうです。
 レストランで、ジェームズは、「彼女」に対して、「5年前のあの時に、あなたは時速100kmで車を運転しながら、居眠りしていたな、なんでそんな時に居眠りをしたのだ、子供を乗せていながら」などと言い募ります。
 もしかしたら、その時、ジェームズの妻であった「彼女」は、交通事故を引き起こして、息子とともに亡くなってしまったのではないでしょうか?
 ジェームズの講演会場に現れた「彼女」と息子は、亡霊なのではないでしょうか(いきなり現れたかと思うと、「彼女」は最前列の席に座り、息子の方は、会場のあちこちを傍若無人に動き回ったりします)?亡霊の「彼女」に連れられて、フィレンツェ郊外の小さな町へ行ったりして、様々の口論をしますが、それは昔やったことがある口論の繰り返しなのであって、教会の鐘が激しく打ち鳴らされると、亡霊は消え去って、ジェームズは予定通り夕方9時の列車で帰国の途につくのではないでしょうか?
 この解釈も、おかしい点はいくつもあるでしょう。ジェームズがフランス語が出来ないのであれば、なぜ亡霊の「彼女」とはフランス語で話すのか、といったことなどです。
 でもかまいません。自分なりの解釈である程度の話の辻褄が合えば、それで十分だと思いますから(なにより、題名からすれば、紛い物のレビューであっても許されるでしょうし)。

 この映画の主演女優であるジュリエット・ビノシュについては、最近では、『PARIS パリ』とか『夏時間の庭』(昨年11月20日の記事で若干触れています)を見ましたが、実にチャーミングで知的で、前作の『夏時間の庭』に引き続いて本作も美術を巡る物語だというのは、興味深いことだなと思いました。



(2)贋作に関しては、昨年11月24日のこのブログの記事「ゴッホについて若干のこと」で触れましたように、愛知県立芸術大学教授の小林英樹氏は、その著『ゴッホの復活』(情報センター出版局〔2007年〕)において、東京にあるゴッホ作『ひまわり』は贋作であると強く主張しています。
 なにしろ、1987年に安田火災海上保険が2,475万ポンド(当時の為替レートで約58億円)が贋作だというのですから只事ではありません。
 尤も、同書によれば、「外国の有力新聞紙上や研究家などから、何回か贋作の疑惑が発せられ、所蔵者側は防戦一方の感があった」とのこと(P.219)。
 ところが、その後「ファン・ゴッホ美術館の主任学芸員」であるティルボルフ氏の判断に加えて、カナダ・トロント大学教授オフシャロフ氏の論文(1998年)と、シカゴ美術館の研究発表(使われている麻布に関するもの)とによって、贋作疑惑は「あっけなく覆され」、「真贋論争はようやく決着がついたかのように見えた」ようです(P.221)。
 ですが、同教授は、東京にある『ひまわり』を「以前も、いまも、本物でないと確信している。いかなる発表があった時も、核心が揺らいだことはなかった」と述べ(P.230)、たとえば次のようにその論拠を明らかにしています。
・その『ひまわり』には、「当時のゴッホのどの作品にも見られない理性の抑制を失った激情的な水平方向のタッチの集積」がみられる(P.241)。
・その『ひまわり』では、「花瓶は玉葱のように丸く、見るからに不安定である」(P.244)。
等々。
 小林教授は、この『ひまわり』ばかりか、ワシントンナショナルギャラリーにある『自画像』なども贋作としていて、その研究対象が今後どのような広がりを見せていくのか、興味深いところです。

 さて、ここまでくると、映画の冒頭で映し出される偽書『Copia Conforme』のことが思い起こされるでしょう。そんな本など実在しないのに、堂々と講演援者の机の上に展示されているのですから(ただ、外側だけで中身がありませんから、実際には「本」とはいえないかもしれませんが)!
 そして、偽書と言えば、たとえばHP『古樹紀之房間』に掲載されている宝賀寿男氏の論考「『武功夜話』の真偽性」が大変興味深い内容となっていて、そこからも歴史研究の方に引き寄せられます。

(3)この映画を制作したキアロスタミ監督の作品については、上記HP『古樹紀之房間』に掲載されている「地震について」が、少しは参考になるかも知れません(注2)。
 そこで取り扱われている作品(注3)と今回の映画とを比べてみると、あるいは、それらの作品に映し出されている光景が、あたかも本当の地震直後のドキュメンタリー映像の如くでありながら、実際は、それらの作品のために後からしつらえたものであるという点、すなわち本物と偽物が分かちがたくなっている点に、あるいは関連性が求められるのかもしれません。

(4)朝日新聞記者・石飛徳樹氏は、2月25日朝日新聞夕刊に掲載された映画評において、「美術の真贋で始まったはずが、いつしか男と女の真贋についての考察になっている。キアロスタミの術中にはまるのは実に心地よい」などと述べています。


(注1)ジェームズが書いた原著をイタリア語翻訳したもの。映画の原題は、さらにそれをフランス語にして「Copie Conforme」。

(注2)丁度、ニュージーランドの地震があったばかりのことでもありますし。
 なお、甚大な被害を被ったクライストチャーチについては、興味深いことに同じHPの「多様な目線と視点」(1999年に作成されたエッセイ)でも触れられています。

(注3)三部作とされている『友だちのうちはどこ?』(1987年)と『そして人生はつづく』(1992年)、それに『オリーブの林をぬけて』(1994年)。






★★★★☆





象のロケット:トスカーナの贋作

ザ・タウン

2011年03月09日 | 洋画(11年)
 『ザ・タウン』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)この映画の前に見た『ジーン・ワルツ』は、出産を扱っていることから当然のことながら、女性中心の作品になっていましたが、本作品は強盗団一味を描く犯罪物ですから、登場する主な女性はたったの二人です。
 いずれも、強盗団のリーダーである主役のダグベン・アフレック)の関係者であり、一人は元の恋人クリスタブレイク・ライブリー)であり、もう一人はダグが真剣に愛することになるクレアレベッカ・ホール)。

 クリスタは、冷めきった関係にあるダグの気を自分に向け直そうとしますが、結局うまくいかず、そのこともあってダグたちの次の標的をFBIにバラしてしまいます。その結果、ダグたちを大変な窮地に追い込んでしまい、実の兄・ジェムジェレミー・レナー)がFBIに射殺されてしまう破目になります。言ってみればマイナスの存在でしょうか。

 逆に、クレアは、ダグたちが襲った銀行の支店長で、人質にとられ危うく消されそうになるものの、クリスタとは違う魅力に惹き付けられたダグは真剣に彼女を愛するようになります。あとになってから、FBIの捜査官によってダグの真の姿を知って大混乱に陥るものの、ダグの一途なところを理解し、ギリギリのところでダグを窮地から脱出させます。ダグにとってまさにプラスの存在でしょう。

 なお、ダグにとっては、映画には登場しませんが、もう一人重要な女性がいます。すなわち、ダグの母親。
 タグが幼い時に家出してしまったと父親から言われていますが、その後一度も探し出そうとしないことから、ダグは父親に対し強い不信感を抱いています。何しろ、6歳の時から、母親に会いたいとずっと思い続けているのですから。クレアから家族のことを聞かれた時も、母親については言い淀んでしまいます。

 こうした女性に囲まれてダグ達一味は、証拠を残すことなく、ボストン市内の金融機関などを襲撃するのです。襲撃の際も、ある時は、修道女の衣装に仮面をつけた扮装をしますから、この作品は、目立たないながらも至るところ女性の姿が見え隠れしていると言えるでしょう。

 といっても、犯罪物ですから、いうまでもなく主なストーリーは男性絡みとなります。
 女性たちがペアを組んでいるとすれば、男性たちの方でもペアの組み合わせが強調されています。

 まず、強盗団は4人で構成されますが、中心となるのは、主人公のダグと、弟分のジェム。
ダグは冷徹な頭脳の持ち主で、標的を襲撃するに当たっては、細かいところまで事前に十分調べ上げた上で、他人を殺めることなく冷静に事を運ぼうとします。他方のジェムは、逆に、激情型で人を殺すことに何の躊躇いもありません。

 次に、この強盗団を陰で操っているのは、表向きは花屋を営むファーギーとレジ担当の殺し屋ラスティ。特に、ファーギーは、以前、ダグの父親(クリス・クーパー)を使っていましたが、反抗すると彼を刑務所に送り込むなど冷酷な手を打ちます。

 さらに、こうした強盗団一味に対峙する警察は、FBI特別捜査官フローリー(ジョン・ハム)とボストン市警のディノ(タイタス・ウェリバー)。フローリーは全国という視点から犯罪に取り組みますが、他方のディノは、ボストンのまさにチャールズタウン生まれであり、犯罪者仲間をよく知っていることで捜査で成果を上げているため、皆から裏切り者扱いもされているようです。

 こうした背景の下で、強盗団は3回襲撃しますが、1回目の銀行はものの見事に成功し、2回目の現金輸送車は、カーチェイスで何とか逃げ切ったものの、3回目の野球場は、警官隊によって完全に包囲されてしまいます。あるいは、3回目という回数がよくなかったのかもしれません。

 監督・脚本・主演のベン・アフレックは、『消されたヘッドライン』以来ですが、強盗団のリーダーでありながら、主役として観客を惹きつけなくてはならないという難役を、実に軽々とやってのけてしまっているのは素晴らしいなと思いました。



 また、相手役のクレアを演じるレベッカ・ホールも、『それでも恋するバルセロナ』以来ですが、強盗に襲われる銀行の支店長でありながら、襲った強盗団の一人と、知らずに恋に落ちるというこれまた難しい役を魅力たっぷりに演じています。



 さらに、ダグの弟分ジェムを演じるジェレミー・レナーは、『ハート・ロッカー』における爆弾処理班のジェームズ二等軍曹を彷彿とさせます。どちらにおいても、死の淵ギリギリのところで仕事をしているといえますから!




(2)この映画の舞台となる、ボストン市チャールズタウンは、チャールズ川の北側にある地区で、アイルランド系の住民が多く居住しているとのこと(注)。映画でも、空から俯瞰した画像が何度か挿入されますが、その中心にはバンカーヒル記念塔といわれる巨大なオベリスクが聳え立っています。



 クマネズミは一度ボストン市に行ったことがありますが、その時はハーバード大学とか旧市街にある古い街並みを見学しただけで、全体として閑静で良い街だなと思い、まさかチャールズタウンなどといった犯罪の多い地区があるとは思いもよりませんでした。

 こうした地区としては、映画『クロッシング』で描かれたニューヨーク・ブルックリン地区の犯罪多発地域の方がずっとお馴染みでしょう。それも、今回の映画のように銀行強盗といったことではなく、麻薬取引が中心で、かつ中心となるのは黒人となると、こちらの先入観と合ってきます。

 また、『パブリック・エネミーズ』では、シカゴで暗躍した実在の銀行強盗デリンジャーが描かれていました。
 ちなみに、その映画もまた、強盗団が描かれ、さらにはFBI〔捜査官メルヴィン(クリスチャン・ベイル)〕との戦いとか、デリンジャーが愛する女〔ビリー(マリオン・コティヤール)〕も描かれますが、やはりジョニー・デップ扮するデリンジャーの生き方に焦点が当てられ、舞台も禁酒法廃止直後となっていて、映画の雰囲気は両者で相当違っています。


(注)この映画の原作『強盗こそ、われらが宿命』(チャック・ホーガン著:加賀山卓朗訳、ヴィレッジブックス)の冒頭には、このチャールズタウンについて、「ここは〝古の11世紀〟の中心地、初めてケネディ家の息子を議会に送り込んだ地、ほかのどんなところより、第二次世界大戦に青年を送り出した、アメリカの誇る1平方マイル」などと述べられています。
(なお、「古の11世紀」とは、11世紀にヴァイキングがこの地にやってきたことを指すのでしょう)

(3)渡まち子氏は、監督ベン・アフレックは、「本作で、監督、脚本、主演をこなす大活躍」で、「俳優兼監督の大先輩クリント・イーストウッドとの共通性を指摘されることが多いが、厳しい現実の中で生きる男たちの友情や純愛、譲れない誇りと葛藤は、なるほどイーストウッドを思わせる。渋いキャスティングにも共通性が見られ、脇役にクリス・クーパーやピート・ポスルスウェイトのようないぶし銀の名優を使うセンスが素晴らしい」、「暗くつらい現状から抜け出し、未来を求める青年の姿は普遍的で、いつしか私たちは、希望と絶望の間にいる主人公に手を差しのべたくなる。物語は、陽光が降り注ぐハッピーエンドではない。だが、柔らかい優しさで包まれる夕焼けのようなラストが、心にしみた」として85点もの高得点を付けています。



★★★☆☆



象のロケット:ザ・タウン