映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章

2016年03月31日 | 洋画(16年)
 『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)とても面白かった第1作目『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』(以下では「前作」とします)を見たものですから(注1)、続編も面白いかもと思って、遅ればせながら映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、マリーゴールド・ホテルの宿泊人・ミュリエル(注3:マギー・スミス)と同ホテル支配人・ソニーデヴ・パテル)とがオープンカーに乗って、ルート66を飛ばしています。
 どうやら二人はアメリカ出張中で、カリフォルニア州サンディエゴへと向かっているようです。
 目的のホテルに着いて、まずミュリエルが「中でお茶とビスケットを」と望むと、ボーイが「オーストラリアなまりですね」と余計なことを言います。
 それを無視してソニーはミュリエルに、「チャンスに賭けましょう」と言いますが、ミュリエルは「とにかくやるのよ」「話は私にさせて」と答えます。
 そして、二人は投資会社の社長のタイ・バーリーデヴィッド・ストラザーン)と会います。
 会議が始まる前に、ミュリエルがウェイターに向かって、「この国では生ぬるいお湯にティーバッグ。これでは違う。お茶の葉に熱湯を注ぐべき」と言うと(注4)、バーリーは興味を示して、「ホテルの話を聞きたい」と乗ってきます。
 二人は、バーリーの会社からの融資によって、マリーゴールド・ホテルと同じようなやり方(注5)で運営されるもう一つのホテルをインドに開業しようと考えているのです(注6)。
 話を聞いたバーレイは、「前向きに検討したいが、適否の判断をするために、身分を伏せた鑑定人を送り込みたい」と言います。
 そして、インドのジャイプルにあるマリーゴールド・ホテルに一人の男が現れます。
 さあ、このあと話はどのように展開することになるのでしょうか、………?

 本作を見ると、やっぱり続編は続編だけのことでしかないという感じです。第1作と同じように、80歳を超える年齢ながら今もって第1線で頑張っているジュディ・デンチとかマギー・スミスといった女優らが同じように活躍するとはいえ、第1作のようなインドの素朴な雰囲気を大切にという気分がかなり後退して、もっと資金を得て近代的なホテルチェーンにしようという動きが前面に出てくるように思います。様々の男女の関係も、第1作目で描かれていたものが複雑化しただけのように思え、インド映画特有の歌と踊りはふんだんに盛り込まれるようになったとはいえ、第1作のままでオシマイにしたままでも良かったのではと思いました。

(2)前作と比べて本作の特色といえば、一つは、リチャード・ギアの登場でしょう(注7)。



 彼は、ガイ・チェンバースという名前で突然マリーゴールド・ホテルに現れるのです。
 ですが、フロントにいたソニーの母親(リレット・デュベイ)は、予約が入っていなかったので「満室です」と断ってしまいます。ところが、その様子を見たソニーは、ガイこそがバーリーが送ってきた鑑定人に違いないと決めつけて、逆に「失礼しました、当ホテルで最上のお部屋にご案内します」と言って、手のひら返しのもてなしをすることになります。
 ガイは、ソニーに乗せられて豪遊を決め込むことはしないものの、ソニーの母親に盛んにアプローチをかけたりして、本作を盛り上げます。

 もう一つの特色としたら、途中でも何回か描かれますが、最後の結婚披露宴で大盛り上がりを見せるボリウッドダンスでしょう。なにしろ、新郎新婦のソニーとスナイナテーナ・デザイー)が中心になって皆が総出で踊りまくるのですから!



 さらに特色を挙げるとしたら、マリーゴールド・ホテルのあるジャイプルの観光地がいくつか紹介されていることでしょう。
 例えば、王室墓園(ガイトール)では、説明を覚えきれないダグラス(ビル・ナイ)が、子どもの読む説明文を無線で聞きながら、観光客に説明をしています。
 どの観光地もとても興味深い感じがして、ちょっと見ただけでも行きたくなってしまいます(注8)。

 とはいえ、本作からは、前作で明らかになっていることをなぞり直しているに過ぎないのではという印象を受けてしまいます。
 例えば、ソニーとスイナーの結婚式は本作の見どころになっているところ、前作の最後の方で、ソニーは母親を説得して婚約にまで至っているのです。本作では、ソニーとスイナーとの間に多少に行き違いが生じるとはいえ、既定路線に乗って事態が進行するに過ぎません。
 また、ダグラスビル・ナイ)の妻・ジーンペネロープ・ウィルトン)が突然インドに現れて夫に離婚を申し入れます。ただ、前作ですでにジーンは、ダグラスをインドに一人置いてイギリスに帰国してしまっているのです。本作でジーンは、別の男に求婚されたからと夫に理由を述べるとはいえ、前作でダグラスとは別居状態になっていて、そうした方向性は見えていました(注9)。
 さらに言えば、本作ではイヴリンジュディ・デンチ)が生地の買い付けの仕事に本格的に就く事になります。ですが、前作でも彼女は、電話セールスの仕事に就いてその力量を発揮しています。
 またミュリエルは、本作の冒頭でマリーゴールド・ホテルの共同支配人として活躍するところ、共同支配人になる話は前作で描かれています(注10)。

 マア、本作では、前作で方向性しか描かれていなかった人々の関係性の行き着く先が描かれていて、宙ぶらりん状態を好まない人にとっては落ち着くのかもしれません。でも、物語に終りがあるのは映画の上のこと、実際には本作の後にもそれぞれの人生が続くのであって、それがこの先どのようになるのかは思いもよらないところです。だったら、前作のような終わり方もまた良しと言うべきではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「明るくて、前向きで、開放的。これが70歳をゆうに超える俳優たちが醸し出す空気なのだから、恐れ入る。人生の先輩たちの「今こそ、最高の時」のメッセージに励まされた」として70点をつけています。
 秋山登氏は、「終幕の結婚パーティーが圧巻だ。歌も踊りも賑々(にぎにぎ)しく、歓喜と祝意が噴きこぼれる。内向きの閉塞した作品が目立つ昨今、この映画の風通しの良さは貴重で、見ていて気が清々する」と述べています。



(注1)この拙エントリの「注2」で触れたように、第1作は「映画館で見ていますが、クマネズミの怠慢により、エントリをアップするに至」りませんでした。

(注2)監督は、前作と同様に、ジョン・マッデン
 脚本は、前作と同様に、オル・パーカー
 原題は「The Second Best Exotic Marigold Hotel」。

 なお、出演者の内、最近では(前作を除きます)、ジュディ・デンチは『あなたを抱きしめる日まで』、マギー・スミスは『カルテット! 人生のオペラハウス』、リチャード・ギアは『クロッシング』、デヴ・パテルは『スラムドッグ&ミリオネア』で、それぞれ見ました。また、ペネロープ・ウィルトンは、マギー・スミスと同様、TVドラマ『ダウントン・アビー』で見ています。

(注3)宿泊人というよりも、今やマリーゴールド・ホテルの共同支配人。

(注4)ミュリエルは、「こんなぬるいお湯に漬けて葉っぱの色が変わるのを待っていたら時間がかかる。私の歳になると、そんな時間は遺されていない」と言うのです。

(注5)夜中に誰か死亡していないか確認するために毎朝点呼をとっていることなどをソニーは説明します。

(注6)マリーゴールド・ホテルは現在改装中で、その第2段階が進行中ながら、近くの「シュプリーム・クオリティ・ホテル」が売り出し中なので、そこを取得して規模の拡大を図ろうというのがソニーの計画です。ただ、そのための資金繰りがつかないので、バーリーの会社から融資を受けたいというわけです。

(注7)なにしろ、彼がレストランに現れるやいなや、ホテルに宿泊する婦人方が「子宮がうずく」などと言ってしまうのですから〔マッジセリア・イムリー)が「lord have mercy on my ovaries」と言います!

(注8)他の観光地としては、ハワ・マハル(風の宮殿)とかジャイガー・フォート(例えば、このサイト)が紹介されています。

(注9)ダグラスとジーンの夫婦は、乏しくなった退職金を有効に使うべくインドにやってきたものの、二人の間には隙間風が吹き、イヴリンを巡ってついに大喧嘩をしてしまいます。それで、ひょんなことから一人で帰国することになったジーンは、夫とイヴリンとの関係を暗に認めるように、「これからは幸せになってね」と夫に言い残します。

(注10)もっと言えば、本作のマッジやノーマンロナルド・ピックアップ)が盛んに男や女を求めるのは、前作でも描かれている姿です。
 それに、本作のラストで、様々のカップルがオートバイに乗って道路を進んでいく姿が描かれますが、これは前作のラストでイヴリンとダグラスがオートバイにまたがっている映像を彷彿とさせます。





★★★☆☆☆



象のロケット:マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章
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マネー・ショート 華麗なる大逆転

2016年03月29日 | 洋画(16年)
 『マネー・ショート 華麗なる大逆転』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本年のアカデミー賞脚本賞を受賞した作品というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭には、まず「実話に基づく(based on a true story)」との字幕が出て、さらに「どんなに聡明な相手でも、すべてを知っているという固定観念にとらわれている場合には、簡単なことでも伝えることは出来ない」といった内容のトルストイの言葉(注2)が引用されます(注3)。

 次いで、ウォール街のトレーダーのジャレドライアン・ゴズリング)が金融界の全体の状況を説明します。



 「70年代の後半、金融機関は大金をつかむ職業ではなかった。保険を売ったり、帳簿付けをしたり、退屈な仕事ばかりしていた。債券部門は安全を売る負け犬だった。
 そんな時に、ソロモン・ブラザーズのルイス・ラニエリルディ・アイゼンゾップ)が現れた。知らないかもしれないが、彼は、マイケル・ジョーダンとか、i-podやYouTubeなんかより人々の生活を変えた。
 彼のごく簡単なアイデア(just one simple idea)―住宅ローンの証券化〔MBS(不動産担保証券)〕―によって、銀行業は永遠に変わってしまった(注4)。
 様々の金融機関が膨大な資金をそれにつぎ込んだ。株式とか貯金は、金融機関にとって重要なものではなくなった。
 そして、ほぼ30年後の2008年に全ては崩壊した。
 ルイス・ラニエリのMBSは怪物に突然変異して(mutate into a monstrosity)、全世界の経済を破壊した。
 専門家や指導者たちは、誰もその徴候をつかめなかった。
 ただ、もう一方の側に、そうした事態が訪れることを見ぬいた少数のアウトサイダー、あるいは変人がいた、……」。

 本作は、このもう一方の側にいた4人についての物語となります。
 さあ、どんな物語が展開されるのでしょうか、………?

 本作は、2008年のリーマン・ショックの直前、住宅バブルが崩壊するはずと見抜いて、世の中の大勢とは反対方向の取引をして、結局は大金を取得した4人の男について描いています。ただ、サブプライム・ローンとかデリバティブ商品などについてある程度事前の知識を持っていないと、映画の中でも何度か説明はなされるとはいえ、なかなか物語の展開についていくのは難しいのではと思いました。それに、描かれる4人は映画の中でそれぞれバラバラに行動するために、映画全体について散漫な感じがしてしまうだけでなく、金融商品の取引の話の方に焦点が当てられ、各人のプライベートな側面の描き方も手薄になってしまっていて人物像がはっきりしていないようにも思いました。

(2)上記(1)で触れたジャレドは、時折、画面のこちら側にいる観客に向かって説明をしますし、また、この後で自分の計画をプレゼンする際にも、積み木(注5)を使って債券がいくつかの「トランシェ」に分割されることを、かなりわかりやすく説明しています。
 また、女優のマーゴット・ロビー(注6)が、泡風呂に入ってシャンパンを飲みながら、「リスキーなモーゲージ債はサブプライムといわれたけど、サブプライムってクソ(shit)なの」、「マイケルは、モーゲージ債の65%はAAAとされているけど、クソばっかりだと気が付いたの」などと説明しますし、著名なシェフのアンソニー・ボーディンが、古くなった魚(=サブプライム)の中に新しい魚(=AAAの債券)をいくつか入れて、全体を新しい「シーフードシチュー」として出すという例えでCDO(債務担保証券)を説明したりします(注7)。
 でも、こうやっていくら説明してもらっても、金融市場の成り立ちが日米で違っていることもあって、なかなか理解が難しく、とどのつまりは、その危うさに気付いたマイケルクリスチャン・ベール)が、「他のやつに気付かれる前に行動しないと」、「時限爆弾だ」として、「空売りしたい(I want to short it)」と言う理由(つまり、この場合、なぜ“空売り(short)”なのか)がわからなければ、どうしようもないことになります。

 でも、そんな理由がわからなくとも、とにかく、世の中の常識に完全に背いたマイケルらが勝ってしまうという本作の展開に惹きつけられてしまいます。マア、日本人の好きな判官贔屓というのでしょうか、ごく小さな組織(むしろ個人)が、大金融機関を向こうに回した勝負で勝ちを収めてしまうのですから。

 ただ、登場する4人の人物は相互にほとんど関係がなくバラバラに行動しており(注8)、さらに、個々の人物について、変人ぶりが描かれているとはいえ、あまり掘り下げられていないのは残念な感じがします。本作はドキュメンタリーではなくて、なんといっても劇映画なのですから。
 例えば、マイケルについては、ドラムスを叩いたり、大音量でヘビメタをかけたりする様子は描かれてはいるものの、とにかく自分の部屋に閉じこもったままパソコンを見てばかりいるのです(注9)。



 ジャレドは本作の語り手で、プライベートな部分は余り描かれませんし(注10)、JPモルガンの元トレーダーのベンブラッド・ピット)は、若い投資家のジェイミーフィン・ウィットロック)とチャーリージョン・マガロ)をサポートしますが、その行動は謎に包まれています。



 そうは言っても、マークスティーブ・カレル)については、兄の自殺で心が傷ついていることが明かされます(注11)。そして、強い正義感から人々にも企業にも厳しい倫理を求め、金融機関の行動を正さなくては、と言ったりするのですが(注12)、うまく結果と結びついていないようにも思われます(注13)。



 結局、この映画で何が描かれたことになるのか、そこのところがよくわからない感じもしてきます。でも、こうした娯楽映画で、リーマン・ショックという大事件の真の理由が解明されたり、また真犯人が暴き出されたりすることもないはずです。
 リーマン・ショックについては、今後も、様々な角度から様々な手段によってメスが入れられていくものと思います。本作は、そうした方向へ向けての一つの橋頭堡にすぎないと言えるかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「リーマン・ショックの裏側を描くこの映画、経済破綻という結果が分かっているのに、めっぽう面白い。専門的な経済用語が飛び交うが、そこは「俺たち」シリーズを手掛けたコメディー畑のアダム・マッケイ監督、テンポよく、飽きさせない演出で、難しいコトをやさしく紐解いてくれるので、安心してほしい」として85点をつけています。
 前田有一氏は、「灰色の世界観と役者の役作りは、どこか現実感を払拭したつくりになっている。だが紛れもなくこれはじっさいに起こったことであると、見ている誰もが知っている。そこが恐ろしい」などとして55点をつけています。
 藤原帰一氏は、「期待しないで見たんですが、これが面白い。経済に関心が乏しい私のような人間でも楽しめる、赤マルお薦め映画でした」と述べています。
 森直人氏は、「思い上がりと怠慢で、利口も馬鹿も丸ごと地獄に突っこんでいった悲喜劇。これは誰も目をそらすことのできない現代の戯画である」と述べています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「時にコミカルで時に皮肉たっぷりのストーリー展開が巧み。多くの被害者が出る中で自分がもうけることに疑念を持つマークの姿など人間味ある場面を加え、最後まで飽きさせない」と述べています。



(注1)監督は、アダム・マッケイ
 脚本は、アダム・マッケイ監督とチャールズ・ランドルフ
 原題は、「The Big Short」〔ここでの「short」は「空売り」のこと。ただ、日本で「ショート」というと「不足」(資金ショート)を意味する場合があるので、邦題の「マネー・ショート」は誤解されるのではないでしょうか?←原作者が同一の『マネー・ボール』とタイトルで平仄を合わせようとしたのかもしれませんが〕。
 原作は、マイケル・ルイス著『世紀の空売り 世界経済の破綻に賭けた男たち』(東江一紀訳、文春文庫:未読)。

 なお、出演者の内、最近では、クリスチャン・ベールは『アメリカン・ハッスル』、スティーブ・カレルは『フォックスキャッチャー』、ライアン・ゴズリングは『L.A.ギャングストーリー』、ブラッド・ピットは『フューリー』で、それぞれ見ました。

(注2)『神の国は汝らのうちにあり(The Kingdom of God Is Within You)』(1894年)の中の言葉のようです(この記事によります:訳本は、例えばこれ)。

(注3)引用といえば、本作においては、村上春樹著『1Q84』(新潮社)から、「誰もが心の奥底では世の終末の到来を待ち受けてもいるのだ」が引用されています(「BOOK1」P.233)!
 ちなみに、日本人が創ったものからの引用といえば、本作では、ラスベガスの日本料理屋「Nobu」で徳永英明の『最後の言い訳』が流れます。

(注4)画面では、ルイス・ラニエリやその部下が年金基金のファンド・マネージャーにMBSを説明しています。
 「個々の不動産担保(mortgage)から得られる利得はごく少ない。しかし、数千の不動産担保を集めて証券化したものからは、大きな利得を売ることが出来る。何しろ不動産担保があるのだからリスクは少なく、この証券の格付はAAA」。
 すると、ファンド・マネージャーは、「これこそミシガン州年金基金が探し求めていたもの。2000万ドル購入する」と言い出します。

(注5)劇場用パンフレット掲載の「STORY」によれば、ジェンガという「立方体のパーツを組んで作ったタワーから崩さないように一片を抜き取るテーブルゲーム」とのこと。

(注6)『ウルフ・オブ・ウォールストリート』で主役のジョ―ダンの妻役を演じている女優。本作では、そのままの名前で出演しています。

(注7)さらに、シカゴ大学の経済学者のリチャード・セイラー氏(ハーバード大学のサンスティーン教授と『実践行動経済学』を著す)と歌手・女優のセレーナ・ゴメスがカジノに現れるシーンで、「合成債務担保証券(合成CDO)」の崩壊のことが説明されます。

(注8)と言っても、まずマイクが行った多額の“空売り”を耳にして、すぐにその意味を理解したのがジャレド、そしてジャレドが話を持ちかけた先がマーク、さらにジャレドが作成した住宅バブルについての資料を偶然に目にしたのがジェイミーとチャーリーで、二人は話をベンにします、という具合に4人の間につながりがないというわけではありませんが。

(注9)マイクは元精神科医とのことですが、それが映画ではうまく生かされていないように思います。

(注10)まあ、トレーニング・ジムに通っていたりはしますが。

(注11)本作に登場する女性は総じて影がとても薄いのですが、その中では一番印象に残る妻・シンシアマリサ・トメイ)に、マークは「兄から痛みを訴える連絡があった時に、俺がしたことは金を渡すことだった」などと言って嘆きます。

(注12)金融機関の詐欺行為を暴くと言ってマークが飛び回っているのを見て、妻・シンシアはマークに、「処方されている薬を飲んだら?」とか「転職を考えたら」と言います。

(注13)マークは、最後には、10億ドルの債券を売ることを決断します。要すれば、非難対象の金融機関と同じ土俵に上がったということでしょう。



★★★☆☆☆



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僕だけがいない街

2016年03月25日 | 邦画(16年)
 『僕だけがいない街』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)藤原竜也主演作でヒロインが有村架純というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、2006年とされ(注2)、部屋で、漫画を描いた紙を破る主人公の藤原竜也)が映し出されます。

 次いで、漫画雑誌の編集部。
 編集者が、「伝わってこないんですよね。作品から見えてこない。あなたの顔が」と言って、悟が描いた漫画の原稿を突き返します。



 さらに、悟がバイトをしているピザ屋。
 同僚の愛梨有村架純)が「途中で食べちゃダメだよ」と言いながら運んできたピザを受け取って、悟は配達バイクを出します。

 悟は、交差点にさしかかります。気温が21度で時刻が12時15分との表示が電光掲示板に。
 信号が青になって悟のバイクは前進します。
 すると、画面は前と同じ画面になります。そして、悟の声で「どこかに違和感があった」。
 子供が横断歩道を渡ろうとしています。また、同じ画面に戻るので、悟はその子供に「悪いけど、今日はあっちの信号で渡ってくれる」と頼みます。
 それから周囲を見回して、引越しトラックを見つけると、そのドアを叩いて「起きろ!」と叫びます。どうやら、その運転手に異変が起きているようです。
 ですが、悟のバイクは、前進してきた他の車と正面衝突してしまい、悟は空中に投げ飛ばされます。

 昔の思い出が蘇ってきて、悟は、「なんだこれ?走馬灯ってやつか。死ぬのか俺?」「まあいいや、俺一人いなくなっても」と呟きます。
 そして、悟が目を開けると病院のベッドの上。
 そばについていた愛梨(注3)が、「すごいや、あれだけ飛んで外傷がないなんて。トラックの運転手は心臓発作で亡くなっていたんだって」などと話しかけます。



 さあ、一体何が起きたのでしょう、そして悟にはこれからどんな運命が待っているのでしょう、………?

 本作は、評判の漫画を実写化したもので、意識が過去に戻ることができるという「リバイバル」の現象が主人公に起こるという点でしょう。主人公は、その能力を使って母親の殺害が起こらなかったようにしようとするのですが、同時に別の殺人事件の真犯人も突き止めていくという展開です。過去に飛んでその過去をいくらいじっても、既に起きたことは取り消せませんから、ここで起きていることはどういうことなのかいろいろ問題ありといえるところ、それはさておいて全て認めてしまえば、演じる俳優たちの熱演もあって、まずまずおもしろい作品に仕上がっています。

(2)本作はタイムリープ物で、意識だけが過去に戻り、その戻った時点で別のことをして、現在時点の不具合を是正するといったストーリー展開になっています。
 本作で悟に起こる「リバイバル」がそれで、上記(1)で触れた交差点では、そのまま放っておくと、暴走トラックに横断中の子供が轢き殺されてしまうことに気づいた悟が(注4)、ほんの少しだけ時間を遡って、子どもを別のルートで横断させ、あわせて暴走トラックを止めようとしたものです。
 また、スーパーに母親と買い物に行った際に悟は「違和感」を覚え、それを聞いた母親・佐知子石田ゆり子)が一人の男の行動に不審を抱いて誘拐事件が未然に防がれます(注5)。

 これらからすると、悟には予知能力があって、未来に起こることが予め分かるために、未来に起こる不都合が起きないように出来るのかな、とも思えてしまいます。
 公式サイトの「イントロダクション」では、「リバイバル」とは「時間がある時点まで何度も巻き戻る現象」と“定義”されていますが、「その直後に起こる事件や事故の原因に悟が気付き、それを解決して未然に防ぐまで、自分の意思とは関係なく同じ場面が繰り返される」とも“説明”されています(注6)。
 後半の“説明”の中の「その直後に起こる事件や事故」のところを「その直後に起こるであろう事件や事故」というように読めば、上記の2つの事例の説明になっているように思われます。まさに「原因」を除去することによって、「その直後に起こるであろう事件や事故」を悟は「未然に」防いだのです(注7)。
 でも、これらの場合、「リバイバル」の“定義”にあるように「時間がある時点まで何度も巻き戻」っているのでしょうか?はっきりとした過去の時点への「タイムリープ」が行われているのでしょうか?せいぜい、気づいた「現在の時点」からほんの少しだけ過去に遡った時点が何度も繰り返されているだけではないでしょうか?
 とりわけ、「事故や事件」は一度も起きてはいないように思われます。
 それとも、例えば、交差点の事例では、子どもは暴走トラックに一度轢き殺されているのでしょうか?

 ところが、本作のメインの事件である悟の母親の殺害事件では、悟が家に戻ると、母親は台所の包丁で既に殺害されてしまっています。「事件」は既に起きているのです。それは悟の「リバイバル」によって「未然に」防がれてはおりません。
 この場合は、「リバイバル」の“定義”にあるように「時間がある時点まで何度も巻き戻る」ことによって、悟はそれが起きなかったことにしようとするのです。

 こんなふうに考えていくと、本作のポイントと思える「リバイバル」とは何かよくわからなくなってきます。
 ですが、そんなことはどうでもいいのでしょう。こうしたSF物の成り立ちを考えていくと袋小路に嵌ってしまうのがいつものことです(注8)。頭からこれはこういうものなのだとして受け入れてスルーしてしまい、偏に物語に入り込むことが賢明でしょう。

 その場合には、18年前の11歳の悟を演じる中川翼や、悟が厳しい環境から救出する雛月役の鈴木梨央の頑張りがあって、総じて面白い映画に仕上がっているように思います。



 無論、子役ばかりでなく、大人の俳優も頑張っています。
 中でも、藤原竜也は、愛梨から「薄い膜に覆われている」と言われるような心を開かない性格ながらも、「リバイバル」によって人を助けてしまいもする悟の役を、さすがの力量で演じています。
 ただ、有村架純を期待したのですが、中途半端な感じで引っ込んでしまうところが残念な感じがしました。

(3)渡まち子氏は、「物語はミステリーなので、謎解きは明かせないが、後半、特に、未解決事件の犯人がわかるあたりからの展開は、かなり雑で乱暴だ」として60点をつけています。



(注1)監督は、『想いのこし』の平川雄一朗
 脚本は、『神様のカルテ』の後藤法子
 原作は、三部敬氏の漫画『僕だけがいない街』(カドカワコミックス・エース、連載中:未読)
 また、原作漫画はアニメ化もされています(フジテレビで現在放送中:未視聴)。

 なお、出演者の内、最近では、藤原竜也は『るろうに剣心 伝説の最後編』、有村架純は『映画ビリギャル』(DVD)、及川光博は『小野寺の弟・小野寺の姉』、悟の母親の元同僚・澤田役の杉本哲太は『夫婦フーフー日記』、石田ゆり子は『悼む人』、幼い悟が慕っていた白鳥役の林遣都は『闇金ウシジマくん』、悟の小学時代の元同級生で弁護士の賢也役の福士誠治は『FOUJITA』、雛月の母親役の安藤玉恵は『恋人たち』で、それぞれ見ました。

(注2)映画の最新の「現時点」は、ラストで2016年だとわかります。本作では、もう一つ1988年という時点も出てきます。

(注3)愛梨は、悟の後に配達バイクを動かしていて、たまたま悟がしたことを目撃しました

(注4)悟は、「リバイバル」が起きる直前に「違和感」を覚えるのです。

(注5)単に、佐知子は、子どもを連れて行く一人の男の目を見ただけなのですが、後半でこの男の正体が判明します。

(注6)“説明”の冒頭にある「その」とはその後に出てくる「原因」を指しているものと思います。
 ただ、“説明”の中の「意思」は、この場合は「意志」ではないかと思われます。

(注7)ただ、2番目のスーパーの事例では、悟が誘拐を直接防いだわけではありません。それでも、とにかく誘拐事件は起きませんでした。

(注8)本作においても、悟は18年前の悟の意識にタイムリープしますが、一つの頭脳に2つの意識が存在するとは、一体どのような状況になるのでしょうか?どちらの意識が優先するのでしょうか?何より、意識が混濁してしまわないのでしょうか?などといくらでも疑問が湧いてきます。
 なによりも、タイムリープして「原因」を取り除けたとしても、それから帰結する未来は、悟が起点とした「現時点」において「不都合な出来事」が除去されるだけでは済まないのではないでしょうか?「過去」を変えてしまったら、悟が帰るべき「現時点」もかなり変わってしまっているのではないでしょうか(ただ、本作では、橋から突き落とされた悟が戻ってきた2006年において、悟が橋の下で愛梨に会うと、彼女は悟のことを知らないようです。こんなところは、「過去」を変えたことにより「現時点」が変わってしまっているのかもしれません。でも、なぜ愛梨だけが変わってしまったのでしょう?)?
 もしかしたらパラレルワールドが考えられているのかもしれません。でも、その場合には、「不都合な出来事」が起きている世界が変わったことにならないのではないでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:僕だけがいない街
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家族はつらいよ

2016年03月23日 | 邦画(16年)
 『家族はつらいよ』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)山田洋次監督作品ということで映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭は、平田家。
 電話が鳴って、飼い犬のトトが廊下をうろつき、長男・幸之助西村雅彦)の嫁・史枝夏川結衣)が電話に出ます。
 「平田です」「俺だよ」「俺ではわかりません。そんな古臭い手で騙されません」。
 ゴルフ場にいる平田周造橋爪功)が、「不愉快だな」「用事は、今夜は服部君と飲むから夕食は要らない」と携帯で話しています。

 次の場面は、居酒屋。
 周造の友人の服部岡本富士太)が「ざまみろ、いつか言ってやろうと思ってた」と言います。
 これに対し周造が「全く考えられるか」と応じると、女将のかよ風吹ジュン)が「平田さん、怒ったの?」と訊くものですから、周造は「怒った。(帰ったら)どやしつけてやる」と答えます。
 服部が「いい嫁さんじゃないか」と言って、「孫は二人とも男の子?」と尋ねると、周造は「上は来年高校だ」と答えます。
 服部は「いいな3世代で」と呟きますが、周造は「次男坊までいる」「うるさい女房が家にいない方がいいのだけれど」と言います。
 これに対し女将のかよが、「奥様はカルチャーセンターに行ってるんじゃないの?」と言うと、周造は「創作教室だって」と笑います。
 すると服部は、「そんなことを言っていると、君なんか追い出されるかも」と言います。

 周造が家に帰ると、史枝が出てきて「電話で失礼しました。オレオレ詐欺と間違ってしまって」と謝ります。

 周造が自分たちの部屋に入ると、花があるので妻の富子吉行和子)に尋ねると、富子は「創作教室の仲間から誕生日ということでもらった」と答えます。
 周造は、「いい歳をして気持ち悪いよ」と応じながらも、「俺も久しぶりに誕生日のプレゼントをするかな。高いものはダメだぞ」と言います。
 すると富子は「ほんとうにいいの?値段は450円ほど」と言いながら、机の引き出しから書類を取り出して、「私がいただきたいのはこれ。ここに判子をついて署名をしてもらいたいの」と言います。周造が「なんだ、これ?」と訊くと、富子が「離婚届よ」と答えるものですから、驚いた周造が「冗談だろ?」と言うと、富子は「本気よ。考えてちょうだい」と宣言します。



 さあ、これから平田家はどうなっていくのでしょう、………?

 小津安二郎監督の『東京物語』をリメイクした『東京家族』(2013年)と同じ監督・俳優たちがほぼ同―のキャラクター構成で喜劇作品を作り上げたのが本作です。ただ、『東京家族』では、ある程度現代的な問題が触れられていましたが、本作では喜劇仕立てということもあって、全編ごく他愛のないお話に終止してしまっています。母親が言い出した離婚話を皆で協議する家族会議の場面などはなかなか面白いとはいえ、このくらいのお話でわざわざ映画にまでするのかなという感じにもなりますが、でも、問題意識過剰気味の荒っぽい映画が多く作られる現在、こういう清涼剤ともなりうる作品もあっていいのかなとも思えてきます。



(2)本作は、山田洋次監督にとって『男はつらいよ』シリーズ以来の喜劇作品とされています(注2)。特に、タイトルには「つらいよ」が含まれてもいるのですから、『男はつらいよ』との関連性を見ても面白いかもしれません。

 でも、上記したように、本作に登場する主要人物は『東京家族』と全く同じであり、ただ、名前が若干違ったり(注3)、就いている職業などが若干変更されていたりするに過ぎません(注4)。
 それに、本作の中では、『東京家族』のポスターが壁に飾られていたり(注5)、ラストでは周造が『東京物語』をDVDで見ていたりするのです。
 としたら、本作は、『東京家族』を通して『東京物語』を充分に意識した作品と言えるでしょう。

 とはいえ、そのテイストは、『東京物語』はもちろんのこと、『東京家族』とのかなり違っています。
 なにしろ、『東京物語』や『東京家族』で描かれる家族は、かなりバラバラになってしまっていますが、本作ではなにはともあれ3世代が一軒の家に同居しているのです(注6)。
 それに、『東京物語』や『東京家族』では、母親の死という重大問題が起きるのに対して、本作で見られる事件といったら、周造・富子夫婦の離婚騒動といった実に他愛ないものです。
 もっと言えば、『東京物語』や『東京家族』で伺えた同時代の社会的問題も、本作ではスッカリ影を潜めてしまっています(注7)。

 とすると、『東京物語』や『東京家族』と本作との関係をどう捉えたらいいのかが問題となるでしょう。
 といって、はかばかしい答えを用意しているわけではありません。
 ちょっと思いつくことと言ったら、本作は、『東京物語』や『東京家族』のネガティブな要素をいろいろ排除した上で、登場する女性の強さを前面に出そうとした作品のように見えるというくらいです。

 具体的に申し上げてみると、本作では、登場人物が亡くなるとか、家族が広島や東京でバラバラに暮らすという深刻な事態は描かれておりません(注8)。
 さらに、男性陣については、ゴルフに行ったり駅前の飲み屋に通ったりすることで暇を潰している父親・周造、会社の上司に取り入ることを第一にしているような長男・幸之助、骨董品集めを趣味にする長女の夫・泰蔵林家正蔵)、それにピアノ調律師の次男・庄太妻夫木聡)という具合に、ことさらな個性など持ち合わせていないような人物配置となっています(注9)。
 他方で、女性陣については、なにはともあれ、母親の富子は、カルチャーセンターにせっせと通うくらいに自意識に目覚めていますし、離婚後の生活設計についてもきちんと考えています。
 長女の成子中嶋朋子)は、税理士事務所を開設して、夫・泰蔵を完全に尻に敷いています。
 長男の嫁・史枝にしても、7人もの家族の中心的存在であり、電話があってもオレオレ詐欺のことがまず頭に浮かんでしまうほどしっかりしています。
 それに、次男・庄太の恋人の憲子蒼井優)は、周造が倒れた際には看護師としての能力を遺憾なく発揮して周造の窮地を救ったりするのです(注9)。

 総じて太平楽な男性陣に対峙する女性陣がこんな強くしっかりした女性ばかりで構成されている作品なのですから、富子が周造に離婚届をつきつけるのも、あるいは時間の問題だったのかもしれません。

 また、幸之助が妻の史枝に「俺が定年退職したら、離婚届に判を押してくれというのはナシだぞ」と言いますが、史枝は「はたしてそれまで“持つ”かしら」と当然のように答えます。なにか、2世代目の家庭でも、周造・富子と同じような騒ぎが持ち上がりそうな気配がします。
 それどころか、3代目の孫達は週末には野球の試合に出るなど実に健全な生活を送っているように見えますから、どうも周造-幸之助と続くサラリーマン家庭は孫達の代まで継続するようでもあり、あるいはそこでもこんな事態になるのかもしれません。
 でも、1000兆円の借金を抱え込む日本は、孫の世代が社会の第一線に出てくる頃まではたして“持ちこたえて”いることが出来るでしょうか?
 それよりなにより、女性たちがこうした男性たちに早々と三行半を突きつけてしまうかもしれません?!

(3)渡まち子氏は、「本作は「男はつらいよ」シリーズの系譜につながるコメディー作品。小津安二郎作品で大女優の原節子が演じた役と同じ“間宮のりこ”を演じる蒼井優がいわば善意の象徴だ」として60点をつけています。
 前田有一氏は、「非常に手堅い、安定の出来映えである。笑いもうまいし「東京家族」(2012)のキャストが再結集した役者たちの演技も的確、演出も筋運びにも破綻はなく、すべてが丁寧でミスもない。もっとここをこうしたら、がひとつも出てこない。ベテランらしい仕事である」として75点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「男はつらいよ」シリーズと同様に、家族という共同体がはらむ切なさや遣り切れなさをコミカルに描き出していて楽しめる。その一方、例えばラストで周造が「東京物語」を見ているように、小津安二郎へのこだわり、「東京家族」の映画ポスターが張られているなど、山田監督の遊び心が顔を覗かせている」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。



(注1)監督・脚本は、『小さいおうち』の山田洋次

 なお、出演者の内、最近では、橋爪功吉行和子夏川結衣林家正蔵小林稔侍は『小さいおうち』、西村雅彦は『超高速!参勤交代』、中嶋朋子は『東京家族』、妻夫木聡は『バンクーバーの朝日』、蒼井優は『岸辺の旅』、風吹ジュンは『海街diary』、カルチャーセンターの講師役の木場勝己は、ホールの警備員役の笹野高史と医師役の笑福亭鶴瓶は『ふしぎな岬の物語』で、それぞれ見ました。

(注2)公式サイトの「イントロダクション」では、「本作は、その「男はつらいよ」の生みの親である山田洋次監督が、新たに取り組んだ喜劇作品」と述べられています。
 (1995年の『男はつらいよ 寅次郎紅の花』の後に2つの『虹をつかむ男』が制作されています。これらは喜劇作品ですが、その第1作は、制作経緯からすると、『男はつらいよ』の49作目といってもいい作品になっています)。

(注3)例えば、『東京家族』の平山周吉ととみこが、本作では平田周造と富子に変更されていたりします(ちなみに、『東京物語』では、平山周吉ととみ)。

(注4)例えば、『東京家族』の平山周吉は広島県で暮らす元教員ですが、本作の平田周造は東京の郊外で暮らしていて、長年会社勤めをした後、悠々自適の隠居生活を送っていたりします。また、『東京家族』の次男・昌次(妻夫木聡)は舞台美術のアシスタントで、紀子(蒼井優)は書店員ですが、本作の次男・庄太はピアノ調律師で、憲子は看護師です。

(注5)富子が通う創作教室の壁。

(注6)長女の金井成子(中島朋子)だけは、夫の泰蔵(林家正蔵)と共に別の場所にある家で暮らしています。

(注7)例えば、『東京物語』では、紀子(原節子)の夫(周吉の次男)は戦死していますし、また長男・幸一(山村聡)や長女・志げ(杉村春子)の東京での生活の厳しさが言われますし、さらに『東京家族』では、次男・昌次が3.11の被災地救済のボランティアに出向いた際に紀子と出会ったことになっていたり、周吉(橋爪功)が旧友の沼田(小林稔侍)と酒を飲んだ時に、「この国はどこかで間違ってしまったんだ。もうやり直しはきかないのか。このままではいけない」などと気炎を上げたりします。

(注8)周造は一旦は倒れるものの、憲子の事後処置の適切さもあって、後遺症なしに元通りになりますし、平田家は、なかなか難しいとされる3世代同居家族となっているのです。

(注9)これは、『東京物語』(ひいては『東京家族』)の男性陣と大同小異ではないかと思います(『東京物語』では、上記「注7」で触れたように、次男は戦死しています)。

(注10)本作の女性陣につてのこうした性格付けは、『東京物語』(ひいては『東京家族』)と類似するところがあったり、これほど積極的ではなかったりもします。
 例えば、『東京物語』における長女・志げは、本作の成子と類似する性格付けのように思われます。他方、『東京物語』における母親・とみ(東山千栄子)と長男の嫁・文子(三宅邦子)は、本作における富子や史枝ほど自意識がしっかりしているように描かれているとは思えません。
 また、『東京物語』の紀子(原節子)の言動は見る者に強い印象を残しますが、本作の憲子も、想定外の家族会議の場に遭遇しても、「お父さんは、自分の気持ちを言葉にしなければだめ」と実にはっきりした意見を表明したり、倒れた周造に対し適切な措置をとったりして、その存在感を示します。



★★★☆☆☆



象のロケット:家族はつらいよ
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エヴェレスト 神々の山嶺

2016年03月21日 | 邦画(16年)
 『エヴェレスト 神々の山嶺』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)阿部寛が出演するというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、エヴェレストの威容が映し出された後、一人の男がもう一人の男の写真を撮っているところが描かれ、ナレーションがかぶさります。
 「山頂は8848メートル、そこは神々に最も近い場所。1924年6月8日、8740メートルの地点にマロリーアーヴィンがいた。登頂は目前だったが、その後消息を絶った。1953年5月29日に、ヒラリーとテンジンによって登頂が達成される。しかし、マロリーとアーヴィンの遭難は、頂上に立った後という可能性もある。果たして、……」。

 次いで、1993年のネパール。
 カメラマンの深町岡田准一)が、ヒマラヤの急斜面を登山隊の仲間が登攀する様子をカメラに収めています。
 登山隊は順調に進んでいたように見えたのですが、突然、先頭の2人が斜面を落下してしまいます。
 深町は、滑落する様子を撮影すべくシャッターを切り続けます。

 カトマンドゥのホテルのロビー。登山隊は帰り支度をしています。
 深町が「このままでは帰れない」とエヴェレスト登頂を主張するものの、登山隊の隊長は「写真集は出ないそうだ」と答えます。それに対し、深町が「何としても出したい」と言うと、隊長は「2人も犠牲者が出ている。よく写真を撮っていられるな!」と応じます。
 深町はなおも「それが仕事」と食い下がるのですが、登山隊は彼を残して乗ってホテルを出てしまいます。

 カトマンドゥに残った深町は、街の雑踏の中をザックを背負って歩き、一軒の古道具屋に立ち寄ります。
 そこで古いカメラ(注2)が置いてあるのにふと気が付きます。深町が値段を尋ねると、店の主人は「200ドル」と答えます。値引き交渉をすると主人は値を下げますが、深町は、それでも高過ぎるとして店を出ます。

 深町は、そのカメラはマロリーが携えていたものに違いないと考え直して、再び古道具屋に戻りますが、そこで彼は、現地人の暮らしをしている羽生阿部寛)と出会います。
 さあ、この後物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作では、エヴェレストを前人未到のやり方で登頂しようとする山に取り憑かれた天才クライマー、その姿を追い続けるカメラマン、そしてこの二人の男に翻弄される女が、エヴェレストを背景にぶつかり合う様子が描かれています。実際に現地ロケしただけあって、ヒマラヤの威容とか大地震前のカトマンドゥの様子(注3)など、なかなか興味深いものがあります。ただ、カメラマンにすぎない男が、なぜ天才クライマーと張り合おうとするのかなど、よく理解できないところがありました。

(2)本作のロケは、エヴェレストの5200メートルの地点で実際に行われているため、エヴェレスを背景にした映像は凄い迫力があります。
 特に、5400メートルのベースキャンプ地点からすぐのところにあるクーンブ・アイスフォールの映像は印象に残ります。
 また、昨年の大地震でかなり破壊されてしまったカトマンドゥの市街地も、映画の中に随分と登場しますので、とても貴重な映画となっています(注4)。
 それに、深町役の岡田准一にしても、羽生役の阿部寛にしても、酸素の薄い高所での演技が含まれているにもかかわらず、全編にわたって実に堅実な演技を観客に見せてくれます(注5)。

 とはいえ、よくわからない点があるように思います。
 本作は、実際には天才的なクライマーである羽生を巡る物語であり、カメラマンの深町は狂言回しの役割を担っています(注6)。
 それで、深町は羽生の行動を見守る必要がありますから、本作で深町は、まず羽生と一緒に南西壁を登ろうとし、さらに、もう一度羽生を捜しにエヴェレストを登ろうとします。
 ですが、どうして深町は羽生にそこまで拘るのか、その動機の設定がうまくなされていないような感じがします。
 確かに、深町は単なるカメラマンではなく、クライマーでもあるようです。それで、羽生の行動に深く共感するところがあるのかもしれません。それにしても、天才クライマーの羽生をもってしても困難極まる南西壁を一介のクライマーにすぎない深町がなぜ登ろうとするのか、理解し難いところです。
 あるいは、南西壁を冬季に無酸素・単独で登頂する羽生の写真を撮影して自分をもっとマスコミに売り込もうと考えていたのかもしれません。ですが、同じ格好で深町が羽生に付いて回れば、羽生は“単独登頂”ではなくなってしまうのではないでしょうか(注7)?
 もしくは、マロリーが携帯していたカメラのことを知る羽生を追いかければ、カメラに内蔵されていたフィルムが見つかり、世紀のスクープ(マロリーがヒラリーよりも早く登頂していた!)をものすことが出来ると深町は考えていたのかもしれません。
 ですが、それだけであれば、何も南西壁を一緒に登らずとも、山頂から戻ってきた羽生をつかまえて追求すれば済むように思います(注8)。

 本来的には、本作の主役である羽生は、実際のモデルがあるようで(注9)、常軌を逸した行動を取るにしても、ある程度説得力はあるように思います。それにしても、どうして危険なことを何度でも試みようとするのかよくわかりません(注10)。



 また、涼子尾野真千子)は羽生を慕っていて、彼を捜しにネパールまで行くとまで言うのですが、映画では二人の関係があまりに簡略にしか描かれていません。



 確かに、涼子の弟・文太郎風間俊介)が山で遭難死した時に一緒に登攀していたのが羽生で、その後も涼子をサポートしてくれたことから二人の付き合いが始まったとされていて、それはきっかけとしては充分にありえるでしょう。ですが、その後のことが何も描かれないので、羽生をカトマンドゥで見かけたという深町の情報を得て涼子がネパールに捜しに行くのが、なんだか随分と唐突な感じを受けてしまいます(注11)。それに、時期も遅すぎるのではないでしょうか?なにしろ、羽生が行方不明になって7年も経過しているのですから(注12)。

 このように、主要な登場人物の3人のキャラクターの設定が中途半端なものになってしまったのは、狂言回し役の深町役に岡田准一を当てて、本来の主人公の羽生以上の役割を与えようとしたことから来るのではないかと、密かに思ってしまいました。

 とはいえ、三浦雄一郎氏が80歳でエヴェレスト登頂に成功した時(2013.3)の様子を写した映像がTVで放映されたり、また昨年は、1996年の遭難事故を描いた『エベレスト3D』が昨年11月に公開されたりし(未見)、さらに本作というわけで、エヴェレスト登頂もかなり身近になってきたなという感じがします。といっても、天地がひっくり返ってもクマネズミには出来ない相談ですが!

(3)渡まち子氏は、「男2人の熱い演技、とりわけ体力の限界に挑んだという阿部寛が終盤に見せる壮絶な姿には圧倒される」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「風景には本物の迫力があるだけに、こうした人物演出上のいたらなさがより目立つ。それが本作をあと一歩の印象にしている原因である」として55点をつけています。
 佐藤忠男氏は、「平山秀幸監督は、この風景の大きさと神秘性をよく生かして、この大地と張り合うつもりの人間たちの不思議さを面白く見せてくれている」と述べています。



(注1)監督は、『太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-』や『必死剣鳥刺し』の平山秀幸
 脚本は、『ふしぎな岬の物語』の加藤正人
 原作は、夢枕獏著『神々の山嶺』(集英社文庫:未読)。

 なお、出演者の内、最近では、岡田准一は『永遠の0』、阿部寛は『ふしぎな岬の物語』、尾野真千子は『起終点駅 ターミナル』、羽生のライバルのクライマー・長谷(Wikipediaの記事によれば、長谷川恒男がモデル)役の佐々木蔵之介は『残穢―住んではいけない部屋―』、ピエール瀧は『の・ようなもの のようなもの』、羽生と一緒に「鬼スラ」(谷川岳一ノ倉沢滝沢第三スラブ)を冬季に初登頂した井上役の甲本雅裕は『超高速!参勤交代』、山中崇は『恋人たち』、風間俊介は『Zアイランド』で、それぞれ見ました。

(注2)ジャバラ式の1眼レフカメラ。レンズのところに、「VEST POKET KODAK MODEL B」とあります。
 なお、劇場用パンフレット掲載の記事「山岳史上最大のミステリー ジョージ・マロリーの失踪と遭難」には、1999年5月にマロリーの遺体が発見されるも、マロリーとアーヴィンが携行していたカメラは発見されていないとのこと。

(注3)現地での撮影は2015年4月だったとのことですが、撮影終了後の4月25日に大地震が発生しました(この記事を参照)。

(注4)深町と涼子は、塔に登ってカトマンドゥの市街を見下ろしますが、あるいは有名な「ダラハラ塔」かもしれません。ですが、その塔は大地震で崩壊してしまいました。

(注5)例えば、エヴェレストのほぼ垂直に切り立った南西壁を、アイスアックスを使って一人で登っていく羽生の姿は真に迫っていましたし、またラストの方で、朦朧状態でエヴェレストを下ってくる深町の様子を岡田准一は巧に演じています。

(注6)映画全体は、深町を通して羽生の生き様を描き出すという構成をとっています。

(注7)それに、南西壁から戻って帰国した深町に対し、山岳雑誌の編集者の宮川ピエール瀧)が「最後の羽生を撮って有名になるのでは?」と訊くと、深町は「そんなことは馬鹿らしくなった」と答えるのです。

(注8)それに、深町は、見つけたマロリーのザックの中にフィルムを探そうとはしません(「そんなものはどうでもいい」として)。羽生の「何をしにここに来たのか?」という(声だけの)問いに対しても、「わからない」と答える有様です。

(注9)原作小説についてのWikipediaの記事によれば、羽生の「エピソードモデルは森田勝」とされています。ただし、森田勝氏についてのWikipediaの記事によれば、同氏はエヴェレストではなくグランド・ジョラスで遭難死しています。

(注10)羽生は、マロリーが言った「そこに山があるから登る」を否定して、「俺がここにいるから登る」と深町に言ったりしますが、その言葉によって、山に登ることはある程度分かるにしても、危険極まりない南西壁を冬季に無酸素・単独で登ろうとすることまでは理解できません。人類がこれまでやったことがないことをやり遂げたいという気持ちが旺盛なのでしょうか?

(注11)それに、涼子は登山家でもなさそうですし、また現地語を習得しているようにも見えません。わざわざ現地に行っても、どうやって羽生を探しだそうというのでしょうか?

(注12)3年前に羽生から石のペンダントが送られてきた時、涼子は何も動かなかったのではないでしょうか(住所がはっきりと記載されていなかったのかもしれませんが、少なくともネパールからのものである位のことは分かるでしょうに)?
 何故、7年も経過して、自分から羽生を捜しに行こうと言い出すのでしょうか?
 総じて、本作における涼子は、じっと男を待つだけの役柄になっているようです(劇場用パンフレット掲載のインタビューにおいて、「尾野さん自身は涼子をどんなキャラクターだと受け止めて演じたのでしょうか?」との質問に、「ひと言でいうと“待つ人”です」と尾野真千子は答えています)。 深町と一緒にヒマラヤに再度入った際も、深町が羽生を捜しにエヴェレストに向うのをベースキャンプの地点でシェルパのアン・チェリンテインレイ・ロンドゥップ)と共に待機しているだけです。
 ところが、7年目のその時だけは、涼子は、自分の方から深町とコンタクトを取るくらいに積極的に行動し、さらに自分から羽生を捜しに現地に行こうと言い出します。なんだか見ている方は調子が狂ってしまいます。



★★★☆☆☆



象のロケット:エヴェレスト 神々の山嶺(かみがみのいただき)
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ジャクソン・ポロックと『変形する身体』

2016年03月18日 | 
 (1)昨年末映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』を見た後、同作についてエントリを書いた際に、ニューヨーク近代美術館(MOMA)のサイトを調べたことがありますが(注1)、最近そのサイトを眺めていましたら、ちょうど今、同館では「Jackson Pollock: A Collection Survey, 1934–1954」展が開催されていることがわかりました(5月1日まで)。



 ジャクソン・ポロックは60年ほど前に亡くなっているとはいえ、このところ、こうした展覧会が開かれるばかりでなく(注2)、その作品がスマホ・ケースとかTシャツの柄に使われたりもしていて(注3)、決して過去の芸術家とはなっていないようです。

(2)そんなジャクソン・ポロックですが、今年のはじめに刊行されたアルフォンソ・リンギス著『変形する身体』(小林徹訳:水声社、2016.1)でも、「カドリーユ」(注4)という章(注5)で彼について言及されているのです。

 本書について少しばかり説明すると、冒頭で「本書で私たちが研究するのは、現代社会において、ときに噴出する古代的な欲求や振る舞いと、それが獲得している諸形式である」と述べられた上で、3番目の「カドリーユ」の章では、「芸術というハイカルチャーには、自然淘汰よりも、性淘汰(注6)を通じた進化が見られる」とされ、その進化の様子が取り扱われます(本書P.11)。

 もう少し詳しく申し上げれば、まず、「性淘汰の方はしばしば、華麗な色彩や、装飾的なとさかとか、枝角とか、たてがみとか、尻尾とか、騒々しく目立つような儀式的ディスプレイ(注7)などを促進させる」と述べられた後(本書P.48)、「そうした解剖学上の精妙さやディスプレイ行動がもたらすコストと利益を見極めること」が必要だとして(本書P.49)、様々の事例が記述されます(注8)。

 その行き着く先のこととして、「オス(あるいはメス)が、もっぱら自分の装飾やディスプレイによって性的パートナーを引きつける」のではなく、「オスの贈り物は、……むしろメスにとって単純に魅力的なもの」である場合が見られるが、この場合、「しばしばオスは派手な装飾を身にまとっていない」(P.58)。すなわち、「オスがメスのために競争するとき、彼らはもはや自分の身体を改造したり、飾り立てたりするのではなく、……物品の蒐集を行うようにな」り、「古物や絵画などのコレクションをディスプレイすることによって、男性の誘引力は強化される」ことになる、と述べられます(本書P.59)。
 つまり、「実際にパフォーマンスする者から切り離され」た「(絵画などの)飾り」を巨額の資金によって獲得した男たちが、女を引き付ける「誘引力」も獲得することになる、ということでしょう。

 ところが、こうした「進化を転覆させ」たのがジャクソン・ポロックだとリンギス氏は主張します。



 ここで本書の分析がユニークなのは、著者が、ポロックが制作した作品には目もくれずに(注9)、彼が絵を描く際に行うパフォーマンスの方に専ら関心を向けている点でしょう。

 本書によれば、「ポロックは、競技場(アリーナ)に捕らわれた一人の画家であり、そこで行われる創作活動は、儀式化されてはいるが依然として爆発的なものであった。何枚もの広大な画布が、額縁の内側に収容された物体であることをやめ、環境と化した。それらはまた、存在している事物を独立的に描写するための構成的空間であることをやめた」とされ、「芸術家とその対象との分離が、転覆されつつあった。芸術の主題が、いよいよ自分自身の制作過程になった」というわけです(本書P.60)。
 要すれば、オスが、再び中世の騎士のように自分自身で行動するようになった、ということではないかと思われます(注10)。

 それまでの「進化を転覆」してしまうこのような結果をもたらしたのは、本書によれば、「ポロックに関するナムスの写真とファルケンベルクの映像」があったからこそとされています〔前者についてはこのサイトで、後者についてはこのサイトで映像を見ることが出来ます(注11)〕。
 すなわち、「ナムスの写真とファルケンベルクの映像は、ポロックの絵画活動が、そこにいない者に向けられたダンスであることを明らかにした」のです(本書P.60)。

 リンギス氏の分析は、このあとの「カドリーユ」の章において、キジオライチョウとかアオアズマヤマドリといった鳥類が行う実に興味深いパフォーマンスに向いますが(注12)、長くなるのでこのへんでやめておきましょう。

(3)ところで、リンギス氏の『Body Transformations. Evolutions and Atavisms in Culture』を翻訳して『変形する身体』として刊行した小林徹氏は、拙ブログのこのエントリの(3)で紹介しましたように、1年半ほど前、浩瀚な『経験と出来事』(水声社)を著したフランス哲学の専門家です。
 そんな人類学者ではない哲学研究者が、どうして叢書「人類学の転回」に含まれる本の翻訳に携わったのか、一見すると不思議な感じがします。
 ですが、本書の「「メキシコのヴァルハラで」―訳者あとがき」において述べられているように、原著者のアルフォンソ・リンギス氏は、「アメリカ合衆国の哲学者であり、メルロ・ポンティ、レヴィナス、ピエール・クロソウスキーの英語翻訳者」なのです(注13)。
 であれば、メルロ=ポンティの研究者である小林氏が本書を翻訳するのは、まさにうってつけと言えるでしょう(注14)。
 現に、同じ「訳者あとがき」では、「身体とは何か。リンギスはそれを、モリス・メルロ=ポンティの『知覚の現象学』に(暗黙のうちに)依拠しつつ、準視覚的な「身体イメージ」と言い換える」などと述べられていますが(注15)、まさに訳者ならではと思います。

 それに、先に取り上げた拙ブログのエントリの(5)や「注14」で触れたように、小林氏の言葉に対する感覚は大層優れているところ、その点は本書でも遺憾なく発揮されています。
 このエントリで引用している箇所からもある程度おわかり願えると思いますが、翻訳本にありがちな、生硬で、主語と述語が酷く離れていて何度も読み直さないと意味を汲み取れない文章、といったものにお目にかかることはありません。書かれている内容自体が難解で簡単に読み飛ばせない箇所もあるとはいえ、大部分のページでは、実にリズミカルで明晰な文章が綴られていて、どんどん読み進むことが出来ます。

(4)本書によれば、ジャクソン・ポロックがなしたことは、1970年あたりに出現した女性のパフォーマンス・アーティストに変質した形で引き継がれていくことになります(注16)。
 とはいえ、冒頭で申し上げたように、今でもスマホ・ケースのカバーとかTシャツにポロックの図柄が使われていることをかんがみると、そうしたものを飛び越えて、むしろ、現代人の“身体の変形”に直接的に寄与しているのではないか、とも思えてしまいます。

 そんないい加減なことはさておいて、このエントリでは非常に興味深い『変形する身体』のごくごく一部しか紹介できませんでしたので、ぜひ皆さんも、本書を書店で手に取られて全体をご覧になっていただきたいと思います。本書を起点にしながら、さまざまなことについて思いを巡らすようになることは間違いありませんから。



(注1)『黄金のアデーレ 名画の帰還』についての拙エントリの「注3」で触れているように、MOMAは、映画で中心的に取り上げられた『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』(1907年)の姉妹作『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅱ』を所蔵しています。

(注2)例えば、日本では、2012年に『生誕100年 ジャクソン・ポロック展』が開催されています。

(注3)スマホ・ケースについては、例えばこちらを。



 また、この記事(2015.7.29)においては、「マストバイ!買うべきユニクロTシャツ3選」の一つに「SPRZ NYグラフィックT(ジャクソン・ポロック・半袖)」が挙げられています。



(注4)Wikipediaのこの記事によれば、カドリーユとは「4組の男女のカップルがスクエア(四角)になって踊る歴史的ダンス」(このダンスでは「絶えずパートナーが入れ替わる」ため、性淘汰を取り扱う章のタイトルに使われたのでは、と思います)。

(注5)本書の中で一番長大な章となっています。

(注6)Wikipediaのこの記事では、性淘汰とは「異性をめぐる競争を通じて起きる進化のこと」とされています(ただし、その記事では、「性淘汰は通常は自然淘汰とは別のメカニズムとして論じられる」とはいえ、「広義には性淘汰は自然淘汰に含められる」と記載されています)。

(注7)Wikipediaのこの記事では、ディスプレイとは、鳥類の生態について、「求愛や威嚇などの際、音や動作・姿勢などで誇示する行為」とされています。

(注8)主に取り扱われているのは、中世ヨーロッパの騎士のディスプレイ行動です。
 例えば、「性別間の激しい競争は、事実上の一夫多妻制とあいまって、騎士たちの猛々しい活力、攻撃的な気性、芝居じみた衣裳、そして手の込んだ仕方で特殊化されたディスプレイといったものを進化させる結果となった」と述べられています(本書P.56)。

(注9)制作された作品の方面から見たら、彼の絵は非常な高値で市場で取り引きされているのですから(例えば、この記事を参照)、事態は以前とあまり変わりがないように思えます。

(注10)「パトロンや蒐集家に色気をもたらすという芸術的オブジェの社会的・性的な機能が、パフォーマーとしての芸術家に転移したのである」(本書P.62)。

(注11)後者の動画は、ハンス・ナムス(あるいはネイムス)とポール・ファルケンベルクの共同制作によっているようです(このサイトの動画では、約10分のうち3分強にわたって字幕が付けられています)。
 なお、この動画は、BBCが制作したドキュメンタリー映画『ポロック その愛と死』(2006年)の中でもかなりの部分が使われています。



(同作の大部分は、ポロックを取り巻く人々の証言から成り立っています。興味深いのは、ポロックが1956年に交通事故死した際に、同じ車に乗っていた愛人のルース・クリグマン は生き残り、この作品に出演して証言している点でしょう)。

 また、ポロックは、劇映画『ポロック 2人だけのアトリエ』(2000年)において取り上げられています。



 この作品は、監督・脚本・主演のエド・ハリス(同作でアカデミー賞主演男優賞にノミネート)によって制作され、ポロックの妻リー・クラズナーを演じたマーシャ・ゲイ・ハーデン(『マジック・イン・ムーンライト』)が、その演技でアカデミー助演女優賞を受賞しています。また、ポロックの愛人のルース・クリグマンをジェニファー・コネリー(『ノア 約束の舟』)が演じています(なお、同作については、前田有一氏の映画評があります)。
 ちなみに、『ポロック その愛と死』の中でルース・クリグマンは、「(劇映画の)ポロックは、マーロン・ブランドに演じて欲しかった。二人は、自由奔放で天才的で気取らないところがそっくりだから」などと述べています。

(注12)例えば、キジオライチョウ(sage-grouse)について「2月下旬から3月上旬にかけて、雄鶏たちは伝統的な儀式が行われる競技場に集まる」云々と書かれています(本書P.67以降)。



 また、アオアズマヤマドリ(bowerbird)についても、オスは「東屋(あずまや)」を作り、その入り口の前に「さまざまな物品のコレクションをディスプレイする」、「それは、青いオウムの羽毛であったり青い花々であったり、………青いボタンであったりする」(本書P.75)と述べられています。



〔こうした文章だけではなかなか動的なイメージがつかめないところ、前者についてはこのサイトの動画で、後者についてはこのサイトの動画で、ある程度把握できるように思われます〕。
 あるいは、キジライチョウとアオアズマヤマドリとは、人間界の中世騎士と大実業家とに対応しているのかもしれません。

(注13)Wikipediaのこの記事でも、「彼(アルフォンソ・リンギス)の博士論文は、……フランスの現象学者モーリス・メルロ=ポンティとサルトルについての議論をテーマにしたものだった。アメリカに帰国後、……たちまちにしてメルロ=ポンティやレヴィナスの翻訳者として名声を博するようになる」と記載されています。

(注14)拙エントリの(4)で触れましたように、小林氏の『経験と出来事』の第3部第5章「絵画の力」は、ジル・ドゥルーズのフランシス・ベーコン論に触れています。
 その際小林氏は、同書の目的に従って、「(絵画に関する)メルロ=ポンティの議論とドゥルーズの議論とを接合」(同書P.315)させる方向で叙述を進めているところ、フランシス・ベーコンについてドゥルーズは、最近新訳が出された『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』(宇野邦一訳、河出書房新社:2016.2)の「第12章図表(ダイアグラム)」の中で、次のような点から、ここで取り上げているポロックを対置させています。
 すなわち、「画家のそれぞれの違いは、この非具象的なカオスをいかに抱擁するか、来るべき絵画の秩序を、この秩序とカオスとの関係をいかに評価するかによって生じる」と述べた上で、「この点に関しておそらく三つの方向が区別できるだろう」として、一つの方向は、モンドリアンやカンディンスキーらの「抽象絵画」であり、もう一つの方向は、ポロックらの「抽象表現主義あるいはアンフォルメル芸術」だとしています(同書P.140)。
 ただし、ドゥルーズは、ポロックの出来上がった画だけを見ているのではなく、「アクション・ペインティング、絵のまわりの、あるいはむしろ絵の中の、画家の「熱狂的ダンス」、絵は画架の上に広げられるのではなく、広げないまま床の上に釘付けされる」といった点も忘れてはいません(同書P.142)。
 また、ドゥルーズによれば、フランシス・ベーコンは、それらのいずれの方向にも進まず第3の道を歩んだとしていますが(フランシス・ベーコンについては、この拙エントリを参照してください)。

(注15)まさに、本書がポロックを取り扱っている箇所で「身体イメージ」という用語が使われています〔「姿勢維持的図式は、「身体イメージ」を発散しているのだ」(本書P.61)〕。

(注16)本書によれば、そうした女性のパフォーマンス・アーティストの一人オルラン(例えば、この記事を参照)は、「メジャーな芸術作品を自分の顔に彫りつけることを試み」ているが(本書P.62)、それは「新しい種類の男性を選別し、新しい騎士集団を召喚する」とされます(本書P.65)。
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シェル・コレクター

2016年03月15日 | 邦画(16年)
 『シェル・コレクター』をテアトル新宿で見ました。

(1)リリー・フランキーの主演作というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では(注2)、海の中に服を着たままの男(貝類学者リリー・フランキー)がゆっくりと沈んでいき、さらに魚や亀が泳いでいる様子が描かれます。
 海底の大きな巻き貝が映し出された後、海底に設けられた椅子に座る男の独白ということでしょうか、モノローグが入ります。
 「ここにあるのは、ただただ純粋な謎。貝はなぜ螺旋を描くのか、なぜこの形、この模様なのか、答えは永遠に出ない。その美しさは、言葉にならない領域でしか感じ取ることは出来ない」。

 タイトルの字幕が入った後、画面は離島の海岸の映像。
 夕焼けの中の海岸を、貝類学者が杖をつきながら一人で歩いていて、しばらくするとしゃがみこんで、貝を拾って手で触れます。どうやら、この貝類学者は盲目のよう。



 次いで、貝類学者の研究所の中。
 鍋をコンロからおろして、中の物をシンクに空けます。
 そこにはたくさんの貝があり、貝類学者は一つ一つ拾って、ピンセットで身を取り出し、貝殻をブラシで磨きます。
 そして、再びモノローグが。
 「貝はトテモ不思議な生き物。昆虫に次いで種数が多く、11万種を超える。5億年の時を超えて螺線形を維持してきた。貝殻はカルシウムで出来た骨格。美しい骨格の家の中で一生を過ごす」。

 ラジカセから流れるニュースが、「麻痺が全身に広がる奇病の患者が全国で増え続けている」と言い、また「アメリカ軍との共同軍事演習が再開された」とも言っています。空には、レーダーを搭載した偵察機が飛んでいます。

 そんなところに、女(いずみ寺島しのぶ)が、貝類学者のいる離島の海岸に漂着します。



 さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、盲目ながら離島で貝の収集に勤しむ貝類学者を主人公とする作品。前回取り上げた『女が眠る時』と同じように海外の作品を原作としながら、設定を沖縄の離島に置き換えて映画化したものです。そして、『女が眠る時』と同じように、一定の物語が描かれてはいるものの、個々の映像の意味を統一的に掴もうとするとそれが難しいように作られています。ただ本作は、『女が眠る時』と違ってその作風に違和感を覚えません。よくわからないとはいえ、性急な決め付けはせずに、いろいろ頭のなかで映像を反芻しながらゆっくりと意味を考えていけば良いのでしょう。

(2)本作について、監督が「観る方によって、捉え方が様々に変化する作品」と言っていることもあり(注3)、ストーリーをあまり深く追い求めたりしてもそれほど意味がないように思われます。
 それでも、あらすじの骨格がつかめないわけではなく、またその寓意についてもいくつか思い浮かばないわけではありません(注5)。例えば、

 沖縄の離島(=憲法第9条により守られた日本)で独りで貝を採集しながら平穏に暮らしていた盲目の貝類学者(=日本人)のところに、いづみが転げ込む(=外国の先遣隊の侵入)。彼女は全国に蔓延する奇病(=高揚した好戦意識)に罹っていたものの、貝類学者が採ってきたイモガイの毒(注4)(=憲法第9条)に触れたところ、その奇病が治ってしまった。その噂を聞きつけて、貝類学者の息子・池松壮亮)が人を連れてこの離島にやってくるも(=敵国の侵入)、貝類学者は治療しない。その後、火山が爆発したり、津波が襲ってきたりして全ては流されてしまうものの(=戦争による壊滅)、地元の有力者・弓場普久原明)の娘・蔦子橋本愛)(=日本の原点・古層)と貝類学者とが、静かな海岸を歩きながら、新しい貝を見つけ出す(=平和の回復)。



 または、本作は、病気の治療など人々に受け入れやすいスローガンを掲げた集団(カルト宗教の集団ともいえるでしょう)が個人の平穏な生活を滅茶苦茶に破壊してしまう様子を描いたものとも考えられるかもしれませんし、陸上のそうした禍々しい人々の生活ぶりと、海中のごく自然な生物の生活ぶりとを対比させたものとも受け取ることが出来るようにも思います。

 でも、そんなどうしようもない杜撰な捉え方では、それをいくつ並べても説明しきれない点もたくさん出てきますし、なにより本作をこれだけの俳優・スタッフを使ってわざわざ制作した意味がないように思われます。
 なによりも、本作のように貝類学者が盲目では、貝の模様とか色の判別がつかないのですから貝の識別が酷く難しく、従ってそれ自体矛盾した存在であり、きちんとした説明が難しいように思われます(注6)。
 また、全国各地で蔓延しているという奇病についても、様々な事態を当てはめることが出来るようにみえるため(注7)、かえって曖昧なものになっているようにも思われます。

 マア、無理に本作が言いたいことを捉えようとはせずに、ボワッと全体を受け止めて、あとは受け止めた何がしかのものが自分の中でどのように発酵するのか各人それぞれが待てばいいのでしょう。
 なかでも、冒頭のシーンを始め何回か映し出されるのですが、貝類学者が海に沈んで海底で椅子に座るという映像は、クマネズミにとってとても斬新で、これだけでも本作の価値はあるのではないでしょうか(注8)。
 その他にも、海の中の岩に張り付く花のように美しいイソギンチャクとか貝類学者が拾う貝殻の映像も素晴らしく、またラスト辺りの赤とか白の服を着た橋本愛がとても綺麗に映し出されていると思いました(注9)。

 それにしても、立て続けにリリー・フランキーを映画館で見ることになるとは!
 それも、『女が眠る時』における居酒屋の店主・飯塚の位置づけがよくわからないままでの本作のまたまたよくわからない貝類学者の役です(注10)。
 とはいえ、本作におけるリリー・フランキーの演技は説得力が充分にあり、本作の貝類学者としてはこの人以外には考えられない感じがします。
 5月に公開される三島由紀夫の原作の『美しい星』でも、主役を演じるとのこと。どんな演技が見られるのか、今から楽しみです(注11)。

(3)渡まち子氏は、「目で見るのではなく、触って感じて物事を見極める、体感する作品ということだ。決してわかりやすくはないが、時にはこんな映画で感性をきたえてみるのもいいだろう」として60点をつけています。
 外山真也氏は、「残念ながらこの主人公に同化できない。監督がやりたいことを頭で理解できる域を出ていないのだ。もう少し主人公に感情移入できる脚本であれば、我々観客も彼の触感を共有することができ、傑作に仕上がったのではないだろうか」として★4つをつけています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「残酷なようで優しく、恐ろしくも美しい。世界の一片を切り取ったような映画である」と述べています。



(注1)監督・脚本は、坪田義史
 原作は、アンソニー・ドーア著『シェル・コレクター』(岩本正恵訳、新潮社:未読)。

 なお、出演者の内、最近では、リリー・フランキーは『女が眠る時』、寺島しのぶは『R100』、池松壮亮は『バンクーバーの朝日』、橋本愛は『残穢―住んではいけない部屋―』で、それぞれ見ました。

(注2)冒頭の4分ほどの映像をこちらで見ることが出来ます。

(注3)公式サイトの「インタビュー」より。
 なお、同じサイトでリリ-・フランキーも、「物語を見るためだけに映画があるわけではないと思うし、だから、こういう映画もなきゃいけないと思うんです。わけがわからなくても、なぜか頭のなかにずーっと残ってる。そして、知らないうちに(劇中の)一言を思い出すような映画ですよね」などと述べています。
 また、この記事によれば、初日舞台挨拶で寺島しのぶは、「ぶっとんだ脚本と、ぶっとんだ監督、ぶっとんだ共演者に囲まれて、ぶっとんだ作品ができました。この映画はわかるものではなく感じるもの。私も気に入ってます」と挨拶したそうです。

(注4)イモガイの毒については、例えば、このサイトの記事を参照。
 その記事によれば、「沖縄県ではこれまでに30件のイモガイ咬傷被害が報告されており、そのうち8名が尊い命を落としてい」るとされていて、本作で貝類学者の息子・光がその毒で命を落とすのも、ありえない話ではないのでしょう。
 また、この記事(2014.3.17)によれば、「オーストラリアの研究チームは16日、イモガイの毒から作った実験用の薬剤に痛みを麻痺させる作用がある可能性が示されたことを明らかにした」そうで、そうであれば、いずみや蔦子に取り付いた奇病が治ってしまうのも、あながちファンタジーとはいえないのかもしれません。

(注5)ブログ「佐藤秀の徒然幻視録」のこのエントリは、本作について専ら性的な視点から捉えた優れた論評だと思います。

(注6)この点については、本文で申し上げたことに関連して、例えば次のようなことが考えられるかもしれません。

 日本は憲法第9条により“戦争”を放棄して“平和”だと言っても、もしかしたらたまたま外国が侵略してこないだけなのかも知れず、現に外国が侵入してきた場合には、ただちに自衛のための“戦争”に打って出なくてはならず、いっぺんに“平和”が吹っ飛んでしまうのだから、元々今の日本自体が矛盾した存在なのだ。

 でも、ここは政治的な事柄につき議論する場ではないので、これ以上申し上げることは差し控えましょう。

(注7)直接的には、エボラ出血熱(2年間ほどで1万名以上が死亡)が考えられますし、最近ではジカ熱でしょうか。

(注8)本作の舞台挨拶についての記事を見ると(例えば、この記事とかこの記事)、寺島しのぶや橋本愛についてもっといろいろ撮影されたものの、公開された作品では様々にカットされているとのこと。あるいは、見た人の関心がそうしたシーンの方に偏ってしまうことを監督としては怖れたのかもしれません。

(注9)『残穢―住んではいけない部屋―』の橋本愛はイマイチの感じでしたが、本作の彼女は『リトル・フォレスト』の彼女と同じように素晴らしいものがあります。

(注10)まあ、『女が眠る時』の飯塚が、ストッキングの厚さについて薀蓄を述べたりするのは(同作についての拙エントリの「注5」を参照)、本作における貝類学者が貝という生き物の素晴らしさを述べたりするのと同断といえるかもしれませんが。

(注11)この記事によれば、なんと、本作に出演した橋本愛も同作に出演するとのこと!



★★★★☆☆



象のロケット:シェル・コレクター
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女が眠る時

2016年03月11日 | 邦画(16年)
 『女が眠る時』を渋谷TOEIで見ました。

〔本作は「ミステリー」とされていますが(注1)、以下かなりネタバレしますので、未見の方はご注意ください〕

(1)ビートたけしの主演作というので映画館に行ってみました。

 本作(注2)の始めでは、「DAY 1」と字幕が出て、ビーチパラソルがいくつも開く海岸が映し出され、子どもたちがボール遊びをしています。
 海岸の直ぐ側にはリゾートホテルがあり、プールが設けられています。
 健二西島秀俊)が、そのプールサイドのビーチチェアで本を読んでいると、同じように隣にいた妻の小山田サユリ)が、「ねえ、ゆっくり起き上がって、向こう側にいる二人を見て。どう見ても親子じゃないよね」と言うので見てみると、初老の男(佐原ビートたけし)と若い女(美樹忽那汐里)とが、向こう側のプールサイドにあるビーチチェアにいて、男の方が女の背中にオイルを塗ったりしています。
 綾が「羨ましいんでしょ。こっちも塗ってもらっていい?」と頼むものですから、健二は「ああ」と言って綾の背中にオイルを塗りつけますが、綾は「冷たい!」と騒ぎます。

 場面は変わって、健二と綾がホテルの庭を歩いていると、ホテルの従業員の恭子渡辺真起子)が近づいてきて、「綾?久しぶり」と挨拶します。これに対し、健二が「いろいろよくしていただいて」と応じると、恭子は「小説読みました。どこの本屋でも山積みされていて、うちの母も絶賛してました。2作目は?」と尋ねます。それに対し、健二は、「2作目は5、6年前に書きました。今は3作目を書いているところです」と答えます。
 恭子が「ご主人は小説家で、妻は編集者か」などと言い出すと、健二は、「僕はこれで」と言いながらその場に二人を残して立ち去ります。健二に向かって恭子は、「1週間、ごゆっくり滞在してください」と声をかけます。

 こんな感じで、健二のホテル滞在は始まりますが、さあこれから話はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、スペイン人の作家が書いた短編を中国人の監督が日本人の俳優を使って日本での話として映画化した邦画。どことなく川端康成の小説『眠れる美女』的な雰囲気を持った作品ですが、色々な事柄がぼやかされはっきりとしないまま展開されます。最後に謎が一応解明されるとはいえ、よくわからなさが後まで残り、こうした作品がミニシアターでないところで公開されているのも不思議な感じがします。

(2)本作は、見ている間は、意味がうまく把握できない映像のつながりがあるために、訳の分からない感じが次第に募ってきます。
 例えば、健二が佐原らの部屋に忍び込んでベッドの下に隠れるシーンの後、台風が近づいてきて雨が降る中、健二がタクシーに乗ってホテルを出ようとすると、いきなり美樹が乗り込んでくるシーンになるのです(注3)。



 あるいは、健二が後をつけた佐原と美樹が立ち寄る居酒屋の店主・飯塚リリー・フランキー)も、健二に店の中に貼られている写真について喋った後(注4)、突然奇妙な話をし出します(注5)。
 さらには、美樹が失踪したとの佐原の通報によってホテルを調べている刑事・石原新井浩文)が、健二に対して酷く間延びした質問を浴びせかけたりもします(注6)。



 ただ、ここからはまさにネタバレしてしまいますが、ラストでは、健二と佐原とが話すシーンの後、いきなり健二の新作小説のヒットを祝う食事会の場面が描かれるのです(注7)。そしてその後に(注8)、佐原と美樹が何事もなかった如く海岸を歩いているシーンが映し出されます。
 ということから、本作の映像は、あるところから以降は健二の新作小説の内容となっているのでは(あるいは、そうしたものが挿入されているのでは)、と推測できるわけです。
 そうであれば、前後のつながりがはっきりとつかめなかった様々の映像も小説の中での出来事ではないかということになり、それならなんでもありでしょうから余り思い悩むこともないのでは、という気になってきます。

 とはいえ、仮にそうだとしても、例えば、飯塚については小説の中の話なのか、そうではなくて健二が実際に遭遇した人物なのか、などはっきりとしない点が多く残ります。
 また、佐原と美樹との特殊な関係は小説の中の話なのでしょうが、それにしては美樹の行動が明瞭ではないままです(注9)。
 それに元々、健二が書いている小説が映像化されるというのもオカシナ感じがします。小説とは文章で書かれるものであって、はじめから映像化されているものではないはずだからです。
 あるいは、映像化された部分は小説の一部なのかもしれません。ですが、そうだとしたら、何故そんな不完全なものを映画の中にわざわざ持ってくるのでしょうか(注10)?

 さらに言えば、佐原は美樹の寝姿を10年くらいにわたって撮り続けているとのことながら、何度も映画化されている川端康成の『眠れる美女』(1961年)を持ち出すまでもなく、その行為を健二が覗き見したり、健二が書く小説の中心に据えたりするのには、今やインパクトがなさすぎる感じがします(注11)。



 本作全体からすると、あるいは現実の捉え難さを言いたいのかもしれません。
 ただ、そうだとしても、実際には、映画のどの部分がリアル(健二の実生活に関するもの)で、どの部分がフィクション(健二の新作に関するもの)なのか、という議論を見る者に招来させるだけではないか、と思ってしまいます。
 要すれば、このような構成の映画にすることでどのくらい目新しさを達成できたのか疑問に思える、ということなのかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「ひとりよがり? そうかもしれないが、わかりやすい映画ばかりが横行する昨今、こういうモヤモヤ感(?)満載の映画で頭をひねってみるのも一興だろう」として60点をつけています。
 宇田川幸洋氏は、「さまざまな謎がふきあげてきて、しかし、これはミステリー・エンタテインメントではないので、ひとつの解答は出ない。視点をかえて見ると、さまざまな模様が想像できるようにつくられている。とはいえ、終盤、いろいろな可能性を暗示しすぎて混乱をきたしているのが残念」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。



(注1)本作の公式サイトの「Introduction」では「深淵なる魅惑の“ミステリー”」とされています(劇場用パンフレットの「Introduction」では、「セクシー・“サスペンス”」とされています)。

(注2)監督は、『千年の祈り』のウェイン・ワン
 原作は、ハビエル・マリアス著『女が眠る時』(PARCO出版:未読)。

 なお、出演者の内、最近では、ビートたけしは『人生の約束』、西島秀俊は『脳内ポイズンベリー』、忽那汐里は『ペタルダンス』(DVDで見ましたが、この拙エントリの(3)で触れています)、小山田サユリは『昆虫探偵ヨシダヨシミ』、リリー・フランキーは『恋人たち』、新井浩文は『俳優 亀岡拓次』、渡辺真起子は『お盆の弟』で、それぞれ見ました。

(注3)健二が「どうしたの?何かあったの?」と尋ねても、美樹は単に「(車を)出して」というだけです。走る車の中で、さらに健二が、「喧嘩でもしたの?」、「若いのにあんな男と何日もいたら、飽きて苛つくのも分かる」、「あの人何やってる人?」、「どこに行けばいいの?」と矢継ぎ早に質問しても、美樹は答えません。やがて車がホテルキングダムに着くと、「ここにいて」と言い置いて中に入り、しばらくすると泣きながら車に戻り、さらには海岸沿いの道を走って岩山から飛び込もうとしたりするのです。

(注4)その中に、美樹とその両親と佐原が一緒に写っている写真がありますが、飯塚は、佐原については「知らない」と言います(にもかかわらず、再度会った時に、飯塚は健二に「おたく、どことなくあいつ(=佐原)に似ているよね」と言ったりします)。

(注5)飯塚は、突然、ストッキングの厚さについて話し出し、「男が好きなのは40~50デニールのもの」などと言います(「デニール」については、例えばこの記事)。

(注6)例えば、石原は、「お休み1週間ですか、羨ましいですね。奥様とご旅行ですか?」などと訊くかと思えば、また「こうした失踪騒ぎは9割方痴話喧嘩」と言いながら、「清掃員が部屋であなたとぶつかったと言ってます」とか、「佐原さんは、自分が部屋に戻った時にあなたは既にそこにいたとも言ってますが?」と訊いてきます。これに対して、健二が「そんなことはありません。信じてください」と答えると、石原は「信じてくださいと言う時は何かを隠していることが多い」などと応じます。

(注7)その食事会で健二は、健康そうな笑顔を見せ、また綾は妊娠していることが明らかな体の線を見せています。また、もう一組の夫婦が同じテーブルに着いていますが、夫は出版社の幹部なのでしょう。
 なお、この場面は、本作で「DAY 1」~「DAY 5」として描かれるホテルにおけるシーンとはある程度時間が経過してからのものでしょう。描かれているレストランは、海岸のそばのそのホテルに設けられているものなのでしょうか、佐原と美樹は、またしてもそのホテルに宿泊しているということなのでしょうか、よくわかりません。

(注8)同じレストラン内に佐原を見つけ、健二はその後を追って「佐原さん?」と呼び止めますが、佐原は振り返ってニヤッと笑うだけです。

(注9)例えば、上記「注3」で触れましたが、美樹はホテルキングダムにおいてどんな目に遭遇したのでしょうか?

(注10)あるいは、単なる健二の妄想(または小説の原案)かも知れません。ですが、そうだとしたら、酷くつまらない妄想と思えるのですが。

(注11)こうした“芸術的”な作品であまりエロティックな方向に走るわけにはいかないのでしょうから、仕方がないのかもしれません(でも、上記「注1」で触れたように、劇場用パンフレットの「Introduction」では、「“セクシー”・サスペンス」とされていますし、本作の公式サイトの「Introduction」では、「“背徳的で官能的”な映像美で描く」とされているのです)。でも、綾を演じる小山田サユリの方は体当たり演技を披露しているのですが?



★★☆☆☆☆



象のロケット:女が眠る時
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ディーパンの闘い

2016年03月08日 | 洋画(16年)
 フランス映画『ディーパンの闘い』を日比谷のTOHOシネマズ・シャンテで見ました。

(1)本年度カンヌ国際映画祭(注1)でパルムドール(最高賞)を受賞した作品(注2)だというので映画館に行ってきました。

 本作(注3)の冒頭の舞台は、スリランカのジャングルの中。薪の上に死体が乗せられていて、銃を肩にかけた男たちが、それに火をつけて死体を焼きます。
 中心の男(アントニーターサン・ジェスターサン)は、ズボンを履き替えて、脱いだズボンを火にくべます(注4)。

 場面は変わって、難民キャンプで、女(カレアスワリ・スリニバサン)が、あちこちの家族のところに行って、「その子はお宅の子?」、「その子は自分の子?」と尋ねたり、子どもに向かって「親は?」と訊き回ったりしています。
 とうとうある子供を見つけ、「この子の親は?」とそばにいる人に尋ねると、「亡くなった」との答え。
 その女の子(カラウタヤニ・ヴィナシタンビ)を連れて、女は海外渡航斡旋所に行くと、そこには先に死体を焼いた男もいて、斡旋所の男から、「夫ディーパンは41歳、妻ヤリニは24歳、娘イラヤルは9歳だ。今からお前らは家族だ」と言われ、偽造パスポートを受け取ります。

 ディーパンは、ヤリニに「本当にお前の子か?親類の子?」と尋ね、ヤリニが「いいえ。でも何故そんなことを聞くの?置いて行く気?」と答えるものですから、ディーパンも「ちゃんと面倒を見ろよ」と受け入れます。



 さらに、ヤリニが「どこで飛行機に乗るの?」と訊くと、ディーパンは「マドラスだ」と答え、ヤリニが「そこからイギリスへ?」と尋ねると(注5)、彼は「フランスに行く」と応じます。

 そんなこんなで、ニセの家族のディーパンとヤリニとイラヤルはフランスに入国するのですが、3人の前にはどんな運命が待っているのでしょう、………?

 本作は、内線下のスリランカを逃れてフランスにやって来た3人の物語。彼らは家族を装っているとはいえ、実は赤の他人。厳しい難民審査をくぐり抜けるための方策で、フランス国内に入っても家族のふりをして暮らしているものの、家の中では他人同士となります。そうした3人が大変な現実と向き合って暮らすうちに関係が変わっていく様子が見どころと言えます。それにしても、フランスは、中東やアフリカからの難民のみならず、アジアの難民までも引き受けていて、随分と大変な状況にあるのだな、と思いました。

(2)本作では、今ヨーロッパで大問題となっている“難民”の置かれている状況の厳しさが随分と描き出されています。
 例えば、ディーパンは、難民審査を待つ間も、収入確保のために街に出て物売りをしますが(注6)、大して売れないだけでなく、元々違法行為ですから警察の取り締まりに遭遇したりします。
 また、ディーパンたちは、家族を構成した方がフランスでの難民審査をパスし易いとされて偽装家族となるのですが、そんなものは難民審査の際に通訳官によって簡単に見破られてしまいます(注7)。
 さらに、入国してもまともな職にはありつけず、ディーパンはパリ郊外の荒れた団地の管理人、ヤリニは老人の住まいの家政婦の仕事にありつけただけです(注8)。
 それに、9歳のイラヤルは小学校に通うことになりますが、簡単には溶け込めず、学校から飛び出してしまったりします(注9)。

 ただ、フランスの現地事情に全く疎いクマネズミには、適正なルートで入ったとしても海外で生活するのは大変ですから(注10)、この3人はさぞかし大変な思いをしたのだろうな、くらいにしか思えないところです。
 また例えば、ディーパンらが暮らす管理人の部屋がある棟の向かいのD棟には、ヤリニが家政婦として働く老人・ハヒブの家があるのですが、ハヒブの甥のブラヒムヴァンサン・ロティエ)は、麻薬密売組織のリーダーで、夜になると大勢の若者がこのD棟に集まってきて大騒ぎをします。



 ですが、クマネズミには、こんな公然とした騒ぎがあるにもかかわらずどうして警察等が介入しないのか、とても不思議な感じがしてしまいます(注11)。

 クマネズミには、この映画に関しては、“難民”といった社会的な点もさることながら、むしろ、新しい家族の立ち上げといったミクロの方に関心が向きました。
 なにしろ、全くの赤の他人の3人が一緒に暮らすことになるのですから、最初のうちはどうしてもギクシャクします(注12)。
 ですが、しばらく経った夜、寂しがって涙を流すイラヤルは、ディーパンの部屋で一緒に新聞を読んだりするようになりますし、またイラヤルが、学校までついてきてくれたヤリニに「他のお母さんのようにキスをして」と望むと、ヤリニは言われたとおりにします。



 そして、次第に、ヤリニとイラヤルとが打ち解け合うようになり、またヤリニとディーパンとの関係も落ち着いたものになっていき、3人はお互いに愛情を持ち合うようになっていきます。



 その様子が、本作では実に細やかに描き出されているように思いました(注13)。

 とはいえ、こうした関係はそのまま順調に発展していかないで、映画のラストの方では大きな事件が持ち上がります。それに対して、ディーパンはどのように立ち向かうのでしょうか、………(注14)?

(3)渡まち子氏は、「名匠ジャック・オディアール監督は、内戦、移民、難民、暴力といったタイムリーな素材を、家族という普遍的なテーマを通して描いていく」として75点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「難民が滞在を許可されたとしても、環境や文化の違いから生じる軋轢や差別が待ち受けている。そんな難民の現実を、フランスに定住したスリランカの偽装家族が新たな家族として再生する姿を通してリアルかつスリリングに描き出している」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 藤原帰一氏は、「救いのない世界のなか、生き延びることだけを求めている人間の姿がここにあります。難民が、被害者でも加害者でもなく、私たちとそれほど違いのない存在に見えてくる、そんな映画です」と述べています。
 林瑞絵氏は、「オディアールはスターや人気の原作に寄りかからず、自分の名声だけで実現困難なオリジナル企画を成功に導いてみせた。タミル語の響きや音楽も耳に心地よい志の高い一本だ」と述べています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「スリランカ内戦ですべてを失い、戦いを捨てた男が、耐えに耐えた末、怒りを爆発させる。その姿は任侠映画にも似ているが、ディーパンの怒りは、テロや犯罪が絶えない社会のゆがみへと向かっているのかもしれない」と述べています。



(注1)その「ある視点部門」では、『岸辺の旅』の黒沢清監督が監督賞を受賞しました。

(注2)クマネズミは、カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した作品は、2009年の『白いリボン』以降毎年見ています(『プンミおじさんの森』、『ツリー・オブ・ライフ』、『愛、アムール』、『アデル、ブルーは熱い色』、『雪の轍』)。

(注3)監督は、『君と歩く世界』のジャック・オディアール
 原題は「DHEEPAN」。

(注4)明示されませんが、荼毘に付されたのは中心の男の妻と娘のようです。
 なお、後でディーパンと言われるようになる男は、「タミル・イーラム解放の虎」に所属する兵士として政府軍と戦っていたとされます。

(注5)ヤリニは、イギリスにいる親類のところに行きたいと思っていたようです。
 その思いは、以後も映画の中でヤリニによって口にされます。

(注6)ディーパンは、通りを走る車に対し、キーホルダーのようなものを2ユーロで売っています。
 なかなか売れませんが、その売上で、ディーパンたりはバナナとか牛乳など最低限の食料を購入しているようです。

(注7)タミル語で話した際に、ディーパンが「タミル・イーラム解放の虎」で知られた者であることがわかると、通訳の態度が変わり、その好意的なとりなしによって、ディーパンたちは“難民”と認められます(実は通訳は、「タミル・イーラム解放の虎」の支援者であり、あとで、この通訳を介して、ディーパンは「タミル・イーラム解放の虎」のチュラン大佐と会うことになります。チュラン大佐は、スリランカでの戦争支援のための拠出を求めますが、ディーパンは、「組織は壊滅した。私の中では戦は終わっている」と断固拒否します)。

(注8)ディーパンの仕事の内容としては、共用場所の掃除、郵便物の仕分け、経費の記録など。ヤリニは、老人が暮らす部屋の掃除と料理(こちらは、月500ユーロ)。

(注9)ディーパンは、「学校でフランス語を習得しないとスリランカに強制送還されてしまう」とイラヤルを諭します。

(注10)クマネズミが昔暮らしたことがあるブラジルには、日本からの“移民”が多数正規ルートで入植しましたが、筆舌に尽くしがたい経験をした話をいくつも聞きました。

(注11)リーダーのブラヒムの足にはGPS装置が付けられていて、警察はその居場所を把握しているとはいえ、秘密裏に行っているのならともかく、本作の場合は、公然といかがわしい若者が車やオートバイに乗って向かい側のD棟に集まってきたり、また拳銃が取り出されたりするのですから。

(注12)例えば、ディーパンが、郵便の仕分けをヤリニに任せると、彼女は間違った仕分けをしてしまい、住民から苦情が出てしまいます。これに対し、ヤリニは、「どうしてこんな仕事を私にさせるの」と怒ります。

(注13)ある日、イラヤルが「私のママは死んだの」と言うと、ヤリニは「育て方がわからないの」と正直なところを打ち明けます。それに対し、イラヤルが「兄弟は?」と尋ねるので、ヤリニが「弟が二人」と答えると、イラヤルは「それじゃあ、弟のように私に接して」と言います。
 また、ディーパンがヤリニに、「ここの連中は話しながら笑っているが、ちっとも面白くなく笑えない」と言うと、ヤリニは「言葉の問題じゃない、ユーモアのセンスよ。あなたは堅物だから、タミル語でも面白くない。でも、こうやって話せればそれが良い」と応じます。そしてある夜、二人は結ばれます。

(注14)これを書いてしまうと、本作の面白さが消えてしまいますので控えますが、しがない管理人に成り下がったとはいえ、スリランカの森の中で政府軍と銃で渡り合った歴戦の強者のディーパンが、取り上げた銃を持って、D棟にたむろするへなちょこの若者に向き合ったらどんなことになるのか、推して知るべしでしょう!



★★★☆☆☆



象のロケット:ディーパンの闘い

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ブラック・スキャンダル

2016年03月04日 | 洋画(16年)
 『ブラック・スキャンダル』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)ジョニー・デップの久しぶりの主演作というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、米国麻薬取締局(DEA)のオルセンウィークスバルジャージョニー・デップ)の部下だった男:ジェーシー・プレモンス〕を尋問しています。
 ウィークスが「俺は密告者(rat)じゃない。全て記録してほしい」と言うと、オルセンは「OK.記録しよう」と応じ、さらに「ウィークス、お前の罪はどれも重大だ。連邦政府と取引をするつもりなのだな?」と尋ねると、ウィークスは「そうだ」と答えます。
 そしてオルセンが「それならば、ウィンターヒルのギャングとFBIとジョン・コノリージョエル・エドガートン)、特に、逃亡中の前のボスのバルジャーについて、全て話してほしい」と求めて、ウィークスの話が始まります。

 さあ、どんな話が物語られるのでしょうか、………?

 本作は、その舞台の出発点は1975年のボストンで、「FBI史上、最も黒い闇」と言われるスキャンダルを描いています。主人公を演じるジョニー・デップは、2009年の『パブリック・エネミーズ』で実在の銀行強盗役を演じていますから、悪役は初めてではないとはいえ、本作で彼は、アイルランド系移民の多いサウスボストンでギャング団を率いる極悪非道の男を巧に演じ、このところ薄れつつあるように見えた存在感を取り戻せているように思いました(注2)。

(2)確かに、本作では、ジョニー・デップが演じるバルジャーが、裏切った部下等を殺してしまう凄惨な場面がいくつも描かれています。
 例えば、本作のはじめの方では、バーの入り口で見張りをしている若い頃のウィークスに目をつけたバルジャーが、車の運転をさせて川縁まで行って、もう一人の連れの男(対立するイタリア系マフィアのアンジェロ・ファミリーに所属)を二人で殴り殺します。その帰り際に、バルジャーはウィークスに「お前が気に入った」と言います。
 また、バルジャーの部下のフレミロリー・コクレイン)の愛人のデボラジュノー・テンプル)が警察から出てくると、彼女が「(尋問に対し)自分は無関係だと答えた」とか、「犯罪行為を見たかと訊かれて、撃っていないと答えた」と言っているにもかかわらず、首を絞めて殺してしまい、フレミに「後始末しろ」と命じるのです。

 そんなこともあって、本作の原題が「黒ミサ」となっているのではと思われます(注3)。

 でも、本作について、「FBI史上、最も黒い闇」とか「アメリカ史上、最大のスキャンダル」が描かれている作品だとされるからでしょうか、どうしても目が、主人公のバルジャーではなくFBI捜査官のコノリーの方に向いてしまいます。

 本作では、バルジャーについても、私的な側面が色々描かれています。
 特に、バルジャーの弟のビリーベネディクト・カンバーバッチ)は州上院議員という要職に就いていますし(注4)、また、バルジャーは、母親とカードゲームをしたり、「俺のミス・アメリカ」と言う恋人リンジーダコタ・ジョンソン)との間にできた息子に喧嘩の仕方を教えたりします(注5)。



 でも、バルジャーは、私的な側面を切り離し、犯罪行為の方面で自分の思い通りにどんどん手を広げていきますから、そこには思い悩む姿はあまり伺われません。

 これに反し、FBI捜査官コノリーの方は、バルジャーとの「協定(alliance)」を何よりも一番にするものですから(注6)、妻のマリアンジュリアンヌ・ニコルソン)は夫とバルジャーの関係を酷く危惧しますし(注7)、職場では上司のマクガイアケビン・ベーコン)や連邦検事のワイシャックコリー・ストール)から強い圧力がかかります。加えて、バルジャーは、コノリーのことなどお構いなしに犯罪を重ねているのです。
 こうなってくると、バルジャーのことよりも、一体コノリーはこの窮地をどのように脱出しようとするのだろう、といったことに興味が惹かれてしまいます。

 本作は、犯罪行為がいろいろ描かれている割にはとても地味な作品で、こうした映画でありがちなように主人公が派手なアクションを見せるわけでもなく、登場するたくさんの人物が行ったことを淡々と、どちらかといえばドキュメンタリー風に描き出しています。その人間関係を把握するのは厄介ながらも、だからといって退屈するわけではなく、見終わるとずっしりと重たいものを見るものに感じさせます。

(3)渡まち子氏は、「とりわけ、薄い頭髪のオールバック姿で非情なマフィアを演じるジョニー・デップの圧倒的な存在感ときたら!デップの怪演の前では、カンパーバッチやエドガートンら、演技巧者たちさえ影が薄いほどだ」として85点をつけています。



(注1)監督は、スコット・クーパー
 原作は、ディック・レイアジェラード・オニール著『ブラック・スキャンダル』〔古賀弥生訳、角川文庫(原作の原題は、「Black Mass: Whitey Bulger, the FBI, and a Devil's Deal」)〕。
 原題は「Black Mass」。

 なお、出演者の内、最近では、ジョニー・デップは『イントゥ・ザ・ウッズ』、ジョエル・エドガートンは『華麗なるギャツビー』、ベネディクト・カンバーバッチは『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』で、それぞれ見ました。

(注2)ジョニー・デップお得意のメークは、今回も冴え渡っているように思います。
 劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」には、「バルジャーの特徴的な生え際はシリコン製パーツで見事に再現された」などと書かれています。



(注3)本作や原作のタイトルの「黒ミサ」については、原作の著者の一人のディック・レイアによれば、「カトリックのミサにこじつけた。バルジャーを悪魔として、FBIの汚職を暗に示すものであり、邪悪な協定という考えに結びつく」とのこと(この記事によります)。
 また、この記事の筆者は、「黒ミサ」の過去の変遷をたどりながら、「映画のタイトルは悪魔的な意味合いを持つが、それはバルジャーのたくさんの犯罪行為や殺人を指している。ただ、それだけでなく、「黒ミサ」という言葉が起源に持つ風刺的な意味合いも、またこの映画の物語にあてはまっている。というのも、FBIがギャングとした取引は、正義自体を笑いものにするからだ」と述べています。

(注4)今注目度が高まっているベネディクト・カンバーバッチが演じているにしては、弟ビリーは本作で大きな活躍はしません(3人が並べられているポスターが作られていますが、少々ミスリーディングだと思われます)。



(注5)食事の際バルジャーは、ジュースを飲まない息子ダグラスに対して、「ビタミン100%、ママが絞った。だから飲め」と命じたり、息子が友だちと喧嘩して先生に叱られた話をすると、「そいつの顔を殴ったから不味いんじゃない。皆が見ている前で殴ったから不味いんだ。誰も見ていなければ、何も見られないのと同じだ」と教えたりします。
 でもその後、バルジャーは息子を失い、リンジーも彼の元を去ってしまいます。

(注6)コノリーは、最後までバルジャーを裏切らず、司法取引に応じなかったために、40年の刑を宣告されました。

(注7)夫、夫の同僚のモリス捜査官(デイビッド・ハーバー)、それにバルジャーやその部下のフレミとの食事会が自宅で開催されます。



 その際、マリアンが顔を見せずに(夫に、「風を引いて気分が良くない」と言ってもらって)、自分の部屋で本を読んでいると、突然バルジャーが現れ、「寒気がするか?喉が痛いか?喉は腫れていないようだが。風邪を軽く見ると駄目だ。ゆっくり休め」と言うのです。マリアンは震え上がります。
とうとう、マリアンは、家に鍵をかけて夫を閉めだしてしまいます。コノリーが「こんなまねはよせ、ふざけるんじゃない!」と叫ぼうとも、戸は開きません。

 なお、この食事会では、モリス捜査官の作ったステーキが「人生で一番美味い」と言って、バルジャーは「どんな味付けをしたんだ」と尋ねますが、モリスは「家族の秘密(family secret)」と言って教えません。ところが、さらにバルジャーが強く求めると、モリスは「おろしにんにくと醤油(soy)少々だ」とバラしてしまいます。これに対しバルジャーは、「今日、お前は簡単に家族の秘密を漏らした。明日になれば、俺の秘密を漏らすことだろう」と言い、モリスは凍りつきます。
 誰一人として気を許さないバルジャーの姿勢が伺われるエピソードです。



★★★☆☆☆



象のロケット:ブラック・スキャンダル

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