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悼む人

2015年03月17日 | 邦画(15年)
 『悼む人』を渋谷TOEIで見ました。

(1)天童荒太氏の直木賞受賞作を堤幸彦監督が実写化したというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、リュックサックを背負った主人公の静人高良健吾)が、山道や畦道を歩き、線路や道路の脇などで跪いて祈りを捧げる姿が映しだされます。



 次いで、一緒に連れて来た新人に、ある家の玄関のベルを押させている雑誌記者・蒔野椎名桔平)が、「もっと強く押すんだ、相手が出てくるまで」、「取り敢えず写真だけでも撮っておけ」などと怒鳴っているシーン。
 どうやら、家の前で、10歳の少年が6才の弟を車で轢き殺すという事件があったようです。
 蒔田は、女性記者に生々しい写真を撮らせようとしましたが、そんな嘘の写真は撮れないと彼女は拒否します。
 そんなところに静人が通りかかり、跪いて祈るものですから(注2)、蒔田は「くだらない宗教家だ」と言って立ち去ります。

 本作は、ここに登場する蒔田に焦点を当てた物語や、静人の“悼む”旅を追いかける女・倖世(石田ゆり子)を巡る物語、それに静人の母親で末期ガンとなって自宅療養している巡子大竹しのぶ)に関する物語が、静人の物語に絡まって展開されていきます。
 さあ、静人の旅はどのように続けられるのでしょうか、………?

 本作は、出演している俳優陣は皆熱心にそれぞれの役柄に取り組んで入るものの、そもそもどうしてこんなことが映画の題材になるのかクマネズミには最後まで理解できず、138分がとても長く感じられました(注3)。

(2)本作については、クマネズミは違和感しか覚えませんでした(注4)。
イ)まず、主人公の静人が各地で行う“悼む”儀式(注5)とは、一体何なんでしょう?
 静人に言わせれば、亡くなった人が生前どんな人に愛され、誰を愛したのか、どんなことをして人に感謝されていたかといったことを記憶にとどめるという行為だということですが、まずもって、日本人である静人があのような西洋人まがいの行為を死者に対して行うなど、とても受け入れられません(注6)。

 それに、例えば、2度目に会った雑誌記者・蒔野に、「君は、人が死んだ場所ばかり訪ね歩いているんだって、ルポでも書くの?」と尋ねられると、静人は「“悼ませていただいている”だけです。自分なりに悼むだけです」と答えますが、“悼ませていただく”とはいったい誰に許しを得るのでしょうか?“悼む”とは、誰かに許しを得て行う行為なのでしょうか(注7)?

 さらに、静人は、どんな基準で対象となる死者を選んでいるのでしょう?
 劇場用パンフレットの「STORY」では、「不慮の死を遂げた人々を悼む」とあります。それで、静人は、図書館などで新聞を調べて対象者をメモに記しているのでしょう(注8)。
 とはいえ、「不慮の死を遂げた人々」なら、世の中にゴマンといるはずです。その中から、どういった基準で静人は自分が“悼ませていただく”人を選び出しているのでしょうか(注9)?
 あるいはもしかしたら、“悼む”人が自分の他にいそうもないと思われる事件等を、静人は選び出しているのでしょうか?ですが、亡くなった人には、どんな人であれたいていは“悼む”人はいるものです(注10)。

 加えて、静人は「記憶にとどめる」と言いますが、実際には、所持するノートに見聞きしたことを書き留めているにすぎません。
 それだったら、すでに新聞に記録されていることとどんな違いがあるのでしょう?
 そして、世の中の人が新聞に書かれていることを忘れてしまうのと同じように、静人にしたって、ノートに記載したことをしばらくしたら忘れてしまうのではないでしょうか?

 総じて、静人の行為は、本人が「僕は病気なんですよ」と蒔野に言うように、病気とみなせるものではないかと思われます。それを本作は、随分と意味がある行為であるかのように描き出すものですから、浅はかなクマネズミは、どうしてそんなオカシナ病人に観客を付き合わせるのかと言いたくなってしまいます。

ロ)それに、映画では、夫・甲水井浦新)と妻・倖世や(注11)、倖世と主人公の静人との愛情関係が描かれるので、実際のところ本作はラブストーリーなのかな、それだったら、上で述べたようなことも物語の背景(あるいは設定)の一つとみなせばいいのかな、と思い始めたのですが、あにはからんや、ラストになると、男女の関係の方は投げ出されてしまい(注12)、母親・巡子と主人公らの家族関係が描き出されるのです。どうしようもありません。

 何も家族関係が描かれているからおかしいと言いたいのではありません。
 ただ、本作では、“悼む”相手の死者がいろいろ描かれている上に、さらに末期ガンに冒された母親の姿と、その娘・美汐貫地谷しほり)の出産話をわざわざ近接させて描き出し、これでもかとダメ出ししているように思われてなりません(注13)。

(3)渡まち子氏は、「見知らぬ人を悼む旅を続ける青年を通して生と死の意味を問う人間ドラマ「悼む人」。儀式のように繰り返す主人公の所作が美しい」として65点を付けています。



(注1)原作は、天童荒太著『悼む人』(文春文庫)。
 監督は、『くちづけ』の堤幸彦

(注2)静人は、祈りを捧げながら、「あなたは、ご両親やお兄さんに可愛がられていたと聞きました。あなたは皆に愛されていました。そんなあなたが確かに生きていたことを、私は覚えておきます」と言います。

(注3)俳優陣のうち、最近では、主演の高良健吾は『まほろ駅前狂騒曲』、相手役の石田ゆり子は『おとうと』、井浦新は『ふしぎな岬の物語』、貫地谷しほりは『バンクーバーの朝日』、 椎名桔平は『RETURN(ハードバージョン)』、大竹しのぶは『一枚のハガキ』で、それぞれ見ました。

(注4)堤幸彦監督の作品は、前回見た『くちづけ』のこともあり、基本的にクマネズミの生理に合わないのでしょう。
 ただ、本作は、『くちづけ』と同じように戯曲の実写化なのですが、舞台とされる山形(実際のロケ地は福島県)を静人が歩き回る姿が随分と出てくることもあって、『くちづけ』のようには“新劇臭さ”を感じませんでした。

(注5)原作において静人は、左膝を地面に着き、右手を上に挙げ、左手は地面に着くくらいまでに下げ、左右の手を胸の前で合わせ(右手は「空中に漂う何かを捕らえるようにして」、左手は「大地の息吹をすくうかのようにして」)、個人のことを悼みます(文庫版原作上P.12)。

(注6)原作において静人は、蒔野に「祈るときの姿勢には、どんな意味があるの」と訊かれ、「べつに意味はありません。あの形が、自分の悼みに合っているだけです。どうしてそう感じるのかよくわかりませんが、悼むことを始めたときには、自然とこの形をとっていたんです」と答えます(文庫版原作上P.57)。

(注7)“悼む”とは、元々「人の死を悲しみ嘆く」(このサイトの記事)だけのことであり、「亡くなった人が生前どんな人に愛され、誰を愛したのか、どんなことをして人に感謝されていたかといったことを記憶にとどめる」という静人の行為は酷く大袈裟過ぎる感じがしますが、まあ本人がそうしたいというのであれば、それはそれで構わないのかもしれません。
 なお、静人は「記憶にとどめる」ことを強調しますが、最近見た『きっと、星のせいじゃない。』に登場する青年ガスが、ガンを患っている青少年の集会「サポート・グループ」において、「不安は忘却だ」と発言していたことを思い出します(ヒロインのベイゼルとのやり取りについては、同作についての拙エントリの「注2」をご覧ください)。

(注8)原作において静人は、蒔野に対し、「悼ませていただく相手のことを知るのに、ラジオで毎晩ニュースを聞きます。図書館で雑誌も閲覧します。でも一番詳しく情報を得るのは新聞から」と言っています(文庫版原作上P.42)。

(注9)映画からは、静人がマスコミ等で目や耳にした事件の中から適当に次第に選び出しているとしか思えません。

(注10)例えば、3年前に17歳の少年・直紀が亡くなった現場に行って静人は“悼む”儀式を行いますが、そこにその少年の母親が現れ、「あなたが読んだ新聞の記事は捏造で、息子は知的障害児であり、いじめで殺されたのだ。直紀を殴った少年の親類に警察関係者がいて、記事が捏造された。こうしたことを恨んでください」と言います。
 これに対して静人は、「犯人を恨むことは僕にはできません。僕は、ご両親に愛されていた直紀君のことを覚えています」と答えるだけでした。
 こんなにはっきりと自分の息子のことを考えている親がいる上に、さらに静人が“悼む”儀式をすることにどんな意味があるのでしょう?

(注11)この二人の関係も、実のところよくわかりません。宗教家の夫・甲水は、自分を殺してくれる妻ということで倖世と結婚したというのです。彼は妻・倖世に、「私を殺して欲しい。殺してくれたら愛せるかもしれない。生きている人間に愛なんてない。私を殺して、君だけのものにして欲しい。人の世の中は、愚劣で欺瞞に満ちている。それを知っていながら普通に生活することはできない」などと、到底理解し難いことを言うのです。

(注12)倖世と静人とは、性的な関係を持ったにもかかわらず、倖世は「もう、あなたの邪魔はしない、ここでお別れします」と静人に告げ、静人も「母が心配なので家に行く、それじゃあ」と応じ、二人はいとも簡単に別れてしまい、別々の行動をとることになるのです。二人が洞窟で愛しあったのは何だったのでしょう〔劇場用パンフレット掲載のPRODUCTION NOTEによれば、「ロケ地に選んだ洞窟もロケハンの途中で偶然見つけた場所。子宮のようなイメージを感じて選んだ」とのことですが、それならなおさらアッケナイ別れはどうしたことでしょう!また、倖世の夫の亡霊(あるいは、幻覚)は、そうした関係になったことによって消滅したのではないでしょうか〕?



(注13)変人の静人がいるからというので、妊娠しているにもかかわらず婚家を追い出された美汐の出産と、母親・巡子の最後とが重なるというのは、いかにも作った話(死と再生!)だなと言うしかありません。
 そして、美汐の背後にいる巡子という構図は、なんとなく『くちづけ』において、巡子と同じように末期ガンの「いっぽん」(竹中直人)と知的障害者のマコ(貫地谷しほり)とが長椅子に座っている構図を思い出してしまいます。



★★☆☆☆☆



象のロケット:悼む人


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