映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

お父さんと伊藤さん

2016年10月25日 | 邦画(16年)
 『お父さんと伊藤さん』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)久しぶりに上野樹里の主演作ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、コンビニの店内。
 バイト店員の伊藤リリー・フランキー)が、店長らしき若い男に怒られています。
 パート勤務の中年女が「あの男、きっとすごいわよ」と、レジにいる上野樹里)に陰口を叩いたりします。

 そして、彩の声で、「その真偽の程を私が知ることになるなんて、絶対にないと思ってた」、「ふとしたことで飲みに行くことになり、またまた飲みに行くことになって、…」。
 ベッドで二人は寝ていますが、彩が目を覚まして、隣の伊藤の顔を見ます。

 次の場面は、アパートの一室で、二人が食事をしています。
 彩の声で、「そのまま伊藤さんが住み着いたので、あたしたちはここへ引っ越してきた」。

 場面は変わってフルーツパーラー。彩と兄の長谷川朝晴)が話し込んでいます。



 彩が「えっ、お父さんと一緒に暮らせって?」「そんなのいきなり無理」と言うと、潔は「今すぐというわけじゃない。9月中にでも」「未来永劫ではなくて、半年の期間限定でいい」「子供の中学受験が終わるまで。うちは双子だろ、大変さも2倍なんだ」「理々子がとうとう精神的に不安定になって」などと言い訳をします。
 潔は「頼む、頼れるの彩しかいない」と頭を下げるのですが、彩は「でもね」と色よい返事をしません。
 さらに彩が「お父さんに一人暮らしをしてもらったら?」と訊くと、潔は「父さんは74歳で、心臓に持病があるし、母さんを亡くしてもいるし」と答えつつ、「ひょっとしたら、誰か一緒に暮らしている人がいるのか?」と訊き返すので、彩が頷くと、潔は「いてもおかしくないよな」と呟きます。

 フルーツパーラーを出てから、彩が「ごめんね、お兄ちゃん」と言うと、潔は「いいんだ、彩が謝ることじゃない」と強がりを言って立ち去ります。

 それで彩が家に戻って玄関のドアを開けると、まず伊藤の「お帰り」との声がし、次いで父親(藤竜也)の「只今くらい言わんか」との怒鳴り声がします!
 こうして、父親と伊藤と彩の3人暮らしが始まるのですが、さあ物語はどのように展開するでしょうか、………?



 本作は、自分より20歳も年上の男と同棲しているところに、その男よりもさらに20歳年上の父親が転がり込んできて、というお話。上野樹里やリリー・フランキー、藤竜也というとても芸達者な俳優が持てるものを充分に発揮していて、高齢化社会の問題を浮かび上がらせつつまずまず面白い作品に仕上がっているな、と思いました。

(2)本作は、最近見た映画の流れからすれば、『淵に立つ』と同じように、家族という共同体の中に異質の者が外部から侵入するという形をとっています。
 同作における八坂浅野忠信)は、利雄古舘寛治)の知り合いにしても、その妻・章江筒井真理子)や娘・篠川桃音)には赤の他人です。それと同じように、本作の父親は、彩の父親であるにしても、伊藤にとっては初対面です。
 それに、同作の八坂は刑務所帰りで、利雄の過去を知る不気味な存在であり、章江や蛍がいろいろ影響を受け、鈴岡という家族は壊れてしまいます。
 本作における父親も、決して親和的な存在ではなく、何かというと口やかましく言い募ります(注2)。3人はそれぞれ、このままの状態ではとても長続きしないと、色々考え始めることになります(注3)。

 でも、こういう比較はあまり意味がないのかもしれません。
 なにしろ、この2つの作品が醸し出す雰囲気がまるで違うのですから。
 『淵に立つ』の方は、娘の蛍が、全身麻痺で意思疎通もできない状態になってしまうだけでなく、章江は蛍と一緒に自殺するまでに追い込まれてしまいます。
 結局、もともと壊れかけていた鈴岡の家族は、八坂の侵入によって完全に壊れてしまうようなのです。
 他方、本作の雰囲気は緩めで、どちらかといえばTVのホームドラマ的のように思えます(注4)。小さなエピソードは色々あるものの(注5)、本作では、家族関係はまずまず維持されていくのでしょう(注6)。

 本作がそうした雰囲気になるのは、もとより、上野樹里やリリー・フランキー、それに藤竜也というとても芸達者な俳優が醸し出すものに依っているのでしょうが、あるいは、本作では、彩と伊藤の性的生活が完全に省略されている点も挙げられるのではないでしょうか?

 原作を少々覗いてみたのですが、2DKの狭いアパートにおいて父親とフスマ一つで仕切られている中で性行為に及ぶ様子が、原作では逃げることなく描かれているのです(注7)。
 クマネズミは、この点はかなり重要な要素であり(注8)、仄めかしさえもなされないまでにオミットされてしまったがために(注9)、本作は全体として緩いTVホームドラマになってしまったのではないか、と思いました(注10)。

 それにしても、リリー・フランキーは最近の邦画でよく見かけるものです(注11)!そして、どの作品においても、水準以上の演技を見せているのですから驚きます。

 なお、父親が、誰にも触れさせずに大切にしていた箱の中身は、自身が万引きして蓄えた安物のスプーンだったことが実家の火事の際にわかりますが、とはいえ、どうして父親はそんなものを万引きして大事に貯めたのか、という点になるとよくわかりません。
 でも、なんでもかんでも映画の中で説明してくれる必要もないわけで、謎は謎のままでもかまわないと思います(注12)。
 ただ、大切な箱の中身が、彩などが想像していたような誰が見ても貴重だと思われる物ではなく(注13)、単なるスプーンだとすると、父親という人間の本質なんてせいぜいそんなものにすぎないと本作が言っていると受け止めることができるかもしれません。
 そして、そんな物ですら火事の騒ぎの中で父親は失ってしまうのですから、ラストの方における父親は、何者でもない裸状態になってしまっている感じです。そんなこともあって、彼は、自ら進んで老人ホームに入ると言い出したのでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「この映画、ボンヤリとユルい話に見えて、なかなか鋭い佳作だ。ヒロインを自然体で演じる上野樹里、ひょうひょうとした伊藤さん役のリリー・フランキー、すっとぼけているのに哀愁があるお父さん役の藤竜也のアンサンブルがいい味を出している」として70点を付けています。
 秦早穂子氏は、「タナダユキ監督は、20歳離れた娘と相方を中心に、父と娘、彼と父、それぞれの関係性を気張らない演出で斜めに見る。そして家族の新しい方向を探る」と述べています。



(注1)監督は、『ロマンス』のタナダユキ
 脚本は、『海のふた』や『ロマンス』の黒沢久子
 原作は、中澤日奈子著『お父さんと伊藤さん』(講談社文庫)。

 なお、出演者の内、上野樹里は『のだめカンタービレ 最終楽章 後篇』、リリー・フランキーは『SCOOP!』、藤竜也は『龍三と七人の子分たち』、長谷川朝晴は『ヘヴンズ ストーリー』で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、伊藤が彩に「昨日買った柿があるんじゃあ?」と尋ねたら、父親は「柿なんか買って食べるものじゃない」「そこらでとってくればいいでしょ」と言います。
 また、父親は彩に、「どうしてあんな歳の人と付き合うんだ?あと6年で還暦だぞ。子供はどうするんだ?」とか、「中濃ソースは悪魔のソース、文明人ならウースター」などと詰ります。

(注3)彩は、父親がなんとか兄のところに戻ってくれればと思っていますし、伊藤は、一緒に暮らすのであれば拝島あたりのモット広い家に引っ越したらどうかと彩に提案します。また、父親も、老人ホームに入ることを考えます。

(注4)ただし、潔の妻の理々子は、父親との同居で精神的にかなり不安定になっていますが。
 彩が、叔母の小夜子渡辺えり)が連れてきた理々子安藤聖)と公園で会ったところ、外を歩いている父親の姿を偶然にも見かけると、理々子は吐いてしまうほどなのです。

(注5)父親は、長いこと空き家だった田舎(都心からそれほど離れてはいませんが、周囲は山)の実家に篭り、そこで一人暮らしをすると言い出します(実際には、その家は火事で燃えてしまって、父親は彩らの家に戻ってくることになりますが)。
 なお、『淵に立つ』でも、八坂を探しに、利雄と章江や蛍、そして八坂の息子の孝司太賀)が車に乗って、山間に建つ家に行くシーンがあります(実際には、八坂はそこで見つかりませんでしたが)。

(注6)本作のラストは、老人ホームに向かう父親の後を彩が追いかけるシーンですが、伊藤の「僕は逃げないよ」と言う声にも押されて、彩は父親を家に連れ戻すことになるものと思われます(そして、拝島あたりに引っ越すのでしょう)。



(注7)文庫版のP.74では、「(伊藤さんは、)横で寝ているあたしの胸から腹をさすりだした。指さきが、さらにしたをなぞる。「だめだよ。隣にいるんだから」/うでを引っぺがしながら、小さな声で抗議すると、「今日はSデイでしょう」………「静かにするから。ね」/耳もとで囁かれ、仕方なく頷いた。………」と書かれています。

(注8)個別の寝室がいくつもある広い欧米の邸宅と違って狭小な日本の家屋においては、他人が同居することでもたらされる問題の中で大きなものは、この点ではないでしょうか?

(注9)彩と伊藤が布団で隣り合わせで寝て、寝物語をするシーンは描かれてはいますが。

(注10)『SCOOP!』でも、肝心なところで二階堂ふみは勝負していないと思いましたが(同作についての拙エントリの「注9」をご覧ください)、本作でも、肝心な描写が欠けているのでは、と思ってしまいました(タナダユキ監督は、『ふがいない僕は空を見た』では田畑智子に体当たりの演技をさせているにもかかわらず)。

(注11)何しろ、今年の映画出演作は、本作以外に、『SCOOP!』、『秘密 THE TOP SECRET』、『二重生活』、『海よりもまだ深く』、『シェル・コレクター』、『女が眠る時』、そして『聖の青春』(これから公開)といったところなのです!

 ちなみに、本作には出演していませんが、吉田羊も、映画にテレビに本当によく見かけます(女のリリー・フランキーといったところでしょうか)。
 本年だけでも、映画については、『SCOOP!』、『グッドモーニングショー』、『ボクの妻と結婚してください』(これから公開)、『嫌な女』(見ていません)に出演していますし、またTVドラマも3本ほど出演している上に、11月には舞台『エノケソ一代記』もやるというのですから、凄まじい限りです。
 それで、この記事によれば、彼女は過労で体調を崩してしまい、自宅療養中とのこと。さもありなんであり、気をつけてほしいものだと思います。

(注12)このインタビュー記事において、タナダユキ監督は、「私の中では家族の食卓の良い思い出という解釈です。家族の幸せの象徴として、お父さんは「食事は家族みんな揃って食べるものだ」という執着があるんだと。だから彩のスプーンの使い方(スプーンを舐めまわす癖)を叱っているシーンはその伏線でもあり、実は音でも色々表現しています」と述べていますが。



(注13)彩と伊藤は、箱の中身について、母親の写真や日記、あるいは恋文ではないかと推測します。



★★★☆☆☆



象のロケット:お父さんと伊藤さん

コメント   トラックバック (4)

淵に立つ

2016年10月21日 | 邦画(16年)
 『淵に立つ』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)浅野忠信が出演するというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、少女・篠川桃音)がオルガンを弾いています。しばらくすると、オルガンの上に置かれているメトロノームを動かして弾きます。
 母親の章江筒井真理子)が、朝ごはんができたことを告げます。
 オルガンを弾き止まなかった蛍は、催促の声に促されて食卓に着きます。
 メトロノームは動いたままですが、気がついた蛍が戻ってきて止めます。

 食卓では、章江と蛍がクリスチャンとしてのお祈りをしてから食事を始めますが、父親の利雄古舘寛治)はそれに加わらずに食べ始めます。
 章江は蛍に、「発表会、どうすんの?今の曲いいんじゃない?そろそろ決めないと」と言うと、蛍はそれには答えずに、「こないだの虫、覚えてる?あの蜘蛛。ぐじゃぐじゃに絡まってた」、「お母さん蜘蛛を食べてしまうんだって」「私は、お母さんを食べたくない。不味そうだから」などと話します。
 章江は利雄に、「今日は女性会」と言いますが、利雄は「うん」と答えるだけです。



 次は、金属加工工場の作業場の場面。
 章江が「行ってきます」と言うと、利雄は「いってらっしゃい」と言いながらも、溶接の仕事をし続けます。
 と、利雄が作業場の外を見ると、男(八坂浅野忠信)が立っています。
 八坂が「お久しぶりです」と言うと、利雄は深々と頭を下げます。これに対し八坂は、「大袈裟ですね、相変わらず」と応じ、利雄が「痩せたな」と言うと、八坂は「あそこにいたら痩せますよ」と答えます。
 さらに、八坂が「継いだんですね、ここを。あんなに親父さんと喧嘩してたのに」「結婚して娘もいるんだ、いくつですか?」と話すと、利雄は「敬語を使うのやめろよ」と言います。
 次いで、利雄が「いつ出たんだ?」と訊くと、八坂が「先月」と答えるものですから、利雄は「教えてくれたら迎えに行ったのに」と言い、また利雄が「何してんだ?家とかは?」と訊くと、八坂は「県の施設の世話になっている」と答えます。そして、八坂は「ちょっと相談があるんだが」と利雄に迫ります。

 こうして八坂は、利雄の家に入り込むことになりますが、さあ利雄の家族らはどうなるのでしょうか、………?



 本作では、穏やかで平凡そうに見える三人家族のところに、突如、父親の知人と称する男が入り込んで来ることによって起こる物語が描かれます。その男の来歴が尋常ではないために、次第に家族の関係もギクシャクし出し、挙句の果てに事件が起こります。なにかといえば家族の絆を持ち上げるこのところの風潮に冷水を浴びせかけるような内容で、全体として暗いトーンながら、考えさせる味のある作品ではないかと思いました。

(2)この作品も、最近見た様々の邦画で見受けられるコミュニケーション問題を巡るものといえそうです。
 例えば、家族内でのコミュニケーション不足から、『オーバー・フェンス』の場合、白岩オダギリジョー)は「離婚」せざるを得なくなりますし、『だれかの木琴』では、妻(常盤貴子)の「ストーカー」が引き起こされているように思いました(注2)。また、『聲の形』では、学校内におけるコミュニケーション不足が将也硝子に対する「イジメ」につながっているように思われます。
 本作における鈴岡の家(利雄と章江と蛍)でも、家庭内でコミュニケーションが十分に取られているようには思われません(注3)。
 ただ、本作の場合は、他の作品のように、所属する集団(家庭とか学校といった共同体)の内の誰かにその影響が現れるのではなく、外部の異質の人間(八坂)がその集団に入り込むことによって状況が明るみに出されるように描かれています。

 あるいは、『不機嫌な過去』におけるミキコ小泉今日子)と同じような役割を八坂が果たしているといえるでしょう。
 なにしろ、同作では、もう死んだはずと思われていたミキコが、突如、カコ二階堂ふみ)たちの前に現れるばかりか、カコの部屋に同居までします(注4)。本作においても、八坂が、連絡なしに突然利雄の前に現れ、その日の内に利雄の家に同居することになるのです。
 それも、ミキコは爆破事件の犯人として捕らえられたことがあり、本作の刑務所帰りの八坂と類似する点を持っています。
 そして、ミキコが突然カコの前から姿を消してしまうのと同じように(注5)、八坂もフッといなくなってしまいます(注6)。

 ただ、『不機嫌な過去』におけるミキコの場合、カコに会うことによって、不機嫌一辺倒だった生活から抜け出せる手がかりをカコに与えたようにも思われますが、本作における八坂は、蛍に取り返しのつかない傷を残したまま消えてしまいます。
 そして、実際に八坂が蛍に何をしたのかが不明なために(注7)、八坂が消えて8年経っても、利雄はなんとかして八坂を探し出そうと興信所まで使って調べようとします。
 他方、章江は、8年もの間、身動きが取れず意思疎通のできない蛍(8年後は真広佳奈)の面倒を一人で見てきて、利雄との生活にうんざりしてきています。
 ラストでは、8年前、利雄、章江、蛍と八坂で川遊びに行った時に写した写真のように、利雄、章江、蛍と八坂の息子・孝司太賀)が川原の石の上に川の字になって横たわりますが、さて彼らは蘇るのでしょうか(注8)?

 なお、劇場用パンフレットの「Director’s Statement」において、深田監督は、「私が描きたいのは家族の崩壊ではなく、もともとバラバラである家族が、ああ、自分たちはバラバラで孤独だったんだなあ、ということを発見し、それでもなお隣りにいる誰かと生きていかなくてはいけない、生き物の業のようなものです」と述べています(注9)。
 そのこと自体わからないわけではありませんが、逆にこうも言えるのではないでしょうか?「もともと人は家族(共同体)の中でしか生きていくことができず、たとえそれがバラバラに見えるとしても、結局は一人で生きていけないことを見出すのではないか」。
 とはいえ、こう言ってしまうのも極端でしょうし、実際のところは、両者の中間ぐらいのところかもしれません。
 それで、ラストについても、見る人によって、そこに光明を見出す見方もあるでしょうし、逆に暗闇を見てしまうかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「決して後味がいい作品ではない。いや、むしろ見たことを後悔させる恐れさえある。だが、ただ気持ちよくわかりやすいものだけが映画ではない。この衝撃はまぎれもなく観客に「映画とは何か」と問い詰める」として70点をつけています。
 宇田川幸洋氏は、「深田晃司は、人物の主観的感情よりも、ものがたりの構造を重視する、日本映画では稀少なタイプの映画作家で、ここでは初期設定からの演繹がどんどん悲劇を深めていく。その過程は圧倒的でスリリングだ。だが、最後は深くへ行きすぎ感銘に肉感性がともなわないうらみが、すこしある」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 林瑞絵氏は、「自ら作った正しさに縛られ罪を犯した八坂、そんな彼に惹かれる章江、過去の罪を封印して生きる利雄……。人間の曖昧さと両義性を体現する主演3人の“三つ巴演技”の攻防戦に息を呑んだ」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「全体のトーンは静かだが、幾度か驚くような仕掛けがあり、私がカンヌで鑑賞した時、現地の女性はその度に驚きの声を上げていた。私たちが当たり前に頼っている世界がどれほど脆弱なものであるか、劇場で確かめてほしい」と述べています。



(注1)監督・脚本は深田晃司
 本作は、今年のカンヌ映画祭「ある視点部門」で審査員賞を受賞しています。

 なお、出演者の内、最近では、浅野忠信は『グラスホッパー』、筒井真理子は『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』、古舘寛治は『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、利雄の工場の古株の従業員・設楽役の三浦貴大は『怒り』で、それぞれ見ました。

(注2)ここらあたりのことは、この拙エントリの(2)をご覧ください。

(注3)利雄は、章江が何か言っても、つまらなそうに「ああ」などと応ずるだけで新聞を読むのに熱心だったりしますし、章江と蛍の食事前の祈りに参加しようともしません。また蛍は、家ではオルガンの練習を熱心にしていますが、実は先生が怖くてオルガン教室をズル休みしています(そのことを章江に言ってません)。

(注4)カコが暮らす家の内情は複雑で、カコは、実はミキコの娘にもかかわらず、ミキコは死んでしまったとされて、ミキコの妹・サトエ兵藤公美)の娘として育てられてきました。カコの父親・タイチ板尾創路)も、元はミキコの夫で、ミキコがいなくなった後サトエと結婚しているのです。
 この家には、さらにミキコとサトエの母親・サチ梅沢昌代)がおり、さらには親戚筋のレイ黒川芽以)とかその子のカナ山田望叶)が頻繁に出入りし、なかなか賑やかな感じがします。
 ですが、それは外見だけのことであり、肝心の話はこれらの人たちの間ではなされていないように思われます(例えば、カコがミキコの子供であることを、サトエはミキコが現れてからカコに言います)。そういった意味合いで、ここにもコミュニケーションの問題があると言えるのでは、と思います。

(注5)ミキコは、完全に消えてしまうのではなく、ヤスノリ高良健吾)の部屋に転がり込んでいるにすぎないのですが。

(注6)実際にも、浅野忠信が演じる八坂は、後半部分においては、ラストでほんの一瞬現れるだけでマッタク登場しません。

(注7)利雄が八坂を見つけた時は、頭から血を流して地面に倒れている蛍の前で立ち尽くしている姿でした。蛍が自分で倒れてしまったのか、あるいは八坂が手を下したのかは明らかではありません。

(注8)その前に、蛍がこういう体になってしまったのは自分たちのしたことに対する罰なのだと利雄が言っています(章江もその見方に同意します)



 また、孝司に対し章江が「八坂の目の前であなたを殺す」などと言っていることもあり、利雄以外の3人はそのまま息を吹き返さないのかもしれません(利雄は、生き残るにしても地獄でしょう)。
 でも、孝司は蛍を救い上げているくらいなのですから、息を吹き返すかもしれません。それに、章江と一緒に川に飛び込んだ蛍は、水の中で手足を動かしてもいるので(それまでは硬直していました)、息を吹き返したら、あるいは治癒の可能性が出て来るかもしれません。ただ、すでに章江は利雄に離婚の話を切り出していますから、たとえ二人が息を吹き返すとしても、もはや家族が“元の状態”(?!)に戻ることはないかもしれません(章江は、橋から飛び降りる前に、同じ橋の上に八坂の幻影を見ますが、これは八坂を許すということではないでしょうか)。
 いずれにしても、実質的に壊れかけていた鈴岡の家は、ラストの出来事によって、外見的にも完全に壊れてしまったように思えます。
 にもかかわらず、利雄は、3人を蘇生させようと人工呼吸を懸命にし続けるのです。そのことによって、利雄はいったい何を得ることができるのでしょうか?

(注9)公式サイトのインタビュー記事においても、深田監督は、「私にとって、家族とは不条理です。孤独な肉体を抱えた個々の人間が、たまたま出会い、夫婦となり親となり子となって、当たり前のような顔をして共同生活を営んでいる。しかし、一歩引いて見てみるとそれはとても不思議なことです」と述べています。

 なお、深田監督は、「もともとバラバラである家族が、ああ、自分たちはバラバラで孤独だったんだなあ、ということを発見し、それでもなお隣りにいる誰かと生きていかなくてはいけない、生き物の業のようなもの」を描きたいと述べていますが、例えば、『葛城事件』はどうでしょう?
 同作においては、葛城家は既に酷く崩壊していて、サイコパスの次男が引き起こす無差別殺人によって完全に崩壊してしまいます。それで、父親(三浦友和)は自殺しようとするものの、失敗し、次男の妻になろうとした女(田中麗奈)に「家族になってくれないか」と迫りますが、すげなく断られます。
 同作の場合、「家族の崩壊を悲劇として捉え」ているものの、そのことが、深田監督が言う「壊れる以前の家族を一つの理想として志向してしまう」ようには思えません。なにしろ、「壊れる以前の家族」といったものが見当たらないのですから(父親の独りよがりで作られたマイホームのようであり、ある意味で、初めから崩壊しているかもしれません)。

 さらに、深田監督は「巷に流れる。家族の絆を理想化して描くドラマに、私はもううんざりしています」と述べていますが、その場合の“うんざり”する例として、あるいは石井裕也監督の『ぼくたちの家族』が挙げられるかもしれません。
 それはわからなくもありません。でも、同作のように、家族の中に大病を患う者が出た場合には、「自分たちはバラバラで孤独だったんだ」と考える余裕などないのが実情なのではないでしょうか?



★★★☆☆☆


コメント (2)   トラックバック (8)

グッドモーニングショー

2016年10月18日 | 邦画(16年)
 『グッドモーニングショー』を渋谷Humaxシネマで見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思って、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、まず東京の夜景が映り、それから午前3時に目覚ましが鳴って、澄田中井貴一)が目を覚まします。
 明かりをつけて居間に行くと、妻の明美吉田羊)と息子(弥尋)が言い争っています。
 澄田が「まだ起きているのか、どうしんだ?」と訊くと、明美は「この子が、…」と言いかけますが、「自分で言いなさい」と息子に促すと、やむなく息子は「俺、結婚するから」と答えます。明美が「お付き合いしている子に子供ができたんだって」と付け加えると、息子は「そういうこと」と言います。



 驚いた澄田は「まだ学生だろ、結婚というのは、社会人になって、胸を晴れる仕事をして、…」と言うと、息子は「そっちは胸を晴れる仕事をしてるの?朝からケーキを食べたりして」と反撃してきます。

 次の場面で澄田は、マンションの前から午前3時45分にタクシーに乗ります。
 車内の澄田に、サブキャスターの小川長澤まさみ)から電話が入り、澄田が「お早う。今日もよろしく」と応じると、小川は「いつになったら一緒に出勤できるのですか?いつ奥様と別れるのですか?私、忘れることはありません。ちゃんと話をしましょうね、これからのことを。今日の本番で話そうと思います。ちゃんと責任取ってください」と言ってきます(小川は、澄田が乗るタクシーに並走するタクシーに乗って携帯をかけているのですが、澄田は気が付きません)。
 焦った澄田は「何もしてないでしょ」くらいしか返せません。



 テレビ局に着いた澄田は、スタジオのあるフロアに入り、澄田がメインキャスターを務める「グッドモーニングショー」のスタッフらがいるラウンドテーブルの自分の席に座ります。
 皆で、放送するニュースの順番を議論しています。
 澄田は、「芸能ニュースが1番でいいんじゃないか」と意見を言ったりします。

 そこに、「グッドモーニングショー」のプロデューサー・石山(澄田と同期入社:時任三郎)がやってきて、澄田を屋上に呼び出します。
 石山は、「「グッドモーニングショー」は打ち切りだ。キャスターも変える」、「最終回は盛り上げる」と言います。澄田が「上はまだアノことを怒ってるのか?」と尋ねると、石山は「アノ時どうして本当のことを言わなかったんだ?」「報道に戻りたいのか?」と逆に聞き返します。

 こんな雰囲気で朝のTV番組「グッドモーニングショー」が始まろうとしますが、突如、品川で立てこもり事件が発生したとのニュースが飛び込んできて、慌ただしく番組の編成が変えられますが、さあ、澄田キャスターはどうなることでしょう、………?



 本作は、テレビの朝のワイドショーの裏側を、立てこもり犯に呼び出されたキャスターを主人公にしながら、コメディタッチで描いています。ただ、予告編からすると、もっと面白い仕上がりなのかなと思って期待していたところ、喜劇作品としてはイマイチの感じでした。特に、フジテレビが製作に加わり、TVドラマの脚本を多数書いている君塚良一氏が監督なのですから、もっと突っ込んだ話にすることができたのではないでしょうか?

(2)本作を見ると、すぐに、本年7月に見た『マネーモンスター』が思い浮かびました(注2)。
 同作でも、本作と同じように、TV番組司会者のリージョージ・クルーニー)がカイルジャック・オコンネル)に銃を突きつけられて脅され、番組のプロデューサー兼ディレクターのパティジュリア・ロバーツ)などがきりきり舞いさせられる様子が描かれます。

 ただ、本作が基本的に喜劇であるのに対し、同作は、司会者のリーが盛んに軽口を叩くもののコメディではなく、カイルも射殺されてしまいます。
 それに、同作の主人公・リーは、番組「マネーモンスター」の中で水を得た魚のごとく生き生きとしているのに対し、本作の澄田は、息子に言われたせいもあるのでしょうが、自分の居場所はここではないという思いにとらわれているようです(注3)。何度も、澄田が「グッドモーニングショー」を担当する羽目になった現場での失敗のシーンが挿入されたりします(注4)。

 さらに言えば、同作においてカイルが要求していることは一応はっきりしており、社会的な賛同をある程度受けられる内容であるのに対し(注5)、本作における立てこもり犯・西谷濱田岳)の要求事項は判然としません(注6)。
 そうであっても笑いつながってくればいいのですが、本作における澄田と西谷とのやり取りは、澄田が重そうな防爆スーツ(注7)で全身を覆っているせいもあり、なんだかかったるい感じのものになってしまっています。

 本作の前半において、澄田と小川とのやり取りなどなかなか面白く(注8)、この調子で後半まで行けばと思ったのですが、後半は、立てこもり事件の解決に重点が置かれてしまって、それほど面白い会話のシーンが見られず、喜劇作品と銘打つにはイマイチの感がありました。

 とはいえ、本作によって、TVに映るワイドショーの裏側でスタッフらがどのように動いているのかがわかり(注9)、また本作の制作面でいろいろ工夫が凝らされてもいて(注10)、全体としてはまずまずの作品ではないかと思いました。

(3)渡まち子氏は、「楽しく笑ったその後に、テレビや情報とは、私たちにとっていったい何だろうと、ちょっと考えてみたくなる」として65点を点けています。
 前田有一氏は、「非常に見ていて面白い映画で、とくにテレビ業界に興味がある人にはたまらない。だからこそ、もう少し完成度を高められればな、との思いはあるが、こういうことを感じるのは良作の証拠。期待して見に行って欲しいと思う」として80点をつけています。
 毎日新聞の勝田友巳氏は、「テレビの横暴さは視聴者との共犯関係だという類型的批判から一歩踏み出した、テレビの倫理を問いかける仕掛けも新鮮だ。ドタバタ劇が冗長な感もあれど、実は骨太」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『誰も守ってくれない』の君塚良一

 なお、出演者の内、最近では、中井貴一は『柘榴坂の仇討』、長澤まさみは『アイアムアヒーロー』、志田未来は『誰も守ってくれない』(沙織役)、池内博之は『おと・な・り』、報道担当ディレクター役の林遣都は『僕だけがいない街』、吉田羊は『SCOOP!』、松重豊は 『ソロモンの偽証(後篇・裁判)』、濱田岳は『ヒメアノ~ル』、大東駿介は『TOKYO TRIBE』、グルメ担当ディレクター役の木南晴夏は『秘密 THE TOP SECRET』で、それぞれ見ています。

(注2)『マネーモンスター』についての拙エントリの「注2」で触れましたが。

(注3)もともと、澄田は報道部のエースキャスターでしたが、下記「注4」に記したような出来事があって、報道部を出て今の仕事をしているという設定になっています。
 プロデューサーの石山は、何度も「報道部に戻りたいか?」と澄田に尋ねたりします。ただ、澄田は、最初のうちは言葉を濁していましたが、立てこもり事件が解決した後は、「ワイドショーが好きだ、面白い」と答えるのですが。

(注4)台風の被害現場からの中継で、顔に泥を塗ってエヘラエヘラしている澄田が画面に映し出されてしまったのです。これに視聴者からの非難が殺到したこともあり、澄田は報道番組を降りざるを得なかったようです。ですが、これにはわけがあり、それを澄田が公表しなかったことを、新人アナの三木志田未来)が番組の中で暴露してしまいます。



 ただ、そばにいる男の子を巻き込みたくなかったからという理由は、あまり説得的とは言えないように思います。それを公表したからといって、その男の子が酷く不利な立場になるとは思えませんから。それに、この件で澄田は現場恐怖症になったとされていますが、自分の信念に従ってやったことなら、いくら批判されようともトラウマなどにはならないのではないでしょうか?

(注5)カイルは、自分の全財産を失わせたアイビス社の株価暴落の真相を明らかにせよと要求します。司会者のリーも、カイルの言うことに一理あると考え、一緒にアイビス社の社長・キャンビードミニク・ウェスト)の不正を暴こうとします。

(注6)西谷の要求は「キャスターの澄田を呼べ」というもの。澄田がやってくると、西谷は「毎朝、くだらない放送で、上から目線で偉そうなことばかり言って、全国の視聴者に謝れ」と求めます。その背景には、2年前にそのカフェで起きた火災について、当時そのカフェに努めていた西谷がやったこととされ、オーナーに解雇されてしまい、それを西谷は、澄田が担当していた番組で取り上げてほしかったにもかかわらず、そのことを書いた手紙を澄田が受け取ってくれなかった、という事情があるようです(実際には、その手紙は映画の中で開封されませんでしたから、どういう内容なのかわかりませんが)。
 ともあれ、西谷の要求するものは、全体としてごく個人的なものであり、社会的な共感を得られるものでないように思われます。

(注7)この記事によれば、澄田が着用した防爆スーツ(あるいは対爆スーツ)は約50キロの重さがあったとのこと。
 ただ、警察の特殊班は、黒岩松重豊)を始めとして皆単なる防弾チョッキを着用しているに過ぎません。あえて澄田だけに防爆スーツを着せたのは、中継担当の府川大東駿介)がおたく的に作った隠しカメラや隠しマイクをそれに取り付けることを考えたからでしょう(それを澄田に現場に持っていってもらわなければ、映画にならないでしょう)。

(注8)例えば、政治家の贈収賄事件について澄田が話した後、小川が「隠してもバレますね。隠し事なら、実は私も…」と言いかけると、すぐさま澄田が「CMです」と遮るように言ったために番組にCMが流れますが、チーフディレクターの秋吉池内博之)は、「勝手にCM入れるなよ!」と怒ります。

(注9)例えば、カンペというものはあのような位置からあのような形で出されるのか、と初めてわかりました(この記事が参考になると思います)。

(注10)例えば、コミュニケーションを拒絶するという意思表示の道具として、椅子と机を積み上げたバリケードが2度使われています。一度目は、立てこもり犯がカフェに作ったもの、もう一つは澄田の妻・明美が家のドアの後ろに作ったもの。尤も、2番目のものは、澄田の浮気に対して明美がお灸をすえるためのもので、結局は、二人で仲良く片付けることになります。
 そうしてみると、最初のバリケードも、その間からお互いが見えたり会話ができたりするのですから、完全にコミュニケーションを拒絶しているわけでもなさそうです。要するに、コミュニケーションを絶とうとしていながらも、完全には絶ち切れないでつながりを求めているというのが、この机と椅子で作られたバリケードの意味合いではないかと思えます。



★★★☆☆☆



象のロケット:グッドモーニングショー
コメント (2)   トラックバック (18)

SCOOP!

2016年10月14日 | 邦画(16年)
 『SCOOP!』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)大層面白かった『バクマン!』の大根仁監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、神宮球場前に駐車した車の中。時間は午後10時19分。
 張り込み中のカメラマン・都城静福山雅治)は、女を抱いています。
 ことが終わると、静は女に金を渡し、「たまにはホテルでしない?」と訊くと、女は「また連絡してね」と応じて車から出ていきます。
 次いで、狙っているプロ野球選手・須山鈴之助)の車が球場から出てくると、静はその車の後を追いかけます。

 タイトルが流れた後、場面は写真週刊誌『SCOOP!』の編集部。
 新人記者の行川野火二階堂ふみ)が、副編集長の横川定子吉田羊)のところに出向くと、定子から現場に出向くよう命じられます。
 「今からですか?」と野火は嫌な顔をしながらも、タクシーに乗って出かけます。

 他方、静は、ターゲットの選手・須山が入ったバーに入り、席に座って、騒いでいる須山を狙って密かにカメラを構えます。
 その時、野火がバーに現れ、「話を聞いてこいと言われたんですけど」と言いながら選手の近くに歩み寄ります。須山が「取材?」と訝しがると、野火は「コメントとか、好きな食べ物とか」と答えるものですから、彼は「どこのもんじゃ!」と怒り出し、野火は慌てて逃げ出します。

 バーの外に出た静は、ゴミ箱に隠れている野火を見つけ出し、編集部に連れていきます。
 定子を見つけると、静は「どういうつもりだ!こんなドシロートを現場によこして!現場やってるの分かってんだろ」「撮り損ねたんだ、5万よこせ」と大声で怒鳴り散らします。
 これに対し定子は、「あの子をあんたに付けるから。記者を育てなきゃいけない。このままじゃ、ウチはグラビア雑誌になってしまう」と言います。
 すると静は、「あんたのところが潰れても、他に持ち込むだけのこと」「あいつは処女だ」などと言います。
 ですが定子は、「しばらくウチの専属となってあの子と組んでもらいたい。スクープネタ1本につき30万払うから」と応じます。

 こうして、静と野火のコンビが誕生するのですが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作では、ベテランの凄腕カメラマンと新人の女性記者のコンビが、スクープをものしようとして尽力する様子が描かれています。いわゆるパパラッチですが、彼らを演じる福山雅治と二階堂ふみの演技が素晴らしく、それに情報屋を演じるリリー・フランキーの怪演が加わって、なかなか面白い映画に仕上がっています。

(2)本作を見て、少し前にDVDで見た『ナイトクローラー』(2015年)を思い出しました。
 同作では、主人公のルイスジェイク・ギレンホール)が、事故現場をビデオカメラで撮った映像をテレビ局に売る商売をしていて、芸能人などの問題場面をカメラで撮影した画像を雑誌社に売り込む本作の静とはやや異なっています。
 でも、両作の主人公がパパラッチであることは変わりがなく、より高い値段で自分の撮影したものを買い取ってもらおうとし、買い取る側の方もより刺激的なものを求めます。
 さらに、両作の主人公は、必須の移動手段として車を縦横に使いこなし、また相棒を横に従えています。



 ただ、『ナイトクローラー』では、ルイスの助手・リックリズ・アーメッド)は、ルイスに反抗的な態度を取ったために死ぬ羽目になりますが、反対に、本作の野火は静とベッドを共にすることになります。
 『ナイトクローラー』でも、ルイスとテレビ局のディレクター・ニーナレネ・ルッソ)とが性的関係を結ぶとはいえ、どうも愛情関係にあるとは思えませんし、メインの話になってもいません。
 これに対し本作においては、静を巡る定子や野火の男女関係が、かなり中心的に描かれている感じがします。
 加えて、本作で焦点が当てられるのは、静と、情報屋のチャラ源リリー・フランキー)や雑誌社のもう一人の副編集長の馬場滝藤賢一)との友情でしょう(注2)。
 このように、本作と『ナイトクローラー』は、類似する点があるとは言え、かなり異なっているかもしれません。

 そして、本作には、もう一つ特色があるように思いました。
 登場人物が、何かと苛つき、怒っているシーンが多いのです。
 これは、最近『怒り』を見たせいかもしれません。ただ、同作では、タイトルで言うほどの“怒り”を感じることができませんでしたが(注3)、むしろ本作で、皆が何かと苛ついて“怒って”いるのが目につきました。
 例えば、静は、ロバート・キャパに憧れてカメラマンになったにもかかわらず、中年になってもパパラッチをやっていることに苛立っています(注4)。



 野火は、憧れの出版社に就職したにもかかわらず(注5)、写真週刊誌の編集部に回された挙句、静と一緒に車の中で張り込みをしなくてはならず、「マジ最低ですね、この仕事」「私の青春、返してください」などと悪態をついたりします(注6)。



 また、チャラ源も、離婚した妻の妨害で娘に会うことができない状況に怒っています(注7)。

 本作は、登場人物の間の男女関係が生み出すエネルギーに、こうした「怒り」のエネルギーとでもいえるものが絡み合って、全体として大層生きのいい作品に仕上がっているのでは、と思いました(注8)。

 ただ、クマネズミとしては、二階堂ふみの本作における演技は素晴らしいものがあるものの、もう一歩飛躍してほしいな、とも思ったところです(注9)。

(3)渡まち子氏は、「一番印象に残るのはチャラ源を演じるリリー・フランキーの怪演。チャラ源と静の、少しいびつな友情に哀愁が漂っていた」として60点を点けています。
 毎日新聞の鈴木隆氏は、「2人のかみ合わない会話のおかしさ、笑える取材方法、吉田羊やリリー・フランキーら周囲の濃厚なキャラクターでぐいぐい見せて、エンタメ度はラストまで途切れない」と述べています。
 安部偲氏は、「惜しむらくは本作が、前半がチャラめで、後半からクライマックスにかけてかなりシリアスな物語が展開していく構成になっているのだが、そのギャップが思いのほか大きく、ややまとまりに欠けてしまった印象を受けた点」と述べています。



(注1)監督‥脚本は、『バクマン。』の大根仁
 原作映画は、『盗写1/250秒』(1985年:監督・脚本は原田眞人)。

 なお、出演者の内、最近では、福山雅治は『るろうに剣心 伝説の最後編』、二階堂ふみは『ふきげんな過去』、吉田羊は『脳内ポイズンベリー』、滝藤賢一は『64 ロクヨン 後編』、リリー・フランキーは『秘密 THE TOP SECRET』、斎藤工は『団地』、塚本晋也は『シン・ゴジラ』で、それぞれ見ました。

(注2)こうした方面は『ナイトクローラー』では重視されず、むしろ、法律に違反したり、現場の状況を改変したりしてまで刺激的な映像を求めるルイスの姿が描かれています。

(注3)映画「怒り」についての拙エントリの(2)をご覧ください。

(注4)と言っても、文芸誌の編集長の多賀塚本晋也)に、「まだ、スクープやってんのか。作家の肖像画を掲載することになっているが、お前やらないか?」と求められて、持ち前のプライドからか、「やらない」と静は答えるのですが。

(注5)ファッション誌の編集を希望していました。

(注6)尤も、斎藤工の扮する国会議員・小田部新造の不倫写真を撮るべく、隣接のホテルの屋上で大々的に花火を打ち上げたりした際には、「最高ですね、この仕事」と言うようになるのですが。

(注7)定子は、担当している写真週刊誌『SCOOP!』の売上が伸びないのに相当頭にきています。また、もうひとりの副編集長の馬場は、定子に対する対抗意識丸出しで、定子の方針にいつも苛ついています。



(注8)もちろん、スクープ写真を撮る技法を静が野火に伝授するシーンもなかなか面白いのですが(例えば、上記「注6」で触れているシーンとか、凶悪な殺人犯の顔写真を撮るシーンなど)。

(注9)本作において静と野火のベッドシーンは重要なものと思いますが、野火が下着をつけたままなのには引いてしまいました。もちろん様々な考慮が働いているのでしょう。でも、写し方を工夫すればなんとかなると思われますし、『この国の空』ではもっと先をいっているのですから、二階堂ふみにも頑張ってもらいたかったと思います。尤も、本文の(1)でも記しましたように、野火が“処女”なのかどうか静が騒いでいますから、そういうところからあのような表現になったのかもしれませんが。



★★★☆☆☆



象のロケット:SCOOP!

コメント (4)   トラックバック (19)

ハドソン川の奇跡

2016年10月11日 | 洋画(16年)
 『ハドソン川の奇跡』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)クリント・イーストウッドの作品だというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、機長の「離陸する」の声。それから「操縦不能」「ラガーディアに引き返す」「低すぎる」「もう少しだ、頼むぞ」などの声がして、USエアウェイズの飛行機が、両エンジンから煙を吐きながらニューヨークのビル街を低空で飛んで、ビルに激突し火に包まれます。
 そこで本作の主人公のサレンバーガー(57歳:トム・ハンクス)がホテルのベッドで飛び起き、今のが夢であったとわかります。

 次いで、本作のタイトル「Sully」が流れてから、大きな川べりの道をジョギングしているサレンバーガーの姿。ぼやっとした様子で横断歩道を渡ろうとして、車に衝突しそうになります。
 その後、機長はサウナに入りますが、頭を抱えて沈み込んだり、鏡で自分の顔を凝視したりします。

 次の場面では、機長(captain)のサレンバーガーと副操縦士(first officer)のジェフ(49歳:アーロン・エッカート)がNTSB(国家運輸安全委員会)のポーターマイク・オマリー)らによる事情聴取を受けます。
 最初に、ポーターが「ハドソン川の墜落事故の人的要因について調べる」と言うと、サレンバーガーは、「あれは墜落(crash)ではなく、不時着水(foeced water landing)です」と異議を唱えます。
 次いで、ポーターが「なぜラガーディア空港に引き返さなかったのか?」と尋ねると、機長は「高度が足りず、不可能と判断した。40年以上の経験に基づき、視認によって判断した」「乗客を救うには着水する他なかった」と答えます。これに対し、ポーターは「シミュレーションすることによって、引き返せたのかどうかわかる」と応じます。
 また、「睡眠時間は?」の質問には「8時間」、「ドラッグは?」には「否」、「飲酒は?」には「9日前」と機長は答えます。

 戻るタクシーの中で、ジェフは機長に「馬鹿げている。乗客を救ったのがいけないというのか」と怒ります。運転手は、「乗ってくださって光栄です。「ハドソン川の英雄」の記事は最高です」と言います。

 車の中からサレンバーガーは、自宅にいる妻・ローリーローラ・リニー)に電話をします。
 機長が「マスコミが大勢待ち受けている」と言うと、妻が「こっちも」と応じます。



 機長らは、マスコミにもみくちゃにされながらホテルの中にやっとの思いで入りますが、さあこれからどのように物語は展開するのでしょう、………?



 本作は、2009年1月15日に実際に起きた事件(この記事を参照)に基づいて制作されています。ただ、国家運輸安全委員会の調査が入り、英雄的な行為とされたことに疑問が呈されることによって、一方では機長の人間性が描かれることになり、他方で起きたことを客観視できることにもなり、ある意味で単純な出来事に深みが加えられているように思いました。

(2)本作が描くUSエアウェイズ1549便の事故は、わずか3分間ほどの出来事に過ぎません(注2)。救助に要した時間も24分間ほど(注3)。



 それだけをいくら克明に描いても映画にならないと考えたのでしょうか、本作では、事故があってからそれほど時間を置かずにNTSBによる調査や公聴会が行われたように描かれています(注4)。それも、NTSBの人間を、ある程度悪役に仕立てながら(注5)。
 でも、そうすることによって、事故に焦点を当てるだけでは表し得なかった機長の人間性が巧みに描かれることになり、さらには事故の全体像をより幅広い視点から見通せることになったように思われます。



 特に、「PTSD」の症状が事故直後から機長に現れた様子が(注6)、上記(1)に記したように、映画の冒頭で描かれていますし、さらには公聴会における機長の証言が本作の山場になっています(注7)。

 なお、「PTSD」と言えば、本作を制作したクリント・イーストウッド監督の『アメリカン・スナイパー』が直ちに思い起こされるところです〔同作についての拙エントリの(2)をご覧ください〕。
 そして、思い起こすと言えば、本作を見て、クマネズミは『フライト』(2013年)のことが頭をよぎりました。
 同作も飛行機事故に関する作品で、尾翼とエンジンにトラブルが生じて機体の制御ができなくなったものの、機長のウィトカーデンゼル・ワシントン)の長年の経験と勘によって、無事に着陸することができます。
 本作ではサレンバーガー機長が機体をハドソン川に着水させますが、それと同じように、同作のウィトカー機長は、背面飛行した挙句、草原に胴体着陸させることによって、犠牲者を最小限にとどめることができました。

 ただ、違っている点はいくつもあります。
 なにより、本作が事実に基づいているのに対し、同作はフィクションなのです。
 また、同作でも本作と同じようにNTSBの調査が描かれています。ただ、本作の場合、NTSBは機長の判断を的確なものと認めるのに対し(注8)、同作では、NTSBの公聴会において、ウィトカー機長は飛行中に飲酒したことを正直に告白してしまい、刑務所に入ることになってしまうのです。
 そのため、同作は、ウィトカー機長の類まれなる操縦技術(なにしろ「背面飛行」を敢行するのですから!)によって沢山の命が救われたことよりも、むしろ、アルコール依存症の恐ろしさとか、“正直であることの大切さ”の方を訴えている作品と見られてもしまいます。
 その点からすれば、本作は、起きたことを劇的にではなくあくまでも客観的に淡々と描いており、マスコミで“奇跡”と賞賛され機長が英雄視された事件を描くやり方としては、極めて適切ではないかと思いました(注9)。

(3)渡まち子氏は、「いくらでも冗長にできる物語を、約90分にキリリとまとめてみせた編集が潔く、緊張感を持続させてくれる。いい意味での古風な人間讃歌を作るイーストウッド監督らしさが出た良作だ」として75点をつけています。
 中条省平氏は、「われわれは自分の仕事をしただけだ」という機長の言葉に、イーストウッドが描きつづけてきたプロフェッショナルの心意気が美しく結晶している」として★5つ(「今年有数の傑作」)を付けています。
 北小路隆志氏は、「本作での大惨事の映像は、今日の映画のシミュレーション化への批判的言及かもしれない。なるほどそれは便利な技術だが、「初めての出来事」にそれでも適宜対応しようとする人間のとっさのアクションを捉えられない」などと述べています。


(注1)監督は、『アメリカン・スナイパー』のクリント・イーストウッド
 脚本は、トッド・コマーニキ
 原作は、サレンバーガー機長とジェフリー・ザスローが書いた『Sully: My Search for What Really Matters』(あるいは、『Highest Duty: My Search for What Really Matters』)。

 なお、出演者の内、最近では、トム・ハンクスは『ブリッジ・オブ・スパイ』、アーロン・エッカートは『ラビット・ホール』、ローラ・リニーは『最終目的地』で、それぞれ見ました。

(注2)劇場用パンフレット掲載の杉江弘氏のエッセイ「ハドソン川の奇跡は、なぜ起きたか」によれば、エアバス機は「離陸直後の(午後)3時27分11秒、カナダガンの群れに突入し」、「3時30分42秒ハドソン川に着水した」とのこと(かかったのは3分強です)。
 なお、同機がラガーディア空港を離陸したのは、午後3時25分56秒ですから、それからしても着水まで5分弱しかかかっていません。

(注3)劇場用パンフレット掲載の芝山幹郎氏のエッセイ「プロが描いたプロ」によります。

(注4)劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」では、「劇中では、不時着水直後のサリーは国家運輸安全委員会(NTSB)の調査にほとんどの時間を費やすことになる」と述べられています。

 なお、そこでは追加的に、「NTSBの聴聞が始まったのは18カ月後」とのことと書かれています。
 ですが、NTSBの結論が出されたのは2010年5月4日(NTSBの報告書の日付)ですから、「NTSBの聴聞が始まったのは18カ月後」ではなく、「NTSBの報告がなされたのは15カ月後」ではないかと思われます(なお、同報告書のP.131に記載されている「Public Hearing」は2009年の6月9日~11日に行われています)。
 また、この記事に「関連記事」として記載されている朝日新聞記事によれば、NTSBは、事故の翌日から調査を開始している模様です。

(注5)本作からは、NTSBのポーターらが、まるで機長らが飛行機をラガーディア空港か、あるいはテターボロ空港に着陸させることができたのではないか、という疑いを持って、機長らと相対しているかのように思えてしまいます。

(注6)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中で、「すぐにパイロットの仕事に復帰したのですか?」との質問に対し、サレンバーガー機長は「PTSDの症状がやわらぐのを待たなければならなかった。通常通りに睡眠をとれるようになって、血圧や脈拍が通常値になるまで3ヵ月ほどかかった」と述べています)。
 なお、ここらあたりは、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」において、「サレンバーガーと作家のジェフリー・ザスローが著した原作には盛り込まれなかった部分に映画は焦点を当てている」に対応していると思われます。

(注7)機長は、NTSB側が行ったシミュレーションでは、両エンジンの不具合が判明してから空港に引き返すか着水するかを決断するまでに要した時間(30秒あまり)がマッタク考慮されていないと反論します。30の時間を組み込んでシミュレーションすると、ラガーディア空港とテターボロ空港のいずれに向かっても、途中でビルに激突してしまいます。

(注8)なお、上記「注4」で触れたNTSBの報告書の結論部分においては、例えば、「15. The captain’s decision to ditch on the Hudson River rather than attempting to land at an airport provided the highest probability that the accident would be survivable」などと書かれています。

(注9)最後につまらないことですが、サレンバーガーが、救命ボートからフェリーに乗り移った時に最初に行ったのは、携帯電話で妻・ローリーと連絡を取ることでした(彼が「大丈夫だ、かすり傷一つない」と妻に言うと、家にいた妻は初めのうち何のことかわからず「?」の状態になると、彼は「TVを点けろ。ハドソン川に降りたんだ」と言います。慌ててTVを点けた妻は、画面を見て「まさか…」と絶句します)。
 このシーンは、機長が、以降の厳しい局面を乗り越えていくために家族(特に妻)の支えがなくてはならないものだったことを描くためにも、必要なのでしょう。
 ただ、日本の雰囲気だったら、最初に会社に連絡を入れるのではないかな、家族とプライベートな連絡を取るのは一段落してからになるのではないかな、とほんの少しながら違和感を覚えました。
 なお、この記事によれば、ラガーディア空港から飛び立つ前に、機長は、会社の方に、携帯電話で登場した乗客数を連絡しているようです(映画の中で、「機長には乗客名簿は渡されない」といった会話があったように思いますが、よくわかりません)。



★★★★☆☆



象のロケット:ハドソン川の奇跡
コメント (8)   トラックバック (56)

聲の形

2016年10月07日 | 邦画(16年)
 『聲の形』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『君の名は。』に次いで評判だと聞いて、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、高校生の石田将也は、「お金返します」と描いた紙を添えて、お金を包んだ袋を母親の枕元に置き(注2)、家を出て川に掛かる橋の欄干の上に立って飛び込もうとしますが、…。

 場面は変わって、将也が小学校6年生だった時のクラス。
 担任の竹内先生が転校生をクラスに紹介します。



 仲間が「やったじゃん、石田。女子だ」と将也に言うと、彼は「興味ねーし」と応じます。
 先生が「自己紹介して」と促すと、転校生はランドセルを開けて筆談用ノートを取り出し、「西宮硝子です。このノートを通して仲良くなりたいと思います。話すときはこのノートでお願いします。耳が聞こえません」と書いて、皆に見せます。
 将也は「やべー」と呟きます。



 女の子たちが「なんて呼ばれるの?」と硝子に尋ねると、彼女が「しょーちゃん」と答えたので、皆が「石田と同じだ」と言います。

 音楽の時間。
 硝子がオカシナ音程で歌うので、「今年の合唱コンクール、やばくない?」と囁く子が出てきます。
 ある日、硝子たちがクラスに入ると、黒板に「おめでとう、西宮さんのおかげで、合唱コン入賞逃したよ」などと大きく書かれています。そこへ、これを書いた張本人の将也が入ってきて、「誰がこんなことをしたんだ。俺が代わりに消してあげる」と言って、黒板の文字を消すと、硝子は「ありがとう」と黒板に書きます。

 またある時、硝子の補聴器を見た女の子が、「これって、ホントは聞こえるってこと?」などと言っていると、将也がやってきて、その補聴器を取り上げて窓の外に放り投げてしまいます。
 そんな将也に対して、硝子がノートに「ごめんなさい」と書いて見せるものですから、将也は「嘘つけ。文句あるなら言えよ」と言って、そのノートを放り投げて池に落としてしまいます。
 硝子は、池に入ってそのノートを探します。

 ただ、補聴器の件が契機となって、将也を取り巻く環境が微妙に変化していきます。
 さあ、この後、物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、聴覚障害者の少女と、彼女を小学校の時にいじめていた少年とを巡る物語。その後逆に孤立してしまう少年が、高校生になってその少女と再会して、という具合に話は進みます。自分の方からも心を閉ざしていた少年は、少女や元のクラスメイトたちと何度もあって話す内に、心が開かれていきますが、その様子が繊細なタッチの綺麗なアニメーションで描かれていて、なかなかの作品に仕上がっていると思いました。

(2)本作では、他人に対して心を閉ざしコミュニケーションをとろうとしなくなるヒーロー(将也)と、先天性の聴覚障害のために他人と上手くコミュニケーションができないヒロイン(硝子)とが、「イジメ」を契機にして絡み合い、その過程で他の人達をも巻き込みながら、なんとか心を開いてコミュニケーションしていこうとする物語ではないかと思いました。
 最近見た『だれかの木琴』では、家族内でのコミュニケーション不足が引き起こす事態(「ストーカー」)を描いているように思いましたが、学校内でのそれを描くと、あるいは本作のような事態(「イジメ」)につながってくるのかもしれません。

 本作では、補聴器の件を契機に、将也が、硝子に対するイジメの張本人だと決めつけられて、皆から胡散臭い目で見られ(注3)、逆に酷いイジメに遭うことになります。
 それで、周囲に対して心を閉ざしてしまった将也の状況が、随分と巧みに描かれています(注4)。

 それに、その後の将也の心が周囲に対して開くまでに至る物語が、決して単線的に描かれるのではなく、紆余曲折を経て複線的なものになっている点も、本作が見ごたえのある作品になっている理由ではないかと思います(注5)。

 さらに、映し出される画像がとても絵が綺麗なことにも驚きました。



 特に、岐阜県大垣市でロケハンしたとされる水門橋の桜とか鯉の様子が、素晴らしかったと思います。

 ただ、オジサン的な視点からすると、大人の出番が大層少ないのが気になりました。
 もちろん、竹内先生とか、将也や硝子の母親、それに硝子の祖母が登場します。でも、せいぜいそれくらいであり、その上、彼らはあまり大した働きをしない感じがします(注6)。
 特に、将也の家も硝子の家もシングルマザーであって、父親が不在なのです。
 結局、本作に登場する男性の大人は竹内先生くらい。
 まあ、仮に、将也や硝子の家に父親がいても、丁度仕事で忙しい年齢かも知れず、子どものことで時間を割くことはできないのかもしれません。
 それでも、随分偏っている感じがしてしまいました。

 それと関係するかもしれませんが、硝子や女の子のクラスメイトは随分と本作に登場するものの、将也の男の子のクラスメイトがあまり登場しないような感じを受けました。
 もちろん、真柴とか永束などがいますが、彼らは高校のクラスメイトであり、硝子のように(植野佐原川井など)、小学校時代のクラスメイト(島田広瀬など)が高校時代の将也の周りに集まってこないようです(注7)。

 あと気になったのは、将也と硝子が自殺しようとする場面が描かれていることです。
 実際にも、イジメが原因で自殺する若い人がまだまだ跡を絶ちませんし、状況の深刻さを描き出すためにも必要な場面なのかもしれません。
 それに、将也の場合は自殺を思いとどまりますし、硝子の場合は将也が硝子の手をとって助けます(注8)。ですから、あまり重要視すべき事柄ではないのかもしれません。
 ですが、クマネズミには、いずれの場面においても、どうして将也や硝子が自殺しようとするのか、うまく理解できませんでした(注9)。

 さらに言えば、高校では聾学校に通っているのですから、硝子がなぜ小学校の時に普通教育を受けたのかも気になったところです。
 もちろん、硝子が、健常者と同じように教育を受けたいと考えていたのでしょうし、母親・八重子もそう考えたのでしょう。また、健常者側で、聴覚障害者を差別すべきでないことも当然でしょう(注10)。
 ただ、硝子が、聾教育を専門に行っている学校に最初から行けば、本作で描かれているようなイジメは受けなくて済むでしょうし、また様々のメリットがあったようにも思えるのですが(注11)。

(3)渡まち子氏は、「わかりやすいハッピーなラブストーリーを期待すると大きく裏切られるが、アニメーションにして、これほどリアルに青春の陰影を描く作品にはめったにお目にかかれない。この物語の登場人物たちが、自分と他者を受け入れようともがく姿に、生きる決意が屹然と立ち上ってくる」として85点をつけています。
 毎日新聞の勝田友巳氏は、「高校生を取り巻く現実と本音を、赤裸々に描写する。情感が重なり合い、複雑な色合いを帯びる。終盤には大きな悲劇も待ち構えているけれど、最後はどうにか前を向く。きれい事ばかりの実写映画よりよほど現実を向いている」などと述べています。



(注1)監督は山田尚子、脚本は吉田玲子
 原作は、大今良時著『聲の形』(講談社)。

(注2)硝子の補聴器を壊したことに対する賠償金として、将也の母親・美也子は硝子の母親・八重子に170万円を支払いましたが、将也は、バイトの給与などをかき集めて、母親に返済しようとします。

(注3)担任の竹内先生によってイジメの張本人と名指しされた将也は、クラスの他のものも同じように硝子をイジメていたと反論するのですが、それが逆に仇となって、将也は孤立することになってしまいます。

(注4)彼が嫌う人の顔に☓印が付けられます。彼のクラスについては、そのほとんど全員の生徒の顔に☓印が付けられます。



(注5)硝子の妹の結弦とか高校のクラスメイトの永束といったキャラクターが登場して、将也をサポートしますが、何と言っても彼を支えてくれたのは硝子。ただ、硝子が、小学校で自分を支えたおかげでイジメに遭って他校に転校した佐原に会いたいと言ったことから、川井とか植野まで集まるようになって、事態がまっすぐに進まないようになります。

(注6)硝子の母親・八重子は、将也の頬にビンタを食らわせますが。

(注7)植野が将也を、たこ焼き屋の店員になっている島田に引き合わせますが、後に続きません。

(注8)逆に、硝子を助けた将也の方が、下に落下してしまい、意識不明の状態に陥ってしまいます。

(注9)この記事の「みどころ③:なぜ硝子は唐突に自殺しようとしたのか」には、原作者の『聲の形公式ファンブック』からの引用が掲載されており、最後に、「つまり、ずっと自分の心の中では自己嫌悪・罪悪感から「死」を意識しており、とびおりたのは唐突な判断ではなく、以前から考え続けていた結果の行動でした」と記事の筆者は述べています。でも、映画の画面に見られる硝子の様子からは、「以前から考え続けていた」とはとても思えません。

(注10)なお、原作では、「きこえの教室」という特別支援教育を担当している喜多先生という人物が登場します(クマネズミは、原作漫画の第1巻だけ読んでみましたが、その85ページに登場します)。こういうサポートする先生がいれば、普通学級でもかなりの程度ついていけるのかもしれません。

(注11)手話による授業が受けられたでしょうし、また口話法などの訓練も受けられたのではないでしょうか(本作では、高校生の硝子が「好き」と言ったつもりながら、将也が「月」と受け止めてしまったエピソードが描かれています。「口話法」に習熟しても、「好き」と「月」とを区別して発音することは、なかなか難しいのかもしれません)?
 なお、本作では硝子の補聴器が描かれていますが、どの程度効果があるのでしょう?
 また、「人工内耳」については、硝子や母親の八重子はどう考えているのでしょう?
(ここらあたりは、この記事が参考になるかもしれません)



★★★☆☆☆

コメント (2)   トラックバック (19)

コロニア

2016年10月04日 | 洋画(16年)
 『コロニア』をヒューマントラストシネマで見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「事実に基づく物語」との字幕が表示されます(注2)。
 次いで、1973年当時のニュース映画の映像が流れ、アジェンデ政権下のチリ・サンチャゴで大規模なデモが行われている様子が映し出され、「一方でソ連が政権を支持し、他方でアメリカはアジェンデを非難、内戦状態にありますが、世界中が見守っています」といった解説が入ります。

 場面は変わって、旅客機がサンチャゴの飛行場に高度を下げて降りていきます。
 ドイツ人キャビンアテンダントのレナエマ・ワトソン)が、「ベルトを締めてください。当機は間もなく着陸いたします」と機内放送をします。
 その間に、男(ダニエル:ダニエル・ブリュール)が群衆にビラを配っているシーンが挿入されます。



 旅客機を降りた乗務員たちの乗り込んだ車がサンチャゴの市内を走りますが、デモ隊にぶつかって急停車します。車の中のレナが、外にダニエルを見つけて、乗務員の仲間に「私はここで降ります。4日後にまた会いましょう」と言って、ダニエルのところに向かっていきます。
 ビラを配っているダニエルもレナを認め、2人は抱き合います。
 ダニエルが「来るとは思わなかった」と驚くと、レナは「驚かせたくて」と答え、ダニエルは「向こう見ずだな」と付け加えます。

 2人はダニエルの家に。
 レナが「隠さなくてはいけないものはないの?」と尋ねると、ダニエルは「隠し女とか」と応じ、それに対しレナは「もしいたらタマを切り落とすわよ」と脅かします。
 そして、レナは「家宅捜索は終わり。次は身体検査」と言い、2人はベッドへ。

 ダニエルとレナは、大統領派の集会に参加します。
 求められて、ダニエルは演壇に上がって、「4ヶ月前にチリに来た。チリは僕の母国になった。戦おう」と挨拶します。そこには、彼が制作した「チリに自由を」のポスターが飾られています。

 突然、チリ軍部によるクーデターが起こり、街に出てその様子をカメラに収めようとしていた2人は兵隊に捕まってしまいます。さあ、その後どうなるのでしょうか、………?

 本作は、1973年に、社会主義のアジェンデ政権を倒した軍事クーデターに巻き込まれて、秘密警察によってナチスの強制収容所を模した施設「コロニア・ディグニダ」に拉致されてしまった恋人を救出すべく、自ら進んでその施設に入り込んだ女性の物語。事実に基づいて制作されている作品ながら、なまじのサスペンス物に優る手に汗握る脱出劇が描かれているので驚きます。

(以下は、本作がサスペンス物であるにもかかわらず、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作については、チリ・クーデターといった歴史的背景はあまり重視せずに、それは単なる枠組みとみなして、むしろ描かれているのは、警戒厳重で社会から隔絶した秘密アジトを、互いに恋する二人が脱出するフィクションのドラマと捉えた方がいいように思います。
 確かに、ダニエルとレナは、外国人にもかかわらず、街頭で、クーデターを起こした軍部に属する兵士によって捕まります(注3)。



 でも、クーデターそのものが描かれるのはその時だけで、レナは釈放されますし、ダニエルも、いきなり赤十字マークの付いた車に乗せられてコロニア・ディグニダに連行されてしまうのです(注4)。
 さらに、コロニア・ディグニダと政権との関係が示されるのも、ピノチェト大統領がその施設を側近とともに訪れる時くらいに過ぎません(注5)。
 本作において中心的に描かれるのは、皆から「教皇」と呼ばれているシェーファーミカエル・ニクヴィスト)の独裁的なやり方と(注6)、ダニエルとルナの逃亡劇と言っていいでしょう。

 ただ、ダニエルとルナの逃亡阻止について「教皇」側がとる方法は、ハード面に頼りすぎていて(注7)、ソフト面が疎かになっているような感じがしてしまいます。
 なによりも、ダニエルを救出するためにコロニア・ディグニダに行ったレナは、いともあっさりとその中に入り込むことができてしまうのです(注8)。
 最初にシェーファーによる面接がありますが、レナは、最近ここに連行されてきたばかりのダニエルと同じ外国人(二人ともドイツ人の設定)なのですから、入所を希望する理由をいくら説明しても(注9)、「教皇」の方では、最大限に警戒するはずであり、その嘘を見抜くのも簡単ではないかと思われます(注10)。
 ところが、最後にレナが「あなたに会うためにここに来たのです。私にはあなたが必要なんです」と言うのを聞くと、「教皇」はレナの入所を許可してしまいます(注11)。



 また、コロニア・ディグニダで暮らすようになっても、レナは、「教皇」の配下のギゼラリチェンダ・ケアリー)の命じることに、表立って反抗しないものの、心から従うような素振りを見せません。そうであれば、常識的には、「教皇」側は“要注意人物”としてレナを監視下に置くはずのところでしょう(決して単独行動はさせないなどの)。



 ですが、そのような警戒は何もしていないように思われます。それで、夜間、レナが貯蔵室で一人で芋の皮むき作業をしている時に、連絡のついたダニエルと何度も話すことができたのだと思われます(注12)。

 モット言えば、ダニエルとレナが二人だけで会うことができた貯蔵室に、外に通じる地下通路の入口の一つが設けられていたというのは、かなりご都合主義的な感じがします(注13)。

 しかしながら、本作については、様々の問題点を指摘できるものの、コロニア・ディグニダを逃れて国外脱出するまでのダニエルとレナの逃亡劇は、見る者をハラハラさせ(注14)、全体としてはまずまずのサスペンス作品に仕上がっているのではと思いました(注15)。



(注1)監督‥脚本は、フローリアン・ガレンベルガー(見終わってから、日本では限定的にしか公開されていない『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』の監督であることを知りました)。

 なお、この記事によれば、「(2016年7月)1日、イギリスの5館で公開され、うち3館における週末興行収入がわずか47ポンド(約6,345円・1ポンド135円計算)」だったとのこと。

 また、出演者の内、最近では、エマ・ワトソンは『ノア 約束の舟』、ダニエル・ブリュールは『黄金のアデーレ 名画の帰還』、ミカエル・ニクヴィストは『ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル』で、それぞれ見ています。

(注2)実際にチリにあったコロニア・ディグニダについては、Wikipedia のこの記事をご覧ください。

(注3)二人は、兵士らによって、他の捕らえられた人々と一緒に、大きな競技場に連れて行かれますが、雰囲気は、『黄色い星の子供たち』で描かれた「ヴェル・ディヴ(冬季競輪場)」に集められたユダヤ人たちと類似しているように感じました。

(注4)アジェンデ大統領派の内情に詳しい者(軍側のスパイでしょう)によって、ダニエルは、ポスターを描いた男だと指摘されたことによります(ただ、スパイによって、大統領者の運転手などと指摘された者は、その車には乗せられません)。
 コロニア・ディグニダに連行されたダニエルは、地下室で、顔面が変形してしまうほど酷い拷問を受けます。どうやら、コロニア・ディグニダは、秘密警察の拷問部屋となっていたようです(ただ、どうしてこれほど離れたところにそんなものを設ける必要があるのか、よくわかりませんが)。

(注5)映画によれば、簡単な歓迎行事が行われるくらいです。
 ただ、ピノチェト大統領に同行した軍の高官から、シェーファーに、兵器とか毒ガス(サリン)とかについて要望が出されますが。
 なお、映画で描かれているコロニア・ディグニダの規模からすると、そこで、こうした兵器などが製造・保管されているようにはとても思えません。
とはいえ、上記「注2」で触れた記事によれば、「2005年6月から7月にかけて、チリ警察はコロニー内部あるいは付近に兵器の隠し場所2か所を発見した」とのこと。
あるいは、映画に描かれていない工場があって、そこで作られていたのでしょうか(もしかしたら、女は農作業に従事し、男は兵器製造にあたっていたのかもしれません)?

(注6)カルト教団の教祖といった風情です。

(注7)ナチスが各地に設けた強制収容所と同じように、コロニア・ディグニダは、電流が通る鉄柵によって囲まれており、中には監視塔が立ち並び、さらには獰猛な犬が何匹も飼育されています。
 確かに、一度、ダニエルは正攻法によってコロニア・ディグニダから逃亡しようとしますが、鉄柵の電流に触れて気絶してしまい、その試みは失敗してしいます。

(注8)コロニア・ディグニダは厳重に管理され秘密扱いされているにもかかわらず、外国人のレナにも、ダニエルがそこに連行されたことが簡単にわかってしまい、ダニエルが捕まってから4日目にはその施設に向かうことができるのです(コロニア・ディグニダに向かう途中、レナは、バスの中から、飛行機の乗務員に「今日のフライトは乗れなくなった」との連絡を入れます)。

(注9)レナは、「これまでは神を探して暮らしてきました」とか、「あなたは信徒を天国に導くお方です」などと言います。

(注10)「教皇」は、「君はまだ若い、恋人がいるはずだ」、「お前は売春婦だ。地獄の獣の臭がする」などとレナを追求するのですが。

(注11)「教皇」は、寝る前、夜間の勝手な行動を封じ込めるために(あるいは性欲を減退させるためでしょうか)入所者全員に薬を飲ませます。「教皇」は、たとえレナが要注意人物であるにしても、それによってコントロールし得ると考えたのかもしれません。

(注12)ダニエルが、どうしてその時間に貯蔵室に一人で出向くことができたのか、よくわかりませんが(ダニエルは、一度逃亡を試みたのですから、監視下に置かれているはずなのですが。あるいは、ダニエルは、酷い拷問によって精神に障害をきたした者と「教皇」側にみなされているため、逃亡しても重大視されなかったのかもしれません)。

(注13)さらに言えば、レナとダニエルが逃亡したとわかった段階で、「教皇」側は、なぜ地下通路の外部脱出口に捜索隊を振り向けなかったのでしょうか?

(注14)特に、やっとの思いで二人が駆け込んだ在チリのドイツ大使館も、決して安全なところではないということが分かるのですから。

(注15)本作のラストでは、サンチャゴ空港を飛び立つ飛行機が映し出されますが、管制官の指示を振り切っての離陸ですから、チリ空軍によってすぐにも強制着陸させられるのではないか、などの疑問も湧いてきます。あれやこれやを考え合わせると、本作は、コロニア・ディグニダとかドイツ大使館の問題の所在を世間にわかりやすくアピールするために、恋人らの逃亡劇というフィクションを物語の中心に置いたのではないか、と思えてきます。



★★★☆☆☆


コメント (4)   トラックバック (8)