映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

トイレット

2010年09月29日 | 邦画(10年)
 荻上直子監督の前2作はお気に入りなので、3作目もと思って『トイレット』を見に銀座テアトルシネマに行ってきました。

(1)物語は、アメリカのある町の墓地における母親の葬儀の場面から始まります。日本人の母親が突然亡くなって、3人の兄妹が取り残されますが、もう一人、少し前に日本から引き取られた祖母(「ばーちゃん」)も同じ家に住むことになります。
 この祖母(もたいまさこ)は、英語ができないこともあって、家の中で何一つ話をせずに、いつもジーッと自分の部屋の椅子に座っているだけです。
 また、3人の兄妹のうち、長男のモーリーは、ピアノが得意にもかかわらず、パニック障害のため演奏会には出場できず、家に引きこもったままです。
 それに、次男のレイは、研究所に勤務する研究員。暮らしていたアパートが火事になって、この家に戻ってきました。ただし、人と余り話をせず、一人でガンダムなどのプラモデルをいじくるのが趣味なのです。
 最後は長女のリサ。やや男勝りで元気がよい大学生、ただ口が酷く悪いのです(彼女も、人とうまくコミュニケーションが取れないところがあります)。
 こうした人たちが、一つ屋根の下で一緒に暮らすわけです。3人の兄妹は、以前と同じような生活を継続しようとします。しかしながら、それぞれ問題を抱えていて、お互いにうまく馴染めません。
 なにより問題なのが祖母の存在です。
 例えば、朝忙しい時に長い時間トイレを使い、挙句に出てくると深いため息をつくのですから、神経質なレイは参ってしまいます。
 ですが、モーリーが引っ張り出してきたミシンを、祖母がうまく直したところあたりから、事態はいい方向に動き出し、最後は3兄妹でこの祖母の葬儀まで行って物語は終わります。

 葬儀の模様が冒頭と末尾に描かれますが、それも含めて、全体として派手派手しいことが何一つ起こらず、静けさが隅々まで行きわたっている映画です。
 コンクールに出場したもののパニック障害に襲われてピアノが弾けなくなりかかったモーリーに対して、会場にいた祖母が、親指を立てながら一言「クール」と叫ぶ場面が象徴的でした。
 ただ、その言葉を聞いたモーリーが、落ち着きを取り戻して弾いたリストの曲は、残念ながら次第に高揚する騒々しいものでしたが(注1)!

 そうした静かなうちにも、一番コミュニケーションを取るのが難しいと思われた祖母を起点にして、4人のつながりが次第に形成されていく展開が見事だと思いました。
 特に、派手な会話はないのですが、4人でギョーザを作って、庭で一緒に食べるシーンは出色です。こうして家の中でうまくコミュニケーションが取れてくると、外部との交流も回転し出します。
 モーリーは、コンクールに出場すると言い出しますし、レイも職場の同僚のインド人との関係がうまくいくようになります(注2)。リサは、エアギターをもっとやりたいとのこと。
 3人をつなぎとめていた祖母が亡くなっても、3人はなんとかうまくやっていくことでしょう。

 激しい音響とともに派手に展開する映画が多い中で、やはりこうした静かな作品には深い味わいがあって、却って楽しめるものだなとつくづく思いました。


(注1)こうした技巧的で見栄えのする曲を力強く弾けば、ピアノの腕前の凄さが素人にも理解できるのでしょうが、むしろもっと地味な曲を至極静かに弾いて感銘を与える方が、音楽的とも言えるのではないでしょうか?
 なお、このサイトの情報によれば、リストのこの曲は、漫画版『のだめカンタービレ』第15巻(Lesson86)にも登場するとのこと!やっぱり。
(注2)同僚は、レイに、日本のウォシュレットのことを教えてくれます。レイは、大昔、日本のトランジスターラジオを知った西欧人のような感じを持ったのではないでしょうか。

(2)この映画は全体的に、荻上監督の前2作と類似する雰囲気を持っています。 さらに具体的なところでは、たとえば、この映画におけるエアギターへの拘り(エンドクレジットでは、3兄妹がそれぞれエアギターを演奏する様子が映し出されます)は、世界選手権が開催されるフィンランド(注)を舞台にした『かもめ食堂』からのものでしょう。
 ただ、作品全体の感じからは、なんだか『プール』の雰囲気を濃密に引き継いでいるのではと思えてしまいます。といっても、『プール』は大森美香監督の作品であって荻上直子氏が制作したものではありません。それでも、大森氏は、萩上氏の前2作のプロデュサーを務めているのです!
 ですから、タイ・チェンマイにあるゲストハウスのオーナーのもたいまさこは、癌で余命半年といわれ(実際には、宣告されてから3年も経過しているとされていますが)、プールのそばにあるデッキチェアなどに横たわって小林聡美や加瀬亮らが働く様子を見守っているだけですが、これは、『トイレット』で、もたいまさこが一言も話さないでじっと椅子に座って、窓から外の様子をうかがっている姿を彷彿とさせます(あるいは、その様子は、『めがね』の「たそがれ」ている感じと共通しているのかもしれませんが)。

(注)『かもめ食堂』がきっかけで、エアギター世界選手権大会がフィンランドで開催されていることや、金剛地武志(2004、5年に連続4位)とかダイノジ大地(2006、7年と2連覇)の名前を知りました。

(3)映画評論家は総じてこの作品に好意的と思われます。
 渡まち子氏は、「異国の地で暮らす異邦人のばーちゃんは、劇中でたった1回しか言葉を発しない。そのひと言こそ、3兄妹とばーちゃんが血のつながりを超えた本当の家族としてスタートする高らかなファンファーレだ。ただそこにいるだけの猫に心が和むように、ときおり無言で微笑むばーちゃんの存在に癒されるように、この作品の無愛想な空気が心地よい」として70点を、
 町田敦夫氏も、「書きたい物語を書いたら、たまたま登場人物が外国人でしたという感覚か。もたいまさこが出ていなければ、日本人の監督・脚本で作られたことさえつい忘れてしまいそうだ。そのもたいは本作でも存在感抜群」であり、「それぞれに変人だが、善良でもある3人の兄妹の人物造形も好感度大。そんな4人を自在に動かし、荻上は血のつながりの温かさを、さらには血縁を超越した家族の情を描いてみせた」として70点を、
 福本次郎氏は、「映画は、家族という社会の最小単位ですらお互いが努力しなければそのつながりが維持できない現実を描くとともに、かけがえのない絆が血縁を超えた結びつきを生む幸福も教えてくれる」として60点を
 前田有一氏だけは、「とっぴなキャラクターの「秘密」が次々と提示されるものの、だから何?、の世界。しかるべき伏線もなければ魅力的な人間描写のエピソードも少ない。私の場合は、ついぞ彼らの誰一人に対しても共感を抱けなかった。それだけで判断するのもなんだが、これは相当見る人を選ぶだろう」と頗る批判的ながら55点を
それぞれ与えています。


★★★★☆





象のロケット:トイレット
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BECK

2010年09月26日 | 邦画(10年)
 このところよく見かける青春音楽映画の一つにすぎないのではと思いましたが、予告編で見て面白そうでもあったため、『BECK』を近くの吉祥寺で見てきました。

(1)この映画のストーリーは、マイナーな存在ながらテクニックは抜群のロックバンド“BECK”が、紆余曲折を経ながらもビッグなライブを成功させるというものです。
 それではあまりにも味気ないので、もう少し述べてみましょう。
 毎日平凡すぎる高校生活を送るコユキ(佐藤健)は、苛められている風変わりな犬BECKを助けるのですが、そのお礼に、飼主・竜介(水嶋ヒロ)から古いギターを貰い受けます。それをきっかけに、彼は次第に音楽に目覚めていきます。
 元々竜介は、驚異的なギターテクニックを持つニューヨーク帰りの帰国子女であり、ボーカルの千葉(桐谷健太)とベースの平(向井理)とで、ロックバンド“BECK"を結成します。
 他方、練習に明け暮れるコユキは、ギターの腕前を見る間に上達させていき、やがて竜介に認められ、親友のサク(中村蒼:ドラムス)と共にBECKのメンバーとなります。
 そればかりか、コユキが人々を感動させる天才的な歌手であることがわかってきます。
 BECKはライブハウスで演奏するだけのマイナーな存在でしたが、コユキの歌唱力を起点にして、ついに日本最大のロック・フェスティバルの「グレイトフル・サウンド」に出演することになります。
 ですが、竜介が使っているいわくつきのギターの件で、彼は姿を消してしまいますし、千葉も竜介との言い争いからバンドを飛び出してしまいます。はたして、BECKはロック・フェスティバルでどうなってしまうのでしょうか……。

 出演者は、皆相当頑張っていると思います。特に、主演の水嶋ヒロは、自身が帰国子女でもあることから、まさにうってつけの役柄といえます。なにしろ設定が、ニューヨークでは、そののちメジャーになるバンドのメンバーのエディと親友であり、また帰国後も日本語よりも英語が堪能で、日本語を使うと言い間違えが多いというものなのですから!
 また、TBS・TVドラマ『帰國』で日下少尉役を至極落ち着いて演じていた向井理が、この映画では、上半身裸になって飛び跳ねるベーシスト役を務めているのも見ものです。
 さらに、この映画で目立つのは千葉を演じた桐谷健太でしょう。なんだか『ROOKIES -卒業-』に出演して喝采を浴びた佐藤隆太に似た雰囲気の持ち主ですが〔最近は、「○太」の名前を持つ張り切りボーイがヨク登場する感じです!〕、随分と迫力あるラップをこなしています。

 この作品は、一つには、竜介が使っている銃痕のある特別なギター「ルシール」にまつわるお話がなければ、他愛のない青春音楽映画になったことでしょう。
 ただ、そのお話のせいで、かなりファンタジックでぶっ飛んだストーリーになっています。すなわち、ギター「ルシール」は、アメリカの音楽業界を牛耳る男レオン・サイクスが所有していたもので、それを竜介らがニューヨークにいたときに盗んでしまったのですが、ひょんなことからそのことがバレてしまい、結局、竜介はレオン・サイクスと“悪魔の契約”を結ばざるを得ない破目になってしまいます。
 つまり、問題のロック・フェスティバルでは3つの舞台が設けられるところ、BECKが演奏する舞台は第1位の観客数を動員しなくてはならない、さもなくば竜介は一生レオン・サイクスの下で無償で働かなくてはならない、というものです。
 BECKといっても全く無名のバンドですし、おまけに竜介も千葉も姿が見えません。観客の動員といっても土台無理な話です。なにしろ、コユキが一人で歌おうとしたときには、500人程度の聴衆しか集まってはいなかったのですから!いったいどうなってしまうのでしょうか、…。

 このエピソードは、ゲーテの『ファウスト』において、ファウストが悪魔メフィストとの間で、来世で奴隷として従う代わりに、現世では人生の喜怒哀楽を思いっきり味わうという約束をするのと、ある意味で類似しているように思われるます。ですが、なんでこうした音楽映画にこんなものが紛れ込んでくるのだと鼻白んでしまいます。
 おまけに、この話に絡んで、竜介がブルースの神様とギターを競演したり、ピストルを頭に突きつけられたりもするのですから。また、レオン・サイクスを演じる役者が、一風変わった感じのする外国人と来ていますからなおさらです。
 でも、あくまでもギターにこだわったエピソードであり、この映画に彩りを添える役割を果たしているのではとも思え、そんなに異を唱えるべきではないのでしょう。

 またさらにこの映画の特徴を言えば、演奏シーンがふんだんに取り入れられていることでしょうか。ただ、ボーカルの千葉を除いては、皆天才的なミュージシャンとされていて、かつその演奏シーンが何度も映し出されますから、出演する俳優は、楽器の演奏場面を本物のように見せるのが相当大変だったのではないか、と思われます。
 といっても、現代の若い俳優ですから、こうしたロックバンドで使われる楽器を全く手にしたことがないということはないと思われますから、それなりに様になっていたといえるでしょう。

 それに、この映画の原作が大人気漫画でもあるせいからかもしれませんが、かなりオーバーと思われる演技が目につきます。特に、千葉とかコユキが目を剥く場面がいくつかありますが、歌舞伎じゃないんだからと一瞬思いましたが、マア問題視するほどのこともありません。

(2)問題になるのは、やはりコユキが歌う歌が無音で流されることでしょう!
 いくら原作の漫画においてはコユキが歌う部分は無音だからといって(言うまでもありませんが!)、また原作者からそういう提案があったからと言って、漫画の実写化なんだから、なんとしてでも歌声を聴かせるべきではないか、というのは至極まっとうな意見だと思います。
 「描かないで、見る人の想像に委ねる」というわけですが(注)、それはすでに漫画で達成されているのですから、何も映画にまで持ち込むまでもないと思われます。そもそも、肝心要の歌声を出さないのであれば、映画化する必要もなかったのでは、とも思われます。
 ただ、この点はすでに議論され尽くされているでしょう。

 そこでここでは、少し別のことを申し上げてみましょう。
 「グレイトフル・サウンド」では、途中から雨が降って来て、他の会場の機材が使えなくなってしまい、自ずと、そこだけ演奏している第三会場に人が集まってきますが(スクリーンに、演奏している映像が映し出されもして)、そんなことで3会場の観客動員数を比べてみてもフェアーではありません。当然のことながら、第三会場も豪雨に見舞われているのですから、機材は使えなくなるはずです。
 そうしたなかで、アコーステックギターの伴奏で、コユキがマイクを使わずに歌うことで人を集めることが出来たのであれば(雨のため他の会場の観客は帰ってしまい、第三会場だけ500人が依然として残っていた、というのでも構いませんが)、それが一番素晴らしいことではないでしょうか?
 もっといえば、コユキの歌声がそれほど美しいのであれば、何もマイクを通さずとも、大音響のサウンドを伴わずとも、プラグレスのアコギの伴奏だけで、十分に人を惹きつけることが出来ることでしょう!
 そして、そうした状況をコユキの「無音」の歌声ということで表現したのだとしたら、それならこのシーンを認めるにやぶさかではありません。

 確かに、大音量が作り出す迫力には、圧倒されるものがあります。でもそれは、音楽そのものが持つ“美しさ”には、直接結びつかないのではないでしょうか?
 それに、大音量を作り出して万を数える観客を動員しても、音楽のよさ自体とは何の関係もないはずです。
 マアそう言う方向があってもそれはそれで構いませんが、電気的に増幅しない前の、生の音そのものを耳を傾けて聞く、音が届く範囲の人が集まるだけのもの、その中で聞こえてくる繊細な音の一つ一つを味わうという、そんな方向性を持った姿勢があっても良いのではないかと思います。

 以上は、クラシックギターを少しばかりかじっている者の、まったくお門違いのつぶやきに過ぎませんが、興味のある方は、このブログの昨年12月19日の記事(「弱音の世界」)をご覧下さい。

(注)劇場用パンフレットに掲載されている堤幸彦監督の談話から。


(3)映画評論家はまずまずの評価のようです。
 小梶勝男氏は、「原作は有名なマンガであり、本作が様々な意味でマンガ的であることは、悪いことではない。むしろ、マンガ的であるのが、この作品にとっては正統なことだと思う。ただマンガ的に描くだけでなく、堤監督は驚くべき「省略」も見せる。どう描いても観客の想像力を超えられないものを、描かないことで、観客の想像力を超えようとする試み」であり、「これこそが堤監督の真骨頂ではないかと思っている」として72点を、
 渡まち子氏は、「いつも何かに飢えているのに、すべてをあきらめたかのような毎日を送るティーン・エイジャーが、音楽を通して、自分の秘めたポテンシャルを自覚していく姿は、青春映画ド真ん中の展開で、ストレートに感動できる」ものの、「おそらく考え抜かれたであろう、この作品の音の演出には首をかしげたくなる。原作マンガは音楽に対する独特の描写で知られ、それゆえに強く支持されている。その原作をリスペクトした演出なのだが、映像と音の総合芸術が映画とするならば、これでは“逃げ”に等しい」として50点を、
それぞれ与えています。




★★★☆☆



象のロケット:BECK
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悪人

2010年09月25日 | 邦画(10年)
 この映画に出演した深津絵里がモントリオール世界映画祭で最優秀女優賞を獲得したということもあって、『悪人』を渋谷のシネクイントで見てきました。

(1)この映画は、出会い系サイトで知り合った佳乃(満島ひかり)を殺してしまった清水祐一(妻夫木聡)が、これも同じようにして知り合った光代(深津絵里)と逃避行を続けるも、最後は逮捕されてしまうという物語です。
 こう書いてしまうと、殺人犯の祐一が「悪人」であって、随分と単純なタイトルでありその内容ではないかと思われてしまうかもしれません。

 ですが、この映画には、そもそも悪人など一人も登場しないとも言えるのではないかと思います。
 一見「悪人」と見える祐一は、実は、余りに佳乃が自分のことを詰るので、逆上してつい殺してしまったものと思われます。もちろん、実際に手を下したわけですし、死体を道路から崖下に投げ落としもしていますから、罪には問われるでしょう。ですが、計画的な殺人というわけではありませんから、そんな長い刑期にはならないのでは、と思われます。
 むしろ、佳乃が祐一を激しく詰るきっかけを作った増尾圭吾(岡田将生)の方が、ヨリ問題といえるのではないでしょうか?彼は、何不自由のない旅館のボンボンで、ちょっと引っかけて車に乗せたに過ぎないにもかかわらず、佳乃が姦しく喋り出すので、煩わしくなって、彼女を真っ暗の車外に蹴り出して、そのまま置き去りにしてしまったのですから。
 また、佳乃も、そんな惨めな格好を祐一に見られたことで、酷く自尊心が傷ついてしまい、ツイツイ言い過ぎてしまったのでしょうが、随分と激しい言い方で祐一を詰るものですから、祐一が逆上してしまうのも無理からぬものがある、と観客としては思ってしまいます。
 とはいえ、佳乃は被害者そのものですし、増尾も明示的に犯罪を犯したわけでもありませんから、「悪人」とまでは言えないでしょう。
 他の登場人物にも、そこそこ悪いことをするものもいますが(イカサマ漢方薬販売人など)、厳しく咎めだてをしなければならないほどのものかというと、どうもそのようには見えません。

 ですが、この映画のタイトルは「悪人」です。
 その点は、この作品が、原作の中でも、祐一と光代とのラブ・ストーリーに力点を置いて描き出そうとしたことから、若干曖昧になっているのではと思われるところです。
 確かに、ラストで、祐一が、「自分はあんたが思っているような男ではない」と言って、光代の首を絞めて殺害しようとします。ここをクローズアップすれば、やはり祐一は、平気で人を殺してしまう「悪人」ということになるでしょう。
 ですが、警察に逮捕されるとき、祐一が光代の方に手を伸ばしてつかもうとしたこととか、光代を見るめ目つき、それに、ラストのラストで、祐一と光代が夕陽を眺める回想シーンを見れば、祐一が本気で光代を殺そうとしたわけではないこと、決して祐一は「悪人」ではないことが観客には痛いほど理解できます。
 あるいは、自分のことにもうこれ以上かかわりあわないでくれ、自分についていても幸せになどなれない、などと言った気持ちから、むしろ光代の幸せを思って、警察関係者が大勢見ている前で、そうした演技をしてみせた、ともいえるかもしれません。
あるいは、ボーと生きてきたこれまでの人生とは手を切って、自分で自分のことをはっきりさせようと思って、自分は殺人者で悪人なのだ、ということを自己納得させようと思って、光代に手をかけたのかもしれません。
 いずれにしても、裕一は根っからの「悪人」ではないでしょう。

 ただ、原作本のように、ラストで光代が、そうした祐一の行為を疑うような独白(注)をするのであれば、「悪人」というタイトルの意味合いはもっとよく理解できるのではと思われます。
 とはいえ、そんなことをしたら、映画にならない恐れもあります。
 映画では、ラスト近くになって、タクシーの中で運転手に向かって、光代は、「世間で言われている通りなんですよね?あの人は悪人やったんですよね?」と言いますが、そのあとに、二人で灯台から夕日を眺める回想シーンが挿入されるために、観客としては、結局、ラブ・ストーリーとしてこの映画全体を捉えざるを得ないのではないでしょうか?

(注)「出会い系サイトで会ったばかりの女を、本気で愛せる男なんておらんですよね?」とか、「世間で言われている通りなんですよね?あの人は悪人やったんですよね?その悪人を、私が勝手にすきになってしもうただけなんです。ねぇ?そうなんですよね?」〔P.420〕

(2)この映画の出演者は、皆素晴らしい演技をしていると思います。
 主演の妻夫木聡は、このところ私の中ではCMの印象の方が強くなっていますが、さすがに自ら出演を望んだだけのこともあって、一皮むけた演技を披露しているのではと思いました。
 また、相手役の深津絵里も、モントリオール世界映画祭で最優秀女優賞を獲得したのが十分に頷けるすばらしい演技です(原作では光代は30歳の想定になっていますが、37歳の深津絵里の方がずっと説得力があると思いました)。
 そして、ファンとして一番注目したのが、祐一に殺害される佳乃を演じる満島ひかりです。出演時間はそれほど多くはないものの、さすがにこちらにドシッとくる演技をするものだな、と感心してしまいました。友達に見栄を張っているところ、増尾との車内でのやり取り、車外に蹴り出された姿を祐一に見られた際の逆上ぶりなど、どこをとってみても非の打ちどころがありません。



(3)この映画を見ると、最近見た映画にいろいろ連想が繋がってしまいます。
 たとえば、
a)主人公の殺人犯・清水祐一は、叔父が営む解体工事会社の作業員なのです。
他の作業員たちと一緒に叔父が運転するバンに乗って、長崎市内の解体工事現場に行って、壁の取り壊し作業などに従事しています。
 とすると、最近では、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』の冒頭がハツリの現場でした。
〔ドキュメンタリー『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』でも、冒頭で解体工事の場面が長々と映し出されるので驚いてしまいましたが、こちらは立て直しのための解体であって、ネガティブな感じは余りしません。とはいえ、解体したはいいものの、美術館のリニューアルは杳として進まず、無残な姿をさらし続けているのです!〕

b)『悪人』では、祐一はに凝っていて、スカイラインR33型GT-Rを物凄いスピードで運転したりしますが、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』では、逆に車に凝っている先輩がケンタやジュンを酷く虐めることもあって、彼らは、所属する解体工事会社を逃げ出すにあたって、先輩の愛車をめちゃくちゃに破壊した上で、さらに小型トラックを奪い網走を目指して進みます。
〔『悪人』の最初の方で、増尾が佳乃を車の外へ蹴りだすシーンが、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』のラストの方で、見知らぬ車からカヨちゃん(安藤さくら)がおっぽり出されるシーンとダブってしまうというのは、こだわり過ぎなのかもしれません!〕

c)ラストで、祐一と光代が逃げ込む場所が灯台なのです。
 この装置もまた、『ハナミズキ』で何度も登場します。
 ただ、『悪人』の場合は、母親に置いてきぼりにされた祐一が、見上げたところに灯台があったのと、ラストで逃げ場がなくなって入り込んだ先が灯台脇の小屋ということで、酷くマイナスのイメージを持っています。



 他方、『ハナミズキ』の場合、北海道の灯台は、紗枝(新垣結衣)と康平(生田斗真)とのファーストキッスの場所ですし、またしばらくして再会した紗枝と康平がそれぞれ進んでいく別々の道を確認し合う場所でもあります。
 さらにカナダの灯台も登場しますが、それは亡くなった父親の思い出の場所であり、かつ離れ離れになっていた紗枝と康平とが再会に至るきっかけを作る場所でもあります。
 このように『ハナミズキ』の場合、むしろ灯台にプラスのイメージが与えられています。

 とはいえ、いずれにしても、そうした物語が紡ぎ出されるのは、その場所が機械化によって無人となっているからではないでしょうか?『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)とか『灯台守の恋』(2003年)のように、その場所に人が住んでいたら、灯台にとても近寄れないでしょうから!

d)ここで、佳乃の父親(柄本明)が増尾の友人に向かって「今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎる」云々と言いますが、それをある意味で象徴しているのが、無人の建物を壊す解体工事であり、無人の灯台であるとしたら、こじつけになるでしょうか?

(4)最後に2人が逃げ込む灯台については、もちろん原作においても述べられていますが、ページ数にして全体の1割ちょっとであり、映画での扱いに比べたらずっと小さいのではと思われます。
 映画は、原作から湧き上がってくるイメージの中で、灯台が懐かせるものを最大限に活用しようとしているといえるかもしれません〔なにしろ、五島列島の福江島にある大瀬崎灯台に、わざわざ灯台小屋を建てて撮影したほどなのですから!〕。

 他方、女性現代美術作家の束芋氏は、朝日新聞に連載されていた原作の挿絵において、何度も「」のイメージを描いています。あたかも、映画が原作から「灯台」を切りだしているのと同じように、束芋氏は原作から「手」を掴みだしたのではといえるのではないでしょうか?
 いうまでもなく、こうした内容の連載物ですから、「手」以外のものを描いている挿絵の方が多いのかもしれません。ですが、朝日新聞出版から刊行された束芋氏の『悪人』(朝日新聞に掲載された挿絵を絵巻物風に綴り合わせた文庫本サイズの本です)において、冒頭の数ページは、専ら手の指が描かれていますし、ラストのページも、露出した脳の中に手の指が組み込まれたイメージが描かれているのです。





(束芋『悪人』P.56~P.57)

 こうした手の指のイメージは、このブログの本年2月の記事でも触れましたように、束芋氏が横浜美術館の「ゴス」展(2006年)に出展された映像インスタレーション「ギニョる」で初めて見ました。同じころから朝日新聞の『悪人』の連載が始まり、挿絵も掲載され出したわけですから、束芋氏の「手」のイメージが『悪人』の影響を大きく受けているのは確実ではないかと思われます。

 なお、本年2月の同じ横浜美術館で開催された束芋氏の個展「束芋―断面の世代」においては、新聞連載の挿絵の原画が、まるで絵巻物のように連続して全点が展示されていました。
 さらに、この9月11日まで、銀座の小柳ギャラリーでは、「て て て」と題する展覧会が開催されていて、朝日新聞出版から刊行された束芋氏の『悪人』にさらに手を加えた特装本などが展示されていたり、映像作品≪ててて≫が上映されていました。
 ところで束芋氏は、2011年6月より開催される第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ美術展の日本館出展作家として参加することになったようですが、これまでの展開を踏まえて、さらにどのような方向に発展するのだろうかと楽しみになります。

(5)映画評論家はこの作品に対して好意的です。
 前田有一氏は、「重層構造となった善意と悪意。それと違法合法がまったく対応しないことに、観客はやるせない思いを感じるだろう。誰が悪人で、だれが善人なのか。その答えを簡単に出せないところに、現実世界、そして法治社会の不完全さがある。その矛盾を受け入れる器用さをもてず、ただただ必死に生きる弱者たちの姿に深く共感できる。そんな人の目に、本作は見ごたえのある傑作と映るだろう」として75点を、
 渡まち子氏は、「やるせないほどの愛情で結びつく男女を体当たりで熱演する妻夫木聡と深津絵里が素晴らしいが、加えて、祐一の祖母を演じる樹木希林が抜群に光っ」ており、「殺人という絶対的な悪とその周囲の相対的な悪をえぐった物語は、現代社会を生きる私たちに「大切な人はいるか」と激しく問いかける」として75点を、
それぞれ与えています。



★★★★☆


象のロケット:悪人


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ようこそ、アムステルダム国立美術館へ

2010年09月22日 | 洋画(10年)
 美術館の裏側を取り扱っているというので、日頃美術館を覗くことが多いこともあって、『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』を見に、渋谷のユーロスペースに行ってきました。

(1)この映画は、老朽化などの問題を抱えるアムステルダム国立美術館をリニューアルしようとする際の騒動を描いたドキュメンタリーです。



 すなわち、1885年に建築家ピエール・カイパースによって建てられたアムステルダム国立美術館が、その後の増改築によって迷宮のようになってしまっていたのを、現代の要請に適ったものにリニューアルすべく、2004年からまず解体工事が着手されました。
 ところが、様々な障害にぶつかり計画が頓挫し、漸く2008年末に改築工事が着手され、2013年のリニューアル・オープンを目指して現在工事中といった有様なのです〔この映画は、改築工事にかかる第1回目の入札が不調に終わった2008年の時点までを描いていて、その後は続編となる予定〕。

 このドキュメンタリー映画からは様々の論点を取り上げることができ、興味が尽きません。

a.コンペで第1位をとったデザインに対して、市民団体等が激しく拒否反応を示します。
 というのも、リニューアルの設計コンペで1位を獲得したスペイン人の建築家の案ではこれまでのような市民生活が営めないと、特にサイクリスト協会が強く反対したのです。すなわち、これまでの美術館の中央部分は、市の南北を結ぶ道路が貫通していて、オランダに多い自転車利用者が大勢通行しているわけですが、設計案ではそのための道路幅が狭くなってしまうというわけです。
 設計を担当した建築家のほうは、そういうことも十分に考慮して案を提示していると反論します。にもかかわらず、結局は当初案をかなり改変しなくてはならなくなってしまいます〔新しい設計案がまとまったことを祝う会合の場で、設計者は、サイクリスト協会が「自転車専用道路がなくなってしまう」とのデマを流したことが、こんなに紛糾した原因だなどとつぶやきます。美術館側の地元に対する十分な根回しが足らなかったことが、大きかったものと思われます〕。
 むろん、国費でリニューアルするのですから、地元市民の意見も十分尊重する必要があるとはいえ、建築デザインという点では素人にすぎない市民たちの意見をどれだけ尊重すべきなのかは、議論の余地があると思われます。まして、影響力の誇示という面から特定の団体ののごり押しがあったとすれば、重大問題でしょう!

b.新たに研究棟を併設しようとしますが、これも大きな抵抗にぶつかります。
 こちらは市民団体の反対というよりも、美術館が設けられている地域全体の景観が、背の高い研究棟を設けることで損なわれてしまうという批判によって、当初案よりもかなり小規模なものにせざるを得なくなってしまいます〔映画の中では、設計を担当した建築家が、裏で館長デ・レーウが画策したのではないか、と述べたりしていますが〕。
 ただ、美術館の後方支援部隊が陣取るはずの研究棟の縮小は、美術館の機能そのものの縮小につながる恐れがあり、街の景観の保持という観点からのみ議論すべきかどうか、大きな問題が残ると思います。

c.新しい美術館における美術品の展示に関して、美術館に所属する学芸員が様々のアイデアを出します。すなわち、各世紀の時代感覚が来訪者によく分かるように展示をしようと、それぞれの世紀ごとの主任学芸員が方針を示し、それについて皆で議論をします。
 ただ、このように美術品を見る枠組みを、美術館側で前もって設定してしまうことに問題はないでしょうか〔そもそも、どうして担当する学芸員のアイデアに見学者は従わざるを得ないのでしょうか?〕?
 むろん、歴史的な流れの中で美術品をとらえたいと思う人もいるでしょう。ですが、美術品は、歴史的に規定されておしまいというわけではないでしょう。それ独自の良さがあるはずですし、もしかしたら、古いものの方が、未来を捉えているかもしれません。
 来訪者には様々な人がいるものと思います。美術館側としては、鑑賞者に予め先入観を植え付けずに、直接美術品に新鮮な眼差しで対峙できるようにすべきではないか、と思われるところです〔そうして立場からは、風景画、肖像画などといった従来のジャンル別の陳列方法も、一定の意味があるのではないかと思われるところです〕。

d.ようやく決定した設計に基づいて、それを施工する業者を決定する業者を決めるために入札を行います。ところが、応札した企業が1社だけということもあって、入札価格は予算額を大きく超えてしまいます。こんな場合、どうしたらいいのでしょうか?
 ただ、実際に応札した会社は、一社しか入札に参加しないことをどうして事前に知りえたのでしょう。それに、知っていれば応札額をできるだけ高額にするでしょうが、それが予算額を超えてしまえば、入札不調となって元も子もなくしてしまいます〔このリニューアル工事については、ほぼ倍額の応札額でした!〕。
 仮に知らなかったのであれば、入札が不調だったのは、あるいは予算額の算定の方に問題があるからかもしれません。
 また、応札企業数が複数あれば予算額の範囲に収まったかどうかも、予算額算定方法の問題もあって、判断が難しいでしょう。

e.途中で、このリニューアルを強力に推進してきた館長ドナルド・デ・レーウ氏が辞任してしまいます。こうした大事業を推進するに当たり、現場の館長の果たすべき役割は何なのか、いろいろ考えさせるものがあります。
 この映画からは、様々の出来事に翻弄されている人物という印象を受けますが、周囲の人々の話の端々からは、実際には、自分の思う方向に何事も引っ張っていこうとする剛腕の持ち主でもあるようです。
 いずれにせよ、この人物が館長だったから、リニューアル工事がこんなにも遅延してしまったのか、そうではなくて、リニューアルの全体像がここまで漕ぎつけたのも彼の手腕によるものだというのか、いずれが正解なのかは、後しばらくしなくては評価を下せないことでしょう。
 なお、ドナルド・デ・レーウ氏は、映画で述べているところによれば、ウィーンとイタリアに自宅を持っていて、遊ぶためにはイタリアに行き、音楽や絵を楽しむためにはウィーンに赴くという生活を営むとのこと。オランダの公的機関のトップともなると、引退後に、そんな夢のような生活ができるのだなと驚いてしまいました。

f.新しくアジア館を造成するにあたり、その入口に、日本から、仁王門にある仁王像を持ってこようとします。日本の古い美術品の海外流出については、どう考えたらいいのでしょうか?
 この映画で紹介されているのは、既に閉鎖されているお寺(島根県の岩屋寺)の山門にあった2体の仁王像(南北朝時代)で、この美術館によって購入されオランダで公開されるわけですから、日本美術の海外紹介という点からみても何ら問題はないでしょう。おまけに、それを見上げる担当学芸員の目の輝きを見たら、まさにうってつけの陳列場所といえるかもしれません。
 ただ、仁王像は、単に美術品として眺められるべきものでもないはずです。当時の地方の宗教事情を窺うよすがとなる歴史的遺物でもあるはずです。そうした観点に立てば、それを所蔵する寺院が閉鎖されていようとも、自由に誰でも購入できるわけではなく、たとえば国の研究機関が買い上げて所蔵すべきではなかったでしょうか?
 としても、どのみち収蔵庫の中に収められて日の目を見ないのであれば、オランダとはいえ、皆の見えるところに置く方が意味はあるのかもしれませんが。

(2)建築家の描いたデザインに対して素人集団が批判するという図式に関して思い起こされるのは、少々古いことになりますが、7月17日の記事で取り上げました伊東豊雄氏が設計した「せんだいメディアテーク」(smt:2001年開館)の建設を巡る経緯です(注)。



 この建物は、市民ギャラリーと市民図書館の2つの機能を入れることを主な目的として、市バス車庫だった空き地に作られることになります。
 まず、建築家の磯崎新氏を審査委員長とする審査委員会が設けられ、公募によるコンペによって設計者が決められることになります。多くの応募作品の中から、最終的には審査委員の多数決で、伊東豊雄氏の作品が最優秀作に選ばれます(1995年3月)。
 それと時を同じくして(設計案を公募する前ではなくて)、仙台市は、この「メディアテーク」に対する構想を作り上げようと、「プロジェクト検討委員会」を発足させたり(1996年5月最終報告書)、また芸術協会との打ち合わせとか、「メディアテークわいわいトーク」と題する市民との懇談会の場を設けたりします。
 こうした最中、1995年10月31日の『河北新報』に、伊東氏の設計構想を土台から批判する記事が掲載されたりします。
 すなわち、ごく大雑把に言うと、通常のラーメン構造(長方形に組まれた骨組から成る)では、四角の柱が等間隔に置かれるのが普通ですが、伊東氏の設計案におけるチューブ構造では、内部が見えるチューブ状の柱が不規則に配置され不均質な内部空間が生み出されます。
 こうしたことに対し、「ケヤキ並木を模した12本の「チューブ」」が「邪魔」をするために、「展示スペースとして使い物にならない」、「必要面積を大きく割り込む」、「チューブのインパクトが強すぎる。展示作品がかすんでしまう」などの反対論が出されていると言うのです。



 果ては、コンペによって設計案を決める方式が拙かったのであり、従来のようにゼネコンと組んでやれば、機能優先、デザインはそこそこという建物になって、こんな議論は起きなかった、という関係者も現れる始末。

 まさにアムステルダム国立美術館のリニューアル工事と同じような事態に陥りかねない状況になりかかったわけですが、伊東氏が、そうした記事を掲載した『河北新報』に対して、厳しい内容の「質問状」を送りつけたり、同紙も伊東氏の見解を大きく掲載したことなどから、反対論も次第に沈静化し、2001年1月の開館を迎えるに至りました。


(注)ここでは、伊東豊雄建築設計事務所編著『建築:非線形の出来事』(彰国社、2003年)などを参考にしました。

(3)この美術館の目玉と言えば、レンブラント作『夜警』でしょう。



 新しい美術館では、その中心的なところにこの絵が置かれることになっているようです。
 また、この映画の中では、レンブラントの絵自体はきちんと映し出されないものの、彼の前にも何作か同じ主題で描かれていて、そのうちの二つについて新しい美術館で展示すべきかどうか議論されたりします。



 ところで、レンブラントの『夜警』については、ピーター・グリーナウェイ監督が主題的に映画『レンブラントの夜警』(2007年)で取り上げています。



 同作品は、東京では、今は廃館になってしまったタカシマヤタイムズスクエア12階のテアトルタイムズスクエアで公開され、見に行った記憶はあるものの、登場人物の数が夥しく、かつ聞きなれない人名ばかりが飛び交うために、大雑把なストーリーを把握するのがヤットでした。
 現在ではDVDを借りてゆっくり見ることができますし、その際に入手した監督自身が書いた同名の小説(倉田真木訳、ランダムハウス講談社、2008年)をも参考にすると、この映画では、絵の中央に描かれている市警団隊長バニング=コックと、副隊長ライテンブルフ、それに団員のヨンキントが、前任者を追い出すべくヨンキントが手にするマスケット銃で射殺したことをレンブラントが告発しているとされます。
 一般には、前任のハッセルブルフ隊長は、銃の暴発の事故に遭ったとされ、レンブラントの告発も不発に終わりますが、この絵を制作したことをピークに、その後は公私にわたって下降線を辿ることになるようです。

 このグリーナウェイの映画は、レンブラントが、『夜警』を描くことで市警団の罪を告発しているのだという仮説を提示するものですが、他方で、ドキュメンタリー『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』は、図らずも、リニューアル工事の遅延の原因がどこにあるのかを告発している作品とも言えるかもしれません。

(4)映画評論家では福本次郎氏が、「美術品という目に見える部分しか普段注目されない美術館も、当然運営しているのは生身の人間。彼らがむき出しの感情で己の主張を繰り返す姿は、そこに展示されているアートよりも人間の本質に迫っている。その皮肉な結末こそがドキュメンタリーとしての面白さを加速させていた」として50点をつけています。



★★★★☆




象のロケット:ようこそ、アムステルダム国立美術館へ
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ハナミズキ

2010年09月19日 | 邦画(10年)
 今旬な女優の一人である新垣結衣の主演作と言うことで、『ハナミズキ』を吉祥寺に行って見てきました。

(1)ヒットした歌の題名をタイトルにする映画ならば、内容自体は期待しない方がいい、というのが通り相場ですし、旬な俳優の主演作ともなればその感は一層強まります。
 この映画もご多分に漏れず、主人公の紗枝を演じる新垣結衣を、どうしたら一番綺麗に格好良く映像として映し出せるのか、を専らの狙いとしているように見受けられます。
 とすれば、日本では全然就職先が決まらなかったにもかかわらず、どうしてニューヨークで編集プロダクションの編集者として活躍出来るのか、それがかなり良い線行っていたはずなのに、なぜ帰国してしまって釧路の自宅で英語塾を細々と開くことになるのか、その説明が全然なされていないではないか、などと言ってみても所詮仕方のないことです。
 ニューヨークで仕事を持って生活すること、それも写真関係ならばなお良し、と言ったところではないでしょうか(なにしろ、主人公の父親がカメラマンですし、主人公が結婚しようと決意した相手もカメラマンであり、主人公の仕事自体も写真が伴います!)。

 それに、登場人物が皆が皆うまい具合におさまってしまうというのも、そこまでしなくともと思いたくなりますが、これもこうした映画では仕方がないのでしょう。
 たとえば、主人公の母親(薬師丸ひろ子)が、その幼馴染(木村祐一)と一緒になるのは構わないにしても、康平と別れたリツ子(蓮佛美沙子)が、前から思いを寄せていた康平の友人と付き合いだすというのはどんなもんでしょうか(それも、康平が破産したら、途端に離婚届と結婚指輪を机の上に置いて、出ていってしまうにもかかわらず!)?

 でも、そんなことくらいなら、自分で補ってみれば済むことでしょう。
 それに、この映画はそれだけでは捉え切れないところが残ります。
 一つには、主人公紗枝の相手役の康平(生田斗真)が、酷く泥臭い人物として描かれていることがあげられるでしょう。なにしろ、彼が紗枝と出会ったときは、釧路の水産高校に通う生徒で、将来は父親の跡を継いで漁師になることを夢見ていたのですから〔実際には、演ずる生田斗真は、“飛びきり”付きのイケメンですし、康平自体も、ラストの時点では世界を股にかける漁師になっていて、「泥臭い」とはとても言えないのかもしれませんが(注)〕。
 もう一つは、物語の背景となってスクリーンに映し出される風景がどれも大層綺麗なことでしょう。なかでも、釧路の海岸地帯を走るローカル線をとらえた映像は、素晴らしいものがありますし、高校生の康平が漕ぐ自転車に紗枝が乗って走る「アゼチの岬」の風景も、見ごたえ十分です。



 主役の新垣結衣は、DVDで見た『恋空』の時はまだぎこちなかった感じですが、この作品では随分としっかり演技をしていて、今後の一層の飛躍に期待が持てます。
 相手役の生田斗真は、『人間失格』や『シーサイド・モーテル』の時に比べれば、今一の感じですが(あんな華奢な漁師など、どこでお目にかかれるのでしょうか)、まだまだこれからでしょう。


(注)漁師といったら、昨年見た『不灯港』に主演した小手信也氏辺りがずっとふさわしいのでしょう。また、頑固一徹の老漁師を、『春との旅』において仲代達也が実にうまく演じていました。ただ、余り先入観をもって捉えてはいけないのでしょう!

(2)一青窈の「ハナミズキ」の歌詞は、この映画の劇場用パンフレットに掲載されている彼女のメッセージによれば、「もともと911のテロの事件をテレビで見て 居ても立ってもいられず 書き綴った数枚の散文詩がベースになってい」るとのこと。
 そういうこともあってか、この映画では、テロで崩壊した世界貿易センタービルのように、垂直に上に向かっている物がいくつも出てきます(♪空を押し上げて♪)。

 勿論、なんといっても目につくのは、主人公の家の庭に植えられたハナミズキの大木です。
 そのハナミズキは、彼女の5歳の時に主人公の父親(ARATA)が植えたもので、自分の代わりにいつでも紗枝を見守っていると言い残して死んでしまった父親を偲ぶ縁になっています。
 この木は、クマネズミの棲み家に近い玉川上水の土手に何本も植えられていますが、こんなに背が高く伸びるものだとは思ってもみませんでした。
 まるで、最近見た『セラフィーヌの庭』に何度も登場する大木のような感じです。ただ、セラフィーヌの場合は、彼女はその木に登ったり幹に体を寄せたりして、自然を受け止めようとしますが、『ハナミズミ』の場合は、主人公は節目節目に見上げて、亡き父親に思いを寄せるにすぎませんが。



 次に、重要な意味を与えられているのが灯台
 映画の冒頭は、主人公の紗枝が、カナダの海岸にある灯台(父親が撮影した写真に写っています)に向かっているシーンですし、紗枝と康平とははじめてキスをする場所も、釧路の灯台です。


〔厚岸郡浜中町にある湯沸岬灯台〕

 さらに映画の後半において、ニューヨークで生活している紗枝が、友人の結婚式のため一時帰国した際に、すでに別の女性と結婚している康平と会うのもこの釧路の灯台ですし、カナダの灯台がある町では、紗枝は、康平に直接つながるものを偶然見つけてしまいます。



 それから、ニューヨークの摩天楼でしょう。
 紗枝が、先輩のカメラマン(向井理)からプロポーズされる場所の背後には、マンハッタンの摩天楼(そこにあったはずの世界貿易センタービルは、勿論ありません)が広がっていますし、偶然ニューヨークにやってきた母親と語り合う場所の後ろにも、エンパアステートビルが聳えています。

 もっといえば、早稲田大学の大隈講堂も挙げられるでしょうか。
 紗枝は、早稲田大学に入学して大学生活を満喫しますが、その背後にはいつも大隈講堂が見え隠れしています。

 こうした垂直の方向の映像は、釧路あたりを走るローカル線の姿を空中から捉えている映像とか、カナダの灯台に向かって走るバスを捉える映像といった水平方向の映像に補われて、全体として、若い主人公たちの前向きな姿勢を象徴しているのではと考えられるところです。

(3)映画評論家の評価は分かれているようです。
 福本次郎氏は、「四季折々の風景の一瞬のきらめきを切り取るかのような素晴らしい映像に、青春の輝ける瞬間を共有したいと願う恋人たちの出会いから別れ、再生までの10年に及ぶ時の流れが余情たっぷりに焼きつけられる。離れていても一緒に眺めた景色や共に過ごしたときめきは忘れない。物語の底に流れる一途な思いは決して色あせない情熱に満ちている」賭して60点を付けているものの、
 渡まち子氏は、「ストーリーそのものは、出会ってはすれ違うという古臭いもので、終盤には偶然を多用する展開になり、目新しさは何もない。新しいのは、主役二人が演じる役柄で、高校生役が似合いすぎる新垣結衣がキャリウーマンを、繊細なイメージの生田斗真がワイルドな漁師を演じていること。これをフレッシュとみるか、ミスキャストとみるかで評価が変わりそうだ」として40点しか与えていません。


★★★☆☆


象のロケット:ハナミズキ
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ペルシャ猫を誰も知らない

2010年09月18日 | 洋画(10年)
 予告編を見て興味をひかれたので、イラン映画『ペルシャ猫を誰も知らない』を見に渋谷のユーロスペースに行ってきました。

(1)映画は、ポップ・ミュージックが厳しく規制されているイランにおける若者たちの音楽活動を、ヴィヴィッドに描き出しています。
 ネガルとそのボーイフレンドのアシュカンは、ともにインディー・ロックをやるミュージシャンですが、メンバーを集め出国してロンドンでライブ演奏する、という夢を持っています(イラン国内では到底無理なので)。
 便利屋のナデルにそのことを相談すると、まず国内でCDを制作し、ライブ演奏をして資金を集めてから外国へ行くべきであり、それに協力すると言われます。そこで、ナデルを通じて、パスポートやビザの偽造を専門家に依頼する一方で、メンバー探しにテヘラン中を動き回ります。
 何とかメンバーは集まり、秘密裡のコンサート開催まで漕ぎつけます。



 ですが、偽造の専門家が警察に捕まって万事休す、責任を感じたナデルは、ネガルらの前から姿を消してしまいます。
 そんなナデルが見つかったとの知らせで、アシュカンは現場に赴くものの、そこは秘密のアジトで、ナデルは酒浸り状態。としたところ、警察に踏み込まれて、……。

 この映画は、実際のイランのミュージシャンらを使いながら、イラン国内で撮影して出来上がったもので、物語もかなり実話に近いとされています。
 イラン当局の厳しい規制のことを考えれば、よくこんな映画が製作されたものだと驚いてしまいます。なにしろ、ナデルらがバイクにまたがってテヘランの市内を走り回る姿が公然と撮られていたり、ネガルとアシュカンが車で移動中に警察による尋問を受けますが(ペットを外に持ち出したことが見咎められました)、その様子が映し出されたりするのですから。
 結果として、監督のバフマン・ゴバディ氏は現在イランから出国しており、またネガルとアシュカンを演じた二人も、今はロンドンに住んでいるようです。

 にもかかわらず、映画では、アンダーグラウンドで演奏されている各種の音楽(ヘビメタ、ロック、伝統音楽、ヒップホップなど)が上手に紹介されているだけでなく(注)、物語自体も、実際のテヘラン市の街並みを背景としながら、ラブ・ロマンスとして展開され、悲劇的なラストに向かって巧みに綴られています。

 こうなると、映画の中でヒップホップが歌われるからというわけではありませんが(Hichkasというグループが歌っています)、先日見た『SRサイタマノラッパー2』と比べてみたくなります。
 というのも、映画に登場するグループはどちらも、なんとかしてライブ演奏をと望みますが、結局は挫折してしまうという点でよく似ているからです。
 ただ、その理由が異なっているようにみえます。すなわち、『SRサイタマノラッパー2』のB-hackの場合には、資金不足という経済的な問題によって、『ペルシャ猫』の場合には、政治的理由に基づく規制によって、ライブコンサートの開催が困難になります(第1作の『SRサイタマノラッパー』に登場するSho-gungの場合は、仲間割れが直接の引き金でした)。
 とすると、ここが一番よく分からないところなのですが、『ペルシャ猫』におけるミュージシャンは、どのようにして日々の生活の糧を得ているのでしょうか?
 エレキ・ギターなどの楽器とか様々の音響機器を、どうやって購入しているのでしょうか(牛舎の中で練習しているヘビメタのグループが映し出されますが、機材は一応揃っている感じです)?
 確かに、アシュカンは、パスポート等の偽造に必要な費用は、ドイツにいる母親からの送金で大丈夫だと言ったりします。あるいは、アンダーグラウンドで音楽をやっている若者らは、裕福な家庭の出なのかも知れません。
 ですが、一方で、ナデルは、費用の捻出のために愛用のバイクを売り払ったりしています。
 さらには、イラン経済は、慢性的なインフレと高い失業率(特に若年層の)苦しんでいて、親からの援助も早々期待できないのではと思われるところです。

 むろん、音楽映画ですから、何もかもを期待するのは無理とはいえ、わずかでもいいからそうした方面が分かる事例が描き出されていればなと思いました。


(注)この映画のサントラ盤に関する感想については、たとえばこのサイトの記事を参照。


(2)イランと西欧文化の関係というと、以前読んだことのある『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー著、市川恵里訳、2006年、白水社)が思い出されます。
 この著書は、イラン人の女性英文学者の著者が、1997年にイランを出国するまで3年間ほど続けた秘密の研究会(著者の自宅で、ナボコフやオースティンなどが書いた西洋文学を、女子生徒たちと一緒に読む)のことを中心に書き綴った文学的回想録です。

 同書には、イランの厳しい状況がいくつも書き記されています。
 たとえば、映画との関連から、音楽会に関するものを拾い出してみましょう。
 「演奏は厳しく監視され、登場するのは、その夜、私たちが見に行ったようなアマチュア演奏家がほとんどだった。それでも会場はつねに満員で、チケットは売り切れ、プログラムはいつも少々遅れてはじまった。……まず登場したのはひとりの紳士で、たっぷり15分から20分も聴衆を侮辱し、われわれは頽廃的な西洋文化に毒された「金持ちの帝国主義者」の聴衆を楽しませるつもりはない、と言った。……出演したのは、いずれも素人の、若いイラン人男性4人のグループで、ジプシー・キングスの演奏で私たちを楽しませてくれた。ただし歌うことは許されず、楽器演奏しかできなかった。そのうえ少しでも演奏に熱中している様子を見せてはいけないときている。感情をあらわにするのは反イスラーム的だからだ」(P.410~411)。

 また、たとえば次のような記述もあります。
 「ここ20年ほどのあいだに、通りは危険な場所になった。規則に従わない若い女性はパトロールカーに放りこまれて監獄に連行され、鞭打たれて罰金を科され、トイレ掃除をさせられ、屈辱的な扱いを受け、自由の身になったとたんに、戻ってまた同じことをする」(P.45)。

 こうしたエピソードの記述は、10年以上も前の事柄ですし、また著者が現在はアメリカ在住だということも考え合わせる必要があるでしょう〔今回の映画『ペルシャ猫』自体も、イランの核開発に対する西欧諸国の制裁という状況の中で制作されていることも、考え合わせる必要があるでしょう〕。

(3)イラン映画に関しては、アッバス・キアロスタミ監督の作品がよく知られています。
 なお、同監督の作品については、時点はヤヤ古くなり、かつまた同監督作品を直接論じたものではありませんが、この記事が多少参考になるのではと思われます。

(4)この映画については、「映画ジャッジ」の評論家の論評はありませんが、映画評論家の村山匡一郎氏は、8月6日付け日経新聞に掲載された記事において、「当局による欧米文化の厳しい規制を逃れてアンダーグラウンドで音楽活動をする若者たちの姿を生々しく活写している」として「★★★★☆(見逃せない)」の評価を与えています。
 また、恩田泰子氏(読売新聞東京本社文化部記者)は、8月6日付け読売新聞に掲載された記事において、「素晴らしいのは、心揺さぶる音楽を鮮やかにとらえ、作り手たちの苦境を描くことでイランの矛盾をあぶり出したこと。変革を叫ぶため音楽を利用するのではなく、表現のために変革が必要だと自然に伝える」と述べています。




★★★☆☆





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瞳の奥の秘密

2010年09月15日 | 洋画(10年)
本年度のアカデミー賞の最優秀外国語映画賞受賞作ということであればぜひ見てみたいと思い、『瞳の奥の秘密』を日比谷のTOHOシャンテに行ってみました。

(1)この映画では、裁判所の書記官のベンハミンと、彼の上司だった判事補イレーネとの時を隔てた愛の物語と、彼らが昔携わったことのある殺人事件の物語との二つが絡み合うように描かれています。

裁判所を定年退職したベンハミンは、時間的な余裕が出来たことから、25年前に取り扱った殺人事件を基に小説を書こうとし、そのことをやはり25年ぶりに再会したイレーネに告げます。
その事件とは、銀行員モラレスの23歳の妻が、1974年に、自宅で暴行を受けた上で殺害されたというもの。ベンハミンは、部下で友人のパブロと共に、捜査線上に浮かび上がってきた容疑者ゴメスを追い求め、紆余曲折はあるものの、遂にサッカー場で逮捕します。
ただ、25年後にこの事件を小説として取り上げるにあたり、当時犯人追及に異常な熱意を見せていた被害者の夫モラレスを探し出して会ったところ、意外な事実が分かります。その事実とは、……。
それらの経緯を踏まえて書き上げられた小説を、ベンハミンはイレーネに手渡します。
ベンハミンは、この事件の絡みで彼女とは別れてしまったのであり、その間に彼女は、検事に昇格しただけでなく、別の男と結婚し今や2児の母親。ですが、ベンハミンは、この25年もの間、変わらぬ愛を彼女に対して持ち続けていて、小説を書いたのもそういう自分と正面から向き合うためでした。
さあ、小説を手渡された彼女はどうするでしょうか、……。

アルゼンチンの映画はこれまで見たことはありませんが、この映画は、殺人事件そのものと、その捜査に関与した人たちの恋愛とか友情を、主人公が小説を書くという行為を軸にして、巧みに、かつ重厚に描いていて、深い感銘を見る者に与えます。
また、出演者は初めて見る俳優ばかりですが、実に魅力的です。主役のベンハミンを演じるリカルド・ダリンは、とても非エリートコースを歩む男には見えない知的で渋みのある風貌をしていますし、相手役のイレーネを演じるソレダ・ビジャミルの美貌は圧倒的です。さらに、ベンハミンの部下のパブロ役のギレルモ・フランチェラも、アル中ながら事件解決に大きく貢献するという難しい役柄を実に上手にこなしています。
アカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞したことが頷ける作品ではないかと思いました。

(2)とはいえ、この作品には大きな問題点があるのではないかと思います〔尤も、評者の理解力が酷く乏しいせいで問題と思えてしまうのかもしれませんが〕。
というのも、この映画で大きな意味が与えられているのはベンハミンの小説ですが、一体彼は何故小説を書くのか、十分な説得力を持って説明されてはいないのではないかと思われるからです。

定年退職したベンハミンは、25年前の殺人事件はまだ解決していないからとして小説を書くものの、その殺人事件の真犯人ゴメスをベンハミンは自ら逮捕したのですから、事件として曖昧な点は何もなく、解決済みのはずです。何を今更解明しようというのでしょうか?

ただ、ゴメスは終身刑に処せられたにもかかわらず、その後釈放され大統領のSPになった点を、あるいは問題にしたいのかもしれません。終身刑の者が釈放されるという当時の政治状況(きわめて不安定なイザベル・ペロン政権→軍事政権)を、小説で告発したいということなのでしょうか?
ですが、この映画が、ある程度ベンハミンの小説を反映しているとしたら、その限りでは余り政治色を帯びてはいないように思えます。ゴメスの釈放を知ったベンハミンとイレーネが、上司の判事に抗議したところ、もっと大きな正義が優先したのだとか何とか言われてそれきりです。当時そんな程度で引き下がっているのであれば、今頃になってわざわざ小説仕立てにするまでもないのではないでしょうか?

そうではなくて、ベンハミンの部下で友人のパブロが、ベンハミンの自宅で何者かによって殺されたことを、小説で取り上げようとしたのでしょうか?
パブロを殺したのはゴメスだとして、ベンハミンは安全確保のため地方に身を隠します。ただ、人違いでパブロが殺されたとしたら、ベンハミン自体は安全で、地方に行く必要がなかったのではないでしょうか?それに、ゴメスの復讐の思いが強ければ、国外に出ずに地方に行ったくらいでは、大統領のSPには簡単に探し出されてしまうでしょう。
また、その手配をしたイレーネは、自身が殺人事件の解決に一役買っているにもかかわらず(ゴメスのプライドを酷く傷つけることで、自供に追い込みます)、隠れようとはしません。

やはり、ベンハミンのイレーネに対してズッと懐いていた思いを、殺人事件に絡めつつ述べてみようとしたということでしょうか?
しかし、そんな難しいことを、これまで小説を書いたようには見えないベンハミンが、定年を過ぎてから、いくら時間がたっぷりあるとはいえ、敢えて行おうとするでしょうか? 

それに、なぜ、なぜ単なるレポートではなく小説なのでしょうか?不確定なところを想像で補うためなのでしょうか?でも、この小説は公表するために書かれたのでしょうか(単に、イレーネに読んでもらうためのものではないでしょうか)?公表しないとしたら、なにもわざわざ小説の形式をとる必要もないと思われますが。
あるいは、モラレスが亡き妻を思い続ける姿勢に愛の究極を見て、それに自分のイレーネに対する想いをなぞらえる、ということかもしれません。でも、モラエスは単に自分の拘りを捨てきれないだけではないでしょうか?犯人ゴメスに対しどんなことをしようとも、亡き妻は生き返りませんし、従ってモラエスの恨みも晴れないことでしょうから!

いったいなぜベンハミンは小説を書こうとしたのでしょうか?

(3)この映画の中では、モラレスの妻が、何者かによって強姦され殺される場面が最初の方に映し出されますが、これは一体誰の目から見た映像なのでしょうか?
誰であっても、人殺しの様を黙って見ているはずがないのではないでしょうか?あるいは、ベンハミンの小説に書かれているかもしれない場面を、単に映像化しただけと考えるべきなのでしょうか?それとも、普通の映画で見られる、第三者的な目(“神の目”)によるものにすぎないのでしょうか?

また、モラレスが、真犯人ゴメスを捕まえて車のトランクに放り込み、電車の騒音で拳銃の音を掻き消しつつ、銃弾を浴びせて殺してしまう場面が描かれます。
これは、ベンハミンに対して夫が説明したことに基づいて映像化されているものでしょう。ですが、このリアルなシーンを挿入することには、何の意味があるのでしょう。実際にはすぐ後で、ゴメスをモラレスが小屋に監禁していることが明らかになるのですから。

また、パブロが殺されるシーンが画像として映し出されます。それも、わざとベンハミンの身代わりになって、というように説明されます。あるいはベンハミンが、小説の中で想像によって書いている部分なのかも知れません。

もっといえば、サッカー場で、ベンハミンらがゴメスを探し出して追跡する場面がありますが、これはまるでカメラが追跡者の目になったように映し出されます。要すれば、ここでは、追跡者の目で見た情景が描かれているというわけです。

というようなことを考え合わせると、この映画はどうも一筋縄ではいかないような構造になっているのではと思えてきます。
特に、ラストで、ベンハミンはイレーネに、自分が書きあげた小説を渡しますが、もしかしたら、事件から25年目の出来事自体(ベンハミンが、イレーネに再会し小説を書こうと考えていることを告げ、25年前の事件のことを再び調べ始めること)も、リアルタイムのように描かれているものの、その小説の中の事柄にすぎないのかもしれません!
さらに言えば、それからしばらくして出来上がった小説をベンハミンはイレーネに渡しますが、それもベンハミンの小説の中の出来事だったりして!
というのも、小説という形で思いを伝えたベンハミンに対して、イレーネは、これでやっと自分の思いも適うといった眼差しで「時間がかかるわよ」と言います。ですが、検事まで昇格し2児の母親であり、多分50歳くらいにもなるイレーネが、そんなものを全て投げ出して思いを遂げるなんてことは常識(こちらが持ち合わせているのは、特段大した常識ではありませんが)を越えているからです。これは、ひょっとしたら、ベンハミンの願望に過ぎないのではないでしょうか?

そこまで言うとしたら、いっそのこと、この映画で描かれているものはすべてベンハミンの小説の中でのことと考えた方がいいのでは、とも思えます。でもそうなると、この映画の原作の小説(エドゥアルド・サチェリ作)との関係はどうなるのか、という問題が生じでしまうかもしれません!
それに、そんな解釈では、全てが夢だったとする解釈と同じように、体のいい逃げ(解釈の放棄)に過ぎないのではとも思えてきます。

(4)映画評論家はこの映画に対して高得点を与えています。
渡まち子氏は、「この映画の素晴らしい点は、あくまでも個人の視点で事件を語り、結果としてその視座が歴史を照射したことにある。サスペンスと人間ドラマと愛の物語が交錯する構成は、まるで、クラシックやジャズ、ミロンガのような民俗音楽を柔軟に取り入れて熟成したタンゴの調べのよう」であるし、「主人公は、政治によって辛酸をなめるが、それでも未来へ向かう勇気を得る。時を経た愛の形が、深い余韻を残し、忘れえぬ作品になった」として95点もの高得点を与え、
福本次郎氏も、サッカースタジアムのシーンは、「登場人物の焦燥感や荒い息遣いがテンションの爆発しそうな映像に焼きつけられる」し、容疑者と主人公らの対決のシーンは、「怒りや恐怖といった感情を非常に細やかに表現する。心理の深層を衝く見事な演出」であり、また「ベンハミンの小説はミステリーに姿を借りた壮大なラブレターだったという構成には唸るばかりだった」として80点を与えています。



★★★☆☆



象のロケット:瞳の奥の秘密
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キャタピラー

2010年09月12日 | 邦画(10年)
 映画に出演した寺島しのぶが、ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞を受賞したことで評判の高い『キャタピラー』を、テアトル新宿で見てきました。

(1)映画では、先の戦争の末期、考えられないようなむごい姿となって戦場から帰還した久蔵とその妻シゲ子との、戦時中の生活が中心的に描かれます。
 中国での戦場から帰還した久蔵は、周りから軍神と崇められるものの、シゲ子にとっては気持ち悪い生き物にすぎません。なにしろ、手足が切断され、口もきけなくなっていますから、お互いのスムースなコミュニケーションは絶望的です。といって、シゲ子は、軍神とされている夫を蔑ろにするわけにいかず、その世話に明け暮れる毎日となります。なにより、夫の強い性的要求に応じざるをえないのです。
 他方、久蔵はこうした姿になってまでも、当初は、シゲ子に対して強気の姿勢をとりながら生きようとします。その際の心の支えになっているのは、立派な勲章と、彼の功績を軍神と讃える新聞記事。彼の寝ている蒲団のスグ近くにしっかりと並べられています。

 ですが、次第にシゲ子は、むしろ自分の方が有利な立場に置かれていることに気がつきだします。どんなことをしても、久蔵のほうは、それこそ手も足も出ないのですから。それに、出征以前の久蔵は、子供のできないシゲ子に対して酷い暴力を振っていたようで、その復讐の意味もあって、久蔵に辛く当たったりします。

 そうこうするうちに、久蔵は、自分が中国の戦場で犯したことがトラウマになって、シゲ子と性的な関係を続けることが難しくなってしまいます(いわゆるPTSDでしょうが、一般には、強姦された女性の方がそうしたトラウマを抱え込むのではないでしょうか?ただ、『マイ・ブラザー』と同様、理不尽な殺人を行ってしまったことが、久蔵には耐え切れないのでしょう)。

 終戦になると、シゲ子は喜びますが、久蔵は、必死の力を振り絞って、家のソグそばにある水場にたどり着き、飛び込んで自殺してしまいます。シゲ子が喜ぶのは、ようやっと軍神から解放されるという思いからでしょうが、久蔵は逆に生きる意味を完全に失ってしまったのでしょう、戦争が継続しているからこその軍神ですから。

 映画は、昔の若松孝二監督の作品に比べると、前作『実録・連合赤軍』同様、随分と分かりやすく制作されていると思われます。戦争の悲惨さを前面に出すのではなく、極端な状況設定ではありますが、夫婦二人の生活を専ら描いているわけですから。
 とはいえ、映画は、それを決して一本調子に描くことはせず、シゲ子は、軍神の妻という当初の強いられた立場ではなく、自分の実際の立場を理解した時からも、一方的に夫に辛く当たるわけではありません。久蔵が軍神とされることで村人から様々な差し入れがあり、物資の極度に乏しい中、それは非常に助かるわけですし、また夫を労わる気持ちが失せてしまったわけでもなさそうです〔ただ、それも、夫がトラウマに悩まされて性的不能に陥る前までですが〕。

 こうした大層難しい役柄を、寺島しのぶは、まさに体当たりで演じ切っています。ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞を受賞したのもよくわかります。
また、その相手役の久蔵を演じる大西信満も、CGにもよっていると思われますが、手足のない男の役をうまく演じているなと感嘆しました。

 ただ、この映画の問題点としては、ラストに唐突に映し出されるBC級戦犯の絞首刑の様子を映したニュース画像や、空襲や原爆の犠牲者数、戦場での死者数、それに処刑された戦犯の人数を示す画像の部分ではないでしょうか?
 むろん、それらは、先の戦争がもたらした悲惨な姿ではあるとはいえ、それまでの夫婦の物語とはかけ離れており、直接的すぎるものとなっていてバランスが取れていないのではと思えます。そうしたものを世の中に示したいのであれば、評論という形式で発表すれば十分であり、何もわざわざ映画という形式の中に押し込む必要はなかったのではという気がします(注)。

(注)8月13日の朝日新聞夕刊に掲載された佐藤忠男氏が、「戦争が結局どれだけの被害をもたらしたかを声を大にして述べている。力のこもった映画である」と述べるように、評価する向きも多いとは思いますが。

(2)この作品は、クレジットロールなどを見ても、江戸川乱歩の『芋虫』(角川ホラー文庫)を原作とはしていませんが(注)、私には、『芋虫』に負っているところがかなり大きいのではと思います〔元々、タイトルの意味するところが同一ですし〕。



 言うまでもなく、『芋虫』は、昭和6年の満州事変よりも前の昭和4年の作品ですから、『キャタピラー』とは時代設定が相当異なります。また、話の中心となる傷痍軍人の地位も、『芋虫』が中尉であるのに対して、『キャタピラー』は少尉です。
 とはいえ、『芋虫』において、「両手両足は、殆ど根元から切断され、僅かにふくれ上がった肉塊となって、その痕跡を留めているに過ぎないし、その胴体ばかりの化物の様な全身にも、顔面を始めとして代償無数の傷痕が光っている」とされる須永中尉の姿は(P.14)、まさに『キャタピラー』の久蔵と同一です。
 さらに、『キャタピラー』では、久蔵とシゲ子の夫婦が一軒家に暮らしているところ、『芋虫』においても、須永中尉とその妻の時子とが離れの一軒家で生活しています。
 要すれば、基本的な設定という点で、『キャタピラー』は『芋虫』とほとんど同一といえるでしょう。
 ただ、異なる点も多いにあります。なにしろ、原作では、シゲ子に両目を潰されて視覚まで失ってしまった須永中尉が、古井戸に飛び込んで自殺してしまうのですから。

 ここで参考になるのが、この江戸川乱歩の短編をほぼ忠実に漫画化した作品、すなわち丸尾末広作『芋虫』(エンターブレイン、2009.10)でしょう。



 とはいえ、“忠実に漫画化”といっても、原作それ自体から受けるのとはまるで違った印象を持ちます(「脚色/作画 丸尾末広」となっています)。
 というのも、漫画において、作者の丸尾末広氏は、原作のなかでも特に、そのエロチックな部分を思い切り拡大しているからです。
 そうしてみると、逆に、映画『キャタピラー』においては、むしろイデオロギッシュな面を付加強調しようとしているという印象を受けます。

 とはいえ、原作の短編は戦前に雑誌掲載されたものですから、どちらの要素も前面には出されていません。むしろ、現時点でこの原作を読んでイメージを拡大したり付加しようとしたら、当時の検閲のために伏字となっている個所(文庫本では「……」で表示されています)が、一つの手掛かりになるのではないでしょうか?
 たとえば、「それを見ると、時子は、いつもの通り、ある感情がうずうずと、身内に湧起こって来るのを感じるのだった。彼女は狂気のようになって、…………。」(P.14)
 こういったあたりを一つの契機にしながら、丸尾氏は、あの独特の漫画を描き出したのではと考えられるところです。

 そこから連想を働かせれば、たとえば、次のような個所が、若松監督のイメージに一つのよりどころを与えているのでは、とも想像されるところです。
 「上官や同僚の軍人達がつき添って、須永の生きたむくろが家に運ばれると、ほとんど同時位に彼の四肢の代償として、…………。」(P.20)
 「凱旋騒ぎの熱が冷めて世間も淋しくなっていた。もう誰も以前の様には彼女達を見舞わなくなった。…………。」(〃)
 ここらあたりを一つの跳躍台としながら、若松監督は、久蔵が拠り所としている勲章と新聞記事をシゲ子が投げ飛ばすシーンをイメージしたり、さらにはラストのニュース映像の挿入などにつながっていったとも考えられるところです。

(注)この映画のパンフレットに掲載されている若松監督のインタビューには、「四肢を失った傷痍軍人という設定は、『ジョニーは戦場へ行った』という映画や、江戸川乱歩の『芋虫』などの作品から感じ取ったイメージの影響が頭の中にありました」と述べています。

(3)上記の江戸川乱歩作『芋虫』では、夫(須永中尉)は聴覚まで失っていることになっていますが、映画『キャタピラー』では、シゲ子が何か言うと頷いたりしますから、完全ではないものの、ある程度聴覚は残っているのではないかと推測されます。
 それはともかく、この映画では、2人がコミュニケーションをスムースにしようと努めているようには描かれてはいません(一度、久蔵は、鉛筆を口にくわえて文字を書きますが、その1回だけで継続しません。食べて寝てセックスするだけですから、言葉によるスムースなコミュニケーションなど元来不要なのかもしれませんが!)(注)。
 他方、たとえばフランス映画『潜水服は蝶の夢を見る』(2008年公開)では、脳溢血で全身麻痺状態に陥りながらも、機能が残っている左眼の瞼を動かすことで、周囲とコミュニケーションをとり、挙句は本の出版まで漕ぎつける様子が描かれていました。
 むろん、雑誌の編集長と、農村出の一介の軍人とを同列に比べても仕方がないものの、それにしても『キャタピラー』における夫婦には、お互いの意思をスムースに疎通させるための努力がもっとあってしかるべきでは、とも思われたところです。

(注)『芋虫』でも、『キャタピラー』の久蔵と同じやり方(口に鉛筆をくわえる)で、須永中尉は意思の疎通を図っていますが、久蔵と同じく十分ではありません。それは、「生来読書慾など持合せなかった猪武者であったが、それが衝戟の為に頭が鈍くなってからは、一層文字と絶縁してしま」たことによるところも大きいのでしょう(『芋虫』P.16)。

(4)映画評論家はこの作品を高く評価しています。
 小梶勝男氏は、「イデオロギッシュな作品ではあるが、それだけでない。ベルリンで受賞したからというわけではないが、寺島しのぶの演技はやはり凄い。作品をただの反戦イデオロギー映画でも、変態ホラーでもなく、一種独特のファンタジーにしているのは、映画の中心に常に寺島がいるからだろう」等として80点を、
 渡まち子氏は、「60年代から70年代の政治イデオロギーを題材にすることが多かった若松監督にとって、戦争を描いた本作は過去の歴史をより深く総括する、ある種の集大成と言えるだろう」し、「戦争に正義などなく、ただ無残なだけ。これほどの深いテーマを84分という短い尺で描ききる演出力に感嘆する。戦場を直接描くことなく、戦争の愚かな本質が痛いほど伝わる静かな力作だ」として70点を、
 福本次郎氏は、「物語は、軍神と祭り上げられた傷痍軍人と妻の姿を通じ、人間のエゴの正体に迫る」のであり、「もはや穀つぶしでしかないと自覚し、戦争の加害者でもあり被害者でもある久蔵の苦悩を、シゲ子とのヒリヒリするようなやり取りの中で浮かび上がらせる脚本と演出の仕掛けがスリリングだ」として70点を、
 前田有一氏は、「戦場で負傷した夫が手も足も切断され、口もきけない「芋虫=キャタピラー」状態で戻って」きた後の「悲惨な夫婦生活を描くことで、戦争の無益さ残酷さを訴えるような作品なのかなとおぼろげに想像していた」が、「しかし映画『キャタピラー』のテーマは、まったくそんな次元のものではなかった」云々として65点を、
それぞれ与えています。

 ただ、前田有一氏は、「よく考えてみると二人のドラマはじつのところ戦争とはほとんど関係が無く、単なる夫婦の間のいち問題にすぎないように見える。戦争は確かに物語を動かすきっかけとなってはいるが、極端な話これがただの業務上の事故か何かであっても、同じやりかたで同じテーマを描くことはできるだろう。そんなわけで、上手にまとまっているとは思うものの、監督が伝えたかったであろう「反戦争」のテーマはあまり感じられない」としています。
 しかしながら、前田氏は、この映画では、妻シゲ子は「絶望した表情、態度を垣間見せる」が、「この映画における「絶望」は「夫の姿そのものとは別の場所にある」」のであって、それが何処にあるかの回答の「ヒントは「軍神」と「勲章」」だと述べています。要すれば、「軍神」と「勲章」によって妻シゲ子の自由が奪われたことが「絶望」をもたらしているのだ、と前田氏は言いたいのでしょう。
 とすれば、「二人のドラマはじつのところ戦争とはほとんど関係が無」いなどと断定できるでしょうか?というのも、件の「軍神」と「勲章」とは、国によって引き起こされた戦争によって国からもたらされたものなのですから! 「物語の最後、ある大事件がおきたとき、二人の表情は鮮やかに明暗が別れる」のも、まさに「戦争」に対する二人の姿勢の違いが表現されていると言えるのではないでしょうか?
 おそらく、前田氏は、映画のラストで映し出される、BC級戦犯の絞首刑の様子を映したドキュメンタリー画像や、空襲や原爆の犠牲者、戦場での死者、それに処刑された戦犯の人数を示した画像の部分を見ずに、映画館を後にしてしまったものと思われます。


★★★☆☆




象のロケット:キャタピラー
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シルビアのいる街で

2010年09月11日 | 洋画(10年)
 ストラスブールがじっくりと描かれていることに興味をひかれて、『シルビアのいる街で』を見に、渋谷のイメージフォーラムに行ってきました。
 この映画館は、今年の初めに『倫敦から来た男』を見て以来のことです。

(1)この映画のストーリーといったら、数行で済ますことができるでしょう。
 すなわち、ドイツとの国境に近いストラスブールを訪れた画家志望の青年(グザヴィエ・ラフィット)が、演劇学校前のカフェに座りながら、6年前にこの街で見かけたシルビアを探すうち、それらしい女性(ピラール・ロペス・デ・アジャラ)が目にとまり、ずっと彼女の後を尾行するも結局人違いとわかります、ですが、その青年は翌日から再び同じカフェで人探しを続ける、というものです。



 会話のシーンといったら、自分が尾行した女性と青年との簡単なやり取りだけで、あとはストラスブールの中心街らしきところを、青年と女性が歩きまわるシーンばかりなのです。
 と言って、この作品は、ストラスブールの観光案内映画ではありません。
大聖堂とか美術館、欧州議会などといった名所には目もくれず、ヨーロッパではごく普通と思われる都市の風景が描かれます。
 ですが、日本の都市の風景とはまるで異なっており、両側の時代を経た石造りの重厚な建物の間を、最新のトラム(窓が広く取られていて、またバリアフリーで床がかなり低い位置にあります)が走ったりしています。

 女性は、そうした表通りから脇道に逸れ、裏通りを、そして再び表通りを、足早にどんどん歩いていきます。



 青年の方も後を追いかけるので精一杯、彼女がトラムに乗ったためにようやく追い付いて、青年は彼女に話しかけます。
 しかし、彼女はシルビアという名前ではなく、単に1年前この街にやってきたにすぎないとの話。加えて、尾行されているのはずっとわかっていて、彼をまく為に路地に入っていったり、店に立ち寄ったりしたとのこと。あいにくとその店は閉店していたためにうまくいかなかったようですが。
 これには彼は驚き、「What a disaster(英語字幕)」と言いながら謝罪します。

 たったこれだけのことを描いている作品ながら、1時間半近い映画を最後まで退屈せずに見てしまうのですから、観客として実に不思議の感に打たれます。

 たぶん、その一つの要素は、登場する女性が皆若くて美人ばかりということがあるかも知れません。
 なかでも、やはりシルビア似の女性は、スタイル抜群で、全身からいつもオーラを発散しているようです。そんな女性なら、いつまでも見ていようという気にもなってきます。



 ただ、それだけでなく、カフェで青年が見かける女性が、皆とびきりの美人ばかりなことにも驚いてしまいます。初めのうちは、演劇学校の前にあるカフェだから、そこに出入りする女性は、美人が多いのかもしれない、などと思ってしまいますが、こうも青年が見つめる女性が美人ばかりだと、違ったようにも思えてきます。
 すなわち、シルビアの面影を探している青年には、どの女性にもシルビアらしいところを見てしまうのかもしれない、美人に見えるのは青年の目からなのであって、客観的に外から見れば、どこの都会のカフェにでも座っていそうな普通の女性ばかりなのではないか、と思えてきます。
 なにしろ、シルビアだと思って尾行し続けた挙句、人違いだとわかるわけですから、青年の目には確からしさがないのではないでしょうか?

 マアともかく、すごく不思議な映画時間を体験したというべきでしょう。

(2)上でも書きましたように、この映画ではストラスブールの脇道の様子がじっくりと描き出されています。
 たとえば、冒頭では、青年が宿泊する簡易ホテル(hotel patricia)の部屋の様子が描かれ、次いでホテルの前の道(画面の手前から奥に向かっています)とそれに直行する道(画面の左右に通じています)の様子が、手前の方向から見た画像として長々と映し出されます。
 午前中のことでしょう、人々が次々とこの道を通っていきます。
 最後に、右手に位置するホテルの出入り口から青年が現れて去って行くところを映してこのシーンは次のシーンに変わります。

 これはこれでよく見かける画像でしょう。ただ、途中でなんとなくですが変な気がしてきます。というのも、正面の左右に通じる道路に通行人が登場する仕方やその歩き方が、なんだか不自然な感じがするのです。そんな風に人は通らないし、歩かないのではないか、という感じがしてきます。なにか、演劇を見ているように、計算され尽くしたプランに従って人々が行動しているように思えるのです。

 と思って、劇場用パンフレットに掲載されている監督(ホセ・ルイス・ゲリン)のインタビュー記事を読みましたら、「すべての要素をコントロールしながら撮影するのが私の希望」であり、「街それ自体が持っているリズムを正確に把握して、俳優たちを配置し」たし、「自転車が出てきたりという場面もすべて自分が構成し」たから、「すべての場面に計算されたところと、偶然のものという対比・対立があ」る、とあります。

 同監督は、小津安二郎の『東京物語』に魅せられ、この映画も小津監督のようにやりたいと考えたとのこと。
 なるほど、こういうところにまで小津安二郎の影響が及んでいるとは、と大層驚き、かつ感動しました。


(3)映画評論家の意見は分かれるようです。
 前田有一氏は、「きわめて実験的な異色ムービーは、彼が愛する女性を求める数日間の様子をひたすら観察するだけの映画であ」って、「信じがたいことではあるが、基本的にこの映画はたったこれだけの内容である。なんとつまらない実験映画だろうと思っただろうか?否。これが案外面白」く、「ストーカー的ともいうべき行動にはまりこみ、すっかり「黒い恋」に侵されている哀れな主人公氏だが、見た目がとんでもないイケメンなので不快感はない。ただしイケメンに限る、を地でいくストーリー」だ、として60点を与えていますが、
 他方で、福本次郎氏は、「カフェで偶然見かけた女の、男は後をつける。通りを渡り、繁華街を抜け、迷路のような裏路地を足早に歩く彼女を、少し距離を置いて追う」のだが、「たったこれだけの話、30分程度の短編ならば映画に対する興味を持続できたのだが、この内容で90分近い上映時間集中力を切らさないようにするにはかなりの努力が必要だった」として40点を与えているにすぎません。


★★★☆☆



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ヒックとドラゴン

2010年09月08日 | 洋画(10年)
 アニメ『トイ・ストーリー3』が大人の鑑賞に十分耐えられる作品であることがわかったことから、もう一つの評判の高いアニメ『ヒックとドラゴン』も見てみようと思って、吉祥寺バウスシアターに行ってきました。
 ここはやや小ぶりの映画館ながらも、「3D」(吹替え版)で上映しているのには驚きました。また、映画館の前の方の席には、子供に混じって、一人で見に来ている大人が何人もいて、この映画に対する一般の関心の高さをうかがわせました。

(1)この作品の物語は、バイキングのリーダーの息子ヒックが、トゥースと名づけられた最強ドラゴンとの友情を深めたことから、敵対していたバイキングとドラゴンたちとが友好関係を築くようになり、ついにはドラゴンたちを背後で支配していた巨大な「怪物ドラゴン」を打倒することに成功し、バイキングの村に平和が訪れるというものです。

 将来はバイキングのリーダーと目されていたヒックは、バイキングの伝統的な武器をもってドラゴンと戦うことにかけてはからきし駄目なところ、ドラゴンと親しい関係を作る面は勇敢で、それを通じてバイキングたちの信頼を次第に勝ち得るわけですが、その過程がこのアニメでは実に見事に描き出されていると思いました。

 まずヒックは、自分の弓矢で仕留めた最強ドラゴンのナイト・フューリーを探し出して殺そうとしますが、どうしてもそれができずに、逆に痛めた翼の代わりになるものを取り付けてあげます。また、食料となる魚を獲ってきて差し出したりします。そういう過程を通じて、両者の間には次第に友情が芽生えてきます。
 それを出発点として、ドラゴンたちは決してバイキングに敵対的ではないことがわかり、そのことがヒックの仲間のアスティたちにもわかってきて、さらには、他のバイキングたちが多数詰めかけている競技場で、様々のドラゴンと親しい関係を持つようになる様を見せることで、バイキングたちの認識を変えるように促します。
 こうしたプロセスが丁寧に描き出されているために、弱虫に見えたヒックがバイキングの支持を得るに至っても、見ている方は違和感なく受け入れることができます。

 それと、「3D」の点では、これまでのどのアニメよりも優れているのではないかと思います。無理に画面が前に飛び出さず、画面に自然に奥行きが出ていて、見ていて疲れることはありません。まさに、下で触れる映画評論家の渡まち子氏が言うように、「ヒックがトゥースに乗ってフワリと浮き、一気に加速する飛行シーンなど、ワクワクする3Dの映像が素晴らしい」と思いました。

(2)このアニメは、ヒックがナイト・フューリーのトゥースに乗って空中を飛んでいる様子を見ると、『アバター』で、ジェイクらがバンシーに跨って飛んでいる姿とダブってきます。



 そこで、もう少し『アバター』と比べてみましょう。
 いうまでもなく、『ヒックとドラゴン』は純然たるお伽噺の延長線上にある物語ですし、『アバター』は近未来のSF物で、リアリティの度合いは随分高い感じがして、相違点の方が多いかもしれません。ですが、どちらもファンタジーであって、類似するところはいくつも見つかります。
 そんな類似点を探すには、ナヴィ族側から見た方が好都合かもしれません。

 たとえば、次のようには考えられないでしょうか?
 ナヴィ=バイキング
 地球人=ドラゴン
 クオリッチ大佐(資源開発会社RDAの保安部門の指揮官)=怪物ドラゴン
 アバターとしてのジェイク=ヒック
 ネイティリ=アスティ
 バンシー=トゥース

 すなわち、衛星パンドラの希少鉱物資源を確保したい地球人と原住民ナヴィとの小競り合いは、バイキングとドラゴンとの間の戦いに類似していますし、地球人の科学者グレースがジェイクの行動に理解を持つところは、バイキングがドラゴンに親しみを懐くようになるところに似ています。
 そして、ヒックらが怪物ドラゴンを退治するシーンは、まさにクオリッチ大佐が操縦するスーツとジェイクとナヴィらとの闘いの場面に相当すると言えるのではないでしょうか?

(3)映画評論家のこの映画に対する見解は、両極端に分かれるようです。
 前田有一氏は、「いくらほめてもたりないほどの傑作であるが、それは様々な要素が高いレベルで融合された、すなわち完成度の高さによるもの。何かが突出して良いのではなく、すべてがハイクオリティ。まさに死角のない横綱」として97点を、
 渡まち子氏は、「敵同士が歩み寄って互いのことを理解する。言うは易し行うは難しのこの行動を、弱虫の主人公がやってのけるファンタジー・アニメの秀作」であり、「ヒックがトゥースに乗ってフワリと浮き、一気に加速する飛行シーンなど、ワクワクする3Dの映像が素晴らしい。3Dがストーリーに自然にフィットする作品で、存分に楽しめる」として80点を、
それぞれ与えていますが、
 福本次郎氏は、「映画はバイキングの少年とドラゴンの交流を通じて、己の論理を相手に押しつけるのではなく、お互いが幸せになるような道を探り合うことの大切さを描く」が、「クライマックスで、ドラゴンの女王を見つけたバイキングたちはそれに集中攻撃をかけるのだが、他のドラゴンは女王を守ろうとせず、むしろバイキングを女王の専横からの解放者のように迎え入れる。「独裁国家から民衆を解放する米国」という構図を見ているような気になった。。。」として40点しか与えていません。

(4)前田有一氏は、この映画についてさらに、「伝えようとしているのは、建国当時から続く「皆殺しによる平和」「敵を圧倒するアメリカ」の精神ではない。殺しあってきた敵と、共生の道を探る。少年ヒックと最強のドラゴン・トゥースのコンビを架け橋に、両種族を平和へ導こうとする挑戦は、現実の国際政治が抱えるあらゆる紛争問題へのひとつの回答である」と述べています。

 確かに、死闘を繰り返してきたバイキングとドラゴンたちは、ヒックが最強のドラゴンと親しい関係を築き上げたことを通じて、敵対するのを止めるに至ります。
 ですが、ドラゴンたちがバイキングの家畜を襲った元凶である「怪物ドラゴン」については?
 ヒックは、トゥースたちに使ったコミュニケーションの技を、どうしてこの怪物には使わないで、問答無用とばかりにいきなり攻撃してしまうのでしょうか?

 ここには、最近のアメリカの対テロ戦争に取り組む姿勢と同じものが垣間見られるようです。
 すなわち、イラクやアフガニスタン等におけるテロ攻撃に関して、真の敵は、イラク国民やアフガニスタン国民ではなくアルカイーダだとして、その指導者ビン・ラディンらの行方を執拗に追求しています。
 この姿は、ヒックらが、普通のドラゴンとは友好関係を結びながらも、「怪物ドラゴン」とは敵対関係を継続するのと類似していると言えないでしょうか?
 そして、そうだとすれば、この映画が「現実の国際政治が抱えるあらゆる紛争問題へのひとつの回答である」とする前田氏の姿勢も疑問に思えてくるところです。
 レベルは一層掘り下げられているにしても(対峙する勢力の中に真の敵を見分けるという点で)、凄惨な殺し合いが続く事態は何も変わらないのですから!


★★★☆☆





象のロケット:ヒックとドラゴン
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