映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

サラの鍵

2011年12月27日 | 洋画(11年)
 『サラの鍵』を銀座テアトルシネマで見ました。

(1)この映画は、以前見た『黄色い星の子供たち』で描かれたのと全く同様の事件(注1)を取り扱った作品で、そちらがかなり実録ベースであるのに対して、こちらはフィクション仕立てになっています(注2)。
 そして、そちらは、当時のユダヤ人の視点に立ちながら、検挙されたユダヤ人が一旦「屋内競輪場ヴェル・ディヴ)」に集められ、そこからフランス国内の収容所に移されて、ついにはドイツやポーランドの絶滅収容所に送られるところまでが映し出されますが、こちらは、現在の時点で展開される物語の中で、同じ事柄が描かれています。
 すなわち、ジャーナリストのジュリアクリスティン・スコット・トーマス)〔元はアメリカ人ですが、もう長いことパリで生活しています〕は、この事件に関するレポートを雑誌に掲載すべく取材しているうちに、とんでもないことが分かってきます。というのも、内部を大改装して自分たち家族がこれから住もうとしているアパートは、実は、この事件で検挙されたユダヤ人が居住していたものだったのです(ユダヤ人が立ち退いて空き室になったものを、昔、彼女の義理の祖父母が取得したという訳です)。
 さらには、まさにその部屋で、この事件にまつわる忌まわしい出来事があったこともわかってきます。すなわち、1942年の事件に際して、その部屋に住んでいたサラメリュジーヌ・マヤンス)という少女が、ユダヤ人を検挙すべくフランス警察が押し入ってきた際に、弟ミシェルを逃れさせようと、納戸に入れて外から鍵を掛けてしまったのです(注3)。



 サラは、「屋内競輪場(ヴェル・ディヴ)」を経由して地方の収容所に送られたものの、納戸に閉じ込めたままになってしまった弟のことばかりが気懸りで、やっとのことでそこを脱出して(注4)、パリのアパートに立ち戻り、それまで大事に握りしめていた鍵を使って納戸を開くのですが、……。

 ジュリアは、その後のサラの行方を追い求めて、フィレンツェからニューヨークまで足を延ばします。
 その間、なかなか身ごもらなかった彼女が2番目の子供を妊娠するも、夫のベルトランは、今更子供は欲しくないと言い出して(注5)、夫婦の間に大きな溝が出来てしまったり、過去の忌まわしい出来事をほじくり返そうとするジュリアに対して、義父とか、アメリカに渡ったサラにできた息子ウィリアムなどが強い不快感を示したりします。

 映画を見るまでは、そして初めのうちは、『黄色い星野子供たち』と同じように、強制収容所のことが専ら描かれるのかな、と思っていましたが、現代に生きるジュリアが主人公だとわかってくると、映画の複雑な構成にも引きつけられて(注6)、久し振りに質の高い文芸作品を見たな(注7)、という充実した気分になりました。

 主演のクリスティン・スコット・トーマスは、昨年公開された『ずっとあなたを愛してる』や『ノーウェアボーイ』で大変印象に残る演技を披露したところですが、本作においても、まさに彼女ならではの存在感のある瞠目の演技を披露しています。




(2)本作は、様々なレベルで読むことが出来ると思います。
 例えば、いうまでもなく、1942年の「ヴェル・ディヴ事件」という観点から(ただこれは、『黄色い星の子供たち』でかなり描かれています)。
 中心的には、ジュリアの生き方(アメリカ人が、「ヴェル・ディヴ事件」を通してユダヤ人問題に触れてどのように変わっていくか、など)。
 あるいは、ジュリアとベルトラン(それに娘のゾーイ)の家族という観点。
 または、過去の真実の追求ということ(注8)。
 それに、サラの生きざま(注9)、などなど。

 ただここでは、少し趣向を変えて、本作において重要な役割を果たしていると思われる「」について少しばかり見てみましょう。
 一つは、むろん、サラが弟を閉じ込めた納戸の「」です。弟は自分の言うことを聞くから、自分で納戸を開けて出てきはしない、それでは大変なことになると思い、フランス国内の収容所に送られたサラは、「鍵」を使って納戸を開けることだけを考え詰めます。要すれば、開くために使われる「鍵」といっていいでしょう。

 ところが、ジュリアの義理の父親は、ジュリアらがこれから住もうとしている家は1942年に祖父母が取得したものであること、さらにはサラが戻ってきて納戸を開けたことまで知っているにもかかわらず、それをずっと黙ってきたのです。その上、その事実をジュリアが明るみに出そうとすることに対して、義父は強く非難したりします。ここでは、過去を封じ込めるために、想像上の「」が使われているといえるのではないでしょうか?

 さらに、本作とは離れますが、もう一つの「鍵」の使い方もあるようです。
 谷崎潤一郎の小説『』においては、夫と妻が、それぞれ付けている日記を抽出などの隠し場所に隠していて、それに「鍵」をかけているのですが、その鍵の在り処をお互いに知っていて、隠してある日記はお互いに盗み見られていることがお互いに分かっている、という設定にされた上で、それぞれの日記がほぼ交互に掲載されていきます(注10)。
 つまり、この小説における「鍵」は、かかっているようでいて、実はかかってはいない感じなのです(注11)。

 なお、アメリカに渡ったサラが産んだウィリアムは、当初は、「鍵」をかけてしまっておく過去など何も持っていなかったにもかかわらず、ジュリアに母親がユダヤ人であると告げられると、鍵をかけておくべき過去があたかもあったかのような態度に出て、ジュリアを激しく拒絶します。これは、鍵のもう一つの使い方(なかった鍵を新たに作り出す、とでもいったらいいのでしょうか)といえるかもしれません(注12)。

(3)渡まち子氏は、「この物語は、ホロコーストを過去の“点”ではなく、現代へと続く線、あるいは面としてとらえることで、命は次世代に引き継がれ、未来への希望が生まれることを教えてくれる。ラストシーン、娘の名を聞かれたジュリアが答える場面では、胸いっぱいにあたたかい感動が広がった」として70点を付けています。
 また、粉川哲夫氏は、ジュリアが、「謎を追い、パリから生まれ故郷のブルックリン、さらにはフィレンツェまで動くのは、一見「探偵ドラマ」風だが、それは、交互に描かれる古い時代のシーンとのたくみなバランスのなかで単なるエンターテインメントに堕すことをまぬがれる。収容所からからくも逃れ、生き延びたサラという少女の悲痛なドラマは、そのままならお涙頂戴のドラマになりかねないが、交互に挿入されるジュリアの「現在」(2009年とそれ以後)によって「異 化」され、内省的な静溢さをもたらしている」と、★を5つ付けています。




(注1)1942年に、パリのユダヤ人を一斉検挙した「ヴェル・ディヴ事件」のこと。1995年になって、当時のシラク大統領がその事実を公式に認めて、犠牲者に謝罪しました

(注2)本作は、タチアナ・ド・ロネの同名の小説(邦訳は高見浩訳で新潮社から)を映画化したものです。

(注3)劇場用パンフレットのProduction Notes には、「ブレネール監督とジョンクールが共同で手掛けた脚本は小説に忠実」ながら、「警察が来たとき、サラの弟は自ら納戸に隠れる」が、「映画では、サラが彼に隠れるように言う」、とあります。
 確かに、原作小説では、警察が踏み込んできたとき、「僕、秘密の場所にいくよ」とミシェルは「ささやき」、「だめー」「一緒にいくのよ。こなきゃだめ」とサラは「せっつ」きます。サラは、「弟をつかまえようとし」ますが、ミッシェルは、「寝室の壁の裏に設けられた、奥行きのある納戸の中にもぐりこ」みます。「そこはいつも2人が隠れんぼをして遊ぶ場所」でした。そして、ミッシェルは、「怖くない。鍵をかけてくれれば、絶対につかまらないよ、ぼく」と言うのです。サラは、「外部の人間には、この壁の裏に納戸があるなどと見抜けないはずだ。弟はここにいたほうが安全だ。間違いない」、「あとで、きょうのうちに帰宅が許されたら、もどってきて弟を出しやればいいのだ」と思います(邦訳P.16~P.17)。

(注4)『黄色い星の子供たち』でも、少年ジョーがもう一人の少年と収容所を脱出するのですが、その作品では、途中経過が省かれて(裕福な家の養子となった、と説明されますが)、いきなり戦後となって、メラニー・ロラン扮する看護士がジョンと再会する場面となります。
 これに対して、本作では、サラは友達と一緒に収容所を脱出しますが(『黄色い星の子供たち』と同じように、収容所の周囲は、背の高い草が一面に生えている草原なのです)、そこからサラが、自分のアパートに戻るまでが詳しく描き出されています。



 すなわち、サラは、一度は追い出された農家で何とか匿われた上(もう一人の友人は、ジフテリアに罹って死んでしまいますが)、男の子に変装してパリに戻って、元の家に入り込みます。その後は、またその農家で働きますが、戦後暫くして、家出をしてしまいます。

(注5)夫のベルトランは、一人娘のゾーイが10代になっていることだし、アパートも整いつつあるし、それに年老いた父親になりたくない、といった理由で、ジュリアが子供を産むことに強く反対し続けます。

(注6)映画は、「1942年の最初の小麦がペタン元帥に送られました」との文字映像から始まり、フランス警察がサラたちの住むアパートに乗り込んで来る場面となり、ついで、ジュリアが勤務する雑誌社の編集会議のシーン、そして1942年の「冬季競輪場」へという具合に、当時と今とが煩雑に入り組んで映し出されます。

(注7)例えば、ジュリアの一家の一人娘ゾーイは、多感な時期で(14歳)、ジュリアが何も説明しないで各地を飛び回っていることなどに批判的ですし、また今頃自分に妹ができることも釈然としない感じです。ジュリアが出産後夫と別れてニューヨークで生活するときも同行するものの、やはり父親のいるパリの方がいいと言い出す始末。といった具合に、登場人物一人一人に複雑な性格が与えられているのです。
 なお、ゾーイが父親とPC電話で話していると、その最中に、父親の方の画面に、彼が一緒に暮らしているらしい女性が一時現れたりするのです。

(注8)サラがアメリカで産んだウィリアムエイダン・クイン)は、生まれてスグにカトリックの洗礼を受けたこともあって、自分がユダヤ人であることを知らずに大人になりました。ですから、当初ジュリアから母親のサラのことを聞いた時は、酷いショックを受け、その事実を受け入れることを拒絶します。



 ですが、その後、病に伏せる父親から、母親サラの真実の姿を知らされ(「彼女は私が人生の中で出会った女性の中で一番美しい」などと語ります)、また遺品なども手渡されます(手渡されたノートから、例の「鍵」が出てきます)。
 それで、ジュリアがニューヨークに移り住んで再会した時には、ウィリアムの態度は一変しています。ジュリアが、「自分の態度は傲慢だった」と述べると、ウィリアムの方も、「あなたのおかげで、父も落ち着いて死んだ」と述べたりします。
 さらに、ジュリアが、生まれた娘をサラと名付けたと言うと、ウィリアムは泣き崩れてしまいます(こうした姿から、ジュリアとウィリアムとが結婚するに至るのではと考えられもしますが、ただジュリアは、ウィリアムに対し、「そろそろパリに戻ろうと考えている、ゾーイがニューヨークは嫌いというもので」と言うことなどからすると、そこまでには至らないのではと考えられるところです)。

(注9)サラシャーロット・ポートレル)は、車の事故で亡くなりますが、ウィリアムの父親(すなわちサラの夫)によれば、それは事故ではなく自殺だったとのこと。鬱状態となっていて、クスリやアルコールに溺れていたようです。
 なお、劇場用パンフレットのProduction Notesには、「ブレネール監督とジョンクールは、小説では描かれなかった“大人になったサラ”のキャラクターを作り上げた」と述べられています。
 確かに、原作小説では、サラを匿ってくれた農夫の孫の話として、「フランスとちがってホロコーストと無関係だったところにいきたい」と言って、「サラは1952年の末にフランスを出国した」とあったり(邦訳P.279)、「母の死は自殺だった」とウィリアムが述べるくらいがせいぜいのところです(邦訳P.375)。



(注10)妻の日記には、例えば、「私は勿論夫が日記をつけていることも、その日記帳をあの小机の抽出に入れて鍵をかけていることも、そしてその鍵を時としては書棚のいろいろな書物の間に、時としては床の絨毯の下に隠していることも、とうの昔から知っている」(P.14)と記載されている一方で、夫の日記には「妻ガコノ日記帳ヲ盗ミ読ミシテイルコトハ殆ド疑イナイ」と書かれているのです(新潮文庫P.33)。
 また、夫の日記にも、「ヤッパリ推察通リダッタ。妻ハ日記ツケテイタノダ」、「今日彼女ガ映画ヲ見ニ出カケタ間ニ茶ノ間ヲ探シテ、容易ニ探リアテルコトヲ得タ」(新潮文庫P.56~P.57)と書かれています。

(注11)この小説は、これまで都合4回映画化されています〔Wikipediaのこの項目を参照。ただし、3番目の作品について、若松孝二は監督ではなくプロデューサー(監督は木俣尭喬)〕。
 そこで、有名な第1番目(1959年)の市川昆監督のものをDVDで見てみましたが、映画自体は素晴らしい作品ながら、なんとそこでは「日記」も「鍵」も登場せずに、小説では脇役でしかない木村の話として、それもサスペンス物として描かれているのです。
 なお、「鍵」について、3番目の作品(1983年)においては、このHPによれば、「この映画で言う「鍵」は日記帳の鍵ではなく、主人公の書斎にある金庫の鍵です。金庫の中には、妻との房事を事細かに綴った日記帳、怪しげな精力剤のアンプルと注射器、妻の裸体を撮るのに使うポラロイドカメラなどが入っている」とのことです。

(注12)なお、3月上旬の公開されるマーティン・スコセッシ監督の『ヒューゴの不思議な発明』の予告編を見ると、「ハート型の鍵」が重要な働きをするようで、また楽しみが一つ増えました。




★★★★☆





象のロケット:サラの鍵

ミッション・インポッシブル

2011年12月26日 | 洋画(11年)
 『ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作は、隅々までアクション映画で、見ている時はそれこそハラハラドキドキさせられ、手に汗を握りますが、見終わった途端に何も残らず消えてしまう感じになります。それでも、135分間食い入るように見させてしまうのですから、大した出来栄えといえるでしょう。

 とはいえ、冷戦下では米ソの対立というお誂え向きの状況があって、本作が力を込めて描き出す諜報活動にもかなりのリアリティが伴いましたが、米国の一人勝ちの今の世界では、かっての「スパイ大作戦」とか「007」のようにはいきません。
 そこで本作では、強者の世界を築くためには米ソ戦争核戦争を引き起こす必要があるなどと訳の分からないことを主張する狂信的な核兵器戦略家なる者を悪人に仕立てています(要すれば、最早、諜報機関も、国ではなく個人を相手にせざるを得ないのでしょう)。
 世界を破壊しようとするその核兵器戦略家のヘンドリクスは、偽の指令をロシアの原子力潜水艦の指揮官の元に入れて、核ミサイルを米国に向けて発射させようとします。
 イーサン・ハントトム・クルーズ)ら4人から成るスパイ・チームは、それを阻止すべく大活躍するというわけです。
 さらに、彼らは、ロシア側の捜査官らにも執拗に追跡されます。最初の方でクレムリン宮殿が爆破されますが、ヘンドリクスの仕業にもかかわらず、イーサンらによるものと見なされて。

 まあ、こんな背景は本作にとってはどうでもいいことなのでしょう。なににせよ、全世界を破滅に導こうとする極悪人がいるというだけで、あとはいかにギリギリの状況にイーサンが追い込まれるのか、といったことに専らの焦点が向けられるのですから。
 でも、いくらインドの富豪が途轍もない資金を蓄えているにしても、一実業家に過ぎない者が購入した旧ソ連の軍事衛星を使って、偽の指令をロシアの原子力潜水艦に入れるというストーリーは、個人が絡んだ事件ですから仕方がないにしても、スケールが小さすぎるのではという気がしてしまいます。
 それでも、トム・クルーズらは、核ミサイルを発射させるのに必要な情報を記した文書を奪うために、なぜかその文書の取引が行われるドバイに行き(注1)、世界一の高さのビル、ブルジェ・ハリファ(地上828m)で相手側と戦うわけですが、確かにその場面は、物凄い迫力がありました。



 なにしろ、劇場用パンフレットに掲載のProduction Notesによれば、特殊な手袋(ゲッコー・グローブ)で窓をよじ登ったり、ビルの壁を上から地面に向かって走り降りたりといったスタントを、トム・クルーズはスタントマンを使わずに自分でこなしたというのですから驚きです。

 登場する俳優陣は、トム・クルーズ以外もなかなか豪華です。
 途中までは単なる分析官と思われていましたが、実は同じ諜報員のブラントを演じるのは、『ハート・ロッカー』で主役を好演したジェレミー・レナーで、その俊敏な身のこなしはさすがと思わせます。



 女性諜報員を演じるポーラ・パットンは、『プレシャス』の教師役が凄く印象的でしたが、こうしたアクション物でも上手く嵌っています(注2)。



 核兵器戦略家のヘンドリクスを演じるのは、『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』でジャーナリストのミカエルに扮したミカエル・ニクヴィスト。敵役は実質的に彼一人なので大役ですが、なかなか大物振りを発揮しているのではないでしょうか。

(2)ギリギリのところまで迫った世界核戦争阻止を巡ってのスパイの活躍というと、昨年の夏に見た『ソルト』がすぐさま思い出されるところです。お話の概略や醸し出す雰囲気が似ているのもそのはず、『ソルト』は、元はトム・クルーズがやるはずだったところ、彼が降板したために、アンジーにお鉢が回ってきたとのことですから!
 例えば、『ソルト』では、ギリギリまで追い詰められたソルトが、高層マンションの窓を伝って逃亡するシーンが映し出されますが、本作においても、クレムリン宮殿爆破の煽りで傷を負ってロシア側に捕らえられたトム・クルーズが、病院の窓伝いに逃亡します(注3)。

 とはいえ、『ソルト』の場合、CIAにおけるアンジーの上司がロシアのスパイであり、アメリカの核兵器を使って世界に向かって核攻撃をするという計画を実行に移そうとしますが、本作の場合は、ヘンドリクスは、逆にロシアの原潜のミサイルを作動させてアメリカ本土に核攻撃を仕掛けるという計画をたてています。
 また、いずれの計画もスパイ達の人間離れした活躍で阻止されますが、『ソルト』では、主にアンジー個人が動き回るという従来型のところ、本作の場合、4人の諜報員の力がまとまって発揮されて計画が阻止されるという描き方となっています。
 といっても、チームのリーダーであるトム・クルーズの活躍に注目してしまうのは、『ソルト』でアンジーに目が釘付けとなるのと同じですが!

(3)映画評論家はこの映画に対して好意的なようです。
 テイラー章子氏は、「何の役にも立たないのだけど、痛快で面白い。この映画、一見の価値がある」として85点もの高得点を付けています。
 また、樺沢紫苑氏も、「テーマ的な深さはありませんが、何もも考えず楽しめるアクション映画ということで、ときらはこういう映画を見て、スッキリするのもいいでしょう」として80点を付けています。
 さらに、渡まち子氏も、「ハリウッドのトップをひた走る“最後の大スター”クルーズは、演技にアクションに、プロデュース業にと、八面六臂の大活躍だ。49歳の今も変わらず、白い歯がまぶしいハリウッド・スターは、観客を楽しませるため、本気で映画に取り組んでいる。エンタメ映画の王道を生真面目に行く本作、掛け値なしに面白い」として75点を付けています。



(注1)ドバイでは、物凄い砂嵐の中をイーサンがヘンドリクスを車で追いかけるシーンがありますが、この画像で見ると、実際にも大変な砂嵐があることが分かります。



(注2)彼女は腹に銃弾を受けますが、なぜかスグにその傷は癒えてしまっています。

(注3)劇場用パンフレットによれば、「ビルの突き出た棚からジャンプし、近くの電線を滑り降り、走行中のヴァンの屋根に飛び降りて、無事に地面に降りる」というシーンは、「本編全部のスタントと同じくクルーズ自身が演じたもの」とのこと。





★★★☆☆



象のロケット:ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル

瞳は静かに

2011年12月25日 | 洋画(11年)
 『瞳は静かに』を新宿のK’s cinemaで見ました。

(1)昨年見たアルゼンチン映画も『瞳の奥の秘密』とのタイトルでしたから、アルゼンチン映画というと、タイトルにどうして“瞳”が使われるのかな、とおかしな感じになります(この映画の原題は「アンドレスは、シエスタなんかしたくない」)。

 そんなつまらないことはさておき、『瞳の奥の秘密』(原題に近いタイトルです)は、十分に解明されなかった事件を裁判所の書記官が小説の形で告発しようとする作品で、その事件が25年前のものであることから、軍事政権時代に僅かながら結び付き、そして本作でも、軍事政権下とされます。
 ただ、軍事政権については、前作ではほんの少し仄めかされただけのところ、本作の時代設定は1977年~1978年と、まさにその真っ只中なのです。

 といっても、この映画では、その方面のことがハッキリと描き出されるわけではありません。
 冒頭、主人公アンドレス(8歳)の母親がいきなり交通事故に遭遇して死んでしまいます。
 というのも、彼女は、勤務先の病院で、秘密警察による拷問(ハッキリと説明されるわけではありませんが)で酷い傷を負った女性の姿を見て動転してしまい、病院から飛び出してしまったからです。
 彼女は、夫とは折り合いが悪く別居していて、今では反軍事政権系と思われる男と付き合っているという背景もあります(その男からは、ビラを託されたりしています)(注1)。

 母親を亡くしたアンドレスは、兄アルマンドと共に祖母オルガの家に引き取られ、そこで厳しい父親ラウルと、さらには伯父(祖母の兄)と一緒に暮らすことになります。



 ある夜、アンドレスが目を覚ましてカーテンの隙間から外を見ると、外で秘密警察によるリンチが行われているのです(実際には、暗くてヨクは分からないのですが)。祖母に告げて、その光景を共に見たにもかかわらず、翌朝になると一切何もなかったことにされてしまいます(注2)。

 といったような具合で映画は展開しますが、以上のような事柄も、映画の中できちんと明確に説明されるわけではありません。酷く曖昧に描かれるだけで、あとは観客側が補って見る他はありませんが、その方が逆に、当時の不気味な様が伝わってくる感じもします。

 この映画は、軍事政権時代を告発する作品というよりも、そうした時代背景の中で、多感な子供(注3)が、しっかり者の祖母(といっても、今の状況を必死で守ろうとし、現状を変革する様な動きは一切認めません)とどんな生活をしながら育っていくのか、という点をじっくりと描いていて、『瞳の奥の秘密』や『幸せパズル』と同様、アルゼンチン映画の質の高さを思い知らされました。

 とはいえ、事情がわからない外国の者は、この映画を見ただけでは至極曖昧なままの状況に置かれ、劇場用パンフレットなどで説明してもらってはじめて、ナルホドそうなのかと腑に落ちるわけで、やっぱりそれでは映画として片手落ちではないかと思ってしまいます(注4)。

 本作においては、幼いアンドレスを演じたコンラッド・バレンスエラが素晴らしいことは勿論ですが、祖母のオルガを演じたノルマ・アレアンドロもまた堅実な演技で、映画にただならぬ緊迫感をもたらしています。




(2)話は飛躍してしまいますが、アルゼンチンの軍事政権の下では、金総書記の死去にともなってみられる北朝鮮の昨今の状況と同様な感じになっていたように思われます。
 例えば、12月21日の朝日新聞には、次のような記事がありました。
すなわち、「朝鮮中央通信は21日未明、死去した北朝鮮の金正日総書記を悼む平壌市民の数が、19日正午から20日正午までの1日間でのべ500万人余に達したと伝えた。同市の人口は約200万人とされ、1人2回以上弔意を示したことになる」が、「北朝鮮で人々が動員される場合、人民班(町内会)や職場、学校単位でお互いを監視し合うのが通例。権力の掌握を急ぐ金正恩氏ら指導部が、追悼を巡る行動を通じて、住民統制を強化しているとみられる」とか、「94年当時、金総書記は金主席の死去を住民への統制力強化の手段にした。哀悼期間中、弔意を十分示さなかった者、飲酒した者、引っ越しをした者までが 「忠誠心が足りない」と処罰された。権力基盤の弱い金正恩氏が、同じ手法を使う可能性は十分あるという」などとあります。

 こうした人々が相互に監視し合う状況は、日本の戦時中(「隣組」!)とかヒトラー政権といった全体主義体制の下では、大なり小なり見られるものでしょう。

(3)この映画については、小説家の星野智幸氏が、劇場用パンフレットに掲載された「これは日本の現実でもある」と題するエッセイにおいて、「これは今の日本社会の雰囲気そのものではないか。軍政の暴力がないのに、私たちは何かに怯えている。怯えるあまり、自分に正直であることよりも、その場の空気に合わせることを優先してしまう」、「オルガやその家族のような人間が、私たちの周りにはあふれかえっている」、「日本ではオルガは、ごく普通の「いい人」だ。しばしば、「現実的な人間」と呼ばれる。アルゼンチンではその態度が軍政を支え、日本では例えば原発を増殖させている」などと述べています。
 むろん、そうした面は感じられないわけではありません。ただ、このように余りに大きなところから議論してしまうと、一方で軍事政権とか全体主義といった政治学的なレベルの問題(注5)が、他方で福島原発事故をより個別具体的な視点で捉えようとする自然科学的な姿勢が、それぞれ焦点から外れてしまい、結局のところ、漠然とした不安とか不満とかが醸成されるだけに終わってしまうのではないか、ともおそれるところです。

 話がまた飛んでしまい恐縮ですが、むしろ、民主主義・全体主義の方に目を移してみると、例えば、最近刊行された『一般意志2.0』(東浩紀著、講談社)が実に刺激的だと思われます。
 すなわち、ルソーの『社会契約論』について、「個人の自由を賞揚するかわりに、個人(特殊意志)の全体(一般意志)への絶対の服従を強調している様にも見え」、「個人主義どころか、ラディカルな全体主義の、そしてナショナリズムの起源の書としても読むことができる」と述べながらも(P.28)、著者の東氏は、「ルソーについて新しい解釈を提出し」、「ルソーの「一般意志」は、一般に考えられているのとは異なり、討議を介した意識的な合意ではなく、むしろ情念溢れる集合的な無意識を意味している」と述べ、さらに「わたしたちはいま一般意志を可視化する技術をもっている」のであり、「一般意志とはデータベースのこと」であり(P.83)、「大衆の無意識を徹底的に可視化し、制約条件として受け入れながらも、意識の光を失わない国家。熟慮とデータベースが補いあい、ときに衝突することによって、よろよろと運営される国家」をビジョンとして提起しています(P.171)。
 最近の「アラブの春」においてtwitterが果たした役割などを考えると、大層刺激的な論考と思われます(注5)。



(注1)その男については、映画のラストの方で、乗っていた車が黒こげで発見され、彼自身も行方不明だと告げられます(秘密警察によって処刑されてしまったのかもしれません)。

(注2)祖母の家では、アンドレスの母親に関する事柄はタブーになっていて、アンドレスが、母親の遺品を以前の家から持ち出そうとすると止められてしまいます〔更に、その家は、アンドレスが酷く執着しているのですが(母親との楽しい思い出が詰まっているのですから)、祖母は売り払ってしまおうとしています〕。

(注3)映画の最初の方では、仲間の子供達と、広場などで「警察ごっこ」をして遊んでいます。おそらく二手に分かれて、警官側が犯人側を追いかけるという“鬼ごっこ”のようなものと思われます。その際中、警察官側に捕まった犯人側の女の子が、ひもで縛られた手が痛いというと、アンドレスはその女の子を逃がしてやりますが、あとで仲間から非難されてしまいます。
 元々酷く優しい子供だったアンドレスが、祖母の家で暮らすうちに、内心を見せない反抗的な子供になっていきます〔挙げ句は、祖母が倒れてしまったとき(心臓麻痺と思われます)、アンドレスは、冷たく見ているだけで、遊びを止めようとしないのです!〕。
 これは、どの子供でも一定の年齢に達すれば見られる現象であると同時に、軍事政権下に置かれた大人達の態度が大きく影響しているものと思われます。

(注4)劇場用パンフレットに掲載されている監督インタビューで、ダニエル・ブスタマンテ監督は、「子供の視点」で作ったと述べています。そうであれば、同監督が自分の子供時代について、「何かが起こっていることは、気づいてい」たものの、「何が起こっているのか、よくわからない」状況だった、と言っていることから、映画全体が説明的ではなく至極曖昧なままになっているのも分からないわけではありません。
 ですが、例えば、冒頭の母親の交通事故に至る場面は、けっして「子供の視点」から描かれているものではなく、通常の映画と同じように「第三者の視点」で作られていると思われますから(アンドレスが後から聞いた話で作られた場面かもしれませんが、軍事政権の時代、いったい誰がアンドレスにそんな詳しいことを話したというのでしょうか)、もう少し事情を説明しても構わないのではと思われるところです。

(注5)東氏の著書について、精神科医・斎藤環氏は、「朝日新聞」の書評(12月18日)で、「私は、本書をひとまず「SF」として読んでみることを提案したい。この異様なアイデアから、いかなる未来図が描きうるか。そうした想像力のもとで「政治」について考えてみることは、決して無意味ではないはずだ」と述べています。
 他方、経済学者・池田信夫氏は、「アゴラ」の書評(12月3日)で、「ルソーをテーマにした本書のねらいはおもしろいのだが、その方向は微妙に現代日本の問題とずれている。/本書の「現代性」は、一般意志をソーシャルメディアと重ね合わせて一種のデータベースと考え、そこに集合的無意識としての「一般意志2.0」が成立すると考えたところだ。これは『スマートモブズ』などでおなじみの「集合知」の話だが、政治的には無意味なユートピアニズムでしかない。それは国家が何よりも暴力装置だという事実を理解していないからだ。/本書は国家権力の問題を無視しているため、そこで描かれるユートピアは、国民が国会審議を見てツイッターやニコ生でコメントする、といった漫画的なものでしかない。集合知で政治を動かすことはできないし、そういう「参加民主主義」は望ましくもない。むしろ平均1.4年に1度も選挙があり、人々が過剰に政治 参加することが、原発やTPPにみられる政治の劣化をもたらしているのだ。いま日本に必要なのは、むしろ民主主義を減らす改革である」などと述べています。
 ヨクは分かりませんが、池田氏は、東氏が、熟議に基づくこれまでの民主主義の上に、データベースから見えてくる「一般意志」を置いていることについて、余り理解されていないように見受けられ(東氏は「参加民主主義」を主張しているわけではありませんから)、もしかしたら「民主主義を減らす改革」という点で、両者の距離は以外と近いかもしれないと思えるところです。



★★★☆☆




スウィッチ

2011年12月21日 | 洋画(11年)
 『スウィッチ』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)時間の空きがあったので、ほとんど何の情報も持たずに映画館に飛び込んだところ、タイトルから米国映画かなと思っていたら、冒頭からフランス語が飛び出します。
 それではフランス映画かなと思うと、当初の舞台はカナダのモントリオール、道理で水辺の光景が映し出されるわけです。

 さて、映画のはじめは、若い女性アーティストのソフィが、出来上がったイラストを持って出版社のアートディレクターに会おうとします。ですが、当人は別の部署に代わってしまい会うことができません。仕方なく帰ろうとしたところ、他の女性編集者がお昼でもと、ソフィを誘います。
 食事中、これから始まるバカンスの過ごし方などを話題にしていると、その女性が、自分は「switch.com」というサイトで、自宅とパリの他人の家とを短期間交換(switch)して、バカンスを有意義に過ごしたことがある、などと楽しげに話します。
 その話にいたく刺激を受けたソフィは、家に戻ってから、バカンスに何も予定がはいってないのをいいことに、紹介された「switch.com」にアクセスしてみます。すると、トントン拍子に話は進み、家の交換契約が成立し、ソフィは、宅急便で鍵を受け取ったベネディクトの家に入り(注1)、パリ市内を自転車で観光して回ったりします。
 ところが、翌日目が覚め、シャワーを浴びていると、いきなり警官隊が突入してきて、殺人容疑でソフィは逮捕されてしまいます。警官隊を率いるフォルジャ警部によれば、その家の別の部屋のベッドの上に、頭部が切断されて見当たらない死体が見つかったからというのです。
 ソフィが、自分はカナダ人でベネディクトではないといくら言い張っても、それを証明するものが一切なくなってしまっています(注2)。

 このままでは自分は犯罪者にされてしまうと、病院に連れて行かれた時に、ソフィは一瞬の隙をついて逃げ出すことに成功します。
 白衣を着て医者になりすまし、病院の外に出てから、一般人の車を強奪したり(注3)、逃走用の資金を確保したりします。
 さらに何か手掛かりが得られないだろうかと、ソフィは、ベネディクトの母親の家に向かったところで、聞き込みのために出向いていたフォルジャ警部らと遭遇してしまいます。

 なんとここからは、この夏に見た『この愛のために撃て』まがいの場面となるのです!
 その映画では、看護助手・サミュエルがパリの地下鉄内を所狭しと逃げ回るところ、本作においては、イラストレーターのソフィが、住宅街を縦横無尽に逃げ回るのです。それも、庭はおろか家の中まで入り込んで走りに走ります。



 こうなると、彼女を追いかけるフォルジャ警部の風貌がどことなくサミュエルに扮したジル・ルルーシュに似ていることもあって、これはもう、『この愛のために撃て』の成功にあやかって作られた2番煎じ(女性版)なのかな、と思ってしまいます。
 さあ、ソフィはいったいどうなるのでしょうか、……。

 2番煎じだからということもないのでしょうが、本作は突っ込みどころが多い気もします。
 例えば、
・いくら保険がかかっているとか何とかあっても、そしていくら短期間だからといっても、全く見ず知らずの人間に、自分の家を貸してしまうことって、不用心過ぎるように思いますが(注4)?
・いくら一瞬の隙を衝くにしても、華奢な若い女性アーティストが、屈強な男性警官を制して逃げ出せるものでしょうか(注5)?
・いくら一生懸命走ってはいるものの、見知らぬ場所で男性2人に追いかけられて捕まらないというのも、ソフィが女忍者という想定なら話は別ですが、どうなのでしょうか(注6)?
・『この愛のために撃て』の場合は、最愛の妻を救出するという切羽詰まったものがありましたが、本作では彼女はそんな恋人がいるわけでもありませんから、すぐに諦めてしまうのが普通ではないでしょうか(注7)?
・ソフィを窮地に陥れた犯人が、ソフィが父親の愛情に包まれて育ったことを嫉妬した、と犯行の動機が説明されますが、そんなことで何人もの人を殺すのでしょうか(『この愛のために撃て』の場合は、警察によって犯人に仕立て上げられそうになった男を巡ってのもので、これもそんなことってあるのかなという感じがしましたが、様々の冤罪事件を知るにつけ、ずっと受け入れやすい設定でした)(注8)?

 とはいえ、登場する俳優は、皆熱演です。特に主役のソフィを演じるカリーヌ・ヴァナッスは、これまで見たことがありませんが、文字通り体当たりの演技で、これからの公開作も期待されます。
 また、ソフィを追いかけるフォルジャ警部役を演じているエリック・カントナは、元はプロのサッカー選手として有名だったとのことで、驚いてしまいます。



 色々問題点があることはあるものの、まあカリーヌ・ヴァナッスの文字通り体を張った熱演は一見に値すると思えますから、まずまずの仕上がりの作品といたしましょう。

(2)ところで、少し前に見たTVドラマ『境遇』(ABC創立60周年記念スペシャルドラマ:湊かなえ原作:12月3日放映)も、同じ境遇で育ったことが分かって二人が仲良しとなったにもかかわらず、その内の一人が、自分よりずっといい環境で過ごしていることに嫉妬して、もう一人を奈落の底に突き落とそうとする話でした。
 同じ境遇というのは、未だ乳飲み子の時に母親に捨てられて、児童養護施設で育ったということです。それも別の施設ながら、ほんの少ししか離れてはいないのです。大きくなって偶然出会った二人は、話すうちにお互いの境遇が似ているということで大層親しくなります。
 ですが、その後、一人(陽子:松雪泰子)は、県会議員となる家柄のいい青年と結婚し、子供までもうけますが、もう一人(晴美:りょう)は、しがない地方新聞社で働く独身女性で、子供を堕したばかり。
 そこで、晴美は、陽子を現在の恵まれた位置から引きずり降ろすべく、その子供を密かに誘拐し、匿名で厳しい要求を陽子に突きつけるのです。
 しかしながら、晴美は、単に育った環境が陽子と類似していたというだけで、自分が今置かれている状況が惨め過ぎるとして、相手を激しく嫉妬するのですが、それは単なる言いがかりにすぎないように思えます。
 はたしてそんな理不尽な理由から、児童誘拐といった重大犯罪を犯すにまで至るのか、甚だ疑問に思えるところです(注9)。

 この作品と比べると、本作の場合は、あるいは少しは説得力があるといえるかもしれません。でも、それにしても人生の出発点に共通性があるだけで、それをもって同じ境遇とみなすのは言いすぎではないかと思えるところです。
 まして、その後、他の二人が自分とは随分と違った環境の下にあったからといって、それで嫉妬するのは酷くお門違いというべきでしょう。何も人間の一生は、出発点だけで決められるわけのものではありませんから(注10)。



(注1)エッフェル塔が間近に見える凄く立派な邸宅です。

(注2)凶器にソフィの指紋が付いていたり、近所の人がソフィを見ていたり、おまけにソフィのフランス語に訛りがないことなどで、容疑者として逮捕されてしまいます。
 劇場用パンフレットに掲載されている監督インタビューによれば、この映画の物語は、「48時間の間に起こった出来事で、事の始まりは8月の日曜日。そのため人員がどこも半分に減っており、行政も大使館も動きが鈍いという状況でしか成り立たない」とのこと。
 確かに、通常の時期における平日の出来事なら、いくらなんでもソフィはこんな人違いなどされなかったことでしょう!
 なお、フランス語に訛りがないとの点については、自分は12歳まで両親と一緒にボルドーで暮らしていた(その後、一家はカナダに移住)と、ソフィは説明します(要すれば、ソフィの生まれはフランスということで、この点があとで利いてきます)。

(注3)その車を運転していたのは日本人で、事情聴取していた警察官は、「今夜は“スシ”だな」と同僚に話します。

(注4)とはいえ、キャメロン・ディアスやジュード・ロウらが出演した『ホリデイ』(2007年)からは、欧米ではこうした「ホームエクスチェンジ」が実際にかなり行われているように思えました(本作におけるカナダ・ケベック州とパリとの関係は、イギリスとアメリカとの関係と同列に考えられるところです!)。

 なお、この『ホリデイ』については、以前DVDで見たことがあり、その時には次のような感想を持ちました。
 主演のキャメロン・ディアスがやや歳を食った感じになってはいるものの、まだまだ大変魅力的に映し出されていて、またジュード・ロウもこうした脇役的なところではその美男子振りを発揮でき(役柄は編集者となっていますが、キャメロン・ディアスにとっては単なる“ホスト”なのでしょう!)、また、ケイト・ウィンスレットもいい感じを出しています。
 加えて、ビデオ屋で、ケイト・ウィンスレットの彼氏が『卒業』のビデオを取り出すと、店にいたダスティン・ホフマンが顔をこちらに向けるという絶妙の場面があったりして、随分と楽しめる作品です。
 なにはともあれ、米国(それも西海岸)と英国とは、言語の壁がないところから、実に近しい関係にあるのだな、と実感しました。

(注5)実際には、ソフィの歯を調べようとした歯医者を盾に取って、2人の警察官を手錠で固定したうえで、その場から逃げ出します(でも、警察官が体当たりでもすれば、ソフィはいとも簡単に御用となったに違いありません!)。

(注6)映画は、ソフィが、ジョギングをしたり柔軟体操をしたりするところを映し出して、彼女が体を鍛えていたこと示します(さらに、空手道場に通っている映像でも付け加えれば、説得力が一層増したでしょうに!)。

(注7)映画『スリーデイズ』でも、最愛の妻の無実を信じていればこその脱獄劇でした。ただ、自分の置かれている甚だ理不尽な状況からなんとしても逃れ出たいという意志は、人によって、はあるいは長く持続するものなのかもしれませんが。

(注8)パリのベネディクトの家で殺されていた男・トマと、ソフィと真犯人とは、母親こそ違え、同じ男の精子を使った人工授精によって生まれた兄妹だ、との設定です。
 にもかかわらず、自分はないがしろにされて父親の愛情なしで育った、だから今こそ、父親の愛情を独占したソフィに復讐をするのだ、というのが事件の背景のようです(殺されたトマだって、違う父親の元で育てられましたが、地方の名士の家で育ったという点が、真犯人には許されないというわけなのでしょう)。

(注9)TVドラマ『境遇』では、こうした話の他に、陽子と晴美のうちの一人は、友人に殺された被害者の子供であり、もう一人は、その殺人犯の子供だという話が絡まります。

(注10)こうした非難に対しては、真犯人は、元々が自殺未遂を繰り返し、二重人格や妄想癖を持つ人物と設定されているのだから構わないではないか、と製作者側は反論することでしょう。



★★★☆☆




象のロケット:スウィッチ

アーサー・クリスマスの大冒険

2011年12月18日 | 洋画(11年)
 『アーサー・クリスマスの大冒険』を新宿ミラノ2で見てきました。

(1)ブログ「ふじき78の死屍累々映画日記」の管理者「ふじき78」さんが、この作品を取り上げているエントリで★5つをつけ、加えて2日後のエントリにおいても「最近のお気に入り」の3本の一つとしてあげておられるので、これは『この愛のために撃て』と同じように傑作に違いないのではと思い、映画館に足を運びました。
 問題は、「ふじき78」さんが、「この入りじゃクリスマスを越せないよ」とか「内容はすっごく面白いのに宣伝を失敗して観てる人が凄く少ないCGアニメ」と指摘されているように、観客の入りが酷く悪いことから上映館がかなり少なくなっている点です。
 クマネズミは当初、近くの吉祥寺バウスシアターが次の火曜日(20日)まで上映していることが分かっていたので、その上映時間が昼間のこともあり、日曜日の本日に行くつもりでした。
 ところが、昨日になって同館のスケジュールをHPで再確認したところ、既にその前の日の金曜日で打ち切りになっていて、「ご了承ください」とHPには掲載されているではありませんか!
 「了承」などしないぞとは思ったものの後の祭り、仕方なく他の映画館を探したところ、新宿で20日まで上映されていることが分かり、1日でも早くと、昨日慌てて出かけた次第です。
 上映されている「新宿ミラノ2」(地下にあります)には、これまで殆ど行ったことがありません。相当くたびれた外観ながら、中に入るとトテモ立派な雰囲気を持った大劇場(定員が700名近く!)です。
 でもやはり、そんな大きな劇場の中心部に、土曜日にもかかわらず20人ほどの観客が座っているだけの大層寂しい上映風景でした。

(2)映画は、20億人もいる世界中の子供達にクリスマスプレゼントを届けるサンタ一家のお話。一体どうやったらそんなことが可能なのでしょう、という疑問に対する回答を本作は与えてくれます。

 実は、北極の氷の下に超ハイテクの作戦指令所が設けられていて、長男スティーヴが沢山の妖精を使って指揮を執っているのです(言ってみれば、スティーヴは、参謀長的存在なのでしょう)。



 その指令の下、実際に子供達にプレゼントを配るのは、巨大な最新飛行装置「S-1」に乗る父親マルコムです(彼は、作戦全体を統括する大将というわけでしょう)。



 スティーヴは、早いところ父親からすべてを譲り受けて、全体を自分で動かしたいと思っています(父親は、今回を含めて70回もプレゼント作戦を執り行ってきていて、引退も間近といった感じなのです)。
 サンタ一家には、この他に、136歳にもなる祖父(「おじいサンタ」)と、マルコムの妻マーガレット、そして本作の主人公の次男・アーサーがいます(注1)。

 アーサーの仕事は、長男の様な派手なものではなく、地味な裏方で、サンタに寄せられる沢山の手紙に返事を出すことです。



 さて、今年のプレゼント作戦もうまくいったと皆が喜んでいる時に、イギリスに住む女の子グウェンにプレゼントの自転車が配達されていないことが判明します。
 長男スティーヴは、たった1個のプレゼントが届けられなくとも、20億個マイナス1のプレゼントがきちんと届けられているのだから、作戦は大成功なのだ、そんなことは無視してもかまわないと主張し、父親マルコムもそれに同調します。
 ですが、次男のアーサーは、一人でもプレゼントを待っている子供がいるなら、そのプレゼントを届けるべきだと主張し、25日のクリスマスの朝を迎えるまでの2時間のうちに、グウェンにプレゼントを届けようとします。

 でも、父親や兄が反対するので「S-1」は使えません。そこでアーサーは、祖父の「おじいサンタ」を引っ張り出します。


 アーサーは、彼が密かに隠し持っていた橇「イヴ」(トナカイ8頭が引っ張ります)に乗って、一緒に、グウェンのいるイギリス・コーンウォール州の小さな村を目指して出発します。
 さあ、アーサーたちはうまくプレゼントを彼女に届けることができるのでしょうか、……?

 北極の下の大規模な作戦指令所(オペレーションセンター)の有様、巨大な最新飛行装置「S-1」の姿、そしてピンクの自転車をグウェンに届けるまでの大冒険等々、このアニメには見所が一杯詰まっています。
 それらの場面は、子供達のみならず大人達にとってもワクワクしてしまいます。
 そして、大人達には、「おじんサンタ」とかマルコムの描き方が単純になされていないところとか、スティーヴとアーサーの対比的な描き方にも興味を惹かれるところです。

 ただ、そうしてリアルな方向に注意が向くと、見ている方も少々突っ込みを入れたくなってきます。
 例えば、この映画では妙齢の女性がマッタク登場しませんが、スティーヴとかアーサーの結婚はどうなるのでしょうか?
 劇場用パンフレットによれば、オペレーションセンターで「60万人」も働いている「妖精」は、平均身長が66㎝とされますが、本作の描き方では、同じ「人間」ながらも、サンタ一家に従属するだけの差別的な扱いを受けているように思われてしまうのではないでしょうか?
 そして、やっぱり、アーサーたちの大冒険を阻止しようとする悪漢どもが見当たらないのも寂しいところです。

 でも、そんなツマラナイことなど考えずに、質の高いアニメを素直に愉しむべきなのでしょう!

(3)実は、この映画を見る前に、『さよなら!僕らのソニー』(立石泰則著、文春新書)を読み終えていました。
 12月15日号の『週刊文春』の「文春図書館」で、小説家・白石一文氏が、「いやはやこんなに面白い本を読んだのは久しぶりだ。小説、ノンフィクイションを問わず、ここ十年来で最高の読書体験の一つだった」とまで述べていたことに触発されました。実際、目を通し始めたところ、興味深い事柄が引きも切らず書き連ねてあって、それこそアッという間に読み終えてしまいました。
 ですから、本作の冒頭で「Columbia Pictures and Sony Pictures Animation」などといった文字に出会った途端に、同書が思い起こされました。

 そして、チョット強引ではありますが、サンタ一家の大作戦を仮に企業の事業だと捉えると、本作と同書の登場人物とが互いになんとなく似ている様な気もしてきたのです。
 すなわち、
・「おじいサンタ」は、サンタクロースの原点を体現しているので、メーカーとして物作り自体に独創性を求めたソニー創業者の井深大氏と盛田昭夫氏に、
・父親のマルコムは、息子のスティーヴとアーサーのそれぞれの良さを認めているところから、ソニーの転換点に当たる時期にCEOだった大賀典雄氏に、
・兄のスティーヴは、効率性を最も重視しているので、ソニー創業の原点から逸れる方向に大きく舵を切ったCEOの出井伸之氏とかハワード・ストリンガー氏に、
・そして主人公アーサーは、効率性よりも精神の問題だとして「おじんサンタ」に協力を仰いだところから、古いソニーを懐かしんでいる著者立石氏(あるいは、書評を書いた白石氏)に、
それぞれ当て嵌めてみたら面白いのでは、と思ってみました。

 もう少し申し上げれば、例えば、白石氏の書評によれば、「ソニーはメーカーとしての競争力を急速に失っていったしまった」わけですが、「その最大の原因は、モノ作りをすっかり忘れてしまった金融大国アメリカ出身のハワード・ストリンガー氏を、社内政治上の思惑から出井氏が後継CEOに指名したことに尽きると立石氏は指摘している」のです。
 こうした事態は、「おじさんサンタ」の時代には、トナカイの橇「イヴ」に乗って一つずつプレゼントを配ったのに対して、今やスティーヴは、巨大な最新飛行装置「S-1」を使って非常に効率的に20億個のプレゼントを配っていることに対応させることが、もしかしたら出来るかもしれません。
 なにしろ、ストリンガー氏は、エレクトロニクス事業がソニーの中核だとはしながらも、実際は同事業について十分な識見を持っておらず(注2)、実際のところは端末装置ではなく、コンテンツ事業の方に重要性を置いているのです。マサニ本作のような映画を制作して収益を上げることを重視しているのでしょう(とはいえ、日本ではコケてしまった感じですが!)(注3)。

 もっと飛躍してもかまわないのであれば、ソニーの変貌は、日本経済全体が世界経済の中で置かれている位置とも連動している、と言えるのかもしれません。
 すなわち、日本は今や、物作りの面では、かなりの部門で韓国や中国に追い抜かされそうになっていて、今後生き残れる道はサービス産業くらいしかないと思われるにもかかわらず、依然として自動車産業頼みとなっているために、ソニーが赤字体質からの脱却が難しくなっているのとパラレルに、日本経済の地盤沈下が一層進んでいるようにも思われます。

 さてここで、日本経済は、アーサーのような道に戻るべきなのでしょうか、それとも、あくまでもスティーヴの路線をモット先まで辿っていくべきなのでしょうか、それとも第3の道が?
 ですが、そんな重大問題はクマネズミの手にあまることなので、別の機会といたしましょう。

(4)なお、本作を見ながら、クリスマスってプレゼントを子供に届けることがすべてなの、という思いに囚われてしまいました。単にチョコレートを贈る日となってしまっている日本のバレンタインデーに対する違和感と同じような感じです。
 そこで、手元にあった『サンタクロースの秘密』(クロード・レヴィ=ストロース/中沢新一著、せりか書房、1995年)に収められている、レヴィ=ストロースの論文(中沢新一訳)を踏まえた中沢新一氏の論考によれば、概略次のようです。
 
 ヨーロッパの「民衆の世界には、救世主の誕生と死者の霊の来訪とを同一の出来事としてとらえる、象徴的思考の伝統が深く息づいてい」て、「冬至の時期、太陽はもっとも力を弱め、人の世界から遠くに去っていく」が、そのとき「生者の世界には、おびただしい死者の霊が出現することにな」る。そこで、生者は「訪れた死者の霊を、心をこめてもてなし、贈り物を与えて、彼らが喜んで立ち去るようにしてあげる」と、「太陽はふたたび力をとりもどして、春が到来」してくることになる。
 この場合、「死者の霊を表象するものとして、社会性のマージナルである子供と若者が祭の立役者として選ばれ」、「大人たちがつくる生者の世界は、彼らを媒介にして、有体化した贈与物を、死者の領域に贈り届けることもできた」わけである。
 ところが、そうした「ダイナミズムのすべてが、近代のブルジョア社会の成立と共に、大きな変質をこうむることにな」り、「生者を死者の霊の領域につなぐ媒介者の地位をつとめていた子供組や若者組の働きを、今日のブルジョア化された世界では、あのサンタクロースなる人物がつとめることにな」り、「子供はサンタクロースからのプレゼントを受け取る位置に、転落していった」わけ。

 やはり、サンタクロースの背景には奥深い物があると分かります。
 ただ、仮にそうであるとしたら、上記(3)を踏まえて、ストリンガー氏は、ソニーという会社を通じて社会(株主だけ?)にいろいろプレゼントをしてくれるサンタクロースの位置にあるといってもよいのかもしれません。
 しかしながら、立石氏によれば、彼に支払われる「8億円を超える報酬額は高すぎ」、「十分に欲深い」といえそうですから(『さよなら!僕らのソニー』P.271~P.271)、子供達に与えるべきプレゼントを自分に向かって与えてしまっている、といえるかもしれません(注4)!

(5)渡まち子氏は、「ヘタレの主人公が繰り広げる手に汗握るアクションと、ワールド・ワイドな冒険、そしてエモーショナルな家族のドラマは、父と子のバトン・リレーのよう。心温まる秀作アニメーションに仕上がった」として75点を付けています。
 福本次郎氏は、「“CGによってアニメは飛躍的に表現力をつけたが手書きアニメの頃のぬくもりを伝える魂を忘れたわけではない”。映画製作者自身が、プレゼントを直接デリバリーするアーサーの活躍を通じて、そう宣言しているように思えた」として60点を付けています。



(注1)あるいは間違っているかもしれませんが、次男の姓名は「アーサー・クリスマス」ではなく、「アーサー・サンタ(クロース)」ではないでしょうか?邦題も、本来的には、「アーサーのクリスマス(大冒険)」とすべきなのではないでしょうか?

(注2)立石氏によれば、「井深氏にはトリニトロン・カラーテレビ、盛田氏にはウォークマン、大賀氏にはCDプレーヤーという一般消費者なら誰もが知るそに商品を成功させた実績がある」のに対して、「いまはソニーらしい製品が生まれないこともあって、代表的な製品と「ソニーの顔」が結びつかない」(『さよなら!僕らのソニー』P.148~P.149)。

(注3)立石氏によれば、ストリンガー氏には、「エレクトロニクス製品は、あくまでもエンタテインメント事業が利益を上げて行くためのツール(道具)であって、それ以上でも以下でもな」く(『さよなら!僕らのソニー』P.243)、彼にとって「何よりも大切なのはハリウッドなのである。そして、SONYをコンテンツとネットワーク事業を含む博い意味でのエンタテインメント企業に変貌させることが夢なのかもしれない」(同書P.244)。

(注4)この点に関し、書評をした白石氏は、「本書で明らかにされているハワード氏及びその取り巻きのアメリカ人たちの保身と強欲、無為無策ぶりには唖然とする。そして、そうしたアメリカニズムというものが、ソニーに限らずこの国の各界のリーダーたちをいかに毒しているかを思うとき、現在の日本の衰退の真因が私たちの前にぼんやり浮かび上がってくる」と述べています。
 ですが、そうしたいわゆる小泉流の市場原理主義批判をここで持ち出すのは、全くのお門違いと言うべきでしょう。
 むしろ、立石氏がいうように、「「SONY」ブランドが輝いたかつてのソニーを知る者にとって、日に日にメーカー・マインドを失っていくソニーの姿を見るのは辛い。しかし「グローバル企業」とは、こういうものなのだろうなとも思う」べきではないでしょうか(『さよなら!僕らのソニー』P.289)?




★★★★☆




象のロケット:アーサー・クリスマスの大冒険

50/50

2011年12月17日 | 洋画(11年)
 『50/50 フィフティ・フィフティ』を、TOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1) この作品も、前回の『RAILWAYS』と同様、随分と手堅くまとまりよく作られているなという感じがしました(その作品と同じように、全体的には、可もなし不可もなし、といったところでしょうか)。

 物語は、シアトルの公営ラジオ局勤務の主人公アダムジョゼフ・ゴードン=レヴィット)(注1)が、まだ27歳にもかかわらず、医者から「悪性神経鞘腫 神経線維肉腫」と宣告され、当然のことながら酷く落ち込み、同棲していたレイチェル(ブライス・ダラス・ハワード)との関係にもヒビが入るものの(注2)、会社での同僚カイルセス・ローゲン)の熱い励ましとか、セラピスト・キャサリンアナ・ケンドリック)(注3)の支援があってなんとか立ち直って行くというお話です。

 こうした話題を取り扱ったらこうなるだろうなというゴールをめがけて、実に巧みにまとめられていきます。
 ただ、アダムの父親がアルツハイマーという設定に関しては、わざわざそこまでせずともと思いますし、母親が一日中アダムのことを心配しているのが嫌で、アダムは余り連絡を取らないでいるという設定も、随分とありきたりな感じです(日本と似通っています)。
 それに、アダムの職場は今後も居続けられるのだろうかなどといったことも描いてくれたらな、とも思います。

 それでも、少々乱暴なやり方ながら実は親身になって面倒を見てくれる親友カイルの様子とか、まだ成り立てホヤホヤのセラピストとして、なんとかアダムの精神的負担を軽減してあげようと努めるキャサリンの姿は、全体としてとても落ち着いた映画のトーンの中で一際光ります。

 主演のジョゼフ・ゴードン=レヴィットは『(500)日のサマー』で見ましたし、ヒロインのアナ・ケンドリックも『マイレージ、マイライフ』以来ですが、なんとなくおなじみの感じがしたところです。



 としても、本作においては、その出演作を見たことがないながら、カイルの役のセス・ローゲンのユーモアあふれる演技が出色でした(注4)。




(2)この映画は、大層若い時分に、5年後の生存率がフィフティ・フィフティである癌に罹った主人公が、にもかかわらず随分と明るく対処する姿を描いていて、ありきたりの感動作におちいっていないところは評価できると思います。
 ただ、アメリカの場合非常に大変だとされる高額な医療費について、一切言及されていないことにクマネズミは物足りなさを覚えました(特に日本では、TPP参加問題に関連して、混合診療か公的保険制度かといったことが姦しく議論されている時でもあり)。

 アメリカの医療制度は、国民皆保険制ではなく、主に民間保険会社の医療保険によっているとされます。すなわち、高額所得者は、民間の保険(保険料が高額)によって医療費に対処しているわけです〔ただ、65歳以上の高齢者ら向けの「メディケア」、低所得層が対象の「メディケイド」などといった公的な保険制度もないわけではないとのこと〕(注5)。
 こうした状況下では、無保険者が多数でてきてしまうことから(4,000万人以上とされています)、昨年3月、米国下院議会で民主党が推し進めてきた医療保険制度改革法案が可決され、オバマ大統領の署名を経て成立に至りました。
その内容は、現在4,600万人いる保険未加入者のうち、3,200万人を救済することになり、施行にかかるコストは10年間で9,400億ドルと推定されているようです(注6)。

 とはいえ、こうした改革が実施されるまでにはまだ時間がかかるとされていますし、反対派の動きもまだまだ活発なようです(注7)。

 本作のアダムの場合、大層有能な東洋系の女医の手で長時間の手術が行われ成功したとされますが、そうであれば要する治療代は非常な高額なものとなるのではないかと推測されます。
 父親がアルツハイマーであり、彼もまだ若年ですから、いったいそうした治療費をどうやって捻出するのか、その家族にとっては大きな問題となるのではないでしょうか(むろん、民間の保険に入っていればある程度カバーされるでしょうが、なかなか全額というわけにはいかないようです)?

(3)映画評論家は、この作品にかなり好意的です。
 前田有一氏は、「病気は誰もがかかるものだし、死もしかりだ。早く死ぬか遅く死ぬかの違いがあるだけで、過剰に悲しんでばかりいるのは健全ではない。この映画はそうした価値観のもとに、最悪の病気をテーマにしながら非常に力強い、生命賛美のメッセージを伝えてくる。優れた笑いのセンスと魅力的な人物描写であらかじめ共感をさらっているので、そのメッセージも素直に受けとめられる。きわめて優れたストーリーテリングであり、映画としての完成度も高い」として80点の高得点を付けています。
 福本次郎氏は、「5年後生存率が50%なのに、実感がわかずどこか他人事のよう。母親は過剰に干渉し、恋人は逃げ出してしまっても、対応に追われる自分を別の自分が観察しているかのごとき距離感が心地よい。そんな、いつもはにかんだ笑顔で感情をコントロールし、なるべく周囲に迷惑をかけまいと振る舞う主人公の心情が濃やかに描きこまれる」として70点を付けています。
 渡まち子氏は、「生と死を静かに実感した青年が、50パーセントの確率の中で、自分自身と向き合うこの物語、シリアスとユーモアのブレンド具合が絶妙で、小さいが美味しいスイーツのような後味がある」として65点を付けています。



(注1)i-pod shuffleを聞きながらジョギングする青年(運転免許を持ってはおりません)。ただ、時折指を噛む癖があり、両親とは別の家に、画家を目指しているレイチェルと半ば同棲生活を送っています。

(注2)レイチェルは、当初は「引っ越してきて面倒を見る」とまで言っていたものの、やはり堪え切れずに、次第に病院の中に入りたがらないようになり、迎えに来るのが1時間も遅れたりして、結局他の男と浮気してしまい、その男とキスをしているところを友人のカイルに写真に撮られてしまいます。




(注3)キャサリンは24歳。まだ研修中であり、博士号を取得しようとしています。その上、彼氏と別れたばかりというお誂えむきの状況設定となっています。

(注4)カイルが、アダムの背中の手術跡を見て、映画『ソウ』みたいだと言うのはまだしも、ランス・アームストロングなどの名前を出されると、とてもついていけません(尤も、劇場用パンフレットには、嬉しいことに、台詞で登場する人名などについて簡単な解説が掲載されています)。
なお、アダムの方も、自分のスキンヘッドを指して、映画『ハリー・ポッター』に登場するヴォルデモートみたいだなどと言う始末です。

(注5)改革前の状況については、このサイトの記事を参照。

(注6)例えば、このサイト、あるいはこのサイトの記事を参照。

(注7)法案可決後も、共和党が同法廃止の姿勢を鮮明にしているほか、いくつかの州の司法長官が合同で「強制的な保険加入は憲法違反」として連邦政府を提訴するなどの動きがあるようです(例えば、このサイトによります)。




★★★☆☆





象のロケット:50/50 フィフティ・フィフティ

RAILWAYS

2011年12月14日 | 邦画(11年)
 『RAILWAYS  愛を伝えられない大人たちへ 』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)全体として随分と手堅く破綻なく作られた作品(裏返せば、まとまりすぎていて、もう少し変化とか盛り上がりがあっても良いのかな、という感じですが)だなと思いました。

 この映画は、相手のことを慮って行動しているつもりでも(=本当のところは愛しているのだと伝えようとしていても)、相手にとっては身勝手にしか見えない(=愛のない振る舞いにしか見えない)ことって、世の中で日常茶飯に見られ、さらには、わかっていてもなかなか自分の身勝手さを抑制しきれないものですが、そんなあれこれを物語として描いてみたものだと思われます。
 特に、映画の主人公の年代の人は、働くことに生きがいを求め、そのことで家族も自分に感謝しているはずだ(黙っていても分かっている事柄だ)との思い込みが強いように思えるところです。

 物語は、あと1ヶ月で定年となる滝島徹三浦友和)が主人公。帰宅途中で気がついて、出雲旅行のパンフレットを持って家に帰り、定年後には山陰旅行でもと切り出そうとした途端に、妻の佐和子余貴美子)から、実は看護士として病院の在宅ケアセンターで勤務することを決めてきた、と告げられてしまいます。
 夫の徹にしてみれば、定年退職するのだからユックリと過ごしたいし、妻のこれまでの労苦をもねぎらおうとの優しい気持から、旅行の話を切り出そうとしたにもかかわらず、そんなことより自分の就職だと言わんばかりの妻の態度にブチ切れてしまいます。
 すると、妻が家を出をしてしまい、夫は一人での生活を余儀なくされます。
 丁度出産を控えた長女・麻衣小池栄子)が時折顔を出してくれますが、むしろ母親の味方のようで(注1)、夫は長女にも怒りをぶつけてしまいます。



 そんな中でも、夫の方は、新人の研修乗務を引き受けることになり、妻の方も、末期癌患者(吉行和子)(注2)の在宅介護で、連日忙しく働くようになります。
 一度佐和子は家に戻るのですが、却って火に油を注ぐ結果となり、徹は彼女に「そんなに言うなら家を出て行け」とまで言ってしまいます。
 そうこうするうちに、とある事件が起こり(注3)、そして……。

 長年平和に連れ添ってきた夫婦仲に突如として危機が訪れる原因の大きなものは、妻の佐和子が、夫に事前の相談もなく再就職を決めてしまったことでしょう。
 なにもそこまでせずとも、前もって夫によく相談した上で決めさえすれば、こんなにこじれるまでに至らなかったのではとも思われます。

 ただ、佐和子にしてみれば、これまでの長年の夫の感じから、いくら事前に懇切丁寧に説明しても、自分の気持ちを理解してはもらえないと考えたに違いありません。
 たぶん、夫側の理屈としては、自分が毎日きちんと出勤して勤めたからこそ給料を手にすることができ、ここでこうして暮らしていけたのであって、だから定年後はのんびりと暮らそうというのに、いったい何の問題があるのか、ということでしょう。
 それに対して佐和子の方は、それでは自分はいつまでたっても夫の添え物にすぎない、自分としては後悔するような生き方をしたくないのだ、と言いたいのでしょう。
 でも、そんなことを言ってみても、自分の気持ちを夫が了解するに至らずに平行線のままとなってしまい、とても事前の了解など得られないと、佐和子が考えたとしても無理はないかもしれません(注4)。
 何より佐和子としては、自分は、夫が定年退職するまでは自分を抑えて我慢してきたのだから、との思いが募っていることでしょう(注5)。

 あるいは、徹が「その話は終わったことだ」と言っているところからすると、再就職については、これまでにも何度か佐和子の方から切り出している話であって、そのたびに夫は聞く耳を持たなかったのではないかと推測されます。
 さらには、佐和子は、癌検診で再検査という結果が出て、無論再検査は無事だったのですが、残された時間があるようでありながら実はないのではないか、なんとか早く再就職しないと自分が生きた証が得られなくなってしまう、と切羽詰まった思いに駆られたのではないか、とも思われるところです。

 実際のところは、映画全体から醸し出される落ち着いた雰囲気から、いくら佐和子が、結婚指輪と離婚届を夫に渡しても、そして別の場所にマンションを借りたとしても、そして、徹が、市役所に離婚届を提出し、2人の結婚指輪を遠くに放り投げたりしても、観客の方としては、とどのつまりは元の鞘に収まるのだろうと思いながら、落ち着いて映画を見てしまうのですが。



 本作は、日常的に起こりがちながらツイツイやり過ごしてしまう様々な事柄について色々考えさせてくれ、まずまずの仕上がりとなっているのではと思いました。

 それでも問題点がいろいろあるように思われます。
 例えば、3月の1か月間の話にしては、自然の風景が変化し過ぎでしょう(雪が降って、桜が咲き、チューリップまで咲くのですから)。とはいえ、その後の1か月位を取り込めば、チューリップも桜も咲いていそうですから、もしかしたらありうるのではと思いました(回想シーンもあることですし)。

 また、退職する当日まで実際に乗車勤務するというのも、実際にありうるのかなと思われます。ですが、このサイトの記事を見ると、それに近い話はあるのかなとも思えてきます(もちろん、そこでは、定年の日とラストランとの関係は不明ですが)。

 さらに、60歳の定年後に何をするかの問題が描かれているところ、おそらく、滝島徹は、今更カメラを手に取ってみても(注6)、そこに生きがいを感じられないのでしょう。とすると、定年後の嘱託期間の5年が経過した時こそ(注7)、厳しい難問に逢着することでしょう(妻の方も、病院の定年に引っ掛かる可能性があります)。
 映画の中で、先輩(米倉斉加年)が「定年後が恐ろしく長いぞ」と彼に言いますが、これは真実を突いた言葉ではないかと思います。

 三浦友和は、実年齢と演じる役柄の年齢が一致しているとはいえ、とても定年退職するような歳には見えません(なにしろ、『ナニワ・サリバン・ショー』の忌野清志郎の幼友達なのですから!)。これからもこうした柔和な路線と、『沈まぬ太陽』における行天専務のような敵役の路線とを幅広く演じて活躍するものと思いました。
 余貴美子は、最近では、『八日目の蝉』におけるエンジェルとか『ツレがウツになりまして。』の母親役とかが印象的ですが、本作でも、最後まで自分の意思を通そうとする芯の強さを持った女性を、実に巧みに演じていると思いました。



 他に注目すべき俳優としては、このところあちこちで見かける徳井優が、本作でも滝島徹の上司役として出演しています(注8)!

(2)本作は、中井貴一主演の『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』(2010年)に次ぐシリーズ第2作ですが、舞台は、前作が島根県の一畑電車であったのに対して、富山県の富山地方鉄道に変わっています。

 こうした地方の私鉄の場合、興味深いのは、様々の種類の車両を導入している会社が多い点でしょう。
 クマネズミは1年ほど広島市で暮らしたことがあり、その際、広電で使われている車両が相当多岐にわたっているのを見て、奇異な感じを受けたことがあります(以前は、ドイツの市電などが幾つも走行していたようにも思います)。
 本作の富山地方鉄道においても、東京の西武鉄道で使われている「レッドアロー号」が、2両編成で走っているのを見て驚きました(前作の一畑電車の場合の方が、東京などで使われていた車両を多く使っているようです)。

 なお、映画『劔岳 点の記』において、当時の富山駅としてロケに使われた「岩峅寺(いわくらじ)駅」が、本作で何度も出てきたので驚きました(尤も、本作では、駅の外観ではなく構内風景しか映されませんが)。

(3)前田有一氏は、「どっしりと動かぬカメラ、穏やかな陰影、先を急がぬ落ち着いた演出。地味ながら日本映画のいいところを体現する演出は、ベテラン監督かと思わせるほど。と同時に、この手のドラマの弱点になりがちな退屈さとは無縁の卓越したストーリーテリング。非常に面白い人間ドラマであり、鉄道映画の楽しみも味わえるお得な逸品である」として85点もの高得点をつけています。
 渡まち子氏は、「熟年層をターゲットにした地味な作品だが、共に演技派の三浦友和と余貴美子の、自然なたたずまいが味わい深い。何より、雄大な立山連峰を背景に、四季折々の田園風景の中、列車が走る様は、鉄道マニアでなくとも見惚れてしまう美しさだった」として60点をつけています。
 福本次郎氏も、「峻嶮な山脈が町に迫り、単線を2両電車が走る田園、そして人々の小さな日常。平凡な人生にもひとつひとつにドラマがあり、日々の出来事にはすべて人の思いがこもっていることを思い出させてくれる作品だった」として60点をつけています。



(注1)娘は、「少しは母さんの気持ちを考えてあげたら」とか、「いつも自分は正しいといった顔をしている」と滝島に言ったりします。

(注2)その患者は、「病院でチューブに繋がれている自分の姿を思い出にして欲しくない」ということから、末期癌にもかかわらず在宅ケアに頼っています。

(注3)徹が研修生と一緒に乗車していた電車が、落雷のため送電がストップして、トンネルの入口で立ち往生してしまいます。たまたまその電車には、妻の佐和子が介護していた末期癌患者(吉行和子)が乗り合わせていて(孫の皮膚病によく効く薬草を取りに、家のベッドを抜け出していました)、具合が悪くなってしまいます。徹の連絡により妻がやってきてかいがいしく介護しますが、その仕事ぶりを見て、徹は、妻がいい加減な思いで仕事に取り組んでいるのではないことを悟らされます。

(注4)病院の在宅ケア責任者(西村和彦)によれば、佐和子が担当する患者は末期癌患者で、家族の理解がなければトテモ続けていけないとのこと。実際にも、呼び出しがいつ何時あるのか分からないために、夫の面倒をコレまでのようにはみれなくなります。そんなことをいくら丁寧に説明しても、夫の方は理解などしてくれそうもありません。

(注5)佐和子にしてみれば、看護師を辞めたのも、出産と、癌で死んだ母の介護のためであって、自分としては継続したかったのだと思い続けて来たのでしょう。

(注6)幼馴染みの女友達(仁科亜紀子)に偶然出会った際に、滝島は、彼女から、自分が以前カメラマンになりたいと言っていたことを知らされます。

(注7)滝島は、定年後は別のところで再就職しようと考えていましたが適当な口が見つからず、かといって生き甲斐とすべき趣味も持ち合わせておらず、結局、同じ職場に嘱託として居続けることになります。

(注8)徳井優は、最近では『吉祥寺の朝日奈くん』などで見かけました。




★★★☆☆





象のロケット:RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ

ナニワ・サリバン・ショー

2011年12月12日 | 邦画(11年)
 『ナニワ・サリバン・ショー 感度サイコー!!!』を新宿バルト9で見てきました。

(1)2009年5月に58歳で亡くなった忌野清志郎が、2001年、2004年、2006年と3回にわたって大阪城ホールで開催した「ナニワ・サリバン・ショー」の映像から作られたドキュメンタリー作品です。

 中心の忌野清志郎だけでなく、布袋寅泰、斉藤和義、トータス松本、山崎まさよし、ゆず、矢野顕子、HIS(細野晴臣・忌野清志郎・坂本冬美)などなど、超一流アーティストが次々に出演し、その素晴らしい演奏に心から堪能しました。

 映画全体は、間寛平が通天閣の下からショーの会場に向かって走る流れの中に綴られ(その中に「ナニワ・サリバンショー」の収録映像が嵌め込まれるという形になっています)(注1)、途中は宮藤官九郎らがDJとして曲紹介などをします(注2)。
 要するに、過去の映像記録をスクリーンに単に再生するというのではなく、本年にモウ1回ショーが開催されたとして、そこで繰り広げられている舞台を観客に映像として届けるという形を取っているわけです。
 おそらく、過去の3回のライブショーをよく知っている人には、切り貼りだらけで、おまけに随分と粗い映像もあったりして、なんだかおかしな作品に見えるかもしれません(注3)。ですが、クマネズミのような門外漢には、こうした素人向けの映像作品の方が随分と取っつきやすい感じがしました。



 映画で流れる曲はどれも皆素晴らしい出来栄えですが、忌野清志郎の「スローバラード」、HIS(細野晴臣・忌野清志郎・坂本冬美)の「幸せハッピー」、矢野顕子の「ひとつだけ」などがトテモ印象的でした。

(2)とにかく、今、大阪は大いに燃えているのではないでしょうか?
なにしろ、橋下徹前大阪府知事が率いる「大阪維新の会」が、既成組織からの激しい攻撃をはね除けて、大阪市民から圧倒的な支持を受けたのですから!
 そしてこの『ナニワ・サリバン・ショー』の公開です!

 他方で、唐突ながら映画『プリンセス・トヨトミ』の超保守性も明らかになってくるのではないでしょうか?
 いくら大阪城の真下に大阪国が存在してきたといっても、東京にある政府から毎年5億円もの補助を得ているようでは、まさに既成組織そのものであって、結局のところ日本国を作り替える起爆剤になりようがありません。せいぜいのところが、瓢箪を持ち出して大阪府庁舎前で集会を開くくらいのことではないでしょうか?

(3)他の作品との関連性を少しだけ申し上げれば、本作に登場する斉藤和義は、『吉祥寺の朝日奈くん』で、その主題曲『空に星が綺麗~悲しい吉祥寺~』〔アルバム『FIRE DOG』(1996年)収録曲〕を歌っています。
 また、『RAILWAYS』で主演の三浦友和は、忌野清志郎の幼友達(高校では同クラス)だったとのこと。



(注1)ラスト近くには、間寛平が舞台に登場し、「アメママン」のギャグにステージにいた出演者がズッコケたりします(ただ、ステージ上にいた中村獅童はズッコケなかったようです)。

(注2)矢野顕子や清水みちこが、宣伝カーに乗って、大阪市内を走り回ったりします。

(注3)ライブ会場の後ろの観客によく見えるようにと、会場の後方に小さなステージを設けて「うしろの奴等のために」を歌ったりするなど、毎回、様々の趣向を凝らしてまとまりがあるものとして提示されているのですから。


  
★★★★☆



恋谷橋

2011年12月10日 | 邦画(11年)
 『恋谷橋』をシネマート六本木で見ました。

(1)この映画は、なんとなくタイトルがよさそうに思え(注1)、合わせて時間の空きにスポッとうまく上映スケジュールがはまり込んだこともあって、見に行ってきたのですが、鳥取県倉吉市の近くにある三朝温泉を巡る単なるご当地物にすぎませんでした。

 要すれば、従前の勢いがなくなってしまった三朝温泉を盛り返そうと、東京に出てデザイン関係の会社に勤めていた朋子(SPEEDの上原多香子)が、色々の出来事があった挙句、母親(松田美由紀)の後を継いで老舗旅館の若女将となって頑張って行こうとする、といったストーリーで、その旅館には昔ながらの料理人・源三(松方弘樹)とその息子・圭太(水上剣星)がいて(注2)、さらに圭太の同級生などが朋子を取り巻いて、また伝統を受け継いでいく同級生(注3)もいるといったおなじみの展開がなされているわけです。

 たぶん、こうしたお定まりの展開になってしまったのは、手慣れた脚本家が、地元振興という観点を加味しながら書いたためであって、ただ、こんな趣向の作品をいくら製作しても、関係者以外に見向く人がそれほどいるとは思えず、地元振興にも何にも役立たないのでは、と思えてしまいます。

 主演の上原多香子は、映画初主演ということで頑張っていますが、まだ何となくぎこちなさが残っていて、さらなる飛躍のためには一層の努力が必要なのでは、と思いました。



 特に、この映画で中心的になるはずなのは、朋子と圭太の恋愛でしょう。ですが、いつまでたっても、2人の関係は極端に淡いままで、何らの進展も見られません。



 これでは、映画のタイトルが泣いてしまうでしょうし、さらには回想シーンで、幼い2人が裸で三徳川の川辺にある露天風呂に入っている時の方がまだましなのでは、などと思いたくもなってしまいます!

(2)ご当地物というと、スグに念頭に浮かぶのはクマネズミの場合、『津軽百年食堂』です。
 そして、本作と比べると、両者には類似する点がいくつかありそうです。

 一方の『津軽百年食堂』における主人公は、飲食店(津軽そばがメインの大森食堂)を経営する家の長男ながら、父親との折り合いが悪いこともあり、東京で仕事(バルーンアート)をしています。そこに、父親が交通事故で入院という連絡が入って、結局彼は、故郷の弘前に戻って家業を継ぐ決意をします。
 他方で本作の場合、主人公は次女ですが、東京で仕事(デザイン)を続けることは諦めて、故郷の三朝温泉に戻って家業を継ぐことになります。その際の切っ掛けの一つが、父親(小倉一郎)が脳梗塞で倒れたことにあります(注4)。

 それに、『津軽百年食堂』のクライマックスは、「弘前さくら祭」に大森食堂が出店して、主人公が客に津軽そばを振る舞うシーンといえるでしょうが、本作においても、ラスト近くの「山陰KAMIあかりアートフェスティバル」が山場となっています(注5)。

 もう一つ上げれば、『津軽百年戦争』においては、主人公の彼女がカメラマンで、主人公と一緒に弘前に戻ってくるのですが、本作においてはこの2人が上原多香子に合体していると見なせるのではないでしょうか?

(3)この映画には、もう一つ問題がありそうです。
 後からわかったことですが、本作は、第1回「スーパーシナリオグランプリ」(2008年開催)において選ばれたグランプリシナリオを映画化したものとされています(注6)。
 ところが、ネットで調べてみると、同コンクールで実際に選ばれたシナリオのタイトルは、『雨の中の初恋 First Love in the Rain』とされています。
 他方、今回の作品のクレジットでは、「原作;宮尾卓志(「雨の中の初恋」より)」とあり、なおかつ、「脚本:井上正子、後藤幸一」となっているのです。

 どうも、本作の脚本は、映画のネタだけが欲しくて全国からシナリオを募集して(注7)、選ばれたグランプリ作品のネタをもとに、プロの脚本家が最初から書き上げた代物のようです。なにより、そこには若者(原作者は27歳の会社員とのこと)らしい新鮮な視点などは、完全に抜け落ちてしまっている気がします(注8)。

 そこで、ネットでもう少し経緯を調べてみると、推測が多分に混じりますが、どうやら次のようです。
イ)当初、2008年5月12日締切で、主催者「スーパーシナリオグランプリ実行委員会」がシナリオを公募(注9)。

ロ)次いで、2008年11月上旬に結果の発表(注10)。
●グランプリ作品・・・・・雨の中の初恋(First Love in the Rain)
●優秀作品・・・・・・・・・・・アンナと知夏
●準優秀作品・・・・・・・・・あいすえいさー
●審査委員会奨励賞(50音順)
    ・・・・OGASAWARA Islands(猫とクジラとレモンの物語)
    ・・・・恋する金平糖
    ・・・・GOホームセンタァ!

 グランプリ作品の内容について、関係するHPには次のように記載されていたようです。「この作品は、かつて繁栄を極めながら、時代の波に乗れず、今は深刻な経営不振に陥っている地方の名門温泉旅館が舞台。昔の栄光を取り戻すべく「町と人の再生」をテーマにしながら、町・人と自然が一体となり「奇跡の再生」までを描く感動作品」。

ハ)それからロケ地公募があり、「NPOみささ温泉」が熱心に運動したこともあって、2008年12月24日、三朝温泉がロケ地に選定されます(注11)。

ニ)その後、2009年に出演俳優の発表が行われましたが(注12)、何かの事情で出演者の大幅入れ替えがあったりして、クランク・インは著しく遅延し、翌2010年の11月20日となったようです(クランクアップは12月10日)(注13)。

ホ)なお、月刊誌『シナリオ』12月号には、本作のシナリオが掲載されているだけでなく、脚本を担当した井上正子氏のノートが掲載されていますが、それによれば、「当然、グランプリをとったシナリオの原型とは、三朝温泉という地名だけを残して、登場人物も設定もストーリーも大幅に変わった」とのこと(同誌P.114)。

 上に記した経緯が仮に正しいとすれば、舞台の「三朝温泉」すらも、あとからのロケ地公募によって決まったようですから、グランプリシナリオの『雨の中の初恋(First Love in the Rain)』は、「原作」の扱いも受けてはいないように思われるところです。
 少なくとも、「グランプリシナリオの映画化」というこの映画のキャッチコピーは、事情を知らない者にかなり誤解を与えるのではないかと思います。



(注1)ネットの地図画像で調べると、映画の舞台となる三朝温泉を流れる三徳川には、実際に「恋谷橋(こいたにばし)」が架かっています。

(注2)松方弘樹が演じる源三は、「魚も人も同じだが。いい生き様をしてきたもんは、いい味を出す。魚の目を見て感じろ」などと、歯の浮くような定型的なことしか話しません。また、その息子・圭太もハイハイと受け入れるばかりです。この厨房にはロボットしかいないような雰囲気です。

(注3)因州和紙を受け継いできている和紙工房の主人(石橋蓮司)は、息子が家業を嫌って家出してしまったため、工房をたたもうとしますが、ちょうど「山陰KAMIあかりアートフェスティバル」の開催に合わせるかのように、おあつらえむきに息子が戻ってきて家業を継ぐのです!

(注4)父親は、写真を撮りながら日本中を回っていたところ、三徳山投入堂の美しさにひかれてこの地にとどまったとされています。

(注5)このフェスティバルは、因州和紙を使ったオブジェをいくつも温泉街に並べ、夜はその中に入れたイルミネーションを灯らせて雰囲気を作り出すというもの。そのオブジェのデザインを朋子が手掛けます(倉吉市で行われる同名の祭についてはこのサイトの記事を)。

(注6)劇場用パンフレットの「Introduction」には、「応募総数777点もの作品の中から選ばれたグランプリシナリオの待望の映画化です」と述べられています。

(注7)ブログ「シナリオ道ぶらり旅」の2008年11月6日の記事によります。

(注8)このサイトを見ると、井上正子氏は1940年生まれ(後藤幸一氏は1946年生まれ)。他方、このサイトによればグランプリシナリオを書いた宮尾卓志氏は27歳。

(注9)その要領は、ここでうかがえます。

(注10)ここまでの経緯は、このサイトに記載されているものによります。

(注11)この点については、「特定非営利法人みささ温泉」のこの情報によっています。
 すなわち、そこには、「映画「雨の中の初恋」ロケ地誘致では、ネット情報からの公募で応募した。それを日本海新聞に記事にしてもらった。その記事を持ち、東京に行き地元の盛り上がりを伝え、絶対三朝でロケが行えるようにとPRした。新聞記事にしたことで話がスムーズに進み三朝温泉に映画ロケ地を誘致することに成功した」と述べられています。

(注12)このサイトによれば、2009年8月の発表では、「朋子役に新人19歳の岡本奈月、女将役に石野真子、他、小野寺昭、竹中直人、佐藤二朗等」とされていました。

(注13)このあたりも、上記「注12」のサイトによります。



★★☆☆☆







アントキノイノチ

2011年12月07日 | 邦画(11年)
 『アントキノイノチ』を渋谷東急で見ました。

(1)この映画は、さだまさし原作ということで二の足を踏んでいたところ(注1)、なかなかよかった『ヘヴンズストーリー』の瀬々敬久監督の作品であり、かつ『東京公園』で好演した榮倉奈々が出演するとあって、映画館に足を運びました。
 でも、こうした映画を瀬々監督もまた作ってしまうのかな、というところが正直な感想です。

 本作においては、遺品整理業を営む会社で働く永島杏平岡田将生)と久保田ゆき榮倉奈々)が中心となりますが、それぞれ重い過去を持っているというわけです。
 永島の方は、親友(染谷将太)が目の前で後者から飛び降り自殺をしてしまったことなど、ゆきの方は、レイプされたことなど(注2)。そのためもあってか、二人とも、周りの者とのコミュニケーションがうまくいきません。それでも、厳しい現場の仕事に次第に慣れていきますが、何かというと過去のことに囚われてしまうようです。
 その挙げ句、ゆきは、突然会社を辞めて姿を消してしまいます。永島は、彼女のことが忘れられず、ツテを辿って探し出すと彼女は老人ホームで働いていました。
 そして、二人の間のコミュニケーションが復活して、何とか前向きに生きていこうとした矢先、……。

 映画の冒頭で、岡田将生がオールヌードで屋根に上る様子が映し出され、“これは単なる感動作ではないかもしれない”と期待を持たせます。
 ですが、その期待は急速にしぼんでいきます。

 何しろ話がくどすぎるのです。
 余り見受けない遺品整理業を取り上げるのであれば、特異な職場なのですからそれだけに焦点を絞ればいいにもかかわらず、なぜ最後の方で老人ホームまで登場させる必要性があるのか理解出来ません。遺品整理を通じても、現在の老人問題はいくらでも描き出せると思われますから。
 また、永島の過去については、親友の自殺だけでも大変なことと思えるのに、さらにもう一つの事件まで用意されているのです(注3)。でも、いくら過去のことを綿密に描き上げても、何故彼が現在の彼であるのかについて観客が十分納得出来るわけのものでもないと思われます(注4)。
 現に、永島は幼い頃から吃音症なのですが、その説明は何もされていません(注5)。

 ゆきについても、レイプされたばかりでなく、妊娠した上に流産して子供を殺してしまったとして、何回も自殺を図っているとされています(手首にリストカットの跡がいくつも残っています)(注6)。

 そして、そもそも主要人物の2人が、どうして同じ職場にいて、あまつさえこうも類似した特徴を持っていなくてはならないのでしょうか?

 主要人物以外についても、例えば、遺族は遺品に触れたくないがために遺品整理業者に頼んでいるのだということを、2つの人物を使って描いています。
 一人は堀部圭亮で、もう一人は檀れいです。両者とも、親が亡くなるのですが、遺品は全部廃棄してくれと強く要望したにもかかわらず、堀部は、土地に関する書類を探さざるをえなくなり、檀も、母親が書いて出さず仕舞いになった手紙(永島が彼女に届けます)を後から読んで涙ぐむのです。
 ですが、酷似したシチュエーションを描いているエピソードを繰り返しているとしか思えません。

 また、柄本明が登場すると、これは彼が大泣きするなと観客は思うでしょうが(注7)、まさにその通りに物語が展開するので、マイッタナーという思いに囚われてしまいます(永島が故人のベッドを動かすと、その下からお誂えむきに電話器が出てきて、なぜか彼が留守電の操作をすると、故人の声が入っているのです!)。

 その結果の131分では、見ている方が退屈してしまいます〔278分の『ヘヴンズストーリー』の監督の作品(2009年の『感染列島』も138分!)ですからこんな長さになるのも仕方がないのかもしれませんが、結局は、刈り込んで編集する作業が上手くいっていないということではないでしょうか?〕。
 要すれば、元々原作の主人公やヒロインに様々なものが詰め込まれているにもかかわらず、さらにこれでもかとばかりダメ押し気味にエピソードを付け加えたがために、逆に本作は、スカッとした感動を観客に与えることが難しくなっているのではないか、と思いました(注8)。

 とはいえ、岡田将生(注9)は、吃音症であり、最近まで重度の鬱病だったという人物を好演しており、また榮倉奈々も、遺品整理業に従事している時の暗い様子から、老人ホームでの生き生きとした様にまで大きく変化する役を実にうまくこなしています。



 さらに、遺品整理業で2人の先輩役を演じる原田泰造は、『神様のカルテ』でも感じたことですが、脇役として実にいいものを持っている俳優だな、と思いました。




(2)本作で取り上げている「遺品整理業」に似通った仕事内容のものは、『サンシャイン・クリーニング』で描かれているものでしょう。
 といっても、後者の仕事は、血などで汚れた犯罪現場を元通りに綺麗にするというものであって、本作の「遺品整理業」における故人の遺品整理とは趣旨が違っているところです。
 とはいえ、本作によれば、遺体が発見された場所が変質したりしているのを綺麗に掃除することも業務に入っているようですから、結果としてみれば、両者の差はあまり大きくないようにも思われます。
 また、『おくりびと』(2008年)に通じるところがあるようです。ただ、両者の、残されたもの(遺体とか遺品)に対する丁重な扱いは、共通するといえそうですが、『おくりびと』の場合には、まさに遺体に対面しますが、『アントキノイノチ』の場合では遺体を除く遺品に対面するという違いがありますが。

(3)渡まち子氏は、「岡田将生と榮倉奈々の両若手俳優は、繊細な表情や仕草でキャラクターに説得力を与えて素晴らしい。杏平はかつて無関心な周囲に「関係なくないだろう!」と叫んだ。だがそれは、他人との関わりを恐れていた自分にも跳ね返る。生きている間は、人と人とはつながっている。いや、生きているものと亡くなった人もまた。そのことを杏平が改めて知るのが、終盤に彼が行うある人の遺品整理だ。とてもつらい場面だが、その先には確かな明るい希望がみえる」として70点をつけています。
 福本次郎氏も、「物語は、心が壊れた青年が遺品整理の現場で働くうちに、すべての人間は誰かと繋がっていると気づいていく過程を描く。絶望と死の影に押しつぶされそうなゆっくりとしたテンポの映像からは、繊細な主人公の喪失感が重くのしかかってくるようだ」として70点をつけています。





(注1)さだまさし原作の映画としては2007年の『眉山』を見たにすぎません。

(注2)本作のゆきについては、原作(幻冬舎文庫、2011年)とかなり違った設定になっています。
 原作では、ゆきは、永島と同じ職場ではなく、会社の社員が行きつけの居酒屋「おふくろ屋」でアルバイトとして働いています(21歳で、その店を営んでいるおじさんの親類の娘らしいとのこと)。ですから、彼女が昼間、介護福祉士の勉強や実習をしているというのもわかります。
 他方、映画の場合、ゆきは、昼間働いていた会社を突然辞めると、今度は老人ホームに現れるわけですから、なんだか酷く唐突な感じがしてしまいます。
 なお、原作のゆきは、以前、永島と同じ墨東高校にいて(クラスは違うものの同学年)、永島を知っていたというのです。ただ、レイプされたことがきっかけで1年で学校をやめてしまったため、永島には印象が残っていないようなのです。
これらの点は、原作の方が酷くご都合主義的に思われます。
 さらに、原作においては、ゆきも、レイプ事件によって「解離性記憶障害」となって「心が壊れた」と述べていますが(P.268)、なにも主人公と同じような病気をヒロインが罹ったことにするまでもないのではとも思われるところです。

(注3)高校の同級生に松井松坂桃李)という生徒がいて、永島の親友(染谷将太)が自殺したのも、彼の陰湿ないじめのせいなのですが、さらにまた山岳部で戸隠山に登った際の出来事を巡って、永島は松井と乱闘騒ぎを引き起こしてしまいます。
 原作にあっては、この松井がゆきをレイプした男とされています。ですが、そこまで因果関係を書き込んでしまうと、ご都合主義と見られても仕方がないでしょう!
〔なお、この松井については、染谷将太の自殺の後、「精神的外傷を味わったことは確か」と書かれています(P.107)。となると、原作小説は、精神障害者ばかりが出てくる作品の感があります!〕

(注4)永島は、原作の場合、「緘黙症」(PTSDの一種の社会不安障害)だとされています(P.267)〔ただ、原作の初めの方では、その病気について、「高校をやめた後、僕は自律神経の失調と言われ、その後、次第に精神失調が進み、鬱の症状が出たりするうち、ついには失語症状が出た」とされています(P.68)〕。

(注5)映画の永島に目立つ吃音症の方は、原作においては、むしろ軽度のものとされています(「ま、吃音つっても、ごく軽いものだったし」P.267)。
 小説で吃音症を書き表すのは大変でしょうが、映画の場合は演技で表現できます。そこで本作においては、他の精神障害はさておいて、吃音症の程度を酷くしているように推測されます。
 なお、映画でもチョコッと描かれますが、永島が中学生の時に、母親が他の男と駆け落ちして家を飛び出しているのです。それ以来、父親の下で育てられてきましたが、あるいはこんなところも、彼の精神障害の原因の一つともなっているのかもしれません(映画では、現在の永島が母親の病院を訪れる場面を挿入して、この問題を解決してしまっていますが、わざわざそんなことをする必要があるとも思えません)。

 それにしても、原作でも映画でも、ゆきもそうですが、永島も、随分とたくさんの事件及び精神障害を抱え込んだ人物として造形されているものです!

(注6)原作においては、ゆきに「不思議なのはね、私ね、そんなになっても、自殺しよう、とは思わなかったんだ」と言わせ、さらに「はっとした。それは……僕もだ」と書かれています(「僕」とは語り手の永島を指します:P.290)。
 ここは、映画の冒頭とかラストと並んで、映画と原作とが一番異なっている部分ではないでしょうか?

(注7)柄本明が大声を上げて泣く場面としては、最近では、『悪人』や『ヘヴンズストーリー』が思い出されるところです。

(注8)いつも申し上げることですが、こう述べたからと言って、映画は原作に従ったものにすべきだと言いたいわけでは決してありません。
 それにしても、映画のラストの交通事故(ゆきの死)の話は、原作のラストの、遊園地で永島とゆきが松井と遭遇する場面と同じくらい、“なくもがな”です!

(注9)岡田将生は、『悪人』などいくつもの映画に出演していますが、『瞬 またたき』が印象的です。




★★☆☆☆




象のロケット:アントキノイノチ