![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/5e/9319b64c12a4d5d1b2278ee99d004f61.jpg)
『0.5ミリ』を有楽町スバル座で見てきました。
(1)この映画については、先般同じ映画館で『太陽の坐る場所』を見た際、ロビーに置いてあるチラシで知りました。
その後、フジテレビの『ボクらの時代』(この動画)、BS朝日の『ザ・インタビュー』、テレビ朝日の『徹子の部屋』などで本作の主役を演じる安藤サクラ(注2)を立て続けに見たこともあって、映画館に行ってきました。
本作(注1)の舞台は高知県。
主役のサワ(安藤サクラ)は介護ヘルパーをしていて、老人の昭三(織本順吉)の面倒を見ています。
ある日、その家の主婦・雪子(木内みどり)から、「おじいちゃんと一緒に寝てあげて」と頼まれます。
サワは、支払いは十分すると言われたこともあり、2階で添い寝することに同意しますが、その夜、昭三がしつこくサワに迫ってくるので払いのけたところ、足元に置かれていたストーブが倒れて火事になってしまいます。
慌てて階段を1階に駆け下りると、何も言葉を喋らない子供のマコト(土屋希望)が、首吊り自殺した母親・雪子の死体を呆然と見上げている始末。
そんな事件に巻き込まれたサワは派遣会社をクビになり、寮も追い出されてしまいます。
サワが高知の街をあてもなく歩いていると、カラオケ店をホテルと間違えてフロントで言い合いをしている康夫(井上竜夫)に遭遇します。
うまく店員(東出昌大)と話を付け、カラオケをしながら一晩楽しく騒いだサワは、康夫から感謝され、彼のコートと1万円を手にすることに。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/71/2ad554e7b36232b10d7c7d34f4cf3498.jpg)
そこから、サワの老人を巡る遍歴が開始されるのですが、さあ一体どんなことになるのやら、………?
本作には認知症気味の老人が何人も登場し(注3)、また主役のサワ(安藤サクラ)はヘルパーで、そうした老人を介護したりするのですが、決して今の介護制度の問題点といったものを描いている作品ではなく、まさにキャッチコピーが言うように「前代未聞のハードボイルド人情ドラマ」となっています。特に、主演の安藤サクラの演技が奔放さと繊細さに溢れて実に素晴らしく、さらには老人役の津川雅彦や坂田利夫らがしっかりと脇を固めているために(注4)、196分とかなりの長尺ながら、おしまいまで大層面白く見ることが出来ました。
(2)本作のタイトルになっている「0.5ミリ」ですが、一体何を意味しているのでしょう?
この点に関しては、サワが「おしかけヘルパー」をすることになる元教師の義男(津川雅彦)が、サワ宛に作成したカセットテープの中で、「それが集結して同じ方向に動いたのが革命だ」と言っていたと思います。
ただ、これではよくわかりませんから、原作に当たってみました。
すると、文庫版には、「極限に追い込まれた人の輝きは極限状態を凌駕し、自己の実存として覚醒され、それは山をも動かす事となる。その山とは一人一人の心、0.5ミリ程度の事かもしれないが、その数ミリが集結し同じ方角に動いた時こそが革命の始まりである」とあります(P.174)。
「山」の捉え方がよくわからないところがあるとはいえ(注5)、作者の安藤桃子は、どうやら人の心“そのもの”を「0.5ミリ」と見ているような気がします。
さらに、監督の安藤桃子に対するインタビュー記事を読んでみました。
例えば、この記事では、「監督にとっての0.5ミリは?」との質問に対し、監督は、「答えは無限大にあるものだと思っています。……ですから、自分の0.5ミリを押しつけたくないっていうのはありますが、自分自身としては、0.5ミリは「心の尺度」だと」、「「心の尺度」っていうものが、どこかに確かに存在するんだろうなって。それが、ちょうど “0.5ミリ”。産毛は触れますし、静電気も起きるし、体温も感じる。だけど実際に触れてはいない。1ミリの半分で、間の場所、中間地点のような気がしています」と答えています。
この答えもよくはわからないのですが(注6)、あるいは心と心の間の“距離”といったものを指しているのかもしれません(注7)。
心そのものなのか、心と心の距離なのか、いずれにしても「0.5ミリ」というタイトルには、皆が同じ方向にホンのちょっとだけ歩み寄れば世の中がうまくいくといったような意味合いが込められているのかもしれません。
でもひねくれ者のクマネズミは、そうした解釈はとりたくありません(注8)。
むしろ、人々が「0.5ミリ」づつ離れてテンデンバラバラの方向に歩いているというのが世の中であって、それでいいのではないかとも思っています。
そうした観点から本作を眺めると、本作では、「0.5ミリ」という小さな心を持った個々の人間(あるいは、お互いに「0.5ミリ」の距離を置いて勝手な方向に動いている人々)も、一人ずつ拡大してみると決して同じではありえず、それぞれ実に興味深い点を持っている、といった有り様が描かれているように思えてきます。
例えば、坂田利夫が扮する茂は、駐輪場に置いてある自転車を千枚通しでパンクさせたり、ベンガル扮する斉藤君に持ち金を騙し取られそうになったりするどこにでもいそうな認知症気味の老人ながら、自分できちんと整備した「いすゞ117クーペ」を隠し持っていたりするのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/ca/68409db622f3b54c7ff694bde7cff34e.jpg)
また、元教師の義男も、定年退職して行く宛がないにもかかわらず、勉強会があると称して鞄を後生大事に抱えて家を出る生活を送っている老人です(注9)。ですが、彼は元海軍将校であり、認知症のレベルが上がってからも、サワに対して、「戦争くらい馬鹿らしいことはない。生きているのが不思議なくらい。戦争で亡くなった人たちは本当に気の毒。相手だってそうだ。なんのためにやっているのか。人間っておかしなものだ」などと長広舌をふるいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/87/afe94d314759620c7eda7d32ef94d8da.jpg)
こうした様々の老人たちのそれぞれ特色ある行状が、サワを演じる安藤サクラの類い稀なる演技(注10)と、監督の安藤桃子の素晴らしい構想力(注11)とによって、本作では実に的確に活き活きと描き出されていると思いました。
(3)渡まち子氏は、「どこからともなくやってきてどこへともなく去って行くサワは、風の又三郎、あるいはメリー・ポピンズのよう。この映画は、時に可笑しく、時に残酷で、それでも優しい、現代の寓話だ」として80点を付けています。
山根貞男氏は、「介護という切実な題材を、ユーモラスな人情ドラマとして描き、介護とは何かにも迫る。そんなユニークな映画で、古い男物のオーバーを着た流れ者ヘルパーの主人公の姿には、おとぎ話の味わいもある」と述べています。
外山真也氏は、「物語が物語を進めるのではなく、行動や画面の劇性によって物語れる技量も含めて、安藤桃子は希代のストーリーテラーである」として★5つを付けています。
(注1)本作の原作は、安藤桃子著『0.5ミリ』(幻冬舎、2011年10月)。
本作の監督は、同じ安藤桃子(他に『カケラ』を製作していますが未見)。
(注2)安藤サクラについては、これまで『愛のむきだし』、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』、『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』、『かぞくのくに』、『春を背負って』で見ています。
その他、『ペタルダンス』はDVDで見ました〔この拙エントリの(3)を参照〕。また、『きいろいゾウ』には声の出演をしています。
(注3)尤も、東田勉氏による『認知症の「真実」』(講談社現代新書、2014年11月)によれば、「認知症」と一纏めに括ってしまうことに問題があり、少なくとも、原因と治療法が異なる4つのタイプ(アルツハイマー型認知症、前頭側頭型認知症、レビー小体型認知症、脳血管性認知症)に分けて考える必要があるようです。
(注4)出演している俳優の内、最近では、津川雅彦は『偉大なる、しゅららぼん』や『セイジ-陸の魚-』、柄本明は『幕末高校生』や『許されざる者』、草笛光子は『武士の家計簿』、東出昌大は『桐島、部活やめるってよ』、ベンガルは『みなさん、さようなら』で、それぞれ見ました。
(注5)最初に出てくる「山」は大きくて簡単に動かすことができなさそうなものでしょうし、次の「山」は「0.5ミリ」ほどのちっちゃなものという感じではないでしょうか?
(注6)「心の尺度」とは一体心の何を測る尺度なのでしょう?
(注7)こちらのインタビュー記事では、安藤監督は、「0.5ミリは、違う世代の人たちが歩みよれる、ちょうど真ん中にある尺度、心の尺度なんです」と述べています。
また、こちらの記事でも、「触れない、けど静電気は起きるかも、体温は感じるかも、という距離」と言っています。
さらに、この記事でも、「人との距離感の取り方とか、人とのコミュニケーションはどんどん掴みにくくなってくる。その距離感を測るのはどんなものなだろうと考えたら1ミリの半分の0.5ミリウぐらいだろうなと思ったんです。触れてはいないけど体温は感じる距離、そして静電気も起きる距離なんです」とあります。
(注8)例えば、太平洋戦争も、様々な要因があるとはいえ、国民が煽り煽られて同じ方向に突き進んだがために突入してしまったのではないでしょうか?尤も、その際に動いてしまった幅は「0.5ミリ」ほど小さなものではなかったかもしれませんが。
(注9)義男の妻・静江(草笛光子)が、認知症で寝たきり。サワは、まずはその介護をするということで、義男の家に入り込みます。
(注10)例えば、書店で万引きをした義男に対して、その後ろから「セーラー服着てあげる」と言いながら覗きこむ時のサワの様子に感心しましたし、また、“少年”マコトの父親だという健(柄本明)がサワの足に触れるとその顔にまたがって気絶させたりもするのです!
(注11)例えば、本作の冒頭の昭三を巡るエピソードでは投げ出されたままになっている雪子の自殺とか“少年”マコトの不思議な感じについては、健を巡る最後のエピソードで説明されるのです。
尤も、十分な説明は与えられず、残余は観客側の想像に委ねられるのですが。
★★★★★☆
象のロケット:0.5ミリ
(1)この映画については、先般同じ映画館で『太陽の坐る場所』を見た際、ロビーに置いてあるチラシで知りました。
その後、フジテレビの『ボクらの時代』(この動画)、BS朝日の『ザ・インタビュー』、テレビ朝日の『徹子の部屋』などで本作の主役を演じる安藤サクラ(注2)を立て続けに見たこともあって、映画館に行ってきました。
本作(注1)の舞台は高知県。
主役のサワ(安藤サクラ)は介護ヘルパーをしていて、老人の昭三(織本順吉)の面倒を見ています。
ある日、その家の主婦・雪子(木内みどり)から、「おじいちゃんと一緒に寝てあげて」と頼まれます。
サワは、支払いは十分すると言われたこともあり、2階で添い寝することに同意しますが、その夜、昭三がしつこくサワに迫ってくるので払いのけたところ、足元に置かれていたストーブが倒れて火事になってしまいます。
慌てて階段を1階に駆け下りると、何も言葉を喋らない子供のマコト(土屋希望)が、首吊り自殺した母親・雪子の死体を呆然と見上げている始末。
そんな事件に巻き込まれたサワは派遣会社をクビになり、寮も追い出されてしまいます。
サワが高知の街をあてもなく歩いていると、カラオケ店をホテルと間違えてフロントで言い合いをしている康夫(井上竜夫)に遭遇します。
うまく店員(東出昌大)と話を付け、カラオケをしながら一晩楽しく騒いだサワは、康夫から感謝され、彼のコートと1万円を手にすることに。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/71/2ad554e7b36232b10d7c7d34f4cf3498.jpg)
そこから、サワの老人を巡る遍歴が開始されるのですが、さあ一体どんなことになるのやら、………?
本作には認知症気味の老人が何人も登場し(注3)、また主役のサワ(安藤サクラ)はヘルパーで、そうした老人を介護したりするのですが、決して今の介護制度の問題点といったものを描いている作品ではなく、まさにキャッチコピーが言うように「前代未聞のハードボイルド人情ドラマ」となっています。特に、主演の安藤サクラの演技が奔放さと繊細さに溢れて実に素晴らしく、さらには老人役の津川雅彦や坂田利夫らがしっかりと脇を固めているために(注4)、196分とかなりの長尺ながら、おしまいまで大層面白く見ることが出来ました。
(2)本作のタイトルになっている「0.5ミリ」ですが、一体何を意味しているのでしょう?
この点に関しては、サワが「おしかけヘルパー」をすることになる元教師の義男(津川雅彦)が、サワ宛に作成したカセットテープの中で、「それが集結して同じ方向に動いたのが革命だ」と言っていたと思います。
ただ、これではよくわかりませんから、原作に当たってみました。
すると、文庫版には、「極限に追い込まれた人の輝きは極限状態を凌駕し、自己の実存として覚醒され、それは山をも動かす事となる。その山とは一人一人の心、0.5ミリ程度の事かもしれないが、その数ミリが集結し同じ方角に動いた時こそが革命の始まりである」とあります(P.174)。
「山」の捉え方がよくわからないところがあるとはいえ(注5)、作者の安藤桃子は、どうやら人の心“そのもの”を「0.5ミリ」と見ているような気がします。
さらに、監督の安藤桃子に対するインタビュー記事を読んでみました。
例えば、この記事では、「監督にとっての0.5ミリは?」との質問に対し、監督は、「答えは無限大にあるものだと思っています。……ですから、自分の0.5ミリを押しつけたくないっていうのはありますが、自分自身としては、0.5ミリは「心の尺度」だと」、「「心の尺度」っていうものが、どこかに確かに存在するんだろうなって。それが、ちょうど “0.5ミリ”。産毛は触れますし、静電気も起きるし、体温も感じる。だけど実際に触れてはいない。1ミリの半分で、間の場所、中間地点のような気がしています」と答えています。
この答えもよくはわからないのですが(注6)、あるいは心と心の間の“距離”といったものを指しているのかもしれません(注7)。
心そのものなのか、心と心の距離なのか、いずれにしても「0.5ミリ」というタイトルには、皆が同じ方向にホンのちょっとだけ歩み寄れば世の中がうまくいくといったような意味合いが込められているのかもしれません。
でもひねくれ者のクマネズミは、そうした解釈はとりたくありません(注8)。
むしろ、人々が「0.5ミリ」づつ離れてテンデンバラバラの方向に歩いているというのが世の中であって、それでいいのではないかとも思っています。
そうした観点から本作を眺めると、本作では、「0.5ミリ」という小さな心を持った個々の人間(あるいは、お互いに「0.5ミリ」の距離を置いて勝手な方向に動いている人々)も、一人ずつ拡大してみると決して同じではありえず、それぞれ実に興味深い点を持っている、といった有り様が描かれているように思えてきます。
例えば、坂田利夫が扮する茂は、駐輪場に置いてある自転車を千枚通しでパンクさせたり、ベンガル扮する斉藤君に持ち金を騙し取られそうになったりするどこにでもいそうな認知症気味の老人ながら、自分できちんと整備した「いすゞ117クーペ」を隠し持っていたりするのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/ca/68409db622f3b54c7ff694bde7cff34e.jpg)
また、元教師の義男も、定年退職して行く宛がないにもかかわらず、勉強会があると称して鞄を後生大事に抱えて家を出る生活を送っている老人です(注9)。ですが、彼は元海軍将校であり、認知症のレベルが上がってからも、サワに対して、「戦争くらい馬鹿らしいことはない。生きているのが不思議なくらい。戦争で亡くなった人たちは本当に気の毒。相手だってそうだ。なんのためにやっているのか。人間っておかしなものだ」などと長広舌をふるいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/87/afe94d314759620c7eda7d32ef94d8da.jpg)
こうした様々の老人たちのそれぞれ特色ある行状が、サワを演じる安藤サクラの類い稀なる演技(注10)と、監督の安藤桃子の素晴らしい構想力(注11)とによって、本作では実に的確に活き活きと描き出されていると思いました。
(3)渡まち子氏は、「どこからともなくやってきてどこへともなく去って行くサワは、風の又三郎、あるいはメリー・ポピンズのよう。この映画は、時に可笑しく、時に残酷で、それでも優しい、現代の寓話だ」として80点を付けています。
山根貞男氏は、「介護という切実な題材を、ユーモラスな人情ドラマとして描き、介護とは何かにも迫る。そんなユニークな映画で、古い男物のオーバーを着た流れ者ヘルパーの主人公の姿には、おとぎ話の味わいもある」と述べています。
外山真也氏は、「物語が物語を進めるのではなく、行動や画面の劇性によって物語れる技量も含めて、安藤桃子は希代のストーリーテラーである」として★5つを付けています。
(注1)本作の原作は、安藤桃子著『0.5ミリ』(幻冬舎、2011年10月)。
本作の監督は、同じ安藤桃子(他に『カケラ』を製作していますが未見)。
(注2)安藤サクラについては、これまで『愛のむきだし』、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』、『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』、『かぞくのくに』、『春を背負って』で見ています。
その他、『ペタルダンス』はDVDで見ました〔この拙エントリの(3)を参照〕。また、『きいろいゾウ』には声の出演をしています。
(注3)尤も、東田勉氏による『認知症の「真実」』(講談社現代新書、2014年11月)によれば、「認知症」と一纏めに括ってしまうことに問題があり、少なくとも、原因と治療法が異なる4つのタイプ(アルツハイマー型認知症、前頭側頭型認知症、レビー小体型認知症、脳血管性認知症)に分けて考える必要があるようです。
(注4)出演している俳優の内、最近では、津川雅彦は『偉大なる、しゅららぼん』や『セイジ-陸の魚-』、柄本明は『幕末高校生』や『許されざる者』、草笛光子は『武士の家計簿』、東出昌大は『桐島、部活やめるってよ』、ベンガルは『みなさん、さようなら』で、それぞれ見ました。
(注5)最初に出てくる「山」は大きくて簡単に動かすことができなさそうなものでしょうし、次の「山」は「0.5ミリ」ほどのちっちゃなものという感じではないでしょうか?
(注6)「心の尺度」とは一体心の何を測る尺度なのでしょう?
(注7)こちらのインタビュー記事では、安藤監督は、「0.5ミリは、違う世代の人たちが歩みよれる、ちょうど真ん中にある尺度、心の尺度なんです」と述べています。
また、こちらの記事でも、「触れない、けど静電気は起きるかも、体温は感じるかも、という距離」と言っています。
さらに、この記事でも、「人との距離感の取り方とか、人とのコミュニケーションはどんどん掴みにくくなってくる。その距離感を測るのはどんなものなだろうと考えたら1ミリの半分の0.5ミリウぐらいだろうなと思ったんです。触れてはいないけど体温は感じる距離、そして静電気も起きる距離なんです」とあります。
(注8)例えば、太平洋戦争も、様々な要因があるとはいえ、国民が煽り煽られて同じ方向に突き進んだがために突入してしまったのではないでしょうか?尤も、その際に動いてしまった幅は「0.5ミリ」ほど小さなものではなかったかもしれませんが。
(注9)義男の妻・静江(草笛光子)が、認知症で寝たきり。サワは、まずはその介護をするということで、義男の家に入り込みます。
(注10)例えば、書店で万引きをした義男に対して、その後ろから「セーラー服着てあげる」と言いながら覗きこむ時のサワの様子に感心しましたし、また、“少年”マコトの父親だという健(柄本明)がサワの足に触れるとその顔にまたがって気絶させたりもするのです!
(注11)例えば、本作の冒頭の昭三を巡るエピソードでは投げ出されたままになっている雪子の自殺とか“少年”マコトの不思議な感じについては、健を巡る最後のエピソードで説明されるのです。
尤も、十分な説明は与えられず、残余は観客側の想像に委ねられるのですが。
★★★★★☆
象のロケット:0.5ミリ
観る前も観終わってからも、どうもこのタイトルはしっくり来ない。「はぐれヘルパーさわ 最後の戦い」とかの方が似合う気がする(興行として成立するかどうかは別の話として)。
サワの「戦い」はこれからも続いていく感じがするので、「はぐれヘルパーさわ 最後の戦い」ではちょっとという気がします。
「0.5ミリ」というタイトルにしたのは、どうしてそんなタイトルなのだろうと観客に考えさせるためなのではないかな、と思ったりしています。