映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ファウスト

2012年06月30日 | 洋画(12年)
 『ファウスト』をシネスイッチ銀座で見ました。

(1)ソクーロフ監督の作品としては、『牡牛座―レーニンの肖像』(2008年にユーロスペースで)と『太陽』(DVDで)を見たにすぎませんが、特に後者の印象が強く残っていて、同監督の新作の上映と聞いて映画館に出向いてみました。

 物語の舞台は、19世紀初めのドイツのある町。
 カメラが空の高いところから次第に降りて行って、一軒の古めかしい家の中に入っていくと、そこは教授のファウストヨハネス・ツァイラー)の研究室。彼は、助手のワーグナーゲオルク・フリードリヒ)と一緒になり、生きがいを求めて「魂」がどこにあるのかを探究しています(注1)。



 ですがファウストは、「魂」の研究で壁にぶち当たり、お金もなくなって外をほっつき歩いた末に、高利貸のマウリツィウスアントン・アダシンスキー)の家へ(家の中は抵当物件で溢れ返っています)。



 ファウストの借金の要請は断られたものの、マウリツィウスから「別の形で力になる」と言われます。ファウストが研究室に戻ると、先ほどのマウリツィウスが現れ、「知らないことを教えてやる」と言ってファウストを再び外に連れ出します。

 二人は町中の洗濯場に行ったところ、そこで出会ったマルガレーテイゾルダ・ディシャウク)にファウストは一目惚れしてしまいます。



 次いで二人は地下酒場に潜り込みますが、学生や兵士たちで大騒ぎの中、ファウストは、マウリツィウスによって握らされたフォークで、誤って兵士のヴァレンティノを刺してしまいます。
 マウリツィウスは、ファウストをマルガレーテの家のそばに連れて行きます。ファウストは、ヴァレンティノの遺体が運び込まれる様子を見て、刺した相手が死んでしまい、それもマルガレーテの兄であるとわかり驚愕します。
 ですがファウストは、何食わぬ顔でヴァレンティンの葬儀に参列、帰り道をマルガレーテと二人で一緒に歩いて四方山話をします。
 とはいえ、別の者の知らせで、兄を刺し殺したのがファウストだと知ったマルガレーテは、ファウストにその事実を確かめると、彼の元から立ち去ってしまいます。
 マルガレーテに恋い焦がれるファウストは、再度マウリツィウスの家に行き、「一晩マルガレーテと二人きりで過ごしたい」と頼み込みます。
 それに対して、マウリツィウスは契約書を差し出し、署名しろと要求します。その契約書には「魂が肉体から離れたらそれを引き渡す」と書かれています。
 さあファウストは、そんな契約書に署名などするでしょうか、……、そして?

 映画の冒頭は高い空の上から次第に地上に降りていきますし、またファウストとマルガレーテは山の斜面の森の中を歩いたりします。さらには、映画のラストには岩山が登場します。このように一方で「山」が強調されるとともに、他方で、ファウストとマウリツィウスは、洗濯場に長い階段を下りていきます。また、ファウストがマルガレーテの兄をフォークで刺してしまう酒場も地下にあるというように、「地下」も強調されています。
 映画はむろん横の移動(ファウストが、自分の研究室からマウリツィウスの家に行くように)もあることはあるにしても(注2)、むしろ縦の動きが重視されていて、おそらくは、善、愛、自由といった崇高なことに関わる場面では「山」が強調され、悪(あるいは悪魔=マウリツィウス)に関わる場面は「地下」が選ばれているのではないでしょうか。

 そしてラストの方では、荒涼たる岩山をファウストとマウリツィウスが登っていきます。ファウストは、悪魔に魂を売り渡してまでもこの世の虚しさから逃れたいとしても、それはかなわないとわかり、マウリツィウスに対して、「もうお前には頼らない」、「力も影響力も自力でつかみとるよ。素質と精神さえあればいい。それで自由な地に自由な民を創れる」と言うのです。
 そして、さらに、「これで終わりだ。何もなかったのさ」と言いながらファウストがさらに進んでいくと、平らな所に出ます。

 要すれば、何かをつかもうとして別の何かに頼っても虚しいのであって、自分でとにかく前に進んでいくしかないのだ、そしてこれからはそういう姿勢で普通の生活(平らな大地)を送っていくということではないでしょうか?

 それはともかく、本作は文芸作品で、いろいろな解釈が可能ですし、さらにまた、映画の中で話される饒舌なおしゃべりの中にもセンスあふれる個所がいくつもあったりして(注3)、それなりに楽しめる作品に仕上がっているなと思いました。

(2)映画の冒頭で、「ゲーテ原作より自由に翻案」とあり、確かに、原作とだいぶ違っているところがあります(むしろ、全くの別物と考えるべきでしょう!)。

 何しろ、原作に登場しないファウストの父親が現れたりするのです(注4)。
 特に、原作の悪魔メフィストフェレスが、本作では高利貸のマウリツィウスになっていて、ずっと人間くさく(でも、洗濯場で裸になると、性器が尻尾のように尻に付いています!)、また原作の場合、ファウストは、その魔術で若返りマルガレーテに遭遇するわけですが(注5)、本作では最初から最後までファウストの年齢はそのままです。
 それに、ファウストと契約するのも、原作のように物語の最初の方ではなく(注6)、最後の方でファウストがマルガレーテと一晩会いたいと望んだ際のことです。それも、原作のような契約ではなく(注7)、単に「魂が肉体を離れたら、それを引き渡す」というものにすぎません。
 また、原作の場合、マルガレーテは、身ごもったファウストの子供を殺してしまい(注8)、牢獄にとらわれ処刑されることになりますが、本作のマルガレーテはそんな罪は犯しません。
 そうなるのも、原作全体を覆っている神の存在が、本作では否定されているからではないか、そしてその結果として、悪魔メフィストフェレスが高利貸しのマウリツィウスに置き換えられることになったのではないか、と思われます。

 さらに、原作の第2部に登場するホムンクルス(人工生命)が本作にも出てきますから(注9)、本作は一応ファウスト全体を踏まえているのでしょうが、原作の第2部で中心的に描かれるヘレナなどは登場しませんから、やはり取り扱いやすい第1部を中心的に映画化したものと考えられます。

 とすると、本作には原作の第2部を中心的に翻案する続編が考えられ、そこでは、本作のラストで石に閉じ込められたマウリツィウスが再度登場し、ファウストが、またもやヘレナに該当する女性を追い求めたり、果ては干拓地の開発までやり遂げるに至る様が描かれるのかもしれませんが、それは想像が過ぎるというものでしょう。

(3)本作については、映画評論家の蓮實重彦氏が、雑誌『群像』6月号の「映画時評」で取り上げています。
 蓮實氏は、本作について、「この『ファウスト』は、まぎれもなくソクーロフの作品である」としながらも(注10)、「いつになく撮り急いでいるように見え」、「ここでは世界―現実―を「撮る」ことよりも、物語―虚構―を「語る」ことだけに神経を集中しているように思えてならない」と述べています。
 クマネズミは、蓮實氏が列挙するソクーロフ監督の作品を見ていないために、その見解について余り云々できませんが、ゲーテの名作に基づく本作は、レーニンの晩年を描いている『牡牛座』や、昭和天皇とマッカーサーとの会見を中心に描いている『太陽』とは(注11)、少なくとも歴史上の人物を描いてはいないのですから違っていて当然のこととも思われます(まさに「物語―虚構―を「語る」ことだけに神経を集中」せざるを得ないのではないでしょうか?)(注12)。

 なお、蓮實氏は、「マルガレーテに惹かれるファウストの男女関係の描写は、劇的な流れとしては充分に説得的とはいいかねる」と述べているところ、クマネズミもそんな感じはしましたが、それは蓮實氏が述べている点(注13)というよりもむしろ、原作のように若返るのではなく、酷くむさくるしい年のいったままのファウストを、年若いマルガレーテが一目で気に入ってしまうという設定が、大層非現実的に思えてしまうことによります。

(4)さらに、評論家の中条省平氏は、6月1日付けの日本経済新聞に掲載された映画評において、「本年屈指の問題作だ」として、「主題としては、ゲーテをひき継ぎ、多くの哲学的問題が詰めこまれている。魂とは何か、人間の欲望と弱さ、愛と情欲、堕落と救済…。それらのテーマが扱われ、過剰な言葉の本流となって物語を押し流」し、「そうして醸しだされる世界の混沌は、先の見えない現代の本質的な鏡なのかもしれない。その志の高さには賞賛を惜しまない」ものの、「どこか一か所でいい、映画的活力で無条件の悦楽を浸らせてくれる場面が欲しかった。この映画の空気はあまりにも稀薄だ」と述べています(☆5のうちの★4)。
 「この映画の空気はあまりにも稀薄」との中条氏の感想は、先の蓮實氏と通じているのではと思われます(注14)。
 ただ、中条氏が「多くの哲学的問題が詰めこまれている」と述べている点に関しては、確かにそうした話題が提示されてはいるものの、ごく通り一遍であって、哲学的に議論が展開されている訳のものではなく(特に、「堕落と救済」に関しては、本作に神の視点がないものですから、取り上げているとまでいえないのではと思われます)、また「世界の混沌」といったものはいつの世にもおなじみであって、それを描き出したからといって「現代の本質的な鏡」とまでいえるかどうか疑問ではありますが。





(注1)ファウストが、死体の中から心臓を取り出して、「魂がどこにあるのかわからんのだ」と呟くと、助手のワーグナーは、「魂も命も足にありそうですよ」などと茶化したりします。
 さらに、ワーグナーが、「魂の正体を知っているのは、神と悪魔だけです」、そして「神はどこにでもいますが、悪魔は金のあるところにいます」と言い、それに対してファウストが、「神などいないが、誰が悪魔なのだ」と尋ねるのに対し、「広場にいる男がそんな感じですよ」と答えます。

(注2)描かれている町が随分とこじんまりとしているのです。

(注3)たとえば、マウリツィウスの家の地下室で家捜ししているとき、マウリツィウスが「おばの財布が出てきた」と言ったのに対して、ファウストが「悪魔におばがいるのか?」と尋ねると、マウリツィウスは「神に不可能はない」と返答したりします。

(注4)父親とは別の場所で研究していたファウストは、資金がなくなって、医師の父の診療所に出向きますが、「人に頼らずに働け」と言われ、金の無心を断られてしまいます。

(注5)池内紀訳『ファウスト第一部』(集英社文庫)の「魔女の厨」の場面で(P.152~P.156あたり)、ファウストは、魔女から渡された薬を飲み、次いで次の「往来」の場面でマルガレーテと遭遇します。マルガレーテは、さらに次の「夕方」の場面で(P.163)、「今日会ったあの人は誰だろう。とってもイキに見えた」などと呟きます。

(注6)原作の「書斎」の場面で、契約書について、ファウストが「いったいどうして欲しいのだ。黄金づくりか、石に刻めばいいのか、羊皮紙か、紙でいいのか?」などと尋ねると、メフィストは「ちょっとした紙きれでいい。血のひとたらしで署名ねがいたい」と答えます(P.100;第一部全体の3分の1あたりのところ)。

(注7)原作では、ファウストはメフィストにこう言います。「そうだ、こうしよう、もしとっさにいったとする、時間よ、とどまれ、おまえはじつに美しい―もし、そんな言葉がこの口から洩れたら、すぐさま鎖につなぐがいい。よろこんで滅びてゆこう」(P.98)。

(注8)原作の「牢獄」の場面で、マルガレーテは、「わたし、母さんを殺した、子どもを水に沈めた。わたしたちに授かった子だった」と言います(P.292)。

(注9)ホムンクルスは、池内紀訳『ファウスト第二部』(集英社文庫)の「実験室」の場面で登場します(P.130~)。

(注10)蓮實氏は、「いきなり俯瞰となったキャメラが、二人の男女の波立てる同心円状の波紋が湖畔に音もなく拡がるさまを見すえるショットには、ソクーロフなりの署名が読みとれて思わずほっとする」と述べています。

(注11)例えば『太陽』では、昭和天皇が写真帳を椅子に座って見ている殆ど動きのないシーンが10分近く続いたりしますが、こんな長回しは本作では見かけません。

(注12)さらに、『牡牛座』や『太陽』といった作品全体を覆っている不気味で暗鬱な雰囲気(例えば、B29を擬した飛び魚が火炎の中を飛び交う大空襲の映像など)は、本作に余り感じなかったように思います。

(注13)蓮實氏は、「兄の葬儀で彼女のかたわらに立つファウストが、手袋越しにその手に触れる瞬間に、はたして彼が性的な欲求にさいなまれていたかどうかは、いきなり闖入する犬の群れに乱されて描かれずに終わる」と述べています。

(注14)蓮實氏は、「ソクーロフならではの生々しい瞬間は、音響的にも映像的にも皆無だといわざるをえない」などと述べています。


〔本エントリにおける会話の引用の大部分は、劇場用パンフレット掲載の「シナリオ採録」によっています〕




★★★☆☆




あんてるさんの花

2012年06月26日 | 邦画(12年)
 『あんてるさんの花』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)これは「ムサシノ吉祥寺で映画を撮ろう!」というプロジェクトの第3弾で、御当地物だとしても、近くに住んでいるのだからその誼で見てみようと映画館に出かけてみました(上映館もバウスシアターだけです!)。
 確かに、映画の舞台はすべて吉祥寺で、井の頭公園や駅前のハモニカ横丁など、おなじみの風景はいくらでも映し出されます(注1)。
 でも、案に相違してまずまずの作品に仕上がっているなと思いました。

 物語の主人公は、吉祥寺ハモニカ横丁で小さな居酒屋を営む「あんてるさん」(安藤照夫の通称:小木茂光)。地元ラジオに出演した時に、リスナーからのメールで「アンデルセンの花」のことを知ります。
 そのメールによれば、南米ペルーの奥地に咲く花で、その花びらに触れた人は、その人しか見えない幻が見え、なおかつそれを真実と思ってしまうそうで、ただ幻が見えるのは花が咲いている3日くらいの間だけだから、現地の人は「マッチ売りの少女の花」とも言っているとのこと。
 あんてるさんは、ラジオ番組収録からの帰り道に、花屋で偶然「忘れろ草」(別名が「アンデルセンの花」)を見つけ、買って帰り居酒屋のカウンターに置いておきます。

 ただ、あんてるさんの店はどうも閑古鳥が鳴いているようで、妻・奈美恵田中美里)に、「もうそろそろ店を止めたい」と話しますが、妻は、「この花が本当にラジオで言っていた花なのか、みんなに試してもらったらいい。お客さんも来るし一石二鳥」と答え、その結果集まった3人の常連客が、その花びらに触って試すことになります。

 一人は離婚したばかり男(徳山秀典)、もう一人はライブハウスで歌う若い女性ミュージシャン・チサト柳めぐみ)、それにアルバイトで倉庫の警備員をしている青年(森廉)。
 彼らはそれぞれ悩みを持っています。妻(佐藤めぐみ)と離婚した男は、小学生の息子を抱えていますし、女性ミュージシャン・チサトは、売れるためには一からやり直さないとだめだとプロデュサーに言われています、警備員の青年も、飛び出てきた故郷の家のことが心配だったりします。
 はたして、それぞれどんな幻を見て、悩みをどんなふうに解決していくのでしょうか、………?

 吉祥寺を舞台とする作品としては、昨年見た『吉祥寺の朝比奈くん』の印象が強く残っていてついそれと比べたくなりますが、本作は、工夫を凝らしたファンタジーであり(注2)、なおかつオムニバス形式ということで違ったものとしてとらえた方がいいのではないか、その場合には、それなりの出来栄えといるのではないかと思いました(注3)。

 とはいえ、離婚したばかりの夫(徳山秀典)に関しては、なぜかその元妻(佐藤めぐみ)も「忘れろ草」を栽培していて、話がかなり込み入ってしまいます(注4)。



 また、チサト(柳めぐみ)のエピソードは、かなり使い古されたものではないでしょうか(注5)。



 それに、いくら故郷を飛び出してから10年以上経過しているとしても、はたして自分の姉を見間違えるだろうか(注6)、などさまざまの疑問がわいてしまいます。



 でも、これらの3つの話をさらに、あんてるさんとその妻との話で包み込んで(注7)、全体の構成をしっかりとしたものにしている点で、本作は評価できるでしょう(注8)。

 加えて、あんてるさん役の小木茂光は、長編映画初主演とのことながら、黙々と居酒屋を営む中年男性としてうってつけの感じでした。
 また、その妻・奈美恵を演じる田中美里は、登場すると画面がずっと華やかになり、これならもっと場面を増やしてもらったらよかったのにと思ったりしました(注9)。

 何はともあれ、吉祥寺を舞台とするこうした映画を見ることによって、観客自身も、「忘れろ草」に触れて、吉祥寺を幻としてとらえることになるのではないかと思いました。



(注1)たとえば、この記事とかこの記事が参考になるでしょう。

(注2)「忘れろ草」をめぐる話については、その花びらに催眠効果を誘発する物質が付いていて、それに触れると眠ってしまい、眠っている間に自分が見たいと無意識的に思っていた事柄を夢の中で見ることになる(あらかじめ「見たいと思ったことを見ることができる」と誘導的に言われていることもあって)のではと想像されるところです。

(注3)様々な工夫を凝らしている点からしても、御当地物の典型といえる『恋谷橋』とは比べものになりませんし、吉祥寺の光景を控えめに描いているという点で、御当地物とはいえないにせよハワイの観光スポットなどがふんだんに登場する『ファミリー・ツリー』よりも好ましいのではないか、と思いました。

(注4)離婚した妻が、子供のことが忘れられずに、幻として呼び出してしまうのはわかりますが、夫は、妻に対して「自分が修一(息子の名前)に何をしたのかわかっているのだろう」などと離婚原因について大層強いことを言っていながらも、妻を幻として呼び出してしまい(井の頭公園の池で一緒にボートに乗ったりするのです)、結局は元のさやに納まるようなのは、話として都合がよすぎる印象です。

(注5)チサトを巡る話は、ストリート・ミュージシャンからプロになったものの、自分を見失って行き詰ってしまい、再度一人で路上ライブを敢行するというものです(この話に、元のバンドのメンバーだった直美が幻として絡んできます)。
 でも、映画の中で柳めぐみが歌う「君が教えてくれたこと」(作詞 柳めぐみ、作曲 小西貴雄)はなかなかいい曲だなと思いました。

(注6)青年(森廉)は、警備している会社の門の前に突然現れた幼馴染が幻だと思ってしまいますが、実は、彼の部屋に入り込んで「部屋が汚い」など大騒ぎする姉が幻だったのです(彼がよく見るAVビデオに登場する女優とされています!)。

(注7)あんてるさんは、買ってきた「忘れろ草」を居酒屋のカウンターに置く際にすでに花びらに触れていて、登場する彼の妻自体が幻なのです!

(注8)さらには、倉庫番の青年と恋人が、自販機のところにいた子供を見咎めますが、離婚したばかりの夫(徳山秀典)の息子なのです。
 とはいえ、あんてるさんの居酒屋などで、時々遠くから様子をうかがう男性(螢雪次朗)が、実は自分の家で「忘れろ草」を栽培していたといったシーンが描かれるところ、別にそれでこの花にまつわる謎が説明されるわけのものでもありませんから、なくもがなという気がしました。

(注9)『カルテット』に出演したのを見ましたが、これも、浦安市を舞台とする御当地物でした!




★★★☆☆




ジェーン・エア

2012年06月22日 | 洋画(12年)
 『ジェーン・エア』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)エミリー・ブロンテの原作の方は、なんだか少女趣味的な感じがしてとうとう手つかずのママ現在に至ってしまったところ、本作が公開されると耳にし、手っ取り早く名作の粗筋でも知っておこうというくらいの感じで見に行きました。
 ですが、ジェーン・エアを演じる主演のミア・ワシコウスカがなかなか素晴らしく(『永遠の僕たち』のアナベル役でも随分と印象的な演技を披露していました)、また19世紀のイギリスの雰囲気も良く出ているのでマズマズでした。

 物語は、19世紀の前半のスコットランド。
 主人公のジェーン・エアミア・ワシコウスカ)は、両親に早くに死なれ、身を寄せた義理の叔母との折り合いも悪く、寄宿学校に入れられますが、そこでも教師に酷い扱いを受けます。
 やっとの思いでそこを出た後、教師を経て、今度は立派な屋敷に住む少女アデールの家庭教師となります。
 ジェーンは、それまでマッタク男性とつきあったことがなかったところ、その屋敷の主人のロチェスター(アデールの後見人:マイケル・ファスベンダー)の男らしさに魅力を感じ、彼の方も若く清楚なジェーンに惹かれます。
 遂に二人は結婚という運びになるのですが、結婚式の場に男が飛び込んできて、「その結婚は無効だ、ロチェスターには妻がいる!」と叫びます。
どういうことなのでしょうか、ジェーンはいったいどうなってしまうのでしょうか、……?

 ジェーンが家庭教師をするために住み込むロチェスターの屋敷のなんともいえず不気味な雰囲気、ジェーンが真実を知ってその屋敷を飛び出して彷徨う荒野の荒涼とした有様、そして若いながらも実に毅然とあり得ない出来事に対峙するジェーンの姿といったものが凄く印象に残る作品でした。

 また、ミア・ワシコウスカの相手役のマイケル・ファスベンダーは、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』でお目にかかりましたが、なかなか難しい役柄をそつなくこなしていました。



 モウ一人忘れてならないのは、家政婦のフェアファックス夫人を演じたジュディ・デンチでしょう。
 既に77歳ながら、このところ『マリリン』とか『J・エドガー』などで重要な役柄を演じているところ、本作においても、彼女が画面に存在することでその時代の雰囲気が漂ってくるような感じとなります。



 なお、監督のキャリー・ジョージ・フクナガが、『闇の列車、光の旅』の監督でもあることを見終わってから知りました。

(2)エミリー・ブロンテの原作を映画化した作品は数多くあるようですが、1943年制作のものがたまたま家にありましたので見てみました。

 両者を比べて目立つ違いと言えば、例えば次のようなところでしょう。
イ)前作においてはロチェスターの存在感が物凄く大きいのです。これはなにもマイケル・ファスベンダーの演技に問題があるというわけではなく、前作においてロチェスターに扮したのがオーソン・ウエルズだからでしょう。屋敷を離れて生活していることが多かったり、いきなり猟銃を撃ったりしながらも、ジェーンを愛してしまうというのも、オーソン・ウエルズだと妙に説得力があります。



ロ)逆に、ジェーン・エアとしては、前作のジョーン・フォンテインよりも本作のミア・ワシコウスカの方がずっと魅力的です。出演時の年齢が4歳くらいしか違わないにもかかわらず、ジョーン・フォンテインはずっと大人びて見え、世の中のこと(特に男性のこと)がよくわからないといった感じというよりも、荒馬のようなロチェスターをむしろ手なずけようとしている風情に見えました。
 ですから、秘密がわかって屋敷を立ち退くことについても、本作の方が説得力があるように思えてきます〔本作の場合、「尊厳を守りたい」とだけ言って急いで館を飛び出すところ、前作においてジェーンは、ロチェスターが大変な状況に置かれていることを十分承知し、あまつさえロチェスターを愛していると口にするにもかかわらず、彼を放り出して立ち去ってしまうのですから、どうしてなのと思わずにはいられません〕。



ハ)前作では、エミリー・ブロンテの原作本がまず画面に映し出され、それが朗読されることから映画が始まり、全体として出来事の順序どおりに描かれていきますが、本作では、ジェーンがリヴァース牧師(ジェイミー・ベル)の家に逃げ込むところから映画が始まりますから、以前の出来事は回想という形を取ることになります。
 これは、前作が、様々な出来事が手際よく説明されていることもあって、甚だ理解しやすいように作られているのに対し、本作は、むしろサスペンス的な要素を強める結果となっていることにつながっているのでは、と思いました。
 となると、本作を見てから前作を見た方が、興味をそがれませんし、またなるほどそうなのかと腑に落ちる点もいくつも見出せて(注1)、好ましいのかもしれません。

ニ)本作では、ロチェスターとの結婚の前に、ジェーンをいじめた叔母からの使いが来て、ジェーンは、心臓麻痺で会いたがっているという叔母のところに出向きますが、前作では、結婚式の後ロチェスターの館から飛び出したものの行くあてがないところから、叔母のところに出向きます。
 これは、本作の方がつじつまが合っているように思われます(いくら行くあてがないとしても、あれほど嫌っていた叔母のところに、ジェーンが自発的に戻るということは考えられません)。
 それに、ロチェスターの屋敷を飛び出した後に辿りついた牧師の家で世話を受けるというのも説得力があるように思われます(注2)。

(3)渡まち子氏は、「物語は知り尽くされ、鮮度は低いのだが、フレッシュなのはキャストだ。ジェーンは、決して容姿には恵まれていないが意志が強く知的な女性。過酷な人生を凛として生きるヒロインを演じるミア・ワシコウスカが実にいい。小説の実年齢に近いせいか、違和感なくフィットしている」などとして65点をつけています。



(注1)例えば、本作では、寄宿学校で知り合った友達ヘレンがいきなり肺炎で死んでしまいますが、前作によれば、元々体調が悪かったヘレン(何と、少女時代のエリザベス・テーラーが扮しています)が、ジェーンと一緒に校長によって、雨の中を走らされるという罰を受け、病気が亢進して死んでしまいます。
 また、ジェーンは、寄宿学校の後、教師を経てからアデールの家庭教師になりますが、そこら辺りは本作ではっきりと説明されていません。
 前作によれば、寄宿学校の成績がいいのに目をつけた校長が、ジェーンを同校の教師に据えるのです。というのも、支払う給与の半分を寄宿寮として予め徴収できるため人件費を抑えられるからだとされます。

(注2)ただ、ジェーンがロチェスターの館に戻るように仕向けるためでしょうか、リヴァース牧師が、ジェーンと結婚してインドに行きたいというと、結婚しないならばいっしょにインドに行ってもいいなどとジェーンは答えます。牧師は「まだあの男が忘れられないのか、不実な愛は捨てろ」とまで言いますが、「無理に結婚すれば、争いが生じ、死ぬことになる」などと言ってジェーンは拒絶します。ここら辺りは、親戚筋の死によって大金が転がり込んだジェーンを我が物にしようとしたいだけなのだ、とリヴァース牧師の本心を読んだのかもしれませんが、ちょっとジェーンの方が頑ななのではと思えてきます。



★★★☆☆



象のロケット:ジェーン・エア

幸せへのキセキ

2012年06月20日 | 洋画(12年)
 『幸せへのキセキ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編から、久しぶりでスカーレット・ヨハンソンに会えるとわかり、それならばと映画館に出かけたところ、加えてエル・ファニングまでも登場したのには驚きました(注1)。

 物語は、半年前に病気で妻を亡くし、それまでバリバリ働いていた新聞社から飛び出してもしまったベンジャミンマット・デイモン)は、心機一転とばかり、自然に囲まれた新しい家を購入しますが、なんとその家は廃園寸前の動物園付きだったのです(注2)。
 ベンジャミンは、2人の子供、長男ディランと長女ロージーを育てつつ、動物園の再建に猛然と取り組み出します。
 といって、ベンジャミンは、動物の飼育ことなどまるで分りません。
 ですが、その動物園には、ケリースカーレット・ヨハンソン)をリーダーとする飼育員チームが残っていたのです。
 さあ、大層厳しいとされる農務省検査官の検査をうまく通過して再開にまで漕ぎ着けることができるでしょうか、……?

 ただ、劇場用パンフレットによれば、原作において主人公ベンジャミンの妻は、動物園再建中に脳腫瘍で亡くなるとのこと。映画ではこの出来事を動物園購入の前に持ってきてしまったために、全体が平板になってしまったのではと思えました(注3)。

 それに、主人公の役割の一番大きなものは資金提供で、次第に手持ちのお金も枯渇してきてしまうのですが、その問題も亡くなった妻の隠し預金(8万400ドル)であっさりと解決してしまうのですから、困難を乗り越えて成功へというテーマ(仮にそういうものがあるとして)のインパクトが少なくなってしまっているようにも思えました(注4)。
 なお、動物園の改修に15万ドルかかるとされていましたが、それは約1500万円でしょうから、そんな程度の資金で広い動物園の改修ができるものなのか不思議な感じですし、その程度の資金が、父親の遺産があるという主人公に調達できないのかなと思ったりしました(注5)。

 とはいえ、こうした映画に余り深刻なことを求めても意味がないのでしょうし、アメリカ映画としたらまあこんなところかなと思ったところです(注6)。

 主演のマット・デイモンは、出演する映画を見るたびに、つくづくいい俳優になったなと思わせますが、本作も期待を裏切りません。
 ただ、『コンテイジョン』も娘をウィルス汚染から守るために隔離されたところで閉じこもっているだけの役柄、今回も2人の子供のために動物園付きの家を購入する父親といった実に家庭的な役柄で、そろそろ違ったフィールドに飛び出てもらいたいものです。



 また、クマネズミにとっては久しぶりのスカーレット・ヨハンソンですが、地味な役柄のせいでしょうが、一時の輝きがやや消えてしまっているものの、登場すれば眼が彼女の方を向いてしまいます(注7)。



 エル・ファニングは、飼育員たちのリーダー・ケリーの従妹でレストランを手伝っているリリーを演じているところ、これまでの出演作(注8)におけると同様、やはり輝いています。




(2)本作は、先般見た『ファミリー・ツリー』の後日譚のような感じがして仕方ありません。
 というのも、『ファミリー・ツリー』の方は、事故で植物人間状態に陥った妻が遂に亡くなって、取り残された夫と二人の子供がソファーで一緒にTVを見る場面で終わっているところ、本作の方では、半年も前に妻を亡くした夫と二人の子供が、心機一転、新天地で新しい生活を営むというものですから。

 元々、それぞれの家族が置かれているシチュエーションが、なんとなく類似しているようにも思えます。『ファミリー・ツリー』の場合、子供は姉妹ですが、本作では夫で子供は兄妹というように違っている点は少なからずあるものの、『ファミリー・ツリー』に出てくる妹スコッティが学校から注意を受けるのと同じように、本作の兄・ディランも素行が悪く(盗み)退学にまでなってしまいますし、それに『ファミリー・ツリー』のマットは仕事の虫で家族のことに注意を向けてこず、長女アレックスもそうした父親に反発しますが、本作でも、世界を所狭しと飛び回る父親に対して長男は反抗的な態度を取り続けます(注9)。

 また、『ファミリー・ツリー』では、主人公のマットは、自分が先祖から引き継いだ土地の自然を守ろうと、親族の要望する開発業者へ売却せずに、処分せずにそのままにしておこうと決断しますが、本作においても、ベンジャミンは放置された動物園「Wild Life Park」の再建に乗り出します。二人とも典型的なエコ派と言えるのではないでしょうか?
 こうした類似する作品を短い間に見たこともあって、いったい、自然に触れ合う機会を増大させさえすれば家族の問題はうまく解決するのか、と言いたくなってもなってくるところです(注10)。

(3)渡まち子氏は、「個人的にはもう少しユーモアがほしかったところだが、それでもこの優等生のように品行方正なる映画を最後まで好感を持って見ることができるのは、動物園のスタッフのリリーを演じるエル・ファニングの、素朴で控えめな笑顔にも似た、演出の奥ゆかしさがあるからだ」などとして65点をつけています。




(注1)『人生はビギナーズ』を取り上げたエントリの「注8」で、本作にエル・ファニングが出演するとの情報を書き込んではいましたが。

(注2)住宅等も含めた全体の広さは7万3千㎡(ほぼ東京ドームくらいの広さでしょうか)とされ、47種の動物(その内の7種は絶滅寸前のもの)がいて、オーナーは、それらの飼育を続けることが売り渡しの条件としています。

(注3)ベンジャミンがアルバムを見て思い出にふけるところ、家族4人で楽しく暮らしていた頃の写真ばかりですから、妻の姿は、現実から離脱して酷く神々しく輝いています!
 なお、下記の(2)で申しあげるように、本作については『ファミリー・ツリー』の後日譚めいた印象を受けましたが、一番違っていると思えるのは、亡くなってしまう妻が『ファミリー・ツリー』の場合浮気をしていて夫とは離婚する気でいた点でしょう。
 こういう事情が排除されていることもあって、本作からは、全体として大層甘めの感じを受け取ってしまいます(何しろ、ベンジャミンは、「誰かを深く愛すると生涯忘れられなくなる」などと言うくらいですから、お誂え向きのケリーと一緒になるなど考えも及ばないのです!)。

(注4)本作においては、この棚ボタ的な資金の話とか、上記「注3」で触れた点、さらには、動物園開園の日に100年に一度の嵐が襲来するとの予報が外れてしまうことなど(なんと朝には日が射してくるのです!)、困難・障害とおもわれる事柄がいともあっさりと乗り越えられてしまい、なにもそこまで好都合を並べなくともと思ってしまいます。

 あるいは、そうしたところから邦題が「幸せへのキセキ」とされている理由なのかもしれませんが、何事もそんなに都合よく進展するのであれば、本作を見る人たちが、世の中は“キセキ”を当て込んでいればいいのであってあくせく努力する甲斐もないのでは、と思うかもしれないなどと変な気を使ってしまいます。

(注5)ベンジャミンは、飼育員らから支払の要請があると、費用の中身をきちんとチェックすることなく、どんどん小切手を切っていきますが、それに別途の資金を調達しようとする気配も見せませんから、そんなことではいくら手持ち資金があっても枯渇するのは目に見えています。

(注6)リリーとの関係で悩むディランにベンジャミンが「20秒間の勇気」の話をしますが、これがラストのシーンのある意味で伏線になっていたり、さらにそこでベンジャミンの亡き妻が「Why not?」と答えるのが、それ以前にケリーから「なぜ動物園を買ったの?」と尋ねられた時のベンジャミンの答えに通じているなど、なかなかしゃれた構成になっていたりします。

(注7)以前見た『それでも恋するバルセロナ』に出演した時の彼女は、本作とは全然違った役柄で、それでもアカデミー助演女優賞を獲得したペネロペ・クルスに食われてしまった感じでした。

(注8)『Somewhere』とか『スーパーエイト』。
 なお、後者でも感じましたが、相変わらずの長身のため、好意を抱くディランよりも年下ながら上背が勝っていて、なんとなく違和感を持ってしまいます。

(注9)それに、『ファミリー・ツリー』の夫(ジョージ・クルーニー)の職業は弁護士で、本作の夫の職業は新聞社に勤めるコラムニストという違いもありますが、両者ともサービス産業に所属し、ほぼ自由職業人として行動しているようにみえるところです〔本作のベンジャミンの場合、新聞社の所属していましたから、自由職業人と明確に分類出来ないでしょうが、専ら机に向かって仕事をするホワイトカラーではなく(あるいは「社内自由人」的存在なのかもしれません!)、なによりも上司の指示を嫌ってその新聞社を飛び出してしまうのですから、結局は自由職業人と言えるでしょう!〕。

(注10)飛躍しすぎで恐縮ながら、このサイトの記事池田信夫氏が言うところによれば、「いま社会科学と自然科学を横断して、大きな変化が起こっている。聖書に始まり、ルソーやマルクスやレヴィ=ストロースに至るまで偉大な思想家が信じてきた「人類は太古には平和で平等だった」という神話が否定されつつある」とのこと。太古に遡っていくと、自然に触れ合う機会が増大する一方で、戦争で殺されてしまう可能性も増大するのかもしれず、とすれば、なにもエコ派が問題を解決できるわけでもなさそうだ、なんてお門違いもいいところの珍説をぶち上げたくもなってきます!

 でも、少なくとも、動物園という人間中心的な、動物のことを考えているようでいて人間の視点からしか動物を見ていない見世物にたくさんの問題がありそうだということくらいは、何らかの形で示してもらいたいものだ、とは思いました。




★★★☆☆






象のロケット:幸せへのキセキ

ロボット

2012年06月17日 | 洋画(12年)
 インド映画『ロボット』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)インド映画については、以前、『ムトゥ 踊るマハラジャ』(1998年)を見たところ、その無類な面白さに驚いてしまい、本作もきっと面白いに違いないと期待して映画館に出向きました。

 本作はSF物。
 主人公のバシー博士(ラジニカーント)は、恋人サナアイシュワリヤー・ラーイ)とのデートの時間をも惜しんでひたすら研究に励んだ結果、自分と瓜二つのロボットを制作するのに成功します。
 ですが、この画期的な成果を妬んだ恩師のボラ教授は、ロボット制作の許認可権を握る機関で影響力を持っていることをいいことに、認可にあたり、そのロボットが善悪の判断が出来るようにすることという条件を付けました。
 そこで、バシー博士は、再び寝食を忘れて研究に没頭し、遂に善悪の判断が出来る感情を持ったロボットの開発にも成功します。
 すると、あろう事か、このロボットは、バシー博士の恋人サナを心底愛するようになってしまうのです。そればかりか、戦うことよりも愛を解いてしまうロボットになってしまったために、バシー博士が一番の売り込み先と考えていた軍も受入を拒否してしまいます。
 怒ったバシー博士は、このロボットを破壊し廃棄処分にしてしまいます。
 他方、それを知ったボラ教授は、捨てられたロボットを回収し、逆に殺人ロボットに作りかえてしまいます。すると、そのロボットは、バシー博士の恋人サナを結婚式場から奪い去るだけでなく、ボナ教授も殺してしまい、さらには自分のレプリカを大量に作り出して、軍隊と対峙するようになります。サアどうなることでしょうか、……?

 元々は3時間近い3D映画を、日本用に2Dで139分にまで短縮したせいでしょう、以前見たインド映画ほどには熱気が感じられませんでした。沢山のロボットが登場するにしても、皆CGで描かれたとなると、迫力は大いに減じてしまうものです。
 それに、ハリウッド映画まがいのカーチェイスの場面が長いとなると、随分と製作費はつぎ込んでいると思われるものの、新鮮さが余り感じられません。
 それでも、『トランスフォーマー』といったハリウッドのSF物なら巨大なマシン怪獣が登場するはずのところに、ロボット集団が描き込まれているのは見ものでした。

 主役のバシー博士を演じるラジニカーントは、10年以上昔の『ムトゥ 踊るマハラジャ』でも主演でしたが、63歳の今でも当時と変わらぬ元気さで、映画の中でさすがの活躍振りを披露しています。



 また、相手役のサナを演じるアイシュワリヤー・ラーイは、初めてお目にかかる女優で、38歳ながら、ミス・ワールドに選ばれた美貌は衰えることなく、そのセクシーな輝きに圧倒されました(注1)。




(2) と、ここまでは、日本向けの短縮版を見た際の感想です。
 実は同じ映画館で同じ映画を5月の後半に見たわけですが、その後になって完全版が2週間だけ限定公開されるとわかりました。
 それも当初公開されたものより40分も長く、さらにはブラジルやペルーのマチュピチュのロケの場面がふんだんに盛り込まれているとの話。
 当初公開されたものに何か飽き足らなさを感じていたわけでもあり、おまけにブラジルが舞台となっているのですから、これは見なくてはと勇躍再度同じ映画館に足を運びました。

 ただ実際に見てみると、マチュピチュの方は行ったことがあるので親しみがあるものの、ブラジルで舞台となった場所は、期待に反して当時私が全く耳にしなかった砂漠地帯ですし、おまけにマチュピチュもブラジルの砂漠(注2)も、映画のストーリーとは全く何の関係もないという有様。

 でも、全然がっかりはしませんでした。むしろ、これこそがインド映画の真骨頂なのではと思いました。
 なにしろ、マチュピチュでは、映画のヒーローとヒロインが大勢のダンサー(皆インカ帝国の服装をしています)に混じって「キリマンジャロ」(注3)という曲に乗って、インカの遺跡のあちこちで激しく歌って踊るのです。



 またブラジルの砂漠では、ヒーローとヒロインが、白い砂漠をバックにこれまた歌い踊ります(注4)。
 こうしたものにストーリーなど不要でしょう(注5)。
 それに、当初公開された映画だって、一応のストーリーはあるものの、狙いは専ら歌と踊りのように見えます〔途中の激しいカーチェイスも、車のダンスと見なせるでしょうし、ラスト近くの悪のロボットたちの攻撃の様もロボットと警官隊との群舞ではないでしょうか(注6)?〕。
 そんな中に、さらにマチュピチュとブラジルの砂漠におけるダンス・シーンが付け加えられるのです!
 これらはCGではありませんから、『ムトゥ 踊るマハラジャ』同様の熱気と興奮が見る者にびんびん伝わってきます。

 結局このインド映画を短期のうちに2度見たわけですが、2度目は1度目以上の面白さを感じ、途中全く飽きることなくおしまいまで大層楽しく見ることができました(なお「完全版」といいながらも、3D上映ではないのはどうしたことかと思いましたが)。

(3)渡まち子氏は、「完全に突き抜けた域に達した娯楽作で、でたらめさを楽しむのが正しいお作法だ。昔の泥臭いインド映画を思えば随分と洗練されたものよとしみじみしつつ、マサラ・ムービーの王道を満喫させてもらった」として60点をつけています。
 また、佐々木貴之氏は、「あらゆる映画のジャンルを取り入れ、エンターテイメント性を全面に押し出して観る者を存分に楽しませてくれる本作は、ハリウッド作品以上に素晴らしいアクションも描けるということを証明できたのだ」として80点をつけています。





(注1)産後の激太りから元の体型に戻っていないとの報道もあるようですが。

(注2)ブラジル北東部にあるレンソイス・マラニェンセス国立公園の中に広がっています。
 その画像については、例えばこのサイトを。

(注3)この歌(「Kilimanjaro」)の歌詞の中に、「キリマンジャロ、モヘンジョダロ」といった掛詞が出てくるので笑ってしまいます。
それだけでなく、このサイトを見ると、意味不明ながら、歌詞の中にたくさんの韻が踏まれている様子がわかります(たとえば、“Kilimanjaro、Kanimanjaaro、kuzhimanjaro”とか、“mohanjadoro、nozhanjadaro、kozhanjadaro”)。

(注4)この歌(「Kadhal Anukkal」)の歌詞の中では、「君はハチミツの中の刺激的なワサビ」(字幕によります)といったよくわからないフレーズがくりかえされますが、このサイトによれば、それは「Ho! Baby .. O Baby Senthenil Ossav」のところに該当するのでしょう。

(注5)ブラジルの白い砂漠での歌と踊りは、バシー博士とサナとの諍いが昂じて破局かと思われたところ、最後のキスを何回もしているうちによりが戻って破局契約書が風に吹き飛ばされて、というところで突如として始まります。
 また、マチュピチュでの歌と踊りも、海岸で漁師にあわやというところから逃げ出したサナにバシー博士が合流したところから突然始められます。

(注6)なにしろ、悪のロボット(ボナ博士によって殺人プログラム・チップを埋め込まれたチッチィのたくさんの分身ロボット)の集団が、球体になったり壁を形成したり、蛇になったり竜になったり様々に変身するのですから。




★★★★☆



象のロケット:ロボット

11.25自決の日

2012年06月13日 | 邦画(12年)
 『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)若松孝二監督の作品は、以前は余り見なかったものの、このところ『実録・連合赤軍』、『キャタピラー』そして『海燕ホテル・ブルー』とお付き合いしてきましたので、この作品もと思って映画館に行ってきました。

 ただ、映画の主題である三島事件自体については、その後何度もTVの特別番組などで取り上げらたりしていますから、事実経過はかなり知られているでしょうし、元々三島由紀夫はノーベル文学賞の有力候補とされるくらい著名な作家ですから、その作品(映画『憂国』を含めて)もかなり知られていると思われます。
 そこでクマネズミとしては、反体制的な雰囲気を濃厚に漂わせている若松監督が、この事件をどのような視点から如何に料理するのか、というところに専ら関心を持ちました。
 ですが、全体として、『実録・連合赤軍』の三島事件版といった感じで、専らよく知られている事柄が次々と展開されていて、特異な観点からの描写といったものには余りお目にかかれないな(注1)、という感想を持ちました。

 とはいえ、本作において楯の会のメンバーが自衛隊体験入隊する時の舞台となる東富士演習場は、前作『海燕ホテル・ブルー』の舞台となった伊豆大島の砂漠とそっくりの感じです。そうなると、後者を取り上げたエントリでも申し上げましたが、これは1969年の『処女ゲバゲバ』などを見る者に思い起こさせ、いつもとは違った事柄を扱いながらも、本作はやはり若松ワールドに属する作品なのだなと納得してしまいます。
 それに、なんといってもその演習場に三島の妻を演じる寺島しのぶが現れるのですから、『海燕ホテル・ブルー』の砂漠を歩く梨花片山瞳)の再現そのものでしょう(注2)!



 というところからすれば、本作は、一見すると三島事件をドキュメンタリー的に描いているように見えながらも、実は若松色があちこちに漂っているのではないかとも思えてきます。

 特にそれを体現しているのが、三島由起夫を演じている井浦新ではないでしょうか?
 本作では、登場人物につき三島由紀夫以下すべて実名が使われています。辞世の句も本物が使われ、また市ヶ谷駐屯地のバルコニーにおける演説も実際に三島が喋ったとおりなのでしょう。
 でも、肝心の三島を演じる井浦新は、実際の三島とはほど遠い肉体的風貌です(注3)。ですが、若松監督はあえて彼を起用しました。ということは、全体の物語は三島事件を借りながらも、そこに込められているものは、監督自身の何らかの思いなのではないでしょうか。
 それが何なのかは非才なクマネズミには言い当てられそうもありませんが、本作を見ながら、少々陳腐ながら、真摯に生きる姿とはこうしたものなのか、という思いにとらわれました。

 それにしても、主演の井浦新の演技は素晴らしいものがあります。
すぐ前の『海燕ホテル・ブルー』では、幸男(地曵豪)に計画の実行を迫る役柄でしたが、本作においては、逆に森田に決起を迫られる役柄ながら、体の隅々まで気力が漲っているかのような見事な演技ではないかと思いました。



 なお、本作で興味深かったのは、このところあちこちで見かける渋川清彦が(注4)、楯の会結成にあたって重要な役割を果たす人物・持丸博を演じていて、映画に出演するたびにそのウエイトが高くなってきている印象を受けたことです。

(2)若松監督は、「戦後のあの時代に何が起きたかを、きちんと描きたい。そして僕は、人間を描くことを通してしか、それを表現できない。『レンセキ』では、左の若者たちを描いたのだから、今度は、逆の立場で同じように立ち上がり挫折していった存在を描きたいと思った」と述べています(注5)。
 ですが、三島由紀夫の場合、最後まで小説家でもあったわけで、その彼と自決した彼との関係が一番興味深いにもかかわらず、本作では、冒頭に『英霊の聲』の話が出て、ラスト近くで『豊穣の海』第4巻「天人五衰」の完成原稿が映し出されるに過ぎず、文学関係の話は映画から完全に排除されてしまっています(注6)。
 確かに、小説家の部分は専ら三島由紀夫の内面にかかわることですから映像とするのは酷く難しいとは思います。ですがだからといって両者を峻別することなど無理な話で、にもかかわらず一方の側面を本作のように完全に省いてしまったら三島由紀夫という一人の「人間を描くこと」にならないのではないかと思われます。

 そのためでしょうか、本作では、むしろ三島と一緒に自決した森田必勝の存在が膨らんでいる感じです。
 そして、この森田役を、満島ひかりの弟(満島真之介)が演じているところ、映画初出演とは思えないほどの迫真の演技で、三島事件自体が2.26事件を模したものに見える上に(注7)、三島に決起を促す森田の必死の形相は、「楯の会」の内部における2.26事件のような感じに思えました。




(3)渡まち子氏は、「本作は三島の美学や右翼的政治思想などには深く言及せず、あくまでも世界的な文豪が壮絶な最期を遂げるに至った経緯を、淡々と描くことで、当時の空気を読み解こうとしているのだ。だがいいようのない怒りをスクリーンにぶつけた前作「キャタピラー」に比べ、メッセージ性は薄い」などとして65点をつけています。
 また、日経新聞の編集委員古賀重樹氏は、「壮大で複雑な文学世界をもつ三島の全体像を期待する向きには不満だろう。ただ若松の視点は明確で、三島の一面に迫る。何より、政治的に三島と対極にあった若松の、時代への落とし前をつけようとする迫力がみなぎる。結局、何も変わらなかったという怒りも」などと述べています。
 ただ、本作では随分と時代性が強調されているように二人が述べている点については(注8)、本作では単に当時のニュース映画とか新聞記事の映像や画像が種々ふんだんに挿入されているにすぎないのであり、そんな表面的な手法では時代性を描いたことにならないのではないか、とクマネズミは思います(注9)。




(注1)三島が決起するかどうか逡巡していた最中に、少年が三島邸を訪れ、「先生はいつ死ぬんですか?」と尋ねるシーンがあるところ、その少年は、冒頭すぐのシーンに登場する山口二矢(収監先の少年鑑別所で自殺します)なのです。これは、本作の数少ないファンタジックな場面と言えるでしょう。
 ただ、三島と森田が道場で剣道の稽古をするシーンとか、三島が能舞台で剣舞を舞うシーンなども、随分と幻想的な雰囲気が漂っており、さらには、井浦新が三島を演じるというところなども考え合わせれば、本作全体がファンタジーと言えるのかもしれません。

(注2)とはいえ片山瞳は、砂漠を全裸で歩くシーンがありますが、本作における寺島しのぶについては、あの『キャラクター』の主演女優でありながら、期待されるような(?!)シーンにはお目にかかれません(三島由紀夫が自身で制作・出演した映画『憂国』には性愛シーンがあるところから、寺島しのぶが本作に出演すると聞いた時は、当然そうしたシーンも挿入されているはずと思っていましたが、本作が政治的側面に専らの焦点をあてて制作されていることからすれば、そうしたプライベートな側面を描くことは当初から考えられていなかったのでしょう)。

(注3)そうした点からすれば、やや飛躍しますが、井浦新は、『サッチャー』におけるメリル・ストリープではなく、どちらかと言えば『J・エドガー』におけるディカプリオの位置にあるのではないかと思われます。

(注4)『セイジ-陸の魚-』とか『生きてるものはいないのか』、『海燕ホテル・ブルー』など。

(注5)公式ガイドブック『若松孝二 11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(遊学社)に掲載の「若松孝二インタビュー「世界に希望し、絶望する存在への変わらぬ眼差し」」より(P.99)。

(注6)東富士演習場内で行われた自衛隊体験入隊における休憩時に、森田が三島に「ぼくは先生の作品を読んでも全然分からない」と言ったところ、三島は「なんだ、そんなことか。俺はお前たちと一緒にいるときは作家や文学者じゃないんだ」と応じます。本作では、楯の会のメンバー抜きの三島由紀夫はほとんど描かれませんから、必然的に文学方面は本作から排除されてしまいます。

(注7)三島が命をかけて自衛隊の決起を促したという点で、軍部中枢の決起を促すべくクーデターを起こした陸軍皇道派の若手将校らの行動を模しているのではと考えられます。

(注8)渡氏は、「若松監督らしいのは、ニュース映像をふんだんに用いて、時代の空気を再現していることだ」と述べ、また古賀氏も、「若松の視点は「時代」にある。60年代から70年代にかけて高揚した政治の季節。安保闘争を巡り、左も右も国を憂い、行動した。その時代の空気を体現した若者たちを描く、という意味で両作品(『実録・連合赤軍』と本作)は通底する」などと述べています。

 なお、いささか些細な点ながら、古賀氏が「60年代から70年代にかけて高揚した政治の季節。安保闘争を巡り、左も右も国を憂い、行動した」と述べているところ、60年の安保闘争に至るまでの反体制運動と、70年あたりにピークとなるその後のベトナム戦争反対運動とか大学闘争とは、かなり質的には違っているのではないかと思われます。それを「左も右も国を憂い、行動した」などと一括りにしてしまうようでは、「時代」をいささか捉えそこなうのではないでしょうか?

(注9)上記「注5」のインタビューにおいて、若松監督は、「僕がこだわっているのは、あの時代なんでしょうね。やっぱり、戦後のあの時代に何が起きたかを、きちんと描きたい」と述べているところですが(P.99)。




★★★☆☆




私が、生きる肌

2012年06月06日 | 洋画(12年)
 スペイン映画『私が、生きる肌』をTOHOシネマズシャンテで見ました。
 (本作はサスペンス映画のため、ネタバレの部分はできるだけ注記といたしますが、まずは映画館に足を運んでから本エントリをお読みいただければ幸いです)

(1)予告編で面白そうだなっと思い、さらにまた、本作を制作したペドロ・アルモドバル監督は、『ボルベール(帰郷)』(2006年)や『抱擁のかけら』でお馴染みということもあって出かけてきたのですが、マアマアの感じでした。

 物語の舞台は、2012年のスペインの古都トレド(マドリッドから70km)。
 主人公の形成外科医ロベルアントニオ・バンデラス)は人工皮膚開発の権威で、自宅の広大な屋敷に研究室を構えて、そこで手術まで行います。
 さらに奥を覗くと、ベラエレナ・アナヤ)という女性が2階に監禁されています。ロベルは、外出から戻ると、自分の書斎に備えつけられている巨大スクリーンに映し出されるベラの状態を確認した上で、隣室に入り、ベラに覚醒剤を与えたりします。



 どうやら、ベラは、ロベルが開発した人工皮膚を移植されているようです(注1)。
 彼女は、全身を特殊なボディ・ストッキングで覆われていますが、行動は自由で、読書をしたりヨガに取り組んだりの毎日(注2)。



 他方で、ロベルは、学会で人工皮膚の研究成果(ハマダラカの針も通さないほど丈夫な皮膚を作ることに成功)を発表しますが、遺伝子組換え(ロベルは、ヒトの染色体の中に豚の遺伝子を入れたりしているようです)はやってはならないと、会長から研究の中止を命じられてしまいます。
 そうこうしているうちに、ロベルの屋敷で働いているマリリアマリサ・パレデス)は、ロベルの亡くなった妻ガル(注3)にベラが似てきていることに危惧を覚え、早いうちに彼女を処分すべきだとロベルに進言します。
 ところが、ある日、マリリアの息子と称する男セカロベルト・アラモ)が屋敷に入ってきて、マリリアを拘束した後にベラを襲いますが、直後に帰宅したロベルに銃で殺されてしまいます。



 こうした事態にマリリアは、セカとロベルは父親は異なるものの兄弟であって、2人とも自分の子供なのだ、とベラに打ち明けます。
 とすると、このガラに似てきているというベラはいったい誰なのでしょうか?
 どうしてそんな恰好でロベルの家に監禁され続けているのでしょうか?

 話は6年前にさかのぼって、実は、ロベルには最愛の娘ノルマがいたのですが(注4)、と話はさらなる展開を見せていきます。

 内実は変えないまま、外側の皮膚を人工皮膚で取り換えることによって、内実までも変えられるのか、ということが本作の興味深いテーマの一つなのかもしれません。ですが映画では、そちらの方向に深く掘り下げられないままストーリーが展開されていく感じで、上滑りの印象を受けてしまいました。
 特に、本作では、男性を女性に転換する手術が行われるところ、担当医が形成外科医とされているため、専ら外形的な部分(頭部、乳房、性器)の女性化に焦点が当てられます。
 さらに、女性ホルモンを投与することで声まで変わってしまいますが、それでも子宮とか卵巣といったより深い部分に位置する器官については手術が及んでいないようです。
 ですから、本作のように当該男性が望まず強制的に転換手術が行われた場合に、果たして、男性の急激な女性化がどの程度まで及ぶのか、内面的なことまで変えられるのかどうか、疑問なしとしません(注5)。


 主演のアントニオ・バンデラスはクマネズミが初めて見る俳優ですが、自信家の形成外科医をなかなか上手に演じていると思いますし、ヒロインのベラを演じるエレナ・アナヤは、『この愛のために撃て』で妻ナディアを演じて印象深かったところ、本作では相当セクシーな役柄を実にうまくこなしているなと思いました。




(2)見る前から邦題が気になったところ、これは原題〔La piel que habito(英題「The Skin I Live In」)〕によっているわけながら、なぜ途中に読点が入るのか酷く奇異な感じでした(原題や英題からすれば、「私が“生きる肌”」ではなく「“私が生きる”肌」と読むべきでしょう。ですが、読点を入れて「私が、生きる肌」としたら、「私=生きる肌」とも受け取れ、「肌」を擬人化した作品なのだと思われかねません!)。

 本作の原作(注6)は、フランス人作家ティエリー・ジョンケによるミステリーで、むろんフランス語で書かれていて、そのタイトルは「Mygale」―フランス語で「トリクイグモ」とのこと(“タランチェラ”として知られているクモでもあるようです)―(注7)。
 実際のところ、映画では「Mygale」の要素は比喩的にも見かけられず、むしろ形成外科医ロベルが主人公として活躍する作品と受け取れますから、読点の問題は除き邦題(原題)の方が適切なのかもしれません(注8)。

 そんなところから、本作は原作とかなり違っているのではと思われたため、そちらの方も読んでみました。
 原作はフランスの作家が書いたものですから、舞台が映画のようにトレドではなくパリなことや、登場人物の名前が異なるのも当然でしょう。
 ただ、原作の場合、形成外科医の妻は12年前の飛行機事故で亡くなっていて、ストーリーの展開にはマッタク関係しないのです。
 それよりなにより、原作の第1部のタイトルが「蜘蛛」とされ(第2部は「毒」、第3部は「獲物」)、「Mygale」との関係性が明らかであり、さらには、映画のベラに相当するエヴァとか行方不明の男の友人アレックス(本作のセカに相当するでしょう)に関して、形成外科医リシャール(本作のロベルに相当)以上の書き込みがなされています。

 その他様々な相違点があって(注9)、どうやら本作は、原作を映画化したというよりも、原作を単なる原案として使っているだけであって、両者は全くの別物と考えた方が良いのではないかと思いました。

(3)渡まち子氏は、「倒錯的な愛と歪んだ復讐が炸裂するアルモドバルの問題作「私が、生きる肌」。グロテスクで官能的な愛の物語」として65点をつけています。




(注1)ベラがロベルに、「まだ改良すべき点が?」と尋ねると、ロベルは、「いや、もうない。お前は世界一の肌を持ったんだ」などと答えます。

(注2)2階の廊下には、ティティアーノの「ウルービーノのヴィーナス」と「ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド」の大きな複製が架かっているところ、ロベルの部屋の巨大スクリーンに映し出されるベラの姿は、その絵のモデルを模しているかの如くです。

(注3)ガルは、12年前に男と駆け落ちする際、車が事故で炎上して辛うじて助かるものの、全身に大火傷を負ってしまい、以来屋敷に閉じこもったままとなりますが、ある時偶然窓ガラスに映った自分の醜い姿を見て衝動的に飛び降り自殺してしまいます。

(注4)母親の自殺を見たノルマは、それ以来精神的に不安定となって精神病院に入院、退院後ある結婚パーティーに出席した際に、同じく出席していた青年ビセンテと懇ろになるのはいいのですが、……。

(注5)もっといえば、ロベルによって最愛の妻ガルに瓜二つに作り変えられる男は、たまたまある事件を引き起こしてしまったがためにロベルによって捕えられるわけで、骨格などがガルと類似しているかどうかなど事前に慎重にロベルが調査してから選ばれたわけではありませんから、その意味でもなんだか違和感が付きまといます。
 (さらに、下記の「注9」をも参照してください)。
 なお、日本の場合、原作の翻訳や字幕における「女ことば」の使用にあたっては、微妙な問題が引き起こされるのではないでしょうか?

(注6)平岡敦訳『私が、生きる肌』(ハヤカワ・ミステリ文庫)。

(注7)上記翻訳に付いている三橋暁氏による「解説」によります。そして、元々の翻訳本(2004年)のタイトルも「蜘蛛の微笑」だったとのこと。
 ちなみに、原作ミステリーの英題は『Tarantula』(ただし、このサイトによれば国によって違うようですが)。

(注8)ただ、タイトルにある「私」とはいったい誰を指すのでしょうか?
 常識的にはベラなのでしょう(外形は女性の肌をしているものの、内実は元の男性がその中で生きている、ということでしょうか)。
 ただ、本作の主人公でもない者(ナレーターでもありません)がタイトルで言及されるのは、どうも据わりの悪い感じがつきまといます。
 原題にある「habitar」は、「生きる」というよりむしろ「居住する」という意味合いだとしたら、もしかしたら「“「ガラ」の魂がそこに住み着いている”肌」というように読めるかもしれません。
 さらにいえば、ロベルが精魂を込めて作った肌なのですから、「“ロベルの思いがそこに住み着いている”肌」という意味に受け取っていいのかもしれません。

(注9)特にラストの展開は、原作では映画と大幅に違っていて、アレックスを射殺したエヴァは形成外科医リシャールとの一緒の生活をこれまでどおり続けて行くように思われます。
 原作の場合、ある事件のために、リシャールはエヴァをできるだけ屈辱的な目に遭遇させようとしますが、次第に彼女を愛の対象と考えるようになっていき、そうと知ると、その境遇から抜け出すことだけを考えていたエヴァもリシャールを思うようになって行くようです。どうも、外形の変化が内実を変えていくようなのです。
 ところが、映画の場合、ベラは自由の身になると、自分が元いた場所に戻り、周囲も当初は驚くものの、彼女を受け入れようとします。
 これだと、いくら外形を変えても内実は変わらないという至極常識的な結論しか描かれていないことになるのではないでしょうか?




★★★☆☆