映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

プリズナーズ

2014年05月30日 | 洋画(14年)
 『プリズナーズ』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)本作(注1)の評判が随分と高そうなので、遅ればせながらも映画館に足を伸ばしました。

 ペンシルヴェニア州に住むケラーヒュー・ジャックマン)の一家は、近所のフランクリンテレンス・ハワード)の一家と親密な付き合いをしていたところ、感謝祭の日の午後、ケラーの娘アナとフランクリンの娘ジョイとが突然姿を消してしまいます。
 驚いた両家は必死に二人を探すものの、全然見つかりません。
 地元警察ではロキ刑事(ジェイク・ギレンホール)が担当することになりますが、事態は進展しません。



 そんななか、アレックスポール・ダノ)が不審者として捕まります。ですが、何の証言も得られないままに保釈されてしまいます。
 その後、一方で、ロキ刑事は、違う線から犯人を割り出して二人の少女を救出しようとします。他方で、ケラーは、アレックスが犯人に違いないと強く思い込み(注2)、なんとか自分で自白させようと彼を密かに監禁してしまうのです。



 さあ、二人の少女は無事に助かるのでしょうか、犯人は誰なのでしょうか、………?

 ケラーが娘を思う気持ちは痛いほど観客に伝わってきますし、ロキ刑事の犯人探しも綿密であり、さらには両者のぶつかり合いを演じる俳優の熱演もあって(注3)、まずまずの出来栄えの作品となっています。



(2)この作品はサスペンスですから、他にもましてネタバレするわけにはいかないとはいえ、以下では、ネタバレには少々目をつぶっていただくこととして、つまらないことでも書くことといたしましょう。

イ)本作は、ケラーの息子が鹿を銃で撃つ冒頭のシーンで祈りの言葉が唱えられたり、ロキ刑事の指にはフリーメーソンの指輪(直角定規とコンパスが描かれています:注4)が嵌められていたり、重要参考人として捕まった男ボブが「迷路」(注5)に拘ったりするなど、さまざまに宗教的な意匠が凝らされています。
 それで、そういった角度から本作を云々するのはとても興味深いこととはいえ、そちらの方面の知識に乏しいクマネズミとしては、手を出さないほうが無難でしょう。
 それに、本作は、それらを度外視してもなかなか面白く作られているように思いますし。

ロ)本作でまず目を引くのは、何度も祈りの言葉を唱えながらも、ケラーが、捕まえたアレックスを狭い場所に監禁した上で(注6)、娘の居場所を自白するよう繰り返し酷い拷問を加えることではないでしょうか(果ては、上から熱湯を浴びせることまでするのです)。

 このシーンを見て、このところこうした場面を映画等で見ることが多いな、それも、水を使っているものが多いような、と思いました。
 例えば、『レイルウェイ』では、先の戦争中、タイの捕虜収容所でラジオを作った主人公ローマクスに対して日本の憲兵隊が激しい拷問を加えます。
 また、『デンジャラス・ラン』などが挙げられるでしょう(注7)。
 さらには、現在放映中のTVドラマ『MOZU』の第6話(5月15日放映)では、捕まえた新谷(池松壮亮)に対して、警備会社アテナセキュリティの中神(吉田鋼太郎)たちが激しい拷問を加えます。
 これらの背景に、CIAがテロリストに対して行ったウォーターボーディングが注目されていることがあるように思われますが(注8)、こうした場面を映像で詳細に描く必要性がどこまであるのか考えてみる必要があるのかもしれません。

ハ)さて、それだけ責め続けてもアレックスから何の証言も得られなかったケラーは、ある時事件の目星が着いたとして一軒の家に出向くのですが、逆にそこの住人によって「穴」の中に閉じ込められてしまいます。まさに、ケラー自身がプリズナー(囚われ人)になってしまったわけです。
 こんなところから、本作では、タイトルにある「プリズナー」という言葉が様々な意味を持っているように思われてきます。
 むろん、ケラーによって狭いところに監禁されたアレックスもそうでしょう。

 さらに飛躍すれば、アレックスが犯人に違いないという思い込みに囚われてしまった点でもケラーはプリズナーといえるでしょうし、他の登場人物も何にせよプリズナーなのかもしれません。

 また、上で挙げた『レイルウェイ』の主人公ローマクスにしても、捕虜収容所ではプリズナーそのものでしたし、帰国した後も長い間、拷問のトラウマに囚われたままだったのですからプリズナーだったでしょう。

ニ)ケラーが閉じ込められた「穴」ですが、本作においてそれに類似するものとしては、他に、アレックスが閉じ込められている狭い空間も挙げられるでしょう(注9)。
 さらに、本作の「穴」にソックリなものとして思い当たるのは、『ザ・コール 緊急通報指令室』において、少女ケイシー(アビゲイル・ブレスリン)が閉じ込められた地下室です。そちらの方は、本作の「穴」に比べるとずっと広いとはいえ、その場所を見つけ出すことができないように本作の「穴」と同様に巧みにカモフラージュ―されているのです(注10)。 

 本作のキャッチコピーにあるような「もしも最愛の我が子を奪われたら、あなたはどうするのか」といった厳しすぎる問いかけは脇に置いておいて、こんなアレヤコレヤを考えながら本作を見るのも、また一興ではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「何よりもドゥニ・ヴィルヌーヴという俊英監督の重厚な演出力とストーリーテリングの才能に、映画から一瞬も目が離せなかった」として80点をつけています。
 前田有一氏も、「非常に満足度の高い映画であり、とくに子を持つ親におすすめしたい。きっと没頭してみることができるはずだ」として80点をつけています。
 相木悟氏は、「後に尾をひく、観応えある重量級の犯罪ドラマであった」と述べています。



(注1)監督は、『灼熱の魂』のドゥニ・ヴィルヌーヴ

(注2)アレックスが、ケラーにだけ「僕がいる間は、泣かなかった」と言い、また娘が歌っていた替え歌を口ずさんでいましたから。

(注3)ヒュー・ジャックマンは『オーストラリア』、ジェイク・ギレンホールは『マイ・ブラザー』で見ています。
 その他の俳優陣の中では、ポール・ダノは『それでも夜は明ける』、メリッサ・レオは『ザ・ファイター』、ヴィオラ・デイヴィスは『ヘルプ』で、それぞれ見ました。

(注4)このサイトの記事によれば、定規は「実直に、堅実で、公平であれ」、コンパスは「欲求・欲望をコンパスで描く円内に抑え・留めておけ」という指針を表しているようです。

(注5)ボブが描いた「迷路」の絵を見て、ロキ刑事は、神父の家の地下室で見たことがあるなと思い出し、さらにはある人物の胸に飾られているペンダントにも同じ絵が書かれていたことを見出します。

(注6)自殺した父親(刑務所の看守でした)が所有していた家。ケラーは別の場所に家を構え、この家は荒れ放題になっていました。そこの一室にアレックスを監禁したのです。

(注7)拷問ということであれば、『サンブンノイチ』や『それでも夜は明ける』でも拷問シーンが見られました。
 なお、本作を制作したドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による『灼熱の魂』では、政治テロを行った主人公ナウルは、捕らわれて15年間刑務所にいますが、その間拷問(レイプ)を受けます。

(注8)例えば、『ゼロ・ダーク・サーティ』(この作品は見ましたが、レビューはアップしませんでした)。同作については、このサイトの記事がここでは参考になるでしょう。

(注9)さらには、上記「注5」で触れた神父の家の地下室も「穴」といえるでしょう。

(注10)『ザ・コール』の主人公・ジョーダン(ハル・ベリー)がある音をヒントに地下室を発見したのと同じように、本作でも、ロキ刑事が最後にある音を耳にします!



★★★☆☆☆



象のロケット:プリズナーズ
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テルマエ・ロマエⅡ

2014年05月28日 | 邦画(14年)
 『テルマエ・ロマエⅡ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)前作はDVDで見ており(注1)、本作(注2)も当初パスするつもりでしたが、時間に余裕ができたにもかかわらず他に見るべきものが見当たらなかったので、次善の策として映画館に入ったものです。

 本作の時代はA.D.136年、舞台はローマ。
 皇帝ハドリアヌス市村正親)は、民衆の支持を得て新たな国境線を定め、それ以上の領土拡張を止めました。
 ですが、元老院は世界征服を目指して、同皇帝の平和路線をくつがえそうと画策し、コロッセオにおけるグラディエーターたちの殺し合いを見せることによって、民衆の闘争心をかき立てようとします。
 設計技師の主人公・ルシウス阿部寛)に対し、元老院は、傷ついたグラディエーターを癒やすべくコロッセオに備え付けられているテルマエを改良するよう命じます。



 ルシウスは、コロッセオの地下にあるテルマエの様子を見ますが、ひどい有様。
 「湯を沸かすだけでは駄目だ。かといって温泉を引けるわけのものではなし」と思い悩むと、ルシウスは、突然湯の中に引っ張り込まれて(注3)、再び浮き上がったところは相撲取りが大勢入っている浴場。



 「顔が平たい。しかし太っているし、頭にズッキーニのようなものを乗っけている」などと思い、外で相撲を見て「平たい族のグラディエーターか?学ぶべきものがあるのでは」と考え、ローマに戻ると、健康足踏みマットやマッサージチェア、バスクリンなどをコロッセウムのテルマエに取り入れることとします。
 何度か日本と往復している間に(注4)、ルシウスは、風呂専門誌のライターになっていた山越真実上戸彩)にも再会。
 そうこうしていると、ハドリアヌス帝から、戦争のない平和な国を作るためにバイアエに理想のテルマエ(テルマエ・ユートピア)を設けてもらいたいと要請されます。
 さあ、ルシウスは、果たしてそのようなものを作り上げることができるでしょうか、………?

 本作は、ドラマチックなストーリー展開がほとんどなく、前作と類似する小さなエピソードが積み重なっているだけのような感じがしますが、それでも日本の風呂の良い所を古代ローマの浴場に取り入れるという驚くべき着想の効能はまだ残っていて、最後まで面白くこの作品を見ることが出来ます(注5)。

(2)本作は、ファンタジックコメディなのですからなんでもありとはいえ、ただ、日本文化の特質を描き出す(ひいては、その優秀さを顕彰する)格好をとっているところについては、そんなに持ち上げるべきことなのかなとも思えてきます。

 例えば、ルシウスは日本の相撲を見て、ローマのコロッセウムにおけるグラディエーターの試合と比べ、「血の一滴も流れない平和な戦いだ」と感嘆しますが、ローマのすぐ近くのギリシアではレスリングがずっと以前から行われていて、「紀元前427年生まれの哲学者プラトンも若い頃は大会での優勝経験がある」とのことですから(注6)、比べるのならまずはこちらの方ではなかったでしょうか?
 それに、マッサージチェア(注7)の元になる安楽椅子とかウォータースライダーの元型たる滑り台、ハイテクトイレの始まりとも言える温水洗浄便座などは、いずれも元々は欧米由来のものでしょう(注8)。尤も、ルシウスが日本で見たのは、それらを日本人特有の感性や技術力で改良・改善させたものですから、その意味では日本文化の特質を表しているのでしょうが(注9)。

 また、全くつまらないことながら、山越真実は、ケイオニウス北村一輝)が辺境の地で疫病に倒れたと聞くと、歴史書『ローマ帝国の繁栄と滅亡』を開いてそれが結核によるものであることを確認しますが、としたら、彼女がストレプトマイシンといった特効薬を現代日本から持って行って治すのかなと思いきや、そういうことはありません(注10)。
 いうまでもなく、いくらタイムスリップできるとしても、歴史を変えることは出来ないとされていますから、ケイオニウスを救うことはどだい無理なのでしょう(注11)。
 ただ、仮に、山越真美が抗生物質をローマに持ち込まないのは日本文化由来のものでないからというのであれば、物語の枠組みに囚われた描き方といえるのではないでしょうか?

 とはいえ、始まりがあっちだこっちだと言ってみても何の意味もありません(何を以って始まりとするのかという点から議論があるでしょうし)。
 それに元々、ローマと日本という遠隔地を比べるだけでなく、タイムスリップして現代と古代とをいきなり比べるから、様々な疑問も生じてくるのでしょう。
 ここはつまらぬことは云々せずに、斬新な設定を受け入れてまずは映画を面白がるべきと思います。

 なお、この映画は、いろいろな人が言っているように、今の日本の政治状況を踏まえながら、元老院の長老たちが積極的平和主義派(あるいは改憲派)で、ハドリアヌス帝らが受動的平和路線派(あるいは現行憲法擁護派)とみなせるように作られているのではないか、とも思えてきます。
 でも、仮にそうだとしても、制作者側の意図に反し(?)、民衆があんな楽しげなテルマエ・ユートピアの温泉に浸かって平和ボケしてしまったからローマはゲルマン人にやられてしまったのではないか、とこの映画を見た者は思うかもしれません!

(3)渡まち子氏は、「古代ローマと現代日本を行き来する異色コメディの続編「テルマエ・ロマエII」。目新しさはないがテンポの良さが救い」として60点をつけています。
 前田有一氏は、「基本的には前作と同じフォーマットによる笑いの見せ場が繰り返される。今回も、日本のいいところ、がたくさん出てくる。阿部寛演じるルシウスが仰天するたびに、観客は愛郷心を刺激され心地よい快感を得ることができる」として70点をつけています。
 相木悟氏は、「本作は何から何まで前作のパターンを踏襲している」ものの、「今のご時世、不謹慎とも捉えかねない奴隷ネタをしつこく繰り返しつつ、その上で青くさい平和のテーマを謳う無節操さは、壮大なブラック・コメディとして楽しむべき代物なのだろう」と述べています。



(注1)この拙エントリの「注1」で若干触れています。

(注2)監督は、『のだめカンタービレ』の武内英樹
 原作は、ヤマザキマリの同じタイトルの漫画。本作は、そのうちの「2~6巻をもとにしている」とのこと(劇場用パンフレットの「Production Notes」より)。
 なお、原作については、この拙エントリの「注2」で若干触れております。

(注3)本作も、前作と同じように、タイムスリップの場面ではオペラが歌われます。
 前作(このサイトの記事によります)と本作(劇場用パンフレット掲載の「Music」によります:オペラ以外の曲も記載されています)とを比べると、最初の方と最後の方とで使われている曲が同じようです(ただ、前作の場合は6曲が「アイーダ」によっていましたが、本作では3曲となっています)。
 特に、ラッセル・ワトソンが歌う「誰も寝てはならぬ」は、両作で共通しています(本作のテーマ曲とされています)。
 ちなみに、この曲は、先月見た『ワンチャンス』において、主人公のポール・ポッツが「ブリテンズ・ゴット・タレント」に出場した時に歌う歌となっています。

(注4)ルシウスは、子どもたち用のテルマエ(ウォータースライダーを設けます)を作ったり、辺境のパンノニアに遠征中のケイオニウスのために据風呂を作って送ったりします。

(注5)最近では、本作の俳優陣のうち、阿部寛は『トリック劇場版 ラストステージ』、上戸彩は『武士の献立』、市村正親は『のぼうの城』、北村一輝は『日本の悲劇』で、それぞれ見ています。

(注6)Wikipediaの記事によります。
 ただ、この記事によれば、グレコローマン・スタイルは19世紀中頃のフランスに起源を持つとのこと。

(注7)劇場用パンフレットに掲載の「まだまだ奥が深い日本文化入門」によれば、1954年に日本で試作品が作られました。

(注8)温水洗浄便座は、上記「注7」で触れた記事によれば、アメリカで開発されたものであり、公園で見られる滑り台の始まりは1922年のイギリスとされているようです(この記事)。

(注9)ルシウスの方も、日本のものをローマに取り入れるにあたって様々な工夫をこらしています。 例えば、電気がありませんから、マッサージチェアについては、背もたれの中に奴隷を入れて振動を生み出しています。
 そうだとすると、ローマにラーメン店が開業しますが、中華そばの製麺機の代わりにどんなものを使っているのでしょうか?

 なお、本文の(3)で触れる前田有一氏は、「原作を読むと本作で取り上げなかった要素が残っている。それは前作の記事で私が指摘したことそのものである。あえてそれだけは触れずに作りました、という感じがまるわかりなので、おそらく3作目にはここを強調した脚本が用意されることだろう」と述べています。そして、「前作の記事で私が指摘したこと」というのは、その記事に当たると、「惜しむらくは、日本側がローマに影響を与えるばかりで、古代ローマから日本が学ぶ展開がないこと。原作にはそうしたエピソードもあるので、これは続編の方でぜひ採用して欲しいところ」との記述が該当するのでしょう。
 でも、それが、例えば原作の第17話で語られるような話(「Iラブ湯トピア」建設!)だったら、酷くつまらないものになってしまうと思うのですが。

(注10)単に、ケイオニウスが風呂に入らないようアドバイスしたり、他の者から隔離しようとしたりするだけです。

(注11)ですが、そうだとすると、ルシウスがバイアエにテルマエ・ユートピアを作るということ自体も出来ない相談になってしまいます



★★★☆☆☆



象のロケット:テルマエ・ロマエⅡ
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ブルージャスミン

2014年05月26日 | 洋画(14年)
 『ブルージャスミン』を吉祥寺バウスシアターで見ました(これで同館は見納めになるかもしれません)。

(1)およそ1年ぶりのウディ・アレン監督作品であり、主演のケイト・ブランシェットがアカデミー賞主演女優賞を受賞したということで映画館に行ってきました。

 本作は、このところヨーロッパの著名都市を舞台にした映画を撮り続けていたウディ・アレン監督(注1)が、『人生万歳!』(2009年)以来久しぶりでアメリカを舞台にして制作した作品です。とはいえ、ホームグランドのニューヨークではなく、サンフランシスコが舞台となっています。

 それまでニューヨークで大層リッチな生活を送ってきたジャスミンケイト・ブランシェット)が、夫・ハルアレック・ボールドウィン)の事業の破綻によって無一文となり(注2)、サンフランシスコにやってきて、妹・ジンジャーサリー・ホーキンス)の家に転がり込むところからこの映画は始まります。



 厳しい状況にあるにもかかわらず、ジャスミンは元の豪華な生活が忘れられず(注3)、周囲の人達との間で様々な摩擦を引き起こし、自身もショックを受けます。



 例えば、現実的になろうと、ジャスミンは歯科医院の受付係となりますが、所詮細々とした事務的なことには向いておらず、頭に来てそこを飛び出してしまいます(注4)。
 そんななかでジャスミンは、あるパーティーでドワイトピーター・サースガード)という外交官の男と知り合いになります(注5)。
 また、妹のジンジャーも、シングルマザーで二人の子供を育てていて、恋人もいますが、同じくパーティーで知り合った男と懇ろになってしまいます(注6)。
 彼女たちは一体どうなることでしょうか、………?

 ストーリーは、これまでのウディ・アレン監督作品らしく他愛ないものですが、なんといってもケイト・ブランシェットの演技が素晴らしく、実に鼻持ちならない女性であるジャスミンながら、おしまいころになると可愛く見えてきてしまうのですから不思議です(注7)。

(2)本作は、例によって監督自身が色々喋っていますから(注8)、この映画で気がつく教訓めいたことなどを申し上げても屋上屋を重ねるばかりとなるでしょう。
 それよりも、一つ一つのシーンをあれこれと愉しんだりすればいいのではないかと思っています。

 例えば、映画の冒頭では、ニューヨークからサンフランシスコに向かう飛行機の中で、隣の女性に対して、ジャスミンは、これまでの人生のことについて延々としゃべり続けています(注8)。その有り様は、サンフランシスコ空港に着いてから、隣の女性が、出迎えの夫に対して「一人でしゃべり通し。こちらが聞いてもいないのに」と呆れて言うほどです(注9)。
 このシーンを見ると、最近の『ウォルト・ディズニーの約束』における最初の方の一場面を思い出してしまいます。
 そこでは、ディズニーとの契約を検討するためにしぶしぶ搭乗したロス行きの飛行機の中で、主人公のトラヴァース(エマ・トンプソン)が、客室乗務員などに苛々と様々に文句をつけるのです(注10)。
 ジャスミンにしてもトラヴァースにしても、それまでに様々の問題を抱え込んでいてそうした態度をとるわけですが、これらの映画を見る観客はそれらの問題の詳細は分からないにしても、二人が厳しい状況下にあるなということは、これらの場面からすぐに分かる感じがします。

 また、ジャスミンは、元の名前はジャネットですが、それでは「平凡でつまらない」としてジャスミンに変えています。こんなところは、話は飛躍して恐縮ながら、現在放映中のNHK連続TV小説『花子とアン』に登場する主人公の安東はな(吉高由里子)が、通っていた小学校や修和女学校で自分のことを「花子と呼んでくれ」と言い続けているのを思い出してしまいました(注11)。

 さらには、ジャスミンがシャネルジャケットを愛用していることから、『ココ・シャネル』を思い出してみるとか、………(注12)。

(3)渡まち子氏は、「悲惨さと滑稽さが同居する難役をケイト・ブランシェットがさすがの演技力で演じていて、オスカー受賞も納得の熱演。名曲「ブルー・ムーン」のメロディが忘れがたい余韻を残してくれる人間ドラマだ」として80点をつけています。
 前田有一氏は、「こんなに強烈な才気が78歳のアレンに残されていたとは、うれしい驚きである。本作は、近年のウディ・アレンコメディに欲求不満だった人、そもそもアレン映画とはそういうものだと思いこんでいる人に是非見てほしい、切れ味鋭い人間ドラマの傑作である」として90点をつけています。
 相木悟氏は、「喜劇なのか、悲劇なのか、苦笑をまじえつつ複雑な後味の残る匠の逸品であった」と述べています。



(注1)『ローマでアモーレ』ではローマ、『ミッドナイト・イン・パリ』ではパリ、『恋のロンドン狂騒曲』ではロンドン、『それでも恋するバルセロナ』ではバルセロナ。

(注2)ジャスミンは、「全財産を国税庁にとられた。その上裁判で弁護士にも」と言ったり、「ゼロどころか、莫大な借金も」と言ったりします。

(注3)何しろ、飛行機もファーストクラスに乗ってサンフランシスコにやってきたくらいですから!
 ちなみに、その時の服装は、劇場用パンフレット掲載のスタイリスト・えなみ眞理子氏のエッセイ「もう一人の主役は、もしかしてシャネルジャケット?」では、「ジャケットもシングルブラウスもロングのペールネックレスも全てシャネル。………と、全身これでもかのハイブランド」と述べられています。

(注4)不向きだったことだけでなく、歯科医のフリッカー博士(マイケル・スタールバーグ)から言い寄られたこともありますが(「君の服の着方が色っぽくてセクシーでそそられる」)。

(注5)ドワイトは、最近妻(ファッション誌で働いていました)を亡くしたばかりの外交官(ウィーンニいます)で、ジャスミンに、「来月ウィーンにきてくれるかな、2、3年住んでワルツを覚えて。僕は、政界に出る準備をする」とまで言います。

(注6)ジャスミンは、ジンジャーの恋人チリボビー・カナヴェイル)を、粗野な修理工であることで酷く嫌っていて、そのことがジンジャーに影響したのでしょう、彼女はパーティーで知り合った男・アルルイス・C・K)がサウンド・エンジニアー(「人に音楽を届ける仕事をしている」)と聞いて、心を動かしてしまいます恋人のチリがいるにもかかわらず、「私はフリーよ」と言ってしまいます)。

(注7)なお、最近では、ケイト・ブランシェットは『ロビン・フッド』、サリー・ホーキンスは『ジェーン・エア』、アレック・ボールドウィンは『ローマでアモーレ』で、それぞれ見ました。

(注8)例えば、劇場用パンフレットに掲載された「Production Notes」の中で、ウディ・アレンは、「観客がジャスミンのことを気に掛けるのは、この物語がただ単に経済的な喪失ではなく、彼女のキャラクターにある悲劇的な欠点が彼女自身の終焉を作り出しているからなんだ」、「見方を変えれば、人は過ちを犯すし、それは皆に共通している。人は皆、自分の子どもたちや夫、妻に対して、ささいなことで終始過ちを犯すんだよ」などと述べています。

 ただ、その記事によれば、ウディ・アレンは、「ジャスミンは自分の快楽や収入。安全の源について深く知ろうとしないことを選択した」と述べています。
 確かに、例えば、本作の最初の方の回想シーンで、ジャスミンは「金融はチンプンカンプンなの、夫を信じているの」と述べていますが、本作のラストの方を見れば、ジャスミンは、夫が何をしていたのかについて実は十分に把握していたものの、夫などに対しては無知を装っていたのだとわかります。ウディ・アレンは、もちろんそんなことをよく知っていながら、観客をけむにまいているだけなのでしょう。

(注8)ハルと結婚するために、ボストン大学(人類学を勉強)を中退した(一年残して)とか、サンフランシスコは初めてで、妹のところに行くのだとか、ただ妹と言っても実の妹ではなく、二人は同じ里親のもとで育った里子だったなどなど。

(注9)このシーンは、ラストのシーン(外のベンチに座って独りで「なにもかもがごちゃごちゃ」などとしゃべっているジャスミンを見て、おかしな人だと感じて女性が遠ざかります)と対応するようです。

(注10)トラヴァースは、大きな手荷物を別の場所で保管しようとする客室乗務員を遮って、席の上の荷物収納棚に無理やり入れようとしますし、隣の女性が赤ちゃんを抱いていると、「長いフライトなんだから、泣かさないようにして」と言って席を換えさせたりします。

(注11)このサイトの記事では、「安東はなが「花子」と呼ばれたい理由」がいくつか挙げられています。

(注12)ジャスミンは、自分のことをドワイトに対し、「住んでいるところはニューヨーク、仕事はインテリアデザイナー、夫は外科医だったが過労による心臓発作で死亡」とスラスラと言いますが、最近のパソコン遠隔操作事件における容疑者の発言を目にしたりすると、「ジャスミンはサイコパス?」と言いたくなってしまいます。でも、サイコパスに関するこうした記事を読むと、ジャスミンはせいぜい可愛らしいミニサイコパスくらいでしょうか?



★★★★☆☆



象のロケット:ブルージャスミン
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WOOD JOB!(ウッジョブ)

2014年05月21日 | 邦画(14年)
 『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作(注1)は、『舟を編む』の原作者・三浦しをん氏が書いた小説(注2)に基づいた作品ということで映画館に行ってきました。

 映画の冒頭では、大学の入試に落ちた主人公の平野勇気染谷将太)が、ガールフレンドに「絶対同じ大学に受かるから待っててね」と言ったにもかかわらず、彼女から「距離を置こう」と言われたりして落ち込んだ時に、「緑の研修生」のポスター(そこにはすごい美人が写っています)を見て、次のシーンになると、勇気は、もう列車を乗り継いで無人駅(注3)に降り立ちます。
 出迎えの人は誰もいないし、携帯も圏外で、さらに戻ろうとしても次の列車まで6時間も間があるし、ということで困っていたところに、三重県林業組合の車が到着し、降りてきた組合専務(近藤芳正)が勇気を研修所に連れて行きます。
 研修のスケジュールは、1カ月の講義で資格を取り、その後に11カ月、地元の林業会社で実習(OJT)を受けるというもの。
 一度は脱走しようとした講義に続いて、勇気は神去村の中村林業で実習を受けることになりますが、そこには親方(光石研)とその妻(西田尚美)、従業員のヨキ伊藤英明)とその妻(優香)がいます。
 さらには、最初に勇気がポスターで見た美人の直紀(親方の妻の妹:長澤まさみ)も同じ村に住んでいるのです。



 さあ、勇気とこれらの人たち、さらには神去村の人たちとの関係はどうなるのでしょうか、………?

 本作は、都会者が田舎に居着くというご当地映画によく見られるストーリーであり(注4)、さらには、祭をクライマックスに持ってくるのもご当地物の定番ながら(注5)、田舎で暮らす者が実に生命力溢れる姿で描かれており、かつまた描かれる祭りもなかなかの迫力であり、全体としてまずまずの仕上がりではないかと思いました。ただ、もう少し女性の登場人物が活躍してもいいのでは、という気がしたところです。

 主演の染谷将太は、これまでに見られない性格の役柄をうまくこなし一層の活躍が期待されますし、その他の俳優陣も随分と頑張っています(注6)。



(2)本作でヨキらが手にするチェーンソーを見ると、まずホラー映画を思い付きますが(注7)、むろん、まじめに林業を描く本作にはそんな場面はありえず、登場人物は皆規則に従って慎重にチェーンソーを取り扱いながら木を切り倒したり枝をはらったりします。

 まじめに林業を描いている映画といえば、最近では『キツツキと雨』となるでしょう。
 なにしろ、山奥の村(注8)に住む木こりの克彦(役所広司)が主人公として登場し、そんなに長い時間ではありませんが、山における作業の現場が描き出されています。
 ただ、同作は、本作とは逆方向のベクトルを持つ作品といえるかもしれません。
 というのも、本作では、都会暮らしの主人公・勇気が田舎の森で働くことになるのですが、同作では、田舎に住む木こりの克彦が、都会の田辺幸一(小栗旬)の制作するゾンビ映画に出演するというストーリーなのですから。ごく簡略に図式化すれば、「本作:都会→田舎(林業)、同作:田舎(林業)→都会」ということにでもなるでしょうか。

 もう少し踏み込んでみると、本作は、あるいはイタリア映画『四つのいのち』と通じるところがあるように思います。
 同作では、本作が神去村を舞台とするように、南イタリアの田舎にある小さな村が舞台となっています。そして、樹齢100年の樅の大木が切り倒され、大勢の村人によって村に運ばれてお祭りに使われますが、そのお祭り(注9)は、諏訪大社の「御柱祭」を経由しながら(注10)、本作のクライマックスをなす祭(「大山祗さんの祭り」)にも通じるものを感じます。
 本作で描かれる祭りは、国内的にはいうまでもなく、また世界にも広がる通路なのかもしれません。



(3)渡まち子氏は、「林業という切り口は新しいが、映画の作りとしては極めてオーソドックスなこの映画、実に魅力的でにくめないのだ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「伊藤英明と、その妻役・優香の濃密すぎるキスシーンや、夜の営みなど下ネタギャグがいくつか飛び出てくる点だけ気を付ける必要があるが、子供たちにも見てほしい楽しい感動作」として70点をつけています。
 相木悟氏は、「生活に密接に関わっていながら預かり知らない林業の世界を、青春映画として勉強できる良作であった」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『スウィングガールズ』や『ロボジー』などの矢口史靖
 出来ないと思われていたことを何とかやり遂げてしまうという点で、これらの作品と本作とは通じるところがあるのではと思いました(大雑把にいえば、『スウィングガールズ』では高校の吹奏楽部がジャズ演奏をすること、『ロボジー』では動くロボットを1週間で製作すること)。

(注2)原作は、三浦しをん著『神去なあなあ日常』(徳間文庫)。
 ちなみに、著書(そして本作も)のタイトルに、「ゆっくりのんびりいこう」という意味の神去村の方言「なあなあ」が使われているところ、「神去村」自体が架空のものですから、これも著者が作った言葉のようです(この記事で、三浦しをん氏は「この言葉は私が勝手に作ったものなんですよ。ゆっくり行こうとか、落ち着けとか、くよくよするなっていう感じですね。のんびり行こうっていうことです」と話しています。ただ、同じ記事において、矢口監督は「実は三重弁の翻訳は専門家に依頼したものではなく、地元美杉の皆さんにお願いをしました。実際に台本を録音してもらって、俳優の皆さんはそれを聞いてセリフを覚えていただいたんですよ」と話していますから、全体としては実際の三重弁なのでしょう)。
 NHK連続TV小説『あまちゃん』の「じぇじぇじぇ」と同じように、「なあなあ」が流行語になるのでしょうか(なお、NHK連続TV小説『花子とアン』では、甲州弁「こぴっと(しろし)」(“しっかりしなさいよ”“がんばれよ”の意味)を流行語にしたいようで、何回も登場人物が使っています!)?

(注3)映画では「上三津鉄道」の駅とされていますが、ロケ地の三重県旧美杉村(現在は津市美杉町)に走るのは名松(めいしょう)線。
 ただ、本作の公式サイト掲載の「Production Notes」によれば、同線が台風で不通になっていたために、実際には岐阜県の明知鉄道を使ったとのこと。 ちなみに、この鉄道は、本文の(2)で触れています『キツツキと雨』でも使われています。

(注4)典型的なご当地映画といえる『恋谷橋』では、東京に出てデザイン関係の会社に勤めていた朋子(上原多香子)が、母親(松田美由紀)の跡を継いで、鳥取県の三朝温泉にある老舗旅館の若女将となって頑張っていこうとしますし、また『津軽百年食堂』も、東京に出ていた陽一(オリラジ藤森)が、弘前にある大森食堂の跡を継ぐというお話です。
 まあ、本作は、その地に縁もゆかりもない都会育ちの主人公・勇気が田舎に居着くようになるという点で、親の跡を継ぐというこれらの作品とは違っているとはいえるでしょうが。

(注5)上記「注4」で触れた『恋谷橋』では「山陰KAMIあかりアートフェスティバル」、また『津軽百年食堂』では弘前さくらまつり。

(注6)最近では、染谷将太は『永遠の0』で見ましたし、長澤まさみは『モテキ』、伊藤英明は『アンダルシア』〔『悪の教典』のDVDでも←このエントリの(3)をご覧ください〕、光石研は『共喰い』、優香は『悪夢ちゃん』、近藤芳正は『許されざる者』で、それぞれ見ています。

(注7)このところクマネズミが見たものとしては、例えば『処刑山 デッド・スノウ』があります。
 なお、ホラー映画ではありませんが、『エッセンシャル・キリング』には、主人公が木こりなどを次々とチェーンソーで殺す場面がありました。

(注8)本作のロケ地が三重県旧美杉村であるのに対して、同作は岐阜県東濃地方と長野県南木曽町がロケ地。

(注9)『四つのいのち』の公式サイトに掲載されているミケランジェロ・フラマンティーノ監督のインタビュー記事によれば、映画で描かれている祭りは「ピタの祭り」と呼ばれるもので、「ランゴバルド人がこの地にいた頃から毎年、アレッサンドリア・デル・カレット村で開かれている伝統行事」とのこと。
 さらに、同監督の別のインタビュー記事によれば、同作が舞台としているカラブリア地方にはピタゴラスがいたと言われているようです。さらにまた、この記事を読んだりすると、「ピタの祭り」の“ピタ”とは“ピタゴラス”を指しているのではとも思えてきます。

(注10)このサイトの記事によれば、矢口史靖監督は、「今作でもクライマックスの祭りは諏訪大社の御柱祭を参考にした」と話しています。
 ただ、友人からの情報によれば、三重県の旧美杉村下ノ川には「仲山神社ごんぼ祭り」という男女根崇拝に拠る子孫繁栄・五穀豊穣を願う祭りがあるとのことで、友人は、映画で描かれているものはこれをモデルにしているのではないかと話しています。
 確かに、御柱祭では大木が急坂から落とされるだけであり(「下社の木落し」)、その部分は映画と類似するものの、祭事の最後は映画で描かれるようにはなりません。
 おそらく映画の祭事は、この仲山神社の「ごんぼ(牛蒡)祭り」と諏訪大社の「御柱祭」とを合わせて矢口監督が創り上げたものなのでしょう。




★★★☆☆☆



象のロケット:WOOD JOB!(ウッジョブ)
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とらわれて夏

2014年05月19日 | 洋画(14年)
 『とらわれて夏』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)ケイト・ウィンスレットが出演するというので映画館に行ってきました。

 本作の時代は1987年の夏の終りの5日間、舞台はアメリカ東部のニューハンプシャー州の小さな町(注1)。
 冒頭では、その町から、シングルマザーのアデルケイト・ウィンスレット)と息子ヘンリーガトリン・グリフィス)が暮らす家までの道が、車で辿られます。町の中心部から大分離れたところに、彼らの家はあるようです。
 その朝(木曜日)、アデルはレコードプレーヤをかけ、コーヒーポットからコーヒーをカップに注ぎ、また、目覚めた13歳のヘンリーは、飼っているハムスターに餌を与えます。
 それから、二人は車に乗って町に出かけ(注2)、スーパーで買い物をします。
 独りで雑誌売場に行ったヘンリーは、そこで見知らぬ男・フランクジョシュ・ブローリン)から「手を貸してくれ」、「車に乗せてくれないか」と言われ、一緒にアデルのところに戻ると、アデルは「他に用事があって、力を貸せない」と答えますが、フランクはヘンリーの首に手を置いていて、とても断れそうもありません。
 アデルは、レジの女性の顔を見て眼で事情を知らせようとするものの、他人との交流が巧く出来ない精神状態にあるために、何も伝達できずじまいで、とうとう三人で車に乗って家に行くことに。



 家に戻ると、フランクは、「盲腸の手術をした後、刑務所の病院の窓から飛び降りた」などと事情を説明します。
 さらに、「暫くしたら出て行く。日没までいさせてくれ。迷惑はかけない」と話していたところ、TVニュースでフランクのことが取り上げられ、「殺人罪で懲役18年」と伝えられると、「故意に殺したわけではない。君たちを危険な目にあわせない」と弁解するのです(注3)。
 さあ、アデルとヘンリー、それにフランクは、この後どうなってしまうのでしょうか、………?

 本作は、主要な登場人物の3人が置かれた厳しい状況の中での人間的な交流が実に巧く描かれているだけでなく、アデルが離婚に追い込まれた事情や、フランクがその妻マンディマイカ・モンロー)らを殺害したとされる状況などを折り込み、さらにはヘンリーと早熟の少女との交流(注4)までも重層的に描き出されていて、とても見応えのある作品となっています。

 俳優陣では、前作から少し間があいたケイト・ウィンスレットと、最近よく見かけるジョシュ・ブローリンの取り合わせは、うつ病のシングルマザーと脱獄囚の組み合わせに絶妙だと思いました(注5)。



 また、ヘンリーがこの作品では重要な働きをしますが、15歳のガトリン・グリフィスは巧みに演じています。

(2)ストーリーの展開の素晴らしさや出演者の演技の巧さのみならず、本作では、驚いたことに、愛好するクラシックギターの曲(それもよく知っている曲です!)がいくつも流れるのですから、クマネズミとしては大感激です(注6)!

 すなわち、この作品では、クラシックギターの曲が3つ流れます。
 「IMDb」に掲載されている本作の「Soundtracks」によれば、次のようです。
イ)"Estudio XIX"
ロ)"Exercises in B Minor, Op. 35, No. 2: Allegretto"(注7)
ハ)"Romance de los Pinos"(注8)

 とはいえ、「IMDb」では、イについて「Written by Celedonio Romero Performed by Pepe Romero」とされているところ(注9)、演奏者のペペ・ロメロ(注10)は問題ないとしても、それにつられて曲の作曲者が父親のセレドニオ・ロメロとなっているのは困り物です。
 この曲は、フェルナンド・ソル(1778-1839:ソルについては、このエントリを参照して下さい)が作曲した作品29番の練習曲集(1827年出版)の第1番目に収められているものです。そして、それが、アンドレス・セゴビアが編集した『ソル 20の練習曲』の第19番目に置かれていることから「Estudio XIX」との記載となったものと推測されます(注11)。

 まあ、そんな些細なことはともかく、映画の中では、金曜日に、フランクの指導のもと、アデルとヘンリーが一緒になってピーチパイをこしらえるという甚だ重要なシーン(注12)のバックに、イの曲が流れるのです。



 この曲は、変ロ長調で♭が2つ付いている上に、やたらとセーハ(1本の指で複数の弦を押さえること)が出てきたり、押さえにくい箇所があったりするので、大層弾くのが難しい曲ながら、16分音符の6連符からなるアルペジオを流れるように弾くことができたら、このうえなく美しい曲となります。

 なお、ロの曲は、カナダに向けて出発するにあたり(注13)、月曜日に家の中を3人で整理をするのですが(注14)、その際に流れますし、ハの曲は映画の末尾で使われます。
 こんなにクラシックギターの曲が効果的になんども使われる映画に、クマネズミは初めて出会いました!

(3)渡まち子氏は、「シングルマザーと心優しい逃亡犯の愛を13歳の息子の目を通して描く「とらわれて夏」。大人のラブストーリーであると同時に思春期の少年の成長物語でもある」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「じつは私はこの映画を、公開されたらもう一度みたいと思っている。あの優しい人間たちの思いやりあふれる交流を、再び体験したいのである。年に何百本映画を見ても、そういう作品はあまりない」と大絶賛して85点をつけています。
 相木悟氏は、「ヘビーなヒューマン・サスペンスかと思いきや、いい意味で予想を裏切られる恋愛映画であった」と述べています。



(注1)本作は、9月の第一月曜日の「レイバー・デー」までの5日間(木曜日から)が描かれ、さらにそのレイバー・デーの翌日が本作では重要な日となっているので(アメリカでは新学期が始まります)、原題は「Labor Day」とされています。
 なお、監督は、『マイレージ、マイライフ』のジェイソン・ライトマン

(注2)途中、大人になったヘンリーの語りと回想が入ります。それによれば、父と離婚してうつ状態になった母(父によれば、「母の悲しみは、父を失ったことではなく、愛を失ったこと」とのこと)は家に引きこもり、買い物に出かけるのも一月に1回。当時はヘンリーが「1日夫」の役を演じていたものの(「いろいろな家事を引き受けるばかりかデートまでも」)、大人になったヘンリーは、「幼すぎた」と語ります。
 その後、アデルがフランクに話したところからすると、ヘンリーを産んだ後3回流産し、4回目は死産となって、夫婦の会話が失われてしまったとのこと。

(注3)殺人罪にもかかわらず「故意に人を殺していない」とフランクが言うのは、回想シーンからすると、過失による死(彼が、妻のマンディの浮気を問い詰めて押しやった際に、倒れた彼女が頭を暖房機の角に打ち付けて死んでしまい、その騒ぎのさなかに赤ん坊が浴槽で溺死してしまった)という事情によっています。

(注4)ヘンリーが、アデルに言われてカナダ南東部のことを調べに図書館に行った際に出会った少女は、ヘンリーの話を聞いて、自分の経験をも織り交ぜながら、「残された道は、フランクを追い出すこと。やらなければ、あんたが追い出される」などとヘンリーに吹き込んだりするのです。

(注5)最近では、ケイト・ウィンスレットは『おとなのけんか』や『コンテイジョン』で、ジョシュ・ブローリンは、『L.A.ギャングストーリー』や『恋のロンドン狂騒曲』で見ています。
 なお、大人になったヘンリーの役柄でトビー・マグワイアが出演しています(彼は、『華麗なるギャツビー』や『マイ・ブラザー』で見ました)。

(注6)『恋のロンドン狂騒曲』でも、フリーダ・ピントがクラシックギターを練習する様子を向かいのマンションからジョシュ・ブローリンが眺めるシーンがあります(なぜかジョシュ・ブローリンは、クラシックギターと関係があります!)。

(注7)「練習曲 作品35-22」。
 フェルナンド・ソルが作曲した作品35番の練習曲集(1828年出版)の22番目に収められています(「IMDb」が「Op. 35, No. 2」としているのは「Op. 35, No. 22」の誤り)。
 曲の感じから「月光」とよく言われ、比較的易しいために、クラシックギターに携わる人ならば必ず一度は演奏しているでしょう(もちろん、この曲の持っているものを全て引き出そうとすれば、とたんに難しくなるでしょうが)。
 なお、本作では「Shin-Ichi Fukuda」(日本の代表的なクラシックギター奏者の福田進一氏)が演奏したものが流れます。

(注8)「松のロマンス」。モレノ・トローバ(1891-1983)が作曲した組曲『スペインの城』の第4曲「モンテマヨール」の別名です。
 本曲については、このサイトでセゴビアの演奏を聴くことが出来ます(セゴビアの演奏についてはこのサイトの記事を)。

(注9)映画の末尾のクレジットでも、チラッとしか見えませんでしたが、このように記載されていたように思います。

(注10)この記事によれば、丁度、今週来日してコンサートを開催するとのこと。

(注11)さらに言えば、映画のクレジットで「Estudio XIX Written by Celedonio Romero」となってしまったのは、父親のセレドニオ・ぺぺもいくつかの「Estudio」を作曲していることや(この記事によれば)、さらに、ペペ・ロメオのアルバム「Songs My Father Taught Me」(1999.9.3)の16番目に収められている曲(iTune掲載の「父の教え給いし歌」では22番目)について、「16. Etude for Guitar no 19 in B flat major by Fernando Sor Performer: Pepe Romero (Guitar) 」と記載されていること(このサイトによります)も、あるいは影響しているのかもしれません。

 なお、本曲については、このサイトでペペ・ロメロの演奏を聴くことが出来ます(ただし、通常使われているのとは一部違った楽譜を使って演奏しているのではないでしょうか)。
 また、このサイトの記事においては、本作のサウンドトラックCDについて、「アンドレアス・セコビア、福田進一などのクラシック・ギター・ナンバーも収録」と記載されているところ、演奏者であるアンドレアス・セコビアや福田進一が、あたかも作曲者であるかのように取り扱われています!

(注12)なにしろ、フランクとアデル、そしてヘンリーが、パイ作りという共同作業をすることで絆を感じ、とても幸福な時間を過ごすのですが、それだけでなく、大人になったヘンリーが、フランクに教わったやり方で作ったピーチパイを売るベーカリー(“Farm Stand Bakery”)を出店したところ人気を集め、雑誌にそのことが掲載されるに至り、その記事を刑務所で見つけたフランクがヘンリーに連絡をとって云々、というラストの話につながっていくのです。

(注13)アデルとフランクは、警察の追及から逃れられるかもしれないと、カナダの南東部の州への移住を計画します(「パパと別れた後、一生一人だと思っていたけれど、カナダで人生をやり直そうと思っている」とアデルはヘンリーに言います)。

(注14)自分の荷物をたくさん運ぼうとするヘンリーに対し、フランクは、「荷物を半分にしろ」と言ったりします。



★★★★★☆



象のロケット:とらわれて夏
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悪夢ちゃん

2014年05月16日 | 邦画(14年)
 『悪夢ちゃん The 夢ovie』を渋谷HUMAXシネマで見ました。

(1)かなり低い評価を見かけるものの、以前TVドラマ(2012年)を見たこともあり、ご贔屓の北川景子の主演作というので映画館に行ってきました。

 本作の冒頭では、「悪夢ちゃん」こと古藤結衣子木村真那月)が、自分の書いた作文「これまでのこと」を読み上げながら、TVドラマの『悪夢ちゃん』の主だった要素を説明していきます(注1)。
 それらを枠組みにして、本作の物語が始まります。
 まず、クラスで、担任の彩未先生(北川景子)が「悪夢をいい夢に変えようとしたことを後悔しています。悪夢を見てしまう生徒の心が悪いから悪夢になってしまうのです。その心の方を変えなくてはいけません」などと話しています。



 すると、外が暗くなって少年夢王子マリウス葉)が怪鳥ハルピュイアに乗ってクラスの中に飛び込んできて、生徒を次々と消してしまいます。
 そして、彩未先生の首を切ってしまうと、少年夢王子は、結衣子に「これからは僕が君の夢を受け止めるよ」と言います。
 これに対して、「それなら、私とチューして」と言って唇を少年夢王子に向けたところで、結衣子は夢から目覚めます。



 次いで、結衣子が学校に行くと、クラスに転校生・渋井完司マリウス葉)が現れますが、なんと悪夢に登場した少年夢王子とソックリなので、彼女は酷く驚いてしまいます。
 さあ、この転校生は、クラスにどんな騒動をもたらすでしょうか、彩未先生や悪夢ちゃんたちは、うまく事件を解決できるでしょうか………?

 なるほど映画館の入り具合は報じられているとおりながらも(注2)、元々何でもありの夢の世界が描かれているのですから、あまり細かいことは言わずに奇想天外なファンタジーと受け止めて、出演者が楽しそうに演じていることでもあり、総じて面白い作品に仕上がっているのではと思いました。
 特に、エンディングでは、中島みゆき作詞・作曲の「泣いてもいいんだよ」がモモクロによって歌われるので(注3)、随分楽しめました(注4)。

(2)映画評論家の渡まち子氏は、下記(3)で触れるブログ記事において、「そもそも全員が同じ夢を見るという最高レベルの思想統制の設定に激しく違和感を覚える」と述べています。
 しかしながら、「夢」が「思想」かという問題はさておくとしても、この場合、クラス全員の無意識がつながって同じ夢を見たというだけのことであり、独裁者などに意識的に強制されて同じ夢を見たわけではないのですから、「思想統制」(特に、“最高レベルの”という修飾が付いた)とまでいえるのか甚だ疑問に思われます。

 元々、本作で皆が同じ夢を見るというのは、あるいはユングの考え方によっているのかもしれません(注5)。
 ユングは、後天的な個人無意識よりも更に奥深い領域に、先天的で人類に共通する普遍的無意識(集合無意識)を仮定します(注6)。
 そして、ユングによれば、普遍的無意識の基本的内容は「元型」といわれるものですが、ただ、元型そのものを人は知覚することが出来ず、元型が心に作用して作られるイメージを通して知ることが出来ます。すなわち、精神病の幻覚妄想とか夢、神話・伝説・物語などといった非日常的な表象体験によって、元型に接近することが出来るようです。

 としたら、ある同じ元型が人の心に同じように作用する場合には、複数の人が同じ夢を見ることにもなるでしょう。
 本作のように、クラスの全員が同じ夢を見るというのも、あながちいい加減な作り話だとはいえないのかもしれません。
 とはいえ、いくら普遍的無意識によって共通する夢を見るといっても、本作のように極めて具体的な内容の夢を皆が見るというわけのものではないことも明らかでしょう。
 それも、本作の場合、過去のことにかかわるものではなく未来についての「予知夢」というのですから(注7)!

(3)渡まち子氏は、「本作の最大の売りは、ももいろクローバーとのコラボに他ならない。ももクロに北川景子が加わった“きもクロ”の、贅沢なプロモーションなのだ」として20点しかつけていません。



(注1)すなわち(以下では、映画の展開に従って明らかになることも含めます)、
・結衣子の祖父・古藤万之介小日向文世)は、夢を映像にして見ることのできる機械「獏」を発明しました〔「夢札」(デジタル化された夢)を「獏」にセットすると、ディスプレイにその内容が映し出されます〕。



・結衣子は、他人の無意識とつながることによって、その人の不吉な未来を悪夢(「予知夢」)として見ることができる能力を持っています。
・クラス担任の彩未先生は、少女時代は「悪夢ちゃん」でしたが、今では、「夢判断」(陽子の予知夢を解読)をして結衣子の悪夢から人々を救ってくれます。
琴葉先生(優香)は養護教諭で、始めの頃は彩未先生をいろいろ疑ったりしていましたが、本作では彼女の良き協力者になっています。



志岐GACKT)は古藤万之介の助手だった男で、TVドラマの中では、海に身を投げたにもかかわらず最後の最後に復活します。また、志岐と瓜二つの夢王子が、彩未先生の夢の中に出現します。



・その他、彩未先生と結衣子の夢の中には「夢獣(ユメノケ)」が現われて、2人を案内してくれます。

(注2)例えば、この記事とかこのサイト

(注3)この歌のミュージック・ビデオはこちら、この歌についての中島みゆきのお喋りはこちら、モモクロのお喋りはこちら(「「蝕む」ってどういう意味?」「中島みゆきは架空の存在!」)。

(注4)最近では、北川景子は『抱きしめたい』で、優香は『黒執事』、小日向文世は『清須会議』でそれぞれ見ています。
 また、渋井完司の父親(実は養父であり、また幼い彩未先生と同じ施設にいたとのことですが、……)の役で佐藤隆太が出演していますが、『天地明察』で見ています。

(注5)以下は、このサイトの記事とかWikipediaの関連記事によっています。

(注6)このサイトの記事が言うように、「この人類に共通するという集合無意識の存在を科学的に検証したり証明する方法は存在しない。その意味で、無意識や集合無意識の概念は、飽くまでフロイトやユングが創始した主観的な説明概念であり、効果的な心理療法に用いる仮説的概念として認識すべきもの」でしょう。

(注7)結衣子は、上記「注1」で申し上げたように、他人の無意識とつながることによって、その人の不吉な未来を悪夢(「予知夢」)として見ることができる能力を持っているとされます。
 さらに、その「予知夢」については、例えばこのサイトの記事にあるように、実際の事例があるように言われたり、またこのサイトの記事にあるように、ユングの心理学が持ち出されたりすることもあるようです(尤も、そのサイトの記事では、ユングの心理学と予知夢との関係ははっきりしませんが)。
 でも、元々夢は様々に解釈されますし、例えば本作にあるように、出来事のどこからどこまでが夢でいわれたことに該当するのかはっきりしないのですから(いったい井上葵の未来は、予知夢のようになったのでしょうか、ならなかったのでしょうか)、まあすべてはファンタジーと受け取るべきなのでしょう。



★★★☆☆☆



象のロケット・悪夢ちゃん
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ある過去の行方

2014年05月13日 | 洋画(14年)
 『ある過去の行方』を渋谷のル・シネマで見てきました。

(1)本作はフランス映画で、予告編を見て映画館に行ってきました。

 本作は、大層複雑な家族関係についての物語です。
 主人公のマリー=アンヌ(薬剤師:ベレニス・ベジョ:注1)は、4年前にイランに帰ってしまった夫・アーマドアリ・モッサファ)(注2)を、離婚手続きのためにパリに呼び寄せます。
 以前暮らしていた家にアーマドが行くと、自分の前の夫との間で生まれた娘が2人います。その上に、マリー=アンヌがいずれ再婚しようとしているサミール(クリーニング店経営:タハール・ラヒム)の連れ子までも一緒。



 ただ、2人の娘のうちのリュシー(16歳:ポリーヌ・ビュルレ)がどうやら彼女とサミールとの再婚に反対のようなのです(注3)。



 アーマドは、マリー=アンヌとの離婚に同意するものの、リュシーの話を聞くと簡単にイランに帰国できなくなってしまいます。というのも、リュシーは、サミールの妻が自殺を図ったことについて何かを知っているようなのですから。
 さあ、リュシーは一体何を知っているのでしょう、果たしてこの家族はどうなってしまうのでしょうか、………?

 本作は、今のフランスの状態を反映しているのでしょうか、極めて複雑な家族状況が設定されていて、始めのうちはなかなか飲み込めませんが、人の関係がわかってくると、全体がサスペンス仕立てになっていることもあり、最後まで惹きつけられます。

(2)本作を制作したのは、『別離』のアスガー・ファルハディ監督で、そこでも本作同様、裁判所における離婚調停の場面が描かれています。
 その際のエントリで申し上げたように、その映画において妻・シミンが、海外に移住できないという夫・ナデルに対して離婚を申し出たり、娘・テルメーの親権までも請求したりする点が、よく理解できませんでした。

 本作においても、離婚裁判が描かれますが、そこではマリー=アンヌとアーマドがそれぞれ「同意します」と言うだけですから、それ自体は問題ないでしょう(注4)。
 ただ、マリー=アンヌが、引き続いてサミールと結婚しようとしているのはどうなのでしょう(注5)?というのも、サミールの妻は、自殺を図って失敗し植物人間状態となり入院しているからです。
 そんな状態にある妻を放っておいて夫のサミールは離婚できるのでしょうか?
 少なくとも日本でなら、不可能でないとしても、相当難しいのではと思われます(注6)。
 どうも、『別離』にしても、ファルハディ監督の作品は、全体としてなかなか面白いとはいえ、イマイチよくわからない点が出てきてしまう感じがします。

 この点だけでなく、全体的にも『別離』と似たような印象を受けます。
 というのも、『別離』は本作同様に、サスペンス的な要素を持っているのみならず(注7)、妻・シミンと夫・ナデルとの間に、アルツハイマー症の父親をどうするのかという問題がありますが、本作においても、マリー=アンヌとサミールとの間には、植物状態の妻がいます。
 また、『別離』における娘テルメーの役割を、本作のリュシーが引き継いでいるといえないこともないでしょう(注8)。
 あるいは、本作のリュシーは、『別離』における家政婦ラジエーに相当する役割を果たしているのかもしれません。

 本作は、『別離』が創りだした状況を、フランスを舞台にして描き直しているのでは、と見ることができるのかもしれません。

(3)なお、本作のスタッフ・キャストを見ると、フランス映画といいながらも、実に様々な国籍が入り乱れているので驚きます。
 まず、監督・脚本のアスガー・ファルハディと撮影監督のマームード・カラリは、イラン出身。
 主演のベレニス・ベジョは、アルゼンチン出身(3歳でフランスへ移住)。
 サミール役のタハール・ラヒムはフランス生まれながら、両親はアルジェリア移民。
 アーマド役のアリ・モッサファはイラン出身。
 リュシー役のポリーヌ・ビュルレはベルギー出身。
 サミールの店の従業員・ナイマ役のサブリナ・ウアザニはフランス生まれながら、両親はアルジェリア人。

 その上で、マリー=アンヌの家には、以前の夫との間で作った娘(リュシーとレア)や2人とサミールの子供フアッドまでもが暮らしているのです。
 リュシーは、「(今度結婚したら)私が生まれてから、ママの夫は3人目」と嘆きます(リュシーとレアの父親はブリュッセルに住んでいるとのこと)。
 そんな複雑な環境の中に、4年の時をおいてアーマドが飛び込むのですから、何かが起きないわけはありません!

(4)渡まち子氏は、「過去と現在、未来までもがからみあう元夫婦とその家族のサスペンスドラマ「ある過去の行方」。アスガー・ファルハディ監督が人間をみつめる視点はいつもながら鋭い」として75点をつけています。
 中条省平氏は、「荒唐無稽なアクションや凝った映像美学などとは全く無縁の、人間の日常を見すえる徹底したリアリズムのまなざしに、かえって今の時代の酷薄な空気を捉える新鮮味が感じられる」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「優れたサスペンスドラマには違いない。だが、ファルハディ監督の「語り」がより徹底され、心に突き刺さるような力に転じる瞬間が見たい」と述べています。



(注1)ベレニス・ベジョは、最近では、『タイピスト!』で見ました(主人公のローズにピアノを教えます)。
 なお、彼女は本作で、昨年のカンヌ国際映画祭において主演女優賞を受賞しています。



(注2)アーマド(Ahmad)というと、本作のファルハディ監督が制作した『彼女が消えた浜辺』にも同じ名前の人物が登場します。

(注3)リュシーは、サミールが出入りする家に居たくないらしく、夜遅くまで家に戻らないようなのです。

(注4)ただ、マリー=アンヌは、空港からの車の中で、アーマドに対して「まだタバコを吸っているの?」と聞いたり(彼は、「歳だから止めた」と答えますが)、娘のリュシーがアーマドに対し、「ママがあの男(サミール)を好きなのは、あなたに似ているから」と言ったりするように、マリー=アンヌはまだアーマドに未練があるのではないでしょうか(サミールもアーマドに対して、「4年も経つのに二人で喧嘩をするなんて、まだ終わっていない」と言います)?

(注5)上記「注4」で申し上げた点はあるものの、他方で彼女は、わざわざアーマドをイランから呼び寄せたり、サミールやその子どもと一緒に暮らしたり(サミールの車が家の前に置いてあります:ただ、サミールがこの家に戻るときには事前に電話があるようです)、すでに妊娠もしています。
 さらには、アーマドが「リュシーは結婚させたくないようだ。結婚する前に、リュシーを説得しなければいけない」と言うと、彼女は「もう決めたの」と答えますし、また、アーマドと暮らしていた時に置いてあった戸棚を仕舞ってしまったり、壁の塗替えをしたりもしています(ただ、「手首を傷めたために中断している」と彼女は言うのですが、壁塗りで手首を痛めることなどあるのでしょうか)。
 こんなことから、マリー=アンヌは、早い時期の結婚を望んでいるようです。

(注6)むろん、不可能ではないにしても(例えば、この記事を参照)、総じてかなり難しそうです。
 フランスの婚姻制度は日本とかなり違うようですから、あるいは可能なのでしょうか?それとも、サミールの妻は近いうちに亡くなってしまうとマリー=アンヌは予想しているのでしょうか?

(注7)『別離』におけるサスペンス的要素は、家政婦ラジエーは本当にナデルが突き飛ばしたことによって流産したのだろうかという点ですが、本作におけるサスペンスは、サミールの妻が自殺した真の原因は何か、という点を巡るものです。
 ただ、『彼女が消えた浜辺』でもそうですが、ファルハディ監督の作品におけるサスペンス的な側面は、物語に観客を引き込む要素に過ぎず、いずれの作品においてもそのはっきりとした解決は目指されていないように思われます。

(注8)『別離』のテルメーは、両親が離婚してほしくないと思っているようですし、本作のリュシーも、マリー=アンヌが再婚しようとしているサミールを毛嫌いし、前の夫のアーマドに心を開きます。



★★★☆☆☆



象のロケット:ある過去の行方
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そこのみにて光輝く

2014年05月09日 | 邦画(14年)
 『そこのみにて光輝く』をテアトル新宿で見ました。

(1)以前、この映画の原作者・佐藤泰志氏が書いた『海炭市叙景』の映画化作品を見てよかったこともあり、また監督が『オカンの嫁入り』の呉美保氏ということで、映画館に行ってみました。

 舞台は、『海炭市叙景』と同じように明示されませんが、函館市でしょう。
 映画の冒頭は、主人公の達夫綾野剛)が、畳の上にブリーフ一つで寝ているシーン。ですが、採石現場の悪夢にうなされて目を覚ましてしまいます。
 次いで、達夫は、郵便受けに投函されていた妹からの手紙を読みます(注1)。
 さらに場面は代わって、パチンコ屋。後ろ側の席にいた拓児菅田将暉)に「火貸して」と言われると、達夫は自分のライターを投げ与えます。
 すると、拓児は「飯を食わせる」と言って達夫を自分の家に連れて行きますが、途中で、拓児が「お前、仕事は?」と尋ねると、達夫は「別に、何も」と答えます。
 そして、到着した拓児の家はというと、海岸縁にある今にも壊れそうなおんぼろの一軒家。
 その家には、脳梗塞で寝たきりの父親・泰治田村泰二郎)や、その介護にあたっている母親・かずこ伊佐山ひろ子)、さらには拓児の姉・千夏池脇千鶴)がいます。
 達夫は、姉の千夏が作ったチャーハンをご馳走になるものの、隣の部屋では、泰治がうめきながら母親の名前を呼び続けたりしているのです。
 その時は、千夏と達夫との間で簡単な会話(注2)があっただけですが、しばらくしたある夜、達夫が泥酔してスナックに入ると、その奥で売春をしている千夏と偶然に遭遇。
 そんなこんなで達夫と千夏は関係を持つようになります。



 でも、達夫には悪夢が何度となく蘇ってきますし、正体不明の松本火野正平)が顔を見せ、「皆が会いたがっているぞ」などと言ったりします。また、千夏にも、うまく関係を断てない中島高橋和也)がいます。
 さあ、達夫と千夏、それに拓児の3人はどうなっていくのでしょうか、………?

 本作では、達夫と千夏、それに拓児の3人が、新しい関係を築こうとしても、それぞれが持っていたそれまでの関係が様々に絡んできて巧く達成できない様子(それでも、何かしら光明が見いだせないわけでもありませんが)が、酷く貧しい暮らしを背景にしてこれでもかという具合に描かれていて、久しぶりに優れた文芸物を見た気分になりました。

 主演の綾野剛は、一皮むけた入魂の演技をしているように思えます。



 また、共演の池脇千鶴も体当たりで充実した演技を見せてくれます。



 さらに、菅田将暉はトリックスター的な役柄を巧くこなしています(注3)。



(2)評論家の阿部嘉昭氏は、そのブログ「ENGINE EYE」で本作を取り上げていますが、その記事(2月11日)の中で「呉美保監督、高田亮脚本の映画は英断をおこなう。まず事後編を映画化対象から切断した」と述べているところ、実際に原作(河出文庫版)を読んでみると、阿部氏が「事後編」(注4)とされる「第二部 滴る陽のしずくにも」は、「出会い編」とされる「第一部 そこのみにて光輝く」とうまく融合されて本作の中に取り込まれています。

 例えば、本作に登場する松本(火野正平)は、原作の第一部ではなく第二部に登場して、達夫を東北の山に誘います(注5)。
 また、拓児が傷害事件を起こすのは、本作のように中島(高橋和也)に対してではなく、達夫と千夏の間に出来た子供のことを揶揄した街のチンピラに対してです(注6)。
 さらには、本作では、千夏がイカの塩辛の加工工場にパートで働いていますが、原作では、「第二部」において達夫が冷凍イカを扱う工場で働いています(P.122)。

 本作では、そうした「第二部」の要素が「第一部」の中に取り込まれることによって、登場人物がより一層息づいているように思いました(これは、脚本家の高田亮氏の手柄でしょう)。
 特に、達夫の元の職場を、原作のように造船所とするのではなく鉱山とし、そこで起きた事故がトラウマになって悪夢にうなされるという改変は、達夫が毎日酒を飲んでぶらぶらしている生活を送っていることにつき、より説得力を増していると思います。

 ただ、そういう改変を加えていくと、本作が描かれている時点がかなりぼやかされてしまうことにもなります。
 というのも、原作の達夫は、賃金カットや人員整理をする会社(「町一番の造船所」)を退職しますが、原作には「会社の組合は長期のストライキに突入した」と書かれているのです(P.34)。それが「函館どっく」の昭和34年(1959年)の争議を指しているのだとしたら、原作の時代設定は1960年代あたりなのではないでしょうか(注7)?

 他方、本作については、設定されている時点が明示されていないばかりか、今の風景がそのまま映し出されていることから、現在時点に立って制作されているのかなと思える半面、今どき、本作で描かれる拓児の家(注8)の余りの貧しさなどありうるのかな、どうも周りの風景に溶け込んでいないな、とも思えてきます。

 この点は、阿部嘉昭氏が、「無時間性の積極的な醸成によって、観客の平板な時間意識をゆるがすことが映画『そこのみにて光輝く』の主眼といってもいい」と述べている点に、あるいは通じるのかもしれません。
 要すれば、本作を見ると、「いったいこの映画は「いつ」をえがいているのか」という疑問が湧いてくるものの、「いまはない場所が「いまある」と映画で知覚されること」によって、「観客の眼の憂鬱を高度につくりあげる」ことになるのでしょう。

 なお、つまらない点ですが、映画の冒頭と末尾に、妹からの手紙が読み上げられますが、本作の場合この妹は、映画で描かれる中心的な物語には何ら関係しませんので、一体何のためにこのような構成にしたのかという感じになります(注9)。

(3)村山匡一郎氏は、「脚本・演出・撮影・演技が巧みに溶け合うことで物語世界を膨らませているのに驚かされる。脚本は2人の抱える心の苦しみや悩みを巧く展開して収斂させ、演出は心理を絵解きすることなく映像で提示することを志し秀逸である」などと述べて、★5つ(「今年有数の傑作」)を与えています。
 暉峻創三氏は、「呉美保監督にとっても、主演陣にとっても、キャリアを画す一作となった」と述べています。



(注1)妹の声で手紙の内容が読み上げられますが、それによれば、「自分が両親の遺骨を預かっているが、函館の街を見下ろせる墓地に葬りたい」とのこと。

(注2)千夏が達夫に話したところによれば、父親の泰治は脳梗塞ながら性欲が亢進してしまっているようで(「性欲を抑制する薬を使うと、脳がダメになってしまう(ために使えない)」)、その対応で母親・かずこらが悲惨な目に遭っているとのこと。

(注3)最近では、綾野剛は『白ゆき姫殺人事件』で見たばかりですし、池脇千鶴も『凶悪』や『はさみ』(同作には、今回の共演者の綾野剛も少しですが出演しています)で、菅田将暉は『共喰い』で、それぞれ見ています。

(注4)原作の「第二部」は、達夫と千夏の結婚後のこと(「「家庭の継続」に辛苦する「事後」」)が書かれているので、まさに「事後編」と呼べるでしょう。ただ、これから達夫が松本と山に入るところで終わっていることからすれば(さらに、本作を踏まえれば)、むしろ「展開編」ともいえ、山で事故に遭ってまた町に立ち戻ってくる「第三部」(書かれませんでしたが)こそが「事後編」というべきかもしれません(そしてまた、新たな“出会い”が始まってというように「第一部」に回帰するのかもしれません!)。

(注5)原作では、まず拓児が松本と出会い、次いで松本が所有する車を達夫に売ることで二人は出会うことになります〔松本は、父親が遺した鉱山の採掘権を持っている山師で(P.117)、発破によって片眼を失っています〕。

(注6)どちらでも同じように拓児は警察に自首します。

(注7)原作のP.119においても、松本が、達夫が造船所を辞めたことについて、「あんたはドックをやめたそうだね」、「例の有名な長期ストライキをうった時か」と尋ねると、達夫は「そうだ」と答えています。
 ただ、阿部嘉昭氏は、本作を取り上げたブログの記事において、「『そこのみにて光輝く』は「文藝」八五年一月号が初出だが、初出時期のひかりではなく、七〇年代のひかりを包含している」と述べています。
 また、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「七〇年代の記憶、ニューシネマの記憶」で、高橋俊夫氏は、佐藤泰志の「作品世界には同時代(七〇年代)の映画のイメージや残滓が刻印されている」などと述べています。
 原作の設定が1960年代にせよ1970年代にせよ、現在よりもおよそ50年ほど前であることは間違いないのではと思います。

(注8)劇場用パンフレット掲載の「プロダクション・ノート」によれば、函館市に隣接する「北斗市七重浜」の物置を使用したとのこと。

(注9)妹は、原作者・佐藤泰志にとって酷く大切な存在なのでしょう。
 なお、この妹は、『海炭市叙景』に登場する「戻らない兄を待ち続ける妹」(谷村美月が演じました)に通じると思います。



★★★★☆☆

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レイルウェイ 運命の旅路

2014年05月07日 | 洋画(14年)
 『レイルウェイ 運命の旅路』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)真田広之が出演する洋画というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)は、第二次世界大戦中に建設されたタイとミャンマーとを結ぶ「泰麺鉄道」を巡る実話に基づいた作品です。

 時代は1983年。
 主人公は初老で鉄道愛好家のローマクスコリン・ファース)。
 列車で相席となった美貌の女性パトリシアニコール・キッドマン)に一目惚れし(注2)、とうとう結婚に至ります。



 でも、ローマクスには、パトリシアに打ち明けていない心の闇があり、夜になると酷くうなされたりします(注3)。
 パトリシアはこんな夫の姿を見て、夫の戦友・フィンレイステラン・スカースガード)の元を訪れて真相を聞き出そうとしますが、十分に答えてはくれません(注4)。
 そんなとき、当のフィンレイがローマクスのところにやってきて、新聞記事を見せます。



 先の戦争でローマクスやフィンレイは、通信を担当する英軍将校としてシンガポールにおり、シンガポールが陥落(1942年)した際には日本軍の捕虜になりましたが、その記事によれば、捕虜収容所で遭遇した日本人通訳の永瀬(注5:映画の現在時点では真田広之)が生存していて、タイにいるというのです。



 その事を知って、ローマクスは酷く動揺します(注6)。
 さあ、ローマクスはどのように対応するでしょうか、ローマクスの心の闇とは何なのでしょうか、ローマクスと永瀬との関係はどんなものだったのでしょうか、またパトリシアは………?

 本作は、戦勝国の立場に立って、泰緬鉄道建設の過酷な状況とか日本軍の捕虜収容所の悲惨な有り様ばかりが描かれるのではと危惧していたものの、確かにそうしたシーンはあるとはいえ、映画全体が憎しみを超えて赦し(注7)へというテーマに従って制作されているためか(注8)、後味は悪くありませんでした。でも、逆に言えば、実話に基づくとはいえ、映画は美談に上手くまとめられてしまっているのでは、という感じがしないでもありませんでした。

 コリン・ファースやニコール・キッドマンらの俳優陣はそれぞれの役柄を巧みにこなしているところ、その中にあって真田広之も風格のある演技を披露していて少しも引けを取りません(注9)。

(2)本作からは、『戦場にかける橋』(1957年)と『ビルマの竪琴』(注10)と類似する点があるような印象を受けます。そして本作は、新しい視点に立ちながら、この2つの映画を合わせて一つの作品としたように見えるのではと思いました。

 いうまでもなく、前者の『戦場にかける橋』は、フィクションながら、専ら泰緬鉄道建設(特に「クウェー川鉄橋」の建設)を描いています。
 本作でも、やはり、レールを敷設すべく岩山を切り開く作業に従事する沢山の捕虜の姿が描かれています。
 ただ、『戦場にかける橋』が、鉄橋の建設工事とその爆破工作を中心的に描いているのに対して、本作の主人公・ローマクス(戦時中はジェレミー・アーヴァインが演じています)は、英軍内で信号技師であったために、捕虜になってからも建設機械の保守の方に従事していて、厳しい肉体労働は課せられていないのです。それで、鉄道建設自体は、本作ではそれほど明示的に描かれておりません。

 それに代わって本作ではむしろ、捕虜収容所内におけるローマクスの過酷な体験が描かれます。
 というのも、ローマクスと仲間は、隠し持ってきた部品を集めて受信機(ラジオ)を作って、連合国側のラジオニュースを密かに聞いて、最新の戦況を知るのです(注11)。
 しかしながら、そのラジオの存在を日本軍側に知られてしまい、ローマクスは自分が作ったと名乗り出ます(注12)。
 それでローマクスは、憲兵による激しい拷問を受けるハメになり(注13)、その際に通訳の永瀬(戦時中は石田淡朗が演じています)と遭遇するのです。

 その永瀬が、戦後に生き永らえてタイにいるわけですが、なぜかというと、永瀬は、戦後、泰緬鉄道の建設のために実にたくさんの犠牲者が出たことを知り(注14)、そうした犠牲者の鎮魂のために何回もその地(捕虜収容所が設けられていたカンチャナブリー)を訪れているのです(注15)。
 この点で、映画における永瀬の行動は、『ビルマの竪琴』における水島上等兵とかなり類似するといえるでしょう。

 尤も、水島上等兵はビルマの地にとどまって日本に帰還しなかったのに対し、永瀬は一度日本に帰還して、日本を拠点にしてこの地を訪れているのです。

 それに、水島上等兵の場合は、苛烈なビルマ戦線で没した日本兵の慰霊が目的でしょうが、永瀬の場合は、むしろ泰緬鉄道建設で命を落としたイギリス兵などの鎮魂といえるでしょう(注16)。
 ただ永瀬について、泰緬鉄道建設で犠牲となったイギリス兵らの慰霊という点を強調するのであれば、映画は、夥しい犠牲者を出した鉄道建設自体の方にもう少し焦点を当てる必要があるのではという気がしました(注17)。

 それはともかく、そんな永瀬をタイまで行って見つけ出したローマクスが永瀬に対してとる行動が、本作のクライマックスといえるでしょう。

(3)渡まち子氏は、「第二次世界大戦を背景に英国人将校の壮絶な体験と献身的な妻の愛をつづるヒューマン・ドラマ「レイルウェイ 運命の旅路」。後日談を映像化せず淡々と語ったのはクレバーな演出だった」として65点をつけています。



(注1)原題は「The Railway Man」です。
 なお、エリック・ローマクス氏による同タイトルの原作が(そして翻訳が角川文庫版で)あります(未読です)。
 ちなみに、本年1月に劉暁明駐英大使と林景一駐英大使とが英紙「デイリー・テレグラフ」上で、安部総理の靖国神社参拝を巡って論争した際に、劉大使が本作に言及し(「It tells the tragic story of a British PoW tortured by the Japanese in the Second World War. The film is not only about the atrocities committed by his Japanese captors, but also how one of them is harrowed by his own past」)、林大使の反論においても、本作の原作に対する言及が見られます(「As in the case of the Japan-UK relationship, exemplified in the meeting between Eric Lomax and Takashi Nagase described in the book The Railway Man, the only way to heal the wounds of the past is through the pursuit of reconciliation. But, critically, it takes two for this to be achieved」)。
 ただ、本作(あるいはその原作)を巡る両者の議論は、それぞれ盾の半面だけを捉えていて全体を見ていないのではないかという気がします(何より、実話に基づいているとはいえ、本作がフィクションの作品であることを踏まえる必要があると思います)。

(注2)ローマクスは、パトリシアとの話の中で、「ハイランド地方の西海岸が美しい」とか「ランカスターは絞首刑の街だ」などと言って薀蓄を披露しますが、ちらっと「『逢びき』はカーンフォース駅で撮影された」とも喋ります(同映画の中では「ミルフォード駅」とされているものの、実際は空襲を避けるためにランカシャー州のカーンフォース駅で撮影されました)。『戦場にかける橋』を制作したのは、『逢びき』(1945年)のデヴィッド・リーン監督ですし、またその映画と同じように、ローマクスとパトリシアは愛し合うようになるのです!

(注3)本作の冒頭では、いきなりその場面が映し出されます。
 なお、この他ローマクスは、パトリシアが彼の部屋の模様替えをすると、二度と触らないでくれと言って元に戻してしまいますし、支払いの請求に来た者をナイフで脅かすなどといった奇矯な振る舞いをします。

(注4)戦地での過酷な体験を部外者に話しても通じないので、戦友たちは「沈黙の掟」を守っているとのこと。さらに、フィンレイは、「余りにも辛い経験だったから、そのことを愛する人には言えないのだ」と語ります。

(注5)映画における「永瀬」のモデルは、実在した永瀬隆
 なお、驚いたことに、『エンド・オブ・オール・ウォーズ』(2001年:未見)にも永瀬隆をモデルとするナガセ・タカシが登場するようです。
 また、同氏には、『「戦場にかける橋」のウソと真実』 (岩波ブックレットNo.69、1986.8.)などの著書があるようですが未読です。

(注6)フィンレイは、ローマクスが永瀬に対して復讐することを期待しますが(「我々は生きて復讐すると誓った」と言ったり、ある行動をとってローマクスの背中を押したりします)、ローマクスは躊躇します(「1年前なら、やつを追い詰め、許しを請わせ、悲鳴を挙げさせただろう。だが今は夫だ。彼女は私の全てだ。もう我々は兵士ではないのだ」)。

(注7)この視点は、最近見た『あなたを抱きしめる日まで』において、主人公のフィロミナが、理不尽な振る舞いをした修道院の尼僧に対して「赦す」と言ったシーンにも見いだされるのかもしれません(尤も、ローマクスは、永瀬の戦後の行動をよく理解し感動したがためにそう言ったのであって、フィロミナが尼僧より高い境地に到達してそう言った様に見えるのとは異なっているのかもしれません)。

(注8)むろん、それは本作から読み取れる様々なテーマの一つに過ぎず、フィクションとしての本作は、むしろローマクスとパトリシアの深い愛の物語とも見ることができるのではと思いました。
 特に、パトリシアは、フィンレイに「私は20年間看護婦をしていた。だから、原因がわかれば対処できる」と言って、ローマクスに関することを打ち明けてほしいと懇願しますし、フィンレイが「ローマクスがどうしようとするか見守ってほしい」と言うと、彼女は「彼が何をしようとずっとそばにいる。今より悪いことなどなにもないから」と応じ、現に、ローマクスがタイから戻ると、彼女は静かに彼を迎えます。

 なんだか、これも最近見た『ワンチャンス』におけるポールとジュルジュとの関係に雰囲気が似ているような気がしたところです(折角、パトリシアをニコール・キッドマンが演じているのですから、もうすこし役割を増やしてみたらどうかな、と思いました)。

(注9)最近では、主演のコリン・ファースは『英国王のスピーチ』、ニコール・キッドマンは『ペーパーボーイ』、真田広之は『最終目的地』、ジェレミー・アーヴァインは『戦火の馬』、ステラン・スカースガードは『メランコリア』で、それぞれ見ています。

(注10)『ビルマの竪琴』は、新潮文庫版の原作を読んだことがありますし、1985年版の映画(中井貴一主演)も見たことがあります。

(注11)ローマクスは、「北アフリカでドイツを打ち破った」とか「スターリングラードでヒトラーが敗れた」などと、ラジオで知った最新の情報を鉄道建設工事に従事する英軍将校に耳打ちして、彼らの士気の衰えを防ごうとします。

(注12)実は、最初にフィンレイが日本軍の兵士に殴られるのですが、余りに酷い暴力を見て、ローマクスは、自分が作ったと名乗り出たのです。

(注13)日本の憲兵の方では、ローマクスらが作った機械は単なる受信機ではなく送信もできるのだろう、そして日本軍の情報を抗日運動家グループや中国の黒幕に流していたのだろう、として激しくローマクスを尋問します。

(注14)戦後、永瀬は犠牲者の遺体の捜索と埋葬に従事したのですが、「あれほど沢山の人が死んだとは想像もつかなかった」とローマクスに言います。

(注15)戦後、永瀬がローマクスとカンチャナブリーで出会ったのは、映画によれば57回目の巡礼の旅の時でした。

(注16)とはいえ、永瀬がカンチャナブリーで拠点にしているのは、日本軍の捕虜収容所を転用した戦争博物館ですが、本作を見ると、そこには日本軍が使用した拷問用具などが陳列されているだけでなく、壁に日本軍兵士の写真が何枚も展示されています。これは、おそらく収容所の幹部らであり、戦後B級戦犯として処刑された人たちではないかと推測されます。仮にそうであれば、永瀬は、そうした人たちの慰霊の意味を込めて、この地に何度も巡礼の旅を行っているのではとも考えられるところです。

(注17)映画で永瀬は、日本人観光客相手に仏像の説明をしたりしていますから、実際のところカンチャナブリーで永瀬は何をしているのかなという思いに囚われてもしまいます。



★★★☆☆☆



象のロケット:レイルウェイ 運命の旅路
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さよならケーキとふしぎなランプ

2014年05月05日 | 邦画(14年)
 『さよならケーキとふしぎなランプ』を吉祥寺のバウスシアターで見ました。

(1)5月末で閉館になるバウスシアターで2週間だけ上映される吉祥寺関係の映画(注1)だということで、覗いてみました。

 本作の冒頭は、地方のケーキ店。
 パティシエ見習いのアキ平田薫)は、「新作、今日から店に出すんだから」とケーキ作りに余念がありません。



 それに対し、父親(梅垣義明)は、「あまり調子に乗るなよな。こっちを手伝え」と怒ります。
 さらには、アキがつけた値段に対し、父親が「お前ごときが付ける値段じゃない。値段を下げないならウインドウに置かせない」と文句をいうと、アキは「置かせてくれないなら、家を出て行く」と言って飛び出してしまいます。
 アキが降り立ったのが吉祥寺駅。
 近くの友達の家に転がり込もうとしたところ、あいにく同棲していて断られてしまいます。
 ハーモニカ横丁で酔いつぶれた挙句、「アルバイト募集」の張り紙を頼りにカフェ「パーラム」にたどり着きます。
 でも、そのカフェは、店主・此野岸堂島孝平)が自作のケーキを作って店に置いたりしているものの、どうも客の入りが良くなく、此野岸は店を畳むつもりでいるようです。



 そこでアキは、自分でケーキを作り、さらに店の外で通行人に試食をしてもらい、「ぜひお店においでください」とPR活動をします。
 すると、来店客が増加し、作ったケーキも完売します。

 実は、このカフェには不思議なランプが置かれています。
 店主の此野岸が、駅前にあるハーモニカ横丁で偶然に手に入れたもので(注2)、夜、ランプのロウソクの火が灯っている間だけ、亡くなった人がカフェに現れるのです。
 第一には、急性インフルエンザで亡くなった此野岸の長男・
 次いで、結婚式の前に交通事故で婚約者を亡くした草本
 さらには、苺と大福を一緒に食べて喉を詰まらせて亡くなった野口さんの旦那さん(ヨネスケ)。
 ランプのロウソクは次第に融けて残り少なくなっています。
 生きている人と死んでしまった人との関係、そしてこのカフェはどうなるのでしょうか、………?

(2)本作は、「ムサシノ吉祥寺で映画を撮ろう!」というプロジェクト(注3)の第4弾ですから、おなじ吉祥寺を舞台にした傑作『吉祥寺の朝比奈くん』とまではいわずとも、少なくとも第3弾の前作『あんてるさんの花』と比べたくなってしまいます。

 そうすると、映画の構造が実によく似ていることがわかります。
 例えば、本作の舞台は喫茶店で、前作の場合が居酒屋と異なっているものの、どちらの店も閑古鳥が鳴いていて、近いうちの閉店が予定されています。
 また、主人公はどちらもそれぞれの店の主人ですが、物語を引っ張っていくのはどちらも女性(本作の場合、パティシエ見習いのアキであり、前作の場合は主人公の妻の奈美恵)です。
 さらに、その店に来るお客の何人か(前作では3人、本作では4人)が話に絡まってくるというのも似ています。

 なかでも一番類似しているのは、そのファンタジー性でしょう。
 そのための道具立てが、前作の場合は「忘れろ草」(別名が「アンデルセンの花」)であり、本作の場合ランプです(どちらも、ハーモニカ横丁で入手)(注4)。
 なにしろ、「忘れろ草」の花びらに触れると「その人しか見えない幻が見え、なおかつそれを真実と思ってしまう」のであり、本作のランプの場合はロウソクの火が灯っている間に亡くなっている人が現れるというのですから、道具自体は異なっているとはいえ、ほぼ同じ機能を果たしているといえるでしょう。
 そして、そうした道具を使って登場させるのはどちらの作品でも、登場人物が是非会いたいと願っている人なのです(注5)。

 本作のプロデューサーの松江勇武氏(注6)によれば、「言ってみれば武蔵野ファンタジー第2弾と言った位置づけ」だそうです(注7)。ですが、いったい、ここまで類似した構造を持つ作品を、2年という僅かな間隔をおいて新たに制作する意味がどこにあるのでしょう(注8)?

 とはいえ、吉祥寺という街には「ファンタジー」が大層似つかわしいとするのは分からないでもありません。狭い範囲に、実に様々な舞台装置が盛り沢山に置かれていて(注9)、何度行っても夢見た心地になってしまう街なのですから。

 また、松江プロデューサーによれば、「観光PRビデオにならない作品作りを心がけ」たとのことで、その点は前作同様に評価しなくてはならないと思いますし(注10)、「地域から世界に向けて発信していきたい」(注11)という気宇壮大な意気込みも買うべきでしょう!

 さらには、本作の主人公・此野岸が、元妻と一緒に長男の墓参りをした後に別れる場所(注12)が玉川上水緑道の「長兵衛橋」であり、そこは散歩でクマネズミがしばしば通るところという点でも、この作品を評価しなくてはと思いました(注13)。



(注1)本作の監督の金井純一氏については、不思議なことに劇場用パンフレットに何も記載されていないので、少し調べてみたところ、このサイトの記事によれば、「1983年埼玉県出身。大学在学中より、ドキュメンタリー作品を初め、映像作品を製作。2012年に製作した短編映画『転校生』が、札幌国際短編映画祭で 「最優秀監督賞」「最優秀国内作品賞」、また釜山国際映画祭短編コンペティションにて「特別賞」を受賞」し、「『ゆるせない、逢いたい』(2013年)が商業デビュー作となる」とのこと〔なお、このサイトの記事によれば長編作『モーメント』(2013年)もあるようです〕。

(注2)カフェ店主の此野岸は、「不思議な女性に声をかけられ、何を言っているのか全然わからないままに、無理やりランプを買わされた」と話します。

(注3)このサイトの記事によれば、「東京都武蔵野市の吉祥寺地区周辺で、地元企業と団体、個人が100%出資し、撮影から劇場公開までを行う映画企画」。
 なお、このサイトの記事もご覧ください。

(注4)前作の「忘れろ草」の場合は、経緯等につき、映画の中で一応の説明がありますが、本作のランプについては上記「注2」の話だけです。

(注5)本作にカフェの常連客として登場する浮島三郎の場合、なぜその娘が最後まで現れなかったのか何の説明もありません(夜毎に喫茶店にやってくるからには、亡くなった娘に会いたがっているのでしょうが)。

(注6)上記「注3」で取り上げたこの記事では、松江プロデューサーが「異色プロデューサー」として大きく紹介されています。

(注7)このサイトの記事によります。

(注8)特に、前作の場合、様々な問題点がありながらも、主人公の妻の奈美恵自体が幻だったという工夫を凝らしていて、単なる地域映画の域を抜けているのではと思いましたが、本作の場合はそうした工夫が見当たりません(あるいは、アキの父親がカフェ「パーラム」に現れるのが前作の工夫に相当するのかもしれませんが、意外性がないのです)。

(注9)なにしろ、駅の北側には、先端のIT機器が並ぶヨドバシカメラがあると思えば、南側の井の頭公園には、小さいながらも動物園まで設けられているのですから!

(注10)ご当地物の定番は祭とかフェスティバルでしょうが、前作でも本作でもそういったものは登場しませんし、また吉祥寺のランドマークの一つといえるサンロード商店街もはっきりとは映し出されません。さらに、前作同様、ハーモニカ横丁が映し出されますが、ほんのわずかですし、その他の撮影場所も、吉祥寺近辺に住む人でないとなかなか判別がつかないのではないでしょうか?

(注11)上記「注7」で取り上げた記事には、「第一歩としてミャンマーでの配給を成功させ、日本映画の新たな海外展開ルートを開拓します」と記載されています。

(注12)元妻は、「私、再婚するかもしれない」と此野岸に言います。

(注13)とはいえ、本作の古めかしい箇所には疑問を覚えます。
 例えば、カフェ「パーラム」で行われた結婚披露パーティーで、草本とその婚約者がキスをするときに、浮島三郎が聡の目を塞ぎますが、今時のませている子供に対してそんなことをする大人がいるでしょうか(また、そのパーティーの司会を浮島三郎が担当しますが、上がりまくっている様も、一昔前の光景のような気がします)?



★★★☆☆☆



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