映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

沈黙

2017年01月31日 | 洋画(17年)
 『沈黙-サイレンス-』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)予告編を見て映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、暗闇の中でしばらく虫の声がします(注2)。
 その後タイトルが流れて、熱湯が地下から湧き出ているところ(雲仙地獄)のそばで、キリシタンに対する拷問が行われている光景が映し出されます。
 時代は1633年。
 侍姿の役人が「どうしてゼウスが助けにこないんだ?」と言ったり、「始めろ」と部下に命じて、キリシタンに熱湯を柄杓で浴びせかけたりします。

 その光景を無理やり見せられている神父のフェレイラ(注3:リーアム・ニーソン)が語ります。



 「我々の布教は迫害の中で潰えてしまった」、「柄杓に穴を開けて、熱湯が少しずつ流れるようにして、苦痛を長引かせる」、「信者たちは棄教を拒み、むしろ拷問を受けることを求めた」、「彼らの勇気は、潜伏する神父に希望を与えた」。

 次いで、1640年のマカオ。
 フェレイラ神父からの手紙を読むヴァリニャーノ神父(キアラン・ハインズ)。「フェレイラの消息は不明だ。これが最後の手紙だ」と言います。
 ロドリゴ神父(注4:アンドリュー・ガーフィールド)が「不明とは?」と尋ねると、ヴァリニャーノ神父は「この手紙は、何年もかかってようやくここに届いた」と答え、さらにロドリゴ神父が「彼は生きているのでは?」と問うと、ヴァリニャーノ神父は「彼は棄教したそうだ」と言います。
 それを聞いたもう一人の神父のガルペアダム・ドライヴァー)は「ありえません」と言い、ロドリゴ神父も「師は誰よりも強い方です」と言います。
 さらに、ヴァリニャーノ神父が「棄教したのは事実だと判断している」と言うと、ガルペ神父は「我々を欺くための嘘かもしれません」と付け加え、ロドリゴ神父は「フェレイラ神父を探しに行かなくてはならない」と呟きます。
 これに対して、ヴァリニャーノ神父が「そんなことは許可できない」と答えると、ロドリゴ神父は「手紙は恐ろしいことしか書かれていない。フェレイラ神父の身がどうなっているのかはわからない」、「彼の魂を救出する以外の選択肢はありえない」と許可を求めます。
 ついに、ヴァリニャーノ神父は「君たちが日本に入る最後の神父だ」と言って、認めます。

 こうして、ロドリゴ神父とガルペ神父は日本に向かいますが、彼らの運命はどうなるのでしょう、………?

 本作は、遠藤周作の原作をハリウッドの著名監督が映画化したものながら、江戸時代初期の日本の有様を、日本人が見ても余り違和感なしに見ることができる作品ではないかと思いました。ただ、キリスト教布教のために日本にやってきたイエズス会神父を主人公として、信仰とは何か、神とは何か、などといったことを追求しているために、クマネズミのような無宗教の人間が見た場合に、本作をどう受け止めたら良いのか、なぜ今こうした映画が制作されるのか、など疑問に思えるところが出てきます。それにしても、出演する日本の俳優は実によく演っているなと感心しました。

(2)本作の公式サイトの「プロダクションノート」の「ロケハン」で、スコセッシ監督が「台湾は、(舞台となる長崎に)地形的に似ていたし、天候も似ていました。山や海のそばの景色は我々が求めていたものでした」と述べているとあるように、本作は、日本ではなく、台湾におけるロケで制作されたものです。
 にもかかわらず、映画の雰囲気は、まさに江戸初期の日本を思わせるものが作り出されているように感じました。
 さらに、本作に登場する浅野忠信以下の日本人俳優の演技が、それぞれ登場人物の役柄にピッタリとはまり込んでいるので、まるで邦画を見ているような感じとなり、見ていて違和感を覚えませんでした。
 特に、キチジロー役の窪塚洋介井上筑後守に扮したイッセー尾形の説得力ある演技はすごいなと思いました。
 総じて言えば、2時間半を超える長尺ながら、最後まで引き込まれてしまいました。

 ただ、クマネズミは特定の宗派に属していないいわゆる無宗教派ですので、本作のあれこれについてよくわからない感じがつきまとってきてしまいます。
 例えば、
イ)「踏み絵」ですが、どうしてこれがキリシタンであるかどうか選別するための道具になるのか、実際のところよくわからない感じがします。
 よくは知りませんが、江戸時代の日本以外の国や地域でこうしたことが行われたとは思われません。どうして当時の日本の信徒たちだけが、真のキリシタンなら踏み絵を踏んではならないなどと考えたのでしょうか(注5)?
 本作でも、キチジローの家族は、どうしても踏み絵を踏まなかったためにキリシタンだと判定されて、火あぶりの刑などを課せられたりします(注6)。
 でも、こんな外形的なことにどうして信徒たちは酷く拘ったのでしょうか?
 本作からすると、キリシタンを取り締まった役人たちの方も、踏み絵自体にそれほど重きをおいてはいないような気もしますが、どうなのでしょう(注7)?

ロ)キリシタン弾圧のトップだった井上筑後守(注8)は、大変狡猾な人間として描かれ、キリシタンを一人一人捕まえることよりも、むしろ外国からやってきて潜伏している神父を捕まえて、皆の前で転向させること(「転びバテレン」)を重視します(注9)。



 そして、井上は、フェレイラ神父やロドリゴ神父を転向させますが、ロドリゴ神父に対し、「キリスト教は「石女」であり、子を産めず、妻になれん」、「醜女の深情ほど嫌なものはない」、「沼地には何も育たない」、「お前が持ち込んだものは、日本で得体のしれぬものに変わった」、「お前は私に負けたのではない。日本という沼地に負けたのだ」などと言います。
 ただ、日本の状況が井上の言うとおりであるとすれば、特段に危険視して厳しい弾圧などせずとも放っておけば、キリスト教は自ずと実害のないものになっていったのではないかと思われますが、どうなのでしょう(注10)?

ハ)本作は、原作の遠藤周作の小説をかなり忠実に映画化しているように思われます。
 ただ、ラストの部分で本作は、原作と比べて、かなり西欧的な物語(注11)になってしまっているようにも思われます。
 原作小説のラストは「切支丹屋敷役人日記」とされ、岡田三右衛門となったロドリゴ神父が64歳で亡くなったことが候文で完結に記載されているに過ぎませんが、本作では、それが映像化されるだけでなく、ロドリゴ神父が死ぬまでその内面では棄教していなかったことが示されます。
 ただ、本作のラストの画面のようにすれば、確かにわかりやすいとは言え、本作の始の方で、日本の隠れキリシタンは形あるものを信仰の証にしたがっていると批判的に言われていることからしたら、ロドリゴ神父の信仰も、かなり日本的に変質してしまったのではないかとも考えられるところですが、どうなのでしょうか?

 とはいえ、本作はハリウッド映画であり、エンターテインメント作品ながらも、大層重厚に作られており、見る者にあれこれ考えさせる要素をたくさん抱えていて、それだけでも評価するに値するように思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「体重を落として壮絶な姿を見せるモキチ役の塚本晋也の命がけの熱演や、狡猾でいながら真実を射抜く目を持ち清濁併せ持つ長崎奉行役のイッセー尾形の深みのある演技には、心を打たれた」などとして80点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「「完全映画化」という宣伝文句をうたっても文句は出ないだろう。原作のストーリーに忠実で、かつ映画として見ごたえ十分の力作である」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 佐藤忠男氏は、「アメリカで映画にしたのだが、日本の風俗習慣などの描きかたの違和感は少なく、むしろ、外国人の見方の加わったところが新鮮で、感銘の深い作品になった」と述べています。
 小林よしのり氏は、「ものすごく面白かった。3時間弱もの時間を、一回も緊張感を途切れさせず、食い入るように没入して見てしまった。スコセッシの熟練した力量に感心した」と述べています。



(注1)監督は、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『ヒューゴの不思議な発明』などのマーティン・スコセッシ
 脚本は、ジェイ・コックスとマーティン・スコセッシ。
 原作は、遠藤周作著『沈黙』(新潮文庫)。
 原題は「SILENCE」。

 なお、出演者の内、最近では、アンドリュー・ガーフィールドは『わたしを離さないで』、リーアム・ニーソンは『スリーデイズ』、アダム・ドライバーは『ヤング・アダルト・ニューヨーク』、浅野忠信は『淵に立つ』、窪塚洋介は『Zアイランド』、塚本晋也は『SCOOP!』、小松菜奈は『バクマン。』、村人ジュアン役の加瀬亮は『アズミ・ハルコは行方不明』、笈田ヨシは『最後の忠臣蔵』で、それぞれ見ました。
 また、イッセー尾形は『太陽』における昭和天皇役がとても印象的です(この拙エントリの「注5」をご覧ください)。

(注2)ラストでも同じように虫の声が。

(注3)実在の人物(この記事が参考になります)。

(注4)ロドリゴ神父のモデルになったのは、実在したジュゼッペ・キアラとされています。

(注5)トモギ村の人質になって捕らえられると決まっていたモキチ塚本晋也)から、「踏み絵を踏めと役人に言われたらどうすれば?踏まないと村人が大変な目に合うだろう」と尋ねられた時、ロドリゴ神父は「踏めばいい」と答えますが、ガルペ神父は「そんなことはできない」と答えます。聖職者であっても、「踏み絵」に対する姿勢は異なってしまうようです。

(注6)キチジローは、家族と一緒にいた時も、またイチゾウ笈田ヨシ)やモキチらとともにトモギ村の人質として捕らえられた時も、簡単に踏み絵を踏みます。ただ、彼は、「モキチも俺の家族も強かった。俺は弱い。弱い者の居場所はどこだ?」と言って、ロドリゴ神父に「告解」(confession:コンヒサン)をします。
 でも、踏み絵を踏むか踏まないかで、人の強さ弱さが判定できるのでしょうか?



(注7)上記「注6」のイチゾウやモキチら(3人目の名前はわかりません)は、踏み絵を踏む時の態度が怪しいとして、十字架につばを吐くことや、「マリアは娼婦」と言いことを強要され、それができないために水磔の刑に処せられます。取り締まる役人の方も、踏み絵でキリシタンかどうかうまく選別できないことをよく知っていたようです。
 なにしろ、役人が踏み絵に際して、「形だけのこと。端の方にチョット足を乗せるだけでよい」などと村人に言ったりするくらいなのですから。

(注8)実在の人物(この記事が参考になります)。

(注9)井上筑後守の部下の通辞(浅野忠信)も、大層賢そうな役人で、ロドリゴ神父がフェレイラ神父と同じように転向するであろうことを見抜きます。



(注10)実際には、Wikipediaのこの記事によれば、「1605年には、日本のキリシタン信徒は75万人にもなったといわれている」とのこと。
 ただ、フェレイラ神父が、「ザビエルは、デウスを「大日」とした」とロドリゴ神父に語ったように(ただ、Wikipediaのこの記事によれば、「後に「大日」という語を用いる弊害のほうが大きいことに気づかされ」て、使わなくなったようです)、隠れキリシタンたちが信じているキリスト教は、本来のものからかなり変質していたようです。
 本作では、その他、隠れキリシタンたちが、信仰の証として形あるものを重視することや、洗礼の儀式で天国(パライソ)が出現すると信じること、「死ねば病気も年貢もない天国に行ける」と信じること〔捕らえられたモニカ小松菜奈)が口にします〕、「告解(コンヒサン)」をすれば罪が消えると信じること(キチジロー)、などが変質している点として描かれているように思われます。

(注11)幾多の危難を乗り越えて一つの信念を貫き通した英雄譚とでも言うような。



★★★★☆☆



象のロケット:沈黙 サイレンス

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MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間

2017年01月27日 | 洋画(17年)
 『MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)チェット・ベイカーを取り上げた『ブルーに生まれついて』を見た時から、本作もぜひ見てみたいと思っていました。

 本作(注1)の最初の方の舞台は、1980年のマイルス・デイヴィスドン・チードル)のマンハッタンにある自宅のスタジオ。
 トランペットの音がして、「喉が渇いた、お茶をくれ」、「ビデオ、ここだ、ここで止めろ」、「音を下げてくれ」、「1975年の大阪だ」といったマイルスの声が入り、またマイルスのそばにいるローリング・ストーン誌の記者デイヴユアン・マクレガー)の「アガルタだ」(注2)、「なぜ5年間も演奏をしていないんですか?」といった声も飛び交います。



 デイヴが「モード・ジャズとその影響について」と口走ると、マイルスは「俺の音楽についてジャズと言うな」「勝手に作られた言葉だ」、「ソーシャル・ミュージックだ」と怒ります。
 さらに、デイヴが「なぜ音楽をやめたんですか?」と尋ねると、マイルスは「語ることがないから、それだけだ」、「じっとしていると、あれこれ考える」、「いろいろなことが頭の中で戦争のように戦う」、「ある時、突然ひらめいた。それで音楽に戻ったんだ」などと語ります。



 最後に、マイルスが「俺を語るなら、チンケな言葉を使うな」と言ったのに対し、デイヴが「」あなたならどんな言葉を?」と尋ねると、マイルスはトランペットを吹き出します。

 次の場面は、マイルスが乗りデイヴが運転する車が、ダウンタウンの道路で黒塗りの車に追跡されます。
 マイルスは、「飛ばせ!」「ソコを右に曲がれ」などと指示をします。
 ですが、行き止まりにぶつかって、マイルスらは車を降りて走り出します。
 その時、テープの入ったケースが車から道路にころがり落ちてしまいますが、マイルスらはそれをそのままに逃げ出します。

 以上は、本作のほんの最初の部分ですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

  本作は、マイルス・デイヴィスの5年に渡る活動休止期間に焦点を当てて制作されています。俳優のドン・チードルが、監督、共同脚本、製作、それに主演という具合に大活躍。制作の姿勢は、『ブルーに生まれついて』と同じように、世界的に著名なトランペット奏者のある時期について、史実を踏まえつつも架空の人物を挟み込みながら、ファンタジックに、そしてとてもヴィヴィッドに描き出すものであり、さらにはジャズの名曲がいろいろと流れることもあり、感銘を受けました。

(2)本作は、俳優のドン・チードルが、製作・監督・脚本・主演をこなしながら、マイルス・デイヴィスについて、彼の“空白の5年間”(1975年~1980年)に焦点を絞って描き出した作品です。
 その手法は、マイルス・デイヴィスの実像に可能な限り近づこうとするのではなく、むしろ、マイルスに関しドン・チードルが抱いているイメージを優先させているといえるでしょう(注3)。
 ですから、本作で描かれているのは、マイルス・デイヴィスというよりも、ドン・チードルなのかもしれません。本作にマイルスの姿を追うよりも、描かれている事柄そのものを見た方が楽しめるものと思います。
 なにしろ、上記(1)で触れているように、本作の最初の方でカーチェイスが描かれていて、マイルスたちが悪漢に追われ、銃撃まであったりするのですから(注4)!

 こうなると、昨年末に見た『ブルーに生まれついて』と比べたくなってしまいます(注5)。
 同作が取り上げるチェット・ベイカーも、マイルス同様にジャズ・トランペッター(注6)。
 そして、同作も、チェット・ベイカーの生涯全般を描き出しているわけではなく、本作のマイルスと同じように、公演の舞台から消えた時から復活するまでに焦点を当てています。
 また、同作で描かれるチェット・ベイカーの愛人・ジェーンは架空の存在ですが、本作においても、ジャーナリストのデイヴのみならず、若いトランペット奏者・ジュニアキース・スタンフィールド)も実在しません(注7)。
 そういうこともあって、同作はファンタジー的な作品と言えますが、本作も、同作に輪をかけてファンタスティックになっています。

 さらに言えば、『ブルーに生まれついて』におけるチャット・ベイカーとジェーンとの関係が、本作におけるマイルスと妻フランシスエマヤツィ・コーリナルディ)との関係に置き換えられているようにも見えます(注8)。



 特に、ジェーンもフランシスも同じようにとても意欲的なダンサーなのです。
 それで、『ブルーに生まれついて』では、チェット・ベイカーがカムバック公演のためにニューヨークに行こうとする際、ジェーンに同行を求めると、「大事な舞台のオーディションがあるから行けない」とジェーンに拒絶されてしまいますが、本作においても、マイルスが妻フランシスに「俺の妻ならダンスを完全に止めて、俺のそばに居てほしい」と言って、二人の間で大喧嘩となります。

 このように見てくると、わずか2作品を比べただけながら、実在の著名人の生涯を描く際の最近の手法に共通する傾向があるような気がしてきます。
 そして、言うまでもないことながら、こうした手法はジャズ・プレイヤー以外の分野の人物についても、応用が可能でしょうし、実際、これまで何度も試みられています(注9)。
 飛躍した物言いになってしまいますが、逆に、邦画の『海賊とよばれた男』についての拙エントリでも申し上げましたように、同作はかなり古めかしい手法(同作は、出光佐三について、若い時分から死ぬまでを描いています)に従って描かれているといえるかもしれません(注10)。

 ここで問題とすべきは、本作のように描き出すことによって面白い作品になっているのかどうかという点でしょう。
 クマネズミは、マイルスのテープを巡る争奪戦など、見る者の意表を突く場面がいろいろ盛り込まれていて、本作は、ある意味で、マイルス・デイヴィスの大層独創的な演奏にも通じるものがあるように思え、さらには名曲をいくつも聴くこともできて、なかなか面白い作品だと思いました。

(3)渡まち子氏は、「正統派の伝記映画ではないが、空白の時を虚実と愛で埋める奇妙なエネルギーを感じる作品だ」として60点を付けています。
 毎日新聞の勝田友巳氏は、「虚実の割合は半々で伝記としては心もとなくても、チードルが表現者としての視点から芸術家デイヴィスの内面に奥深く迫っている」と述べています。



(注1)監督は、主演のドン・チードル(製作や脚本にも携わっています)。
 原題は「MILES AHEAD」。

 なお、出演者の内、最近では、ドン・チードルは『フライト』、ユアン・マクレガーは『8月の家族たち』で、それぞれ見ました。

(注2)「アガルタ」は、1975年のマイルスの大阪公演を録音したもののタイトル名(もう一つは「パンゲア」)。

(注3)ジャズ・ミュージシャンの菊地成孔氏は、この記事において、「これは完全にね、ドン・チードルの妄想なんですよね。で、ストーリー自体ははっきり言って荒唐無稽です」と言い、さらに同記事によれば、小説家の平野啓一郎氏は「平野啓一郎曰く「この不思議な映画はマイルスファン、ジャズファン、音楽ファンの間で末永く語り草になるだろう。結局、いつか見ることになる。ならば、いま見るべし」と述べているとのこと。
 また、『マイルス・デイヴィスの真実』などの本を刊行している小川隆夫氏は、この記事の中で本作について、例えば「実はぼくが映画のなかで一番感情移入できたのは、「ローリング・ストーン」誌の記者役のユアン・マクレガーなんです」などと述べています。

(注4)劇場用パンフレット掲載の大森さわこ氏のエッセイ「ドン・チードルが目指した、マイルスの独自性と重なる映像表現」によれば、ドン・チードルは「マイルスの映画を作るのなら、ギャング映画で、強盗が出てくる、クレイジーなものにしたかった」と述べているようです。

(注5)なにより、同作でも、マイルス・デイヴィスが短い時間ながら登場するのです。
 それに、映画で描かれるチェット・ベイカーもマイルスも、かなりのドラッグ依存症です(本作では、マイルスがドラッグを扱う場面は少ないとは言え、ドラッグ代金を調達するためにコロンビア・レコードに乗り込んで、幹部をマイルスが銃で脅す場面が描かれています)。
 ちなみに、『ブルーに生まれついて』に登場するケダー・ブラウン扮するマイルスの方が、本作でドン・チードルが演じるマイルスよりも、少なくとも外見上はよく似ているように思います。

(注6)同作でチェット・ベイカーに扮するイーサン・ホークは、トランペットを吹く演技をしますが、サウンドとしては、専門のトランペット奏者(ケビン・ターコット)の演奏を流しています(ただ、イーサン・ホークは、歌を同作の中で披露します)。本作においても、ドン・チードルは演奏する演技をするとは言え、実際にはマイルス・デイヴィスの音源を使用しています。

(注7)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中で、主演のドン・チードルは、「ジュニアは実はマイルスであり、ジュニアの妻はマイルスの最初の妻アイリーンなんだ。ジュニアを通して、マイルスは若い頃の自分自身を見る」と述べています。

(注8)ただ、『ブルーに生まれついて』では、チャット・ベイカーとジェーンとのラブストーリーが物語の要であるのに対して、本作では、もう一つのエピソードであるマイルスのテープの争奪戦にもかなりのウエイトが置かれています。
 なお、この年表によれば、マイルスは、1960年にフランシス・テイラーと結婚し、1964年に別居し、1968年に離婚しています。

(注9)最近の例で言えば、『スティーブ・ジョブズ』、『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』とか『マダム・フローレンス!夢見るふたり』でしょうか。

(注10)伝記映画の場合、描かれている人物を演じている俳優が、実物にどれだけ近い顔つきをしているのかがすぐさま問題となります。ただ、クマネズミには、それはあまり大きな問題ではないのではないかと思っています。本作についても、上記「注3」で触れた記事において、菊地成孔氏は、「今回ドン・チードルが演じておりますマイルス・デイヴィスですが、ドン・チードルが似ているのはマイルス・デイヴィスではなくてマックス・ローチの方です」などと言っています。とはいえ、半ば冗談なのでしょう。
 なお、『海賊とよばれた男』で主人公を演じる岡田准一について、彼が出光佐三の顔に似ているとかいないとかを問題にする人は見当たらないように思います。



★★★☆☆☆



象のロケット:MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間

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本能寺ホテル

2017年01月24日 | 邦画(17年)
 『本能寺ホテル』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思って映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、ビスマルクの言葉「愚者は経験から学ぶ。賢者は歴史から学ぶ」が字幕で映し出され、次いで、明智光秀高嶋政宏)が刀を挙げて進み、「信長を探せ!探し出して、必ず首を討ち取るのだ!」と叫びます。
 そして、「織田信長は、歴史の舞台から姿を消した」、「だが、多くの謎に包まれている」との声が入ります。

 次ぎに、嵐山や舞妓が歩く姿が映し出された後、主人公の倉本繭子綾瀬はるか)が、キャリーバッグを引き、「?」とか「て!」と訝りながら京都の街中を歩いています。
 先斗町では、少年が「縁結びスポットです」と言って、ビラを繭子に手渡します。繭子は、そのビラを、一時は捨てようとするものの、思い直してバッグの中にしまい込みます。

 繭子は、鴨川沿いの道を歩いているところ、〔繭子の婚約者の恭一平山浩行)に携帯をかけようと腰を下ろします。そして、「やっと京都に着いた。これからホテルに向かうところ。今日の「吉岡」の予約、よく取れたね」と彼女が言うと、恭一は「直接行くよ」と答えます。

 ホテルへ向かう途中で、繭子が、和菓子屋「緑寿庵清水」に入って金平糖を手にし、「可愛い!これください」と言うと、店員が、「800円です。戦国時代からずっと同じ方法で作られています。織田信長も、この金平糖を好んでいました」と答えます。
 繭子が金平糖を口に含むと、破裂して、織田信長堤真一)の行列が映ります。

 場面は変わって、予約していたホテルのフロントで繭子が名前を告げると、フロントの男は「倉本さんの予約は、来月に入っています。本日は満室です」と答えます。
 繭子は「ああどうしよう」と言ってそのホテルを出て、京都の市内を当て所なく歩きます。
 他方で、織田信長の行列が京都を進んで本能寺へ向かう様子が、断片的に挿入されます。
 信長の行列は、本能寺の前に到着し、繭子も「本能寺ホテル」の前にたどり着きます。



 本能寺の門が開けられて織田信長や森蘭丸濱田岳)らが中に入るのに合わせて、繭子の前に建つ「本能寺ホテル」のドアが開きます。
 こうして本作の物語が始まりますが、さあ、どのような話なのでしょうか、………?

 本作は、宿泊したホテルが大事件の起こる直前の本能寺に通じていて、主人公が信長や森蘭丸などと遭遇するという物語を描いています。言うまでもなく、タイムスリップ物にはいろいろの問題点がつきまといますが、それに目をつむりさえすれば、酷く単純なストーリーながらも、とてもスッキリとしたそれなりに面白さを感じられる仕上がりになっているように思いました。

(2)本作(注2)においては、本能寺ホテルのロビーに置かれている古いオルゴールのネジを巻き、エレベーターに乗って金平糖を食べると、戦国時代の本能寺にタイムスリップするという設定になっています(注3)。
 これがあまりにまともなタイムスリップなので、歴史の書き換えが起こらないのか、などとチャチャを入れたくなります。でも、こうしたタイムスリップ物の整合性を論ってみても、何の意味もないでしょう。これはこうした設定なのだ、ということを黙って受け入れるしかありません(注4)。

 それにしても、本作は、タイムスリップ物としては随分とシンプルな作りになっているなと感じました(注5)。結局のところ、本作では、繭子が本能寺の変を目の当たりして現代に戻ってくるだけにすぎないのですから(注6)。
 でも、わざわざ現代人の主人公が戦国の世に行く話であり、それも織田信長という大層興味深い人物とコミュニケーションを持つのですから、もう少し見る者を驚かすようなひねりがほしいものだと思いました(注7)。



 とはいえ、出演者は皆それなりに頑張っています。
 主役の綾瀬はるかは、本作と似たような雰囲気を持つ『プリンセストヨトミ』とまさに同じように、本能寺の中を実によく走り回ります(注8)。
 また、信長役の堤真一は、年末から年始にかけてクマネズミが見た映画の内3本に出演しているのです!それも、『海賊とよばれた男』では男気一杯の船長役を、『土竜の唄 香港狂騒曲』では、ヤクザの組長として誠に格好良くアクションを決めています。そして、本作では、例えば『信長協奏曲』の小栗旬とはまるきり違った、風格があってどっしりとした信長像を創り出していて、その演技の幅の広さに驚きました。
 そして、森蘭丸役の濱田岳の存在が、良い味付けとなっています。

 さらに言えば、興味を惹かれる細部がいろいろ転がっています。
 例えば、信長がなんとか自分のものにしたがっている「楢柴肩衝」ですが、以前読んだことがある漫画『へうげもの』(講談社)の第1巻でも取り上げられています(注9)。
 また、信長の小姓の大塚田口浩正)については、全く知りませんでした(注10)。

 ただ、本作では、「何ができるかではなくて、何をやりたいかが肝心だ」という人生訓めいたものが強調され、それで全体をまとめているわけながら(注11)、そんなあからさまでつまらないメッセージなど無くもがなでしょう。

(3)渡まち子氏は、「少々安易な成長物語に仕上がってはいるが、現代のパートでは、京都巡りの趣もあるので、ライト感覚の歴史ものご当地映画として楽しみたい」として50点をつけています。



(注1)監督は、『プリンセストヨトミ』などの鈴木雅之
 脚本は、『脳内ポイズンベリー』などの相沢友子

 なお、出演者の内、最近では、綾瀬はるか近藤正臣は『海賊とよばれた男』、堤真一は『土竜の唄 香港狂騒曲』、濱田岳は『グッドモーニングショー』、風間杜夫は『スキャナー 記憶のカケラをよむ男』、田口浩正は『超高速!参勤交代 リターンズ』、高嶋政宏は『信長協奏曲』で、それぞれ見ました。

 また、本作は、全体として『プリンセストヨトミ』の雰囲気が感じられるところ(同作は、タイムスリップこそしないものの、監督が同一人であり、堤真一と綾瀬はるかが出演しています)、その原作者である万城目学氏が本作のもとの脚本を書きながらもボツにされたのでは、とネットで騒がれています(例えば、この記事とかこの記事)。
 確かに、本作のようなストーリーのしっかりとした作品を、いきなり脚本家が仕上げるとも思えず、原作者がいたように思え、そうであるなら万城目氏が打ってつけでしょう。
 とはいえ、万城目氏も、小説を書いた上で脚本を作ったのでもなく、また、本作の脚本を書いた相沢友子氏は、『プリンセストヨトミ』とか『脳内ポイズンベリー』などの脚本を書いている実力者ですから(ただ、いずれも原作のあるものを脚本化していますし、時代劇を取り上げたこともなさそうですが)、軽々に判断できないとも思えてきます。
 素人による単なる想像にすぎませんが、本作にタイムスリップ以外に特段のひねりが何も見られないことから、もともと万城目氏の脚本にあった“本能寺ホテルのエレベーター”というアイデアだけを借りてきて〔万城目氏は、ツイッターで(はっきりとは書いていないものの)、一つの重要なアイデアが使われてしまったと述べています〕、相沢氏が膨らませたようにも思えます。

(注2)ちなみに、本作のクレジットに「制作協力:東映京都撮影所」とあり、実際にも、本能寺における信長の部屋とか本能寺ホテルのロビーやエレベーターなどは、東映京都撮影所のスタジオにセットで作られたものであり、また、本能寺ホテルの外観や周囲の街並みは、東映太秦映画村(東映京都撮影所の隣)にオープンセット建てたり、それを利用したりしています。
 さらにまた、信長と繭子が京都の街中を歩くシーンは、東映太秦映画村の近くにある松竹撮影所を使っています(ただ、クレジットには松竹撮影所の名前は出てきませんが)。
 その他、クレジットを見ると、キャストの末尾に「東映剣会」とか「松竹撮影所俳優部」などとあり、今や時代劇を制作するには3社の協力体制がないと出来なくなっているのでしょう。

(注3)フロントデスクに置かれているベルを鳴らすと、戦国の世から現代に戻れます。
 なお、ラストで、ホテルの支配人(風間杜夫)は、繭子の真似をしてタイムスリップするのでしょうが、その場合、いったい誰がベルを鳴らして現代に戻してくれるのでしょうか?



(注4)とはいえ、繭子が、例えばその次の年の6月にこの本能寺ホテルにやってきて、エレベーターに乗って金平糖を食べたら(あわせて、支配人がオルゴールのネジを巻き)、彼女はまた同じ光景をはじめから見ることになるのでしょうか(初めて信長に遭遇する?)、くらいは言ってみたくなるのですが。

(注5)本作の脚本を書いた相沢友子氏自身が、劇場用パンフレット掲載のインタビューの中で、本作について「ストレートで、ピュアで、シンプルな物語」と述べています。

(注6)秀吉の中国大返しについての一つの仮説が提示されてはいますが。

(注7)本作では、繭子が、タイムスリップして出会った織田信長に心を動かされるわけですが、本作の描き方では、ラブストーリーとしてはあまりに淡々過ぎる感じがします。例えば、燃え盛る本能寺から信長と蘭丸を繭子が現代に連れてくる(繭子が持っている金平糖を食べてもらって)という展開ぐらいあってもいいのかもしれません。
 とはいえ、例えばこのサイトの記事を見ると、そんな類のストーリーならすでにいろいろ漫画で描かれているようで、二番煎じになること請け合いです!

(注8)この記事を参照。

(注9)『へうげもの』第1巻第八席「カインド・オブ・ブラック」の末尾で、山上宗二が「最も崇高なる三つの茶入 一つは信長様に渡った肩衝形の茶入「新田」 二つ目はこれも信長様の手にある肩衝「初花」 そしてもう一つは九州博多の豪商島井殿の持つ肩衝「楢柴」」、「もし三つそろえたならばそれはもう天下を獲ったと言っても過言ではありますまい」と、主人公の古田左介に言います。
 本作において、繭子がタイムスリップして行った本能寺では、本能寺の変の前日に信長が茶会を開催して、島井佐戸井けん太)の持っている「楢柴肩衝」を献上させようとします(例えば、このサイトの記事)。

(注10)このサイトの記事によると、本能寺の変における「小姓・小々姓」の戦死者の中に、「森乱丸」らに混じって「大塚孫三(弥三)」がいるようです(ただし、「御殿内にて討死」しているものの、「信長馬廻衆に大塚又一郎、信長に取立てられた関取に大塚新八、津田一安朱印状に記された大塚太郎左衛門がいるが関連は不明」とされています)。
 より細かくは、こちらのサイトが参考になります。

(注11)いろいろなことを自分で決めずに他人に判断を任せてきた繭子は、ラストで自分の進路について自分で判断します。ただ、教員登録にあたり、希望する教科を電話で連絡してもかまわない、というのはよくわかりません(きちんと書類に記載して提出するものではないでしょうか?)。それに、織田信長に短時間会っただけで、歴史を教えられるものでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:本能寺ホテル
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土竜の唄 香港狂騒曲

2017年01月20日 | 邦画(17年)
 『土竜の唄 香港狂騒曲』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)第1作の『土竜の唄 潜入捜査官 REIJI』を見て大層面白かったので、第2作目もと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、東京のビル群の夜景が映し出され、そこに大きな檻を吊り下げたヘリコプターが飛んできます。
 そのヘリコプターを操縦するのは、前作のラストで「日浦組を作る」と言い放ったクレイジーパピヨンこと日浦堤真一)。



 檻に入れられているのは、前作で日浦や潜入捜査官・玲二生田斗真)らが闘った相手の蜂乃巣会のヤクザ連中(注2)。
 彼らはサウナに入っているとばかり思っていましたから、腰にタオルを巻いただけの裸の状態。
 そして、その檻の下には、玲二がこれまた全裸(新聞紙が大事なところにあてがわれているものの)でぶら下がっているのです。
 日浦は、玲二が飛び込めるように、運河の上を低空飛行しますが、玲二は気が付かず、通り過ぎてから「今、手を離せばよかった。下ろしてください!」と言うものの、後の祭り。日浦は、「兄弟、気分はどうだい?」と呟きます。

 ヘリがスカイツリーに近づくと、その展望台にいた純奈仲里依紗)は、檻の下にぶら下がっている玲二を見つけ、「玲二くん?!」と驚きます。

 ヘリは、数寄屋会の四代目会長・轟周宝岩城滉一)らがいるビルの屋上に降りていきます(玲二は、その時には檻の上部に移っています)。
 日浦は「骨付きヤクザをお持ちしました」と言って、檻を火の上に下ろし、自身はソコから飛び去ります。
 屋上では、クロケン上地雄輔)が、「焼きあがるまでキャンプファイヤーをお楽しみください」とフォークダンスの曲をかけるものですから、轟会長以下が「オクラホマ・ミキサー」に乗って、火の周りでフォークダンスに興じます。
 檻の中のヤクザたちは、火にあぶられて酷く熱いため、檻の上部にいる玲二の2本の足にすがりつきます。結果、玲二は大変な状況になってしまいます。でも、そこは「ブッチコイ!」と叫んでなんとか切り抜け、「俺の股間が抗争を未然に防いだ」と呟きます。

 他方で、警視庁では、瑛太)が組織犯罪対策部の課長に就任し、職員らの前で「ヤクザと癒着したはぐれ警官を撲滅しよう」と訓示をします。

 こんなところが、本作の最初の方ですが、さあ、この後、話はどのようになるのでしょうか、………?

 第1作では女優の活躍する場面が少なすぎる問題があるのではと思ったところ、本作では、主人公が付け狙う裏社会の大立者の娘を巡る話が展開されており、さらにチャイニーズマフィアとの対決で主人公らが香港に飛んだりして、一応のスケール・アップが図られているとはいえ、コミカルなシーンは第1作類似のように見え、また香港を絡まらせる必然性もあまり説得力があるようには思えず、第1作ほどの面白さは感じませんでした。

(2)第1作についての拙エントリでは、「本作に登場する女優の見せ場が余り多くないのは残念」と申し上げましたが、なんと本作では、前作同様に純奈役の仲里依紗のみならず、轟会長の娘・迦蓮役として本田翼とか、チャイニーズマフィア・仙骨竜のヒットガール・胡蜂役として菜々緒とかが(注3)、かなりの活躍をします(注4)。



 もともと、話の本筋が、轟会長から破門されたモモンガ古田新太)が迦蓮を誘拐し、チャイニーズマフィアが取り仕切る人身売買市場に売り渡された彼女を玲二らが救出するというものですから、女が色々と絡んできます。
 この点は、前作からの前進として評価すべきでしょう!

 ただ、本作にはよくわからない点がいくつもある感じがします。
 特に、後半の舞台をなぜ香港にしたのか、第1作が関西ヤクザ(蜂乃巣会)との抗争を取り上げていましたから次は海外にということなのでしょうが、よくわからない感じがします。

 確かに、迦蓮らの人身売買を行う市場は香港で開催されるという設定です。また、ヒットガールの胡蜂といった香港マフィアの手下が現れて、日浦や玲二と戦います。
 でも、人身売買が行われるパーティー会場などは、香港に限らず、どこにでも作れるものでしょう(注5)。
 それに、日浦や玲二が轟会長の命を受けて殲滅しようとするチャイニーズマフィア・仙骨竜のトップや幹部などが、本作では姿を一切見せないのですから、相手が殲滅されたのかどうかわからないままとなってしまいます。

 また、警視庁の課長の兜が、チャイニーズマフィアと通じているというのも、よくわからない設定です。
 もともと、兜課長が警視庁のエリートコースに乗っているというならば、採用とか昇進にあたって、監察官の方でその身辺をよく調べているはずです(注6)。
 それに、彼の父親が潜入捜査官に殺されたことから、ヤクザと癒着しがちな潜入捜査官、特に玲二を憎むという設定になっていますが、そんな個人的なことからチャイニーズマフィアとつながることまでには相当の距離があるように思われます(注7)。
 さらに言えば、兜はどうやってなにをしに香港に来たのでしょう(注8)?

 こうした様々な点からすれば、本作のラストの舞台を、何もわざわざ香港とせずとも、むしろ、東京で十分なのではないでしょうか?香港を使うというのであれば、東京では対処できない香港ならではのものをいくつも登場させるべきではなかと思ったところです(注9)。

 さらに言えば、玲二の裸のシーンが冒頭に見られますが、これは第1作の“全裸洗車”のシーンの二番煎じといったところではないでしょうか?

 とはいえ、もともと本作は馬鹿馬鹿しいこととして制作されているのですから、そんなつまらないことをいくら言い立ててみても、野暮の極みであり、何の意味もないでしょう。
 加えて、上に書きましたように、本作では女優陣の大活躍が見られるのですし、そればかりか、第1作と同じように、留置場に入れられた玲二のところに、谷袋警察署署長の酒見吹越満)、一美教官(遠藤憲一)、麻薬取締部課長の複澄皆川猿時)の3人がやってきて、イロイロ情報を与えた後、例の「土竜の唄」の2番を歌ったりするなど(注10)、なかなか面白いシーンがいくつも用意されているので、まずまず楽しんでみることができました。



(3)渡まち子氏は、「今回は原作の「チャイニーズマフィア編」がベースになっていて、前作にもまして、三池崇史監督の演出も、宮藤官九郎の脚本もハイテンションである」として60点を付けています。



(注1)監督は、『藁の楯』などの三池崇史
 脚本は、『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』などの宮藤官九郎
 原作は高橋のぼる著『土竜の唄 チャイニーズマフィア編』(小学館)。

 なお、出演者の内、最近では、生田斗真は『秘密 THE TOP SECRET』、瑛太は『64 ロクヨン 後編』、本田翼は『起終点駅 ターミナル』、古田新太上地雄輔は『超高速!参勤交代 リターンズ』、菜々緒は『グラスホッパー』、仲里依紗岩城滉一は『土竜の唄 潜入捜査官Reiji』、堤真一は『海賊とよばれた男』、皆川猿時は『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、吹越満は『友だちのパパが好き』、遠藤憲一は『ギャラクシー街道』で、それぞれ見ました。

(注2)数寄屋会の轟会長からは、蜂乃巣会の若頭・鰐淵菅田俊)を殺せと命じられていましたが、日浦は鰐淵と“五分の盃”を交わしただけでした。ですが、それが気に入らない組員が跳ね上がります。

(注3)さらには、轟会長の妻の毬子鈴木砂羽)も、玲二が轟会長のボディーガードとなってその家に行った時に登場します。

(注4)なにしろ、純奈(仲里依紗)は車の上に乗ってフロントガラスを足で踏みつけますし(下着が見えます!)、迦蓮(本田翼)も玲二に馬乗りになって腰を振り、さらに胡蜂(菜々緒)が美脚を見せながら鞭を振るったり虎をけしかけたりするのですから。

(注5)劇場用パンフレット掲載の「プロダクション・デザイン」によれば、実際には東京の東宝スタジオに作られたセット。

(注6)ただ、兜の父親が殉職した警察官であったことから、詳しい身辺調査を行わなかったのかもしれませんが。

(注7)兜課長は、玲二に、「人間の醜さが一番わかるのが人身売買」、「俺は、人間のウソや醜さを暴きたいから人身売買に手を出す」などとうそぶきますが、全く理解しがたい理屈であり、単に自分の行動をウソで美化しているにすぎないように思えます。

(注8)日浦や玲二と同じように密入国によってでしょうか?それに、香港では、日本と同じような捜査権を持っていないはずですし。

(注9)実際には、そんなことなど充分に承知の上で本作が作られているようです。
 劇場用パンフレット掲載の「プロダクション・ノート」には、「香港の“熱海”地区ってことでやろうよ」と言っている三池崇史監督の言葉が掲載されています!結果として、海外ロケは行われず、「香港は実刑部分の撮影のみ」ということになったようです。

(注10)壱番と弐番の作詞は宮藤官九郎。
 なお、壱番の末尾は「土竜の唄だよ 弐番はないよ」ですが、弐番の末尾は「参番もあるかもね」となっています。轟会長も健在のことですし、おそらく第3作が制作されるのでしょう(漫画の第43巻から突入する「シチリア・マフィア編」が基になるのでしょうか?)!



★★★☆☆☆



象のロケット:土竜の唄 香港狂騒曲

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ミス・シェパードをお手本に

2017年01月17日 | 洋画(17年)
 『ミス・シェパードをお手本に』を銀座のシネスイッチで見ました(注1)。

(1)82歳の高齢ながら映画やTVや舞台で元気に活躍しているマギー・スミスの主演作というので、面白いに違いないと思って映画館に行ってみました。

 本作(注2)の始めの方では、車のフロントガラスが映し出され、そこには何かがぶつかった跡が残っています。
 そして、「ほとんど真実の物語」(A Mostly True Story)の字幕があって(注3)、タイトルが流れます(注4)。

 次いで、作家のアラン・ベネットアレックス・ジェニングス)の家(注5)。
 ベネットは、書斎の机の上に置かれているタイプライターに向かって作業をしています。
 彼のモノローグ「ミス・シェパードの匂いには、かすかな尿の臭がする」、「彼女のお気に入りはラベンダーの香り」が入ります。
 すると、トイレの水が流れる音がして、ミス・シェパードマギー・スミス)がトイレから出てきて、玄関を通って家の外に置かれている車(バン)の中に入ります。
 それを見ていたベネットは、彼女の後を追いかけて、「通りにある公衆便所を使ってくれ」と言います(注6)。
 すると、彼女は「臭くて嫌だよ。私は根っからのきれい好きなんだ」と答えます。



 再びベネットのモノローグ「作家は二重生活だ。ものを書く自分と日常生活を営む自分」、「2つの自分はいつも話しているし、議論している」が入ります。

 ベネットがミス・シェパードを知ったのは、この街に引っ越してきた時に、動かなくなった車をベネットが押してあげたことから。
 さらには、ミス・シェパードが行き場がなくなった際、ベネットは自分の家の庭先を提供して車を駐車させます。

 こうして物語が始まりますが、さあ、この先どんな展開が待っているのでしょうか、………?

 本作は、劇作家と、彼の家の庭先置かれたおんぼろ車で生活する老婆との交流を描いているところ、戯曲を映画化したせいでしょうか、総じて動きが少なく、それに、マギー・スミス扮する老婆から、ホームレス特有の嫌な臭いがこちらにまで漂ってくる感じがして、クマネズミには映画の中に入り込めませんでした。

(2)本作は、イギリスの劇作家のアラン・ベネットが書いた戯曲(注7)を、さらに原作者が映画の脚本を書いて映画化したもの。
 なるほど、ミス・シェパードが運転する車にオートバイが激突する有様とか(注8)、坂道をミス・シェパードが座った車椅子が滑り落ちる様子とか、映画ならではのシーンが用意されてはいます。



 でも、駐車している車とベネットの書斎の場面が大部分であり、本作が、全体として動きの少ない地味なものになってしまっているのは、一つには、戯曲を基にしているからなのではと思えます。

 それと、描き方で少々うるさく感じられるのは、ベネットの内面の動きを観客に理解させるために、モノローグだけでなく、作者の分身を作り出している点です(注9)。
 ベネットには、作家としての立場で見ると、ミス・シェパードがすぐに近くにいて彼女をつぶさに観察できることによって、彼女の行動をヒントにした新作をものすことができるメリットがあります。ですが、隣近所との日常的な付き合いも重要であり、そうした面ではミス・シェパードの存在がひどく疎ましく思えてきます。
 こうしたことから、本作には、それぞれを表すベネットの分身が登場し、分身同士で盛んに議論したりするのです。
 ところが、本作には、ベネットの気持ちを表すモノローグも取り入れられているのです。
 もともと、登場人物の内面の動きといったものは、演じる俳優の表情とか身振りなどから観客が推測すれば十分なものでしょうし、わざわざ分身まで作り出すことまでしなくても、という感じです。

 とはいえ、現在NHK総合で放映中のTVドラマ『ダウントン・アビー シーズン5』でも活躍中のマギー・スミスは、本作においても元気なところを見せます。
 ただ、このTVドラマとか『カルテット! 人生のオペラハウス』などにおけるマギー・スミスの役柄は、高齢の現在において色々大活躍するのに対して、本作における彼女の役柄は、人々に隠れるように生きている老婆であり、積極的な活躍の場が与えられていないのが残念な点といえるでしょう(注10)。

 それでも、マギー・スミスが老婆を演じると、老人特有のプライドに裏付けされた頑固さ・意固地さがうまく表現されて、すぐ前に見た『幸せなひとりぼっち』よりも、むしろ本作にそのタイトルを付けた方がふさわしいのではとも思えてしまいます。

 ただ、ミス・シェパードの行為は、ある意味で、その車を駐車させている街に“ゴミ屋敷”を出現させたようなものであり、その街の雰囲気がリベラルなために一応は許容されてはいるものの(注11)、随分と迷惑をかけているようにも思います(注12)。ベネットは、自分の庭先を使わせるよりも、むしろ、早いところ彼女を施設に引き取ってもらうようモット動くべきではなかったでしょうか?

(3)渡辺祥子氏は、「英国の社会福祉が与えるビジネスライクな優しさ、彼女がいた修道院の非情。事故の誤解が生んだ恐怖。そんな中、心は通じ合わなくても何か触れ合うものが生まれた2人の関係にほんのり心が温まった」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。



(注1)『マルガリータで乾杯を!』を見た2015年11月以来のシネスイッチです。
 銀座に行って時間が余った時にちょっと立ち寄るのに格好の映画館なのですが、最近はあまり銀座に行かなくなったこともあって、足が遠のいていました。

(注2)監督は、ニコラス・ハイトナー
 脚本は、原作者のアラン・ベネット
 原作は、アラン・ベネットの『The Lady in the Van』(1989年)。
 本作の原題も「The Lady in the Van」。

 なお、邦題の「ミス・シェパードをお手本に」は、直前に取り上げた「幸せのひとりぼっち」同様に意味不明です。いったい、誰が誰の何をお手本にするというのでしょう?
 尤も、劇場用パンフレットに掲載のエッセイ「至福のひととき」において、筆者の丹野郁弓氏は、「これは『ほとんど真実のストーリー』に自らを放り込んだ作家の自分探しの話である。………その意味でも、この邦題「ミス・シェパードをお手本に」というのはまことに内容にふさわしい名タイトルである」と述べていますが。

 また、出演者の内、最近では、マギー・スミスは『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』、ジム・ブロードベントは『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』で、それぞれ見ました。

(注3)劇場用パンフレット掲載の岡野浩史氏のエッセイ「ある淑女の物語―The Lady In The Van」によれば、原作者のアラン・ベネットが、本作でミス・シェパードと呼ばれる老女に出会ったのは1968年頃で、彼が彼女の車を自宅の庭に駐車させることにしたのは1974年、そして彼女が亡くなるのは1989年、とのことです。ベネットは、都合“15年”ほど彼女と付き合ったことになります。
 ちなみに、本作の戯曲版が上演されてからこれも“15年”経過して、その映画版が制作されているのです!

 また、この戯曲は、2001年の秋に「ポンコツ車のレディ」とのタイトルのもと黒柳徹子(彼女の言葉はこちら)の主演で上演されています(どうして、本作のタイトルを「ポンコツ車のレディ」にしなかったのでしょう?驚いたことに、上記「注2」で触れたように、「ミス・シェパードをお手本に」というタイトルを絶賛している当の丹野郁弓氏が、戯曲の日本での上演にあたって翻訳をしているのです!)。

(注4)画面の半分には俳優やスタッフのクレジットが流れ、もう半分では、ピアノを演奏する女性(本作の主人公の若い頃を表しているのでしょう)の姿が映し出されます。

(注5)作家のベネットの家があるのは、北ロンドンのカムデン・タウン(例えばこの記事)のグロスター・クレセント通り23番地(カムデン・タウンのすぐそばには、ロンドン動物園とか、大英博物館などがあります)。

(注6)実際にミス・シェパードに言いに行ったのは、もう一人のベネットで、作家のベネットの方はその様子を書斎の窓から見ているのです。

(注7)アラン・ベネットが、自身の回想録『The Lady in the Van』(1989年)に基づいて戯曲化したもの(1999年)。
 上記「注3」で触れた岡野氏のエッセイによれば、ロンドンのWest Endで上演された劇の演出をしたのは、本作の監督のニコラス・ハイトナーであり、ミス・シェパードをマギー・スミスが、そして2人登場するベネットの内の一人をアレックス・ジェニングスが演じました。

(注8)オートバイの方からミス・シェパードが運転する車に突っ込んできたにもかかわらず、彼女は自分が轢いてしまったのだと誤解して、その場を逃げ出し、以後警察に見つからないよう車に隠れた生活をするようになったようです。でも、本作に見るように、“ロンドンの原宿”とも言われるカムデン・タウンに出没したら、すぐに分かってしまうと考えないのでしょうか?案の定、警官のアンダーウッドジム・ブロードベント)がやってきて、ミス・シェパードはお金を手渡さざるをえないことになります。

(注9)上記「注7」で触れているように、本作の戯曲版でもアレックスは2人で演じられています。

(注10)ミス・シェパードがピアニストとして活躍した若い時分の姿は、別の女優(クレア・ハモンド)によって演じられています。

(注11)本作には、何かとミス・シェパードを気にかける近くの住民〔ヴォーン・ウィリアムズ夫人(フランシス・デ・ラ・トゥーラ)とかルーファスロジャー・アラム)など〕が登場します。
 なお、劇場用パンフレットに掲載の「film location」のコラムでは、ベネットの家があるカムデン・タウンの「グロスター・クレセント通り」について、「ヴィクトリアン様式の家が立ち並ぶ閑静な住宅街。作家などの文化人たちが多く暮らしている」と述べられています。

(注12)ミス・シェパードが乗っている車の外観(汚いものを入れた袋がたくさん車の周囲に積まれています)とか、漂う臭気(尿を袋に入れて処理しています)などの問題から、いくらベネットの庭先に駐車しているからといって、周囲の住民にかなりの不快感を覚えさせているのではないでしょうか?



★★☆☆☆☆


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幸せなひとりぼっち

2017年01月13日 | 洋画(17年)
 『幸せなひとりぼっち』を渋谷のヒューマントラストシネマで見ました。

(1)スウェーデンで大ヒットした作品というので、映画館に行きました。

 本作(注1)の始めの方は、スーパーで男(オーヴェロルフ・ラスゴード)が花を持ってレジに進みます。
 レジ係が「50クローネです」と言うと、オーヴェは「クーポンを使えば35クローネのはずだ」と咎めます。
 それに対して、レジ係が「1束なら50クローネで、2束なら35クローロネになります」と答えると、オーヴェは「おかしい、店主を出せ」と怒りますが、レジ係が「店主はランチ中です」と言うので取り付く島もありません。

 次の場面は、墓地にある妻・ソーニャ(注2)の墓に2束の花を捧げるオーヴェ。
 オーヴェは「商品1つの価格が商品2つの価格より高いのはおかしいだろう?2つの花束を持ってくるのは今回だけだ」と墓に向かって話しかけます。

 そこでタイトルが流れます。

 次の場面では、オーヴェが自宅を出て近所を歩いています。
 道路に煙草の吸殻が落ちていると、彼はそれを拾います。
 また、置かれている車のナンバーをノートに書き入れたり、ゴミ捨て場を見て、分別の仕方の誤りを正したりします。
 さらには、砂場に入って、砂の中に潜っているおもちゃを引き出したりもします。
 彼は、今では自治会長ではないのですが、その時と同じように町内の見回りを行っているようです。



 今度は、オーヴェが働いている会社の事務所。
 会社の若い幹部から、「ここで何年働いています?」と尋ねられ、オーヴェは「43年」と答えます。するとその幹部が、「提案があります。あなたはまだ59歳。他の仕事をしてみてもいいのでは?」と言うので、オーヴェは「まさかクビに?」と驚くと、幹部は「あなたに合ったプログラムを紹介します」と言うのです。
 打ちひしがれたオーヴェが「ただ出ていく方が簡単では?」と言うと、幹部は「餞別があります。ガーデニング用のスコップです」と言って、彼にそれを手渡します。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから物語はどのように進展するのでしょうか?

 本作は、愛する妻に先立たれ、子供もおらずひとりぼっちになってしまったにもかかわらず、相変わらずの頑固ぶりを発揮するために、一層周囲から孤立してしまった男が、隣人との関係を通じて少しずつ変化していく様子を描いています。そして他愛ないエピソードばかりながら、ほどよいユーモアが散りばめられていて、まずまず楽しく見ることができました。

(2)本作は、クマネズミにとっては『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(2010年)以来のスウェーデン映画であり、さらにはスウェーデン映画史上3番目の観客動員数(注3)だということで、とても興味がありました。

 確かに、ユーモアのあるシーンが随所にありますし、またオーヴェとソーニャ(イーダ・エングヴォル)の出会いから一緒に生活するに至るラブストーリーも初々しくて好感が持てます(注4)。



 また、隣に来た一家、特に妊娠しているイラン人の妻・パルヴァネバハ―・パール)とオーヴェとの交流の描き方はなかなか興味深いものがあります(注5)。



 もっと言えば、妻の墓のところで、オーヴェが妻に語りかける話もなかなか味わいがあります(注6)。

 それにしても、本作の主人公のオーヴェについて、公式サイトの「イントロダクション」で「希望を見出せなくなった頑固な老人」とされたり、劇場用パンフレットの「ディレクターズノート」でも「ただの機嫌の悪い老人」と述べられたりして、「老人」扱いされているものの、実際には、上記(1)でも触れているように「59歳」に過ぎないのです(注7)。
 「59歳」ならば、高齢者の定義を75歳以上にしようという提言が行われている今の日本からすれば(注8)、とても「老人」とはいえない年齢でしょう(注9)。

 オーヴェが「老人」の範疇に入らないのであれば、彼が引き起こす様々の騒動も、いわゆる“老人の頑固さ”が生み出すものとも言えず、むしろオーヴェの元来の偏屈な性格がもたらすものではないかとも思えてきます。
 「老人」ならば仕方がないと笑って許容してしまうオーヴェの行動も、そうは笑えなくなるかもしれません。
 もともと、鉄道局に勤務するようになった最初から、彼は曲がったことが大嫌いで、あまり周囲に迎合しようとはしませんでした(注10)。そうした姿勢を43年間続けてきたわけで、見る方としては、こうした男に共感できるのかどうかということになってくるでしょう。

 オーヴェが、仮に70歳位の「老人」であれば、彼の人間としての価値ということよりも、むしろ「頑固な老人」の愉快な行動が描かれている、あるいは現代社会に共通する社会問題の一つではないかなどと受け止められることでしょう。
 年齢設定は、意外と重要な設定項目になるのではと思ったところです。

(3)村山匡一郎氏は、「冒頭のどこでも見かける頑固親父の姿から、物語の進展につれて次第に彼の人生が紐解かれていくが、映像はそんな主人公の出来事を、パネルを積み重ねるように描き出すことで、ノスタルジーを漂わせる素朴だが味わい深い世界となっている」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 毎日新聞の鈴木隆氏は、「年末に、疲れた心を温かくさせてくれるスウェーデン映画の佳作だ」と述べています。



(注1)監督・脚本はハンネス・ホルム
 原作はフレドリック・バックマンの小説『幸せなひとりぼっち』(ハヤカワ文庫NV)。
 原題は『En man som heter Ove』(英題は「A Man Called Ove」)。
 なお、邦題の「幸せのひとりぼっち」というのは、本作の内容とは相当乖離しているように思います。

(注2)ソーニャは、数か月前に癌で亡くなっているようです。

(注3)劇場用パンフレットに掲載されたヨハン・ノルドストム氏のエッセイ「“En man som heter Ove”はなぜ国民から支持されたのか?」によります。
 なお、ヨハン・ノルドストム氏は、そのエッセイで本作がスウェーデンでヒットした理由をいくつも上げていますが、その中で、本作で描かれている「北欧的ブラック・ユーモア」(例えば、「人生に嫌気がさし、天国の妻に会うのが待ちきれなくなったオーヴェの度重なる自殺未遂の描写」)を指摘しているのは興味深いことです。

(注4)自宅の火事で焼け出されたオーヴェが客車で睡眠をとっていて目を覚ましたら、列車は動き出していて、傍の席には本を読む若い女性・ソーニャがいたのです。彼女はオーヴェに、「教師志望なの」と言い、読んでる本はブルガーコフだと言います。彼女は、所持金のないオーヴェに代わって、車掌に料金を支払ってくれました。そのお礼をしようと彼女を探しますが、なかなか見つからなかったところ、3週間したら出会うことができて、そして、………(なお、最初のデートの時、ソーニャは15分遅刻します)。

(注5)オーヴェが亡くなった妻ソーニャのもとに行こうと自殺をしかかったところ、外で大きな音がしたので、何事だとばかりオーヴェが外に出てみると、隣に引っ越してきた一家のパトリックが、車を駐車場に入れようとして、オーヴェの家の郵便受けにぶつけてしまったのです。オーヴェは、仕方なく、その車を運転してバックで駐車場に入れてあげます。こうしてオーヴェと隣の一家との交流が始まります。

(注6)上記「注5」の出来事があった後、オーヴェは妻の墓に行って、「昨日、そっちへ行けなくってすまなかった。近頃の者は、車のバックもできないし、自転車のパンクも直せない」「お前がいてくれたなら!」と嘆き、「急げば、強にもそっちへ行けるかも」と付け加えます。
 (別の機会には、なかなか自殺できないことについて、オーヴェは妻の墓に対し「お前を待たせるのは初めてだな」と言ったりします←上記「注4」の末尾のカッコ内の「15分遅刻」が響くことでしょう)。

(注7)オーヴェを演じるロルフ・ラスゴードも1955年生まれで、せいぜい62歳といったところです。
 なお、オーヴェの年来の友人で、オーヴェから自治会長のポストを奪ったルネも、今や身動きができない車椅子生活の身で、オーヴェ以上に「老人」になってしまっています。

(注8)例えば、この記事
 尤も、「高齢者」と「老人」とは意味内容が異なるのかもしれませんが。

(注9)劇場用パンフレットの「ストーリー」では「愛する妻を亡くした孤独な“中年男”オーヴェ」とされています。スウェーデンも、日本と同じように、平均寿命が伸びていて、同じように社会の高齢化が進んでいるのではないでしょうか〔スウェーデンの男の平均寿命(2015年)は80.7歳で女のそれは84.0歳〕?

(注10)オーヴェが少年の頃、鉄道局に勤めていた父の職場に行った時に、客が落とした財布を巡って、父から、「何事も正直が一番だ。ただ、正直には後押しが必要だ」と言われたことが大きいように思われます。



★★★☆☆☆



象のロケット:幸せなひとりぼっち
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アズミ・ハルコは行方不明

2017年01月10日 | 邦画(17年)
 『アズミ・ハルコは行方不明』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)久しぶりに蒼井優の主演作ということで、遅ればせながら映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、車のハンドルを握る手が大写しになります。
 そして、ドラッグストアの駐車場に停まったその車から、女(安曇春子蒼井優)が出てきて、タバコを吸います。傍の電柱には「探しています」のビラが貼られています。

 次の場面は、ミニシアター。
 館内では、一杯の女子高生が騒いでいますが、ブザーが鳴ると、場内は暗くなります。

 さらに、男(葉山奨之)が女子高生の一団にボコボコにされます。
 ラジオから「少女ギャング団による暴行事件が起きています。警察は、夜、男性が一人で歩かないよう異例の通達を出しました」との音声が。

 場面はまた変わって、2人の男〔学とユキオ太賀)〕と女(愛菜高畑充希)が、街のあちこちの壁などに、スプレーでアズミ・ハルコの顔を描いたり、ビラを貼ったりしながら走り回ります。

 次は、結婚式の2次会。
 女(今井菊池亜希子)が「キャバのお客さんと結婚したけど離婚した」と言うと、もう一人の女(春子)は「大変だね」と応じ、さらに今井が「結婚生活ってマジ大変」、「あいつ、1回も皿洗わなかった」と言うと、春子は笑います。

 警官(加瀬亮)が交番から出てきて、「探しています 安曇春子」のビラを掲示板に貼ります。そして、ここで本作のタイトルが流れます。

 さあ、この後物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 様々のエピソードが時系列的にきちんと並べられて映し出されず、行ったり来たりするために、最初のうち見ている方はかなり混乱してしまい、よくわからない点が色々残ってしてしまいますが、次第に見る方の頭も整理されてくると、異なる世代の女性が男性との関係で様々の問題を抱えながらも、エイっと前に向かっていこうとする姿が、実にエネルギッシュに捉えられていることがわかり、なかなか面白いと思いました。

(2)本作では、相互にあまり関係性を持たない3つのレベルの物語がつなぎあわされており、それも、時系列的にバラバラに映し出されるので(注2)、始めのうちは酷く混乱してしまいます。
 一つは、安曇春子が失踪するまでのお話、もう一つは、愛菜とユキオと学がグラフティーアートを街中に拡散する物語、さらに女子高生の集団が出会う男をボコる話、という具合。



 でも、それらの詳細は、劇場用パンフレットに掲載されている3段の年表に時系列的に書き込まれているので(注3)、ここに一々取り上げるまでもないでしょう。

 この映画で感じたのは、ともすれば動きのない安定した伝統的で保守的なものに囚われて埋没してしまいかねない地方都市(注4)で暮らしている女性たちが、都市の内部でうごめいている動的で破壊的なものによって突き崩され、新たな方向に進もうとする様子が、実にエネルーギーあふれる映像によって面白く描かれている点です。
 それには、本作のような時系列に囚われない描き方が随分と寄与しているように思います。

 そして、本作に登場する女性陣は、実に前向きであり、あるいはこの先何かが変わるかもしれません(注5)。
 他方、これに対する男性陣といえば、何かが変わる未来など望むべくもありません(注6)。

 ただ、この物語の要ともいえる春子の行方不明については、どうもよくわかりません。
 確かに、春子を取り巻く環境は相当劣悪で(注7)、それに幼馴染との関係が上手く行かなくなれば(注8)、いたたまれない気持ちになるのもわかります。
 でも、人はそんなことでいきなり失踪してしまうものでしょうか(注9)?
 常識的には、せいぜい、住む場所を変えて一人暮らしをするといったあたりではないでしょうか?
 それに、春子が姿を消したからと言って、警察に捜索願を出すのは誰なのでしょう(注10)?
 さらに言えば、本作のような状況においては、捜索願が出されても、警察の方は書類を作成するだけで、何も動かないのが通常なのではないでしょうか(注11)?
 実際のところも、ラストで瑠樹を抱いて春子が現れたところからすると、失踪後、高校時代の友人である今井の家で暮らしていたように思えます。人が姿を消した時、家人が真っ先に調べるのは友人関係であり、本作でも、親が今井の家に電話をすれば、春子がソコにいることなどすぐにわかるのではないでしょうか(注12)?

 そんなことはともかく(注13)、テロなどに襲われたりして厳しい状況に置かれている他の先進国に対して、総じて実に穏やかで何事も起こらなかった年末年始の島国日本を見ると、もしかしたら、本作は、閉塞した地方都市の有様を描いているのみならず、ガラパゴス化現象を呈している日本の現状そのものを描いているのかもしれない、と思ったりしました。

(3)渡まち子氏は、「女性が抱える鬱屈や諦念は、不思議なほど伝わってくるし、垢ぬけない場所で暮らすモヤモヤと未来への不安、それでも生きていく強さが、時系列を崩しエピソードをシャッフルしたぐちゃぐちゃな構成から、フワリと伝わってくる」として70点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「(登場人物)すべてに共通しているのは、地方都市の閉塞感を意識化することなく体感していることであり、女性にはさらに、男有利な社会への嫌悪感がある。こちらは、つよく意識され、彼女たちを行動に駆りたてる。その感覚はつたわってくるが、トリッキーな話法に気をとられて、うすまってしまった感もある。また、春子の世代以外の人物が、内面のない点景になってしまっているのも不満」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 林瑞絵氏は、「1度目の鑑賞で日本の今を活写する手腕に瞠目し、2度目で伏線の有機的つながりに気づき人間ドラマの深みも感じた。DVDやビデオ・オン・デマンドと映像視聴スタイルが多様化する中、再視聴まで計算した快作だ」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「監督を含め、ほとんどが20~30代のスタッフとキャストで製作された今作は若い世代の思いや感性が至るところに発露し、突っ込みどころも含めて楽しめる斬新な映画だ」と述べています。



(注1)監督は、『アフロ田中』の松居大悟
 脚本は瀬戸山美咲
 原作は、山内マリコ著『アズミ・ハルコは行方不明』(幻冬舎文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、蒼井優は『オーバー・フェンス』、高畑充希は『怒り』、太賀は『淵に立つ』、葉山奨之は『流れ星が消えないうちに』、加瀬亮は『FOUJITA』、菊池亜希子は『海のふた』、山田真歩は『永い言い訳』で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、上記(1)で触れたミニシアターの場面は、本作のラストの方で映し出される場面(女子高生らは、ミニシアターを出ると攻囲する警官隊に遭遇しますが、彼女らが指で拳銃を撃つ真似をすると警官たちは倒れてしまい、その間を抜けて街の方に走り去ります)のすぐ前のものなのです。
 なお、雑誌『シナリオ』(2017.1)に掲載されたインタビュー記事の中で、監督の松居大悟氏と脚本の瀬戸山美咲氏は、「時系列をぐちゃぐちゃにしようというのは?」とのインタビュアーの質問に対し、松居氏が「原作が結構シンプルな話だから、これを普通にやってしまうと、勿体ない(と考えた)」と答えた後、さらに「松居:最初に瀬戸山さんに(原作にある)出来事を書き出してもらって/瀬戸山:それを切って短冊にして、会議室の机にワーッと並べて/松居:まあ、最初はこれでしょうって/瀬戸山:これはここじゃないかなって言いながら(シーンの流れを作り上げていった)」と述べています。

(注3)同年表は、安曇春子、木南愛菜、それに女子高生の3段に縦に分けられ、例えば安曇春子については、1995年7月の「〔曽我祖父の家・前〕(小学校時代)春子・曽我 段ボール箱の子猫」という記事から掲載されています。
 なお、マスコミ試写会時にプレスシートとして配布されたもの(劇場用パンフレットと内容は類似するように思われます)の中にもあるようです。

(注4)本作の主な舞台は足利市。
 ちなみに、最近のアニメ『聲の形』の大垣市とかアニメ『この世界の片隅に』の呉市、かなり以前の蒼井優主演作の『百万円と苦虫女』のさいたま市など、映画で取り上げられた地方都市は、とかく印象に残ります。

(注5)ミニシアターを飛び出した女子高生たちは、春子の幼馴染の曽我石崎ひゅーい)や学などを襲った後も、どんどん前に進んでいくのでしょう。
 また、曽我と一緒になろうとした春子、ユキオが好きだった愛菜、出戻りの今井、今井の息子の瑠樹は、ラストで同じ車に乗って海に向かって出発します〔本文の(1)でも触れているように、今井は、春子と高校時代仲良しで、同じ仲良しだったひとみ芹那)の結婚式で再会します。今井と愛菜は、キャバクラで先輩・後輩の仲〕。
 さらに言えば、春子が勤務する会社の先輩である吉澤山田真歩)も、社長(国広富之) らの冷たい視線や言葉を長年浴び続けていましたが、フランス系外国人と結婚してアフリカへ行くことになります。

(注6)春子が付き合っていた曽我にしても、どうやって暮らしているのかよくわからないそれまでの生活を続けていくのでしょうし、ユキオは土建の現場に出ていますし、アーティストになる夢が破れた学にしても、どこかに就職しなければと考えるようです。

(注7)春子の家は、祖母が認知症で満足に食事もできないことから、母親が絶えず苛ついているにもかかわらず、父親は我関せずとばかりにTVを見ているといった最悪の雰囲気です。また、春子の勤務先の会社でも、社長らの女子社員に対するセクハラ・パワハラ的な言動がどんどんヒートアップしています。

(注8)曽我が、結婚したばかりのひとみと付き合っていることを知って、春子は、彼に「好きだから付き合ってほしい」と訴えるのですが、「バカじゃないの」などと言われ突き放されてしまいます。

(注9)夢ランドで出会った時、ユキオに捨てられて「ユキオに復讐する」「死にたい」「死ねばユキオが悲しむ」と言う愛菜に対し、春子は、「死んだって、忘れるだけ」「幸せに暮らすことがユキオへの復讐になる」「一度消えてしまえば」「行方不明になった女の子は、ヘラヘラ笑いながら何処かで生きている」などと言います。
 春子は、自分と付き合おうとしない曽我に復讐しようとして行方不明という道を選んだのでしょうか?それにしては、曽我は随分とダメ男のように描かれていますが。

(注10)春子の家では、春子の存在は、両親の関心事項の外にあったかのように見えます(30歳近くにもなったのだから、早いところ結婚して家を出てくれというところでしょうか)。

(注11)失踪に事件性(殺人とか誘拐といった)があれば別でしょう、ですが、春子の場合にはそんなものはありえません。
 さらに言えば、交番の警官が行方不明のビラを掲示板に貼るといったことも、通常なら行われないのではないでしょうか?第一、そのビラは誰の費用によりどこで作成されたものなのでしょう?

(注12)あるいは、親からの電話に対して「知らない」と答えてほしいと、春子は今井に頼んでいるのかもしれません。でも、狭い地方都市のことですから、春子が今井の家にいることくらい、情報としてすぐに春子の家に届くのではないかと思います。

(注13)警察庁が作成した「平成27年中における行方不明者の状況」(平成28年6月)によれば、「行方不明」の原因のうち、「家族関係」が「疾病関係」に次いで多く(19.6%)、「異性関係」も2.0%ありますから、安曇春子のような事例もありうるのでしょう。
 なお、平成26年の「行方不明者届受理数」が82,035人なのに対し、所在確認数は80,232人となっています。



★★★☆☆☆



象のロケット:アズミ・ハルコは行方不明
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日本インターネット映画大賞―2016年度投票

2017年01月06日 | その他
 明けましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願い申し上げます。

 昨年は、邦画57本、洋画48本の合計107本について、そのレビュー記事を拙ブログに掲載いたしました。邦画と洋画の見た数に結果として10ほどの差が出てしまったのは、昨年の邦画が全般的に質が高かったことを反映しているように思われます。
 
 さて、本年も、日本インターネット映画大賞運営委員会様から投票のお誘いを受けましたので、よろこんで応募することとし、投票内容をここに掲載いたします。

 なお、以下で選び出した作品は、拙ブログに昨年アップしたエントリにおいて付けた星の数が4つ以上のものの中から選び出しました。

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[作品賞投票ルール(抄)]
■選出作品は3作品以上5作品まで
■選出作品は2015年1月~2016年12月公開作品
■1回の鑑賞料金(通常、3D作品、4DX作品、字幕、オムニバス等)で1作品
■持ち点合計は15点
■順位で決める場合は1位5点、2位4点、3位3点、4位2点、5位1点を基礎点
■作品数で選ぶ場合は3作品各5点、4作品各3.75点、5作品各3点
■自由に点数を付ける場合は1点単位(小数点は無効)とし1作品最大点数は10点まで可能
■各部門賞に投票できるのは個人のみ
■ニューフェイスブレイク賞は男優か女優個人のみ
■音楽賞は作品名で投票
■私(ユーザー名)が選ぶ○×賞は日本映画外国映画は問いません
■日本映画の作品賞もしくは外国映画の作品賞に3作品以上の投票を有効票
■以上のルール満たさない場合は賞の一部を無効

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日本映画

【作品賞】
1位  「葛城事件       」    
2位  「リップヴァンウィンクルの花嫁」    
3位  「この世界の片隅に   」    
4位  「モヒカン故郷に帰る  」    
5位  「シン・ゴジラ    」    
【コメント】
 ダントツに優れていて心底圧倒された3作に、広島の年だった昨年を象徴する作品と、怪獣物として面白かった作品を加えてみました。

【監督賞】          
   [片渕須直(「この世界の片隅に」)]
【コメント】
 細部に対する監督の強いこだわりに驚くとともに、全体をラブストーリーとしてもまとまりのあるものに仕上げている点に、感服いたしました。

【最優秀男優賞】
   [三浦友和(「葛城事件」)]
【コメント】
 これまでの出演作には見られない迫真性のある演技は素晴らしいと思いました。

【最優秀女優賞】
   [宮沢りえ(「湯を沸かすほどの熱い愛」)]
【コメント】
 この女優の突き抜けた演技がなかったら、この作品はここまで面白いものにならなかったと思います。

【ニューフェイスブレイク賞】
   [杉咲花(「湯を沸かすほどの熱い愛」)]
【コメント】
 最早“新人”ではないのかもしれませんが、まだ19歳でもありますし、それにこれまでこの賞を受賞していないので。

【音楽賞】
  「君の名は。    」
【コメント】
 RADWIMPSが制作した主題歌や劇伴は、この作品にピッタリ寄り添っています。

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外国映画

【作品賞】
1位  「グランドフィナーレ  」    
2位  「スティーブ・ジョブズ 」    
3位  「キャロル       」    
4位  「PK ピーケイ     」    
5位  「山河ノスタルジア   」    
【コメント】
 1位の作品は、人生の晩年を音楽などの中で実に巧みに美しく捉えていると思いましたし、2位の作品では、偉大な男の特別な時期だけを取り出して上手く映画に仕上げているのに感心しました。3位と4位の作品は主演の俳優の力量が最大限に発揮されていると思いましたし、5位の作品のラストシーンは忘れられません。

【監督賞】          
   [ダニー・ボイル(「スティーブ・ジョブズ」)]
【コメント】
 2013年制作のものとは全く異なる作品に仕上げた手腕は高く評価されるべきだと思います。

【最優秀男優賞】
   [アーミル・カーン(「PK ピーケイ」)]
【コメント】
 実際には50歳を超えているにもかかわらず、実に若々しい肉体と演技を披露するのに驚きました。

【最優秀女優賞】
   [ケイト・ブランシェット(「キャロル」)]
【コメント】
 「ブルージャスミン」の演技も素晴らしいと思いましたが、「キャロル」における存在感は圧倒的でした。

【ニューフェイスブレイク賞】
   [マティルデ・ジョリ(「人間の値打ち」)]
【コメント】
 既に27歳ながら、美貌の持ち主であり、「人間の値打ち」で映画デビューし、半端でない演技力を披露しています。

【音楽賞】
  「ブルーに生まれついて 」
【コメント】
 主演のイーサン・ホークが歌う歌や、映画の中で演奏されるトランペットにうっとりとしました。
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【私が選ぶ○×賞】
   [名が体を表わさないで賞] (「君がくれた物語」)
【コメント】
 本作の原作者のベストセラー小説「きみに読む物語」に引きずられたのでしょうが、この邦題の意味するところがサッパリわかりません!

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 この内容(以下の投票を含む)をWEBに転載することに同意する。
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