『はじまりのみち』を東銀座の東劇で見ました。
(1)本作は、木下恵介監督生誕100周年記念として制作された作品で、その若き日の姿を一つのエピソードを中心にクローズアップして描いています。
木下監督は、終戦を1年ほど後に控えた32歳(昭和19年)の時に、監督として『陸軍』を制作したものの、そのラストが戦時下の映画にしては女々しすぎると当局に睨まれ、次の映画の監督から降ろされてしまいます。
それでやる気を失った正吉(「木下恵介」の本名:加瀬亮)が、会社に辞表を出すところから映画は始まります(注1)。
正吉は、松竹の城戸社長(大杉漣)の強い説得にもかかわらず、辞めて浜松の実家に戻ります(注2)。
浜松では、脳溢血で倒れ動けない母親・たま(田中裕子)が療養しているところ(注3)、戦局の悪化に鑑みて、母親と一緒にずっと山奥の知り合いの家(注4)に疎開することになります。
道中の母親の負担を軽くするために、バスなどを使わずに、材木を運ぶ気動車が走っているところまで自分たち〔正吉の他に、兄の敏三(ユースケ・サンタマリア)と便利屋と称する男(濱田岳)〕でリヤカーを使って運びますが、距離が長い上に峠越えがあったりします。
はたして上手く目的地に到達できるでしょうか、……?
クマネズミは、木下恵介監督の作品に関し、『二十四の瞳』などほんのわずかしか見ていないところ、本作は、木下監督と母親との情愛の籠もった関係を、病気の母親が乗ったリヤカーを引いて峠を越えるという、困難ながらも実に単純な行動を通して(注5)、誠に上手く描き出しているなと思いました。
俳優陣は、主役の正吉に扮する加瀬亮、またその兄に扮するユースケ・サンタマリア、そして便利屋を演じる濱田岳の3人がそれぞれその持ち味を如何なく発揮していると思います。また、正吉たちの母親となる田中裕子は、半身不随で満足に口がきけないという難しい役柄ながら、実に味わい深い演技を披露します(注6)。
(2)若干注釈めいたことを記しておきます。
イ) 本作はいつの話しなのでしょう?
劇場用パンフレットの冒頭に掲載されている木下監督のエッセイ「底力」(昭和30年の毎日新聞に掲載されたもの)には、本作のエピソードは「昭和19年の晩夏」の出来事とされているところ、長部日出雄著『新編 天才監督 木下恵介』(論創社、2013.5)に記載の「木下恵介 年譜」では、昭和20年の6月18日の浜松空襲と8月15日の終戦の間に本作のエピソードが掲載されています(P.552:同書の本文の方でも詳しい日取りは書かれていません)。
おそらく本作のエピソードは、「昭和20年の初夏」の話ではないかと考えられます。
ロ)正吉は、戦時下にもかかわらず戦争に行かずに、なぜ映画を撮ったり、あるいは実家に戻ったり出来たのでしょう?
本作には、便利屋が正吉に対して、「兵隊は?」と尋ねると、正吉が「中支」と答える場面が設けられています。
この点に関しては、上記の長部氏の著書に掲載されている年譜を見てみると(P.550~P.551)、正吉は、昭和15年(28歳)の「10月下旬に召集令状を受け、11月1日、名古屋の中部第十三部隊輜重兵第三聯隊補充兵に入隊」し、翌年、「中国大陸の中心部に位置する湖北省の商都漢口へ着」きます。
ただ、「前線の基地へ物資を輸送する作戦の途次」、「作業中の事故で「左側アキレス腱腱鞘炎兼左眼角膜出血」の怪我をして」、野戦病院に収容され、さらに後方の南京陸軍病院に送られました。
でも、その病院内で刊行されている文芸誌に正吉が短歌(注7)を投稿したところ、それに「目をとめた軍医によって」、「内地の陸軍病院に転送され、8月15日、召集解除」となります。
長部氏によれば、正吉は、怪我をしてしまい強行軍の速度について行けず、「いっそ自決した方が……とおもいつめ」るものの、野戦病院に入院してからは、幸運が「次から次へと連鎖して生じ」、ついには本作で描かれるエピソードに至るというわけなのでしょう(同書P.111~P.112)。
ハ)便利屋は、さらにもう一つ正吉に質問すべきだったでしょう、「奥さんや子どもは?」と。なにしろ、そのとき正吉は33歳の立派な大人になっており、また時代も“産めよ、増やせよ”がスローガンだったのですから!
長部氏の著書には、正吉の結婚について2箇所で触れられています。
まず、キャメラマンの楠田浩之と正吉の妹・芳子との結婚式が、昭和19年3月に神田明神で執り行われた際に、「媒酌人の役を務めたのは、木下恵介夫妻であった」と述べられています(P.149)。
さらに、同書の第6章(P.216~P.217)では、「恵介には短期間ではあったけれど結婚(と果たしていえるかどうか疑問なのだが)したことがあった」が、「入籍しなかったので、戸籍謄本に具体的な事実関係について知る手がかりはな」いと述べてあります(注8)。
こんなこともあって生涯独身だった木下監督については、ホモセクシャルではないかといわれたりしますが、何の情報もないのでこれ以上の深入りは出来ません(注9)。
(3)渡まち子氏は、「初の実写映画にチャレンジしたアニメーションの俊英・原恵一の演出は堅実で、戦争の荒波の中での親子愛、映画作りへの情熱を丁寧に描いた良作に仕上がった」として60点を付けています。
(注1)実際には、その前に、海岸に設けられた小さなスクリーンに、木下監督のデビュー作『花咲く港』(1943年:山中貞夫賞を受賞)のクレジット(「演出 木下恵介」)が映し出されるところから映画は始まります。
(注2)正吉は、大船撮影所に辞表を出して浜松に帰りますが、松竹の方では、城戸社長の意向から、籍は残してありました。それで、正吉は、母親を浜松の山奥に運んだあと、再び大船に戻ることになります。
本作では、山奥の家に落ち着いた母親が、筆談などで、「木下恵介の映画が見たい。あなたがいるべき場所は、ここではないような気がする。あなたは映画のそばに戻れ。戦争が永遠に続くはずがない。作りたいものを作れる時代が来る。作りたいものを作り続けなさい」などと正吉に話す感動的な場面が設けられています。
(注3)母親は、正吉と一緒に東京・蒲田で暮らしていたところ、1944年の暮れの空襲の最中(『陸軍』の封切りの1週間ほど前)、脳溢血で倒れ、浜松の親戚の家で療養していました。
(注4)木下家の持ち山を管理してくれていた人の家。
(注5)さらには、道中で味わった人情(あちこちで断られた宿泊も、旅館「澤田屋」が快く引き受けてくれました:旅館の主人役に光石研、女将役に濱田マリ)とか、便利屋の気前の良さなども加味されて。
(注6)最近では、加瀬亮は『俺俺』で、ユースケ・サンタマリアは『カラスの親指』で、濱田岳は『俺はまだ本気出してないだけ』で、田中裕子は『春との旅』で、それぞれ見ています。
その他に、本作には、学校の先生役に宮崎あおいが扮しています。まるで『二十四の瞳』の中の出来事のような短いシーンながら、大層印象に残ります。
(注7)「竹竿に 手拭むすび ゆきゆきつ 春をも知らで 君は狂ひし」
長部氏の著書によれば、南京陸軍病院で正吉が見かけた「戦場で狂者となった兵隊」の姿を詠んでいるとのことです(同書P.113)。
(注8)なお、同書によれば、木下監督自身は、その自伝で「入籍寸前まで行って、いわゆる性格の不一致から解消した結婚話まであった」と述べているようです。
長部氏は、「木下家の家族関係から考えるなら、八方手を尽くしてこの結婚話をまとめたのは、母のたま以外にあり得ない」とし、「恵介は、最愛の母の熱心な勧めにしたがって見合いをし、いったんは結婚を承知した。けれど、誰よりも愛する母が選んでくれた女性だからこそ、彼女と性的関係を結ぶことはできなかった……。これが筆者の独断的な推理である。(結婚が破局に終わったあと、相手の女性は、仲立ちの役をした人に、男女の関係はなかった、と話した)」と述べています(P.217)。
(注9)例えば、このサイトの記事が参考になるかもしれません。
★★★★☆
(1)本作は、木下恵介監督生誕100周年記念として制作された作品で、その若き日の姿を一つのエピソードを中心にクローズアップして描いています。
木下監督は、終戦を1年ほど後に控えた32歳(昭和19年)の時に、監督として『陸軍』を制作したものの、そのラストが戦時下の映画にしては女々しすぎると当局に睨まれ、次の映画の監督から降ろされてしまいます。
それでやる気を失った正吉(「木下恵介」の本名:加瀬亮)が、会社に辞表を出すところから映画は始まります(注1)。
正吉は、松竹の城戸社長(大杉漣)の強い説得にもかかわらず、辞めて浜松の実家に戻ります(注2)。
浜松では、脳溢血で倒れ動けない母親・たま(田中裕子)が療養しているところ(注3)、戦局の悪化に鑑みて、母親と一緒にずっと山奥の知り合いの家(注4)に疎開することになります。
道中の母親の負担を軽くするために、バスなどを使わずに、材木を運ぶ気動車が走っているところまで自分たち〔正吉の他に、兄の敏三(ユースケ・サンタマリア)と便利屋と称する男(濱田岳)〕でリヤカーを使って運びますが、距離が長い上に峠越えがあったりします。
はたして上手く目的地に到達できるでしょうか、……?
クマネズミは、木下恵介監督の作品に関し、『二十四の瞳』などほんのわずかしか見ていないところ、本作は、木下監督と母親との情愛の籠もった関係を、病気の母親が乗ったリヤカーを引いて峠を越えるという、困難ながらも実に単純な行動を通して(注5)、誠に上手く描き出しているなと思いました。
俳優陣は、主役の正吉に扮する加瀬亮、またその兄に扮するユースケ・サンタマリア、そして便利屋を演じる濱田岳の3人がそれぞれその持ち味を如何なく発揮していると思います。また、正吉たちの母親となる田中裕子は、半身不随で満足に口がきけないという難しい役柄ながら、実に味わい深い演技を披露します(注6)。
(2)若干注釈めいたことを記しておきます。
イ) 本作はいつの話しなのでしょう?
劇場用パンフレットの冒頭に掲載されている木下監督のエッセイ「底力」(昭和30年の毎日新聞に掲載されたもの)には、本作のエピソードは「昭和19年の晩夏」の出来事とされているところ、長部日出雄著『新編 天才監督 木下恵介』(論創社、2013.5)に記載の「木下恵介 年譜」では、昭和20年の6月18日の浜松空襲と8月15日の終戦の間に本作のエピソードが掲載されています(P.552:同書の本文の方でも詳しい日取りは書かれていません)。
おそらく本作のエピソードは、「昭和20年の初夏」の話ではないかと考えられます。
ロ)正吉は、戦時下にもかかわらず戦争に行かずに、なぜ映画を撮ったり、あるいは実家に戻ったり出来たのでしょう?
本作には、便利屋が正吉に対して、「兵隊は?」と尋ねると、正吉が「中支」と答える場面が設けられています。
この点に関しては、上記の長部氏の著書に掲載されている年譜を見てみると(P.550~P.551)、正吉は、昭和15年(28歳)の「10月下旬に召集令状を受け、11月1日、名古屋の中部第十三部隊輜重兵第三聯隊補充兵に入隊」し、翌年、「中国大陸の中心部に位置する湖北省の商都漢口へ着」きます。
ただ、「前線の基地へ物資を輸送する作戦の途次」、「作業中の事故で「左側アキレス腱腱鞘炎兼左眼角膜出血」の怪我をして」、野戦病院に収容され、さらに後方の南京陸軍病院に送られました。
でも、その病院内で刊行されている文芸誌に正吉が短歌(注7)を投稿したところ、それに「目をとめた軍医によって」、「内地の陸軍病院に転送され、8月15日、召集解除」となります。
長部氏によれば、正吉は、怪我をしてしまい強行軍の速度について行けず、「いっそ自決した方が……とおもいつめ」るものの、野戦病院に入院してからは、幸運が「次から次へと連鎖して生じ」、ついには本作で描かれるエピソードに至るというわけなのでしょう(同書P.111~P.112)。
ハ)便利屋は、さらにもう一つ正吉に質問すべきだったでしょう、「奥さんや子どもは?」と。なにしろ、そのとき正吉は33歳の立派な大人になっており、また時代も“産めよ、増やせよ”がスローガンだったのですから!
長部氏の著書には、正吉の結婚について2箇所で触れられています。
まず、キャメラマンの楠田浩之と正吉の妹・芳子との結婚式が、昭和19年3月に神田明神で執り行われた際に、「媒酌人の役を務めたのは、木下恵介夫妻であった」と述べられています(P.149)。
さらに、同書の第6章(P.216~P.217)では、「恵介には短期間ではあったけれど結婚(と果たしていえるかどうか疑問なのだが)したことがあった」が、「入籍しなかったので、戸籍謄本に具体的な事実関係について知る手がかりはな」いと述べてあります(注8)。
こんなこともあって生涯独身だった木下監督については、ホモセクシャルではないかといわれたりしますが、何の情報もないのでこれ以上の深入りは出来ません(注9)。
(3)渡まち子氏は、「初の実写映画にチャレンジしたアニメーションの俊英・原恵一の演出は堅実で、戦争の荒波の中での親子愛、映画作りへの情熱を丁寧に描いた良作に仕上がった」として60点を付けています。
(注1)実際には、その前に、海岸に設けられた小さなスクリーンに、木下監督のデビュー作『花咲く港』(1943年:山中貞夫賞を受賞)のクレジット(「演出 木下恵介」)が映し出されるところから映画は始まります。
(注2)正吉は、大船撮影所に辞表を出して浜松に帰りますが、松竹の方では、城戸社長の意向から、籍は残してありました。それで、正吉は、母親を浜松の山奥に運んだあと、再び大船に戻ることになります。
本作では、山奥の家に落ち着いた母親が、筆談などで、「木下恵介の映画が見たい。あなたがいるべき場所は、ここではないような気がする。あなたは映画のそばに戻れ。戦争が永遠に続くはずがない。作りたいものを作れる時代が来る。作りたいものを作り続けなさい」などと正吉に話す感動的な場面が設けられています。
(注3)母親は、正吉と一緒に東京・蒲田で暮らしていたところ、1944年の暮れの空襲の最中(『陸軍』の封切りの1週間ほど前)、脳溢血で倒れ、浜松の親戚の家で療養していました。
(注4)木下家の持ち山を管理してくれていた人の家。
(注5)さらには、道中で味わった人情(あちこちで断られた宿泊も、旅館「澤田屋」が快く引き受けてくれました:旅館の主人役に光石研、女将役に濱田マリ)とか、便利屋の気前の良さなども加味されて。
(注6)最近では、加瀬亮は『俺俺』で、ユースケ・サンタマリアは『カラスの親指』で、濱田岳は『俺はまだ本気出してないだけ』で、田中裕子は『春との旅』で、それぞれ見ています。
その他に、本作には、学校の先生役に宮崎あおいが扮しています。まるで『二十四の瞳』の中の出来事のような短いシーンながら、大層印象に残ります。
(注7)「竹竿に 手拭むすび ゆきゆきつ 春をも知らで 君は狂ひし」
長部氏の著書によれば、南京陸軍病院で正吉が見かけた「戦場で狂者となった兵隊」の姿を詠んでいるとのことです(同書P.113)。
(注8)なお、同書によれば、木下監督自身は、その自伝で「入籍寸前まで行って、いわゆる性格の不一致から解消した結婚話まであった」と述べているようです。
長部氏は、「木下家の家族関係から考えるなら、八方手を尽くしてこの結婚話をまとめたのは、母のたま以外にあり得ない」とし、「恵介は、最愛の母の熱心な勧めにしたがって見合いをし、いったんは結婚を承知した。けれど、誰よりも愛する母が選んでくれた女性だからこそ、彼女と性的関係を結ぶことはできなかった……。これが筆者の独断的な推理である。(結婚が破局に終わったあと、相手の女性は、仲立ちの役をした人に、男女の関係はなかった、と話した)」と述べています(P.217)。
(注9)例えば、このサイトの記事が参考になるかもしれません。
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