映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ザ・コール 緊急通報指令室

2013年12月24日 | 洋画(13年)
 『ザ・コール 緊急通報指令室』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思い映画館に行ってきました。

 本作のはじめの方で、主人公のジョーダンハル・ベリー)が、「911」の緊急通報指令室に入ってきた携帯電話からの通報を受け取ります。
 それが「誰かが家の中に入ってくる!独りなの」という内容だったことから、ジョーダンは、一方で、「現場に急いで」とパトカーに連絡するとともに、他方で通報者の少女レイアには、「直ぐに警察が着く」、「電話は切らないで」、「窓はある?」などと話します。
 窓ガラスを割って家の中に侵入した男は、あちこち探し回った挙句、窓が開いていてその下に靴が投げ出されるのを見ると、家から出ていこうとします。
 ホッとしたレイアが携帯を切ってしまうと、丁度その時に、ジョーダンから電話が入り、レイアが手にしている携帯の呼び出し音が鳴ってしまいます。
 その音に気づいた男が戻って、ベッドの下に隠れているレイアを引きずり出して、………。

 その時の失敗にジョーダンは酷く落ち込みますが、気を取り直して新人研修を行っています。講義の後に新人たちと緊急通報指令室内を見回っている最中、男に誘拐されて車のトランクに押し込められた少女ケイシーアビゲイル・ブレスリン)が、「911」に携帯電話をかけてきたのに遭遇します。
 事態の重大さを見てとって、ジョーダンが受け取って対応することになります。



 ですが、ケイシーが運ばれている車の位置がなかなか判明しないため、ケイシーもジョーダンも焦ります。時間が無駄に流れていきますが、ケイシーは無事に助かるのでしょうか、………?

 見る前は、緊急通報指令室と通報者とのやり取りが描かれるサスペンス作品なのかなと思っていたのですが、実際にはホラー映画まがいのサイコ・スリラーとなっていて驚きました。でも、その緊迫感たるや普通でなく、巷の評判が高いのもよくわかります。

(2)本作については、何よりとにかく映画を見て楽しんでいただく必要があり、いろいろ言い立てても意味がないように思われます。
 それでも言うとしたら、一方で面白いと思ったのは、ご都合主義的と思わせる状況が次々に打ち破られて(注1)、ついにジョーダンはケイシーとマッタク連絡が取れない状況に陥ってしまい、一体どうしたらいいのかというギリギリのところまで追い詰められてしまうという点でしょうか。

 他方で問題があるとしたら、最近の映画の全般的な傾向がそうともいえるところ、本作はまさに女性だけが主体的な作品であり、男性がホンの添え物になっているにすぎないという点なのかもしれません(注2)。
 例えば、ジョーダンの職場は男性職員が混じっているにもかかわらず、彼女の上司は女性ですし、また、ジョーダンの恋人は警察官で、ケイシーの捜索に加わっているものの(注3)、ケイシーを彼の手によって発見することは出来ません(注4)。



 ラスト近くになると、なんとジョーダンの単独行動になってしまうのです(注5)。

 まあ、こうなるのも、レイプ事件や誘拐事件が異常に多いアメリカの状況に対する女性側からの抗議の意味合いもあるのかもしれないと思えて納得するのですが(注6)。

(3)渡まち子氏は、「ラストには疑問が残る」など「いろいろと文句を付けてはいるが、この作品のユニークさ、テンポのよさ、無駄のない脚本には実に感心させられる」として70点をつけています。



(注1)ケイシーは、友人が置き忘れていった携帯をパンツのポケットに入れていたために、誘拐された時に、自分の携帯を落としてしまいましたが、友人の携帯を使って「911」に連絡することが出来ました。
 さらには、ケイシーは、ジョーダンからの指示に従って、トランク内にある器具を使って、車のテールランプを外側に外します。そしてそこにできた穴から、手を出してみたり、トランク内にあったペンキを車の外に流したりします。トランク内によくペンキ缶が置いてあったと思いますし、ケイシーがこうした作業を行っても、運転する車内の男に聞こえなかったのは、男が大きな音量でカーステレオをつけていたからです。こうした好都合な状況にもかかわらず、捜索しているヘリコプターは、路上に付けられたペンキの跡を見つけることは出来ませんでした。

(注2)本作は、ある意味で、『リミット』と対極的な作品といえるかもしれません。
 本作が、誘拐犯によって被害者が車のトランクに押し込められてしまうのと同様に、同作は、テロリストによって主人公は棺桶の中に押し込められ砂漠に埋められてしまうという話であり、さらに外界との連絡は携帯電話しかないという点もあわせ、両作は酷く類似している感じながら、本作の被害者が少女であるのに対し同作の主人公は男性ですから。
 また、本作では、携帯の連絡先である緊急通報指令室のジョーダンが大活躍するのに対し、同作では、埋められた男に連絡してくる人物は画面に一切登場しないのです。

(注3)警察は、誘拐犯人の特定までいきますが(病院の検査技師で、その自宅まで踏み込みます)、道路の検問とか乗り捨てられた車の調査等くらいではなかなか犯人の居場所まではたどり着けません。

(注4)その他には、ケイシーの機転によって、ガソリンスタンドの男が誘拐犯に気が付きますが、逆にガソリンを浴びせられて殺されてしまいます。さらにもう一人、誘拐犯の行動を怪しいと睨んだベンツに乗る男がいるものの、不注意な行動によって、この男も誘拐犯に殺されてしまいます。

(注5)ジョーダンは単なる電話オペレーターに過ぎず、武器を携行していないにもかかわらず、単身で酷く怪しい場所に入り込んでいくのです(尤も、連絡を取ろうとした携帯を落としてしまったこともあるのですが)!

(注6)ジョーダンとケイシーが取り押さえた誘拐犯を警察に引き渡すことをしないラスト(二人は、犯人に「モウ手遅れよ」と言い残します)も、アメリカ社会に対する強い抗議の意味合いがあるのではないでしょうか?



★★★☆☆




42 世界を変えた男

2013年12月20日 | 洋画(13年)
 『42 世界を変えた男』を丸の内ピカデリーで見ました。

(1)評判がよさそうなので、公開終了間際でしたが映画館に行ってきました。

 本作は、アメリカのメジャーリーグで最初の黒人選手となったジャッキー・ロビンソンチャドウィック・ボーズマン)を描いたものです(「42」はその背番号)。



 第2次大戦が終わると、スタン・ミュージアムとかジョー・ディマジオといったスター選手らが大リーグに戻ってきて、1946年当時、16球団のメジャーリーグに登録されている400人のすべてが白人でした。
 他方、黒人選手だけのプロ野球チームで「ニグロリーグ」が結成され、全米を巡っていたようです。

 そんな状況の下、ブルックリン・ドジャーズのGMのブランチ・リッキーハリソン・フォード)は、ニグロリーグから「黒人選手を入れる」と決断します(注1)。



 これに対して、事務所の男は「そんなことをしたら、新聞にこっぴどく叩かれる」と言いますが、リッキーは「法律で禁じられているわけではない」と答え、男が「それでも慣習というものがあり、それを破ると社会から排斥される」と心配しますが、リッキーは「かまわない」と応じます。

 そして、リッキーは、ニグロリーグで活躍するジャッキー・ロビンソンに着目し、まずは傘下のモントリオール・ロイヤルズと契約させ、そこでジャッキーが好成績をあげると、1947年についにドジャーズに昇格させるのです。

 ジャッキーが白人400人の一角を崩したのが、1964年の公民権法成立より17年も前の1947年のことなのですから驚きです(注2)。これも、本人の類まれなる才能によることは勿論ですが、あくまでも彼をレギュラーとして使い続けたドジャーズのリッキーの力量にもよるのでしょう。でも、専ら実力という観点から選手を評価するという彼の方針は、過去の慣例を重視する日本的な社会(注3)では、とても通用しないことでしょう!

(2)とはいえ、こうした感動作につまらない茶々を入れるのは気が引けますが、実のところ本作は、大きな盛り上がりの少ない作品ではないかと思いました。
 確かに、ニューヨーク・ヤンキースのベン・チャップマン監督の耳を塞ぎたくなるような野次とそれを必死に堪えるジャッキー、そしてそのジャッキーを宥めるリッキー(注4)という場面は、本作の中で大きな盛り上がりを見せるものの、その他の差別のシーンはこれまでもよく映画等で見かけるものとそう大差がないような印象を受けました(注5)。



 さらに、野球の試合そのものにおいても、本作が焦点を1945年から1947年の3年間に絞り込んだこともあって、1955年のワールドシリーズにおける有名なホームスチールもエンドロールの写真で見せるだけという具合に、盛り上がりが欠けてしまっています。

 元々がジャッキーは、本塁打がそれほど多くはない(注6)、どちらかというとそれほど派手な選手ではなかったようにも思われます(注7)。
 加えて、モントリオール・ロイヤルズとの契約に際して、ジャッキーはリッキーから、「やり返さないことに勇気を持つことだ」、「優れたプレーヤーになって敵をねじ伏せろ、立派な紳士であり優秀なプレーヤーであることを示すのだ」などと説得されると、それ以降は「忍」の一字で厳しい場面も乗り越えていくのですから、派手派手しい場面が少なくなってしまうのも当然かも知れません。
 さらには、映画化に際して、主演のチャドウィック・ボーズマンがロビンソン夫人のレイチェルに会った時に、彼女から「過ちや欠点については、あまり描かないでほしいと頼まれた」そうですが、彼女は非営利の「ジャッキー・ロビンソン財団」を設立したりして健在ですから、夫の内幕を暴くような映画の制作に許可を与えるはずもないところでしょう(注8)。

 としても、これらの点は、海の向こうの実態を何も知らない井の中の蛙による戯言なのでしょう、映画は映画として素直に受け止めるべきだとは思いますが。

(3)渡まち子氏は、「黒人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンの伝記映画「42 世界を変えた男」。主人公の尊い精神に心から感動する」、「野球好きはもちろんのこと、何か新しいことにトライし改革を志す人には必見の1本だ」として70点をつけています。
 また、前田有一氏は、「伝記ドラマとしても、野球映画としても及第点。悪くはないが、期待を上回る何かがあるわけでもない。主人公の受ける差別行為や、それを打ち破ろうとする努力、周囲の変化や支えもすべてが予想の範疇。各人の演技力も平均的で、野球シーンを含めた演出面でもとくに問題なし」として55点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「スポーツのもつパワーを、まざまざと思い知らされる感動ドラマであった」が、「ゲームとしての野球映画本来のエンタメ要素はオミットされており、やや淡白な印象になってしまったのは否めない」と述べています。




(注1)ハリソン・フォードについては、最近では『恋とニュースのつくり方』を見ています。

(注2)NBAでは、1950年に、チャック・クーパーが黒人選手として最初にドラフトで指名を受けたとのことですから、1947年のジャッキーのMBA入りは画期的なことと思われます。

(注3)例えば、評論家の池田信夫氏によれば、「ほとんどの日本人は過剰に空気を読む病にかかっているのではないか」とのことですが。

(注4)リッキーはジャッキーに、「グランドに出て打つんだ、皆の前で試合に勝て、君が世界を変えるんだ!」などと言います。

(注5)当時南部諸州では、ジム・クロウ法〔白人以外の人種(特に黒人)が公共施設を利用することを禁止・制限した州法〕なるものがあって、例えば、「ニグロリーグ」の時代、チームの乗っているバスがガソリンスタンドで給油中に、ジャッキーがトイレを借りようとすると、店の者が「使うな」と言ったり(ジャッキーは怒って給油を中止させると、店の者はしぶしぶトイレを使わせます)、またドジャーズ時代、予約してあったホテルからチームが締め出しを食らわされたりするのです。
 なお、トイレの件は、『ヘルプ』でも描かれていました。

(注6)最多は、1951年度と1952年度の19本(平均は、13本少し)。

(注7)なんだか、日本のイチローのような感じもしてしまいます〔イチローがマリナーズに入団した歳と、ジャッキーがドジャーズと契約した歳とはほぼ同じ(イチローが27歳、ジャッキーが28歳)〕。
 ちなみに、両者をごく簡単に比較すると、
            ホームラン 打率  打点  盗塁
ロビンソン(10年間)… 137  0.311  734  197
イチロー(13年間)…  111  0.319  695  472

(注8)ジャッキーとレイチェルとの関係も、華やかなラブロマンスがあるわけでもなく、堅実そのものだったように思われます(彼がモントリオール・ロイヤルズへ入団するとすぐに結婚し、子どもを設けています)。




★★★☆☆




象のロケット:42 世界を変えた男

キャプテン・フィリップス

2013年12月13日 | 洋画(13年)
 『キャプテン・フィリップス』を吉祥寺のバウスシアターで見てきました。

(1)予告編を見て面白いのではと思い映画館に出かけてみました。

 本作の冒頭は、2009年の3月28日、バーモント州アンダーヒルにある主人公のフィリップス船長(トム・ハンクス)の自宅。
 彼は、勤務先のマースク社の海員証や船長予定表といった必要書類等をカバンに詰め、車に載せます。そして、妻(キャサリン・キーナー)と一緒に空港に向かいますが、車の中で、妻が「歳をとると家を守るのも辛くなる」とこぼすと、彼も「出かける方もね」と応じ、さらに子どものことを心配しますが、妻は「わかるけど、うちは大丈夫よね」と言ったりします。
 空港に着くと、妻は「気をつけて」と言い、フィリップス船長はいつものように、船のある港に向かって出発していきます。
 今回は、中東オマーンのサラーラ(オマーン第2の都市)。そこからケニアのモンバサまで、援助物資などを積んだコンテナ船マースク・アラバマ号(アメリカ船籍)を航行させることになります(4月1日)。
 ところが、フィリップス船長及び20人の船員が乗るマースク・アラバマ号がソマリア海域に入ると、不審なボートに追尾され、様々の防衛行動を取るも、ついに武器を持った4人のソマリア人海賊に船は乗っ取られてしまいます(注1)。



 いったい、フィリップス船長以下の乗組員は、どうやってこの窮地を脱出するのでしょうか、………?

 最新の銃器を持っている海賊に襲撃される可能性が高いにもかかわらず、なんの武器も持たずに(あるいは、警備員を置かずに)危険な海域にどうして船が入り込んでしまったのか、などよくわからない面もありますが、アクション映画として最後まで観客の手に汗を握らせ、なかなか良く出来た作品ではないかと思いました。

 本作は、ソマリア人海賊に扮した4人の俳優(注2)や、シェイン・マーフィー(一等航海士)に扮したマイケル・チャーナスなどがそれぞれ好演しているとはいえ、やはり主役のトム・ハンクスの一人舞台といってもよいくらいその演技は傑出し、感動的です(注3)。



(2)大層面白い作品とはいえ、初めの内どうしても気になってしまうのが、上で申し上げたことながら、そして皆さんが指摘していることながら(注4)、マースク・アラバマ号は、危険な海域に入り込むことがわかっているにもかかわらず、なぜ武器を何一つ持っていなのかという点です(注5)。

 海賊がボートに乗って接近してくる時、特にハシゴをかけて船腹を登ってくる時などは、海賊側は大きな波に揺られているのですから、マースク・アラバマ号の方から発砲すれば、彼らを撃退するのはそれほど難しいことではなかったのではと、素人ながら思えるところです。
 でも、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」によれば、「海賊に襲撃された時、アラバマ号は武装していなかった」が、「結局、アラバマ号襲撃が業界に変化をもたらし、マークス社やその他の海運会社は、危険性が極めて高いルートでは武装した警備員(その多くは元海軍SEAL隊員)を船に乗せるようになった」とのことですから、この時点では仕方がなかったのかもしれません。

 もう一つは、4人のソマリア人海賊と一緒にフィリップス船長までもが救命艇に閉じ込められて、結局、彼は海賊の人質になってしまったのはどうしてなのか、という点でしょう。なにしろ、アラバマ号の船員の活躍によって海賊のリーダーを捕まえたのですから、事件はそのまま無事に解決してもよかったところなのです。
 ただ、この点については、劇場用パンフレットの「Highlights of the film」によれば、「船長自身、自らの著書で「間違いを犯した」と言っているシーン」とのことであり、さらにまた「フィリップ船長は一刻も早く海賊たちをマースク・アラバマ号と船員たちから引き離す必要があった」という事情もあったようです。

(3)渡まち子氏は、「圧巻はクライマックスのハンクスの演技だ。緊張感がマックスに達し、二度と会えないかもしれない家族への思いや、恐怖心が爆発するその場面には圧倒された」として75点をつけています。
 相木悟氏は、「観始めたら最後、2時間14分緊張しっ放しのノンストップ・ムービーであった」と述べています。




(注1)本作では、ソマリアの海賊の村エイルの様子も描かれます。
 海岸で男たちがたむろしているところに、突然何台もの車が到着し、その中から出てきた者が、男たちに向かって「ボスは今金が要るんだ。海へ出ろ」、「船に乗る者を集める、でかく稼げるぜ」と叫びます。それに応じて男たちが集まりますが、その中から、後でマースク・アラバマ号を乗っ取ることになる4人を含めた者が選別されます。

(注2)劇場用パンフレット掲載に「Production Notes」によれば、「アメリカ・ミネソタ州ミネアポリスにある、アメリカで最大規模のソマリア系アメリカ人コミュニティー」に行って、オーディションで選んだとのこと。

(注3)トム・ハンクスについては、最近では、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を見ています。

(注4)例えば、劇場用パンフレットに掲載のレビューで、田原総一朗氏は、「意外だったのは、ああいう民間の船って海賊とかに備えてもっと武装しているかと思っていたら、実はそうではない」と述べています。
 また、同パンフレット掲載の原作者インタビューにおいて、著者リチャード・フィリップスは、「あれは私が近年航行する中で、初めて乗った武装していない船だった。他の船には大抵いくつかの武器が備わっている」と述べています。

(注5)一応は、アラバマ号は、一斉放水によって水のカーテンを作ったり、また周囲に大きな波を引き起こしたりして、妨害工作は行うのですが。




★★★★☆




象のロケット:キャプテン・フィリップス

ハンナ・アーレント

2013年12月11日 | 洋画(13年)
 『ハンナ・アーレント』を岩波ホールで見ました。

(1)哲学者を主人公にした酷く地味な作品ながら、大層評判が高いと聞いて(注1)、神田神保町まで足を伸ばしてみました。

 本作(注2)は、専ら、アドルフ・アイヒマン(注3)に対する裁判(1960年)をめぐって主人公のハンナ・アーレントバルバラ・スコヴァ)(注4)がどんな行動をとったのかを、実話に基づいて描いているものです(注5)。



 アーレントは、ナチスドイツからアメリカに渡った哲学者(注6)であり、高い評価を得ている著書をいくつか著していましたが、アイヒマン裁判を傍聴するためにイスラエルに飛び、帰国後その報告を雑誌『ニューヨーカー』に発表します(注7)。
 ところが、記事の内容について、特にアメリカのユダヤ人社会から強い非難の声が上がります。
 というのも、アイヒマンは、ホローコーストに強く関与していたナチス親衛隊中佐でしたから、「凶悪な怪物」として彼のことを描き出すべきなのに、アーレントは、彼について、上司の命令に忠実に従った「凡庸(平凡)な人間」だと書いたからです(注8)。そればかりか、ナチスに協力的だった「ユダヤ人評議会」のことも明るみに出したのです(注9)。
 その結果大騒ぎとなったのですが、彼女を非難する友人や同僚は、彼女の議論を全く受け入れませんでした(注10)。



 彼らの態度は、従来からのユダヤ人社会に定着しているものの見方に囚われたものに過ぎないように見えます。アーレントはアイヒマンのことを「思考不能の人間」と規定していますが(注11)、アイヒマンとまさに同じように、彼らも現実の有り様について(全体主義について、ナチスについて、アイヒマンについて、等々)柔軟に思考できていないように思えます。
 そんな二重の構造が描かれているのが、この映画の優れている点ではないかと思いました。

 なお、アーレントがアイヒマン裁判を通じて柔軟な見解を持つに至ったのには、様々な要因が考えられるところ、彼女が故国ドイツを離れてアメリカで生活していた女性であったという点も挙げられるのではないでしょうか?要すれば、彼女はアメリカの異邦人として、それも女性であることから(アメリカといえども、戦後すぐの時点では、女性の社会進出はまだそれほど進んではいなかったのではないでしょうか)、それまでに作り上げられてきた伝統的なものの見方にとらわれることなく、斬新な観点からものごとを見ることができたのではないかとも考えられるところです。本作を見ると、ドイツから脱出してきた人々が彼女の周りには大勢いたところ、男性の同僚などはかなり彼女から離れてしまうものの、メアリー・マッカーシー(アメリカ生まれですが)などは友情関係を保ち続けます。

(2)本作では、アイヒマン裁判関係だけでなく、大哲学者のハイデッガーとアーレントの恋愛関係も描かれています。とりわけ、ハイデッガーがアーレントのアパートにやってきて彼女の膝に顔を埋めるシーンが描き出され、二人の情事が仄めかされてもいます(注12)。

 ただ、二人の関係は複雑で、なかなか外部からはうかがい知れないところがあるようです。特に、ナチスに関わったハイデッガーについてのアーレントの評価ということになると難しいようですが(注13)、本作でも、ハイデッガーと戦後再会した際に、アーレントが、「(フライブルク大学)学長就任演説にはめまいがしたわ。思考を教わった恩師があんな愚かなことを」と批判します(注14)。

 このハイデッガーとアーレントの関係は、本作で中心的に描かれるもの(アイヒマン裁判を巡るアーレントたちの動向)と直接関係しないように見えるところです。ただ、ラストの方で、アーレントの旧友であるハンス・ヨナスが彼女に向かって、「ユダヤのことを何も分かっていない。だから裁判も哲学論文にしてしまう」と言うところに、アイヒマン裁判とハイデッガーとの関係性がわずかながらも仄めかされているのではないでしょうか?

 それはともかくとして、本作でハイデッガーを演じる俳優はどう仕様もありません(注15)。本作は、アーレントと彼女を取り巻く人々(夫や同僚など)が中心的に描かれるために仕方のないとはいえ、哲学者の中山元氏が言うところによれば、「アレントがまだフライブルク大学の学生だった頃から、ハイデガーの魅力は若者たちを圧倒的に惹きつけた」とのことですから(注16)、もう少し何とかならなかったのでしょうか?

(3)中条省平氏は、「思考する人間を映画で見せるには緻密な台詞が不可欠である。映画の成否は、この言葉を担う人間像の厚みにかかっている。ヒロインを演じるバルバラ・スコヴァはその人間造形にみごと成功した」と述べています。
 藤原帰一氏は、「どうして映画にしたのか?それは、「ほんとうのこと」を知ろうとするアーレントの姿を描きたかったからではないかと思います」と述べています。
 小梶勝男氏は、「周囲に屈しないアーレントを描くことで、「悪の凡庸さ」の主張をくっきりと浮かび上がらせた。思考が生き方となり、強さとなって、周囲を圧倒していく様子 が爽快だ。しかし、感動ものになりそうになると、直後に冷や水を浴びせるような場面を続ける。単なる偉人伝にしなかったフォン・トロッタ監督の冷徹な視点 を感じる」と述べています。
 佐藤忠男氏は、「「悪の凡庸さ」の一言は、軍国主義を経験したわれわれの心もぐさりと刺さずにはおかない。かつて戦争犯罪に問われたわれわれの先輩たちも、多くは「命令だったから」と弁明した。それを思うと見ながらはもちろん、見たあとにも多くのことを考え込んでしまう」と述べています。



(注1)例えば、アーレントの主著『人間の条件』(ちくま学芸文庫)を覗くと、その第3章「労働」は「以下の章ではカール・マルクスが批判されるであろう」という文章で始められています。
 にもかかわらず、本作が、いわゆる左翼言論人の牙城の一つとおぼしき岩波書店に関係する岩波ホールで上映されているばかりか、そこが連日大入り満員だというのが実に不思議です。
 現にクマネズミが出かけた時も、開場(上映の40分前)の1時間も前から入口には人が集まりだし、30分前くらいになると入口近くにある階段に長い行列が出来てしまったほどです!

 この点について、金沢大学の仲正昌樹教授の『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書、2009年)では、「アーレントが日本の左派の間で意外と好意的に受け止められている理由」として、「1990年代の半ば以降、アメリカのフェミニスト、あるいは女性の政治・社会理論家の間で、近代市民社会の「公私二元論」の問題に鋭く切り込んだ思想家としてアーレントを再評価する動きが起こり、それが日本に伝わって、主として「左」の側で人気が広がったこと」とか(P.28)〔「アーレント・ルネサンス」といわれているようです。例えば、この論文の「はじめに」を参照〕、さらには「彼女が「全体主義」という現象をユニークな方法で分析し、巧みに定義したこと」が挙げられています(P.30)。

(注2)以下において、本作の台詞の引用は、専ら、劇場用パンフレットに掲載の「採録シナリオ」に依っています。

(注3)本作の冒頭では、アルゼンチンに潜伏していたアイヒマンが、モサドによって捕らえられるシーン(バスから降りた男が夜道を一人で歩いていると、後ろからトラックが近づき、トラックから飛び降りた者がその男を捕らえて荷台に押し込みます)が映しだされます。

(注4)本作の監督・脚本のマルガレーテ・フォン・トロッタは、劇場用パンフレットに掲載されたインタビュー記事において、バルバラ・スコヴァを起用したことについて、「アーレント役には、思考する姿を見せることができる女優が必要でした。そうした困難な役柄を演じられるのは、彼女しかいません」と述べています。
 確かに、彼女は素晴らしい演技を披露していると思います。ただ、どんなに頑張ってみても、映画では、どうしてアーレントがあのような見解に至ったのかを描くことは出来ないのではと思います。これは、例えば、素晴らしかった『セラフィーヌの庭』において、にもかかわらずなぜセラフィーヌがあのような特異な絵画を描くに至ったのかが描けないのと同じことではないのか、と思いました。

(注5)本作のフォン・トロッタ監督は、『ローザ・ルクセンブルク』(1986年)を制作しているところ、アーレントの夫のハインリヒ・ブリュッヒャーが、若い頃、ローザ・ルクセンブルクの率いるスパルタクス団員だったこと(下記「注6」で触れる『ハンナ・アーレント伝』P.186)も関係しているのでしょうか?
 ちなみに、本作の主演女優バルバラ・スコヴァは、同作に出演しカンヌ国際映画祭最優秀主演女優賞を受賞しています。

(注6)本作の中でも言われているように、アーレントは、最初はドイツからフランスに逃れ、でも1940年にフランスがドイツに侵攻されると、彼女は「ギュルス抑留キャンプ」に収容され、そこから夫や母親とともにアメリカに脱出します(「アメリカのビザで。旅券がないから、18年間無国籍でした」と彼女は学生に話します)。
 ここらあたりの経緯については、エリザベス・ヤング=ブルーエル著『ハンナ・アーレント伝』〔(晶文社、1999年(原著は1982年)〕の第4章「パリの無国籍人」に書かれていますが、「彼らの脱出はあらゆる点で運が良かった」ようです(P.229)。

(注7)アーレントは、1963年に、雑誌掲載をまとめたものを『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳、みすず書房1969年)として出版しています。

(注8)本作においてアーレントは、大教室を埋める学生に向かって教壇から、「世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです」、「この現象を、私は「悪の凡庸さ」と名づけました」と述べます。
 ちなみに、上記「注7」で触れた著書の副題は「悪の陳腐さについての報告」(A Report on the Banality of Evil)とされています。
 なお、同書を手にとってみると(訳本をざっと眺めたに過ぎませんが)、「悪の陳腐さ」という言葉自体は、タイトルの副題以外にはほとんど登場しません(第15章の末尾と「あとがき」くらいでしょうか)。おそらく、同書全体でそのことについて報告しているということなのでしょう。

(注9)上記「注8」で触れた講義において、聴講していたトーマス・ミラー教授から、「先生は、「ユダヤ人指導者の協力で死者が増えた」と主張してますよね?」と質問されると、アーレントは、「ユダヤ人指導者は、アイヒマンの仕事に関与してました」と述べます。
 ちなみに、上記「注7」で触れた著書においては、例えば、「自分の民族の滅亡に手を貸したユダヤ人指導者たちのこの役割は、ユダヤ人にとっては疑いもなくこの暗澹たる物語全体のなかでも尤も暗澹とした一章である」と述べられています(P.93)。

(注10)例えば、本作においては、アーレントと同僚のトーマス・ミラー教授は、「ユダヤ人を批判するとはな。殺人鬼を責めるべきだ」が言うと、もう一人は「しかもその殺人鬼は道化でヒトラーの愚かな従僕だと」と答え、さらにミラー教授は「“平凡な人”だとさ」と話します。
 アーレントの友達のなかには彼女から離反する者が現れますが、一番堪えたのは、彼女が「家族だ」とみなしていたクルト・ブルーメンフェルトが死の床についたというので、わざわざイェルサレムに出向いたにも関わらず、彼が彼女にクルッと背を向けたことだったのでは、と思われます。



 また、本作で、若い時分にアーレントと一緒にハイデッガーの講義を聞いたことのあるハンス・ヨナス(夫のハインリヒは「(ハンスは)昔から君に惚れている」「(ハンスにとって)ハイデッガーはナチである以上に恋敵だ」と妻のアーレントに言います)は、アーレントに向かって「あんな原稿は載せないでくれ」と要請するのです。

(注11)上記「注8」で触れた講義において、アーレントは、「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです」と述べます。
 ちなみに、上記「注7」で触れた著書においては、例えば、アイヒマンは「愚かでではなかった。完全な無思想性―これは愚かさとは決して同じではない―、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ」と書かれています(P.221)。

(注12)フランスの精神分析家のジュリア・クリステヴァによる『ハンナ・アーレント』(作品社、2006.8)では、「1924年2月に秘密の清純な恋が始まった。その時、ハンナは18歳、マルティン・ハイデガーは35歳だった。最近出版されたハンナ・アーレントとハイデガーのあいだの書簡集が、エルジビュータ・エティンガーの論争的な本に加わって、その不可能性と同じくらい強いこの〔二人の〕絆の力を再構成性できるようになった」などと述べられています(P.32)。
 ちなみに、それら2つの本は、みすず書房から出版されております。

(注13)哲学者の中山元氏は、『ハンナ・アレント〈世界への愛〉-その思想と生涯』(新曜社、2013.10)で、一方で、アーレントが、1946年に発表した論文の脚注でハイデッガーを断罪したり(「ハイデガーはフライブルク大学総長という地位を用いて、彼の師にして友人でもあり、また講座の前任者であるフッサールにたいして、彼がユダヤ人であるという理由から、大学教員の一員として構内に入るのを禁じた」)、またヤスパースへの1946年の書簡の中で「ハイデッガーを潜在的な殺人者とみなさざるをえないのです」と書いたりしていると指摘しています(P.377~P.378)。ただ、他方で同氏は、アーレントは「ハイデッガーの哲学をナチスの哲学とみなしたことはないことを確認しておこう」とも述べているのです(P.381)。
 要すれば、アーレントは、フライブルク大学総長時のハイッデガーについてかなり「批判」をしながらも、ただし一定の範囲内で、ということではないかとも推測されるところです。

(注14)Wikipediaによれば、「ナチス党がドイツの政権を掌握した1933年の4月21日、ハイデッガーはフライブルク大学総長に選出さ」れ、「5月27日の就任式典では就任演説『ドイツ大学の自己主張』を行い、ナチ党員としてナチス革命を賞賛し、大学をナチス革命の精神と一致させるよう訴えた」とのこと。

(注15)粉川哲夫氏は、「クラウス・ポールという俳優による陳腐な演技」と述べています。

(注16)上記「注13」で触れた『ハンナ・アレント〈世界への愛〉-その思想と生涯』P.368。



★★★★☆



象のロケット:ハンナ・アーレント

悪の法則

2013年12月02日 | 洋画(13年)
 『悪の法則』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作に主役級の俳優が5人も揃って出演するというので興味を掻き立てられ(注1)、映画館に足を運びました。

 映画の原題は「Counselor(弁護士)」で、映画の中でも単にカウンセラーと呼ばれる弁護士の男(マイケル・ファスベンダー)が主役。
 舞台は主に、メキシコ国境に近いテキサス州の街。
 カウンセラーは、一方で、恋人のローラペネロペ・クルス)と結婚の約束を交わし幸福な時を過ごしていますが、他方で欲をかいて、友人の実業家ライナーハビエル・バルデム)や裏のブローカーのウェストリーブラッド・ピット)と組んで危ない事業に手を出そうとします。




 ですが、うまくいくかと思われた事業に齟齬が生じ、取引相手のメキシコ人組織から関係者全員が付け狙われることに。
 それにどうやら、ライナーのもとにいる元ダンサーのマルキナ(キャメロン・ディアス)も一枚噛んでいるようなのです。さあどうなるのでしょう、………?

 5人の俳優が、これまでのイメージとはかなり違った役柄に挑戦する様を見るのが面白い上に、映画全体が緊迫感に溢れていて、2時間の上映時間が短く感じられるほどです。といっても、これだけ豪華俳優を揃えているのであれば、きっと何か凄いことが起こるに違いないという思い込みから生じる緊迫感に過ぎないのですが、………。

(2)出演する5人の俳優は、それぞれ持ち場、持ち場でさすがの存在感を示しているものの(注2)、5人が一緒に登場して絡むシーンはなく拍子抜けであり(注3)、それに何と言っても脚本(コーマック・マッカーシー)自体に面白みが欠けるように思いました。
 例えば、
・カウンセラーは、友人のライナーと組んで凄い事業をやるのだと言っていて、それなら麻薬などありきたりなものを扱うのではなく、さぞかし奇想天外なアイデアがあるに違いないと観客に期待を抱かせるのですが、やっぱり………(注4)。
・カウンセラーが危険な事業に乗り出すことに対し、友人のライナーなどが強く警告しますが、カウンセラー自身はメキシコ国境近くの街で弁護士活動をしているわけですし、また日本にも例えばこのようなサイト記事があるくらいですから、そんなことを言われなくとも、危険なことは百も承知なのではないでしょうか?
・思わせぶりな会話が溢れ返っていますが、その最たるものは、メキシコ人の麻薬カルテルのボス・ヘフェルーベン・ブラデス)が、電話でカウンセラーに対し、「おまえは既に選択しているんだ。選択しようとしたって、今さら選択する道などない。お前が置かれている現実をよく見ろ。お前は最早、自分が創りだした世界にいるのだ」云々と説教じみたことを話す場面ではないでしょうか?
 単に「お前らを処分する決定は既に下されていて、それをくつがえすことはできない」ということを、酷く曖昧に哲学風〔よくいえば、サルトルの実存哲学風のこと(人間は、自分のそのつどの選択と決断とによって、みずから自己をつくっていく存在)〕に述べ立てているにすぎないように思えました。

 全体として、肝心のストーリー自体は単純そのものと思われるものの(注5)、個々の出来事をはっきりとは描写せず酷く曖昧にしてしまい、なおかつ映画の途中で、伏線というよりも飾り物風の映像とか会話があちこちに横行していて(注6)、ラストでは「エッ、これでおしまい?」といった感じで観客は投げ出されてしまいます。

(3)渡まち子氏は、「全体を通して会話劇で成り立っている作品なのに、こんなにも緊張を強いられるとは。人間性の極北をドライに描いた恐ろしい傑作である」として75点をつけています。
 また、前田有一氏も、「こいつはホラー映画でもないくせにやたらと怖い、きわめて危険な一本である」などとして85点をつけています。
 相木悟氏は、「“おもしろい”けど、“つまらない”。矛盾した感情を犯罪映画ファンに抱かせ、困惑させる問題作であった」と述べています。 

 なお、上記の前田氏は、「法則のわからぬ悪意に対し、我々一般人は打つ手がない。この映画はそれをイヤというほど繰り返すことで、私たちには倫理や法律、そうした法則・きまりごとの元で正しく生きることがなにより大事なのだと、そういうことを教えている」と述べていますが、私たちが映画を見るのは、はたして映画で何事かを勉強するためなのでしょうか(注7)?それも、よりによって「正しく生きることがなにより大事」などといった陳腐な道徳訓話を(注8)?!




(注1)最近では、マイケル・ファスベンダーは『ジェーン・エア』で、ペネロペ・クルスは『ローマでアモーレ』で、ハビエル・バルデムは『BIUTIFUL ビューティフル』で、ブラッド・ピットは『ワールド・ウォーZ』で、キャメロン・ディアスは『恋愛だけじゃダメかしら?』で、それぞれ見ています。

(注2)特に、キャメロン・ディアスは、クマネズミが見ている『私の中のあなた』、『運命のボタン』などからすると考えられないような妖艶な役柄を演じていて、流石の貫禄を示しています。



(注3)これは、『コンテイジョン』を見た時にもそう思ったのですが、「出演した著名俳優の出演料が高すぎて、それぞれ拘束時間が十分に取れなかったこと」にもよるのではないでしょうか?
 なにしろ、そちらでは、マット・デイモン、マリオン・コティヤール、ジュード・ロウ、ケイト・ウィンスレット、グイネス・バルトロウなどが出演しているのです!

(注4)尤も、最初の方で、薄暗い工場の中に置かれたバキュームカーの中にドラム缶を詰め込むシーンがあり、何をやろうとしているのかは薄々わかるのですが。

(注5)ズブの素人(カウンセラー)が、なぜか金に目が眩み、酷く危険な麻薬取引に乗り出して致命的な大火傷をするという、ありきたりな話にすぎないでしょう。

(注6)例えば、最初の方でライナーとマルキナが、2頭のチーターをペットとして飼っていて、うさぎを追う様を双眼鏡で眺めて楽しむシーンがあり、チーターのように獲物を追いかけて逃さないその後のマルキナ(何しろ、チーター模様のタトゥーを背中にしているくらいなのです)を暗示している風です。

 また、カウンセラーがアムステルダムで恋人ローラに贈る高価なダイヤモンド(vs-1の3.9カラットで約30万ドル)を購入する場面がありますが、宝石商は「警告のダイヤ」の話をしたりします。これは、その後、危険な事業に手を出そうとするカウンセラーに与えられる様々の「警告」を暗示している風です。

 特に、ウェストリーは強くカウンセラーに警告しますが、その中の「殺人ビデオ」の話は、その後のローラの身の上に起きたことを暗示している風です。

 それに、ライナーも唐突に「ボリート」(ワイヤーとモーターで出来た絶対に外れない絞殺器具)の話をカウンセラーにしますが、これも、ラストの方でのウェストリーの顛末を暗示している風です。

(注7)さらに、この映画の中で「最凶」(劇場用パンフレット掲載のエッセイ「意外性を発揮するスターたちの凶暴なアンサンブル」)を演じる人物が、最後には生き残るわけですから、果たしてこの映画は道徳な作品と言えるのでしょうか(尤も、実際には、あんな派手な生活をしていたら、地球上のどの都市に行っても、すぐさま見つけ出されて麻薬カルテルに始末されてしまうのでしょうが。でもそれは、この映画を超えた話です)?

(注8)もっといえば、前田氏は、「この映画は要するに「法則無き恐怖」を観客に味あわせようという、意地悪な企画ということである」と述べているところ、確かに、「この映画が描くメキシコ麻薬カルテルには、まさに世間の常識、道徳、普遍の法則といったものがまったく通用しない」なのでしょうが、そこは日本のヤクザの世界がそうであるのと同じように(ヤクザの掟!)、別の「常識、道徳、普遍の法則といったもの」が存在していて、この映画は、別にあちらの世界が無「法則」であるというよりも、こちらの世界からそちらの世界に入り込んだらそちらの世界の「法則」に従わざるをえないと言っているのにすぎないのではないでしょうか?




★★☆☆☆




象のロケット:悪の法則

父の秘密

2013年11月19日 | 洋画(13年)
 『父の秘密』を渋谷のユーロスペースで見ました。

(1)カンヌ映画祭で評価された映画だと聞いて、映画館に行ってきました。

 母親を交通事故で失った高校生アレテッサ・イア)は、高級リゾート地のプエルト・ヴァラルタを引き払って、父・ロベルトとともにメキシコ・シティにやってきます。
 そして、新しい学校で知り合ったクラスメイトたちと(注1)、週末に別荘に遊びに行くことに。
 ところが、飲んだ酒の勢いで男子生徒とセックスをしてしまい、その際撮られた動画が学校中にばらまかれてしまいます。
 そこから、彼女に対するいじめがとても酷いものになっていきます(注2)。
 でも、妻を交通事故で亡くして不安定な父に(注3)、アレはそのことを打ち明けられません(注4)。
 そんな時に、アレは皆と一緒に臨海学校に行かなくてはいけなくなりますが、そこで事件が起きます。
 一体どんな事件であり、それに対してロベルトはどのような態度をとるのでしょうか、………?

 ほとんど見たことがないメキシコ映画であり、またストーリーも深刻なものですが、アレを演じる若い女優のテッサ・イアが魅力的であり、感銘を受けました。



(2)映画の冒頭は、プエルト・ヴァラルタにある車の修理工場のシーンで、修理工から説明を受けた男(映画をしばらく見ているとアレの父・ロベルトだとわかります)が、書類にサインをした上で修理済みの車に乗り込みます。修理工場を出ると大きな道路を走らせますが、ある信号で車を止めエンジンを切ったと思ったら、男はドアを開け、車をそのまま置いて歩き去ってしまうのです。
 男は、交通事故で壊れた車を修理したものの、それにまつわる忌まわしい記憶(その男の妻がその交通事故で亡くなったのです)に耐えがたくなって、車を飛び出したようなのです。
 言ってみれば、こんなことが「父の秘密」、父が娘にはっきりと言わないこと、なのでしょう(注5)。



 すべては、アレと父がメキシコ・シティに来る前に起きたことです。
 あとでアレは、鍵のついた車が見つかったとの連絡をプエルト・ヴァラルタにいる伯母から受け(注6)、父に何かあったに違いないと感じて、プエルト・ヴァラルタに戻ろうとしますが、結局は行きませんでした。

 とはいえ、本作においてはむしろ、アレ自身が学校で受けている激しいいじめの方が、ずっと大きな「娘の秘密」、娘が父にはっきりと言わないこと、になってしまっています(注7)。
 そして、それが明らかになった時に、ロベルトはある激しい行動をとってしまいます。

 こんなところからすると、「父の秘密」という邦題は余り適当ではないような感じがします(注8)。

 それはともかく、本作を見たのとちょうど同じ頃、TSUTAYAの新作の棚に『シークレット・オブ・マイ・マザー』(2011年、フランス映画:日本未公開)のDVDが置いてありましたので、借りてきて見てみました。

 この映画の主人公は、パリで暮らすマーティン、小さい頃両親が離婚し、父と一緒に住んでいます。ちょうど恋人との関係がギクシャクしだした頃、ロスに住む母が亡くなったとの連絡を受け、遺産手続き(アパートメントの処分)のにために渡米します。
 マーティンは、母が自分のことを嫌っていたと思い込んでいますが(そのため、離別後一度も会ってはいません)、母はどうやらローラという女性と親密な関係があったらしいことがわかってきます。
 それで、彼女が住んでいるらしい国境近くのメキシコのティフアナまで出かけます。ですが、探し出したローラはストリップクラブのダンサーなのです。
 いったい母とローラとの関係はどんなものだったのでしょうか、………?

 という具合に、こちらの作品はまさに“母の秘密”と題してもふさわしい内容です(注9)。

 それでこの映画は本作とは余り共通点がなさそうにも思えるところ、親と子のコミュニケーションの断絶という観点から見れば、通じるところがあるのではと思いました。
 なにしろ、本作では、アナと父・ロベルトは、毎日いっしょに暮らしているにもかかわらず、お互い肝心なことは何もいわないのですし、この映画でも、マーティンと母親との関係は切れていますし、一緒に暮らす父との関係も親密なものとはいえません。
 ただ、大きな違いもあります。コミュニケーションの断絶が、この映画では大きな事件を引き起こすわけではないものの、本作の場合はとても恐ろしい事態を招くことになるのですから。

(3)映画評論家の高橋諭治氏は、「交通事故で妻を亡くした中年シェフ、ロベルトと高校生の娘アレハンドラ。彼らが新天地に引っ越すところから始まるこのメキシコ映画は、ファンタジーが紛れ込む隙間もない現実的なドラマであり、観る者にただならぬ緊張を強いる作品」であり、「この映画には決して説明されない喪失や孤独の痛み、 そして“すれ違う優しさ”があちこちに息づいている」と述べています。



(注1)アレは、クラスメイトに対し、父の仕事の関係でメキシコ・シティに来たのであり、母は元のプエルト・ヴァラルタにいると言って、その死を隠します。

(注2)例えば、アレの誕生日のお祝いだとして、教室で皆から、酷くマズイもので作られたケーキを無理やり口に突っ込まれたりします。

(注3)ロベルトはシーフード料理が得意な料理人ながら、新しく職を得たレストランに落ち着かず(調理助手の能力が低すぎたこともあり)、すぐに辞めてしまったりします。アレはそのレストランに行って、助手から父の辞めた理由を聞き出したりしています。

(注4)さらには、新しい学校の先生から、前の学校でアレがマリファナを吸っていたことが、呼び出された父に告げられたこともあり(アレは、3ヶ月ほど前、2、3回友達と吸ったと父に告白します)。

(注5)ラストでロベルトが犯す行為が秘密のことだとも考えられますが、あのやり方ではことはすぐに露見し、ロベルトに嫌疑がかかってしまうのも時間の問題ではないでしょうか?

(注6)プエルト・ヴァラルタからメキシコ・シティヘ行く車の中で、父は娘に「前の車は売り払った」と説明していました。
 さらに、鍵のついた車が見つかったとの話を父にしたところ、父は何も説明しませんでした。

(注7)なにしろ、クラスの女生徒に髪の毛を切られた際、どうして髪を短くしたのかと父に尋ねられても、アレは何も話さないくらいなのですから。

(注8)原題は「Después de Lucia」(英題「After Lucia」)で、交通事故で亡くなったアレの母親・ルシア(Lucia)の亡き後といった意味があり、それはそれなりにわかります。
 なお、劇場用パンフレットの「Introduction」では、「Lucia」に「光」の意味があることから、この原題は「光の不在の世界」をも表しているとされています。

(注9)実際には、『シークレット・オブ・マイ・マザー』で描かれているものが「秘密」といえるほどのことなのかという感じがし、また母がマーティンを手放した理由も明示的に描かれているわけでもないとはいえ、マーティンが、ラストのほうで、父やローラといわれる女性、さらには自分の恋人のことを考え直したりする姿を見ると、その心の成長ぶりが巧みに描かれているのではと思いました。



★★★★☆



象のロケット:父の秘密

グランド・イリュージョン

2013年11月15日 | 洋画(13年)
 『グランド・イリュージョン』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)評判が随分と良さそうなので、映画館に行ってきました(注1)。

 4人の優秀なマジシャン、すなわちクロースアップ・マジックのダニエルジェシー・アイゼンバーグ)、催眠術とメンタリズムを操るメリットウディ・ハレルソン)、エスケープ・マジックのヘンリーアイラ・フィッシャー)、ピックポケットのジャックデイヴ・フランコ)が、不思議なカードに導かれてとあるビルに集められ、イリュージョニスト集団の「フォー・ホースメン」を結成することに。
 彼らは、ラスベガスで一大マジック・ショーを挙行するのですが、そこでは、客席から無作為に選んだフランス人の男をフランスの「パリ信用銀行」の金庫に瞬間移動させ、320万ユーロを強奪してしまいます(その男が、頭に取り付けられた瞬間移動装置のボタンを押すと、ラスベガスの会場にユーロ紙幣の吹雪が舞うのです)。
 実際にもパリの銀行から320万ユーロが消えていたために、FBIは「フォー・ホースメン」の4人の身柄を拘束し、特別捜査官のディランマーク・ラファロ)とインターポールの捜査官アルマメラニー・ロラン)が本件の捜査にあたることに。
 ですが、FBIは証拠を見つけることが出来ず、4人は釈放されてしまいます。
 次のニューオーリンズでの彼らのショーが近づいているにもかかわらず、ディランとアルマは打つ手を見いだせないでいるところ、なんとか再度の犯行をくい止めるべく、マジックの種明かしに長けたサディアスモーガン・フリーマン)に助言を求めます、ですが………?

 なによりも、随分と豪華な出演者に圧倒されます。例えば、『ソーシャル・ネットワーク』のジェシー・アイゼンバーグ、『オーケストラ!』のメラニー・ロラン、『インビクタス』のモーガン・フリーマンなどなど。これらの俳優が、豪華な舞台の上で奇想天外な魔術をしたり、その魔術を通してなされた犯罪行為を暴きにかかったりと、縦横に活躍するのですから見応え充分です。

 俳優陣の中では、ジェシー・アイゼンバーグの早口とメラニー・ロランの美貌が特に印象的でした(注2)。

 

(2)映画の冒頭は、4人のマジシャンのそれぞれが得意技を披露します。
 例えば、ダニエルの場合、夜間、ビルのそばに立ってカードの束を手にしています。集まっている観客の一人にカードの任意の一つ(ダイヤの7)を覚えてもらい、その後カードの束を空に放り投げると、なんとそばのビルの窓が「ダイヤの7」の形の点灯しているではありませんか(注3)!

 本作では、マジシャンの4人が一緒のチームを組んで、3つの大掛かりなイリュージョン・ショーを繰り広げるのですが、それ全体が、「フォー・ホースメン」の黒幕たるある男の復讐劇であり(注4)、その男がラストの方で明らかにされると、観客はすっかり騙されていたことに気がつくというイリュージョン・ショーだったという仕掛けになっています。
 いってみれば3重の入れ子構造になっているわけでしょう。

 なかなか良く書けている脚本ですが(注5)、あえて難を言えば、3つの大掛かりなイリュージョン・ショーをとり行う4人のマジシャンのそれぞれの固有の技がショーの中では上手く生かされていないように思える点でしょうか。
 例えば、エスケープ・マジックのヘンリー(注6)は、本作の冒頭では、ピラニアのたくさん入ったもう一つの水槽が上に置かれている巨大な水槽の中で手錠と鎖から60秒で抜け出る技を披露しますが、3回のショーのメインの演し物では使われません。



 せっかく4人もの優秀なマジシャンが集められているのですから、彼らの技の組み合わせで大規模なイリュージョン自体が構成されていれば、と思ってしまうのですが(注7)。

(3)渡まち子氏は、「マジックをモチーフに破天荒な犯罪が展開する異色のサスペンス「グランド・イリュージョン」。ラストの謎解きが怒涛のような展開で、騙される快感を味わえる」として65点をつけています。
 また、相木悟氏は、「映画のもつ魔術的側面を存分に堪能できる好編であった」と述べています。



(注1)原題は、「NOW YOU SEE ME」。
 舞台で自分の姿や品物を消すマジシャンのセリフ「Now you see me, now you don't」(「見えますね, 見えますね, おっと消えた」)から。

(注2)最近では、ジェシー・アイゼンバーグは『ローマでアモーレ』で、メラニー・ロランも『人生はビギナーズ』で、それぞれ見ました。

(注3)ダニエルが、「近づきすぎると、逆に見えなくなる」と言うように、取り巻く観客が彼に近づきすぎるとトリックがわからなくなってしまいます。おそらく、付近のビルからダニエルが観客に見せるカードを望遠鏡で見ている助手がいて、ダニエルがカードを空に放り投げる瞬間に、ビルの窓を「ダイヤモンドの7」に点灯させたのでしょう。観客が見るカードがスペードだったら、窓はどのように点灯するのでしょうか、見てみたいものです。

(注4)3つの企業と1人の個人に対する復讐劇とされているところ、その中で「パリ信用銀行」は、黒幕の男の父親に資金を融資しただけであり、こんなに大掛かりに復讐されるいわれはないように思えるのですが。

(注5)なにしろ、ピックポケットのジャックが車で逃げるのを捜査官のディランとアルマがパトカーで追うカーチェイスまで、本作では用意されているくのですから!



(注6)ヘンリーを演じるアイラ・フィッシャーは、『華麗なるギャツビー』において、マートルに扮しています。

(注7)尤も、催眠術を操るメリットは、ニューオーリンズのショーの際に、一部の観客に催眠術をかけて捜査官ディランの追跡を阻んだりします。でもそれは、ショーの本筋ではありません。





★★★★☆



象のロケット:グランド・イリュージョン

パッション

2013年11月05日 | 洋画(13年)
 『パッション』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)あまり事前の情報を持たずに見たのですが、なかなか良く出来たサスペンス映画で、拾い物でした。

 世界的な広告代理店のベルリン支社のトップであるクリスティーンレイチェル・マクアダムス)が主人公。



 彼女は、なんとか機会を捉えてニューヨーク本社に戻ろうとしています。
 部下のイザベルノオミ・ラパス)が発案して、クライアントの受けが良かったプロモーション・ビデオを、厚顔にも自分が創りだしたものだと本社幹部に説明し、本社の復帰の約束を確保します。

 これにイザベルは大きなショックを受けますが、独断で、そのビデオを世界中に公表してしまいます。すると、大きな反響が巻き上がり、本社サイドではイザベルの評価が高まり、クリスティーンに代わってイザベルを本社に呼び寄せようとします。



 ここから、クリスティーンの反撃が始まります。それにイザベルの部下のダニカロリーネ・ヘルフルト)も関係してきて、さて話はどんなことになるのでしょうか、………?

 2010年に公開されたフランス映画『ラブ・クライム 偽りの愛に溺れて』(2010年:アラン・コルノー監督、日本では未公開)のリメイク版とのことながら、ストーリーがなかなかおもしろくできている上に、ブライアン・デ・パルマ監督が様々の工夫をこらしており、著名な二人の女優のぶつかり合いが見もので、最後まで飽きさせません(注1)。

(2)オリジナルとなった『ラブ・クライム 偽りの愛に溺れて』がTSUTAYAに置いてあったので、すぐ前に見た『危険なプロット』に出演していたクリスティン・スコット・トーマスが出ていることもあり、借りてきて見てみました。



 映画の冒頭など、両作はかなり類似しているように思われます。
 すなわち、豪華なクリスティーヌの自宅で、彼女が仕事の話を交えながらいろいろイザベルと話をしていると(イザベルの歓心を得るべく、身にまとっていたスカーフを譲ったりします)、男(オリジナルではフィリップ、本作ではダーク)が現れ、二人が親密な雰囲気を醸しだすために、イザベルが早々に退散するというわけです。
 この簡潔な場面に、後に展開する様々な要素がつめ込まれています。

 とはいえ、相違する点もいろいろあり、例えば、次のようなものが挙げられます。
・オリジナルがパリを舞台にしていて、会話も大部分がフランス語であるのに対して、本作は、ベルリンが舞台で、会話は英語であること(注2)。
・オリジナルでは、クリスティーンらが勤める会社は農産品などを扱う商社のような感じですが、本作では広告代理店。
・オリジナルは、クリスティーン(クリスティン・スコット・トーマス)とイザベル(リュディヴィーヌ・サニエ)には歳の差がかなりあるように見えますが(注3)、本作においてはほぼ同一年齢のように見えること。
・オリジナルでは、イザベルの部下はダニエルという男性であるのに対して、本作ではダニという女性。
・オリジナルでは、イザベルが映画館に行って「最後の砂浜」という映画を見たことになっているのに対し、本作では劇場に行ってバレエ「牧神の午後」を観劇したとされていること。

 でも、一番大きな相違点は、オリジナルでは、映画の半分くらいのところで、真犯人が明かされ、さらには、真犯人が行ういろいろな工作も(注4)、映画の途中で明らかにされてしまいますが、本作ではラスト近くにならないと真相が明かされないことだと思われます(注5)。
 こうすることにより、様々なことが最後に一度に観客にぶつけられるために、消化不良を起こしかねない恐れがあるものの、本作のサスペンス的な盛り上がりは随分と強化されることになります。
 他方、オリジナルの方では、いったいなぜ真犯人はそんないろいろな工作をするのか、真犯人の表情などを見ながら、観客はあちこちと考えを巡らす余裕があるとはいえ(注6)、全体的に平板に流れるきらいがあります。

 それに、クリスティーヌの双子の姉・クラリッサの話は、オリジナルでは全く出てきません(注7)。
 この話は、本作においてはリアルなものなのか、クリスティーヌのつくり話なのか判然としません(注8)。
 でも、いずれにしても、双対的・鏡像的な関係がいくつも本作では描かれている感じがするところです。すなわち、クリスティーナとイザベルとの関係とかイザベルとダニとの関係(注9)、それに劇場のバレエです(注10)。
 ここらあたりは、どうやら本作を制作したブライアン・デ・パルマ監督のアイデアによるものといえそうです。

 そう思って思い返すと、本作のはじめの方では、新しいスマホ「オムニフォン」をPRするビデオ映像が流されますが、そこには、女性たちが、パンツの腰のポケットにスマホを入れて通りを歩きながら、その腰を見て嬉しがる男たちの写真を撮る様子とか、その画像が映し出されるシーンがあります。
 まるで鏡に写っているような姿が、映像としてスクリーンに映しだされるのです。
 そして、本作の最後の方で真犯人に示されるのも、その犯行を明らかにしている映像であり、それを見ている真犯人の姿です。

 本作は、映像の持つ鏡像的な関係を映像で示そうとしている作品といえるのかもしれません。もしかしたら、映画を見ている観客も、映像の向こうからあるいはカメラで撮影されているかもしれません。ちょうど、バレエ「牧神の午後」を鑑賞しているイザベルの顔の大写しが、スプリット・スクリーンながら映し出されるように。

(3)渡まち子氏は、「女たちの間に火花散る殺意と官能を描くサスペンス・スリラー「パッション」。完全犯罪にはほど遠いが女の権力闘争ものとして楽しめる」として50点をつけています。
 また相木悟氏は、「デ・パルマが、他のヒッチコック継承者と比べ、他の追随を許さない理由は、テクニック云々より倒錯した“変態性”を受け継いでいるがゆえであろう。しかし最近は、そうした面をスタイリッシュに気取ってみせているような気がしないではない。本作も然り。老匠に求めるのは酷かもしれないが、今一度無様にさらけだした渾身作をみてみたいものである」と述べています。



(注1)レイチェル・マクアダムスは、『ミッドナイト・イン・パリ』や『恋とニュースのつくり方』などで見ましたし、ノオミ・ラパスは『ミレニアム』で見ました。

(注2)イザベルの出張先も、オリジナルの場合カイロですが、本作ではロンドンです。

(注3)女優の年齢差は約20年。

(注4)真犯人は、自分が犯人だとまず認定されるような工作をするのです(本作では描かれませんが、オリジナルでは、ダイイング・メッセージがありますし、ナイフの購入店でも強い印象を残す行為をします)。その上、詳細に調査すれば、自分のアリバイが証明されるような工作も同時に行います。

(注5)このサイトに掲載されているデ・パルマ監督のインタビュー記事において、同監督は、「常に驚きがあるように脚本を書き換え、誰が殺人犯なのかわからないように多くの容疑者を登場させた」と述べています。

(注6)例えば、真犯人は、はじめに自分に嫌疑がかかってからそれを晴らしたほうが、逆の場合よりも、自分が真犯人だとされる確率が小さくなると考えたのかもしれません。

(注7)オリジナルでは、むしろイザベルの姉(地方で普通に暮らしています)が登場します。

(注8)クリスティーヌの愛人・ダークポール・アンダーソン)によって否定されますが、ラストの方のクリスティーヌの葬儀の場面ではクリスティーヌに似た女性が登場したりするのです。
 なお、上記「注5」で触れているデ・パルマ監督のインタビュー記事において、同監督は、「クリスティーンは自分のセックスの相手に、自分の顔に似た仮面をつけさせる。それによって彼女は、常に自分自身と愛の営みを交わしていることになる。仮面は彼女の謎めいた双子の姉妹なんだ。その姉妹が本当に存在していようといまいとね」とも述べているところです。

(注9)オリジナルでは、クリスティーヌとフィリップ、イザベルとフィリップとの性的関係は描き出されるものの、イザベルとダニエルとは、本作のイザベルとダニとの関係のようには描かれず、単なる上司と部下との関係に過ぎません。
 それに、本作では、クリスティーヌとイザベルとの関係も妖しいものとして描かれるところ、上記「注5」で触れているデ・パルマ監督のインタビュー記事において、同監督は、「オリジナル版のアラン・コルノー監督は、キャラクター間の性的な惹かれ合いについて避けて通っていた。だがレイチェル・マクアダムスとノオミ・ラパスは、それをストレートに演じたんだ」と述べています。

(注10)劇場で上演されているバレエについて、上記「注5」で触れているデ・パルマ監督のインタビュー記事において、同監督は、「バレエの舞台には3方向に壁があり、ダンサーはスタジオの鏡の壁を覗き込んでいるかのように観客と対峙する。それによって、彼らにカメラをまっすぐ見てもらうことができ、4番目の壁のルールを破り、そのシーンに奇妙な雰囲気を醸し出すことができた」と述べています。



★★★★☆



象のロケット:パッション

危険なプロット

2013年11月01日 | 洋画(13年)
 『危険なプロット』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)予告編を見て面白いと思い映画館に行ってきました(注1)。

 高校の国語の教師・ジェルマンファブリス・ルキーニ)が主人公。
 彼は家で、生徒が課題(「週末のこと」)で書いた作文を読みますが、出来が悪いものばかりでうんざりします(「彼らの無知よりも将来が心配だ」)。
 その中で、ある家庭の内情を描いたクロードエルンスト・ウンハウアー)(注2)の作文が目に止まります(「綴りのミスもなく語彙も豊富だ」)。



 次々と書いてくるクロードの作文を読み、その才能に惹かれたジェルマンは、個人的に彼に文学の指導をします(注3)。
 さらにジェルマンは、その作文を妻のジャンヌクリスティン・スコット・トーマス)にも見せますが(注4)、2人は次第に、その作文に書かれているジェルマンの生徒・ラファ(クロードの友達)の家庭の様子自体に興味を持ちだしてしまいます(注5)〔特に、ラファの母親のエステルエマニュエル・セニエ)とクロードとの関係に〕。
 ジェルマンは、クロードが作文を書き続けられるよう、とんでもないことをするハメになり(注6)、他方で、クロードが書いていることが現実のことなのかフィクションなのかも判然としがたくなってきます。
 さあ、事態はさらにどのように展開していくのでしょうか、………?

 クロードという美少年にかき回される2つの家庭の様子(注7)が、主人公の国語教師ジェルマンの生徒に対する作文指導というやや変わった角度からユーモアをもって描かれていて、なかなか興味深い作品となっています(注8)。

(2)とはいえ、問題点もあるように思います。
 ジェルマンやラファの家の中を描き出しているシーンなどは、原作が戯曲(注9)であることを引き摺っているように感じられます(注10)。
 また、ジェルマンは、生徒を指導する教師という立場でありながら、生徒であるクロードに思うがまま引きずられてしまっているのは、随分と主体性のないつまらない人物のように思えてしまいます(注11)。
 さらには、ジェルマンの妻・ジャンヌの人物造形がイマイチよくわからないところです。
彼女は、「ミロタウロスの館」というところで画廊を営んでいますが、うまくいかずに気が焦っている面もあるとはいえ(注12)、いとも簡単にジェルマンの元を去ってしまいます(注13)。



 もっと言えば、文学がフィクションであることは、ジェルマン自身がよく理解しているはずにもかかわらず(特に、西欧人なのですから)、そしてクロードに文学理論を教えているにもかかわらず、クロードが書いてきた作文をなかばリアルな話として受け取ってしまっているのは、まるで日本の自然主義文学(「私小説」)が取り扱われているような感じがして、ちょっと戸惑ってしまいます。

 でもまあ、そんなところはどうでもよくて、クロードの目を通して(まるでクロードがビデオカメラをもってその家庭に入り込んだかのように)、別の家庭の内情を覗き見てジェルマンらが興奮するというのが本作の構図だと受け止めるのであれば、こんなこともあるのかなといった感じになります。

(3)中条省平氏は、「その作為がまったく不自然に感じられないのは、オゾン監督が一切のこけおどしを排して落ち着いた演出に徹し、丹念で確実な編集を積み重ねているからだ。またルキーニ、トーマス、セニエの見事に対照的な大人のアンサンブルに加えて、新星の美少年エルンスト・ウンハウアーの危うく、同時にしたたかな存在感もドラマをひき立てている」と述べています。
 また、秦早穂子氏は、「才気あふれるあまり、心に響かぬ憾みはあるが、冷静な語り口、緻密な作り、実に巧い。ふたりの主役も魅力的だ。結末は手痛いにしても、所詮、書くとは危険と背中合わせで生きること。その悦びとおそれがある限り、人生と物語は“続く”のであろう」と述べ、さらに櫛田寿宏氏は、「上質のユーモアを含んだ、皮肉たっぷりの知的なサスペンスに仕上がっている」と述べています。



(注1)原題は「Dans la maison」(英題In the House)で、本作にピッタリです。

(注2)クロードは転校が多い生徒で、母親は7年前から不在で、父親も病身です。

(注3)例えば、誰に向かって書くのかを考えるべきだとか、読者を飽きさせないように次に起こることに読者の興味をもたせるようにする、などといったことを、ジェルマンはクロードにアドバイスします。

(注4)ジャンヌは、最初のうちは「生徒にこんな作文を書かせるなんて」とか、さらには「クロードの親に言うべき」、「精神科医にみせるべき」、「ジョン・レノンを殺した男がサリンジャーの本を持っていた」などと言いつつも、その作文を読みたがります。

(注5)クロードが提出する作文の末尾に、毎回「続く」と記載されているので、どうしても次の作文が気になってしまいます。

(注6)クロードは、ラファに数学を教えるということで彼の家に入り込みますが、ある時ジェルマンに、「今度の数学の試験の成績が悪いと、その家に行けなくなる」と言い出します。ジェルマンは、「私に数学の問題を盗めというのか」と驚くものの、数学教師が作成したテスト用紙を密かにコピーしてしまいます。
 結局は、ラファが学校当局にそのことを打ち明けて、ジェルマンは停職処分を食らうことに。

(注7)クロードは、家庭のぬくもりを求めているのにすぎないのでしょうが(特に母親の愛情を求めているのでしょう)、それがエステルとの関係では恋愛感情になってしまい、エステルは「夫とラファが自分を必要としている」と言って、クロードから離れることになります。



 ついで、クロードはジャンヌに近づきますが、ジェルマンがクロードにジャンヌの秘密(不妊症)を明かしていたことがわかると、ジャンヌも離れてしまいます。

(注8)主演のファブリス・ルキーニは『屋根裏部屋のマリアたち』や『しあわせの雨傘』で、また、クリスティン・スコット・トーマスも『砂漠でサーモン・フィッシング』や『サラの鍵』でおなじみです。

(注9)本作は、スペインのファン・マヨルガの戯曲「最後列の少年」に基づいているとのことです(クロードは、教室の“最後列”の席に座っています)。

(注10)クロードがドアの陰から部屋の様子を覗き見しているシーンは、演劇において、中の様子に聞き耳を立てるよく使われる手法に通じるのではないでしょうか。
 また、クロードとラファの母親エステルとが二人きりでいるところにジェルマンが登場するのは、『ローマでアモーレ』でウディ・アレンが使っている手法(同作に関する拙エントリの「注2」を「参照)と同じように思われます。

(注11)ジャンヌが言うように、ジェルマンが「クロードに恋している」ためなのかもしれないところ、それだけでなく、ジェルマンは、クロードの作文についてのジャンヌの感想を、まるで自分のもののようにクロードに話したりもするのです〔彼は、元々作家志望で、本も1冊書いているのですが(クロードが本棚にそれを見つけます)、自分にはその才能がないと諦めています〕。

(注12)ジャンヌは「言葉による絵画」なるものをジェルマンに見せますが、彼は「売れるとは思えない」と答えますし、また、館の持ち主の双子の姉妹に、画廊で展示する絵を見せている場面がありますが、どう転んでも売れそうにない中国人の作品なのです(実際にも売れず、画廊は売却されることに)。

(注13)いくら、ジェルマンが、ジャンヌの不妊症のことをクロードに打ち明けてしまったとはいえ。



★★★☆☆



象のロケット:危険なプロット

ムード・インディゴ

2013年10月26日 | 洋画(13年)
 『ムード・インディゴ うたかたの日々』を渋谷のシネマライズで見ました。

(1)なんの予備知識もなく、単に『タイピスト!』に出演していたロマン・デュリスとか、『最強のふたり』のオマール・シーが本作に出演しているというので見てみようかと映画館に行きました。

 ストーリー自体は実に単純で、親の遺産で働かなくても暮らしていける主人公コランロマン・デュリス)は、専属シェフのニコラオマール・シー)と日々を送っています。



 ただ、ニコラにはイジスという恋人がいて、また親友のシックガッド・エルマレ)(注1)にも、ニコラの姪のアリーズという恋人がいるのに対し、コランには誰もいません。



 そこで、コランはパーティーに出かけていき、クロエオドレイ・トトゥ)という女性を見つけます。
 そして半年後に結婚。



 ですが、クロエは、肺に睡蓮の花が咲くという奇妙な病気にかかってしまいます(注2)。
さあ、いったい2人の生活はどうなってしまうのでしょうか、………?

 こんな他愛のないストーリーですが、実際には、その映像はなかなかシュールなもので呆気にとられてしまいます。例えば、ピアノを弾くと、そのメロディーに従って違うカクテルが作られるという「カクテルピアノ」が登場したり、水道の蛇口から「うなぎ」が飛び出したり、喋る「ハツカネズミ」が登場したり、踊るコランたちの足が長く伸びて湾曲したり、などなどです。

 映画を見ている時は、映画制作者の方でこうした遊びをしているのかなと思っていたのですが、映画館から帰って原作〔ボリス・ヴィアンうたかたの日々』(野崎歓訳、光文社古典文庫、2011)〕にあたってみると、驚いたことに、そうしたものはかなり原作自体に書き込まれているのです(注3)。

 そうした幻想的なものを色々取り込みながら、本作は、コランとクロエの愛が結ばれ結婚するものの、クロエが病魔に襲われ、それまでの天国のような明るく楽しい生活から一転して薄暗い境遇に落ちるまでが(注4)、映像として大層見事に描き出されていると思いました。

(2)ところで、ボリス・ヴィアンの原作に基づく作品は、日本でも2つほど発表されています。
 まず、漫画家の岡崎京子氏による漫画『うたかたの日々』(宝島社、2003年)。
 これは、ほぼ原作に忠実に描かれています(注5)。
 もう一つは、利重剛監督の映画『クロエ』(2001年)(注6)。
 これは、原作を現代日本に置き換えて映画化しており、かつまた原作の持つ幻想的な部分はかなり省略されています。

 本作とこれらとを比べてみますと、例えば、
 本作の場合、登場人物の年齢が、扮する俳優の年齢に影響されて30代後半に思えるところ、岡崎氏の漫画にあっては、原作と同じように20代前半とされ(コランとシックは22歳)(注7)、また映画『クロエ』では、雰囲気的には本作と同じような印象を受けます(注8)。

 また、原作の幻想的な部分、例えば、カクテルピアノとかうなぎや喋るハツカネズミは、本作でも岡崎氏の漫画にも登場しますが、映画『クロエ』には登場しません。

 もっと言うと、原作に「その中は暖かくて、シナモンシュガーの匂いが」する「バラ色の小さな雲」と描かれているものは(P.79)、本作では工事現場にあるクレーンによって引き上げられる乗り物として登場しますが、岡崎氏の漫画では水蒸気の雲とされているに過ぎず、映画『クロエ』には登場しません(注9)。

 そんなこんなからごく大雑把にとらえてみると、本作→岡崎氏の漫画→映画『クロエ』の順で、幻想的で明るい要素が減少し、次第にリアルさを増し、暗い感じになってくるような印象を受けます(注10)。そして、原作はこうしたものすべてを飲み込んでいるように思われるところです。

(3)渡まち子氏は、「ボリス・ヴィアンの代表作を遊び心たっぷりに映像化したラブストーリー「ムード・インディゴ うたかたの日々」。細部までこだわった手作り感たっぷりのヴィジュアルが見もの」として65点をつけています。
 また、土屋好生氏は、「題名にもあるデューク・エリントンの音楽と共に泡のように消え去る青春への憧憬と惜別の思いが痛いほど伝わってくる」などと述べています。



(注1)シックは本作で、ジャン=ソール・パルトルの熱烈な信奉者として描かれていますが、それは原作どおりであり、哲学者ジャン=ポール・サルトルをモデルにしています。
 なお、原作(光文社古典文庫版)には、初版本の『反吐に関する逆説』(P.64)、ミシン目なしのトイレットペーパーロールに刷った版の『吐き気に先立つ選択』(P.70)、半分ほどスカンクの毛皮で想定した版の『反吐』(P.89)、ボヴアール公爵夫人紋章入りの紫色のモロッコ革製の『かび臭さ』(P.111)、真珠のような光沢を放つモロッコ革装でキルケゴールによる別丁図版付きの『花のおくび』(P.194)、左人差し指の指紋がついた『文字のネオン』(P.228)等が出てきます。

(注2)10月19日付けの「図書新聞」に掲載の対談(野崎歓氏vs.菊地成孔)の中で、仏文学者の野崎氏が「この睡蓮が何なのかと文学研究者はずっと論文を書いている」と言うと、ジャズミュージシャンの菊地氏は、「エリントニストから見たら、それは単に『ロータス・ブロッサム』という曲のことだとなる」と答えています。

(注3)例えば、うなぎについては、原作において「毎日、ニコラの部屋の洗面台に、水道管をとおってやってきていたんだ」、「蛇口から頭を出して、歯磨きチューブにかじりついて中身を食べていたんだよ」などとコランがシックに語ります(P.24)。

(注4)無尽蔵のはずのコランのお金は、シックがアリーズと結婚できるように贈与したり(しかし、シックは、そのお金の大半をパルトルの稀覯本籍購入のために使ってしまいます)、クロエとの結婚のために使ったりして残り少なくなってしまい、さらにクロエの治療のためにたくさんの花を購入することにしたために、瞬く間に底をついてしまいます。
 それで、やむなくコランは働きに出るのですが、その仕事というのが、土の中から銃身がまっすぐに育つように体のぬくもりを与えるものだったり、人々に不幸が訪れる1日前にそれを予告するものだったりするのです。

(注5)例えばイジスについて、岡崎氏の漫画では、「とてもきれいな若い女の子で幼なじみだった」とされ、さらに「いかんせん2人ともお互いがチューインガムみたく気安すぎた」と書かれていますが(P.31)、原作では、「コランは彼女の両親をよく知っていた」くらいしか書かれていないようです(P.37)。
 このように微細な相違はいろいろ見受けられるものの、岡崎氏の作品は、原作のストーリーをほぼ忠実に漫画化しているものと思います。

(注6)TSUTAYAにVTRがあったので借りてきてざっと見てみましたが、全体として、原作の後半部分に焦点を当てているようで、トーンがものすごく暗い感じになっています。でも、かえってそのことによって、フランス臭さを感じさせず純日本的な締まった感じのする良質の作品に仕上がっていると思いました。
 特筆すべきなのは、主演の永瀬正敏(本作のコランに該当)とともさかりえ(クロエに該当)を取り巻く俳優陣が凄いことだと思われます。なにしろ、塚本晋也(シックに該当)や青山真治(パルテルに該当)、松田美由紀(アリーズに該当)などが出演しているのですから。

(注7)原作では、ニコラは29歳とされています(P.41)。

(注8)本作の場合、ニコラを黒人のオマール・シーが演じているため、その姪でシックの恋人のアリーズも黒人ですが、原作では、アリーズについて「並はずれて豊かなブロンドの髪が細かくカールして顔をふんわりとふちどっていた」と描写されているところからすれば(P.33)、ニコラもアリーズも白人と考えられます(岡崎氏の漫画でもそのように描かれています)。

(注9)他にも例えば、原作で「彼はバスタブのそこに穴をあけて水を抜いた」(P.10)とあるところは、本作では描かれますが、岡崎氏のマンガや映画『クロエ』では描かれません。

(注10)本作も、後半になるとモノクロとなり、ラストの葬儀の場面はかなり陰惨ながら、前半の底抜けに明るいトーンに影響されたのでしょう、映画全体からは何かしら明るい印象を受けました。



★★★★☆



象のロケット:ムード・インディゴ