映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ウォルト・ディズニーの約束

2014年04月29日 | 洋画(14年)
 『ウォルト・ディズニーの約束』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)タイトルからはパスしようと思っていたものの、評判が良さそうなので映画館に行ってみました。

 本作は、映画『メリー・ポピンズ』(1964年)の原作者であるパメラ・トラヴァースエマ・トンプソン)の幼いころの光景から始まります。
 時は1906年とされ、場所はオーストラリア(注1)。
 映し出される女の子の姿に大人の女性が次第にかぶさってきて、画面は1961年のロンドンに。
 部屋の中央に置かれた机に置かれたタイプライターを前にして、トラヴァースが、昔を思い出しています。
 そこにドアのベルの音が。
 彼女がドアを開けると、代理人・ラッセルが部屋に入ってきます。
 ラッセルが、「あなたは、本が売れず収入がないにもかかわらず、本を書かない」、「それでいて、脚本を承認しない」(注2)と文句を言うと、トラヴァースは「彼女は私の全て。ロスなんてとても行けない」と答えますが、さらに彼が、「2週間だけのこと、気に入らなければ承認しなければいい」と押すと、彼女も「この家を手放したくない」と言ってロス行きをしぶしぶ認めます。
 次いで、画面は再び昔のオーストラリアに。
 父親(コリン・ファレル)が、娘のギンティ(アニー・ローズ・バックリー)(注3)に「王女を見かけませんでした?」と尋ねると、ギンティは「私よ」と答えます。すると父親は、「良かった、王女を見失って死刑かと。準備はいいかな?では、旅が始まるぞ!」と叫び、娘を肩に抱いて進んでいきます。



 ここから、一方では、ロスに向かう飛行機に搭乗したトラヴァースが、他方ではオーストラリアのマリーボローからアローラに移り住むトラヴァースの一家が交互に描かれます。
 そしてついに、トラヴァースは、ロスのディズニー・プロダクションで、ウォルト・ディズニートム・ハンクス)や、脚本家・ダグラディブラッドリー・ウィットフォード)、作曲家のリチャード・シャーマンジェイソン・シュワルツマン)、作詞家のロバート・シャーマンB.J.ノヴァック)たちと、映画化に向けての話し合いをすることになります。
 でも、万事につけて頑なな態度をとるトラヴァースとディズニー側との話し合いは、はたしてうまくいくのでしょうか、………?

 本作は、邦題(注4)からするとウォルト・ディズニーが主役のように思えますが、むしろパメラ・トラヴァースに専ら焦点が当てられ、幼いころのオーストラリアでの生活が何度も途中で回想され、それが映画『メリー・ポピンズ』と絡まり、なぜ彼女がディズニーの映画化に積極的になれないか(交渉に20年もかかりました)を次第に明らかにしていくという構成をとっていて、他愛ないディズニー物という先入観を吹き飛ばしてくれるなかなかの出来栄えの作品だなと思いました。

 主演のエマ・トンプソンは、『新しい人生のはじめかた』では実年齢よりも5歳~10歳若い役柄を、本作では逆に7歳ほど上の役柄を、どちらも実に巧みにこなしています。また、トム・ハンクスは、『キャプテン・フィリップス』で達者な演技を見たばかりですが、本作でもウォルト・ディズニーをごく自然に演じていてすごいなと思いました(注5)。



(2)本作を見て、コリン・ファレルが扮するトラヴァースの父親の興味を持ちました(注6)。
 劇場用パンフレットに掲載されている森恵子氏のエッセイ「P.L.トラヴァースと映画『メリー・ポピンズ』を結ぶもの」によれば、父親のトラヴァース・ゴフは、「ロンドン生まれ。海運業者の次男で、オーストラリアに移住して砂糖きび農園の監督などを経て、マリーボローでオーストラリア合資銀行の支店長になった」そうです。
 その彼は、大のアイルランド贔屓で、「自分をアイルランド人と称し」、アイルランドの「神話や伝説を愛し、アイルランドのすることで悪いことはひとつもない」と思っていたようです。
 上記の(1)で紹介しましたように、映画でも、自分の娘をアイルランドの王女に見立てたり、さらには、「アルバート叔父さんを魔女が馬に変えたんだ」と言ったり、娘と馬にまたがって空を駆け巡ろうとしたりします(注7)。
 どうやらトラヴァース・ゴフは、『LIFE!』のウォルターとか、『白ゆき姫殺人事件』の城野美姫のように(さらには、TV番組をドラマ『花子とアン』の花子のように)、空想癖の随分と強い人物のように思われます。

 そうした性向を娘のトラヴァースも受け継ぎ、魔法を使うナニー(ベビーシッター)が活躍する児童文学『メアリー・ポピンズ』のシリーズ(1934年~1988年)を書くことになったものと思われます。
 そして、その映画化の交渉に20年にわたって取り組み続けたウォルト・ディズニーもまた、斬新なアニメを次々と制作したり、ディズニーランドを作ったりと、やっぱり偉大な空想家といえるでしょう(注8)。
 本作は、もしかしたら、この三つ巴(トラヴァース・ゴフ―パメラ・トラヴァース―ウォルト・ディズニー)の構造を一つの作品の中で描き出したものといえるのではないかと思いました(注9)。

(3)渡まち子氏は、「傑作ミュージカル映画「メリー・ポピンズ」誕生秘話を描くヒューマン・ドラマ「ウォルト・ディズニーの約束」。映画製作の裏話としても十分に楽しめる」として65点をつけています。
 森直人氏は、「建築に喩(たと)えると、シンプルな外観のわりに意外と込み入った内装まできっちり構築された秀作だ」と述べています。
 宇田川幸洋氏は、「過去のトラウマが小出しにされていくあたりは単調だが、「メリー・ポピンズ」製作・完成に近づいていくと、やはりこころおどる」と述べています。
 安部偲氏は、「全体としては柔らかな雰囲気の出来上がり。そこに実話というエッセンスがふりかけられ、あのウォルト・ディズニーにこんなエピソードが、『メリー・ポピンズ』にはこんな製作秘話がと、知識欲も満たしてくれる点が嬉しい。見終わったあとの満足度はかなり高いに違いない」と述べています。



(注1)「東の風が吹き、何か不思議なことが起きそうな予感がする」との歌声がはいってきますが、これは映画『メリー・ポピンズ』と同じような出だしです。

(注2)ディズニーは、トラヴァースが書いた『メアリー・ポピンズ』(1934年)を映画化しようと、それまで彼女と20年近く契約交渉をしていました。

(注3)ギンティ(Ginty)はアイルランドの名字で、父親は娘のパメラ・トラヴァースのことをこう呼んでいました。

(注4)邦題は、ウォルト・ディズニーが、『メアリー・ポピンズ』を映画化するという約束を自分の娘との間でしたこと、さらにいえば、作者の意を汲んだ映画にするという約束をトラヴァースとの間でしたこと(「あなたのメアリー・ポピンズを私に託して欲しい」)を踏まえているのでしょう。

(注5)トラヴァースの父親役のコリン・ファレルは、『ウディ・アレンの夢と犯罪』で見ました。
 また、トラヴァースがロスの空港に降り立った時に出迎える車の運転手・ラルフを演じるポール・ジアマッティは『スーパー・チューズデー』や『それでも夜は明ける』(奴隷商人役)で見ました。

(注6)映画『メリー・ポピンズ』に登場するバンクス氏のモデルは父親であり、例えばトラヴァースは、そのバンクス氏にヒゲを付けることに反対します。なにしろ、トラヴァースの回想によれば、父親はヒゲを剃りながら「お前のためにヒゲを剃るんだよ。キスをするのに、ヒゲがあるのとないのとではどっちがいい?」と娘に言うくらいなのです。

(注7)さらには、トラヴァースが、学校で褒められた詩を父親に見せると、彼は「イェイツには程遠いな」と言ったりするのです。

(注8)だからこそ、本作におけるウォルト・ディズニーは、「実は、私にもバンクス氏はいる」と話し始め、ナニーのメアリー・ポピンズは子供たちではなく、トラヴァースの父親(トラヴァース・ゴフ)を助けにやってきたんだということを理解し、さらに「もうヘレン・ゴフ(トラヴァースの本名)を許してあげるべきだ」とトラヴァースに言ったのではないでしょうか?
 そして、トラヴァースの父親をモデルとするバンクス氏を映画の中で描くことによって、父親を救うことにもなると言ったのでしょう。
 そういったことを踏まえて、本作の原題が「Saving Mr. Banks」となっているものと思われます。

(注9)むろん、本作は、事実に忠実な伝記作品ではなく、大部分はフィクションでしょうが、事実に基づく部分もかなり取り込まれているようです(例えば、エンドロールでは、『メリー・ポピンズ』の脚本についてトラヴァースとディズニー側との間で行われた実際の話し合いの録音記録が流れますが、本作でもかなりそれに近い会話がなされます)。



★★★★☆☆



象のロケット:ウォルト・ディズニーの約束
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おとなの恋には嘘がある

2014年04月25日 | 洋画(14年)
 『おとなの恋には嘘がある』を新宿のシネマカリテで見ました。

(1)予告編を見てなんとなく良さそうだなと思い映画館に行ってきました。

 舞台はロスアンジェルスで(注1)、本作の主人公のエヴァジュリア・ルイス=ドレイファス)はボディセラピスト(注2)。
 求めのあった家に車で用具(折りたたみ式のマッサージ台)を運び、そこで顧客に対しボディーマッサージなどを施します。
 新たにエヴァの顧客になった詩人のマリアンヌキャサリン・キーナー)との話から、エヴァは10年前に夫と別れ、今は独りで娘を育てているシングルマザーだとわかります。
 また、マリアンヌも、共通点のない夫とは別れたと言います。
 そんなエヴァは、あるパーティーでシングルファーザーのアルバートジェームズ・ガンドルフィーニ:注3)と知り合います。



 両者とも、独り立ち寸前の同じくらいの年格好の娘(注4)を持っていることなどから、簡単に意気投合するのですが、………?

 本作は、タイトル(注5)からすると子供の視点から見たオトナの恋のお話かとみなされるかもしれませんが、シングルマザーとシングルファーザーとの大人の恋の物語であり、日本の現状ではまだここまで行っていないのではと思われる点が多々見られるものの、ストーリーの中に笑いの要素が巧みに織り込まれ、邦画だったらお涙頂戴の映画になるかもしれないところが、逆に楽しい雰囲気になっていて、まずまずの出来上がりの作品と思います。

(2)アメリカでは離婚が当たり前なのでしょう、本作では、パーティーなどでの話題が、すぐに前の夫や前の妻のことになってしまいますし、また、二人の間の会話もそちらに流れがちです。
 例えば、アルバートはエヴァに対して、「自分の欠点は、だらしないこと、体毛が生えていること」とか、「元妻と娘は綺麗好き」、「元妻は不倫していたようで私を拒否」、「おふくろのせいか、足が苦手」などと喋りますし、エヴァの方もアルバートに、「私の方で拒否してセックスレスに」とか「冗談を言うのが疲れて」などと話します。
 また、マリアンヌはエヴァに、「元夫は、ダイエットをするがすぐに挫折」、「元夫は、ナスとモッツァレラのスパゲティーを作ってくれたが、それだけ」、「元夫はダメな男、自分で人生を築けない人なで、恋人もできない」などと語ります。



 こんなあけすけな会話が飛び交うのはアメリカ映画ならではと思われますが、もしかしたら監督(脚本も)がTVドラマの『SEX AND THE CITY』の演出をしたニコール・ホロフセナー氏だからなのかもしれません。
 そして、こうしたとりとめのない会話がその後のストーリーの展開に影響してくるのですから、なかなか良く出来た脚本ではないかだと思います。

(3)映画評論家の秋山登氏は、「小粋で小味のきいた、愛すべき小品である。人生の浮き沈みを知る中年男女の恋のもつれを、温かくおかしく楽しく見せる。大人のための知的エンターテインメントといおうか」と述べています。



(注1)このサイトの記事によります。

(注2)いわゆる整体師でしょうか。なお、この記事が参考になるでしょう。

(注3)ガンドルフィーニは昨年の6月に急逝したために、本作はその死後に公開されました。
 なお、彼は、邦画『サンブンノイチ』の中で言及される『トゥルー・ロマンス』(脚本がクエンティン・タランティーノ:未見)に出演しているようです。

(注4)エヴァの娘・エレンはニューヨークの大学(サラ・ローレンス・カレッジ)に合格してしまいましたし、アルバートの娘・テスも美大に行くことになっています(レストランでアルバートやエヴァと一緒に食事をした際に、テスは、エレンが行く大学について、「ここ最近はレベルが落ちた」などと言います。あとでエヴァは、エレンにテスのことを「生意気だった」と話します)。

(注5)原題は「Enough said」(このサイトの記事によれば、「よくわかった, もう言わなくてもいいよ」の意味)。ちなみに、上映時間は93分。



★★★☆☆☆



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ワンチャンス

2014年04月22日 | 洋画(14年)
 『ワンチャンス』を吉祥寺のバウスシアターで見ました。

(1)バウスシアターは来月末で閉館となってしまうため、できるだけ数多く見に行こうと思い、本作に関する情報は殆ど持たずに出かけました。

 本作は実話に基づく作品で、舞台はイギリスのウェールズにある都市。
 主人公のポール(大人になってからはジェームズ・コーデン)は、10歳の頃から教会の聖歌隊で歌っていたものの、自分の歌声が余りに大きいために鼓膜が破れて倒れてしまうほどでした。
 天性のオペラ歌手といえるのでしょうが、マシューらの仲間にはいつも虐められています。「僕は歌うと虐められ、虐められると歌っていた。僕の人生はまるでオペラだ」などとポールは語ります。
 家で食事をとっている最中でも、ヘッドホンを付けて「フィガロの結婚」を聴いている有り様。父親(コルム・ミーニイ)は堪りかねてカセットレコーダーのスイッチを切ってしまいます。ですが、母親(ジュリー・ウォルターズ)は隣の部屋でラジオを点けて「乾杯の歌」を流します。



 そんなある日、ポールが勤務する携帯ショップ店の上司・ブラドンマッケンジー・クルック)が、ポールのメル友で一度も会ったことがないジュルズアレクサンドラ・ローチ)に渡りをつけて、ポールとジュルジュとを引き合わせます。



 その初デートの際、ポールはジュルズに「パヴァロッティが関与するヴェニスの学校に行き、将来はオペラ歌手になりたい」と打ち明けるところ、別れ際にジュルズは、「次はヴェニスのゴンドラの上から電話をかけて」とポールに言います。
 さあ、ポールはヴェニスに行くことができるのでしょうか、ジュルズとの関係はどうなるのでしょうか、オペラ歌手になるという望みは上手く達成できるのでしょうか、………?

 本作の主人公は、おとぎ話のようなアップ・ダウンを繰り返して目を見張りますが(注1)、素人オーディション番組から登場して世界をアッと驚かせたスーザン・ボイル氏の話を知っているだけに、こうしたストーリーの映画を見ても実話として受け入れることが出来てしまいます。

(2)としても、スーザン・ボイル氏の方は全くのアマチュアだったように推測されるのに対して(注2)、本作の主人公・ポ―ルの場合、上に書いたように小さい頃には聖歌隊で歌っており、またオペラ歌手を夢見て、街のコンテストに出場し、その優勝賞金でヴェニスの音楽学校に行ったりもします。
 さらに、本作のモデルとなった実際のポール・ポッツ氏は、Wikipediaの記事によれば、一方で、「セントマーク&セントジョン大学では人文学を専攻し、1993年に優等学位を得て卒業し」、その後「ブリストル市議員を務めた」とのことですが、他方で、「アマチュアのオペラ劇団やアマチュアのオペラ・プロダクションに参加し、無償でオペラ活動を続けた」そうです。
 要するに、同じTV番組「ブリテンズ・ゴット・タレント」に出場して世界的に注目される存在になったとしても(注3)、学歴がなく家に閉じこもっていたように思えるスーザン・ボイル氏と本作のポール(あるいは実際のポール・ポッツ氏)とはかなり違っているように思えるところです。

 逆に言えば、そんなに違っているように見える二人がどうして世界中から注目される歌手になったのでしょうか?
 もちろん、類まれなる美声の持ち主という点を一番にあげるべきでしょう。
でも、あるいはそうした人物だったら他にもかなりいるのではないでしょうか(注4)?

 としたら、もしかしたら、二人の背後にある物語性が影響しているとは考えられないでしょうか(注5)?
 例えば、二人とも、学校でひどく虐められたようですし、きちんとした音楽教育を受けておりませんし、一人は家庭におりましたし、もう一人は携帯ショップで働いていました。
 素晴らしい音楽が生まれてくるなどとても期待できそうもない環境の中から、魅惑的な美声の持ち主が突然音楽の舞台に出現したことで、大衆が拍手喝采をしたのではないでしょうか?

 本作は、大きな組織の末端で日々地味に働いている人物にスポットライトを当てたように見える『LIFE!』とは対極的に、地味なところから世界の檜舞台に飛躍した人物を描いた作品と言えるのかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「英国出身のオペラ歌手ポール・ポッツの半生を描くヒューマン・ドラマ「ワン チャンス」。ポッツ自身が吹き替えている歌が最大の魅力だ」として65点をつけています。



(注1)例えば、ヴェニスの音楽学校では、パヴァロッティの前で歌を披露するという栄誉を得たにもかかわらず、極度に上がってしまい、逆にパヴァロッティから「君はオペラ歌手には向いていない」と切り捨てられてしまいます。

(注2)このサイトの記事によれば、彼女は、「定職を持たず、スコットランド中部にあるキリスト教会でボランティアをしており、教会で歌を歌うことはあっても、大勢の前で歌を披露したのは「Britain's Got Talent」が初めて」とのこと。

(注3)ポール・ポッツ氏が「ブリテンズ・ゴット・タレント」に出場したのは2007年で(37歳)、スーザン・ボイル氏は2009年です(48歳)。

(注4)この点については、もしかしたら、このサイトの記事が参考になるかもしれません。

(注5)例の佐村河内氏の『交響曲第1番《HIROSHIMA》』があれだけもてはやされたのも、その曲自体が持っている美質というよりも、むしろそれを作曲したとされた佐村河内氏が被曝2世で全聾とされ、「現代のベートヴェン」と宣伝されたからでしょう。
 むろん、ポールは詐欺師ではありえず、ごく真面目な音楽家でしょう。でも、そんな彼が世の中で注目される背景として、佐村河内氏と共通のものを感じてしまうところです。
 なお、曽野綾子氏は、『交響曲第1番』につき「この作品は受け入れやすい、いい作品」と述べていますが(この記事)、その作品がマーラーの交響曲第3番を剽窃した部分があるということを無視してしまっています。同氏が「芸術というものは、この手の毒を含む部分があっていいのである」と述べるところ、確かに品行方正な芸術では箸にも棒にもかからないとはいえ、はたして他の作曲家の作品を剽窃することまで含めているのでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:ワンチャンス
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サンブンノイチ

2014年04月18日 | 邦画(14年)
 『サンブンノイチ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『ドロップ』、次いで『漫才ギャング』と見てきた品川ヒロシ監督の第3作目の作品ということで映画館に行ってきました。
 今回の作品は、これまでの2作がオリジナル物だったのに対し、原作物〔木下半太氏の小説(角川文庫)の映画化:脚本は品川ヒロシ〕ということで注目されているようです。

 映画の冒頭では、登場する人物が、その一人である「まりあ」(中島美嘉)によって紹介されていきます。
 「まりあ」は、まず自分自身について、映画に映し出されているキャバクラのハニーバニーで昨日まで働いていたが殺された、と語ります。
 次いで、ハニーバニーのボーイの小島一徳(通称「コジ」:田中聖)。趣味は格闘技で、性格はいいものの頭が悪いとのこと。
 さらに、焼肉チェーン店の社長で連客の金森健(通称「健さん」:小杉竜一)。
 最後に、清原修造(通称「シュウ」:藤原竜也)を、ハニーバニーの雇われ店長だと紹介します。
 どうやらこの3人が銀行強盗を働き、ハニーバニーに奪ったお金を運んできて、これからそれを3等分しようとしているようです。



 ここでタイトルクレジット。
 さあ、銀行強盗って一体何でしょうか(注1)、そして上手く3分の1ずつ分けることができるでしょうか、それに「まりあ」は殺されているってなんでしょう………?

 品川ヒロシ監督は、前2作について自家薬籠中の話を映画化したのに対し、本作は原作物ということで、見る前に若干の危惧はあったものの、どんどん思いもよらない方向に展開するストーリーを上手くコントロールして、まずまず面白く仕上げていると思いました。

 本作の出演者のうち、最近では、藤原竜也について『藁の楯』で、また窪塚洋介について『ジ、エクストリーム、スキヤキ』でそれぞれ見ています。



(2)話が二転三転しどうなるのかわからないところがこの映画の面白さですから、内容にわたって書きづらいので、簡単に申し上げるにとどめます(ネタバレになるところはご容赦願います)。
イ)シュウは、もともと映画監督を憧れていたところ、ある出来事があってそれを諦め(注2)、今ではキャバクラの雇われ店長になっているという設定です。
 これは、原作の作者・木下半太氏の経歴と類似している部分があり(注3)、そういうこともあって、原作でも映画でも映画ネタがふんだんに盛り込まれています。
 でも、そんなことは刺身のツマといったところで(注4)、せいぜいのところ隠し味程度にしておくべきではないかという気がします。あまりやりすぎれば、オマージュともならずに、単なるパクリとなってしまう恐れもあるのではないでしょうか(注5)?

ロ)本作においては、映画の中でさらに脚本を書く者(注6)がいて、それを皆で演じますが、さらに、演じられているものを見ている者(注7)がいるという構図になっています。加えて、見られていることはシュウたちも承知の上。ということは“入れ子”の構造が何重にも施されているというわけです。
 ただ、こうした構造は、最近では例えば『シャッフル』でも感じたのですが、余り何度も繰り返されると、見ている方でも身構えてその先を読んでしまい、実際にその通りになると興が削がれることになります。

 そんなこんながあるとはいえ、本作全体の面白さからすれば些細なことといえるかもしれません。

(3)相木悟氏は、「頭を空にして、二転三転する妙を笑って楽しめるクライム・ムービーではあった」と述べています。
 ですが柳下毅一郎氏は、「副音声的にすべてを説明し、それに合いの手まで入れていく掛け合いの……漫才?はテレビで五分のコントとして見る分にはそれほど苦痛でもないかもしれない。だがこの映画、二時間もある!」と随分の酷評です。



(注1)実は、シュウは、ハニーバニーの売上金400万円を競馬場で盗まれ〔「オーナー(破魔翔:窪塚洋介)の耳に入ったらアイスピックで殺される」〕、やむなく金貸しの渋柿多見子池畑慎之介)から金を借りて補填しましたが、渋柿の厳しい取り立てにあっています(「1週間で返せなかったら、あんた死ぬよ」)。



 そんなシュウに、同じく金に困っていた「まりあ」(オーナーから2週間で5000万円作ってこいと強要されています)が銀行強盗の件を持ち出します。
 そこで、シュウは、カジノで負けて借金(シュウと同じく400万円)を抱え込むコジと、風評被害に遭遇し倒産寸前の焼肉チェーン店を抱える「健さん」を仲間に引っ張りこんで強盗を企てたという次第です。

(注2)『踊る海岸線』という映画の撮影現場で下働きをしていた時に、俳優たちが使ったふんどしをコインランドリーで洗っていたら、シュウは映画に対する情熱が冷めてしまいました。

(注3)劇場用パンフレットには、「映画専門学校中退後、脚本家・俳優として活動を始める」とあります。

(注4)いちいち詮索せずとも、劇場用パンフレットに掲載の「Movie Commnentary」で大体のところは把握できますし。

(注5)このところのSTAP細胞問題に絡んで、科学の世界にもコピペ文化が浸透していることが明るみに出されてしまいました〔例えば、このサイトの記事によれば、自然科学の博士論文にかなりのコピペ(引用元を明らかにしないで丸写しする)が見られるようです〕。

(注6)映画監督を目指していたシュウ。

(注7)破魔翔らが、ハニーバニーの上の階でディスプレイを見ています。



★★★☆☆☆



象のロケット:サンブンノイチ
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アデル、ブルーは熱い色 

2014年04月16日 | 洋画(14年)
 『アデル、ブルーは熱い色』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)本作(注1)は、昨年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得した作品だと聞いて映画館に出かけました。

 本作は、高校生のアデルアデル・エグザルコプロス)が家を出発し登校するところからはじまります。



 やっとのことで教室に滑り込み、皆と一緒に『クレーヴの奥方』を読んでいきます。
 授業が終わると、外では女生徒たちが話し込んでいますが、中の一人が、「トムがアデルを見ている」と言います。さらに「悪くないわ、ルックスはいいし」と言ったのに対し、アデルは「ブラピには劣る」と応じるものの、まんざらでもない様子。
 次の日に、アデルがバスに乗ると、トムが隣に。
 天気のこととか、アデルが手にしている本(『マリアンヌの生涯』)のことなどを糸口にして会話が弾み、トムがアデルよりも1学年上の生徒であることもわかります。
 さらに、アデルが「長髪で叫ぶハードロックは嫌い」と言うと、トムは、「残念、僕はハードロックをやっている」と答えたりします。
 休日にアデルが街を歩いていると、女同士で歩いているカップルに遭遇し、特に髪の毛をブルーに染めている女性の方になぜか心が騒いでしまい、夜寝ている時も彼女を思い起こして体が火照り飛び起きてしまうほど。
 ついにアデルはトムと肉体関係を持つに至るものの、でもどうしても心が伴わず(「トマを騙しているみたい」)、ついに別れてしまいます。
 そして、アデルはとうとう髪の毛がブルーの女・エマレア・セドゥ)にとあるバーで遭遇するのですが、さて二人の関係はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、出会った時は高校生のアデルと美術学校に通うエマとの同性愛が中心的に描かれていいます。お話自体すごく単純なものの(出会って、高揚して、別れる)、とても丁寧に美しく創られており(ラブシーンもこの上なく綺麗とはいえ、些か長いのでは)、3時間の長尺ながら少しも飽きないで見ることが出来ました。

 アデルに扮したアデル・エグザルコプロスは初めて見ましたが、実に魅力的な若手女優であり、またエマを演じたレア・セドゥは『ミッド・ナイト・イン・パリ』などで見ましたが、アブデラティフ・ケシシュ監督や共演のアデル・エグザルコプロスとともにパルムドールを受賞したのも肯ける名演技です(注2)。



(2)いくつかの観点から、アデルとエマの違いを見てみましょう。

イ)文学のこと
 映画では様々の小説が持ちだされます。
 上記の『クレーヴの奥方』(ラファイエット夫人)や『マリアンヌの生涯』(マリヴォー:分厚いのでトムが音を上げています)の他にも、『危険な関係』(ラクロ:トムが読み切った本で、アデルも知っています)、『アンティゴネ』(ソポクレス:アデルの授業で)など。
 アデルは読書好きで、こうした様々の小説を読んでいますが、トマに対して、「授業で教師がするように綿密に分析するのはウザくない?分析すると、想像力がそこでストップしてしまうからつまらない」と言っているように、どちらかと言えば感覚的に小説を味わいたい方だと思われます。
 これに対して、エマは『実存主義とは何か』(サルトル)は必読だと言って、サルトルの言葉を引用したりしますから(「高校時代にサルトルに熱中したの」)、むしろ知的な方面が好みなのかもしれません(注3)。

ロ)美術のこと
 エマとアデルが美術学校の生徒たちを読んで開いたパーティーで、誰かが「エゴン・シーレについて博論を準備中だ」と言うと、エマが「私はクリムトの装飾的なところが好き」と応じたりします。
 他方、アデルは、音楽や美術の方面はひどく疎いようです。音楽については、「譜が読めないからやらない」とトマに言いますし、「画家で知っているのは?」とエマに尋ねられ、かろうじて「ピカソ」と答えるにすぎません(注4)。

 なお、エマとアデルが開いたパーティーの席で、エマはアデルのことを「私の創造の女神、美の源泉」と紹介します。ラストで描かれるエマの展覧会においては、アデルをモデルにした絵だけでなく、アデルの後にエマが愛しているリーズをモデルにした作品も見られます。
 あるいは、エマにとって、愛の対象となるのはモデルとして価値のある女性ということなのかもしれません。
 他方で、アデルの愛は純粋であって、打算的な要素は紛れ込んでいないように思われます。

ハ)映画のこと
 アデルとトマが一緒に映画館に行くシーンがありますが(注5)、エマに語ったところによれば、「アメリカ映画をよく見るから英語は得意で、特にキューブリックやスコセッシが好き」とのこと。
なお、エマは、「自分は英語は全然ダメ」と言います。

ニ)キスのこと
 エマは、14歳のときに最初に女の子とキスをしたと言い、アデルと出会った時にはサビーヌと2年位付き合っていたりして、随分と経験を積んでいるようです。 



 これに対して、アデルの方は、トイレで女生徒にキスをされたくらいで(注6)、エマに会うまではこれといった経験がありません。

 この他にも、アデルとエマとで所属する階層に差がある点など幾つもあげられるでしょうが、とにかくこんなあんなでアデルとエマの間には微妙な齟齬が次第に生じてきて、後の展開に影響してくるものと思われます(注7)。

(3)渡まち子氏は、「運命的に出会った二人の女性の激しい愛と別れを描く「アデル、ブルーは熱い色」。主演女優二人を徹底的に追い込んだ監督の荒業が光る3時間」として65点をつけています。
 相木悟氏は、「情念の海に浸り、美しくも生々しい実在感に飲み込まれる前衛的な恋愛映画であった」と述べています。



(注1)本作には原作(漫画『ブルーは熱い色』)があるようです。
 なお、「アデル」というタイトルだと、以前見た『アデル ファラオと復活の秘薬』を思い出してしまいますが、何の関係もありません。

(注2)レア・セドゥが出演している『シモンの空』(2012年)のDVDをTSUTAYAで借りてきて見てみましたが、彼女は、ここでも大層難しいルイーズの役を上手くこなしています〔12歳のシモンと付いたり離れたりするなんとも言いがたい関係(姉弟の関係と言いながら、実は……)を、抜群の演技力で表現しています〕。

(注3)アデルは、サルトルについて、戯曲の『汚れた手』は好きだが、そのエッセイは難しいと言い、「哲学の小論文を手伝って」とエマに頼みます。
 なお、エマは「どうしてあのバーに来たの?」と最初の出会いについて尋ねますが、それに対してアデルが「偶然に入っただけ」と答えると、エマは「人生に偶然なんかない」と言います。ただ、エマが実存主義者だとすると、ちょっと変な感じはしますが、よくわかりません。

(注4)他にも、アデルが「美術と言いながらどうして醜い作品があるの?」と素朴な疑問を持ち出すと、エマは「美術に醜いものなどない」と言って、「印象派だって………」と説明したりします。

(注5)映画館で、トマはアデルの手を握ったりキスしたりします。

(注6)アデルが、別の機会にその女生徒に再度キスをしようとしたら、「この間は単に盛り上がってそうしただけのこと」と言われて拒絶されてしまいます。

(注7)さらにいえば、アデルは、エマの両親に対し「将来は、幼稚園の先生になりたい、高学歴を持ちながら何も職業につけないのが嫌なんです」と言い、実際にもそれを実現していきます。
 こうした堅実な生き方(さらには、現状を変えたくないとする生き方)に対して、エマはアデルに対し「文章がうまいのだから、短編でも書けば」と勧めますが、アデルは全くその気がありません(「自分についてノートに綴っているだけ、創作なんて向いていない」)。
 他方で、エマは有力者をバックに個展を開催したいと考えていて、映画のラストの方ではそれを実現させてしまいます。
 大雑把に言えば、生き方に関して、アデルがレアリストであるのに対して、エマはロマンティストといえるのかもしれません。



★★★★☆☆



象のロケット:アデル
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聖者の午後

2014年04月14日 | 洋画(14年)
 『聖者の午後』をユーロスペースで見ました。

(1)久しぶりにブラジル映画を見てみようということで、映画館に足を運びました。

 本作の舞台は、ブラジル最大の商業都市サンパウロ(注1)。
 3人の若者が登場します。



 一人は、祖母の年金を頼りにして、祖母と一緒に暮らすルカ。実際にはタトゥショップを開いているものの、客は余り寄り付きません。
 二人目は、ドラッグストアで働いているものの、解雇を言い渡されているルイス
 三人目は、ルイスの恋人で、しがない熱帯魚店で働いているルアラ
 3人共、抜け出たくとも出口のないどうしようもない生活に押しつぶされそうになっていながらも、それでもなんとか生きていかなくてはならない様が、モノクロの映像によってあますところなく描かれています。

 ルーラ前大統領時の華々しい経済成長によって21世紀の大国(BRICsの一角を形成)と持ち上げられていたブラジルですが(注2)、今のジルマ・ルセフ大統領になってからどうも思わしくなくなり(注3)、この6月に開催されるサッカー・ワールドカップにしても(2年後のリオ・デ・ジェネイロのオリンピックも)、うまく運営されるのだろうか危ぶまれている状況です(注4)。そんなブラジルにおける若者たちの生態の一端が本作から窺われるのではないかと思いました。

(2)大まかな雰囲気としては、この間見た『コーヒーをめぐる冒険』に類似しているようにも思えます。
 何しろ両作ともモノクロですし、一方の『コーヒーをめぐる冒険』の主人公ニコは、周囲に対してなんとなく違和感を覚え、大学を中退したまま(大学を続けていると偽って親から生活資金を得ていました)、何をするあてもなくぶらぶらしていて、映画はそのニコのとある1日の姿を描いたものです。
 他方で、本作においても、まともな状況で働いているのはルアラくらいで、それにしても収入は少なく、3人はいつも週末になるとルカの家に集まり、ビールを飲んだりしながらなんとなくの不満を募らせているだけなのです。

 あるいは、邦画の『ジ、エキストリーム、スキヤキ』に似ているでしょうか。
 同作は、ある男が大学時代の親友のところに突然現れ、親友の同棲相手などと4人で車に乗って海岸に向かい(注5)、なんとはなしに公園でスキヤキを食べて帰るというものです。
 この映画でも、一方で、男たちは本作のルカたちと同様に、就職もせずにぶらぶらしており、他方で、女たちは本作のルアラと同様に働いてはいるものの、先行きに何かしら不安を抱えているようです(注6)。

 どこの国の若者も、なんとか今の状況を脱出しようともがくものの、なかなかうまくいかないという状況の下で不安にかられたりしているのかもしれません。
 でも、やはり、先進国ドイツや日本の若者と、中進国ブラジルの若者とは違っているようにも見えます。
 『コーヒーをめぐる冒険』のニコや『ジ、エキストリーム、スキヤキ』の4人組については、不安を抱えているにしても、気持ちを変えさえすればその内にうまくいくのではという期待が彼らから感じ取れるのに対して、中進国ブラジルの3人組からは、学歴も何も持たないという問題もあり(注7)、事態は生易しいものではなくもう寝っ転がる他仕様がないという雰囲気を感じてしまいます(注8)。

(3)外山真也氏は、「セリフやストーリーに頼らない映画作りには好感が持てるし、モノクロなのに「Cores(色)」という原題も利いている。ブラジル映画、相変わらずレベルが高い」として★4つ(5つのうち)をつけています。
 なかざわひでゆき氏は、「殆ど何も起きない映画なので、96分の上映時間は少々長く感じられるが、新自由主義経済の暗部を冷静に見つめた作品として興味深い」として★3つ(5つのうち)をつけています。

 他方で、作家の星野智幸氏は、「静かなブラジル。フットボールのないブラジル。サンバもボサノバもないブラジル。無為なブラジル。その日常は、希望も絶望も断たれた日本の若者のそれと、驚くほど似ている。これこそが、世界から捨てられた人々の実像なのだ」と述べています。
 また、毎日新聞の「シネマの週末」(3月28日)に掲載された「広」氏による映画評でも、「彼の国といえばカーニバルとサッカー。華麗な装いやドリブルから思い浮かぶのは、生きる喜びに満ちた人々だ。だが、原題「Cores(色)」をあざ笑うようなモノクロ画面の本作は、サンバの国のアンニュイを、少ないセリフで、人物や街の表情から見事に浮かび上がらせた。同じく閉塞感に悩む日本の若者の大いなる共感を得るだろう」と述べられています。
 いずれの映画評も、ブラジルというとすぐに持ちだされる三点セット(サッカー、カーニバル、サンバ)を取り上げ、この映画にはそれが見出されないと同じように強調していますが、確かに日本ではもっぱらその三点セットばかり報道(注9)されるとはいえ(付け加えるとしたら、アマゾンのピラニアでしょうか!)、ブラジルでは日本の1.5倍くらいの人々が日本の23倍もの広大な国土で暮らしているのです。いったい3点セットが見られないから「無為なブラジル」になって「アンニュイ」が感じられるのでしょうか?
 もうそろそろ、そんな単純な視点からブラジルを見るのをやめにしたらどうでしょうか(注10)?



(注1)本作の登場人物の一人ルアラが住むアパートの部屋は、ベランダに出ると間近に空港の滑走路が見えます。サンパウロには、空港としてコンゴニャス空港がありますが、それは市内の周囲にビルが林立する中にありますから、ルアラのアパート近くの空港は、おそらくサンパウロの北東25kmに位置するグアルーリョス国際空港ではないかと思われます(もしかしたら、サンパウロの北西100kmに位置するヴィラコッポス空港かもしれませんが、かなり遠すぎるように思われます)。



(注2)ルーラ前大統領の任期最終年の経済成長率は7.5%(任期は、2003年~2010年)。
 なお、本作では、そのルーラ大統領が「ブラジルは低迷期を脱しました。雇用の時代に入りました」と宣言するニュース番組を見ているルカが映し出されます。

(注3)昨年のブラジルの経済成長率は2.3%。

(注4)6月のサッカー・ワールドカップについては、この記事(3月5日)によれば、「2013年中にはすべてが完成するはずだった国内12都市の試合会場のうち、現在も5会場で建設作業が続いている。突貫工事の影響か工事現場での事故も相次ぐ。完成は直前までずれ込みそうで、テスト試合なども行わず本番を迎える会場もありそうだ」とのことであり、さらには、本年1月には開催反対のデモがブラジル各地で見られ、一部は暴徒化しました(この記事)。驚くことに、この記事によれば、「国民の80.2%が、W杯開催のために投じられる多額の資金は医療や教育に使われるべきだ、と考えているという」調査が発表されているくらいですから!

(注5)本作でも、3人組は、ルカの祖母までも連れて、ルカの車に乗って海岸に向かいます。ただ、途中で車が故障してしまい、その車をルカの家までけん引してもらうのになけなしのお金を使うハメになります。

(注6)『ジ、エクストリーム、スキヤキ』は、冒頭で主人公が自殺を図るシーンが描かれていたりするなど死のイメージで覆われている感じもしますが、本作では、ルカの祖母が倒れて病院に運ばれたり、ルイスがチンピラに殴られて怪我をしたりするものの、死のイメージは余り感じられません。

(注7)ルカの言うように「問題は経済だ」とはいえ、ルイスが「1日まじめに8時間働くのは、少しずつ死んでいくようなものだ」と言ったりしますから、労働意欲に欠ける面もあるように思われます。

(注8)ルイスは、ルカの祖父が持っていた銃を身につけるものの、使うことは出来ずに、逆にチンピラからひどく殴られます。
 そんなルイスが「我々にチャンスはあるか?」と尋ねると、ルアラはたちどころに「ない(nunca mais)」と応じるのです。
 なおルアラは、パイロットの制服を着た男から言い寄られますが(ルイスからこの男に乗り換えようと誘いに応じたりしますが)、この場面はまるで『クヒオ大佐』だなと思ってしまいました。

(注9)例えば、3月7日にNHKBS1スペシャルで放映された「体感!ブラジル サッカー紀行」は、ラモス瑠偉らが現地に行って、サッカー王国ブラジルの秘密を探り出す番組でした(無論その番組では、ブラジル各地で出来上がりつつある豪華なサッカー競技場の模様が映し出されるものの、ワールドカップ開催反対運動については全く触れられていませんでした)。

(注10)例えば、VW車の「かぶとむし」は今やドイツではなくブラジルで生産されていることからもわかるように、ブラジルの工業生産はかなりの水準に達しています。



★★★★☆☆




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白ゆき姫殺人事件

2014年04月12日 | 邦画(14年)
 『白ゆき姫殺人事件』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)大変面白かった『みなさん、さようなら』の中村義洋監督が制作した作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作の冒頭では、車のヘッドライトの中に、地面に倒れている女の体が浮かび上がり、まだどくどくと血が流れ出ている死体に火が点けられます。
 「しぐれ谷で何か事件があったみたい」、「しぐれ谷?」、「長野県にある国定公園」といったツイッターの“つぶやき”が画面に表示されます。
 それでタイトルクレジット。

 次いで、テレビに「しぐれ谷で焼死体」というテロップが流れて、この事件が大きく報道されます。
 映画の場面は、その番組を流しているテレビ局のコントロール室に変わり、ディレクターが色々指示を出している傍らで、赤星雄治綾野剛)が携帯をいじくっています(画面には、「まんぷく軒☆2つ」という“つぶやき”が表示されます)。
 赤星はディレクターから「何やっているんだ!」と怒鳴られ、所属する映像制作会社(赤星はその会社の契約社員)に戻りますが、そこに元恋人の狩野美沙子蓮佛美沙子)から電話が。
 彼女は、「しぐれ谷の事件で警察から事情聴取を受けたの。被害者が知り合いで、2つ上の先輩の三木典子菜々緒)。私のパートナーで教育係だったの」などと話し、最後には事件の犯人の目星がついているようなことを匂わせます。
 赤星は、チャンス到来とばかりビデオカメラを手に長野に向かい、狩野にインタビューすると、彼女は、「満島栄美小野恵令奈)が、城野美姫井上真央)が犯人だと言っている」と話します。



 そこで赤星は、満島栄美から始まって関係者に次々にインタビューをしていきますが、果たして事件の真相は、………?

 主演の井上真央は、非常に難しい役柄を実に上手くこなしていますし、また共演の綾野剛もダメなディレクター役を巧みに演じていると思いました(注1)。



(2)原作は湊かなえ氏の同名の小説(集英社文庫)。
 同氏の原作に依る映画やテレビドラマについては、『告白』や『夜行観覧車』、『贖罪』などを見ましたが、大きな社会問題を上手く作品に取り込んでいるものの、サスペンス的なところはイマイチの感じがしました。
 『告白』では学校でのいじめ問題が取り上げられていますし、『夜行観覧車』では受験戦争に直面した家族の問題、『贖罪』では小児性愛というところでしょうか。ただ、それぞれの作品で引き起こされる殺人事件やその真犯人といった点は、ごく常識的なところにとどまっているように感じられました。
 本作についても、TV局のディレクターが登場するとか、ツイッターの“つぶやき”が表示されるといった現代風俗的な要素を取り除いてしまえば、描かれている事件自体は随分と定型的なもののように思えてしまいます(言ってみれば、女性が多い職場における人間関係のもつれが引き起こした事件といったところでしょう)。

 本作はあくまでもサスペンス物ですから、これ以上申し上げると酷いネタバレになってしまい、面白さが失われてしまう恐れがあります。
 でも、何も書かないとレビューになりませんから、つまらないことを少々。
イ)城野美姫と幼馴染の谷村夕子貫地谷しほり)との間で行われる「ろうそく通信」(ろうそくの前でボール紙などを上下させることによって信号を送る)ですが、2度ほど映し出され、重要な役割が与えられているような印象を受けます。
 これはあるいは、本作で頻出するツイッターなどインターネットを使う通信に対するアンチテーゼとして、インターネットが非人間的な冷たい手段であるのに対して「ろうそく通信」が人間的な暖かい手段だとして、描かれているのかもしれません。
 ですが、飛躍した言い方ながら、これではあたかも高度な資本主義社会において原始共産制への退行を望むようなものではないでしょうか(注2)?

ロ)ところで、城野美姫と谷村夕子は、お互いに「アン」と「ダイアナ」と呼び合っています。これは、小学校時代、城野美姫が、「タコ」と言われて同級生に虐められている夕子に対し、「『赤毛のアン』のアンのように、想像の世界に入ったらいいんだ」と言ったことから始まっています(注3)。
 どうやら城野美姫は、アンのように「想像力豊か」な女性(Wikipedia)として設定されているように思われます。
 とすると、本作のラスト近くには城野美姫の手記が登場し、それに基づく回想シーンが描き出されるところ、そこで語られていることには彼女の空想が混入していて当然でしょう(注4)。
 ですが、本作(原作も)は、そのようには制作されていないように思われ、とても残念な気がしました。

ハ)なお、本作ではツイッターによる“つぶやき”が盛んに登場します(注5)。
 原作でこれに相当するものは、コミュニティサイト「man-malo」で取り交わされるメッセージでしょう。ただそれは狭義のSNSであって、「人と人とのつながりを促進・サポートする、「コミュニティ型の会員制のサービス」であって(Wikipedia)、ツイッターよりも通信範囲が狭いのではと思われます。
 本作におけるツイッターの“つぶやき”も、原作のSNS的な感じを引きずっているような感じをうけますが、なんとなくとの印象でしかありません。
 また、様々のツイッターのタイムラインを見て感じるのとはやや違って、本作の“つぶやき”は見解の表明ではなく物語の進行をつとめるト書き的な役割を果たしているような感じも受けました(注6)。

(3)渡まち子氏は、「美人OL殺人事件の容疑者とされた女性を巡り人間の悪意が暴走する様を描くサスペンス「白ゆき姫殺人事件」。井上真央の説得力のある演技が映画を引っ張っている」として65点をつけています。
 相木悟氏は、「無責任な発言が無自覚に他人を攻撃する通信社会が抱える病根を、重層サスペンスに昇華させた意欲作であった」と述べています。
 森直人氏は、「凄いスピードで移り変わる同時代性に向き合うことは、過去の歴史といった固定の真実を掘るよりも、ある意味難しい。この映画は“いま”の実相に食らいつき、底流する深層を捉えることに成功した傑作だ」と述べています。



(注1)最近では、井上真央は『永遠の0』で、綾野剛は『夏の終わり』、蓮佛美沙子は『源氏物語―千年の謎―』、小野恵令奈は『さんかく』でそれぞれ見ました。
 その他本作には、三木典子らの上司の篠山係長役に金子ノブアキ(『シャッフル』)、城野の幼馴染の谷村夕子役に貫地谷しほりらが出演しています。
 特に、貫地谷しほりは、ほぼ同時期に公開されている『偉大なる、しゅららぼん』にも出演していますが、それとは全然違った役柄を上手くこなしていて、抽斗の多さを窺わせます。


(注2)本作の「ろうそく通信」は、原作には見当たらないものです。

(注3)『赤毛のアン』において、ダイアナは、アンと同い年の親友〔「ダイアナっていうのは、アンの唯一無二の親友の名前」(本作の原作P.158)〕。
 なお、現在、NHKTVで放映中の連続テレビ小説『花子とアン』では、主人公の安東はなが、想像したオニギリを口に頬張る様について、「はなは得意の空想の翼を広げて空腹を忘れようとしていました」という美輪明宏によるナレーションが入ったりします。
 安東はなは、『赤毛のアン』を日本で最初に翻訳した村岡花子をモデルにしていますから、もしかしたら、本作の城野美姫=アン=安東はな=村岡花子ということになるのかもしれません。

(注4)そういうことから、原作において、その最終章が城野美姫の語りとなっていて、その中に彼女の手記が織り込まれているのは興味深いことです。この殺人事件の解決編あたる第5章に書かれていることに空想部分が入り混じっているとしたら、読者もいったい何が真相なのかと考えざるを得なくなりますから。
 ですが、実際には、原作においては、巻末に掲載されている「「しぐれ谷OL殺人事件」関連資料」にある「資料7:「毎朝新聞」朝刊より抜粋」とか、「資料8:『週刊太陽』4月15日号(4月8日発売)より抜粋」、「資料10:狩野里沙子のブログ「白ゆきOLのハッピーライフ」より抜粋」といったものによって、城野美姫の手記に書かれていることの客観性が保証されてしまっています。
 これは、本作においても同じで、城野美姫の回想シーンの後に、真犯人の回想シーンが挿入されたりして、城野美姫の空想癖が入り込む余地が狭められてしまっています。
 これでは、何のために、わざわざ『赤毛のアン』が持ちだされたのかわからない感じになってしまうのではないでしょうか?

(注5)そんなにたくさんの映画を見ているわけではないので良くはわかりませんが、もしかしたら、本作の新機軸といえるのではないでしょうか?

(注6)いうまでもなく、本作で表示される“つぶやき”は、事件にかかわるものすべてではないでしょうし、その中で事実関係を表すものを特に拾い出していると見れば、これはこれで構わないと思われますが。

 なお、芦田宏直氏は、その著『努力する人間になってはいけない』(ロゼッタストーン、2013.9)において、「〈現在〉を微分するツイッター」としながら(P.271)、その特徴として次の5点をあげています(P.318~)。
・ツイッターはデータベース=ストック情報ではない。
・単にフローではなく、〈現在〉を共有している(今を伝えるからこそツイッターは短文でなければならない)。
・現在の共有=インプットとアウトプットとが同時に存在する。
・情報の受発信の先に、書き手と読者とがいつも同時に存在している(ツイートする人間とそれを読む人間とがタイムラインの上にいつも同時に存在している)。
・この書き手と読者とは、いつも断片化し、ストック化に抗う(タイムラインは人物の特定化、話題の特定化に抗う)。

 そうしたことから、芦田氏によれば、ツイッターによって「今、何をしているか、という話を有名人であれ、ストックの権威であれ、関係なく交わることができ」、そして「それがツイッター革命」であり、逆に、「フェイスブックが旧態依然なのは、最初から交流の単位が(ストックとしての)〈人間〉だから」ということになります(P.322)。

 もちろん、実際のツイッターでは、身分どころか本名まで明らかにして“つぶやく”人も随分と見かけますが、それでも140字という短文であるところから、様々な人が権威(ストック情報)など物ともせずにつぶやき返しているようです。
 こういったツイッターの特徴が本作に表示された“つぶやき”からは読み取れないような印象を受けたものの、本作の内容とは余り関係のない事柄でしょう。



★★★☆☆☆



象のロケット:白ゆき姫殺人事件
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コーヒーをめぐる冒険

2014年04月08日 | 洋画(14年)
 『コーヒーをめぐる冒険』を渋谷のイメージ・フォーラムで見ました。

(1)たまにはドイツ映画もいいのではと思い、それに2013年のドイツ・アカデミー賞で6部門受賞した作品とのことでもあり、映画館に行ってきました。
 
 本作(注1)の舞台は、現代のベルリン。
 先ずは、とあるアパートの一室。
 女が寝ているそばで主人公の青年ニコトム・シリング)が着替えをしています。



 それに気づいた女が「もう帰るの?」と言うと、ニコは「約束があるから。電話するよ」と答えますが、女は「よく眠れた。コーヒーを入れようか?」と続け、それに対しニコは、「遅刻しそうだ」と応じ、女が「今夜は?」となおも尋ねるのを振り払うように部屋を出ていきます。
 次いで、自分が住むアパートの階段をニコが上がっていきます。
 部屋に入る直前に、上の階に住む男が顔を出して「ハーイ」と手を振ります。
 それを無視して部屋に入ったニコは、投函されていた手紙の一つを見て、「しまった」と叫び、慌てて部屋を飛び出します。
 その手紙は呼出状で、ニコは息せき切って「運転適性診察室」に入っていきます。
そこには面接官の医者がいて、いろいろニコに質問するのですが、「交際相手はいますか?」などプライベートなことも尋ねられるのでムッとしたりしたら、「あなたは情緒不安定で、免許は返せません」と宣告されてしまいます(注2)。
 そこを出たニコは、電車に乗って駅で降り道路を歩いて、コーヒショップに入ります。
 店員に「普通のコーヒーを」と注文したところ、「アラビカかコロンビアか?」と質問され、「それじゃあコロンビアを」と答えたら、「3ユーロ40」だと言われ、「そんなに高いの!」と驚いてポケットの中を探しても、お金が足りません。ニコは、「今日だけ何とか」と店員に頼んだのですが、「無理よ」とすげなく断られたために、飲まずに外に飛び出します。
 という具合に映画は展開していきますが、その行き着くところは、………?

 本作は、若い主人公の冴えない1日を描いたに過ぎない作品で、ついていないことがその青年に次々と起こる様が描かれますが(注3)、それでも夜が明けてきて街が動き出し、最後になって彼がやっとありついたコーヒーを飲む姿を見ると、映画を見ている方もその青年と一緒になって、なんだかその日に少しは希望が持てそうな感じになります。



(2)本作の原題は「Oh Boy」ですから、邦題の「コーヒーをめぐる冒険」に拘っても意味がないものの、やっぱり村上春樹氏の『羊をめぐる冒険』を連想してしまいます。
 ですが、村上氏の小説では、小説の語り手である「僕」と耳が特別な「ガールフレンド」と一緒に「背中に星型の斑紋のある羊」を探しに北海道に出かけるわけで、その意味でまさに「羊をめぐる冒険」ではあるものの、本作においては、確かに主人公のニコはベルリン中をアチコチ彷徨うとはいえ、ことさらコーヒーを探し求めているわけでもないように思われます(注4)。

 それよりか、むしろ、地獄を“めぐる”お話を扱う『大木家のたのしい旅行』の方がまだ似ているといえるかも知れません。なにしろそこでは、竹野内豊と水川あさみの夫婦が、血の池地獄や針の山を訪れたり、赤鬼や青鬼に出会ったりするのですから。
 とはいえ、本作は、同作のようにはベルリンの名所旧跡を絵葉書的に映し出しているわけではなく、あくまでも現代のベルリンの姿をごく通常の目線で眺めているように思われます。

 としたら、本作は、『ネブラスカ』のようなロードムービー物の一変奏とみなしておくほうが無難かも知れません(注5)。というのも、主人公は、電車や車を使ったりしてベルリンの街をひとめぐりし、終リの時点においては出発点とほんの少しだけにせよ違った気分になったはずなのですから(注6)。

 なお、原題の「Oh Boy」について、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、ヤン・オーレ・ゲルスター監督(脚本も)は、「脚本の執筆中、いつもビートルズを聴いていました。生活の中の詩的な瞬間のことを彼らは上手に歌詞に反映していて、大きなヒントやインスピレーションになりました。「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」は“I read the news today oh boy ……”という歌詞で始まります。“オー、ボーイ”この深く誠実なビートルズのため息が、脚本段階での仮題となり最後まで残りました」と述べています。
 確かに、「あら、あら」「おや、まあ」「なんだよ」といったちょっと困った感じがこの映画には漂っていて、なかなか洒落たタイトルだなと思いました。

(3)渡まち子氏は、「ベルリンを舞台にコーヒーを飲み損ねた青年の不運な1日を綴る「コーヒーをめぐる冒険」。モノクロの映像がスタイリッシュで、味わい深い小品」として70点をつけています。
 秦早穂子氏は、「たとえベルリンを知らなくとも、ニコと一緒に歩き回るうちに、過去・現在が混在するこの都市の重層的魅力が浮かび上がってくるし、奇妙な人間たちの寸描も批判精神に富み楽しい」と述べています。



(注1)本作は、ドイツの新鋭ヤン・オーレ・ゲルスター監督のデビュー作で、上映時間は85分。

(注2)ニコは、どうやら飲酒運転で免許を取り上げられており(アルコール濃度がかなり高かった模様)、この日の診断次第では返却される可能性はあったものの、医者の心証が悪くて運転免許は返却されないままとなりました。

(注3)といっても、だらだらした日常生活ばかりが綴られているわけではなく、現代や過去の闇の部分も映し出されます。すなわち、一方でニコは、昔の同級生ユリカと遭遇し、彼女に絡んできた不良に殴られもしますし、またドラッグディラーの少年に出会ったりしますが、他方で、友人のマッツェとともに、映画のロケ現場でナチスの制服を身につけて演技をする俳優に出会ったり、果ては、「水晶の夜」の事件(1938年に起きた反ユダヤ暴力事件)に参加した経験のある老人からその話(「父は俺に石を握らせた。俺は、その石で窓ガラスを打ち破った」)を聞いたりもするのです。

(注4)本作のニコは、行く先々でコーヒーにありつけないなのですが、コーヒーが飲めないからといって、それで酷く悲しんだり憤ったりするわけでもなく、また次の場所に移動していくだけのことです。

(注5)本文で触れている劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、ヤン・オーレ・ゲルスター監督は、「ロードムービーの定義も取り入れました」と述べていることでもありますし。
 なお、このエントリの(3)もご覧ください。

(注6)これまでどこに行っても周囲に対して違和感を覚えて、それで大学も二年で中退してしまったニコ(仕事につかずにぶらぶらしているようです)ですが、違和感を覚えるのは周りが悪いせいではなく、自分に問題があるからなんだと次第に思うようになってきます。



★★★☆☆☆



象のロケット:コーヒーをめぐる冒険
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LIFE!

2014年04月04日 | 洋画(14年)
 『LIFE!』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思い、映画館に行ってきました(注1)。

 本作の主人公は、世界的に有名な写真雑誌『Life』(注2)の写真管理部に勤務するウォルター・ミティベン・スティラー)。
 冒頭では、婚活サイトのようなサイトに、ウォルターが密かに思いを寄せる同僚のシェリルクリスティン・ウィグ)も登録していることがわかり、彼女の記事を読み、やっとの思いで「send a wink」をクリックしたところ、「実行できません」との表示。
 何度やってもダメなので、出勤途中の駅で電車を待つ間にウォルターは、そのサイト(e-ハーモーニー)を管理するトッドパットン・オズワルト)に電話で理由を聞いたところ、トッドは「体験談」欄の記載がないからだと言います。
 これに対して、「何もしていないから」と答えたところで、ウォルターは、突然駅のホームを走りだし、道路を挟んだ向かいのビルに飛び移ります。窓ガラスを打ち破ってビルの中に入って、暫くして「すぐに爆発するぞ」と言いながら、一階出入口から犬を抱えて出てきます。
 実際にもウォルターの背後ではビルが大爆発し、ウォルターは、抱きかかえた犬のチップスを飼い主のシェリルに手渡したところ、彼女から「すごい」と大いに感謝されます。そして、駅のホームで過ぎ去ってしまう電車の後部を見送るウォルターの姿に戻ってタイトルクレジットとなりますが、アレッ、ビルの爆破は?
 こんなウォルターに、この先どんな事態が待ち構えているのでしょうか、………?

 本作は、至極平凡で地味な主人公が、空想の世界と現実の世界(注3)との間をたえず往復しながらも、ある目的を達成してしまうストーリーのように思えるところ、むしろ実際には、どこからどこまでがリアルな世界の話なのかがわからなくなってくる映画ではないでしょうか。

 主人公のウォルターを演じるベン・スティラーについては、これまでその出演作を見たことはありませんが、空想癖の強いウォルターを演じるには格好の俳優だなと思いました(注4)

(2)本作は、『虹を掴む男』(1947年)のリメイクであることが、見終わってから分かりました。
 そのDVDは見ておりませんが、この記事からすると、様々な違いはあるものの、本作と構成がかなり類似しているように思われます(注5)。
 そして、両作とも、ジェームズ・サーバーの短編「The Secret Life of Walter Mitty」(注6)
に依っているとされています。
 そこで、その短編を読んでみたところ、確かにそこでは、本作の主人公同様、空想癖が異様に強い主人公・ウォルターが描かれています。すなわち、ウォルターは、妻の尻に敷かれている身でありながら(あるからこそ?)、簡単に、飛行艇を指揮する中佐や、世界的な外科医、殺人事件の被告、爆撃機の大尉になったりします。
 何しろこの短編は、ウォルターの空想で始まり、その空想で終わるのです(注7)。
 
 むしろ空想の世界をこそ描いているともいえる短編を元にして本作が制作されているとしたら、本作の後半は専らリアルな世界が描かれているようにも見えますが、あるいはそれらにも空想がふんだんに織り込まれているとみてもかまわないのではないでしょうか?
 例えば、主人公ウォルターはショーン・オコンネルショーン・ペン)を探しにヒマラヤまで出かけますが、丁度直前に見たNHKTVのBS1スペシャル「三浦雄一郎 終わりなき冒険~80歳 エベレストに挑む~」から受けた感じからすれば、あのように軽装で、なおかつ独りで大規模な氷河を越えて登山することなどとてもできることではない、と思えてしまいます(注8)。



 さらにいえば、ラストに至るシーン(注9)も、なかなか感動的ながら、なにもリアルな世界の出来事と受け取らなくともかまわないのではないでしょうか(注10)。

 要すれば、雑誌社に勤務する主人公が、雑誌の休刊で解雇されるという大変な事態に遭遇しながらも、最近入社したシングルマザーの女性に恋して一緒になるという話がリアルな世界のものであるとして、空想癖に基づくエピソード(注11)がどれだけそのリアルな世界に付け加えられて描かれているのか、と考えていったら、この映画をより一層面白く見ることができるのではないかと思いました(注12)。



(3)渡まち子氏は、「空想癖のある平凡な男が思いがけず冒険の旅に出るヒューマン・ドラマ「LIFE!」。一番の冒険は自分の可能性を知ることかもしれない」として65点をつけています。



(注1)本作の原題は、原作短編やオリジナル映画と同じで、「The Secret Life of Walter Mitty」。
 邦題は、主人公が雑誌『Life』のオフィスに勤務していることとか、原題にある「Life」とかに依っているのでしょうが、もしかしたらNHKBSの番組『LIFE!~人生に捧げるコント~』をも踏まえているのかもしれません?

(注2)雑誌『Life』についてはこの記事を見てください。また、このサイトでは、過去に同誌に掲載された写真を見ることが出来ます。

(注3)言うまでもありませんが、映画の中におけるリアルな世界です。

(注4)本作の監督は、主演のベンス・スティラー
 他に、ウォルターが探しまわるショーンに扮するショーン・ペンについては、『L.A.ギャングストーリー』などで、またシェリルを演じるクリスティン・ウィグは『宇宙人ポール』で、ウォルターの母親役のシャーリー・マクレーンは『ココ・シャネル』で、サイト管理人・トッド役のパットン・オズワルトは『ヤング≒アダルト』で、それぞれ見ています。

(注5)映画『虹を掴む男』の主人公は出版会社の校正係を勤めていますが、本作の主人公は写真雑誌の写真を管理しています。とはいえ、どちらも出版関係者で、同じ名前です。
 そして何より、どちらのウォルターも、空想(あるいは、妄想とか白日夢)の世界と現実の世界を煩雑に行ったり来たりするのです。
 また、『虹を掴む男』のヒロイン・ロザリンドは、本作のヒロイン・シェリルのように主人公の職場での同僚というわけではないものの、どちらもヒロインを巡ってのお話となっています。

 なお、邦画の『虹をつかむ男』(未見)とタイトルが酷似しますが、なにか関連性があるのでしょうか?

(注6)邦訳は『虹をつかむ男』(鳴海四郎訳、ハヤカワepi文庫)に所収。

(注7)短編の冒頭では、ハリケーンに向かって飛行艇SN202号機を飛ばす中佐が描かれます。
 さらにラストでは、主人公ウォルターは壁の前に立たされて銃殺隊から銃を向けられています。
 もちろんこれも、ドラッグストアの壁にもたれて妻を待っているウォルターの空想なのでしょう。彼の空想の内容は、戦争や殺人など人の死が絡むものが多い感じで、それで最後の場面も、その前の大尉の姿(敵の集中砲火を受けて、爆撃機に乗れずに壕の中にいます)を引き継いで、銃殺隊に立ち向かうウォルターになったものと思われます。
 ここでものすごく飛躍すれば、短編のラストこそがリアルなのであって、銃殺隊を目の前にして錯乱したウォルターの頭に思い浮かんだ妄想がその前に描かれていることなのだ、と考えられはしないでしょうか?
 逆に、本作のラストについては、下記「注9」のように、ウォルターによる空想の出来事と見てはどうでしょうか?

(注8)グリーンランドに行ったウォルターが、突然ギターを手にして出現したシェリルが歌う歌(デヴィッド・ボウイの「Space Oddity」)に釣られるようにヘリコプターに飛び乗ってしまうのは、空想の世界とリアルな世界(ヘリコプターがリアルな世界のものだとして)が融合しているともいえるかもしれません(単に、ウォルターの内心の願望が空想となっただけのことと言ってしまえば、それまでですが)。

(注9)写真家のショーンが最近ウォルターの家に来たことがあるとか、ネガの入った財布をウォルターがゴミ入れに捨てたのを母親(シャーリー・マクレーン)が拾い出しておいたことなどは、余りに都合が良すぎて、どこまでがリアルな世界の話なのかわからなくなってしまいます。
 そして最終的にウォルターは、探し求めていたショーンのネガ(番号25)を見つけ出し、それを上司テッドアダム・スコット)に手渡したところ、その写真は『ライフ』誌の最終巻の表紙を飾ることになるのですが、これもウォルターの空想の世界の出来事と考えられないでしょうか?

(注10)宇宙ヘルメットを着用したウォルターの表紙写真の前をウォルターが走るシーンがありますが、ここらあたりもファンタジーではないでしょうか(単なるお遊びでもあるでしょうが)?



(注11)つまらないことですが、本作で描かれる様々なエピソードは、リアルな世界のものなのか空想の世界のものなのかを度外視しても、総じて高低・上下という垂直方向のベクトルを持っているように感じました(例えば、映画の最初の方で描かれるウォルターがビルに飛び込んで犬のチップスを救助する話にしても、ウォルターがショーンを探しにヒマラヤに行く場面や、上記「注8」で触れるヘリコプターのエピソードも)。
 これに対して、原作短編が描く空想のエピソードは、どちらかというと水平方向のベクトルを持っている感じを受けます(例えば、短編冒頭の飛行艇が飛ぶ様や、ピストルの話にしても、末尾の銃殺隊のエピソードにしても)。

(注12)本作のオフィシャルサイトに掲載のインタビュー記事において、ベン・スティラーは、「この映画のメッセージは、現実を受け止め、毎日の生活を大事にすれば、本や夢で見るよりも充実した人生を手にできるということ。夢は大切だけど、自分の責任は果たさなければならない。想像力は物事が何も上手く行かなかったときに、諦めの気持ちを軽減してくれるものなんだ」と述べています。
 でも、クマネズミは、この映画からこんな人生訓話めいたものを受け取ろうとは思いませんし、逆に、そんなつまらないメッセージしか受け取れない作品であれば、駄作と思えてしまいます。



★★★★☆☆



象のロケット:LIFE!
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偉大なる、しゅららぼん

2014年04月02日 | 邦画(14年)
 『偉大なる、しゅららぼん』を渋谷TOEIで見ました。

(1)本作は万城目学氏の原作(注1)を映画化したものながら、クマネズミの生まれ故郷に近い滋賀県の彦根長浜などがロケ地に選ばれていると聞いて(注2)、映画館に出かけました。

 ところで、クマネズミの家から車で20分位のところに府中市美術館があり、規模はそれほど大ききくないものの、しばしば実に興味深い企画展が開催されるので、よく訪れます。
 いま開催されている展覧会は『江戸絵画の19世紀』。
 雨の休日に同展を覗いてみたところ、目を楽しませてくれる様々の絵の中に鈴木其一の「琵琶湖風景図」がありました。作品の左手下に彦根の町、遠くに比叡の山々、そして中央に大きく琵琶湖が描かれ、その真ん中に竹生島が置かれているのです(注3)。

 さて、本作の冒頭は、その竹生島。
 松明が炊かれる神社の社殿では、人々が見守る中で乳児の額に土器のお皿を乗せると、水が飛び散って乳児が泣き出し、その腕には赤い印が現れます。
 「淡十郎に続いて今年2人目だな」「名前は涼介」「15年後の修行の時まで頼んだぞ」との声がします。
 その一行が廊下を進むと、向こうから別の集団が現れ、先頭の男が「我が息子、棗広海だ」と述べます。

 場面は変わって、琵琶湖湖畔にある現代の街・石走(注4)。
 15年後の日出涼介岡田将生)が、先祖から伝わる「力」を修得すべく修業をするために、石走城で暮らす日出淡十郎濱田岳)に会いにやってきます。



 この城には、淡十郎の他に、その父親である淡九郎佐野史郎)、その姉の清子深田恭子)、涼介の師匠となる濤子貫地谷しほり)といった者が住んでいて、また、同じように不思議な「力」を受け伝えながらも「日出」家と対立する一族「棗」家も、石走の街に住んでいるようです。
 さあ、この物語はこの先どんな展開を見せるでしょうか、………?

 随分と面白い設定ではあるものの、2時間の映画枠の中に収めるにしては、登場人物が多い上にその関係が複雑で、様々な説明を行っている内に映画が終わってしまうのは残念至極と思いました。

 俳優陣はそれぞれまずまずの演技ですが、中では濤子に扮した貫地谷しほりが印象的でした(注5)。



(2)本作を見ると、同じ原作者の小説に基づいている『プリンセス・トヨトミ』と比べてみたくなってしまうところ、本作でもやはり、
イ)設定が大仰の割に展開が貧弱だなという印象を持ちました。
 『プリンセス・トヨトミ』の場合、現在の大阪の地下に中井貴一を総理大臣とする「大阪国」が存在するという奇想天外な発想で出発します。ですが、その後ストーリーがさらに驚くような展開を見せるのかと期待させるものの、実際のところは、重大問題が起きても大勢の人々が庁舎前に集まるだけで大したことが起こりません。
 本作においても、人の心を操る「力」を受け継ぐ日出家と、時間を止めて人の動きを操作できる「力」を受け継ぐ棗家とがいがみ合うという設定自体は、ものすごく面白いと思います。
 でも、「力」を発揮させても、耐えられないような音がするだけで、あまり派手派手しい動きにはならずに、いともあっけなく物事が終わってしまうのです(注6)。

ロ)先祖からの伝承が大切だとされながら、その内容が十分に説明されていないように思われます。
 『プリンセス・トヨトミ』の場合、それぞれの父親が息子に個別的に1時間話をすることになっていますが、その中身については明かされません。
 本作でも、日出家と棗家との諍いは1000年以上にわたって続いているとされますが、そもそも両家の「力」の由来・原点はどこにあって(注7)、それが現代までどのように変遷して伝えられてきているのかに関する説明はきちんとなされていないように思われます(注8)。

ハ)地域限定版という感じがします。
 『プリンセス・トヨトミ』の場合、お話はあくまでも「大阪国」を巡るものですが、本作の場合も「琵琶湖」を巡る話となっています。日出家や棗家が伝える「力」を発揮できるのは琵琶湖が見える範囲に限定されていますし、また、最後に現れる「あれ」も、縄張りを荒らすものを懲らしめるというだけで登場して、すぐに消えてしまいます。
 なんだか、現代のグローバル化している世界とは逆向きのベクトルを感じてしまうのですが(注9)。

ニ)ファンタジーの世界にもかかわらず、ラブ・ストーリーが上手く組み込まれていない感じです。
 『プリンセス・トヨトミ』の場合、本作にも出演している岡田将生を巡る恋愛話があってもいいのではと思いましたが、本作でも、折角深田恭子や貫地谷しほりなどが出演しているにもかかわらず、岡田将生の涼介にそうしたことは起こりません。
 描かれるのは、淡十郎が校長の娘・速水沙月大野いと)に淡い恋心を抱いているくらいで、それも彼女は棗広海に惹かれているというのですから話になりません!

 とは言うものの、兎にも角にも本作は滋賀県を舞台にするものですから、クマネズミは許してしまいます!

(3)渡まち子氏は、「琵琶湖のほとりを舞台に不思議な力を持つ一族とそのライバルが繰り広げる騒動を描く「偉大なる、しゅららぼん」。ユルい笑いと摩訶不思議な世界観を楽しみたい」として65点をつけています。
 また、相木悟氏は、「ぶっ飛んだ内容ながら、様々な暗喩に満ちたユニークな青春映画ではあるのだが…」と述べています。
 さらに柳下毅一郎氏は、「延々説明されてもなぜこんな設定なのかって理由がひとつもない。だったらただのこしらえものでしかないではないか。で、この上にさらに無意味な設定がかさなり、それがすべて言葉で説明され、そこに突っ込みがはいって……で、このどこが面白いんでしょうか?」と述べています。



(注1)万城目学著『偉大なる、しゅららぼん』(集英社文庫)。

(注2)琵琶湖を舞台にした映画ということで思い出されるのが、やや古い作品ながら、橋本忍監督の『幻の湖』。
 ただ、この映画については、“世紀の駄作”とも言われ、またWikipediaによれば、「あまりに難解な内容のため客足が伸びず、公開からわずか一週間(二週間とも言われる)で打ち切られる事となった」ようです。
 実際にDVDを借りて見てみると、決して「難解な内容」ではないものの、やはりストーリー全体のバランスがうまくとれておらず、160分を超える長さもあり、どうしようもない作品といえるでしょう。
 なにしろ、琵琶湖沿岸の雄琴で働くソープ嬢と愛犬シロの話、戦国時代のお市の方とその侍女を巡る話、それにスペースシャトルによる宇宙飛行の話、という具合にそれぞれ別の映画が作られてもおかしくないストーリー(相互に密接な関連性があるとは考えられないものです)がたった1つの映画の中に取り込まれているのですから、ヨクこうした映画に会社が資金を投入したものだ、と見る方は呆気にとられてしまいます。
 とはいえ、滋賀県が主な舞台となっていますし(長浜市にある渡岸寺の十一面観音像などが紹介されてもいます)、マラソンの場面―問題の二人が長距離走のスタイルで追っかけるシーンには笑ってしまいます―が随分と映し出されていたりして、一概に“駄作”と切り捨ててしまうには惜しい気もしました(と言って、カルトファンになる気は毛頭ありません)。

(注3)作品の中央より下のあたりには、いまでは干拓されてしまった内湖松原内湖)が描かれています。
 なお、鈴木其一は「江戸琳派」に属する画家とされ、装飾的な作品が多いのですが、その中でこの「琵琶湖風景図」は異色の風景画です。
 また、今回の展覧会は、江戸時代末期に出回っていた様々の絵画(名前が余り知られていない作者が大部分です)が、従来とは異なる視点から見ると実に輝いて見えてくるのを来訪者にわからせてくれる好企画だと思いました。

(注4)石走は架空の街で、原作によれば、琵琶湖の「湖東と湖北のちょうど境目、琵琶湖に面した小さな街が石走」とあり、さらに「東海道本線の新快速で米原下車、さらに北陸本線で北に向かう」、「長浜より手前の鈍行だけが停まる石走」とあります(P.25)。
 彦根は米原の南に位置しますから石走ではありませんが、彦根城があることからロケ地に選ばれたのでしょう。

(注5)最近では、濱田岳は『永遠の0』、岡田将生は『四十九日のレシピ』、深田恭子は『ルームメイト』、貫地谷しほりは『くちづけ』、佐野史郎は『千年の愉楽』でそれぞれ見ています。
 この他、本作には、笹野高史村上弘明津川雅彦なども出演しています。

(注6)なお、原作では、日出家や棗家が引き継いでいる「力」は「琵琶湖が授けた刻印」だとされていて、この3年間「力」を持った子供が生まれていないのは「環境問題のせいじゃないか」と淡九郎は考えている、と述べられています(P.204)。

(注7)長々しい原作や本作で達成されることといえば、淡十郎が日出家の次期当主としての自覚が芽生えてきたということくらいでしょうか。

(注8)原作においても、「日出家と棗家の対立の歴史は根深い」とされながらも(P.200)、すぐその後で「だが、その構図は実のところ驚くほど単純で、およそ歴史と銘打つのがばかばかしいほど、まるで中身がない」とされているくらいですから(P.201)。

 ただ、興味深いのは、「(濤子によれば)むかしは琵琶湖だけではなく、日本じゅうの湖に同じような力を持った連中がいたそうだ。しかし、今は琵琶湖を除き、「湖の民」はすべて消え去ってしまったという」と原作に書かれている点です(P.203)。
 なんだか、「湖の民」などとされると、柳田國男の「山人」に対応する概念のようにもっともらしく思えてきます〔最近では、柄谷行人氏が『遊動論 柳田國男と山人』(文春新書)において、「なぜ柳田は「山人」の問題を考えたのか。そして、以後彼はそれを放棄したのか。放棄しなかったとすれば、どうしたのか」(同書P.42)に関して議論をしています←尤も、池田信夫氏は、この記事で同書につき「あまりの無内容にあきれた」と断定的に述べているところ、果たしてそんなに簡単に同書を葬り去ることができるのでしょうか?←例えば、この書評を参照〕。

 なお、上記「注3」で触れました松原内湖があった場所を2008年に発掘したら、「奈良時代の集落跡や中世の屋敷地跡などが良好な状態で見つか」ったとのこと。それで、「これまで行われた松原内湖遺跡での発掘調査により、旧松原内湖岸では縄文時代から江戸時代にかけて、連綿と人々の営みが行われていたことがわかってき」たようです(このサイトの記事によります)。
 本作も、日出家と棗家とのいがみ合いは1000年以上続いているとされていますが、こういう辺を踏まえたりすれば歴史的な奥深さが出てくるのではないでしょうか?

(注9)竹島とか尖閣諸島を巡っての韓国や中国とか、ウクライナを巡ってのロシアとかで見られるナショナリズム的な動向が、この映画のベクトルに見合っているといえるかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:偉大なる、しゅららぼん
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