映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ジュリー&ジュリア

2009年12月30日 | 洋画(09年)
 「ジュリー&ジュリア」を、日比谷のシャンテ・シネで見ました。

 今年もメリル・ストリープの映画を2本見て一層のファンとなったところ(「マンマ・ミーア!」と「ダウト」)、本作品が今年最後の公開というのですから見に行かずにはおれません〔来年2月には『恋するベーカリー』の日本公開が控えているというのですから凄いことです!〕。

 そして、本作品もなかなかうまく仕上げられているなと感心いたしました。
 もちろん、2つの原作をいとも巧みに一つの作品にまとめあげた監督・製作・脚本のノーラ・エフロンの並々ならぬ手腕によるところが大きいわけですが、またメリル・ストリープの素晴らしさも大きく寄与しているものと思います。なにしろ、彼女は、身長が10cmほど低く、声もずっと低いなど相当違った個性である実在の料理家ジュリア・チャイルドを実に上手に演じているのですから!

 それだけでなく、もう一人の主役と言えるエイミー・アダムスも、典型的な現代女性であるジュリー・パウエルを巧みに演じています。彼女の映画も今年は2本見たところ、メリル・ストリープと共演した「ダウト」もよかったと思いますが、「サンシャイン・クリーニング」は出色の出来でした。

 この映画で面白いなと思った点は、次のようなことです。
・ジュリア・チャイルドの生涯と、ジュリー・パウエルの1年間の暮らしとは、まとまりのある一つの映画作品であるにもかかわらず、全く別々のものとして描かれ、ジュリアが作ったフランス料理のレシピでしかつながっていないとされているのです〔ただ、ジュリーは、ジュリアが自分のことに不満を抱いているということを知るのですが、それはあくまでも人づてに聞いたこととされ、二人はついに会うことはありませんでした〕。
・といっても、ジュリアの夫は、マッカーシーの赤狩り旋風のなかで尋問を受ける羽目になり、またジュリーは、9.11事件の事後処理に従事する公務員だということで、どちらもその時の政治状況から無縁の存在ではありません。
 政治状況などは、こうした雰囲気の映画であればカットされてしまうのが普通でしょうから、その意味でこの映画は骨のある映画だと言えるかも知れません。
・また、ジュリアは、普及し始めたTVの料理番組の草分け的存在であり、他方ジュリーも、ブログという最新のメディアを使って自分のポジションを確保しようとします。いわば両者とも、新しい流れに乗っていると言えるでしょう。
・他方で、ジュリアの夫は外交官という古くからの固い職業に就いており、またジュリーの夫も、考古学雑誌の編集に携わっていて、時流とは離れた所にいます。

 というように、様々な視点から2人の女性、2つの家族を比べてみるのも面白いかな、と思ったりしています。

 評論家諸氏の受けも概して良さそうです。
 福本次郎氏は、「作り手の人生観が込められた究極のラブレターに、心まで満腹になった」として、この人にしては稀有なことに80点もの高得点を与え、また、渡まち子氏も、「ストリープが個性豊かな名演技とすれば、ジュリーを演じるエイミー・アダムスの良さは自然体。二人の対比が効いている」などとして75点をつけているところ、前田有一氏は、「脚本はこなれているとは言えず、快感度は低い」ものの、「二人の素敵な女優と彼の食いっぷりで、映画全体としてもなんとか持ったという感じ」で60点しか与えていません。
 前田氏は、「いちいち無理してヒロインを上げたり下げたりする必要はない」と述べたり、「毎日あんなに大量の料理を作って、いったいこの人はどう処理してるんだとか、資金はどっから出てるんだとか、余計な事を考えさせてしまうあたりも処理が足りない」と言っているところ、そんなつまらないことが気になるのであれば、要するにこの映画の楽しさに乗り切れなかっただけのことではないでしょうか?


象のロケット:ジュリー&ジュリア
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パブリック・エネミーズ

2009年12月29日 | 洋画(09年)
 『パブリック・エネミーズ』を日比谷のTOHOスカラ座で見ました。

 『チャーリーとチョコレート工場』や『スウィーニー・トッド』など映画ごとに全く違った顔を見せるジョニー・デップが、今度はどんな顔を見せてくれるのだろうという期待で映画館に出かけてみました。

 実際のところ、今回の作品は、ジョニー・デップの格好の良さが前面に出ていて、その意味で実に魅力あふれる映画になっていると思いました。

 お話の方は、アメリカのギャングとFBIとの戦いが中心で、1930年代のシカゴの街の様子などが細部にまでこだわって描き出されています。

 この関係では、劇場映画ではなく、深夜に何度も繰り返し放映されたTVドラマ『アンタッチャブル』が描いている状況の丁度逆になっている感じで、大層面白いと思いました。

 無論最後には射殺されてしまいますが、『パブリック・エネミーズ』では、実在の銀行強盗のデリンジャー(ジョニー・デップ)が主役で、それを追いかけるFBI捜査官が脇役となっています。
 これに対して、『アンタッチャブル』では、FBI捜査官エリオット・ネスが主役で、ギャングが脇役になっているので、まるでさかさまの関係にあるように思えるのです。

 もっといえば、TVドラマとしての『アンタッチャブル』では、カポネが逮捕されたあとのギャング団(フランク・ニッティらが中心)とFBIとの戦いが描かれますが、フィクションの割合が相当高そうです。
 他方、『パブリック・エネミーズ』も、禁酒法が廃止になった後の時代を描いていますから(1933年から1年ちょっとの間)、時期的にはあるいは若干オーバーラップするかもしれないものの(同じように、フランク・ニッティが登場します!)、実話に基づいたストーリーなのです。

 こんな関係にあるわけですが、逆に両者に共通するのは、何といっても主人公の格好の良さでしょう。とりわけ、FBI捜査官エリオット・ネスを演じたロバート・スタックは大層魅力的でしたし(吹き替えを担当した日下武史の声も素晴らしかったのですが)、こちらの『パブリック・エネミーズ』におけるジョニー・デップも実に格好がいいのです(フランク・ニッティは、TVドラマの方がズッと個性的な俳優が演じていました)。

 要すれば、今回の映画においては、枠組みは歴史的にガッチリと作られているとはいえ、そうした枠組みの中で、ジョニー・デップの魅力を最大限に引き出すべく作品が制作されているのではと思いました。

 加えて、デリンジャーを中心とする銀行強盗団とそれを捕まえようとするFBIとの間の銃撃戦は激烈極まりないく、まるで日本のやくざ映画の出入りのような感じを受けてしまいます。
 そうです、ジョニー・デップが演じているデリンジャーは、新興のやくざ集団に結局は殺されてしまうことが分かっていながらも、刀を振りかざして単身突入する昔堅気が抜けない鶴田浩二とか高倉健が演じた役どころなのではないでしょうか?なにしろ、銀行強盗では、ノミ行為といった新しい儲け口から揚げられる資金の1日分しか獲得できないことが分かっていながらも、デリンジャーは、あくまでも銀行強盗にこだわるほどの昔堅気の男なのです!

 この映画に対しては、評論家の方でもやや意見が分かれるようで、一方で、
 前田有一氏は、「細部にこだわりぬいたマイケル・マン監督の挑戦は確実に成功しているが、それがイコール映画の面白さにつながらないのが難しいところ」で、「主人公の人生は確かに今見ても面白いが、「それで?」と思わず言いたくなってしまう」として55点を、
 福本次郎氏は、「ジョンが強盗を繰り返す理由としてはビリーの存在は影が薄く、いまひとつ2人の深い絆が見えてこ」ず、特に「ジョンが警察署の捜査本部に堂々と入って行く場面には疑問を挟みたくなる。ジョンが自分の死期を予感していることを表現したかったのだろうが、それまで積み重ねてきたリアリティが一気に崩れてしまった」として50点を、
それぞれ与えています。

 ところが、他方で、
 渡まち子氏は、「スリリングな逃亡劇と美男美女が織り成すラブ・ストーリー」であり、ジョニー・デップが「コートを華麗になびかせて、銀行のカウンターをひらりと飛び越える様は、今では滅多に見られないダンディな銀幕のスターそのものだ」として70点を、
 服部弘一郎氏も、「1930年代の風俗やファッションが華麗に再現されているのがこの映画の見どころ」であり、「随所に見せ場たっぷりなのだ」として70点を、
それぞれつけています。

 あんなに面白いのに「じつに退屈だ」と言い放つ前田氏の論評は理解し難いですし、福本氏は、「それまで積み重ねてきたリアリティが一気に崩れてしまった」と述べますが、この種の映画でどうして「リアリティー」という言葉が出てくるのかよく分かりません。
 やはり、「本作には、観客がスクリーンで最も見たいと望む要素が詰まっている」とする渡氏の論評に賛意を表したいところです。



象のロケット:パブリック・エネミーズ
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カールじいさんの空飛ぶ家

2009年12月28日 | 洋画(09年)
 アニメ「カールじいさんの空飛ぶ家」をTOHO日劇で見てきました。

 少し前に同じデズニー映画の「クリスマス・キャロル」を見たばかりですが、その時は「パフォーマンス・キャプチャー」の方に目が行ってしまいがちだったので、もっと純粋のアニメで3Dを見たらどうだろうかと思っていたら、この映画が公開されたというわけです。

 この映画も特別のメガネを使って見たところ、3Dに関しては、「クリスマス・キャロル」でも思いましたが、観客をも引き込むような臨場感のある場面というのは数えるほどしかなく、あとは別に3Dにしなくともといった感じでした(自然の風景を描くシーンでは、近景・中景・遠景と分離されるものの、通常の場面はマア立体的だなといったレベルです)。

 それではストーリーの方はどうかというと、予告編からすれば、カールじいさんの妻であるエリーがもっと活躍するのかな、話自体はエリーが死んでからのものになるにせよ、何らかの形〔誰かに姿を変えて〕で登場するのかな、と思っていましたら、当初の10分間で色々動き回った後はまったく登場しないものですから、一寸拍子抜けといった感じになりました(エリー以外の女性はほとんど登場しない少し不思議な映画です)。

 代わりに登場するのがラッセルという子供で、カールじいさんと二人で大冒険をします。
 ただ、邦題からすると今度はカールじいさんの出番かと思うと〔原題は「UP」〕、確かに彼は頻繁に登場することはしますが、風船で空中に吊り上げられた家(カールとエミリーが暮らしていた家)を目的地まで引っ張っていくのが主な仕事で、様々に活躍するのはこちらのラッセル坊やなのです!

 なにしろ、ラッセル坊やが、怪鳥ケヴィンの救出を強く主張したがために、カールじいさんは、大事な思い出の詰まった家を手離す破目になってしまうのですから!
 それでも、どんどん飛行船の上から下の方に落下していった彼らの家は、最後の場面からすると、偶然なのでしょうが、目的地だった滝の上に着地したことになっていて、まずは目出度しといったところです。

 そうなのです、この映画の前半は、カールがエリーに行こうと約束していた南米ギアナ高地の“パラダイスの滝”(実際の滝は「エンジェル・フォール」)のそばに、二人が暮らしていた家を運ぶお話なのです。
 そして、このアニメでは、最近まで人跡未踏だったギアナ高地の様子がかなり克明に描かれていて、それを見るだけでも心が躍ってしまいます。
 というのも、このところいろいろな映像がTVでも放映されますが、あの巨大な台地が雲の間から覗いている様子は何度見ても不思議で、もっと探索を進めれば、これまで見たこともないような動植物などに遭遇できるのでは、と期待を持たせるところなのですから!

 そうした興味津々たる奇怪な地形を持った場所と、現代のアメリカとが簡単につながってしまうのですから、これはアニメの独壇場と言えるでしょう〔とはいえ、何故そんな途方もないところを訪れてみたいとカールとエリーが考えていたのかは、何も描かれてはいないので酷く唐突に感じられはするのですが!〕。

 怪鳥ケヴィンとか犬のタグと伝説の冒険家たちとの戦いなどの描き方は、これまでのディズニー映画そのものであまり新鮮味は感じられないものの、ギアナ高地を前面に取り出したという点で、このアニメ映画には○を与えてもいいのでは、と思いました。

 なお、評論家たちは次のように評しています。
 前田有一氏は、「本作はピクサーが初めて「飛び出す」立体映画にチャレンジした作品だが、正直なところメガネの立体効果を生かしているとは言いがたい」ものの、「2009年のアメリカ人が心地よく感じるであろう要素を主軸に組み込んだ、高度な計算に基づく作品」だとして85点の高得点を与えています。
 渡まち子氏も、「この映画の最大の見所はと聞かれたら、迷わず、冒頭の、セリフなしのモンタージュ形式で描く、カールとエリーの人生の物語だと断言する」云々として80点をつけています。
 ただ、福本次郎氏は、「いくら年をとっても未来に目を向けている限り人生は有意義なものであり続けることをこの映画は教えてくれる」ものの、「それはカールほどの元気があればの話で、たいていは加齢とともに体力も衰え気力を無くしていく現実をこの作品はもう少し考慮すべきだろう。。。」として50点しか与えていません。

 少し揚げ足取りをすれば、前田氏は評論の中で、「本作のテーマは、何度も繰り返される「別れ」。すなわち「別れの重層構造」のなかにあった」と、「この映画の中でしつこいくらいに描かれる「別れ」」を発見したことで有頂天になっている感じですが、何か新しいものを「見つける」からこその「別れ」なのであって、別に「別れ」だけがそこらに転がっているわけではないと思われますが。
 また、福本氏は、「加齢とともに体力も衰え気力を無くしていく現実」を考慮すべきと言いますが、何もこうした楽しいアニメでわかりきった厳しい現実をことさらめかしく「見つけ」なくとも良いのではないか、と思えるところです。


象のロケット:カールじいさんの空飛ぶ家
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くるみ割り人形

2009年12月27日 | 音楽
 初台の新国立劇場でバレエ『くるみ割り人形』を見てきました。

 これまでバレエにはほとんど興味がなく、実際にその舞台を見たのは1回くらいに過ぎず、それもかなり大昔なのですっかり忘れていたところ、先頃ドキュメンタリー映画『パリ・オペラ座のすべて』を見て、バレエに対してそこそこ関心を持つようになりました。
 そうした折も折、その映画でも短い時間ながら練習風景が映し出されていたこのバレエのチケットが手に入り、クリスマス・イブの前日、新国立劇場まで行ってきました!

 元々バレエに対しては偏見があって、単にぐるぐる回ったり、飛んでみたり、女性を高く持ち上げたりするのを繰り返すだけで、きちんとした筋もなく、しばらく見ていると退屈この上ないことになるものと思い込んでいました。
 マア実際にバレエを習ったりしている人ならば当然興味があるにせよ、一般人が強く関心を持つなどとは思ってもみませんでした。

 そうしたところ、『パリ・オペラ座のすべて』が上映されたル・シネマは連日大入り満員との噂で、実際に我々が見に行ったときもその通りの状況だったので、大いに驚きました。
 そして今回の公演です。これも、1階の客席はほぼ満席状態で、日本には、こんなにもバレエに関心のある向きが多いのかと、再度驚いてしまいました(先の映画も、今回の公演も、実際にバレエをやっていそうな感じの人はそれほど見かけませんでしたから、不思議と言えば不思議です!)。

 さて、今回の『くるみ割り人形』(劇場オリジナル版:舞踊芸術監督・牧阿佐美)は、途中の休憩をはさんで2時間ちょっとの上演時間ながら、日本でこんなに豪華な気分を味わえるなんて、と大層感動いたしました!

 このバレエのお話の筋はいたって簡単。クリスマス・イヴに、少女クララが謎の人物ドロッセルマイヤーに導かれて不思議な夢の世界を訪れる、というにすぎません。むしろ観客にとっては踊りを見るのが主眼ですから、こういったお話は単なる添え物以上には出ないでしょう(上演のやり方次第で、物語性をもっと増すこともできるようですが)。

 それでも、前半は物語めいた場面が多く(鉛の兵隊とネズミとの戦いなど)、ダンサーも様々な仕草をするところ、オペラだったらここでアリアが入たりしてもっと状況がわかりやすくなるのにな、というところでパントマイムになってしまいますから、なにか乗り切れない感じが残ってしまいます〔ただ、プロローグとエピローグの場面は、今回の公演では新国立劇場が設けられている新宿初台を想定し、舞台背景には副都心の高層ビルが描かれていたりして、大層興味深いものがありました〕。

 ですが、前半のおわりのところから後半全体は、まさにバレエそのもので、とにかくさまざまな形式のバレエダンスが舞台狭しと展開されます。

 ネズミの王様に「くるみ割り人形」がやられそうになったとき、少女クララがスリッパをネズミに投げつけて人形の窮地を救ったところ、その兵隊は王子に変身して、少女を「雪の国」に連れて行きますが、その雪の国における「雪の女王」や「雪の精」たちの踊りの綺麗なことと言ったら!口をあんぐりと開けてしばし呆けて見ていざるを得ませんでした。

 そしてさらに少女は「おとぎの国」へ連れていかれますが、そこではアラビアの踊り、コサックの踊り、中国の踊りなどが次々と繰り出され、その素晴らしさに感嘆していると、クライマックスは金平糖の精と王子の踊りで、二人で踊ったりそれぞれがソロで踊ったりすごいなあと思った途端にエピローグです。

 とにかく、今回の公演を見てバレエに対するつまらない先入観は完全に払拭されました。何事も先に頭から決めつけないで、謙虚な姿勢で臨むべきだと痛感した次第です。
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Dear Heart

2009年12月24日 | 邦画(09年)
 『Dear Heart―震えて眠れ―』を渋谷のシアターNで見てきました。

 時間がうまく適合する映画が他になかったのと、久し振りにホラー映画もいいかなと思ったこともあります。

 なにしろ、怖い映画は、あとあとまで影響が残りがちなので、基本的には敬遠しています。昨年の4月に公開された邦画『口裂け女2』について、件の“つぶあんこ”氏が90点もの高得点を与えているので、これは一見してもいいかなと思いましたが、映画館に入る寸前で止めました。そこに貼られているポスターがあまりに怖そうだったもので。
 他方で、黒沢清監督の『叫』『ロフト』などの作品は見ましたが、“ホラー映画”とされてはいるものの怖さは全然ありませんでした。
 逆に、3年ほど前に、渋谷イメージシアターで『雨の町』(田中誠監督)を見たことがありますが、これは怪奇ミステリーとされていて明示的に“ホラー映画”とされていなかったところ、失踪から戻ってきた小学生が振り返った時に映し出される顔の映像には、心底ゾーッとしました(まさかそんな風にお化けが現れるとは思っていなかったので)!

 なお、映画館の「シアターN」は、以前「ユーロスペース」だったので、その点でも久しぶりと言うわけでした。

 そこで、本作『Dear Heart』です。
 井坂聡監督の作品としては、『破線のマリス』と『象の背中』を見たことがあります。前者はDVDですが、黒木瞳がなかなか魅力的でしたし、後者は、主人公が末期がんという深刻な題材を手堅くまとめていました。
 それで、今回の作品は、出演者も高島礼子榎木孝明ですから、どんな「サイコホラー」を見せてくれるのかと幾分期待するところもありました。

 ですが、その期待は見事に裏切られたといってもいいでしょう。
 全然怖くないのです!

 心霊的な映像がいくつか窓ガラスに映ったりするのですが、特段人を怖がらせるメイクが施されているわけでもありません。
 さらに、若い女性が何人も殺されますが、むしろ猟奇的殺人の色彩が強く、“エロチック”としても“ホラー”とはいえないでしょう。

 劇場用パンフレットでは、「スタンリー・キューブリックの「シャイニング」を彷彿とさせる」云々とあり、殺人鬼の乗り移った夫(榎本孝明)が斧を持って妻(高島礼子)らを追いかけますが、暗い山中で姿がはっきり見えないこともあって、恐怖心など観客に湧いてこようがありません。
(その際、一緒に逃げた介護人の若い女性が夫に捕まります。叫び声に驚き、先を急いでいた高島礼子が引き返して、その痕跡を見つけ出します。真っ暗闇の中ですから不可能事とは思われるところ、若い女性が斧で酷く傷つけられて大量に出血し、それが懐中電灯でわかったからではと推測されます。ところが、実際には、頭部に軽く裂傷を負ったにすぎませんでした!)

 それに、いくら殺人鬼が乗り移ったとはいえ、この夫は心臓移植手術を受けた直後なのですから、あんなに長く全速力で走り続けられるものなのでしょうか?

 そうなのです、若い女性ばかりを何人も殺した殺人鬼の心臓を移植された夫に、その殺人鬼の精神も合わせて乗り移ってしまった、というのがこの映画のミソなのです。
 と言っても、その点は、お話なのですから非現実的だと非難してみても始まりません。
 ただ、精神が心臓に宿るというのであれば、夫から元の心臓を摘出しているのですから以前の人格はなくなっているはずですが、そんなことはありません(殺人鬼の精神が、時間の経過とともに次第に夫の人格を占めるようになってきます)。
 他方、精神は脳にも宿るというのであれば、殺人鬼が次第に蘇ってくるとしても、それは心臓にかかわるだけであって、どうして脳にかかわる以前の夫の人格が次第に消えてしまうのでしょうか?

 そんなことはともかくとして、夫の移植手術をした医師に扮しているのがかの“国際女優”の島田陽子となると、ちょっと問題含みになるでしょう。
 あの銀座のバーのママさんのような雰囲気の女性が先端的な手術を行った医師というのでは、見ている方に違和感が生じてしまいます。だからこそ、その助手から、心臓移植に伴う精神の乗り移りのことを指摘されても、議論などせずに頭から否定するしか仕様がないことになるのです。

 加えて、夫に心臓を提供した男性が殺人鬼ではないかと捜査している刑事役に西村雅彦が扮しています。ただ、映画『沈まぬ太陽』で主人公の前の労組委員長だった人物を演じているのを見た時も思いましたが、甚だ奇異な感じの演技をするものです。
 この映画でも、突然、医師・島田陽子のところにやってくるのですが、いまどきの刑事にしては酷く高圧的でツッケンドンな態度をとります。相手が容疑者ならそういう態度をとるのもわからないではないですが、単に関係者から情報を聞き出そうというのですからおかしなものです。

 また、この映画では、妻らとともに夫が術後の養生にやってくる別荘の管理人の甥という役柄で歌手の加藤和樹が出演しているところ、当然、美貌の妻と抜き差しならない関係にでもなるのかなと思っていましたが、介護のために同行した若い女性と手をつないで散歩するだけで、結局何事も起こらずじまい。子供向け映画でもあるまいし、いったいどうしたことでしょうか?

 とまあ問題点ばかりを挙げてしまいました。
 それもこれも、観客を怖がらせないのであれば、別のサービスで観客を悦ばせてくれなければ入場料を徴収する意味がないではないかと思ったからですが!

 なお、福本次郎氏は、「物語は凡庸、高島礼子の演技も控えめ、せめて観客を楽しませる弾けた要素があればよかったのだが。。。」として40点を与えていますが、やや高いのかもしれません。
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ロフト.

2009年12月22日 | 洋画(09年)
「ロフト」を渋谷のシネマ・アンジェリカで見てきました。

前田有一氏が、「117分間、つまらない部分なし。ベルギーで人口の10%が見たのもわかる傑作。こういう、面白いだけじゃなく厳密に作られた優秀なミステリが、なぜこんなにも小規模上映なのか、つくづく悲しい。本来ならば、六本木ヒルズの巨大スクリーンで、上の人たちも呼んで華々しくプレミアをすべき傑作なのだ」として85点を与えているので、そこまで言うのならと、初めての映画館に足を運んだ次第です。

この映画館は、渋谷のマークシティを通り抜けてすぐのところ(道玄坂の坂の上のそば)にあって、わかれば好位置にあるとはいえ、地下に設けられていますから、知らなければスッと通り過ぎてしまいます。とはいえ、毎週水曜日は誰でも1,000円ということで、まずまずの入りでした。

さて、映画の方ですが、まさにミステリー映画そのものですから、少しでも立ち入ったことを話せば真相解明の手掛かりを与えてしまうでしょう。と言って、何も書かなければ議論になりません。

まあこのブログはネタバレOKを標榜しているということでお許しをいただいて、若干踏み込んでみましょう。

まず、この作品はベルギーで制作されていることから、出演している俳優に全くなじみがありません。結果として、誰が犯人として相応しいのか俳優を見ただけでは全然分かりません(邦画ならば、出演する俳優のうち誰が主演級であるかはすぐにわかり、その人が犯人になることはまずあり得ないでしょう、というところから始めて登場人物を一人一人消去していくと、大体真犯人の目星は付くものです)。
その点は、ある意味でメリットかもしれません。

ただ、映画の中で話されている言語がはっきりとつかめず(オランダ語〔フラマン語〕でしょうか)、それも屋内シーンがほとんどにもかかわらず全編アフレコで入っているためにくぐもった感じがして、臨場感が乏しい憾みがありました。

そんな些細な点を除けば、映画の仕上がりは素晴らしいものがあります。

ストーリーの初めの方だけ申し上げると、ある建築家が、自分が設計したマンションの最上階に設けられたロフトルームを、4人の友人に提供すると言い出します、妻などに内緒でこのロフトで情事を楽しめるように。としたところ、ある日、ベッドに手錠で繋がれたまま血まみれで死んでいる裸の女が見つかり、集まった5人の男たちは、自分たちの中に犯人がいるに違いないとして犯人探しを始めますが、…。

次々と映し出される映像は、事件が警察沙汰となってこの5人が取り調べを受けて供述している内容に従っています。ですから、取り調べが進んでくると、同じ事件にもかかわらず、各人が自分を守ろうとして様々な供述をしますので、その経過を示す映像が変化してきます。
なるほどなるほどと映画の中に入り込んでいくと、途中でクルッとそれまで明かされたことが別の角度から見られるようになり、そういうことが何回かあった後、最後に真相が明かされるという具合です。

ミステリー映画としては本当によく考え抜かれて制作された作品だと思いました〔例えば、後半の方で、5人の内の一人の男性が、刑事から、自殺した女性の遺書がないことやナイフの指紋が拭き消されている点を指摘されますが、そしてそこからこの男性は真相に近づいていくのですが、観客サイドからすると、手錠でベッドに繋がれたままで死んでいた女性が自殺するなどありえないことではないか、と疑問に思ってしまいます。ですが、……〕。

それにしても、ここに登場する中年男の女性関係はものすごいことになっているな、これが一般的な姿ならば世も末だなと思わされます。どの男性も、妻とか愛人以外の女性にドンドン手を出すのです。挙句は、ロフトを提供している建築家が、友人たちがそれぞれ大事に思っている女性にまで手を出していることがわかってしまいます。
ただ、逆にいえば、女性たち(特に友人の奥方たち!)の方もまた男性たちの要求に積極的に応じているわけで、そうなってくるとお互い様で、結局何を信じていいかわからなくなってしまいます。

要すれば、5人の男性たちは、自分らの秘密を守るために信頼関係に基づいてロフトを共有したはずなのに、そのロフトのせいで信頼関係が木っ端微塵になってしまうという皮肉なことになってしまいます。
あるいは、建築家とか精神科医といった社会の上層部を構成している人たちの荒廃した裏側を暴き出そうとしているといっていいのかも知れません。

としても、そんなお題目めいた話はこの際遠慮して、この上質なミステリー映画が見せてくれる謎解きの面白さそのものを楽しむべきでしょう。

前田氏以外の評論家の評判もよさそうです。
小梶勝男氏は、「この手の映画は観客を驚かせるために無理な展開になっていくという、「どんでん返しのためのどんでん返し」に陥りがちだが、そのような欠点もない。深い感動や映像美はないものの、サスペンスとしては非常によく出来ていると思う」として72点を付け、
町田敦夫氏も、「観ている私たちの興味も最後まで途切れることがない。二転三転する意外な結末に、「だまされた快感」を味わうとしよう」として70点を与えています。

やはり、前田氏と一緒に、こうした優れた映画が、東京でも一つの小さな映画館でしか上映されないという理解しがたい状況を嘆かなければ、と思いました。

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イングロリアス・バスターズ

2009年12月20日 | 洋画(09年)
 「イングロリアス・バスターズ」を銀座のTOHO日劇で見ました。

 この映画は、前作の「デス・プルーフ」が大変面白かったQ.タランテーノ監督の最新作であり、また「ベンジャミン・バトン」で好演したブラッド・ピットが主演しており、さらには雑誌で特集されたり(雑誌『ユリイカ』12月号「特集*タランティーノ 『イングロリアス・バスターズ』 の衝撃」)、洋泉社のムック本『「イングロリアス・バスターズ」映画大作戦!』が刊行されたり、と話題性タップリなところから、ぜひ見たいと思っていました。

 実際に見てみると、この映画はちょっと変わったところがあります。
 主演はブラッド・ピットとされているものの(クレジットで最初に記載されていますし)、途中でどこかへいなくなってしまいます(最後の方で再登場しますが)。他方、ほとんど出ずっぱりなのはナチスSS大佐役のクリストフ・ヴァルツの方です(そうだからこそ、カンヌ国際映画祭男優賞を獲得したのでしょう)。
 また、ナチス物というのであれば、ナチスが悪逆の限りを尽くすのが定番でしょう。ですが、この映画で残忍なのは、ブラピを隊長とする連合国軍側の特殊部隊(バスターズ)の方です。
 さらに、従来であれば、場所とか人とかを選ばずなんでも英語で押し通してしまうのが米国映画のはずなのに(注)、この映画では、英語のみならず、仏語・独語、はては伊語までバンバン飛び交います。こうなると、英語一本槍のブラピは、主役と言えどもおのずと出番が縮減されてしまいます(伊語ができるという設定になっているものの、「ボンジョルノ」だけ!)。

 こうしたことがあるからでしょうか、おかしなところも随所に見受けられます。
 たとえば、ヒットラー以下ナチスの最高幹部(ゲーリングやゲッペルスなど)が来場しているというのに、その映画館の警備はお粗末極まりなく、映画館の映写技師が館内をぐるっと回ってすべてのドアーに施錠してしまっても見逃されてしまいます(あるいは、警護責任者のSSの大佐がそのように取り計らったというのでしょうか)!
 また、フランスの田舎の貧しい農家にユダヤ人狩りに行ったSSの大佐が、そこの主人に「英語を話すか」と尋ねるとその主人はたちどころに「Yes」と答えますが、いくらなんでも!

 でも、そんなつまらない詮索は、映画の類い稀なる面白さの前に吹き飛んでしまいます!
 なにしろ、ごく少人数の奇想天外な働きによって第2次世界大戦が史実よりもずっと早く終結してしまうというのですから、面白くないわけがありません。
 それも、チャーチルといった政治家や連合国軍の幹部らが案出した作戦よりもむしろ、一人の素人の若い女性の考えた復讐劇の方がうまくいって、その結果としてもたらされるのですから!

 となると、この映画の世界は、こちらの世界ではなく、もう一つの可能世界の出来事であり、「Once Upon a time 」で始まるファンタスティックなお伽噺だと受け止めておく方が遥かに楽しいでしょう。

 ですから、精神科医の樺沢氏が顔をしかめて次のように言ったりしているのを見ると(12月2日付け「まぐまぐ」)、ちょっとそれは違うのではないか、と思ってしまいます。 

 「物語としてはおもしろい」ものの、「いくらあのナチスが相手だからといって」、「暴力と残虐、差別と偏見の宝箱。悪趣味の極み」では、「見ている途中、猛烈な不快感に襲われる」。
 特に、「タランティーノはわざと、意識的に「最低映画」を狙って作っている」のであって、「批判が出れば出るほど、どこまでブラックなのかを見たいという人が現れる。こうした物議をかもす作品を意図的に作ってマスコミを巻き込んで話題作りをしていく。実際、アメリカでは大ヒットしているわけで、こうした戦略的な映画ビジネスマンとしてのタランティーノの腕前は無視できない」。
 とはいえ、この映画については、「私自身、コメディとして大笑いできたシーンもあったけども、やはり笑うに笑えないシーンが多すぎる」ことから、「「おもしろさ」<「不快感」」だ。

 アメリカではこの映画が低俗だと批判されていて、そうだからこそ「大ヒット」しているというのは本当のことなのかどうか、そんなことはなく、単にナチス物で面白いから「大ヒット」しているのかどうか、実際にどんな状況なのか確かめようがありませんが、別にそんなことはどうでもよくて(「戦略的な映画ビジネスマンとしてのタランティーノの腕前」が発揮されているのだとしたら、それはそれで慶賀すべきでしょう)、この程度の「暴力と残虐、差別と偏見、悪趣味」の映画で「猛烈な不快感に襲われる」というのでは、余りにひ弱過ぎるのでは、と思ってしまいます(ひょっとして樺沢氏は「草食系」?)。
 それにどこが「差別と偏見」なのでしょうか?確かに、「差別と偏見」のさまを描いていますが、だからといって、それが「差別と偏見」を助長していることにはならないでしょう!

 横沢氏は別として、映画評論家の間では総じて評価は高そうです。
 岡本太陽氏は、「本作はタランティーノ氏の映画に対する愛で作られた様な映画」であり、「驚くべきエンディングが待つ映画の中の映画」であって、「映画をこんなに美しく作る事が出来るのか、と観る者に啓示を与える」として95点もの高得点を与え、
 小梶勝男氏も、「本当に面白いし、よく出来たエンタテインメント」としながらも、「「キル・ビル」2部作にあった混沌がなく、「グラインドハウス」にあった奇跡がない」として91点を与えています。

 ただ、前田有一氏は、「延々と続く意味ありげな会話のやりとり、無駄にスタイリッシュな殺戮シーン、無駄にドラマチックな物語展開、そしてそれらを平然とぶった切る潔さ。タランティーノの集大成というべき、彼らしさのつまった152分間である」と、あまり気の乗らなそうな雰囲気ながら、それでも60点を付けています。

 それぞれの評論家のこれまでの長いタランティーノ監督との付き合い方の違いによって評価が分かれてくるのでしょうが、まずもってこの映画それ自体から議論を始めてみるべきではないかと思いました。

 そういうところもあって、私には、75点を付けている渡まち子氏の、「タランティーノは、現実ではできなかったヒトラーへの復讐をものの見事にやってのけた。しかも映画という最強の武器を使って。こう考えると、この戦争アクションは、痛快ファンタジーと呼ぶ方がふさわしい」とする論評が一番フィットしました(むろん、同氏も「タランティーノの偏愛するマカロニ・ウェスタンや数々の往年の名作へのオマージュもてんこもり」とタランティーノ作品への言及を忘れてはいませんが)。

(注)例えば、映画『愛を読む人』の場合、舞台がドイツで登場人物もドイツ人という設定であるにもかかわらず、英語しかでてきません!



象のロケット:イングロリアス・バスターズ
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弱音の世界

2009年12月19日 | 音楽
 ブログ「はじぱりlite!」(12月17日)の記事で、blackdogさんは、あらまし次のように書いています。

 最近聴きに行ったローラン・ディアンス(上記の写真)によるクラシック・ギターのコンサートで「技術的に衝撃を受けた」のは「弱音の多用」であって、それにより「パッセージが音もなく過ぎ去る感じがとても鮮やかで、そこに存在しない音を頭の中で補いながら、聴き手としての僕らも即興演奏に参加しているような、そうやって会場全体がゆるい波に浸されていくような、そして、穏やかさのなかを時にフォルテが轟きわたり、全体にリズムを与え、また過ぎていくといったような、そんな感覚」だった。

 ここで言われているのは、このブログの3月4日の記事の中で触れたことともしかしたら通じているのかもしれません。
 その記事では、プサルタリーに絡めて、私が習っているギター教室の加藤誠先生が編み出した方法、指に負担をできるだけかけないように、細い弦をゆるく張ったギターを使って演奏する「ゆる弦」奏法を取り上げました。こうしたやり方で演奏する結果、ただでさえ小さなギターの音量がもっと小さくはなるものの、逆に繊細ですっきりとした実に美しい音が得られます。
 この奏法に習熟してくると、不思議なことに、音量は小さいながらも当初のような弱々しい音ではなく、むしろ力強いしっかりした音が得られるようになってきます。 

 いうまでもなく、ローラン・ディアンスが使用したギターは「ゆる弦」ギターではないでしょう。でも、大きな音よりむしろ「小さな音」、「弱音」の世界を重視しているという点で何かしら共通項が見い出せるのではないかと思いました。

 ところで、「ゆる弦」奏法の出発点は腱鞘炎の克服でしたが、指に負担をかけないものですから、腱鞘炎のみならず年齢によって筋力が衰えている者でも、努力次第で立派な演奏が可能となるのです。

 さらには、むしろこうした奏法で得られる音楽の方がかえって素晴らしいのではないか、むしろ積極的に目指すべき方向ではないか、とも考えられてきます。 
 加えて、音量は小さいものの繊細で美しい音色に耳が次第に慣れてきますと、力強く弾かれるピアノとかヴァイオリンが奏でる音楽が、かなり粗雑でうるさすぎる感じがしてきます。

 大ホールを揺るがすような大音量のシンホニーなどというのも一つの方向でしょうが、そして無論それを否定するわけではありませんが、むしろモーツアルト以前なら普通だったインナーサークル(宮廷サロンなど)の音楽、ごく少人数の者が小さな美しい音で楽しむ音楽というのもこれから目指すべき一つの方向としてありうるのではないでしょうか?

 このブログの「ギター合宿」の記事の中でも、「それにしても、ギターの素晴らしい独奏とか、ギターとプサルタリーとの息の合った合奏を、こんなに少ない人数で、こんなに近くで、それも大層親密な雰囲気の中で聴くことができるというのは、なんと贅沢な時間の過ごし方でしょう!まるで、バロックかロココ時代の宮廷にいるかのようです」と書いたところです。

 ここで話は跳びますが、7月に刊行された堀江憲一郎氏の『落語論』(講談社現代新書)を読みましたら、その冒頭で、「落語とは、ライブのものである。会場に客がいて、その前で演者が喋る。それが「落語」である」と宣言しており、さらには、「聞く側からすれば、ライブで聞かないと意味がない」、「演者が、目の前にいる客に向かって話しかけるときに初めて成立するのが落語である」などと述べている箇所に遭遇し、何だ落語の上演と音楽の演奏とは基本的に同じことではないのか、と思い至りました。
 それも、堀井氏は、「落語を聞かせられるのは300人までだ、とよく言われる。100人から200人そこそこが適正な観客数のようである」とまで述べているのです。

 落語の場合、1,000人(あるいはそれ以上の)クラスの会場で行われることもあるでしょう。また、1,000人、2,000人の大観衆に向かって大音量で音楽を届けるというのは、ポピュラー音楽ではごく普通のことですし、クラシック音楽の世界でももちろん行われています。
 むろんそれはそれで構わないとはいえ、あるいはそうしたものは、本来的な落語の上演とか音楽の演奏とは随分かけ離れているのではないか、と言えるかもしれません。むしろ、ごく小規模の聴衆に対して繊細で美しい音を伝えるのと、「落語家の発する〝気〟」を少ない人数の観客にしっかりと届けるのとは、もしかしたら同じ次元の話なのではないでしょうか?

 ローラン・ディアンスから思いがけず落語にまで話が広がってしまいました。
 
 最後に、blackdogさんのブログ記事に、クラシック・ギターとは、「小さな曲にどれだけの発想が詰め込まれているか、小さな一音にどれだけ多様な音色が響きわたっているか、そんなことに気付かせてくれる楽器」だと述べられていることを申し添えておきましょう。
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戦場でワルツを

2009年12月17日 | 洋画(09年)
 「戦場でワルツを」を銀座のシネスイッチで見ました。

 昨年3月のことになりますが、パレスチナ問題関係でドキュメンタリー映画『パレスチナ1948 NAKBA』を見たこともあり、この映画を予告編で知ってから、ぜひ見たいものだと思っていました。

 実際に見てみると、戦争の理不尽さ、悲惨さなどは、独特の色調ともあいまって、このようなアニメ映画でも十分伝わるものだな、むしろアニメの方がよく理解されるのかもしれない、と思いました。

 こうした点は、他の映画レヴューでも様々に書き綴られていることでしょうから、以下では二つの点だけに絞って書いてみます。

イ)この映画は、前者がドキュメンタリー映画であるのに対してアニメですから表現方法は違っています。とはいえ、いずれもイスラエルを起点に制作されている点が共通していて、その持つ意味合いは大きなものがあるのではと思います。

 前者の『パレスチナ1948 NAKBA』は、日本人の手になるもので、その映画の中では、彼が青年時代に滞在したことのあるキブツで見かけた廃墟が、パレスチナ人の村のわずかな名残であって、その村の元住人を探索していくうちに、こうした破壊行為が1948年の第1次中東戦争の最中にイスラエル全土にわたり行われ、70万人以上といわれる難民が発生し、さらには虐殺行為もなされた、という事実が次第に判明していくことになります〔この戦争は、パレスチナ人の虐殺・追放・難民化をもたらしたことから、パレスチナ側では「大破局・大惨事」を意味する「ナクバ」といわれています〕。

 ですが、映画では、ナクバによって難民となったパレスチナ人のみならず、その中で引き起こされた虐殺事件の経緯を知るユダヤ人の元軍人や、こうしたことを調査しているユダヤ人歴史家などが登場して証言します。
 このように、イスラエルといっても決して頑強な一枚岩ではなく、内側には少数かもしれませんが異見を持つ人々が存在し、常時臨戦態勢にある国家でありながら、その人たちの行動が厳しく規制されているわけでもなさそうに思え、これは非常に興味深いことだなと思いました。
(以上については、ブログ「はじぱり!」の昨年3月25日の記事についてのコメントの「1」を参照)

 今回の映画においても、イスラエル人である監督の友人が、20年以上も昔の出来事にかかわる恐ろしい夢に悩まされ、そのことを監督に打ち明けることから、当時の事柄に関して監督自身の記憶喪失も明らかにされます。そして、失われた過去にいったい何があったのかと監督が関係者に尋ね回って証言を集め記録して作り上げたのがこの映画だというわけです。

 その失われた記憶の核心にあるのが、イスラエルのレバノン侵攻(1982年6月)に伴って引き起こされた虐殺事件であり、映画においては、イスラエル軍は直接手を下さなかったものの、レバノンのファランヘ党(キリスト教マロン派の政党で、民兵組織を持つ)によるパレスチナ難民虐殺に間接的ながら加担してしまったこと、そして監督はその事件の現場を見ることができる位置にいたことなどが明らかにされます。

 この虐殺事件それ自体も実に大変なことですが、私には、こうした映画が、パレスチナ人ではなくイスラエル人によって制作されたということが、上記の映画で見られる光景(イスラエル人による様々の証言)と合わせて、酷く興味深いことだと思いました。

ロ)もう一つ特徴的な点は、記憶のフラッシュバックを巡ることがらです。
すなわち、この映画は、監督の友人が、24年前の出来事に関連するフラッシュバック的な悪夢(その時に殺した26匹の獰猛な犬に追いかけられるという夢)に悩まされ、そのことを監督に打ち明けることから始まりますが、これは、まさにPTSD(「心的外傷後ストレス障害」)の特徴的な症状を示していると思われます。
(以下は、HP「古樹紀之房間」に掲載されている論考「映画と記憶―『銀座の恋の物語』を巡って」を参考にしました)

 すなわち、日本でも使われている米国精神医学会が定める診断基準によれば、次の3つのグループに分類される症状のすべてにつき、それが「1ヶ月以上にわたって持続し、それにより主観的苦痛や生活機能・社会機能に明らかな支障が認められたとき」に、PTSDと診断されます。

a.再体験症状‥‥出来事に関する不快で苦痛な記憶が、フラッシュバックや夢の形で繰り返しよみがえる。
b.回避症状‥‥出来事に関して考えたり話したり、感情がわき起こるのを、極力避けようとしたり、思い出させる場所や物を避けようとする。
c.覚醒昂進症状‥‥睡眠障害、いらいらして怒りっぽくなる、物事に集中できないなど、精神的緊張が高まった状態。

 これらの症状の中でも、aの「再体験症状」が特徴的です。すなわち、戦闘とか性的暴力などのトラウマティックな記憶は、コントロールがきかずに勝手にその人の意識に侵入してきます。この場合、フィルムをまわすように事件が再現されて、患者はそれを止めることができないとされています。
 こうした厳しい症状が、繰り返しその人の意思に反して生じるために、それを軽減すべくbの「回避症状」が現れ、また常に緊張状態にあってリラックスできないために、cの睡眠障害などの症状を示すことにもなると考えらるようです。 

 こうしたPTSDは、池田小学校無差別殺傷事件(2001年)とか佐世保小学校殺傷事件(2004年)、JR福知山線の脱線事故(2005年)などの際に随分と問題になりました。

 この映画の冒頭に登場する監督の友人は、まさに自分が殺した犬に追いかけられるのですから、上記のaの「再体験症状」を示しているといえるでしょう。そして、監督とその友人とを一体とみなせば、監督の記憶から24年前の虐殺事件が消滅していることは、bの「回避症状」に該当しているといえるかもしれません!

ハ)この映画に対して評論家は次のように述べています。
小梶勝男氏は、「アニメの絵に力がある。日本ともハリウッドとも違う独特の絵画的な絵は、陰影の濃さが主人公の心象をリアルに表現する」とし、さらに「ドキュメンタリーをこのように見せるのは「あざとい」ともいえるが、私は「真実」を伝えるための最良の手法として評価したい」として91点もの高得点を与えています。

岡本太陽氏は、「これは監督にとって事実を知ると同時に、彼自身の心を癒すドキュメンタリー映画でもあり、"記憶を取り戻す事=自分自身を許す"、がフォルマン氏にとって一種のセラピーになっているのだ」として90点を与えています。

渡まち子氏は、「記憶を道案内役に、斬新な形で戦争の愚行を描いたこの見事な作品は、アニメーションやドキュメンタリーといったジャンルの枠を越え、映画史に確かな足跡を残すと確信している」として85点を与えています。

福本次郎氏も、「これはアリ監督の自己再発見の旅であると同時に、ホロコーストの被害者として徹底的にナチスを断罪しておきながら、パレスチナの人民を大虐殺する正当性を主張するイスラエルというユダヤ人国家の抱えるジレンマを告発する行為でもある」として60点を付けています。

 全体的に、監督の記憶回復の方を重視しているようですが、上記ロで申し上げたように、私には、むしろ冒頭のフラッシュバックの方を重視したい感じがするところです。



象のロケット:戦場でワルツを
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千年の祈り

2009年12月15日 | 洋画(09年)
 「千年の祈り」を恵比寿ガーデンシネマで見ました。

 予告編からかなり地味な映画なのではと思いましたが、多額の資金をつぎ込んで制作された映画(刺激的ですが大味なものとなりがちです)よりも、こうした感じの作品の方を好むものですから、時間があったら見てみようと思っていました。

 実際のところも、予告編通りの大変地味な仕上がりとなっています。
 12年前に中国から米国に行ってそこで生活している娘のところに、中国から父親が訪ねてきます。その目的は、離婚した娘の状況を見て、再婚を勧めることにあるようです。
 ですが、娘の方は、父親にわだかまりを持っていて、この訪問を快く思ってはいません(娘は、父親と夕食を一緒に取るのを避けるために映画館に行ったりします)。
 そのわだかまりが、父親の告白によって解消されるものの、やはり二人はそれぞれの道を歩んでいくことになるでしょう。
 と言ったようなストーリーで、それ自体には特筆すべきものはありません。

 ただ、父と娘の物静かな会話、父親が昼間公園で出会ったイラン人の女性との交流(英語と中国語とペルシア語(?)が入り混じったとても奇妙な会話です)、モルモン教勧誘員と父親とのとんちんかんな会話などによって、この映画が随分と厚みを増し、ラスト近くで父と娘がベンチに並んで座って前を流れる川を見るときの光景は、お互いの会話自体は少ないながらも、二人の来し方を思いこれからのことを考えている様が実によく出ていて、感動を呼ぶものとなっています!

 父と娘という普遍的な地平と、異国における少数民族同士の交流という特殊米国的な地平とが交錯して描き出されていて、素晴らしい映画に仕上がっているなと思いました。

 なお、「映画ジャッジ」の諸氏は次のように述べていますが、それぞれ問題があるように思われます。

 まず、服部弘一郎氏は、「父娘の対話は小津安二郎の映画を連想させるが、ウェイン・ワン監督はそれを十分意識しながらこの映画を撮っているようだ。父を演じたヘンリー・オーはさながら小津映画の笠智衆のようだ」として70点を与えています。
 それほど問題というわけではありませんが、監督が小津安二郎を意識していることはオフィシャルサイトや劇場用パンフレットに既に明示されているところで、こうして態々言われてもと思ってしまいます。

 次に、前田有一氏は、冒頭で「『千年の祈り』は、アメリカの中で、中国人とイラン人が仲良くするというお話」だとしたり、「中国、イラン、やがて途中からロシア人まで絡むこの奇妙なドラマの終結点ははたして?」などと書いていますが、こんなチャランポランでいい加減なプロの映画評は初めて目にするものです!
 この映画を見て、いったい誰が「アメリカの中で、中国人とイラン人が仲良くするというお話」が本筋だと思うのでしょうか?父親とイラン人女性との交流は、この映画に挿入されたエピソードの一つにすぎないにもかかわらず、それがこの映画のメインのストーリーだとするのはどうしてでしょうか?
 それでも、末尾で、「予想を超えるほど心震える、深い感動を与えられるラストシーン」として70点を付けているので、マア許せますが。

 さらに、福本次郎氏は、「しきたりに縛られた中国で生きてきた父と、米国に渡って自由を謳歌している娘」について、「映画は抑制のきいたタッチで彼らの葛藤と和解を描」くが、結局のところ、「古い価値観が新しい価値観に駆逐されていく、その寂しさが身にしみる作品だった」として60点をあたえているのはヨク理解出来ます。
 ところが、イラン人女性が、医者の息子がいるにもかかわらず、「老人ホームに送られたと知って、シー(父親)は己の行く末を予感するのだ。老人は家族が面倒をみる、中国でもイランでも当たり前なのに、米国では個を尊重するあまり、老いた親はホームに入れられる。イーラン(娘)以外に子供がいないシーにとって、彼女の境遇をわが身に重ねたに違いない」と述べています。
 ただ、以前は家で家族が介護するのが普通だった日本でも、老人ホームに入る高齢者がこのところ増えている状況を鑑みると、「個を尊重するあまり、老いた親はホームに入れられる」というより、勿論様々な要因はあるにせよ、設備の整った「老人ホーム」がたくさん建設されているかどうか、という点がクルーシャルな問題なのではないか、とも思えてきます。
 モット言えば、福本氏は、“個人主義の西欧、家族主義の東洋”という古色蒼然としたものの見方から脱却できていないようにも思われます。
 この問題は、ごく単純に言ってしまうと、昔は、経済状況が厳しかったがために、十分な数の老人ホームが確保されず、老人の世話は各家族でやらざるを得なかったものの、経済力が高まってくると次第に設備の整った老人ホームがたくさん建設されるようになって、老人の世話も家族の手を離れるようになってきた、という事態の流れではないかとも考えられます(むろん、そのほかの要因も考慮しなければならないでしょうが)。



象のロケット:千年の祈り
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