『チキンとプラム―あるバイオリン弾き、最後の夢』を新宿武蔵野館で見ました。
(1)予告編を見て、なんだかおしゃれな作品だなと思って映画館に出向きました。
本来的にフランス映画ですが、監督・脚本のマルジャン・サトラピがイラン出身だからでしょう、主な舞台は、1950年代のテヘランになっています。
主人公は、著名なバイオリン弾きのアリ(マチュー・アマルリック)。
彼は、大切にしていた楽器を壊されてしまったため、代わりを探したもののなかなか見つからず、遂に絶望して部屋に閉じこもり、一切の食事を受け付けなかったことから(注1)、8日目に死んでしまいます。
引き続いて映画は、その8日間にアリが振り返った過去を描き出していきます。
それによれば、21歳でアリは、当代随一とされるバイオリンの名匠に弟子入りをし(注2)、完璧なテクニックを身につけますが、心がないと言われてしまいます(注3)。
そうしたところ、街で出会ったイラーヌ(ゴルシフテ・ファラハニ)に一目惚れ。
でも、何度かデートを重ねた上で結婚を申し込んだところ、イラーヌの了解は取り付けるものの、父親に拒絶されてしまい(注4)、彼女も去ってしまいます(注5)。
恋に破れ打ちひしがれたアリが師匠のもとに戻って演奏すると、今度は絶賛され、師匠愛用のバイオリンまで譲り受けます。
アリは、その楽器を持って、国内はおろか世界中を飛び回ります。
その間、アリは、母親の強い勧めに従ってファランギース(マリア・デ・メディロス)と結婚します(注6)。
ですが、心はバイオリンと、さらにはイラーヌに占領されたまま。
それに苛立った妻のファランギースは、あろうことか彼が大切にしていたバイオリンを打ち壊してしまうのです。
それで、アリは死ぬことを決意するのですが、……。
原作がコミック(注7)ということもあって、本作全体がおとぎ話風なタッチで描かれ(注8)、なおかつ『彼女が消えた浜辺』に出演したゴルシフテ・ファラハニがイラーヌ役を演じるなどなかなかの配役陣(注9)でもあり、大層豊かな気分に浸されます(注10)。
(2)本作は、大雑把に言うと、恋に破れることによって音楽の本質をつかんだ音楽家の話なのでしょうが、劇場用パンフレットに掲載されている「Production Notes」によれば、映画化に当たり、原作のタール(長いネックのリュート属の楽器)がバイオリンに置き換えられたところ(注11)、それは「この映画で重要なのは楽器そのものではいないという、非常にシンプルな理由からだ」とのことです。
だとしたら、楽器はさらにピアノに変えてもいいかもしれませんし、そうなるとここで本作との関連で思い浮かぶのは、カナダのピアニストのグレン・グールドです。
グレン・グールドに関しては、拙ブログ本年5月15日のエントリの「(2)イ)」で若干触れましたが、昨年後半には映画『グレン・グールド―天才ピアニストの愛と孤独』が日本で劇場公開されたところです(注12)。
同作品では、これまで公開されている映像に従って、そのピアニストとしての天才ぶりが描き出されるだけでなく(注13)、恋人だったフランシス・バローとか、その後彼がつきあうこととなった画家のコーネリア・フォス(作曲家の妻)、さらにはソプラノ歌手ロクソラーナ・ロスラックなどに対するインタビュー等によって、そのプライベートな側面が明らかにされています。
最初のフランシスは(注14)、グレンを愛していたものの結婚は無理だったと述べています。
また、コーネリアは、1968年に2人の子供を連れてグレンのところにやってきて(注15)、4人は家族のような関係となるものの、彼が薬物過剰摂取によって偏執症(パラノイア)に陥り、彼女の自由を奪うようになってしまい、結局彼女は夫の許に再び帰ることになります(1972年)。
コーネリアの後はソプラノ歌手と昵懇になりますが(注16)、きっかけは、グレンが、ロクソラーナの歌声をカーラジオで聴いて、彼女を共演者として指名したこと。
グレン・グールドのような天才芸術家と女性たちとの関係は一概には言えないでしょうが、彼らが創り出す豊穣な世界は、本作『チキンとプラム』も言うように、女性との葛藤なくしては考えられないでしょう。
なお、この作品での女性たちがグレン・グールドを語る様子からは、前回取り上げた『映画と恋とウディ・アレン』でミア・ファローとかダイアン・キートンらが語るウディ・アレンを彷彿とさせます。ウディ・アレンが現在もなお精力的に活躍するのも、あるいは多くの女性たちと浮名を流したことと裏腹ではないでしょうか!
(3)渡まち子氏は、「ほろ苦い後悔と甘い記憶に包まれた哀切に満ちた作品だ。ユニークな映像感覚のおかげで、見終わってもなお陶酔感を味わえる」として70点を付けています。
(注1)アリは自殺しようとしますが、その方法として、鉄道に飛び込む、崖から飛び降りる、ピストルを使う、などを考えたところ、どれも痛そうなので止めることとし、また薬を飲むのも醜い死体を発見されるのが耐えられないとして、結局何も食べないで死の訪れをベッドで待つことにします。
(注2)シタールのラヴィ・シャンカルのもとに行ったビートルズのジョージ・ハリスンのような感じがしました。
(注3)師匠から、「指は動く、音は出る、だが空っぽ」、「人生はため息、このため息をつかむのだよ」と言われます(原作では、タールの師匠はこんな厳しいことを言いませんが)。
(注4)あれほど娘・イラーヌに優しい父親が、アリが音楽家で収入が安定しないことを捉えて結婚を厳しく拒絶するというのは、昔だったら、そしてイランだったらありうることかもしれませんが、どうも唐突感が否めません。クマネズミは、拒絶する父親の背後にアリのバイオリンの師匠の影を見たのですが、うがちすぎでしょうか?
(注5)後になってアリは、テヘランの街中で、孫を連れて歩いているイラーヌと遭遇し、「覚えておりませんか?」と声をかけるのですが、そしてそのシーンは、本作の冒頭で描き出されるところ、イラーヌは「ごめんなさい、覚えておりません」と言って立ち去ってしまいます。
さらに、まったく同じシーンはラスト近くでも繰り返されますが、その際には、別れて角を曲がったところで、イラーヌは涙を流し、「ナセル・アリ、愛しい人!」と言うのです。
(注6)ファランギースは、幼い頃からズッとアリのことが好きで、数々の縁談を断って、アリが音楽の修行から戻ってくるのを心待ちにしていたのです。
アリが引きこもってしまったこの8日間でも、4日目(原作では3日目)に、仲直りをしようとファランギースは、アリの大好物の「鶏のプラム煮」を作って部屋に入りますが、アリの方は受け付けませんでした。
(注7)本作を制作したマルジャン・サトリピが書いたコミック『鶏のプラム煮』(渋谷豊訳、小学館集英社プロダクション、2012.2)。ところで、何故、本作の邦題は「鶏のプラム煮」ではないのでしょうか?
(注8)背景は演劇の書割調ですし、また「死の天使」アズラエルなども登場します。
(注9)主人公のアリを演じるマチュー・アマルリックは、『潜水服は蝶の夢を見る』の主演でした。
(注10)ユーモアも忘れられてはおりません。例えば、死によって思想は永遠になるとのソクラテスの教えに従って、アリは、子供たちに貴重な話を残そうとするものの、話し出した途端の息子の放屁でおじゃんになってしまいます。
(注11)壊されたバイオリンの代わりに、アリは、遠くの街にある古道具屋まで行ってストラディバリウスを購入するのですが、いくらなんでもそんなところにあの世界的銘器が埋もれているとは考えられないことです。これは、原作のタールをバイオリンに取り替えたことから来る問題でしょうが、別にたいしたことではありません〔なお、原作では、「ヤヒヤーのタール」とされていて、それは「博物館に飾っておきたいような逸品」とされているところです(P.9)〕。
(注12)同作品の公開は見逃しましたが、その後DVDを購入しました。
(注13)Wikipediaによれば、グールドは、1932年にカナダのトロントで生まれ、1946年に「正式デビュー」するも、「1964年3月28日のシカゴ・リサイタルを最後にコンサート活動からは一切手を引」き、「以降、没年までレコード録音及びラジオ、テレビなどの放送媒体のみを音楽活動の場と」し、1982年50歳で没します。
(注14)彼女はグレンにピアノを指導してもらい、そのピアノの腕前もなかなかだったようです。なお、グレンに「子鹿(fawn)」と言われていたとフランシスは証言しています。
(注15)コーネリアによれば、夫との関係は終わっていてグレンと結婚するつもりだったとのこと(ただ、夫は許しませんでした)。それでコーネリアはグレンの元にやってきますが、すぐそばに住まいを設けただけで、同居はしなかったようです。それでも、グレンは子供たちをかわいがったようで、彼らも「良い思い出しか残っていない」と言っています。
また、「この時期のグレンは幸せそうだった」とグールドの友人のジョン・ロバーツは言います。さらに、「60年代末から70年代初め、グールドの生活は一番充実していた」、「コーネリアがトロントに来て、彼は初めて“家庭”を経験した」、「芸術と私生活の両面で一番生産的な時期だった」などと述べる関係者もいます。
(注16)どのような親密さだったのかはこの作品では分かりませんが、「彼女はグレンに“家庭”を教えようとした」と長年の友人のレイ・ロバーツは述べています。
★★★★☆
象のロケット:チキンとプラム
(1)予告編を見て、なんだかおしゃれな作品だなと思って映画館に出向きました。
本来的にフランス映画ですが、監督・脚本のマルジャン・サトラピがイラン出身だからでしょう、主な舞台は、1950年代のテヘランになっています。
主人公は、著名なバイオリン弾きのアリ(マチュー・アマルリック)。
彼は、大切にしていた楽器を壊されてしまったため、代わりを探したもののなかなか見つからず、遂に絶望して部屋に閉じこもり、一切の食事を受け付けなかったことから(注1)、8日目に死んでしまいます。
引き続いて映画は、その8日間にアリが振り返った過去を描き出していきます。
それによれば、21歳でアリは、当代随一とされるバイオリンの名匠に弟子入りをし(注2)、完璧なテクニックを身につけますが、心がないと言われてしまいます(注3)。
そうしたところ、街で出会ったイラーヌ(ゴルシフテ・ファラハニ)に一目惚れ。
でも、何度かデートを重ねた上で結婚を申し込んだところ、イラーヌの了解は取り付けるものの、父親に拒絶されてしまい(注4)、彼女も去ってしまいます(注5)。
恋に破れ打ちひしがれたアリが師匠のもとに戻って演奏すると、今度は絶賛され、師匠愛用のバイオリンまで譲り受けます。
アリは、その楽器を持って、国内はおろか世界中を飛び回ります。
その間、アリは、母親の強い勧めに従ってファランギース(マリア・デ・メディロス)と結婚します(注6)。
ですが、心はバイオリンと、さらにはイラーヌに占領されたまま。
それに苛立った妻のファランギースは、あろうことか彼が大切にしていたバイオリンを打ち壊してしまうのです。
それで、アリは死ぬことを決意するのですが、……。
原作がコミック(注7)ということもあって、本作全体がおとぎ話風なタッチで描かれ(注8)、なおかつ『彼女が消えた浜辺』に出演したゴルシフテ・ファラハニがイラーヌ役を演じるなどなかなかの配役陣(注9)でもあり、大層豊かな気分に浸されます(注10)。
(2)本作は、大雑把に言うと、恋に破れることによって音楽の本質をつかんだ音楽家の話なのでしょうが、劇場用パンフレットに掲載されている「Production Notes」によれば、映画化に当たり、原作のタール(長いネックのリュート属の楽器)がバイオリンに置き換えられたところ(注11)、それは「この映画で重要なのは楽器そのものではいないという、非常にシンプルな理由からだ」とのことです。
だとしたら、楽器はさらにピアノに変えてもいいかもしれませんし、そうなるとここで本作との関連で思い浮かぶのは、カナダのピアニストのグレン・グールドです。
グレン・グールドに関しては、拙ブログ本年5月15日のエントリの「(2)イ)」で若干触れましたが、昨年後半には映画『グレン・グールド―天才ピアニストの愛と孤独』が日本で劇場公開されたところです(注12)。
同作品では、これまで公開されている映像に従って、そのピアニストとしての天才ぶりが描き出されるだけでなく(注13)、恋人だったフランシス・バローとか、その後彼がつきあうこととなった画家のコーネリア・フォス(作曲家の妻)、さらにはソプラノ歌手ロクソラーナ・ロスラックなどに対するインタビュー等によって、そのプライベートな側面が明らかにされています。
最初のフランシスは(注14)、グレンを愛していたものの結婚は無理だったと述べています。
また、コーネリアは、1968年に2人の子供を連れてグレンのところにやってきて(注15)、4人は家族のような関係となるものの、彼が薬物過剰摂取によって偏執症(パラノイア)に陥り、彼女の自由を奪うようになってしまい、結局彼女は夫の許に再び帰ることになります(1972年)。
コーネリアの後はソプラノ歌手と昵懇になりますが(注16)、きっかけは、グレンが、ロクソラーナの歌声をカーラジオで聴いて、彼女を共演者として指名したこと。
グレン・グールドのような天才芸術家と女性たちとの関係は一概には言えないでしょうが、彼らが創り出す豊穣な世界は、本作『チキンとプラム』も言うように、女性との葛藤なくしては考えられないでしょう。
なお、この作品での女性たちがグレン・グールドを語る様子からは、前回取り上げた『映画と恋とウディ・アレン』でミア・ファローとかダイアン・キートンらが語るウディ・アレンを彷彿とさせます。ウディ・アレンが現在もなお精力的に活躍するのも、あるいは多くの女性たちと浮名を流したことと裏腹ではないでしょうか!
(3)渡まち子氏は、「ほろ苦い後悔と甘い記憶に包まれた哀切に満ちた作品だ。ユニークな映像感覚のおかげで、見終わってもなお陶酔感を味わえる」として70点を付けています。
(注1)アリは自殺しようとしますが、その方法として、鉄道に飛び込む、崖から飛び降りる、ピストルを使う、などを考えたところ、どれも痛そうなので止めることとし、また薬を飲むのも醜い死体を発見されるのが耐えられないとして、結局何も食べないで死の訪れをベッドで待つことにします。
(注2)シタールのラヴィ・シャンカルのもとに行ったビートルズのジョージ・ハリスンのような感じがしました。
(注3)師匠から、「指は動く、音は出る、だが空っぽ」、「人生はため息、このため息をつかむのだよ」と言われます(原作では、タールの師匠はこんな厳しいことを言いませんが)。
(注4)あれほど娘・イラーヌに優しい父親が、アリが音楽家で収入が安定しないことを捉えて結婚を厳しく拒絶するというのは、昔だったら、そしてイランだったらありうることかもしれませんが、どうも唐突感が否めません。クマネズミは、拒絶する父親の背後にアリのバイオリンの師匠の影を見たのですが、うがちすぎでしょうか?
(注5)後になってアリは、テヘランの街中で、孫を連れて歩いているイラーヌと遭遇し、「覚えておりませんか?」と声をかけるのですが、そしてそのシーンは、本作の冒頭で描き出されるところ、イラーヌは「ごめんなさい、覚えておりません」と言って立ち去ってしまいます。
さらに、まったく同じシーンはラスト近くでも繰り返されますが、その際には、別れて角を曲がったところで、イラーヌは涙を流し、「ナセル・アリ、愛しい人!」と言うのです。
(注6)ファランギースは、幼い頃からズッとアリのことが好きで、数々の縁談を断って、アリが音楽の修行から戻ってくるのを心待ちにしていたのです。
アリが引きこもってしまったこの8日間でも、4日目(原作では3日目)に、仲直りをしようとファランギースは、アリの大好物の「鶏のプラム煮」を作って部屋に入りますが、アリの方は受け付けませんでした。
(注7)本作を制作したマルジャン・サトリピが書いたコミック『鶏のプラム煮』(渋谷豊訳、小学館集英社プロダクション、2012.2)。ところで、何故、本作の邦題は「鶏のプラム煮」ではないのでしょうか?
(注8)背景は演劇の書割調ですし、また「死の天使」アズラエルなども登場します。
(注9)主人公のアリを演じるマチュー・アマルリックは、『潜水服は蝶の夢を見る』の主演でした。
(注10)ユーモアも忘れられてはおりません。例えば、死によって思想は永遠になるとのソクラテスの教えに従って、アリは、子供たちに貴重な話を残そうとするものの、話し出した途端の息子の放屁でおじゃんになってしまいます。
(注11)壊されたバイオリンの代わりに、アリは、遠くの街にある古道具屋まで行ってストラディバリウスを購入するのですが、いくらなんでもそんなところにあの世界的銘器が埋もれているとは考えられないことです。これは、原作のタールをバイオリンに取り替えたことから来る問題でしょうが、別にたいしたことではありません〔なお、原作では、「ヤヒヤーのタール」とされていて、それは「博物館に飾っておきたいような逸品」とされているところです(P.9)〕。
(注12)同作品の公開は見逃しましたが、その後DVDを購入しました。
(注13)Wikipediaによれば、グールドは、1932年にカナダのトロントで生まれ、1946年に「正式デビュー」するも、「1964年3月28日のシカゴ・リサイタルを最後にコンサート活動からは一切手を引」き、「以降、没年までレコード録音及びラジオ、テレビなどの放送媒体のみを音楽活動の場と」し、1982年50歳で没します。
(注14)彼女はグレンにピアノを指導してもらい、そのピアノの腕前もなかなかだったようです。なお、グレンに「子鹿(fawn)」と言われていたとフランシスは証言しています。
(注15)コーネリアによれば、夫との関係は終わっていてグレンと結婚するつもりだったとのこと(ただ、夫は許しませんでした)。それでコーネリアはグレンの元にやってきますが、すぐそばに住まいを設けただけで、同居はしなかったようです。それでも、グレンは子供たちをかわいがったようで、彼らも「良い思い出しか残っていない」と言っています。
また、「この時期のグレンは幸せそうだった」とグールドの友人のジョン・ロバーツは言います。さらに、「60年代末から70年代初め、グールドの生活は一番充実していた」、「コーネリアがトロントに来て、彼は初めて“家庭”を経験した」、「芸術と私生活の両面で一番生産的な時期だった」などと述べる関係者もいます。
(注16)どのような親密さだったのかはこの作品では分かりませんが、「彼女はグレンに“家庭”を教えようとした」と長年の友人のレイ・ロバーツは述べています。
★★★★☆
象のロケット:チキンとプラム