映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

チキンとプラム

2012年11月29日 | 洋画(12年)
 『チキンとプラム―あるバイオリン弾き、最後の夢』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)予告編を見て、なんだかおしゃれな作品だなと思って映画館に出向きました。
 本来的にフランス映画ですが、監督・脚本のマルジャン・サトラピがイラン出身だからでしょう、主な舞台は、1950年代のテヘランになっています。

 主人公は、著名なバイオリン弾きのアリマチュー・アマルリック)。



 彼は、大切にしていた楽器を壊されてしまったため、代わりを探したもののなかなか見つからず、遂に絶望して部屋に閉じこもり、一切の食事を受け付けなかったことから(注1)、8日目に死んでしまいます。
 引き続いて映画は、その8日間にアリが振り返った過去を描き出していきます。
 それによれば、21歳でアリは、当代随一とされるバイオリンの名匠に弟子入りをし(注2)、完璧なテクニックを身につけますが、心がないと言われてしまいます(注3)。
 そうしたところ、街で出会ったイラーヌゴルシフテ・ファラハニ)に一目惚れ。



 でも、何度かデートを重ねた上で結婚を申し込んだところ、イラーヌの了解は取り付けるものの、父親に拒絶されてしまい(注4)、彼女も去ってしまいます(注5)。
 恋に破れ打ちひしがれたアリが師匠のもとに戻って演奏すると、今度は絶賛され、師匠愛用のバイオリンまで譲り受けます。
 アリは、その楽器を持って、国内はおろか世界中を飛び回ります。
 その間、アリは、母親の強い勧めに従ってファランギースマリア・デ・メディロス)と結婚します(注6)。



 ですが、心はバイオリンと、さらにはイラーヌに占領されたまま。
 それに苛立った妻のファランギースは、あろうことか彼が大切にしていたバイオリンを打ち壊してしまうのです。
 それで、アリは死ぬことを決意するのですが、……。

 原作がコミック(注7)ということもあって、本作全体がおとぎ話風なタッチで描かれ(注8)、なおかつ『彼女が消えた浜辺』に出演したゴルシフテ・ファラハニがイラーヌ役を演じるなどなかなかの配役陣(注9)でもあり、大層豊かな気分に浸されます(注10)。

(2)本作は、大雑把に言うと、恋に破れることによって音楽の本質をつかんだ音楽家の話なのでしょうが、劇場用パンフレットに掲載されている「Production Notes」によれば、映画化に当たり、原作のタール(長いネックのリュート属の楽器)がバイオリンに置き換えられたところ(注11)、それは「この映画で重要なのは楽器そのものではいないという、非常にシンプルな理由からだ」とのことです。
 だとしたら、楽器はさらにピアノに変えてもいいかもしれませんし、そうなるとここで本作との関連で思い浮かぶのは、カナダのピアニストのグレン・グールドです。

 グレン・グールドに関しては、拙ブログ本年5月15日のエントリの「(2)イ)」で若干触れましたが、昨年後半には映画『グレン・グールド―天才ピアニストの愛と孤独』が日本で劇場公開されたところです(注12)。



 同作品では、これまで公開されている映像に従って、そのピアニストとしての天才ぶりが描き出されるだけでなく(注13)、恋人だったフランシス・バローとか、その後彼がつきあうこととなった画家のコーネリア・フォス(作曲家の妻)、さらにはソプラノ歌手ロクソラーナ・ロスラックなどに対するインタビュー等によって、そのプライベートな側面が明らかにされています。
 最初のフランシスは(注14)、グレンを愛していたものの結婚は無理だったと述べています。
 また、コーネリアは、1968年に2人の子供を連れてグレンのところにやってきて(注15)、4人は家族のような関係となるものの、彼が薬物過剰摂取によって偏執症(パラノイア)に陥り、彼女の自由を奪うようになってしまい、結局彼女は夫の許に再び帰ることになります(1972年)。
 コーネリアの後はソプラノ歌手と昵懇になりますが(注16)、きっかけは、グレンが、ロクソラーナの歌声をカーラジオで聴いて、彼女を共演者として指名したこと。

 グレン・グールドのような天才芸術家と女性たちとの関係は一概には言えないでしょうが、彼らが創り出す豊穣な世界は、本作『チキンとプラム』も言うように、女性との葛藤なくしては考えられないでしょう。
 なお、この作品での女性たちがグレン・グールドを語る様子からは、前回取り上げた『映画と恋とウディ・アレン』でミア・ファローとかダイアン・キートンらが語るウディ・アレンを彷彿とさせます。ウディ・アレンが現在もなお精力的に活躍するのも、あるいは多くの女性たちと浮名を流したことと裏腹ではないでしょうか!

(3)渡まち子氏は、「ほろ苦い後悔と甘い記憶に包まれた哀切に満ちた作品だ。ユニークな映像感覚のおかげで、見終わってもなお陶酔感を味わえる」として70点を付けています。



(注1)アリは自殺しようとしますが、その方法として、鉄道に飛び込む、崖から飛び降りる、ピストルを使う、などを考えたところ、どれも痛そうなので止めることとし、また薬を飲むのも醜い死体を発見されるのが耐えられないとして、結局何も食べないで死の訪れをベッドで待つことにします。

(注2)シタールのラヴィ・シャンカルのもとに行ったビートルズのジョージ・ハリスンのような感じがしました。

(注3)師匠から、「指は動く、音は出る、だが空っぽ」、「人生はため息、このため息をつかむのだよ」と言われます(原作では、タールの師匠はこんな厳しいことを言いませんが)。

(注4)あれほど娘・イラーヌに優しい父親が、アリが音楽家で収入が安定しないことを捉えて結婚を厳しく拒絶するというのは、昔だったら、そしてイランだったらありうることかもしれませんが、どうも唐突感が否めません。クマネズミは、拒絶する父親の背後にアリのバイオリンの師匠の影を見たのですが、うがちすぎでしょうか?

(注5)後になってアリは、テヘランの街中で、孫を連れて歩いているイラーヌと遭遇し、「覚えておりませんか?」と声をかけるのですが、そしてそのシーンは、本作の冒頭で描き出されるところ、イラーヌは「ごめんなさい、覚えておりません」と言って立ち去ってしまいます。
 さらに、まったく同じシーンはラスト近くでも繰り返されますが、その際には、別れて角を曲がったところで、イラーヌは涙を流し、「ナセル・アリ、愛しい人!」と言うのです。

(注6)ファランギースは、幼い頃からズッとアリのことが好きで、数々の縁談を断って、アリが音楽の修行から戻ってくるのを心待ちにしていたのです。
 アリが引きこもってしまったこの8日間でも、4日目(原作では3日目)に、仲直りをしようとファランギースは、アリの大好物の「鶏のプラム煮」を作って部屋に入りますが、アリの方は受け付けませんでした。

(注7)本作を制作したマルジャン・サトリピが書いたコミック『鶏のプラム煮』(渋谷豊訳、小学館集英社プロダクション、2012.2)。ところで、何故、本作の邦題は「鶏のプラム煮」ではないのでしょうか?

(注8)背景は演劇の書割調ですし、また「死の天使」アズラエルなども登場します。

(注9)主人公のアリを演じるマチュー・アマルリックは、『潜水服は蝶の夢を見る』の主演でした。

(注10)ユーモアも忘れられてはおりません。例えば、死によって思想は永遠になるとのソクラテスの教えに従って、アリは、子供たちに貴重な話を残そうとするものの、話し出した途端の息子の放屁でおじゃんになってしまいます。

(注11)壊されたバイオリンの代わりに、アリは、遠くの街にある古道具屋まで行ってストラディバリウスを購入するのですが、いくらなんでもそんなところにあの世界的銘器が埋もれているとは考えられないことです。これは、原作のタールをバイオリンに取り替えたことから来る問題でしょうが、別にたいしたことではありません〔なお、原作では、「ヤヒヤーのタール」とされていて、それは「博物館に飾っておきたいような逸品」とされているところです(P.9)〕。

(注12)同作品の公開は見逃しましたが、その後DVDを購入しました。

(注13)Wikipediaによれば、グールドは、1932年にカナダのトロントで生まれ、1946年に「正式デビュー」するも、「1964年3月28日のシカゴ・リサイタルを最後にコンサート活動からは一切手を引」き、「以降、没年までレコード録音及びラジオ、テレビなどの放送媒体のみを音楽活動の場と」し、1982年50歳で没します。

(注14)彼女はグレンにピアノを指導してもらい、そのピアノの腕前もなかなかだったようです。なお、グレンに「子鹿(fawn)」と言われていたとフランシスは証言しています。

(注15)コーネリアによれば、夫との関係は終わっていてグレンと結婚するつもりだったとのこと(ただ、夫は許しませんでした)。それでコーネリアはグレンの元にやってきますが、すぐそばに住まいを設けただけで、同居はしなかったようです。それでも、グレンは子供たちをかわいがったようで、彼らも「良い思い出しか残っていない」と言っています。
 また、「この時期のグレンは幸せそうだった」とグールドの友人のジョン・ロバーツは言います。さらに、「60年代末から70年代初め、グールドの生活は一番充実していた」、「コーネリアがトロントに来て、彼は初めて“家庭”を経験した」、「芸術と私生活の両面で一番生産的な時期だった」などと述べる関係者もいます。

(注16)どのような親密さだったのかはこの作品では分かりませんが、「彼女はグレンに“家庭”を教えようとした」と長年の友人のレイ・ロバーツは述べています。



★★★★☆



象のロケット:チキンとプラム

映画と恋とウディ・アレン

2012年11月26日 | 洋画(12年)
 『映画と恋とウディ・アレン』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)本作は、これまでに40本以上もの映画を製作してきたウディ・アレンの生涯を綴ったドキュメンタリー作品(2011年)です。
 今年76歳になる彼が、自分の生家の前で話すところから、最新公開作の『ミッドナイト・イン・パリ』の成功までの軌跡を描いています(注1)。

 本作によれば、彼は、たとえば、
・5歳の時に自分は死ぬとわかって幻滅、このゲームを抜けたいと思う(注2)、
・高校時代からジョーク(ギャグ)を作る才能を発揮していて、ライターとして新聞などに投稿(注3)、
・16歳の時に40ドルで買ったタイプライターを今でも使っている、
・その後コメディアンとして様々のクラブに出演するも(注4)、余り受けずに、ステージが嫌いになるが、そのうちに評判となって、ニューヨークタイムズの推薦をうけるまでになり、1967年にはエドサリバン・ショーに出演して全米的な人気を獲得、
・1965年の『何かいいことないか子猫チャン』の脚本を書くも、映画会社の介入でずたずたにされ苦い思いをしたことから、1969年の『泥棒野郎』以降は監督をもやるようになる、
・『アニー・ホール』より前は人を笑わせることだけを考えて制作していたところ、その作品では、人間を描きたいと思う(アカデミー賞4部門を獲得)、
などなどといった具合です。

 こうした彼の軌跡を、ダイアン・キートンなどの女優や、ショーン・ペン(注5)といった男優、そして脚本家や批評家などがいろいろ証言しながら辿っていきます。
 彼らによれば、ウディ・アレンは、夢に描いたことで実現しなかったものはないのではないか、とのこと。なにしろ、たくさんの映画を作っただけでなく、ジャズ・クラリネット奏者としても一流なのですから(注6)!
 また、彼の父親は100歳、母親は96歳まで生きていたということから、106歳まで現役を務めることになろう、などとも言われています。
 彼自身も、「ロマンスを過去のものとする年齢にはまだ達していない」などと嘯いていますから、ありうる話かもしれません。

 なお、家族に関して言うと、彼は、ダイアン・キートン(注7)との後、ミア・ファローと同居していた時、彼女の養女の韓国人女性に手を出して別れてしまいます(1992年)。ただ、ミア・ファローは、この映画に出演して色々話していますし、さらにまた、この映画の最後の方では、その養女と結婚したウディ・アレンの家族の映像も映し出されます。

(2)本作は、ウディ・アレンの映画製作の秘密がそれほど明らかにされるというわけではなく(注8)、また彼の作品について格別斬新な見解が展開されることもなく、従って通り一片のバイオグラフィーに過ぎないとも言えます。
 ただ、彼の製作した作品がいくつも紹介されるので、見逃している様々の彼の作品を見てみようかという気にさせられます。
 クマネズミの場合は、ごく初期の作品『泥棒野郎』(1969年)がTSUTAYAに置いてあったので、借りてきて見てみました。



 ウディ・アレンが扮するバージルは、前科53犯の悪党ながら、ドジばかりを踏む愛すべき存在。『泥棒野郎』は、その悪の履歴を幼いころから辿っているわけですが(注9)、様々なギャグが仕掛けられていて実に面白い作品となっています。
 吹奏楽団にチェリストとして入ったバージルが、椅子を持って吹奏楽団の行進を追いかける様子とか、銀行強盗の際に、脅迫文の綴りの誤りを指摘されるところ(注10)は本作でも取り上げられているところ、その他にも愉快な場面は満載です(注11)。
 さらに、『泥棒野郎』を見ると、その前のウディ・アレン出演作『何かいいことないか子猫チャン』(1965年:その脚本を書いた彼自身は、映画会社の介入によってドタバタ劇になってしまった作品、と本作で述べています)とか、批評家の評判が悪かったとされる『スターダスト・メモリー』(1980年:本作では、自分が一番気に入っている作品と述べています)までも見たくなってきます。

(3)渡まち子氏は、「女性を魅力的に撮ることで定評があるアレンだが、このドキュメンタリーを見ていると、アレンの作品が愛されるのは、彼自身が女性に深く愛されてきたからなのだと納得する」などとして60点を付けています。



(注1)来月日本で公開される『恋のロンドン狂騒曲』は、『ミッドナイト』よりも前に製作された作品。

(注2)学校は嫌いで(「教師は反ユダヤ的」)、呪われた日々だった、とアレンは述べます。

(注3)「週2ドル、1日50本も書いた」とアレンは、述べます。なお、その時から“ウディ・アレン”を筆名として使いだしたようです。

(注4)フォーク・グループPPMが出演していた「ビター・エンド」など。

(注5)彼は、「僕の演技についてのコメントを聞いたことがない」などと話します。

(注6)でも、ラストで、アレンは「人生の落伍者のような気持なのはなぜ」と言います。

(注7)本作で彼女は、「小さい人だなと思った、一目見た時に大好きになった、好きになってもらいたかった」などと述べています。、

(注8)彼自身は、本作で、「脚本を書くのは楽しい、アイデアを書いているときは、『市民ケーン』のような気がする、だが、撮影が始まると、そんな願望は消えうせてしまう」とか、「映画の案は無限にある、脚本はわりと早くできる」などと述べていたり、また俳優たちは、「彼は演技指導しない」などと証言したりしますが。

(注9)バージルの生年月日がウディ・アレンと同一だとすると(IMdbによります)、あるいは本作にも通じていると言えるかもしれません。

(注10)銀行に行って、窓口係に脅迫文を手渡すのですが、バージルは、gunとgub、それにactとabtを書き間違えてしまいます(どうやら「Please put $50,000 into this bag and abt natural, because I am pointing a gub at you.」と脅迫文に書いてあったようなのです:字幕では、「銃」と「銭」、「自然」と「白熱」との書き間違いとされています)。

(注11)なにしろ、バージルの両親が変装して登場し彼について証言するものの、見解が分かれてしまい夫婦喧嘩したり、最後には、バージルが脅迫した幼いころのクラスメートが実はFBIの捜査官で、そのまま刑務所入りになってしまうくらいなのですから!



★★★☆☆



希望の国

2012年11月20日 | 邦画(12年)
 『希望の国』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)このところ、『冷たい熱帯魚』、『恋の罪』、『ヒミズ』となかなか面白い作品を矢継ぎ早に製作している園子温監督が、福島原発事故を取り上げた映画だということで見に行ってきましたが、クマネズミにとっては園監督らしさが余りうかがえないなんとも退屈な作品でした。 

 物語の舞台は、東日本大震災から数年後の長島県大葉町。
 冒頭では、町の郊外にある農家の状況が牧歌的に描かれます。
 主人公の小野泰彦夏八木勲)は、認知症の妻・智恵子大谷直子)、それに息子・洋一村上淳)とその妻・いずみ神楽坂恵)と一つ屋根の下で暮らし、共同して酪農を営み、なおかつ畑ではブロッコリーを作っています。
 また、泰彦の家の前の鈴木家では野菜作りをしているのでしょう、できたホウレンソウを泰彦に引き取ってもらう一方で、父親のでんでん)は、家業を手伝いもしない長男ミツル清水優)が恋人ヨーコ梶原ひかり)をオートバイに乗せて出かけようとするのを見咎めたりします。
 さらに、大葉町の商店街の入り口には、「原発の町へようこそ」と記されたゲートが設けられており、その酒屋の主人・松崎のところへは、泰彦から「ブロッコリーを早く取りに来い」との電話が入ります。
 そんなところに、突然轟音が鳴り渡り、激しい揺れが。
 小野の家では、電気が消え、家の中がめちゃくちゃになります。
 今夜ブロッコリーを取りに来るはずの松崎とも電話が通じません。
 前の鈴木家のミツルとヨーコのオートバイは戻ってくるものの、ラジオが「震源地は長島県東方沖 地震の規模はマグニチュード8.5」と言っているのを聞くと、泰彦は町の原発のことが心配になってきます。
 さあ、この先一体どうなることでしょう、泰彦や健の家族の行く末は、……?

 本作は、原発事故により強制立ち退きを求められた人々の大変さを家族愛の中で描いているわけながら、こうしたものならばNHKのドキュメンタリーで十分なのでは、と思えてきます(言い過ぎかもしれませんが)。また、家族愛の描き方もストレートに過ぎ、演じる俳優たちもなぜか頗る新劇調になってしまっていて(注1)、クマネズミは違和感を覚えざるを得ませんでした。

 主演の夏八木勲は、『アンダルシア』とか『ロストクライム』で見ましたが、本作を見るとその演技力はさすがと思わせます。



 また、その妻を演じる大谷直子は、スクリーンで見るのは『肉弾』(1968年)とか『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)以来のような気がして頗る懐かしかったものの、セリフ回しがやや大仰な印象を受けました。

 息子の洋一に扮する村上淳は、『ヘヴンズストーリー』とか『生きてるものはいないのか』など実に様々の作品で見かけましたが、どのような役柄でもうまくこなしてしまう得難い俳優だなと思いました。




(2)本作は、いつもの園監督の作品とはどうも様子が違うなという気が強くしたので(注2)、「映画『希望の国』原作 〝半ドキュメンタリー〟小説」と帯にある小説『希望の国』(園子音著:リトルモア、2012.9)に目を通してみました。
 実際のところ、この小説は、シナリオの展開の中に、メイキングを明かす文章が織り込まれているのです(あるいは、逆に、メイキングに触れた文章にシナリオが埋め込まれていると言った方がいいかもしれません)。
 むろん、このメイキングの部分もまたフィクショナルな要素を持っているのかもしれません。でも、ここではドキュメンタリーと受け取っておくこととします。
 そうすると、次のような言葉に注意が向きます。
 「テレビでみんなが見て知っているありきたりな物語……それをもっと深く作りたい」(P.20)。
 「みんなが想像できる単純な物語を更に深めたい。かといって想像だけに頼りたくもない。 現実に起きていることを想像力で作って行こうとすれば、薄っぺらな嘘になる」(〃)。
 「自分の目と耳と手足で、具体的に知ったことを物語にしなくてはいけない」(P.21)。
 どうやら、こうした基本的なコンセプトに立ちつつ、映画の舞台を「近未来の20XX年のとある日」(P.44)の長島県とし、「ナガシマとは、長崎と広島、そいて福島の三つの地名を重ねている」(P.43)と架空の場所と日時としているようです。
 すなわち、「福島で起きた全てのこと―いろいろな場所で、色々な経験をした人々の声を、一つの家族の物語、一つの町の物語にできるだけ、集約してい」って(注3)、「具体ばかりの事実ばかりの話」、「空想や妄想の混じりっ気なしの本当にあった話」ばかりを語ろうとシナリオを作っていったものと考えられます(P.46)。

 確かに、映画で描かれている個別のエピソード自体は、つきつめていけば、どれもこれも本当にあった話に基づいているのでしょう。
 でも、現実の日時や場所を離れて描こうとすれば(注4)、逆に個別のエピソードに嘘らしさが付きまとってくのではないでしょうか(注5)?
 さらにまた、たとえ個別のエピソードが真実によるものだとしても、それを集めた作品全体が、見る者にリアリティをもって迫るとは限らないのではないでしょうか(注6)?
 それに、ここで描かれているのはすべて真実だと言われてしまうと、見る側の方は、それらをそのままパッシブに受け入れざるを得なくなってしまい、ポジティブに立ち向かう気力が失せてしまいます(また、製作者側の方でも、クリエイティブな面をギリギリまで追及する努力を払わなくなるのではないでしょうか)(注7)。

(3)渡まち子氏は、「原発事故に直面した3組の男女を描く「希望の国」。美しい映像、美しい旋律、目に見えない恐怖の中にも希望がある」として75点をつけています。
 他方、前田有一氏は、「結論として、「希望の国」は、原発問題を真剣に考え、勉強している人がみてももどかしいばかり。決して我が意を得たりとならないところが残念である。かといってニュートラルな人がこれを見て、原発や放射能について理解を深めたり、興味を持つとも思いがたい。どういう人に勧めたらいいのか、ちょいと考えてしまう」として30点をつけています。



(注1)特に、洋一といずみの夫婦が泰彦の家に最後に戻ってきた際に、庭で洋一が「原発の畜生め」などと叫ぶ場面などは、いかにも新劇調だなとうんざりしました。

(注2)2009年の『ちゃんと伝える』に雰囲気が似ているとの意見もあるようですが。

(注3)さらに園氏は、「架空の県と嘯いて、福島のことばかりを語る。そこにいろいろな町と人の気持ちを詰め込もう」などと述べています(P.46)。

(注4)園氏は、「もしも、あの日を再現しようとすれば、それぞれの場所での固有のドラマに限定される。それがもったいない、一つの場所の再現に限定すれば、色々な真実がこぼれおちてしまう」と述べていますが(P.45)。

(注5)たとえば、大きな地震に襲われた後、原発事故が心配になった泰彦は、チェルノブイリの事故(1986年)に際して購入したガイガーカウンターを物置小屋から探して測りだしますが、福島原発事故後という映画の想定時点においては、簡易の測定器が既にかなり普及していて、そんな古色蒼然とした線量計など使っている人など最早いないのではないでしょうか?

(注6)ここらあたりのことは、話がすごく飛んでしまい恐縮ながら、この間出版された『ヘンな日本美術史』(祥伝社、2012.11)において著者の日本画家・山口晃氏が、次のように述べているのと通じているように思われます。
 「そもそも、写実的な絵と云うものの「嘘」を私たちは知っています。いくら巧い絵であっても、所詮は三次元のものを二次元の中でそう「見えるように」表現しているに過ぎません。そのイリュージョンに「真実」を見るのであれば、別に写実的な描き方ではなく、漫画的な、平面的に描く方法であっても構わないはずです」、「要は、絵画と云うのは記録写真ではない訳ですから、写真的な画像上での正確さよりも、見る人の心に何がしかの真実が像を結ぶようにする事の方が大切なのではないでしょうか」(P.115)。
 この分の中の絵(あるいは絵画)を「映画」に置き換えてみたらどうでしょう。

(注7)ここらあたりのことは、映画『アルゴ』についての拙エントリの(2)でごく簡単に触れました。



★★☆☆☆




象のロケット:希望の国

声をかくす人

2012年11月15日 | 洋画(12年)
 『声をかくす人』を銀座テアトルシネマで見ました。

(1)ロバート・レッドフォードが、『大いなる陰謀』(2007年)以来5年ぶりに監督・製作した映画ということで見に行ったところ、大層地味ながらまずまずの作品だと思いました。

 物語は、1865年に起きたリンカーン大統領暗殺事件に関与したとされるメアリー・サラットロビン・ライト)の裁判を巡るもので、映画は、彼女の弁護を引き受けたフレデリック・エイキンジェームズ・マカヴォイ)を中心に描かれます。
 メアリーは、ワシントンで下宿屋を営む女性で、リンカーンを暗殺した一味に宿を提供していたことから、彼らと通じていたとされて逮捕され、裁判にかけられます。
 元々フレデリックは、弁護士ながら南北戦争に従軍し負傷したほどですから、ジョンソン上院議員(トム・ウィルキンソン)から自分に代わってメアリーの弁護をしてくれと言われたとき、はじめのうちは峻拒します。ですが、メアリーのような民間人を軍法会議(注1)で裁くことの不合理性などを議員から指摘されると、やむを得ないということで引き受けることになります。
 法廷は、案の定、はじめに結論ありきの場となっていて、まともな弁護活動はできそうもありません。最初消極的に対応していたフレデリックながら、持ち前の強い正義感から、メアリーの命を何とか救おうと努め出します。さあ、うまくいくでしょうか、……?

 本作は、クマネズミがあまり好まない純然たる歴史物ながら、国内の政治動向を優先させるべきか、はたまた憲法の精神を守るべきか、要すればどこまで法治主義(注2)を貫くべきか、という現代に通じる点(というか一層現代的とも思える点)が強調されていて、なかなか興味深いものがありました。

 主演のジェームズ・マカヴォイは、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』とか『終着駅』で見ましたが、誠実そうな風貌が正義感あふれるフレデリックにぴったりという感じです。



 また、メアリーに扮したロビン・ライトも、『50歳の恋愛白書』とか『トラブル・イン・ハリウッド』で見ましたが、それぞれ状況を踏まえた的確な演技を披露しているところ、下宿屋ながらプライドを失わない毅然としたメアリーを物凄い気迫で演じています。



 なお、何故か、昨今はリンカーン大統領に関する映画が目白押しで、本作の他にも、『リンカーン 秘密の書』が現在公開中ですし、スピルバーグ監督の『リンカーン』も来年4月に日本でも公開されるようです(注3)。

(2)原題は「The Conspirator(共謀者)」で、それは暗殺者一味に宿を提供したメアリーを指しているのでしょうが(注4)、邦題の「声をかくす人」となると、確かにメアリーのことながら、息子を助けたいがために沈黙する人ということで、両者はかなりニュアンスが異なってくる感じがします。
 それはともかく、クマネズミの理解が不十分なせいなのでしょう、よくわからないことがいくつかあります(どなたかご教示願えれば幸いです)。
イ)映画では、メアリーのみに焦点が当てられますが、リンカーン暗殺の主犯ジョン・ウィルクス・ブース(彼は、逃走の果てに射殺されてしまいます)をはじめ、捕えられた共謀者たちは誰もが民間人(俳優)と思えるところ、映画ではなぜかメアリーについてだけ民間人であることが強調されます。ジョンソン上院議員やフレデリックは、他の被告に対しては何ら関与しなかったのでしょうか?

ロ)メアリーは、本作のストーリー展開上からすれば無実なのでしょうが、映画の中では、宿泊人のジョン・ブースたちがリンカーン大統領に対して何かよからぬことを企てていることをある程度知っていたとされています(注5)。むろん、「共謀者」とまではいえないにせよ、真っ白というわけでもないのでは、とも思えるのですが?

ハ)メアリーがどんな振る舞いをしようとも、いずれにせよ陸軍側は彼女を死刑に処したいと狙っていたわけで、そのことはわかっていながら、なぜフレデリックは、息子が名乗り出さえすればメアリーは無罪になると考えていたのか、そしてなぜメアリーが息子のことを必死に隠そうとするのか、よくわからないところです(注6)。

(3)渡まち子氏は、「アメリカで初めて死刑になった女性の知られざる真実を描く「声をかくす人」。正義の在り方を改めて問う意義は大きい」として65点をつけています。



(注1)被告人は民間人ですが、スタントン陸軍省長官(ケビン・クライン)は、陸軍省の軍法会議にかけます。すなわち、その判事として9人の北軍将校を選任し、検事はホルスト総監(Judge Advocate General of the Union Army:ダニー・ヒューストン)なのです。

(注2)Wikipediaに従えば、むしろ「法の支配」というべきかもしれません。
 なお、池田信夫・與那覇潤著『「日本史」の終わり―変わる世界、変われない日本人』(PHP、2012.10)の中で、明治維新に際して、西欧型の法治主義など何も根付いていないところに、ドイツ式の精緻化された法律体系を持ち込んだがために、今や霞が関がにっちもさっちもいかなくなってしまっている、との見立てが述べられています。
 最近、田中真紀子文科大臣が、3大学の新設を認めないと記者発表しながらその後撤回した事件は、様々な論点があるところ、法治主義という点でも興味深い出来事ではないでしょうか?
 というのも、すでに審議会の答申をもらっていて、大学の建設工事もかなり進んでいたにもかかわらず、一度はそれが覆されたというのは、いくら大臣の認可事項だと法律に書かれているとはいえ、これまでの日本的な風土の中では起こりえないことでしょうから(大学の事務局までも、田中大臣の行為は“認めがたい”と言ったのも、日本は法治国家とされていながら、それはあくまでも建前にすぎないことがよく分かる感じがします)。

(注3)といって、クマネズミとしては、今のところどちらも興味を持てないところです。

(注4)メアリーが、リンカーン大統領暗殺計画に加担したのかどうか(その計画を知りながら、宿を提供したのかどうか)が裁判で争われるわけですから。

(注5)フレデリックに対して、メアリーは、当初ブースらは大統領の暗殺ではなく誘拐を計画していたと述べたりするのですから(メアリーによれば、彼らは、森でリンカーン一行を待ち伏せて誘拐し、南軍の捕虜と交換しようと企てていたところ、その計画がその後なぜか変更になったとのこと)。

(注6)加えて、法廷におけるフレデリックの巧みな弁論により(あるいは、ホルト総監が用意した検察側証人が余りにお粗末だったことにより)、検察側の有罪の論証は疑わしいものとなり、陸軍長官が選定した判事でさえ、メアリーを有罪とする者は少数となってしまったのですから、息子ジョンを法廷に引き出す必要性は少なかったのではないでしょうか?
 それに、仮に息子が名乗り出て法廷で証言したとしても、娘アンナの証言と同様に、身内の証言として価値を置かれないことになってしまうのではないでしょうか?
 また、息子は、暗殺団の一味だとして指名手配されていたのでしょうか?ただ、そうだとすると、1年後に名乗り出て裁判にかけられるものの無罪放免になってしまうことが理解できません。あるいは、暗殺が行われた時に、彼は現場にも下宿にもいなかったわけですから、無関係の人物とみなされたのではないでしょうか?とすると、そうした者が母親の裁判で証言したとしても、誰も取り合わないように思えるのですが?
 さらには、メアリーも、なにも息子について沈黙しているようなふるまいをことさらせずともよかったのではないでしょうか?

 こんな風に考えてくると、邦題の「声をかくす人」は、ややミスリードではないかとも思えてくるのですが?



★★★☆☆




象のロケット:声をかくす人

終の信託

2012年11月09日 | 邦画(12年)
 『終の信託』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)これまで周防正行監督の作品は、『シコふんじゃった』(1991年)、『Shall we ダンス?』(1996年)、『それでもボクはやってない』(2007年)と見てきていますので、この作品もと思って映画館に出かけました。

 物語の舞台は1997年のある大きな病院。
 映画の冒頭は、大きな川の堤防を、花束を持って歩く女が映し出されて、タイトル・クレジットが入り、次いで、同じ女が「検察庁」の看板が掛けられている建物に入って、事務官に待合室で待つように言われます。
 映画の大部分は、その女性、すなわち、病院で呼吸器内科医として働く折井医師(草刈民代)が、塚原検事(大沢たかお)の呼び出しを受けながらも、1時間近くも待合室で待たされている間の回想として描かれます。
 まず、彼女は、同僚の医師・高井浅野忠信)と長年不倫関係にありましたが、ある出来事がきっかけで簡単に捨てられてしまいます。



 そんなこともあってか、彼女は、自分の患者である江木役所公司)のいかにも誠実な生活態度に惹かれるものを感じて行きます〔具体的なきっかけは、江木にオペラのアリアの入ったCDを手渡されたことです〕。
 さらには、江木の小さい頃の話を聞いたりし、江木に対し好意の念が募っていきます。
 ですが、江木の病状(重い喘息)が次第に昂進し、あるとき、「その時が来たら、なるべく早く楽にしてください」「僕がもう我慢しなくていい時を決めてほしいんです」と江木に言われ、折井も「わかりました。でも江木さんがいなくなったら、私はどうしたらいいんですか」と答えてしまいます。
 そして、2001年になって、江木が、突然心肺停止状態で折井の病院に運ばれます。
 さあ、折井はどのように江木に対応するのでしょうか?
 塚原検事の呼び出しとは、……?

 恋人にすげなく捨てられて自棄的になった主人公の折井医師が、誠実な生き方をする患者の江木に心を惹かれていって、ついには大変なことをしでかすに至る流れがなかなかうまく描き出されているのではと思いました。

 主人公の折井医師を演じる草刈民代は、折井医師の純心さを実にうまく出しているだけでなく、大沢たかおの塚原検事との長時間のやりとりでも破綻なくこなしていて、元バレリーナなことを忘れてしまいます。



 また、喘息患者江木に扮する役所公司は、彼にしてはそれほどの演技力を示さずに済む役柄のような気がしたものの、それでも、喘息の発作が起きて川の堤防で倒れこむシーン(注1)などは印象深いものがありました。



 塚原検事役の大沢たかおは、40分以上に渡る折井医師の取調シーンが圧巻でした。
 映画『桜田門外ノ変』において主役の関鉄之助に扮しているのを見ただけながら、自分の信念をかたくなに信じてそれを貫こうとする人物を演じるにはうってつけの俳優だと思いました。




(2)本作は、周防監督の言によれば、「終末医療」や「検事の取調べ」などの社会的な問題を描き出すことに力点があるわけではなく、折井と江木との「ラブ・ストーリー」を描くことに主たる狙いがあるとのことです。
 でも、たとえそうにしても、折井と江木の関係はプラトニックなものである一方(注2)、「終末医療」や「検事の取調べ」といった問題は現在のところ非常に大きなものがありますから、どうしても後者の方に目が行ってしまいます。
 ただ、「尊厳死/安楽死」については、現在までのところ司法では認められていないので(注3)、塚原検事の取調べは、当局に都合のいい方向に持って行こうと誘導しているのが明らかだとはいえ、大きな問題はないのではと思われます(注4)。

 問題は、折井医師の方にあるのではと思われます。
 というのも、彼女のやることなすことがあまりにも“初心”過ぎる(良く言えば、過度に“純心”でしょうか)のではと思えて仕方がありません。
 元々、同僚の高井との関係も、彼女ほどの歳で、それも長年付き合っていれば、彼が幅広く女に手を出しているくらいなことが分かりそうにもかかわらず、現場を見つけるまで気が付かなかったとは初心過ぎる気がします。
 ですがそれはさておき、いくら、江木に好意を寄せているからといって、江木に安楽死を要請された際に、「はい」と簡単に請け合ってしまうのは、常識的にはなかなか考えにくいことではないでしょうか(注5)?

 そして、最悪なのが、チューブを外してからの折井医師の慌てふためき様(注6)。
 見ながら、クマネズミは、「アレ、この映画は“安楽死”の映画ではないの?」と思ってしまいました。
 逆にいえば、それほど江木を演じた役所公司の苦悶の演技がすごかったわけながら、一方で、チューブを外したらどのような事態になるのかについて、そして予想外の出来事にどう対処すべきかについて、折井医師が何も考えていなかったという点に酷く驚きました。
 これに関しては、このサイトの記事を書いている長尾和宏氏は、「彼女がした行為は全くの殺人と言われて返す言葉が無い」と述べています。

 とはいえ、こうした思いがけない出来事がなく、チューブを抜き取るとすぐに江木が死んでしまったとしたら、それでも刑事事件としては立件され塚原検事載取調は行われるにしても、この映画は全くつまらない作品になってしまったのではないでしょうか?
 あの出来事が描かれているからこそ、人間の死というのはなかなか簡単にはとらえられないものであり、「尊厳死/安楽死」に関しては、確かに、living willを明確化しておくことは大切にしても、決してそれだけで済まされる問題ではないかもしれない、と思いました。

(3)渡まち子氏は、「ほとんど会話劇とも言える構成で、ヒロインの人間性や死生観をくっきりと浮かび上がらせる構成は見事だ。尊厳死は「もし、自分だったら…」と誰もが考えてしまう、非常に同時代性の強いテーマで、作品としての訴求力は大きい。本作がヒロインに下す“裁き”は苦いが、このあいまいさに倫理観が揺らぐ現代日本のビター・テイストが感じられる」として65点をつけています。



(注1)とはいえ、江木に関しては、全体が折井医師の回想のはずですが、このシーンは客観的第3者の視点になってしまっています。

(注2)折井医師は、高井医師とは病院内で性的関係を持つほどですが、その関係は極秘になっていたようで、そして江木とは無論そんなことはありません。としたら、あれだけ美貌の医師ですから、周囲の男が放っておくわけはないと思われるところ、そんな兆候は微塵も見られません。暫くしたら、病院の担当部長になったほどですから、折井医師に人格的におかしなところがあるわけでもなさそうで、なんだか不思議な気がするところです。
 あるいはこうした点は、いくらフィクション仕立てとはいえ、映画の原作(朔 立木氏の同名小説)が依拠した「川崎協同病院事件」〔1998年(平成10年)〕における当事者(このサイトの記事には実名が記載されています)が実在することからくる制約なのかもしれませんが。

 なお、この当事者に対しては、このサイトの記事によれば、2011年10月から2年間の医業停止の行政処分が下されています(当事者は、事件後、病院を退職し、診療所を開いていました)。

(注3)映画の中で、塚原検事が引用する「横浜事件」とは、平成3年(1991年)に起きた「東海大学安楽死事件」でしょうが、同事件に関するWikipediaの記事によれば、「日本において裁判で医師による安楽死の正当性が問われた現在までで唯一の事件」とのことです〔その前に、「名古屋安楽死殺人事件」(1961年)がありますが、この事件には医師は関与していませんでした〕。
 そして、その判決では、「被告人を有罪(懲役2年執行猶予2年)とした(確定)」ようです〔平成(1995年)7年3月28日〕。
さらにまた、このサイトの記事でも、「今までに日本で安楽死が認められた実例はない」と記載されています。

(注4)何回か、塚原検事が大声で折井医師を威嚇するシーンがありますが、殺人容疑者に対しては、あの程度のことならやむを得ないのでは、という感じがします。

(注5)江木の方も、妻になかなかそんなことを言えないのは妻が「勇気がないから」、などと言って、妻を酷く気遣うわけで、そうした気働きが十分にできる人間なのですから、折井医師に対し、CDを貸してあげたり、「信頼している」と言ったりして好意を持っているのであれば、そんなことを言えば、折井医師を窮地に追い込む可能性があることくらい、よく分かりそうなものです。

(注6)「川崎協同病院事件」に関するWikipediaの記事では、「S医師は患者Aが死亡することを認識しながら、気道確保のため鼻から気管内に挿入されていたチューブを抜き取った。ところが、予想に反して患者Aは身体をのけぞらすなど苦悶様呼吸を始めたため、S医師は、鎮静剤のセルシンやドルミカムを静脈注射したが、これを鎮めることができず、そこで、S医師は同僚医師に助言を求め、その示唆に基づいて筋弛緩剤のミオブロックをICUからとりよせ、3アンプルを看護師に静脈注射させた。注射後、数分で呼吸は停止し、11分後には心拍も停止して患者Aは死亡した」と述べられています。
 こうした経緯もあって、本事件はいわゆる「安楽死事件」として数えられないように思われますが、それでも尊厳死を巡っての事件であることに違いがないように思われるところです。



★★★☆☆



象のロケット:終の信託

アルゴ

2012年11月05日 | 洋画(12年)
 『アルゴ』を渋谷のヒューマントラストシネマで見ました。

(1)本作は、イランのホメイニ革命の際に起きたアメリカ大使館員救出作戦(1979年)を描いたものです。

 ホメイニ革命の際に、アメリカ大使館がイラン側に占拠され、館員が人質になったところ(イラン側は、米国に逃亡したパーレビ国王の引き渡しを要求)、密かに館員のうちの6人が地下道を通って大使館脱出に成功し、カナダ大使館に逃げ込みました。
 そのことが発覚すると、その6人はおろか、人質になった残る52人の館員の命さえも危うくなるという事態。
 大使館の資料は焼却されたり裁断されたりしたものの、脱出した館員の存在が明らかになるのは時間の問題。
 出来るだけ早期に、それも極秘のうちに救出しなくてはなりません。
 CIAの救出作戦のエキスパートであるトニー・メンデスベン・アフレック)が担当者になって、様々な作戦が検討され、最後になってとんでもない案が浮上。でも、それしかないとして上層部の許可が与えられます。
 さあ、果たしてこの作戦はうまくいくのでしょうか、6人の館員の運命は、メンデスは、……?

 トニー・メンデスが考えついた作戦が奇想天外だっただけに、政府上層部の許可を得て実行するまでの紆余曲折、6人の大使館員の積極的な同意を取り付けるという困難な作業、そして実行に移された時に起こる様々の予想外の出来事というように、この映画には観客をハラハラさせる要素がてんこ盛りで、なかなかよくできた娯楽作品だと思います。

 監督で主演のベン・アフレックは、昨年の『ザ・タウン』で見ましたが、その映画と同様、事態の変化に対してあくまでも冷静に対応する主人公を的確に演じていると思いました。




(2)本作では、事実に基づいて制作されたと最初に断り書きが出ますが(注1)、映画の大筋は事実の通りだとしても、かなり脚色されているようです(注2)。
 そんなことは映画を見ていればよくわかりますから、そして描かれていることがフィクションだとわかったとしても見ている者を十分にハラハラドキドキさせますから、何もわざわざ“based on a true story”などと殊更めかしく言わずともと思うのですが(なお、この作戦のことは、18年間極秘扱いされていたとのこと)。
 逆に言えば、嘘っぽい事柄、起こりそうもなさそうな事柄をいかにも本物らしく見せるのが制作者側の腕ではないかと思うところ、“based on a true story”と言ってしまえば、いい加減なところで手を打てるのではないでしょうか(「事実なんだから仕方がない」などとして)?

(3)渡まち子氏は、「派手な銃撃戦や爆発などないのに、尋常ではない緊張感が漂う脱出劇のクライマックスは、間違いなく一級のサスペンス。隠し味は映画愛なのだから、映画好きにはこたえられない」として80点をつけています。



(注1)映画の最後に、当時のカーター大統領とメンデスや6人の館員との写真が映し出されたりします。
 また、劇場用パンフレットの「Introduction」には、「いま、すべてが真実の、命がけの“映画製作”が始まる―!」などと書かれています(映画の公式サイトの「イントロダクション」でも、「信じられなくて当然だ。だが、全てが実話なのだ」とあります)。

(注2)英語版Wikipediaの『Argo(2012 film)』の項では、「The movie is based loosely on former Central Intelligence Agency operative Tony Mendez's historical account of the rescue of six U.S. diplomats from Tehran, Iran during the 1979 Iran hostage crisis」とされていて、なおかつ「Historical Inaccuracies」の項まで設けられています。

 そこではいくつもの論点が記載されていますが、例えば、
a.カナダでは、映画が、CIAの役割をプレイアップしている代わりに、カナダ政府、特に脱出作戦におけるテイラー・カナダ大使の役割がないがしろにされているとの批判が巻き起こったようです。
 例えば、映画では、6人の脱出に際し、テヘラン空港で航空券の購入でトラブルが起きそうになりますが、実際には、テイラー大使の妻が、前もって3つの違った航空会社から3つの航空券のセットを購入していたので、こんなことは起きなかったとされています。
 また、6人がバザールに外出するなどといったことも行われなかったようです。

b.さらに、実際には、ニュージーランドとイギリスの外交官も、6人のイランからの脱出には寄与したのだ、との批判も出ているようです(ニュージーランドの外交官が、アメリカ人を空港まで車で送ったようですし、当初はイギリスの外交官がアメリカ人を匿ったようです―場所が危険なのでカナダ大使館の方に移らせたとのこと)。

c.より細かな点を見ると、その項目では次のようなことも記載されています。
・映画では、メンデスは、トルコにあるイラン大使館で入国ヴィザを取得していますが、実際にはドイツのボンにあるイラン大使館だったとのこと。
・映画では、メンデスは、単身イランに乗り込んでいますが、実際にはJulioというパートナーを連れていたとのこと。
・映画では、6人は全員、テイラー大使の公邸に滞在しているように描かれていますが、実際には、そこにいたのは2人だけで、他の4人は他のカナダ大使館員の家で暮らしていたとのこと。
・映画では、カーター政府が救出作戦をぎりぎりになって中止させ、事態が厳しい局面を迎えますが、実際には、カーターが作戦の承認を遅らせたのはわずか30分間だけのことであり、それも、メンデスがイランに向かうべくヨーロッパを出発する前のことだったとのこと。
・映画では、搭乗前の審査において、イラン側の監視兵とメンデスらの一行との間で非常に緊迫する場面が描かれていますが、実際には、技術的な問題によってフライトに遅延が生じただけで、空港における出国審査などには何の問題もなかったとのこと。



・最後の追跡の場面は、すべて作り事。

 こうした事柄は、面白い娯楽映画を製作するという観点からすれば、そしてアフレック監督も、「映画は、 “this is a true story”と言っているわけではなく、“based on a true story”と言っているのだから、“ some dramatic license”は認められる」と述べていることからすれば、どれもこれもどうでもいいことでしょう。
 クマネズミは、こうしたことを書き並べたからと言って、だからこの映画に問題があると言いたいわけでは全くありません。
 むしろ、事実とされていることとは違った様々の味付けこそが、この映画においては重要と言うべきなのではないでしょうか?
 そして、余り“based on a true story”という点を強調しすぎないようにすべきではないかと思います。



★★★☆☆



象のロケット:アルゴ

アウトレイジ ビヨンド

2012年11月03日 | 邦画(12年)
 『アウトレイジ ビヨンド』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)ビートたけし監督の作品はこれまでも随分と見ていることもあり、特に前作の『アウトレイジ』が面白かったので、遅まきながら映画館に出かけてみました。

 物語は、警察官の死体の入った乗用車を海から引き上げるところから始まります。
 どうやら、暴力団「山本会」を内偵中だった刑事が、殺されたようです(注1)。
 今や山本会は、かなりの大組織になっていて、初代会長を排除して二代目会長の座に就いた加藤三浦友和)と、大友組(組長大友ビートたけし)を裏切ってその右腕となった若頭の石原加瀬亮)とが会を牛耳っています(注2)。



 これを快く思わない古参幹部の富田中尾彬)は、関西の暴力団「花菱会」のサポートを受けようとしますが、逆にそのことを知った加藤会長(注3)に射殺されてしまいます。
 こうした動きの背後でいろいろ画策しているのが、“マル暴”刑事の片岡小日向文世)(注4)。
 前作において刑務所内で殺されたはずの大友ですが、実は生きていて(注5)、片岡は、この大友を使って加藤や石原に揺さぶりをかけようともします(注6)。



 “マル暴”刑事の片岡としては、巨大組織になった山王会の力をなんとしてでも削いで手柄を立てたいのでしょうが、果たしてそんなことが上手くいくのでしょうか、大友の運命はどうなるでしょうか、……?

 本作も、前作について申し上げたのと同様、「組の名前と組同士の関係、誰がどの組に所属しているのかさえ把握してしまえば、今回の北野作品はとても理解が容易で、映画自体を娯楽作品として楽しむことができる」ように思われます。
 そして、前作について『ソナチネ』との違いを申し上げましたが、本作のラストにおいて、ビートたけし扮する大友が、仲間の葬儀の際に、片岡から拳銃を受け取った後(注7)、山王会と花菱会の面々が打ち揃う葬儀場に乗り込みますが、『ソナチネ』において、主人公(ビートたけし)が、自分たちを抹殺しようとする組織の本拠にマシンガンを持って乗り込んでいく姿を彷彿とさせました。

 さらに、本作においては、前作同様、これまで北野作品では見かけなかった俳優とか、「ヤクザ映画には向いていなさそうな俳優」が多数見られるのも興味深いことです。
 前作との重複を避けると、花菱会の若頭に扮する西田敏行、同会幹部の中田役の塩見三省、片岡の部下の刑事を演じる松重豊、ヒットマンの高橋克典、などなど。

(2)この映画を見て、登場人物たちの怒り方に面白さを覚えました。
 なかでも、花菱会若頭の西野に扮した西田敏行とか、同会幹部の中田役の塩見三省の怒りの形相には、年期が入っているとでもいったらいいのか、すさまじいものがあります。



 これに対して、主役の大友役のビートたけしの怒りの面貌は、また違った感じです。
 怒りをそのまま派手に表に出さずに、押さえていながらも、心の中は激しく燃え立っているというところでしょうか。



 ありきたりの連想で恐縮ながら、奈良の東大寺戒壇院の四天王とか、新薬師寺の十二神将といった仏像の忿怒の面構えを思い出してしまったところです。
 例えば、西田敏行や塩見三省の怒りの様は、十二神将の「伐折羅大将」に似ているように見えます。



 また、ビートたけしの怒り方は、戒壇院の四天王のうちの「広目天」でしょうか。



 こんな変なことを思いながら本作を見るのも、また楽しいかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「ヤクザ社会の壮絶な下剋上のその先を描く「アウトレイジ ビヨンド」。ヤクザ社会と政治の世界は実に良く似ている」として60点を付けています。



(注1)山本会の若頭・石原は、国土交通省の大臣や課長にも手を伸ばしていたところ、それを内偵中だった刑事が殺されたわけながら、映画ではこの側面は余り展開しないまま終わります。
 ただ、暴力団内の若い者が警官殺しの犯人として差し出されると、片岡は、その若い者を無理矢理犯人に仕立て上げますが、こんなところは、昨今の“でっち上げ”捜査批判というところでしょう。

(注2)加藤会長は、「これからは実力主義でいく」といい、若頭・石原も「これからはデカイ金を動かす」といったりして、まるでどこかの国の金融機関の感じです。

(注3)花菱会の会長(神山繁)から、富田がやってきた旨の連絡が入ります。これは、花菱会と山王会とが盟友関係(仙台会長の時に和平協定を結んでいます)にあることによってなのですが、実は、花菱会も東京進出を狙っているようなのです。

(注4)山王会の古参幹部の富田が、花菱会の幹部と会えるようにお膳立てしたのも片岡なのです。
 その前に富田に会い、片岡は、「最近の山王会はやりたい放題で困る。加藤会長が引退し、富田さんに変わってもらいたい」などと焚き付けます。

(注5)大友が殺されたとの情報を流したのは片岡のようなのです。

(注6)若頭の石原は、大友組を裏切って山王会に入ったのですから、大友が仮出所したことを知ると恐怖に駆られます。また、加藤会長も、大友組潰しを指令した張本人なため、大友が恨みを抱いてもおかしくはありません。
 ただ、大友自体は、仮出所後は、暴力団に戻ろうとはしなかったのです。
 そこで、片岡は、大友を刑務所内で刺したはずの木村(中野英雄)―先に出所しています―を大友に料亭で引き合わせ、木村の力で大友を加藤会長に立ち向かわせようとします。

(注7)大友は、片岡から受け取った拳銃でまず片岡を撃ち殺してしまい、それから葬儀場に向かうわけですが、……。



★★★☆☆


象のロケット:アウトレイジ ビヨンド