『バクマン。』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。
(1)『モテキ』の大根仁監督の作品とのことで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、『週刊少年ジャンプ』の編集部の部屋。様々なものが机の上などにめちゃくちゃに積み上げられていて酷い有様。
そこへ電話がかかってきて編集者の服部(山田孝之)が出ます。「少年ジャンプの編集部です。はいはい、こちらで大丈夫です。正面入って受付で」。
別の編集者が、「持ち込みか。昔なら大学生、今じゃ高校生だ」と。
それから、1968年に創刊され1995年に653万部まで発行部数が伸びた『週刊少年ジャンプ』について解説が入り、「いまだ漫画界の王者」と述べた後、「この日、二人は初めて書いた漫画を編集部に持ち込む」と結ばれます。
次いで、画面は高校のクラス。
担任が話しているにもかかわらず、真城サイコー(佐藤健)はノートにマンガを描いています。そんなサイコーをクラスメイトの亜豆(小松菜奈)が見ています。

更に画面では、サイコーと高木シュージン(神木隆之介)が教室で話しています。

サイコーが描いた漫画を見ながら、シュージンが、「それにしても上手いな。よし決めた。お前と組む。漫画家になってくれ。俺には絵が下手という致命的な欠点がある。しかし、俺には文才がある。だから、俺が原作で、お前が作画だ」とサイコーに言います。
しかし、サイコーは、「断る。漫画家で飯が食えるのは10万人に1人。編集者に捨てられるだけ」と答えます。
二人が教室を出て階段を降りると、亜豆に遭遇。
ちょうどいい機会とばかりにシュージンが、「僕達漫画家になります。亜豆さんは声優を目指しているよね。俺達の漫画がヒットとしてアニメになったら、亜豆さん、声優やってくれない?」と持ちかけてしまいます。
すると亜豆は、「私も頑張る。二人も頑張って!」と応じます。
それで、サイコーは、「お互いの夢が適ったら俺と結婚して下さい」と告白してしまいます。
これに対し亜豆は、「私もずっと真城君のことを思ってきた。だから、待ってるね」と返事します。
さあ、この後物語はどのように展開するのでしょうか、………?
本作は、漫画週刊誌に自分たちの漫画が掲載されて読者アンケートで第1位をとることを夢見る少年二人を描いた漫画の実写化です。なにはともあれ、『モテキ』の監督が制作した作品ですから、マンガを書き続けるという甚だ見栄えのしない作業をヴィジュアル的に大層興味深い映像に作り込み、またW主演の二人も、『るろうに剣心』で大活躍しただけあって、染谷将太とのアクション場面なども素晴らしく、全体としてとても面白い映画に仕上がっているなと思いました(注2)。
(2)実際にも、染谷将太が扮する新妻エイジが、サイコーとシュージンとペンで闘うシーンは、『るろうに剣心 伝説の最後編』で描かれる剣心(佐藤健)と志々雄(藤原竜也)との対決を思い起こさせます(注3)。
そう思ってみれば、本作における亜豆も、『るろうに剣心』における神谷薫(武井咲)のような感じで、お互いに想い合っていながらもサイコーの仕事場には入り込んできません。
また、『るろうに剣心 伝説の最後編』における比古清十郎(福山雅治)は、本作における漫画家・川口たろう(宮藤官九郎)と似たような位置を占めているようにも思われます(注4)。
さらに本作では、W主役の二人のみならず、脇を固める俳優が豪華なことも目を引きます。
特に、そんなに出番があるわけではないものの、サイコー・シュージンのライバルでもある新人漫画家たちにもそれぞれ個性的な役柄を与えて、漫画界の現状をある程度描き出そうとしているのには感心しました(注5)。

なお、本作を制作するにあたっては、原作から読み取れる“入れ子”構造(注6)をどうするのかという点が議論の一つになったのではと思いました。ただ、映画を見てみると、その点に考慮が払われているようには思えません。
ですが、この糸井重里氏との対談を見ると、大根監督ははじめからその点をよく認識していたことがわかり(注7)、にもかかわらずあえてそこは外したように考えられます。
まあ、現在の映画界にあっては仕方のないところでしょう。
また、下記の(3)で触れる前田有一氏は、「個人的にこの原作のなにが優れていたかといえば、週刊少年ジャンプの歴史を作ってきた当事者による、リアルな回顧録そして裏事情。作り手としてのマンガ文化への愛情である。たとえば週刊少年ジャンプ編集部がどういうシステムで新連載を決め、それを発展させ、そして切るか。その競争の中でどう漫画家を見いだし、育てているか。そのトリビアとお仕事マンガとしての面白さ、ディテールが第一の魅力ではないか」とした上で、「残念なことに、映画版ではこの部分の魅力がごっそりぬけ落ちている」と述べ、「やはり映画より原作を読んだ方がいいなという印象である」と結論づけています。
でも、漫画を読んで「リアルな回顧録そして裏事情」などが十分に読み取れるのであれば、なにも映画でそれを再確認するまでもないのではないでしょうか?
映画見て楽しむということは、そうした「トリビア」とか「ディテール」を知ること(知識を身に付けることではなく)ではないように思われるところです。
(3)渡まち子氏は、「仕事、恋、友情、ライバルと、サイコーとシュージンが、悩みながら成長していくのは直球の青春映画。同時に、漫画家という特殊な職業のハウツーとしても面白くできている」として65点をつけています。
前田有一氏は、「原作の魅力のどこを映画にするかという選択眼。二人の主人公の成功物語と苦労話との比重。この2点で失敗している点が、この映画版の問題点である」として40点をつけています。
(注1)監督・脚本は、『モテキ』の大根仁。
原作は、大場つぐみ・小畑健の『バクマン。』(集英社)。
(注2)出演者の内、最近では、佐藤健は『るろうに剣心』、神木隆之介は『脳内ポイズンベリー』、染谷将太は『寄生獣 完結編』、桐谷健太は『くちびるに歌を』、新井浩文は『寄生獣 完結編』、皆川猿時は『土竜の唄 潜入捜査官Reiji』、宮藤官九郎は『ナニワ・サリバン・ショー 感度サイコー!!!』、山田孝之は『新宿スワン』、リリー・フランキーは『野火』、小松菜奈は『予告犯』で、それぞれ見ました。
(注3)もちろん、剣心と瀬田宗次郎(神木隆之介)との対決もありました。
(注4)『るろうに剣心 最後の伝説編』における比古清十郎は、剣心の育ての親であり、後に剣心が彼のもとに戻ってくると奥義を伝授します。
本作の川口たろうも、サイコーの叔父であり、幼い彼がよくその仕事場に出入りしていました(実際に、その仕事場をサイコーは引き継ぎます)。彼が幼い時分に過労で亡くなってしまいますが、漫画家の生き様をサイコーに見せつけたものと思われます。

(注5)平丸一也(新井浩文)は、お金に酷く煩い天才漫画家ですし、中井巧朗(皆川猿時)は、背景画が得意な漫画家ながら途中で撤退してしまいます。また、福田真太(桐谷健太)は、熱血の漫画家といったところ。
ただ、彼らが病み上がりのサイコーを助けるためにその仕事場に集結するシーンが設けられているのは、『週間少年ジャンプ』のキーワードとされる友情・努力・勝利を具体的に描き出すためなのでしょうが、その仕事場にアシスタントがいないことが明らかになってしまい、いったいそれで週刊誌の連載ができるのか、と見る者に思わせてしまうのではないでしょうか(少なくとも福田真太については、アシスタントを抱えている様子が描かれています)?
それに、それまでは、そういったアシスタント的な作業は誰がやっていたのでしょうか、どうやらシュージンがやっていたようですが、彼は漫画を描くのが酷く下手だったのではないでしょうか、それにシュージン自身は原案を考えるので手一杯なのではないでしょうか、といったいろいろな疑問も湧いてきます。
尤も、こうしたシーンは、ストーリ―の展開を2時間で上手く着地させるためには必要なのでしょうが。
(注6)『週刊少年ジャンプ』に自分たちの漫画が掲載されることを描いている原作漫画自体が、実際の『週刊少年ジャンプ』に連載されました。
(注7)大根監督は、自分が書いた脚本の初稿を見せがら、「あんたら(ジャンプ編集部)は、所詮、漫画家を使い捨てとしか考えていないのだ」という漫画家のセリフの後に、誰のセリフかわからないとしながら、「東宝だってそうだ、監督を使い捨てとしか考えていない。1本ヒット作を出せば3本作らせるけど、そこまでで結果を出さなければ切るじゃないか。安定しているのは山崎貴と三谷幸喜だけって、どういうことだ」というセリフがそこに書かれている旨を糸井重里氏に語っています(25分辺り)。
★★★★☆☆
象のロケット:バクマン。
(1)『モテキ』の大根仁監督の作品とのことで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、『週刊少年ジャンプ』の編集部の部屋。様々なものが机の上などにめちゃくちゃに積み上げられていて酷い有様。
そこへ電話がかかってきて編集者の服部(山田孝之)が出ます。「少年ジャンプの編集部です。はいはい、こちらで大丈夫です。正面入って受付で」。
別の編集者が、「持ち込みか。昔なら大学生、今じゃ高校生だ」と。
それから、1968年に創刊され1995年に653万部まで発行部数が伸びた『週刊少年ジャンプ』について解説が入り、「いまだ漫画界の王者」と述べた後、「この日、二人は初めて書いた漫画を編集部に持ち込む」と結ばれます。
次いで、画面は高校のクラス。
担任が話しているにもかかわらず、真城サイコー(佐藤健)はノートにマンガを描いています。そんなサイコーをクラスメイトの亜豆(小松菜奈)が見ています。

更に画面では、サイコーと高木シュージン(神木隆之介)が教室で話しています。

サイコーが描いた漫画を見ながら、シュージンが、「それにしても上手いな。よし決めた。お前と組む。漫画家になってくれ。俺には絵が下手という致命的な欠点がある。しかし、俺には文才がある。だから、俺が原作で、お前が作画だ」とサイコーに言います。
しかし、サイコーは、「断る。漫画家で飯が食えるのは10万人に1人。編集者に捨てられるだけ」と答えます。
二人が教室を出て階段を降りると、亜豆に遭遇。
ちょうどいい機会とばかりにシュージンが、「僕達漫画家になります。亜豆さんは声優を目指しているよね。俺達の漫画がヒットとしてアニメになったら、亜豆さん、声優やってくれない?」と持ちかけてしまいます。
すると亜豆は、「私も頑張る。二人も頑張って!」と応じます。
それで、サイコーは、「お互いの夢が適ったら俺と結婚して下さい」と告白してしまいます。
これに対し亜豆は、「私もずっと真城君のことを思ってきた。だから、待ってるね」と返事します。
さあ、この後物語はどのように展開するのでしょうか、………?
本作は、漫画週刊誌に自分たちの漫画が掲載されて読者アンケートで第1位をとることを夢見る少年二人を描いた漫画の実写化です。なにはともあれ、『モテキ』の監督が制作した作品ですから、マンガを書き続けるという甚だ見栄えのしない作業をヴィジュアル的に大層興味深い映像に作り込み、またW主演の二人も、『るろうに剣心』で大活躍しただけあって、染谷将太とのアクション場面なども素晴らしく、全体としてとても面白い映画に仕上がっているなと思いました(注2)。
(2)実際にも、染谷将太が扮する新妻エイジが、サイコーとシュージンとペンで闘うシーンは、『るろうに剣心 伝説の最後編』で描かれる剣心(佐藤健)と志々雄(藤原竜也)との対決を思い起こさせます(注3)。
そう思ってみれば、本作における亜豆も、『るろうに剣心』における神谷薫(武井咲)のような感じで、お互いに想い合っていながらもサイコーの仕事場には入り込んできません。
また、『るろうに剣心 伝説の最後編』における比古清十郎(福山雅治)は、本作における漫画家・川口たろう(宮藤官九郎)と似たような位置を占めているようにも思われます(注4)。
さらに本作では、W主役の二人のみならず、脇を固める俳優が豪華なことも目を引きます。
特に、そんなに出番があるわけではないものの、サイコー・シュージンのライバルでもある新人漫画家たちにもそれぞれ個性的な役柄を与えて、漫画界の現状をある程度描き出そうとしているのには感心しました(注5)。

なお、本作を制作するにあたっては、原作から読み取れる“入れ子”構造(注6)をどうするのかという点が議論の一つになったのではと思いました。ただ、映画を見てみると、その点に考慮が払われているようには思えません。
ですが、この糸井重里氏との対談を見ると、大根監督ははじめからその点をよく認識していたことがわかり(注7)、にもかかわらずあえてそこは外したように考えられます。
まあ、現在の映画界にあっては仕方のないところでしょう。
また、下記の(3)で触れる前田有一氏は、「個人的にこの原作のなにが優れていたかといえば、週刊少年ジャンプの歴史を作ってきた当事者による、リアルな回顧録そして裏事情。作り手としてのマンガ文化への愛情である。たとえば週刊少年ジャンプ編集部がどういうシステムで新連載を決め、それを発展させ、そして切るか。その競争の中でどう漫画家を見いだし、育てているか。そのトリビアとお仕事マンガとしての面白さ、ディテールが第一の魅力ではないか」とした上で、「残念なことに、映画版ではこの部分の魅力がごっそりぬけ落ちている」と述べ、「やはり映画より原作を読んだ方がいいなという印象である」と結論づけています。
でも、漫画を読んで「リアルな回顧録そして裏事情」などが十分に読み取れるのであれば、なにも映画でそれを再確認するまでもないのではないでしょうか?
映画見て楽しむということは、そうした「トリビア」とか「ディテール」を知ること(知識を身に付けることではなく)ではないように思われるところです。
(3)渡まち子氏は、「仕事、恋、友情、ライバルと、サイコーとシュージンが、悩みながら成長していくのは直球の青春映画。同時に、漫画家という特殊な職業のハウツーとしても面白くできている」として65点をつけています。
前田有一氏は、「原作の魅力のどこを映画にするかという選択眼。二人の主人公の成功物語と苦労話との比重。この2点で失敗している点が、この映画版の問題点である」として40点をつけています。
(注1)監督・脚本は、『モテキ』の大根仁。
原作は、大場つぐみ・小畑健の『バクマン。』(集英社)。
(注2)出演者の内、最近では、佐藤健は『るろうに剣心』、神木隆之介は『脳内ポイズンベリー』、染谷将太は『寄生獣 完結編』、桐谷健太は『くちびるに歌を』、新井浩文は『寄生獣 完結編』、皆川猿時は『土竜の唄 潜入捜査官Reiji』、宮藤官九郎は『ナニワ・サリバン・ショー 感度サイコー!!!』、山田孝之は『新宿スワン』、リリー・フランキーは『野火』、小松菜奈は『予告犯』で、それぞれ見ました。
(注3)もちろん、剣心と瀬田宗次郎(神木隆之介)との対決もありました。
(注4)『るろうに剣心 最後の伝説編』における比古清十郎は、剣心の育ての親であり、後に剣心が彼のもとに戻ってくると奥義を伝授します。
本作の川口たろうも、サイコーの叔父であり、幼い彼がよくその仕事場に出入りしていました(実際に、その仕事場をサイコーは引き継ぎます)。彼が幼い時分に過労で亡くなってしまいますが、漫画家の生き様をサイコーに見せつけたものと思われます。

(注5)平丸一也(新井浩文)は、お金に酷く煩い天才漫画家ですし、中井巧朗(皆川猿時)は、背景画が得意な漫画家ながら途中で撤退してしまいます。また、福田真太(桐谷健太)は、熱血の漫画家といったところ。
ただ、彼らが病み上がりのサイコーを助けるためにその仕事場に集結するシーンが設けられているのは、『週間少年ジャンプ』のキーワードとされる友情・努力・勝利を具体的に描き出すためなのでしょうが、その仕事場にアシスタントがいないことが明らかになってしまい、いったいそれで週刊誌の連載ができるのか、と見る者に思わせてしまうのではないでしょうか(少なくとも福田真太については、アシスタントを抱えている様子が描かれています)?
それに、それまでは、そういったアシスタント的な作業は誰がやっていたのでしょうか、どうやらシュージンがやっていたようですが、彼は漫画を描くのが酷く下手だったのではないでしょうか、それにシュージン自身は原案を考えるので手一杯なのではないでしょうか、といったいろいろな疑問も湧いてきます。
尤も、こうしたシーンは、ストーリ―の展開を2時間で上手く着地させるためには必要なのでしょうが。
(注6)『週刊少年ジャンプ』に自分たちの漫画が掲載されることを描いている原作漫画自体が、実際の『週刊少年ジャンプ』に連載されました。
(注7)大根監督は、自分が書いた脚本の初稿を見せがら、「あんたら(ジャンプ編集部)は、所詮、漫画家を使い捨てとしか考えていないのだ」という漫画家のセリフの後に、誰のセリフかわからないとしながら、「東宝だってそうだ、監督を使い捨てとしか考えていない。1本ヒット作を出せば3本作らせるけど、そこまでで結果を出さなければ切るじゃないか。安定しているのは山崎貴と三谷幸喜だけって、どういうことだ」というセリフがそこに書かれている旨を糸井重里氏に語っています(25分辺り)。
★★★★☆☆
象のロケット:バクマン。