映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

バクマン。

2015年10月30日 | 邦画(15年)
 『バクマン。』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『モテキ』の大根仁監督の作品とのことで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、『週刊少年ジャンプ』の編集部の部屋。様々なものが机の上などにめちゃくちゃに積み上げられていて酷い有様。
 そこへ電話がかかってきて編集者の服部山田孝之)が出ます。「少年ジャンプの編集部です。はいはい、こちらで大丈夫です。正面入って受付で」。
 別の編集者が、「持ち込みか。昔なら大学生、今じゃ高校生だ」と。

 それから、1968年に創刊され1995年に653万部まで発行部数が伸びた『週刊少年ジャンプ』について解説が入り、「いまだ漫画界の王者」と述べた後、「この日、二人は初めて書いた漫画を編集部に持ち込む」と結ばれます。

 次いで、画面は高校のクラス。
 担任が話しているにもかかわらず、真城サイコー佐藤健)はノートにマンガを描いています。そんなサイコーをクラスメイトの亜豆小松菜奈)が見ています。



 更に画面では、サイコーと高木シュージン神木隆之介)が教室で話しています。



 サイコーが描いた漫画を見ながら、シュージンが、「それにしても上手いな。よし決めた。お前と組む。漫画家になってくれ。俺には絵が下手という致命的な欠点がある。しかし、俺には文才がある。だから、俺が原作で、お前が作画だ」とサイコーに言います。
 しかし、サイコーは、「断る。漫画家で飯が食えるのは10万人に1人。編集者に捨てられるだけ」と答えます。

 二人が教室を出て階段を降りると、亜豆に遭遇。
 ちょうどいい機会とばかりにシュージンが、「僕達漫画家になります。亜豆さんは声優を目指しているよね。俺達の漫画がヒットとしてアニメになったら、亜豆さん、声優やってくれない?」と持ちかけてしまいます。
 すると亜豆は、「私も頑張る。二人も頑張って!」と応じます。
 それで、サイコーは、「お互いの夢が適ったら俺と結婚して下さい」と告白してしまいます。
 これに対し亜豆は、「私もずっと真城君のことを思ってきた。だから、待ってるね」と返事します。
 さあ、この後物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、漫画週刊誌に自分たちの漫画が掲載されて読者アンケートで第1位をとることを夢見る少年二人を描いた漫画の実写化です。なにはともあれ、『モテキ』の監督が制作した作品ですから、マンガを書き続けるという甚だ見栄えのしない作業をヴィジュアル的に大層興味深い映像に作り込み、またW主演の二人も、『るろうに剣心』で大活躍しただけあって、染谷将太とのアクション場面なども素晴らしく、全体としてとても面白い映画に仕上がっているなと思いました(注2)。

(2)実際にも、染谷将太が扮する新妻エイジが、サイコーとシュージンとペンで闘うシーンは、『るろうに剣心 伝説の最後編』で描かれる剣心(佐藤健)と志々雄藤原竜也)との対決を思い起こさせます(注3)。
 そう思ってみれば、本作における亜豆も、『るろうに剣心』における神谷薫武井咲)のような感じで、お互いに想い合っていながらもサイコーの仕事場には入り込んできません。
 また、『るろうに剣心 伝説の最後編』における比古清十郎福山雅治)は、本作における漫画家・川口たろう宮藤官九郎)と似たような位置を占めているようにも思われます(注4)。

 さらに本作では、W主役の二人のみならず、脇を固める俳優が豪華なことも目を引きます。
 特に、そんなに出番があるわけではないものの、サイコー・シュージンのライバルでもある新人漫画家たちにもそれぞれ個性的な役柄を与えて、漫画界の現状をある程度描き出そうとしているのには感心しました(注5)。



 なお、本作を制作するにあたっては、原作から読み取れる“入れ子”構造(注6)をどうするのかという点が議論の一つになったのではと思いました。ただ、映画を見てみると、その点に考慮が払われているようには思えません。 
 ですが、この糸井重里氏との対談を見ると、大根監督ははじめからその点をよく認識していたことがわかり(注7)、にもかかわらずあえてそこは外したように考えられます。
 まあ、現在の映画界にあっては仕方のないところでしょう。

 また、下記の(3)で触れる前田有一氏は、「個人的にこの原作のなにが優れていたかといえば、週刊少年ジャンプの歴史を作ってきた当事者による、リアルな回顧録そして裏事情。作り手としてのマンガ文化への愛情である。たとえば週刊少年ジャンプ編集部がどういうシステムで新連載を決め、それを発展させ、そして切るか。その競争の中でどう漫画家を見いだし、育てているか。そのトリビアとお仕事マンガとしての面白さ、ディテールが第一の魅力ではないか」とした上で、「残念なことに、映画版ではこの部分の魅力がごっそりぬけ落ちている」と述べ、「やはり映画より原作を読んだ方がいいなという印象である」と結論づけています。
 でも、漫画を読んで「リアルな回顧録そして裏事情」などが十分に読み取れるのであれば、なにも映画でそれを再確認するまでもないのではないでしょうか?
 映画見て楽しむということは、そうした「トリビア」とか「ディテール」を知ること(知識を身に付けることではなく)ではないように思われるところです。

(3)渡まち子氏は、「仕事、恋、友情、ライバルと、サイコーとシュージンが、悩みながら成長していくのは直球の青春映画。同時に、漫画家という特殊な職業のハウツーとしても面白くできている」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「原作の魅力のどこを映画にするかという選択眼。二人の主人公の成功物語と苦労話との比重。この2点で失敗している点が、この映画版の問題点である」として40点をつけています。



(注1)監督・脚本は、『モテキ』の大根仁
 原作は、大場つぐみ・小畑健の『バクマン。』(集英社)。

(注2)出演者の内、最近では、佐藤健は『るろうに剣心』、神木隆之介は『脳内ポイズンベリー』、染谷将太は『寄生獣 完結編』、桐谷健太は『くちびるに歌を』、新井浩文は『寄生獣 完結編』、皆川猿時は『土竜の唄 潜入捜査官Reiji』、宮藤官九郎は『ナニワ・サリバン・ショー 感度サイコー!!!』、山田孝之は『新宿スワン』、リリー・フランキーは『野火』、小松菜奈は『予告犯』で、それぞれ見ました。

(注3)もちろん、剣心と瀬田宗次郎神木隆之介)との対決もありました。

(注4)『るろうに剣心 最後の伝説編』における比古清十郎は、剣心の育ての親であり、後に剣心が彼のもとに戻ってくると奥義を伝授します。
 本作の川口たろうも、サイコーの叔父であり、幼い彼がよくその仕事場に出入りしていました(実際に、その仕事場をサイコーは引き継ぎます)。彼が幼い時分に過労で亡くなってしまいますが、漫画家の生き様をサイコーに見せつけたものと思われます。



(注5)平丸一也新井浩文)は、お金に酷く煩い天才漫画家ですし、中井巧朗皆川猿時)は、背景画が得意な漫画家ながら途中で撤退してしまいます。また、福田真太桐谷健太)は、熱血の漫画家といったところ。
 ただ、彼らが病み上がりのサイコーを助けるためにその仕事場に集結するシーンが設けられているのは、『週間少年ジャンプ』のキーワードとされる友情・努力・勝利を具体的に描き出すためなのでしょうが、その仕事場にアシスタントがいないことが明らかになってしまい、いったいそれで週刊誌の連載ができるのか、と見る者に思わせてしまうのではないでしょうか(少なくとも福田真太については、アシスタントを抱えている様子が描かれています)?
 それに、それまでは、そういったアシスタント的な作業は誰がやっていたのでしょうか、どうやらシュージンがやっていたようですが、彼は漫画を描くのが酷く下手だったのではないでしょうか、それにシュージン自身は原案を考えるので手一杯なのではないでしょうか、といったいろいろな疑問も湧いてきます。
 尤も、こうしたシーンは、ストーリ―の展開を2時間で上手く着地させるためには必要なのでしょうが。

(注6)『週刊少年ジャンプ』に自分たちの漫画が掲載されることを描いている原作漫画自体が、実際の『週刊少年ジャンプ』に連載されました。

(注7)大根監督は、自分が書いた脚本の初稿を見せがら、「あんたら(ジャンプ編集部)は、所詮、漫画家を使い捨てとしか考えていないのだ」という漫画家のセリフの後に、誰のセリフかわからないとしながら、「東宝だってそうだ、監督を使い捨てとしか考えていない。1本ヒット作を出せば3本作らせるけど、そこまでで結果を出さなければ切るじゃないか。安定しているのは山崎貴と三谷幸喜だけって、どういうことだ」というセリフがそこに書かれている旨を糸井重里氏に語っています(25分辺り)。



★★★★☆☆



象のロケット:バクマン。

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アントマン

2015年10月27日 | 洋画(15年)
 『アントマン』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)風邪による体調不良で一週間近く映画館に行けませんでしたが、このほどようやく回復し、それなら気軽に見ることができるものをと思って映画館に行ってきました。
 ただ、病み上がりでボーッと見ていたこともあって、今回のエントリは簡単に記すにとどめます。

 本作(注1)は、特殊なスーツを着た主人公・スコットポール・ラッド)がアリと同じサイズのアントマンに変身して、この縮小技術を軍需産業に売り込もうとするピム・テック(注2)の社長ダレンコリー・ストール)を打ち倒すというものです。



 最後には、軍事目的で作られたイエロージャケットを着たダレンとアントマンとの対決となり、なんだか、スグ前に見た『進撃の巨人』とはベクトルが逆向き、そちらでは巨人同士の闘いとなるところ、こちらでは小人同士の闘いであり、言ってみればサイズが大きいか小さいかの違いだけ、やっていることは同じではと思ったりしました(注3)。

 そんなふうな印象しか持てなかったのは、クマネズミがマーベル・スタジオの制作する映画をこれまでほとんど見ていないために(注4)、その面白さに上手く乗りきれないことによるものではないか、と思ったところです(注5)。

 それでも、話の中で、スコットの娘・キャシーとか、ピム粒子(物を拡大・縮小できる化学物質)の発見者のハンク・ピム博士(マイケル・ダグラス)やその娘のホープエヴァンジェリン・リリー)、刑務所でスコットと同じ房にいたルイスマイケル・ペーニャ)などがいろいろ絡んできて、なかなかの面白さを感じます(注6)。
 特に、前科者のスコットの別れた妻が婚約している相手が警官(ボビー・カナヴェイル)という設定は秀逸ですし、なによりスコットがキャシーに会いたいがためにハンク・ピム博士の要請に従ってアントマンになるという展開は斬新だなと思いました(注7)。



 また、最近の一つの傾向なのでしょうか、以前だったら国家が前面に登場してくる話なのではと思えるところ、『キングスマン』にしても本作にしても、民間機関止まりでストーリーが展開されているのは興味深いことだなとも思いました(注8)。

(2)渡まち子氏は、「ちっともカッコよくないポール・ラッドがアントマンとして奮闘する姿は親近感を覚えるが、スコットの仲間を演じるマイケル・ペーニャが実にいい味を出している。こんなにも個性的なヒーロー映画で勝負するマーベルとハリウッド映画のセンスに脱帽だ」として70点をつけています。
 前田有一氏は、「「アントマン」のいいところは笑いがたくさんあり、人間が描けていること。逆にいまいちな部分はあちらへ行ってしまう終盤の展開が伏線&説明不足で無理を感じさせる点。そして、小さすぎて近接戦闘に面白みがない点だ」として75点をつけています。



(注1)監督はベイトン・リード
 原作はこちらではないかと思いますが、よくわかりません。

(注2)実は、ハンク・ピム博士が設立した会社。ダレンによって乗っ取られます。

(注3)尤も、『進撃の巨人』に登場する超大型巨人は、國村隼が扮するクバルに縮小するわけであり、また本作のアントマンも普通人のスコットのサイズに巨大化するわけですから、とどのつまりは両作とも同じ事柄を描いているといえるかもしれません。

(注4)Wikipediaのこの記事において提示されている作品の内、見たのは『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』に過ぎません。

(注5)例えば、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「普通の男がスーツを着たアントマンは観客の気持ちに一番近いヒーローだ!!!」の中で、筆者の杉山すぴ豊氏は、「実は『アントマン』は、マーベル・シネマティック・ユニバース=マーベルの映画戦略の第2ステージ(フェーズ2)のトリを飾る作品」だと述べています。
 また、このサイトの記事においては、「全てのマーベル映画は同じ時系列に沿って、同じ世界の中で進んでいる」などと述べられています。

(注6)出演者の内、マイケル・ダグラスは『ソリタリー・マン』、マイケル・ペーニャは『フューリー』で、それぞれ見ました。

(注7)スコットとキャシーとの関係には、さらに、ハンク・ピム博士とその娘ホープとの確執が重なります。



 なお、上記「注5」で触れたこのサイトの記事によれば、ハンク・ピム博士は、娘のホープがアントマンのスーツを着ることには強く反対したものの、本作のエンドロールの時点で、ホープがワスプとなること(母親の後を継ぐこと)を認めたとのことです(クマネズミは、エンドロールの後の映像を見ませんでした)。

(注8)『キングスマン』はスパイ映画ながら、ロンドンにある国際的な諜報組織キングスマンは国家組織ではなく、そのボスのアーサー(マイケル・ケイン)らも国家公務員ではありません。
 他方、本作におけるハンク・ピム博士が関係するS.H.I.E.L.D.は、資産家ハワード・スタークらによって設けられた平和維持組織であり、合衆国との関係がいまいちはっきりしませんが、少なくともスコットは国家公務員ではないでしょう。



★★★☆☆☆



象のロケット:アントマン
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罪の余白

2015年10月16日 | 邦画(15年)
 『罪の余白』を渋谷Humaxシネマで見ました。

(1)予告編につられて映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、幾つも仕切られた水槽の中にいるベタ(闘魚)を見る安藤内野聖陽)とその娘の加奈吉田美佳子)。
 安藤が「オス同士だと殺し合いを始める。闘魚だからしょうがない。だから、1匹ずつ別々に入れている」と言うと、加奈は「もっと広い場所に入れれば殺し合わないかも」と答えます。
 そして、安藤が「どれにする」と訊くと、加奈は「青のがいい」と答えます。

 次いで、女子高校の教室。授業開始前の時間。
 真帆宇野愛海)が「写メ見てよ」と吉本実憂)に見せると、咲は「グロすぎ」と答えるので、真帆は「やっぱナチュラルメイクの方がいいのかも」と言います。
 また咲は、「キリストってクリスマスに生まれたんだって、すごくない?」と言ったりします。

 場面は変わって、安藤が勤める大学の駐車場。
 安藤が駐車した後に、同僚の早苗谷村美月)の車が隣に入ってきますが、危なっかしい様子なので、安藤が運転を代わって早苗の車を駐車させます。
 安藤が「週末にベタを買いました」と言うと、早苗が「今度、うちのムスメとお見合いさせません?」と尋ねるので、安藤は「オスとメスとで殺し合いをしませんか?」と答えます。

 再び、教室の場面。
 咲が加奈を見ながら、「ベランダの手すりに5秒立つの、加奈が嫌だっていうの」と言うと、真帆が「七緒の胸にある十字架焼くのは?」(注2)と尋ねます。
 加奈が黙っていると、咲は「そういうことは大声で言わないで。あたしたち、強制しているわけじゃないし。加奈どうする?一回やってみる?」と言います。

 他方、大学では、安藤が教壇に立って「ダブルバインド」について講義をしていて、「二重に縛られるということ」などと解説をしています。



 再び、教室の場面。
 加奈が、教室の外側に設けられているベランダの手すりの上に立っています。
 これを見た生徒たちが、「加奈、なにやってるの!」と叫ぶ間もなく、加奈は手すりから下に落ちてしまいます。

 事件を聞いた安藤が病院に駆けつけますが、さあ一体どうなるのでしょう、………?

 本作は、最愛の娘を亡くした行動心理学者が、事件の真相に迫ろうとして娘のクラスメートと対決するという内容で、美少女コンテストでグランプリの吉本実憂がなかなかの演技を見せるとはいえ、“驚愕の心理サスペンス”(注3)と銘打たれるほどの心理戦でもないような感じがします(注4)。

(2)心理サスペンスとして本作の鍵となるのは、安藤が大学で講義する「ダブルバインド」ではないかと思われます(注5)。
 その講義と重なるように、加奈が学校のベランダの手すりから落ちます。



 まるで、ダブルバインドの陥穽に加奈が落ちたかのごとくです(注6)。
 その前のシーンで、咲が加奈に対して「罰ゲームとして、手すりに5秒立って」と言いながらも、すぐに「強制しているわけじゃない」とも言うからですが。

 しかしながら、「ダブルバインド」というのは、Wikipediaでは、「ある人が、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれること」とされており、それを提唱したグレゴリー・ベイトソンは「その状況におかれた人が統合失調症に似た症状を示すようになる」と指摘しているとのこと。
 さて、咲が加奈に言った「手すりに5秒立って」と「強制するわけではない」という二つのメッセージは“矛盾”するのでしょうか(注7)?
 クマネズミには、咲は、自己防衛のために付言しただけであって、決して「手すりに立つな」といったわけではないように思われます。咲の言葉は、加奈にとり「とにかく手すりに立ちなさい」という命令に聞こえたに違いありません。
 ですから、加奈は、矛盾する二つのメッセージを受け取って混乱してしまい(「統合失調症に似た症状を示」して、でしょうか)、それで下に落ちたわけではなく(注8)、単に、手すりの上から下を見て立ちくらんでしまい足を踏み外しただけではないでしょうか?

 仮にそうだとすると、加奈の死は事故によるものであり、確かに、咲によるイジメが契機といえるかもしれないとはいえ(注9)、父親が形相を変えて追求するまでもない事件のように思えてきます(注10)。

 それと、咲が安藤の激しい追求を受けるに値する人物だとしたら、なぜそんな少女が形成されるに至ったかについて、何らかの背景が描かれてしかるべきではないかとも思いました。



 こうした場合、通常描き出されるのは異常な家庭環境といったところですが、本作において咲が親のことに言及するのは、真帆に「来週から親が出張するから、いつでも家に来ていい」と連絡するときだけです。
 咲は、一体どんな環境でどのように育ってきたのでしょうか(注11)?

 なお、つまらないことながら、谷村美月が演じる早苗は、安藤の同僚とされていますが、実のところ年齢が下でも安藤の上司という立場にあって、安藤は最後まで丁寧語で対応します。おそらく、早苗は抜群の能力があって若くして教授か准教授になっていて、講師の安藤よりも地位が上なのでしょう。でも、それにしては、いくら安藤に恋心を抱いているとはいえ、終始オドオドしている感じであり(注12)、とても才能に溢れる研究者のように見えないのには(注13)、違和感を覚えました(注14)。

(3)渡まち子氏は、「心理戦を期待すると肩すかしをくらうが、第13回全日本国民的美少女コンテストでグランプリに輝いた吉本実憂が、美しいルックスとは裏腹に他人を操る邪悪な少女を怪演。そのギャップを楽しめるのが一番の見どころだろうか」として50点をつけています。
 秋山登氏は、「重要なのは、この物語の背後に病的なもの、ないしはその気配が潜んでいることである。そこにはまぎれもない現代という時代の影が色濃くさしている」と述べています。
 遠山清一氏は、「(安藤と咲の)二人のバトルは原作の緊張感とテンポの良さをみごとに描いている。だが、心理バトルの果てに起きた事件の咲と真帆の心の変化と行動は割愛されている。そこにも“罪の余白”の揺らぎがあると思われるだけに惜しまれる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『スープ~生まれ変わりの物語~』の大塚祐吉
 原作は、芦沢央著『罪の余白』(角川文庫)。
 なお、原作は、2011年の第3回野性時代フロンティア文学賞受賞作。
 ちなみに、著者のインタビュー記事では、スティーヴン・キングの『ニードフル・シングス』(映画化もされているようです)に影響を受けたと述べられていますが、未読です。

(注2)七緒葵わかな)はクラスで数少ないクリスチャンであり、いつも十字架のペンダントを胸につけています。咲はそういう笹川を嫌っていたようで、また笹川の方も咲を疑いの目で見ています。

(注3)映画の公式サイトの「INTRODUCTION」より。

(注4)出演者の内、最近では、内野聖陽は『悪夢のエレベーター』、谷村美月は『白河夜船』で、それぞれ見ました。

(注5)なにしろ、主題歌が金魚わかなの歌う『ダブルバインド』なのです!
 ちなみに、歌詞はこのサイトで(ただし、この歌詞は、“ダブルバインド”のうちの“バインド”という部分に囚われた内容ではないかと思われます)。

(注6)原作においては、この「ダブルバインド」について、「どちらかに従うことが、もう一方に反することになる二つの命令。それを向けられた人間の判断力を奪う、心理的手法」と述べられています(原作では、これは大学の講義ではなく、安藤が加奈に教えたことになっています)(文庫版P.63~P.64)。
 ただ、「心理的手法」とありますが、どういうことでしょう?相手を混乱した状況に追い詰めることを目的として取られる手法だという意味でしょうか?むしろ、ダブルバインドというのは、統合失調症などの心的障害に陥った人の状況を解明するために見出された学説ではないでしょうか?

(注7)なお、咲が大手芸能マネージャー(加藤雅也)から、「君くらいのルックスの子はたくさんいる。君は何も特別な存在じゃない。むしろ、我々の方で、君を特別な存在にするんだ」と言われた後、スカウトの女性からは「あの人があれだけ最初に熱心に話すことはない」等と言われます。
 これはダブルバインド的な雰囲気を持っているように見えます。ただ、二人が咲に言っているのは「命令」のメッセージではありませんし、咲はこのプロダクションと契約しない自由を持っているのですから、グレゴリー・ベイトソンの言うダブルバインドとは異なっているのではないか、とクマネズミは思います(むしろ、「タテマエ」と「ホンネ」の概念枠で理解できる状況ではないでしょうか)。

(注8)咲が、ダブルバインドという「心理的手法」(上記「注6」を参照)を知っていて、それに基いて加奈を混乱した状況に追い詰めたというのであれば、咲には加奈に対して殺人の故意があったことになります。でも、クマネズミにはそのようには考えられません。

(注9)咲の加奈に対するイジメは、口頭によるもの(加奈の日記には、例えば「咲に死ねって言われた」と書き込まれていました)とか仲間はずれにすぎず、昨今マスコミを賑わしている自殺を引き起こすほどの酷いものではないように思えるのですが。

(注10)あるいは、加奈には自殺願望があったとも思えます(加奈の日記には、「お母さんを殺したのが私なら、私が死んでもお父さんは悲しまないかもしれない」とあり、また上記「注5」で触れている主題歌にも、「もし生まれ変わったら この鎖解いて 自由な道を歩けるといいな 小さな希望この胸に抱いて 目を閉じる…」とありますし)。
 でもそうだとしたら、咲が責任を感じる必要はそれほど大きくないでしょう。
 むしろ、咲が言うように、安藤は父親としての自分をより一層責めるべきなのかもしれません(安藤が咲と真帆を追い詰める様子は、『天空の蜂』に登場する三島が、自分の息子の自殺を周りの者が止められなかったとしてとんでもない計画を実行してしまうのに似ているような感じがしてしまいます)。

(注11)原作では咲の両親が登場しますが、咲がオーディションに合格したにもかかわらず必要な50万円を出してくれなかった件(P.42~P.44)など、ほんの僅かです。

(注12)ですから、早苗が咲と対峙した時、咲から「余計なことに干渉する暇があったら、自分のことをよく考えてみた方がいい」などと高飛車に言われてしまうのです。

(注13)早苗は、安藤と同じ心理学者であるにもかかわらず、専門的な知識に基づいたアドバイスをするなどして物語に関与するわけではありません(単に、安藤の食事の心配をするだけの存在のように見えます)。

(注14)原作の早苗は、例えば、会合で自己紹介した際に、「対人関係が苦手で心理学を志しましたが、やはりまだ人の感情を汲み取ることが上手くできずにおります」と述べますし(文庫版P.16)、さらには、「(早苗は)自分と同じ症状を持つ人たちがいることを知った。アスペルガー症候群、高機能自閉症―障害だったのだ、と思うと気持ちが少し軽くなった」とも書かれています(文庫版P.93)。
 それに、ベラを安藤に教示したのは早苗で、それで安藤はベラを購入し自宅の水槽で飼育するのですが、映画の早苗は安藤の部屋にやってきても、ベラに関心を示さないのです。
 なお、映画では冒頭にベラを映し出して、“闘い”が映画全体のキーワードとなるかのような雰囲気を醸し出しますが、その後登場するベラはいつも1匹であり、闘っている様子は映し出されません。それに、映画は、わが子の無念を晴らそうとする父親と、わが子の死に関係する少女との闘いが描かれているのであって、ベラのオス同士の闘いとは様相が違っているような気がします。



★★☆☆☆☆



象のロケット:罪の余白
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岸辺の旅

2015年10月13日 | 邦画(15年)
 『岸辺の旅』をテアトル新宿で見ました。

(1)本年度のカンヌ映画祭の「ある視点部門」で黒沢清監督が監督賞を獲得した映画というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、風通しのいい部屋で女の子がピアノを弾いています。
 教えている瑞希深津絵里)が「もう一度最初から。焦らないでゆっくりと」と声をかけます(注2)。
 次いで居間のシーン。
 女の子の母親が瑞希に、「このままで大丈夫でしょうか?先生って悠長なんですね。楽しい曲だし、曲が持つリズムと弾いているテンポが合っていないのでは。だから、間違えちゃうのではと思う」と文句をつけています。

 瑞希は、ピアノのレッスンを終えて、スーパーで白玉粉を購入し、家に戻るとキッチンで餡の入った白玉を作ります。



 すると、その背後に夫の優介浅野忠信)が。



 気付いた瑞希が「お帰りなさい」と言うと、優介が「どのくらい経った?」と訊くので、瑞希は「3年」と答え、さらに「優介、靴!」と言います。
 優介は、隣の部屋で靴を脱いで再び登場し、ガスコンロに乗っている鍋を見て「白玉だ」と言います。
 瑞希が「食べる?」と訊くと、優介が「ああ」と答えるので、できた白玉を優介に出すと、それが好物の彼は「熱い!」と言いながら美味しそうに食べます。
 そして、「急に来て驚いた?」、「俺、死んだんだよ。富山の海で。体はとっくに蟹に食われてしまった。だから、探しても見つからない」、さらには「あの頃病気だったんだ」と言うので、瑞希が「あたしのせい?病気に気づかなかった私を恨んでる?」と尋ねると、優介は「いいや、自分でも気づかなかったんだ。急に錯乱するんだ。運が悪かったんだろう」と否定します。
 瑞希が、「随分探した。お寺とか教会とか。大きな公園とかも」と話していると、「俺の部屋はそのまま?」と言って優介は消えてしまいます。

 翌朝、瑞希はベッドで目が覚め、「変な夢」と言いながら起きだしてキッチンに行くと、流しには前の晩白玉を入れた食器が置かれています。
 それを瑞希が洗っていると、再び優介が現れ、「俺と一緒に来ないか?あちこち良い場所があるんだ。ここに来るまでいろいろ世話になって」と言います。
 こうして、二人は一緒に旅に出ることになります。さあ、一体どんな旅になるのでしょうか。………?

 3年間行方不明となっていた夫が突然戻ってきて、妻に「俺は死んだよ」と告げるところから映画は始まり、行方不明中に夫が世話になったという人たちに再会する旅に一緒に出るのですが、妻を演じる深津絵里と夫を演じる浅野忠信とのコンビが素晴らしく、ファンタジーながらも二人の間の愛がどんどん高まっていく様子が十分なリアリティを持って感じられ、なんとも言えない映画の雰囲気にひたることが出来ました(注3)。

(2)映画は、原作の筋立てをかなり踏襲しています。
 原作の冒頭でも、映画と同じように、瑞希がキッチンで白玉を作っていると、突然優介が現れます。
 それも、優介の顎を瑞希が触ったりする場面が書き込まれていて(注4)、映画と同じように実体のある幻影という姿なのです。

 また、本作で優介が瑞希を連れて行く場所は、原作と同様、島影小松政夫)が営んでいる新聞販売店と、夫婦が営む中華料理店、それに老人(柄本明)と息子の嫁(奥貫薫)や孫が暮らす山奥の農家です(注5)。
 ただ、それぞれの場所で描かれるエピソードは、原作とは幾分違ったものとなっていますが。
 例えば、原作では、中華料理店の奥さん(村岡希美)の妹は姿を表さないのに対し、本作では、別館に置かれているピアノを瑞希が弾いていると、幼いころの妹が現れ練習曲を弾くのです(注6)。
 また、山奥の農家に関するものでは、原作では、その農家の仏間に集まってきた子どもたちに向かって、優介が「なぜ台風が起こるのか、なぜ水晶は六角形なのか」など「今ある世界の不思議」について話をするのですが(注7)、本作の優介は、村の集会所に集まった大人たちに対し、光は粒子であり波であることとかビッグバンといった物理学の先端的な話題を講義します(注8)。

 総じて言えば、本作は、原作とほぼ同様に描かれているとはいえ、映し出されるエピソードが映画的にかなりアクセントの付けられたダイナミックなものとなっているように思われます。それで、原作からは、瑞希と優介の関係はなんとなく淡淡しい感じがしてしまうのですが(優介がどこまでも幻影として瑞希に意識されているからでしょうか)、本作における二人の関係にはまるでメロドラマのような雰囲気が漂っているように思えてしまいます(優介を浅野忠信が演じているからでしょうか)。

 一つ付け加えると、黒沢監督は、「旅をしていて、一度だけ東京に戻る、というのは私が考えました。(原作にはない)振り返るだけではない、前へ、前へという映画にしたかったのです」と述べています(注9)。
 ただこうすると、この映画の中で起きていることは、全部瑞希の夢の中の出来事なのではないか、という感じもしてきます。というのも、上記(1)にも書きましたように、同じような雰囲気の冒頭の場面も、瑞希の夢の中の出来事ともみなしうるからですが(注10)。
 本作で描かれている実体のある幻影という矛盾した優介らの存在も、夢の中ならなんでもありということで一定の解釈がつくのかもしれません。
 でも、優介が連れて行くのが、瑞希が探し回った場所ではなく、全く知らないところだとしたら、いくら瑞希の夢の中と言ってもそんなことがあるのかと思えてきたりして、なかなか一筋縄では捉えられない作品だなと思えてきます。

(3)渡まち子氏は、「ひょうひょうとした浅野忠信、静かだがどこか凄味を感じさせる深津絵里、ひときわ存在感がある小松政夫と、役者も揃っているが、中でも短い登場シーンながら強烈な爪痕を残す蒼井優が印象的だ」として70点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「黒沢監督は「叫」などホラー映画をこれまで制作しているが、ここにはジャンル特有のおどろおどろしさは一切なく、死者と生者を並列して淡々と描き出して秀逸である。映像はまるで薄い曇りガラスを透かして見るかのような独特の雰囲気を漂わせており、生と死を共在させながら生の意味を問いかけて心に響く」として★5つ(今年有数の傑作)をつけています。
 山根貞男氏は、「黒沢作品はいつもユニークだが、今回は飛び抜けている。一陣の風とか廃虚の出現とか黒沢印もちゃんとある。味わい深い夫婦のメロドラマ」と述べています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「黒沢監督は、卓越したスタッフ、キャストの仕事を生かし、観客の思いをも包み込む豊かな映画を作り上げた」と述べています。



(注1)監督は、『リアル~完全なる首長竜の日~』や『トウキョウソナタ』の黒沢清
 脚本は、『私の男』や『夏の終わり』の宇治田隆史と黒沢清。
 原作は、湯本香樹美著『岸辺の旅』(文春文庫)。

(注2)原作では、瑞希はピアノの家庭教師を行っていません。
 この場面は、後の中華料理店でのエピソードとつながってきます(下記「注6」参照)。

(注3)出演者農に、最近では、深津絵里浅野忠信は『寄生獣 完結編』、蒼井優は『るのうに剣心 京都大火編』、柄本明は『天空の蜂』、柄本明の息子タカシ役の赤堀雅秋は『東京プレイボーイクラブ』で、それぞれ見ました。



(注4)「箸を置き、優介は顎をわずかにつきだした。左の中指と薬指をそろえて、そっと触れた。毛穴の奥から押し出されてくる無数の黒い錐を感じて、思わず手を引っ込めた」(文庫版P.10)。
 なお、その代わりに、本作では優介が靴を履いたまま家の中に現れることで、優介が実体を持っていることを表現しているように思います。

(注5)その間に、瑞希が優介の浮気相手だった朋子蒼井優)に会いに行くエピソードが入ります。本作では、朋子が「私は、他の女にとられるくらいなら、死んでしまえと思う」と瑞希に言ったりして、二人の間に火花が激しく飛び交います。
 原作でも、同じように言う場面が書かれているものの(文庫版P.141)、他にも朋子は色々なこと(他にも女がいたことなど)を話していて、逆に印象が薄くなってしまい、映画ほどのインパクトは持っていないように思われます。
 なお、このエピソードについては、下記「注10」を参照してください。

(注6)映画で妹が弾くのは、ブルクミュラーの「25の練習曲」の21番「天使の合唱」ですが(例えば、この映像をご覧ください)、原作の瑞希はショパンの夜想曲第19番を弾きます(文庫版P.112)。
 なお、本作では、中華料理店の奥さんは、「幼いころ、何度も繰り返して同じ曲を弾く妹にキレて、2度とあたしのピアノに触らないでと強く叩いてしまった」「その後すぐに妹は亡くなった」「心から妹に謝りたい」と瑞希に打ち明けるのです。
 原作でも、中華料理店の奥さんに歳の離れた妹がいてすぐに死んでしまったとされていますが(文庫版P.117)、こうした話は書かれていません。
 本作では、瑞希と優介が訪れる3箇所それぞれで幻影が現れるようにするために、わざわざこうした話を奥さんにさせたように思います(あるいは、瑞希の幼い頃とも重なってくるのでしょうか)。
 原作における中華料理店のエピソードは総じて穏やかなものですが、このように改変することによって、本作の冒頭の場面との繋がりもでき、映画に一層のアクセントが付けられたように思います。

(注7)文庫版P.151。

(注8)本作に登場する優介や島影らは幻影であり、それを描く本作はファンタジーそのものなのでしょうが、優介の話を聞いていると、実在するとされるこの世界の方も、質量のない粒であって波でもあるわけのわからない光によって見えているのであって、この世界の方もファンタジーなのではないか、とも思えてきます。

(注9)劇場用パンフレット掲載の「黒沢清監督インタビュー」より。
 確かに、本作では、瑞希が朋子と会った後東京の家に戻って、郵便物を廃棄したりする場面(さらに、冒頭と同じように、瑞希が白玉を作って机の上に置いておくと優介が出現します)が挿入されていて、そこから山奥の農家に行くエピソードにつながっていきます。

(注10)本作では、瑞希が、朋子に会った後自宅に戻り、冒頭の翌朝のシーンと同じように、朝ベッドで突然目が覚めて起き上がるところが描かれます。
 なお、瑞希が朋子と会うエピソードですが、原作では、優介失踪中の過去の思い出として描かれているのに対し(文庫版P.124以下)、本作では、上記「注9」で触れた東京に戻る際の出来事とされています(バスの中で、朋子からの手紙を瑞希の鞄の中に見つけた優介に対し、瑞希は、「今から朋子さんに会いに行きましょう」と言って、突然バスを降りてしまい、あっけにとられる優介を残して、反対車線にあるバス停に向かいます)。
 黒沢監督は、上記「注9」で触れたインタビューの中で、「全体的にはかなり原作に忠実なのですが、過去には絶対に戻りたくないというのがあって。セリフで過去のことが出てくるのはいいとしても、シーンとして過去のものが出てくるのは避けたかったんです」と述べています。
 とはいえ、原作のように、瑞希が幻影の優介と出会う以前に朋子と会っていたとするのと、本作のように、幻影の優介と出会った後に瑞希が朋子と出会うとするのとでは、描き方が微妙に違ってくるのではないかとも思えるのですが、よくわかりません(後者の場合には、瑞希は、気持ちの整理が簡単にはついていないのではないでしょうか)。



★★★★☆☆



象のロケット:岸辺の旅

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ベル&セバスチャン

2015年10月09日 | 洋画(15年)
 『ベル&セバスチャン』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)良作との情報を得て映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、鷹が悠然と空を飛んでいます。
 次いでカメラは、老人のセザールチェッキー・カリョ)と少年のセバスチャンフェリックス・ボシュエ)とが、猟銃を肩にして山の尾根を連れ立って歩いている姿を捉えます。
 遠くにカモシカもいます。

 セザールが地面を見ながら、「この足跡は狼じゃない。“野獣”だ。尾根から降りてきた。今週は、羊を3頭もやられた」と言います。



 その時、遠くで銃声が。
 撃たれたカモシカが山の斜面から落下します。
 セザールは「なんてことを!子育て中の雌を撃つなんて」と叫び、セバスチャンに「あの子を助けるぞ」と言い、現場の方に向かいます。
 セバスチャンは、セザールが支えるロープを伝って下の岩場に降りて行き、子供のカモシカを背中のリュックサックに入れて上がってきます。
 セザールはセバスチャンに「とんだ獲物を拾ったな」と言い、飼育している羊の小屋に戻ると、そのカモシカにヤギの乳を飲ませます。

 セバスチャンと別れてセザールは牛の様子を見に行きますが、途中で村人に遭遇します。
 どうも、彼らがカモシカを撃ち殺したようですが、その中の一人が「川沿いの道で“野獣”に足を噛まれた」と話します。

 一方、セバスチャンは川沿いの道を歩いて家に戻ろうとしたところ、途中で“野獣”に遭遇します。でも、“野獣”はセバスチャンを襲おうともしません。
 セバスチャンは、「セザールが君のことを“野獣”と言っているよ」、「セザールは僕のおじいさん。血は繋がっていないけど」などと話しかけます。

 こうして、セバスチャンと“野獣”(実は飼い犬だったグレートピレニーズで、セバスチャンは“ベル”と名づけます」)との交流が始まります。ですが、時は1943年7月、セバスチャンたちが住むサン・マルタン村にナチスドイツ軍が進駐してきます。
 セバスチャンとベルはどうなるのでしょうか、………?

 本作は、戦時中のフレンチアルプスを舞台に、幼い少年と犬との交流を主に描いたもので、原作が児童文学ですからまあこんなところかという点はママあるにしても、緊迫する社会情勢が物語の中に取り込まれサスペンス性が増す作りになってもいて、何より背景に映し出されるアルプスの季節ごとの風景は実に見事だなと思いました。

(2)本作にも、色々指摘できる点はあるように思います。
 例えば、外からやってきたドイツ兵ならともかく、山をよく知る村人が、授乳期のカモシカを銃で撃ち殺してしまうというのはよくわからないところです(なぜ、セザールだけが山のルールを知っているのでしょうか)。
 また、村に進駐したナチスの将校が、「峠越えしてスイス側に密出国する者(ユダヤ人でしょう)を案内する組織を潰すことについて、親衛隊の方から白紙委任された」として、「我々を甘く見るな」と村人たちを脅しつけますが、映画で見る限り厳しい捜査が行われているように見受けません(注2)。



 さらに、ベルは銃で撃たれますが、医師のギヨームディミトリ・ストロージュ)が持っている化膿止めの注射をするくらいで全快してしまうものなのでしょうか(注3)?
 それに、セザールの姪のアンジェリーナマルゴ・シャトリエ)とセバスチャンとベレがユダヤ人の一家の峠越えを道案内しますが、ドイツ軍の追跡を逃れるためにアンジェリーナは、クレバスに架かっていた雪橋を皆が渡りきった後に破壊してしまうのです。アンジェリーナと別れて(注4)単独で村に戻ることになったセバスチャン(それにベレ)は、どうやってクレバスを越えていくのでしょうか(注5)?

 でも、こんなつまらないことはどうでもいい事柄です。
 本作は、小学校1年生位の年齢の少年が、犬とか家族や村人とのふれあいを通じて成長していく様子がみずみずしく描き出されていて感動的な作品であり、その少年のセバスチャンを演じるフェリックス・ボシュエは大勢の子どもたちの中から選ばれただけあって、とても可愛らしく、かつまたその素直な演技には、子役にありがちな嫌味は少しも感じられません。



 また、クマネズミは、動物が活躍する映画は、人が調教した痕が伺えて好まないのですが、本作に登場するグレートピレニーズは、それが感じられるシーンもあるとはいえ、大部分はいかにも自然に振舞っている感じが出ていて、違和感を覚えませんでした(注6)。



 でも、本作で特筆すべきはなんといっても素晴らしい自然の景色でしょう(注7)。これは、『わたしに会うまでの1600キロ』で描き出されていたシエラネバダ山脈などの景観にも勝るとも劣らないものであり、それだけを見に映画館に行ってみてもいいくらいではないかと思いました。

(3)秋山登氏は、「特筆すべきは自然をとらえる映像の美しさである。緑の夏山と白一色の冬山、青い湖、オオカミ、カモシカ、リス……。冒頭から色彩が目に染み、詩情に酔う。ここには、自然保護活動家ヴァニエ(監督)の面目が躍如としている」と述べています。
 遠山清一氏は、「自然と動物と人間との関係にとどまらず、原作にはない戦争と人種差別の物語が挿入されシンプルな人間性の成長だけでなく理不尽な社会へと一歩踏み出していく厚みも盛り込まれている」と述べています。



(注1)監督はニコラ・ヴァニエ
 原作は、セシル・オーブリー著『アルプスの村の犬と少年(Belle et Sébastien)』(学習研究社)〔1965年に発表された原作は、日本で『名犬ジョリィ』としてアニメ化されています(1981~1982年)〕。
 原題は「Belle et Sébastien」で、続編も制作されています。

(注2)真っ先に疑われそうな知識人のギヨームは、自由に山歩きをしている感じなのです。
 どうも、村に駐留するナチスドイツ軍を率いるピーター中尉(アンドレーアス・ピーチュマン)にいわくがありそうですが、よくわかりません(なぜ彼は、ドイツ軍の捜索隊が出ていることをわざわざ峠越えを案内するアンジェリーナに密告しようとしたのでしょう?アンジェリーナの身の上を思ってのことかもしれませんが、道案内役がギヨームからアンジェリーナに代わったことは知らないはずではないでしょうか?)

(注3)銃弾の摘出をしなくてもいいのでしょうか?

(注4)アンジェリーナは、ユダヤ人一家と一緒にスイス側に入り、イギリスに行ってド・ゴールが率いる「自由フランス」に参加するとのこと。

(注5)ここらあたりに詳しいベルがセバスチャンに付いているから大丈夫ということでしょうが、いくらベルが一時野生化していたからといって、雪山まで詳しいとはとても思えないところです。それに、セバスチャンが帰り道でドイツ兵と遭遇したらどうなるのでしょう(子供だとはいえ、雪山に入り込んでいるのを疑われるでしょう)?

(注6)犬が全面的に登場する映画としては、10年ほど前に『イヌゴエ』を、渋谷東急デパートの前にあったミニシアターで見たことがあるくらいです。

(注7)この記事によれば、本作は、「フランス・アルプス山脈地方にて、夏、秋、冬の3シーズン、計13週間にわたり撮影」されたとのこと。
 なお、ロケ地は「オート・モリエンヌ・ヴァノワーズの谷(la vallée de la Haute-Maurienne Vanoise)」で、地図で調べると、スイスとの国境沿いではなく、イタリアとの国境沿い(山向うはトリノ)に位置するようです。



★★★★☆☆



象のロケット:ベル&セバスチャン
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ヴィンセントが教えてくれたこと

2015年10月06日 | 洋画(15年)
 『ヴィンセントが教えてくれたこと』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)評判が良さそうなので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台はニューヨークのブルックリン。
 冒頭は、主人公の初老のヴィンセントビル・マーレイ)が、バーで酷くつまらない冗談(注2)を話している場面。



 変わって、ヴィンセントの家のベッドルーム。
 妊娠しているロシア人ストリッパーのダカナオミ・ワッツ)とヴィンセントが体を重ねています。
 ダカが、突然、「動いた!蹴ってる、触ってみて」と騒ぎます。
 ヴィンセントは「起こしてしまってごめん」と言い、ダカも「このロクデナシのせいよ」と応じます。

 ヴィンセントはダカに金を支払おうとしますが、持ち合わせがごくわずかで、「分割払いはお断り」、「来週は2倍払ってね」とダカに言われてしまいます。



そ れで銀行に行って融資を求めるも断られ、預金を引き出そうとしても「112ドル14セントのマイナス」と素気ない返事。
 挙句に、バーで「もっと強い酒を」と頼むと、マスターに「やめときな、あんたのためだ」と断られてしまいます。

 それから、隣の家に引越しトラックが入ってきます。ところが、ヴィンセントの家の庭に植えられている樹木の枝を折ってしまい、その枝が彼の車の上に。
 トラックに同乗してきたマギーメリッサ・マッカーシー)が言い訳しにやってきますが、ヴィンセントは、自分の車の損害は引越し業者に求めると言いながらも、枝とフェンス(注3)を弁償するようマギーに要求します。



 これが、シングルマザーのマギーとその息子のオリヴァージェイデン・リーベラー)がヴィンセントと出会った最初の出来事。
 さあ、これからヴィンセントとオリヴァーらとの関係はどのように発展するのでしょうか、………?

 本作は、妻を介護施設に入れて一人で暮らしている老人のヴィンセントと、その隣の家に引っ越してきた12歳の少年オリヴァーとの交流を描いた作品で、偏屈で近所の人たちに嫌われているヴィンセントと、聡明なオリヴァーとのさまざまな会話などがなかなか面白く、さらに、いじめや認知症といった日本でも大きな問題となっている事柄(注4)が取り上げられる中で物語がコメディタッチで展開されていくので、見る者を飽きさせません。ただ、少々宗教色がかっている点に違和感を持つ向きもあるかもしれません(注5)。

(2)まず、ヴィンセントの隣に引っ越してきた少年オリヴァーが入学するのが、カトリック系の聖パトリック小学校。
 学校に行った最初の日に、転校生として担任の先生(クリス・オダウド)から紹介されますが、その後、先生から朝の祈りを先唱するよう求められます。でもオリヴァーは、「僕、ユダヤ教徒と思う」と答えます。すると、児童の間から、「私も」とか「私は仏教徒」、「神はいない」などの声が上がり、先生は、「私はカトリック。でもこの教室ではどんな宗教でもかまわない。みんなバラバラ」としながらも、「カトリックが最良」と言って、オリヴァーに朝の祈りを先唱するよう求めるのです。

 次に、授業中先生が「聖人ってなんだろう?」と尋ねると「エレミヤ」「聖ユダ」といった答えが返ってきて、さらに「最近の聖人を知らないか?」と質問し、児童の一人が「マザー・テレサ」と答えると、先生は、「そうだ。聖人というのは、世の中を良くしようと一生懸命働いた人だ」と言い、「今の時代にも身近なところに聖人はいる。探して報告すること」を宿題にします。
 そして、「私たちの周りの聖人」についての発表会において、オリヴァーが聖人として発表したのがヴィンセントなのです。

 何しろ本作の原題が「St. Vincent」なのですから、見る方も何かあるなと少しは身構えており、なるほどここに持ってくるために映画の中でいろいろ布石を打っているのだなとわかってきます(注6)。
 とはいえ、児童の父兄らが大勢見守っている発表会の会場にヴィンセントが姿を見せ壇上にまで上がるというのは少々やり過ぎのような感じがしますが、そして宗教色を感じてしまいますが、全体としてはとても感動的なシーンになっているなと思いました(注7)。

 加えて、最後のエンディングロールで、カセットウォークマンを耳にしたヴィンセントが、ガーデンチェアに寝そべって、ホースで周囲に水を撒きながら、ヘッドホンから流れるボブ・ディランの「嵐からの隠れ場所」に合わせてボソボソ歌っている姿が映像として流れますが(注8)、エンディングとしてこんな素晴らしいシーンが映し出されるのかと大層感動し、このシーンだけでも本作は見る価値があったとクマネズミには思えました(注9)。

(3)渡まち子氏は、「偏屈な中年男と孤独な少年との交流を描く「ヴィンセントが教えてくれたこと」。凸凹コンビの絶妙な距離感が最高」として70点をつけています。
 稲垣都々世氏は、「ヴィンセントだけでなく、登場人物は深刻な状況に直面しているが、みなコミカルで生き生きしている。皮肉たっぷりの笑いや、本人たちがそれと気づかずに発している負け組らしい自虐ネタで感傷など吹き飛ばしてしまう」と述べています。
 滝藤賢一氏は、「シリアスな問題を多く抱えた作品なのに、笑いに満ちているので逆に泣けてしまうんですよ」と述べています。



(注1)監督・脚本はセオドア・メルフィ
 原題は「St.Vincent」。

(注2)あるアイルランド人が、なにか仕事がないかと言うので、婦人が「ポーチ(porch)を塗る仕事がある」と答えたところ、2時間後その男が戻ってきて言うには、「終わりました。だけど、「ポルシェ(Porch)」じゃなくて「BMW」だったよ」。

(注3)実はフェンスは、ヴィンセントが自分で壊しておきながら放置しておいたもの。
 ヴィンセントはマギーに、「フェンスは20年物、車は30年物、木は俺よりも年取っている」とふっかけます。

(注4)オリヴァーは転校生として学校でいじめられますし、ヴィンセントの妻は認知症で介護施設に入っています。また、ヴィンセントは、ダフ屋のズッコテレンス・ハワード)が借金の取り立てに来た際に脳卒中で倒れてしまいます。

(注5)出演者の内、最近では、ビル・マーレイは『グランド・ブダペスト・ホテル』(ほんの少しの出番しかありませんが)、ナオミ・ワッツは『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』、テレンス・ハワードは『プリズナーズ』で、それぞれ見ました。

(注6)ヴィンセントがダカを「夜の女」としてオリヴァーに紹介したり、オリヴァーを競馬場とかバーに連れて行ったりしたことなどが、すべてオリヴァーの発表の中でポジティブなネタとして生かされています(反対に、マギーが離別した夫に対して提起したオリヴァーの親権を求める裁判では、これらのことはネガティブな要素となり、共同親権となってしまいます)。

(注7)全く余計なことながら、オリヴァーの小学校での授業風景とか発表会の様子(映像を使ったプレゼンテーションといえるでしょう)を見て、最近の日本の学校での組み体操にからむ問題(例えば、この記事)などと比較すると、小学校と中学校の違いとか、普通の授業・発表会と運動会との違いなどがあるにしても、アメリカはズッと個人主義的であり、日本はズッと集団主義的だなと感じてしまいます(あるいは、この記事が関連するかもしれません)。
 例えば、『at Home アットホーム』で、授業参観の日に隆史が作文を父兄らの前で読み上げるシーンがありますが、オリヴァーの発表内容と比べたら、内容は随分と定型的な感じがします(尤も、オリヴァーの発表が特異なものであり、クラスメートの発表にも定型的なものがあるのかもしれませんが)。

(注8)このシーンの一部はこのURLで見ることが出来ます。

(注9)金欠病は相変わらずとはいえ、ヴィンセントの周りには、ダカと生まれたばかりの赤ん坊(父親が誰だかははっきりしませんが)、それにマギーとオリヴァーが集い、一緒に食事をするようになったわけで、まさに「嵐からの隠れ場所」に彼の家がなっているように感じました(ボブ・ディランの歌の歌詞は、例えばこのサイトで)。



★★★★☆☆



象のロケット:ヴィンセントが教えてくれたこと
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天空の蜂

2015年10月02日 | 邦画(15年)
 『天空の蜂』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)東野圭吾氏の原作の映画化ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、1995年8月8日午前7時21分。
 錦重工業小牧工場で開かれる「ビッグB」納入式典に参加するために、湯原江口洋介)とその妻・篤子石橋けい)、それに長男の高彦田口翔大)の乗る車が、工場正門に到着します。
 通過するのに少々手間取ると、妻が「あんたが作ったヘリでしょ」と苛つきます。
 また、湯原が「高彦の授業参観はいつだっけ?」と訊くと、妻は「先月よ」と怒った調子で答えます。
 待合室で待機中に、高彦が近くの腰板を足で蹴っていると、湯原は「高彦、止めなさい」と怒ります(注2)。

 次いで、親がかまってくれないので退屈した高彦とその友達の恵太が、超巨大ヘリが置かれている格納庫を探検すると、ビッグBの後方搬入口が開いています。恵太は「危ないよ」と尻込みしますが、高彦が「映画でいっぱい見ているから、平気だよ」と言うので、二人はそこからヘリコプターの中に入り込みます。

 午前8時。格納庫が見える場所にいた男が、「時間が来た」と言って、手に持っていたコントローラーのスイッチを入れます。

 すると、ビッグBが自動的に動き出し、格納庫から出ていくではありませんか!
 それを見て、さらにヘリの中に高彦らが乗っているのを認めた湯原は、慌てて外に飛び出してそれを追いかけます。
 湯原は、「高彦、飛び降りろ!」と叫びますが、ヘリはどんどん先に。
 高彦は、先ず恵太を地上に投げ落とします。
 そして、自分も飛び降りようとしますが、すでにビッグBは地上を離れてしまい飛び降りることはできません。

 さあ、この先ストーリーはどのように展開するのでしょうか、………?

 1995年発表の原作に基づいているとはいえ、福島原発事故の後にこうした映画を見ると、一層リアリティが増すように思えます。それに、従来の邦画では見られないような迫力ある映像が次々に映し出され、加えて江口洋介、本木雅弘、綾野剛といった出演者が熱演していますから、なおさらです。ただ、犯人側の動機などにいまいち説得力が不足しているような気がしたところです(注3)。

(以下は様々にネタバレしていますので、映画を未見の方はご注意ください)

(2)本作の制作にあたっては、原作小説が文庫版で600ページを超える大作のため、様々な刈り込みがなされ変更点がいくつも加えられています。
 でもそうすることによって、逆に映画の面白さが増しているようにみえるのも興味深いところです。
 例えば、原作でビッグBの中に取り残されるのは、高彦ではなく友達の恵太の方なのです。ですが、映画のように高彦とすれば、父親で主役の湯原を中心にして映画が一層盛り上がるでしょうし(注4)、さらに、湯原の家庭の事情を明らかにして三島本木雅弘)と対比させることに随分と説得力が増しますし(注5)、また湯原と高彦の絆もクローズアップされて(注6)、映画版独自のラストシーンに繋がることにもなります(注7)。



 また、本作では、恵太の父親で湯原の同僚でもある山下カゴシマジロー)は、湯原がコントローラーを使ってビッグBの落下方向を変えようとする際に、「無謀すぎます」と言って止めますが、湯原は「われわれ技術者は、わずかな可能性があれば追い求め、それを積み重ねれば目的に届く」と答えて、勇躍自衛隊ヘリに乗り込みます。



 これに対して、原作では、山下が「僕が行きます」と申し出るのに対し、湯原が「いや俺が行くよ。最後は俺にかたをつけさせてくれ」と答えると、結局山下は「わかりました」と了解します(文庫版P.605)。
 あっさりと書かれている原作に比べて、映画では随分と格好いいことを主人公が口にするとはいえ、娯楽映画としてこのシーンは最後の山場への出発点であり、それほど違和感を覚えません。

 さらに、本作では、湯原が、コントローラーの入った段ボール箱を車に積み込んで工場を出ようとする三島を見咎めてその車に乗り込むと、三島は突然車を暴走させます。
 車の中で、三島は、「原子力発電所をストップさせたという映像は、すべてニセモノだ。政府は、一瞬間でも原発を停止させたくない。この国では、電気の方が人命よりも尊いのだ。お前の子供の命は賭けに使われたに過ぎない」とか、「誰も(自分の息子の)智弘を本気になって助けてくれなかった」などと、湯原が驚くようなことを口にします。
 原作でも、三島は湯原と山下をパジェロに乗せ、上に書いたような事柄を湯原や山下に語っています(文庫版P.568以下)。
 ですが、まだ湯原や山下は、三島が今回の事件に関与していることは知らないのです。ですから、湯原はコントローラーを取り返そうともしませんし(三島がそれを運び出そうとしているわけではありませんし)、また三島も車を暴走させようとはしません。
 本作におけるこの車の暴走シーンは、江口洋介と本木雅弘の車の中での闘いが半端ではなく、映画の緊迫感を高める上で大きな働きをしているように思います。



(3)とはいえ、なんでもいいから一矢報いたいと思っているように見える雑賀綾野剛)はともかくとしても、冷静な技術者である三島は、いったい何を求めているのでしょう?
 上記(2)で申し上げましたように、三島は、自分の息子・智弘を誰も救ってくれなかったことを憤っているようにみえます。
 確かに、担任の先生などがもっとよく注意していれば、自殺を未然に防止できたのかもしれません。ですが、責任は、そうした周りの人たちばかりでなく、三島自身にもあるようにみえるところです(注8)。

 それに、仮に三島の憤りが正当なものであったとしても、そのことが「都合の悪い現実から目をそむける人々に手痛い「蜂のひと刺し」を浴びせること」(注9)とされる犯人側の動機にどうやって繋がるのでしょう?
 人々が「都合の悪い現実」に目を向けたら、具体的には原発の存在に注意を払うようになれば(注10)、智弘のような自殺が起きなくなるのでしょうか?でも、智弘の自殺は、原発問題というよりも、むしろ「いじめ」問題の一環として捉えるべきものではないでしょうか?

 さらに、犯人側の動機に納得するにせよ、三島の思惑どおりビッグBを高速増殖原型炉の上に落とせば、「蜂のひと刺し」となって国民に注意を促す結果をもたらすのでしょうか?
 でも、なにより三島自身が、上記(2)で書きましたように、「原子力発電所をストップさせたという映像は、すべてニセモノだ」と言って、政府の対応が一筋縄のものでないことを熟知しているはずです。
 それに、ビッグBが高速増殖原型炉の上に墜落したとしても、実際には大したことが起こらないとしたら(注11)、政府がこの事件を出来る限り矮小化して、原発自体は何の問題もないという姿勢をとり、また世の中もすぐにこの事件のことを忘れてしまうことも、三島はよくわかっていたのではないでしょうか?

(4)渡まち子氏は、「原発の是非に答をだすよりも、あくまでも問題提起という立ち位置に徹したことが、この社会派エンタメ映画を意義あるものにしている」として80点をつけています。
 前田有一氏は、「映像化不可能と誰もが思った原作の強烈な批判精神を、まったく薄めることなく2時間18分間にたたき込んだ映画版「天空の蜂」は、近年の原発問題を扱った映画の中ではダントツの最高傑作である」として95点をつけています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「真の危機を知る者の声はなぜ届かないのか? それを徹底した娯楽活劇として描く」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。
 読売新聞の大木隆士氏は、「福島第一原子力発電所の事故による被害の深刻さを経験した現在、その危機がよりリアルに迫る。社会性を持ちつつ、見事なエンターテインメント作品に仕上がった」と述べています。



(注1)監督は、『くちづけ』や『悼む人』などの堤幸彦
 脚本は楠野一郎
 原作は東野圭吾著『天空の蜂』(講談社文庫)。

(注2)なお湯原が、待機中に同僚に対して電話で、「高彦はあいつに育ててもらえばいい」とか、「俺があいつの父親になれる可能性はゼロだ」などと話し、それを高彦が耳にするというシーンがあります。湯原の家庭が酷い有様になっていることはこの電話でよく分かりますが、わざわざ電話で声高に話すことなのかなという気もします。

(注3)出演者の内、最近では、江口洋介は『るろうに剣心 伝説の最後編』、本木雅弘は『日本のいちばん長い日』、三島の愛人役の仲間由紀恵は『トリック劇場版 ラストステージ』、綾野剛は『ピース オブ ケイク』、刑事役の柄本明は『0.5ミリ』、所長役の國村隼は『at Home アットホーム』、向井理は『娚の一生』で、それぞれ見ました。

(注4)逆に、原作の文庫本の「解説」で真保裕一氏が述べているように、「(原作者の)東野圭吾は、過剰な演出を極力排除することで、静かで力強い物語を私たちに語ろうとしている」ように思われます(P.629)。

(注5)原作でも湯原とその妻・篤子との関係は描かれていますが、せいぜい「自分が篤子を選んだことは正解だったが、彼女のほうはあまり良いクジを引かなかったのではないかというのがこれまでの生活を振り返っての感想だった」と湯原の気持ちが記されているくらいです(文庫版P.18)。
 他方、本作においては、上記(1)や「注2」にも少々書きましたが、夫婦の関係が別居寸前のところまで来ているように思われます。

(注6)原作では、恵太はビッグBの無線を使って地上とやり取りをしますが(文庫版P.42とかP.214)、本作の高彦は、密かに習得していたモールス信号を使って地上の湯原と交信をします。
 原作通り無線とするよりもモールス信号による交信とする方が、ヴィジュアル的には盛り上がります(とはいえ、今時、親子でモールス信号を習得しているといったような状況は余り考えられないでしょうが)。
 なお、上記(1)で「高彦が近くの腰板を足で蹴って」と書いたのは、モールス信号で「ココニイル」と高彦が打っていたところ、湯原の方で気が付きませんでした。

(注7)大きくなって航空自衛隊の自衛官になった高彦が、「この国に命をかけて守るものがあるか?」と問う父親に対し、モールス信号で「ココニイ(ア)ル」と手で叩く場面が描かれます。
 なお、蛇足ながら、ラストのシーンが、安保法制が成立して出番が増えそうな自衛隊に対する応援シーンのようにも見えたのは、法案成立後に本作を見たクマネズミの目の曇りによるものでしょうか(尤も、安保法制の議論の中で航空自衛隊の役割については余り議論がなされなかったような感じですが)。

(注8)三島自身が、原子炉の開発・設計に関与していなければ、あるいは、関与していても家族の理解を得るようにしていれば、さらには、理解を得られずとも智弘の行動等に十分に注意していたら、智弘の死はなかったかもしれません。

(注9)劇場用パンフレット掲載の「OPERATIONS」より(P.44)。

(注10)まさか、三島は、誰の周りにも転がっているあまたの「不都合な現実」すべてに目を向けろ、と要求しているわけではないでしょう。

(注11)ビッグBに積み込まれている爆弾はダイナマイト10本に過ぎませんでした。
 なお、ラストでビッグBが突然爆発しますが、このダイナマイトが爆発したようには見えませんでしたが。



★★★☆☆☆



象のロケット:天空の蜂

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