映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

火花

2017年12月22日 | 邦画(17年)
 『火花』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)芥川賞受賞作の映画化ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、漫才をやっている声がします。
 「山下、起きてるか?」「うん」「昨日の漫才バトル、見たか?」「見たよ」「◯◯が一番面白かったな」「俺、漫才で天下取ってフェラーリ買いたい。もう一つは、……」「何や、忘れたのか?」「うん」「お前、やっぱアホやな」。
 画面では花火が2つ上空に上がっていきます。

 次の画面は、熱海の砂浜。神谷桐谷健太)が、体を地面に埋め、頭だけを出して、口にはタバコを咥えています。
 神谷が首を動かし周りを見ていると、子供が寄ってきて、「大丈夫ですか?」「何やってるんですか?」「なぜタバコを?」などと尋ねます。
 そのそばには、神谷の衣服などがキチンと並べて置いてあります。

 場面は変わって、熱海の商店街。人々が歩いていて、その奥に舞台が設けられていて、漫才コンビ「スパークス」の徳永菅田将暉)と山下川谷修二)がネタをやっています。



 「僕、徳永です」「僕、山下です」「覚えて帰ってください」「ペット、飼いたい」「インコがいいよ」「どんなことするの?」「ちょっとずつでも年金払っときや」。

 そこへバイクに乗った若者たちが、爆音を立てて舞台の近くにやってきます。
 スパークスは漫才を止めます。
 すると、バイクの若者が「なんか面白いことやれよ」と怒鳴ります。
 徳永は山下に「悔しくはないか」と言い、「インコは貴様だ」と言い放つと、山下は「どうもありがとうございました」と収め、舞台を降ります。

 次に出る「あほんだら」の神谷が「仇とったるわ」と徳永に言って、大林三浦誠己)とともに舞台に上がり、ネタを披露します。



 「今日は、花火大会やな」(花火がドーンと打ち上げられます)「お客さん、キョトンとしてはる」。
 「花火は、音を楽しむものやない」。
 そして、神谷はバイクの若者たちを指して、「地獄」「なんや、罪人ばっか」と言います。
 大林は若者らと喧嘩になりますが、他方で、神谷は聴衆を指差しながら「地獄、地獄、地獄」と言い続け、聴衆の中に若い女性と子供の二人連れを見つけると、「楽しい地獄」と言います。
 こんな光景を徳永は見守り続けます。

 主催者は、神谷らに対し、「君たち、地方の興行を舐めているんじゃないか」「地獄、地獄って、何が面白いのか」「ともかく、二度と呼ばないから」と怒ります。
 神谷は、「お疲れ様でした」と言って、その場を立ち去ります。

 次いで、徳永は神谷と居酒屋で酒を酌み交わして弟子にしてもらいます。



 ここらあたりが本作の始めの方ですが、さあこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、お笑タレントの又吉直樹氏の芥川受賞作を、これまたお笑いタレントの板尾創路監督のもとで映画化したもの。コンビを組んでデビューしたもののさっぱり売れないお笑い芸人が、先輩芸人の漫才を見て弟子入りして後を付いていくというお話。お笑いを題材にしているからといってコメディ作品ではなく、お笑いとは何かを巡るむしろ観念的な映画というべきでしょうか。原作に書き込まれている頭でっかちな部分をもっと削っても良かったのではとも思いました。

(2)漫才を描いている映画作品としては、『漫才ギャング』とか『エミアビのはじまりとはじまり』がクマネズミには想起されますが、前者では、佐藤隆太上地雄輔とのコンビ、後者では前野朋哉森岡龍のコンビが、皆俳優でありながら本職さながらの達者な芸を披露します。
 これに対し、本作の漫才コンビは、「スパークス」にしても、「あほんだら」にしても、一人は現職のお笑いコンビの一方だったり、元芸人だったりします。
 確かに、本職となると、自ずと俳優が演技で演るものとは違ってくるとはいえ、本作における菅田将暉にしても桐谷健太にしても、本当によく演っていると思いました。
 そうした二人の頑張りが、2時間の本作を最後まで引っ張っていっているのでしょう(注2)。

 さて、本作では、徳永が神谷に心酔して、弟子入りを申し込みますが、受け入れるにあたって神谷は、「俺の伝記を作って欲しい」「お前の言葉で、俺について、今日見たものを、生きているうちに書いてほしい」という条件をつけます(注3)。
 徳永は、熱心に徳永の行動や言ったことをノートに付け、そうしたノートが何冊もたまります。

 ところで、先般の日曜日(12月3日)の夜にテレビ朝日から放映された「M1グランプリ」を見ました。全国の予選などを勝ち抜いてきた10組が、最終的に競い、優勝者には賞金1000万円が与えられるとのこと。
 お笑い番組を余り見るわけではないので、登場した10組は初めてのコンビばかりでしたが、どのコンビもなかなかレベルが高いなと驚きました。
 結局、結成15年目の「とろサーモン」が優勝しました。

 ただ、アレっと思ったのは、5番目にネタを披露したマヂカルラブリーと10番目にやったジャルジャルです(注4)。
 マヂカルラブリーのネタは、ボケの野田が「野田ミュージカル開催中!」と言って動き回るので、ツッコミの村上が歌を聞けると思っていたら、単にミュージカルを見ている観客を演じているというもの。
 また、ジャルジャルのネタは、福徳が「今から変な校内放送をやる」「ピン、ポン、パン、ポーンのへんなやつやるから盛り上げてほしい」と言って、後藤が「うん」と頷くと、あとは「ピン、ポン、パン、ポーン」の様々に変形したものが福徳から繰り出されます。
 マヂカルラブリーのネタについては、審査員の上沼恵美子が酷評したこともあり、順位は10番目となり、ジャルジャルのネタについても、審査員の松本人志は最高店の95点をつけたものの、6位に終わりました。

 ここでこの2組に触れたのは、彼らのやったネタは、クマネズミには、本作で神谷が言っているネタになんだか近いものではないのかと思えたからです。
 特に、ジャルジャルが何度も繰り返す校内放送の「ピン、ポン、パン、ポーン」は、神谷が、熱海の舞台で披露した「地獄、地獄、地獄」に似通っているのではないか、またマヂカルラブリーの野田が一人で演じているミュージカルは、神谷がその後で演じているものに、ある程度類似しているのでは、と思えました。

 クマネズミには、本作で神谷が笑いについて述べていることや(注5)、さらには舞台で演っていることは(注6)、どうも頭でっかちで、現実の漫才では見かけることができないものでは、と思っていたのですが、もしかしたら、実際の漫才界でも、神谷が言っていることをある程度実践しているコンビがいるのかもしれないと思って驚いた次第です(注7)。

 そんなことはともかく、本作は、全体としてはなかなか興味深い作品ながらも、本作の構成としては、スパークスの最後の漫才で盛り上がったところでジ・エンドにすることもありうるのではないか(注8)、その後の神谷の話などはかなり抽象的なものでなくもがなではないのか、などと思ったりしました(注9)。

 また、本作では、神谷を一つの手がかりとして徳永の青春時代を描いているわけながら、神谷や、徳永の相方の山下には女性が添えられているにもかかわらず、徳永には女性の気配が殆どないのはどうしたことなのかな(注10)、とも思いました。

(3)渡まち子氏は、「漫才界から多くの人材が参加し、大御所のビートたけし(主題歌の作詞・作曲)まで動員した本作は、お笑いの世界に生きるすべての人々に向けた、ほろ苦くも切ない応援歌なのである」として65点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「エンディングで主演2人がうたう、ビートたけしの「浅草キッド」がそうであるように、これはすぐれた青春映画であると同時に、すべてのお笑い芸人たちにささげる歌でもあるだろう」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 森直人氏は、「まっすぐに役者の芝居をとらえ、自己実現に向けての模索の軌跡をフィクションとして紡いでいく。その愚直な演出が、登場人物たちの不器用な生き方と相まって、言わば男料理の優しい味。表現の微熱に浮かされた人間の宿業が、愛おしさと共によく伝わってくる」と述べています。
 毎日新聞の細谷美香氏は、「夢と現実、売れることと売れないこと、才能の有無といった普遍的なテーマに、監督、俳優ともに正面から誠実に向き合った青春映画だ」と述べています。



(注1)監督は、『板尾創路の脱獄王』や『月光ノ仮面』の板尾創路
 脚本は、『I’M FLASH!』の豊田利晃と板尾創路。
 原作は、又吉直樹著『火花』(文春文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、菅田将暉は『銀魂』、桐谷健太は『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、木村文乃は『追憶』で、それぞれ見ました。

(注2)とはいえ、『漫才ギャング』は前篇漫才が溢れかえっていますし、また『』はかなりファンタジーの色合いが濃い作品になっています。これに対し、本作は、コミカルなところがないわけではないながらも、全体のトーンは至極地味なものとなっています。

(注3)徳永が書き留めた何冊ものノート(「神谷日記」)は、実際には、神谷の単なる行動記録でしかなく、それだけでは「伝記」のごく一部にしかならないように思われます(伝記となれば肝心の、父母を始めとする家族状況とか、小さいときからこれまでの神谷の履歴などには何も触れられていないのです)。

(注4)それぞれのネタは、下記で見ることができます。
 マヂカルラブリーのネタ
 ジャルジャルのネタ

(注5)実際には、神谷は、余りまとまったことを言っていませんが、例えば、「いつでも思いついたことをやっていい」と言ったりします。
 また、徳永は、「神谷さんの相手は世間じゃない。むしろ、世間を振り向かせようとしていた」と語りで言いますが、それは神谷の姿勢を的確に言い表わしているのでしょう。
 さらに、スパークスが最後のネタで、「世界の常識をくつがえすような漫才を演る」と言って「思っていることと逆のことを全力で言う」という喋りをし、「どうかみなさまも適当に死ね」「死ね、死ね、死ね」と叫んだりするのは、神谷の精神の表れではないかと思われます。

(注6)例えば、「あほんだら」は、ある漫才コンクールの決勝戦で、予選で演ったネタを録音したものをスピーカーから流しながら、実際にはクチパクめいたことをするという常識破りのことをします(芸人らや観客などには受けましたが、審査員は酷評します)。
 また、相方の大林が喋っている間、神谷は喋らずに、いろいろのポーズを決めて立っているだけというのもあります。

(注7)もちろん、神谷の演っていることは荒削りすぎ、「M1グランプリ」の決勝戦に勝ち残るものは遥かに洗練されていて、比較すること自体無意味なのかもしれませんが。

(注8)無論、熱海の花火で幕が上がる本作が、熱海の花火で幕が下りるのは、全体の構成の調和が取れて格好がいいのですが、何もそんな格好にとらわれなくともかまわないのではないでしょうか?

(注9)神谷は、芸人をやめて不動産会社のサラリーマンになっている徳永に、「芸人は引退などない」「徳永は、ずっと劇場で人を笑わせてきたわけだが、それは特殊能力を身につけたということ」「それは、ボクサーのパンチと一緒。ただし、芸人のパンチはボクサーと違って、人を殺さずに人を幸せにする」とか、「漫才は2人だけではできない」「周りに漫才師がいっぱいるからできる」「大会で優勝するコンビだけだったら、面白くないだろう。負けたコンビがいて初めてそいつらがいるんだ」などと喋りますが、至極抽象的な話ではと思います。
 徳永が言う引退というのは、お笑いを生活の糧にすることをやめるという至極現実的なことのはずなのに、神谷は、頭で考えたお笑いというものを問題にしているのではないでしょうか。

(注10)徳永は、神谷と一緒に暮らしている真樹木村文乃)を憧れの目で見ていますが、自分からアプローチすることはありません(なお、真樹は、神谷の愛人というよりも、神谷の方が真樹の間借り人にすぎなかったようですが)。





★★★☆☆☆



象のロケット:火花



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DESTINY鎌倉ものがたり

2017年12月20日 | 邦画(17年)
 『DESTINY鎌倉ものがたり』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)予告編を見て面白いと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、新婚旅行からの帰りなのでしょう、主人公の一色正和堺雅人)とその妻の亜紀子高畑充希)がクラシックなベンツに乗っています。
 亜紀子が窓の外をボーッと見ているので、正和が「どうした?」と尋ねると、亜紀子は「できますかねー、作家の奥さん」「まさか、先生と結婚するなんて」と答え、それに対し正和は「僕は、信じられないくらい幸せだ」と応じます。

 正和が運転する車は、大仏のそばの路を通り、片瀬海岸から江ノ電の踏切を渡り、坂道を上っていきます。
 漸く家に着き、2人は車を降ります。
 亜紀子が「これからは、先生と腕を組んで歩かなきゃ」「この街は、なんだかゆっくりしているわ」などと言うと、正和は「東京とは時間の進み方が違う」と応じます。



 ここでタイトルが流れ、場面は正和の書斎。
 正和は、原稿にペンを走らすも、クシャクシャにしてしまいます。
 その時、雑誌編集者の本田堤真一)が玄関先に現れます。
 亜紀子は「困ります」と言って、書斎に行こうとする本田を阻もうとしますが、本田は「先生、仕上げてもらわないと」と大声で言いながら、上がり込んで廊下を進みます。
そして、亜紀子が「どうですか?」と書斎に顔を出すと、正和は「見ればわかるでしょ」「作家に向いてないんじゃないかな」と苛々します。
 正和が「お酒を飲ませて眠らせてしまおう」と言うと、亜紀子は「二日酔いだそうです」と答えます。すると、正和は「亜紀子が冷たいから書けないんだ」となおも八つ当たりします。

 応接室で待つ本田に対し、亜紀子は「もうすぐですから」と告げて、もう一度書斎に戻ると、正和は鉄道模型を動かしています。
 それを覗き見した本田が「先生、もうすぐですね」と言うと、正和は「本田さん、分かってますね」と応じます。



 本田は「玉稿を受け取ります」と、正和から原稿を受け取ると、「あんな歳の離れた中村君と結婚するとは」などと呟きながら帰っていきます。
 本田を門の先まで出て見送ったミ正和と亜紀子が玄関に向かうと、2人の前をカッパが通り過ぎます。
 亜紀子が、思わず「今のはなんですか?」と尋ねると、正和は「カッパだろ。ここは鎌倉、夜になると妖気が貯まるんだ」と答えます。
 でも、亜紀子は「そういうの信じられない」と言います。

 こんなところが、本作のほんの始めの方です。さあ、これからどのような物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、ベストセラーの漫画を実写化したものですが、ファンタジー物としてなかなか良くできていると思いました。特に、主人公の作家先生(堺雅人)が黄泉の国に乗り込む途中の景色や、乗り込んでから天頭鬼などと戦うシーンのVFXはよくできているなと思いました。ただ、鎌倉を舞台にして妖怪や怪物などを登場させるのであれば、滅びた北条氏関係の物があってもおかしくないのではないかと思い、総じて江ノ電以外の鎌倉的なものが本作にはあまり取り入れられていないような感じがしたところです。

(2)本作は、天頭鬼(注2)にさらわれて黄泉の国に行ってしまった亜紀子を、夫の正和が取り戻しに行って現世に連れ戻すという冒険ファンタジーであり、他愛ないお話しながらも、「現世」の駅からタンコロ(注3)に乗って「黄泉」の駅まで行くときの周りの景色は、VFXがなかなか良くできていて見入ってしまいます(注4)。
 また、天頭鬼やその部下と正和との戦いも、VFXを使ってなかなか見事に描かれていると思いました。

 さらには、亜紀子を演じる高畑充希は、まさにうってつけの役柄であり、その魅力を存分に発揮している感じですし、夫の正和に扮する堺雅人も、久しぶりの映画出演ながらさすがの演技を披露しています。
 また、死神役の安藤サクラも、地味ながら着実に演じています。
 


 ただ、次のような点があるように思いました。
 タイトルが『鎌倉ものがたり』となっているわりには、鎌倉的なものがあまり映し出されていない感じがしました。
 確かに、江ノ電とか鎌倉大仏は登場します。
 でも、鎌倉と言ったらすぐに思い出されるのが、鶴岡八幡宮でしょうし、江ノ島とか小町通りなどでしょうが、そういった名所的なものはほとんど本作には登場しません。

 それならば、本作で数多く登場する魔物とか妖怪・怪物の中に鎌倉的なものがあるのかと見ていても、そうしたものはあまり登場しないように思われます。
 正和が対決することになる天頭鬼や豚頭鬼・象頭鬼などの外観は、むしろ中国的な感じがします(注5)。
 夜の鎌倉を徘徊する魔物であるのなら、公暁に殺された源実朝とか、新田義貞に滅ぼされた北条高時以下の北条一門に関連するものがあってもおかしくはないように思うのですが。

 他方で、江ノ電が黄泉の国と現世とを往復するのを見ると、本作で言われている「現世」とか「黄泉の国」と言っても、普通名詞のそれらではなく、鎌倉に限定されたもののようにしか思えません。
 なにしろ、「現世」の駅から乗る人達は、正和の隣近所の者のようですし、「黄泉」の駅で彼らを出迎える者たちも、彼らの知り合いたちばかりなのでしょう(外国人など全く見かけません)。

 要すれば、登場する魔物たちは国籍不明で地域の特定が難しいものの、舞台とされている「現世」「黄泉」は鎌倉限定版と言ったところでしょう。
 それはなんだかおかしな感じがしますから、このファンタジーはすべて、おかしなキノコを食べた亜紀子のおかしな夢物語といえるのかもしれません。

 それにしても、黄泉の国の木造家屋が岩山に沿って幾層にも立ち並ぶ様子は、なんだかブラジルのファベーラ(注6)を思い起こさせてしまいました!
 理想郷であるはずの黄泉の国(注7)の外観が、極貧層が住む貧民窟と類似してしまうというのは何とも皮肉な感じですが、こんなところも、おかしな夢物語の特徴が現れているようにも思います。

(3)渡まち子氏は、「見終われば、壮大なラブ・ストーリーだったが、レトロ・モダンなファンタジーとして楽しんでもらいたい作品だ」として65点を付けています。
 北小路隆志氏は、「山崎貴の映画にあって時間旅行は、過去・現在・未来の区別を超えて、すぐ横に広がる隣町めいた異世界への空間上の横滑りとしてあり、もちろんそれに伴うのは、目くるめく視覚的冒険である」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『海賊とよばれた男』の山崎貴
 原作は、西岸良平著『鎌倉ものがたり』(双葉社)。

 なお、出演者の内、堺雅人は『その夜の侍』、高畑充希は『アズミ・ハルコは行方不明』、堤真一は『本能寺ホテル』、安藤サクラは『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』、田中泯は『無限の住人』、市川実日子橋爪功は『三度目の殺人』、ムロツヨシは『斉木楠雄のΨ難』、要潤は『ブルーハーツが聴こえる』、大倉孝二は『秘密 THE TOP SECRET』、國村隼は『哭声/コクソン』、鶴田真由は『64 ロクヨン 前編』、薬師丸ひろ子は『ハナミズキ』、吉行和子は『亜人』、三浦友和は『葛城事件』、さらに天頭鬼の声を担当する古田新太は『土竜の唄 香港狂騒曲』で、それぞれ最近見ました。

(注2)公式サイトの「相関図」において、「天頭鬼」と記されています。ですが、どうして「天燈鬼」と書かないのでしょう?
 あるいは、「豚頭鬼」とか「象頭鬼」に倣って「天燈鬼」を「天頭鬼」としたのかもしれません。でも、その風貌は、興福寺にある康弁作の「天燈鬼」そっくりです。
 それに、「天」は「豚」とか「象」とかと同じレベルの概念でしょうか?

(注3)劇場用パンフレット掲載の「PRODUCTION NOTE」によれば、「昭和初期から約50年間運行していた江ノ島電鉄の旧車両で、1両の単車だったことから「通称タンコロ」と呼ばれている」とのこと。

(注4)黄泉の国は、劇場用パンフレットに掲載の山崎貴監督の解説(「CONCEPT ART」)によれば、中国の湖南省にある武陵源を参考にしているようですが、その景色は既に『アバター』にも取り入れられているところです。

(注5)豚頭鬼は、『西遊記』に登場する猪八戒に似ている感じがします。

(注6)劇場用パンフレットに掲載の山崎貴監督の解説(「CONCEPT ART」)によれば、中国の鳳凰古城を参考にしているようですが。
 なお、ファベーラ(あるいはファベイラ)については、『ワイルド・スピ-ド MEGA MAX』についての拙エントリの「(2)」とか、ある写真展についての拙エントリの中、『バケモノの子』についての拙エントリの「(2)」などで触れています。

(注7)劇場用パンフレット掲載の「DIRECTOR INTERVIEW」の中で、山崎貴監督は、黄泉の国について、「僕が理想とする、自分が行ってみたい死後の世界」であり、「亡くなった友人たちとこういうところで再会っできたらいいなという世界を作りたかったんです」などと語っています。ただ、あるいは、黄泉の国は「天国」といったものではなく、単に死者が暮らすところにすぎないのかもしれませんが(天頭鬼のような鬼もいるところでしょうし)。



★★★☆☆☆



象のロケット:DESTINY鎌倉ものがたり


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探偵はBARにいる3

2017年12月16日 | 邦画(17年)
 『探偵はBARにいる3』を渋谷TOEIで見ました。

(1)このシリーズについては第1作(ヒロインは小雪)及び第2作(ヒロインは尾野真千子)を見ており、第3作目の公開と知り、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、1台の保冷トラックが、雪原を走っています。

 次いで、港の市場の中にある食堂のシーンで、女(麗子前田敦子)が食事をしています。

 さらに、雪原を走る保冷トラックの中。
 その前に乗用車が出てきて道を塞いだので、トラックの運転手・椿坂田聡)は停車し、「何やってんだ」と言いながら外に出ます。
 椿の隣りに座っているのは、食堂にいた麗子。

 椿は、ピストルを手にしながら、停まっている乗用車に近づき、「おい、降りろ」と言います。
 すると、下げられたウィンドウの中から銃が発射され、椿はその場に倒れます。
 乗用車の運転手は、車の外に出て、倒れている椿に対して何発も銃を発射し、その後、保冷トラックにやってきて、バックドアをあけ積荷を見ます。
 積荷の毛ガニを確認すると、運転手は積荷を自分の乗用車に運びます。
 その間、麗子は、保冷トラックの運転室でじっと隠れています。

 また場面は変わって、ススキノのクラブの店内。
 探偵(大泉洋)が立ち上がって、「お待たせしました」「すべての謎が解けました」「犯人はあなたです」と言いながら、一人の客の男(教頭:正名僕蔵)を指差します。
 すると、その男は笑いながら、「面白い冗談だ」「私は教育者だ」と応じます。
 これに対し探偵は、「犯人は、被害者の背後から忍び寄って、おっぱいを激しく揉んだ」「犯人は左手で揉んだ」と言います。
 教頭は「私は右利きだ」「私じゃない」と抗弁します。
 ですが探偵は、「問題は利き腕じゃない」「犯人は、暗闇の中で、右手でケチャップを掴んでしまった」「それで、左手で揉まざるをえないんだ」と詰め寄ります。
 乳房を揉まれた女(中国人のヤンヤン今村美乃)は、「間違いない、この手が揉んだんだ」と教頭の左手をとります。
 観念した教頭は「たかがおっぱいじゃないか」と開き直ります。
 ですが探偵は、「これは大変なことになる」「誰も中国から炊飯器を買いに来なくなる」と大袈裟に言います。
 それを聞いた教頭は慌てて逃げようとしますが、クラブの入口付近で、ちょうどやってきた高田松田龍平)に足をかけられて転倒してしまいます。
 教頭は、なおも「あの巨乳が悪い」などと言い訳をしますが、探偵が「全部込みで20万で手打ちだ、いいね」と告げると、教頭は「うん」とうなずきます。
 すると、探偵が「あれはシリコン」と暴露するものですから、教頭は「クソーッ」と悔しがります。

 クラブに高田が連れてきた原田前原滉 )が、依頼案件(失踪した恋人の麗子の捜索)を探偵に持ち込んできて物語が始まりますが、さあ、ここからどのように展開するのでしょうか、………?

 本作については、ヒロインの北川景子が久しぶりながらも大層綺麗であり、また、それなりにストーリーが展開しているにしても、前2作で感じたように、松田龍平の存在感がどうも稀薄であったり、殴り合いの乱闘が延々と続いたりするので、やっぱり上映時間(122分)が長く感じられたところです。それに、せっかくリリー・フランキーを登場させるのならば、単に覚醒剤取引に従事するだけのありきたりのヤクザ屋ではない役柄をやってもらった方が、本作にもっとインパクトを与えられるのではないかと思いました。

(本作はサスペンス物であるにもかかわらず、以下においてはネタバレしている箇所がありますので、未見の方はご注意ください)

(2)「探偵はBARにいる」シリーズでは、登場するヒロインが、皆大きな役割を持っています。
 ただ、第1作目の小雪が扮する沙織にしても、第2作目の尾野真千子が演じる河島弓子にしても、前者はススキノの高級クラブのママであり、後者はヴァイオリニストという具合に、その仕事ぶりなどを描くのにそれほど困難はないでしょう。
 ですが、本作で北川景子が演るマリは、元は風俗嬢で、現在はいかがわしいモデル派遣事務所のオーナーという複雑な役柄のせいか、あまりその実像がはっきりとしません。



 それに、マリは、探偵が彼女のハンドバッグの中身を調べてみると、処方箋とモルヒネの錠剤を所持していることがわかり、なにか重大な疾病を抱えているようです。でも、本作を見ている限りでは、とてもそんな病を抱え込んでいるようには見えませんでした。
 それで、マリについては、本作のラストにかけていろいろな秘密が解き明かされて、ある意味で感動的ですらあるものの、他方で、探偵がバーで呟くように(注2)、なんだか胡散臭さも感じてしまうところです。

 それに、マリの背後にいる北城ですが、リリー・フランキーが演じる役柄にしては平凡な感じがしてしまいます。
 公式サイトの「CAST」で北城は、「表向きは慈善活動に積極的な人道派だが、実は異常なまでのサディスト」「あらゆる悪事に手を染めている」と紹介されていますが、せいぜいタラバガニの足を手下の口に押し込んだり、マリに手錠をかけたり、探偵に対しロシアンルーレットまがいのことをするくらいに過ぎません。



 演技力抜群のリリー・フランキーなら、もっと目を瞠るような悪事を犯しても様になるように思えます。

 なお、探偵は、前2作においてと同様に、本作でも、極寒の中でひどい目に遭わされます(注3)。ただ、手を下したのが探偵と誼を通じている相川松重豊)だけに、何かしら愛情も感じられるところです。

 また、高田は、北城の用心棒の波留志尊淳)との2度目の対決に臨むにあたり、チョコチョコッと強めの練習をするだけながらも、なんとか勝ちを収めてしまうというのは、少々お手軽の感があります(注4)。

 まあ、それでも、探偵と高田が、例のオンボロ車に乗ったりして、なんとか事件の解決に向かっていくというストーリーは、これまでの2作ですでにお馴染みながらも、北海道の大自然やススキノの繁華街などを背景に映し出されると、やっぱり見入ってしまうのも事実です。



(3)渡まち子氏は、「冬の北海道、猥雑なススキノにこだわり、日ハムの栗山監督まで登場するこの第3弾、4年ぶりだが、安定の娯楽作だった。探偵の少し寂しげな背中が、いつもながら愛おしい」として65点を付けています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「安定感抜群の娯楽性を肯定しつつ、あえて注文を付けるならば、想定以上の“驚き”が見当たらないことだろう。マンネリに陥る前に、次回作では思いきった冒険を期待したい」と述べています。



(注1)監督は、『疾風ロンド』の吉田照幸
 脚本は、『ミックス。』の古沢良太
 原作は東直己著『ススキノ探偵』(ハヤカワ文庫JA)。

 なお、出演者の内、大泉洋は『アイアムアヒーロー』、松田龍平前田敦子は『散歩する侵略者』、北川景子は『の・ようなもの のようなもの』、志尊淳は『帝一の國』、鈴木砂羽は『土竜の唄 香港狂騒曲』、リリー・フランキーは『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』、田口トモロヲは『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、安藤玉恵は『彼女の人生は間違いじゃない』、松重豊は『アウトレイジ 最終章』で、それぞれ最近見ました。

(注2)探偵は、いつものバーで高田を横において、「あの手の女の言うことは信用できない」「病気というのも嘘じゃないか」と独り呟きます。
 なお、探偵は、「刑期を終えたマリが姿を現すような気がする」などと呟きますが、計画的に2名の殺人を犯したマリが、死刑あるいは無期懲役を免れてシャバに姿を表すようにも思えないところです。

(注3)探偵は、第1作目では雪の中に埋められましたし、第2作目では、まだ雪のない大倉山シャンツェのスタートゲートのところに縛られて立たされました。本作での探偵は、冬の荒海を走る漁船の舳先に裸同然で縛り付けられますが、前2作の中間的なところといえるかもしれません。

(注4)高田については、本作の本編では、ニュージーランドに留学すると思わせておいて、エンドロールで、実は江別(札幌とは車で40分位の距離)でニュージーランド出身者の教えを受けていることが明らかになるのですが、ご愛嬌でしょう(以降も続編が作られるということでしょう!)。



★★★☆☆☆



象のロケット:探偵はBARにいる3


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オリエント急行殺人事件

2017年12月14日 | 洋画(17年)
 『オリエント急行殺人事件』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)予告編を見て面白そうだなと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、鐘の音が聞こえると思ったら、エルサレムの「嘆きの壁」が映し出されます。時は1934年(注2)。
 壁の前には警官が立っていますが、その前を男の子が走ります。
 男の子は階段を駆け上り、ホテルのレストランの給仕に卵を届けます。
 ウエイターがボイルされた卵を2つ、席に着いているポアロケネス・ブラナー)に出します。
 ですが、そのサイズが違っていたためにポアロの気に召さなかったのでしょう、その男の子はまた走り出し、「今度は、完璧に同じかな?」と言いながら別の卵を持ってきます。
 ポアロは、小さな物差しで卵のサイズを測り、「同じ卵を産めない雌鳥が問題だ」と言います。
 その時警官が現れ、「3つの宗教が絡んだ事件の解決をお願いします」と言うので、ポアロは立ち上がって出ていきます。

 ポアロは、現場に出向く際に、道路に落ちていた動物の糞の塊に片足を入れてしまいます。すると彼は、「これではバランスが悪い」と言いながら、他方の片足も糞の中に入れ、「これで良い」とつぶやくのです。

 ポアロが嘆きの壁に出向くと、大勢人々が集まっていて、さらにラビと司祭とイマームの3人が嘆きの壁の前に立っています。どうやら、この3人のうちの誰かが宗教遺物を盗んだ犯人ではないかとされているようです。
 でも、ポアロは、「宗教遺物を盗んで利益を得るのは誰か」「この3人の聖職者にはそんな関心は薄い」「利益を得るのは、宗教遺物を警備していた警察官だ」「このフレスコ画が酷く汚れているのは、彼がブーツを履いているからだ」と言って、警察官の持ち物を調べてみると、失われた宗教遺物が出てきます(注3)。

 次いで、ポアロは、ボスポラス・フェリーに乗船し、港を眺めています。
 すると、男(医師のアーバスノットレスリー・オドム・ジュニア)が乗り込んできて、船員に、「イスタンブールで乗り継ぎがある。間に合うか?」「怒鳴っても無駄だけど」と言います。
 また、女(メアリデイジー・リドリー)を見かけたポアロが、「バグダッドから?」「チケットを見ました」「家庭教師は楽しめましたか?」と尋ねると、女は「生徒に対しては厳しく教えます」と答えます。
 そして、ポアロは、女が男に「すべてが終わったら、誰もわたしたちを邪魔できない」と言っているのを耳にします。

 こうしてポアロはイスタンブールに着き、そこで休暇を過ごそうとするのですが、領事から「事件です」と電報を見せられ、急遽、オリエント急行に乗り込んでロンドンに向かうことになりますが、さあこれから物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、アガサ・クリスティの有名な推理小説(1943年)を実写化したものです。同推理小説は、1974年にも実写化され、またイギリスのTVドラマ『名探偵ポワロ』の中でも取り上げられています。ですから、ストーリーはよく知られているとは言え、ジョニー・デップなどの著名俳優がたくさん出演して描き出される本作を見ると、やはり映画に引き込まれます。ただ、雪崩で停まってしまった列車の中は明かりがなく、おまけに暖房も停まってものすごく寒いのではないのかなど、ついつい余計なことを考えたりしてしまうのですが。

(本作はサスペンス物にもかかわらず、以下では色々とネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作を見ていると、些細ながらもいろいろ疑問な点が浮かばないわけではありません。
 例えば、本作では、ポアロらが乗る車両とそれに接続する食堂車くらいしか描かれませんが、他の車両も付いていて、そこには乗客もいると思われるところ、ほとんど描かれないのはどうしてでしょう(注4)?

 また、本作では、12という数字が重要な意味を持ってきますが(注5)、クローズアップされる登場人物は16名もいます。この中から、探偵のポアロと、その親友で鉄道会社のブークトム・ベイトマン)、それに殺されたラチェットジョニー・デップ)を除くと、残りは13名。まだ1名余計です。それは一体誰なのでしょう(注6)?

 さらには、ポアロらが乗った列車は雪崩に遭遇して立ち往生してしまいます。蒸気機関車は雪に埋まってしまい、動かすことができません。そうなれば、常識的には、照明とか暖房とかは止まってしまうのではないでしょうか(注7)?

 加えて言えば、ラストにおけるポアロの解決の仕方もよくわからない感じがしてしまいます(注8)。

 でも、そんなつまらないことなどはどうでもいいでしょう。
 本作は、蒸気機関車の牽引する豪華列車内での殺人事件を巡って、ジョニー・デップなどの豪華配役陣が披露する見ごたえある演技を堪能すればそれで十分のように思われます。
それに、その列車は、イスタンブールを出発してヨーロッパを横断するという雄大なものであり、本作の中で描かれる景色もまた見ごたえがあるように思います。

 なお、本作のラストの描き方から、続編が制作されるように思えるところ、実際にもそうした動きになっているようです(注9)。

(3)渡まち子氏は、「訳ありの乗客たちを演じるのは、ほとんどが主役級の俳優だ。犯人を知っていても、結末が分かっていても、十分に楽しめるのは、彼らの演技合戦が素晴らしいからに他ならない。まるで古典芸能を見ているような豊かな気分になる」として75点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「65ミリのフィルムによる鮮明で美しい映像を駆使して進行する謎解きと乗客の反応。状況説明は丁寧だが、描写があまりに細かくて全体像がぼやけ、原作を知らないと話が見えない不安が残る」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「謎解きの前段となる“アームストロング事件”の説明が駆け足でわかりづらいのが気になるが、お正月映画らしい華やかな娯楽大作である」と述べています。



(注1)監督は、主演のケネス・ブラナー
 脚本はマイケル・グリーン
 原作は、アガサ・クリスティ著『オリエント急行の殺人』(ハヤカワ文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、ケネス・ブラナーは『マリリン 7日間の恋』、ペネロペ・クルスは『悪の法則』、ウィレム・デフォーは『きっと、星のせいじゃない。』、ジュディ・デンチは『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』、ジョニー・デップは『パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊』、ジョシュ・ギャッドは『美女と野獣』(2017年)、デレク・ジャコビは『グレース・オブ・モナコ』、ミシェル・ファイファーは『わたしの可愛い人―シェリ』、デイジー・リドリーは『スター・ウォーズ フォースの覚醒』で、それぞれ見ました。

(注2)原作小説には、本作の冒頭で描かれるエピソードは書かれてはおりません(原作小説の冒頭では、ポアロは、シリアに派遣されているフランス軍の中で起きた事柄をうまく解決したとされているにすぎません)。

 また、1974年版の冒頭は、1930年のニューヨーク州ロングアイランドのアームストロング邸。幼児・デイジーが誘拐されたとの新聞記事に続いて、デイジーが男たちによって連れさられる姿が映し出されます。最後は、デイジーは死体で発見されたとの報道。そして、時点は5年後のイスタンブールとされ、メアリーヴァネッサ・レッドグレイヴ)がボスポラス・フェリーに乗り込み、それを先に乗り込んでいるポアロアルバート・フィニー)が見ています。そのポアロに、見送りのフランス軍将校が近づいて、「将軍が、フランス軍の名誉を守ってくれたと感謝しておりました」等と話します。

 さらに、TVドラマ『名探偵ポワロ』で取り上げられた「オリエント急行の殺人」の冒頭では、いきなりポワロデヴィッド・スーシェ)が中尉の嘘を糾弾すると、ポアロの目の前で、その中尉は拳銃で自殺してしまいますが、その時の有様を、ボスポラス・フェリーの船上でポワロが思い返しています。そして、その背後から、フランス軍の将校が、「わたしたちの部隊の事件を解決してくれて感謝しているとの上官の言葉をお伝えします」「ですが、中尉が、一度の過ちで支払った代償は不当だと思います」「あれは事故だったのです」「善人が犯した判断ミスです」と言います。これに対し、ポワロは「人には選択肢があり、彼はウソを付くことを選び、裁きを受けることになった」と言います。

 わざかな冒頭部分を取り上げたけながら、原作小説の映画化に当たり、本作を含めて様々な工夫をこらしていることがわかります。
 それでも、原作小説と、1974年版とTV版とは、どれもシリアにおけるポアロとフランス軍との関係を描いているのに対し、本作では、エルサレムにおける宗教遺物の盗難事件をポアロが解決する様子を描いています。
 本作がわざわざこうした作り方をしているのを見ると、ブログ「佐藤秀の徒然幻視録」の12月8日の記事が述べているように、「まさかドナルド・トランプ大統領は本作の前宣伝のためにイスラエルの首都承認宣言したのか、と一瞬思ってしま」います(ちなみに、トランプ大統領がイスラエルの首都をエルサレムと認める旨を宣言したのは日本時間で12月7日)!

(注3)ポアロによるこの解決法は、なんだか、本作のラストでポアロが展開する第1の推理(外部者の犯行説)に類似している感じがします。また、この解決法では、エルサレムの3宗教間の関係には何も踏み込まないわけですから、エルサレムにおける3つの宗教の間のバランスが保たれたことになるのでしょうか(尤も、現状でバランスがとれているというのであれば、この解決法でかまわないことになりますが)?

(注4)雪崩で立ち往生したオリエント急行は、はっきりとはしませんが、少なくとも4両編成くらいであり、映画で中心的に描かれる車両にいた者たち(15名)よりも多い乗客が乗車しているのではないかと思われます(機関士とか食堂車の料理人などのスタッフは除いても)。
 ですが、雪崩で埋もれた列車が動き出す際に、危ないからとトンネルの中に誘導されるのはその車両の人達だけです。他の車両にいる人達はどうしたのでしょうか?
 ちなみに、Wikipediaのこの記事によれば、「登場時のオリエント急行は寝台車2両、食堂車1両、荷物車(兼乗務員車)2両の編成」だったが、「1909年にはR型の増備に伴い、オリエント急行の寝台車は3両に増えた」とのこと。本作の時点では、少なくとも5両編成だったものと考えられます。
 また、ポアロの親友のブークは、途中で部屋をポアロに譲り、自分は他の車両に移ってしまいます。

 尤も、このブログ記事によれば、1974年版について、「編成は機関車寄りから荷物車、食堂車、個室寝台車、特別車。各1両でたった4両編成。乗客は15名」だとされていますから、あるいは本作も同じように設定されているのかもしれませんが。

(注5)何しろ、ラチェットは12箇所刺されて殺されたのですから!
 といっても、例えば、本作のポスター等で描かれているのは9人ですし、「CAST」で映し出されている登場人物は12人ながら、そこにはポアロもラチェットやブークも入っていたりするのです(尤も、そんなところで12人だけを取り上げたら、それこそネタバレだと難詰されるでしょうが!)。



(注6)バレエダンサーのエレナルーシー・ボイントン)の夫であるルドルフセルゲイ・ポルーニン)が、アームストロング事件に直接関わりを持とないものとして、除外されるのでしょうが、実際には、病んでいるエレナに代わってルドルフが犯行に加わったようです。
 ただ、本作では、12人の乗客等がアームストロング事件にどのようにかかわっているかについては、大層駆け足で描かれるためになかなか見分けるのが難しく、さらには犯行の際に誰がどうしたのかについてもあっさりと描かれていますから、あまり良くはわからないのですが。

(注7)このサイトのベストアンサーの記事によれば、「客車など牽引する車両の電源は、機関車からは供給されずそれぞれの車両でまかな」うとされていますが、ただ、暖房については、「客車の暖房に関しては蒸気機関車から蒸気が供給される形で暖房が行われて」いるとのべられています。
 仮にそうであれば、雪崩で蒸気機関車が立ち往生してしまった段階で、少なくとも、客車の暖房は止まってしまうことになるものと思われます。そうなれば、ポアロが、あのように客車内を優雅に歩き回ることもできなくなってしまうのではないでしょうか?



(注8)ポアロは、ラチェット殺人事件について、2つの推理をして、最初の推理(外部犯行説)は否定し、2番目の推理(内部犯行説)を述べ、ただしその後どうするのかは12名の乗客の判断に委ねます。
 ポアロは、それまでは、「世の中には善と悪しかないのだ。その中間なんてものはありはしないのだ」と言い切っていたのですが、ラチェット殺人事件については、司直に委ねることなく列車を離れてしまいます。
 ですが、12人の乗客が犯した犯行は、そんなに判断が難しいものでしょうか?
 元々、ラチェットが、デイジー・アームストロングを誘拐して殺した真犯人だと分かったら、彼らは、どうしてその時点で警察に彼を突き出さなかったのでしょう?あるいは、事件から時間がかなり経過してしまい、司直に委ねても満足の行く処罰が得られないと判断されたのかもしれません。でも、そのあたりが本作では何も描かれてはいないので、見る方としては、どうして12人もの人たちが寄ってたかってラチェットを殺してしまったのか、どうも釈然としないものを感じざるをえないところです。

(注9)この記事によれば、「20世紀フォックスは続編の準備に着手しており、次作はクリスティの「ナイルに死す」を題材にするという。前作に続きマイケル・グリーンが脚本を執筆し、ブラナーがポワロ役と監督、プロデューサーとして続投する予定」とのこと。



★★★☆☆☆



象のロケット:オリエント急行殺人事件


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