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娚の一生

2015年02月24日 | 邦画(15年)
 『娚の一生』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)TVドラマ『Nのために』で好演していた榮倉奈々(注1)と、『今度は愛妻家』(2010年)が印象的な豊川悦司(注2)とが出演するというので映画館に行ってきました。

 本作(注3)の舞台は、明示されていませんが鹿児島(注4)。
 都会の生活に疲れて田舎(本作では鶴水となっていますが、出水でしょう)の祖母の家で暮らしていたつぐみ榮倉奈々)ですが(注5)、突然祖母が死んでしまいます。
 つぐみは、その家に一人で取り残されてしまったと思っていたところ、驚いたことに同居人がいたのです。
 その男・海江田豊川悦司)は、52歳(注6)の独身で角島大学(鹿児島大学のことでしょう)の教授。祖母の葬儀でやって来たのですが、生前の祖母から離れの鍵をもらっていて、丁度今夏休み中だからしばらくそこで暮らすのだと言います(注7)。



 さあ、2人の関係はどのようなことになるのでしょうか、………?

 祖母と昔親しくしていた大学教授が祖母の葬儀に突然現れ、祖母の孫をいきなり好きになってしまうという、あまり常識的ではない設定ながら、そういうこともありかもと受け入れてしまえば、このところ一段と魅力を増してきた榮倉奈々をふんだんに見ることができ、さらには豊川悦司のいつもながらのひょうひょうとした絶妙の演技もこれあり、120分をまずまず楽しく見ることが出来ました。

(2)こうした楽しい恋愛ファンタジーをいろいろ論ってみても仕方ないと思います。
 過去の経験から恋愛に対して頑なな姿勢を取り続けるつぐみの心が、海江田に接している内に次第にほぐれていく様子が映画ではじっくりと描かれて、まずもってそれを味わうべきでしょう。



 とはいえ、どうして「娚の一生」というタイトルなのかという点がよくわかりません。
 そもそも「娚」を「おとこ」とは普通読めませんが(注8)、その点はさておき、ストーリーがモーパッサンの小説『女の一生』(注9)や森本薫の戯曲『女の一生』(注10)と関連性があるのかと考えてみても、本作は夏休みというごく短い期間中に起きた事柄ですから、生涯を描いているこれらの作品とは関係なさそうです(注11)。

 次いで、豊川悦司が扮する海江田が角島大学で哲学を教えているという設定(注12)が、本作でほとんど生かされていないのはどうしてなのか、不思議に思いました。
 原作漫画を見てみると、海江田は有名人とされていて、つぐみの勤務先の会社で社内講演会が開催された時に講師として「哲学と社会生活」という演題で講演をしていますし、週刊誌に「哲学の細道」というコラムを連載していたり、また、彼の本が日本エッセイスト賞を受賞したりもしています。
こんな程度では全く不十分ですが、ないよりはましでしょう(注13)。
 でも、本作では、そんな断片的な事柄でさえも、哲学に関しては一切触れられていません。
 それに、いやしくも大学の教授なのですから、大学でゼミを受け持っているはずです。夏休み中だったら、そうした教え子の一人や二人訪ねてくるのが普通ではないでしょうか?
 訪れるのは、つぐみの会社の元同僚(安藤サクラ)とか、郵便局員(落合モトキ)や市会議員(前野朋哉)くらい。

 こんな世の中と隔絶した生活を営んでいるつぐみと海江田を見ていると、以前見た『きいろいゾウ』を思い出してしまいました。
 それもそのはず、同作は、本作と同じ監督の作品なのですから!
 そして、同作も、ムコ向井理)とツマ宮崎あおい)が都会を離れて三重の田舎で暮らしているという設定(注14)で、その暮らしている家屋の感じは、本作のつぐみが暮らす祖母の家と似たような雰囲気を持っています。 そのような家で、ムコとツマは世間とあまり接触することなく暮らしているわけです。

 この他にも『きいろいゾウ』との類似点を色々あげられるでしょうが(注15)、何よりも驚いたことに、同作でメインで登場している向井理が、本作では、突然つぐみの前に出現して、それも海江田に殴り倒されて病院に担ぎ込まれるという役を演じているのです(注16)。



(3)渡まち子氏は、「大人同士の恋愛物語だが、壁ドンならぬ床ドンや、「恋なのでしかたありませんでした」などのグッとくる決め台詞で大人女子をときめかせる胸キュン系の作品である」として60点を付けています。



(注1)『東京公園』や『アントキノイノチ』で見た時と比べると、榮倉奈々も随分と大人の女性になりました。

(注2)豊川悦司は、このところ『春を背負って』で見ましたが、『ジャッジ!』が出色でした。

(注3)原作は、西炯子作の漫画『娚の一生』(小学館)。
 監督は、『さよなら歌舞伎町』の廣木隆一

(注4)原作漫画の舞台は、原作者によれば「故郷の鹿児島」(このインタビュー記事)。

(注5)つぐみの年齢は、原作おいては「30歳半ばくらい」とされています(原作者のこのインタビュー記事)。演ずる榮倉奈々より10歳位上の歳になるでしょう。

(注6)原作漫画では海江田の年齢が51歳とされていますが、本作では52歳とされています(公式サイトなど)。きっと、海江田を演じる豊川悦司の年齢に合わせたのでしょう。

(注7)原作漫画の場合、海江田は、元々東京の女子大で教えていて、今夏は角島大学の友人の代打として鹿児島にやってきた、そして、これまでも何回か離れを利用したことがある、と言っています。
 これに対し、本作の場合、海江田は角島大学の教授という肩書です。としたら、大学のある都市(鹿児島)に自宅があるはずで、つぐみの祖母の家のある鶴水(出水)まで近距離ですから(新幹線で30分くらい)、原作漫画よりも頻繁に離れを利用していたのではないでしょうか?
 でも、本作の場合、海江田は、祖母の訃報を聞いて慌ててやってきて、何十年振りかで離れを利用するかのように見えます。
 ただ、海江田が暮らすという離れをつぐみが覗くと、机や椅子、それに本箱に沢山の本や果てはレコードプレーヤーまで置かれています。いつの間に、そんなたくさんの物を運び込んだのでしょう?
 むしろ、何回も離れを使っているために、そうした物が次第に溜まってきたのではないでしょうか?ですが、そうだとしたら、つぐみは、それまでそうしたことに全然気が付かなかったのでしょうか、やや訝しく思われるところです。

(注8)例えば、このサイトの記事

(注9)例えば、このサイトの記事が参考になります。

(注10)例えば、このサイトの記事が参考になります。

(注11)原作者の西氏は、インタビュー記事で、「確かに、海江田が、初恋を忘れられないまま長く生き、一生を終えようとしていたところに再び恋をして、やっとひとりの女性に行きつく話ですが、それと同時に、都会で忙しく働き、男のように生きてきた女つぐみの話でもある。ですから男として生きていかざるを得ない女性の話であり、男と女の話、という意味で“娚の一生”としました」と語っています。
 でも、海江田はまだ52歳であり、「長く生き、一生を終えようとしていた」などといえる状況では到底ありえませんし、働いているつぐみの話を「男として生きていかざるを得ない女性の話」と捉えるのもどうか(特に原作者が女性だけに、あまり理解できません)という気がするのですが?

(注12)海江田は「哲学」の教授とされていますが、いったい専攻は何でしょう(分析哲学、ドイツ哲学、フランス哲学、東洋哲学?)?

(注13)原作漫画と本作との違いは色々あります。
 例えば、海江田とつぐみが、京都にいる姉夫婦(徳井優濱田マリ)に会いに行く話は原作にもありますが、本作のように嵯峨野に行ったり、クラシックカーを乗り回したりはしません。
 ですが、大きな違いは、一つは、原作には海江田を慕う秘書の西園寺が描かれているのに対し、本作ではそうした人物が登場しないことでしょうし、もう一つは、本作のラストでつぐみたちは台風に見舞われますが、原作では地震(震度6)に遭遇することでしょう。
 前者については、本作では、海江田が大学に戻った際に秘書(美波)が登場するものの、その場面だけです。こうするのも、つぐみの心の動きに焦点を当てようとするためだとも考えられ、こうした簡略化は認められるでしょう。
 また、後者についても、九州では台風の被害が例年大きいこと、さらには『さよなら歌舞伎町』などで見たように、東日本大震災を通常のストーリーに組み込むのは困難を伴うこと、などを考え合わせると、本作のように改変することは適切なことではと思いました(なお、原作でも台風は描かれていて、来襲した日に海江田が、なくなったつぐみのネックレスを探し出します)。

(注14)本作の舞台は鹿児島ですが、ロケ地は、このサイトの記事によれば、三重県(伊賀市)。他方、『きいろいゾウ』のロケ地も、このサイトの記事によれば、三重県(松阪市)!

(注15)『きいろいゾウ』のムコは小説家という設定で、小説を書いている場面や、書いた小説を出版社に持っていく場面が描かれているとはいえ、本作の海江田が哲学の教授と思えないのと同じように、ムコはとても小説家とは見えません。
 また、本作のつぐみは、祖母の後を継いで染色家になろうとしており、『きいろいゾウ』のツマは絵本の「きいろいゾウ」が大好きで、映画にはその絵が動画として映し出されます。両者とも、芸術家的雰囲気を醸し出しているような気がします。

(注16)そういえば、向井理は、『深夜食堂』にもちらっと出演(坊主頭の会社員)していました。



★★★☆☆☆



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2 コメント

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Unknown (ふじき78)
2015-02-25 02:02:11
> 豊川悦司が扮する海江田が角島大学で哲学を教えているという設定が、本作でほとんど生かされていないのはどうしてなのか、不思議に思いました。

論理的な回答ではなく、個人的な感想ですが、海江田が原作(未読)ほど有名でなく、素性が分からない所があり、榮倉奈々が映画内で叫んだように、実は海江田=殺人鬼であっても、二人の間で、ちゃんと愛が育まれていれば、その辺りはどうでもいい事なのではないでしょうか?
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哲学へのコダワリ (クマネズミ)
2015-02-25 05:50:23
「ふじき78」さん、TB&コメントをありがとうございます。
「ふじき78」さんが、「実は海江田=殺人鬼であっても、二人の間で、ちゃんと愛が育まれていれば、その辺りはどうでもいい事」とおっしゃるのは、この恋愛ファンタジーにあっては、全くそのとおりだと思います。
ただ、素人哲学ファンとしては、折角海江田が哲学の教授という設定なのですから、せめて一度くらいはデカルト、カント、ハイデッガーあたりの名前を持ちだして欲しかったな、と思った次第です。
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