映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

火花

2017年12月22日 | 邦画(17年)
 『火花』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)芥川賞受賞作の映画化ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、漫才をやっている声がします。
 「山下、起きてるか?」「うん」「昨日の漫才バトル、見たか?」「見たよ」「◯◯が一番面白かったな」「俺、漫才で天下取ってフェラーリ買いたい。もう一つは、……」「何や、忘れたのか?」「うん」「お前、やっぱアホやな」。
 画面では花火が2つ上空に上がっていきます。

 次の画面は、熱海の砂浜。神谷桐谷健太)が、体を地面に埋め、頭だけを出して、口にはタバコを咥えています。
 神谷が首を動かし周りを見ていると、子供が寄ってきて、「大丈夫ですか?」「何やってるんですか?」「なぜタバコを?」などと尋ねます。
 そのそばには、神谷の衣服などがキチンと並べて置いてあります。

 場面は変わって、熱海の商店街。人々が歩いていて、その奥に舞台が設けられていて、漫才コンビ「スパークス」の徳永菅田将暉)と山下川谷修二)がネタをやっています。



 「僕、徳永です」「僕、山下です」「覚えて帰ってください」「ペット、飼いたい」「インコがいいよ」「どんなことするの?」「ちょっとずつでも年金払っときや」。

 そこへバイクに乗った若者たちが、爆音を立てて舞台の近くにやってきます。
 スパークスは漫才を止めます。
 すると、バイクの若者が「なんか面白いことやれよ」と怒鳴ります。
 徳永は山下に「悔しくはないか」と言い、「インコは貴様だ」と言い放つと、山下は「どうもありがとうございました」と収め、舞台を降ります。

 次に出る「あほんだら」の神谷が「仇とったるわ」と徳永に言って、大林三浦誠己)とともに舞台に上がり、ネタを披露します。



 「今日は、花火大会やな」(花火がドーンと打ち上げられます)「お客さん、キョトンとしてはる」。
 「花火は、音を楽しむものやない」。
 そして、神谷はバイクの若者たちを指して、「地獄」「なんや、罪人ばっか」と言います。
 大林は若者らと喧嘩になりますが、他方で、神谷は聴衆を指差しながら「地獄、地獄、地獄」と言い続け、聴衆の中に若い女性と子供の二人連れを見つけると、「楽しい地獄」と言います。
 こんな光景を徳永は見守り続けます。

 主催者は、神谷らに対し、「君たち、地方の興行を舐めているんじゃないか」「地獄、地獄って、何が面白いのか」「ともかく、二度と呼ばないから」と怒ります。
 神谷は、「お疲れ様でした」と言って、その場を立ち去ります。

 次いで、徳永は神谷と居酒屋で酒を酌み交わして弟子にしてもらいます。



 ここらあたりが本作の始めの方ですが、さあこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、お笑タレントの又吉直樹氏の芥川受賞作を、これまたお笑いタレントの板尾創路監督のもとで映画化したもの。コンビを組んでデビューしたもののさっぱり売れないお笑い芸人が、先輩芸人の漫才を見て弟子入りして後を付いていくというお話。お笑いを題材にしているからといってコメディ作品ではなく、お笑いとは何かを巡るむしろ観念的な映画というべきでしょうか。原作に書き込まれている頭でっかちな部分をもっと削っても良かったのではとも思いました。

(2)漫才を描いている映画作品としては、『漫才ギャング』とか『エミアビのはじまりとはじまり』がクマネズミには想起されますが、前者では、佐藤隆太上地雄輔とのコンビ、後者では前野朋哉森岡龍のコンビが、皆俳優でありながら本職さながらの達者な芸を披露します。
 これに対し、本作の漫才コンビは、「スパークス」にしても、「あほんだら」にしても、一人は現職のお笑いコンビの一方だったり、元芸人だったりします。
 確かに、本職となると、自ずと俳優が演技で演るものとは違ってくるとはいえ、本作における菅田将暉にしても桐谷健太にしても、本当によく演っていると思いました。
 そうした二人の頑張りが、2時間の本作を最後まで引っ張っていっているのでしょう(注2)。

 さて、本作では、徳永が神谷に心酔して、弟子入りを申し込みますが、受け入れるにあたって神谷は、「俺の伝記を作って欲しい」「お前の言葉で、俺について、今日見たものを、生きているうちに書いてほしい」という条件をつけます(注3)。
 徳永は、熱心に徳永の行動や言ったことをノートに付け、そうしたノートが何冊もたまります。

 ところで、先般の日曜日(12月3日)の夜にテレビ朝日から放映された「M1グランプリ」を見ました。全国の予選などを勝ち抜いてきた10組が、最終的に競い、優勝者には賞金1000万円が与えられるとのこと。
 お笑い番組を余り見るわけではないので、登場した10組は初めてのコンビばかりでしたが、どのコンビもなかなかレベルが高いなと驚きました。
 結局、結成15年目の「とろサーモン」が優勝しました。

 ただ、アレっと思ったのは、5番目にネタを披露したマヂカルラブリーと10番目にやったジャルジャルです(注4)。
 マヂカルラブリーのネタは、ボケの野田が「野田ミュージカル開催中!」と言って動き回るので、ツッコミの村上が歌を聞けると思っていたら、単にミュージカルを見ている観客を演じているというもの。
 また、ジャルジャルのネタは、福徳が「今から変な校内放送をやる」「ピン、ポン、パン、ポーンのへんなやつやるから盛り上げてほしい」と言って、後藤が「うん」と頷くと、あとは「ピン、ポン、パン、ポーン」の様々に変形したものが福徳から繰り出されます。
 マヂカルラブリーのネタについては、審査員の上沼恵美子が酷評したこともあり、順位は10番目となり、ジャルジャルのネタについても、審査員の松本人志は最高店の95点をつけたものの、6位に終わりました。

 ここでこの2組に触れたのは、彼らのやったネタは、クマネズミには、本作で神谷が言っているネタになんだか近いものではないのかと思えたからです。
 特に、ジャルジャルが何度も繰り返す校内放送の「ピン、ポン、パン、ポーン」は、神谷が、熱海の舞台で披露した「地獄、地獄、地獄」に似通っているのではないか、またマヂカルラブリーの野田が一人で演じているミュージカルは、神谷がその後で演じているものに、ある程度類似しているのでは、と思えました。

 クマネズミには、本作で神谷が笑いについて述べていることや(注5)、さらには舞台で演っていることは(注6)、どうも頭でっかちで、現実の漫才では見かけることができないものでは、と思っていたのですが、もしかしたら、実際の漫才界でも、神谷が言っていることをある程度実践しているコンビがいるのかもしれないと思って驚いた次第です(注7)。

 そんなことはともかく、本作は、全体としてはなかなか興味深い作品ながらも、本作の構成としては、スパークスの最後の漫才で盛り上がったところでジ・エンドにすることもありうるのではないか(注8)、その後の神谷の話などはかなり抽象的なものでなくもがなではないのか、などと思ったりしました(注9)。

 また、本作では、神谷を一つの手がかりとして徳永の青春時代を描いているわけながら、神谷や、徳永の相方の山下には女性が添えられているにもかかわらず、徳永には女性の気配が殆どないのはどうしたことなのかな(注10)、とも思いました。

(3)渡まち子氏は、「漫才界から多くの人材が参加し、大御所のビートたけし(主題歌の作詞・作曲)まで動員した本作は、お笑いの世界に生きるすべての人々に向けた、ほろ苦くも切ない応援歌なのである」として65点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「エンディングで主演2人がうたう、ビートたけしの「浅草キッド」がそうであるように、これはすぐれた青春映画であると同時に、すべてのお笑い芸人たちにささげる歌でもあるだろう」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 森直人氏は、「まっすぐに役者の芝居をとらえ、自己実現に向けての模索の軌跡をフィクションとして紡いでいく。その愚直な演出が、登場人物たちの不器用な生き方と相まって、言わば男料理の優しい味。表現の微熱に浮かされた人間の宿業が、愛おしさと共によく伝わってくる」と述べています。
 毎日新聞の細谷美香氏は、「夢と現実、売れることと売れないこと、才能の有無といった普遍的なテーマに、監督、俳優ともに正面から誠実に向き合った青春映画だ」と述べています。



(注1)監督は、『板尾創路の脱獄王』や『月光ノ仮面』の板尾創路
 脚本は、『I’M FLASH!』の豊田利晃と板尾創路。
 原作は、又吉直樹著『火花』(文春文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、菅田将暉は『銀魂』、桐谷健太は『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、木村文乃は『追憶』で、それぞれ見ました。

(注2)とはいえ、『漫才ギャング』は前篇漫才が溢れかえっていますし、また『』はかなりファンタジーの色合いが濃い作品になっています。これに対し、本作は、コミカルなところがないわけではないながらも、全体のトーンは至極地味なものとなっています。

(注3)徳永が書き留めた何冊ものノート(「神谷日記」)は、実際には、神谷の単なる行動記録でしかなく、それだけでは「伝記」のごく一部にしかならないように思われます(伝記となれば肝心の、父母を始めとする家族状況とか、小さいときからこれまでの神谷の履歴などには何も触れられていないのです)。

(注4)それぞれのネタは、下記で見ることができます。
 マヂカルラブリーのネタ
 ジャルジャルのネタ

(注5)実際には、神谷は、余りまとまったことを言っていませんが、例えば、「いつでも思いついたことをやっていい」と言ったりします。
 また、徳永は、「神谷さんの相手は世間じゃない。むしろ、世間を振り向かせようとしていた」と語りで言いますが、それは神谷の姿勢を的確に言い表わしているのでしょう。
 さらに、スパークスが最後のネタで、「世界の常識をくつがえすような漫才を演る」と言って「思っていることと逆のことを全力で言う」という喋りをし、「どうかみなさまも適当に死ね」「死ね、死ね、死ね」と叫んだりするのは、神谷の精神の表れではないかと思われます。

(注6)例えば、「あほんだら」は、ある漫才コンクールの決勝戦で、予選で演ったネタを録音したものをスピーカーから流しながら、実際にはクチパクめいたことをするという常識破りのことをします(芸人らや観客などには受けましたが、審査員は酷評します)。
 また、相方の大林が喋っている間、神谷は喋らずに、いろいろのポーズを決めて立っているだけというのもあります。

(注7)もちろん、神谷の演っていることは荒削りすぎ、「M1グランプリ」の決勝戦に勝ち残るものは遥かに洗練されていて、比較すること自体無意味なのかもしれませんが。

(注8)無論、熱海の花火で幕が上がる本作が、熱海の花火で幕が下りるのは、全体の構成の調和が取れて格好がいいのですが、何もそんな格好にとらわれなくともかまわないのではないでしょうか?

(注9)神谷は、芸人をやめて不動産会社のサラリーマンになっている徳永に、「芸人は引退などない」「徳永は、ずっと劇場で人を笑わせてきたわけだが、それは特殊能力を身につけたということ」「それは、ボクサーのパンチと一緒。ただし、芸人のパンチはボクサーと違って、人を殺さずに人を幸せにする」とか、「漫才は2人だけではできない」「周りに漫才師がいっぱいるからできる」「大会で優勝するコンビだけだったら、面白くないだろう。負けたコンビがいて初めてそいつらがいるんだ」などと喋りますが、至極抽象的な話ではと思います。
 徳永が言う引退というのは、お笑いを生活の糧にすることをやめるという至極現実的なことのはずなのに、神谷は、頭で考えたお笑いというものを問題にしているのではないでしょうか。

(注10)徳永は、神谷と一緒に暮らしている真樹木村文乃)を憧れの目で見ていますが、自分からアプローチすることはありません(なお、真樹は、神谷の愛人というよりも、神谷の方が真樹の間借り人にすぎなかったようですが)。





★★★☆☆☆



象のロケット:火花



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DESTINY鎌倉ものがたり

2017年12月20日 | 邦画(17年)
 『DESTINY鎌倉ものがたり』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)予告編を見て面白いと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、新婚旅行からの帰りなのでしょう、主人公の一色正和堺雅人)とその妻の亜紀子高畑充希)がクラシックなベンツに乗っています。
 亜紀子が窓の外をボーッと見ているので、正和が「どうした?」と尋ねると、亜紀子は「できますかねー、作家の奥さん」「まさか、先生と結婚するなんて」と答え、それに対し正和は「僕は、信じられないくらい幸せだ」と応じます。

 正和が運転する車は、大仏のそばの路を通り、片瀬海岸から江ノ電の踏切を渡り、坂道を上っていきます。
 漸く家に着き、2人は車を降ります。
 亜紀子が「これからは、先生と腕を組んで歩かなきゃ」「この街は、なんだかゆっくりしているわ」などと言うと、正和は「東京とは時間の進み方が違う」と応じます。



 ここでタイトルが流れ、場面は正和の書斎。
 正和は、原稿にペンを走らすも、クシャクシャにしてしまいます。
 その時、雑誌編集者の本田堤真一)が玄関先に現れます。
 亜紀子は「困ります」と言って、書斎に行こうとする本田を阻もうとしますが、本田は「先生、仕上げてもらわないと」と大声で言いながら、上がり込んで廊下を進みます。
そして、亜紀子が「どうですか?」と書斎に顔を出すと、正和は「見ればわかるでしょ」「作家に向いてないんじゃないかな」と苛々します。
 正和が「お酒を飲ませて眠らせてしまおう」と言うと、亜紀子は「二日酔いだそうです」と答えます。すると、正和は「亜紀子が冷たいから書けないんだ」となおも八つ当たりします。

 応接室で待つ本田に対し、亜紀子は「もうすぐですから」と告げて、もう一度書斎に戻ると、正和は鉄道模型を動かしています。
 それを覗き見した本田が「先生、もうすぐですね」と言うと、正和は「本田さん、分かってますね」と応じます。



 本田は「玉稿を受け取ります」と、正和から原稿を受け取ると、「あんな歳の離れた中村君と結婚するとは」などと呟きながら帰っていきます。
 本田を門の先まで出て見送ったミ正和と亜紀子が玄関に向かうと、2人の前をカッパが通り過ぎます。
 亜紀子が、思わず「今のはなんですか?」と尋ねると、正和は「カッパだろ。ここは鎌倉、夜になると妖気が貯まるんだ」と答えます。
 でも、亜紀子は「そういうの信じられない」と言います。

 こんなところが、本作のほんの始めの方です。さあ、これからどのような物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、ベストセラーの漫画を実写化したものですが、ファンタジー物としてなかなか良くできていると思いました。特に、主人公の作家先生(堺雅人)が黄泉の国に乗り込む途中の景色や、乗り込んでから天頭鬼などと戦うシーンのVFXはよくできているなと思いました。ただ、鎌倉を舞台にして妖怪や怪物などを登場させるのであれば、滅びた北条氏関係の物があってもおかしくないのではないかと思い、総じて江ノ電以外の鎌倉的なものが本作にはあまり取り入れられていないような感じがしたところです。

(2)本作は、天頭鬼(注2)にさらわれて黄泉の国に行ってしまった亜紀子を、夫の正和が取り戻しに行って現世に連れ戻すという冒険ファンタジーであり、他愛ないお話しながらも、「現世」の駅からタンコロ(注3)に乗って「黄泉」の駅まで行くときの周りの景色は、VFXがなかなか良くできていて見入ってしまいます(注4)。
 また、天頭鬼やその部下と正和との戦いも、VFXを使ってなかなか見事に描かれていると思いました。

 さらには、亜紀子を演じる高畑充希は、まさにうってつけの役柄であり、その魅力を存分に発揮している感じですし、夫の正和に扮する堺雅人も、久しぶりの映画出演ながらさすがの演技を披露しています。
 また、死神役の安藤サクラも、地味ながら着実に演じています。
 


 ただ、次のような点があるように思いました。
 タイトルが『鎌倉ものがたり』となっているわりには、鎌倉的なものがあまり映し出されていない感じがしました。
 確かに、江ノ電とか鎌倉大仏は登場します。
 でも、鎌倉と言ったらすぐに思い出されるのが、鶴岡八幡宮でしょうし、江ノ島とか小町通りなどでしょうが、そういった名所的なものはほとんど本作には登場しません。

 それならば、本作で数多く登場する魔物とか妖怪・怪物の中に鎌倉的なものがあるのかと見ていても、そうしたものはあまり登場しないように思われます。
 正和が対決することになる天頭鬼や豚頭鬼・象頭鬼などの外観は、むしろ中国的な感じがします(注5)。
 夜の鎌倉を徘徊する魔物であるのなら、公暁に殺された源実朝とか、新田義貞に滅ぼされた北条高時以下の北条一門に関連するものがあってもおかしくはないように思うのですが。

 他方で、江ノ電が黄泉の国と現世とを往復するのを見ると、本作で言われている「現世」とか「黄泉の国」と言っても、普通名詞のそれらではなく、鎌倉に限定されたもののようにしか思えません。
 なにしろ、「現世」の駅から乗る人達は、正和の隣近所の者のようですし、「黄泉」の駅で彼らを出迎える者たちも、彼らの知り合いたちばかりなのでしょう(外国人など全く見かけません)。

 要すれば、登場する魔物たちは国籍不明で地域の特定が難しいものの、舞台とされている「現世」「黄泉」は鎌倉限定版と言ったところでしょう。
 それはなんだかおかしな感じがしますから、このファンタジーはすべて、おかしなキノコを食べた亜紀子のおかしな夢物語といえるのかもしれません。

 それにしても、黄泉の国の木造家屋が岩山に沿って幾層にも立ち並ぶ様子は、なんだかブラジルのファベーラ(注6)を思い起こさせてしまいました!
 理想郷であるはずの黄泉の国(注7)の外観が、極貧層が住む貧民窟と類似してしまうというのは何とも皮肉な感じですが、こんなところも、おかしな夢物語の特徴が現れているようにも思います。

(3)渡まち子氏は、「見終われば、壮大なラブ・ストーリーだったが、レトロ・モダンなファンタジーとして楽しんでもらいたい作品だ」として65点を付けています。
 北小路隆志氏は、「山崎貴の映画にあって時間旅行は、過去・現在・未来の区別を超えて、すぐ横に広がる隣町めいた異世界への空間上の横滑りとしてあり、もちろんそれに伴うのは、目くるめく視覚的冒険である」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『海賊とよばれた男』の山崎貴
 原作は、西岸良平著『鎌倉ものがたり』(双葉社)。

 なお、出演者の内、堺雅人は『その夜の侍』、高畑充希は『アズミ・ハルコは行方不明』、堤真一は『本能寺ホテル』、安藤サクラは『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』、田中泯は『無限の住人』、市川実日子橋爪功は『三度目の殺人』、ムロツヨシは『斉木楠雄のΨ難』、要潤は『ブルーハーツが聴こえる』、大倉孝二は『秘密 THE TOP SECRET』、國村隼は『哭声/コクソン』、鶴田真由は『64 ロクヨン 前編』、薬師丸ひろ子は『ハナミズキ』、吉行和子は『亜人』、三浦友和は『葛城事件』、さらに天頭鬼の声を担当する古田新太は『土竜の唄 香港狂騒曲』で、それぞれ最近見ました。

(注2)公式サイトの「相関図」において、「天頭鬼」と記されています。ですが、どうして「天燈鬼」と書かないのでしょう?
 あるいは、「豚頭鬼」とか「象頭鬼」に倣って「天燈鬼」を「天頭鬼」としたのかもしれません。でも、その風貌は、興福寺にある康弁作の「天燈鬼」そっくりです。
 それに、「天」は「豚」とか「象」とかと同じレベルの概念でしょうか?

(注3)劇場用パンフレット掲載の「PRODUCTION NOTE」によれば、「昭和初期から約50年間運行していた江ノ島電鉄の旧車両で、1両の単車だったことから「通称タンコロ」と呼ばれている」とのこと。

(注4)黄泉の国は、劇場用パンフレットに掲載の山崎貴監督の解説(「CONCEPT ART」)によれば、中国の湖南省にある武陵源を参考にしているようですが、その景色は既に『アバター』にも取り入れられているところです。

(注5)豚頭鬼は、『西遊記』に登場する猪八戒に似ている感じがします。

(注6)劇場用パンフレットに掲載の山崎貴監督の解説(「CONCEPT ART」)によれば、中国の鳳凰古城を参考にしているようですが。
 なお、ファベーラ(あるいはファベイラ)については、『ワイルド・スピ-ド MEGA MAX』についての拙エントリの「(2)」とか、ある写真展についての拙エントリの中、『バケモノの子』についての拙エントリの「(2)」などで触れています。

(注7)劇場用パンフレット掲載の「DIRECTOR INTERVIEW」の中で、山崎貴監督は、黄泉の国について、「僕が理想とする、自分が行ってみたい死後の世界」であり、「亡くなった友人たちとこういうところで再会っできたらいいなという世界を作りたかったんです」などと語っています。ただ、あるいは、黄泉の国は「天国」といったものではなく、単に死者が暮らすところにすぎないのかもしれませんが(天頭鬼のような鬼もいるところでしょうし)。



★★★☆☆☆



象のロケット:DESTINY鎌倉ものがたり


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探偵はBARにいる3

2017年12月16日 | 邦画(17年)
 『探偵はBARにいる3』を渋谷TOEIで見ました。

(1)このシリーズについては第1作(ヒロインは小雪)及び第2作(ヒロインは尾野真千子)を見ており、第3作目の公開と知り、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、1台の保冷トラックが、雪原を走っています。

 次いで、港の市場の中にある食堂のシーンで、女(麗子前田敦子)が食事をしています。

 さらに、雪原を走る保冷トラックの中。
 その前に乗用車が出てきて道を塞いだので、トラックの運転手・椿坂田聡)は停車し、「何やってんだ」と言いながら外に出ます。
 椿の隣りに座っているのは、食堂にいた麗子。

 椿は、ピストルを手にしながら、停まっている乗用車に近づき、「おい、降りろ」と言います。
 すると、下げられたウィンドウの中から銃が発射され、椿はその場に倒れます。
 乗用車の運転手は、車の外に出て、倒れている椿に対して何発も銃を発射し、その後、保冷トラックにやってきて、バックドアをあけ積荷を見ます。
 積荷の毛ガニを確認すると、運転手は積荷を自分の乗用車に運びます。
 その間、麗子は、保冷トラックの運転室でじっと隠れています。

 また場面は変わって、ススキノのクラブの店内。
 探偵(大泉洋)が立ち上がって、「お待たせしました」「すべての謎が解けました」「犯人はあなたです」と言いながら、一人の客の男(教頭:正名僕蔵)を指差します。
 すると、その男は笑いながら、「面白い冗談だ」「私は教育者だ」と応じます。
 これに対し探偵は、「犯人は、被害者の背後から忍び寄って、おっぱいを激しく揉んだ」「犯人は左手で揉んだ」と言います。
 教頭は「私は右利きだ」「私じゃない」と抗弁します。
 ですが探偵は、「問題は利き腕じゃない」「犯人は、暗闇の中で、右手でケチャップを掴んでしまった」「それで、左手で揉まざるをえないんだ」と詰め寄ります。
 乳房を揉まれた女(中国人のヤンヤン今村美乃)は、「間違いない、この手が揉んだんだ」と教頭の左手をとります。
 観念した教頭は「たかがおっぱいじゃないか」と開き直ります。
 ですが探偵は、「これは大変なことになる」「誰も中国から炊飯器を買いに来なくなる」と大袈裟に言います。
 それを聞いた教頭は慌てて逃げようとしますが、クラブの入口付近で、ちょうどやってきた高田松田龍平)に足をかけられて転倒してしまいます。
 教頭は、なおも「あの巨乳が悪い」などと言い訳をしますが、探偵が「全部込みで20万で手打ちだ、いいね」と告げると、教頭は「うん」とうなずきます。
 すると、探偵が「あれはシリコン」と暴露するものですから、教頭は「クソーッ」と悔しがります。

 クラブに高田が連れてきた原田前原滉 )が、依頼案件(失踪した恋人の麗子の捜索)を探偵に持ち込んできて物語が始まりますが、さあ、ここからどのように展開するのでしょうか、………?

 本作については、ヒロインの北川景子が久しぶりながらも大層綺麗であり、また、それなりにストーリーが展開しているにしても、前2作で感じたように、松田龍平の存在感がどうも稀薄であったり、殴り合いの乱闘が延々と続いたりするので、やっぱり上映時間(122分)が長く感じられたところです。それに、せっかくリリー・フランキーを登場させるのならば、単に覚醒剤取引に従事するだけのありきたりのヤクザ屋ではない役柄をやってもらった方が、本作にもっとインパクトを与えられるのではないかと思いました。

(本作はサスペンス物であるにもかかわらず、以下においてはネタバレしている箇所がありますので、未見の方はご注意ください)

(2)「探偵はBARにいる」シリーズでは、登場するヒロインが、皆大きな役割を持っています。
 ただ、第1作目の小雪が扮する沙織にしても、第2作目の尾野真千子が演じる河島弓子にしても、前者はススキノの高級クラブのママであり、後者はヴァイオリニストという具合に、その仕事ぶりなどを描くのにそれほど困難はないでしょう。
 ですが、本作で北川景子が演るマリは、元は風俗嬢で、現在はいかがわしいモデル派遣事務所のオーナーという複雑な役柄のせいか、あまりその実像がはっきりとしません。



 それに、マリは、探偵が彼女のハンドバッグの中身を調べてみると、処方箋とモルヒネの錠剤を所持していることがわかり、なにか重大な疾病を抱えているようです。でも、本作を見ている限りでは、とてもそんな病を抱え込んでいるようには見えませんでした。
 それで、マリについては、本作のラストにかけていろいろな秘密が解き明かされて、ある意味で感動的ですらあるものの、他方で、探偵がバーで呟くように(注2)、なんだか胡散臭さも感じてしまうところです。

 それに、マリの背後にいる北城ですが、リリー・フランキーが演じる役柄にしては平凡な感じがしてしまいます。
 公式サイトの「CAST」で北城は、「表向きは慈善活動に積極的な人道派だが、実は異常なまでのサディスト」「あらゆる悪事に手を染めている」と紹介されていますが、せいぜいタラバガニの足を手下の口に押し込んだり、マリに手錠をかけたり、探偵に対しロシアンルーレットまがいのことをするくらいに過ぎません。



 演技力抜群のリリー・フランキーなら、もっと目を瞠るような悪事を犯しても様になるように思えます。

 なお、探偵は、前2作においてと同様に、本作でも、極寒の中でひどい目に遭わされます(注3)。ただ、手を下したのが探偵と誼を通じている相川松重豊)だけに、何かしら愛情も感じられるところです。

 また、高田は、北城の用心棒の波留志尊淳)との2度目の対決に臨むにあたり、チョコチョコッと強めの練習をするだけながらも、なんとか勝ちを収めてしまうというのは、少々お手軽の感があります(注4)。

 まあ、それでも、探偵と高田が、例のオンボロ車に乗ったりして、なんとか事件の解決に向かっていくというストーリーは、これまでの2作ですでにお馴染みながらも、北海道の大自然やススキノの繁華街などを背景に映し出されると、やっぱり見入ってしまうのも事実です。



(3)渡まち子氏は、「冬の北海道、猥雑なススキノにこだわり、日ハムの栗山監督まで登場するこの第3弾、4年ぶりだが、安定の娯楽作だった。探偵の少し寂しげな背中が、いつもながら愛おしい」として65点を付けています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「安定感抜群の娯楽性を肯定しつつ、あえて注文を付けるならば、想定以上の“驚き”が見当たらないことだろう。マンネリに陥る前に、次回作では思いきった冒険を期待したい」と述べています。



(注1)監督は、『疾風ロンド』の吉田照幸
 脚本は、『ミックス。』の古沢良太
 原作は東直己著『ススキノ探偵』(ハヤカワ文庫JA)。

 なお、出演者の内、大泉洋は『アイアムアヒーロー』、松田龍平前田敦子は『散歩する侵略者』、北川景子は『の・ようなもの のようなもの』、志尊淳は『帝一の國』、鈴木砂羽は『土竜の唄 香港狂騒曲』、リリー・フランキーは『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』、田口トモロヲは『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、安藤玉恵は『彼女の人生は間違いじゃない』、松重豊は『アウトレイジ 最終章』で、それぞれ最近見ました。

(注2)探偵は、いつものバーで高田を横において、「あの手の女の言うことは信用できない」「病気というのも嘘じゃないか」と独り呟きます。
 なお、探偵は、「刑期を終えたマリが姿を現すような気がする」などと呟きますが、計画的に2名の殺人を犯したマリが、死刑あるいは無期懲役を免れてシャバに姿を表すようにも思えないところです。

(注3)探偵は、第1作目では雪の中に埋められましたし、第2作目では、まだ雪のない大倉山シャンツェのスタートゲートのところに縛られて立たされました。本作での探偵は、冬の荒海を走る漁船の舳先に裸同然で縛り付けられますが、前2作の中間的なところといえるかもしれません。

(注4)高田については、本作の本編では、ニュージーランドに留学すると思わせておいて、エンドロールで、実は江別(札幌とは車で40分位の距離)でニュージーランド出身者の教えを受けていることが明らかになるのですが、ご愛嬌でしょう(以降も続編が作られるということでしょう!)。



★★★☆☆☆



象のロケット:探偵はBARにいる3


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斉木楠雄のΨ難

2017年11月25日 | 邦画(17年)
 『斉木楠雄のΨ難』を渋谷Humaxで見ました。

(1)コメディ映画ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、女が犬を連れて散歩をしています。
 そこに男が現れて、「このワンちゃん、可愛いですね」と言います。それに対し、女が「嬉しいわね、ポチ美ちゃん」と応じると、男は「僕も、犬、大好き」「触ってもいいですか?」と言いながら、犬に触ります。
 ですが、同じように道を歩いている主人公の斉木楠雄山崎賢人)には、男が心の中で「本当は犬なんか嫌いだ」と言っているのがよくわかります。
 すると、犬が走り出してしまいます。
 その時、別の方向から車が走ってきて、その犬を轢きそうになります。
 ですが、それに気がついた楠雄は、持っている超能力の一つのサイコキネシスを使って、その車を少し上に持ち上げて犬を飛び越えさせて、犬が轢かれないようにします。

 次いで、楠雄の声。「今から15年前、僕は平凡な夫婦の間に生まれた」。

 父親(田辺誠一)が「本当に可愛いいな。ママの次に」などと言っていると、生まれたばかりの赤ん坊の楠雄が「恥ずかしながら、大便の処理をお願いしたい」と言葉を発するのです。

 楠雄の声。「生後1ヶ月で立って歩いた」「空中も」。
 「1歳ともなると、切れたみりんをたくさん揃えた」。
 母親(内田有紀)が「やっぱり変よ」と言い、父親も「連れて行くしかないな」と応じます。
 そして、母親が「このみりんは、万引きしたのよ」と言うと、父親は「明日、スーパーに連れて行こう」と応じます。
 楠雄の声。「この2人は、ノーテンキな上に、バカップルだった」。

 そして、楠雄の声。「現在、僕は高校生。でも、超能力は健在」。「ギャンブルなんて、お金が手に入るゲームにすぎない」。
 「だが、この力のせいで、僕の人生はメチャクチャなのだ」。

 バス停にいる女の子が今何考えているのか、楠雄には分かってしまいます。
 「あの男の子、タイプ。でも、どうでもいい。ウンコ漏れそう。早くバスが来ないかな」。

 楠雄の声。「僕は、生まれたときから不幸な男なんだ」。
 「苦労して何かを成し遂げたときの達成感とか、サプライズパーティで驚くこととか、僕には何もできないのだ」「とにかく、平穏に生きるのが僕の望み」「基本的に、僕は自分を受け入れている」「この学校でも、僕は、普通の生徒として受け入れられている」。

 ここでタイトルが流れます。
 こんなところが、本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作は、人気漫画を実写化した作品。超能力を持つ高校生の斉木楠雄が、高校の文化祭で引き起こされる問題を一つずつ解決していくうちに、云々というコメディ。ですが、クマネズミには、最初から最後までほとんど笑える要素が見つかりませんでした。おまけに、クマネズミが好まない学園物ときていますから、見なければよかったと思います。でも、酷く面白かったとする感想がネットでいくつも見受けられますから、こういう作品を面白がる感性がクマネズミには欠如しているということでしょう!

(2)本作はコメディとされてはいるものの、『ロスト・イン・パリ』を見たときと同様に、ほとんど笑うことができませんでした。
 とはいえ、笑える要素がまったくないわけではありません。
 例えば、上記(1)に記しましたが、楠雄の幼い時の様子などは、父親と母親のバカ親ぶりと合わせて、まあまあ面白いなと思いました(注2)。

 ですが、バス停でバスを待っている女生徒の内心が分かっても、彼女がごく卑俗なことしか考えていないので、少しもおかしくありません。
 これは、学校一の美少女の照橋心美橋本環奈)の内心が、楠雄の超能力のテレパシーを通じてわかる時も同じです(注3)。



 それから、楠雄のクラスメートの3人組、すなわち、燃堂力新井浩文)、海藤瞬吉沢亮)、それに窪谷須亜蓮賀来賢人)は、いったい何なんでしょう(注4)?



 また、高校の文化祭(「PK祭」)の出し物でイリュージョンショーを演じる蝶野ムロツヨシ)も、他で見られるような勢いが感じられません。箱に入った蝶野に剣を何本も差し込むマジックを演じるのですが、問題が生じると予見した楠雄が、蝶野の代わりに箱の中に入って剣を避け、蝶野は安全なところに現れるというのですから、全くつまりません。

 『銀魂』でそれなりに面白かった佐藤二朗にしても、校長の神田という役柄でごく短い出番に過ぎませんし(注5)、クラスのまとめ役の灰呂笠原秀幸)も、尻を出して倒れるシーンが2回ほどありますが、別にドウということもありません。



 なお、文化祭で問題が起きれば来年から取りやめにすると先生から言われていて、それだけは困ると楠雄は(注6)、ラストになって、超能力によって、学校の周辺を1日元に戻すことにします。すると、学校内では、文化祭の日が朝からもう一度やり直されることになります。
 ですが、そんなことをしたら、同じ問題がまたまた起こるだけのことであり、楠雄はもう一度文化祭をやり直さざるを得なくなることでしょう。
 そして、それは無限に続けられることになり、結局は、楠雄が楽しみにしていることは実現できなくなってしまうことでしょう(注7)。

(3)渡まち子氏は、「誰からも干渉されない静かな生活を望むのに、気が付けば宇宙規模の大事件が発生し、地球を救うハメになる斉木楠雄。この無駄なスケール、まったくやれやれ…である。どこまでも笑いだけを追求する福田監督らしい快作コメディだ」として60点を付けています。



(注1)監督・脚本は、『銀魂』の福田雄一
 原作は、麻生周一著『斉木楠雄のΨ難』(ジャンプコミックス)。

 なお、出演者のうち、最近では、橋本環奈や吉沢亮ムロツヨシ佐藤二朗は『銀魂』、新井浩文は『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』、笠原秀幸は『天地明察』、賀来賢人は『森山中教習所』、田辺誠一は『紙の月』、内田有紀は『俺俺』で、それぞれ見ました。

(注2)原作漫画の第1巻に描かれているような、楠雄の父親と母親の口汚い夫婦喧嘩といったものが、本作でも描かれていたら最悪でした!

(注3)例えば、照橋は楠雄の気を引こうと近づくのですが、注目されたくない楠雄は彼女を避けます。すると、照橋は、「どうして、楠雄は、皆のように「おっふ」と言わないのかしら?」「きっと、驚きすぎて正気でないのね」と心の中で言ったりします。そして、「私、完璧な美少女だから、私のこと、夢か幻と思っているに違いない」「もう一度チャンスをあげよう」と心の中で言いながら、照橋は楠雄に近づくのですが、今度は瞬間移動を使って楠雄は消えてしまいます。すると、照橋は「私、幻を見ていたのかしら」と不思議がるのです。
 でも、こんな自己中の女の子の心の中を見せられても、殆ど面白さを感じないのですが。

(注4)38歳の新井浩文が、「ケツアゴ」を付けモヒカンヘアとなって、15歳の高校生役(それも、“ミステリアスバカ”なので、気配を楠雄はつかむことができないのです)を演じているのはものすごいことですが、だからといって面白いわけではないでしょう。
 また、海藤ですが、中二病患者で、「漆黒の翼」となって「ダークリユニオン」(この記事が参考となります)と戦っている自分を演じている、というのでは笑いようがありません。
 さらに、元ヤンの窪谷須も、いくら白目をむいても何それという感じです。

(注5)ミスコンテストを見ながら「実に欲情しますね」と言うだけに過ぎません。

(注6)文化祭の当日は、自分の出番がないために、楠雄は、テレポートを使って日帰り温泉旅行に行く計画を持っていたのです。

(注7)ただ、今回の文化祭のように、楠雄が、問題が起こらないようにと文化祭を隅々まで監視するのであれば(今後開催される文化祭についても、楠雄が同様に対処するのであれば)、元々、上記「注6」に記した日帰り旅行などに行く時間的な余裕はないことになるのではないでしょうか?



★★☆☆☆☆



象のロケット:斉木楠雄のΨ難

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リングサイド・ストーリー

2017年11月22日 | 邦画(17年)
 『リングサイド・ストーリー』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)予告編を見て面白いと思い、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、力道山vsルーテーズの試合の場面とか力道山が空手チョップをしている姿などを、昔のプロレスの映像を使って映し出します。
 それから、アントニオ猪木とかジャイアント馬場などが登場し、日本プロレスは絶頂期になって、プロレスシーンは実に熱かった、そして今プロレス界は新時代を迎えている、などというナレーションが入ります。

 次いで、プロレスラーのキャラクターがいろいろ動くお弁当が作られている場面となって、タイトルが流れます。

 そして、主人公の江ノ島カナコ佐藤江梨子)が働いている弁当工場の場面。
 カナコは、会社の幹部に呼ばれます。
 カナコが「なんで私なんですか?」と尋ねると、幹部は「どうしても1人減らさないといけないんだ」「他の人は、いろいろと訳があって」と答えます。
 なおもカナコが「私だって困ります」と粘っても、幹部は「あんたは、何をやっても生きていけそうだし」「この際、結婚したら?」「聞いているよ、噂」と言い、「でも、売れないのは無職と同じか」と付け加えます。
 それに対し、カナコは「ヒデオは無職ではありません」と反論します。

 場面は、オーディション会場。
 オーディションを受ける者の中にヒデオ瑛太)が混じっています。
 ヒデオは他の応募者達を見て、「今日は何のオーディションなのかわかっているの?」と批判します。
 その時、カナコから携帯にかかってきますが、ヒデオは「俺、大事なオーディションの最中。そんなの後にしてくれ」と言って、切ってしまいます。
 その時、係員から「1番から10番まで中に入ってください」との声がかかり、ヒデオは慌てて審査員のいる部屋の中に入ります。

 場面は変わって、カナコの母親・恭子余貴美子)が営む美容院。
 カナコが顔を出すと、美容室に来ていた隣の豆腐屋の女将・桃子角替和枝)が「カナコちゃん、久しぶり」と言い、次いで恭子も「久しぶり、元気?」「何かあったの?」と尋ねます。
 カナコは「仕事、切られた」「明日から無職」と答えます。
 それに対し、恭子は「ウチを当てにしないでよ」「年内一杯なんだから」と言います。
 カナコが「寂しくなったね、商店街も」と応じると、恭子は「ヒデオ君、元気?」と尋ねます。
 カナコが「今、オーディション中」「でも、30すぎのおっさんには難しいみたい」と答えると、恭子は「私には若く見えるけど」と言います。それに対して、カナコは「でも、35だよ」と呟きます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、長年同棲している恋人の生活を支えている主人公の女の物語。女の恋人は俳優志望ながら、オーディションに落ち続ける売れない役者で、文句ばかり言って仕事をしないで家にいるグータラ人間です。主人公は、一生懸命働いて恋人を支えますが、主人公が浮気をしているに違いないと恋人が勘違いするところから様々な騒動が持ち上がるというコメディ仕立てになっています。よくある設定の物語ですが、まずまず笑える作品となっています。

(2)本作は、なんだか、すぐ前に見た『南瓜とマヨネーズ』と似ている設定ですが(注2)、本作の場合、恋人・ヒデオはミュージシャンではなくて俳優。ただ、『南瓜とマヨネーズ』のミュージシャン・セイイチ太賀)と同じように、ヒデオも、アレコレ文句ばかり言っていて仕事をしようとはしないのです。



 いきおい、男を支える主人公の働きぶりに注目が集まるところ、『南瓜とマヨネーズ』では、主人公・ツチダ臼田あさ美)は水商売に入りますが、本作の主人公・カナコはプロレスとか格闘技関係の団体で働くがために(注3)、とんでもない事件が色々起こります。それで、『南瓜とマヨネーズ』がリアルなラブストーリーとなっているのに対し、本作は、まずまず笑えるラブコメディとなっています。

 さらに言えば、本作は、同じ監督が制作した『百円の恋』とも似ている感じです。
 特に、『百円の恋』の主人公・一子安藤サクラ)のグータラな生活ぶりは、本作のヒデオのグータラさを上回るでしょう(注4)。
 ただ両作は、途中からかなり違った方向に向かいます。
 すなわち、『百円の恋』では、一念発起した一子がボクシングジムに通いつめ、それまでの肥満した体を実にスリムなボディに引き締めるだけでなく、鋭いパンチを繰り出せるまでに練習を積み重ね、念願の試合に臨むまでになるのに対し、本作のヒデオは、K-1の社長(峯村リエ)に試合を命じられたことでもあり(注5)、そんなに氣の入った練習はしないのです。



 結果は類似するものになるとはいえ、まるで違った雰囲気を醸し出します。
 こうなってしまうのも、本作がコメディであり、また格闘技自体を描く作品ではないことによるものでしょう。

 加えて言うと、本作は、『ミックス。』の前日譚と言えないこともありません。
 というのも、同作で主人公の多満子新垣結衣)とペアを組むことになる萩原瑛太)は、今は建設工事の現場で働く労働者ながら、元はプロボクサーだったのです。それが、目をやられて引退に追い込まれてしまったという設定になっています。
 そして、ボクシングではサウスポーだったということで、卓球のミックスで有利な左打ちが出来るとされています。
 本作のヒデオは、逆に、小学校の6年間、卓球で左打ちをやってきたために、K-1の練習の際に、左打ちの素早さが注目されて、「短い練習期間だから左フックだけ覚えろ」というアドバイスを受けることになります。
 こんなところから、クマネズミには、本作のヒデオが『ミックス。』の萩原に入れ替わるような印象を受けました。

 それだけでなく、本作では、K-1の武尊とか城戸康裕、プロレスラーの黒潮”イケメン”二郎、村上和成などの現役選手が色々出演しますが、『ミックス。』でも、水谷隼、石川佳純、伊藤美誠といった現役選手が出演しています。

 こうしたところから、このところ続けて見た本作と『南瓜とマヨネーズ』、そして『ミックス。』は、どうも昨年見た『百円の恋』と密接な関係にあるような印象を受けます。
 4本の作品の共通項は、“倹しい恋物語”、あるいは“百円生活(注6)のラブストーリー”といったところでしょうか。

 それはともかく、本作においては、ラスト近くに映し出されるヒデオの入場シーンが、とても素晴らしいと思いました。なにしろ、フラワーカンパニーズの「消えぞこない」の曲(注7)に乗って、試合に出場しないとされていたヒデオが、実に華々しくリングに向かって登場してくるのですから!
 このシーンがあるからこそ、酷く嘘くさかった本作の物語も(注8)、まあ許せるか、という感じになりました。



(注1)監督は、『イン・ザ・ヒーロー』や『百円の恋』の武正晴
 脚本は、横幕智裕と李鳳宇。
 この記事によれば、本作は「半分実話」とのこと。

 なお、出演者の内、最近では、佐藤江梨子は『R100』、瑛太は『ミックス。』、余貴美子は『後妻業の女』、高橋和也は『太陽』、近藤芳正は『紙の月』、田中要次は『お盆の弟』、角替和枝は『くちびるに歌を』で、それぞれ見ました。

 また、本作については、公開できないかもという噂があったようで(この記事)、クマネズミも、あまりPRされていないので情報を持たずじまいとなり、公開終了間際になって、慌てて新宿武蔵野館の夜1度だけの上映回に滑り込んだ次第です。

(注2)両作とも、同棲している男女のうちチ、女が生活を全面的に支えています。
 ただし、『南瓜とマヨネーズ』の場合、原作漫画の第1話によれば、ツチダとセイイチとは同棲して1年半とされていますが、本作のカナコとヒデオの同棲生活は10年も続いているとされています。




(注3)弁当工場を解雇されたカナコを就職させるために、ヒデオが、プロレス団体(「WRESTLE-1」)宛に、プロレスについての薀蓄を披露した手紙を書くのですが、それを読んだその団体の常務(田中要次)が感激して、カナコを事務員として採用することとします。
 ですが、ヒデオが、カナコがレスラーと浮気したと勘違いしてと騒動を引き起こしたために、カナコはそこも辞めざるを得なくなります。ただ、幹部同士でつながりのあったK-1に紹介してもらって、カナコはそこの広報を担当することになります。



(注4)『百円の恋』の一子は、全く何もしないのに対し(一応は、実家に戻ってきた妹の子供の面倒を見ていることになっていますが、一緒にTVゲームをするばかりです)、本作のヒデオは、オーディションに顔を出しているのですから。

(注5)ヒデオが、カナコがK-1の和希武尊)と浮気していると勘違いして、試合に臨む和希に対しキグルミを着たヒデオが殴りかかり、試合をメチャメチャにしてしまいます。怒ったK-1の社長が「負け犬みたいなあんたを見ていると反吐が出る」「あんた、和希と勝負してみる?」と挑発すると、ヒデオは「やってやるよ」と挑発に乗ります。それで、社長は、「今度の大会でエキジビションをやらせる。その代わり、1回保たなかったら、江ノ島さんときっぱりと別れることにしなさい」と宣言します。

(注6)この拙エントリの(2)をご覧ください。

(注7)こちらで視聴できます。

(注8)あのひ弱なヒデオが、いくら猛特訓をするにしても、僅かな期間でK-1のリングに上がるというのは、非常識すぎますから(『ミックス。』における卓球とは訳が違うでしょう)。



★★★☆☆☆



象のロケット:リングサイド・ストーリー

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南瓜とマヨネーズ

2017年11月20日 | 邦画(17年)
 『南瓜とマヨネーズ』を新宿武蔵野館で見てきました。

(1)予告編を見て良さそうだなと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、ライブハウスのコントロール室のようなところが映し出されたり、ドラムスとかギターなどや、シャワーを浴びている人の足元なども、映し出されたりします。
 そして、コントロール室では、主人公のツチダ臼田あさ美)が、PAミキサーを調整しています。
 さらには、演奏が終わった後の会場の後片付けを行ってもいます。

 次の場面は、キャバクラ。
 マネージャーの面接を受けていたのでしょう、ツチダは「来週から、水曜日と土曜日、よろしく」と言われ、さらに「歳はどうする?」と訊かれます。
 ツチダが「27です」と答えると、マネージャーは、「チョット、サバ読んどけば」と応じ、さらにツチダが「他の人はどのくらいにしています?」と尋ねるので、「5つくらい当たり前」と答えます。
 それでツチダは、「じゃあ23くらいにしてください」と言います。
 マネージャーは、他の女たちに、「この子、今度ここで働くことになった」と紹介すると、ツチダは「ツチダです」と自分の姓を言います。
 それに対しマネージャーが、「ツチダじゃあ、指名来ないよ」と言うので、ツチダは「ミホでいいです」と応じます。

 そして、翌週、ツチダは初めてキャバクラに出勤します。
 キャバクラ嬢の可奈子清水くるみ)が客の田島といる席に、ツチダが顔を出します。
 すると、田島が「誰?」と訊くので、ツチダは「ミホです」と答えますが、田島は「暗いね、大丈夫?」と行ってきます。可奈子が「そう絡まないで」「慣れないだけなの」と注意すると、田島は「早く慣れたほうがいいよ」「こういうことをする客もいるよ」と言って、ツチダの足に触ってきます。
 ツチダが驚いて立ち上がると、可奈子は「田島さん、そういうことしないでください」と怒ります。

 キャバクラの更衣室。
 ツチダが可奈子に「今日はごめん」「田島さんは可奈子ちゃんのお客なんでしょう」と言うと、可奈子は「別にかばったわけじゃない」「あんな男は普通だよ。歌舞伎町でボッタクられた人がこっちに流れてくる」「あんたも、どうせすぐにやめちゃうんでしょ」と応じます。
 これに対し、ツチダが「売れっ子って凄いんだね」「可奈子ちゃん、若いのに大人」と驚くと、可奈子は「それ皮肉?」と応じます。

 ツチダが深夜に「ただいまー」とアパートに戻ると、同棲しているセイイチ太賀)が「お帰り」と答え、「気がつかない?」と言うので、ツチダは、部屋の散らかった様子を見て「何か作ったの?」と尋ね、見回して「あっ、棚」と言います。
 セイイチは、なおも「これ、塗装の具合がいいんだよ」と説明しますが、ツチダがトイレに行こうとして戸を開けると、棚は下に落ちてしまいます。
 セイイチが「だめだなー」と気落ちするので、ツチダは「静かに開け閉めすれば大丈夫じゃない」と言います。ですが、セイイチは「やり直しだ」と応じます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこの後、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、魚喃キリコの漫画を映画化した作品で、同棲しているミュージシャンの生活を支えるためにキャバクラで働くことになった主人公の女が、昔別れた男と出会い再び関係を持ってしまって、云々というお話。特段の事件が起きるわけでもありませんが、だからこそ、二つの恋愛の中で揺れ動く主人公の気持ちが見る者に伝わってくる感じで、こういう作品もいいなと思いました。

(2)本作では、特段のことが起こるわけではなく、男女の入り乱れたどろどろした愛憎劇が描き出されているわけでもありません。
 本作の主人公のツチダは、同棲相手のセイイチが作曲して歌う歌を聞きたいがために、セイイチの生活をサポートします(注2)。



 セイイチも、以前一緒に演奏していたバンド仲間とは意見が合わず(注3)、何もせずに家でゴロゴロしているばかりです(注4)。
 そういう男女の間柄なら、これまでも何度も映画で描かれてきたように思います。

 ただ、本作の特徴的なところは、そんなツチダですが、多額のお金が得られるとなると、キャバクラで出会った見知らぬおじさんの安原光石研)と関係を持ちますし(注5)、さらには、昔別れたハギオオダギリジョー)に偶然出会うと、途端にヨリを戻してしまうのです(注6)。



 見ている方は、セイイチを愛しているんじゃなかったの、と思うのですが、ツチダにはそうすることにためらいも何もなさそうな感じなのです。
 他方で、そんな関係に気付いたセイイチにしても、ツチダを激しく怒ったりはせずに、黙って自分で働きに出るようになったりするだけで、一応のところ、同棲生活は続けるのです。

 あるいは、元の生活をそのまま継続することに何かしらの軋みを感じてきて(注7)、ツチダとセイイチは、時間をかけて次の新しいステージに軟着陸しようとしているのかもしれません。
 ツチダは、安原との愛人関係を継続しませんし、ハギオとも別れ(注8)、セイイチの方も、ツチダのアパートを出て、実家の方に移ることになります。
 こうして、ツチダは、また新しい生活を始めることになるのでしょう(注9)。

 本作は、すぐ前に見た『彼女がその名を知らない鳥たち』ほど特異な愛の形ではないにせよ、また現代ならありうるかもしれない愛の形が描かれているかもしれないと思ったところです。
 登場人物のそれぞれが自己主張をしているようでいて、にもかかわらず時の流れに流されていくようでもあり、理解が難しいなと感じさせるところがあります。

 なお、本作には、『エルネスト』で見たばかりのオダギリジョーが登場します。同作では、キューバで医師を目指す青年・フレディを実に清々しく演じていましたが、本作では、それとは打って変わって、女にとり憑くどうしようもない男を、これまた実に説得力ある演技で演じています。

 それにしても、タイトルの「南瓜とマヨネーズ」の意味合いは何なんでしょう(注10)?

(3)北小路隆志氏は、「登場人物は成熟や堕落を知らず、ただ崩壊するばかりで、そんな「崩壊」としてある「日常」を、安易な希望や絶望の介在抜きに単純な事実として肯定すること……。だからこそ本作は――ラスト近くでのツチダの台詞の盗用になるが――とても優しくて可愛く、そして尊い」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『乱暴と待機』の冨永昌敬
 原作は、魚喃キリコの漫画『南瓜とマヨネーズ』(祥伝社)。

 なお、出演者の内、最近では、臼田あさ美は『愚行録』、太賀は『アズミ・ハルコは行方不明』、オダギリジョーは『エルネスト』、光石研は『アウトレイジ 最終章』で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、ツチダは、「セイちゃんはミュージシャンなんだから、作曲とかライブとか、することあるでしょ」「ねえ、いつ聞けるの?」などとセイイチに言ったりします。
また、キャバクラで同僚の可奈子にも、「(自分の男は)音楽やっているから、いつも家にいる」と喋っています。

(注3)昔一緒にバンドを組んでいた仲間が、焼鳥屋に集って話すシーンがあります。
 寺尾若葉竜也)が「お前に戻ってきてほしい」「また一緒にやれないか」と言い、田中浅香航大)は「それを言い出したのはレコード会社」、川内大友律)も「(レコード会社に)搾取されるくらいに売れてみたい」と言うのですが、セイイチは、「レコード会社の戦略で売れても白々しいだけ」「売れたらなんでもいいというのが問題」などと、他の3人の考え方を強く批判します。
 要すれば、レコード会社の営業方針にどこまで自分を従わせるのかという点で、セイイチと他の3人とは大きな溝があるようです。

(注4)ツチダが家に戻ると、机の上に書きかけの楽譜が置いてあり、「何か曲が書けたの?」「すごいね」とツチダが喜ぶと、セイイチは「途中まで」「半分できている曲ならたくさんある」と答えます。要するに、セイイチは、昼間、家にいて作曲しているようでいながらも、実際のところは、出来上がった曲がまるでないのです。

(注5)安原に、「お金が稼げるもっと別の方法がある」「店長に言わないのなら教えてあげる」と言われて、ツチダはラブホテルに付いて行き、安原の話を聞きます(ツチダが、「これからすることって、援交になるのですか?」と訊くと、安原は「普通は「愛人」と呼ぶ」と答えます)。本作では、ツチダは「今日はお話だけで」と言っていて、その場面も描かれませんが、ツチダが多額のお金を手にしているところを見ると、関係を持ったものと考えられます。

(注6)ツチダは、ライブハウスの来場者のなかに、昔付き合っていたハギオを見つけます。そして、ライブハウスの屋上に2人で上がって話します。
 ハギオはツチダのことをなんとも思っておらず忘れていたようながら、ツチダの方はずっと思い続けていたようで、「人試飲したけど、ハギオのために堕ろした」などと言い、体を寄せ合います。

(注7)ツチダは、家でブラブラしているセイイチに、「今日、何してた?あたしのために、何してくれた」「あたしは働いていた」などと文句を言うようになります。

(注8)ツチダはハギオに、「ハギオに見透かされるのが怖い」「もう会わない」と言います〔でも、ハギオが「(何処かで出会った時に)隠れるなんてできないでしょう?」「また、ハギオって追いかけるんでしょう?」と言うと、ツチダも「うん」と頷いてしまうのですが〕。

(注9)ただ、原作の「最終話」のラストを見ると、ツチダとセイイチは再会し、ツチダが「髪、長くなったね」と言うと、セイイチは「また切ってよ」と答え、さらに、ツチダは「セイちゃん、おなかすいてない?」「うちに帰ったら、なんかあったかいの食べよ?」と言います。
 本作のラストと違って、原作においては、結局、元の生活に戻るのではないでしょうか(ラストでは、ツチダのアパートで、ちゃぶ台の前に座っている姿が描かれ、「わたしたちの生活 毎日 日常」「せいちゃんが笑っているということ あたしがわらっているということ」というモノローグが書き込まれています)?

(注10)劇場用パンフレット掲載の原作者・魚喃キリコ氏と冨永監督との対談で、魚喃キリコ氏は「『南瓜とマヨネーズ』っていう題名は、慎ましやかな生活を意味してるのね」と述べています。
 でも、本作で描き出されているツチダの生活は、果たして“慎ましやかな”ものでしょうか(確かに、生活レベルはかなり低く、食事なども“慎ましやかな”ものかもしれませんが、ハギオなどとの関係を見れば、そんなに“慎ましやかな”ものとも言えないような気もしますが)?



★★★★☆☆



象のロケット:南瓜とマヨネーズ

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彼女がその名を知らない鳥たち

2017年11月15日 | 邦画(17年)
 『彼女がその名を知らない鳥たち』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)蒼井優の主演作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注)の冒頭では、マンションの1室で、十和子蒼井優)が電話をかけています。
 十和子が、「そろそろ何とかしてもらわないと」「電話もこれで3回目」と言うと、電話の相手(デパートの時計売り場の店員)は「何分、メーカーが操業停止しておりまして」と答え、それに対し十和子が「それは先週聞きました」「なんだか私がゴネているみたい」「誠意が感じられません」「責任者と話がしたい」と言うと、相手は「責任者は今席を外しています」と答えるので、十和子は「では、私の方から電話します」と言って、電話を切ります。

 十和子は、マンションの部屋から出て外の廊下を歩いていると、陣治阿部サダヲ)から電話が。
 十和子が嫌そうに「何?」と訊くと、陣治は「今、うちか?」と尋ねます。それに対し十和子が、「電話かけてこないで」と言うと、陣治は「晩飯、何買ったら良い?」と尋ねます。それに対し十和子は、「うるさい!」と言って、電話を切ります。

 次いで、場面はレンタルDVDの店。
 十和子が、「見れないんです、これ」「途中で画面が止まってしまうから」「途中まで見た時間をどうしてくれるんですか?」と文句を言っています。
 その時、店の外に男の影を見て、十和子は店を出ます。
 すると、また携帯に陣治から電話がかかってきます。
 十和子が「いい加減にして!」と怒ると、陣治は「何かあったのか?」と訊くのですが、十和子は電話を切ってしまいます。

 ここでタイトルが流れます。

 十和子と陣治が住むマンションの部屋。
 十和子は、TVのディスプレイにDVDを映し出して見ています。
 映っているのは、ベッドで寝ている十和子。黒崎竹野内豊)の声が、「起きて」「十和子、起きて」「何時間寝ているんだ」などと言っています。

 そこへ陣治が「只今」と部屋に入ってきます。十和子は、慌ててDVDを仕舞います。
 陣治は、「天ぷら買ってきた」「今、うどん作るから」「天ぷらうどんにしよう」「ビール飲んでて待っていて」と言いながら、台所のシンクで顔を洗います。

 2人でちゃぶ台で、陣治が作った天ぷらうどんを食べます。
 陣治は、口の中に指を入れて歯を抜き出し、ちゃぶ台の上に置きます。
 それから、「今日は1日しんどかった」「主任がうるさくて」「うちの会社でまともに図面が描けるのは俺だけなのに」と陣治が言うと、十和子は「一国一城の主になるというのはどうしたの?」と混ぜっ返します。陣治が「まあ、見てな」「十和子のためならなんでもする」と答えると、十和子は「50にもなるのに、よく言うわ」と応じます。

 こんなところが、本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作は、『ユリゴコロ』の原作者が書いた小説を映画化したもので、同作では、サイコパスの女が主人公でしたが、本作は、とても共感を呼ばない嫌な女を主人公として、彼女の周りに集まるこれまたおかしな男たちとの関係を描き出します。とてもありそうもないお話しながら、全体がラブストーリー物のサスペンスに仕上がっているのは面白いなと思いました。

(本作はサスペンス的な要素が多く盛り込まれている作品にもかかわらず、以下においてはいろいろとネタバレしておりますので、未見の方はご注意ください)

(2)このところ、“イヤミス女王”と言われる沼田まほかる氏(注2)の著書を映画化した作品を、2本立て続けに見ています。一つは、先月見た『ユリゴコロ』であり、もう一つが本作です。
 タイトルが異なるとはいえ、同じ著者の小説を映画化しているのですから、雰囲気が似てくるのは当然でしょうが、さらに、『ユリゴコロ』に出演していた松坂桃李が、本作でも重要な役柄を演じています。

 もう少し申し上げれば、『ユリゴコロ』は、サイコパスである美紗子吉高由里子)が主人公であり、彼女によって何人も殺され、“イヤな”雰囲気を醸し出していますが、本作の主要な登場人物も、人から毛嫌いされる者ばかりなのです。
 すなわち、本作の主な登場人物の十和子は、上記(1)からわかるようにモンスタークレーマーですし、マンションで陣治と一緒に暮らしていて、陣治の稼ぎでそれが可能なのにもかかわらず、陣治のやることなすことを絶えず口汚く罵る大層身勝手な女です。
 また、十和子よりも15歳年上の陣治の方も、粗野で卑屈であり、見た目も至極不潔な男です。



 その上、8年前に十和子が心を動かした黒崎や、肉体関係のある水島松坂桃李)は、十和子に酷く不誠実な態度をとったりします(注3)。



 さらには、『ユリゴコロ』が途中からラブストーリー色が濃厚になってくるのと同じように、本作も、後半になるとガラリと様相が一変して、十和子と陣治との思いがけない関係が明らかになってきます。

 その際、要となるのが、『ユリゴコロ』では細谷亮介松坂桃李)の婚約者の友人〕の存在でしょうし、本作では十和子の記憶喪失でしょう。
 ただ、映画『ユリゴコロ』では、細谷を木村多江が演じたことなどで問題が生じているように思えましたが(注4)、本作では、十和子が、ラストに近づくまで8年前の出来事を完全に忘れているという点でリアリティがやや欠けているように感じられました(注5)。

 加えて言えば、最後に陣治が十和子に、「これからは、思い出したことを全部抱えて生きていくんや」「十和子、目を覚ませ」と言いながらも、「俺が助けてやる」「十和子が思い出したこと、俺が全部もっていってやる」と言いますが、そんなことで事態は上手く収まるのでしょうか?
 十和子は、ラストに至り8年前のことをすべて思い出したのであり、いくら陣治が8年前のことを引き受けると言ってみても、それは彼がやったのではなく、十和子自身が引き起こしたことなのですから、十和子が自分でケリを付けなければ立ち直れないように思われます。
 一体、十和子はどのようにケリを点けるというのでしょう?

 ラストでは、最初に3羽の鶏が飛び立ち、その後沢山の鳥が飛び立ちます。
 十和子はそれを見上げるのですが、その鳥は、あるいは、十和子がこれまで直視してこなかった「真実の愛」というものを象徴しているのかもしれません(注6)。
 でも、それを見ることによって十和子はいったい何を得るのでしょうか(注7)?

 とはいえ、それらのことは、酷く特異ながらも愛の形が描き出せれば、どうでもいいことなのでしょう。
 それに、本作における出演俳優の演技合戦は見ものです。
 特に、阿部サダオの演技は、元々演技のとても上手な俳優ながらも、いつも以上に説得力が備わっているように感じられましたし、また松坂桃李も竹野内豊も、十分役になりきっているように思われました。
 ただ、期待した蒼井優ですが、『オーバー・フェンス』でのキャバ嬢とか『ミックス。』での中華屋給仕などを見てしまったせいかもしれませんが、そして、グータラで自堕落な女という役柄上、仕方がないのかもしれませんが、イマイチの感じがしたところです。

(3)渡まち子氏は、「(白石和彌監督は)本作では、欠点を隠そうともしない人間臭い男女を通して愛の本質に迫っている。その気概に、蒼井優と阿部サダヲの2人が凄みのある演技で答えた」として70点を付けています。



(注1)監督は、『日本で一番悪い奴ら』の白石和彌
 脚本は浅野妙子
 原作は、沼田まほかる著『彼女がその名を知らない鳥たち』(幻冬舎文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、蒼井優は『ミックス。』、阿部サダヲは『殿、利息でござる!』、松坂桃李は『ユリゴコロ』、竹野内豊は『シン・ゴジラ』、中嶋しゅうは『関ヶ原』(伊賀忍者の赤目役)で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、この記事とかこの記事

(注3)黒崎は、借金の返済のために、自分の結婚相手の叔父・国枝中嶋しゅう)とセックスするよう十和子に強要するのです。
 また、水島は、メルヘンチックな作り話(「去年はタクラマカン砂漠に行った」)をしたりして十和子の気持ちを自分の方に向けさせますが、単に、十和子の肉体を求めているだけのことでした。

(注4)映画『ユリゴコロ』についての拙エントリの(2)をご覧ください。

(注5)原作小説では、陣治が十和子に、「自分を守ろ、なんとか生きていことする本能みたいなもんが、十和子に忘れさせたんや」とか、「俺が読んだ本には、えらい難しいこと書いてあったわ。防衛の機制がどうたら、罪障感を伴う記憶の歪曲がどうたら―、要するに、潜在意識下への抑圧いうのが原因になって、いろいろ考えられへんような逸脱行動やら神経症やらが起きているていうことや。せやけど、そんなんピンとけえへん。ええか十和子、これは、昔の人が怨霊とか祟りとか言うたことなんや。ほんまにそんなことが起きたんや。お前が忘れているのをええことに、黒崎の霊がおまえにとり憑いとったんや」と話します。
 こうした陣治の言い方では、結局、「(起きたことは)昔の人が怨霊とか祟り」によるということになってしまいます。
 勿論、それは陣治の言い分にすぎないのであり、それを真に受ける必要はないのでしょう。
 それに、こうした記憶の欠落が実際に起こることもあるのかもしれません(本作の映画では、原作で述べられている心理学的な説明の部分は、陣治の台詞から落ちてしまっていたように思います。とはいえ、陣治は、当初は大手の建設会社のホワイトカラーだったはずで、「悪霊とか祟り」といった非合理な説明を受け入れているとも思えないのですが。それはともかく、十和子の事例は、あるいは、精神科で「解離性健忘症」と言われるものに相当するのかもしれません←例えば、この記事が参考になるでしょう)。
 ただ、それに十分なリアリティを持たせるには、十和子の日常の言動にそれらしいことを振り当てる必要があるのではないでしょうか?
 例えば、本作とは逆に、黒崎と同様の雰囲気を漂わせる水島を見るとものすごい拒絶反応を示したり、凶行場所の駐車場には、足がすくんでしまってどうしても近づけなかったりするといったような。
 でも、本作の十和子は、単に8年前の出来事を忘れているだけで、他の言動はずっと変わりがないように見えます。なにしろ、水島に黒崎の幻影を見てしまうくらいなのですから。

(注6)直視してこなかったがために、十和子は「その“鳥の名”を知らない」のでしょう。
 そして、その“鳥”を目で見たからこそ、その鳥たちを見上げる十和子の顔は輝いているように思えました。
 とはいえ、ラストで、十和子と陣治との生活の楽しかった部分が回想として流れますが、それは「愛」の真実の反面であり、もう一つの半面をも十和子は直視しなくてはならないものと思われます。
 陣治は、「もっと真っ当な男を見つけて、俺を産んでくれ」「俺はタネナシやけど、お前の体の中に入れるから」と言いますが、ということは、陣治は、十和子が自分との真実の関係を忘れることを望んでいるのでしょうか?でも、そんなことになったら、同じことの繰り返しになるだけのように思えるのですが。

(注7)『ユリゴコロ』でも、ラストは、細谷が亮介の父親・洋介の病室に赴くところで終わっていて、その後どうなるのかはわかりません。
 しかしながら、物語の結末の先の話など詮索するまでもないでしょう。
 本作についても、その後お十和子がどうなるのかなどどうでも良いことなのかもしれません。



★★★☆☆☆

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アウトレイジ 最終章

2017年11月04日 | 邦画(17年)
 『アウトレイジ 最終章』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)北野武監督の「アウトレイジ」三部作の最後の作品ということで、本作を見に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭の舞台は済州島。
 軽トラックが海の方へ進んでいきます。
 そして、大友ビートたけし)の腹心の部下の市川大森南朋)が、堤防で釣りをしています。
 大友が「週刊誌を読んだら、タチウオが釣れるのは夜とあったけど」と言うと、市川は「たまに昼間来ることがあります」と応じます。

 次いで、夜の繁華街を大友らの乗る車が走ります。
 そして、停まった車から大友らは降りて、ガールズバーに入っていきます。
 そこに、携帯で「すぐ来てくれ」との連絡が入り、男が「すぐ行きます」と答えて、大友に「客が、うちの女が気に入らないと騒いでいるようです」と報告します。
 大友は「どこだ?」と言って立ち上がります。

 大友らは、ホテルの部屋に入っていきます。
 女が「変なことするから嫌だって言ったら、殴られた」と言い、そばの男が「うちの親分が怒ってしまい、金は払わないと言っています」と告げます。
 大友は、別室にいる花田ピエール瀧)に向かって、「どうかしましたか?」と尋ねると、花田は「あんな女、面白くない」と答えます。
 それに対し、大友が「うちの女をキズモノにしおって」と怒ると、花田は「おのれら、花菱と喧嘩するのか?」と怒鳴ります。
 すると、市川は「花菱がどうした」と言って、銃を向けます。
 それで花田は、「ここはおとなしくいこう」「現金の持ち合わせがない」「200万円出す」と言います。
 それに対し大友は「女たちの顔を見てから言え」と応じます。
 花田は「必ず円で用意する」と言い、さらに「あんたの名前は?」「日本人だろ?」と尋ねます。
 大友は、「名前なんかどうでもいい」「カネはこいつに払っておけ」と言ってホテルを出ていきます。

 後に残された花田は、「俺に恥をかかせやがって」と、そばにいた男たちを殴り、さらに「俺は、朝一で日本に帰るから、お前ら上手くやっておけ」「あんな奴らに払うわけがない」「ガタガタ言ったら、ぶち殺したれ」と言います。

 次いで、花菱会の本部事務所に、幹部の親分衆が集まってきます。
 若頭の西野西田敏行)が「花田がどうしたんや?」と尋ねると、若頭補佐の中田塩見三省)が「あいつ、急な仕事で韓国へ行った」と答えます。
 それに対し西野は、「ここに来るのが仕事やないか?」と言い、「わしの頭越しに会長の機嫌をとるようなことはするな」「会長には、後から話しておく」と付け加えます。
 西野が、さらに、「今度の会長は、会議ばかり開いて」とこれみよがしに言うと、中田は「兄貴、声が大きい」と制します。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作では、相変わらず、ピストルや機関銃などがぶっ放され、人が次々と死んでいきます。そうした中で、タケシが扮する主人公の大友が筋を通すとはいえ、関係者を色々と殺した挙句にいったい何が残るのか、殺された者の後釜に同じような者が入り込むだけのことであり、彼を取り巻く状況は何も変わっていないように見え、とても虚しく感じたところです。

(2)クマネズミは、これまで『アウトレイジ』(2010年)と『アウトレイジ ビヨンド』(2012年)を見ていて、本作は、それらを締めくくる作品だということで映画館に行きました。

 これまでの2作については、それぞれのエントリで書きましたように、北野武監督の『ソナチネ』との関係性が注目されるところ、本作においては、既に色々と指摘されているところながら、その類似性が強く感じられました(注2)。
 例えば、
・これまでの2作では、主たる舞台は東京ですが、本作においては、『ソナチネ』の舞台が沖縄であったのと類似して、その冒頭の場面は韓国の済州島が舞台になっています。

・本作においては、花菱会の幹部の出所祝のパーティーに大友と市川が乗り込んで機関銃を乱射するのですが、このシーンは、『ソナチネ』のラストの方のシーンを彷彿とさせます(注3)。



・本作のラストで、大友は拳銃で自決しますが、『ソナチネ』においても、主人公の村川(ビートたけし)は、車の中で自決します。

 ただ、『ソナチネ』で見られたような一風変わった場面(注4)は、これまでの2作と同じように、本作でも全く登場しませんし、また女性の役割も本作では極端に小さくなっています(注5)。

 さてこれで何が描き出されたのかというところですが、クマネズミには虚しさが強く感じられたところです。
 大友は、本作でも様々な人物を血祭りにあげています。



 例えば、大友は、世話になっている金田時男)の部下が花田の若い者に殺されたことや、花菱会の会長の野村大杉漣)が張会長への襲撃を指示したことから、張会長を襲った木村組組長の吉岡池内博之)や花菱会の野村会長などを殺し、最後には、花田や、部下だった木村中野英雄)を殺したヒットマンまでも射殺します(注6)。



 でも、野村会長が殺されると、その後を襲って花菱会の会長の椅子に座ったのは昔気質の若頭・西野ですし、木村を殺したヒットマンといっても、既にヤクザから足を洗って車の修理工場を営んでいる男なのですから。
 要するに、大友の場合、なにか新しいものを作り出すための殺しではなく(注7)、自分の気持ちに収まりをつけるためだけの殺しのように思えます。

 本作は、舌足らずの言い方になってしまい恐縮ながら、監督(北野武)、俳優(ビートたけし)、そして登場人物(大友)が抱え持つやくざ物に関する三つの美学の総まとめではないかと思っているところです(注8)。

(3)渡まち子氏は、「相変わらず凄惨で、それでいて笑える凝ったバイオレンス描写が満載だが、暴力の中に、古き良き任侠映画の終焉の時を見るようで、哀愁がひときわ際立つ最終章となった」として60点を付けています。
 中条省平氏は、「一触即発、何が起こるか分からないサスペンスの持続、また、激しい暴力や流血とユーモアのバランスもうまくいっている。ラストは『ソナチネ』を想起させるが、長い物語の果てにこうなるほかないという運命的な諦念を感じさせる」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。



(注1)監督・脚本は北野武。

 なお、出演者の内、最近では、ビートたけしは『女が眠る時』、西田敏行は『ナミヤ雑貨店の奇蹟』、大森南朋は『秘密 THE TOP SECRET』、ピエール瀧は『海賊とよばれた男』、大杉漣は『ゾウを撫でる』、松重豊池内博之は『グッドモーニングショー』、塩見三省白竜は『真夏の方程式』、中村育二は『帝一の國』、岸部一徳は『団地』、光石研は『散歩する侵略者』、津田寛治は『花宵道中』、原田泰造は『四十九日のレシピ』で、それぞれ見ました。

(注2)劇場用パンフレットに掲載されているプロデューサーの森昌行氏の談話の中で、同氏は、「(『ソナチネ』は)観客が容易に感情移入できるようには作られておらず、すごく“乾いて”い」るが、「(本作は)感情移入できるよう巧みな演出がなされている」、「極言すれば、『ソナチネ』は詩的で、『最終章』は現実的」だ、と述べています。

(注3)『アウトレイジ ビヨンド』では、大友(ビートたけし)が、仲間〔木村(中野英雄)〕の葬儀の際に、刑事の片岡(小日向文世)から拳銃を受け取った後、山王会と花菱会の面々が打ち揃う葬儀場に乗り込みます。

(注4)例えば、紙相撲見立てのシーン。

(注5)『ソナチネ』では、幸(国舞亜矢)という女が登場します。
〔追記:『アウトレイジ』において女性の役割が極端に小さくされている点については、この記事が大層面白い議論をしていると思いました〕

(注6)木村の殺害は、前作の『アウトレイジ ビヨンド』で描かれています。

(注7)もっと言えば、大友の殺しは、2.26事件の青年将校のように、秩序をとりあえず破壊するためだけのものであり、壊されたものを収拾して秩序を作り出す役目を西野のような男に委ねてしまうと、結局は元の木阿弥になってしまうのではないでしょうか?

(注8)本作における大友の殺しは、頭に焦点が当てられているように思われます。
花菱会の野村会長は、地面に頭部だけ出ている姿で埋められて、その頭部を大友が乗った車が通過します。また、花田は、口に咥えさせられたギャグボールが爆発して殺されます。さらに、大友自身、喉元から頭頂に向けて拳銃を発射して自決します。
 登場人物の顔の大写しが多いように思える本作の前半部分と合わせて、本作は、頭部の映画といえるかもしれません。
 そうなってくると思い出されるのが、『ソナチネ』におけるロシアンルーレットのシーンで、村川(ビートたけし)が笑顔で自分の頭部に拳銃を当てるシーンでしょう〔そういえば、『ソナチネ』で大杉漣の演じる片桐が落とし穴に落ちたりしますから、本作で大杉漣が穴に埋められるのも、ある意味で当然なのかもしれません〕。





★★★☆☆☆



象のロケット:アウトレイジ 最終章

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ミックス。

2017年10月30日 | 邦画(17年)
 『ミックス。』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、主人公の多満子新垣結衣)が、あらぬことを呟きながら(注2)、お酒を浴びるように呑んで泣いています。
 翌日、多満子は、ローカル線の列車に荷物を抱えて乗っています(注3)。
 列車の中はガラガラで、たまたま乗り合わせていた萩原瑛太)は、二日酔いの多満子の姿を見てか、あるいは何か魂胆があってか、女子高生が座っている席の方に移動します。
 すると、多満子も席を萩原の方に移します。
 その時、多満子は二日酔いがこうじて吐き気を催します。
 萩原が席を立つと、列車が急ブレーキで大きく揺れて、萩原は多満子に倒れかかりますが、……。

 画面は、多満子の回想。
 母親(真木よう子)が、幼い多満子に卓球の猛特訓を行っています(注4)。
 場所は、自分が創設した「フラワー卓球クラブ」。
 でも、病に倒れた母親は、病床で多満子に、「卓球、止めていいよ」「平凡な人生が一番幸せだから」(「できれば続けてほしいけど」とも付け加えますが)と言います。

 次いで、母親の葬儀の場面。
 司会者が「故人に持っていってもらいたいものがあれば、棺の中にお入れください」と案内したところ、多満子は、卓球道具一式を棺の中にしまい込みます。

 今や28歳になった多満子は、会社の事務員として平凡な生活を送っています。
 ただ、多満子の声で、「相手の不在が、深刻な問題となりつつある」「人生に奇蹟は起きない」。

 ある時、多満子は、山なす書類を腕に抱えて会社の廊下を歩いていたところ、バランスを崩して書類を廊下にぶちまけてしまいます。
 それを、最近卓球選手として入社した江島(注5:瀬戸康史)が、親切にも拾ってくれたのです。



 さらに、会社の卓球部の優勝祝賀会の後、多満子が独りで後片付けをしていたところ、江島がやってきて、「目の前で女性が力仕事をしているのを無視できない」と言って、手伝ってくれます。

 カフェでデートをした時、多満子が「卓球は全然わからない」と言うと、江島は「それが良いんだ」と応じます。
 さらに多満子は、江島に弁当を作ったり、クリスマスにはマフラーを作ってプレゼントしたりします。お返しに、江島は、部屋の鍵を多満子にプレゼントします。

 ですが、江島が、ミックスでペアを組むことになった小笠原永野芽郁)と部屋で抱き合っているところを、多満子は目撃してしまいます。
 多満子は、会社に退職届を提出して、父親(小日向文世)のいる実家に戻ることとします。
 その帰りの列車で、多満子は萩原と出会うことになるのですが、………。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作は、失恋して田舎に逃げ帰った元天才卓球選手と、引退して田舎の現場で土木作業員になっている元プロボクサーが、全日本卓球選手権大会に出場しようとして、云々というお話。よく見かけるスポーツ物といった感じでストーリーは進行していき、結末もお定まりのものになるのですが、今が旬の新垣結衣をふんだんに見ることが出来るので、こんな他愛のない作品でもまあいいかというところでしょう。

(2)世界卓球における日本選手のこのところの躍進ぶり(注6)があってこうした映画が制作されたことと思いますが(注7)、今が旬と思える新垣結衣の頑張りもあって、まずまず面白い作品に仕上がっています。
 それに、新垣結衣が扮する多満子の相手役・萩原を演じる瑛太も、その持ち味を上手く発揮しているように思いました。



 さらに、フラワー卓球クラブのメンバーで多満子をよく知り、多満子を「お嬢」と呼ぶ吉岡を演じる広末涼子もなかなか頑張っています。



 加えて、フラワー卓球クラブのメンバーが行きつけの四川料理店の店員・役の蒼井優のはじけっぷりはものすごいものがあり、目を見晴ってしまいます。

 ただ、萩原がボクシングでサウスポーであり、卓球のミックスで有利な左打ちが出来るとしても、そしていくら猛特訓をするとしても、あれほどの短期間(2年弱)で、予選大会の決勝まで勝ち抜ける力をつけることが出来るのか、そしてその決勝戦で、全国制覇も夢ではない江島・小笠原ペアと接戦を演じてしまえるのか、という点には首を傾げたくなってしまいます(注8)。

 でも、生瀬勝久が扮するジェーン・エスメラルダ(注9)というようなキャラクターが多満子と萩原の対戦相手に登場するファンタジックな要素を持っている本作に、そんなことを言ってみても野暮の極みでしょう(注10)。

(3)渡まち子氏は、「スポーツ映画としても、ラブストーリーとしても、コメディーとしても、今一つ突き抜けていないが、小ネタで楽しませるサービス精神は旺盛。TVドラマ「リーガルハイ」などの売れっ子脚本家・古沢良太の嫌味のない脚本で、薄く浅く、軽く楽しく過ごせる作品だ」として55点を付けています。
 稲田豊史氏は、「予告編を観た多くの観客が想像するであろう展開のほとんどその通りに、実際の本編も進行します。もちろんストーリーの細かい部分までは想像できないでしょうが、「観た後にはきっとこんな感情が湧き上がってくるだろう」という観客の予想と期待は、大方はずれません。映画の最後には、予告編を観た多くの観客が頭に浮かべる「こうなったらいいな」を、9割がた裏切らない結末が待っています」と述べています。



(注)監督は石川淳一
 脚本は、『スキャナー 記憶のカケラをよむ男』などの古沢良太(本作も、同氏のオリジナル脚本)。

 なお、出演者の内、最近では、新垣結衣は『くちびるに歌を』、瑛太遠藤憲一は『土竜の唄 香港狂騒曲』、広末涼子は『想いのこし』、永野芽郁は『帝一の國』、蒼井優は『アズミ・ハルコは行方不明』、真木よう子は『ぼくのおじさん』、吉田鋼太郎は『三度目の殺人』、生瀬勝久は『疾風ロンド』、小日向文世は『サバイバルファミリー』で、それぞれ見ました。

(注2)多満子は、「実は、私、結婚するの」「前からプロポーズを受けていて、私の方が、根負け」「ごめんなさい、あなたを捨てることになって」「相手は、年収4000万のお医者さん」「明日からプロバンスに」などと、ぬいぐるみを相手に呟きます。

(注3)神奈川県内を走るローカル線で、萩原が「山彦駅」(架空)で降りてタクシーに乗ると、その運転手は多満子の父親です。多満子の母親が創設した「フラワー卓球クラブ」もそこらあたりにあるのでしょう。

(注4)多満子の声で、「その球技は、人生における真理をいくつか教えてくれる。「栄光は、人生を狂わせる」「親というのは、我が子を天才と思いがち」「この地獄からいつか王子様が救い出してくれる、というような奇蹟は起こらない」「大切なことを気づいた時はおそすぎる」」、というナレーションが間を置いて挿入されます。

(注5)多満子は、幼い時に出場した全国大会で3位でしたが、その時江島も出場していて優勝していて、実は多満子の方は江島を知っているのです。

(注6)この記事によれば、「1952年~59年の間に日本が優勝した種目数は24。佐藤博治、荻村伊智朗、田中利明、大川とみ、江口冨士枝、松崎キミ代――6人の世界チャンピオンが生まれ、男子団体で世界卓球5連勝を達成した。1950年代、日本の卓球は黄金時代だったのだ」とのこと。
 その後随分と長い暗黒時代が続きますが、このところ、日本勢が大躍進を遂げています。
例えば、この記事によれば、「6月5日に閉幕した卓球の世界選手権個人戦(ドイツ・デュッセルドルフ)で、日本は金1、銀1、銅3の大躍進を遂げた。メダル5個以上の獲得は1975年コルカタ大会以来、42年ぶり」とのこと。
 本作においては、水谷隼選手や石川佳純選手、伊藤美誠選手といったトップクラスの現役選手が出演しています。

(注7)クマネズミがこれまでに見た卓球物としては、韓国映画の『ハナ』があるくらいです。
 そういえば、『ボン・ボヤージュ~家族旅行は大暴走~』では、交通警察の隊長が卓球にうつつを抜かしていました。

(注8)ただ、10月29日放映の『ワイドナショー』(フジテレビ)に出演したボクシングの世界チャンピオンの長谷川穂積氏は、「卓球で、高齢者の中で一番になりたい」と言っていました。
 ネットで調べてみると、こんな記事も見つかります。
 となると、本作の萩原のように、ボクシングの選手が卓球に転向することは、あながち荒唐無稽でもなさそうです。
 それに、長谷川選手は、萩原を演じる瑛太とほぼ同年齢の36歳です。
 ですが、『ワイドナショー』において長谷川氏は、「中学の頃、卓球をやってました」と答えています。
 他方、本作の萩原にはそうした背景が描かれていません(一から、多満子の指導を受けています)。
 やはり、萩原が短期間で大会に出場するのは難しいのではと思えるのですが。

(注9)このサイトをご覧ください。

(注10)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、脚本の古沢良太氏は、「映画としても本当に真っすぐお客さんの心に届く王道の作品になっていて、観ていただいた方に気持ちよくなってもらえるかなと思います」と述べていますが、マアそんなところではないかと思います。



★★★☆☆☆



象のロケット:ミックス。

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エルネスト

2017年10月25日 | 邦画(17年)
 『エルネスト』をイオンシネマ板橋で見ました。

(1)オダギリジョーの主演作というので映画館(注1)に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、「もし我々を空想家というのなら、もし理想主義者というのなら、我々は何千回でも答えよう、そのとおりだと」とのチェ・ゲバラの言葉(注3)が字幕で映し出されます。
 そして、フィデル・カストロの革命政権がキューバで樹立された時のニュース画像が流れます(1959年1月)。

 次いで、日本の外務省中南米課。時点は、1959年7月。
 課員が電話で話しています。
 「キューバのどういう人?」「もう、乗ったんだって?」「そっちで止めてほしかった」「広島に着くのは何時?」。
 その課員は、上司に、「大阪分室からの連絡です」「強行されてしまいました」「もう列車の中だそうです」と報告します。

 大阪から広島へ向かう列車の中(注4)。
 在日のキューバ大使が、弁当を買ってきて、キューバ使節団の団長のチェ・ゲバラホワン・ミゲル・バレロ・アコスタ)に渡し、「ベントーです、ゲバラ少佐」と言います。
 ゲバラが「役人が来るのか?」と尋ねると、キューバ大使は「はい」と答え、それに対し、ゲバラは「日本政府は米国に気兼ねして、広島行きを認めない」、「しかし、私は、行きたいところへ行く」と言います。
 ゲバラは、持ってきたカメラを、荷物棚の上に置きます。

 広島県庁での記者会見。
 広報担当が、「突然決まったのですが、キューバの使節団が来ました」「親善目的で、駐日大使が同行しています」「団長は、キューバ人の少佐です」と発表すると(注5)、記者の方からは「少佐じゃあ、大した話は出ないのでは」と失望の声が。

 中国新聞の記者の永山絢斗)が、平和記念公園や原爆資料館を訪れるゲバラたちを取材します。
 原爆死没者慰霊碑に献花して敬礼をしたゲバラが、県庁職員・矢口田中幸太朗)に何事か言ったのを見て、森が矢口に「碑文について聞いていたのでは?」と尋ねると、矢口は「なぜ主語がないのかと尋ねた」と答えます。
 森は、ゲバラに「日本を訪れた目的は?」と尋ねると、ゲバラは「新しいキューバについて説明し、日本と経済交流をしたいと考えている」と答えます。森は、さらにゲバラの軍服姿を見て「新政権は軍人が主体なのか?」と尋ねると、ゲバラは「そうではない。軍服は、革命運動に加わるようになってから着るようになった」と答えます。
 原爆資料館では、ゲバラは、「君らは、アメリカにこんなにひどい目に合わされて、どうして怒らないのだ?」と周囲に尋ねたりします。
 最後に、森がゲバラに対し「ボンボアージュ」と言うと、ゲバラは「ありがとう」と答えます(注6)。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれからどのような物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、医者になるべくキューバの大学に留学したボリビアの日系2世が、フィデル・カストロやチェ・ゲバラの影響を強く受けたのでしょう、ゲバラとともに故国に戻って革命組織に参加するという実話に基づいた物語です。いまどきどうしてゲバラなのかという感じになりますが、主演のオダギリジョーは41歳ながらも、25歳で倒れた青年を実に清々しく演じていて感心しました。

(2)本作の主人公フレディオダギリジョー)は、実在のフレディ・マエムラ・ウルタードに基づいて描かれているとのことですが、本作では、キューバのハバナにある大学へ仲間とともに入学するところから登場します(1962年4月)。



 そして、本作では、キューバ時代のフレディに焦点が当てられています。
 特に、身ごもったルイサジゼル・ロミンチャル)との関係では、フレディの高潔な人柄が上手く描かれていると思いました(注7)。



 ただ、どういう経緯によって、フレディが、自国のボリビアではなくキューバの大学に入ることになったのかよくわからないまま物語は進行します。
 おそらく、ボリビアは、当時、革命政権下にありましたから(注8)、キューバと国交があったのでしょう。それで、フレディらは、ボリビアの大学ではなくレベルの高いキューバの大学に留学したのではないかと思われます。

 その後、フレディは、ボリビアでバリエントスらの軍部がクーデタを起こし革命政府を倒して政権を把握したことを知って(1964年)、医者になる志を投げうって、革命グループに参加することを決意します。

 ただ、ここでも、政権を奪取した軍部の横暴が酷いとする情報がボリビアから送られてきたりはするものの、どうしてそんな決断に至ったのか、よくわからない感じが残ります。
 おそらくは、映画によれば、フレディは、フィデル・カストロロベルト・エスピノーザ・セバスコ)やチェ・ゲバラと言葉をかわす機会を持ち(注9)、その影響を強く受けたことがその背景にあるように思われます。



 でもそれは背景であり、当時のボリビアがどういう状況にあって、いきなり軍隊組織の革命グループにフレディが参加することにどのような意味があったのか、などといった点の方が重要ではないでしょうか?

 それでも、ボリビアでの状況がほんの少しですが本作では描かれます(注10)。
 少年時代のフレディが、貧しい家に自転車に乗ってやってきて、母親にバナナをプレゼントし、さらに、家の中にいた男の子に、「この薬がいいんだ」と言いながら薬を手渡します。
 男の子が、母親に「前は飴をくれた」と言うと、母親は「次に来た時には、洪水で家が流されてるかもしれないよ」とフレディに言います。
 フレディは、男の子の脈を取って「脈が早いね」と診断し、さらに「僕は医者になるんだ」と言って、その家を離れます。
 推測になりますが、フレディは比較的裕福な家で育ち(注11)、ボリビアの貧弱な医療事情を肌で感じて、若い時分から医者になることを志していたようです(注12)。

 ですがこれだけでは、ボリビアに疎い者からすると、いろいろと事情がよくわからない感じが残ってしまいます(注13)。

 まあ、本作のタイトルが「エルネスト」となっているわけで、エルネスト・チェ・ゲバラと(注14)、そのチェ・ゲバラ自身によって、フレディがエルネストという革命グループ内での呼び名が与えられたことを中心的に本作は描き出したかったように思え(注15)、そうであれば、ボリビアのことが疎かになってしまったのも仕方のないところでしょう(注16)。

 なお、本作の主人公がボリビアで射殺されたのは25歳とされ、他方で、オダギリジョーは41歳ですから随分の年齢差があるとはいえ、にもかかわらず、オダギリジョーは随分とみずみずしくフレディを演じていて、そんな年齢差を観客に少しも意識させないのには驚きました。

(3)渡まち子氏は、「全編スペイン語のせりふで静かな熱演を見せるオダギリジョーは素晴らしいし、チェ・ゲバラが日本の広島の原爆慰霊碑に献花した秘話も、とても効果的に描かれていて心に残る」として65点を付けています。
 山根貞男氏は、「阪本監督が工夫した構成により、50年前の青春と今も生々しい核の問題が結び付き、感銘を誘う。これは現在形の映画なのである」と述べています。
 毎日新聞の勝田友巳氏は、「フレディが日系人というだけで日本との関わりは薄く、またゲバラのような大活躍を期待したら肩すかしを食うだろう。しかし熱い時代を誠実に生きた青年の肖像は、寄る辺なき現代だからこそ輝きそう」と述べています。



(注1)てっきり新宿のTOHOシネマズで上映しているものと思っていましたら、公開2週間ほどで打ち切りとなってしまい、仕方なく、東武練馬駅そばのイオン板橋の中にある映画館に行ってきました。
 この映画館は我が家から遠いものの、それを利用する場合には3時間まで駐車料金が無料ということがわかったので、車で行ってきました。
 なお、東武練馬駅が練馬区ではなく板橋区にあるというのも少々おかしな感じがしたところです。

(注2)監督・脚本は、『団地』の阪本順治。
 原案は、マリー前村=ウルタード他著『チェ・ゲバラと共に戦ったある日系二世の生涯~革命に生きた侍~』(キノブックス)。

 なお、出演者の内、最近では、オダギリジョーは『湯を沸かすほどの熱い愛』、永山絢斗は『藁の楯』で、それぞれ見ました。

(注3)この記事によれば、「もし私たちが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう「その通りだ」と」。

(注4)この記事の「日本来訪」によれば、「全日空機で岩国空港に飛んだ」とのこと(あわせて、「夜行列車で広島に向かった」という説もあるが、「しかし、この説を裏付ける証拠はオマール・フェルナンデスの主張以外にはない」とも述べられています)。

(注5)チェ・ゲバラはアルゼンチン人ですが、キューバ革命後、キューバ国籍を与えられています。

(注6)本作ではさらに、チェ・ゲバラは広島原爆病院に行って、一人の女性患者と会うシーンとか、ホテルを一人で抜け出して、平和記念公園に戻って、慰霊碑に花を捧げている日本人の姿を写真に撮ったりするシーが描かれています(こちら)。
 なお、チェ・ゲバラの広島訪問に関しては、この記事が参考になります。

(注7)フレディと一緒にキューバの大学に留学した仲間の一人のベラスコエンリケ・ブエノ・ロドリゲス)がルイサと付き合っていたのですが、彼はルイサと別れ別の女学生と付き合っていて、「今は勉強に集中したい」「生まれる赤ん坊が誰の子かわからない」などと言い逃れをして、責任をとろうとしませんでした。
 これを知ったフレディは、お金のないルイサの窮状を救うために、助手に応募して、受け取った給与をルイサに渡したりします。といっても、フレディは、そうしたルイサにつけこもうとは決してしませんでした。

(注8)この記事の「歴史」によれば、1960年に 第2次パス・エステンソーロ政権が成立しています〔民族革命運動党(MNR)による革命で、パス・エステンソーロは、1952年から1956年まで大統領職にありました〕。

(注9)例えば、チェ・ゲバラが演説した後に、フレディが「あなたの絶対的な自信はどこから?」と尋ねると、チェ・ゲバラは「いつも怒っている。でもそれは憎しみからではない」などと答えます。
 また、フィデル・カストロが、フレディたちの大学にやってきた時に、フレディが「勉強以外に僕達のやるべきことは?」と尋ねると、カストロは「バスケットかな」と答え、後で一緒にバスケットをすることになります。その後で、カストロは、再度フレディに、「やるべきことを他人に聞くな。いつか君の心が教えてくれる」と言います。

(注10)この他、兵隊が農民から収穫物を取り上げる場面をフレディが思い出すシーンもありますが、ごく短いシーンなのでどういうシチュエーションなのか詳細がよくわからない感じです。

(注11)この記事によれば、フレディは、鹿児島県出身の移民一世とボリビア人女性との間に生まれています。中南米に移住した日本人は、各地で大変苦労したようですが、あるいは、フレディの父親は、ボリビアに移住して成功したのかもしれません。

(注12)本作によれば、ボリビアの革命組織に参加したフレディは政府軍に捕まりますが、政府軍の兵士の一人がこの時の少年でした。ですがその兵士が、「こいつは裕福な生まれで、俺たちを支配していた」などと告発したために、上官は彼にフレディの射殺を命じます。

(注13)『チェ 39歳別れの手紙』についての拙エントリで申し上げましたが、「同じような少人数で出発しながら、なぜキューバ革命は成功しボリビアの革命が失敗したのか」という観点から、ボリビアの当時の実状といったものの把握が随分と重要ではないかと考えるところです。

(注14)何しろ、本作の冒頭では、チェ・ゲバラの日本訪問の様子が描かれるのですから。

(注15)まるで3人のパブロ(パブロ・カザルス、パブロ・ピカソ、パブロ・ネルーダ)のように。

(注16)それにしても、なぜ今、こうした映画を制作するのか、その狙いがよくわからない感じがします。
 まあ、本作が、今の日本の青年には見かけない純粋な心を持った人物を描き出したいというのであれば、それはそれでわかりますが、フレディがチェ・ゲバラと一緒になってボリビアの革命グループに参加して軍事的行動をとった点を重視するのであれば、当時のボリビアには他にどのような選択肢がありえて、フレディのとった行動がどこまで是認されるものなのか、かなり検討すべきではないかと思われます(例え、彼の遺骨がキューバにあるチェ・ゲバラ霊廟に安置されているとしても)。



★★★☆☆☆



象のロケット:エルネスト

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