映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

美女と野獣

2014年11月29日 | 洋画(14年)
 『美女と野獣』を吉祥寺オデヲンで見てきました。

(1)本作(注1)は、ディズニー・アニメなどで有名なフランスの物語を実写化したフランス映画。

 大層裕福に暮らしていたベルレア・セドゥ)の一家が、財宝を積んだ船を嵐のために失って破産してしまいます。
 一家は、彼女の他に、父親(アンドレ・デュソリエ)と3人の兄、それに2人の姉がいましたが、片田舎に引っ込むことになります(注2)。



 ある日、街から帰る途中、吹雪に遭遇した父親は、道に迷って見知らぬ古城にたどり着きます。城の中には、光り輝く宝石などの詰まった箱が置かれており、さらにベルが土産に望んでいた薔薇が咲いているではありませんか!
 ですが、父親がその薔薇を摘んだ途端に野獣(ヴァンサン・カッセル)が現れ、「一番大切なものを盗んだな!」と怒り、「1日だけやる。ここに戻ってこなければ、家族を殺す。命が薔薇の代償だ」と父親に告げます。
 家に戻った父親の話を聞いて、ベルは「私のせいでパパを失いたくない」と言って、父親の身代わりに野獣の住む城に行きます。
 さあ、ベルの運命はどうなることでしょうか、………?

 『アデル、ブルーは熱い色』での体当たりの演技が印象的なレア・セドゥと、『ブラック・スワン』でバレエ団の監督役を演じたヴァンサン・カッセルが、CGを駆使した画面で好演し、まずまず見応えがある作品だなと思いました(注3)。

(2)ところで、「美女と野獣」として一般に知られている物語は、1756年に出版されたボーモン夫人によるものであり(注4)、これまで作られた各種の作品もこれによっているようです。
 ですが、本作の原作は、1740年にヴィルヌーヴ夫人によって書かれた物語(注5)とされています(注6)。

 そして、劇場用パンフレットに掲載されている野崎歓氏のエッセイ「世代を超えて受け継がれてきた物語『美女と野獣』」では、「この映画に出てくる夢のシークエンスこそは、ヴィルヌーヴ夫人版の一大特徴だった」と述べられています(注7)。
 さらに野崎氏に従えば、ガンズ監督は、「城にとらわれの身となったベルは、毎晩夢で、野獣とは似ても似つかぬ美貌の王子と出会い、激しく惹きつけられていく」というアイデアを汲み取りつつも、ヴィルヌーヴ夫人版ではなかなかベルが野獣の方に踏み出さないのに対して、ガンズ監督はそこのところはスッキリと整理しているようです。
 いずれにしても、野獣の前身である王子とプリンセス(イボンヌ・カッターフェルト)との物語は、本作で重要な役割を与えられていると言っていいでしょう(注8)

 ただそうだとしても、この関係では、本作につきいろいろな疑問が湧いてきます。
 例えば、プリンセスは、王子がズッと仕留めようと狙っている黄金の雌鹿が変身した姿だとされています。でも、そうだとしたら、矢を射られて戻るのはプリンセスから元の雌鹿の方へではないでしょうか?
 それに、雌鹿は既にプリンセスに変身しているのに、なぜこの時は雌鹿に戻っているのでしょうか(注9)?
 さらに言えば、王子に見つかったとわかったら、すぐにプリンセスに変身できたのではないでしょうか(注10)?

 また、野獣は、雌鹿を殺してしまったことにより「森の精」の罰を受けて姿を変えさせられてしまったわけです。にもかかわらず、その野獣がペルデュカスエドゥアルド・ノリエガ)によってナイフで殺されると、どうして城全体とか巨人たちが崩壊してしまい、蔦が襲いかかってくるのでしょうか?一体この城は誰が作ったものなのでしょう(注11)?

 とはいえ、こうしたことは、ベルが、「午後7時までに城に戻る」という野獣との約束を果たそうと一生懸命に馬を走らせたり、あるいはペルデュカスによって殺された王子を必死で城の中に運ぼうとしたりするのは何故なのか(注12)、という点をうまく説明できればどうでもいいことです。
 でも、果たして映画の中で、その点につき上手く説明できているでしょうか(注13)?

(3)渡まち子氏は、「野獣とその館に囚われた美女の恋模様を描くファンタジー「美女と野獣」。フランス映画らしいロココ調美術が美しい」として65点を付けています。



(注1)監督はクリストフ・ガンズ

(注2)母親は、ベルを産むとスグに亡くなってしまったようです。

(注3)最近では、レア・セドゥは『グランド・ブダペスト・ホテル』で、ヴァンサン・カッセルは『トランス』で、それぞれ見ました。



(注4)例えば、ここで読むことができます。

(注5)その概要については、このサイトの記事が参考になります。

(注6)劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」で、ガンズ監督は、「僕は、このヴィルヌーヴ夫人版をベースにし、偉大な神々の要素を物語に反映させながら、人間と自然の力とのつながりを描きたいと思った」と述べています。

(注7)このサイトの記事によれば、「野獣の城でベルが会うのは野獣一人ではない。夜毎の夢に美貌の貴公子が現れ、謎めいた言葉でベルに求愛する。それが野獣の分身と知らないベルは、醜く愚かな野獣より美しく才気ある貴公子に惹かれる気持ちに最後まで悩み続ける」とのこと(P.53)。

(注8)劇場用パンフレット掲載の秦早穂子氏のエッセイ「美女と野獣、今昔の夢物語」でも、「ガンズはマダム・ヴィルヌーヴの本を参考にして、今まで、あまり知られていなかった野獣の過去の謎を追う。ここが見所のひとつ」と述べられていますし、さらに山崎まどか氏のエッセイ「一輪の薔薇の花に隠された真実」もまた、「クリストフ・ガンズ監督の映画は、この物語の最大の秘密、野獣が呪いを受けた理由似大きな焦点が当てられている」と述べています。

 ちなみに、山崎まどか氏によれば、「ボーモン夫人の版だと野獣の呪いは「仙女の気まぐれ」のせいであ」り〔上記「注4」で触れたサイトの物語では、「「あるいじわるな妖女が、わたしを苦しめるため、魔法で呪って、みにくいけものの姿にかえてしまったのです」と王子がベルに打ち明けます〕、またデズニー映画では「傲慢な王子が一夜の宿を求めた老婆をすげなく断ったせいで、実は魔女であった彼女に野獣の姿に変えられたという設定が追加されている」とのことです。

(注9)あるいは、雌鹿の姿とプリンセスの姿とを往復できるのかもしれません。そうだとしても、雌鹿の姿の時に矢を射られたのであれば、そのまま雌鹿のままなのではないのか、と思うのですが?

(注10)もっとつまらない点ですが、プリンセスが雌鹿の時に矢で射抜かれると、どうして裸の状態になるのでしょうか?雌鹿は厚い毛皮で覆われていますから、人間の裸の状態とは異なるように思われるのですが?
 尤も、男性の観客にとってはこれでいいのかもしれません!

(注11)さらに言えば、ペルデュカスはなぜ死ぬ運命にあるのでしょう?
 彼は、ベラの兄に、貸した金を踏み倒されたために、それを取り戻すべく野獣の城までやってきたに過ぎないのですから(尤も、貸金額以上の財宝を城から持ちだそうとしてしまったのは否めないところですが)。

(注12)さらには、魔法の泉に投げ込まれた野獣に向かって、どうしてベルは「愛している」と言えたのか、という点。

(注13)あるいはその点については、例えば、上記「注8」で触れた山崎まどか氏が、「ベルはどこに、野獣に潜む優しい心をみたのだろう?ヒントは恐らく、薔薇の花にある」と述べるように、この映画を見た者がそれぞれ考えるべき事柄なのかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:美女と野獣
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マダム・マロリーと魔法のスパイス

2014年11月27日 | 洋画(14年)
 『マダム・マロリーと魔法のスパイス』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)本作(注1)は、予告編を見て面白そうだなと思い、映画館に行ってきました。

 本作の舞台は、南フランスの小さな町サン・アントナン。そこで伝統的なフランス料理を出すレストランの目の前に、インドからやって来たカダム家がインド料理店を開いたからさあ大変。
 フランス料理のレストランのオーナーのマダム・マロリーヘレン・ミレン)とインド料理店を営む父親(オム・プリ)とは、なにかにつけて争うようになります。
 でも、レストランで働く若いマルグリットシャルロット・ルボン)と、カダム家の次男・ハッサンマニッシュ・ダヤル)とがコンタクトを持つようになって、………?



 これまでもよく制作されているフランス料理を巡る映画ながら、対するにインド料理を持ってきたのが斬新であり、またレストランのオーナー役のヘレン・ミレン(注2)とインド人家族の父親役のオム・プリの演技が秀逸で、最後まで楽しく見ることが出来ました。

(2)フランス料理を取り上げた映画といえば、最近では、『大統領の料理人』とか『シェフ! 三ツ星レストランの舞台裏へようこそ』(注3)を見ました。
 ただ、それらは料理人〔あるいはシェフ(料理長)〕が専ら取り上げられているのに対して、本作では、対立する二つのレストランの経営者の方に焦点が当てられています。
 一方のマダム・マロリーは、フランス料理のレストラン経営一筋で、なんとしてもミシュランの星を二つにしようと頑張っています(注4)。



 他方のカダム家のパパの方は、インドのムンバイで料理店を営んでいたところ暴徒に襲われすべてを失い、なんとか新天地のヨーロッパで一花咲かせたいと考えています。



 一見すると、向かい合うレストランは対等のようですが、マダム・マロリーの店は、クラシック音楽が流れ、シックで格調が高く、客も盛装して静逸な中で食事をします。
 ですが、インド料理店の方では、普段着姿の客が、大きな音量のインド音楽の中でわいわいがやがや騒ぎながらの食事です。
 この二つのレストランの争いは、言ってみれば欧米の正規軍に対してアジアがゲリラ戦を挑んでいるといった感じでしょうか。

 本作には、レストラン経営者だけでなく、むろん料理人が何人も登場します。
 なかでも、カダム家の次男・ハッサンは、母親(注5)の薫陶もあったのでしょうが、持ち前の才能(注6)と努力によってインド料理をマスターするとともに、フランス料理をもマスターしてしまいます(注7)。
 そして、その腕を買われてパリの有名レストラン(注8)の料理人になると、たちまち頭角を表すことに。

 ハッサンの料理が、マダム・マロリーやパリのレストランで高く評価されたのは、それまでのフランス料理にインド風のものを持ち込んだからでしょう。
 例えば、マダム・マロリーは、ハッサンの作ったオムレツを一匙食してその素晴らしさに圧倒されてしまいますが、劇場用パンフレットに掲載の「特別レシピ」によれば、通常のオムレツ材料に「チリパウダー」や「コリアンダー」などを加えています。



 こうしたことから、例えば、劇場用パンフレットの「プロダクション・ノート」では、「この映画は、食べ物の持つ、人を結びつける性質を通して異なる二つの世界の融合を描いている」と述べられているのでしょう(注9)。

 確かに、「融合」なのかもしれません。ですが、実際には、作られる料理はあくまでもフランス料理の範疇に入れられるはずです。
 大きく言ってみれば、欧米文化の中にインド文化が味付け程度に挿入されただけのことではないか、とも思えてきます(注10)。

(3)渡まち子氏は、「フレンチ・レストランとインド料理店のバトルを描く「マダム・マロリーと魔法のスパイス」。目にも美味しい料理とあたたかなドラマで幸福感を味わえる」として60点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「名門レストランの伝統の味にインドのスパイス・マジックが加わり、料理が美味しくなれば幸せも生まれる。そうなれば女と男の間にある溝もうまろうというもの。コトはそう簡単に進むわけもないが、でも大丈夫、美味しい料理と男女の仲に国境はないのだ」として★4つ(見逃せない)をつけています。



(注1)監督は、『砂漠でサーモン・フィッシング』や『親愛なるきみへ』のラッセ・ハルストレム
 なお、スティーヴン・スピルバーグオプラ・ウィンフリー(『大統領の執事の涙』でグロリアを演じた女優)が製作に加わっています。

(注2)ヘレン・ミレンについては、最近では、『ヒッチコック』で見ました。

(注3)DVDで見た『シェフ! 三ツ星レストランの舞台裏へようこそ』については、『大統領の料理人』についての拙エントリの(3)をご覧ください。

(注4)本作のマルグリットによれば、「三つ星になると神様扱いされる」とか。

(注5)ハッサンの母親は、ムンバイにあったレストランが暴徒に襲われた際に命を落としてしまいます。ただ、ハッサンは、何種類ものスパイスのびん詰が入っている鞄を引き継ぎ、それを使って絶妙の味の料理をこしらえます。

(注6)幼い時分、母親と市場に買い出しに行った際にも、売られているウニの良し悪しがわかってしまいます。

(注7)ハッサンは、パパが買い取った古いレストランの厨房の棚に、「Le Cordon Bleu」のタイトルの入った料理本を見つけ、さらにはマルグリッドが何冊家の料理本をハッサンに届けてくれます。

(注8)そのレストランで作られていたのが「分子料理」〔これについては、上記「注3」で触れている拙エントリの「注9」を参照してください〕。

(注9)劇場用パンフレット掲載のインタビューで、ラッセ・ハルストレム監督も、「(ハッサンは)インド料理の知識を活かし、それをフランス料理のレシピと“融合”させて新しい料理を創作する」と述べています。

(注10)言い過ぎかもしれませんが、本作で描き出されているフランスレストランとインドレストランとの対比にしても、欧米のアジアに対する優越的な見方(オリエンタリズムというのでしょうか)が表されているような感じを受けます。
 ラストで、ハッサンとマルグリットが、レストランをマダム・マロリーから譲り受けますが、それはあくまでもフランス料理を提供するレストランであって、そこでインド料理を提供するわけではないでしょう。



★★★☆☆☆



象のロケット:マダム・マロリーと魔法のスパイス
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小野寺の弟・小野寺の姉

2014年11月25日 | 邦画(14年)
 『小野寺の弟・小野寺の姉』を新宿ピカデリーで見てきました。

(1)本作(注1)については、片桐はいり向井理というコンビネーションが秀逸と思え、映画館に行ってきました。

 両親が早くに亡くなったことから、姉のより子(40歳:片桐はいり)が弟の(33歳:向井理)(注2)の面倒を見るという形で20年以上一緒に暮らしてきました。



 より子は、早いところ進にお嫁さんをと願っているものの、進の方は、より子に長年世話をしてもらってきていることもあり、なかなか踏ん切りがつきません。
 そんなところに、進の前に、絵本を作っているという山本美月)が現れ、より子も、働いている商店街の眼鏡屋に出入りする営業の浅野及川光博)と親しく口を利くようになります。
 さあ、これらの関係はどうなっていくでしょうか、………?

 元は戯曲ながら新劇調なところがなく、出演者が皆映画らしい演技を見せており、その上、適度の笑いがアチコチに散りばめられていて、総じてなかなか面白い作品に仕上がっています(注3)。

(2)本作の冒頭では、唐辛子が2個床に転がっていて、進による「姉に殺意を抱いたことが3度ある。1度目は、かりん糖のようなものとして人に唐辛子を食べさせた時」とのナレーションが入ります(注4)。
 そして、「それ以来20年以上は穏やかに暮らしてきたことになる」と続いて、遊園地で遊具のコーヒーカップに興じる二人のシーンへ。
 どうやら、スーパーの福引でペアチケットが当たったために、遊園地にやってきたようです。



 まあ、こんな感じで、以後もそれほど大した事件も起こらずに淡々と二人の生活が描かれるわけながら、ただ少々厳しい場面が2つほどあります。

 一つは、進の回想シーンですが、恋人だった好美麻生久美子)に、「私とお姉さん、どっちが大事なの?」と進が質問された時です。
 これは、その前に好美が進に、「うちに住むことにすれば」と提案したのに対し、進が「好美がうちに来れば?」と応じたら、好美が「そろそろ姉さんにも一人で暮らすことに慣れてもらわないと」と言うので、進が「姉ちゃんがこの先ズーッと一人だと決めつけないでよ。姉ちゃんには中学くらいから色々世話になっているし、まずは姉ちゃんに幸せになってもらいたい」と反論してしまったことに対する好美の反応です。

 一方で、進が、そこまで言うのは何故なのかについてもっと本心を好美に打ち明ければよかったのかもしれませんが(注5)、他方で、進に対してそんな選択を迫る好美の方にも問題があるような気もします。
 というのも、進の答えとしては「肉親として姉を愛しているし、恋人として好美を愛している。その二つは両立する」というのがありうるわけで、そうであれば、そんな選択を進に迫るべきではなかったことになるのではないでしょうか(注6)?

 もう一つは、営業の浅野がより子に「明日の夜、お時間いただけませんか?」と誘うのです。この言葉で舞い上がってしまったより子は、一世一代の舞台とばかりに着飾って、約束の時間の1時間前に待ち合わせ場所に到着してしまう始末。
 ところが、浅野が目的の店により子を連れて行って言った言葉が、「(より子が勤める眼鏡店の)お向かいブッテックの斎藤さん(寿美菜子)にするプレゼントについて、小野寺さんに選んでもらいたい」。
 より子はひどく傷ついてしまい、浅野が「食事でも」というのを断って早々に家に返ってきて大泣きします。

 これも、一方でハヤトチリしたより子が悪いのですが、他方で、女性を夜に誘うのであれば、浅野は、エチケットとしてもう少しきちんとした誤解を招かないような内容で申し込むべきだったのでは、と思われるところです。

(3)渡まち子氏は、「互いを思いやりながら生きる不器用な姉弟の日常をユーモラスにつづるヒューマン・ドラマ「小野寺の弟・小野寺の姉」。毎日の暮らしぶりを丁寧に描く細部が味わい深い」として65点を付けています。
 秋山登氏は、「姉と弟の絆を描いたこの映画は、手擦れのしたテーマに現代の風をさわやかに通わせて、面白く楽しく見せる」と述べています。



(注1)原作は、西田征史著『小野寺の弟・小野寺の姉』(幻冬舎文庫)。
 監督・脚本も同じ西田征史(『アフロ田中』の脚本を担当)。
 なお、同じタイトルの舞台版もありますが、ユースケ・サンタマリア扮する映画監督が登場して姉弟の家で撮影をするという内容で、小説や映画とはかなり違ったものとなっています(こちらの記事こちらのサイトが参考になります)。

(注2)職業は調香師で、進が勤務する会社の上司(大森南朋)から、「ありがとうの香り」の制作を任されています。アチコチ探しまわるものの、進はその香りになかなかたどり着けませんが、ラストの姉の言葉でヒントをつかんだようです。
 なお、「ありがとう」は舞台版のキーワードとなっています。

(注3)俳優陣について、最近では、向井理は『きいろいゾウ』、片桐はいりは『R100』、山本美月は『黒執事』、及川光博は『イン・ザ・ヒーロー』で、それぞれ見ました。
 なお、麻生久美子(『ニシノユキヒコの恋と冒険』で見ています)が、進の別れた恋人・好美として回想シーンに登場するのには驚きました(事前の情報では掴んでいなかったもので)。

(注4)進によれば、2度目は、小2の夏休みに仮面ショーを見た時、姉が「あの中の人、アルバイト」と言った時であり、3度目は、「サンタクロースなんていない」と姉に言われた時。
 なお、床に転がった唐辛子のシーンは、本作のラストでも再度映し出されます。
 また、原作(舞台版も)では本作と違い、2度目は、進が小4の時、「(宝物にしていたブーメランを)失くしちゃった」と姉に言われた時、そして3度目は、そのブーメランについて「投げたのに戻ってこないなんてブーメランがひねくれているからだ」と姉に言われた時、とされています。
 原作に比べて映画の方は、ずっとわかりやすい一般的な例示になっている感じがします。

(注5)進が中学の時、自転車により子と乗っていた際に、後ろの彼がフザケて自転車をこぐより子の目を塞いだために、自転車が横転し、投げ出されて顔面を地面に打ち付けたより子の前歯が折れてしまい、それ以来彼女が引っ込み思案になってしまったという事件があって、その件について、進はずっと自責の念を抱いてきました〔友人の河田ムロツヨシ)は、「そんなのはお前のひとりよがりだ」というのですが〕。

(注6)と言っても、進はそのようには答えなかったわけですし、業を煮やした好美が進の家から立ち去った時、その後を進は追いかけませんでしたから、その意味では好美の言葉は的を突いていたのかもしれませんが。



★★★☆☆☆



象のロケット:小野寺の弟・小野寺の姉
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まほろ駅前狂騒曲

2014年11月22日 | 邦画(14年)
 『まほろ駅前狂騒曲』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)第1作の『まほろ駅前多田便利軒』を見て面白かったので、この作品もと思い映画館に行ってきました。

 本作は(注1)、第1作と同様、まほろ駅前で便利屋を営んでいる多田啓介瑛太)と、そこに転がり込んできた行天晴彦松田龍平)とが巻き込まれる様々なトラブル・事件を描いた作品です。
 第1作では、2人の出会いとそれぞれの過去が、様々な出来事の間にサラッと描かれていたのに対し(注2)、本作では、どちらかといえば行天の過去が重点的に取り扱われている感じがします(注3)。

 そして、本作では、バスジャック事件が起きたり、大層胡散臭い農業団体が登場したりするなど、第1作に比べてややスケールが大きくなっていながらも、第1作と同様に、W主演の瑛太と松田龍平の持ち味が上手く生かされていて、その独特の雰囲気をまずまず愉しむことが出来ました(注4)。

(2)本作は、下記の(3)で触れる前田有一氏が言うように、「一見さんお断りの、こぢんまりとしたファン専用作品」となっている面もないではないと思われます。
 例えば、本作でまほろ駅前においてビラを配っている子供・由良横山幸汰)の塾への送迎を、第1作の多田と行天は請け負っていましたし、由良自身は本作にも登場する高良健吾)の下でクスリの運び屋となっていました。
 ですが、そんな細かなことをクマネズミはあらかた忘れてしまい、今回の劇場用パンフレット掲載の「「まほろ」シリーズ全エピソード」でそうだったなと思いだしたくらいです。
 それでも、クマネズミ(注5)は、本作を楽しく見ることが出来ましたから、本作は決して「一見さんお断りの」作品になっているわけではないと思います。

 さらに、前田氏はイロイロな理由を挙げて「まほろワールドの相当なマニア以外の一般人は、見る理由が全く見当たらない」とまで述べていますが、果たしてそうでしょうか?

a.前田氏は、「のんびり登場人物描きをやるスローモーな展開」振りを批判します。
 本作は、多田と行天がビニール袋に入った荷物を持ちながら坂道をブラブラ歩いているシーンから始まるところ、一方で多田が自分たちのことをモノローグで語っていると(「行天がやってきてもう2年」)、他方で頭にサッカーボールがぶちあたって行天が倒れます。
 子どもたちやコーチが様子を見にやってくるのですが(注6)、行天が「人は簡単に死ぬのだよ」と言って立ち上がった途端、彼らは慌ててその場から立ち去ります。
 そんなところに多田の携帯が鳴って、曽根田のばあちゃん(奈良岡朋子)の具合が良くないとの知らせが入院先の病院から。
 彼女の息子の依頼で週1回病院にお見舞いに行っているので、二人は病院に駆けつけます。でも、特段のこともなく(注7)、彼女と二人は病院の屋上で語り合います。
 こうしてみると、まさに「のんびり」した導入部なのかもしれません。
 でも、こんなふうな本筋とは直接関係のない「スローモー」な描きぶりこそが前作及び本作の独壇場とも言えるわけで、それが嫌ならば前作だって高い評価を付けられないのではと思われます(注8)。

b.前田氏は、「男だけで子供を預かり面倒を見るストーリーは既視感たっぷり」だとか、「無農薬栽培農業とあやしげなカルト団体が絡んでいる設定もまたしかり」と述べます。
 でも、設定だけなら、瓜二つの作品は世の中に数多く存在するのではないでしょうか?重要なのは、そうした設定が作品の中でどのように生かされているかの方ではないかと思います。
 例えば、後者のあやしげな農業団体HHFA(「家庭と健康食品協会」)については、ブログ「佐藤秀の徒然幻視録」が指摘するように、まさに村上春樹の『1Q84』と類似するところがあるように思われます。



 とはいえ、本作では、HHFAの代表である小林永瀬正敏)と行天との関係の方に重点が置かれていて、HHFAがカルト教団であることはあまり重視されていないような気がします(注9)。

c.「90分近くたってようやく始まるバスジャック事件も遅きに失した感があるし、そこで行われる人物たちの行動、取り巻く警察の動き等々、リアリティも説得力も皆無」とまで、前田氏は言い切ります。
 ですが、本作ではバスジャック事件自体は二の次であり(注10)、一連のシーンはHHFAの代表・小林と行天とがバスの中で対決する本作のクライマックスなのですから、言われるように映画の最初の方に持ってくるわけにも行かないのではないでしょうか?



 それから、澤田刑事(古川雄輝)が小林をピストルで撃ってしまうシーンなどは、実際にはありえないことでしょう。その意味では「リアリティ」がないといえるかもしれません。
 とはいえ、前田氏が評価する第1作においても、上で触れたように小学生がクスリの密売に関与していたりしていて、そんなことは常識的には考えられませんから、コメディタッチのこうした作品にそうした観点からの批判は筋違いのような気がします。

(3)渡まち子氏は、「便利屋を営む多田とその相棒の行天が思わぬピンチに遭遇する「まほろ駅前」シリーズ第2弾「まほろ駅前狂騒曲」。エピソードが多く賑やかな展開だがユル~い雰囲気はしっかり継承」として65点を付けています。
 前田有一氏は、「テレビドラマ版を挟んでの映画版2作目となる本作だが、早くも一見さんお断りの、こぢんまりとしたファン専用作品となっている」として30点しか付けていません。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「人間誰しも荷物を背負っている。みんなワケありだ。大森(監督)はそれをくだくだ説明せず、具体的な映像で一瞬に見せる。「さよなら警告」など思い作品の一方で、こんな娯楽作も撮る。娯楽作でありながらえらく人間臭い」として★4つ(見逃せない)を付けています。



(注1)本作の原作は、三浦しをん著『まほろ駅前狂騒曲』(文藝春秋)。
 監督は、第1作と同様の大森立嗣(『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』とか『さよなら渓谷』)。

(注2)多田には子供を死なせてしまった過去があり、また行天には、その精子を使った体外受精によって生まれた子供がいること、など。

(注3)上記「注2」で触れている行天の娘・はる岩崎未来)を、行天らが短期間預かることになります。



 また、行天の母親は、HHFAの前身である「天の声教団」の信者であったこと、さらにHHFAの代表・小林と行天とは幼なじみであったこと、など。

(注4)俳優陣に関し、最近では、瑛太は『モンスターズクラブ』、松田龍平は『麦子さんと』、高良健吾は『私の男』、永瀬正敏は『戦争と一人の女』、麿赤兒は『朱花の月』で、それぞれ見ています。
 その他、多田が思いを寄せる女性・柏木役の真木よう子は『そして父になる』、星に取引を持ちかけるヤクザの若頭役の新井浩文は『春を背負って』で見ています。

(注5)クマネズミは、TV版は見ておりません。

(注6)子供の一人が「ごめんなさい」と謝ると、コーチが「簡単に謝るな」とか「そんなところに立っている方が悪い」と言ったりします。

(注7)「先週危なかった時に息子さんは来ませんでした。便利屋さんのほうが優しいですね」と看護婦に言われます。

(注8)第1作の導入部も、多田が女性から愛犬チワワを預かったり、老人の麿赤兒)から路線バスの運行チェックの依頼を受けたりする場面から始まります。
 そんな第1作についての前田氏の評価は60点でした。

(注9)ただ、HHFAが単なる無農薬野菜を栽培しているまっとうな農業団体なら、多田と行天も由良の救出作戦を実行しなかったことでしょうが。

(注10)映画『EUREKA』とは違って。
 それに本作では、バスジャック事件を引き起こした老人たちは釈放されています。



★★★☆☆☆



象のロケット:まほろ駅前狂騒曲
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25 NIJYU-GO

2014年11月19日 | 邦画(14年)
 『25 NJYU-GO』を渋谷TOEIで見ました。

(1)久しぶりに哀川翔を見ようということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)は、東映Vシネマ(注2)25周年記念の作品ということで、哀川翔を主演に迎え、ハチャメチャのアクションが描き出されます(注3)。

 物語は、九十九温水洋一)が年金基金から横領した金の残金25億円を巡っての争奪戦。
 戦いに参加するのは、まず西池袋署の悪徳警官の桜井哀川翔)と日影寺島進)。



 捜査で押収した250万円の行方がわからなくなっている問題の責任を問われ、明朝までにそれを提出するように署長(大杉漣)から命じられていて、至急、金が入用です。

 それから、田神組の組長(小沢仁志)は、中国マフィアのジョニー・ウォン竹中直人)との間で2,500億円もの麻薬取引をするために25億円がぜひとも必要となっています。
 また、真田井上正大)が率いる半グレの武装集団・武蔵連合も、この争奪戦に加わってきますし、さらには、高級クラブのママ(高岡早紀)もおこぼれに与ろうとします。
 さあ、この争いはどのように決着がつくでしょうか、………?

 確かに本作では、哀川翔と寺島進の悪徳刑事コンビと、暴力団田神組、半グレの武装集団・武蔵連合などが、年金基金からの横領金の残金25億円を巡って、壮絶にドンパチをやらかします。そのアクションシーンが次から次に引き起こされてなかなか面白いものの、『るろうに剣心』を見た者からすると、時代劇でさえすごく斬新に面白く描けるのに、どうして現代アクションがこんなに古色蒼然としているのだ、という思いにとらわれます。

(2)本作で使われる武器としては、添え物的にバズーカ砲やマシンガン、ダイナマイトが登場するものの、ピストルが主。とはいえ、なにしろ体を見せ合いながら撃ち合いをしても、お互い全然当たらないのですから!



 Vシネマの流れからすればこれは順当なのでしょうが、全体的にどうも迫力が乏しい感じがしてしまいます。

 また、本作で奪い合いの対象となる「25億円」ですが、なんとそれが、廃車場に置かれているバンの中に現金で袋詰めにされて隠されているのです。
 とすれば、九十九が年金基金から横領したとされる60億円も、はじめは現金で基金の口座から引き出し、それからその半分を使ってしまったということなのでしょうか(注4)?
 でも、いくらなんでも60億円(たとえ25億円にしても)もの大金を現金で引き出せば、スグに露見してしまうでしょう(注5)。
 あるいは、基金に納付される保険料を着服してどこかに隠しておいたのでしょうか?でも、今や、保険料の大部分は口座振替で納付されるのではないでしょうか?
 なんだか、現金が25億円も袋詰になっているのは、ラストの方で、華々しく札びらが舞い散るシーンを描き出したいがためと思えてしまいました。

 でもそれらのことはどうでもいいのでしょう、何しろ本作は記念の「お祭り」作品ですから(注6)、愉快に見ることができれば十分と思います。

(3)主演の哀川翔ついては(注7)、映画デビュー25周年にあたる2010年に制作された記念すべき3本の映画『誘拐ラプソディー』『昆虫探偵ヨシダヨシミ』『ゼブラーマン―ゼブラシティの逆襲―』で見た後は、あまり見かけなくなってしまいました(注8)。
 でも、本作では無事主役として蘇って、ラストの方では田神組の組長と1対1の対決を演じたり、中国マフィアのボスを1発で仕留めたりして、相変わらずの大活躍ぶりです。



 彼については、毎朝午前4時に起床してカブトムシを世話しているなどといった一風変わった生活振りが伝えられたりもしますが(注9)、そんな私生活的なところは極力ベールに包んでおいてもらい、この先もやっぱり「Vシネマの帝王」であり続けてほしいものと思います(注10)。

(4)渡まち子氏は、「ワケありの大金25億円をめぐってワルたちが争奪戦を繰り広げるバイオレンス・アクション「25 NIJU-GO」。現金争奪バドルは、まるでお祭りのよう」として55点を付けています。
 前田有一氏は、「ストーリーもアクションも結末も、すべてが予想の範囲内。決して現代の映画として優れた何かがあるわけではないが、どこか許せてしまうのはそのせいか」として55点を付けています。
 相木悟氏は、「不謹慎ながら無邪気に楽しめる大人のエンターテインメントであった」と述べています。



(注1)監督は、鹿島勤

(注2)本作の劇場用パンフレットの「TOEI V-CINEMA FILMOGRAPHY」では、1989年から2006年までに制作された250作品のタイトルが記載されています。

(注3)といって、小生自身は、Vシネマ自体あまり見たことがないのですが、本作を見れば哀川翔のそこでの活躍ぶりが垣間見れるのかなと思ったところです。

(注4)その他に約4億円が、九十九が後生大事に抱えているリュックサックに入っています。

(注5)よくはわかりませんが、昨年騒がれた「長野年金基金横領事件」では、この記事によれば、被告は、2005年6月~2010年9月の間、44回にわたり約23億8300万円を基金口座から着服したようですから、あるいはありえないことではないのかもしれませんが。

(注6)劇場用パンフレット掲載の「CAST INTERVIEW」において、哀川翔が「これは祭りだからね」と言っています。

(注7)その他の俳優陣について申し上げれば、最近では、寺島進は『イン・ザ・ヒーロー』、温水洋一は『麦子さんと』、高岡早紀は『花宵道中』で、それぞれ見ています。

(注8)最近の哀川翔の出演作としては、2011年の『劇場版 目を閉じてギラギラ』がありますが未見(その後DVDを見ました)で、『銀の匙』(ヒロイン・アキの叔父の役)とか『サンブンノイチ』(窪塚洋介演じる破魔翔のバックに映像として登場するだけですが)などを見ています。
 なお、この記事によれば、品川ヒロシの4本目の映画が哀川翔の芸能生活30周年記念映画となるようです(この記事によれば、タイトルは『Zアイランド』で来春公開)。

(注9)その件については、『昆虫探偵ヨシダヨシミ』についての拙エントリの(1)でも触れていますが、今月2日放映のフジテレビ「ボクらの時代」でも明かされています。

(注10)哀川自身は、「(Vシネは)消えそうで消えないし、消えるはずがない!って思うよ」と述べています(このインタビュー記事)。



★★★☆☆☆



象のロケット:25 NIJYU-GO
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花宵道中

2014年11月17日 | 邦画(14年)
 『花宵道中』をテアトル新宿で見ました。

(1)本年の東京国際映画祭の特別招待作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「ただひたすら男に抱かれ続けた、そんな風にしていたら、生きることの道筋さえも見失ってしまった、そんな道もないところには花も咲かない」などといった主人公の遊女・朝霧安達祐実)のモノローグが流れる中で、妓楼・山田屋(注2)の部屋で客をとる朝霧と、祭りの雑踏の中で倒れる朝霧が描かれます。

 雑踏の中で倒れた拍子に朝霧は、片方の下駄をなくしてしまい途方に暮れていると、若い男が朝霧を抱きかかえて「大丈夫か?怪我はなかったか?」と声をかけてくれます。



 さらに、朝霧が「下駄をなくしまって」と言うと、その男は下駄を探し出し、朝霧に履かせてくれます。
 その男は、「この下駄の鼻緒は俺が染めた」といいますし、また朝霧の手の傷口を吸ってくれたりもするのです。

 郭で間夫を持つことは厳禁とされていて、朝霧もこれまでそんなことはしてこなかったのですが、そんな男・半次郎渕上泰史)に恋心を抱いてしまいます(注3)。
 さあ、どうなることでしょうか、………?

 本作については、吉原の遊女に関しこれまで映画等で作り上げられてきた定型的なものを一歩も出ていない作品内容だなという感じがし(注4)、取り柄は主演の安達祐実(注5)のヌードシーンだけのようにしか思えなかったため、彼女のファンでもない者にとっては100分が随分と長く感じられました。

(2)本作の原作は、宮木あや子氏の短編「花宵道中」(新潮文庫『花宵道中』に所収:注6)ですが、原作の短編と本作とで違いはそれほど見受けられません。

 と言っても、例えば、原作では半次郎は「縛り首」になったとされているところ(文庫版P.45)、本作では「打首」とされています(注7)。
 また、八幡様の祭りの際に半次郎が探してくれたのは、原作では「草履」となっていますが(文庫版P.14)、本作では「下駄」(注8)。

 さらに、本作では、半次郎の姉が朝霧の姉女郎の霧里高岡早紀)であり、朝霧を身請けするのが吉田屋津田寛治)だとされているところ、原作ではそのようには書かれておりません(注9)。

 そして、一番異なるのは、主人公の設定なのかもしれません。
 というのも、原作では、「あたしは不器量だから、そのままじゃ売れないってんで姉さんは意地んなって三味も踊りも唄も仕込んで、内八文字の踏み方まで教えてくれた」と朝霧が半次郎に語りますが(注10)、本作では、その朝霧を安達祐実が演じているのです!

 でも、そんなことよりなにより、映画は映画なりに、もう少し斬新な視点で吉原の遊女を描いてほしいものだなと思いました。

(3)外山真也氏は、「あまりにも説明的なフラッシュバックの挿入に至っては、柔軟さが裏目に出た残念な結果と思えなくもないが」としつつも、「安定した演出と確かな語り口、何より安達祐実の女優魂によって、見応えのある吉原花魁映画に仕上がっている」として★4つ(5つのうち)をつけています。



(注1)監督は、『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』の豊島圭介

(注2)天保8年(1837年)の吉原大火で吉原遊郭が焼けてしまい、原作によれば、山田屋は深川の富岡八幡宮の近くで仮宅を設けて営業しています(文庫版P.10)。

(注3)朝霧は誰も見ていないと思っていましたが、本作のラストによれば、妹女郎の八津小篠恵奈)が密かに見ていたようです。

(注4)本作は、劇場用パンフレット掲載の「Key Words」において、「水揚げ」とか「身請け」それに「気を遣る」といった用語を説明する必要がある観客を対象にしているので、定型的なものになってしまうのも仕方がないのかもしれませんが(「気を遣る」について、「男女が睦み合ったときに、達すること」と解説されていますが、「達する」に関するデジタル大辞泉のこの内容では、解説の意味することかわからないでしょう!)。

(注5)安達祐実が出演する作品は、最近見たことがありませんが、映画主演は約20年ぶりだそうですし、さらに今年は芸能生活30周年の節目でもあるそうです(この記事)。
 なお、半次郎役の渕上泰史は『共喰い』に出演していたようですが印象に残っておりません。また、朝霧の妹女郎・八津役の小篠恵奈は『ももいろそらを』などで見ています。
 さらに、山田屋の女将役の友近は『地獄でなぜ悪い』で、吉田屋役の津田寛治は『恋の罪』などで見ています。

(注6)文庫版は、連作短編小説が6つ集められたものとなっており、「花宵道中」はその第1編目。
 また、短編「花宵道中」は新潮社の「女による女のためのR-18文学賞」の第5回を受賞。
 なお、同賞は、第10回までは「女性が書く、性をテーマにした小説」をテーマとしてきたところ、第11回以降は「女性ならではの感性を生かした小説」とテーマを拡大しているようです。
 ちなみに、第8回の同賞を受賞した短編「ミクマリ」を所収する『ふがいない僕は空を見た』が映画化されています(この拙エントリをご覧ください)。

(注7)江戸時代における町人に対する死刑は、このサイトの記事によれば、6種類ありますが、「縛り首」はなかったようです。
 原作のコミック版(漫画・斉木久美子、コミック小学館ブックス)でも「縛り首」とされていますが、あるいは、文庫版の解説を書いている巌本野ばら氏が言うように、「(原作者の)宮本あや子氏自身、歴史にさほど詳しくないから」なのかもしれません(P.370)!

(注8)上記「注7」で触れたコミック版でも「草履」です。
 さらには、雑誌『シナリオ』12月号掲載のシナリオにおいても、一貫して「草履」となっているにもかかわらず、本作では「下駄」が使われます(劇場用パンフレット掲載のエッセイ「朝霧の“足”に主眼を置いた、「赤い糸の契り」の物語」において、轟夕起夫氏も、「原作では下駄ではなく草履なのだが」と述べているところです)。

(注9)尤も、新潮文庫『花宵道中』所収の「青花牡丹」では、朝霧の姉女郎の霧里と半次郎が姉弟であるばかりか、なんと吉田屋の子供だとされているのです!
 本作において、半次郎が吉田屋を殺すまでに至る理由をはっきりと描くために、他の短編の話しをもってきたのでしょうが、いくらなんでも霧里と半次郎が吉田屋の子供だったという設定まで映画に取り入れることができなかったのでしょう!
 ただ、本作では、吉田屋の策略により半次郎は吉田屋の遠縁筋の娘と祝言を挙げることになっていますが、これは、原作の「青花牡丹」で、東雲と言っていた半次郎が絹問屋の娘と結婚したこと(文庫版P.150)を映画に取り入れたものではないかと思われます。
 でも、ここらあたりは、原作にしても本作にしても、ご都合主義が過ぎているような感じがしてしまいます。

(注10)他にも、例えば、「ごめんね姉さん、あたしがもっと綺麗だったら。朝霧は申し訳なさそうに謝っていた」などとあります(文庫版P.133)。
 また、上記「注7」で触れたコミック版でも、朝霧は「そりゃあたしは綺麗じゃないし…/化粧してねぇ顔なんざ しおれてしぼんだ朝顔みたいだしよ…」と独り言を言います。



★★☆☆☆☆



象のロケット:花宵道中
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太陽の坐る場所

2014年11月08日 | 邦画(14年)
 『太陽の坐る場所』を有楽町スバル座で見てきました(注1)。

(1)本作で主演の水川あさみをたまたまTV(注2)で見かけたものですから、映画館に行ってきました。

 本作(注3)の冒頭は、現在から10年ほど前、高校時代の体育館の場面。
 バスケットボールをドリブルしていた響子古泉葵)は、後からやってきた今日子吉田まどか)に対し、「お願いがあるの、私を閉じ込めてくれない?」と告げ、驚く今日子にさらに「だけど覚えていてほしいの、閉じ込められるのと閉じ込もるとは違うということを」と付け加え、最後に「太陽はどこにいても明るいの」と言いながら体育館内の倉庫に入っていきます。

 場面は変わって、現在時点で、地方のラジオ局のスタジオ。
 アナウンサーの響子水川あさみ)が、リスナーからの手紙を読んで、リクエスト曲の「アマノ・イワト」(注4)のテーマ曲をかけます。
 曲がかかっている間、響子は窓の外を見ながら「私は暗闇に怯える者たちとは違う」などと呟きます。

 次いで、高校時代のクラスメートだった島津三浦貴大:現在は、地方銀行の東京支店に勤務)から電話がかかり、響子は、彼が幹事役のクラス会への出席を促されますが、「都合が悪い」と断ります。



 さらに、場面は新作映画の記者発表の会場。島津は電話で、その映画に主役で出演する女優の今日子木村文乃)に対し、クラス会への出席を求めします。ですが、響子と同様、「みなさんによろしく」と断られてしまいます。

 場面は、再び高校時代に戻って、響子たちのクラス。
 途中編入してきた鈴原今日子に対し、響子は、自分が皆から「キョウコ」と呼ばれて慕われていることから、「鈴原はとっても良い苗字。みんな、リンちゃんと呼びましょう」と宣言します。



 こうして本作は、現在、地味な地方放送局のアナウンサーをしている響子の姿を、東京で俳優として派手な活動をしている今日子と比べながら描き出しつつ、かつては、同じ高校の同級生であり、その時は響子の方が今日子よりもずっと輝いていたのに何故今こうなっているのだろうかと、高校生活を回想するシーンを挿入していきます。すると、そこに見えてきたものは、………?

 本作は、二人の女性の高校時代とその10年後の姿との落差の根元にあるものを探り出そうとするサスペンス物の作りになっているとはいえ、そんな落差などどこにでも転がっているでしょうし、また見出される事実も他愛ないことのように思えますから、謎解きの要素は後退している感じがし、むしろ、東京と地方都市との落差の受けとめ方といった点に興味が湧きました(注5)。

(2)本作では、二人のキョウコの高校時代以降現在に至るまでの経緯は描かれておりません。きっと、現在の二人のキョウコと高校時代の二人のキョウコを鋭く対比させるために、意図的にそれ以外のファクターは描かなかったのでしょう。そして、それはそれでなかなか効果的ではないか、と思いました。

 ただその結果、本作が、かなり観念的・図式的なものになってしまったきらいがある感じです。
 言ってみれば、高校時代における響子と今日子との関係が、ある事件の受けとめ方を通じて大きく変化し、それがそのまま現在の状況になっている、というような図式でしょうか。
 要すれば、特に主人公の響子が高校時代の出来事にずっと縛られ続けた感じです。
 そういうこともありうるでしょうが、それにしては、その出来事というのが他愛ないものではないか、とクマネズミには思えてしまいます。

(3)ところで本作は、山梨放送局開局60周年記念作品ということで、山梨県関連のことがアチコチに見出されます。
 まずは、本作の原作者・辻村深月氏と矢崎仁司監督が山梨県の出身者。
 また、本作の主題歌「アメンボ」の作詞・作曲・歌唱は、山梨県出身の藤巻亮太(レミオロメン)によります。
 そして言うまでもなく、本作の大部分の撮影場所は山梨県(注6)。

 これまで拙ブログでも、クマネズミの親族に山梨県関係者がいることもあり、山梨県関連の作品を何度か取り上げてきました(注7)。
 例えば、最近では、『ぼくたちの家族』。
 でも、描き出された場所は東京のベッドタウン化しているところで、余り山梨県という感じがしません。
 あるいは、『麦子さんと』でしょうか。
 この作品になると「この映画の全体の約70パーセントを都留市内で撮影」とされていますから(注8)、山梨県的な雰囲気が漂っています。
 そして、作品全体が山梨県を舞台にしていると言ったら、『もらとりあむタマ子』でしょうし、それに『サウダーヂ』でしょう(両作とも、甲府が舞台)。

 本作は、東京の場面がいくつか出てくるにしても、大部分は山梨県が舞台とされていますから(本作で場所の特定は明示的にされていませんが)、『麦子さんと』とか、さらには『もらとりあむタマ子』類似の作品と言っていいかもしれません。
 でも実のところは、特殊山梨県というよりも、東京以外の地方都市のいずれでも当てはまるような感じがしたところです(注9)。
 冒頭近くで、ラジオ局の窓から駅のプラットホームを響子が見下ろすシーンがありますが、見える駅はどの駅と特定しにくい感じですし、また何度も登場する高校も、どこにでもよくみかける外観です(注10)。

 あるいは、東京から甲府まで特急で1時間半ちょっとで行ける近さにありながらも、途中の山岳地帯のために(笹子子トンネルや小仏トンネルなどを通過しなくてはなりません)、まるで別の地域に着いた感じなるというようなことが(注11)、地元の人々の感覚に微妙な影響を与えて、それが本作にも絡んでくるということなのかもしれません(注12)。でも、山梨県で暮らしたことのないクマネズミにはそこら辺りまではよくわかりませんでした(注13)。

(4)渡まち子氏は、「ストーリーそのものは単調でパンチ不足。悪意も善意も中途半端では共感することも難しい。ただ、誰もが通過してきた青春時代の古い傷の疼きを、ほこりっぽい体育館にさしこむ光のようにぼんやりと思い出させてくれる作品だった」と述べて50点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「辻村深月の原作にある心理的リアリティーが映画には不足」と述べて★2つを付けています。



(注1)現在は、新宿のK’s cinemaで上映中です。

(注2)フジテレビで10月19日に放映された対談番組「ボクらの時代」。

(注3)原作は、辻村深月氏の『太陽の坐る場所』(文春文庫)。
 監督は、矢崎仁司

(注4)原作によれば、今日子は、映画『アマノ・イワト』でアマノウズメノミコトを演じてその踊りを賞賛され、一躍注目を浴びることになります(文庫版P.40)。

(注5)本作の出演者の内、水川あさみは『RETURN(ハードバージョン)』や『大木家のたのしい旅行』、木村文乃は『ニシノユキヒコの恋と冒険』や『ポテチ』、三浦貴大は『私の男』や『永遠の0』で見ました。

(注6)劇場用パンフレットによれば、「撮影は山梨県内で15日間、東京都内で1日の合計16日間」とのこと。

(注7)以下では、このサイトの記事を参考にしました(その記事を見て、そう言えば『休暇』や『ゆれる』も山梨県が舞台となっていたなと思い出しました)。

(注8)このサイトの記事によります。

(注9)特殊山梨県というよりも地方都市ならどこでもいいのではという点は、『麦子さんと』でも感じたところですが、本作ではもっと感じたところです。

(注10)とはいえ、響子が山梨学院大学の入試試験会場から「試験の初日です」とレポートするのを見れば、舞台が甲府であることは分かりますし、あるいは、高校生らの話す甲州弁からも山梨県だとわかります。
 なお、本作の方言指導は五諸川津平太氏(このサイトの記事に同氏が著した本のことが書かれています)。
 また、甲州弁については、この拙サイトの「注2」で簡単に触れたことがあります(尤も、こんな記事もありますが)。

(注11)この点で、千葉県や埼玉県などの関東圏にある地方都市と甲府などの山梨県の都市と異なるのではないでしょうか?

(注12)東京と地方との落差については、例えば、今日子が響子に対して、「あなたは、どうしてこんなクラス会に出席してるの?あなたほどの人が」、「あなたはここで終わるような人じゃなかった」などと言います。東京で女優として活躍する響子からすれば、地方ラジオ局のアナウンサーは格下に見えるのでしょう。
 そして、それに対して、今日子の方も、「恥晒しになりたいの。自分は18歳の頃にすべてを失った。正面から傷つくべきだと気がついた」などと、自分が格下の場所にいることを認めてしまっています。
 また他の東京で暮らす女性たちは、「地元で開かれるクラス会では肩身が狭い。地元に残った人たちの焦燥感が凄い」とか、「田舎の話題は結婚」とか言ったりします。

 こういった描き方にはなんら新味は見られないとはいえ、「地方創生」が声高に叫ばれている現在(あるいは「L型産業」の活性化でしょうか)、これから地方の意識がどのように変化するのか、あるいはしないのか、興味が持たれます。

(注13)なお、酷くつまらないことながら、ラストの方で東京から山梨に向かったはずの今日子の乗る車が画面の左から右に向かって高速道路を進行し、長いトンネル(今日子は「トンネルの数が27」などと言います)を出て車窓の左手に街が見えてくるというシーンには違和感を覚えました(別に、本作では、舞台となった地方都市が甲府と特定されていないので構わないとはいえ)。



★★★☆☆☆



象のブログ:太陽の坐る場所
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誰よりも狙われた男

2014年11月05日 | 洋画(14年)
 『誰よりも狙われた男』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)先般、46歳の若さで突然死したフィリップ・シーモア・ホフマンの遺作(主演作としては:注1)ということで映画館に行ってきました。

 本作(注2)の舞台は、ドイツのハンブルク
 冒頭では、エルベ川から一人の男が上がってきます。おそらく、ドイツに密入国したのでしょう。
 彼の名はイッサグレゴリー・ドブリギン)といい、テロリストとして国際的に指名されているチェチェン人。

 次第に、イッサが、銀行の頭取であるトミー・ブルーウィレム・デフォー)に会いたがっていることがわかり、また弁護士のアナベルレイチェル・マクアダムス)がイッサを支援しようとします。



 そうしたイッサの行動を逐一監視している人々がいます。
 まずは、テロ防止工作員チームを率いるバッハマンフィリップ・シーモア・ホフマン)。



 次いで、ドイツの諜報機関のモアライナー・ボック)。
 さらには、CIAのマーサ・サリヴァンロビン・ライト)。



 バッハマンは、イッサのような小魚は泳がせておいて、それに食らいつく大魚、ひいてはサメのような大物を釣り上げようというやり方をとります。
 ですが、モアの方は、小魚も危険であればすぐにも捕まえてテロを未然に防ぐべきだと考えています。
 こうした中で、バッハマンは自分の信念に従ってチームを動かしながら目的に向かって邁進するの ですが、CIAのマーサ・サリヴァンも絡んできて、難しい局面に立たされます(注3)。
 果たして、その結末は、………?

 本作では、ドイツでスパイチームを率いる主人公の活躍が、そのやり方を嫌う別の諜報機関との攻防の中で描かれ、レイチェル・マクアダムスやウィレム・デフォーロといった豪華俳優陣も見事ながら(注4)、やはりなんといっても主人公を演じるフィリップ・シーモア・ホフマンの存在感が圧倒的で、新作で彼の姿がもう見られないのは本当に残念なことです。

(2)このブログでは、フィリップ・シーモア・ホフマンの出演作について、『ダウト』以降、『パイレーツ・ロック』、『脳内ニューヨーク』、『マネーボール』、『スーパー・チューズデー』、『ザ・マスター』、『25年目の弦楽四重奏』、そして本作、と追ってきました。
 どの作品においても、彼の演技は素晴らしく非の打ち所がないのですが、その存在感の凄さを見せつけられたのは『ザ・マスター』ですし、興味深かったのは『脳内ニューヨーク』、そしてしっくりきたのは『25年目の弦楽四重奏』といったところでしょうか(注5)。

 本作では、随分と重厚な役柄(注6)を彼だからこその演技で立派にこなしているとはいえ、彼がドラッグの過剰摂取で亡くなったということを予め知っているせいでしょう、なんだか動きが鈍くなっているように感じられ(注7)、またラストのシーンからは凄い侘びしさが漂っているように思われたところです。

 なお、フィリップ・シーモア・ホフマンの死については、粉川哲夫氏によるこのエッセイが委曲を尽くしていると思います(注8)。

(3)なお、ひどくつまらないことながら、本作の主人公のバッハマンは一体何者なのでしょう?
 英語を話しますし、9.11に酷くこだわっていますから、アメリカ人とも考えられますが、アメリカからはCIAのマーサ・サリヴァンが直接やってきます。
 下記の(4)で触れる藤原帰一氏は、「亡くなる直前のホフマンは、この、ドイツのスパイ職人を演じたのでした」と述べて、CIAと対立する「ドイツの諜報機関」のスパイだとしています。
 ですが、劇場用パンフレットに掲載されている「STORY」によれば、バッハマンは「ドイツ諜報部の目に止まらぬよう、公にならない仕事をするテロ防止工作員たちの集団」を率いる男とされています。より具体的には、「ドイツの諜報機関である連邦憲法擁護庁(OPC)のハンブルク支局長ティーター・モア」と対立していることになっています。
 とすると、バッハマンは「ドイツの諜報機関」のスパイとはいえなくなります。
 ただ、本作の原作のあらすじが書かれているこのサイトの記事には、「ドイツ連邦憲法擁護庁外資買収課課長ギュンター・バッハマンは、各国から逃亡犯として指名手配されているイッサを利用して、権力争いの覇権を握ろうと画策する」とあり、バッハマンこそが連邦憲法擁護庁の職員だとされているようです。

 どうもよくわかりませんが、やはり劇場用パンフレットに掲載されている「STORY」に沿って、バッハマンのチームは、ドイツ海外諜報部(連邦憲法擁護庁の中に設けられているのでしょうか)の指揮下にある機関とみなしておくことにします(とすれば、藤原氏が「ドイツの諜報機関」のスパイとするのも、あながちおかしくはないことになります)。

(4)前田有一氏は、「元Mi6の原作者ジョン・ル・カレによる同名小説の映画化。映画では9.11事件によって大きく様変わりした諜報戦の現場を、リアリティたっぷりにみせる。フィクション作品ながら、他とは一線を画するディテールの丁寧な描写が見所のスパイドラマだ」として60点を付けています。
 稲垣都々世氏は、「複雑なプロットで知られるル・カレものにしては登場人物や人間関係がよく整理され、簡潔で平易な構成だ」と述べています。
 藤原帰一氏は、フィリップ・シーモア・ホフマンは「やはり、すばらしい。自分が時代遅れであることを知りながらその技術を自負していて、自負はしているけど人生で何度となく敗北を経験してきた老スパイ。その姿が、皮膚の下に忍び込むように観客を捕まえてしまう」と述べています。



(注1)このサイトの記事によれば、『ハンガーゲーム』の続編があと2つあって、それにフィリップ・シーモア・ホフマンが出演しているようです(さらに、こんな記事もあります)。

(注2)原作は、ジョン・ル・カレ著『誰よりも狙われた男』(ハヤカワ文庫:未読)。
 監督は、『ラスト・ターゲット』のアントン・コービン

(注3)ドイツ海外諜報部の部長のもとで、バッハマン、モア、それにサリヴァンらを交えた会議が開かれ、バッハマンは72時間の猶予が与えられることになります。その間に、確実な情報を取得しなければ、大物を捕らえることができなくなってしまいます。

(注4)驚いたことに、『ラッシュ/プライドと友情』などですごく印象的なダニエル・ブリュールがバッハマンのチームの一員であるマキシミリアンを演じているのですが、殆ど台詞がないのです!
 なお、最近では、レイチェル・マクアダムスは『パッション』で、ウィレム・デフォーは『グランド・ブダペスト・ホテル』、ロビン・ライトは『美しい絵の崩壊』でそれぞれ見ました。

(注5)そんなことから、本年1月の「日本インターネット映画大賞―2013年度外国映画投票」では、『ザ・マスター』に7点、『25年目の弦楽四重奏』に5点を与え、さらに「主演男優賞」には後者のフィリップ・シーモア・ホフマンを、「助演男優賞」には前者の彼を挙げたところです。

(注6)バッハマンは、一方で、例えば弁護士のアナベルを自分の思う方向に動かそうと監禁して圧力をかけるということをしながらも、他方では、ベイルートで手痛い失敗をした経験から(おそらく情報源を失ってしまったのでしょう)、イッサなどの小魚に対しては約束を履行して放置しようとします。

(注7)フィリップ・シーモア・ホフマンが亡くなったのが46歳としたら、もっと精悍であってしかるべき感じがします。やはり、ドラッグの影響が見られるのでしょうか。
 本文の(4)で触れる藤原帰一氏は、彼の演じるバッハマンのことを「人生で何度となく敗北を経験してきた老スパイ」と書いていますが、そして映画を見るとそんな感じがしてしまうとはいえ、本来的には油の乗り切った壮年のスパイなのではないでしょうか?

(注8)粉川氏の記事で紹介されていますが、20分余のこの動画では、フィリップ・シーモア・ホフマンが出演した47作品からその出演シーンを抜き出してつなげたものながら、非常に面白いと同時に、いかにクマネズミが彼の作品を見ていないのかがよくわかりました(彼が出演した映画は50本以上と言われています←この記事)。



★★★★☆☆



象のロケット:誰よりも狙われた男
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吉本隆明の経済学

2014年11月03日 | 
(1)先日の拙エントリで取り上げました小林徹氏の著書『経験と出来事 メルロ=ポンティとドゥルーズにおける身体の哲学』(水声社)を読んでいましたら、その第4章で「〔ドゥルーズによれば〕命題のシステムは、「指示」「表示」「意義」という三つの言語的機能によって制御され、「言語が意味を持つ」という事態を成立させている」という文章に遭遇しました(同書P.77)(注1)。
 するとここでもまた、そのエントリの(4)で申し述べたのと同じような酷く手前勝手な連想が沸き起こりました。すなわち、吉本隆明著『言語にとって美とはなにか』(注2)に登場する「指示表出」と「自己表出」です。

 言うまでもなく、小林氏の著書で取り上げられている事柄は3項で吉本隆明のは2項であって、両者で形は異なるわけですが(注3)、こうしたいい加減な思い付きも小林氏の著書を読む一つの取っ掛かりになるのではと考えました。

(2)しかしながら、吉本隆明の著書はかなり古い時期に書かれたものであり、加えて彼自身2年前に亡くなったことでもあり、いまさらそんなことを指摘するまでもないと思い、同エントリでは書くことを控えました。
 そうしたところ、丁度先月中旬に、中沢新一氏の手になる『吉本隆明の経済学』(筑摩選書:以下、「本書」とします)が刊行されたことを知りました。書店でどんな内容なのだろうと思って覗いてみたら、その第1部の第1章から第3章において、「指示表出」とか「自己表出」といった吉本用語が処々に散見されるではありませんか(注4)!
 早速、ザッとですが読んでみました(注5)。

(3)本書でクマネズミが興味を持ったのは、例えば次のようなところです。
 「言語は、自己表出指示表出というふたつの表出からできています(注6)。そして、潜在化した指示表出を通った自己表出が言語の価値です。それはまさに、マルクスが交換価値が要するに価値なのだといっているのとおなじことで、自己表出が価値なんです」(P.61)。

 「ぼくは『言語にとって美とはなにか』の言語概念をどこから作ったかといいますと、〔ソシュールと〕おなじくマルクスの『資本論』から作りました。……そして、ぼくはどこに着目したかというと、「使用価値」という概念が、言語における指示性(物を指す作用)、それから「交換価値」という概念が、「貨幣」と同じで、万人の意識あるいは内面の中に共通にある働きかけの表現(自己表出)に該当するだろうとかんがえたんです。言語における「指示表出」と「自己表出」という概念を、「商品」が「使用価値」と「交換価値」の二重性を持つというところで、対立関係をかんがえて表現の展開を作っていきました」(P.87)。

 これらからすると、吉本隆明がマルクスの議論を鵜呑みにしているように見えますが、決してそうではなく、例えば、マルクスの価値論は「ちょっと息苦し」く、「娯楽とか芸能とか遊びとかも、手を加えた価値化に包括したらいい、とぼくはおもいます。そうすれば価値論も息苦しくなくなるのではないか、ということです」(P.60)と述べたりしています。

(4)その話も興味深いことではありますが、ここでは、冒頭で触れた小林氏の著書との関連で、別の点を取り上げたいと思います。

 吉本隆明は、マルクスの価値論について、ほかに「マルクスの「労働価値」概念と、実際に具体的な現実の市場での商品の価格とのつながりがうまくいかないという批判のされ方もあります」と述べています(P.91)。
 いわゆる「転形問題」でしょう。

 この問題は、Wikipediaで言われているように、マルクスの『資本論』第1巻の冒頭の価値論では、労働価値ではなく生産価格が取り扱われているのだとみなせば、もしかしたら「最終的に、擬似問題(pseudo problem)として決着」しているかもしれません。
 ですが、吉本隆明は本書において、ワルラスが「交換価値という現象は市場において生ずるもの」と述べていることに対して、それは「マルクスの(労働)価値イコール交換価値として商品に内在するという考えを意識して、それに異をたてるためになされた規定だといっていい」が(P.119)、ワルラスは「労働価値説の批判に深入りできなかった」と述べて(P.122)、マルクスの労働価値説を高く評価しています。
 ただそうなると、また振り出しに戻ってしまい、「転形問題」をどう解決するのだ、ということになってしまいます(注7)。

(5)そして、この問題は、吉本隆明の言語論にもつきまとってくるのでは、と思います。
 というのも、マルクスが、商品の価値を交換価値(=労働価値)に見出しているのと同様に、彼は言語の価値を自己表出に見出し、前者が数量的に比較できるのに対応して(注8)、後者も比較可能と考えているようです。
 というのも彼は、「Aという作品とBという作品は、どちらが文学的な価値があると決められる文学理論、文学の考え方を作りたくて、『言語にとって美とはなにか』を書き」、「内在的に内側から決められる価値概念で、言葉の価値を決められれば、文学としてこっちの方は価値があるけれども、こっちの方は価値がないと言えるはずだという考え方を展開していきました」と述べていますから(P.36~P.37)(注9)。

 要するに、商品に内在する労働価値と同じように、言語には何か「言語の価値」といった実体的な共通するものが内在していて比較できるのだ、ということではないでしょうか?
 でも、クマネズミには、ワルラスに従って、商品に労働価値など内在せず、あるのはただ市場の需要と供給で決まる価格のみであり、同様に、言語の場合であっても、予め言語の価値などというものが存在するわけでなく、あるのは単に他人とのコミュニケーションだけなのではないか、と思えます。

(6)ここで小林氏の著書です。
 小林氏が、その『経験と出来事 メルロ=ポンティとドゥルーズにおける身体の哲学』の中で次のように述べる点こそが、ここでの問題の要の点なのではと思えるところです。すなわち、
 「言語とは本質的に、われわれを他者との交流の内に全面的に投げ込む運動なのである。「語る主体」はそれゆえ、自由であるからといって個々別々に孤立した存在者ではなく、何よりもまず共存的意識であり、相互主体性なのである。何事か語るべきものが心中に芽生えるとき、われわれはすでに他者と共にあり、「語る主体」として、言語という運動体の内部に組み込まれているのだ」(同書P.47)。
 「言語には他者の存在が絡み合っている。私と他者との間に何らかの関係が結ばれていない場所には、言葉が生じることはない。誰しもひとりで言葉を発することはできない。たとえ、独り言の場合であっても、私は私に語りかけているのであり、そこには自己と自己との関係がある。しかしこのような関係は、言語活動に先立って決定されているわけではない。むしろ我々は、語ることによってこの関係を直接的に生きることによってのみ、それを確証するのである」(同)。

 マルクスの労働価値説では、市場で当該商品を他者と取引するという観点が後ろに退いてしまっているように見えるのと同様に、吉本隆明の言語論においても、コミュニケーションの場において他者と語るという視点が見えにくくなっているように思えてしかたがないところです(注10)。



(注1)ここの部分は、ドゥルーズ著『意味の論理学』(小泉義之訳:河出文庫)の「第3セリー 命題」に対応しているでしょう。
 なお、小林氏に従ってもう少し言えば、「まず言語は語によって事物を「指示」する」。また、「語が「意味」を持つためには、「「語る主体」が必要であ」り、命題は「「語る主体」の思考を「表示」する」。「この機能においては、(「指示」のように)真偽の区別ではなく、主観的な誠実さあるいは欺瞞が問題となる」。そして最後に、「命題は自らを他の命題へと差し向ける「意義」の機能を持っている」のであり、「命題間の意義的関係を支えるのは、……論証が論理学的な価値を持ちうるための真理条件である」(同書P.77)。

(注2)現在、角川ソフィア文庫版で読めますが、単行本(勁草書房刊)は1965年の発行です。

(注3)尤も、『言語にとって美とはなにか』においては、言語に関してさらに、「意味」〔「意識の指示表出からみられた言語の全体の関係」(文庫版P.89)〕、「価値」〔「意識の自己表出からみられた言語の全体の関係」(同P.102)〕、それに「」〔「言語の指示表出と自己表出の交錯した縫目にうみだされる」(同P.116)〕という3つの概念もまた提起されていますから、小林氏の著書で取り上げられている3項に対応するのは、吉本隆明の場合5項だと言えるかもしれません〔ただ、後の3項(「意味」「価値」「像」)はいずれも前の2項(「指示表出」「自己表出」)がらみのものですから、やはり2項というべきかもしれません〕!

(注4)前のエントリで申し上げたように、映画『幻肢』を見たのと小林氏の『経験と出来事 メルロ=ポンティとドゥルーズにおける身体の哲学』を書店で目にしたのが同時期でしたが、まさに同じようなシンクロニシティを今回も感じたところです。

(注5)本書は、吉本隆明の数多い著作の中から12の講演(8)・論考(4)を選び出した上で中沢氏が解説を加えたものを第1部(「吉本隆明の経済学」)とし、中沢氏の論考(「経済の私的構造」)を第2部とするという構成をとっています。
 全体が380ページと大部でありながら、講演録が多いこともあって、吉本隆明関係の著作としては随分と読みやすいように思います。

(注6)本書のP.17では、「言葉は〈指し示し〉〈伝える〉という機能を実現するのに、いつも〈指し示さない〉〈伝えない〉という別の機能の側面を発揮する」とされ、さらには、P.34では、「指示表出というふうに何かを指す使い方と、自己表出という、自分の持っている表現性の元になっているものに対する表現の仕方」とされています。

(注7)最近刊行された『若者よマルクスを読もうⅡ 蘇るマルクス』(内田樹・石川康宏著、かもがわ出版、2014.9)でも、マルクスが、その著『賃金、価格および利潤』において、「市場価格は需要と供給のバランスにより価値(その生産に必要な相対的労働量)を中心に変動する、といった価値論の基本点を解説」しているとして(同書P.166)、価格と労働価値との関係について、まるで何の問題もないかのように述べられているところです〔「市場価格は需要と供給のバランスにより価値(その生産に必要な相対的労働量)を中心に変動する」などということが現実に起きているのでしょうか?〕。

(注8)本書のP.31では「労働時間の大小で価値が決まるという価値論の基本」と述べられています。

(注9)『言語にとって美とはなにか』では、例えば、「A わたしの表皮は旱魃の土地よりも堅くこわばり」と「B わたしの表皮は堅くこわばり」という二つの文章を比較し、「Aではひびわれた土地の像(イメージ)に表皮が連合されて、それだけ自己表出とそれにともなう像の指示性は影響され、つよめられ、したがって意味もまた変化をうける。AはBよりも言語の価値あるとすべき」と述べられています(文庫版P.105)。

(注10)本書において、吉本隆明は、「三木〔成夫〕さんは、人間について、植物神経系の内蔵―大腸とか肺とか心臓といったものですが―の内なる動きと、人間の心情という外なる表現は対応するし、また動物神経系の感覚器官と、脳の表面の動きは対応するとかんがえています」が、「植物器官を主体とした表現を自己表出といえばいいのではないか、〔ぼくは〕そうかんがえました」と述べています(P.61~P.62)。
 ここでは、「表現」ということで他者を想定しているのかもしれませんが、どちらかといえば言語をそれ自体のものとして捉えようとしているのではないかと、クマネズミには思えます。
 また、『言語にとって美とはなにか』では、「言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりをふくむようになり、それが発達して自己表出として指示機能をもつようになったとき、はじめて言語とよばれる条件をもった」と述べられていますが(文庫版P.38)、これもまた他者を余り想定していない言い方なのではと思えるところです。
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