映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

リアル~完全なる首長竜の日~

2013年06月29日 | 邦画(13年)
 『リアル~完全なる首長竜の日~』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)黒沢清監督の作品と聞いて(注1)、映画館に出かけてみました。

 本作の冒頭では、マンションの部屋で、浩市佐藤健)と淳美綾瀬はるか)とが食事をしながら、「どうしてかな、生まれたときから一緒に暮らしている気がする」、「ずっとそうだよ」、「そうだといいね」、「そうにきまっている」と話している光景が映し出され(注2)、続いて、風が吹いて机の上にあった漫画の原画が吹き飛ばされていき、そしてタイトルクレジットが現れます。

 場面は病院に変わって、浩市は、1年前に自殺を図って植物状態でいる淳美の脳にセンシングによって入り込んで会話をし、あわよくば彼女を目覚めさせようとします(注3)。



 担当の精神科医・相原中谷美紀)は、「最初のセンシングは誰でも不安になります、他人の精神に入り込むとどうなるか分かりませんから」などといって、浩市を落ち着かせようとします。



 すると、画面に映し出されるのは、マンションの部屋の中。淳美が大きな机に向っていて、入ってくる浩市に対し「お帰りなさい、スポーツジムのバイトは順調だった?」と言います。
 浩市が、「そうやって一日中ズーッと漫画を描いていたの?」と聞くと、『ルーミィ』という連載漫画(注4)を描いている淳美は、「締め切りが迫っているの」と答え、さらに「首長竜の絵、覚えている?その絵が欲しいというからあげたじゃない?あの絵は完璧だった。探してきてくれないかな?あの絵を見たら自信を取り戻せると思うの」などと言います。

 これに対し浩市は、「そんな絵は覚えていない」と答え、さらに「これは現実じゃない。淳美の意識の中だ」、「淳美は1年前に堤防から海に飛び込み、幸い命は助かったものの、昏睡状態が続いたままだ」などと言い、「教えてくれ、どうしてあんなことをしたの?俺に原因があるならそう言ってくれ」と尋ねますが、淳美は「覚えていない」と答えるばかり。

 それでセンシングは終了し、医師たちは「おめでとうございます、成功です」と言いますが、浩市が目的としたことは達成されないままです。
 はたして自殺の原因は解明され、淳美は覚醒することになるのでしょうか、……?

 クマネズミは黒沢明監督の作品が何となく好きで、これまでもいくつか見ているところ(といって、一番最近でも2008年の『トウキョウソナタ』になってしまいますが)、本作は、彼の作品につきまとっていた訳の分からなさが多少とも薄れ(注5)、随分と娯楽色の強い作品になっているのではと思いました(注6)。
 それでも、前半は、色々面白い仕掛けが施されていて、一体何だろうという気になります。ただ、後半になると謎解き的な部分が多くなって緊張感がやや緩んでしまいましたが。

 出演する俳優については、皆それぞれ好演しているところ、その存在が非常に気になる相原医師を演じた中谷美紀が印象に残りました(注7)。

(2)本作は、その舞台となる時点が近未来でしょうから、SFファンタジー物といえ、今の現実の世界では起こり得ないことがそこでは次々に起こります。
 そういう点からすれば、「リアル」という言葉がタイトルにわざわざ挿入されているのは、酷く挑戦的といえるでしょう。

 とはいえ、ひとたび舞台を受け入れてしまえば、本作の中で起こる出来事はとても「リアル」な感じをもって見る者に迫ってきます(CGで描き出された首長竜でさえも)。

 また、本作の前半部分で、浩市は、自分が植物状態にある淳美の意識に入って彼女と会話していると思い、そこから抜け出したら「リアル」な普通の生活に戻れるものと思っていたところ、事態は逆で、後半部分では、健常なのは淳美の方だったということになります(注8)。
 ということは、前半部分で「リアル」な感じを持っていたものは、その舞台においても実際には「リアル」ではなかったことになります。
 こんなところから、本作は「リアル」の意味を問い直しているのだとも考えられるのではないでしょうか(注9)?

 さらに、無意識下に隠されているトラウマによって人が精神的な問題を引き起こすのであれば、本作で描かれているようなトラウマも、そしてそれを探索するトリップもまさに「リアル」なのではないか(注10)、と思ったりしました(フロイトの精神分析も、それによって状態が恢復する患者にとっては、リアルな治療法といえるのではないでしょうか)。

 とはいえ、浩市が淳美の意識に入って会話する場合でも、また逆に、淳美が浩一の意識に入って会話する場合でも、必ず二人が揃って画面に登場しますが、なぜそんな人物像が現れることになるのか、そしてその二人が会話する光景を見ているのはいったい誰なのか(2人の背後に監視カメラでも付いているのでしょうか)、とても不思議に思えてきます。

 また、2人は意識下に入り込んで行って、トラウマとなった事象を探し当てるわけですが、そのことによって漫画家の自信が取り戻せることになるにせよ(注11)、なぜそれで昏睡状態に陥っている人物が目覚めることにもなるのか、ちょっと理解が難しいところです(注12)。

 ですが、こんなに見る者に様々考えさせること自体が、本作が大層面白いことの証ともいえるのではないかと思います。

(3)渡まち子氏は、「今が旬の若手スターが共演するが、佐藤健と綾瀬はるかが笑顔を封印して静かに熱演。終盤のVFXのスペクタクルが迫力不足なのは残念だが、最終的に、意識化にある罪へとたどり着きながらも、愛を貫く男女のラブストーリーとして楽しめる」として65点をつけています。



(注1)映画の原作は、2010年の第9回「このミステリーがすごい!」大賞受賞作の乾緑郎著『完全なる首長竜の日』(宝島社文庫)。
 原作で植物状態になっているのは、当初、主人公淳美の弟の浩市だという点などから、本作は原作とかなり違っているようにみえるものの、原作には様々な工夫が凝らされていて、一概に別の物語とはいえないように思いました。

(注2)同じような会話は、映画のラスト近くでも繰り返されます。
 おそらく、こうした会話が示している二人の強い絆があるからこそ、この異色のラブストーリーがうまく仕上がっているのでしょう。

(注3)部屋の中では、センシングの装置の下に二人が横たわっています。担当の脳神経外科医(堀部圭亮)は、二人がインターフェイスを装着して、可能現実の中で数時間会話をすることができると説明します。

(注4)『ルーミィ』というタイトルをローマ字で表すと「ROOMI」となり、これは「MORIO」(二人のトラウマになった事件の少年の名前)のアナグラムではないかと、淳美の漫画のアシスタントである高木染谷将太)が見抜きます。



 ただ、「ルーミィ」のローマ字は「RUUMII」では(英語としたら「ROOMY」)?それに、この「ルーミィ」とは何を意味するのでしょうか(人名でしょうか)?それが曖昧だと酷く出来の悪いアナグラムになってしまいます〔原作の場合、漫画のタイトルは『ルクソール』ですし、アナグラムは別の人名について施されています〕。

(注5)でも、実際には、ヤッパリ分からないことだらけという感じになりますが。
 なお、この点については、雑誌『群像』7月号掲載の「映画時評」(55)において、蓮實重彦氏が、「驚くべきことに」、黒沢清氏は最新作で「律儀に「説明責任」をはたそうとするかのような演出に終始している。いったい、なぜか。初めて原作のある題材を映画化したからなのか。127分という彼にしては比較的長い上映時間は、その「説明責任」をはたすために必要とされたのか。それとも、一度ぐらいは「説明責任」そのものを映画にしてみるとどうなるかという黒沢清ならではの実験精神が、そうさせたのだろうか」と述べています。

(注6)黒沢清作品のもう一つの特色はホラー的な要素ですが、本作においても、連載漫画『ルーミィ』の中で描かれているグロテスクな死体が実写化されたり、またフィロソフィカル・ゾンビが徘徊したりしますが、クマネズミは余り怖さを感じませんでした。
 〔なお、フィロソフィカル・ゾンビについて、Wikipediaには、「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」とあります〕

(注7)最近では、佐藤健については、『るろうに剣心』で見ましたし、綾瀬はるかは『プリンセス トヨトミ』で、中谷美紀は『源氏物語』で見ています。

(注8)原作では、当初、自殺を試みて昏睡状態になっているのは淳美の弟の浩市とされていますが、後半になると、自殺未遂を起こしたのは淳美の方で、センシングを受けているのも彼女だということになります。

(注9)あるいは後半も、もしかしたら浩市が思い描いている世界の話なのかもしれません(本作のラストで浩市がベッドで目覚めるまでの映像は、すべて浩一の頭の中のことなのかもしれません)。漫画雑誌の編集長・沢野オダギリジョー)などばかりでなく、センシング関係の医師なども、最後には結局フィロソフィカル・ゾンビになってしまうのですから。

(注10)この場合、トリップといっても、過去そのものにタイムトラベルするわけではなく、無意識下に記憶されている限りでの過去に行き着くことが出来るのでは、と思われます。まして、本作のように、15年後の荒廃した飛古根島にどうやって行き着くことが出来るのかはよく分からないところです。

(注11)自信がなくなって漫画が思うように描けなくなるというのは「うつ病」の兆候といえるかもしれませんが、その精神疾患は、神経症のように、過去のトラウマによって引き起こされるものなのでしょうか?

(注12)患者の植物状態が海に落ちて大量に海水を飲んだことによって引き起こされたとしたら、脳が機能的にダメージを受けているのでしょうから、トラウマを引き起こした事象を患者が知ることによってその状態を脱出することは難しいのではとも思われます。
 それに、そもそも大量の海水を飲んだのが単なる事故(足を滑らせて海に落ちたこと)によるもので、自殺を図ったことによるものではないとしたら、トラウマの克服と患者の覚醒とは一体どんな関係があるのでしょうか?
 原作の場合、淳美は、自然流産したことがトラウマになって自殺を図ったとされているところ、これならばそのトラウマ(生まれてくるはずだった子どもに「岬」と言う名前を与えています)を見つけ出せば覚醒に繋がることに説得力はあるのかもしれません。



★★★★☆



象のロケット:リアル~完全なる首長竜の日~
コメント (11)   トラックバック (23)

ローマでアモーレ

2013年06月27日 | 洋画(13年)

 『ローマでアモーレ』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)本作は、『恋のロンドン狂騒曲』でロンドン、『ミッドナイト・イン・パリ』でパリというように、このところヨーロッパの大都市を舞台にして映画を制作しているウディ・アレン監督が、今度はローマに場所を移して作り上げた作品。

 ローマの目抜き通りで交通整理をしている巡査が、「僕は、ローマっ子、ここに立つといろいろなものが見える。この街ではすべてが物語となる」などと話すところから始まります。

 先ずは、カンピドリオ広場に登場する弁護士のミケランジェロ。次いで、彼に「トレヴィの泉」の場所を尋ねるヘイリーが現れ、それがきっかけとなって、ついに二人は結婚することに。
 そこで、ヘイリーの両親がアメリカからローマにやってくるところ、実は、その父親・ジェリーを演じているのが監督のウディ・アレンで、役柄は引退したオペラの演出家。



 両親がミケランジェロの家に行くと、職業は葬儀屋ながら、彼の父親・ジャンカルロファビオ・アルミリアート)が、シャワーを浴びながら実に見事な歌声でアリアを歌っているではありませんか!
 ジェリーは、むらむらと職業意識が沸き立ってきて、ジャンカルロをレコード・デビューさせようと動き出しますが、……(注1)。

 話変わって、有名な建築家のジョンアレック・ボールドウィン)は休暇でローマを訪れたところ、昔学生生活を送っていた街(トラステヴェレ地区)で、建築家志望の若者・ジャックジェシー・アイゼンバーグ)と遭遇します。



 ジャックはどうやら若い頃のジョンのようで(注2)、恋人のサリーと同棲生活を送っていたところ、アメリカからサリーの友人のモニカエレン・ペイジ)がやってきて同じアパートで暮らすことに。
 ハテどんな騒動が持ち上がることやら、……。

 さらにこちらは、地方からローマにやってきた新婚のアントニオミリーのお話。
 ミリーが美容院に行くと言って宿泊先のホテルから外出した隙に、人違いながら、コールガールのアンナペネロペ・クルス)が入り込んで来て、アントニオとの間でひと騒ぎを引き起こします。



 他方で、ミリーの方も、道が分からなくなって、ポポロ広場などをうろつきまわった挙句、……。

 そして最後に、ローマに住んでいる中年男のレオポルドロベルト・ベニーニ)は、地道に平凡な暮らしを営んできたところ、ある日、何の前触れもなくマスコミ陣に取り囲まれ、あれよあれよという間にローマで一番有名な人物になってしまいますが(共和国広場に敷かれたレッドカーペットを、レオポルドは妻と一緒に試写会会場まで歩んだりします)、……。



 というように、本作は、ローマで引き起こされる4つの物語から構成されています。
 前作の『ミッドナイト・イン・パリ』では、場所の移動のみならず時点も過去に移しているところ、本作では、イタリアを4+α組のカップルの「アモーレ」でとらえ、それを数多くあるローマの観光名所(コロッセオとかスペイン階段など)の中で、時間の遡りはせずに描き出しています(注3)。
 ただ、笑いの要素がふんだんにちりばめられていて実に面白いものの、他方で、4;α組のカップルを巡るエピソードがばらばらに進行していて相互の繋がりを持たない点が残念なところといえるかもしれません。
 次作あたりは東京を舞台にしてはどうでしょう(注4)?

 俳優陣の中では、コールガール役に扮したペネロペ・クルスに度肝を抜かれました(注5)。

(2)本作は、底抜けに面白い4つの物語を単に笑って楽しめばいいのでしょう。
 そんな作品にああでもないこうでもないと一々ケチをつけたり人生訓を導き出したりするのも興醒めですから(注6)、こちらもほんの少しでもローマを楽しんでみたらと思います。

 例えば、ジャックらがでかけるヴィッラ・ディ・クインティーリクインティーリ荘)に行ってみましょう。



Google地図検索に「villa dei quintili appia antica」と挿入して現れる地図の「A」地点でストリートビュー(↓)を見ると、上記の写真に類似した遺跡を見ることができます。



 どうやらこの遺跡は、古代アッピア街道に沿って広がっているようで、さらにGoogle地図では、その広大な遺跡の内部地点から撮影した数多くの写真をも見ることができます。
 なお、この遺跡は、公式サイトの説明によれば、「151年頃貴族のクインティーリ(クインティリアヌス)兄弟がその基礎を築き、その後コンモドゥス帝により拡大された」とのこと(注7)。

 映画に映し出されるその他の観光名所なども、こんな風にネットで調べてみれば、実際の広大さとか大きさなどは実感できなくとも、その雰囲気ぐらいは味わうことができるのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「演出は確信犯的にユルく、良くも悪くもワンパターン。それでも複雑で味わい深い人間模様を軽妙に描くタッチと、人の生活が息づく街を魅力的にみせる技は、冴えている。型が決まった「寅さん映画」にも似た、愛すべきアレン流マンネリズムと言えようか」として65点をつけています。




(注1)ジャンカルロは、シャワーを浴びながら歌うと実に素晴らしい出来栄えを示すことが分かり、ジェリーは、アルジェンティーナ劇場でオペラ『道化師』を上演した際に、主役の道化師カニオに扮したジャンカルロを馬車の後ろに取り付けたシャワー室の中に入れて歌わせます。
 とはいえ、ジェリーがいくら前衛的な演出家といっても、そんなことをしたら、浮気な妻や浮気相手は自分から進んで殺されるように、シャワー室の中にいるカニオの前までわざわざ出向かざるを得なくなってしまい、あとの批評でさんざんこき下ろされることになるのも当然でしょう!
 なお、ジャンカルロに扮したファビオ・アルミリアートは有名なテノール歌手。

(注2)ジョンは、背後霊のごとくジャックについてまわり、その行動の一々に意見したりします。あるいは、ジャックは若き日のジョンということなのかもしれません。

(注3)といっても、コロッセオなど古代ローマ帝国の遺跡がふんだんに登場しますから、タイムトリップしているも同然なのかもしれません!

(注4)ただ、東京には世界的な観光名所と言えるものはローマほどありませんし、パリでのように過去に遡るというのもなんでしょうから、例えば、日本料理を含め世界各国の料理を味わえる様々のレストランを巡ってのドタバタ喜劇といったものは考えられないでしょうか?

(注5)最近では、ペネロペ・クルスは『抱擁のかけら』で、アレック・ボールドウィンは『恋するベーカリー』で、ジェシー・アイゼンバーグは『ソリタリー・マン』で、エレン・ペイジは『スーパー!』でそれぞれ見ています。

(注6)劇場用パンフレットの「Production Notes」には、例によって、ウディ・アレン監督の解説がいくつも掲載されているところ、例えば、歌手になったジャンカルロについて、「本当に才能がある人は、表現する場が必要なんだと思う。そういう人は遅かれ早かれコミュニケーションをとりたくなるものだ」云々とウディ・アレン監督は語りますが、シャワーを浴びながらでないと実力を発揮できないテノール歌手というアイデアが閃いてからの事後解説としか思えないところです。

(注7)塩野七生著『ローマ人の物語 30』(新潮文庫)には、「ローマの城壁を後に古のアッピア街道をしばらく行くと、広壮なヴィラの遺跡が見えてくる。……これが今でも「クィンティリウスのヴィラ」と呼ばれる、クィンティリウス一門の別邸だった。……このクィンティリウス兄弟が陰謀に加担していた可能性は実に希薄で、庶民までが、このヴィラを欲しいあまりにコモドゥスが罪をでっち上げた、と噂し合ったくらいだった」とあります(P.184)。
 なお、クィンティリウス兄弟のうち「シリアに駐在していた弟は危機一髪のところで逃亡に成功したが、皇帝の義兄である兄のほうは首都にいたのが不幸だった。捕えられ、裁判にもかけられずに殺された」とのこと(同)。

 また、この遺跡の詳しい様子は、このサイト(その1その2その3)に掲載されている写真などからもある程度わかるでしょう。



★★★☆☆



象のロケット:ローマでアモーレ

コメント (2)   トラックバック (23)

華麗なるギャツビー

2013年06月25日 | 洋画(13年)
 『華麗なるギャツビー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)スコット・フィッツジェラルド(注1)が書いた小説『華麗なるギャツビー』を3Dで映画化した作品であり、それにディカプリオが出演していると聞いて、映画館に行ってきました。

 本作は、向こう岸のイースト・エッグ(注2)から放たれる緑の光りが映し出された後、パーキンス療養所にいるニック・キャラウエイトビー・マグワイア)の話から始まります。



 彼はアルコール依存症で療養所にいますが、ある男―ギャツビー―を忘れられないでいたところ(注3)、医者にその男のことを書いてみろと言われ、記憶を辿りながらタイプを打っていきます。

 時は1922年の春。
 その頃証券会社に勤務していたニックは、ウエスト・エッグに家を求めたところ、隣がジェイ・ギャツビーレオナルド・ディカプリオ)という大金持ちの大豪邸。



 そのお城のような家では、連日、ど派手なパーティーが開催されています。

 他方、対岸のイースト・エッグには、ニックの従兄妹のデイジーキャリー・マリガン)が、億万長者の跡取りで夫のトム・ブキャナンジョエル・エドガートン)と暮らしている大邸宅があります(冒頭の緑の光は、その邸宅の前に設けられている桟橋にあるライトからのもの)。



 実は、ニックは、エール大学時代、ブキャナンと友達であったこともあり、彼の家に出入りしますが、デイジーの友人で女性プロゴルファーのジョーダンエリザベス・デビッキ)とも親しくなります。

 ニックは、そのジョーダンを通じて、隣人のギャツビーが昔デイジーと恋人同士であったことを知るだけでなく、更には、ギャツビーとデイジーを自分の家のお茶に誘って(実は、ギャツビー自身が言い出したことですが)、二人の再会の場をアレンジしたりします。
 さあ、ギャツビーとデイジーの関係はその後どうなるでしょうか、…?

 映画の冒頭とラストで映し出される遠くの緑の光とか、ギャツビーの城で繰り広げられる豪華絢爛のパーティーなどによって、3D映像の威力が遺憾なく発揮され、さらには、ギャツビーに扮するディカプリオの力強い演技とか(注4)、デイジーを演じるキャリー・マリガンのみずみずしさなどとかがあいまって(注5)、なかなか見応えのある作品となっています。

(2)この映画を見れば、誰しもR・レッドフォードミア・ファローによる前作(1974年)と比べたくなってしまいます。クマネズミもご多分にもれず、TSUTAYAでDVDを借りてきました(既に映画館で見ていましたが、記憶が酷くぼんやりとしてしまっているので)。

 細部にわたって色々違っているところはあるにせよ(注6)、基本的な物語の骨組みは前作と本作とでほとんど変わっていない印象を受けました。
 ただ、やはり、ギャツビー役がレッドフォードからディカプリオに代わることによって、ギャツビーに力強さが随分と出てきたように思いますし(注7)、デイジー役がミア・ファローからキャリー・マリガンとなって、ギャツビーが長い間恋心を燃やし続けていたことにつき説得力が増す一方、金持ちの令嬢然としたところは(注8)、ミア・ファローがうまく雰囲気を出しているように思います。

 また、前作は、リアルに生真面目に画面を作り上げている感じながら、本作では、3D画像の特徴を生かして、随分と奥行きがクローズアップされたり、俯瞰したりして高さを意図的に強調したりして、遊びの要素もふんだんに取り入れつつ描かれる場面が多いように思われます(注9)。

 こんなところから、ギャツビー役はディカプリオ、デイジー役はミア・ファロー、そして全体を本作のような3Dの雰囲気のものとしたらどんな作品ができあがるのかな、とあり得ない空想をしたくなってきます。

(3)渡まち子氏は、「すべてが不確かなローリング・トゥエンティーズ(狂騒の20年代)の虚栄は、やっぱりバズ・ラーマンらしい世界観なのだろう。ミュウミュウやブルックス・ブラザーズのハイセンスな衣装、テイファニーの華麗な宝飾品などが、セリフ以上に雄弁に、時代やキャラクターの個性を語っていた。こんなゴージャスな映画は、スクリーンの大画面で見るに限る」として65点をつけています。

 また、前田有一氏は、「この映画の舞台設定は、その後まもなく大不況に陥る直前のアメリカ。ここでこれでもかと描かれる金持ちどもの、ひどいありさま。それはそのまま、本日も平常運転中のアメリカ合衆国のお金持ち層、彼らに対する警告でありメッセージとなっていると、まあそういうわけなのである」などとして75点をつけています。

 ただ、前田氏が、「本日も平常運転中のアメリカ合衆国のお金持ち層、彼らに対する警告でありメッセージ」である点が「本作最大のテーマであり見どころ」だとしているところ、そんな今更めいたつまらないものが「見どころ」だとしたら、本作は馬鹿馬鹿しいことこの上ない作品になってしまうのではないでしょうか(注10)?




(注1)スコット・フィッツジェラルドについては、このエントリの(2)で若干触れています。

(注2)ニューヨーク郊外のロングアイランドにあるとされる架空の地名(対岸のウエスト・エッグも同じ)。

(注3)「皆が酒に溺れていた中で、彼ほど途方もない野望を抱いた者はいなかった」として。

(注4)ディカプリオについては、最近では『J・エドガー』や『ジャンゴ』を見ました(後者については、クマネズミの怠慢によりレビューのアップをしておりませんが)。

(注5)キャリー・マリガンについては、『わたしを離さないで』におけるキャッシー役が印象的です。

(注6)たとえば、本作では、ニックが療養所で話す話が描かれているという構成をとっていますが、前作のニックはアルコール依存症ではありません。

(注7)特に、プラザホテルにおけるブキャナンとの対決シーンで、ギャツビーがブキャナンに対し「シャラップ!」と大声をあげる場面の迫力はただ事ではありません(この場面は、前作にはありません)。
 また、ギャツビーの金の出所についても、なるほどと思えてきます。伝説の賭博王ウルフシェイムなど裏社会との付き合いは、優男のレッドフォードではあまり説得力を持たないのではないでしょうか。

(注8)外地へ行くが待っていてくれとの手紙をギャツビーから受け取っていたにもかかわらず、ブキャナンと結婚してしまったことや、最後の事件の後、ギャツビーに至極冷淡になったところなどにうかがえます。

(注9)たとえば、前作では、ギャツビーの豪邸での大パーティーも、隣のニックの家から覗き見られているシーンが多く、その結果、視線は水平に動いて行くだけとなっています。
 これに対して本作では、冒頭とラストの緑の光が対岸に見える場面がとても印象的ですし、またギャツビー邸での大パーティーも、水平・垂直の視線がスピーディーに縦横に組み合わされていて、その豪華絢爛たる有様が随分と強調されます。
 さらに、誠につまらないことながら、本作では、ギャツビーの邸宅に大きなパイプオルガンが設置されていますが、前作では普通のピアノしか登場しませんし、また、ギャツビーが有り余る洋服を次々に見せるシーンにつき、本作ではわざわざ2階から1階にいるデイジーに放り投げるところ、前作ではそんな高低差はつけられません。こんなところも、3Dを意識してのことではないでしょうか。

(注10)むろん、前田氏の見解にも根拠があるでしょう。劇場用パンフレットの「Production Notes」によれば、バズ・ラーマン監督は、原作小説は「08年の世界規模金融危機に通じる部分があると思った。今考えてみると、その点こそが、今、この形で「ギャツビー」をやらなければと思わせた気がする」と述べているのですから。




象のロケット:華麗なるギャツビー
コメント (4)   トラックバック (57)

言の葉の庭

2013年06月20日 | 邦画(13年)
 『言の葉の庭』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)デビュー作『ほしのこえ』でアニメ界に強烈な印象を与えた新海誠氏が原作・脚本等を手掛けて制作した新作アニメが上映されるということで、映画館に出向きました。

 本作は、15歳の高校生・タカオと27歳の女性・ユキノが雨の日に公園(注1)で出会ったことから展開される物語。

 タカオは靴職人になろうと思っているところ、1限が雨の場合、学校をサボって公園に行き、そこの亭で靴のデザインを考えたりします(注2)。



 ある日のこと(注3)、彼はそこで昼間からユキノが一人で缶ビールを飲んでいるのに出くわします。



 これを皮切りに、2人は何度か雨の日に同じ亭で遭遇することになって、タカオがユキノに弁当を作ってきたり、そのお礼にユキノは靴に関する洋書『SHOES』をプレゼントします。それでタカオは、ユキノのために靴を作ることを決意します。
 ですが、暫くたったある日(注4)、タカオは学校の廊下でユキノとすれ違って、彼女が自分の通う高校の古文の教師であることが分かります。そして、問題があって退職することも。
 さあ、その後2人の関係はどうなるのでしょうか、……?

 ストーリーもさることながら、映画で描かれている一つ一つの場面の独特の美しさにうっとりしてしまいました。特に、今が梅雨の真っ最中ということもあり、雨の公園の情景はとても素晴らしいものに思われます。




(2)とはいえ、なんだか随分とわざとらしい感じがしてしまう事柄がいくつかあるようにも思いました。
 例えば、ユキノが別れ際に、万葉集にある「雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」(注5)を口ずさみます。
 確かに、設けられた状況(雨が降ったがためにユキノとタカオとの出会いがあった)にうまく沿った歌だと思います。
 それに、むしろ本作は、この歌に依りながら作られているともいえますから、どこかで登場するのは当然なのかもしれません。
 でも、いくら国語の教師とはいえ、唐突な感じは否めません(注6)。
 それも、万葉集を研究する部活に参加しているなどの事情があればともかく、現代の高校生に(いや、昔だっておなじでしょう)、そんな歌を取り上げた時に何らかの反応を求める方が無理というものではないでしょうか(注7)?
 その後、タカオは、ユキノに対して返し歌である「雷神の 少し響みて 降らずとも 我は留らむ 妹し留めば」を言いますが(注8)、いやはやという感じです(注9)。

 また、ユキノは、公園の亭で夏目漱石の『行人』を読んでいたりします。
 勿論、国語の教師ですから漱石くらい読んでいても全く不自然ではありません。
 でも、なぜことさら『行人』なのでしょうか?
 もしかしたら、兄・一郎の嫁・直と弟・二郎との複雑な関係が『行人』で描かれていますから、教師-生徒というユキノとタカオの関係がそれに準えられているということなのかもしれません(注10)。
 あるいは、漱石と嫂・登世との関係を指摘する江藤淳説(注11)を踏まえているのでしょうか。

 さらに、タカオは、靴職人となるべく勉強中とのことですが、これもなぜことさら「」なのかという感じになります(注12)。
 「靴」は、よく知られているように、フロイトの精神分析によれば女性器の象徴とされているところ(注13)、あるいはそんな点を踏まえているのかも(注14)、と言ってみたくなってしまいます(いい加減な俗流解釈に過ぎませんが)。

 こういった仕掛けが全部なくとも、この作品はそのみずみずしい美しさから見る者に感動を与えるのではと思うのですが。




(注1)映像から見る限り「新宿御苑」と思われますし、そうだとすると、タカオが通う学校は「新宿高校」かもしれませんし、近くの駅は「千駄ヶ谷」とも考えられます。

(注2)タカオは、夏休みになると、靴の専門学校へ行くためと材料の革を購入するためにバイトに励みます。

(注3)6月、関東地方に梅雨入り宣言が出された日。

(注4)夏休み明けの9月。

(注5)万葉集第11巻2513番の歌〔よみ人知らず(柿本人麻呂歌集)〕。

(注6)映画の中で万葉集の歌が言及されるのは、河瀬直美監督の『朱花の月』があります。
 ただ、河瀬作品では、舞台が飛鳥であり、古代日本の「朱花」の色の染色が取り扱われたりするので、万葉集の歌が出てきてもそれほど違和感を覚えません。

(注7)あとでユキノは、そういった歌を出せば、タカオが自分のことを、同じ高校の国語教師だと分かってくれると思ったと言うのですが。

(注8)タカオは、ユキノが去り際に言った歌を書きとめていて(でも、ユキノが口ずさんだに過ぎない歌を簡単に書きとめることなどできるでしょうか)、家に戻ると兄にその歌に尋ねていますから、その時に返し歌の存在を知ったのでしょう。

(注9)もちろん、ここはそんなにリアルに考えずとも、古代人が現代に蘇ったとでも想像すればいいのでしょうが。

(注10)本作のラストの方で、タカオとユキノは抱き合いますが、それは『行人』で、兄・一郎の指示により(「実は直の節操を御前に試して貰いたい」)、嫂・直と弟・一郎とが和歌山に一緒に行って、暴風雨で旅館に一泊せざるを得なくなる事態を踏まえているのでしょうか。

(注11)このサイトの記事を参照。

(注12)劇場用パンフレットに掲載の「Production Note」には、「何か作っている男の子にしたいということで決まった、靴というモチーフ」とありますが、今流行りの菓子作り職人(パティシエ!)とかファッションデザイナーなどなどがある中で、どうして靴職人なのでしょう?

(注13)フロイトの精神分析においては、夢に現れる箱や靴など「容器」状のものは女性器として解釈されています〔例えば、『精神分析学入門』(懸田克躬訳、中公文庫)では、「女性の性器は、空な腔洞があってなかにものを容れることができるという性質を備えたすべての対象によって、象徴的に表現され」るとされ(P.206)、「〈靴〉〈スリッパ〉は女性の性器です」とあります(P.209)〕。

(注14)そう思いながら、ユキノが裸足の足をタカオに差し出して寸法をとってもらうシーンを見ると、ことさらエロチックに思えるところです。






★★★☆☆
コメント (4)   トラックバック (9)

愛さえあれば

2013年06月19日 | 洋画(13年)
 『愛さえあれば』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)このところ公開される作品が増えているデンマーク映画ながら、イギリスの俳優ピアーズ・ブロスナン(注1)が主演というのは面白いかもしれないと思って映画館に行きました。

 映画の冒頭は、乳がんの治療を終えて医師の話を聞いている中年女性のイーダトリーネ・ディアホルム)の姿(注2)。
 医師が「乳房の再建を希望しますか?」と問うと、彼女は「しません、夫は私の外見ではなく内面を愛していますから」と応えます。
 さらには、「来週は、娘の結婚式のために、夫と2人でイタリアに旅行します」と付け加えます。ですが、帰宅すると、夫・ライフが若い女性とセックスの真っ最中!見つかった夫は、家を出て行ってしまいます。

 場面が変わって、今度は実業家のフィリップピアーズ・ブロスナン)。



 自分の事務所に入って行くと、突然「ハッピバースデー」の歓声が起こり、先輩格の女性から、余り働き過ぎないようにと、スカイダイビングのチケットをもらったりします。
 彼は、妻を交通事故で亡くし、それ以来仕事に没頭してきましたが、一人息子が来週イタリアで結婚式を挙げることに。
 そんなイーダとフィリップが、イタリアへ行こうとして空港で鉢合わせをします。
 さあ、どうなることでしょうか、……?

 フィリップとイーダ、結婚式を挙げる予定のフィリップの息子・パトリックとイーダの娘・アストリッド、イーダとその夫・ライフ、など様々な関係がもつれ合う様はなかなか面白く、さらには主な舞台がナポリ湾に臨むソレントですから言うこともありません(遠くにヴェスヴィオス火山が見えます)!

(2)本作の原題は「禿げ頭の美容師」というもので、イーダが抗がん剤を使ったために髪が抜け落ち、美容師でありながらウイッグを付けていることを指していて、本作がコメディタッチの作品であることが分かります。
 他方、邦題の「愛さえあれば」では、英題の「Love is all you need」からきているのでしょうが、余りにも策がない感じがします。

 それに「愛さえあれば」といっても、この映画では「愛」は最初からあちこちふんだんに見い出せるともいえそうです。

 例えばフィリップは、現在仕事に没頭していて女性のことは眼中になという有様ながら、それは愛する妻を交通事故で失ったことからに過ぎず、条件さえ整えば関心を仕事から女性に向けることはいつでもOK状態であり、そうしたところにイーダと出会ってゴールを目指すことになることでしょう(注3)。

 イーダは、夫・ライフの浮気の現場を見るまでは、当然のこととして夫を愛していたところ(少なくとも、自分としてはそうだと思っていました)、フィリップと出会ったら次第に愛の方向がそちらに向いてしまいました。



 イーダの夫は、イーダが闘病生活を送っている間、我慢が出来なくなって経理の若い女・ティルデに手を出すものの(注4)、その女に捨てられるとイーダに対する「愛」が元のように蘇ります(注5)。

 ソレントで結婚式を挙げるはずだったパトリックとアストリッドですが、お互いに愛し合ってはいた者の、パトリックはアストリッドのことよりも父親のことを慮っていたようですし(注6)、交際期間が3か月ではアストリッドはパトリックの気持ちをうまく把握できなかったようです(注7)。

 こんなところから、「愛」がないため「愛さえあれば」というよりも、むしろ、「愛」はあちこちあるものの、「愛」の向かう方向性について様々にずズレがあったのではないかとも思えてくるのですが。

(3)渡まち子氏は、「ロマコメながらシビアな要素も散りばめられているが、これは迷える大人の男女が自分が本当に求めているものをみつける再生の物語。象徴的に使われる黄色いレモンのようにさわやかな酸味が効いたラブストーリーだ」として75点をつけています。




(注1)ピアーズ・ブロスナンは、『マンマ・ミーア!』『リメンバー・ミー』とか『ゴーストライター』で見ましたが、本作は、『リメンバー・ミー』と同じように、息子との関係がぎくしゃくしている父親の役柄を実にうまく演じています。

(注2)トリーネ・ディアホルムは、『ロイヤル・アフェア』(皇太后役)や『未来を生きる君たちへ』(エリアスの母親マリアン役)に出演しています。
なお、『未来を生きる君たちへ』と同じスサンネ・ビア監督が本作も制作しています。

(注3)亡くなった妻の妹・ベネディクテは、フィリップへの愛を全開させますが、フィリップの食指は動きませんでした(なにしろ、フィリップに「お互いに愛し合っている」とか、「まさか、あんな美容師を本気で愛しているわけではないでしょう」と言ったりするなど、ベネディクテの娘でさえ嫌がるほどの振る舞いをするものですから)。

(注4)ライフは、我が家で情事に耽るだけでなく、ソレントでの娘の結婚式にまで相手の若い女を連れて行く傍若無人さです。

(注5)コペンハーゲンに戻ったイーダが家に入ると、夫が家中を花でいっぱいにして待ち構えているではありませんか!そして、ライフは、「俺がバカだった、俺にはお前しかいない、俺たちは運命共同体だ」などと言います。その時はイーダもうなずきますし、その後求婚に来たフィリップに対して「夫を愛しているの」と言いますが、結局は駄目でした。
 最後に、イーダがライフに放つ捨て台詞が凄いなと思いました。「あなたとは何もしたくない、私たちはもう終わり。老後に、庭に腰かけあんたとコーヒーを飲むなんて嫌よ」。

(注6)パトリックは、あるいはソレントの別荘で知った料理人・アレッサンドロのことが忘れられなかったのかもしれません。

(注7)アストリッドは、ソレントから戻ると、弟のケネトと旅行に出たとのこと。




★★★★☆




象のロケット:愛さえあれば
コメント (2)   トラックバック (10)

箱入り息子の恋

2013年06月17日 | 邦画(13年)
 『箱入り息子の恋』をテアトル新宿で見ました。

(1)予告編を見て面白そうなので見に行ってきたのですが、まずまずの出来栄えでした。

 主人公は、市役所に勤務する35歳の青年・健太郎星野源)。



 彼は、自分を不細工だと思い込み、また極度のあがり症で他人と上手くコミュニケーションできないことから、13年間記録課という同じ部署に万年ヒラでいて、9時-5時勤務、仕事が終わるとまっすぐに家に帰り、自分の部屋に引きこもってTVゲームに耽っています。
 そんな彼ですが、ある雨の日、何を思ったのか雨宿りをしている若い女性に自分の傘をあげてしまいます。
 そうしたところ、両親(平泉成森山良子)がやっとのことでセットしたお見合いの席(注1)に登場したのが、その傘をあげた女性・奈穂子夏帆)。
 それで健太郎と奈穂子とはいい感じになるものの、奈穂子の父親(大杉漣)は強く反対します。というのも、奈穂子の視力が完全に失われているからで、余程の人物でないと娘をサポートできないと思い込んでおり、健太郎のような欠陥人間は対象にならないと、その席で言ってのけてしまいます。
 サアこの後物語はどのように展開するでしょうか、……?

 他愛ない話ながら、中心となる星野源と夏帆のコンビが実に初々しく、またそれを取り巻く俳優が大杉漣、平泉成、森山良子(注2)、黒木瞳など豪華メンバーで、それぞれ達者な演技を披露しますから、コメディータッチでもあり、随分と楽しく見ることが出来ました。

(2)全般的になかなか面白い作品であるとはいえ、やや問題かなと思える点もあるでしょう。

イ)まず、健太郎は、自分の部屋でカエル(注3)を飼育していますが、このカエルが本作では大事な働きをします。
 すなわち、水槽の中に閉じ込められている野生のカエルというのが、健太郎が置かれている状況(“箱入り息子”!)を象徴していて、彼は市役所から戻るとこのカエルを見て無性に慰められるようです。
 さらには、付き合い始めた奈穂子に何かモノマネをと求められると、彼はカエルの鳴き声で応じる始末。
 ここら辺りはまあかまわないものの、後半になって、健太郎が奈穂子に再アタックする段になると(注4)、カエルも水槽から脱出しようと何度も水槽の壁面をよじ登ろうとします。
 また、奈穂子のいる2階に向かって柱をよじ登り、カエルの鳴き声で奈穂子に気づいてもらおうとしたり、果ては2階から落ちて、ひっくり返ったカエルのようにノビてしまったりもします。
 こうなると、あまりにもあからさまにカエルとの繋がりが描き出されてしまっているように思えるところです(注5)。

ロ)また本作は、「箱入り息子の恋」とされていて、健太郎の方だけに問題があるような感じに受け取られかねません。
 確かに、両親が健太郎に接するやり方は、腫れ物にでも触るようにおっかなびっくりとした感じが否めないところで、もっと毅然と対応すべきではあるでしょう(注6)。



ハ)とはいえ、実のところは奈穂子にも問題が大ありなのではないでしょうか?
 というのも、彼女の両親が、健太郎以上に彼女を“箱入り”状態で育ててきたように思われるからですが(注7)。
 むろん、彼女の視力が完全に失われてしまっているために、そうせざるをえないところもあるでしょう。とはいえ、奈穂子が自分ですることといえば部屋でピアノを弾くくらい、その他のことはすべて両親(特に黒木瞳が扮する母親)がつきっきりで面倒を見ています(注8)。



 そして、両親(特に父親)は、結婚してもその状態を継続できるような男性を娘の婿としての第一条件だと考えています。



 ですが、これでは奈穂子は両親の人形であり、その人格が否定されてしまうのではないでしょうか?やはり、親はもっと突き放して、彼女が一人でも生活できるように小さいうちから仕向けるべきではないでしょうか(注9)?
 障害を抱えている上に、酷くわがままな人物が出来上がっていてもおかしくはないところ、幸い、そんな中でも奈穂子の心の純心さは壊れていなかったがために、うまく健太郎と結びつくことができましたが(注10)。

 でも、これらの点は、本作全体がコメディータッチのラブストーリーになっていることもあり、まあそれほど異を立てるに及ばないのかなと思ってもいるところです。

(3)前田有一氏は、「この素晴らしいラブストーリーは、終盤に少々監督の遊び心が過ぎる欠点はあるものの、演出の的確さ、ツボを外さない笑いとそれに伴うキャラクターへの共感によって、かなり出来のいい「非モテ」向け恋愛ムービーとなっている」として75点を付けています。



(注1)これは、いわゆる「親の代理見合い」ということなのでしょうが、この記事などを見ると、上手くいかない場合が多いのではと思われるところです。
 本作でも、健太郎は「僕は結婚なんかしない、相手がいるはずがない!」と言いますし、奈穂子の方も「どうしても行くかなくてはいけないの?」と酷く消極的ですから、雨傘の1件がなければとてもうまくいきっこなかったでしょう。

(注2)森山良子は、映画で初めて見ましたが(TVドラマには何本も出演しているようです)、なかなか達者な演技を披露しますので驚きました。

(注3)劇場用パンフレットに掲載の「Production note」によれば「イエアメガエル」〔ただし、Production noteでは「イエアマガエル」と記載されています。「アマガエル科」に分類されるので、その方が適切なような感じもしますが〕。

(注4)お見合い後、奈穂子の母親(黒木瞳)の手配により二人のお付き合いはなんとか上手く進行するものの、暫くすると父親(大杉漣)に見つかってしまい、結局は駄目になってしまいます。

(注5)象徴的表現は、そこはかとなく観客に感じさせるものとすべきで、象徴するものとされるものと繋がりが余りに明らかになると、むしろ観客の方は厭味を感じるのではないでしょうか。

(注6)健太郎は「箱入り息子」とされていますが、実のところは、毎日、社会人として市役所に勤務し、一定額の報酬を得ているのですから、文字通り「箱入り」息子といえるのか微妙なところです。
 ただ、勤務時間が終わるとまっすぐに家に戻って自分の部屋に閉じこもってしまいますから、半分は「箱入り」状態なのかもしれません。でも、それも自分の意思でそうしているのであって、親の意思で閉じこもっているわけではありませんから、その点でも「“箱入り”息子」といえるかどうか微妙だと思われます(とはいえ、こんなことは百も承知で、「箱入り息子」というタイトルを付けたものと思いますが)。
 なにはともあれ、両親は、こうした息子をいつまでもそばに置いておくべきではなく、これから先、一人でも生き抜けるような心構えを持てるように仕向けるべきではないでしょうか。

(注7)「めったに外へも出さないようにして、家庭の中で大事に育てられた娘」という意味である「“箱入り”娘」にピッタリなのは、むしろ奈穂子の方でしょう。

(注8)公園で健太郎と奈穂子がキスをする時も、車の中から母親が見守っている有様です(ただ、公園ですから誰が見ていてもおかしくはないものの。現にこのときは、健太郎と同じ課の女性が見つけてしまいました)。

(注9)この点は、『くちづけ』を見た時にも感じたことです。同作におけるマコについて、父親の「いっぽん」が何から何まで面倒を見てきたがために、「いっぽん」は自分の死後にマコが陥る境遇について酷く悲観的になってしまい、考えられないような悲劇を引き起こしてしまいます。

(注10)健太郎が病院のベッドで打った点字の手紙を奈穂子が笑いながら読むシーンがありますから、二人はきっとうまくゴールインすることでしょう!



★★★☆☆



象のロケット:箱入り息子の恋
コメント (4)   トラックバック (13)

俺俺

2013年06月14日 | 邦画(13年)
 『俺俺』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)久しぶりの三木聡監督の作品ということで(注1)、映画館に足を運びました。
 ただ、三木監督独特の「ゆる系」「脱力系」の作品かなという予想は見事に裏切られ、かなりしっかりとしたストーリーが展開されるのは意外でした。

 主人公は、郊外にある大規模な団地で一人暮らしをする青年・永野均亀梨和也)。
 昼間は、電気店のカメラ売り場で働いています。



 ある日ハンバーグ店で食事をとったところ、隣の客の携帯電話が彼のお盆の中にずれ落ちてきます。なんと彼は、黙ってそれを自分のものにしてしまいますが、店の外でその電話が鳴ったので出ると、母親だと言うのです。
 自分がその母親の息子だと間違われているのに気付き、彼は、それをいいことに出鱈目を言って、自分の口座に100万円振り込んでもらいます(“オレオレ詐欺”まがい!)。
 そのお金をATMで引き出し、翌日家に戻ると、見知らぬ女が家の中にいて、「遅かったじゃない」と言いながら出迎えてくれるではありませんか!
 さらに、彼女(高橋恵子)は、「自分はあんたの母親で、あんたは大樹」と言い張ったあげく、家に戻ります(注2)。
 混乱してしまった彼は、その後をつけて、彼女が「檜山」の表札がついた家に入るのを見届けてから、今度は自分の実家に行きます。
 ですが、実家で彼を出迎えたのは驚いたことに永野均の「俺」、「昨日も一昨日も同じような奴がやってきた」と言うではありませんか!
 彼はその家から追い出されてしまうため、仕方なく自分を大樹としますが、そんなところにもう一人の「俺」である大学生の本山ナオ(亀梨和也)が出現します。
 永野均の「俺」と大樹の「俺」が、ナオの部屋に集まって意気投合していくうちに(その部屋を「俺山」と名づけます:注3)、外ではどんどん「俺」が増殖しているようです。
 さてどうなることでしょう、……?

 本作では、こうした「俺」の増殖の話だけでなく、他方で増殖した「俺」が逆に次第に消されていく「削除」の話もなされ、そればかりか永野均が勤める電気店にお客としてやってきた女性・サヤカ内田有紀)とか、彼の上司・タジマ加瀬亮)とかを巡る話があり(注4)、実に賑々しくストーリーが展開していき(注5)、随分と楽しめる作品となっています。

(2)本作の前半では、永野均と同じ「顔」をした人が次々と増殖し、とどのつまりは33人もの亀梨和也が出現します(といっても、映画を見ながら数えたわけではありません。劇場用パンフレットにそう書いてあるにすぎないのですが!)。
 また、本作の後半は、一見したところ、DVDで見た『リアル鬼ごっこ』の「顔」版ではないかという気がしました。そこでは、佐藤の苗字を持つ者がオニに次々に殺されていくところ、本作では、永野均似のソックリさんが次々に「削除」されていくのですから。

 でも、苗字が同じことと「顔」が同じこととではまるで違っているように思われます。
 そして、いったい本作における「顔」とは何でしょう?
 というのも、最近出た哲学者・鷲田清一氏の『〈ひと〉の現象学』(筑摩書房、2013.5)の「1. 顔 存在の先触れ」には、次のように述べられていることもあるからですが(注6)。
・「だれかの顔を見つめること、まじまじと見るということは、じっさいにだれかの顔を前にしたときにはほとんど不可能であるといってよい」(P.16)。
・「だれかの顔へのまなざしは、そのまなざしをまなざす眼にふれたときはたちまち凝固してしまい、それ以上の、見るというかたちでの探索は不可能になるということである」(P.17)。
・「顔は見られるというかたちで現れるのではないような存在ではないのか」(P.17)。
・「わたしの顔というものはそもそもわたしが見るというかたちでふれることができないものである」(P.20)。

 まあ、いずれもうなずける点ばかりです。
 ただ、ここからすると、本作における永野均は、しっかりと見ることがほとんど不可能な他人の「顔」を見て、実際にはよく知らない自分の「顔」を見出していますが、そんなことが果たしてありうるのか、ということになるのかもしれません。

 それでも、本作において亀梨和也は、至る所に自分の「顔」を見つけ出しています。
 としたら、飛躍してしまい恐縮ですが、彼は、どんな「顔」を見てもそこに自分の「顔」を見つけ出してしまうのではないか、それはまるで他人の「顔」を鏡として扱っているのと同じことではないのか、と思えてきます。
 他方で彼は、28歳になっても母親から自立できずにいますし、電気店で働いているといっても、上司のタジマとの関係は酷く悪いものです(注7)。
 こんなところから、もっと飛躍することになりますが、永野均はいわば幼児的な段階に留まったままでいて、ある意味でラカンの「鏡像段階」にあるのではとも思われるところです(注8)。
 そして、「削除」の進行は、その段階を脱して「自我」を確立していくことに対応していると見てみてはどうでしょう(注9)。

 全体として本作は、原作本(星野智幸新潮文庫)もそうではないかと思うのですが、永野均の大人へ脱皮する様子を描いているとみてはどうでしょうか(注10)。

(3)渡まち子氏は、「「時効警察」の三木聡監督らしい、オフビートな笑いと細部の小コタの遊びが満載で、標識や張り紙などをチェックしながら見るとより楽しめる」として50点をつけています。



(注1)三木聡監督の作品としては、『転々』や『インスタント沼』などを見ました。

(注2)高橋恵子は、最近では『カミハテ商店』が印象的です。

(注3)この「俺山」は、三人にとって実に居心地のいい場所になります。「三人とも嗜好が同じ。だって、「俺」なのだから!」、「もう他人とは居られない。だって、面倒くさいから!」という具合です。
でも、果たしてそうでしょうか?
 ここで飛躍すると、ここには埴谷雄高の「自同律の不快」は存在しないのでしょうか?
 すなわち、“俺が俺であって俺以外の者ではないことの不快さ”というものがないのでしょうか?周りの皆が同じ「俺」だとしたらこんなに耐えがたいことはないのではないでしょうか?
 (例えば、『死霊Ⅰ』の「一癲狂院にて」の中で、岸博士が「自己が自己の幅の上へ重なっている以外に、人間の在り方はないのです」と言うと、主人公の三輪与志は「それは、不快です」と答えたりします)

(注4)加瀬亮は、『アウトレイジビヨンド』における度肝を抜く演技が素晴らしいと思いました。また、内田有紀は『踊る大捜査線 The Final―新たなる希望』で見ました。

 

(注5)さらには、大樹の姉夫婦が殺されて、その捜査に当たるのが岩松了松重豊が扮する刑事だというお話などもあります。
 なお、岩松了は、『中学性円山』でも刑事・大谷に扮していますし、また松重豊は『アウトレイジ ビヨンド』などで見ています。

(注6)同書については、「よみうり書評」で宇野重規氏が、また内田樹氏も自分のブログに書評を掲載しています。

(注7)タジマは、何かというと、永野均のことを「契約社員から正社員に引き上げなければよかった」などと愚痴ります。もっとも問題は、タジマの性格が特異なところからきているようでもありますが(ふせえりが扮する「南さん」は、むしろ永野均を応援しているようです)。

(注8)Wikipediaには、「自らの無根拠や無能力に目をつぶっていられるこの想像的段階に安住することは、幼児にとって快いことではある。この段階が鏡像段階に対応する」と述べられています。

(注9)上記注のWikipediaでは、さらに、「人間は、いつまでも鏡像段階に留まることは許されず、やがて成長にしたがって自己同一性や主体性をもち、それを自ら認識しなければならない」と述べられています。

(注10)原作は、サヤカとか刑事などは出てこないなど、映画のストーリーとはかなり違っています(特に後半部分では、「俺」が「俺」によって食べられたりしてしまうのです)。
 なお、朝日新聞掲載の書評があります。
 また、以上の思いつきに過ぎない感想は、映画の最初に登場する永野均とラストの永野均とが同一人物であるという前提に立っていますが、実際には本作においてそんなことは保証の限りでありません。



★★★☆☆



象のロケット:俺俺
コメント   トラックバック (12)

ハナ

2013年06月06日 | 洋画(13年)
 『ハナ~奇跡の46日間』を「Garden theater in 虎ノ門4丁目」で見ました。

(1)この映画館は、日比谷線神谷町の虎ノ門パストラルがあった場所(「Mori Trust Garden TORA4」)に時期を限って設けられている移動式のものです。
 なかなか面白い試みだなと思って行ってみたのですが、映画館は、空気を膨らませて出来るエアビームを使ったシロモノですから、強い風が吹いたりすると上映中止となります。
 それに、会場内はそれほど暗くならず、大画面のTVモニターを見ている感じで、また外部の音がいろいろ入ってきます(空を飛ぶヘリコプターの大きな音とか、会場のすぐ前に設けられているカフェでアルコールを飲んで騒ぐ若い人たちの声など)。
 また、余り宣伝がなされていないせいもあるのでしょうか、見に行った日の観客はわずか3人でした。

(2)今回はこの移動式映画館を体験してみることの方に重点を置いたため、上映される映画の方は二の次で事前の情報を余り持たずに見たところ、本作(注1)は韓国映画で、卓球を巡っての実話に基づいたスポ根物ながら、まずまずの出来栄えで拾い物でした。

 主な舞台は、1991年に千葉の幕張メッセで開催された第41回世界卓球選手権
 それに向けて、南北統一の「コリア」チームが結成されることになります。
 そのメンバーに選ばれた女子選手のうち、韓国のヒョン・ジョンファ選手(ハ・ジウォン)と北朝鮮のリ・ブニ選手(ペ・ドゥナ)は、これまでも世界大会で宿敵同士(注2)で仲がよくありません。

   

 かつまた、練習方法なども北と南で随分と違ったりしています。
統一チームを結成するのが望ましいとしても、そんなに簡単にいくはずはありません。
 そんなさなかに、ヒョン・ジョンファ選手と仲が良いチェ・ユニョン選手(チェ・ヨンジョン)が北の男子選手に一目惚れしたりして騒動が持ち上がり、ついには北の選手は統一チームから抜けてしまいます(注3)。
 それでも、南の選手だけで準決勝のハンガリーを破りますが、次の中国との決勝戦ではどうしても北の選手の参加が必要です。
 さあどうなることでしょうか、……?

 スポ根物独特のストーリー展開でそれほど新鮮さを感じられないものの(注4)、中国との団体戦決勝のシングルスで1勝2敗となり、これをはずすと3敗となって敗北してしまうギリギリに追い詰められた挙句に、北のスンボク選手(ハン・イェリ)の打ったボールが決まってダブルスに勝敗が持ち越しとなり、ついには、ヒョン選手とリ選手のペアが中国のペアを破って「コリア」チームが勝利した瞬間は、心から拍手を送りたくなってしまいます。



 また、今のような時期に上映されると(注5)、わずか20年ほど前の出来事に基づく作品にもかかわらず、遙か遠い昔のことのように思えてきます。本来的には、こうした映画自体が南北合作で制作されるべきと思えるところ、両国の現状はとてもそんな雰囲気ではありません(注6)。

 なお、クマネズミは韓流映画をほとんど見ていないため、登場する俳優はほとんど知りませんが、ただ北朝鮮のリ選手を演じるペ・ドゥナは、『空気人形』を見たのでお馴染みであり、本作でもさすがの演技を披露しています(特に、病気持ちながらも頑張るリ選手を演じるのですから!)。

 とはいえ、男子選手も同じように「コリア」チームとして選手権に出場しているにもかかわらず、専ら女子選手の撹乱要因としての位置付けしか与えられていないのは(最後には熱心な応援団となりますが)、いくら本作の焦点が女子選手の活躍に当てられているからとはいえ、ちょっとやり過ぎではと思いました(注7)。

(3)映画評論家の柳下毅一郎氏は、「まあ何が起こるかは誰だってわかっている。でも、わかっていてもやはり感動してしまうのである。すべての伏線がきっちり回収される決勝戦の大盛り上がり。正しいスポ根映画として広くお勧めしたい」と述べています。




(注1)本作の原題は「KOREA」(実際にはハングル)、英題は「As One」。
 なお、邦題の「ハナ(HANA)」は「ひとつ」という意味のハングル。

(注2)1990年のアジア大会(北京)では、ヒョン選手が銀、リ選手が銅でした。
 その際に金メダルを獲得した亞萍(トウ・アヒョウ)が、今回も「コリア」の前に立ち塞がります。

(注3)映画『かぞくのくに』の中でヤン・イクチュンが演じていたヤンと同じような監視人が、本作においても選手の規則違反を見つけ出し、北の選手の出場を禁じてしまいます。

(注4)それでも、南のチェ・ユニョン選手はハンガリー戦で足首を捻挫するものの、なんとか決勝戦に出場しますし(負けてしまいますが)、また北のスンボク選手は国際大会が初めてで大観衆に呑まれて実力を発揮できずにいたところ、経験豊富な南のヒョン選手に効果的なアドバイスをもらったりします。

(注5)4月には北朝鮮によるヒステリックな「恫喝や威嚇」が繰り返しなされました!

(注6)南北統一の「コリア」チームが結成されたのは、同じ年にポルトガルのリスボンで開催された「1991 FIFAワールドユース選手権」くらいのようですから!

(注7)さらに言えば、本作では、南北統一「コリア」チームの意味が発揮される団体戦の模様が専ら描かれますが、実際には個人戦も同時に行われていて、そこではやはり亞萍が金で、リ選手が銀でした。



★★★☆☆



コメント (2)   トラックバック (2)

くちづけ

2013年06月04日 | 邦画(13年)
 『くちづけ』を新宿バルト9で見ました。

(1)こういう「感動」を売りにしている映画は、これまでの経験からどうかなとの躊躇いはありましたが、監督が堤幸彦氏なのでまあいいかと映画館に行ってみました(注1)。

 ですが、やっぱりこの映画は受け付けませんでした。

 映画の舞台は、埼玉県にあるグループホーム「ひまわり荘」。



 医師の国村先生(平田満)やその奥さんの真理子麻生祐未)、娘・はるか橋本愛)などによって運営されていて、1週間に1度見舞いに来る妹・智子田畑智子)と会うのを生きがいにしている「うーやん」(宅間孝之)などがいます。



 そこに、知的障害者である娘・マコ貫地谷しほり)を抱えた漫画家・「愛情いっぽん」(竹中直人)がやってきて、スタッフとして雇われることになります。
 智子に結婚話があったり、「うーやん」とマコが結婚すると言い出したりと色々の騒ぎが持ち上がります。



 さあ、ひまわり荘はいったいどうなってしまうのでしょうか、……?

 知的障害者を抱える親の問題とか、知的障害者の犯罪などといった厳しい現実の姿を、ユーモアのあるストーリーの中で描き出していると言えるのでしょう。
 俳優陣も、主演の貫地谷しほりをはじめとして皆なかなか頑張っていると思います。

 ですがこの映画は、まるで“いわゆる新劇”の舞台そのものなのです。
 それもそのはず、本作は、「うーやん」を演じる宅間孝之が、劇団で演じるべく書き上げた戯曲に基づいているのですから。
 さらに、本作の脚本も彼自身が手がけている上に、堤監督も「できるだけ舞台に近く撮ろうと考えた」とのこと(公式サイトの「Production Note」)(注2)。
 これでは新劇っぽくなるのは当然のことながら、だったら、なぜわざわざ映画版を製作するのかわけがわかりません。劇は劇として劇団に任せておけばいいのではないでしょうか。
 わざわざ映画版を制作するというのであれば、演劇ではできないような映画ならではの新たな視点から描いて行く必要があるのではないかと思います。

 なにしろ、ほとんどのシーンが「ひまわり荘」の談話室だけなのです(注3)。
 そして出演者が、最初から、まるで劇場の舞台にいるかのように、大仰な身振りをし、かつまた物凄い大声で喋りまくるわけで、見ている方はどんどんしらけてしまいます(注4)。
 あるいは、知的障害者の姿をリアルに描き過ぎると、重いテーマを扱う本作が一層重くなってしまうということから、演劇仕立てにしたのかもしれません。でも、映画を作るというのであれば、別のやり方で描き出す必要があるのではないでしょうか(注5)?

(2)以下はかなりのネタバレになってしまうので気をつけていただきたいのですが、ラストの方で、「いっぽん」が、自分の死期を悟ってマコに対してある行為に及んでしまう点にも問題があるのではと思います。
 ここは議論が大いに分かれることでしょう。ですが、クマネズミには納得がいきませんでした。
 というのも、「いっぽん」が、マコを一人の独立した人格として扱わずに、まるで自分の持ち物として見てしまって、自分の判断だけで行為に及んでしまったかのように思われるからです(注6)。
 確かに、自分が死んだあとに一人で残されたマコに待っているのは、犯罪者になるか、あるいはホームレスになるかの道だけなのかもしれません。
 「いっぽん」にしてみれば、マコがそんな境遇にはまり込むことが耐えられなかったのでしょう(注7)。
 でも、そんなことなら、「いっぽん」は、なぜここまでマコを一生懸命育ててきたのでしょうか(注8)?
 それに、この場合には、予め医者に死期を告げられていろいろ考える時間が与えられているからいいものの、例えば、「いっぽん」が交通事故などによって突然の死を遂げた場合にはどうなるのでしょう?
 否が応でも、マコは一人で生きていかなくてはいけなくなります。そしてそれは、マコの人生であって、「いっぽん」が先取り的に摘み取ってはならないのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「舞台をそのまま見ているような演出に、正直、疲れてしまうのだが、それでも、実際に起こった事件をヒントにしたというこの物語は、悲しくて温かい涙を誘う感動を届けてくれた」として60点をつけています。



(注1)と言って、堤氏の監督作品として最近見たのは『BECK』とか『劇場版TRICK』くらいにすぎませんが。

(注2)同じ「Production Note」の中では、「堤監督は随所にささやかなリアリティーを足している。例えば、袴田がフレームアウトする時、「枝豆といちじく、むしってこよう」と言わせたり」していると述べられているところ、クマネズミには、こんな場面こそ“いわゆる新劇”ではないかと思ってしまいました。このシーンで感じる新劇臭さは、ひまわり荘のスタッフの袴田を演じる岡本麗が演劇人であることや、堤監督自身も堤幸彦劇団を率いて舞台演出をしてきていることにもよるのではないでしょうか?

(注3)本作では、庭とか2階の「うーやん」の部屋の中など、談話室以外の場面も描かれていますが。

(注4)大雑把に言えば、雨の場面を描く場合、舞台であれば仕草などによって如何にも雨が振っているような雰囲気を出さないと観客に伝わらないと考えられる一方、映画ならば実際に雨を振らせてしまいますから、そんなに誇張した演技は必要ないという違いでしょうか。
 映画の中で、如何にも雨が振っています風の大げさな演技をされると、見ている観客は、その押しつけがましさにしらけてしまいます。

(注5)以前見た『今度は愛妻家』も、戯曲を映画化したもので、かなり演劇っぽい作品でしたが、主な出演者が皆映画人だったこともあり(豊川悦司や薬師丸ひろ子)、新劇臭さを感じませんでした。
 本作の貫地谷しほりや竹中直人などは映画人でしょうが、宅間孝行らの演劇人に引っ張られたのでしょうか、大層新劇っぽく振る舞っています(若い橋本愛までも、最初からテンション高く大声でしゃべっています)。

(注6)ただマコは、「いっぽん」が死ぬことが分かったのか、「いっぽんが死ぬならマコも死ぬ」「生きていけないもん、だからマコも死ぬ」などとまで言います。
 ですが、「ずっと7歳の子どものまま止ってしまっている」「マコの心」(公式サイトの「Story」)は、人間の死を十分に理解できるのでしょうか(本作の冒頭の場面からは、「うーやん」でさえ分かっていないように思われます)?

(注7)「いっぽん」は、国村先生に対し、「万が一にも、マコには、浮浪者にも、犯罪者にもなってもらいたくない」と言います。

(注8)あるいは、「いっぽん」は、「うーやん」がマコと結婚してくれれば自分に変わってマコの面倒を見てくれるだろうと考えたところ、「うーやん」が妹・智子に引き取られてひまわり荘を出て行ってしまったためにそれが適わなくなって、あのような行為に及んだのかもしれません。
 でも、「うーやん」だって事情は「いっぽん」と事情は変わらないわけで、いつまでもマコの面倒を見てくれるとも限らないのではないでしょうか?
 それに、面倒見のバトンタッチをする相手は「うーやん」以外にも現れるでしょうから、前途をそんなに悲観視することもないのではと思われます。



★★☆☆☆




象のロケット:くちづけ
コメント (2)   トラックバック (16)