映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド

2015年09月29日 | 邦画(15年)
 『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)前編で謎だった事柄が後編でどのように解決されるのかということに興味を抱きながら映画館に足を運びました。

 本作の冒頭では、前編の概要が提示されます。

 後編の最初の場面は、回想シーン。
 暗い部屋の中で、注射器を持った男(草剛)が、幼いエレンに注射をします。
 男はエレンに、「少しチクっとするよ、いい子だ」と言いますが、母親らしき女が「自分の子になんてことを!」と叫びます。
 男は、「爆発的細胞分裂がどうしたら起こるのか知りたいのだ」と答えるので、女は「それでも父親なの!」と非難します。
 その時、クバル國村隼)が率いる男たちが部屋に入ってきて、「先生、こんなに沢山の本をよく集めましたね。特定知識保護法違反です」と言って、本に火がつけられ、エレンの父親は連れて行かれます。
 この様子を、エレンはソウダピエール瀧)とともに、隠れた場所から密かに見ていました。

 次いで、映画の現時点に戻ります。
 エレン三浦春馬)が滑り台のようなものに縛り付けられ、それをクバルの率いる男たちが銃を構えて取り囲んでいます(注1)。



 クバルが話します。「人間は愚かだ。いつまで経っても争いを止めない。それでも、共通の敵が現れた時に、人類は一つになれるだろうと言われた。そして巨人が現れ、人類は壁を作った。それがよかった。壁によって人々は永遠の平和を手に入れた。しかし、巨人になれる人間がいたらどうなる?」。
 そして、エレンに「君は人間なのか巨人なのか?」と尋ねます。
 エレンは、「人間です」と答えますが、クバルは、「人間なら、一度断ち切れた手足が勝手に生えてきたりはしない」、「彼が巨人になるのを、そして巨人から出てきたのを皆が目撃した」と決めつけます。

 この様子を見ていたアルミン本郷奏多)が、「エレンは人間です。エレンは人類最後の希望です」と叫び、またハンジ石原さとみ)は「これで巨人の謎が解けるかもしれない」とつぶやきます。
 しかし、クバルは「君たちは反乱分子だ」と撥ねつけ、「撃て!」と叫んだ時に、鎧をつけた巨人が頭上に出現し、クバルらは落下してきた瓦礫の下敷きとなり、エレンはその巨人にさらわれてしまいます。
 さあ、エレンの、そして人類の運命は、………?

 本作では、巨大な壁が何のために構築されたのか、シキシマ長谷川博己)とかクバルは何者なのか、などなどについて一応の説明は与えられますが、あまりおもしろい内容ではありません。それに、巨人と人間との戦いだったはずのものが、最後は巨人同士の戦いとなってしまっていたりして、なんだかよくわからない感じで終わります。総じて言えば、2部作をもっと切り詰めて全体で2時間半くらいの映画にするか(注2)、あるいは原作漫画が終了してから、その全体の構想を踏まえた上で実写化を図るべきだったのではと思いました。

(2)映画「進撃の巨人」は、前編で事件が描き出され、後編でその事件の謎が解明されるという映画「ソロモンの偽証」のような格好をとっているように思います。そうだとすると、アッと驚くような謎の解明がなされないと、後編は、映画「ソロモンの偽証」のように弛れたものになってしまいがちです。
 まして、映画「進撃の巨人」の前編が、映画「ソロモンの偽証」の前編のような盛り上がりが見られないのですから、加えて、全体の最大の見所である超大型巨人が前編に登場してしまっているのですから、後編でよほどのことが描かれない限り、映画「進撃の巨人」の全体の評価は高いものとならないでしょう。

 実際のところ、後編である本作では、種々の謎が説明されていきます。
 上記(1)で述べましたように、クバルが一応の説明をしている上に、さらに、シキシマが、「白い部屋」でエレンに対し、これまでのことやこれからのことについて話をします。
 例えば、「巨人の正体は人間だ」。
 また、「百数十年前に、多くの人間が巨人になって殺し合いをし、人間の大部分は滅びた」。
 さらに、「生き残った者は壁を作って、その中で暮らすようになり、その中で支配する者と支配される者とに分かれた」。
 そして、「2年前に壁が崩れて巨人が壁の内側に現れたが、それは支配者側にとって好都合だった。人々の憎しみが自分たちから逸れて巨人に向けられるようになり、壁の外へ出ようと思う者もいなくなるから」。

 要するに、支配者たちは、外界の異物を上手く利用することによって、支配下にある人々の自分たちに対する忠誠心を強化しようとしている、ということでしょう(注3)。
 でも、これなら独裁者たちが過去から繰り返し行なってきたことではないでしょうか(注4)?わざわざ特別の部屋をあつらえて、登場人物がもっともらしく長々と喋ったりする必要がある事柄なのでしょうか?

 次いで、外に出たシキシマらの乗ったトラックが、壁の修復のために使う不発弾を運んでいるミカサ水原希子)らの装甲車に出会うと、シキシマは、「政府に反旗を翻す。内地に戻る。壊すべき壁はそこにある。巨人を中心部に流入させれば、現体制は崩壊する。人類の変革が始まる」と述べます。
 でもこれでは、巨人の力を使ったクーデターを起こして(注5)、シキシマ自身が権力を握るということに過ぎないのではないでしょうか?

 そう考えると、最後に勝ち残るエレンにしたって、「巨人になっても知性を失わない新しい人類だ」とシキシマに持ち上げられてはいるものの(注6)、クバルのような支配者側の人間にならないとも限らないのではないでしょうか(注7)?

 そのクバルですが、2年前に、壁に穴を開ける超大型巨人として壁の向こう側に出現するところからすると、簡単に壁を行き来できるように思われます。
 あるいは、壁というのは見せかけのもので(注8)、一般人には利用できない抜け道が元々密かに設けられているのではないでしょうか(注9)?

 それに、不発弾を壁の上部に置いて爆発させると、どうして壁の穴が塞がれることになるのでしょうか?もしかしたらそういうことも起こるかもしれませんが、普通に想像されるのは、壁の上部が吹き飛ぶだけのことであり、低くなったところから巨人が壁をまたいで入り込むのではないでしょうか(注10)?

 要すれば、ハンジやアルミンらの外壁を修復しようとする作戦は、本来的に壮大な無駄と言うべきもののように思えてしまいます。

 とはいえ、本作における特撮映像は、前編と同じく眼を見張るものがあり、特筆に値するでしょう。特に、シキシマが鎧の巨人となり、巨人化したエレンと対決するあたりはすごいなと思いました。



 ですが、全体として実写版の「進撃の巨人」は、まだ進行中の原作漫画を無理やり完結させようとして努力したものの(注11)、あっけなく跳ね返されてしまったという感じがするところです。

(3)渡まち子氏は、「すべての謎が明かされる後篇だが、ヴィジュアルの迫力は既視感があるせいか、前篇ほどの驚きはない。むしろシキシマが明かす巨人誕生の秘密に、人類の愚かさと底知れぬ欲望が垣間見えてゾッとするはずだ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「結論からいうが、この後編もひどい出来栄えである。前作で猛威を振るったおバカさんたちの多くが早々に退場するので不快感は少ないし、前回指摘した設定上のおかしな点にそれなりの理由付けをしてある点には納得ができた。しかし、相変わらずありえない理屈にそそのかされる子供たち(兵団)のアホさ加減は健在である」として30点をつけています。



(注1)前編の最後は、巨人から出てきたエレンが目を開けるシーンでしたが、それとこの場面とがどのような経緯で繋がるのかはよくわかりません。

(注2)後編の上映時間は88分で、前編の概要が10分位流されますから、正味は1時間20分ほど。これでは、わざわざ1本にするまでもないように思われます(前編も98分で、合わせても3時間ほどの映画にすぎません。例えば、「るろうに剣心」の場合、『京都大火編』が139分、『伝説の最期編』が135分で、合計すると4時間半を超える長さです)。
 それに、2部作にすると、例えば、前編で描かれていた人間を捕食するたくさんの巨人が、後編になると殆ど登場しなくなるというおかしさも目立ってしまうことになります。

(注3)でも、巨人の出現により支配体制が強化されるのであれば、なぜ支配者側は、壁の外の情報を秘密にしたり、人がそちらに出て行くことを禁止したりするのでしょうか?
 巨人が幻想にすぎないということなら話は別ながら、実際に巨人は壁の外にいるわけですから、支配者側としては、様々なメディアを使って壁の外が恐ろしいことを人々に吹き込む必要があったのではないでしょうか?

(注4)例えば、ナチス・ドイツにおけるユダヤ人迫害。ヒトラーは、反ユダヤ主義を掲げることによって独裁権力を手中に収めます。
 また、ナチスは、上記(1)で書いたような焚書を行っています。

(注5)「クーデター」については、この拙エントリの(3)をご覧ください。

(注6)エレンのような生まれつきの者が新しい時代を作るという見方は、それが極端に走ると、ヒトラーのゲルマン民族の優位性という考え方と容易に結びつくおそれがあるように思われます。

(注7)本作のエンドロール後に「実験体が二つ逃げ出した」という声が聞こえますが、劇場用パンフレットに掲載されている町山智浩氏のエッセイ「映画『進撃の巨人』の世界観が生まれるまで」には、「エンドクレジットの後の声は、エレンが出て行くのを監視していた中央政府の者たちです」と述べられています。
 これに従えば、エレンだけでなくミカサも新しい人類の仲間であり、彼らは壁の外側に行ってしまうのかもしれません。そうなれば、壁の内側には、旧態依然たる体制がそのまま存続することになるでしょう。



(注8)元々、映画で描かれているような巨大な壁を、巨人に襲われる可能性が随分と高いにもかかわらず、どうやって100年前に人類は築きあげることが出来たのでしょう?
 もしかしたら、壁とか巨人とかは、支配者側が創り出している幻想なのかもしれません!

(注9)例えば、鎖国令の下における長崎出島のように。
 そう考えると、シキシマは、例えば、イギリスと手を結んで倒幕に走った薩摩藩や長州藩のような感じもします(尤も、迎え撃つ幕府側もフランスの協力を求めましたが)。

(注10)それに、いろいろ指摘されているように、クバルは自分で簡単に壁に穴を開けられるにもかかわらず、どうしてハンジらの外壁修復作戦を妨害しようとするのでしょう?

(注11)上記「注7」で触れているエッセイで、町山氏は、原作者の諫山創氏から、「完全に違う作品にしてほしい」と言われ、さらに「物語に完全決着をつけてほしい、ということになりました」と述べています。さらに、「終わらせるには倒すべき敵、本当の敵が必要になる」が、「エレンがいちばん憎んでいるものは何か、と考えると、人々を壁に閉じ込めた社会そのものだと。この壁のある体制を守っている者たちが実は敵なんだ」ということになった、と述べています。
 とすると、クバルやシキシマが述べている事柄(いわゆる世界観でしょうか)は、原作のものではなくて、映画独自のものだということになるのでしょう。



★★☆☆☆☆



象のロケット:進撃の巨人 ATTACK ON TITAN END OF THE WORLD

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キングスマン

2015年09月25日 | 洋画(15年)
 『キングスマン』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)評判が大層良いことを耳にして映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、1997年の中東。
 キングスマン達の乗るヘリコプターが石造りの建物をロケット砲などで襲撃します。
 そして、建物の中に入り込んだキングスマンが、一人の捕虜を捕まえ情報を得ようとすると、隠し持っていた手榴弾を捕虜が爆発させようとしたため、キングスマンの一人が捕虜に覆いかぶさり、仲間を救います。
 キングスマンのハリー(注2:コリン・ファース)は、「クソッ、見逃すとは!すまない、死なせてしまって」と悔しがります。

 次いでロンドン。
 ハリーが、仲間を救ってくれた男の家に向かいます。
 ハリーは、「ご主人の勇敢な行為については、これ以上話せません」と言いながら、メダルを渡して、「困った時には、メダルの裏側に書かれている番号に電話してくれれば、援助します」と告げます。
 妻が「援助なんか要らない。夫を返して」と言うので、ハリーはそのメダルを息子のエグジーに渡して、「これを大切にするんだ。合言葉は「ブローグではなくオックスフォード」だ」と教えます。

 更に場面は17年後。舞台はアルゼンチンの雪山に設けられた小屋。
 その中にアーノルド教授(マーク・ハミル)が捕らえられているところ、キングスマンのランスロットが救出にやってきます。ランスロットは、消音銃を使って敵をなぎ倒すものの、敵の幹部のガゼルソフィア・ブテラ)の義足(先に剣が付いています)による攻撃で真っ二つにされてしまいます。
 ガゼルが、転がっている幾つもの死体の上に布を被せると、敵のボスのヴァレンタインサミュエル・L・ジャクソン)がドアから入ってきて、「これは嬉しい、私は暴力が苦手。血を見ただけで吐いてしまう。不快なものをお見せした」などと言って、アーノルド教授に近づきます。

 他方、ロンドンにある国際的な諜報組織キングスマンのボスであるアーサーマイケル・ケイン)は、ランスロットの死を受けて、隊員の補充を計画します。
 そして、大きくなったエグジータロン・エガートン)も新規隊員選抜試験を受けることになりますが(注3)、果たして、教官マーリンマーク・ストロング)が実施する過酷な試験をくぐり抜けることができるでしょうか、そしてキングスマンとヴァレンタインとの闘いはどうなるのでしょうか、………?

 最初から最後まで弛れたところが少しもなく、次から次へと面白くストーリが展開し、実に楽しい映画でした。ただ、途中における主役の扱いにはやや拍子抜けしたところですし、また、シリアスではない昔のスパイ物が良いなどと映画の中で言われていますが、セクシーな女性がもう少し活躍したり、また各種の変わった車(あるいは武器)が登場したりすれば、もっと面白くなるのではと思ったりしました(注4)。

(2)本作の公式サイトの冒頭に、「今まで、こんなブッ飛んだスパイ映画があっただろうか!」とありますが、果たして本作は「スパイ映画」と言えるでしょうか?
 確かに、そこで言われているように、「マシンガンに早変わりする傘やナイフ仕込みの靴など魅力的なスパイ・ガジェットの数々」を映画の中に見ることはできます。
 でも、キングスマンの諜報活動が実際にどんなものなのかはほとんど描かれておらず、上記(1)で見るように、警視庁のSAT(特殊急襲部隊)のごとく、敵のアジトを急襲するのがもっぱらの仕事のように描き出されています(注5)。

 また、寄付をする大金持ちということでヴァレンタインに近づいたハリーが、「スパイ映画は好き?」と尋ねるヴァレンタインに、「最近のはややシリアスすぎる」、「昔の007では悪役が良かった」などと答えると、ヴァレンタインも「子供の頃、スパイに憧れたものだ」と応じます。



 昔の「007」が良かったというのであれば(6注)、エグジーの相棒となるロキシーソフィー・クックソン)や敵のガゼルがもっとセクシーに振る舞ったり(注7)、また秘密兵器を満載したボンドカーのようなものが登場したりしたら、もっと面白くなったのかもしれません。

 とはいえ、そんなことはどうでもいい些細なことであり、7回にわたる新規隊員選抜試験はどれもなかなか興味深いものですし(注8)、敵との壮絶な戦いも実にスピーディーに描かれていて、見る者を飽きさせません。
 面白いなと思った点は、イギリスのキングスマンは、教官のマーリンが「チームワークが大切」とは言いながらも、あくまでも個人個人で敵に向かうのに対して、敵のアメリカ人大富豪・ヴァレンタインは数量で立ち向かってくるように見える点です。
 例えば、ケンタッキー州にある教会に一人で乗り込んだハリーは、大量に配布されているSIMカード(注9)によって凶暴化した数十人の人間に立ち向かうことになります。
 また、エグジーは、教官マーリンを伴うとはいえ、実際には単身で敵のヴァレンタインの拠点(注10)に攻め入ります。



 アメリカの物量主義に対する皮肉の意味もあるのでしょうか。

(3)渡まち子氏は、「監督のマシュー・ヴォーンは「キック・アス」でも意外性のあるヒーロー映画を作って見せたが、本作はそれに優雅さを加味した、痛快な進化形だ」として70点をつけています。
 前田有一氏は、「イーサン・ハントとジェームズ・ボンド両横綱が揃い踏みの2015年に、両者の間に割り込む形で入ってきた「キングスマン」は、しかし巨頭をたたき落とす勢いの傑作スパイ映画だった」として85点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「昨今は現実をふまえてシリアスに闘うスパイ物が多いが、こちらは肉体駆使のアクションに笑いを添えてスパイの新旧世代交代劇になっているのが新鮮」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「「007」シリーズなど、過去の様々なスパイ映画のパロディーを盛り込んだアクションだが、本家のほとんどより、こちらの方が面白い。強烈な毒を含んだブラック・コメディーでもある」と述べています。
 秋山登氏は、「ヴォーン監督の腕っ節は強く、配役も決まっている。ただ、はしゃぎ過ぎの気色はある。………しかし、これは上機嫌な冗談として楽しむべき作品だろう。消閑に最適だ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『キック・アス』や『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』のマシュー・ヴォーン
 原作は、マーク・ミラー著『キングスマン:ザ・シークレット・サービス』(作者のマーク・ミラーは本作の製作総指揮を担当し、またこの記事によれば、マシュー・ヴォーンが当該著書の共同原案を担当しているようです)。
 なお、原題は『Kingsman: The Secret Service』。

(注2)ハリーは、諜報機関「キングスマン」ではガラハッド(Galahad)と呼ばれます。
 ガラハッドは円卓の騎士の一人であり、とすると組織内のボスのアーサーも「アーサー王」ということになるでしょう。また、ガゼルによって真っ二つにされるランスロットも、円卓の騎士の一人です。
 なお、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中でマシュー・ヴォーン監督は、「キングスマンの組織をアーサー王の円卓の騎士になぞらえたのはなぜですか?」との質問に対して、「キングスマンが道義心や礼節の精神に根ざしたものだということを描くのにわかりやすい方法だった」などと述べています。

(注3)キングスマンの新規隊員選抜試験を受けているエグジーを、ハリーは高級スーツ店「キングスマン」に連れて行き、その第3試着室の奥の部屋を見せます。



 そこには、キングスマンの使う物が壁のガラス棚にずらりと並んでいます。ハリーは、紳士靴を指して、「外羽根式(open lacing)のオックスフォードが正式の靴だ」、「装飾がついたものはブローギング(broguing)という」などと説明します〔この「靴用語辞典」によれば、「ブローグ(brogue)」とは、「穴飾り、親子穴飾り、ギザ飾りなどの装飾を施したウイング・チップのオックスフォード・シューズのこと」とされています〕。
 こんなことから、先に出てきた合言葉「Oxfords, not Brogues」も、“装飾の付いていないオックスフォード・シューズ”という意味合いになるのでしょう。
 そして、ハリーが考える“gentleman”としてのスパイの在り方の一端が伺えるのかもしれません。

(注4)出演者の内、コリン・ファースは『マジック・イン・ムーンライト』、サミュエル・L・ジャクソンは『4デイズ』、マーク・ストロングは『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』、マイケル・ケインは『インターステラー』で、それぞれ見ました。

(注5)むろんキングスマンといえども、敵のアジトがどこにあり、そこで何が行われるのかに関する情報を諜報活動によって取得しているのでしょうが、そちらの方面は殆ど描かれません。

(注6)マシュー・ヴォーン監督は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中で、「(原作者の)マーク・ミラーも私も最近のスパイものがやたらシリアスになっていることに不満だったんだ。我々は『007』シリーズや『電撃フリント・アタック作戦』、TVシリーズ「おしゃれ㊙探偵」などを観て育ってきた」などと述べています。

(注7)ラストにスウェーデンのティルデ王女(ハンナ・アルストロム)のサービスがあるとはいえ(どのようなサービスかはシークレットにしておきましょう)。

(注8)なにしろ、犬を使ったテストが3回も行われたりするのですから。

(注9)ヴァレンタインは、人口の急激な増加によって地球の環境が破壊されており、地球を救うためには人間の数を減らさなくてはならないと考え、世界中にSIMカードを大量にバラ撒きました(それを持っていると通信が無料になると言って)。ヴァレンタインがスイッチを入れると、SIMカードを持っている人間は凶暴化し、互いに殺し合いを始めるので、人口が減少するというわけです。
 なお、人間が地球にとって害悪となっているとする考え方は、『寄生獣 完結編』の中で、広川市長(北村一輝)が、突入してきた特殊部隊に向かって言い放つ言葉とよく似ていると思いました。すなわち、広川市長は、「人間の数をすぐにでも減らさなくてはいけないことや、殺人よりもゴミの垂れ流しの方がはるかに重罪だということに、もうしばらくしたら人間全体が気づくはずだ」とか、「環境保護といっても、人間を目安としたものだ」、「万物の霊長というなら、人間だけの繁栄ではなく生物全体を考えろ」、「人間こそ地球を蝕む寄生虫だ」などと言うのです。

(注10)“ノアの方舟”のように(以前見た『ノア 約束の舟』を思い出します)、ヴァレンタインは、人間が大量に殺された後にも生き残ることのできるエリートだけを選別して、自分の拠点に集めていました。ヴァレンタインは、集められた人たちに対して、「君たちは選ばれたのだ、新しい時代の誕生を祝おう」と演説します。
 でも、こうした人々がエリートとしてこれから生きていくためには、エリートではない人々のサポートがどうしても必要なのであり、としたら、同じように地球破壊は継続することになるものと思われるところです(「注9」で触れた広川市長の議論が成立しないのと同じではないかと思われます)。
 なお、ヴァレンタインは酷い悪者扱いされていますが、それを倒すキングスマンの方だって、ボスのアーサーがヴァレンタインに洗脳されているとすると、規律を絶対的に重視する組織ですから(飼いならした犬を殺せと命じられたら殺さなくてはいけないような)、とても危険な存在になってしまうのではないか、と思いました。



★★★★☆☆



象のロケット:キングスマン
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ピース オブ ケイク

2015年09月22日 | 邦画(15年)
 『ピース オブ ケイク』を渋谷のシネマライズで見てきました。

(1)『深夜食堂』で頑張っていた多部未華子が主演の作品だということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、主人公の志乃多部未華子)が、がらんとした部屋の中に置かれている鉢植えの幸福の木を見つめていて、そのナレーション「ちょこちょこ適当に買っては枯らす」が入ります。

 次いで、志乃が、会社の同僚の正樹柄本佑)と付き合っている頃のシーン。
 正樹によってホテルに呼びだされた志乃に対して、正樹が「遅いじゃないか、化粧してる余裕あるのに。もっと必死になれよ」と詰ります。
 志乃が「必死だよ。どうすればいいの?」と応じると、正樹は「自分で考えろよ」と突き放ち、志乃の頬を叩きます。

 さらに次の場面は、志乃が新しく引っ越してきたアパートの部屋(注2)。志乃の友人のナナコ木村文乃)が、引越しの手伝いをしていて、タンスの前で「志乃!服、適当に詰めちゃうよ」等と言っています。

 そこに、会社の同僚のミツ小澤亮太)が、「2号同士でちょうどいいじゃん」と志乃に言い寄っている場面が挿入されます(注3)。

 それから、正樹が、「よりによってあんな男と俺を二股かけやがって」と怒って、志乃と無理やりセックスしようとするシーンが。

 次いで、再び、志乃が新しく引っ越してきたアパートの部屋。



 トイレから出てきた志乃の友人の天ちゃん松坂桃李)が「トイレが綺麗!」というので、志乃とナナコが覗くと、砂利が敷き詰められていて石まで置かれています。
 志乃は、「緊張してオシッコが出ないかも」と言いながら、引越しに集まってくれた友人たちに感謝します。

 夜になって志乃が一人で縁側にいると、幻想の正樹が現れます。その正樹が「男なら誰でもいい女だ、君は」と言うのに対して、志乃が「違う、正樹に好かれたいとチャント頑張ったのに」と答えたりしていると、ふいに隣の部屋に住んでいる男(京志郎綾野剛)が出てきて、「どうも」と言ったので、慌てて志乃は、「今日、隣に引っ越してきました」と答えます。



 そして、「その時、風が吹いた」との志乃のナレーション。
 さあ、志乃と京志郎との関係はどうなるのでしょうか、………?

 本作は、今時の女の子の恋愛事情を垣間見ることができる感じがし、主人公を演じる多部未華子が大層魅力的に撮られており、下北沢とか三鷹駅周辺などよく知っている場所が何箇所も映し出されていたりもして、ご都合主義的な点が散見されたりするとはいえ、まずまずおもしろく映画を見ました(注4)。

(2)本作における多部未華子は、正樹とミツと同時に付き合っていたりするような女(注5)、さらにはあの口うるさい正樹の言うことになんとか付いていこうとするあまり主体性のない女、といった志乃の持つゆるい感じのイメージからすれば(注6)、まだまだ硬い真っ直ぐな感じがしてしまうところです。でも、逆にそうだからこそ、ビデオショップの店員から劇団の衣装係に転身出来たのでしょうし、またラストの展開にたどり着けもしたのでしょうから、まあかまわないでしょう。



 彼女の相手役の綾野剛は、このところ実に様々な作品に出演していながらも、それぞれの役柄を的確につかんだ演技を見せてくれます。本作においても、余りパッとしない仕事に就いていながらも、一世一代の笑顔を志乃に見せてその心を一瞬でつかんでしまうという難しい役を誠に上手く演じています。



 さらに、この映画において注目すべきは、なんといってもオカマの天ちゃんを演じている松坂桃李でしょう。
 なにしろ、『マエストロ!』ではオーケストラのコンサートマスター役、『日本のいちばん長い日』では血気盛んな青年将校役をそれぞれ見事に演じていると思ったら(注7)、本作ではオカマ役なのですから驚きます!それに、天ちゃんは、単なるオカマではなく、登場人物をつなぐ重要な役割をも果たしているのですが(注8)、松坂桃李が演じることによって説得力が出ているように思われます。

 こういった俳優たちが、クマネズミがよく知る場所に立ち現れるのですから、否も応もなく画面に見入ってしまいます。
 例えば、京志郎が志乃に「今度、温泉に行こうか?」と誘って、志乃が「男の人と温泉に行くのは初めてかも」などと話すのは、JR中央・総武線の三鷹駅の南口下の小さな広場です(注9)。
 そして、二人が実際に行くのが熱海(注10)。つい最近見たばかりの『ロマンス』で映し出されるロマンスカーに京志郎と志乃が乗っているのには驚きました(注11)!

 とはいえ、正樹と別れた志乃が、心機一転勤めることにしたビデオショップの店長が、志乃のアパートの隣の部屋に住んでいるとは!
 でも、恋愛というのは、こうした偶然の重なりなのかもしれませんが。

(3)渡まち子氏は、「ダメ人間の恋愛応援歌のような映画だが、旬な役者の好演でもっている」として55点をつけています。



(注1)監督は田口トモロヲ
 脚本は、『もらとりあむタマ子』の向井康介
 原作は、ジョージ朝倉著『ピース オブ ケイク』(祥伝社:未読)。

(注2)志乃は、正樹と別れると同時に別のアパートに引っ越すことにしたようです。

(注3)ミツには彼女がいて、また志乃にも正樹がいることから、「2号同士」とミツは言うのでしょう。

(注4)出演者の内、最近では、多部未華子は『深夜食堂』、綾野剛は『新宿スワン』、松坂桃李は『日本のいちばん長い日』、木村文乃は『くちびるに歌を』、菅田将暉は『そこのみにて光輝く』、柄本佑は『武士の献立』で、それぞれ見ました。

(注5)さらには、京志郎と別れた後、同じビデオショップ店でバイトをしている川谷菅田将暉)とすぐに関係を持ったりするような適当な女でもあります。

(注6)尤も、志乃は、ひとたび「風が吹いた」となると、京志郎に女(あかり光宗薫)がいても「大好き」と突っ走ってしまい、しばらくして京志郎がその女と離れられないことがわかると、スパっと別れてしまう女でもあります。

(注7)『日本のいちばん長い日』の畑中少佐については、1967年版における黒沢年男の狂気をはらんだ演技が印象的ですが、2015年版における松坂桃李の演技もなかなかのものがありました。

(注8)天ちゃんは、京志郎が店長で志乃が働くビデオショップでバイトをしながら、志乃が衣装係をすることになる劇団の団員でもあるのです。

(注9)この広場の下が暗渠になっていて玉川上水が流れています。クマネズミが玉川上水緑道をジョギングする際の折り返し点ともいえる場所(そこから井の頭公園まで玉川上水に沿って御殿山通りが通っています)ですから、映画を見ていてすぐに分かりました。

(注10)熱海のロケ場所については、このサイトの記事が参考になります。
 なお、二人が宿泊したところは、映画の中で「ニューさがみや」の表示がありました。

(注11)尤も、小田急ロマンスカーに乗って行く温泉としては湯河原とか箱根の温泉の方であり、熱海に行くなら常識的には新幹線を使うのでしょうが(あるいは、小田原で東海道線に乗り換えたのでしょうか)。
 それに、熱海で若い二人が行く場所として熱海城とか秘宝館というのは、どうもいただけない感じがします。
 さらに言えば、そもそも若い二人が熱海に行くという設定がよくわからないところです。
 原作漫画に目を通していないので、単なる想像に過ぎませんが、クマネズミは、原作ではこのようなエピソードは描かれていないのではと思っています〔このインタビュー記事において、田口監督が、「Asagaya/Loft Aを舞台のひとつとしてご利用いただいたのはなぜなんですか」との問いに対して、「それは向井(康介)君です。出したかったんじゃないのかな。熱海の秘宝館もそうだし、名指しのリクエストがあったので、ここがいいと思って書いたんだなと感じて、変更する必要もないし、イメージ通りで何も抵抗することはなかったです(笑)」と答えているところからすると、脚本の向井氏のアイデアではないかと推測されます〕。
 とはいえ、別に、原作漫画で描かれていようといまいと、志乃が男湯にまで入り込んで携帯電話の件で京志郎を激しく詰るのは、出色のシーンではないかと思ったところです。



★★★☆☆☆



象のロケット:ピース オブ ケイク
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クーデター

2015年09月18日 | 洋画(15年)
 『クーデター』を新宿バルト9で見ました。

(1)いつもお世話になっている「ふじき78」さんが、そのブログ「ふじき78の死屍累々映画日記」の8月28日の記事で「おもろいから見に行ってほしい」と述べているので、映画館に行ってきました。
 これは、ちょうど4年前、『この愛のために撃て』を見た時と全く同じ状況です!
 その際も、「ふじき78」さんが、そのブログで「大傑作だ」とか「いやあ、おもろいよ」と述べていたのを見て映画館に足を運んだところ、まさに「映画の面白さが凝縮して」いる作品であり、大満足しました。
 果たして今回は如何に?

 本作(注1)の冒頭は、東南アジアの某国。
 首相官邸でしょうか、明かりが煌々と点けられている大きな建物が映し出されます。
 その中には、護衛の兵士がいたり、また東南アジア風の踊りを女が踊ったりしています。
 ドリンクが係りの者によって運ばれ、警護官が毒味をします。
 その少し先では、首相と米国企業カーディフ社の幹部とが話し込んでおり、交渉がまとまったのでしょう、乾杯の盃をあげます。
 その後、警護官は、カーディフ社の幹部を見送るために持ち場を離れますが、突然銃声が聞こえます。
 警護官が慌てて戻ると、首相が血を流して倒れており、そばには武装したテロリストたちが。
 警護官は、ナイフで自分の首を切って自決します。

 場面は変わって、飛行機の中。上の出来事の17時間前とされます。
 本作の主人公のジャックオーウェン・ウィルソン)と、その妻アニーレイク・ベル)、長女・ルーシースターリング・ジェリンズ)、次女・ビーズクレア・ギア)が乗っています。
 ルーシーが「この国、楽しい?次の会社も潰れるかも」と言うと、ジャックは「パパがやっていた会社よりもずっと大きいから大丈夫」と答えます。

 某国の空港に降り立ったジャックが、「出迎えの車が来るはずなんだが、約束が違う」と困惑していると、飛行機ですぐ後ろに座っていた男(ハモンドピアース・ブロスナン)が近づいてきて、「詐欺師だらけだから、タクシーを使うのはやめておけ。ホテルまで案内するよ」と声をかけてきます。
 結局、ハモンドがよく知る運転手・ケニーの車に乗って、皆がホテルに向かいます。

 しかし、首相が暗殺されたばかりの国に赴任したジャックらは、無事に新しい生活を始めることができるのでしょうか、………?

 本作は、東南アジアの某国に赴任するアメリカ人の一家4人が、着任日に武装集団の蜂起に巻き込まれるというお話です。タイトルは「クーデター」ながら軍隊が決起したわけではなく、また蜂起した武装集団が外国人を皆殺しにする行動をとったりするなど(今時、黄色人種と白人との対立なんて!)、よくわからない点はあるものの、追い詰められた一家が、何度も陥る窮地をなんとか逃れ出ようとする様子は、見ている者を最後までハラハラさせます(注2)。

(2)本作では、主人公・ジャックが一家を引き連れて、『この愛のために撃て』の主人公・サミュエルと同じように、「ひたすら走る、逃げる、ビビる」のです。
 そこで、『この愛のために撃て』について拙エントリを作成した時と同じように、「ふじき78」さんの本作についてのエントリと、『この愛のために撃て』についてのエントリに依拠しながら、もう少し述べてみましょう。

a.本作について、「恐竜が出たり、ヒーローが大活躍したりなどの過剰な華がない」ために「ヒットしないだろうと思う」と、「ふじき78」さんは述べていますが、クマネズミが見た時もほんの僅かの入りでした。
 『この愛のために撃て』の場合はもっと酷く、「ふじき78」さんが見た際には「お客が5人」状態であり、クマネズミが見た際には「10人ほどの観客」でした!

b.本作について、「発見次第射殺されてもおかしくない状況で主人公家族が如何に逃げ切るか」が描かれていて、「危機また危機」だと「ふじき78」さんは述べていますが、『この愛のために撃て』も「ノンストップ」で「ハラハラドキドキする」シーンの連続でした(注3)!



c.本作の主役のオーウェン・ウィルソンについて、「等身大の普通の“父ちゃん”」であり、「当たり前に強くない」ものの、「負けたら二人の娘と妻が殺されるから、ギリギリで踏ん張る。このギリギリ加減がとてもいい塩梅で上手い」と、「ふじき78」さんは述べています。
 こうした主役についての「ふじき78」さんの把握の仕方は、『この愛のために撃て』の主人公・サミュエル(ジル・ルルーシュ)について、「元CIAとかじゃなくって、縁側でスイカ食ってるのが似合いそうな“おっさん”」と「ふじき78」さんが述べているのに通じています。
 実際にも、ジャックは民間人であり(水道整備事業の技術者)、病院の看護助手であるサミュエル同様、諜報機関などに関与したことなどありません。

d.ジャックたちが窮地に立たされた時に、ハモンド(「現地に溶け込んでる手練れの男」)が救い出してくれますが、この人物には、『この愛のために撃て』におけるサルテと同じような雰囲気が漂っています(注4)。



 そして、ロシュディ・ゼムが演じるサルテについて、「ふじき78」さんが、「怪しい犯罪者くささとプロフェッショナルが同居しててかっこいい」と述べているのと同じように、本作のハモンドに扮するピアース・ブロスナンについても、「年取ってからの方がみんなよくなってる」007役者の一人だと評価しています。

(3)とはいえ、本作については、若干ながら疑問点があります。
 まず、邦題の「クーデター」です。
 本作の元々の原題が「The Coup」だったようですから(注5)、邦題を「クーデター」としてもかまわないとはいえ、本作でジャックらが巻き込まれた騒乱は、いわゆる「クーデター」のようには思えないところです。

 一般には、「クーデター」とは、Wikipediaが言うように、「支配階級内部での権力移動の中で、既存の支配勢力の一部が非合法的な武力行使によって政権を奪うことであり、行為主体である軍事組織により、臨時政府の樹立と直接的な統治が意図された活動」を指すものと思われます(注6)。
 例えば、1936年の2.26事件は、陸軍内の派閥争いから、皇道派が統制派を排除しようとしたクーデター未遂事件と見ることができるでしょう。
 翻って本作で描かれている騒乱を見てみると、リーダーめいた人物はおり、また暴徒たちはかなり銃器を携えてはいるものの、警官隊と衝突した際には、棍棒とか石などが使われたりしています。要するに、一部は組織立っているとはいえ(注7)、大部分は自然発生的な騒ぎではないでしょうか?



 とても「既存の支配勢力の一部が非合法的な武力行使によって政権を奪う」事態のようには見えません。特に、リーダーや彼を取り巻くグループの外観からは、かれらが「支配階級」に所属しているようにも見えないところです。

 そして、本作についての最大の疑問点は、一体この国の軍隊は何をしているのかという点です。
 首都でこれだけの騒乱が起き、なおかつアメリカ大使館の爆破という大変な事態まで招いているのです。どうして軍隊がすぐにも出動して治安の回復をしようとしないのでしょうか?
 にもかかわらず、本作には軍部が登場しないように思われます(注8)。

 あるいは、この騒乱の裏で糸を引いているのが軍部なのかもしれません。リーダーたちに資金を与えて、首相の暗殺を要請したことも考えられます。
 でも、政権奪取のためであれば、外国人を皆殺しにしたり、アメリカ大使館の爆破まで行ったりする必要性は酷く乏しいのではないでしょうか?
 そうではなくて、軍部はこの騒乱に何も関与しておらず、暴徒に警官隊が蹴散らされてしまったのを見て恐怖を感じ、兵舎に閉じこもってしまったのでしょうか?
 でも、東南アジアの国々の軍隊は、どの国でも相当に強力なはずで、持てる力は警官隊の比ではないものと思われます。

 それにまた、暴徒たちの行動がどうも不可解な感じがします。
 暗殺された首相に結びついている人たち(現体制で利益を受けている人達)を襲うというよりも、むしろ、外国人排斥の方に重点を置いているようなのです(注9)。
 となると、あるいは清朝末期の「義和団の乱」(1900年)に類似しているのかもしれません。
 ただ、そんなことをすれば、「義和団の乱」と同じように、直ちに外国の軍隊の介入を招いてしまいます。
 この騒乱が、「クーデター」であり、「行為主体である軍事組織により、臨時政府の樹立と直接的な統治が意図された活動」だとしたら、そんな大きなリスクを招くようなことはしないのではないでしょうか?

 尤も、本作で描かれているような騒乱に類似した事件がこれまで実際に起きていることもあり(注10)、またなによりも、本作で描かれるジャック一家のサスペンスあふれる逃走劇の無類の面白さからすれば、ここで申し上げたことはどうでもいいことなのかもしれません。

(4)渡まち子氏は、「土地勘もないのにスイスイと動くことや、顔にスカーフをまいただけの変装など、少々浅い描写が気になるが、夫が弱気になれば妻が叱咤し、足手まといな行動ばかりの娘たちが意外なところで踏ん張るなど、家族愛のドラマとしても楽しめる」として55点をつけています。
 前田有一氏は、「リアリティある設定の割にアクションの見せ場は少々非現実的で一瞬なえかけるが、まじめに作られた映像演出によりなんとかもった感じ」として70点をつけています。
 小梶勝男氏は、「まさにノンストップと呼ぶにふさわしいスリラーの秀作」であり、「映画はあくまで、主人公の家族の視点で進む。現地人は恐怖の対象で、人間的には描かれていない。その意味ではゾンビ映画に近いかもしれない。それがスリラーとしての緊張感を高めている」と述べています。



(注1)本作の監督はジョン・エリック・ドゥール
 原題は「No Escape」(なお、下記の「注5」を参照してください)。

(注2)出演者の内、オーウェン・ウィルソンは『ミッドナイト・イン・パリ』で、ピアース・ブロスナンは『ゴーストライター』で、それぞれ見ました。

(注3)「ふじき78」さんは、『この愛のために撃て』についてのブログ記事で、「地下鉄のシーンが凄い。追い詰める側の顔が獰猛なドーベルマンみたいで、こんなんから逃げオオせられはしないだろう、緊迫感が更に高まる」と述べているところ、本作でも、ジャックの一家が宿泊するホテルを襲撃する武装した暴徒は、まさに「獰猛なドーベルマン」然としており、ホテル内の各部屋を徹底的に捜索している様子を見ると、ジャック一家は「こんなんから逃げオオせられはしないだろう」と思えてきてしまいます。
 なお、『この愛のために撃て』においてサムエルとサルテは、“水平方向の流れ”に従って逃げ回っているところ、本作におけるジャック一家は、当初ホテルを“垂直方向”に逃げていますが、そこを脱出すると、今度は“水平方向”に逃げ、最後は川を利用することになります。

(注4)ハモンドは、「自分がこの騒ぎの元凶だ」などとジャックに打ち明けます(英国CIAの工作員?)。それが正しいのであれば、彼は、『この愛のために撃て』のサルテなど足元にも及ばないほどの悪人といえるかもしれません。

(注5)このサイトの記事の「Production」によれば、まず「The Coup」と題する映画が制作されることが2012年に報道され(この記事:また、この記事も参考になります)、その後2015年2月になって、タイトルが「No Escape」に変更されると発表されたとのこと(Wikipediaの記事が引用する記事においては、タイトル変更の理由として、映画館に足を運ぶ人たちの中には、教育程度が低くて「coup」の意味を理解できない人も混じっているように思われるから、と述べられています)。

(注6)Wikipediaの「クーデター」についての記事の冒頭には、「クーデター(仏: coup d'État)とは一般に暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変を言う」と述べられていますが、これではあまりに包括的にすぎるものと思われます。

(注7)なにしろ、一国の首相を暗殺してしまうほどなのですから。
 また、ホテルの屋上に逃れた開国人を銃撃するヘリコプターが出現したり、アメリカ大使館を爆破したりしますから、リーダーたちには一定の計画があったものと考えられます。

(注8)東京大学法学部教授の石川健治氏が、「あの日(安全保障関連法案が衆議院を通過した9月16日)、日本でクーデターが起きていた」と述べていることに対して(この記事)、池田信夫氏が「軍の関与しないクーデターなんて歴史上ひとつもない」と批判しているように、本作の騒乱は「クーデター」とは思えないところです。
(ちょうど昨日、アフリカでクーデターが起きたようです。この記事によれば、「西アフリカ・ブルキナファソで16日、大統領警護隊が首都ワガドゥグで開かれていた閣議に乱入、暫定政権のカファンド大統領やジダ首相らを拘束した。17日には、軍が国営テレビやラジオで「暫定政権の解散」を宣言、事実上のクーデターを表明した」とのこと。まさに軍が関与しています。)
 ただし、石川氏は、「国民から支持を受ける「革命」に対し、国民を置き去りにした状態で法秩序の連続性を破壊する行為を、法学的には「クーデター」と呼ぶのだ」と石川氏は述べています。とはいえ、仮にそうした定義に従うとしても、本作で描かれる騒乱を「クーデター」とは呼べないのではないでしょうか(本作で描かれているのは民衆の自然発生的な騒乱のように見えるため、国民を置き去りにした状態」とは言えないように思われます)。

(注9)本作で描かれる外国人排斥の対象は、外国人一般というよりも、むしろ白人に限定されているようにも思われます。ですが、今時、そのような白人嫌悪の運動が行われている国が東南アジアにあるのでしょうか?

(注10)2012年に起きたリビアの米国領事館襲撃事件では、駐リビア大使ら4人が武装集団によって殺害されています。ただし、これは軍部による「クーデター」絡みの事件ではありません。



★★★☆☆☆



象のロケット:クーデター
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わたしに会うまでの1600キロ

2015年09月15日 | 洋画(15年)
 『わたしに会うまでの1600キロ』を日比谷のTOHOシネマズ・シャンテで見ました。

(1)今時の女の子が直ぐ口にしそうな“私探しの旅”がタイトルにつけられているのでパスしようかと思ったのですが、主演のリース・ウィザースプーンがアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた作品だということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、山が連なる風景が映し出され、山の頂上らしきところに座っている主人公のシュリルリース・ウィザースプーン)が、大きなリュックサックをそばに置き、登山靴を脱いでいます。
 靴下を脱いで足の爪を見ると、割れています。
 「大丈夫」とつぶやいて割れた詰めを剥ぐと、その拍子に脱いだ靴の片方が下に落下してしまいます。
 シュリルは「クソッ、ふざけんな」とつぶやき、残った靴も投げ捨ててしまいます。

 それからホテルのフロントの場面。
 シュリルが「1泊で。PCT(パシフィック・クレスト・トレイル)を歩く」と言うと、受付は「18ドル。他に誰も来なければ、家族の住所を書いて」と答えます。
 次いでシェリルは、部屋から別れた夫のポ―ルトーマス・サドスキー)に電話をします。
 彼女が「ホテルの書類にあなたの住所使わせて。弟が見つからないので」と言うと、ポールは「友達ならかまわない」と答えます。さらに、シェリルが「連絡先教えようか」と言うと、ポールは「切るね。楽しんで」と答えて電話が切れます。

 それから、家で、様々なものをリュックに詰め込むシュリルの姿や(重すぎて、背負うと簡単には立ち上がれないほどです)、昔、母親・ボビーローラ・ダーン)と子どもたちが楽しく家の中で踊り回ったことや母親の笑っている姿などが回想されたりします(注2)。



 次いで、砂漠地帯をシェリルは歩き始めます(第1日目)。
 道の直ぐそばには舗装道路が設けられていて、車が走っています。
 大きなリュックサックを背負ってよろよろ歩いているシェリルは、「バカなことをした。何なのこれ。いつやめてもいい」などと悪態をつきます。

 さあ、シェリルは、この先このPCTを歩き続けることができるのでしょうか、………?

 本作は、まさに、主人公のジェリルが、アメリカ西海岸に設けられている自然歩道を1600km徒歩で北上し、その間様々に自分を見つめ直していくという映画です。ただ、映しだされる自然が素晴らしいのと、単に自分を見つめなおすということよりも、自分を育ててくれながら45歳で若死にしてしまった母親との関係を問いなおすという面が強いこともあって、予想したよりは面白く見ることが出来ました(注3)。

(2)とはいえ、本作は、2008年に見た『イントゥ・ザ・ワイルド』の女性版なのではないかという気がしてしまいました。
 まず、本作の原題も「Wild」で、タイトルに類似性があります(注4)。
 また、両作ともノンフィクションの原作を映画化したものです(注5)。
 それに、両作とも、男女は異なるとはいえ主人公が単独で長大な旅に出る様を描いていますし、特に、それぞれが映し出す雄大な自然の光景には圧倒されます。

 とはいえ、『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公クリス・マッキャンドレスエミール・ハーシュ)が、大学を優秀な成績で卒業し誰からも将来を嘱望される青年であるのに対して、本作の主人公のシュリルの場合、最愛の母親がガンで死んでしまったことに耐え切れずに、夫がある身にもかかわらず、ドラッグにふけったり様々な男に身を任せたりするという放縦な生活を送っていました。
 ですから、クリス・マッキャンドレスの場合は、いろいろサポートしてくれる裕福な親の手を完全に離れて、自分自身の手で一から生活してみたいと強く望んで一人旅に出るのに対して、シュリルの場合は、荒んだこれまでの生活を逃れて自分を取り戻そうとして単独行に出るのです(注6)。
 言ってみれば、クリス・マッキャンドレスの視線は将来の方を向いているのに対し、シュリルの視線は過去に向かっています。
 その結果、クリス・マッキャンドレスにとっては、旅の間で出会う人々との関係が重要ですが、シュリルにとっては、旅の間で出会う人々よりも(注7)、むしろフラッシュバックとしての過去の映像が重要といえるでしょう、本作では煩いくらいに挿入されます。

 そうした違いはあるとしても、ふたりとも本来的な自分を取り戻したいと願っている点は同じように思えます。ただ、その場合にどうして、クリス・マッキャンドレスやシュリルは、無謀な一人旅に出ようということになるのでしょうか?
 クリス・マッキャンドレスの場合、文明から隔絶した生活を送ることで、自分を取り戻そうとするとはいえ、途中でなんどもヒッチハイクするなど、文明の利器の恩恵に預かっているわけですし、アラスカの荒野に放置されたバスの中で生活する段になると、これまで文明が蓄積してきた知識の持ち合わせがないことから、死に至ることになります。
 本作のシュリルの場合は、それほど無謀な旅を送るわけではありません。 ですが、所々に設けられているロッジには、友人のエイミーギャビー・ホフマン)などから一定の荷物が届くようになっていますし、また、元夫のポールなどに電話を入れることも出来ます。そうやって、旅を安全・確実なものにしようとすれば、自分探しの一人旅というコンセプトから離れてしまいかねないという問題が出てきます。

 どうも、「自分探しの旅」というものには酷く安易なイメージを持ってしまいます(注8)。
 それでも、本作のように、ずっと広がる砂漠地帯とか、雪が降り積もった山々などを3ヶ月もかかって一人で歩き通して、最後に「神の橋(Bridge of the Gods)」にたどり着いたシェリルを見ると、きっと何か自分を変えるものがあったに違いないとは思えてくるのですが。



(3)渡まち子氏は、「人生をやり直すために1,600キロの距離を3か月かけて1人で歩き通した女性の実話「わたしに会うまでの1600キロ」。リースが文字通り体当たりの演技をみせる」として75点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「3か月に及ぶシェリルの旅の記録に感動して映画化を決意したアカデミー賞受賞女優リース・ウィザースプーンが、彼女の潔い孤軍奮闘ぶりを小気味よく演じてすがすがしい」として★4つ(「見逃せない」)をつけています
 小梶勝男氏は、「カナダの映画監督ジャンマルク・ヴァレは、フラッシュバックの名手だ。若い女性が1600キロもの自然歩道を歩きながら、過去の出来事を様々に思い出していくこの作品は、まさにフラッシュバックの映画であり、ヴァレの手腕が存分に発揮されている」と述べています。
 真魚八重子氏は、「本作は編集が秀逸だ。一人きりの旅は終始、考え事のみで声もほとんど出さない。その内省が、回想は映像で、心の声は残響のエフェクトで表現される。これらの手法で、過去と現在はめまぐるしく往来し、ただ旅を写す映画とは異なる世界を生み出している」と述べています。
 藤原帰一氏は、「リース・ウィザースプーンは無表情に終始しますが、抑えた演技が母親の輝きを際立たせ、母の笑顔が娘の心に灯りを点します。演技の素敵な組み合わせです」と述べています。



(注1)監督は、『ダラス・バイヤーズクラブ』のジャン=マルク・ヴァレ
 原作は、シェリル・ストレイド著『わたしに会うまでの1600キロ』(雨海弘美訳、静山社:未読)
 なお、原題は「Wild」(原作の原題は「Wild: A Journey from Lost to Found」)。

(注2)またボビーは、子育てが終わると、シェリルと同じ学校に通い出したりするのです。

(注3)出演者の内、リース・ウィザースプーンは『MUD-マッド-』や『ウォーク・ザ・ライン』(2006年)で、ローラ・ダーンは『きっと、星のせいじゃない。』(ヘイゼルの母親役)で、それぞれ見ました。
 なお、ローラ・ダーンは本作で、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされています。

(注4)“Wild”をタイトルにしたものといえば、邦題では『人生スイッチ』となっているアルゼンチン映画『Wild Tales』(英題)がすぐに思い出されます。
 尤も、こちらの作品は、人が原野の中に踏み込むものではなくて、都市生活そのものの中に見出される人間のとても“wild”な側面を取り扱ったもの、と言えるでしょうが。

(注5)映画『イントゥ・ザ・ワイルド』の原作本はジョン・クラカワー著『荒野へ』(集英社文庫)。

(注6)ある面からすると、母親の死の重さに耐えかねてドラッグやセックスにはまり込んだのと同じように、自分探しというよりも、むしろ現実逃避のためにシェリルはPCTにはまり込んだのかもしれません(はまり込む対象は何でも良かったのでしょう!)。
 あるいは、PCTを歩くことによって、シェリルはドラッグの禁断症状を脱することが出来たとはいえないでしょうか?

(注7)むろん、シェリルだって様々な人に会います。
 8日目で、暖めずに食べることのできる食糧がなくなってしまった時に、家に連れて行って家庭料理をふるまってくれたフランクW・アール・ブラウン)とか、PCTに詳しくいろいろシェリルに情報を教えてくれながらも途中で脱落してしまったクレッグケヴィン・ランキン)など。
 なかでも、オレゴン州のアシュランドというところに行った時、シェリルは、ジェリー・ガルシア追悼集会を呼びかけていたジョナソンミキール・ハースマン)と出会って、ベッドインまでしています。



 なお、原作の作者のシェリル・ストレイドがPCTを歩いたのは26歳の時とされていて、ちょうどジェリー・ガルシアが亡くなった1995年に相当しています(映画撮影時のリース・ウィザースプーンは38歳位でしょうから、実際のシェリルよりも10歳位年齢が高いことになります)。

(注8)都会で人々に混じって生きていくことも、「自分探しの旅」に違いはないのではないでしょうか?なにしろ、上記「注4」で触れた『人生スイッチ』によれば、そういう生活の中にこそ“wild tales”が転がっているというわけですから。



★★★☆☆☆



象のロケット:わたしに会うまでの1600キロ
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at Home アットホーム

2015年09月11日 | 邦画(15年)
 『at Home アットホーム』を新宿バルト9で見てきました。

(1)友人からの情報で面白そうだと思ったので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭、主人公の和彦竹野内豊)が戸を開けると、そこは浴室で、男の子(隆史池田健斗)が倒れています。首輪が付けられ鎖で水道管に繋げられて監禁されています。
 和彦が「ここの子か?」と訊くと、その子は「うん」と答えます。
 さらに、「誰にやられた?母さんか?父さんか?」と訊くと、男の子が答えないので、和彦は「両方だな」と納得します。

 次いで、場面は、学校の授業参観の光景。和彦が隆史の父親として父兄の間にいます。
 先生が「森山君、発表してください」と言うと、隆史は立ち上がって、「ボクの家族」と題した作文を皆の前で読み始めます。「家族を紹介します。大きな桜の木の下に家はあります。……」

 場面は、食卓に座っている母親の皐月松雪泰子)、長男の坂口健太郎)、それに次男の隆史。
 長女の明日香黒島結菜)が帰ってきます。
 さらに、父親の和彦が「ただいま。ビールが飲みたい気分。今日は何?」と戻ってきます。
 皐月が「カレー」と答えて、一家全員で食事が始まります。



 明日香が「今日、どうだったの?」と訊くと、和彦は、お金とかクレジットカードなどを机の上に取り出します。
 皐月が「ご苦労様、ダーリン」と言うと、和彦は「プラス円山応挙の掛け軸がある」と言って、掛け軸を皆に見せます。
 すると淳が、「こういうのはダメ。現金だけ。危険なものは燃やす」と厳しく警告します。
 和彦は「これが本物だったら」と残念がるのですが。

 さあこれって一体どんな家族なのでしょう、………?

 こんな家族はとても実際に成立しそうにないのではという点を除いてしまえば(例えば、「性」の問題を無視すれば)、つまり現代のお伽話として受け止めれば、本作を楽しい気分で見ることが出来るのではと思いました(注2)。

(2)クマネズミに本作を紹介してくれた友人は、メールで、「宮部みゆきの長編小説に『理由』というのがあり、そこには本来、血縁のない人々が擬似家庭を営んでいたという前提があるが、本作の基礎もその意味で同様だ。ただ、物語をあまり深刻にしないという思惑があって、その分、筋書きがすこし雑な感もでてくる。だから、粗がたくさんあるが、受けとめ方を変えて、現代社会のなかでは、こうした擬似家庭のほうが住み心地がよい点があるのかもしれないと思わせるとしたら、結果がハッピーエンド的になるのも許容できる」と言っています。
 クマネズミも、『理由』は未読ながら、基本的にそのとおりだと考えます。

 ただ、ここで多少とも問題となるのは、「こうした擬似家庭のほうが住み心地がよい点があるのかもしれないと思わせるとしたら」と述べられていることであり、もっと言えば、果たしてこうした擬似家族がうまく成立するのだろうかという点ではないかと思われます。
 そのことを考える際に必要な観点の一つは性の問題ではないのでしょうか?

 本作で性が取り扱われていないわけではありません。
 むしろ、本作では、原作以上に現代の家庭内における性的な問題がクローズアップされているともいえます。
 例えば、長女の明日香は、父親から性的暴力を受けていて、絶望の余り鉄道自殺しようとしたところを皐月に救われたのです(注3)。

 とはいえ、それらは和彦らが構成することになった「森山家」における出来事ではありません。
 むしろ、本作の「森山家」では性的な事柄は話題に上らず、タブーになっているように見えます(注4)。
 ですが、「森山家」も家族である以上、性的なものは避けて通れないのではないでしょうか?
 一体、元々他人である和彦と皐月は、それに淳と明日香は、同じ屋根の下で暮らしているとしたら、どんな関係にあるのでしょうか?

 本作ではそこのところが回避されているように見えるため(注5)、なかなかおもしろい展開になっているとはいえ、現代のお伽話といった感じになってしまうのではないかと思えるのです。まあ、ファンタジーだとすれば物語を愉しめばいいだけのことですからり、そんなことを言い出したりしても、さらには「森山家」のメンバーが犯すいろいろな犯罪行為が放置されたままになっていることに対してことさら論ってみても、意味がなくなってしまいますが。

(3)渡まち子氏は、「擬似家族を描いた作品は過去にもあったが、それぞれが振り返りたくない暗い過去を背負った一家は、犯罪に手を染めながらそれなりに楽しく暮らしているというのが本作のユニークなところだ。もっとも、空き巣の父親と結婚詐欺の母親の稼ぎで生計が成り立つのか??学校はどうなってる??などのツッコミどころは多いのだが」として60点をつけています。
 小梶勝男氏は、「後半は家族愛が強調され過ぎて、物語がうそ臭くなってしまったが、偽の父親を演じる竹野内のどこか冷めた目が、「本物の家族」のうそ臭さも見抜いているようで、心に残った」などと述べています。



(注1)監督は蝶野博
 脚本は『ふしぎな岬の物語』の安倍照雄
 原作は本多孝好著『at Home』(角川文庫)。

(注2)出演者の内、最近では、竹野内豊は『ニシノユキヒコの恋と冒険』、松雪泰子は『謝罪の王様』、坂口健太郎は『海街diary』、長男・淳の実父役の板尾創路は『地獄でなぜ悪い』、淳が勤める印刷工場の経営者役の國村隼は『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』で、それぞれ見ました。

(注3)原作においては、親による育児放棄にために妹が死んでしまったことから、明日香は生きる気力を失ってしまって鉄道自殺しようとしたところに…、とあらまし書かれています(文庫版P.69~P.70)。
 隆史についても、空き巣に侵入した「家の柱に縛り付けられていた」のを和彦が救出した、とされています(文庫版P.69)。
 さらに、皐月については、「夫の暴力に疲れ果てて家を出た三十代半ばの女」と記されているに過ぎません(文庫版P.70)
 こうしてみると、原作においては、皐月、明日香、隆史の「森山家」以前のことについては、至極あっさりと述べられていることが分かります。

 これに対して、本作においては、「森山家」以前のことについて、ことさらのように様々なことが付け加えられています。
 明日香の父親の性的虐待もそうですが、隆史は、単に柱に縛り付けられていたというのではなく、ホラー映画「ソウ」のような状況に置かれているのです。また、皐月に対する夫(千原靖史)のDVも酷い有様です。
 なお、長男の淳の状況は、原作と余り変わりありませんが、原作では、両親から期待されている優秀な弟が存在しません。

(注4)ただし、原作では、皐月の結婚詐欺に関して、皐月が「どうせ、そろそろ(相手に)一発やらせてあげなきゃってとこだったし」と言うと、明日香が「そういうこと、中学生の娘の前で言う?」と突っ込み、それに対して皐月が「あら、中学三年なら、色々ご存じでしょうに」と受ける場面(文庫版P.26)などが描かれています。
 なお、原作では、続けて「寝るのは一度だけ。それが母さんのやり方だ」と淳が述べていて、次の「注5」の事柄にも関連しますが、和彦と皐月とは普通の夫婦関係にないことがほのめかされているように思われます。

(注5)ただし、原作では、ラストで淳と明日香が結婚したことになるために、一つの問題は解決している感じです。
 問題は、和彦と皐月の関係です。



 本作では、ペット店で、明日香を連れている皐月と、隆史を連れている和彦が出会ったことが描かれているだけです。原作でも、「あるとき、(皐月が結婚詐欺で)騙すために近づこうとした男には血のつながらない二人の息子がいた」(文庫版P.70)と述べられているに過ぎません。
 淳と明日香と隆史が家族の一員になることについては、ある程度の説明があるにもかかわらず、中心人物である二人に関しては一緒になる経緯がどうもよくわかりませんし、まして夜の「森山家」の様子など想像もつきません。
 ただ、原作においては、次のような場面が設けられています(文庫版P.53~P.55)。皐月を誘拐した男〔本作のミツル村本大輔)〕が、和彦らに皐月が無事なことを示そうとして、ノートパソコンの画面に全裸の皐月の姿を映し出します。ですが、顔が画面からはみ出ているため、和彦が「確かにあいつか?」と尋ねると、男は「女房の体見てわかんねえのかよ」と答えます。結局、「左の肘に見覚えのあるやけどの痕がある」ことで確認出来ましたが、わざわざこんな場面が描かれているところからすると、和彦と皐月の間には性的な関係が想定されていないようにも思われます。

 とすると、和彦と皐月は、他の場所に愛人を持っていることが考えられます〔最近流行りのセックスレス夫婦とも考えられますが、「淳坊は私のテクを知らないからね」と長男に言ってのける皐月(文庫版P.26)にそんなことはありえないのではないでしょうか〕。ただ、仮にそうであれば、「森山家」は、“家族”というよりも単なる同居人(それも、夜間は別の場所に移動してしまうような)の集合体に過ぎないものになってしまうのではないでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:at Home アットホーム
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ロマンス

2015年09月08日 | 邦画(15年)
 『ロマンス』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)『紙の月』でなかなかの演技を見せた大島優子(注2)が主役というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、小田急の特急ロマンスカーのアテンダント(客室乗務員)の鉢子大島優子)が車内販売をしています。
 「失礼いたします。車内販売でございます。ご注文がありましたら、お申し付けください」と電車の中で声を上げる一方で、「電車はいい。目的地があって、帰って来る場所も決まっている。迷いがなくてとてもいい。私は迷ってばっかりだ」などと、内心の声が聞こえてきます。

 次いで、鉢子の部屋。
 ベッドで寝ている男(窪田正孝)の顔を見て、ため息を付いて勤めに出ていこうとすると、男が起きだして、「1万円貸して」と言います。鉢子がいい顔しないものですから、男は要求額を千円まで引き下げます。それで、2千円ほど枕許に置いて、彼女は部屋を出ます。



 1階に降りて郵便受けを開けると、郵便物の中に母親(西牟田恵)からの手紙が入っていたので、それをバッグに入れて勤務先に向かいます。

 勤務先のロッカー室で制服に着替える際に、鉢子は、母親からの手紙をポケットにしまい込みます。
 それから事務室に入っていきますが、壁の張り紙を見ると、鉢子がロマンスカー賞を受けた優秀なアテンダントだということがわかります。

 上司からの注意事項を聞いた後に乗り込んだロマンスカーでは、同僚の美千代野嵜好美)が乗客とトラブルを引き起こしてしまいます。でも、そこは鉢子、上手に処理して車内販売を続けると、乗客の中年男(映画プロデュサーの桜庭大倉孝二)がワゴンからお菓子の箱を盗むのを目撃してしまいます。

 さあ、鉢子は、この後どうするのでしょうか、………?

 本作は、主演の大島優子の相手役が映画プロデューサーであるとか、また格好の観光地として名が通っている箱根が舞台でもあり、ケーブルカーとかロープーウエーの場面があったり、豪華なラブホまで登場して、まさに“ロマンス”を盛り上げるのにうってつけの設定となっていますが、逆に外見をわざとそうした作りにして観客の期待を外しにかかっているような感じがします。なにしろ、“ロマンス”に関係するのは、大島優子の扮するアテンダントが乗車するのが小田急の特急ロマンスカーというだけなのですから!それでも、よく行く箱根の風景がいろいろと出てくるので、それなりに楽しめましたが(注3)。

(2)タナダユキ監督の作品は、これまで『四十九日のレシピ』や『ふがいない僕は空を見た』、『百万円と苦虫女』(DVDで鑑賞)を見ましたが、いずれの映画においても随分と特色ある現代女性が描かれています。
 『四十九日のレシピ』では、子供がいないことで悩み、不妊治療をしたりした挙句、夫と上手く行かなくなり実家に戻る妻が主人公(永作博美)ですし(注4)、『ふがいない僕は空を見た』では、高校生とコスプレセックスに入れ込む主婦(田畑智子)が描かれています。また、『百万円と苦虫女』も、百万円貯金して家を出た若い女(蒼井優)の自立を巡るお話です。

 そうした登場人物に比べると、本作の主人公の鉢子は、アテンダントとして優秀であるにせよ、ずっと普通らしく見える女性のように描かれています。

 この点については、公式サイトの「INTRODUCTION」で、「しっかり者だが優柔不断で流されやすい一面もある北條鉢子」と述べられていたり、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「タナダユキが描く、“惑い”の中の女性たち」において映画ライター・塚田泉氏が「さしずめバカな女といったところ」と書いていたりします(注5)。下記の(3)で触れる渡まち子氏も、「仕事はできるがプライベートはグダグダの鉢子」と記しています。
 ただ、定職がなく小遣い銭も持たない同棲相手に少額のお金を置いていったりするぐらいのことは、26歳の女性にとって、それほど問題のある行動とも思えないところです。

 また、映画プロデューサーの桜庭の話に簡単に乗っかってしまう点についても、塚田氏は「やはり彼女に微妙な甘さがあったからだろう」と述べています。



 ですがこれも、何年も会っていない母親(注6)の手紙に「箱根にいる」とあり、もしかしたら死ぬ気かもしれないと言われたら、探してみようと思うのもそれほど不自然な行動でもないような気がします。
 鉢子は、そこら辺で見かけるごく平凡な女性と思えるところです(注7)。

 むしろ、よくわからないのは桜庭の方です。
 多額の負債を抱えて東京から逃げてきたはずにもかかわらず、レンタカー料金とか豪華ラブホテルのデラックスルームの料金を気前よく支払ったりする一方で、アテンダントのワゴンから菓子箱を万引きしてしまう金欠病ぶりを見せたりするのですから。
 また、「映画を作っている時は二度とやりたくないと思うけど、またやりたいと思ってしまう」などといかにも映画プロデューサーらしいことを口にする一方で(注8)、人相・風体がかなり貧弱で貫禄がなく(注9)、一般人が考えているようなプロデューサー像とはかなりかけ離れている感じがしてしまいます。
 要するに、桜庭はいわゆる「ダメ男」なのでしょうが、そんな人物が重責あるプロデューサーなどこなせるものなのでしょうか?

 新宿に戻った鉢子と桜庭は、何事もなかったかのように(事実何事もありませんでした)昨日の出発点に戻りますが(注10)、鉢子の方は直ぐに元の生活に立ち帰るにしても、桜庭の方は一体これからどうするのだろうかと、第三者ながらいささか心配になってしまいます。

(3)渡まち子氏は、「いつもダメ人間に優しいまなざしを向けるタナダユキ監督らしく、本作でもヒロインの欠点を決して否定しない。仕事はできるがプライベートはグダグダの鉢子が、少しずつダメな自分を認めていくプロセスが心地よい」として60点をつけています。



(注1)脚本もタナダユキ監督。

(注2)大島優子については、昨年末のこの記事では「一度、何かの作品でフルヌードになり、“女優魂”を見せつければ、世間の批判を沈めることができるのでは?」と書かれており、またタナダユキ監督も、『ふがいない僕は空を見た』で田畑智子の体当たり演技を映し出していますから、少しばかり期待させましたが、豪華なラブホテルでのごく常識的な入浴シーン止まりでした。

(注3)出演者の内、大島優子は『紙の月』で見ましたが、大倉孝二は『謎解きはディナーのあとで』、窪田正孝は『予告犯』で、それぞれ見ました。

(注4)実際には、主人公が戻った実家に入り込んでいるイモ(二階堂ふみ)の方が印象的でしたが。

(注5)塚田泉氏は、「それが1万円ならダメな女、きっちり千円ならまだ救いあり、そこに若干プラスしてしまう微妙な甘さを持つ鉢子」と述べています。

(注6)母親は、鉢子が小学生の時に離婚して、それ以来何人も男を引っ張りこんできてはうまくいかず、鉢子はそんな母親に愛想を尽かし、高校卒業時に親元を離れて一人で生活を始めたとされています。
 鉢子は「母親のことにいらついている自分が嫌になる」などと言いながらも、やはり母親ですから何かと気にもなるようです(箱根に家族で遊びに来た時のことをいつまでもよく覚えていたり、母親がよく歌っていた『いい日旅立ち』を歌ったりするのです)。

(注7)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、タナダユキ監督は「今回はちょっと肩の力を抜いて見られるような映画にしたかった」と述べているところからも、鉢子の性格はそれほど複雑に作られていないように思われます。

(注8)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、タナダユキ監督は、「(このシーンは)私もいつも考えていることです(笑)」と述べています。

(注9)桜庭が、「この映画は絶対当たります。50億は確実。真木よう子を確保しています」とか、「映画を作らないで後悔するよりも、作ってから後悔する方が」とか言って出資者を説得する回想シーンが挿入されていますが、貧相な人間によるあの程度の話で出資者が了解するものだろうかと訝しく思えてしまいます。

(注10)それぞれの思い出に相手のことがいくらかは残るにしても(そして、ある時、不意にその思い出が何かしらの作用をすることがあるにしても)。



★★★☆☆☆



象のロケット:ロマンス

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彼は秘密の女ともだち

2015年09月04日 | 洋画(15年)
 フランス映画の『彼は秘密の女ともだち』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)予告編を見て面白そうだなと思い、映画館に出かけてきました。

 本作(注1)の冒頭では、口紅を塗ったりまつげを整えたりと、女性の顔を化粧していく様子が映し出されます。そして、指輪を指にはめて、結婚行進曲が流れます。
 最後に、人の手によってまぶたが閉じられ、棺桶に横たわる女性の姿が映し出され、蓋が閉められてタイトルクレジットが流れます。

 場面は変わって、主人公のクレールアナイス・ドゥムースティエ)が7歳の時。
 学校のクラスで、転校生のローラが紹介されます。
 二人は直ちに友達となって、一緒にブランコで遊んだり、森の中を歩いたりし、ついには、ナイフで手に傷をつけて“永遠の二人”の誓いをします。

 大きくなって、ローライジルド・ル・ベスコ)がダヴィッドロマン・デュリス)と結婚し、しばらくしてクレールもジルラファエル・ペルソナ)と結婚します。
 ですが、ローラは、生まれて間もない娘・リュシーを残して病死してしまいます。

 冒頭の場面は、そのクレールの大親友のローラの葬儀。
 葬儀でクレールは、ローラの夫と娘を一生見守っていくと誓います。



 ですが、葬儀の後クレールは、哀しみの余りリュシーの世話をする気になれませんでした。
 そんな時、夫のジルが、「ダヴィドの様子を見てきたら」と言うものですから、クレールは、ジョギンしがてら、近くにあるダヴィッドの家を覗いてみると、………?

 本作は、主人公の親友が幼子を残して若死にしてしまい、その親友の夫が、女装して子どもを育てているという状況から物語が動き始めます。主人公は、親友に、子どもと彼女の夫のことは見守ると約束していたので、足繁くその家に出入りすることになり、その結果、…という展開です。状況設定が面白く、主人公の夫や親友の夫を演じる俳優は、これまでの映画でよく見かけていることもあり、まずまずの仕上がりの作品ではないかと思いました。

(2)本作に出演しているロマン・デュリスについては、これまで『ニューヨークの巴里夫(パリジャン)』や『ムード・インディゴ うたかたの日々』、『タイピスト!』、『メッセージ そして、愛が残る』、『Parisパリ』を見ましたが、それらの作品の中で、小説家、資産家、保険会社の社長、弁護士、元ダンサーといった様々の役柄を演じてきているところ、本作では女装する夫を演じるというので興味がありました。

 本作において、ロマン・デュリスが演じる夫・ダヴィッドは、クレールに、「結婚する前に、ローラには打ち明けていた。ただ、ローラが、人前では止めてねと言ったので、女装では外出していない。それに、ローラがいた頃は、そうした欲求は感じなかった。でも、彼女の死で、また始まってしまった。それに、僕だけだとリュシーが泣き止まないが、ローラの服を着て口紅を塗ると、彼女が喜ぶんだ」と説明します。



 ダヴィッドの女装は、単なる女装趣味というのではなく、ちゃんとした理由があるというわけです(注2)。
 そればかりか、ダヴィッドが、小学校以来の大親友であるローラの服を着たり化粧道具を使ったりするのです。
 次第にクレールは、こうした状況にのめり込んでいくようになります(注3)。

 本作で描かれている事態は、ある意味で、先に見た『あの日のように抱きしめて』と類似するような感じも受けたところです。
 クレールは、親友ローラの衣装を身にまとったダヴィッドを別人のヴィルジニアとして受け入れるわけですが、実際には中身がダヴィッドであることは知っているのです。それと同じように、『あの日のように抱きしめて』のジョニーは、エスターという名で現れた女性が、直観的には妻のネリーだとわかるものの、妻は強制収容所で死んだはずという先入観からそのことを理性的に認識出来ず、あくまでも別人だとして対応します。

 『あの日のように抱きしめて』では、結局、ネリーはジョニーの元を離れていきますが、本作のクレールとヴィルジニアは、7年後のラストの場面で、リュシューを学校に迎えに行き(注4)、さらに公園らしきところを3人で手をつないで楽しそうに歩いているのです(注5)。
 それでは、あのクレールの夫、『黒いスーツを着た男』で主役に扮し、アラン・ドロンの再来かと騒がれたラファエル・ペルソナが演じていたジルは、いったいどこに行ってしまったのでしょう?



(3)渡まち子氏は、「オゾンはいつもマイノリティに対して優しいまなざしを向けているが、現代社会はジェンダーも家族の血縁も、境界線は限りなくあいまいになっているようだ。深刻ぶらず、ちょっとコミカルに、かなりおしゃれに。これがオゾン流」として65点をつけています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「ゲイであることを公言するオゾンだが、これは同性愛の映画ではない。世に流されず、自分の心の声に耳を澄ます。多様な他者を理解し、正直に誠実に生きる。それはオゾンの映画に一貫するメッセージだ。ドゥムースティエとデュリスの繊細な演技が素晴らしい」として★4つ(見逃せない)をつけています。



(注1)監督・脚本は、『危険なプロット』(2013年)や『しあわせの雨傘』(2011年)のフランソワ・オゾン
 原題は、「Une nouvelle amie」(英題は「The New Girlfriend」)。
 ちなみに、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、フランソワ・オゾン監督は、「ルース・レンデルの短編「女ともだち」を基にしたんだ。……ある主人公の女性が、隠れ異性装者である親友の夫に興味を持ち「女ともだち」になるのだが、彼から愛を告白され愛し合おうとした時、彼女はふと我に返り、彼を殺してしまう、という物語だ」と述べています。

(注2)ただ、こうしたダヴィッドの説明に対して、クレールは、「リュシーのためというよりも自分のためだわ。変態だわ」と批判しますが。

(注3)幼い頃、樹の幹にハートのマークを刻み込み、更にその中にローラとクレーの名前をも書き入れたり、お互いの髪をとかしっこしたりと、二人の間には同性愛的な雰囲気があったのではないでしょうか。

(注4)ローラとクレールが出会った時と同じ年齢だと思われますから、リュシーも学校で格好の女ともだちを見つけることでしょう!

(注5)おまけに、クレールのお腹はどうやら子どもを身ごもっているようです。
 劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、クレールに扮したアナイス・ドゥムースティエは、「クレールが妊娠しているのはジルの子なのだろうか、ヴィルジニアの子なんだろうか、と少々あやふやですが、私自身の解釈としては、ヴィルジニアの子を身ごもっている、と思っています」と述べています。
 この時は、メインの物語から7年も経過していますから、状況的には、彼女が言うとおりではないかと思います。でも、映画の中で、ヴィルジニアの格好をしているダヴィッドからベッドで迫られると、クレールは、「あなたは男よ」と言って強く拒みました。それはそうするのではないかと思います。何しろ、クレールは、ローラの格好をしたダヴィッド=ヴィルジニアを受け入れたのであって、男としてのダヴィッドを受け入れたわけではないのでしょうから。
 そうだとすると、クレールのお腹の子は?
 ひとつ考えられるのは、この7年の間にクレールの方も変化し、ダヴィッドを受け入れられるようになったとする展開です(この場合には、クレールは、ジルと随分前に離婚していることになるでしょう)。
 もう一つ思いつくのは、クレールは、日中はヴィルジニアと付き合うにしても、ジルが帰宅する夕方からはジルの妻として振舞っているのではないか、という状況です。要するに、クレールとジルの家に、クレールの女友だちであるヴィルジニアとリュシーが同居しているのかもしれません。



★★★☆☆☆


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あの日のように抱きしめて

2015年09月01日 | 洋画(15年)
 『あの日のように抱きしめて』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)たまにはドイツ映画でも見てみようということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、1945年6月(注2)に、アウシュヴィッツ強制収容所から生還した主人公・ネリーニーナ・ホス)が、ユダヤ機関に勤める親友の弁護士・レネニーナ・クンツェンドルフ)と一緒に、車でベルリンに戻るところです。
 検問所で米軍兵士がその車を停止させます。
 レネが「収容所帰りだ」と説明したにもかかわらず、パスポートを見た兵士がネリーに顔を見せろと言い張ります。
 仕方なくネリーが、繃帯で覆われた顔を見せると、兵士は驚き、「悪かった、もういい」と言って車を通過させ、二人の乗った車は鉄橋を通って行きます。

 次いで場面はネリーとレネが暮らす家。



 レネは、「また散歩したのね?」と咎めます。
 今はベッドで横になっているネリーは、「誰がこの家の家賃を支払っているの?」とか、「一家は全滅なの?」といろいろ尋ねます。
 更に、「エスターは?」と訊くと、レネは「消息不明」と答え、「夫のジョニーは?」の質問には無言です。

 ネリーは形成外科に行きます。
 医者が、「どういう顔になりたいのですか?」と尋ねると、ネリーは、「元の顔に戻して」と答え、それに対して医者が、「それは難しい。新しい顔には、身元がバレないという利点もあります」と言うと、ネリーは「とにかく元の顔がいいのです」と応じます。
 それから麻酔注射が打たれて、顔の再建手術が行われます。

 退院したネリーは、レネが止めるのも聞かずに、ベルリンで夫のジョニーロナルト・ツェアフェルト)を探し歩き、とうとうアメリカ人向けのクラブ「フェニックス」で彼を見つけ出します。
 さあ、二人はどうなるのでしょうか、………?

 本作は、アウシュヴィッツ強制収容所から奇跡的に生還した女性が主人公。ピアニストだった夫を探しだして元の幸せな生活を取り戻そうとしながらも、顔に大怪我を負っていてその再建手術を受けたために、夫に再会しても、夫は妻であることに気づきません。さあどうなるのかというサスペンスドラマです。なかなか興味深い設定ながら、話に広がりが乏しくイマイチの感がありました。

(2)ドイツ映画といえば、本年3月に『陽だまりハウスでマラソンを』を見たものの、その前には『コーヒーをめぐる冒険』(2014年)とか『ゲーテの恋~君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」~』(2011年)や『ソウル・キッチン』(2011年)くらいでしょうか、映画館で見たのは(注3)。
 そんな数少ない事例から言うのもなんですが、ドイツ映画というと、総じてナチス物になりがちだと思えます。
 『コーヒーを巡る冒険』でも、「水晶の夜」の事件(1938年に起きた反ユダヤ暴力事件)を巡る話が出てきますし、本作も強制収容所に絡むお話です。

 と言っても、本作では、強制収容所自体は描き出されません。
 ただ、主人公が、そこで受けた仕打ちが、生還後の生活に大きく影響するのです。
 なにしろ、収容所で顔にひどい怪我を負ってしまい、収容所を出てから再建手術を受けなくてはならないほどなのです。
 その際、ネリーは、上記の(1)でも書きましたように、昔の幸福だった時の生活になんとか戻りたいと思っているために、是が非でも元の自分の顔に戻りたいと、形成外科に頼み込みます。

 でも、その手術はどのくらいうまくいったのでしょうか?
 退院後、ネリーが、昔知っていた人に再会すると、誰もが皆簡単にネリーだと識別するのです。
 ところが、肝心の夫・ジョニーだけは、面影はあるとしながらもネリーだとは思わないのです。



 ジョニーは、ネリーが「自分はエスターだ」というのを信じて、ある計画に引き込もうとして、エスターに、昔のネリーの筆跡やサインなどを練習させたりするのですが、エスターがいとも簡単に筆跡やサインを真似たりできるのを見ても(注4)、彼女がネリーだと気が付かないのです(注5)。

 要するに、ネリーに一番近づいていた人が識別できず、ある程度距離をおいていた人の方が識別できたことになります。
 もっと言えば、ジョニーにとって、自分の計画達成にとり、まさにピッタリのポジションにネリーが存在することになります。
 はたしてそんなことが起こりうるのでしょうか?

 とはいえ、不思議なことにネリーも、いつまで経っても「私はネリーよ」とジョニーに向かって言わずに、ジョニーの言うがままにエステーとして振る舞おうとするのです。
 これはあるいは、ジョニーが自分をネリーとしっかりと認めない限り、自分はまだ真のネリーではないとネリーには思えるからでしょうか。そして、逆に、ネリーが「私はネリーよ」と言わない限り、ジョニーの方も、エステーをネリーと認めないで済む僅かながらの隙間があるということなのかもしれません(注6)。

 あるいは、本作を、クルト・ヴァイルが1943年に作曲した『Speak Low』(注7)を巡る音楽劇のようなものと考えるならば、そんな賢しらごとを言ってみても意味がないということになるでしょう。
 なにしろ、その曲は、冒頭の場面とか、ベルリンのネリーとレネが暮らす家の中で(注8)、あるいはラストでネリーが歌ったりするなど、本作の主要な場面で何回も登場するのですから!

 とはいえ、『Speak Low』に思い入れがない者にとっては、本作が仮にそうした音楽劇まがいのものだとしても、もう少し物語に広がりを持たせるなどしてリアルに出来ないものかと思いたくなってしまいます(注9)。

(3)渡まち子氏は、「戦争の惨状をストレートに見せるのではなく、裏切りや後悔を背負いながら戦後を生きねばならない人間たちの心理サスペンスとして描いたペッツォルト監督の手腕と、「東ベルリンから来た女」でもタッグを組んだニーナ・ホスの繊細な名演が素晴らしい」として70点をつけています。
 藤原帰一氏は、「映画後半のサスペンスは、……巧みな設定に寄りかかった前半よりもずっと濃く、ずっとやるせない。ラストシーンは最近観た映画のなかでいちばんです」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『東ベルリンから来た女』(未見)のクリスティアン・ペッツォルト
 原題は『PHOENIX』。

(注2)本作の公式サイトの「イントロ&ストーリー」から。
 なお、劇場用パンフレットに掲載の松永美穂氏のエッセイ「死者が帰郷するとき」によれば、「妻が連行されてからベルリンに戻ってくるまで、わずか8カ月しか経っていない」とのこと。
 (ここらあたりの年月の数字は、クマネズミが映画を見た際には確認できませんでした)

(注3)DVDでは、『善き人のためのソナタ』、『白バラの祈り』や『ヒトラー 最期の12日間』などを見ていますが、どうしてもナチス物になってしまう感じです。

(注4)あるいは、昔ネリーが履いていた靴も、エスターの足のサイズに合っているのです。

(注5)クリスティアン・ペッツォルト監督は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、ジョニーがエスターについてあるいはもしかしたらと思う時があるが、それでもジョニーは、「妻は死んだ。この女は妻ではない。僕が組み立てているただの模型だ」と思うのだ、と言っています。
 なお、劇場用パンフレットに掲載のエッセイ「」において、高橋諭治氏は、「ジョニーが自分の妻だと認識できない理由」として、「戦時中に彼女をユダヤ人狩りから守りきることができ」なかったことと、自分の計画を成し遂げるためには「共犯者は“偽者のネリー”でなくてはならない」ことを挙げていますが、仮にそうだとしても、ジョニーにとってずいぶんと都合のいい存在になっているものだと思えてしまいます。

(注6)このインタビュー記事において、ジョニー役のロナルト・ツェアフェルトは、「彼(ジョニー)は彼女(ネリー)を認識することを自らに禁じる。「ネリーであるはずがない!夢に違いない。彼女は僕の前に立っている。何もかもがぴったりとくる。筆跡まで……だがそんなはずはない!」彼は無理やり否定するが、直観はまったく別のことを告げているんだ」と述べていますが、まさに認識と直感との間に隙間が出来てしまっているようにも思われます。

(注7)『Speak Low』については、例えば、このサイトの記事が参考になります。

(注8)劇場用パンフレットに掲載の前島秀国氏のエッセイ「愛の歌「スポーク・ロウ」が優しくささやきかけること」には、「本編で流れてくるSPレコードの「スピーク・ロウ」の録音は、クルト・ヴァイル本人がピアノを弾きながら歌った貴重な演奏が使用されている」と述べられていますが、あるいはこのURLで聞けるものと同一なのかもしれません。

(注9)本作についてもう一つ申し上げれば、ネリーは、レネが拳銃自殺したことを家政婦から聞きますが、たとえ世の中を悲観する理由がレネにあるにせよ、何もそこまですることもないのでは、と思ってしまいます。



★★★☆☆☆



象のロケット:あの日のように抱きしめて
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