『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。
(1)前編で謎だった事柄が後編でどのように解決されるのかということに興味を抱きながら映画館に足を運びました。
本作の冒頭では、前編の概要が提示されます。
後編の最初の場面は、回想シーン。
暗い部屋の中で、注射器を持った男(草剛)が、幼いエレンに注射をします。
男はエレンに、「少しチクっとするよ、いい子だ」と言いますが、母親らしき女が「自分の子になんてことを!」と叫びます。
男は、「爆発的細胞分裂がどうしたら起こるのか知りたいのだ」と答えるので、女は「それでも父親なの!」と非難します。
その時、クバル(國村隼)が率いる男たちが部屋に入ってきて、「先生、こんなに沢山の本をよく集めましたね。特定知識保護法違反です」と言って、本に火がつけられ、エレンの父親は連れて行かれます。
この様子を、エレンはソウダ(ピエール瀧)とともに、隠れた場所から密かに見ていました。
次いで、映画の現時点に戻ります。
エレン(三浦春馬)が滑り台のようなものに縛り付けられ、それをクバルの率いる男たちが銃を構えて取り囲んでいます(注1)。
クバルが話します。「人間は愚かだ。いつまで経っても争いを止めない。それでも、共通の敵が現れた時に、人類は一つになれるだろうと言われた。そして巨人が現れ、人類は壁を作った。それがよかった。壁によって人々は永遠の平和を手に入れた。しかし、巨人になれる人間がいたらどうなる?」。
そして、エレンに「君は人間なのか巨人なのか?」と尋ねます。
エレンは、「人間です」と答えますが、クバルは、「人間なら、一度断ち切れた手足が勝手に生えてきたりはしない」、「彼が巨人になるのを、そして巨人から出てきたのを皆が目撃した」と決めつけます。
この様子を見ていたアルミン(本郷奏多)が、「エレンは人間です。エレンは人類最後の希望です」と叫び、またハンジ(石原さとみ)は「これで巨人の謎が解けるかもしれない」とつぶやきます。
しかし、クバルは「君たちは反乱分子だ」と撥ねつけ、「撃て!」と叫んだ時に、鎧をつけた巨人が頭上に出現し、クバルらは落下してきた瓦礫の下敷きとなり、エレンはその巨人にさらわれてしまいます。
さあ、エレンの、そして人類の運命は、………?
本作では、巨大な壁が何のために構築されたのか、シキシマ(長谷川博己)とかクバルは何者なのか、などなどについて一応の説明は与えられますが、あまりおもしろい内容ではありません。それに、巨人と人間との戦いだったはずのものが、最後は巨人同士の戦いとなってしまっていたりして、なんだかよくわからない感じで終わります。総じて言えば、2部作をもっと切り詰めて全体で2時間半くらいの映画にするか(注2)、あるいは原作漫画が終了してから、その全体の構想を踏まえた上で実写化を図るべきだったのではと思いました。
(2)映画「進撃の巨人」は、前編で事件が描き出され、後編でその事件の謎が解明されるという映画「ソロモンの偽証」のような格好をとっているように思います。そうだとすると、アッと驚くような謎の解明がなされないと、後編は、映画「ソロモンの偽証」のように弛れたものになってしまいがちです。
まして、映画「進撃の巨人」の前編が、映画「ソロモンの偽証」の前編のような盛り上がりが見られないのですから、加えて、全体の最大の見所である超大型巨人が前編に登場してしまっているのですから、後編でよほどのことが描かれない限り、映画「進撃の巨人」の全体の評価は高いものとならないでしょう。
実際のところ、後編である本作では、種々の謎が説明されていきます。
上記(1)で述べましたように、クバルが一応の説明をしている上に、さらに、シキシマが、「白い部屋」でエレンに対し、これまでのことやこれからのことについて話をします。
例えば、「巨人の正体は人間だ」。
また、「百数十年前に、多くの人間が巨人になって殺し合いをし、人間の大部分は滅びた」。
さらに、「生き残った者は壁を作って、その中で暮らすようになり、その中で支配する者と支配される者とに分かれた」。
そして、「2年前に壁が崩れて巨人が壁の内側に現れたが、それは支配者側にとって好都合だった。人々の憎しみが自分たちから逸れて巨人に向けられるようになり、壁の外へ出ようと思う者もいなくなるから」。
要するに、支配者たちは、外界の異物を上手く利用することによって、支配下にある人々の自分たちに対する忠誠心を強化しようとしている、ということでしょう(注3)。
でも、これなら独裁者たちが過去から繰り返し行なってきたことではないでしょうか(注4)?わざわざ特別の部屋をあつらえて、登場人物がもっともらしく長々と喋ったりする必要がある事柄なのでしょうか?
次いで、外に出たシキシマらの乗ったトラックが、壁の修復のために使う不発弾を運んでいるミカサ(水原希子)らの装甲車に出会うと、シキシマは、「政府に反旗を翻す。内地に戻る。壊すべき壁はそこにある。巨人を中心部に流入させれば、現体制は崩壊する。人類の変革が始まる」と述べます。
でもこれでは、巨人の力を使ったクーデターを起こして(注5)、シキシマ自身が権力を握るということに過ぎないのではないでしょうか?
そう考えると、最後に勝ち残るエレンにしたって、「巨人になっても知性を失わない新しい人類だ」とシキシマに持ち上げられてはいるものの(注6)、クバルのような支配者側の人間にならないとも限らないのではないでしょうか(注7)?
そのクバルですが、2年前に、壁に穴を開ける超大型巨人として壁の向こう側に出現するところからすると、簡単に壁を行き来できるように思われます。
あるいは、壁というのは見せかけのもので(注8)、一般人には利用できない抜け道が元々密かに設けられているのではないでしょうか(注9)?
それに、不発弾を壁の上部に置いて爆発させると、どうして壁の穴が塞がれることになるのでしょうか?もしかしたらそういうことも起こるかもしれませんが、普通に想像されるのは、壁の上部が吹き飛ぶだけのことであり、低くなったところから巨人が壁をまたいで入り込むのではないでしょうか(注10)?
要すれば、ハンジやアルミンらの外壁を修復しようとする作戦は、本来的に壮大な無駄と言うべきもののように思えてしまいます。
とはいえ、本作における特撮映像は、前編と同じく眼を見張るものがあり、特筆に値するでしょう。特に、シキシマが鎧の巨人となり、巨人化したエレンと対決するあたりはすごいなと思いました。
ですが、全体として実写版の「進撃の巨人」は、まだ進行中の原作漫画を無理やり完結させようとして努力したものの(注11)、あっけなく跳ね返されてしまったという感じがするところです。
(3)渡まち子氏は、「すべての謎が明かされる後篇だが、ヴィジュアルの迫力は既視感があるせいか、前篇ほどの驚きはない。むしろシキシマが明かす巨人誕生の秘密に、人類の愚かさと底知れぬ欲望が垣間見えてゾッとするはずだ」として65点をつけています。
前田有一氏は、「結論からいうが、この後編もひどい出来栄えである。前作で猛威を振るったおバカさんたちの多くが早々に退場するので不快感は少ないし、前回指摘した設定上のおかしな点にそれなりの理由付けをしてある点には納得ができた。しかし、相変わらずありえない理屈にそそのかされる子供たち(兵団)のアホさ加減は健在である」として30点をつけています。
(注1)前編の最後は、巨人から出てきたエレンが目を開けるシーンでしたが、それとこの場面とがどのような経緯で繋がるのかはよくわかりません。
(注2)後編の上映時間は88分で、前編の概要が10分位流されますから、正味は1時間20分ほど。これでは、わざわざ1本にするまでもないように思われます(前編も98分で、合わせても3時間ほどの映画にすぎません。例えば、「るろうに剣心」の場合、『京都大火編』が139分、『伝説の最期編』が135分で、合計すると4時間半を超える長さです)。
それに、2部作にすると、例えば、前編で描かれていた人間を捕食するたくさんの巨人が、後編になると殆ど登場しなくなるというおかしさも目立ってしまうことになります。
(注3)でも、巨人の出現により支配体制が強化されるのであれば、なぜ支配者側は、壁の外の情報を秘密にしたり、人がそちらに出て行くことを禁止したりするのでしょうか?
巨人が幻想にすぎないということなら話は別ながら、実際に巨人は壁の外にいるわけですから、支配者側としては、様々なメディアを使って壁の外が恐ろしいことを人々に吹き込む必要があったのではないでしょうか?
(注4)例えば、ナチス・ドイツにおけるユダヤ人迫害。ヒトラーは、反ユダヤ主義を掲げることによって独裁権力を手中に収めます。
また、ナチスは、上記(1)で書いたような焚書を行っています。
(注5)「クーデター」については、この拙エントリの(3)をご覧ください。
(注6)エレンのような生まれつきの者が新しい時代を作るという見方は、それが極端に走ると、ヒトラーのゲルマン民族の優位性という考え方と容易に結びつくおそれがあるように思われます。
(注7)本作のエンドロール後に「実験体が二つ逃げ出した」という声が聞こえますが、劇場用パンフレットに掲載されている町山智浩氏のエッセイ「映画『進撃の巨人』の世界観が生まれるまで」には、「エンドクレジットの後の声は、エレンが出て行くのを監視していた中央政府の者たちです」と述べられています。
これに従えば、エレンだけでなくミカサも新しい人類の仲間であり、彼らは壁の外側に行ってしまうのかもしれません。そうなれば、壁の内側には、旧態依然たる体制がそのまま存続することになるでしょう。
(注8)元々、映画で描かれているような巨大な壁を、巨人に襲われる可能性が随分と高いにもかかわらず、どうやって100年前に人類は築きあげることが出来たのでしょう?
もしかしたら、壁とか巨人とかは、支配者側が創り出している幻想なのかもしれません!
(注9)例えば、鎖国令の下における長崎出島のように。
そう考えると、シキシマは、例えば、イギリスと手を結んで倒幕に走った薩摩藩や長州藩のような感じもします(尤も、迎え撃つ幕府側もフランスの協力を求めましたが)。
(注10)それに、いろいろ指摘されているように、クバルは自分で簡単に壁に穴を開けられるにもかかわらず、どうしてハンジらの外壁修復作戦を妨害しようとするのでしょう?
(注11)上記「注7」で触れているエッセイで、町山氏は、原作者の諫山創氏から、「完全に違う作品にしてほしい」と言われ、さらに「物語に完全決着をつけてほしい、ということになりました」と述べています。さらに、「終わらせるには倒すべき敵、本当の敵が必要になる」が、「エレンがいちばん憎んでいるものは何か、と考えると、人々を壁に閉じ込めた社会そのものだと。この壁のある体制を守っている者たちが実は敵なんだ」ということになった、と述べています。
とすると、クバルやシキシマが述べている事柄(いわゆる世界観でしょうか)は、原作のものではなくて、映画独自のものだということになるのでしょう。
★★☆☆☆☆
象のロケット:進撃の巨人 ATTACK ON TITAN END OF THE WORLD
(1)前編で謎だった事柄が後編でどのように解決されるのかということに興味を抱きながら映画館に足を運びました。
本作の冒頭では、前編の概要が提示されます。
後編の最初の場面は、回想シーン。
暗い部屋の中で、注射器を持った男(草剛)が、幼いエレンに注射をします。
男はエレンに、「少しチクっとするよ、いい子だ」と言いますが、母親らしき女が「自分の子になんてことを!」と叫びます。
男は、「爆発的細胞分裂がどうしたら起こるのか知りたいのだ」と答えるので、女は「それでも父親なの!」と非難します。
その時、クバル(國村隼)が率いる男たちが部屋に入ってきて、「先生、こんなに沢山の本をよく集めましたね。特定知識保護法違反です」と言って、本に火がつけられ、エレンの父親は連れて行かれます。
この様子を、エレンはソウダ(ピエール瀧)とともに、隠れた場所から密かに見ていました。
次いで、映画の現時点に戻ります。
エレン(三浦春馬)が滑り台のようなものに縛り付けられ、それをクバルの率いる男たちが銃を構えて取り囲んでいます(注1)。
クバルが話します。「人間は愚かだ。いつまで経っても争いを止めない。それでも、共通の敵が現れた時に、人類は一つになれるだろうと言われた。そして巨人が現れ、人類は壁を作った。それがよかった。壁によって人々は永遠の平和を手に入れた。しかし、巨人になれる人間がいたらどうなる?」。
そして、エレンに「君は人間なのか巨人なのか?」と尋ねます。
エレンは、「人間です」と答えますが、クバルは、「人間なら、一度断ち切れた手足が勝手に生えてきたりはしない」、「彼が巨人になるのを、そして巨人から出てきたのを皆が目撃した」と決めつけます。
この様子を見ていたアルミン(本郷奏多)が、「エレンは人間です。エレンは人類最後の希望です」と叫び、またハンジ(石原さとみ)は「これで巨人の謎が解けるかもしれない」とつぶやきます。
しかし、クバルは「君たちは反乱分子だ」と撥ねつけ、「撃て!」と叫んだ時に、鎧をつけた巨人が頭上に出現し、クバルらは落下してきた瓦礫の下敷きとなり、エレンはその巨人にさらわれてしまいます。
さあ、エレンの、そして人類の運命は、………?
本作では、巨大な壁が何のために構築されたのか、シキシマ(長谷川博己)とかクバルは何者なのか、などなどについて一応の説明は与えられますが、あまりおもしろい内容ではありません。それに、巨人と人間との戦いだったはずのものが、最後は巨人同士の戦いとなってしまっていたりして、なんだかよくわからない感じで終わります。総じて言えば、2部作をもっと切り詰めて全体で2時間半くらいの映画にするか(注2)、あるいは原作漫画が終了してから、その全体の構想を踏まえた上で実写化を図るべきだったのではと思いました。
(2)映画「進撃の巨人」は、前編で事件が描き出され、後編でその事件の謎が解明されるという映画「ソロモンの偽証」のような格好をとっているように思います。そうだとすると、アッと驚くような謎の解明がなされないと、後編は、映画「ソロモンの偽証」のように弛れたものになってしまいがちです。
まして、映画「進撃の巨人」の前編が、映画「ソロモンの偽証」の前編のような盛り上がりが見られないのですから、加えて、全体の最大の見所である超大型巨人が前編に登場してしまっているのですから、後編でよほどのことが描かれない限り、映画「進撃の巨人」の全体の評価は高いものとならないでしょう。
実際のところ、後編である本作では、種々の謎が説明されていきます。
上記(1)で述べましたように、クバルが一応の説明をしている上に、さらに、シキシマが、「白い部屋」でエレンに対し、これまでのことやこれからのことについて話をします。
例えば、「巨人の正体は人間だ」。
また、「百数十年前に、多くの人間が巨人になって殺し合いをし、人間の大部分は滅びた」。
さらに、「生き残った者は壁を作って、その中で暮らすようになり、その中で支配する者と支配される者とに分かれた」。
そして、「2年前に壁が崩れて巨人が壁の内側に現れたが、それは支配者側にとって好都合だった。人々の憎しみが自分たちから逸れて巨人に向けられるようになり、壁の外へ出ようと思う者もいなくなるから」。
要するに、支配者たちは、外界の異物を上手く利用することによって、支配下にある人々の自分たちに対する忠誠心を強化しようとしている、ということでしょう(注3)。
でも、これなら独裁者たちが過去から繰り返し行なってきたことではないでしょうか(注4)?わざわざ特別の部屋をあつらえて、登場人物がもっともらしく長々と喋ったりする必要がある事柄なのでしょうか?
次いで、外に出たシキシマらの乗ったトラックが、壁の修復のために使う不発弾を運んでいるミカサ(水原希子)らの装甲車に出会うと、シキシマは、「政府に反旗を翻す。内地に戻る。壊すべき壁はそこにある。巨人を中心部に流入させれば、現体制は崩壊する。人類の変革が始まる」と述べます。
でもこれでは、巨人の力を使ったクーデターを起こして(注5)、シキシマ自身が権力を握るということに過ぎないのではないでしょうか?
そう考えると、最後に勝ち残るエレンにしたって、「巨人になっても知性を失わない新しい人類だ」とシキシマに持ち上げられてはいるものの(注6)、クバルのような支配者側の人間にならないとも限らないのではないでしょうか(注7)?
そのクバルですが、2年前に、壁に穴を開ける超大型巨人として壁の向こう側に出現するところからすると、簡単に壁を行き来できるように思われます。
あるいは、壁というのは見せかけのもので(注8)、一般人には利用できない抜け道が元々密かに設けられているのではないでしょうか(注9)?
それに、不発弾を壁の上部に置いて爆発させると、どうして壁の穴が塞がれることになるのでしょうか?もしかしたらそういうことも起こるかもしれませんが、普通に想像されるのは、壁の上部が吹き飛ぶだけのことであり、低くなったところから巨人が壁をまたいで入り込むのではないでしょうか(注10)?
要すれば、ハンジやアルミンらの外壁を修復しようとする作戦は、本来的に壮大な無駄と言うべきもののように思えてしまいます。
とはいえ、本作における特撮映像は、前編と同じく眼を見張るものがあり、特筆に値するでしょう。特に、シキシマが鎧の巨人となり、巨人化したエレンと対決するあたりはすごいなと思いました。
ですが、全体として実写版の「進撃の巨人」は、まだ進行中の原作漫画を無理やり完結させようとして努力したものの(注11)、あっけなく跳ね返されてしまったという感じがするところです。
(3)渡まち子氏は、「すべての謎が明かされる後篇だが、ヴィジュアルの迫力は既視感があるせいか、前篇ほどの驚きはない。むしろシキシマが明かす巨人誕生の秘密に、人類の愚かさと底知れぬ欲望が垣間見えてゾッとするはずだ」として65点をつけています。
前田有一氏は、「結論からいうが、この後編もひどい出来栄えである。前作で猛威を振るったおバカさんたちの多くが早々に退場するので不快感は少ないし、前回指摘した設定上のおかしな点にそれなりの理由付けをしてある点には納得ができた。しかし、相変わらずありえない理屈にそそのかされる子供たち(兵団)のアホさ加減は健在である」として30点をつけています。
(注1)前編の最後は、巨人から出てきたエレンが目を開けるシーンでしたが、それとこの場面とがどのような経緯で繋がるのかはよくわかりません。
(注2)後編の上映時間は88分で、前編の概要が10分位流されますから、正味は1時間20分ほど。これでは、わざわざ1本にするまでもないように思われます(前編も98分で、合わせても3時間ほどの映画にすぎません。例えば、「るろうに剣心」の場合、『京都大火編』が139分、『伝説の最期編』が135分で、合計すると4時間半を超える長さです)。
それに、2部作にすると、例えば、前編で描かれていた人間を捕食するたくさんの巨人が、後編になると殆ど登場しなくなるというおかしさも目立ってしまうことになります。
(注3)でも、巨人の出現により支配体制が強化されるのであれば、なぜ支配者側は、壁の外の情報を秘密にしたり、人がそちらに出て行くことを禁止したりするのでしょうか?
巨人が幻想にすぎないということなら話は別ながら、実際に巨人は壁の外にいるわけですから、支配者側としては、様々なメディアを使って壁の外が恐ろしいことを人々に吹き込む必要があったのではないでしょうか?
(注4)例えば、ナチス・ドイツにおけるユダヤ人迫害。ヒトラーは、反ユダヤ主義を掲げることによって独裁権力を手中に収めます。
また、ナチスは、上記(1)で書いたような焚書を行っています。
(注5)「クーデター」については、この拙エントリの(3)をご覧ください。
(注6)エレンのような生まれつきの者が新しい時代を作るという見方は、それが極端に走ると、ヒトラーのゲルマン民族の優位性という考え方と容易に結びつくおそれがあるように思われます。
(注7)本作のエンドロール後に「実験体が二つ逃げ出した」という声が聞こえますが、劇場用パンフレットに掲載されている町山智浩氏のエッセイ「映画『進撃の巨人』の世界観が生まれるまで」には、「エンドクレジットの後の声は、エレンが出て行くのを監視していた中央政府の者たちです」と述べられています。
これに従えば、エレンだけでなくミカサも新しい人類の仲間であり、彼らは壁の外側に行ってしまうのかもしれません。そうなれば、壁の内側には、旧態依然たる体制がそのまま存続することになるでしょう。
(注8)元々、映画で描かれているような巨大な壁を、巨人に襲われる可能性が随分と高いにもかかわらず、どうやって100年前に人類は築きあげることが出来たのでしょう?
もしかしたら、壁とか巨人とかは、支配者側が創り出している幻想なのかもしれません!
(注9)例えば、鎖国令の下における長崎出島のように。
そう考えると、シキシマは、例えば、イギリスと手を結んで倒幕に走った薩摩藩や長州藩のような感じもします(尤も、迎え撃つ幕府側もフランスの協力を求めましたが)。
(注10)それに、いろいろ指摘されているように、クバルは自分で簡単に壁に穴を開けられるにもかかわらず、どうしてハンジらの外壁修復作戦を妨害しようとするのでしょう?
(注11)上記「注7」で触れているエッセイで、町山氏は、原作者の諫山創氏から、「完全に違う作品にしてほしい」と言われ、さらに「物語に完全決着をつけてほしい、ということになりました」と述べています。さらに、「終わらせるには倒すべき敵、本当の敵が必要になる」が、「エレンがいちばん憎んでいるものは何か、と考えると、人々を壁に閉じ込めた社会そのものだと。この壁のある体制を守っている者たちが実は敵なんだ」ということになった、と述べています。
とすると、クバルやシキシマが述べている事柄(いわゆる世界観でしょうか)は、原作のものではなくて、映画独自のものだということになるのでしょう。
★★☆☆☆☆
象のロケット:進撃の巨人 ATTACK ON TITAN END OF THE WORLD