映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

川村清雄展

2012年12月03日 | 美術(12年)
 江戸東京博物館で開催されている「川村清雄展」に行ってきました。

 最近刊行された画家の山口晃氏の『ヘンな日本美術史』(祥伝社、2012.11)(注)の最後の章「やがてかなしき明治画壇」のそのまた最後の節に「西洋絵画の破壊者―川村清雄」とあって、川村清雄が取り上げられているところ、丁度折良くその大回顧展が開催されていたので足を運びました。

 実のところ、川村清雄については、『江戸城明渡の帰途(勝海舟江戸開城図)』をチラと見たことがあるくらいで、名前も定かではありませんでした。



 ですから、山口氏の著書に、雪舟とか若冲、暁斎などと並んで彼の名前が記載されているのを見て、とても奇異に思いました。
 でも、その著書に、徳川歴代の肖像画について、「西洋画の奥行き表現を大胆に壊しながらも、全く異質な空間を現出させる。そのために油彩の描法を崩す。単純に言うと、こういう事が清雄の絵では起こっています」と述べられていて(P.249)、展覧会で展示されている絵を見てみると、よく分からないながらも、納得できる部分もあります(下記は『徳川慶喜像』)。



 要すれば、「清雄がした事は、単純に両者(東洋と西洋)の技術を一つの画面の中に混ぜ合わせたと云う、一般的な意味での融合ではない」ということなのでしょう(P.247)(注)。

 なお、本展覧会については、美術評論家の高階秀爾氏が、毎日新聞の「目は語る・アート逍遙」欄の記事において、「清雄の全貌を示す代表的絵画作品約100点と、主として川村家に残された多くの歴史資料100点あまりを揃えた贅沢な内容の催しである」と述べています(注)。



(注)同書については、拙ブログの本年11月20日付エントリの「注6」においても若干触れております。

(注)本展覧会カタログの関東に掲載された同氏による特別寄稿「歴史の中の川村清雄」には、「川村清雄は、日本近代絵画の歴史の上で、決して孤高の画家ではなく、むしろ当時の国際的芸術環境のなかに身を置いてそこからたっぷりと養分を摂取して独自の芸術を成熟させ、その活動を通じて近代絵画の発展に大きな役割を果たした画家と位置づけるべき存在なのである」と述べられています(P.12)。
 なお、同エッセイによれば、「川村清雄の成し遂げた画業を改めて見直し、その正当な位置を恢復しようという機運がようやく明らかになって来たのは、1970年代の末頃からであ」り、「この再評価の動きに大きな役割果たしたのは川村清衛氏(清雄の長男)であ」って、高階氏はその「清衛氏の知遇を得」たとのこと。

(注)東洋と西洋の絵画の「融合」に関しては、京大准教授の高階絵里加氏による論考「フランスへ渡った日本―川村清雄の《建国》について―」においては、特に晩年に川村清雄によって描かれフランスのオルセー美術館に収められている『建国』(1929年)について、「写実的な個々のモティーフをある秩序に従って構成・配置し、ひとつの思想や理念を表現するという西洋正統派のやり方は、画中のあらゆる要素が絵の主題にむすびつく《建国》にも、はっきりとあらわれている」、「主題とモティーフそのものに加えて、金地背景、浅い空間、画面の縁によるモティーフの切り取り、画中に措かれていない太陽を暗示的に表す手法などは、日本ないし東洋美術の手法に範を取っている」、「描写における写実性と理想にもとづく構築性という西欧美術の伝統と、装飾性、暗示性と明るく軽快な構成という日本美術の伝統とが、ここでは計算しつくされた意匠のうちに結びついている」などと述べられています(P.12~P.13)。
 そして、「画伯は、東洋的なものと西洋的なものとを、それぞれの特質を消すことなくして、ある種の遠い幻影のうちに融合しました」と述べるコレージュ・ド・フランス教授シルヴァン・レヴィの受贈式演説に対して、高階氏は「この言葉は十分に納得のゆくものである」と記しているところです(P.13)。



 クマネズミとしても、ごく単純に、下記の『梅と椿の静物』のような随分と日本画的なものと、『』のような西洋画的なものを「融合」すると『建国』ができあがるのでは、などと考えてみたくなってしまいます。





 ただ、同論考においても、「背景は装飾的に塗りつぶされているが、鶏の足の部分に見える影などから、地面は奥行きのある空間としてある程度意識されていることがわかる」とあり(P.8)、山口氏に近い見解も見られるところです。
 どうやら何回も川村清雄の絵画を見てみる必要がありそうです。

 なお、同論考のことは、山口氏の著書で知りました(P.242)。
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ドビュッシー展

2012年10月06日 | 美術(12年)
 ドビュッシー生誕150年を記念してブリヂストン美術館で開催されている『ドビュッシー 音楽と美術 印象派と象徴派のあいだで』(~10月14日)を見てきました。

 なんだか本ブログのラインに沿った企画だなと思って、随分と期待して美術館に出かけたところですが、展示内容自体はそれほどでもありませんでした。

 確かに、ドビュッシーを巡る様々の絵画がよく集められていると思います。
 例えば、マルセル・バシェクロード・ドビュッシーの肖像」(1885年)。



 ただ、この展覧会に集められている絵画のかなりのものは、ドビュッシーに影響を与えたと考えられる作品(絵画⇒ドビュッシー)と言えそうです。
 すなわち、同展覧会を案内する公式HPに掲載されている記事には、ドビュッシーは「ドガ、ルノワール、モネ、ヴュイヤール、カミーユ・クローデル、モーリス・ドニ、ボナール、ルドンら印象派やポスト印象派、象徴派の美術家たちの作品に多大な関心を寄せるようになったのです。彼は、しばしばそれらからインスピレーションを得て、自らの創造活動に反映させました」とあり(注1)、展覧会では、それらの画家の作品が多数並べられています。
 なかでも、「第9章 霊感源としての自然」の部屋では、やっぱり印象派の絵画が目立ちます。
 例えば、ブリヂストン美術館所蔵のクロード・モネの「睡蓮」。



 しかしながら、ピアニストで文筆家の青柳いずみこ氏は、つとに、『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』(1997年)において、ドビュッシーは「印象派の画家たちがなしたのと同じ種類の革命を、作曲技法上にもたらしたといえる。しかし、技法上の類似と美学的な意味は違う。少なくとも美学的には、ドビュッシーは印象派の影響を何も受けていない」と明快に述べているところです(中公文庫版P.126)。

 また、同じ青柳いずみこ氏による最近著『ドビュッシーとの散歩』(中央公論新社 2012.9)にも、「ドビュッシーは、モネなど印象派の画家たちのように、目に見えたものをそのまま楽譜に写しとろうとした人ではなかった」と述べられています(P.208)。

 もうここらへんで、ドビュッシーとモネの「睡蓮」などを関係づけることは止めにしたらどうでしょうか?

 そして、ここまでくればさらに、逆方向の絵画、すなわち、ドビュッシーの作曲した作品にインスピレーションを得て描かれた絵画(ドビュッシー⇒絵画)というものも考えられるのではないでしょうか?

 ですが、今回の展覧会においてそうした方向性に関連した絵画があるとしたら、せいぜい次のパウル・クレーの「」(1932年)くらいでしょう。
 ブリヂストン美術館のHPに掲載されている記事によれば、クレーは、同作品において、「「ポリフォニー」という音楽の方法論を絵画の世界に取り入れ」たとのこと。
 ただ、残念ながら具体的な曲との繋がりは判然としておりませんが(注2)。




 なお、上で取り上げた青柳いずみこ氏の『ドビュッシーとの散歩』には、実に楽しいエッセイが沢山掲載されているところ、例えば、「21 カノープ」では、ドビュッシーの「前奏曲集第2巻」の第10曲「カノープ」と、「エドガー・アラン・ポーにもとづくドビュッシーの未完のオペラ『アッシャー家の崩壊』(1908~17)」とのつながりが指摘されていて興味深いものがあります(注3)。
 すなわち、同曲では、「全音音階の響きのなかで、嬰ハ音が何度もリピートされ、半音階的に動く。一オクターヴ上がって、もう一度同じことをくり返」しますが、「この連打音のモティーフ」は、「未完のオペラ『アッシャー家の崩壊』からの転用」なのです(P.113)(注4)。
 そんなことが分かって、これまた青柳いずみこ氏が最近出したCDアルバム『ドビュッシーの神秘』の11番目に収められている「カノープ(エジプトの壺)」を聴くと、その面白さが一段と増すように感じられます。

 最後に、当ブログの趣旨からすれば、ここで映画というわけになるところ、クマネズミが専ら頼りにしている青柳いずみこ氏の『ドビュッシーとの散歩』の「12 雨の庭」では、「ちゃんばら映画も大好きで、いちばん苦手なのがジャズと洋画である」と明言されていて(P.66)、手がかりがみつかりません。
 ここは、来春公開されるという邦画『さよならドビュッシー』を待つことといたしましょう!



(注1)つまらないことですが、この文章で挙げられている画家などのうち、「ヴュイヤール、カミーユ・クローデル、モーリス・ドニ、ボナール」は、「印象派やポスト印象派、象徴派」に属さないのではと思われます。

(注2)上で取り上げた青柳いずみこ氏の『ドビュッシーとの散歩』の「36抽象画ふうに」では、ドビュッシーの『前奏曲集第2巻』の第11曲「交替する3度」が取り上げられているところ、同氏は、「楽曲が連想させる絵画は、もちろんモネではなく、ターナーでもなく、マチスやルオーでもなく、たとえばミロやクレーなどの抽象画だ」と述べられています!

(注3)同エッセイは、このサイトの記事で読むことができます(単行本の出版に当たり加筆されているかもしれません)。

(注4)ドビューッシーとポーの『アッシャー家の崩壊』との関係性などについては、このサイトの記事が大変興味を引きます(尤も、青柳いずみこ氏の文章ですから当然ですが!)。

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青山杉雨展

2012年08月17日 | 美術(12年)
 8月の冒頭で取り上げた「フェルメール展」に引き続いて、上野の東京国立博物館で開催されている「青山杉雨の眼と書」展(~9月9日)に行ってきました。
 こちらは、同じ上野でほぼ同時期に開催され大賑わいのフェルメール展とは打って変わって、地味なことこの上なく、鑑賞者もパラパラとしか見当たりません。
 作品を鑑賞する上では絶好といえるものの、むしろ淋しさを感じてしまいます。

 クマネズミは書を嗜む者では全然ありませんから(注1)、見ても分かるのかなという一抹の不安がありましたが、全体としてまずまずの印象を持ちました。

(1)と言っても、面白いなと思ったのは、例えば、次のような書です〔「萬方鮮」(1977年)〕。



 本作については、展覧会カタログにおいて、「古代文字を素材とし、それを現代的な感覚で体現することに成功した、青山杉雨の傑作の一つである」と述べられています(P.240)。

 あるいは、この書〔「黒白相変」(1988年)〕。



 この作品については、公式サイトのブログの説明で「筆順を考えたり、絵のように想像して眺めたり」と述べられている点に興味を持ちました。

 更には、こんな書〔「旭日昇天」(1989年)〕でしょうか。



 拙ブログのこのエントリの「ホ)」で触れた書家・石川九楊氏の『近代書史』においては、「この作品を目にし、「旭日昇天」の句に鼻白みつつも、図版ではうかがい知れない筆勢の存在感(リアリティ)には、なるほどこのあたりに書壇を統率する力があるのかと納得した」と書かれています(P.628)(注2)。

(2)ところで、上記の「萬方鮮」について、展覧会カタログには「古代文字」とあり、さらに「篆書の持つ構築的な強さを主軸としつつ」と書かれており、また「黒白相変」についても、展覧会カタログにおいて、「石鼓文の面白さを発展させた作」と述べられているところ、展覧会の展示では(及びカタログにおいても)それらのことについてまったく何も解説が与えられていません。
 単に、作品が並べて展示してあるに過ぎません。

 そこで、家に戻ってからWikipediaであれこれ調べてみますと、例えば、「萬方鮮」の「」は篆書体のそれによく似ています。



 また、「鮮」の旁の「」は金文のそれに類似しています。



 さらに、例えば、「黒白相変」の「」も、金文のそれのような感じを受けます(注3)。



 中国の古代文字のことなど何も知らないクマネズミは、青山杉雨のこれらの作品を見て、当初は、随分と独創的な大層変わった書をものす書家だなと大変驚いたのですが、こうして調べてみると、基本的なところ(文字の形)は古代文字そのものなのだな、それを十分に踏まえた上でいくつかの面で(文字の構成の仕方、その配置、その大きさ、筆勢など)独創が加えられているようだな、とおぼろげに分かってきます(注4)。

(3)そうなると、いったいこの展覧会はどういう人を対象に開催されているのか、といささか疑問に思ってしまいました。
 古代文字とか篆書などに詳しい人ならば、いうまでもなく、これらのことについて詳しい解説など不要でしょう。
 ですが、公式サイトに添えられているブログの感じからしても(注5)、今回の展覧会が、そんな特別な人ばかりを対象としているとはとうてい思えないところです。

 むろん、素人はそんなところまで知る必要はなく、ぱっと見て何か感じるところがあればそれでいいのだ、というわけなのかも知れません(注6)。あるいは、抽象絵画を見る時だってそうしているではないか、というのでしょう。
 ただ、この展覧会は抽象絵画の展覧会ではなく書の展覧会のはずであり、そうであるならば、いったい何の文字がどのようにして書かれているのかを素人にも分からせるような何かしらの創意工夫が必要なのではないでしょうか?

 展覧会の展示方法を少々改めて、展示作品数をもう少し絞り込み、それぞれについて、素人でもある程度理解できるような解説を与えたり、あるいは特別な解説コーナーを設けたりするなどして、一般人にも親しみの持てるようなことを今ひとつ考えてくれたらなと思ったことでした(注7)。





(注1)このブログで書(あるいは書道)に触れたのは、小野道風筆の「屏風土代」及び聖徳太子筆の「法華義疏」を取り上げたエントリとか、映画『書道ガールズ』及び『書道の道』を取り上げたエントリとかに過ぎません。

(注2)石川九楊氏は、青山杉雨の師である西川寧との違いという点から、さらに次のように述べています(P.629)。
・「青山は一気にではなく、一つの画を何回かに区切るように分節して掻く」。
・「進行するにしたがって力が漸減するという傾向を持っている」。
 こうした観点から「旭日昇天」についても分析を加えていますが、ぐっと作品に近づけるような気がします。

(注3)展覧会カタログで言う「石鼓文」をWikipediaで調べても、青山杉雨の「黒白相変」との直接的・具体的なつながりはよく分かりません。

(注4)本来的には、例えば、「黒白相変」について言えば、唐の時代に発見されたとされる「石鼓文」自体、そしてそれに取り憑かれた呉昌硯の「臨石鼓文軸」や青山杉雨自身の「臨石鼓文」といったもの(両作とも本展覧会で展示されています)を見比べて、青山杉雨の独創性のありかを究明すべきでしょうが、とうてい素人がなし得るところではありません!

(注5)今回の展覧会では、さらにワークショップ「親子書道教室」まで開催されていますが、はたして、子どもたちはこの展覧会を興味を持って見続けることができるでしょうか?

(注6)展覧会カタログにおいては、「萬方鮮」について「書と絵が交錯したような、独自のスタイルをそなえた作品である。方形の紙面に、抑揚を利かせた筆勢と大胆な墨の変化がマッチしており、古代文字の持つデザイン性が遺憾なく発揮され」云々とあり(P.251)、また「黒白相変」についても、「石鼓文の造形の面白さを発展させた作。〈黒〉と〈白〉という相対する文字のフォルムが実に絶妙であり、生涯にわたり停まることなく変貌し続けた青山杉雨ならではの見事な展開である」云々とありますが(P.258)、その程度のことなら、わざわざことごとしく述べていただかなくとも、素人でも見ただけでわかるでしょう〔なお、「旭日昇天」に関しては(P.259)、青山杉雨が本作につき話していることの簡単な引用に過ぎません!〕!

 さらに言えば、このエントリでは取り上げませんでしたが、今回の展覧会では、「千里馬」という作品が展示されています。そして、こ作品の「馬」について、展覧会カタログの解説は、「千里であろうと万里であろうと走りつづけようとという躍動感溢れるこの馬は、まさしく「駿馬」である」云々と述べています(P.265)。しかしながら、この「馬」は、「金文」とか「篆書体」を十分に踏まえて書かれていると思われるにもかかわらず、その点についての指摘が何らなされずに、素人的な単なる印象を書き連ねたものとなっているのはとても不思議です(「馬」の字は、元々その姿を象ったものであり、それにどのような工夫を加えて青山杉雨は「駿馬」に仕立て上げたかについて、専門家なら具体的に分析して欲しいと思います)。

(注7)展覧会の会場には、8分間のVTRが繰り返し上映されているコーナーが設けられていたり、青山杉雨の書斎が再現されたりしていますが、そしてそれらは青山杉雨の人となりを理解する上でなかなか興味深いものの、肝心の作品自体をもっと具体的に理解させるような工夫をもう少ししてもらえたらなと思うところです。


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フェルメール展

2012年08月01日 | 美術(12年)
 フェルメールに対する世の関心の高まりは、今や最高潮に達しているといえるかもしれません(注1)。

(1)クマネズミも、そうした流れに乗り遅れまいと、東京都美術館で開催されている「マウリッツハイス美術館展」(~9月17日)に行ってきました。
 勿論、お目当てはフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」です。
 出かけたのが土曜日の午後だったものの、チケット売り場や入口で並ぶこともなく、簡単に中に入れましたので、今日はツイテいるな(あるいは、真夏の暑い盛りに美術館に行こうという物好きも少ないのかな)と思ったところ、「真珠の耳飾りの少女」が置いてある部屋の入口から中を覗くと、やっぱり黒山の人だかり。
 これじゃあ何時間も待たなくては絵を見ることが出来ないのではと悲観しましたが、入口で、「最前列で絵を見たい方は、左側の列にお並びください。30分ほどで見ることができます」と案内係の女性が言っています。
 それなら、最前列でなければどうかと目を凝らすと、絵の前に10人ほどの人がいるだけ。
 どうやら、最前列で見たい人に対しては規制がなされている一方で、そうでない人は自由のようなのです。
 クマネズミは、別に2列目、3列目でも、絵を見さえすれば十分と思っているので、喜びいさんで部屋の中に入りました。
 すると、目的の「真珠の耳飾りの少女」の前には1列分空けてロープが張ってあり、ずっと並んで待っていた人がロープの前を次々と足早に通り過ぎていくではありませんか。案内係が、「お待の方が大勢いますので、立ち止まらないでください」と規制していて、なんのことはない、20~30分待った挙句に、チラッと絵を見ただけでその場を通り過ぎなくてはならないのです。
 他方、そのロープの外に立つ我々は、前に人が次々に入るものの、立ち止まらずにどんどん流れて行くので、そんな人たちの間からでも、じっくりとその絵を見ることができるというわけです。
 おまけに、大部分の人は列に並ぶ方を選択し、ロープの外から見ようとする人の数はごく少なく、結果として、自分がいたいだけそこにいて絵を見ることができるのです。
 見たい絵の前で立ち止まってよく鑑賞しようというのは、至極当たり前の行動です。いくら大勢のお客さんがいるからといっても、それができない、またそれができなくてもかまわないというのは、何か非常におかしな感じがします。そのくらいならば、最近の進んだ技術で作られている画集で絵を見る方が、遥にましなのではないでしょうか。

(2)それはともかく、お目当ての絵を見てしまったので、時間が予定よりも余ってしまい(注2)、それならついでに、近くの国立西洋美術館で開催されている「ベルリン国立美術館展」(~9月17日)のフェルメールをも見ようと、そちらの方にも足を延ばしました。
 こちらでは、「真珠の首飾り」を見ることができます。



 驚いたことに、東京都美術館では、話題の絵を見るのに30分ほどかかるとされていたのに対し、こちらでは比較的閑散としているのです。同じフェルメールの絵なのに、どうしてこうも人々の関心が異なってしまうのでしょうか?
 あるいは、前者の主催者として朝日新聞社とかフジテレビジョンが掲げられているのに対して、後者の後援のマスコミとしてTBS一社しか挙げられていないためなのかもしれません。
 クマネズミにしてからが、まずはとりあえず「真珠の耳飾りの少女」を見なくては、と思っていたのですが、よく考えてみると、何故そういう気になったのか、自分自身でよくわからないところでもあります。まあ、新聞やTVでよく目にする方、そのPRの仕方の上手な方に関心が行ってしまった、というしかありません(注3)。

(3)それにしても、本年は、フェルメールの絵を随分と見たものです。
 昨年末から本年3月まで渋谷Bunkamuraのザ・ミュージアムで開催されていた「フェルメールからのラブレター展」では、「青衣の女」、「手紙を書く女」、「手紙を書く女と召使い」の3作品を見ました(注4)。

 それから、フェルメールセンター銀座で開催されている「フェルメール光の王国展」(~8月26日)です。
 同展は、「現存する全フェルメール作品を最新のデジタルマスタリング技術によって、彼が描いた当時の色調とテクスチャーを推測して、原寸大で、所蔵美術館と同じ額装を施して一堂に展示する」というもので(注5)、実際にフェルメールの37点の全作品(注)がずらっと壁に掛けられて並んでいる様は、いくらコピーとはいえ、壮観です。

 同展でとりわけ興味深かったのは、館長の福岡伸一氏が英国王立協会で発見したスケッチ画(レーウェンフックの書簡に挟み込まれていました)を紹介するコーナーです。
 福岡氏は、顕微鏡で著名なレーウェンフックと画家のフェルメールとの関係に関して、次のような事実を挙げます(注6)。
・レーウェンフックは、フェルメールと同じ1632年10月にオランダの小都市デルフトに生まれ、4日違いで同じ教会で洗礼を受けたこと。
・レーウェンフックは、フェルメールの死後、彼の遺産管財人となったこと。
・フェルメールの作品「地理学者」と「天文学者」は、レーウェンフックを描いたのではないかとする研究者がいること。



 そのようなことから、福岡氏は、次のような仮説を立てます。
・狭いデルフトの街で、二人の距離は想像以上に親密だったのではないか。
・二人は光学的な興味を共有していたのではないか。

 そして、さらに福岡氏は、ロンドン王立教会に送られたレーウェンフックの書簡に挟み込まれていた顕微鏡観察のスケッチ画に衝撃を受け(注7)、レーウェンフックの初期の書簡には、“自分で上手に描くことはできないので、熟達の画家に依頼した”と記されていることもあって、それらのスケッチ画の作者がフェルメールである可能性を示唆しているのです(注8)。




(4)福岡伸一氏は分子生物学者ですが、他方、哲学者もフェルメールに着目しています。
 昨年末に翻訳の出た、フランスの哲学者ジャン=クレ・マルタンの『フェルメールとスピノザ 〈永遠〉の公式』(杉村昌昭訳、以文社:原書も2011年刊行)では、フェルメールと哲学者のスピノザが出会った可能性(注9)について言及しています(注10)。
 マルタンが取り上げるのは、上記(3)で触れたフェルメールの作品「天文学者」についてです。



すなわち、
・「われわれの手元に残されているスピノザのクロッキーと、この絵の主人公の姿とのあいだには類似点がある。髪型も同じなら鼻も同じで、額も完全に似通っている」(P.78)。
・他方、「「天文学者」と現存しているレーウェンフックの多数の肖像画とのあいだにはまったく類似性がない」(P.83)。
・さて、「フェルメールが使っていた箱に、不完全ながらすでにレンズが取り付けられていたかもしれない」が、その不完全性は、「「少女」におけるおぞましいほどのデフォルメが証明している」(P.84)。
・ところで、「“カメラ・オブスキュラ”と名付けられた一種の“写真箱”」には、「顕微鏡や望遠鏡のレンズとはちがった機能を持つ大きな磨かれたレンズが必要とされた」が、「この仕事を遂行するのに、オランダでは、その細心綿密さで知られたスピノザ以上の適格者はいなかった」(P.83)。
・そこで、「フェルメールがこのゆがみをもたらすレンズを修正するためにスピノザに助けをもとめ、ことのついでに世間でよく知られた社交人レーウェンフックよりも、むしろあまり目立たない人物であったスピノザに敬意を表して作品化したと考えてもおかしくないだろう」(P.84)。
・「こうした一連の経緯から、この二人の人間が協働関係にあったことを想定することができる。一方はその絵(「天文学者」)によって、スピノザの器用さと同時に彼の光学的知性を表現しようとし、他方は、画布の織地のなかで屈折的に反射する光と色彩についての論文(失われた「虹彩の論文」)を構想する」(P.87)。

 スピノザも、レーウェンフックと同じく1632年の生まれ(生地はアムステルダム)で、この3人の間に親密な関係性があったことになれば、また様々興味深い見解も生み出されてくることでしょう。

 松岡正剛氏は、「フェルメールについては、これまでさまざまな議論が絶えず、いまでもその余波が世界に波を送ってい」ると喝破しているところ、まさにそんな状況といえそうです。



(注1)クマネズミも、フェルメールについて「ミーハー」的な関心に従っているだけながら、「ギターを弾く女」という絵があることも少しは与っているでしょう。



(注2)「真珠の耳飾りの少女」の絵のある部屋に行く途中で、同じフェルメールの「ディアナとニンフたち」に遭遇しました。この絵は、2008年に、同じ東京都美術館で開催された「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」でも見たことがあります(その際には7点の作品が展示されました)。

(注3)あるいは、「真珠の耳飾りの少女」を題材にして作られた映画『真珠の耳飾りの少女』(2003年)のせいでしょうか。何しろ、スカーレット・ヨハンセンが出演しているのですから。

(注4)ただ、同じ美術館で昨年中ごろに開催された「フェルメール≪地理学者≫とオランダ・フランドル絵画展」は、残念ながら見逃してしまいました。
 でも、今年だけで、クマネズミは都合6点ものフェルメール作品を見たことになります。
 なにも、フェルメールの全作品を見てみようなどとは思ってはおりませんが、Wikipediaの該当記事このサイトの記事などを参考にしますと、これまでクマネズミは13点ほどフェルメールの作品を見たことになります。
 なお、フェルメール研究の第一人者小林頼子氏は、フェルメールの作品として32点を挙げています〔『フェルメール論 神話解体の試み』(八坂書房)〕(小林氏によれば、「注2」で触れた「ディアナとニンフたち」は、真作とは認めがたい作品とのこと)。
 さらに、このサイトの記事によれば、確実にフェルメールの作品とされているのは、37点のうちの26点のようです。

(注5)この展覧会の総合監修にあたっている福岡伸一氏によるもの。

(注6)以下の記述は、3月1日付け朝日新聞のこの記事、及び福岡伸一著『フェルメール 光の王国』(木楽舎、2011.8)の第7章「ある仮説」によります。

(注7)特に、福岡氏は、描かれている昆虫の脚には、「なめらかに変化する光のグラデーションをつなげようとする芸術家の目線があ」り、さらには、その「観察スケッチは1676年の半ば以降、急にそのタッチとトーンに変化が生じている」ことに注目しています(フェルメールは、前年末に亡くなっています)。

(注8)福岡氏は、「私はこのスケッチがフェルメールの手によるものではないかと主張したいわけではない。ただ奇妙な事実についてだけ指摘しておきたいのである」と述べているところです(上記「注6」で触れた『フェルメール 光の王国』P.249)。

(注9)夙に、朝日新聞の2005年1月13日の文化欄において、加藤修氏が、「17世紀オランダの画家フェルメールは、カメラ・オブスクラという装置を使つたのだが、そこに取り付けられていたレンズは、哲学史に残る思想書『エチカ』を著した哲学者スピノザが磨いたものだった」とする初夢を描いているところですが。

(注10)むろん、マルタンは美術史家ではなく哲学者ですから、「永遠を要約する」(P.4)という自分の思想的営みを記述する中でフェルメールとスピノザとの関係を取り上げているに過ぎず、とりわけ以下の諸点については、「われわれの立場はむしろベルクソン的なフィクションの自由によるもので、一見あり得なさそうなことが、確かなことよりもずっと創造的な空間を開くという確信に基づく」と述べているところです(P.73)。
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松井冬子展

2012年02月15日 | 美術(12年)
 横浜美術館で開催されている「松井冬子展」(~3月18日)に行ってきました。

 松井冬子氏については、このブログでも何度か取り上げていますが(注1)、公立美術館における初めての大規模個展ということで、注目されます。

(1)冒頭に掲げましたのは、『世界中の子と友達になれる』(2002年)で(注2)、雑誌の対談において松井氏は、タイトルの由来につき、「子供の頃、本心でそう感じた瞬間があって。でも大人になったいまそれは妄想であると気づきました。それゆえ狂気と希望が入り交じる、私の琴線にふれる言葉になりました」と述べています(注3)。


(2)下図は『浄相の持続』(2004年)で、同展覧会では、「第7章九相図」のコーナーで展示されています(注4)。



 この作品は、腹部を開いているところから、「腑分図:第七頸椎」とか「解剖 仔牛」などの作品が展示されている「第5章腑分」にも通じているように思われます(注5)。

 となると、2011年の「このミステリーがすごい」で3位だった皆川博子氏の『開かせていただき光栄です』(早川書房、2011.7)を読み終わったばかりなので、そのシンクロ性に驚きました。
 というのも、素晴らしい出来栄えの同ミステリー(とても80歳を越える作者が描いたものとは思えません!)は、舞台が18世紀のロンドン、解剖を専らにする外科医ダニエルの解剖教室(注6)で、四肢を切断された少年と顔を潰された男の死体が見つかったという事件を追って行くもので、「特別附録」として「解剖ソング」まで巻末に付けられているほど解剖についての話が満載なのですから(注7)。

 さて、同展のカタログによれば、「松井冬子は、人間というものは開いたら内臓が出てくるものなのだから、それは現実であり事実であって、臓物を描くことは真実を見つめることと同義だとい」っているとのこと(P.125)。
 ここには、どこまでも真実を求めることが正しいのだ、という作者の姿勢がうかがわれます(注8)。
 でも、映画『サラの鍵』で登場人物の一人が言っているように、真実を追求することは本当に正しいことなのか、そのまま静かに放っておくことも必要な場合もあるのではないか、とも思われるところですが(無論、『サラの鍵』の主人公は、ジャーナリストとしてどこまでも真実を追い求めて行くのですが)。



(注1)「医学と芸術展」についてのエントリ(2010年1月7日)で『無傷の標本』(2009年)を、映画『ステキな金縛り』に関するエントリ(2011年11月12日)で『夜盲症』(2005年)を取り上げています。

(注2)朝日新聞2月8日夕刊の展覧会紹介記事によれば、東京芸大の卒業制作であり、松井氏は「プロとしての第1歩」と位置付けているようです(この絵については、何枚もの下図も同時に展示されていますが、同氏によれば、「イメージがしっかりあって練っている、その過程を理解してほしかった」とのこと)。
 なお、なおこの作品は、次のジョットの『聖フランチェスコの小鳥への説教』を思い起こさせます。



(注3)『美術手帖』本年2月号(美術出版社)。

(注4)松井氏によれば、「九相図」は、鎌倉時代にあった「九相詩絵巻」からヒントを得ているところ、新しい「九相図」を描くべく、9つの自殺の要因を一つずつ描いていこうとしていて、この『浄相の持続』は「復讐」(「親とか恋人とか、周囲の人を攻撃する。最後の復讐という意味合いの自殺」)とのこと〔「注3」の雑誌のP.48~P.49〕。

 同作品の脇に作者によって付けられた解説には、次のように記されています。
 「「私はこんなに立派な子宮をもっている」という攻撃的な態度は、自傷行為の原因となる防衛目的から発現した破壊的衝動である。私はこの女に対し自己投影し同一視している。また彼女の周りに咲く花々も、彼女に同調するように切断し、雌しべをみせびらかしている。私はこの作品に共感し、同調しうるであろう女性達に向けて作品を制作した。同調に関しての優れた能力は、卵をつくる、分身をつくる、という子宮を持つ者の強い特権であるからだ。」

 こうした作者の姿勢を巡って、精神科医の斎藤環氏は、「確かに男性にはこの作品を正確に理解することが難しい。なぜか、男性にはどうしても、横たわって内臓をさらけ出している女性の姿を「屍体」と見てしまうからだ」、しかし、「女性ほどではないにせよ、男性にとっても「シンクロ」が可能になる」ポイントはある、それは「まなざし」だ、云々と述べています〔「注3」の雑誌に掲載されている論文「松井冬子論 ジェンダーとアートの新しい回路」〕。

(注5)「腑分」というと、『解体新書』を思い出させますが、同書の「解剖絵図を一人で担当した」のが、秋田蘭画を代表する画家の一人の小田野直武であることなどについては、昨年5月5日のエントリの末尾及び「注5」を参照して下さい。

(注6)実は、解剖教室を所有するのは、兄のロバート・バートン(「ロバート・バートンが教室を開設するまでは、ロンドンにおいては、医学生であっても屍体に触れる機会はほとんどなかった」)で、弟のダニエル・バートンが外科医として手伝うようになってから、「ロバートは社会的地位の高い内科医の資格を得、上流社会の仲間入りをした。ダニエルのような外科医は、数段低くみられている」とのことです(『開かせていただき光栄です』P.14)。

(注7)佳嶋氏による『開かせていただき光栄です』のBook Cover Illustrationは、「解剖」をイメージしたものになっています。



(注8)ここでいう「真実」とは何かということが問題となるかも知れませんが、それはサテ置いて、映画『麒麟の翼』に登場する加賀刑事も、「真実を避けるから殺人事件が起きてしまったのだ」と語ります。



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石子順造的世界

2012年02月05日 | 美術(12年)
 府中市美術館で開催されている「石子順造的世界」展(~2月26日)に行ってきました。

 府中市美術館は、比較的小規模な美術館ながら、ときどき実にユニークな展覧会が開催されますので、目が離せません。一昨年の春には「歌川国芳」展が開かれていますし、昨年の春は「江戸の人物画」展でした。
 としたところ、今回の「石子順造的世界」展。これは、これまでにもましてユニークな企画だと思われます。
 というのも、石子順造は、いわゆる芸術家ではなく美術評論家であって、美術館で展示される作品など一点も生み出してはいません。それに、1977年に48歳で亡くなってからすでに30年以上も経過しています(注1)。
 にもかかわらず、今回の展示物を見ると、彼が評論活動を通して作り上げた世界は決して過去のものではなく、今まさに拠り所の一つになるべきものではないかと思えてきます。

 この展覧会では、石子順造の世界を3つに区分けして、それぞれで、彼が関与し高く評価した作品をいろいろ展示しています。
 最初は、「美術」。
 例えば、石子順造は、紙幣を描いた赤瀬川源平の作品を高く評価します(注2)。


   「大日本零円札」(1967年)

 また、この展覧会では、石子順造が開催に深く関わった1968年の「トリックス・アンド・ヴィジョン展」の一部が再現されていて、例えば、中西夏之の「エマンディタシオン」(1968年)が展示されています。



 2番目は「マンガ」。
 ここでは、平岡弘史『それがし乞食にあらず』(青林工藝舎)、水木しげる『墓場の鬼太郎』(講談社)、林靜一『林靜一作品集』(青林堂)といった漫画本とか原画(「赤色エレジー」)が、所狭しと並べられており、さらには林靜一のアニメ(「かげ」)をモニターで見ることが出来ます。
 中でも一番目を惹くのが、本展覧会の目玉である、つげ義春『ねじ式』の原画の展示でしょう(注3)。何度読んでも茫漠たる印象しか持てないながら、それでいて決して忘れることの出来ない不思議極まる漫画が、実際に1人の人間の手で描かれたものであることが如実に分かり(注4)、一層不思議な感覚に囚われます(注5)。




 最後は「キッチュ」。
 「キッチュ」について、石子順造は、「芸術とはみなされていないが、生活と文化の両域にまたがって、その一様式とみなされてもいいような大衆的な表現一般の呼称だ、くらいにはば広く受けとっておくのが適当」と述べています(注6)。
 展覧会では、その一例として、大漁旗が展示されています(注7)。





 30年以上も前に石子順造が大いに評価した日本の漫画やアニメは、今や日本が世界に大きな顔をして提示できる数少ないものの一つになりましたし、また彼が評価する赤瀬川源平の紙幣を巡る作品は、実に精巧なコピーを容易に制作できるデジタル時代の到来を見越したものといえるかもしれず(注8)、評論家の論評は、それを書いた評論家が亡くなってしまうと忘れられてしまうのが世の常でしょうが、石子順造の場合は、これから世の中が彼の方を向いてくるのではないでしょうか?


(注1)石子順造が書いた評論を集めた『石子順造著作集』(3巻、喇嘛舎、1986年~1988年)も、既に絶版となっています。
 としたところ、驚いたことに最近、『マンガ/キッチュ 石子順造サブカルチャー論集成』(小学館、2011.12)が刊行されました(単行本未収録の表現論を集めたものです)。
 とはいえ、今回の展覧会に際して作成された300ページ近い充実したカタログ『石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行』は、何物にも代え難い画期的な出版物といえるのでしょう。

(注2)上記「注1」記載のカタログで引用されている論評において、石子順造は、赤瀬川源平は、「自分にとってタブーだと感じとれる領域に、あらあらしくふみこみ、それを白日にさらそうとする」、「彼は、絵画の絵づらより、絵画と呼ばれてきた事物のメディアとしての特性に注目していきだした」、「美術は、美術館の壁にかけられた額縁の中にあるのではなく、美術館や額縁もまた、ほかならず美術という不自由な約束事のなかのものにほかならないことを赤瀬川は感知した」などと述べています(P.42)。
 石子順造は、今回の展覧会が、ほかならず美術館で開催されていることをどう受けとめることでしょうか?

(注3)上記「注1」記載のカタログでは、「ねじ式」が雑誌「ガロ」の臨時増刊号に発表された1968年5月の直後の7月に、石子順造が雑誌「漫画主義」に掲載した「狂雲の翳り」が引用されていて、「ねじ式」を読んだ際の石子順造のものすごい興奮が読者に伝わってきます。

(注4)吹き出しの中の台詞が別印刷され、それが切り貼りされているのを見ると、その感を深くします。
 なお、その際に使われている書体が随分とまちまちなことも注目されます(アンゴチのものもあれば、コシック体だけのもの、明朝体のものなど)。

(注5)下記の「ねじ式」の冒頭の場面について、石子順造は、1970年の論評において「少年は、飛行機の黒い影の真下で波頭を分けて、今、海へ這いもどろうとしているのだ」、「少年は海から這い上がって来つつあるのではない」と述べています(『マンガ/キッチェ 石子順造サブカルチャー論集成』P.13)。
 なお、このサイトによれば、同じコマの吹き出しにある「メメクラゲ」に関しては、元は「××クラゲ」であったものを、編集の方で「メメクラゲ」とし、逆に後でつげ義春から、「かえってその方が作品に合っている」と言われた、というエピソードがあったようです。
 また、このサイトの記事によれば、「ねじ式」の中で異様にリアルなタッチで描かれているスパナを手にした人物には出典があるようです。
 色々なことが分かってくるものだなと思いました。

(注6)『マンガ/キッチェ 石子順造サブカルチャー論集成』P.303。

(注7)上記「注1」記載のカタログで引用されている論評で、石子順造は、「近年、郊外に講義する漁船のデモにしばしば大漁旗が立てられているが、あれを見るとぼくは、大漁旗そのものが、自分の生きる誇らしい時間と空間を求めて懸命にあらがっているように感じてならない」などと述べています(P.214)。

(注8)折よく、こんなサイトの記事が見つかりました。
 なお、同サイトが触れている毎日新聞の記事はこれです。
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写真展二つ

2012年01月23日 | 美術(12年)
 アウグスト・ザンダーなどの写真が展示されているというので東京都写真美術館に行ってきました。
 展覧会は「ストリート・ライフ」と題し、19世紀後半から20世紀前半にかけて「ヨーロッパを見つめた7人の写真家たち」の写真(館蔵)を集めていて、冒頭に掲げたザンダー(「若い農夫たち」1914年)の他は、アジェとかブラッサイ等です(~1月29日)。

 例えば、ジョン・トムソンの下記のロンドンの写真(The Water Cart:1877年-1878年)を見ると(注1)、背景はまるで違っていても、雰囲気自体は、なんだか日本の幕末~明治維新の頃とさほど違っていないのでは、という気もしてきます。




 こうしたヨーロッパの古い写真を見てから、同時に開催されている日本の写真家5名の作品を展示する「写真の飛躍」展(~1月29日)に飛び込みますと、その斬新さに圧倒されます。

 例えば、西野壮平氏の作品は、個別の都市についての膨大な写真をコラージュしたものです。展覧会では、8つの都市についての作品が展示されていますが、次に掲載するのは、「Diorama Map  Ro de Janeiro」(2011年3月-7月)です。



 作品に近づいて、そこに見られる個々の小さな写真を見ると、お馴染みの光景のものだったりしますが、離れて遠くから見ると、全体が当該都市の地図となっているのです(作品全体の大きさは1500×1745 mm) (注1)。



 個別の地域とか建物などについてどんな写真を使っているのかを見れば〔上記のものは、リオの背後に広がるファベイラ(貧民窟)でしょう〕、それに対する作者の姿勢が読み取れるでしょうし、また全体的を俯瞰して何を強調しているのかを見ることによっても、作者の都市自体に対するイメージといったものが感じられて、頗る興味を惹かれました。

 また、次の作品は北野謙氏の「アニメのコスプレの少女たち34人を重ねた肖像 台湾台北市のコミケ、ストリート上で 2009年4月18日撮影」です。



 これは遠くから見れば一人の少女を描いた日本画のように思えますが、実際にはたくさんの肖像画を重ねたものになっていて(注2)、その手法にも、さらにはその結果として作成された作品自体にも驚きを禁じ得ません。

 以上では、たった2人の写真家を取り上げたに過ぎませんが、それでもここには、数多くの写真を重ね合わせるという手法、そしてその要素となる写真を世界各地に出向いて取り歩いているという姿勢(注3)が共通して窺われて、大変面白いと思いました。



(注1)ジョン・トムソンの他の写真は、たとえば、こちらで。

(注2)展覧会のカタログ「日本の新進作家展vol.10 写真の飛躍」では、作者の西野壮平氏(30歳)は、「私はカメラを手にその都市を歩き、鳥瞰もしく仰視の視点で撮ったすべての断片を、記憶に沿って一枚一枚繋ぎ合わせ、地図に即して再構築し、都市の持つ特異性をイメージ化している」と述べています(P.32)。

(注3)上記「注2」記載のカタログにおいて、作者の北野謙氏(44歳)は、「一見一人のように見えるかもしれないが、この作品はある集団のメンバー全員が重なり混ざり合った群像写真である。私は世界中の様々な他者に会いに行き、現場で撮影した何枚もの肖像を、暗室で1枚の印画紙に重ねてイメージを作っている」と述べています(P.44)。

(注4)西野氏の作品は、ここで取り上げたリオ・デ・ジャネイロの他には、ニューヨーク、香港、ロンドン、イスタンブール、パリ、それに広島、東京のものが展示されています。また、北野氏は、上記「注3」記載と同じ箇所で、「今までに撮影した人々はアジア各地の150余りの集団」であり、「今後もプロジェクトはアメリカ、ヨーロッパ、アフリカへと私のライフワークとして続く予定だ」と述べています。

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