映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ルームメイト

2013年11月29日 | 邦画(13年)
 『ルームメイト』を渋谷TOEIで見ました。

(1)北川景子深田恭子との競演の映画というので映画館に行ってきました。

 映画の冒頭では、雨の中、まず萩尾春海北川景子)と工藤謙介高良健吾)が救急車に急ぎ搬送される場面が描かれ、ついで、大きなシャンデリアのあるバーの暗闇を懐中電灯で照らしながら警察の男たちが進んでいくと、床にナイフが落ちていて大量の血痕があり、その先のソファーの上では男が惨殺されて横たわっています。
 「なんだこれは、酷えな」と男たちが言っていると、ドアの向こう側で赤いドレスを着た人物が通り過ぎます。「女だ!探せ!」との声。
 他方で、床に落ちているノートブックを刑事(螢雪次朗)が拾って目を通します。

 そして、場面はそれより3カ月前の病院へ。
 どうやら春海は、交通事故に遭ってこの病院に運ばれ、ようやく意識を取り戻したようです。尋ねられると「萩尾春海、23歳」と答え、記憶は回復しながらもどうしてベッドに横たわっているのか覚えていません。
 そこへ工藤ともう一人の男が現れ、事故のことを謝罪します。工藤が運転する車に春海は轢かれたとの話で、もう一人は保険会社の長谷川尾上寛之)。



 2人が帰ったあと、看護婦の西村麗子深田恭子)が現れ、「保険会社に言いくるめられてしまうよ」などと言い、そうこうするうちに2人は親密になります。

 しばらくして春海は退院しますが、派遣社員として勤めていた会社を解雇され今後のことを不安に思っていたところ、麗子が現れ、「私も病院を辞めることになった」、「2人でルームシェアすれば、家賃が半分になる」などと言うので、春海が暮らしていたやや古ぼけたマンションで一緒に生活をすることになります。



 こんな春海が、どうして映画の冒頭のような事態を迎えることになるのでしょうか、その現場にいない麗子はどうしたのでしょうか、………?

 本作は、かなり複雑に書かれている推理小説を原案としながら、それを実に手際よくまとめて2時間弱のホラー・サスペンス映画に仕立てあげているだけでなく、今が旬の女優、北川景子と深田恭子とが力一杯競演しているのですから、見応え充分といったところです(注1)。

(2)ここからはネタバレになってしまいます。本作を未見の方は、以下を読むことなく、急ぎ映画館に行かれることをお勧めいたします〔本作の原案とされている推理小説(注2)についても同様ですので、未読の方はまずは同書をお読みください〕。

 さて、本作の原案のミステリーは、かなり複雑に書かれています。
 ごくごくかいつまんで申し上げれば次のようです。

 不動産屋で偶然知り合った大学生1年生の春海と麗子は、ルームシェアをすることになるのですが、麗子が多重人格(解離性同一性障害)でした(注3)。
 麗子は、自分を多重人格にした殺人事件を引き起こした男を殺すよう“共犯者”に依頼します(注4)。
 “共犯者”は、麗子を愛していたために、依頼通り男を殺したところ、麗子に「愛していない」と言われ、怒って麗子を殺してしまいます。
 この事件を、春海は先輩の工藤謙介(注5)と2人で追跡します。
 ところが、事件の真相を追っていくと、春海自身が多重人格者であり、彼女のもう一つの人格である兄(既に病死)が“共犯者”として麗子を殺したことがわかってきます(注6)。

 この推理小説では、多重人格者が2人も登場しますし、複数の男がかなりの役割を持って活躍します(注7)。
 それを本作では、小説の春海と麗子という2人の多重人格者を1人だけに絞り込み、なおかつ工藤謙介も副次的な扱いとして、また昔のことはともかく(注8)、最近時点で殺されるのも男女1人ずつにしています(注9)。
 やや難点も見られる小説を原案としながら(注10)、全体をかなりスッキリした筋立てにしていると思います。

 ただ、本作では、原案のミステリーにはない人物、絵理が登場します。
 一見すると、彼女を巡る話は余計なエピソードのように思えるところ、そうすることで本作の謎はかなり深まることにもなりますから(注11)、それほどの問題はないでしょう。

 とはいえ、絵理の境遇は春海とかなり類似しています(注12)。
 この重なり合いの構造は、春海が3カ月という間を置いて病院のベッドに横たわるというところにも見受けられます。
 これは、人格の重なり合いがシチュエーションの重なり合いとも連動しているようにも思え、全体としてなかなか良く練られた作品という印象を持ちました。

(3)渡まち子氏は、「ルームシェアした女性が恐ろしい素顔を持つことを知るサスペンス・スリラー「ルームメイト」。美女二人の競演が華やか」として55点をつけています。
 前田有一氏は「二人の人気女優を全面にだしたプロモーションからお手軽なお気軽2時間サスペンスだと思っているミステリファンがいたら、ぜひそのなめた態度のままご鑑賞いただきたい。きっと、満足していただけるはずである」として75点をつけています。
 相木悟氏も、「なかなかに拾い物の一作であったのは確か。何より原作読者も存分に楽しめる娯楽作に仕上げたサービス精神は、大いに賞賛したい」と述べています。



(注1)最近では、北川景子は 『謎解きはディナーのあとで』で、深田恭子は『夜明けの街で』や『ステキな金縛り』で、それぞれ見ています。

(注2)今邑彩著『ルームメイト』(中公文庫)。

(注3)ホスト人格の青柳麻美、春海のルームメイトの麗子、銀座のバー・アリアドネに勤めているマリとカオリ(P.210)、人妻(ある男と内縁関係)の平田由紀、それに子供のサミー(6歳で成長が止まっているとのこと。麻美は幼いころ米国ミネソタ州に住んでいました)。

(注4)原案のミステリーでは、サミーが隣家の青年ボブに性的いたずらをされ、そのことを知ったサミーの両親をボブは殺してしまいます。それを知ったサミーは精神的な打撃を受け、多重う人格になります。そして、そのボブが、来日して英会話スクールの校長となっているのを知ったマリが、“共犯者”をそそのかして殺させます。

(注5)原案の推理小説では、工藤謙介は、「学部は違うが、春海が所属している写真部の部長」(P.66)。

(注6)原案のミステリーの「モノローグ4」(文庫版にする際、著者が掲載をためらったラスト)によれば、春海にはもう一人工藤謙介の別人格が生まれていたようです。

(注7)原案の小説では、工藤謙介は、春海と一緒に、京都や綾部まで麗子のことで調査に行ったりしますし、また工藤謙介の従兄弟でフリーライターの武原英治も本件の調査に乗り出します。

(注8)原案の推理小説で青柳麻美の幼い時分に起こったことは、本作では春海に起こります。すなわち、春海は、中学生の時に母親の愛人にレイプされ、そのことが世間に知られて愛人が自殺したことを母親になじられたために、マリという人格になって母親を殺してしまいます。

(注9)原案のミステリーでは、麗子のみならず、英会話スクールの校長とかフリーライターの武原英治も殺されます。

(注10)原案の小説においては、青柳麻美は42歳であり18歳の娘麗子もいることになっていますが、いくら若作りだといえ18歳の春海に、娘と同年齢と見なされるにはかなり無理があり、また、春海の別人格である兄・健介は、マリとベッド・インしますが(小説の冒頭の「モノローグ1」)、精神はともかく体まで男性になるわけではないでしょうから、マリにおかしいと疑われるのではないでしょうか?

(注11)例えば、このエントリの(1)の最初のほうで書いた「赤いドレスを着た人物」とは、いったい誰でしょう?

(注12)本作の絵理は中学生で、市長選での候補者となる山崎田口トモロヲ)に暴行されたことから、別人格の「マリ」を作り出し、山を殺害しようとします。



★★★★☆



象のロケット:ルームメイト

四十九日のレシピ

2013年11月26日 | 邦画(13年)
 『四十九日のレシピ』を渋谷TOEIで見ました。

(1)本作を制作したタナダユキ監督の前作『ふがいない僕は空を見た』がなかなか面白く、さらには永作博美が出演するというので映画館に行ってきました。

 主人公の百合子永作博美)は、夫・浩之原田泰造)に愛人がいることがわかると、捺印した離婚届を残して、故郷の実家に戻ります。
 そこには、つい最近妻の乙美を亡くしたばかりの父親・良平石橋蓮司)がいるものとばかり思っていたら、既に若い女の子のイモ二階堂ふみ)が上がり込んでいるではありませんか。



 乙美は生前、依存症の少女たちの更生施設でボランティア活動していましたが、そこにいたイモは乙美の世話を受けたことから、乙美先生の「四十九日」をやるためにやって来たと言うのです。
 良平と百合子は、わけがわからないまま、乙美が作成した「暮らしのレシピ」カードの中にある「四十九日のレシピ」に従って、大宴会を催すことにしますが、さてどうなることやら、………?

 本作については、それほどの事件が起こるわけでもなく、良い人がたくさん描かれているとはいえ、画面に余り登場しない人物ながら生前の人間関係を通じて浮かび上がる彼女の存在感が大きく、画面の隅々まで染み通り、全体としてほのぼのとした好ましい気分を味わうことが出来ます。

 永作博美は、夫との関係に悩む百合子の役を好演していますし、石橋蓮司はいつもながらの味わい深い演技。



 それに二階堂ふみは、日系ブラジル人のハルを演じる岡田将生と一緒になって、不思議な雰囲気を醸し出し、さらには、良平の姉・珠子を演じる80歳の淡路恵子の活躍も見られます(注1)。



(2)タナダユキ監督の前作『ふがいない僕は空を見た』の主人公・里見(田畑智子)と同じように、本作の主人公・百合子も子供がいないことで悩み、不妊治療をしたりした挙句、夫と上手く行かなくなり、故郷に戻ってきます。
 ただ、前作のようには、そのことが中心的に描かれているわけではなく、むしろ、突然父親・良平のもとに現れるイモとハルの不思議な印象の方が見る者に残ります。

 というのも、いくら生前に世話になったからといって、また生前に乙美先生から頼まれたとはいえ、突然、「四十九日」の準備のために若い女の子が、見ず知らずの家に上がり込んでくるものでしょうか(特に良平は、イモとは初対面なのです)?
 そして、イモは、戸棚からいとも簡単に「暮らしのレシピ」を探し出してきて、良平に見せたりするのです。



 また、乙美先生から譲り受けたという黄色いビートル(注2)に乗って現れるハルという日系ブラジル人も、イモの手伝いとしてやってきたとの触れ込みながら、誠に胡散臭い人物に思えます。
 なにしろ、途中で現れ、「四十九日」の直前に、良平に別れの挨拶もせずに立ち去ってしまうのですから(ビートルを百合子に譲った挙句に)。それに、日系3世にもかかわらず、ブラジル・ポルトガル語を余り発しもしませんし(尤も、岡田将生が演じているのですから仕方がありませんが)(注3)!

 ただ、それらのことは、制作者側もよく承知していて、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」には、「原作で描かれている“ハルとイモは生まれ変わりかもしれない”というファンタジー的要素は、映像化するにあたり、より地についた人間として脚色」と述べてあります(注4)。

 確かに、本作では、ハルも良平などと一緒のところが随分と描かれていますし、イモにしても、原作のように突然消えてしまうのではなく、仲間の女の子たちと一緒に良平の家から帰っていきます。 特に、原作の最後の方で、良平がイモとハルについてあれこれ考える場面が描かれていますが(注5)、本作にはそんなシーンはありません。

 まあ、色々と解釈できる余地を残して描かれていると言うべきでしょうか。

(3)下記の(4)で触れる評論家の前田有一氏は、「この映画は震災後にその影響を受けて企画されたもので、家族「以外」の絆によって癒される人々が主題として描かれている。それが2013年らしい家族映画だと、作り手はそういいたいらしい」が、「震災を経て日本人は、逆に家族至上主義へと回帰したのであ」り、「だから、2013年らしい映画をというのなら目指す方向が正反対である」と主張します。
 確かに、劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、タナダユキ監督は、「(脚本の)黒沢さんから“人を救えるのは血のつながった家族だけではない”という話にすべきではないかという提案があり、賛成しました」と述べています。
 ただ、そうであるなら、本作は、2013年に必要な映画という意味で「2013年らしい映画」なのではないでしょうか?
 というのも、前田氏の言うように、現状が仮に「家族至上主義へと回帰」しているとしても、それをそのまま描くのではなく、そんな現状に対して「家族「以外」の絆」が必要だと映画が主張しているのは、「時代をみる大局的な視点が少々ずれている」ことに当たらないのではと思われるところです。

 もっといえば、前田氏は、日本が「家族至上主義へと回帰」したのは、「9.11で同じ方向に進んだアメリカ人のケースと同じ」であり、それは「ここ数年のハリウッド映画が家族大事大事といい続けているのを見れば誰でもわかる」とまで述べています。
 ですが、もしかしたら話しは逆で、「ここ数年のハリウッド映画が家族大事大事といい続けている」のは、家族の破壊が9.11以降より一層進んでいるからこそ、その現状を変更したいがためにそうした傾向の映画が沢山制作されているのではないか、とも考えられるところです。
 前田氏が、「人間はカタストロフィに直面すると血のつながりを求めるようにできている」のだから、「震災を経て日本人は、逆に家族至上主義へと回帰した」のだと大上段から決めつけてしまっているのは、あるいは、現状をありのままに見たくないからこそではないのか、「時代の先を見る目」が感じられないのはどちらの方なのだろうか、と思ってしまいます(注6)。

(3)渡まち子氏は、「父娘役の永作博美と石橋蓮司が共に味のある演技をみせるが、個性的な役をいつも絶妙に演じる若き演技派の二階堂ふみのハジケっぷりと、時折みせる寂しげな表情に注目だ」として60点をつけています。
 また、前田有一氏も、「女性監督らしく、細やかな人間観察によるエピソードが心に響くドラマだが、まだまだ不器用で細部が荒っぽいのと、時代をみる大局的な視点が少々ずれているので傑作になれずにいる、惜しい一本である」として60点をつけています。



(注1)最近では、永作博美は『八日目の蝉』で、石橋蓮司は『俺はまだ本気出してないだけ』とか『人類資金』で、二階堂ふみは『地獄でなぜ悪い』で、岡田将生は『謝罪の王様』で、原田泰造は 『アントキノイノチ』で、それぞれ見ました。

(注2)VW社の小型車(ドイツ本国での生産はすでに終了しましたが、ブラジルでは現地法人が「フスカ」という名称で生産を続けているようです)。

(注3)さらにいえば、ハルが日系ブラジル人であれば、その地にはブラジル人仲間がいたことでしょうから、良平の姉・珠子たちが習うとしたら、フラダンスよりも、むしろブラジルのサンバの方がふさわしいのではと思えるところです。でも、あるいは、ハルはその地で仲間を持っていないのかもしれません。

(注4)タナダユキ監督も、本文で触れるインタビューにおいて、「最初に脚本の黒沢久子さんと相談したのは、生身の人間が演じるからリアリティを大事にしようということ」だと述べています。

(注5)本作の原作は、伊吹有喜著『四十九日のレシピ』(ポプラ文庫)ですが、そのP.287では、イモが消えてしまったあと、良平が、「そうか、お前、鬼の扮装で現れたのか、たしか、何かの写真に一枚、鬼の格好したやつがあったな。お前、あの格好で来たんだな、ばれたら困るから。お前だったのか、乙美。そうか………そうだろう?」とつぶやく場面があります〔なお、「鬼の扮装」と良平が言うのは、本作と違って原作においては、イモはガングロ・ファッション(「極限まで日焼けしたと思われる褐色の肌に黄色い髪、目の周りを銀色の線で縁取った娘がそこに立っていた」P.12)で最初に現れたことに対応しています。また、乙美の鬼の写真については、P.220〕。
 また、ハルに関してもP.288で、良平は、「お前………お前も来たのか?違うか?姉さんのピンチに黙っていられずに。そうだろう?お前はやさしい子だからな」とつぶやきます〔ここの「お前」は、前妻で百合子の母親である万里子が産んだ第二子・ハルミ(流産したか死産だったようです。P.170)を指しています〕。

(注6)とはいえ、クマネズミは、映画に政治的なテーマを読み込んで、それを自分の政治的な立場から批判するといった姿勢は好みません。映画には様々なテーマがあふれていて、一方的に一つのテーマを持っていると決めつけることなど出来ない相談ではないかと思われるからです。




★★★★☆



象のロケット:四十九日のレシピ

清須会議

2013年11月22日 | 邦画(13年)
 『清須会議』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作を制作した三谷幸喜監督の前作『ステキな金縛り』がまずまず面白かったこともあり、映画館に足を運んでみました。

 本作で専ら描かれるのは1582年6月の清須会議で、それは織田信長が本能寺の変で急死した後、織田家の継嗣問題と領地再分配問題を解決するために開催されたものです。
 でも、その帰趨については皆がよく知るところでしょうから(注1)、本作に対する関心は、むしろどの俳優がどんなメイクや衣装、それにどんな演技で主な登場人物である4人(柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉池田恒興)を演じるのかとなるでしょう。



 そうなると、やはり柴田勝家の役所広司が抜きん出ていて、佐藤浩市の池田恒興、小日向文世の丹羽秀長はまずまずといったところ、大泉洋の羽柴秀吉については意見が別れるところではないかと思います(注2)。
 確かに、大泉洋の秀吉もありとは思えるところ、なんだかこれまでのイメージも被ってきて、随分と軽っぽい感じがしてしまうのが問題であり、例えば、元々耳がとびきり大きい瑛太ならどうかなと思ったりしました。



 ただ、総じていえば、華々しいチャンバラ・シーンのない至極真面目な時代劇ながらも、要所要所に笑いの要素を散りばめ、さらには中谷美紀とか鈴木京香剛力彩芽といった女優陣も張り切っていて(注3)、なかなか見応えのある作品になっていると思いました。



(2)本作では、三谷幸喜監督が様々な工夫を凝らしています。
 例えば、
イ)日の進み具合については、「一日目」「二日目」……という具合に字幕が入るものの、肝心の武将たちの名前については、他の時代劇のような字幕は入りません。
 とはいえ、信孝信雄については、その発音が近いために(「ノブタカ」「ノブカツ」)音声だけでは紛らわしく、字幕の必要性が高いでしょうし、また信孝・信雄・信包・秀信(三法師)らの関係についても系図的な説明がある方が、観客にとって随分とわかりやすくなるものと思います。
 でも、三谷監督は、この映画を見に来るほどの観客ならばそんなことは予めよくわかっていることだろうとして、敢えて煩わしい字幕を挿入しなかったのでしょうし、それは一つの見識だと思います。

ロ)本作に登場する人物は、大体が現代語でしゃべっていますが(注4)、これは本作の原作である小説『清須会議』(三谷幸喜作、幻冬舎文庫)が、当時使われた言葉で作られたであろう文書の「現代語訳」として作られていることからくるものと思います(注5)。
 他方、三谷監督は、インタビュー記事では、「ビジュアルには相当こだわり」、例えば「頭頂部の髪を剃った部分「月代」」について、「肖像画で見ると、髪の生え際はかなり後ろな」ので、「既製の鬘ではなく、特殊メイクで作ってもら」ったんだ、と述べています(注6)。
 そこまでビジュアルにこだわるのであれば、話す言葉についても、当時を再現する方向でやってもらったらどうか、という気もしてきます。
 としても、そんなことをしたら、現代の観客は到底理解できなくなってしまうでしょう。
 逆に、ビジュアルも喋り方に合わせて現代風のものにするといったことも考えられるかもしれません。例えば、ジーパンを履いた羽柴秀吉という具合に。
 でも、そんなことをしたら、浮ついた現代の新劇でも見ている感じになってしまい、おそらく受け入れられないことでしょう。
 様々の選択肢があるとはいえ、本作のやりかたは、三谷監督の歴史に対するこだわりと理解ノシやすさ・面白さをミックスさせたものとして、適切なものと思います。

ハ)上で触れたインタビュー記事において、秀吉には「指が6本あったという伝説」があり、本作では「その再現にも挑戦し」、「劇中で秀吉は常に手袋をしてい」るが、「ワンシーンだけ、手袋を外しているシーンがあ」る、と三谷監督は述べています(注7)。
 見終わってからこのインタビュー記事を知り、予告編を見直したりしてみると、大泉洋の秀吉は確かに右手に手袋をしています。



 ですが、クマネズミは、映画を見ている最中はそんなことに露ほども気が付きませんでしたから、手袋を外している「ワンシーン」がどこにあったのか気付くわけもありません!

 それはともかく、昨年出版された『河原ノ者・・秀吉』(服部英雄著、山川出版社)(注8)を見ると、その著『日本史』において「フロイスは秀吉には一つの手に六本の指がある(注9)と書いた」と述べられています(P.571)。
 さらに、同書では、「前田利家の伝記である「国祖遺言」に、秀吉は六本指であると記述されていた」と述べられ、該当部分(「太閤様は右之手おやゆひ一ツ多、六御座候」云々)が引用されています(P.571~572)。
 その上で、服部氏は、多指症についての情報もあり、「同時代人による証言が複数揃った以上、もはや疑ってはならない。六本指だった秀吉は、大道芸でそれを活用したのかもしれない」と結論づけています(P.573)。

 おそらく、三谷監督は、こうしたことも背景にして秀吉のビジュアルを作り上げているのではないかと思われます。

(3)渡まち子氏は、「有名な会議とはいえ、派手なアクションや情熱的なロマンスがあるわけでもない、本作の清須会議は、映画としてはすこぶる地味な題材。それを日本映画が誇る豪華キャストを集めて、抱腹絶倒の歴史エンタテインメントに仕上げてみせた」として70点をつけています。
 また、前田有一氏も、「時代劇ファンが求める「本格」とは、ルックスではなくそこで描くテーマにこそある。それをこの、おバカしたての時代劇は実証して見せた。この時代と武将についての予備知識はある程度必要で、かつ思い入れが強い人ほど楽しめる。三谷監督らしい、年末年始にぴったりな良質な時代劇である」として85点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「何をおいても、138分間じっくり歴史喜劇を堪能させてもらった。結構でござんした」と述べています。



(注1)尤も、信長や信忠、明智光秀がどこを所領していてそれが誰のものになったかまで詳しく知っている人は少ないと思いますが、映画でもその点は余り突っ込みません(ただ、原作小説では、「四日目」の「十六 前田玄以による本会議議事録二(現代語訳)」において、P.229以下17ページにわたって詳しく記述されています)。

(注2)最近では、役所広司は『わが母の記』、佐藤浩市は『人類資金』、小日向文世は『アウトレイジ ビヨンド』、大泉洋は 『探偵はBARにいる2』で、それぞれ見ました。

(注3)最近では、中谷美紀は『リアル~完全なる首長竜の日~』、鈴木京香は『セカンドバージン』で、それぞれ見ています。
 なお、剛力彩芽は、テレビドラマでは見ているものの、映画としては『カルテット!』以来です。

(注4)例えば、「五日目」のお市様と秀吉との会話は、概略次のようです。
 お市様「私は、柴田と祝言をあげます。お祝いの言葉は?」、秀吉「おめでとうございます」、お市様「私にできることはこれしかない」、秀吉「そこまでして私を苦しめたいのですか?」、お市様「私は生涯あなたを許せない。夫を殺し、息子を殺したお前を。あなたが嫌がる相手に嫁ぐのです」、秀吉「そこまで嫌われたら私も本望です」。
 (原作小説のP.281に同じシチュエーションが描かれていますが、映画ではずっと簡略化された会話になっています)

(注5)同小説は、冒頭の「燃え盛る本能寺本堂における、織田信長断末魔のモノローグ(現代語訳)」の節から始まり、末尾の「秀吉の妻、寧の日記。六月二十八日分抜粋(現代語訳)」の節で終わります。

(注6)さらに、例えば、鈴木京香のお市様と剛力彩芽の松姫(三法師の母)は、眉毛がなくお歯黒をしています。

(注7)原作小説では、「二日目」の「二十一 秀吉の妻、寧の日記。続き(現代語訳)」において、「夫は本来暗い人間である。生まれながらに右手に障害を持っていたこともあり」云々と述べられているくらいです(P.120)。

(注8)本書は、昨年の毎日出版文化賞(人文・社会部門)を受けていて、選考委員の白石太一郎氏は、「中世史料に多くみられる河原ノ者、、声聞師などについてその実相を明らかにするとともに、秀吉を被差別民から天下人にまで上りつめた脱賤の具体的な事例として取り上げている。さらに秀頼誕生の謎についても、大胆だが説得力のある推論を提起する」などと述べています。
 また、法政大学教授の田中優子氏も、「本書では、被差別民が多くの分野での職人として社会を支えてきたことが見えて来る。ヨーロッパ人宣教師を始めとする当時の人々の記録を重要視することで、見事に人間を浮かび上がらせた」などとして高く評価しています。
 他に、東大の五味文彦氏は、「大胆な論と丁寧な史料の検討がなされており、読み応えがあるとともに、今後に大きなインパクトをあたえる本となるであろう」と述べています。

 ですが、歴史に驚くほど該博な知識を持つクマネズミの友人は、服部英雄氏について、「的確な史料批判ができない人」であり、本書で「ルイス・フロイスの『日本史』を同時代史料として信頼しすぎるのも、同書が伝聞書きのものであるだけにどうかと思う」などと言っているところです。
 〔前者の点については、例えば本書のP.42に「(佐々木哲氏の著書によれば、近江の六角氏には)系図には記されないけれど、義久―義秀という当主がいた」との記載があるが、まともに認める歴史学者や系図研究者のいない沢田源内の『江源武鑑』が主張するところに従う佐々木哲氏の見解を無批判的に受け入れるものであり、これでは服部氏は史料批判ができないと判断されても仕方がない、と友人は言っています。〕
 「若き日の豊臣秀吉、すなわち木下藤吉郎は賤の環境にあった」(P.561)とか「秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロである」(P.600)といった服部氏が本書で提起する仮説は、単なる一つの考え方と受け止めておいた方がいいのかもしれません。

(注9)原文のポルトガル語では、「Tinha seis dedos em uma mão」。



★★★★☆



象のロケット:清須会議

父の秘密

2013年11月19日 | 洋画(13年)
 『父の秘密』を渋谷のユーロスペースで見ました。

(1)カンヌ映画祭で評価された映画だと聞いて、映画館に行ってきました。

 母親を交通事故で失った高校生アレテッサ・イア)は、高級リゾート地のプエルト・ヴァラルタを引き払って、父・ロベルトとともにメキシコ・シティにやってきます。
 そして、新しい学校で知り合ったクラスメイトたちと(注1)、週末に別荘に遊びに行くことに。
 ところが、飲んだ酒の勢いで男子生徒とセックスをしてしまい、その際撮られた動画が学校中にばらまかれてしまいます。
 そこから、彼女に対するいじめがとても酷いものになっていきます(注2)。
 でも、妻を交通事故で亡くして不安定な父に(注3)、アレはそのことを打ち明けられません(注4)。
 そんな時に、アレは皆と一緒に臨海学校に行かなくてはいけなくなりますが、そこで事件が起きます。
 一体どんな事件であり、それに対してロベルトはどのような態度をとるのでしょうか、………?

 ほとんど見たことがないメキシコ映画であり、またストーリーも深刻なものですが、アレを演じる若い女優のテッサ・イアが魅力的であり、感銘を受けました。



(2)映画の冒頭は、プエルト・ヴァラルタにある車の修理工場のシーンで、修理工から説明を受けた男(映画をしばらく見ているとアレの父・ロベルトだとわかります)が、書類にサインをした上で修理済みの車に乗り込みます。修理工場を出ると大きな道路を走らせますが、ある信号で車を止めエンジンを切ったと思ったら、男はドアを開け、車をそのまま置いて歩き去ってしまうのです。
 男は、交通事故で壊れた車を修理したものの、それにまつわる忌まわしい記憶(その男の妻がその交通事故で亡くなったのです)に耐えがたくなって、車を飛び出したようなのです。
 言ってみれば、こんなことが「父の秘密」、父が娘にはっきりと言わないこと、なのでしょう(注5)。



 すべては、アレと父がメキシコ・シティに来る前に起きたことです。
 あとでアレは、鍵のついた車が見つかったとの連絡をプエルト・ヴァラルタにいる伯母から受け(注6)、父に何かあったに違いないと感じて、プエルト・ヴァラルタに戻ろうとしますが、結局は行きませんでした。

 とはいえ、本作においてはむしろ、アレ自身が学校で受けている激しいいじめの方が、ずっと大きな「娘の秘密」、娘が父にはっきりと言わないこと、になってしまっています(注7)。
 そして、それが明らかになった時に、ロベルトはある激しい行動をとってしまいます。

 こんなところからすると、「父の秘密」という邦題は余り適当ではないような感じがします(注8)。

 それはともかく、本作を見たのとちょうど同じ頃、TSUTAYAの新作の棚に『シークレット・オブ・マイ・マザー』(2011年、フランス映画:日本未公開)のDVDが置いてありましたので、借りてきて見てみました。

 この映画の主人公は、パリで暮らすマーティン、小さい頃両親が離婚し、父と一緒に住んでいます。ちょうど恋人との関係がギクシャクしだした頃、ロスに住む母が亡くなったとの連絡を受け、遺産手続き(アパートメントの処分)のにために渡米します。
 マーティンは、母が自分のことを嫌っていたと思い込んでいますが(そのため、離別後一度も会ってはいません)、母はどうやらローラという女性と親密な関係があったらしいことがわかってきます。
 それで、彼女が住んでいるらしい国境近くのメキシコのティフアナまで出かけます。ですが、探し出したローラはストリップクラブのダンサーなのです。
 いったい母とローラとの関係はどんなものだったのでしょうか、………?

 という具合に、こちらの作品はまさに“母の秘密”と題してもふさわしい内容です(注9)。

 それでこの映画は本作とは余り共通点がなさそうにも思えるところ、親と子のコミュニケーションの断絶という観点から見れば、通じるところがあるのではと思いました。
 なにしろ、本作では、アナと父・ロベルトは、毎日いっしょに暮らしているにもかかわらず、お互い肝心なことは何もいわないのですし、この映画でも、マーティンと母親との関係は切れていますし、一緒に暮らす父との関係も親密なものとはいえません。
 ただ、大きな違いもあります。コミュニケーションの断絶が、この映画では大きな事件を引き起こすわけではないものの、本作の場合はとても恐ろしい事態を招くことになるのですから。

(3)映画評論家の高橋諭治氏は、「交通事故で妻を亡くした中年シェフ、ロベルトと高校生の娘アレハンドラ。彼らが新天地に引っ越すところから始まるこのメキシコ映画は、ファンタジーが紛れ込む隙間もない現実的なドラマであり、観る者にただならぬ緊張を強いる作品」であり、「この映画には決して説明されない喪失や孤独の痛み、 そして“すれ違う優しさ”があちこちに息づいている」と述べています。



(注1)アレは、クラスメイトに対し、父の仕事の関係でメキシコ・シティに来たのであり、母は元のプエルト・ヴァラルタにいると言って、その死を隠します。

(注2)例えば、アレの誕生日のお祝いだとして、教室で皆から、酷くマズイもので作られたケーキを無理やり口に突っ込まれたりします。

(注3)ロベルトはシーフード料理が得意な料理人ながら、新しく職を得たレストランに落ち着かず(調理助手の能力が低すぎたこともあり)、すぐに辞めてしまったりします。アレはそのレストランに行って、助手から父の辞めた理由を聞き出したりしています。

(注4)さらには、新しい学校の先生から、前の学校でアレがマリファナを吸っていたことが、呼び出された父に告げられたこともあり(アレは、3ヶ月ほど前、2、3回友達と吸ったと父に告白します)。

(注5)ラストでロベルトが犯す行為が秘密のことだとも考えられますが、あのやり方ではことはすぐに露見し、ロベルトに嫌疑がかかってしまうのも時間の問題ではないでしょうか?

(注6)プエルト・ヴァラルタからメキシコ・シティヘ行く車の中で、父は娘に「前の車は売り払った」と説明していました。
 さらに、鍵のついた車が見つかったとの話を父にしたところ、父は何も説明しませんでした。

(注7)なにしろ、クラスの女生徒に髪の毛を切られた際、どうして髪を短くしたのかと父に尋ねられても、アレは何も話さないくらいなのですから。

(注8)原題は「Después de Lucia」(英題「After Lucia」)で、交通事故で亡くなったアレの母親・ルシア(Lucia)の亡き後といった意味があり、それはそれなりにわかります。
 なお、劇場用パンフレットの「Introduction」では、「Lucia」に「光」の意味があることから、この原題は「光の不在の世界」をも表しているとされています。

(注9)実際には、『シークレット・オブ・マイ・マザー』で描かれているものが「秘密」といえるほどのことなのかという感じがし、また母がマーティンを手放した理由も明示的に描かれているわけでもないとはいえ、マーティンが、ラストのほうで、父やローラといわれる女性、さらには自分の恋人のことを考え直したりする姿を見ると、その心の成長ぶりが巧みに描かれているのではと思いました。



★★★★☆



象のロケット:父の秘密

グランド・イリュージョン

2013年11月15日 | 洋画(13年)
 『グランド・イリュージョン』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)評判が随分と良さそうなので、映画館に行ってきました(注1)。

 4人の優秀なマジシャン、すなわちクロースアップ・マジックのダニエルジェシー・アイゼンバーグ)、催眠術とメンタリズムを操るメリットウディ・ハレルソン)、エスケープ・マジックのヘンリーアイラ・フィッシャー)、ピックポケットのジャックデイヴ・フランコ)が、不思議なカードに導かれてとあるビルに集められ、イリュージョニスト集団の「フォー・ホースメン」を結成することに。
 彼らは、ラスベガスで一大マジック・ショーを挙行するのですが、そこでは、客席から無作為に選んだフランス人の男をフランスの「パリ信用銀行」の金庫に瞬間移動させ、320万ユーロを強奪してしまいます(その男が、頭に取り付けられた瞬間移動装置のボタンを押すと、ラスベガスの会場にユーロ紙幣の吹雪が舞うのです)。
 実際にもパリの銀行から320万ユーロが消えていたために、FBIは「フォー・ホースメン」の4人の身柄を拘束し、特別捜査官のディランマーク・ラファロ)とインターポールの捜査官アルマメラニー・ロラン)が本件の捜査にあたることに。
 ですが、FBIは証拠を見つけることが出来ず、4人は釈放されてしまいます。
 次のニューオーリンズでの彼らのショーが近づいているにもかかわらず、ディランとアルマは打つ手を見いだせないでいるところ、なんとか再度の犯行をくい止めるべく、マジックの種明かしに長けたサディアスモーガン・フリーマン)に助言を求めます、ですが………?

 なによりも、随分と豪華な出演者に圧倒されます。例えば、『ソーシャル・ネットワーク』のジェシー・アイゼンバーグ、『オーケストラ!』のメラニー・ロラン、『インビクタス』のモーガン・フリーマンなどなど。これらの俳優が、豪華な舞台の上で奇想天外な魔術をしたり、その魔術を通してなされた犯罪行為を暴きにかかったりと、縦横に活躍するのですから見応え充分です。

 俳優陣の中では、ジェシー・アイゼンバーグの早口とメラニー・ロランの美貌が特に印象的でした(注2)。

 

(2)映画の冒頭は、4人のマジシャンのそれぞれが得意技を披露します。
 例えば、ダニエルの場合、夜間、ビルのそばに立ってカードの束を手にしています。集まっている観客の一人にカードの任意の一つ(ダイヤの7)を覚えてもらい、その後カードの束を空に放り投げると、なんとそばのビルの窓が「ダイヤの7」の形の点灯しているではありませんか(注3)!

 本作では、マジシャンの4人が一緒のチームを組んで、3つの大掛かりなイリュージョン・ショーを繰り広げるのですが、それ全体が、「フォー・ホースメン」の黒幕たるある男の復讐劇であり(注4)、その男がラストの方で明らかにされると、観客はすっかり騙されていたことに気がつくというイリュージョン・ショーだったという仕掛けになっています。
 いってみれば3重の入れ子構造になっているわけでしょう。

 なかなか良く書けている脚本ですが(注5)、あえて難を言えば、3つの大掛かりなイリュージョン・ショーをとり行う4人のマジシャンのそれぞれの固有の技がショーの中では上手く生かされていないように思える点でしょうか。
 例えば、エスケープ・マジックのヘンリー(注6)は、本作の冒頭では、ピラニアのたくさん入ったもう一つの水槽が上に置かれている巨大な水槽の中で手錠と鎖から60秒で抜け出る技を披露しますが、3回のショーのメインの演し物では使われません。



 せっかく4人もの優秀なマジシャンが集められているのですから、彼らの技の組み合わせで大規模なイリュージョン自体が構成されていれば、と思ってしまうのですが(注7)。

(3)渡まち子氏は、「マジックをモチーフに破天荒な犯罪が展開する異色のサスペンス「グランド・イリュージョン」。ラストの謎解きが怒涛のような展開で、騙される快感を味わえる」として65点をつけています。
 また、相木悟氏は、「映画のもつ魔術的側面を存分に堪能できる好編であった」と述べています。



(注1)原題は、「NOW YOU SEE ME」。
 舞台で自分の姿や品物を消すマジシャンのセリフ「Now you see me, now you don't」(「見えますね, 見えますね, おっと消えた」)から。

(注2)最近では、ジェシー・アイゼンバーグは『ローマでアモーレ』で、メラニー・ロランも『人生はビギナーズ』で、それぞれ見ました。

(注3)ダニエルが、「近づきすぎると、逆に見えなくなる」と言うように、取り巻く観客が彼に近づきすぎるとトリックがわからなくなってしまいます。おそらく、付近のビルからダニエルが観客に見せるカードを望遠鏡で見ている助手がいて、ダニエルがカードを空に放り投げる瞬間に、ビルの窓を「ダイヤモンドの7」に点灯させたのでしょう。観客が見るカードがスペードだったら、窓はどのように点灯するのでしょうか、見てみたいものです。

(注4)3つの企業と1人の個人に対する復讐劇とされているところ、その中で「パリ信用銀行」は、黒幕の男の父親に資金を融資しただけであり、こんなに大掛かりに復讐されるいわれはないように思えるのですが。

(注5)なにしろ、ピックポケットのジャックが車で逃げるのを捜査官のディランとアルマがパトカーで追うカーチェイスまで、本作では用意されているくのですから!



(注6)ヘンリーを演じるアイラ・フィッシャーは、『華麗なるギャツビー』において、マートルに扮しています。

(注7)尤も、催眠術を操るメリットは、ニューオーリンズのショーの際に、一部の観客に催眠術をかけて捜査官ディランの追跡を阻んだりします。でもそれは、ショーの本筋ではありません。





★★★★☆



象のロケット:グランド・イリュージョン

ばしゃ馬さんとビッグマウス

2013年11月12日 | 邦画(13年)
 『ばしゃ馬さんとビッグマウス』を渋谷のシネクイントで見ました。

(1)久しぶりに麻生久美子が出演する映画だというので映画館に出向きました(注1)。

 主人公は、プロの脚本家を目指し、“ばしゃ馬”のようにせっせと脚本書きに精を出す34歳の馬渕みち代麻生久美子)。



 ですが、応募するどのコンクールも第1次審査に通らない有り様。
 それでもめげずに、友人マツモトキヨコ山田真歩:注2)とまじめにシナリオスクールに通うところ、全然脚本を書かないくせに酷く自信を持つ28歳の天童義美安田章大)と出逢います。
 みち代は、大口を叩く(“ビッグマウス”の)天童を毛嫌いするのですが、天童の方は逆にみち代に一目惚れ。



 さあ、この恋は、そしてみち代のプロの脚本家になるという夢は成就するのでしょうか、………?

 ことさらな出来事が何も起こらず随分と地味な作品ではあるものの、脚本家志望者を巡る物語を監督自ら脚本を書いて映画化した入れ子構造となっていて興味深い上に、主演の麻生久美子の好演もあって、まずまず面白く仕上がっています。

(2)本作の序盤では、雑誌『シナリオ』がずらっと並んでいたりする本棚がある狭い部屋で、パソコンに向かって脚本書きに精を出すみち代が描かれます。
 脚本が完成したのでしょう、プリントアウトする一方で、コーヒーを入れたりカップ麺を作ったりします。
 ついで、自転車に乗って郵便局に出向き、出来上がった脚本の入った封筒を“簡易書留”にして「東都テレビ ドラマ脚本賞係」宛に送ります。
 しばらくしてからでしょうが、本屋に入り、雑誌『シナリオ』を立ち読みし、コンクールの第1次審査を通らなかったことを知り、家に戻ってベッドで泣くところでタイトルクレジットが入ります。

 映画の導入の部分で、淡々とした進行ながら、みち代の現在置かれている状況が観客に鮮明に簡潔に印象づけられます。

 また、映画の中盤では、脚本を書くために老人ホームに取材しようとして、みち代は、元恋人で役者志望だったにもかかわらず今は介護士をしている松尾岡田義徳)のところに出向き、ボランティアとして同じ老人ホームで働くことになります。
 ですが、その仕事もうまくいかず、介護士を主人公とする脚本も、頼みにしていた監督からすげなく突き返されてしまいます。
 それで、松尾の部屋に行って、「夢を諦めるのってこんなに難しいの?でもまだ諦めきれない」などと心情を吐露し、感情が高ぶってきてあわや二人の関係が以前に戻ろうかという時に、みち代は「いいの?また好きになっちゃうよ」と言い、松尾も冷静さを取り戻します。



 これまでの吉田恵輔監督の作品では重点的に取り扱われていた男女の関係が、本作では随分と淡白に描かれていて観客はやや不満な感じを持ってしまいますが(注3)、それでもこの二人だったらこうなるかもしれないな、と妙に納得してしまいます。

 言うまでもなく、観客に与える印象は、脚本のみならず、出演する俳優の演技力や、全体を統括する監督の力量などによるものでしょうが、本作の出来栄えがまずまずだと思えるのは、その脚本自体がうまく書けていることが大きいのではないでしょうか。

 ただ、これだけみち代や天童の生活がリアルに描かれていると、映画の先の二人のことが気にもなってしまいます。
 みち代の方は、これまでの自分をさらけ出した脚本(「凡人だった僕へ」:実は、本作それ自体とされています)がコンクールの第1次審査にも引っかからなかったことがわかると、10年来の夢を諦めて、東京の下宿先を綺麗に片付けて田舎に戻ることになります。
 実は、彼女の実家は地方で旅館を営んでいるのです。
 両親(注4)も、早いところ戻ってきて家業を手伝ってくれるようみち代に言ってきたところです。
 地方の日本旅館の先行きは決して平坦なものでないでしょうが、とりあえずは落ち着き先があるので一安心といったところです(注5)。

 もう一方の天童は、彼が書いた脚本も、みち代にはよく書けていると言ってもらったものの、やはりコンクールに落選してしまいます。
 彼は、みち代よりも年が若いこともあり、まだまだ頑張ることでしょう(注6)。
 ただ彼の場合、その関西弁から出身地は関西方面なのでしょうが、母親(秋野暢子)が、ソープランドの受付として東京に出てきてしまっていて、みち代のようには帰るべき実家を持っていないのです。
 彼は、これまで同様、中華レストランでアルバイトをしながら脚本書きに邁進することになるのでしょうが、芽が出なかった時は一体どうなるのでしょう(注7)?

(3)渡まち子は、「シナリオライターを目指す男女の騒動を描く「ばしゃ馬さんとビッグマウス」。イタいもの同士のかけあいとやるせなさがしみる」として65点をつけています。
 また、相木悟氏は、「夢に向かって歯を食いしばってがんばっている人々の心をえぐる、快作かつ問題作であった」と述べています。



(注1)麻生久美子の映画は、『グッモーエビアン』以来(『舟を編む』でポスター出演していましたが)。
 なお、本作は吉田恵輔監督の作品で、これまで『さんかく』などを見ています。

(注2)『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』で主役のアユムを演じています。

(注3)劇場用パンフレットに掲載されている脚本の仁志原了氏と脚本も担当した吉田恵輔監督の対談において、吉田監督は、「今考えると、もともと男2人の話だったこともあって、脚本上のラブストーリー要素は薄かった」と述べています(「男2人の話」というのは、本作の主人公みち代は吉田監督がモデルで、天童は仁志原氏がモデルとされていることを指しています)。

(注4)父親は井上順、母親は松金よね子が演じています。

(注5)さらには、「旅館を手伝うだけでなく、同時に介護の勉強でもしようかと思っている」とみち代が言っていることでもありますから。

(注6)2度ほど天童が書いた脚本を読んだみち代から、「天童くんは、私より才能がある」とも言われていますし。

(注7)まして、その母親が年をとって彼を頼ってきた場合にはどうするのでしょう(まさか、天童が脚本を書くために取材したホームレスになるわけでもないでしょうし、また生活保護に頼ってしまうわけでもないでしょう)?



★★★☆☆



象のロケット:ばしゃ馬さんとビッグマウス

人類資金

2013年11月09日 | 邦画(13年)
 『人類資金』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)『許されざる者』で活躍したばかりの佐藤浩市が主演だというので、映画館に行ってみました(注1)。

 本作の冒頭では、1945年のこととして、映画『日輪の遺産』で描かれたのとほぼ類似する財宝(注2)が、東京湾に沈められます(注3)。
 ついで、時は2014年に。
 主人公の真舟佐藤浩市)が、正体不明の森山未來)に廃ビルに連れて行かれます。



 すると、“M”と呼ばれる香取慎吾本庄岸部一徳)とが現れ、東京湾に沈められた10兆円もの「M資金」をすべて盗み出してほしいという依頼がなされます(報酬は50億円だとして)。というのも、その「M資金」を管理する「財団」が日本にあるものの(注4)、資金の本来の趣旨を外れてマネーゲームに邁進してしまっているからだというのです。
 香取たちは一体何のためにそんなことをするのでしょう、そしてその盗み出しは果たして成功するのでしょうか、………?

 本作は、終戦間際から現代まで取り扱うタイムスパンは長く、また舞台も日本だけでなく、ロシアのハバロフスクからニューヨークの国連本部などとグローバルで、邦画にしてはスケールがかなり大きくなっているものの、如何せんそれらを背景にして語られる物語は面白みに欠け(注5)、出演する俳優陣は多彩でそれなりに頑張っているとはいえ(注6)、イマイチの感が残ります。

(2)本作は、「M資金」を巡る詐欺事件を描いているものとばかり思って映画館に出かけたのですが、そして映画の最初の方では、主人公の佐藤浩市が、詐欺話を仕掛けているところが映し出されますが、そんな詐欺話はすぐに終わってしまい(注7)、実際には、「M資金」なるものが実在するとしてストーリーの大部分が組み立てられているので、とても意外な感じがします。

 いうまでもなくそんなことは元々ありえないのですから(注8)、勿論この映画の物語自体もありえないものであり、そうだとしたら、この映画で望ましいとされていること(注9)自体も、いくら石が国連総会で立派な演説をするにしても、ありえないこととなってしまうのではないでしょうか?



 とはいえ、本作は、「M資金」なるものが実在すると仮定した上で物語が組み立てられているわけなのですから、そう正面から突き放すこともないでしょう。
 ただ、そうだとしたら、「M資金」を終戦間際に東京湾に沈める話を冒頭に持ってくるのではなしに、それが引き上げられて、どこかの金庫に格納される場面をまずもって描き出す必要があるのではないでしょうか(注10)?
 あるいは、沈められているままだとしても、それが海底に置かれている状況を映像で映し出すくらいはすべきではないでしょうか(注11)?

 それはともかく、本作によれば、なんだか「M資金」の金の延べ棒は「日本投資政策銀行」あたりに保管されているようなのです(注12)。そのため、同銀行は「M資金」に保証を与えており、その結果、それを担保とする融資願い(「財団」あるいはその傘下のヘッジファンドが行うもの)は、世界のどの金融機関においても無審査でただちに受理される、などとされています(注13)。
 とすれば、本作の世界では、「M資金」の実在がすでに全世界の周知の事実となっているわけでしょう。ただ、そうであれば、本作の冒頭で真舟たちが詐欺話をすることなど起こりえないのではないでしょうか(相手の無知につけ込んで騙すわけですから)?
 それに元々、政府関係機関らしき「日本投資政策銀行」が、投機目的のヘッジファンドを傘下に置く「財団」なるものに対して、いくら原資を保管しているからといって、その融資に無制限の保証を与えることなど考えられないのではないでしょうか?

 それもさておくとして、本作では、真舟らが、ハバロフスクに駐在する鵠沼オダギリジョー)を使って10兆円を盗み取る計画を実行しますが、公式サイトの「STORY」では「一つのミスから綻びが生じてしまう」とされています。
 ですが、500億円の融資願いが200通、200の銀行に対して提出され、その資金が口座に次々と入金されたことは真舟らが確認しており、真舟も50億円の報酬を受け取っているのですから(注14)、身分がバレることなどがあったにしても、計画自体は成功したというべきではないのでしょうか(注15)?

 クマネズミの理解力不足によるところが大きいのでしょうが、以上で挙げた他にもよくわからないことが次から次へと本作では起こるために(注16)、見終わっても、釈然としない気分のまま放り出される感じになります。

(3)渡まち子氏は、「ストーリーは、現代の金融資本主義の危うさや虚構の繁栄、真の豊かさなどを人間の良心に訴える形で語っていくものだが、何しろ、セリフのほとんど説明調なのでどうにもテンションが上がらない。クライマックス、森山未來が、長台詞の演説を熱演するのだが、これがまたテンポを削ぐ形になってしまうのがやるせない。これでは映画を見ているというより資料を読んでいるような気持ちになってしまう」として55点をつけています。
 また、前田有一氏は、「スケールの大きな話に海外ロケによる映像、アクションシーンをダンサーならではの華麗な身のこなしでこなした森山未來など、ところどころ光る部分はあれど、詰めが余りにも甘い。邦画としては異例と言っていいほど意欲的な挑戦だったが、これが限界というなら残念きわまりない」として40点しかつけていません。
 さらに、柳下毅一郎氏は、「なんにせよ、最後演説したら悪人が改心してみんな納得するという脚本を書いてしまった脚本家は、自分のやってることが幸福の科学の映画と同じレベルなんだというのを思い出してほしいものである」と述べています。



(注1)以下におけるストーリーの具体的な箇所は、大部分、雑誌『シナリオ』11月号掲載のシナリオによっています。
 なお、本作は、原作者の福井晴敏氏と阪本順治監督とが共同で脚本を書いています。

(注2)戦争中にフィリピンから日本に移送された金塊。『日輪の遺産』では200兆円とされていたのに対し、本作では10兆円(なお、同映画についての拙ブログの「注2」及び「注7」を参照)。

(注3)『日輪の遺産』では、金塊は、多摩の弾薬庫の奥に秘密裏に隠されます。

(注4)「財団」の初代理事長は笹倉雅実(金塊を東京湾に沈めた憲兵の大尉)、現在はその子供の笹倉暢彦仲代達矢)が理事長(“M”とされる香取慎吾は、さらにその子供の笹倉暢人)。
 ただ実際には、ニューヨークにある投資銀行が実権を握っていて、その総帥がハロルドヴィンセント・ギャロ)。

(注5)当初は、越中島で金塊を海に沈めるシーンがあったり、真舟と石とが財団の旧ビルから地下道を通って地下鉄のトンネル内に走り抜けたりするシーンがあったりして、これはと思わせますが、その後の物語のメインの方は、本文の(3)で触れる渡まち子氏がいうように、その「セリフのほとんど説明調」で単調であり、さらには、観月ありさが出演しているにもかかわらずラブ・ロマンス的な面が殆どなく(下記の「注6」を参照)、また真舟や石らを追う者が遠藤ユ・ジテ)一人というのでは、派手なアクションシーンも期待できず、どうにもこうにも仕様がありません。

(注6)特に、笹倉暢彦(仲代達矢)と笹倉暢人(香取慎吾)とをつなげる役割を果たす役柄の観月ありさは、アクションシーンもなんとかこなしているものの、その役の必要性が今ひとつ腑に落ちず、添え物的な感じしかしませんでした。



 彼女が扮する高遠美由紀は、防衛省情報局に所属し、笹倉暢彦が運営する「財団」を守る役目があるようです(従って、間接的にハロルドにも使われていることにもなります)。ですが、笹倉一族の係累であり、笹倉暢人と以前いい関係があったこともあり、真舟や石と一緒の行動をとることになってしまいます。
 これでは、彼女の存在意味が薄れてしまうのは当然ではないでしょうか?

(注7)学士会館の喫茶ラウンジで、真舟と酒田寺島進)が、ある会社の幹部に「M資金」の話を持ちだしているところに刑事の北村石橋蓮司)が現れ、御用となってしまいます。

(注8)Wikipediaの「M資金」の項には、「降伏直前に旧軍が東京湾の越中島海底に隠匿していた、大量の貴金属地金(内訳は金1,200本・プラチナ300本・銀5000トン)が1946年4月6日に米軍によって発見された事件」と記載されていますが、事実なのでしょうか?事実としたらその根拠は何なのでしょうか?
 仮に事実としても、例えば金地金1,200本くらいではせいぜい60億円くらいでしょうから、映画でいう「10兆円」には程遠いものがあります。
 なお、劇場用パンフレットに掲載されている「M資金」に関する記事においても、この事件のことが記載されていますが、そこでは「ほぼ事実といえよう」と述べられていますが、根拠が示されていません。

(注9)開発途上国の子供にPDAを配布すること。
 でも、開発途上国出身者の石が、主人公・真舟に対し、「携帯の契約件数は、とっくに50億を超えているにもかかわらず、世界の7割の人が、いまだに電話もかけたことがない」と嘆く場面があり、これが途上国へ「M資金」を使ってPDAを贈与するという話の背景となっていますが、これこそは先進国目線で開発途上国を捉えている見方の典型ではないかという気がします。なにも、電話をかけられないなら人間じゃないということでは全くないのですから!経済規模が小さなところでは、電話をかける必要性などあまりないのではないでしょうか?
 なお、スマホではなくあえてPDAにした理由として、本庄は真舟に対し、「PDAのほうが頑丈。スマホじゃ、乾燥地帯やスコールの中ですぐに壊れてしまう」などと説明します。ただ、現在では、スマホやタブレットの流れの中に飲み込まれてしまって、単独のPDAなるものは簡単に手に入るのでしょうか?

(注10)笹倉暢人は、真舟に依頼する際に、「昭和20年8月15日、あの海に沈められた金塊すべてを盗んでほしい」と言っています。まだ海底に沈んだままであるように語っていて、すでに引き上げられてどこかの金庫に秘匿されているものではなさそうなのですが。

(注11)憲兵の笹倉大尉は、岸壁に運ばれてきた大量の金の延べ棒の中から一本を取り出して海に中に投げ入れますが、その際に「これは見せ金だ。誰かが見つければ、ここに金塊があったことの証明になる」と言います。そうであるなら、投げ入れられた金の延べ棒はその後発見されているに違いありませんから、少なくともそのことを映画の中で描き出すべきではないでしょうか?
 なお、このサイトの冒頭の記事によれば、阪本順治監督は『週刊新潮』において、「戦後、米軍が越中島海底から金・銀・プラチナなど大量の貴金属を発見するという実際にあった事件などを引用し、本作にも金塊を土運船に引き上げるシーンを入れています。最近偶然に知り合ったスキューバ用具の関係者から「越中島海底にまだ土運船が沈んでいる」という話を聞きました」と述べていますが、少なくとも、本作においては「金塊を土運船に引き上げるシーン」など描かれてはおりません!

(注12)笹倉暢人は、真舟に対し、「日銀や投資政策銀行に保管されている莫大な原資」と語っています。
 なお、「日本投資政策銀行」とは、実在の「日本政策投資銀行」(財務省所管の特殊会社で、政策金融機関)から連想された架空の銀行でしょう。

(注13)真舟が、ハバロフスクに駐在する鵠沼に対し、そのように語ります。

(注14)その資金を使って、イギリスの小さな石油会社の株の買い占めを行うことになります。

(注15)ただ、成功したとすると、「財団」の資金は底をついてしまったわけで、身動きが取れなくなってしまったとも考えられるところ、その理事長の笹倉暢彦は、息子の笹倉暢人のために、その資金を大きく動かしているようなのです(上記「注14」の株価の釣り上げに加勢しているようです)。
 尤も、10兆円を傘下のヘッジファンドを通じて市場で運用することにより、財団が運用可能な資金量はもっとずっと増えているのかもしれませんが(ただ、その場合には、笹倉暢人らが財団から盗み取ろうとする金額を10兆円に限定する意味がなくなってしまうのではないでしょうか?)。

(注16)一番わからないのは、「M資金」が、「日本のもの作り、人や企業を育て国益とするための投資ファンド」だったはずのところが、今や「カネでカネを買う投機ファンド」となってしまい本来の目的から外れたものになっているとして、「M資金」を自分たちで奪い取って、その資金を使って、PDAを開発途上国の子供たちに配布することによって、現在の市場の「ルール」を変換してしまおうと、笹倉暢人らが考えている点です。
 現在だって先進各国は、拙いやり方にせよ、様々の援助を開発途上国に対して行っているのであり、PDAの配布といってもその援助方法の一つに過ぎないのではないでしょうか(本作においては、これは単なる「援助」ではなく「投資」だとされていますが、これまでの政府の援助にしても単なる援助ではないはずです)?
 また、金融市場の投機ですが、仮に「財団」の10兆円が市場から引き上げられるとしても、残余の莫大な資金(例えば、膨大なオイル・マネーもあることですし、あのジョージ・ソロスは20兆円以上の資金を動かすことができたのではないでしょうか)で同じことはまた繰り返されるのではないでしょうか?



★★☆☆☆



象のロケット:人類資金

パッション

2013年11月05日 | 洋画(13年)
 『パッション』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)あまり事前の情報を持たずに見たのですが、なかなか良く出来たサスペンス映画で、拾い物でした。

 世界的な広告代理店のベルリン支社のトップであるクリスティーンレイチェル・マクアダムス)が主人公。



 彼女は、なんとか機会を捉えてニューヨーク本社に戻ろうとしています。
 部下のイザベルノオミ・ラパス)が発案して、クライアントの受けが良かったプロモーション・ビデオを、厚顔にも自分が創りだしたものだと本社幹部に説明し、本社の復帰の約束を確保します。

 これにイザベルは大きなショックを受けますが、独断で、そのビデオを世界中に公表してしまいます。すると、大きな反響が巻き上がり、本社サイドではイザベルの評価が高まり、クリスティーンに代わってイザベルを本社に呼び寄せようとします。



 ここから、クリスティーンの反撃が始まります。それにイザベルの部下のダニカロリーネ・ヘルフルト)も関係してきて、さて話はどんなことになるのでしょうか、………?

 2010年に公開されたフランス映画『ラブ・クライム 偽りの愛に溺れて』(2010年:アラン・コルノー監督、日本では未公開)のリメイク版とのことながら、ストーリーがなかなかおもしろくできている上に、ブライアン・デ・パルマ監督が様々の工夫をこらしており、著名な二人の女優のぶつかり合いが見もので、最後まで飽きさせません(注1)。

(2)オリジナルとなった『ラブ・クライム 偽りの愛に溺れて』がTSUTAYAに置いてあったので、すぐ前に見た『危険なプロット』に出演していたクリスティン・スコット・トーマスが出ていることもあり、借りてきて見てみました。



 映画の冒頭など、両作はかなり類似しているように思われます。
 すなわち、豪華なクリスティーヌの自宅で、彼女が仕事の話を交えながらいろいろイザベルと話をしていると(イザベルの歓心を得るべく、身にまとっていたスカーフを譲ったりします)、男(オリジナルではフィリップ、本作ではダーク)が現れ、二人が親密な雰囲気を醸しだすために、イザベルが早々に退散するというわけです。
 この簡潔な場面に、後に展開する様々な要素がつめ込まれています。

 とはいえ、相違する点もいろいろあり、例えば、次のようなものが挙げられます。
・オリジナルがパリを舞台にしていて、会話も大部分がフランス語であるのに対して、本作は、ベルリンが舞台で、会話は英語であること(注2)。
・オリジナルでは、クリスティーンらが勤める会社は農産品などを扱う商社のような感じですが、本作では広告代理店。
・オリジナルは、クリスティーン(クリスティン・スコット・トーマス)とイザベル(リュディヴィーヌ・サニエ)には歳の差がかなりあるように見えますが(注3)、本作においてはほぼ同一年齢のように見えること。
・オリジナルでは、イザベルの部下はダニエルという男性であるのに対して、本作ではダニという女性。
・オリジナルでは、イザベルが映画館に行って「最後の砂浜」という映画を見たことになっているのに対し、本作では劇場に行ってバレエ「牧神の午後」を観劇したとされていること。

 でも、一番大きな相違点は、オリジナルでは、映画の半分くらいのところで、真犯人が明かされ、さらには、真犯人が行ういろいろな工作も(注4)、映画の途中で明らかにされてしまいますが、本作ではラスト近くにならないと真相が明かされないことだと思われます(注5)。
 こうすることにより、様々なことが最後に一度に観客にぶつけられるために、消化不良を起こしかねない恐れがあるものの、本作のサスペンス的な盛り上がりは随分と強化されることになります。
 他方、オリジナルの方では、いったいなぜ真犯人はそんないろいろな工作をするのか、真犯人の表情などを見ながら、観客はあちこちと考えを巡らす余裕があるとはいえ(注6)、全体的に平板に流れるきらいがあります。

 それに、クリスティーヌの双子の姉・クラリッサの話は、オリジナルでは全く出てきません(注7)。
 この話は、本作においてはリアルなものなのか、クリスティーヌのつくり話なのか判然としません(注8)。
 でも、いずれにしても、双対的・鏡像的な関係がいくつも本作では描かれている感じがするところです。すなわち、クリスティーナとイザベルとの関係とかイザベルとダニとの関係(注9)、それに劇場のバレエです(注10)。
 ここらあたりは、どうやら本作を制作したブライアン・デ・パルマ監督のアイデアによるものといえそうです。

 そう思って思い返すと、本作のはじめの方では、新しいスマホ「オムニフォン」をPRするビデオ映像が流されますが、そこには、女性たちが、パンツの腰のポケットにスマホを入れて通りを歩きながら、その腰を見て嬉しがる男たちの写真を撮る様子とか、その画像が映し出されるシーンがあります。
 まるで鏡に写っているような姿が、映像としてスクリーンに映しだされるのです。
 そして、本作の最後の方で真犯人に示されるのも、その犯行を明らかにしている映像であり、それを見ている真犯人の姿です。

 本作は、映像の持つ鏡像的な関係を映像で示そうとしている作品といえるのかもしれません。もしかしたら、映画を見ている観客も、映像の向こうからあるいはカメラで撮影されているかもしれません。ちょうど、バレエ「牧神の午後」を鑑賞しているイザベルの顔の大写しが、スプリット・スクリーンながら映し出されるように。

(3)渡まち子氏は、「女たちの間に火花散る殺意と官能を描くサスペンス・スリラー「パッション」。完全犯罪にはほど遠いが女の権力闘争ものとして楽しめる」として50点をつけています。
 また相木悟氏は、「デ・パルマが、他のヒッチコック継承者と比べ、他の追随を許さない理由は、テクニック云々より倒錯した“変態性”を受け継いでいるがゆえであろう。しかし最近は、そうした面をスタイリッシュに気取ってみせているような気がしないではない。本作も然り。老匠に求めるのは酷かもしれないが、今一度無様にさらけだした渾身作をみてみたいものである」と述べています。



(注1)レイチェル・マクアダムスは、『ミッドナイト・イン・パリ』や『恋とニュースのつくり方』などで見ましたし、ノオミ・ラパスは『ミレニアム』で見ました。

(注2)イザベルの出張先も、オリジナルの場合カイロですが、本作ではロンドンです。

(注3)女優の年齢差は約20年。

(注4)真犯人は、自分が犯人だとまず認定されるような工作をするのです(本作では描かれませんが、オリジナルでは、ダイイング・メッセージがありますし、ナイフの購入店でも強い印象を残す行為をします)。その上、詳細に調査すれば、自分のアリバイが証明されるような工作も同時に行います。

(注5)このサイトに掲載されているデ・パルマ監督のインタビュー記事において、同監督は、「常に驚きがあるように脚本を書き換え、誰が殺人犯なのかわからないように多くの容疑者を登場させた」と述べています。

(注6)例えば、真犯人は、はじめに自分に嫌疑がかかってからそれを晴らしたほうが、逆の場合よりも、自分が真犯人だとされる確率が小さくなると考えたのかもしれません。

(注7)オリジナルでは、むしろイザベルの姉(地方で普通に暮らしています)が登場します。

(注8)クリスティーヌの愛人・ダークポール・アンダーソン)によって否定されますが、ラストの方のクリスティーヌの葬儀の場面ではクリスティーヌに似た女性が登場したりするのです。
 なお、上記「注5」で触れているデ・パルマ監督のインタビュー記事において、同監督は、「クリスティーンは自分のセックスの相手に、自分の顔に似た仮面をつけさせる。それによって彼女は、常に自分自身と愛の営みを交わしていることになる。仮面は彼女の謎めいた双子の姉妹なんだ。その姉妹が本当に存在していようといまいとね」とも述べているところです。

(注9)オリジナルでは、クリスティーヌとフィリップ、イザベルとフィリップとの性的関係は描き出されるものの、イザベルとダニエルとは、本作のイザベルとダニとの関係のようには描かれず、単なる上司と部下との関係に過ぎません。
 それに、本作では、クリスティーヌとイザベルとの関係も妖しいものとして描かれるところ、上記「注5」で触れているデ・パルマ監督のインタビュー記事において、同監督は、「オリジナル版のアラン・コルノー監督は、キャラクター間の性的な惹かれ合いについて避けて通っていた。だがレイチェル・マクアダムスとノオミ・ラパスは、それをストレートに演じたんだ」と述べています。

(注10)劇場で上演されているバレエについて、上記「注5」で触れているデ・パルマ監督のインタビュー記事において、同監督は、「バレエの舞台には3方向に壁があり、ダンサーはスタジオの鏡の壁を覗き込んでいるかのように観客と対峙する。それによって、彼らにカメラをまっすぐ見てもらうことができ、4番目の壁のルールを破り、そのシーンに奇妙な雰囲気を醸し出すことができた」と述べています。



★★★★☆



象のロケット:パッション

危険なプロット

2013年11月01日 | 洋画(13年)
 『危険なプロット』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)予告編を見て面白いと思い映画館に行ってきました(注1)。

 高校の国語の教師・ジェルマンファブリス・ルキーニ)が主人公。
 彼は家で、生徒が課題(「週末のこと」)で書いた作文を読みますが、出来が悪いものばかりでうんざりします(「彼らの無知よりも将来が心配だ」)。
 その中で、ある家庭の内情を描いたクロードエルンスト・ウンハウアー)(注2)の作文が目に止まります(「綴りのミスもなく語彙も豊富だ」)。



 次々と書いてくるクロードの作文を読み、その才能に惹かれたジェルマンは、個人的に彼に文学の指導をします(注3)。
 さらにジェルマンは、その作文を妻のジャンヌクリスティン・スコット・トーマス)にも見せますが(注4)、2人は次第に、その作文に書かれているジェルマンの生徒・ラファ(クロードの友達)の家庭の様子自体に興味を持ちだしてしまいます(注5)〔特に、ラファの母親のエステルエマニュエル・セニエ)とクロードとの関係に〕。
 ジェルマンは、クロードが作文を書き続けられるよう、とんでもないことをするハメになり(注6)、他方で、クロードが書いていることが現実のことなのかフィクションなのかも判然としがたくなってきます。
 さあ、事態はさらにどのように展開していくのでしょうか、………?

 クロードという美少年にかき回される2つの家庭の様子(注7)が、主人公の国語教師ジェルマンの生徒に対する作文指導というやや変わった角度からユーモアをもって描かれていて、なかなか興味深い作品となっています(注8)。

(2)とはいえ、問題点もあるように思います。
 ジェルマンやラファの家の中を描き出しているシーンなどは、原作が戯曲(注9)であることを引き摺っているように感じられます(注10)。
 また、ジェルマンは、生徒を指導する教師という立場でありながら、生徒であるクロードに思うがまま引きずられてしまっているのは、随分と主体性のないつまらない人物のように思えてしまいます(注11)。
 さらには、ジェルマンの妻・ジャンヌの人物造形がイマイチよくわからないところです。
彼女は、「ミロタウロスの館」というところで画廊を営んでいますが、うまくいかずに気が焦っている面もあるとはいえ(注12)、いとも簡単にジェルマンの元を去ってしまいます(注13)。



 もっと言えば、文学がフィクションであることは、ジェルマン自身がよく理解しているはずにもかかわらず(特に、西欧人なのですから)、そしてクロードに文学理論を教えているにもかかわらず、クロードが書いてきた作文をなかばリアルな話として受け取ってしまっているのは、まるで日本の自然主義文学(「私小説」)が取り扱われているような感じがして、ちょっと戸惑ってしまいます。

 でもまあ、そんなところはどうでもよくて、クロードの目を通して(まるでクロードがビデオカメラをもってその家庭に入り込んだかのように)、別の家庭の内情を覗き見てジェルマンらが興奮するというのが本作の構図だと受け止めるのであれば、こんなこともあるのかなといった感じになります。

(3)中条省平氏は、「その作為がまったく不自然に感じられないのは、オゾン監督が一切のこけおどしを排して落ち着いた演出に徹し、丹念で確実な編集を積み重ねているからだ。またルキーニ、トーマス、セニエの見事に対照的な大人のアンサンブルに加えて、新星の美少年エルンスト・ウンハウアーの危うく、同時にしたたかな存在感もドラマをひき立てている」と述べています。
 また、秦早穂子氏は、「才気あふれるあまり、心に響かぬ憾みはあるが、冷静な語り口、緻密な作り、実に巧い。ふたりの主役も魅力的だ。結末は手痛いにしても、所詮、書くとは危険と背中合わせで生きること。その悦びとおそれがある限り、人生と物語は“続く”のであろう」と述べ、さらに櫛田寿宏氏は、「上質のユーモアを含んだ、皮肉たっぷりの知的なサスペンスに仕上がっている」と述べています。



(注1)原題は「Dans la maison」(英題In the House)で、本作にピッタリです。

(注2)クロードは転校が多い生徒で、母親は7年前から不在で、父親も病身です。

(注3)例えば、誰に向かって書くのかを考えるべきだとか、読者を飽きさせないように次に起こることに読者の興味をもたせるようにする、などといったことを、ジェルマンはクロードにアドバイスします。

(注4)ジャンヌは、最初のうちは「生徒にこんな作文を書かせるなんて」とか、さらには「クロードの親に言うべき」、「精神科医にみせるべき」、「ジョン・レノンを殺した男がサリンジャーの本を持っていた」などと言いつつも、その作文を読みたがります。

(注5)クロードが提出する作文の末尾に、毎回「続く」と記載されているので、どうしても次の作文が気になってしまいます。

(注6)クロードは、ラファに数学を教えるということで彼の家に入り込みますが、ある時ジェルマンに、「今度の数学の試験の成績が悪いと、その家に行けなくなる」と言い出します。ジェルマンは、「私に数学の問題を盗めというのか」と驚くものの、数学教師が作成したテスト用紙を密かにコピーしてしまいます。
 結局は、ラファが学校当局にそのことを打ち明けて、ジェルマンは停職処分を食らうことに。

(注7)クロードは、家庭のぬくもりを求めているのにすぎないのでしょうが(特に母親の愛情を求めているのでしょう)、それがエステルとの関係では恋愛感情になってしまい、エステルは「夫とラファが自分を必要としている」と言って、クロードから離れることになります。



 ついで、クロードはジャンヌに近づきますが、ジェルマンがクロードにジャンヌの秘密(不妊症)を明かしていたことがわかると、ジャンヌも離れてしまいます。

(注8)主演のファブリス・ルキーニは『屋根裏部屋のマリアたち』や『しあわせの雨傘』で、また、クリスティン・スコット・トーマスも『砂漠でサーモン・フィッシング』や『サラの鍵』でおなじみです。

(注9)本作は、スペインのファン・マヨルガの戯曲「最後列の少年」に基づいているとのことです(クロードは、教室の“最後列”の席に座っています)。

(注10)クロードがドアの陰から部屋の様子を覗き見しているシーンは、演劇において、中の様子に聞き耳を立てるよく使われる手法に通じるのではないでしょうか。
 また、クロードとラファの母親エステルとが二人きりでいるところにジェルマンが登場するのは、『ローマでアモーレ』でウディ・アレンが使っている手法(同作に関する拙エントリの「注2」を「参照)と同じように思われます。

(注11)ジャンヌが言うように、ジェルマンが「クロードに恋している」ためなのかもしれないところ、それだけでなく、ジェルマンは、クロードの作文についてのジャンヌの感想を、まるで自分のもののようにクロードに話したりもするのです〔彼は、元々作家志望で、本も1冊書いているのですが(クロードが本棚にそれを見つけます)、自分にはその才能がないと諦めています〕。

(注12)ジャンヌは「言葉による絵画」なるものをジェルマンに見せますが、彼は「売れるとは思えない」と答えますし、また、館の持ち主の双子の姉妹に、画廊で展示する絵を見せている場面がありますが、どう転んでも売れそうにない中国人の作品なのです(実際にも売れず、画廊は売却されることに)。

(注13)いくら、ジェルマンが、ジャンヌの不妊症のことをクロードに打ち明けてしまったとはいえ。



★★★☆☆



象のロケット:危険なプロット