映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

海賊とよばれた男

2016年12月20日 | 邦画(16年)
 『海賊とよばれた男』を吉祥寺のオデヲン座で見ました。

(1)原作が本屋大賞を受けているので面白いかなと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「inspired by true events」の字幕があり、B29の前面の大写しがあった後、その胴体が開いてたくさんの焼夷弾が落とされます。
 地上では、それらが屋根に落ちたりして大火災となり、人々が逃げ惑います。
 飛行場の隅にはパイロットたちが集まっています。
 中の一人が「どうして2機しか飛べないのか?」と怒鳴ると、整備員は「燃料がないのです」と答えます。
 それでも、2機(注2)が飛び立って敵機に挑みますが、逆に撃ち落とされてしまいます。
 次いで、山の上から空襲の有様を見る主人公の国岡鐵造(60歳:岡田准一)の姿。

 そして、「1945/8/17」の字幕。
 まわりが焼け野原の中で焼け残った「國岡舘」の文字が見えるビルに、車が着きます(注3)。
 国岡商店の店員たちが広い部屋に集まっています。
 店員たちは、「何を話すのだろう?」、「ここの解散だろう」、「ここがなくなったら、明日からどうやって暮らしていけばいいのか?」など口々に話しています。
 そこに鐵造が入ってきて、「よう無事でいてくれた。先ずは愚痴をやめよう。戦争に負けたからといって、誇りを失うな。日本人がいる限り、この国は再び立ち上がる」、「この国は石油で戦い、石油で敗れた」などと話します。
 店員の一人が「ここに残っていいということですか?」と尋ねると、鐵造は「心配するな、一人もクビにはしない」と宣言します。

 あとで幹部が「店主、あの宣言はまずいのでは」と言うと、鐵造は「うるさい、クビを切るのは簡単だ」、「仕事はつくるもの」、「石油の商いを何とかする。それがダメなら、皆で乞食をしよう」と答えます。

 しかしながら、鐵造が「石油を融通してもらえないか」と石統(石油配給統制会社:注4)の社長の鳥川國村隼)に要請すると、鳥川は「あなたのところへは石油は回せない。あなたたちは、汚い手を使って、石油を横取りしたではないか」と答えます。
 さらに、「せめて石統に加入させてもらえないか」と鐵造が頼んでも、鳥川は「入れてもらえると思っているのか?甘いよ」とのツレナイ返事。

 こんなところから本作は始まりますが、さあ、物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、百田尚樹氏が出光佐三(注5)をモデルに書き上げた原作を映画化したもの。主人公は、早くから石油の重要性に目をつけ、メジャーの支配が厳しい石油業界の中にあって、その圧力に屈せずに強固な意思を持って業績を拡大した男です。それはそれでなかなか面白く描けているとはいえ、時流に反して、女性の役割が随分と小さく描かれているように感じました。

(2)本作は、近頃あまり見かけない男性路線を取っているように思いました(注6)。
 何しろ、目立つ女性のキャラクターとしては、綾瀬はるかが演じる主人公の最初の妻・ユキくらい。その彼女も、ほんの少し登場したかと思えば、すぐに離婚して画面から消えてしまうのですから(注7)、いったいどうしたことなのかなと訝しく思えてしまいます。



 実際の出光佐三氏は、後添えを娶り、5人の子供までいるのです(注8)。
 本作でも、そのことを全く無視しているわけではありません。主人公の最後の場面では、多くの親族が彼の病床の周りに集まるシーンが描き出されているのですから(注9)。

 でも、ラストの方で、小川初美黒木華)が、96歳になった鐵造のところに大叔母にあたるユキの遺品をもってくるというシーンがあって、鐵造はユキの思いを知ることになります(注10)、
 これによって、鐵造とユキの一途の愛が描かれたことになるわけでしょう。
 そして、ラストのシーンでは、北九州の海を突き進むポンポン船に、鐵造など國岡商店を支えた重要人物が乗り合わせている幻想的なシーンが映し出され、その中にユキが混じっているのです。
 ですがそこまでされると、見ている方としては、後妻さんの立場はどうなるの、鐵造の事業に何の関わりもなかった人なの、と思えてしまいます(注11)。

 さらに言えば、このような純愛路線に沿って鐵造のキャラクターを作り上げてしまうと、どうもその人物像が、ある意味で薄っぺらなものに見えてしまいます。
 確かに、本作では、海賊と呼ばれ不撓不屈の精神力を備えた鐵造の姿を、主演の岡田准一がなかなかの演技力をもって演じてはいます。
 ただ、いつも額にシワを寄せて眼光鋭く未来を見据える姿ばっかりというのでは、鐵造が持っていたに違いない幅の広さとか包容力の大きさといったものは、控えめな感じになってしまうのではないでしょうか?
 クマネズミには、鐵造が女性に対してどのように接したのか(注12)、といった彼のプライベートな面が同じようなウエイトを持って描かれて初めて、鐵造の全体像が見えてくるように思うのですが。

 尤も、本作のモデルとなった出光佐三氏は1981年(昭和56年)に亡くなった人物ですから、そのプライベートな面を直接的に描こうとすると、いくら登場人物の名前を変えたりしても差し障りが出てきてしまうのでしょう(注13)。
 とすると、例えば最近見た『ブルーに生まれついて』のように、実在のジャズ・トランペット奏者のチェット・ベイカーを描きながらも、実在しなかった人物をヒロインに仕立て上げ一種のファンタジーにしてしまうのも、一つのやり方でしょう。
 あるいは、『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』のように、主人公の生涯のある一時期に焦点を絞って描くというやり方もあるでしょう(注14)。

 本作のように、立志伝中の人物を巡って、その若い時分から96歳で亡くなるまでのほぼ70年間をほぼ時系列に沿って描く(回想シーンが何度も挿入されますが)というのも一つのやり方でしょうが、また違ったアプローチの仕方もあったのではないか、と思ってしまいました。

(3)渡まち子氏は、「「永遠の0」の作者、監督、主演が再び集結しているが、VFXの使い手の山崎貴監督がロケ撮影を駆使しているところに注目したい。特に海のシーンがいい。どんな苦境にもチャレンジ精神を忘れず立ち向かった主人公には、潮風が香る大海原が良く似合う」として70点を付けています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「伝馬船の旗、タンカーの旗、船を迎える人々の旗。そのはためきが鐵造の闘志を物語る。すべて視覚で表現しようとする山崎貴の力業だ」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。



(注1)監督・脚本は、『永遠の0』や『寄生獣』の山崎貴
 原作は、百田尚樹著『海賊とよばれた男』(講談社文庫:未読)。

 なお、出演者の内、最近では、岡田准一は『エヴェレスト 神々の山嶺』、吉岡秀隆は『64 ロクヨン 後編』、染谷将太は『俳優 亀岡拓次』、鈴木亮平は『海街diary』、野間口徹は『シン・ゴジラ』(資源エネルギー庁の課長役)、ピエール瀧は『怒り』、綾瀬はるかは『高台家の人々』、堤真一は『日本のいちばん長い日』、國村隼は『ちはやふる 上の句』、小林薫は『深夜食堂』、黒木華は『永い言い訳』、光石研は『森山中教習所』、近藤正臣は『龍三と七人の子分たち』で、それぞれ見ました。



(注2)劇場用パンフレット掲載の「STORY」によれば、夜間戦闘機「月光」を指していますと(Wikipediaのこの記事によれば、「速度や高々度性能の不足、また飛来するB-29に比して迎撃機数が少ないこともあって、十分な戦果を挙げることはできなかった」)。

(注3)上記「注2」で触れた「STORY」によれば、「國岡舘」は銀座にありました。
 実際には、このサイトに掲載されている写真の「出光館」でしょう。

(注4)「石統」については、例えばこの記事をご覧ください。

(注5)出光佐三については、Wikipediaのこの記事をご覧ください。

(注6)クマネズミは、ダメな男、しっかり者の女というパターンの映画(特に、邦画で)がこのところ多くなっているのでは(例えば、『湯を沸かすほどの熱い愛』のような)、と思っているところです。

(注7)鐵造が部下の長谷部染谷将太)を連れて満州に出向いている最中に、ユキは離別の手紙を残して実家に戻ってしまいました。その手紙には、「ずっと考えておりましたが、この結婚は失敗でした。あなたは仕事に追われ、うちは寂しい思いが募るばかり。お暇をいただきたいと思います」と書かれていました。

(注8)このサイトの記事を見ご覧ください。

(注9)鐵造の孫に当たると思われる男の子が、ガラスケースに入った「日承丸」の模型を見るというシーンまであります〔盛田船長(堤真一)の「日承丸」は、実際には「日章丸」。「日章丸事件」については、この記事をご覧ください〕。

(注10)遺品のスクラップブックには国岡商店に関する記事がたくさん貼り付けてあり、鐵造が「あいつは俺に愛想を尽かして出ていったはず」と訝しがると、初美は「大叔母は、国岡さんの話を喜んでしていました。彼女は、出ていったのではなく、身を引いたのだと思います」「彼女はその後結婚せず、群馬の老人ホームで亡くなりました」と言い、鐵造はユキの思いを知ることになります。

(注11)そのように観客に思わせないようにするには、例えば、日承丸が原油を積み込んで日本に戻った時点で映画を終わらせればよかったでしょう。でも、そうすると、本作のもう一つの柱である鐵造とユキの純愛路線が描けないことになってしまいますが。

(注12)例えば、上記「注5」で触れたWikipediaの記事の「その他」のところに、「娘・真子は「父・佐三は徹底した儒教的・家父長的男女観を抱いていて妻と娘4人を「女こども」として軽蔑し、その自立を否定し人格的に抑圧した」と述べている」とあります(より詳しくは、上記「注8」で触れた記事をご覧ください)。

(注13)本作では、鐵造の親族としては兄の万亀男光石研)くらいしか登場しませんが、実際には、上記「注8」で触れた記事を見ると、その弟が出光興産の2代目社長になったりしていますから(「日章丸事件」の際は専務)、色々複雑な事情があったのでしょう(例えば、この記事の年表を見ると、2000年に「会長の出光昭介(佐三の長男)氏と社長の出光昭氏(出光計助の次男)が対立」したとか、本年に「昭和シェル石油との経営統合において昭介氏が異議を唱える」とかが記載されています←本作の裏の狙いは、経営統合問題における創業家支持?!)。

(注14)同作では、実在した作家のトマス・ウルフの書いた原稿が、実在する編集者のパーキンズのもとに持ち込まれるところから描き出されます。



★★★☆☆☆



象のロケット:海賊とよばれた男


マダム・フローレンス!夢見るふたり

2016年12月16日 | 洋画(16年)
 『マダム・フローレンス!夢見るふたり』を吉祥寺プラザで見ました。

(1)メリル・ストリープの主演作というので、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭は、「based on true stories」の字幕が出て、1944年のニューヨーク。
 シンクレアヒュー・グラント)が、舞台の幕の前でハムレットの一節(注2)を朗唱した後、皆の拍手に対して、「ありがとうございます」、「次は、1850年のアラバマ州に遡りましょう」、「偉大な作曲家フォスターは、スランプでどん底状態にあります」と言います。
 幕が引き上げられた舞台(背景として木々の茂る邸宅が描かれています)の上では、憔悴したフォスターがピアノを前に座っています。
 そこに、舞台の上方から宙吊りの天使〔実は、フローレンスメリル・ストリープ)〕が舞い降りてきてフォスターの頭を撫でます。
 すると、ひらめきを得たフォスターは「Oh! Susanna」を演奏し出し、幕が下ります。

 楽屋では、フローレンスが「霊感を吹き込むような演技ではなかった」と言うと、シンクレアは「いや、素晴らしかった」と応じます。

 次いで、舞台の上でシンクレアが「今夜のフィナーレです」、「ヴェルディ・クラブ(注3)がおくるワルキューレの騎行です」と言うと、舞台の前のオーケストラがワーグナーの音楽を演奏し、幕が上がると、岩山を背景に槍を持つフローレンスを中心にしてワルキューレたちの姿が浮かび上がります。

 舞台が終わってパーテーが催され、フローレンスには記念品として時計が手渡されます。
 フローレンスは、「皆さんに感謝します。このクラブを作った時は、こうなるとは思いませんでした。25年間支えてくれた夫のおかげです。音楽は私の人生そのものです。今は世界大戦の最中、こうしたことが今まで以上に重要になっています。ニューヨークの音楽活動をこれからも支援いたします」と挨拶します。

 住まいにしている高級ホテルの部屋に戻って、フローレンスはベッドに横になります。
 シンクレアが「おやすみ」と言って、シェイクスピアのソネット(注4)の一部を朗唱すると、フローレンスは眠りに落ちます。
 シンクレアは、フローレンスの頭からかつらを外し、坊主頭にナイトキャップをかぶせ、脈拍を測りノートに記入すると、キスをして部屋から出ていきます。

 シンクレアはホテルを出て外を歩いて、自分の家に戻ります。
 家に着くと、愛人のキャサリンレベッカ・ファーガソン)が「お帰りなさい」と出迎え、彼女が「フローレンスは?」と尋ねると、シンクレアは「上々だ」と答えます。

 こんなところが本作の始まりですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は実話に基づいているとされ、類稀なる音痴の富豪の女性と、彼女をマネージャーとして支え続けた夫(事実上の)の姿を描き出します。なにしろ、最後にはあのカーネギーホールを観客で一杯にしてリサイタルを開催してしまうのですから、主人公の情熱はものすごいものがあると同時に、夫の献身ぶりも並大抵のものではなく、さらにまた専属の伴奏者の協力ぶりも特筆モノで、本作では、それらがなかなか巧みに描かれていて、まずまずの出来栄えでした。

(2)クマネズミは、本作を見るまでは、主役のフローレンスについて何の情報も持っておらず(注5)、とりわけ、カーネギーホールでリサイタルをやり、さらには「今もカーネギーホールのアーカイブの1番人気」であり、「アルバムは、デヴィッド・ボウイの“生涯愛した名盤”(注6)」となっていること(注7)など全然知りませんでした。
 それで、本作でフローレンスがものすごい調子で歌を歌いだすと、おかしいことはおかしいものの、本当に笑っていいものかどうか気になってしまい、かなり違和感を覚えてしまいました。
 音痴の人が一生懸命になって歌うのを笑ってはいけないと、言われてきましたし、特に彼女のように酷い音痴は、本人にどうすることもできないのでしょうから(注8)。 
 それに、この映画を見ている観客のクマネズミだって、陰で何を言われているかわからないのですから!
 
 といっても、フローレンスを見事に演じるメリル・ストリープには驚いてしまいます。



 なにしろ、『イントゥ・ザ・ウッズ』や『マンマ・ミーア!』とかで、圧倒的な歌唱力を見せつけているのですから(注9)。そして、その彼女が本作では実に無様な歌い方をするのですから(彼女が歌うモーツアルトの「夜の女王」の歌は、とてもその歌だとはわからないくらいです)!

 また、本作は、むしろ、事実上の夫であるシンクレアの献身的な努力がきめ細かく描かれており、それで見る方も何とかバランスがとれる感じです。



 シンクレアは、フローレンスが亡くなるまで35年間も事実婚状態でありながら、他方でキャサリンとの生活も営んでいました。
 こうしたところから、シンクレアは、フローレンスの財力を目当てに離れずにいたのだとも考えられます。でも、例えば、キャサリンから「そんなことをしたらお別れよ」と厳しく言われても、シンクレアは、フローレンスの歌を馬鹿にする若者に注意しに行くのですから、決してそうとばかりも言えないでしょう。
 むしろ、こうした場面を見ると、シンクレアはフローレンスをこよなく愛していたとも考えられるところです(注10)。それでも、シンクレアは、キャサリンも愛していて、キャサリンの不満が募ってくると(注11)、例えば、忙しいさなかに泊りがけでゴルフ旅行に行ったりします。
 常識的には理解するのがなかなか難しい人物であり、下手をすると悪者に見えかねない役柄を演じるヒュー・グラントは、むしろ愛すべき人間に見えるよう巧みな演技を披露します。

 更に、本作に欠かせないのは、フローレンスが歌う歌を伴奏するピアニストのコズメ・マクムーンでしょう。



 彼は、当初は伴奏を嫌がっていましたが(注12)、シンクレアの説得によって踏み止まります。
 それでも、フローレンスが狭いサークルで歌っている分にはかまわないにせよ、カーネギーホールという一般客が大勢入る著名な場所でフローレンスの伴奏をすれば、自分のキャリアに傷がつきかねません。ですが、最後には彼女の伴奏を進んで引き受けるのです。
 それを演じるサイモン・ヘルバーグも、映画では自分で演奏しているようで、なかなか頑張っています。

(3)渡まち子氏は、「劇中の登場人物がいつのまにかフローレンスを愛してしまったように、観客もまた、この奇妙な歌姫に魅了されるはずだ」として80点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「音楽家の夢の殿堂、ニューヨークのカーネギーホールでコンサートを開く夢に向かって突き進んだ超絶オンチ歌姫、フローレンス・フォスター・ジェンキンス(1868~1944年)の奔放な世界を覗き見る」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「山場を活(い)かすように、カメラも音楽も最初は控えめ、それが山場になるとケレン味たっぷりの映画づくり。おかげで薄手の人情話で終わるはずの映画に思いがけない奥行きが出ました。やっぱり映画は観ないと分かりませんね」と述べています。



(注1)監督は、『あなたを抱きしめる日まで』のスティーヴン・フリアーズ
 脚本はニコラス・マーティン
 原題は『FLORENCE FOSTER JENKINS』。

 なお、出演者の内、最近では、メリル・ストリープは『イントゥ・ザ・ウッズ』、ヒュー・グラントは『噂のモーガン夫妻』で、それぞれ見ました。

(注2)「Swounds I should take it, for it cannot be but I am pigeon-livered and lack gall to make oppression bitter」〔このサイトの訳によれば、「畜生、おれはその通りだ。 おれは鳩のようにおとなしく、抑圧を跳ね返すだけの意地がない」云々(第2幕第2場604行目以降)〕。

(注3)このサイトの記事によれば、ヴェルディ・クラブは、1917年にフローレンスが設立したもので、400人を超える会員がいたとのこと。
 なお、同記事には、本作に登場する人物の顔写真が、それを演じる俳優の顔写真と対比して掲載されています。

(注4)「Let me not to the marriage of true minds Admit impediments. Love is not love」(ソネット116:このソネットについては、このサイトの記事をご覧ください)。

(注5)本作の主人公をモデルにして作られたフランス映画『偉大なるマルグリット』も見てはおりません。

(注6)この記事に、デヴィッド・ボウイの「お気に入りのアルバム 25選」が掲載されており、その一番末尾に「THE GLORY (????) OF THE HUMAN VOICE / FLORENCE FOSTER JENKINS (1962, RCA)」が記載されています(収録曲はこちら。声はこちらで聴くことができます)。

(注7)劇場用パンフレットの「INTRODUCTION」より。

(注8)Wikipediaのこの記事には、「彼女の演奏したレコードを聴くと、ジェンキンスは音程とリズムに関する感性がほとんどなく、極めて限られた声域しか持たず、一音たりとも持続的に発声できないこと、伴奏者が彼女の歌うテンポの変化と拍節の間違いを補って追随しているのがわかる」とあります。
 本作によれば、フローレンスは、メトロポリタン歌劇場の副指揮者・カルロデイビット・ハイ)のレッスンを受けたりしますが、音痴のままです。

(注9)前者については、例えばこちらをご覧ください。

(注10)フローレンスは勿論シンクレアが大好きだったでしょう。ある時、フローレンスはシンクレアに、「あなたの子供が欲しかった」と言うくらいです。
 おそらく、フローレンスは、前の夫から梅毒をうつされ(17歳の時)、生涯それで苦しみましたから(本作に登場する医師は、「梅毒で50年生き続けたのは初めてだ」と言います。また、フローレンスが実際には坊主頭なのも、治療薬の副作用によるものでしょう)、シンクレアとは夜の営みができなかったのでしょう。

(注11)ある時、突然、フローレンスがシンクレアの家にやってきたことがありました。キャサリンは姿を隠さねばならず、「自分の家なのに、どうして隠れなくてはいけないの?こんな生活に耐えられない」とシンクレアを責めます。

(注12)マクムーンはシンクレアに、「奥様は音程が外れています。何しろ、声帯が普通じゃありません」と言いますが、報酬のこともあり(フローレンスが「150ドル以上は支払えない」と言うと、マクムーンは「月にですか?」と訊き直し、彼女は「週よ」と付け加えます)、結局は引き受けることになります。



★★★☆☆☆



象のロケット:マダム・フローレンス!夢見るふたり


ブルーに生まれついて

2016年12月13日 | 洋画(16年)
 『ブルーに生まれついて』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)予告編で見て興味を惹かれたので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、画面の真ん中にトランペットが大写し。
 「1966年、イタリアのルッカ」の字幕。
 男が床に倒れていて、その前にあるトランペットを見ます。
 すると、その中から大きなクモが現れます。
 倒れている男〔チェット・ベイカーイーサン・ホーク)〕は、トランペットに手を伸ばします。
 実は、そこは刑務所の中で(注2)、看守が「ハリウッドからのお客さんだよ」と言って、映画プロデュサー(movie director)を連れてきます。

 次の場面では、「1954年 ニューヨーク市 バードランド(注3)」の字幕。
 チェットがファンの女性たちに囲まれてサインを求められ、「俺とマイルス・デイヴィスとどっちが好きだ?」などと言っています。
 楽屋から客席を見ると、マイルス・デイヴィスケダール・ブラウン)らが来ています。
 そして、司会が、「カリフォルニアからやってきたジャズ界のジェームス・ディーン、クールのプリンス」などと紹介すると、サングラスを付けたチェットが、彼のクワルテットとともに舞台に立ち、演奏を始めます。



 演奏し終わると、観客から、「良いぞ」の声がかかり、チェットも「ありがとう、愛している」と答えます。
 続いて、マイルス・デイヴィスやディジー・ガレスピーケヴィン・ハンチャード)が演奏し、それをチェットは席に座って聴きますが、しばらくすると、隣りに座った黒人の女とホテルの部屋に戻ります。
 その女は、「まだやったことがないなんて信じられない。随分と真面目ね」と言いながら、麻薬を溶かし始め、それをチェットに注射をします。

 そこへチェットの妻・イレーネカルメン・イジョゴ)が戻ってきます。
 彼女は、「こうなるとわかってた。全部持って出ていって」と言います。
 ふと机の上を見ると、注射器があります。
 彼女が「それは何なの?マイルスのせい?」と言いますが、彼女の膝にしがみついているチェットは、「こうすると、ママの膝に戻ったみたいだ」と答えます。

 次のシーンには、「1966年 ロサンゼルス」の字幕が。
 そして、さっきの1954年の場面は、チェットの自伝映画の撮影風景であることがわかります。
 カチンコが映り、チェットとイレーネ役の女優ジェーンが楽しそうに談笑し、監督も「アドリブは歓迎だ」などと言い、スタッフが出入りします。



 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、実在のジャズ・トランペット奏者のチェット・ベイカーの一時期を取り上げて劇映画として描き出したものです。彼は、大きな人気を勝ち得た時に、ドラッグが原因で前歯を折られて、演奏活動を続けられなくなりますが、必死に頑張って再度舞台に立つことができたものの、ドラッグからはついに逃れられませんでした。これが、彼を支え続けた女性とのラブストーリーの中で描かれていて、実に感動的な作品に仕上がっています。

(2)本作は、実在したチェット・ベイカーを描いている作品ながらも、フィクション的なシーンがかなり作り込まれており、むしろ劇映画としてみた方が面白いのではと思いました(注4)。
 例えば、上記(1)で紹介したように、本作の始めでは、1954年の出来事が映画の撮影ということで描かれていますが、実際にはそうした映画は製作されませんでした(注5)。
 なにより、本作で重要な役割を果たす女優のジェーンも実在しません(注6)。



 もとより、ある人物の伝記を映画化するといっても、ドキュメンタリーではなく俳優が演じる場合には、フィクションの部分がかなりの程度盛り込まれてしまうのは当然でしょう(注7)。
 あるいは程度の問題かもしれません。
 でも、ジャズに全くの素人のクマネズミにしてみれば、本作がチェット・ベイカーや彼を取り巻く人々を精確に描いていようがいまいが、物語として面白ければ何の問題もないと思えてしまいます。
 その上で、本作におけるチェットとジェーンとのラブストーリーは、なかなか良くできているのではと思いました(注8)。
 特に、最後の方で、オクラホマにいるチェットが、バードランドの舞台に再度立つためにニューヨークに行くという肝心な時に、ジェーンは自分にも重要な舞台のオーディションがあるから一緒に行けないと言って、二人の間に亀裂が入ってしまうのですが、バードランドでチェットが演奏し始めると、そのクラブにジェーンが現れるのです。この場面にはとても感動しました(注9)。

 それに本作では、主演のイーサン・ホーク自身が歌う「My Funny Valentine」とか「I’ve Never Been in Love Before」(注10)、あるいは「レッツ・ゲット・ロスト」(注11)、「虹の彼方に」(注12)、「ボーン・トゥ・ビー・ブルー」(注13)など数々の名曲が登場するのですから堪えられません(注14)。

 間もなく公開される『MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間』も是非見たいと思っています。

(3)森直人氏は、「いわゆる伝記映画というより、ファンによる全力のトリビュート(称賛を込めた贈り物)と受け取るべきか」と述べています。
 小島一宏氏は、「全編を彩るジャズサウンドの心地よさ。映像の色彩や照明が醸し出すムード。そして、瞬きを忘れるほどの上質なシーンの数々に魅せられる」と述べています。



(注1)監督‥脚本はロバート・バドロー。
 原題は『Born to Be Blue』。

 なお、出演者の内、最近では、イーサン・ホークは、『6才のボクが、大人になるまで。』で見ました。

(注2)チェットは、公演先のイタリアにおいてドラッグで逮捕され、有罪判決を受けて投獄されています。

(注3)往年の名ジャズクラブ(この記事をご覧ください)。

(注4)公式サイトの「イントロダクション」には、「本作は一人の天才ミュージシャンの転落と苦悩を描くとともに、ある一人の女性との出会いによって再生する姿を描いたラブストーリー」とあります。

(注5)劇場用パンフレット掲載の菊地成孔氏によるエッセイによれば、この映画製作は実際には行われなかったものであり、従って、「本作は、この、頓挫した「ラウレンティス製作による、ベイカー伝記映画」が「製作されていた」という大胆な設定を基礎にはじまる」ということになります。
 さらに、菊地氏は「本作は、一言で言うと「ベイカーの人生=伝記からの素材を自由自在に再構成させた、完全なファンタジー」」とまで述べています。

(注6)劇場用パンフレットに掲載された川口敦子氏のエッセイでは、ジェーンについて、「ベイカーの生涯を彩った無数の女性をヒントにしつつ、旺盛な創意を注入して新たに生み出されたヒロイン」と述べられています。

(注7)上記「注5」で触れた菊地氏は、イーサン・ホークの歌について、「キーがすべて完全5度低い」と述べています。

(注8)なにしろ、ジェーンは、チェットの妻・イレーネによく似ているとされ、またチェットは、ジェーンに、「トランペットばかり演っていたから、恋愛経験が少ない」などと言ったりするのです。それで、ジェーンは、麻薬を止めるように親身になって言ったり、オクラホマのチェットの実家にまで一緒に出かけるものの父親がチェットを嫌うので、近くに車を駐車してそこで暮らしたりします。
 なお、ジェーンは、チェットとの会話の中で、チェーホフを引用しながら、「人が恋愛中の時に味わう感情こそ、ノーマルなものだ」などと言うほど知的な女性としても描かれています。

(注9)しかしながら、チェットは、バードランドの舞台に立つためにヘロインをやってしまい、なおかつ舞台では「許してほしい、この霧から抜け出せない僕を」「一度も恋をしたことがないんだ」などと歌うので、ジェーンは事情を悟り、涙を流し、そばにいたマネージャーのディックカラム・キース・レニー)に、チェットから貰った大事なネックレスを渡し、「これをチェットに返して」と言って立ち去るのです〔チェットが歌う「I’ve Never Been in Love Before」の歌詞については、例えばこちらの記事を〕。

 この場面は、最近見た『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』のある場面(同作に関する拙エントリの「注16」をご覧ください)を思い出させました。

 また、ひどく飛躍してしまい恐縮ながら、中島みゆきのアルバム『恋文』に収録されている「恋とはかぎらない」の歌詞の中の「24時間そばにいたいってわけじゃない/でも1番肝心な時は逢ってね」を連想してしまいました。

(注10)前者については、このサイトでイーサン・ホークが歌う映像を見ることができます。
 なお、チェットが歌う2つの曲は、アルバム『CHET BAKER SINGS』に収録されています(こちらで聴くことができます)。

(注11)この曲についての本作での演奏は、こちらで聴くことができます。

(注12)この曲をチェットが演奏したものは、こちらで聴くことができます。

(注13)この曲をチェットが演奏したものは、こちらで聴くことができます)。

(注14)本作で実際にトランペットの音を出しているのは、カナダのトランペット奏者のケビン・ターコット(この記事)。



★★★★☆☆



象のロケット:ブルーに生まれついて

疾風ロンド

2016年12月09日 | 邦画(16年)
 『疾風ロンド』を渋谷TOEIで見ました。

(1)阿部寛が主演の作品だということで、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、雪山の景色が映し出されます。
 カメラが接近すると、長く伸びているスキーコースを滑り降りる一人のスキーヤーの姿。
 次いで、医科学研究所で研究員が、試験管やシャーレを使って細菌を培養している様子が映し出されます。

 2つの場面が交互に映し出された後、ある地点で止まったスキーヤーの男は、周りを見回し、雪を掘り、持ってきたボックスから瓶状のものを取り出して、そこに埋めます。
 それから、すぐそばの木の幹に釘を打ってテディベアを掛けます。
 次いで、発信機と受信機をセットして、「さあ、ゲームの始まりだ」と呟きます。

 タイトルが流れ、「月曜日」の字幕(注2)。
 主人公の栗林阿部寛)の家の朝。栗林は、玄関の上り口で、滑って転びます。
 彼は「お前、またワックスかけたのか?」と息子の秀人濱田龍臣)に怒ると、秀人は「次からは気をつける。買ってもらったときの約束だから」と答えます(注3)。

 秀人は、誘いに来た友人と一緒に学校に向かいます。
 友人が「また喧嘩?」と尋ねると、秀人は「うるさいんだから」と応じます。
 さらに友人が「オヤジさん、何やってるの?」と訊くと、秀人は「研究所に行っている。でも、最近、研究していないみたい」、「中間管理職なのかな」と答えます。

 他方、栗林は、仏壇の妻の位牌に向かって、「年頃の男の子は難しいんだよ。お前がいてくれたら」と嘆いた後、出勤します。

 栗林は、研究所に着いて保管庫を調べると、重要な物がなくなっているのに気が付きます。
 大急ぎで所長室に行ってそのことを報告すると、所長の東郷柄本明)は「やっぱり本当か」と呟きます(注4)。
 所長は、「盗んだ葛原(戸次重幸)が3億円要求してきた」と言い(注5)、驚いた栗林が「3億円も用意できるのですか?」と尋ねると、所長は「負けてもらう」と答え、さらに栗林が「警察に連絡を」と進言すると、所長は「これがバレたら、皆クビだぞ」と答え、通報を拒否します。



 そんなところに、警察から「葛原さんが、事故で亡くなりました」との連絡が入るのですが、さあ、この後物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、人を大量に死に至らしめる恐ろしい炭疽菌が盗まれ、それを必死に探し出そうとする主人公らを巡るサスペンスコメディ。ですが、主役の阿部寛が、最後の肝心な時にも、事態が推移するのをただ待っているだけというのでは、しまりがなさすぎ。それに、炭疽菌という生物兵器にもなる恐ろしいものを取り扱っている映画にしては大味で、総じて「ゆるすぎる」感じがしました。

(以下は、本作がサスペンス物であるにもかかわらず、あちこちでネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作の主人公の栗林は、所長の厳命で、野沢温泉スキー場に行って炭疽菌の入った瓶を秘密裏に探すことになります(注6)。
 とはいえ、栗林は、スキーを大学の時に少しやったくらいで全くの素人だという設定(注7)。
 おまけに、スキーを履いて少々滑ったら、木に激突して靭帯を損傷し満足に動けなくなってしまいます。
 それで、炭疽菌の探索は、専ら、スキー場のパトロール隊員の根津大倉忠義)と、彼の後輩でスノーボードクロス選手の千晶大島優子)に任せ切りになってしまい、栗林自身は、スキー場のレストランなどでウロウロするばかりです。
 レストランの椅子に座って、頭髪をかきむしりながら、時間がただ経過するのを待つだけの主人公では、滑稽で面白いとしても、どうしようもありません(注8)。

 それに、本作は、危険極まりないとされる炭疽菌を巡るお話のはずですが、肝心の炭疽菌の取扱いがとても杜撰に見えるのはどうしたことでしょう?
 本来ならば、当初、栗林が炭疽菌の所在を保管庫で確かめようとする際に着用していた防護服が、どんな場合にも最低限必要なのではないでしょうか(注9)?
 もちろん、栗林以外の登場人物は、瓶の中身を正確には知らないのですから、普段通りで仕方ないにしても、炭疽菌の怖さをよく知っている栗林までも、炭疽菌の入った瓶を実に不注意に取り扱おうとします(注10)。

 この他にも、突っ込みどころは色々あるでしょう(注11)。

 とはいえ、炭疽菌を栗林が探索するというメインの物語の他に、医科学研究所の研究員・折口堀内敬子)の指示を受けてワダムロツヨシ)が炭疽菌を奪おうとする話なども絡んできて(注12)、それなりに飽きさせません。



 また、瓶を奪い取ったワダがスキーを滑らせて逃げるところ、それをスノーボードを履いた千晶が追う追跡劇は、なかなか見応えがあります。
 なにしろ、千晶役の大島優子が代役なしに演じたようで(注13)、最後はワダ゙とストックでチャンバラまがいのことまでするのですから。



(3)渡まち子氏は、「監督が「サラリーマンNEO 劇場版(笑)」の演出を手掛けた吉田照幸と聞いて、本作の脱力系ギャグに大いに納得。緊張と緩和がほどよいウェルメイドな娯楽作だ」として60点を付けています。



(注1)監督は吉田照幸(脚本にも参加)。
 脚本はハセベバクシンオー
 原作は東野圭吾著『疾風ロンド』(実業之日本社文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、阿部寛は『海よりもまだ深く』、大島優子は『ロマンス』、ムロツヨシは『金メダル男』、堀内敬子は『永い言い訳』、戸次重幸は『ぼくのおじさん』、柄本明は『後妻業の女』、麻生祐未は『麦子さんと』、堀部圭亮は『殿、利息でござる』(代官役)、生瀬勝久は『謎解きはディナーのあとで』で、それぞれ見ました。

(注2)ただし、その後の話の流れからすると、ここまでの話が「月曜日」の出来事で、ここからの話は「火曜日」の出来事であり、栗林たちが野沢温泉スキー場に出向くのは「水曜日」のように考えられます。

(注3)おそらく、秀人(中学2年生)が熱中しているスノーボードを父に買ってもらった時に、使ったワックスの後始末をちゃんとやるという約束をしたのでしょう。

(注4)というのも、なくなっているのは、研究員の葛原が培養した危険極まりない「炭疽菌k-55」。葛原は「究極の兵器だ」と豪語し、それを聞いた所長は彼を解雇していたのです。解雇を恨みに思った葛原は、「後で後悔するぞ」と所長に言い、とうとう「k-55」を研究所から盗み出しました。

(注5)さらに所長は、葛原から送られてきた写真を栗林に見せながら、「ぬいぐるみは発信機だ」、「瓶はその下に埋めてあるらしい」、「金を用意すれば、瓶がある場所を教えてくれる」などと言います。

(注6)事故で死んだ葛原の遺品から、瓶が野沢温泉スキー場のどこかに埋められていることがわかります。ただ、テディベアに仕組まれた発信機からの電波を受信する受信機も遺品の中にありましたが、発信機の電池の寿命があと4日間で尽きるので、金曜日までに探し出す必要があります。

(注7)栗林は、ボーゲンでゆっくり滑ってもバランスを崩してしまうほどで、スキー場で知った幼い女の子・ミハル大田しずく)〔父親(堀部圭亮)に連れてきてもらっています〕に、栗林が「気をつけて」と言ったところ、ミハルから「オマエモナ」と言われてしまう始末。

(注8)炭疽菌の入った瓶は、最後には、栗林の息子・秀人の機転によってすり替えられており、結局、栗林自身は、この炭疽菌探索行においては何一つ貢献できませんでした。
 原作者の東野圭吾氏は、劇場用パンフレット冒頭の「AUTHOR’S COMMENT」において、「主人公の栗林和幸は、決して無能な人間ではありません。むしろ優秀で、状況によってはヒーローになれる人材でしょう」と述べていますが、本作からはそんな風にはとても思えません。

(注9)炭疽菌を持って出国しようとした折口とワダが成田空港で捕まった際、爆発物処理班の警察官(生瀬勝久)が、完全装備をして登場します(炭疽菌に対する配慮と言うなら、少なくともそのくらいはするべきでしょう。ただ、その警察官が瓶の中身を確かめますが、でてきたのは、……)。

(注10)いい加減な取扱いから、栗林は瓶を床に落としてしまい、瓶が割れて中身が外に出てしまいます(栗林が、慌てて「生物兵器だ」などと叫ぶものの、中身はすり替えられていて、単なる胡椒でした。根津が「今、生物兵器とか言いませんでした?」と尋ねると、栗林は「そんなこと言わないよ」と猫をかぶります)。

(注11)例えば、医科学研究所の東郷所長役の柄本明は演技過剰気味で、一人だけ浮き上がっている感じがします。

(注12)栗林の息子・秀人は、野沢スキー場で地元の中学生・育美久保田紗友)と知り合いになりますが、育美の同級生の母親(麻生祐未)が娘をインフルエンザで最近亡くしていることから、本作の話に絡まってきます。ただ、このエピソード自体、地元の中学生を話に絡めようとするために作られたような取ってつけたわざとらしい感じがしてしまいますが。

(注13)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、大島優子は、「9歳からやっていたスノーボードを、仕事に活かすことができて、とても嬉しい」などと述べています。



★★☆☆☆☆



象のロケット:疾風ロンド

五日物語―3つの王国と3人の女―

2016年12月06日 | 洋画(16年)
 『五日物語―3つの王国と3人の女―』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見ました。

(1)予告編で見て面白いと思い、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、ロングトレリス国の城(注2)の外に、様々な芸人たちが集まっています。
 城の中にカメラが入っていくと、王(ジョン・C・ライリー)と王妃(サルマ・ハエック)の前で芸人たちが芸を披露しています。
 火を使った芸に、一緒に見ている廷臣たちが笑います。
 芸人の中に身重の女がいることがわかります。
 王も笑うものの、王妃は笑わず、ついには立ち上がってその場を離れます。



 王妃の後を追う王は、「落ち着くのだ。私が悪かった。身重の女がいるとは知らなかった」などと王妃に言いますが、王妃は、部屋に入るとそこら中のものを壊し始めます。
 王は、「私が悪かった、許してくれ。私が何とかする」と言います。

 次の場面では、フードを深くかぶった背の高い魔法使いの男(フランコ・ピストーニ)が、王と王妃の前に現れます。
 王が「何者だ」と問うと、男は「私が何者であろうと、話は陛下にとり大事なこと」と答えます。
 そして、男が「お望みはお子様?」と尋ねると、王妃は「子供が得られるのなら、死をも厭わない」と答えます。
 それで男は、「危険を犯しても海の怪物を探し出し、生娘に料理させるのです」、「怪物の心臓を王妃様が食べれば、懐妊するでしょう」と言います。

 それで、王が潜水具を身に着け、手に槍を持って水の中に入っていきます(注3)。
 王は水の中に怪獣を見つけると、槍を突き刺します。
 怪獣がのたうち回ったために、王は突き飛ばされ死んでしまいます。
 他方、家臣たちは、怪獣から心臓を取り出します。
 そこに王妃が現れ、その心臓を持ち去ります。

 王妃は、その心臓を生娘に料理させます。
 生娘は、心臓を鍋に入れますが、鍋から立ち上る湯気にあたると、その腹が膨らんできます。
 他方、王妃は、部屋で心臓を貪るように食べます。

 結局、王妃も懐妊し、二人はそれぞれ赤ん坊を生みます。
 こんなところが、本作の始まりの部分ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょう、………?

 本作は、17世紀にイタリアで作られたおとぎ話『五日物語』に基づいて作られたファンタジー。3つの王国にいる女たちについての3つの物語が描かれています。話自体も面白いのですが、映し出されるイタリアの3つの城とか深い峡谷や洞窟などを背景とする映像美もなかなか素敵な作品です。

(2)本作は、イタリアのおとぎ話『ペンタメローネ』の51話の中から、『魔法の牝鹿』、『生皮を剥がれた老婆』、『ノミ』の3つを選び、統一的な視点(「女の性(サガ)」を描く:注4)に立って原作をかなりアレンジしつつ、ファンタスティックに描き出しています。

 例えば、上記(1)ではじめの部分を紹介した物語は、『魔法の牝鹿』に基づいています。
 すなわち、このサイトの記事(「魔法の牝鹿 イタリア 『ペンタメローネ』一日目第九話」:注5)に従えば、原作でも、王妃は、自分の子供と「乙女」(召使女)が産んだ子供とが仲がいいことに嫉妬心を覚え、火傷を負わせたりします。
 でも、原作では、むやみに子供を欲しがるのは、本作のように王妃ではなく王の方であり、また、全体としては、2人の子供(特に、「乙女」が産んだ子供)に焦点が当てられています。
 他方、本作では王妃に専ら焦点が当てられ、彼女は、王の死を代償にしても子供がほしいと思い、さらに産んだ子供・エリアスを独り占めしようとして、生娘の産んだ子供・ジョナを亡き者にしようとします(注6)。
 それで、本作の王妃は2度までも魔法使いを頼ることになります(注7)。

 ただ、こうした改変は、「女の性(サガ)」という本作のテーマに従って、主人公の王妃が「“母になること”を追い求め」る姿を強調しようとするからなのかもしれません(注8)。
 でも、生まれてきた2人の子供の父親は一体誰なのでしょう?
 原作と違って本作では、王妃が怪物の心臓を食べる段階で王はすでに死んでしまっていますから、特にわからなくなってしまっています。

 すべてこうしたことは、王妃の女性性を協調するために仕組まれているように思えてしまいます。
 ですが、男性側の観客として言わせてもらえば、子供を溺愛する父親だって数多く存在するのであり(注9)、子供を欲しがったり、生まれた子供を溺愛したりするのは、何も女性の専売特許とも思えないところです。

 とはいえ、そうしたいちゃもん(注10)をこうしたおとぎ話につけてみても、あまり意味があるとも思えません。
 それに、本作が「女の性(サガ)」をテーマとして描いているという点自体、日本語の公式サイトで言われている一つの見方に過ぎないともいえます(注11)。
 ことさらそんな見方に囚われることなく、海の怪獣が出てきたり、エリアスとジョナを襲う怪物が登場したりするのを(注12)、ファンタジーとして愉しめばいいのでしょう(注13)。

(3)渡まち子氏は、「こだわりのアーティストが作った、大人のための濃厚なファンタジーである」として70点を付けています。



(注1)監督はマッテオ・ガローネ(脚本にも参加)。
 原作はジャンバティスタ・バジーレ著『ペンタメローネ』(ちくま文庫)。
 映画の原題は「Il racconto dei racconti」(英題は「tale of tales」)。

 なお、出演者の内、最近では、ストロングクリフ国の王役のヴァンサン・カッセルは『美女と野獣』で見ました。
 また、 『ミラノ、愛に生きる』や『ボローニャの夕暮れ』に出演していたアルバ・ロルヴァケルが、『ノミ』に基づくハイヒルズ国の話の中で、王女・ヴァイオレットベベ・ケイブ)を鬼(オーガギヨーム・ドロネー)から救い出そうとするサーカス一家の母親の役を演じています。

(注2)ロケ地は、シチリア島の「ドンナフガータ城」。

(注3)この場面の撮影が行われたのは、シチリア島の「アルカンタラ渓谷」とされています。

(注4)公式サイトの「イントロダクション」に、「400年の時を経て、世界最初のおとぎ話が描くのは、現代と変わることのない女の“性(サガ)”」とあります。

 なお、この文章の内の「世界最初のおとぎ話」というのは、確かに『ペンタメローネ』が400年前に書かれたものとしても、例えば、日本のおとぎ話の典型である「かぐや姫」は1000年くらい前のものですから(Wikipediaのこの記事)、成立しないのではと思います(Wikipediaの「ペンタメローネ」に関するこの記事が言うように、「ヨーロッパにおける最初の本格的な民話集」なのでしょう)。

(注5)あるいは、このサイトの記事

(注6)エリアスとジョナを演じるのは、IMDbによれば、双生児の兄弟(クリスチャン・リージョナ・リー)とのこと。



(注7)原作においては、「長い白ひげを生やした賢者」の話を聞くのは1回だけです。
 他方、本作の王妃は、エリアスを探し出しジョナを亡き者にしようとして、2回目の要請を魔法使いにします。そして、王妃は怪獣に変身して、エリアスやジョナに襲いかかります。

(注8)公式サイトの「ストーリー」に、「ある王国では、不妊に悩む女王が“母になること”を追い求め」とあります。

(注9)例えば、秀頼を溺愛した秀吉。

(注10)さらにいちゃもんをつけるとしたら、例えば、『生皮を剥がれた老婆』に基づくストロングクリフ国の話では、どうして妹の老婆・ドーラハイリー・カーマイケル)はあれほどまでに若さと美貌を求めるのでしょうか〔妹は、燃えたぎる野望を持つ姉のインマシャーリー・ヘンダーソン)と違って、変化を好まず、貧しい生活のままで良いと思っていたのではないかと思います〕?



 また、ハイヒルズ国の話では、王女・ヴァイオレットが嫁いだ鬼はなぜ殺されなければならないのでしょうか(描かれているだけでは、鬼は別段悪いことをしているようにも思えないのですが←あるいは、人間を殺して食べていたのでしょうか)?
 特に、ハイヒルズ国の話では、最後に王女が鬼の首を国王(トビー・ジョーンズ)に見せて、「こんな男のところに私は嫁いだのだ!」と言って非難しますが、婿選びの際に国王は既に鬼を見ているのではないでしょうか?

(注11)これも一つの見方に過ぎませんが、本作における王妃の行動を見ていると、魔法のような外力に頼って自分の欲望を達成しようとしてもろくな結果にしかならない、という教訓が得られるのかもしれません(なにしろ、王妃が焦って怪獣に変身せずとも、エリアスはジョナをもう追いかけることはないでしょうから)。

(注12)さらには、3つの王国の城〔上記「注2」の「ドンナフガータ城」、アンドリアの「デルモンテ城」(ハイヒルズ国)、アブルッツオ州の「ロッカスカレーニャ城」(ストロングクリフ国)〕とか様々の自然の景観〔上記「注3」のアルカンタラ渓谷、トスカーナの「ソヴァーナの洞窟」(ハイヒルズ国)、「サッセートの森」(ストロングクリフ国)〕も楽しむことができます。

(注13)なお、ハイヒルズ国の話の中では、王女・ヴァイオレットが城の中でギターを演奏しながら歌う歌う場面が描かれています!





★★★☆☆☆



象のロケット:五日物語  3つの王国と3人の女


ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ

2016年12月02日 | 洋画(16年)
 『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』を新宿の角川シネマで見ました。

(1)コリン・ファースジュード・ロウの競演が見られるというので、大変遅ればせながら、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「a true story」の字幕が流れてから、1929年のニューヨークの街を大勢の人が歩いている様子が映し出されます。
 雨が降っているので、皆が傘をさしています。
 その中で、立ち止まってタバコを吸いながら、向かい側にそびえるビル(壁面に「チャールズ・スクリブナーズ・サンズ社」とあります)を、睨みつけるように眺めている男(トマス・ウルフジュード・ロウ)がいます。

 次の場面では、スコット・フィッツジェラルドガイ・ピアース)の『グレート・ギャッツビー』とか、ヘミングウエイドミニク・ウェスト)の『日はまた昇る』などの本が映し出され、それらの本を編集した編集者のマックス・パーキンズコリン・ファース)が、原稿をチェックしているところが描かれます。



 さらに、「良くはないが、ユニークだ。読んでくれ」と彼の部屋に持ち込まれた原稿(注2)を、通勤に使っている列車の中とか(注3)、家まで歩く途中とかで読み続けるパーキンズの姿が映し出されます(注4)。
 この原稿は『失われしもの(O lost)』と題されており、トマスの手になるものです(注5)。

 パーキンズが、郊外の家に戻ると(注6)、家の中では、女優だった妻のルイーズローラ・リニー)が、ご婦人方と劇の練習をしています(注7)。
 パーキンズは、娘の一人が電話しているのを見咎めるものの、彼女は「来週の卒業式のこと」と言い訳をします。
 食事になると、娘の一人が、「ママが俳優に戻るのは反対なの?」と尋ね、パーキンズは「ママの年代の人がまたスポットライトを浴びるのはどうかな」と答えます。
 食後、娘達はラジオを聴いている一方で、パーキンズは原稿を読み続けます。
 10時になると、パーキンズは、「娘は10時に寝ること」、そして「恋をするのはまだ早い」と言います。これに対して、娘が「いくつになったらいいの?」と尋ねると、パーキンズは「40だ」と答えます(注8)。

 出勤途中の列車の中でもパーキンズは読み続け、とうとう原稿に「おわり」の文字が出現したところで、本作のタイトルが流れます。

 これが編集者マックス・パーキンズと作家のトマス・ウルフとが出会う最初の契機ですが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 主演の二人ともイギリスの俳優ながら、本作では、1920年代にスコット・フィッツジェラルドなどの作品を手掛けた編集者・パーキンズと、当時のベストセラー作家だったトマス・ウルフに扮し、その二人の関係が中心的に描かれています。と言っても、そのまわりに位置する人物との関係を通じて二人の関係がクローズアップされてくるような描き方もされていて、なかなか重厚な作品になっているなと思いました。

(2)本作で描かれている編集者と作家の関係は、映画でいえば、プロデューサーと監督との関係に似ているのではないか、と思いました。
 特に、フィッツジェラルドとかヘミングウエイを世に送り出した名編集者という観点から見ると、最近の例からすれば、『モテキ』とか『バクマン。』、それに『君の名は。』のプロデューサーである川村元気氏などが、もしかしたらパーキンズに相当するのかもしれません。
 と言っても、映画の制作にあたっては実に沢山の人達が関係するので、書籍の場合の編集者-作家という単純な関係をプロデューサー-監督の関係になぞらえるわけにはいかないでしょう。
 それでも、『グレート・ギャッツビー』がベストセラーになったのは、作者のフィッツジェラルドの才能ばかりでなく、編集者のパーキンズの目利きがあった点を忘れてはならないのと同じように、今回の『君の名は。』の大ヒットも、もちろん原作・脚本・監督を手掛けた新海誠氏の類まれなる才能によるところが大きいとはいえ、プロデューサーとしての川村元気氏の存在も大きかったものと思います。

 さらに言えば、アメリカの場合、映画の編集権は監督ではなくプロデューサーが持っているため、監督の意向に反したカットがされてしまうことがあるようです〔それで、DVDなどで、ディレクターズ・カット版と称するものが現れたりします(注9)〕。
 本作に見られる編集者と作家の関係は、アメリカにおける監督とプロデューサーに関係により近いといえるのかもしれません(書籍の場合、映画のディレクターズ・カット版のようなものは考えられないでしょうが)。

 それはともかく、本作を見ると、編集者パーキンズの役割の大きさに驚かされます。
 処女作の『天使よ故郷を見よ』(1929年)でも、6万語以上、元の原稿から削除されていますが(注10)、次の『時と川について』(注11)になると、パーキンズは、「すでに5000枚だ。書き足さなくとも、作業に9ヵ月かかる」と言っています(注12)。
 原稿はすべてトマスによる手書きであり、パーキンズはそれをタイプさせ、その上で次から次へと削除していきます。
 現代だったら、パソコン上でいとも簡単にdeleteできますが、当時は、再度それをタイプしなければならず、その手間は大変なものだったでしょう。

 そればかりか、長大な原稿とはいえ、その隅々までトマスの思いが込められていますから、パーキンズが削除すると言っても、そんなに簡単な話ではありません。作業中、絶えず2人の間で激論がかわされます(注13)。



 それでも、こうした作業を通じて、パーキンズとトマスの関係は親密なものとなっていきます(注14)。
 でも、その作業に没頭していけばいくほど、出来上がる作品は誰によって生み出されたのかという疑問が湧いてきます(注15)。
 それに、トマスとそのパートナーのアリーンニコール・キッドマン)との関係とか、パーキンズとその妻ルイーズとの関係がギクシャクしてきます(注16)。



 そんなところが、本作では、なかなか巧みに描かれているように思いました(注17)。
 本年見た100本目の作品として良い映画に出会えたように思います(注18)。

 なお、映画を見ている際に随分と気になったのは、パーキンズが、会社とか家の中でも絶えずソフト帽をかぶり続けていることです。これはマナー違反なのではないかと思ったからですが。
 ただ、このWikipediaの記事には、「室内でも帽子を被る習慣はパーキンズの奇癖として有名になるほどだった。その理由について、彼の秘書を務めていたアーマ・ワイコフは、会社の下層階にあったスクリブナー書店の店員と間違われないようにするためだったと語っている。ただし自身では、急な来客時に外出するところだったと装って逃れるため、などとしていた」とあります。
 「奇癖」とされていますから、室内で帽子を脱がないのはやっぱりマナーに反していることであり、パーキンズも、常識ではおいそれと捉えきれない人物だったということなのでしょう。

(3)渡まち子氏は、「作品そのものは渋いが地味な小品。だが、読書の秋に、こんな文学秘話の映画を見るのも悪くないだろう」として65点を付けています。



(注1)監督は、マイケル・グランデージ
 脚本はジョン・ローガン
 原題は『Genius』。
 原作は、A.スコット・バーグ著『名編集者パーキンズ』(草思社文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、コリン・ファースは『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』、ジュード・ロウは『グランド・ブダペスト・ホテル』、ニコール・キッドマンは『グレース・オブ・モナコ』、ガイ・ピアースは『アニマル・キングダム』、ローラ・リニーは『ハドソン川の奇跡』で、それぞれ見ました。

(注2)本作で言われている話によれば、著者・トマスの面倒を見ているアリーン・バーンスタインが持ち込んできた原稿で、他の出版社は拒絶しているとのこと。

(注3)おそらく、「ニューヨーク・セントラル鉄道」でしょう(現在では、「メトロノース鉄道」)。
 パーキンズは、ニューヨークの5番街にある出版社に勤務し、近くの「グランド・セントラル駅」を使って通勤していると思われます。
 なお、グランド・セントラル駅では、パーキンズの家から戻ったトマスを、そのパートナーのアリーンが出迎えたりします(パーキンズも、そこでアリーンを知ります)。

(注4)「a stone, a leaf, an unfound door; a stone, a leaf, a door. And of all the forgotten faces」など、後に著名になるフレーズが原稿に散見されます(この記事が参考になります)。

(注5)その原稿は、後に、タイトルが『天使よ故郷を見よ(Look Homeward:A Story of the Buried Life:1929)』(邦訳はこちら)とされて、出版されます。

(注6)Wikipediaのこの記事によれば、ニューヨークの北東に位置するコネチカット州ニュー・ケイナン(あるいは、ニュー・カナーンNewCanaan)。

(注7)後に、パーキンズの家でディナーがあった時、パーキンズの妻・ルイーズが「私も作家。戯曲に取り組んでいる」と言うと、トマスは「あの形式はダメだ。それで自分は小説に取り組んでいる」と答えます。



(注8)パーキンズは1884年生まれですから、この時は45歳位でしょう。

(注9)ここらあたりのことは、Wikipediaのこの記事を参照してください

(注10)パーキンズはトマスに、「刈り込むと言っても、あくまでも君の作品。最良の形で読者に届けたいだけだ」と言って、前渡金として500ドルの小切手を手渡すと、トマスは「削除には応じます」、「一銭の価値もないと言われたものに500ドルも!」と答えます。

(注11)原題は『Of Time and the River』(1935年)。

(注12)この記事によれば、処女作の原稿の4倍以上の原稿があり、なおかつ、月に5万語の割合で増えています。

(注13)例えば、トマスが「トルストイもこれほど削っただろうか?」と言うと、パーキンズは、「これまで削除したのは、2年間でせいぜい100ページほどにすぎない」と応じます。

(注14)街で、アリーンとパーキンズの妻・ルイーズとが出会って、カフェで話をした際に、アリーンが「彼をご主人に奪われた」と言うと、ルイーズは「主人は、ずっと息子を望んでいた。そこにトムが現れた」と答え、それに対しアリーンは、「別れません。彼のためにすべてを捨てたのですから」と言います。

(注15)完成した第2作目の『時と川について』に「この本をマックス・パーキンズに捧ぐ」という「献辞」をつけようとトマスが言うと、パーキンズは、「やめてくれ、編集者は黒子にすぎない。それに、歪めてしまった感じもする。改良するのではなく違った本にしているのかもしれない」などと言いながらも、結局はそれを受け入れます。
 ちなみに、パーキンズは『時と川について』に関し、「新聞の書評には賛辞が溢れ、「真の大作」と言われたり、J・ジョイスと比べられていたりする」、「3万部だ」、「天才扱いだ」などと、パリに滞在するトマスに連絡しています。

(注16)演劇に関係していたアリーン(この記事によれば、彼女は当時、「 a theater set and costume designe」であり、その後「作家」にもなっています)は、トマスに、「初日の大変さをわかって。大切な夜だから、今夜だけ私と一緒にいて」と言いますが、トマスは「自分にもマックスとの仕事がある」と答えてパーキンズのもとに行こうとします。それで、怒ったアリーンは、「この2年間、私はずっと一人きりだった。今夜だけとお願いしている」、「どちらを選択するのか、今すぐこの場で結論を出して!」と言ってトマスの頬を叩きます。そして、「それが、私の痛みよ」と付け加えます。
 他方で、パーキンズの妻も、いろいろな荷物を車に積み込んで、子どもたちと一緒に出かけようとしています。パーキンズが妻に、「トムは、人が一生のうちに出会えるかどうかわからないほどの作家だ。彼との作業は、私の仕事。たかが休暇にすぎないのだから、そんなことに時間を割けない」と言うので、妻たちはパーキンズを一人家に残して車で走り去ってしまいます。

(注17)アリーンがパーキンズのもとにやってきて、「あなたに対するあの献辞は、彼があなたを解放するということ。あなたは捨てられる」、「後になればわかることだけど、この先モット大変になる」、「残るのは虚しさだけ」と言います。
 また、フィッツジェラルドもパーキンズに、「トムは君を離れる」と言います。
 さあ、実際にはどうなることでしょう、………?

 なお、ここらあたりのことは、ものすごく飛躍してしまい恐縮ですが、中島みゆきが作詞作曲した「恋文」の中にある「恋文に託されたサヨナラに 気づかなかった私/「アリガトウ」っていう意味が 「これきり」っていう意味だと/最後まで気がつかなかった」を思い出させてしまいます。

(注18)ラストのトマスからの手紙は感動的です(「…人生に大きな窓が開けられたように思います。そこを通れば良き人間になってあなたに会える。…」)。



★★★★☆☆