映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

神様はバリにいる

2015年01月30日 | 邦画(15年)
 『神様はバリにいる』を渋谷TOEIで見ました。

(1)堤真一尾野真千子が出演するというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、バリ島の海岸の絶壁から海に身投げしようという女性の姿。
 靴を脱いで崖の先端に進むと、帽子が飛んでいってしまいます。
 そこへオートバイに乗った男がやってきて、「そんなとこじゃだめ、地価が下がるから」と言います。
 女は「わかりました」と答え、別の場所に。
 でも、「そこもだめ」と男に言われ、更に別の場所に移って「だったらこの辺で」と崖下を見て、気絶して倒れてしまいます。

 男は女を豪邸に連れて行き、その家の主に会わせます。
 その家の主が、アニキと皆に慕われる男(堤真一)。



 女は、日本で事業に失敗して借金まみれになり、自殺するためにバリ島にやってきた祥子尾野真千子)。



 彼女をアニキに引き会わせたのは、眼科医のリュウ玉木宏)。



 リュウはアニキに「彼女の話を聞いて」と言うと、アニキは「20字以内に簡潔に言え」と答えるので、祥子は「自殺の名所を知りませんか?」と尋ねます。
 これに対してアニキは「おもしろいな。でも取りあえずは乾杯だ」と盃をあげます。
 祥子は、「こんなことをしている場合じゃないのに」と言いながらも、出されたワインが美味しいのでどんどん飲んでしまい、そして酷い二日酔で目が覚めると………?

 本作は、日本で事業に失敗した女が、自殺する場所としてバリ島を選んでやってくるものの、そこで超大富豪の日本人と出会い、いろいろなアドバイスを受けている内に自殺を思いとどまり前向きに歩いてこうとするお話。
 ほぼ全編をバリ島で撮影したとのことで、明るい南国のとても綺麗な映像をバックに、超大富豪に扮する堤真一がオヤジギャグ(注2)を連発するなど、総じてコメディタッチで描かれています(注3)。

(2)とはいうものの、本作は、バリでの撮影という点がどうにか買えるだけの作品に過ぎませんでした。
 例えば、
イ)アニキが様々の場面で宣うお言葉を有難く拝聴する祥子ですが、単に不動産の値上がりによる棚ボタの利益によって財を築いたに過ぎないように見えるアキニが、意味のある経営哲学を語れるはずもないように思われ(注4)、実際に語っている内容もありふれたものばかりです(少々言い過ぎかもしれませんが)。
 例えば、「失敗したら明るく笑い飛ばせ」とか、「世界は縁で回ってる」や「常識を疑え」など。

 ただ、自分を追って日本からやってきた杉田ナオト・インティラミ)から逃げ回る祥子(注5)の姿を見て、アニキが「君の会社がダメになったわけがわかった、お客さんを満足させていなかったのだ」と言って、「大切なのは、相手を自分のことのように満足させるべきだということ」と宣うのは、なかば冗談としても、まあ説得力があるかもしれませんが(注6)。

ロ)なにより、祥子は、こんなアニキやそのソバにいつもいる眼科医のリュウなど錚々たる男たちに取り囲まれているにもかかわらず、どの男からも言い寄られず、始終彼女につきまとうのは日本からやってきた杉田だけ(注7)。



 特に、本作では滝壺に裸で飛び込むシーンをわざわざ設けながら、尾野真千子のバストの下を厳重に隠すというのでは、一体何のためにあんなシーンを撮ったのかと甚だ訝しく思いました(注8)。
 そして、そんな祥子の姿を見ながらも、アニキには何の感情も湧き起こらなかったのでしょうか(注9)?

ハ)挙句の果ては、アニキが夢の実現とするのが、幼稚園(注10)やサッカー場の建設。
 バリ島の海岸の大規模な開発を行っているアニキにしたら、こんな事業はお茶の子の筈にもかかわらず、その建設のゴタゴタが本作のクライマックスになるとは、期待はずれもいいところでした(注11)。
 それも、ゴタゴタ騒ぎとなるのは、建設の現場監督をしているアデ(注12)が、建築の変更手続きを怠っていたためというのでは(注13)、あまりに些細過ぎる出来事です。

(3)渡まち子氏は、「バリ島で成功した日本人実業家アニキと、彼との出会いで変化・再生していく人々を描く「神様はバリにいる」。実話がベースだが全体的に過剰演出」として55点を付けています。



(注1)本作の原案は、クロイワ・ショウ著『出稼げば大富豪』(現在、バリ島に実在する日本人の大富豪の「アニキ」こと丸尾孝俊氏のほぼ実話の物語、とされています:未読)。
 監督は、『幕末高校生』の李闘士男

(注2)初対面の祥子に向かって、「お主の胸はタランティーノ」と言うたぐいの。
 最後の方では、祥子も、幼稚園建設が上手く行かずに落ち込んでいるアニキに向かって、「私日本に帰ることにしました。今のアニキは全然タランティーノや、失礼しマックス」と負けずに言ったりします!

(注3)俳優陣について、最近では、堤真一は『土竜の唄 潜入捜査官Reiji』、尾野真千子は『ニシノユキヒコの恋と冒険』、玉木宏は『幕末高校生』で、それぞれ見ました。

(注4)実際の「アニキ」は、上記「注1」で触れた記事によれば、「バリ島での従業員は5000人以上で、現地関連会社29社を所有。東京ドーム170個分の土地、そして、自宅は27軒」とのことで、棚ぼたで得たお金を元手にして事業を営んで大成功した人であり、抜群の経営手腕を備えていて、なおかつ独特の経営哲学をも持っていることでしょう。
 でも、そのプロセスが映画では全然描かれませんから、アニキが話す内容に見る方はちっとも説得されません。

(注5)杉田は、祥子が営んでいた婚活会社が開催した婚活パーティーで彼女を見初めて、それ以来彼女の後を付け回していたようです。彼女の方では杉田のことを歯牙にもかけず、アニキにも「ストーカーです」と断言します。

(注6)さらに祥子はアニキに、「自分としては、会社を完璧にやってきた。でも、不景気のせいで、部下たちにも裏切られ、莫大な借金が残った」と説明します(実際の借金の額が800万円と聞いて、アニキもリュウも「安っ!」と絶句しますが)。これに対してアニキは、「周りのせいにしたから会社が潰れたのでは!」と宣います。祥子はあくまでも「周りのせいでした」と言い張りますが、アニキの言うことも半分はあたっているでしょう。

(注7)杉田は祥子に、「日本に一緒に帰って、破産手続をやり直しましょう。アニキとは付き合わない方がいい。あの人がやっているのは、成金の自己満足に過ぎません」というのですが、映画の中では、ある意味で正論でしょう。

(注8)尾野真千子には、『真幸くあらば』における有名なシーン(例えば、こちらのインタビュー記事)があるので、こうした作品でわざわざ脱いでもらう必要はこれっぽっちもありませんが。

(注9)アニキには妻がいるのでしょうか?
 祥子は、アニキの家に複数の女や大勢の子供たちがいるのを見て、「いったい何人の妻を持っているの?」とアニキに問いただしますが、アニキは答えません。
 あとで、孤児などをあずかっていることはわかるものの、妻の件ははっきりしません。

 また、リュウには恋人・香奈菜々緒)が学生時代にいたのですが、現在は単独でバリ島の子供たちの目の治療にあたっています(リュウは、インドネシアでは白内障のため目が見えなくなっている子供が多いことがわかり、ボランティアで治療を続けています)。

 アニキとリュウとが祥子のそばにいながら何らのアプローチもしないのは、アニキとリュウとがホモ的な関係にあるからだとみなさざるを得ないのですが、はてどんなものでしょうか?
 なにより、リュウは、祥子をオートバイに乗せて自分の家に連れて行くのですが、その際に「自分は君に何の興味も持っていないから、安心して」と言うのですから驚きです(尾野真千子はそんなに魅力のない女性なのでしょうか?)。

(注10)アニキは、「今、自分の家で子供たちを預かっているが、もう限界」と、幼稚園建設の理由を説明します。

(注11)クリフォード・ギアツの『ヌガラ』を読んだりして、行ったことはありませんが、バリ島には関心がありました。無論そんな本に従うことなど不必要であり、また観光案内的な“御当地物”も御免被りますが、本作はせっかくバリ島でロケを行ったわけですから、もっとバリ島の社会の内部に入り込んだ物語にしてもらったら、という感じが残りました。
 〔まさか、『ヌガラ』で議論されている“劇場国家”を踏まえて、上記(3)で触れている渡まち子氏が言うように、本作が「過剰演出」になっているわけではないとは思いますが〕

(注12)アニキが当初大金をつかむことになった土地を分けてくれたのがこのアデ。アニキは、得たキャピタルゲインの半分をアデにあげるのですが、彼はそれを賭け事で全部スッテてしまい、再びアニキが工事現場監督として雇い入れている、ということに映画ではなっています。

(注13)劇場用パンフレット掲載の「STORY」では「信用していた部下のアデさんがアニキを裏切る事件が起こる」と述べられていますが、“裏切る”とは言い過ぎのように思えます。



★★☆☆☆☆



象のロケット:神様はバリにいる
コメント (4)   トラックバック (16)
この記事をはてなブックマークに追加

毛皮のヴィーナス

2015年01月27日 | 洋画(15年)
 『毛皮のヴィーナス』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)最近では『おとなのけんか』が面白かったロマン・ポランスキーの監督作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、雷雨の中、人が歩いておらず街灯だけが点いているパリ市内の街路が映し出されます。
 次いでカメラは、街路に面した小劇場に次第に接近し、そのドアから劇場の中に。
 そこでは丁度、ザッヘル=マゾッホ原作の『毛皮を着たヴィーナス』(種村季弘訳)を脚色した演出家トママチュー・アマルリック)が、主役ワンダのオーディションを終えて劇場を引き上げようとしています。
 トマは、「35人もの女優に会ったにもかかわらずろくな者がいない」と携帯電話で嘆きます。
 そんなところに、30分遅れでもう一人の女優ワンダ(戯曲の主役と同じ名前:エマニュエル・セニエ)が「遅すぎた?」と出現。
 演出家は、「審査員は皆帰って、オーディションはもう終わった」と断るのですが、その女優の熱心な頼みに負けて(注2)、女優ワンダが戯曲の主役のワンダとなり、演出家トマ自身がその相手役セヴェリンとなって、オーディションをすることになります。



 さあ、どんな結果がもたらされるでしょうか、………?

 映画では、終始、オーディションに遅刻した女優と演出家の2人だけが映し出され、また映画の舞台も、オーディション会場となった劇場の舞台だけ。頗るシンプルな作りの作品ながら、出演する二人の熱演によって画面は活気に溢れ、また『毛皮を着たヴィーナス』を脚色した戯曲を演じながらも、その間に現実の女優と演出家の生身の姿も混じって描き出され、全体として大層面白い作品に仕上がっています(注3)。

(2)本作には、興味深い点がいくつも含まれていると思います。
イ)本作で取り上げられる戯曲の原作を書いたマゾッホについては、このブログでも過去何回か取り上げたジル・ドゥルーズ(注4)が、その著『マゾッホとサド』(蓮實重彦訳)において大変興味深い分析をいろいろ行っているところ、ドゥルーズは「マゾヒスム的関係における契約という形態」を大層重要視しています(同書P.96:注5)。
 本作においても、戯曲を演じている中で、「あなたを私の奴隷にする」といった内容の契約書が作成されます(注6)。
 ところが、本作においては、この契約書の内容が戯曲の世界から現実の世界に拡大され、女優ワンダと演出家トマとの間で取り交わされたようにもなっていきます(注7)。



 それはもしかしたら、これらの役を演じている二人の俳優を通じて、監督と女優との関係に(注8)、さらにひょっとしたら観客(この映画に翻弄されるだけの)との関係にも及ぶのかもしれません。

 ただ、下記の(3)で触れる秦早穂子氏のように、戯曲の中のワンダとセヴェリンとの関係やそれを演じる女優ワンダと演出家トマとの関係を「サドとマゾ」の関係と見てしまうと、それはちょっと違うかもしれないな、とも思われます。
 というのも、上記の著書でジル・ドゥルーズが言うように、「マズヒスムという領域で女性の拷問者の類型に観察が向けられる場合、それが現実には真のサディストでも外見的なサディストでもなく、全く別のものであって、主観的にマゾヒスムを確立しえぬとはいえ根本的にはマゾヒスムに属し、しかも徹頭徹尾マゾヒスト的でしかありえない一つの展望のもとで、その女が「加虐」的要素を具現化している」ように思われるからです(同書P.55)。
 要すれば、戯曲の中のセヴェリン(さらにはそれを演じるトマ)はマゾヒストだとしても、セヴェリン(あるいはそれを演じるトマ)を責め立てるワンダ(戯曲の中のワンダと女優のワンダ)がサディストだとは簡単には言えないのではないでしょうか(注9)。

ロ)本作の最初の方でトマは、「オーディション申込者の中にあなたの名前が見当たらない」とワンダに言いますし、また彼女は、トマ以上にこの戯曲に通じていたり(すべての台詞を自分のものとしています)、なぜかトマの婚約者について詳しく知っていたりするのです(注10)。
 元々彼女が戯曲の主役の名前と同じの上に、こんなことをも考え合わせると、ワンダはトマが創りだした幻影ではないかと思えてきます(35人ものオーディションで疲れたトマが、劇場で居眠りをしている最中に夢の中に現れた人物ではないでしょうか)。

ハ)女優のワンダは、戯曲の原作や戯曲そのものについて、あれこれ批判的な言葉を述べるのです。
 例えば、オーディションを受ける前のところで、「この劇曲の原作は、SMのエロ本でしょ」(注11)と言い放つので(注12)、トマは慌てて、「そうじゃない、1870年代の話だ」と遮ります(注13)。
 また、戯曲の冒頭に置かれている題辞(注14)について、ワンダは「性差別だ」と批判します。
 さらには、戯曲が原作と違うところを指摘したり(注15)、戯曲の中の場面について、ワンダは、「戯曲のテーマは子供の虐待なの?」と言ったり(注16)、「ヘボ過ぎる」とまで言ったりします(注17)。
 こんなところは、いくら戯曲の原作が世界文学の古典だからといって、それを金科玉条として祭り上げるわけではないという本作の制作者側の意図を表しているのかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「マチュー・アマルリックは若き日のポランスキーによく似ていて、監督の分身のようだし、監督の妻のエマニュエル・セニエは肉体的な魅力だけでなく、知性のかけらもない女優と品格ある女性の二役を完璧に演じきって素晴らしい」などとして70点を付けています。
 中条省平氏は、「観客はあれよあれよという間に演出の術中にはまり、現実と幻想のはざまに快く迷いこまされ、ラストで呆然とさせられるだろう」として★4つ(見逃せない)を付けています。
 秦早穂子氏は、「気取ったトマの俗物性を嘲笑し、彼の優雅な婚約者との絶縁を強要する。サドとマゾの関係は女神と従僕に逆転し、痛快で最高の見せ場だ。背後に、執拗(しつよう)な監督の視線が絡まる」などと述べています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「濃密な時間と空間の中で語られるセリフは、劇中舞台の脚本に書かれているのか、それとも2人自身の言葉なのか。謎の女に追い詰められていく様は緊張感が張りつめ、スリリングなことこの上ない」と述べています。



(注1)監督・共同脚本は、ロマン・ポランスキー
 彼の監督作品は、最近では、『ゴーストライター』と『おとなのけんか』を見ています。

(注2)ワンダは、「劇の主役と同じ名前」と言ってトマの気を引き、トマが「自分が脚色した」と言うと、「この作品は最高、セクシーで官能的」と答えて持ち上げます。
 さらにトマが、「相手役が帰ってしまった」と言うと、ワンダは「あんたがやって」と答え、加えてトマが「君はタイプが違う」とか「年齢も違う」と言うと、ワンダは「着るものも30ユーロで買ってきたのに」と答えて、「最低だよ!一日を無駄にしてしまった」と泣いてしまいます。
 そこで仕方なく、トマはワンダに付き合うことになります。

(注3)最近では、本作に出演したエマニュエル・セニエは、『危険なプロット』や『エッセンシャル・キリング』で、マチュー・アマルリックは、『グランド・ブダペスト・ホテル』や『チキンとプラム―あるバイオリン弾き、最後の夢』で見ています。

(注4)この拙エントリの「注7」を参照してください。

(注5)「マゾッホの現実体験においてもその小説中にあっても、マゾッホという特殊ケースにあってもマゾヒスム一般の構造においても、恋愛関係の理想的形態として、またそれに必須の条件として、契約なるものが姿を見せている」。
 「マゾヒストが鉄の鎖につながれ紐で縛られているのは、外面的なものにすぎない。彼は自分の言葉によって束縛されているだけなのである」。
 「マゾヒストの契約は、犠牲者となるものの同意の必要性ばかりではなく、説得の資質、教育的かつ法律学的な努力をも表現するものである」。
 「マゾヒストの精神のうちには、契約がない限り、―あるいは準契約がない限り、マゾヒスムは存在しないのだという事実を確認しておく必要がある」。
(以上は『マゾッホとサド』P.96~97)

(注6)本作で映し出される戯曲では、随分と簡単に契約書が作成されてしまい、上記「注5」の引用中で指摘されている「説得の資質、教育的かつ法律学的な努力」という側面があまり伺われない感じはしますが〔「(女の拷問者の)「性質」を、マゾヒストは調教し、訓育し、内奥に深く隠されたおのれの企てに従って説得しなければなら」ない(『マゾッホとサド』P.52)〕。
 なお、原作における契約書は、文庫版のP.138~P.139に記載されています。

(注7)女優ワンダはトマに対して、自分が付けていた犬の首輪を付けたり、自分の足にブーツを履かせたり、婚約者に「今夜は帰らない」と電話させたり、トマに「ワンダになるべき」と言い、口紅をつけたりハイヒールを履かせたり、殴ったりするのです。これに対して、トマも、「ありがとう」と言ったり、「私を卑しめて、辱めて」と答えたりします。

(注8)劇場用パンフレット掲載のレビュー『ワンダ、あなたは何者?』において映画評論家の渡辺祥子氏は、「マゾッホの小説が原点、とわかっているけれど、ポランスキーが描いたワンダはエマニュエル・セニエ。もう彼女からは逃れられない、と彼はエマニュエルの前にひれ伏す」と述べています。
 劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、ポランスキーが「初めて彼(マチュー・アマルリック)と出会った時、彼は自分が私(ポランスキー)に似ているとしょっちゅう言っていた」と述べているように、トマ役のマチュー・アマルリックの容姿がポランスキーとよく似ており、エマニュエル・セニエはポランスキーの妻なのです。

(注9)ジル・ドゥルーズは、本文で触れた著書『マゾッホとサド』の最後に11もの命題を掲げて、サディスムとマゾヒスムの違いを明確にしていますが、その中には「一方の「制度」的な意味、他方の「契約」的な意味」という命題が含まれています(同書P.163)。本文の「(2)イ)」で述べたように、ドゥルーズは「マゾヒスム的関係における契約という形態」を大層重要視している一方で、「(サドは、)契約への敵対の姿勢、契約を想起させるいっさいのもの、およそ契約をめぐる観念なり理論なりへの敵対の姿勢が途方もなく強い」と述べています(同書P.98)。

(注10)ワンダはトマに、「あなたの婚約者とはジムで会い、着替えながら話した。その際、彼女から、結婚前の事前調査として、あなたのことを調べてくれと頼まれた。オーディションが終わったら、ホテルで彼女と会うことになっている」と言うのですが。

(注11)「SM」という点については、上記「注9」を参照してください。

(注12)本作の終わりの方でも、「この芝居は最低のポルノ」とワンダは言います。

(注13)戯曲の原作は、1871年に出版。

(注14)原作の最初のページに記載されているもの〔「神、彼に罰を下して 一人の女の手に与え給う」(ユディトの書 16章7)〕(文庫版P.7)。
 あるいは、原作における語り手がセヴェリンから受け取った原稿「ある超官能者の告白」の余白に書かれていたメフィストフェレスの言葉「官能を超越した官能的な自由人よ、一人の女がお前の鼻先を引き回す!」でしょうか(文庫版P.20)?

(注15)原作の冒頭において、物語の書き手が見た夢の話をセヴェリンにするのですが、その夢の中には毛皮を着たヴィーナスが登場するのです。ヴィーナスが何度もくしゃみをするところからも、女優ワンダが言うように、ヴィーナスは全裸の上に毛皮を着ているのでしょう。そのところを、トマの戯曲では原作通りにしていなかったようです。

(注16)少年の頃伯母に鞭で叩かれたことをセヴェリンがワンダに語る場面について。
 なおトマは、「この戯曲で体罰の問題を描きたいわけじゃない!」と言い返しますが。

(注17)ギリシア将校が劇場でワンダを誘惑する場面について。
 なおトマは、「これは僕の戯曲だ、誰にもいじらせない」と、からくも反撃するのですが。



★★★★☆☆



象のロケット:毛皮のヴィーナス
コメント   トラックバック (5)
この記事をはてなブックマークに追加

薄氷の殺人

2015年01月23日 | 洋画(15年)
 中国映画『薄氷の殺人』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)昨年2月の第64回ベルリン国際映画祭で金熊賞と銀熊賞を受賞した作品というので、映画館に行ってみました。

 本作(注1)の舞台は、中国華北地方の都市(注2)。
 冒頭では1999年の表示があり、トラックが運んだ石炭の中から人間の死体の一部が見つかって大騒ぎとなります。
 しばらくすると、100km以上も離れたところに運搬された石炭の中からも、同一人物のものとみられる遺体の一部がみつかったことがわかります。それもそこだけではなく全部で15ヵ所ですから、とても同一人物が運搬したとは思えません。

 この事件が描き出されている間に別のシーンが挿入されます。
 男と女がベッドの上でトランプをしたあと抱き合いますが、すぐに駅の場面となって、男は別れがたさに女に抱きつくものの、女は「やめて」といってあるものを男に手渡し、「バカ」と言って電車に乗って立ち去ってしまいます。
 女が手渡したものを男が見ると、「離婚証明書」でした。
 そして、この男が、この事件を追跡する主人公の刑事ジャンリャオ・ファン:注3)なのです。



 殺された男は、残されていた身分証明書によりリアン・ジージュンワン・シュエビン)だとされます。
 ジャン刑事たちは、被害者の妻ウー・ジージェングイ・ルンメイ)が働くクリーニング店に出向き捜査協力を要請しますが、彼女は泣いてばかりいます。



 そうこうしているうちに事件の容疑者が浮上し、警察は逮捕に向かうものの、銃撃戦となってしまい、容疑者と刑事が死に、ジャンも撃たれてしまいます。

 ここで映画の時点は5年後の2004年となり、ジャンは警察を辞め警備員となって暮らしているところ、元の刑事仲間のワン刑事(ユー・アイレイ)から、またしても同じような事件が二つも起こり、被害者は未亡人のウーに関係していたとの情報を得ます。
 そこでジャンは、一連の事件を解明しようとして、ウーが勤めるクリーニング店を見張るのですが、………?

 本作はサスペンス物であり、主役の刑事ジャンが、未亡人のウーに目星をつけて執拗にまといつくのですが、事件を解決すべくそうしているのか彼女に惚れてしまって後を追いかけているのかどうも判然としないうちに事件の全体がわかってきます。また、車が地下道を走り抜けた時の雪景色とか、ラストの白昼の花火の光景など興味ふかい映像がいくつも盛り込まれているとはいえ、映画の公式サイトで「生々しいリアリティと得体の知れない不条理性が渦巻く斬新なヴィジュアル」などとされているほど御大層なものなのかしらと思いました。

(2)すでにブログ「佐藤秀の徒然幻視録」のこのエントリで指摘されていることですが、刑事物、金熊賞、花火とくると、どうしても昔見た北野武監督の『HANA-BI』を思い出してしまいます。
 といっても、本作のジャン刑事は冒頭から妻に逃げられてしまう人物であり、『HANA-BI』の西刑事ほど格好良くありませんし、金熊賞といっても『HANA-BI』はベルリンではなくヴェネチアの国際映画祭であり、また『HANA-BI』のラストの2度の銃声が花火の音に擬せられるとしたら、本作のラストの花火は、それとは比べ物にならないものすごい量です(注4)。

 この花火の映像については、中国語の原題が「白日焔火」(白昼の花火)となっていて、さらにディアオ・イーナン監督が劇場用パンフレット掲載のインタビューにおいて、「“白昼の花火”は、ある意味ファンタジーであり、人々が周囲の辛い状況から身を守るために使う、ある種の精神的浄化装置。このタイトルを使うことで、今の中国人が極度に浄化を必要としていることを示唆したつもりです」と述べていることから、かなり重要な場面だと思われます(注5)。

 ただ、本作の花火のシーンを見ると、花火に対するイメージの違いがあるのかもしれませんが、まるでロケット弾が華々しく飛び交っているように見え、「浄化」というよりもむしろ「戦い」を表しているのでは、とさえ思えてきます(注6)。
 逆に、日本で「花火」というと、線香花火ばかりでなくどんなに大きく花火が開こうとも、すぐ消えてしまうような儚さを感じるものです。それも本作の場合“白昼”ですから、夜空に打ち上げられる場合よりも目立たないでしょう。

 そんなことから、「白日焔火」(白昼の花火)とあると、ウーの身の上のことを言っているのかなという感じにもなってきます。
 そして、その感じが残ると、邦題の「薄氷の殺人」も、単に“薄い氷の上での殺人”というより、むしろ“とても危なっかしく、儚い殺人”という意味のように思えてきます(注7)。

 でも、邦題は、おそらく英題の「BLACK COAL, THIN ICE」に依るものと思われますが、監督インタビューによれば、「黒い石炭はバラバラ死体が発見された場所を、白い氷は殺人が起こった場所を指し示し、2つが一緒になって殺人事件の事実が浮かび上がる」とのこと。
 実際にも、本作で何度も映し出されるスケートリンクの氷は頑丈そうで、ことさら「薄い氷」の上で市民がスケートを楽しんでいるようにも思われません。
 そうだとすれば、英題がことさら「“THIN” ICE」となっていたり、邦題が「“薄”氷」とされていたりする意味合いがよく理解できないところです(注8)。

 まあ、タイトルのことですからどうでもいいわけながら、本作にはよく理解できない点がいろいろあります。
 例えば、ある女からよく話を聞こうとして、ワン刑事がその女と一緒にマンションの部屋から廊下に出ると、その向こうに馬がいるのです。女が「なぜ馬が廊下に?」と言うのですが、観客の方もあっけにとられます(注9)。

 また、前からの続き具合からすれば、車に乗っているのはジャン刑事と思われるものの、その車が地下のトンネルを通って抜け出ると雪景色であり(注10)、出口のところでは、車に乗っているはずのジャン刑事が、オートバイの横で酔いつぶれて体を横たえている場面となり「2004年」の表示が映し出されます。
 ジャン刑事は、後から別のオートバイに乗ってやって来た男に介抱されながらも、その男に自分のオートバイを盗まれてしまいます。
 男が置いていったオートバイに乗って出勤すると、彼は最早刑事ではなくどうやらそこの警備員のようです(注11)。
 ここらあたりも、思い返して考え直さないと、わけの分からなさが募ってしまいます。

 確かに、本作には興味深いシーンが様々にありますが、なんだか思わせぶりな感じがつきまとってしまい、違和感を覚えたところです(注12)。

(3)宇田川幸洋氏は、「単なるシネフィル的なお遊びでなく、あくまで現代中国の空気を濃厚にすくいとり独特な気分をかもすところがすばらしい」と述べて★4つ(見逃せない)を付けています。
 外山真也氏は、「優れた映画監督の資質とは、良いものを見極め、そのエッセンスを自らのフォーマットの中で再現する能力に他ならない。観客の想像の上を行くやり方で、つまりはタランティーノや北野武のように人の死を演出できるこの監督の力量は、十分それに値する。アジアからまた一人、すごい才能が現れた」として★5つを付けています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「枠組みはオーソドックスだが、語り口は非凡だ。なぜ、人は一線を踏み越えてしまうのか。絶妙のリズムで紡がれる映像の力で、観客が考えるより先に体感させ」、「ことが終わった後に待つ境地を描く終幕も鮮烈。見終わった後、数々の場面がきっと心を離れなくなる」と述べています。



(注1)監督・脚本はディアオ・イーナン

(注2)劇場用パンフレットに掲載の監督インタビューによれば、ロケはハルビン(哈爾濱)で行われたとのこと。

(注3)『さらば復讐の狼たちよ』に出演していたようですが、印象に残っておりません。

(注4)なにしろ、消防隊が駆けつけて、ビルの上に陣取り花火を打ち上げている者(誰だかわかりません)に向かって、拡声器で「規則に反しているから止めなさい」と警告するほどなのですから!

(注5)加えて、事件の真相に関与するナイトクラブの名前が「白日焔火」であり、その大きなネオンは暗い市街地の中でひときわ目立つ存在となっています。

(注6)逮捕されたウーに対して、ジャンが「見守っているぞ」「めげないで頑張れ」などのメッセージを送るために、こうした花火を打ち上げているのではとも思われるところです。とはいえ、ウーの逮捕に大きな貢献をしたのがジャンなのですから、仮にそうだとしてもよくわからないところです。

(注7)「薄氷を踏む思い」といった言い方をすることでもあり。

(注8)加えて、本作における殺人事件が必ずしも氷の上で行われているわけでもなさそうに思われます。少なくとも、事件の発端となった最初の殺人は、家の台所で行われたのではないでしょうか。また、ワン刑事も、容疑者を追い込んでいった路地裏で殺されたはずです。

(注9)劇場用パンフレットに掲載の監督インタビューによれば、「ジャンル映画であっても、これまでの型に納めるのでなく、個人のスタイルを見出したかった。僕独自のスタイルを作りたかったからです」とのことですが。

(注10)劇場用パンフレットに掲載の監督インタビューによれば、川端康成の『雪国』の冒頭を意識しているようで、「そこでトンネルに時間を託し、主観と客観を入れ替えることで印象的なシーンになるのではないかと考え」たとのこと。

(注11)本作の公式サイトの「Story」では「妻に捨てられ、ケガのせいで警察を辞したジャン」とありますが、事件の容疑者を逮捕する際に、二人の容疑者のみならず刑事を二人も死亡させてしまった不手際の責任をとって警察を辞めたとする見方もできそうです。

(注12)こちらのインタビュー記事では、監督は、「完璧に料理を作って口の中に入れてあげないと満足しない観客は存在します(笑)。でも私はこの映画は脚本を書いている時も、撮影している時も、完成した今でも成長を続けていると考えていますから、観客の方にも参加してもらいたいんですね」と言っています。クマネズミは、さしずめ「完璧に料理を作って口の中に入れてあげないと満足しない観客」に該当するのでしょう!



★★★☆☆☆



象のロケット:薄氷の殺人
コメント   トラックバック (17)
この記事をはてなブックマークに追加

あと1センチの恋

2015年01月20日 | 洋画(15年)
 『あと1センチの恋』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)少々時間が余ったので予備知識なしに映画館に入ってみました。

 本作(注1)の主な舞台は、イギリスの小さな田舎町。
 そこに暮らすロージーリリー・コリンズ:注2)とアレックスサム・クラフリン)との愛の物語。

 冒頭は、アレックスの結婚式のパーティーでロージーが挨拶するシーンです(注3)。
 その中でロージーは、12年前の18歳の時の誕生日パーティーでアレックスと「偶然のキス」をしたものの、飲み過ぎていて全く記憶にないことを告白します。
 そして映画は、ロージーが18歳の時点に戻って、彼女が誕生日パーティーで踊りまくり、アレックスとキスをして、飲み過ぎで倒れて、翌朝ベッドで目覚めるシーンへとつながっていきます。

 そこには、心配したアレックスも顔を出します。
 ですが、アレックスは、ロージーにキスをしたことを言えないまま、ロージーや仲間たちと一緒に海辺へ。
 アレックスが「ベサニーが僕とダンスをしたいらしい」と言うと、ロージーは「行きたいなら誘えば」と応じ、これに対しアレックスが「君を独りにしておけないよ」と言うと、ロージーが「私にはクレッグもいるし」と答えたので、アレックスは「彼女を誘ってみるよ」と言ってベサニーがいるところに行ってしまいます。
 この後、アレックスはベサニーと、ロージーはクレッグとそれぞれベッド・インすることになるのですが、しかし、二人はこの先どうなっていくのでしょう、………?

 本作は、映画館が若い女性ばかりだったことからも分かるように、若向きのちょっとコミカルなラブストーリー。こうした映画にあれこれ言い募っても場違いでしょう。主役のロージーを演じるリリー・コリンズやその相手役のアレックスに扮したサム・クラフリンらの若さ溢れる演技を見守るばかりです。




(2)本作は、以前見たアン・ハサウェイ主演の『ワン・デイ』と同じように、主役のロージーと相手役のアレックスとは、若い時分から「お互いに強く惹かれ合うものを感じながらも、長い間友達関係だった」のです。



 さらには、『ワン・デイ』が23年間を取り扱っている(注4)のと同じように、本作も24年間(注5)の長い期間にわたる物語となっています。
 加えて、本作では、ロージーがイギリスにとどまってホテルの清掃係になり、アレックスがアメリカに行きますが(注6)、同じように『ワン・デイ』でも、アン・ハサウェイの扮するエマはロンドンでレストランのウエイトレスになる一方で、相手役のディクスタージム・スタージェンス)はパリのTV番組で活躍します。

 ただ、『ワン・デイ』では主人公が終わりの方で死んでしまうのですが、本作はハッピーエンドを迎えることが明らかな雰囲気でから、すべて安心して途中の展開(お互いに別々の道を歩みながらも、連絡は緊密にとっています)を楽しめる点が大きな違いといえば言えるでしょう。
 とはいえ、『ワン・デイ』を見た者からすれば、この先どんな難関がロージーとアレックスに待ち構えているかわかったものではないですよ、と言ってみたくなってしまいます。

 こうした映画に対して、気になった点を言ってみても詮無いことながら、
イ)ロージーは、ちょっとしたはずみで関係を持ったクレッグの子供を身ごもってしまい、いとも簡単にその赤ん坊を産んでしまうのには驚きました。
 彼女は、両親がカトリックだからと言っていましたが、本人にあまり信仰心はなさそうであり、むしろ産んだ子をすぐに里親に出せばいいとのアドバイスを受けて、産んでみようという気になったと思われます。
 ですが、そんないい加減な心構えで産んでもらった子供の方では堪ったものではないのではないでしょうか?
 とはいえ、本作では、生まれてきた赤ん坊を見て、ロージーに自分で育てる気が起きてこの問題は回避されたのですが。

ロ)ロージーとアレックスは、いつもLINEとかメールで連絡を取り合っていながらも、肝心要の事柄をどうしてアレックスは便箋に手書きして郵便で投函したのか、なぜメールで送らなかったのか、理解できないところです。
 この手紙を、ロージーと結婚したクレッグが郵便箱に見つけて読んでしまい、それを鍵のかかる引出しに入れてロージーから隠してしまったのですから(注7)。
 尤も、クレッグとの間で破局を迎えたロージーが、彼の引出しをこじ開けてアレックスの手紙を読み真意がわかり、ラストのハッピーエンドに向けて事態が進展することにはなるのですが。

(3)渡まち子氏は、「話そのものは新鮮味はないが、主演2人のみずみずしさが魅力になっている。特にティーンエイジャーから母親まで一人で演じきったリリー・コリンズの、ちょっとコミカルな演技が光っていた」として60点を付けています。
 りんたいこ氏は、「恋愛映画としてだけでなく、子育てに苦労しながらもホテル経営という夢をあきらめないロージーの自立の物語としても見ることができ、女性の多くが共感できる作品に仕上がっている」と述べています。



(注1)原作は、セシリア・アハーンの『愛は虹の向こうに』(小学館文庫:未読)。
 本作の監督は、クリスチャン・ディッター

(注2)『しあわせの隠れ場所』でサンドラ・ブロック扮するリー・アンの娘役として出演していたとのことですが、覚えておりません。

(注3)この挨拶のシーンは、ラストの方でも再び描かれ、引き続いてロージーは「パートナーの選択は、どんな決断よりも重要。間違えれば、絶望が待っている。でも後戻りはできない」、「あなたの友情が、私の人生を光り輝かせてくれた。あなたはいつもそばにいてくれた。でも、私はその価値に気が付かなかった」、「あなたが何をしようと、私は心からあなたを愛している」などと述べて、「さあ皆さんで乾杯しましょう」と盃をあげます。

(注4)アン・ハサウェイ扮するエマと相手役のディクスターとは、出会ってから15年目に結婚しますが、話はそれで終わらずに、結婚2年目にエマは交通事故で亡くなります。 
 さらに、この映画の現時点が2011年ということで、2人が出会ってから23年が経過しています。

(注5)ロージーとアレックスは6歳の時からの幼なじみなのです。
 ただ、ロージーが18歳の時に二人は「偶然のキス」を交わしますから、それをラブストーリーの起点とすれば12年間でしょう。

(注6)アレックスは、イギリスの大学が「窮屈で嫌だ」と言って、ボストン大学の医学部に行くのです。

(注7)としても、クレッグは、どうしてアレックスの手紙を破棄してしまわずに、後生大事に引出しの中にしまっておいたのでしょう?



★★★☆☆☆



象のロケット:あと1センチの恋
コメント   トラックバック (17)
この記事をはてなブックマークに追加

ベイマックス

2015年01月16日 | 洋画(15年)
 『ベイマックス』(2D日本語吹替版)をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)ディズニーのアニメながら、評判がいいので映画館に行ってきました。
 平日の昼間でしたが冬休み中ということで、映画館は子供たちで満席状態でした。

 本作(注1)の初めでは、都市の上空からだんだんに視点が下がっていって、場面はロボット・ファイトが行われている場所に。
 主人公のヒロが現れ「僕もやっていい?自分で作ったロボットがある」と言って、二体持ってきたロボットの一体を戦わせるものの、簡単に首を切られてしまいます。



 会場の男に「帰りな」と告げられますが、ヒロは、「お金もあるし、もう一体のロボットがある」と言って、そのロボットを戦わせます。
 すると、ヒロの作ったロボットが勝ってしまい、ヒロはお金を受け取ったところ、会場の男は「こんなのはまぐれだ、思い知らせてやりな」と仲間に言います。
 その時、ヒロの兄のタダシがオートバイに乗って現れ、窮地のヒロを救い出してくれます。
 タダシは、「高校を13歳で卒業しながら、やっているのがこれか」と嘆き、ヒロを大学の研究室に連れて行きます。
 そして、タダシが開発しているロボットのベイマックスをヒロは目にすることになります。
 この後、ヒロは、タダシに代わって、ベイマックスとともに大活躍することになりますが、………?

 本作は、主人公の少年の名前がヒロ・ハマダだったり、舞台がサンフランシスコと東京とを合わせたような都市(サンフランソウキョウ)だったりと、ずいぶん日本風味が加えられています(注2)。



 と言っても、話自体が日本風というわけでもなく、よくあるような展開であり(家族愛や仲間愛といったものに従った)、またよくみかけるメッセージ(命が大切など)がたっぷりといった按配で、映像は素晴らしいとはいえ、ストーリーは予告編から期待したほどではありませんでした。

(以下、色々とネタバレしますので注意してください)

(2)確かに、本作で描き出されるベイマックスは大層愛くるしいロボットです。
 その頭部は鈴を模してある(注3)など、どの部分も曲線で描かれ丸っこくフワフワとした感じで、誰もが触ってみたくなってしまいます。
 特に、人の心と体を守るために作られたケア・ロボットだと言うのですからなおさらです。

 ただ、本作は子供たちが愉しむアニメですからことさら言うほどではありませんが、例えば次のような点が気になりました。

a.本作では家族愛の方に重点が置かれ、恋愛の要素が見られません。
 ヒロが14歳という設定からでしょうが、本作に母親代わりのキャスという女性が登場するものの、恋愛関係になる女性は登場しません。
 描かれるのは、専ら、ヒロとその兄タダシとの兄弟関係とか、キャラハン教授とその娘との父娘関係といった家族関係だけなのです。
 これは、最近見た『インターステラー』でも感じたところです(注4)。

b.ヒロやキャラハン教授の激しい怒りは妥当なものでしょうか?
 ヒロは、兄タダシを死に至らしめたのはマスクを付けたミスター・カブキだとして復讐しようとします。確かに、ミスター・カブキが引き起こした大爆発に巻き込まれてタダシは死ぬわけながら、それはタダシがキャラハン教授を助けようとしたために起きた偶発的な出来事とも言えるのではないでしょうか(少なくとも、ミスター・カブキがタダシを直接的・意図的に殺してしまったのではないように思われます)?

 また、キャラハン教授の娘にしても、クレイテック社のオーナーのクレイが意図的に行方不明にしてしまったのではないように思います。彼女が行方不明になったのは、単に、制御盤の不調を完全に治さないままに急いで瞬間移動装置のスイッチを入れてしまったことが原因であり、クレイはことさら彼女を消してしまおうとしたわけではないものと思います。クレイの責任は無視できないとしても、あれほどキャラハン教授が復讐心に燃えるのはよく理解できないところです。

c.マイクロボットを制御する装置(頭につける神経トランスミッター)について、ヒロは簡単にその複製をこしらえることができるのではないでしょうか(注5)?
 ミスター・カブキが操る大量のマイクロボットは、元々、ヒロが工科大学に入学するために発明したものであり、その制御の仕組みは知り尽くしているはずです(ヒロの手元に残されたマイクロボットの反応によって、それが大量に製造されている倉庫に辿り着けるのですから、新しく作り出されたマイクロボットではないはずですし)。
 特にヒロは、ワサビとかフレッドらのタダシの仲間に、様々の戦闘用スーツを簡単に発明するのですから、この神経トランスミッターをもう一つ作り出すことくらい朝飯前ではないでしょうか?
 そして、それさえあれば、あれほど一方的にミスター・カブキに攻撃されることもなかったと思えるのですが?

d.なんだか他の映画の類似のシーンをいろいろ思い出してしまいます。
 例えば、ミスター・カブキは、映画『ダークナイト』に登場するジョーカーを彷彿とさせますし、また、ヒロとキャラハン教授の娘を脱出させるべく自分を犠牲にして異次元空間の中に落ちていくベイマックスの姿には、『ゼロ・グラビティ』のマット(ジョージ・クルーニー)や『インターステラー』のクーパー(マシュー・マコノヒー)が重なります。

e.随分とわかりやすいメッセージがいろいろ織り込まれているものだな、と思いました。
 なにしろ、日本で公開される映画の終わりでは、歌手AIによる「Story」が歌われ、そのメッセージ性を一層高めているとされているくらいですから(注6)。

(3)渡まち子氏は、「天才少年ヒロがケア・ロボットと共に世界の危機に立ち向かう「ベイマックス」。大切な人を守るという最高の勇気に感動必至」として75点を付けています。
 前田有一氏は、「つらい目に合った少年がヒーローになり活躍する。そんな男の子が喜ぶ妄想を映画にするのは構わないが、あまりに能天気に実現し、賛美するだけの内容では、 結局暇つぶし以外の何物でもない。子供たち用にはスルーして、アニメ好きの大人が、気晴らし程度にみる用途が望ましいであろう」として55点を付けています。
 相木悟氏は、「純然たるディズニーのフルCGアニメながら、アメコミヒーローものであり、日本アニメのエッセンスも色濃く香る不思議なエンタメ作品であった」と述べています。



(注1)原題は「Big Hero 6」、上映時間102分。
 監督は、ドン・ホールクリス・ウィリアムズ

(注2)日本語の看板がアチコチに掲げられていたり、金門橋と思しき巨大な橋の橋脚が鳥居の形をしていたりするなど、日本的な物がこのアニメの中に色々取り入れられています。この点につき、劇場用パンフレット掲載の「プロダクション・ノート」には、「(プロダクション・デザイナーの)フェリックスによると、東京は美観的要素に貢献しているという」と述べられています。まあ、製作者側の日本趣味を外観上取り入れたということではないでしょうか。

(注3)劇場用パンフレット掲載の「クリエイター紹介」で、キャラクター・デザイン担当のシューン・キムは、「鈴」の「ふたつの丸と、それを結ぶ線を見た時、これはベイマックスの顔に使えそうだとひらめいた」と語っています(すべてが曲線から作られているようにみえるベイマックスですが、二つの目を結ぶ線は、はっきりとした直線です!)。

(注4)クーパーがアメリアを恋していることは仄めかされるものの、同作で専ら描かれるのはクーパーとマーフとの父娘関係の方です(それと、トムとマーフの兄妹関係も)。

(注5)ヒロは、発明したマイクロボットを研究発表会で展示した後、マイクロボットともどもその神経トランスミッターも会場に残して出てしまったようです。それをミスター・カブキが使っているのではないでしょうか?

(注6)このサイトの記事によれば、「監督が本作のテーマの1つとして「死んでしまった人は決していなくなってしまったわけではなく、私たちの記憶の中に生き続けている。陳腐に聞こえるかもしれないけど、私たちはその人と共にいる」と語る言葉からは、「Story」の“あなたは一人じゃない”という優しいメッセージ、力強い愛情との共通性を感じることができる」とのことです。



★★★☆☆☆



象のロケット:ベイマックス
コメント (8)   トラックバック (63)
この記事をはてなブックマークに追加

バンクーバーの朝日

2015年01月13日 | 邦画(15年)
 『バンクーバーの朝日』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『ぼくたちの家族』や『舟を編む』の石井裕也監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「海の向こうで3年働けば日本で一生暮らしていけるほど稼ぐことができるという話を聞いて、多くに日本人がカナダのバンクーバーにやってきた」とか、「日本人はよく働いた。10時間近く働いて賃金はカナダ人の半分。カナダ人の敵だった」などといったナレーションに続き、「一つの野球チームが結成されカナダ人リーグでプレーするようになった」と語られて、タイトルクレジットが入った後、日系二世の妻夫木聡が時間に間に合うよう急いで街を走りぬけ、働き場所の製材所に行き、同所で働いている勝地涼と材木を二人がかりで運ぶシーンとなります。

 この妻夫木が、野球チーム「バンクーバー朝日」のキャプテンであり(注2)、勝地もそのメンバー。他には、漁師の亀梨和也、豆腐屋の上地雄輔、ホテルのポーターの池松壮亮がいます。



 このチームは、カナダに移住した日系二世をメンバーとしますから、白人のチームとは体力差等が著しく、毎年、西海岸リーグの最下位に甘んじていました。ですがある時、バント戦法等を使った「brain baseball」によって開眼し、勝ち星を重ねるようになります。
 さあ、どこまで勝ち進むことができるでしょうか、………?

 映画では、バンクーバーに当時あった日本人街や野球場が上手く再現されていて、時代の雰囲気がよく出ているように思われ、また妻夫木聡などの錚々たる若手俳優も(注3)、微妙な立場にある日系二世を上手く演じたり(注4)、野球のシーンでは大いに活躍したりして、なかなか面白く見ました。

(2)とはいえ、この映画の作り方では、青少年向けの文科省選定映画といった感じがしてしまい、大人の鑑賞に十分に堪えるものなのかいささか疑問に思ってしまいます。
 石井監督は、「この映画では、彼ら(「バンクーバー朝日」のメンバー)の生き生きとした姿、イノセントな生き様を見せることこそが重要なんだ」と述べていて(注5)、それはそれでよく理解できるものの、果たしてこの描き方でその点が上手く達成されているのでしょうか?
 とりわけ、本上まなみ扮する娼婦のみならず、宮崎あおいの先生といった女性がいろいろ登場するものの、皆遠くから野球を見ているだけであり、チームのメンバーとは何も絡んでこないのです。
 常識的には、例えば、上地雄輔が娼婦の本上まなみと懇ろになってしまって妻の貫地谷しほりと大喧嘩するとか、妻夫木聡の妹役の高畑充希が池松壮亮と恋仲になり、港での別れ(注6)に際して愁嘆場を演じるとかのシーンが考えられるところです。
 ですが、そんなありきたりの古色蒼然としたシーンは無意味とばかりに、本作では逆にそうした絡みが一切描かれません。
 あるのは、ベランダに立って遠くから野球場の試合の様子を見る本上まなみとか、貫地谷しほりに嫌味を言われながらも野球場に出かけていく上地雄輔、あるいはチーム関係者の会合で皆の前で歌(注7)を歌う高畑充希といった女性たちの姿です。



 でも、それでは映画としての味わいにかけてしまうのではと思ったところです。

 また、本作では、妻夫木聡(遊撃手)、亀梨和也(投手)、勝地涼(二塁手)、上地雄輔(捕手)、池松壮亮(三塁手)の5人にスポットライトが当てられます。
 劇場用パンフレットに掲載されている様々な画像でも、ことさらにこの5人が強調されています(表紙は5人の集合写真!)。
 ですが、野球は9人でするもの、一塁手とか外野手はどうなったのでしょうか?
 勿論、2時間の映画で9人それぞれをクローズアップしていたら、映画はずいぶんと間延びしてしまうでしょう。
 でも、5人だけがことさらに描き出されることによって(注8)、なんだかこの映画からはあまり野球が感じられないのかもしれません。特に、「バンクーバー朝日」は、強打者の打撃で勝つというよりも、「brain baseball」を標榜していて、バント、盗塁、ヒットエンドラン、スクイズで少ない点をとり、それを固い守備で守っていくわけで、むしろ全員野球のはずです(注9)。

 更に言えば、「バンクーバー朝日」の周辺にいる登場人物も、皆、同チームのファンばかり(注10)で映画に厚みを与えません。



 なかでは、妻夫木の父親を演じる佐藤浩市が、屈折した心情を持つ日系1世を演じていましたが、それでもステレオタイプのような気がします(注11)。

 石井裕也監督の作品はこれまで随分と見てきましたが、最初の頃の作品(注12)で見受けられた突拍子もない面白さが、最近の作品では次第に消えてきていて(注13)、本作に至っては完全に消滅してしまったなという印象を持ちました。
 確かに、本作は、大層手堅く日系二世達の物語が描かれているものの、それだけではないのかと思え、何か自分らしさを付け加えようとの石井監督の意気込みがあまり感じられませんでした。

(3)渡まち子氏は、「20世紀初頭のカナダに実在した日系移民たちの野球チームを描く「バンクーバーの朝日」。野球映画というよりヒューマン・ドラマとして味わいたい」として65点を付けています。
 前田有一氏は、「野球経験者を多用しているわりには素人っぽい動きばかり感じさせる」し、「せっかく現代日本との唯一の共通事項である「移民」問題を扱っているのに、そこをリンクさせない点も残念」として35点を付けています。



(注1)本作の脚本は、『八日目の蝉』や『軽蔑』の奥寺佐渡子

(注2)映画のはじめの方で、仕事にあぶれてしまった2人がチームを脱退することとなり、監督(鶴見辰吾)から妻夫木が、一番年上ということもあってキャプテンに指名されます。
 妻夫木は「なにをすれば?」と戸惑いますが、上地に「チームをまとめればいいんだ」と言われます。

(注3)最近では、俳優陣のうち、妻夫木聡は『渇き。』、亀梨和也は『俺俺』、勝地涼は『阪急電車―片道15分の奇跡―』、上地雄輔は『超高速!参勤交代』、池松壮亮は『紙の月』で、それぞれ見ました。
 なお、高畑充希についてはこの記事を。

(注4)例えば、日系二世となると、家では日本語で、外では英語でというように使い分けることができる者が増えたと思います。そうなれば、日本人社会とカナダ人社会の間に挟まってもがき苦しむ者も出てくることでしょう。

(注5)本作の公式サイト掲載の「スタッフインタビュー」より。

(注6)映画で彼は、ホテルのポーターを解雇されてしまい、日本にいる親戚が用意してくれた仕事に就くためにカナダを離れて日本に行くことになります。
 ですが、彼は日系二世ですからおそらくカナダ国籍と思われ、仮にそうであれば、当時簡単に日本に入国できるのか疑問に思われますし、まして、日華事変で中国に派遣された日本軍の中に彼が入っていた(それを妻夫木らは、バンクーバーの映画館で上映されたニュース映画で知ることになります)というのは一体どういう経緯なのかと思ってしまいます(日本国籍を持たない者が日本の軍人になれるでしょうか?)。
 とはいえ、Wikipediaによれば、「近代日本人の海外移民は、第二次世界大戦以前は一時的な出稼ぎの要素が強く、「故郷に錦を飾る」ことを目標とする者が大半であった。そこで、この時期の移民にはおおむね国籍の離脱・変更といった行為が伴っていない」とのことであり(戦前の「日系ブラジル人」は自分たちを“大日本帝国臣民”だとみなしていて、それで『汚れた心』で描かれたような事件を引き起こしています)、さらにカナダでは、日本国籍を持ったままで永住権を取得できるようでもあり、そうであれば移住した池松壮亮の父親が日本国籍を持っている可能性があり、さらに、生まれた池松壮亮について日本領事館に申請すれば、その日本国籍を取得できるのかもしれません。

(注7)『Take Me Out to the Ball Game(私を野球につれてって)』。
 この歌については、例えば、このサイトの記事を参照。

(注8)5人というと、最近見た『フューリー』を思い出してしまいます。
 そこでは、ブラピを指揮官とする5人が乗り込むシャーマン戦車「フューリー」がドイツ武装SS大隊の300人と対峙するという場面がクライマックスです。
 本作も、もしかしたら、妻夫木以下の5人が、沢山のカナダ人野球チームと対戦する姿を描こうとする作品なのかもしれません!
 尤も、ウォーダディと渾名され部下を力強く引っ張っていくコリアー軍曹(ブラピ)とは違って、妻夫木が扮するキャプテンは、闘志を内に秘めた物静な男であり、両者はまるで違ったタイプといえるでしょうが。

(注9)その点からすると、「バンクーバー朝日」の快進撃が続くのですから、相手のチームはどうして「brain baseball」を取り入れなかったのか、少なくともその対策を講じなかったのかと思えてきます。
 確かに、それまでの大味の野球を緻密な野球に変えるのは、あるいは簡単ではないのかもしれません(練習しなくてはいけませんし、なによりも野球に対する姿勢を替えなくてはいけないでしょうから)。でも、弱小の「バンクーバー朝日」がやってのけたのですから、そしてそれによって彼らが次々と勝っているのですから、カナダ人の中に模倣するチームが出てきてもおかしくないはずです。
 本作について、「バンクーバー朝日」が対戦する相手チームに殆ど触れていないことによっても、まともに野球が描かれていないと感じてしまうのかもしれません。

(注10)例えば、妻夫木の父親の友人(光石研)、カフェの店主(田口トモロヲ)とか写真館の店主(徳井優)など。
 尤も、タクシー運転手(ユースケ・サンタマリア)は、最初のうちは、上地雄輔に対して(「野球に行くのを奥さんから)毎度うるさく言われるのだから、野球なんかやめちまえ」と言っていたのですが。

(注11)こうなるのも、故郷に錦を飾るという意気込みでカナダに渡ったにもかかわらず、現実のカナダは前もって聞いていた話とは大違いだったこと、英語が全く話せないこと、「飯、風呂、寝る」しか言わない亭主関白振り、大酒飲み等々の日系一世の特色めいた姿を、佐藤浩市一人に集中させて描き出したことによるものでしょう。

(注12)『川の底からこんにちは』以前の作品。
 同作以外の作品については、この拙エントリこの拙エントリ、及びこの拙エントリをご覧ください。

(注13)この点については、この拙エントリの「注8」をご覧ください。



★★★☆☆☆



象のロケット:バンクーバーの朝日
コメント (11)   トラックバック (35)
この記事をはてなブックマークに追加

百円の恋

2015年01月09日 | 邦画(15年)
 『百円の恋』をテアトル新宿で見ました。

(1)『0.5ミリ』で大活躍した安藤サクラの主演作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)は、出戻りの妹・二三子早織)の子供・太郎と一緒になってボクシングのテレビゲームに興じる姉・一子安藤サクラ)の後ろ姿から始まります。
 家は弁当屋を営んでおり、店先では母親・佳子稲川実代子)と二三子が大奮闘(注2)。
 二三子は、一子が仕事を手伝おうとせずに子供と遊んでいるのに不満で、「あいつ、甘やかせすぎ。お父さんのようになってしまっても知らないから」と母親に愚痴り、ゲームをやっている部屋にずかずかと入り込み「いつまでゲームしてんの!」と言って太郎を連れて行きます。
 これに対して一子は、「また明日やろう」と太郎に言います。
 その後、一子は自転車に乗って100円ショップの「百円生活」に行ってポップコーンやビールを買い求めるのですが、帰る際にボクシングジムの前を通りかかります。
 ボクシングジムでは、裕二新井浩文)が一人で練習しています。

 翌朝、一子と二三子とは大喧嘩をしてしまい(注3)、とうとう一子は家を出るハメに。
 さあ、料理もできないはずの一子はこの先うまくやっていくことができるでしょうか、………?

 本作は、実家でグータラしている32歳の一子が、ある時一念発起してボクシングジムに通って、ついに念願の試合に出ることになるという、とても単純なストーリーです。
 おまけに、こういったボクシングのストーリーの映画といったら枚挙に暇がないでしょう(注4)。
 でも、ありきたりのスポーツ物ながら、2時間弱の映画の中に物語がかっちりとまとめられており、加えて一子を演じる安藤サクラの入魂の演技によって、とても素晴らしい作品に仕上がっています(注5)。

(2)何が素晴らしいと言って、主演の安藤サクラの体型の変わり様が実に見事なのです(注6)!
 実家でグータラしている時の弛緩した体型と、やる気を出してボクシングの練習に励むようになってからの体型とがまるで一変しているのには驚きました。
 それに、最初にボクシングジムに通いだした時は、縄跳びも満足に出来なかったにもかかわらず、しばらくして練習に打ち込みだすと、その縄跳びが見事に決まっているではありませんか(注7)!
 とはいえ、この一子は、一風変わった感じの女性に描かれています。



 32歳の独身ですが(注8)、子供とテレビゲームを楽しんだかと思うと(注9)、出戻りの妹と大喧嘩をして実家を飛び出たり、また近くの100円ショップ「百円生活」で働いたりという具合に、実にいい加減な生活を送っています。
 加えて、自分の気持ちを相手にわからせようと努めずに(あるいは、相手の気持を汲もうとはせずに)、ずいぶんとブッキラボウに人と接します。
 例えば、一子が家を出て行く際、母親・佳子から金の入った封筒を手渡されるにもかかわらず、何も言わずに受け取るのです。

 一子の相手役となる裕二もすごく特異な人物に描かれています(注10)。



 いつものボクシングジムでひと通りの練習をし、練習が済むと外に出てきて一休みするのですが(その姿を、通りかかった一子が見ます)、その一見格好のいい様子からは、試合で一方的に打たれてあっけなく負けてしまう姿はとても予想できません。
 あるいは、一子が勤める100円ショップに現れバナナをたくさん買うものの、それを置き忘れて出ていってしまったり、また、風邪を引いてレジカウンターにゲロをぶちまけたりと、どうしようもありません。
 さらに、簡単にボクシングをやめてしまうと、一時は一子の部屋にいたものの、すぐに豆腐屋の女とくっついてしまうのです(注11)。

 やはり、いちばん問題なのは、一子同様に、他人とスムーズなコミュニケーションができないことでしょう(注12)。

 どうやら二人とも、体の中に溜まったものをうまく外に出せない人物のようなのです。
 そんな二人がデートをしてもうまくいくはずもありません。



 場所は動物園。
 象をじっと見ているままの裕二に対して、一子が「どうして私を誘ったんですか?」と尋ねると、裕二は、直接それには応じずに「ライオンを見よう」と言い、しばらくして「断られないような気がした」と答えるのです。沈黙の時間がかなりある上にこんな調子では、「盛り上がらないな」と裕二が呟くことになるのも当然でしょう。

 こうした二人の姿をより一層鮮明に描き出す働きをしているのが、「百円生活」で一子と一緒に働いている野間坂田聡)と、そのショップに時々出現する池内根岸季衣)。
 二人は、一子と裕二とは対照的に、実に騒々しい存在なのです。
 一方の野間は、自分で「おしゃべりなんです」というくらい喋り通し。
 他方の池内は、時折「百円生活」のバックヤードに現れては廃棄食品を掠めていくのですが、一子に対して「なんか暗いね」と言ったり、「昼間のマラソン大会で飛んでいたヘリコプターが毒ガスを撒いてたけど吸わなかった?」などと奇怪なことを言ったりして、一子を幻惑します。
 しかしながら、こうした騒々しさも、一子と裕二の大人しさと裏腹であり、野間にしても池上にしても自分にしか関心がなく相手のことなど少しも気に留めてはいません。

 こうした人達が様々に絡み合って本作は展開していくのですから、本作はある意味では、コミュニケーションの貧困を巡る物語と言えるかもしれません。

 ラストは一子の試合の模様が映し出されますが、ボクシングというのはある意味でコミュニケーションの一種といえるかもしれません(注13)。会話と同じように、相手がどう出るかに応じてこちらの出方を考えて対応する必要があります。
 ですが、相手の出方などあまり考えずに自分の事をボソッと言うだけの一子は、シャドウボクシングなど相手のいない単独の練習では随分といい線に行くものの、相手のある実戦となると果たしてどうなるでしょうか、………?

(3)村山匡一郎氏は、「モラトリアムや可愛らしさがウリの普通の女性を主人公にした映画が多い中、本作は、何とも破天荒で骨太の生き方を探し求める女性を描いている」などとして、★4つ(見逃せない)を付けています。
 外山真也氏は、「主演女優、脚本、監督が三位一体となって高い次元で響き合った秀作だ」として★5つを付けています。
 森直人氏は、「果たして“百円女子”の崖っぷちからの巻き返しは可能か? 閉塞(へいそく)した中でぎりぎりの希望を探るかのように、ヒロインの全細胞と魂が沸騰する。これは「ロッキー」スタイルを日本流に応用した傑作でもあり、海外の反応も見てみたい」と述べています。
 相木悟氏は、「予定調和なスポ根ものとは違う異色の味わいながら、最後にしっかり感動が心に刻まれる得難い一本であった」と述べています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「格闘しなくては何も始まらない。どんなに世界が腐っていても。一子の、そして映画人たちの闘う純情が心に焼き付く必見の快作だ」と述べています。



(注1)監督は、『イン・ザ・ヒーロー』の武正晴
 また、脚本は足立伸で、この作品は2012年に新設された脚本賞「松田優作賞」第1回グランプリを受賞しています。

(注2)父親(伊藤洋三郎)も店を一応手伝いますが、実際に切り盛りしているのは女性軍。

(注3)二三子の「あんた、親の年金狙ってるだろ―」という言葉に一子が切れてしまいます。

(注4)最近では、『ザ・ファイター』を見たことがあります。

(注5)俳優陣について、最近では、安藤サクラは『0.5ミリ』、新井浩文は『まほろ駅前狂騒曲』、稲川実代子は『ハラがコレなんで』で見ました。

(注6)『ダラス・バイヤーズクラブ』に出演したマシュー・マコノヒーの減量ぶりが思い出されます。

(注7)パンチングボールやトレーナーのミットの叩き方とか、シャドウボクシングの様とかを見て、トレーナー(松浦慎一郎)が「なかなか左がいい」とジムの会長(重松収)にささやいたりします。

(注8)さらに、同僚の野間にラブホテルで強姦された時、「初めてなんです」と一子は言いますから、その歳まで男性を知らなかったのでしょう。

(注9)『もらとりあむタマ子』に出演した前田敦子の「トローンとした目つき」を思い出させます。
 なお、タマ子が、東京の大学を出てから就職もしないで実家(甲府の)に戻っているのと同じように、一子も「バカ短大」を出ているようです。

(注10)映画では37歳の設定。

(注11)一子の部屋にいる時、裕二が仕事に出かけようとする際に、一子が裕二に「今晩は私が何か作る」と声をかけると、彼が「女房になったつもりか」と応じるものですから、彼女は言葉に詰まってしまいます。
 『海を感じる時』の最後の方で、安心しきって日常生活を営んでいる洋(池松壮亮)の姿を見た恵美子(市川由衣)が洋を受け付けなくなる様子が描かれていますが、なんだか本作では、それが男女入れ替えて映し出されているのかな、と思いました。
 あるいは、夢の中で「私」に「ヴィーナス」が言う言葉、「女が献身的に実をつくすと、男はすぐに熱がさめて主人顔をするもの」に該当するのでしょうか〔L・ザッヘル=マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』(種村季弘訳、河出文庫)P.12〕?

(注12)「百円生活」で裕二が、買ったバナナを置き忘れたり、ゲロを吐いたりするのは、裕二の一子に関心があることの拙い現れ(サイン)なのでしょう。

(注13)関連で、例えば、このサイトの記事が面白いかもしれません。



★★★★★☆



象のロケット:百円の恋
コメント (2)   トラックバック (15)
この記事をはてなブックマークに追加

日本インターネット映画大賞―2014年度外国映画部門投票

2015年01月07日 | その他

 今回は、昨日に引き続いて、外国映画についてです。


-----------------------------------------------------------------
『 外国映画用投票テンプレート 』

【作品賞】(3本以上10本まで)
  「とらわれて夏    」    6点
  「ゼロ・グラビティ   」    5点
  「誰よりも狙われた男」    4点
  「6才のボクが、大人になるまで。」    3点
  「MUD-マッド- 」   3点
  「アデル、ブルーは熱い色」    3点
  「グランド・ブダペスト・ホテル」    2点
  「リスボンに誘われて」    2点
  「聖者の午後    」    1点
  「罪の手ざわり    」    1点
【コメント】
 昨年の外国映画は、重要なシーンでクラシックギターの曲がいくつも流れる『とらわれて夏』、宇宙空間での映像が実に素晴らしい『ゼロ・グラビティ』、昨年急逝してしまったシーモア・ホフマンの遺作の『誰よりも狙われた男』というように、種々雑多な特色を持つ優れた作品がひしめいていました。地域も、欧米のみならず、『聖者の午後』のブラジルから『罪の手ざわり』の中国というように広がっています。
-----------------------------------------------------------------

【監督賞】                       作品名
   [リチャード・リンクレイター       ] (「6才のボクが、大人になるまで。」)
【コメント】
 主役が6歳の時から18歳になるまでを一人の俳優で描き出しながらも、とても面白い作品に仕立て上げたアイデアや構成力、持続力に感心しました。

【主演男優賞】
   [マシュー・マコノヒー          ] (「MUD-マッド-」)
【コメント】
 とにかく昨年は、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』から始まって『インターステラー』に至るまで一時も目が離せない活躍ぶりでした

【主演女優賞】
   [ケイト・ウィンスレット         ] (「とらわれて夏」)
【コメント】
 脱獄囚を息子とともに家に匿うことになった母親役を実に説得力のある演技によって演じています。

【助演男優賞】
   [ジョシュ・ブローリン       ] (「とらわれて夏」)
【コメント】
 脱獄囚ながらも心優しいという役柄を大層巧みに演じています。

【助演女優賞】
   [レア・セドゥ           ] (「アデル、ブルーは熱い色」)
【コメント】
 その後『美女と野獣』では主役を演じていますが、手堅い演技力を身につけていると思います。

【ニューフェイスブレイク賞】
   [エラー・コルトレーン      ] (「6才のボクが、大人になるまで。」)
【コメント】
 6歳から18歳までの成長ぶりをたっぷりと見ましたので、大人になってからどんな俳優になるのかすごく楽しみです。

【音楽賞】
  「とらわれて夏         」
【コメント】
 これだけクラシックギターの知られざる名曲がいくつも効果的に使われている映画は滅多にないのではと思います。
-----------------------------------------------------------------

【私が選ぶ○×賞】
   [私が選ぶ蘇って欲しいで賞] (「誰よりも狙われた男」のフィリップ・シーモア・ホフマン)
【コメント】
 昨年46歳で亡くなってしまったフィリップ・シーモア・ホフマンは、丁度脂が乗り切ってきた時だけに残念至極で、是非もう一度その元気な姿を見たいものだと思います。
-----------------------------------------------------------------
 この内容(以下の投票を含む)をWEBに転載することに同意する。


-----------------------------------------------------------------


 なお、日本インターネット映画大賞の投票項目には「ワースト賞」が設けられていないので、欄外に幾つか書き並べてみたいと思います。
イ)日本映画のワースト
【1位】『花宵道中』
【2位】『万能鑑定士Q』
【3位】『柘榴坂の仇討』

 『花宵道中』は何の創意工夫もされていない古色蒼然とした吉原物ですし、『万能鑑定士Q』はサスペンス物にしては突っ込みどころが多すぎます。
 『柘榴坂の仇討』は、実に真面目に作られた作品ながら時代物の提携を抜けきれていない憾みがありました。

ロ)外国映画
 日本映画に関しては、拙エントリで★2つを付けたものから選びましたが、外国映画に関しては★2つを付けた作品がなかったので、★3つのものの中から選び出しました。
【1位】『グレース・オブ・モナコ』
【2位】『トランセンデンス』
【3位】『GODZILLA ゴジラ』

 『グレース・オブ・モナコ』はニコール・キッドマンの出演によってかろうじて鑑賞に堪えるものになっている感じがしますし、『トランセンデンス』はジョニー・デップの省力出演が目立ちます。
 また、『GODZILLA ゴジラ』は、期待した渡辺謙の活躍が見らなかった一方で、予期しなかった怪獣が出現して肩透かしを食いました。

コメント   トラックバック (12)
この記事をはてなブックマークに追加

日本インターネット映画大賞―2014年度日本映画部門投票

2015年01月06日 | その他
 新年明けましておめでとうございます。
 本年も、昨年同様よろしくお願いいたします。

 昨年は、邦画47本、洋画54本の合計101本について、そのレビュー記事を拙ブログに掲載いたしました(実際には、あと5本ほど見たものの、当方の怠慢によって記事をアップできませんでした)。
 一昨年までは、それらのランク付けを拙ブログ内で私的に行っていましたが、昨年は日本インターネット映画大賞への投票記事に切り替えました。
 今年も、日本インターネット映画大賞運営委員会様から投票のお誘いを受けましたので、よろこんで応募することとし、投票内容をここに掲載いたします。

 本日はまず日本映画についてです。
 なお、以下で選び出した作品は、拙ブログにアップしたエントリで付けた星の数が4つ以上のものの中から選び出しました。



-----------------------------------------------------------------
[作品賞投票ルール(抄)]
選出作品は3作品以上10作品まで
1回の鑑賞料金(通常、3D作品、字幕、オムニバス等)で1作品
持ち点合計は30点
1作品に投票できる最大点数は10点まで
各部門賞に投票できるのは個人のみ
音楽賞は作品名で投票
以上のルール満たさない場合は賞の一部を無効

-----------------------------------------------------------------
『 日本映画用投票テンプレート 』

【作品賞】(3本以上10本まで)
  「0.5ミリ            」    10点
  「海を感じる時          」    6点
  「そこのみにて光輝く      」    5点
  「るろうに剣心 京都大火編 」    2点
  「るろうに剣心 伝説の最期編」    2点
  「ぼくたちの家族        」    1点
  「思い出のマーニー       」    1点
  「ジャッジ!            」    1点
  「もらとりあむタマ子        」    1点
  「TOKYO TRIBE          」    1点

【コメント】
 昨年は、文芸ものの作品で優れたものが多かったと思いますが、その中では『0.5ミリ』が突出していました。また、『るろうに剣心』は、型にはまったものしか作れないのではと思っていた時代劇でも、まだまだ工夫の余地があるのだと大いに説得されました。『ジャッジ!』や『TOKYO TORIBE』も制作側のアイデアの点で優れていると思います。
-----------------------------------------------------------------

【監督賞】            作品名
   [ 安藤桃子      ] (「0.5ミリ」)
【コメント】
 監督第2作目でこれほど素晴らしい作品を制作できるとは、と驚き以外の何物でもありません(おまけに、原作の小説や脚本まで書いているのですから!)。

【主演男優賞】
   [ 綾野剛       ] (「そこのみにて光輝く」)
【コメント】
 綾野剛は、一昨年の『夏の終り』とか昨年の『そこのみにて光輝く』といった文芸物で、その存在感をうまく発揮するように思いました。

【主演女優賞】
   [ 安藤サクラ     ] (「0.5ミリ」)
【コメント】
 『かぞくの国』でも素晴らしかったのですが、『0.5ミリ』での彼女はそれ以上のものを感じました。今年の活躍が大いに期待されます。

【助演男優賞】
   [池松壮亮       ] (「海を感じる時」「ぼくたちの家族」「紙の月」)
【コメント】
 まだまだこれからの俳優と思いますが、昨年はとにかく頑張りました。

【助演女優賞】
   [池脇千鶴        ] (「そこのみにて光輝く」)
【コメント】
 主演の綾野剛を食ってしまうような充実した演技を見ることが出来ました。

【ニューフェイスブレイク賞】
   [清野菜名        ] (「TOKYO TRIBE」)
【コメント】
 主演の鈴木亮平らが男臭さを発揮している中で、清涼剤的な存在でした。

【音楽賞】
  「思い出のマーニー」
【コメント】
 挿入曲として、クラシック・ギター曲の『アルハンブラの思い出』が使われているので。
-----------------------------------------------------------------

【私が選ぶ○×賞】
   [私が選ぶ導入部分が面白いで賞] (「土竜の唄」)
【コメント】
 この映画は、冒頭から皆で「土竜の唄」を歌うところまでの「序」にあたる部分が、殊の外面白くできていると思いました。
-----------------------------------------------------------------
 この内容(以下の投票を含む)をWEBに転載することに同意する。




コメント (3)   トラックバック (12)
この記事をはてなブックマークに追加