映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

桜田門外ノ変

2010年10月31日 | 邦画(10年)
 『週刊文春』(10月21日号)の阿川佐和子のインタビューに、主役の大沢たかおが登場して、面白そうな内容のように思えたこともあって、『桜田門外ノ変』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)ただ、映画を見てまで歴史の勉強をしようと思わないクマネズミとしては、見に行くべきではなかったかもしれません。
 見ながら、一体全体、どうしてこんなに単調で型どおりのことを長々と映画にして観客に見せようとするのだろうかと思って、退屈してしまいました。

 むろん、このような描き方になるのは原作の吉村氏の小説によるところが大きいのでしょう。
 ですが、他方では、映画化に当たりご当地の茨城県下の団体の全面的な協力があったということで、関係者があちこちにいるのでしょう、登場人物の皆が皆、杓子定規で当たり前と思えることばかり口にして、人の裏側がほとんど描かれないというのに首をかしげたくなります(NHKの大河ドラマが面白くないのも、同じような理由から、登場人物に常識を超えたところが感じられないせいだと思われます←なにしろ、大河ドラマの舞台となれば、当該地域の観光収入が確実に伸びるとされていますから、当該地域にかかわる歴史上の人物を、ちょっとでもおかしい感じでは描けないのでしょう!)(注)。

 それに、敵役になるはずの井伊大老(伊武雅人)も、襲撃されてまでも駕籠の中で「このままで日本はどうなるのだ」と天下国家の行く末を憂える始末です(板垣退助ばりに!)。

 問題点を探せば、さらにいくつでも見つかるでしょう。たとえば、
・最初と最後に、桜田門の現在の光景が映し出されますが、観客に向かって、“皆さんは知らないと思いますが、今から100年以上昔に、ここでこんなことがあったのですよ”、と先生が生徒に教えているかのようで、目をそむけたくなりました〔もちろん、このシーンから、現代の政治状況に対する無言の批判といったメッセージを読み取ることは可能でしょうが、そんなのは児戯に等しいと言えるでしょう〕。
大沢たかお演じる関鉄之介ですが、鳥取藩一の剣の使い手を、他人の剣を使いながらも倒してしまうほどの腕前ながら、そしてピストルを持っていながら、井伊大老襲撃に際して、何もしないで見守っているだけとは、襲撃グループのトップとはいえ、割り切れなさを感じました。
・これも史実であって言ってみても仕方ないのかもしれませんが、井伊大老一行の襲撃に際して、水戸浪士達が、隠れた場所から三々五々飛び出して襲うというのならまだしも、そうではなく、道端に全員が展開していて、ある程度行列が通り過ぎるのをやり過ごしてから斬りかかるというのも、本当なのかしらと思ってしまいます(江戸城の周辺を警固しているはずの幕府側の武士等が、一人もいなかったのでしょうか?水戸浪士を探し出して捕縛することに関しては、あれほど徹底して遂行できるにもかかわらず?)。
・それに、彦根藩邸のすぐそばで襲撃があったにもかかわらず、彦根藩からの応援部隊の到着がかなり遅れたように見えるのも奇妙です(雪のため、物音があまりしなかったようですし、襲撃にかかった時間もごく短かったようですが)。
・金子孫二郎(柄本明)以下が奉行から斬首を言い渡されるシーンがありますが、皆同じにもかかわらず、どうして一人一人個別に描かねばならないのかよく理解できません(要するに、製作者側としては、水戸藩関係者全員についてその消息を描いてみたかったのでしょう。ですが、そんなものを見せられる観客としては、酷く退屈なところです)。
・この映画では、関鉄之介に焦点を当て、その愛人の消息まで触れているところ、妻(長谷川京子)と息子(加藤清史郎)とはどうなったのでしょうか?
 なお、加藤清史郎は、この映画の性格からすると全くのミスキャストとしか思えません(なにしろ、あのCMにおける姿がダブってしまいますから!)。

 たとえば、当時水戸藩内にあったという天狗党と諸正党との血なまぐさい対立抗争の中で、この「桜田門外の変」を描いてみたらどうなのでしょうか?
 あるいは、居丈高で独裁的な傾向を強める井伊大老を排除する動きが、幕閣の中や彦根藩の中にあって、水戸浪士襲撃の確報は、前日に幕閣や彦根藩に伝達されたにもかかわらず、大老にきちんと上げられる前に握り潰され、その結果、桜田門外は全くの真空地帯となってしまって、容易に襲撃は成功するものの、水戸浪士たちは結局使い捨てにされてしまった、などといったストーリーは考えられなかったでしょうか〔映画では、井伊大老に襲撃情報が届けられますが、単なる投げ文だったため無視されます。また、京都で3,000人が挙兵するとの薩摩藩の約束が反故にされて、水戸浪士の襲撃の意義が減殺されてしまいますが、これは当初から仕組まれていたわけではなく、予想外の情勢変化によるものでしょう〕?

 なにはともあれ、私には、『十三人の刺客』や『大奥』の方が、製作者のアイデアがふんだんに盛り込まれていて、ズッと面白い映画ではないかと思えました〔ノンフィクション物であっても、様々な解釈をぶつけることは可能なはずですから〕。


(注)にもかかわらず、粉川哲夫氏によれば、「この映画では、「水戸」というローカリティは、全く重視されていない。それは、薩摩弁まがいや関西弁まがいは聞かれるが、茨城弁に関しては、その気配さえも聞こえないという点にあらわれている。茨城弁というのは、同じ関東でもこうも違うのかと思われるくらい、特徴がある。たとえば、「い」と「え」の発音の混在、しり上がりの発音等である。だから、いまでも、茨城出身の人は、すぐわかる」とのこと。


(2)ところで、映画評論家諸氏は、下記の(3)でおわかりのように、桜田門外における水戸浪士の襲撃の場面が冒頭近くに置かれていることを高く評価しているところ、様々のブログでは、やはりラスト近くにすべきだとの意見が多いように見受けられます。

 たとえば、「LOVE Cinemas 調布」のKLYさんは、「「桜田門外の変」を描きたいのならば、通常の時系列に乗せつつ、鉄之介たち藩士の日頃に密着し、彼らの尊王攘夷思想の発端であるとか、藩主斉昭が彼らに及ぼした影響、世の尊皇攘夷の流れの中で彼らがその中心にいたことなどを描いた上で、最後に襲撃を成功させるというオーソドックスな描き方が一番良かったのだと思」うと述べていますし、「masalaの辛口映画館」のマサラ0517さんは、「本作の場合はちゃんと時系列通りに物語を描き、何故実行犯達がこの様な襲撃事件を起こしたのかを観客にキッチリと説明した上で襲撃事件を描くべきである」と述べています。

 この映画が依拠した原作はどうかと言えば、新潮文庫版の下巻P.100~P.133に襲撃の模様が描かれています。すなわち、全体の真ん中よりやや後の方といったところでしょうか。

 どうも様々な考え方があるようです。
 ただ、クマネズミには、この映画のタイトルが『桜田門外ノ変』となっている以上、やはりクライマックスを水戸浪士の襲撃とすべきであり、としたらそのシーンはラスト近くに置く方が全体の構成から言ってみても座りがいいのではと思えます〔まあ、この作品は、原作の下巻を映画化したのだと言ってしまえば、この点を余り云々しても意味はないかもしれませんが〕。
 もし、この映画のように、“それからの浪士達”を専ら描くというのであれば、それなりのタイトルとすべきではなかったでしょうか?

(3)また、この作品は、最近見たばかりの『十三人の刺客』と類似する点が多いように見受けられます。
 すなわち、
・時代としては、どちらも江戸後期。すなわち、『十三人の刺客』の場合、弘化元年(1844年)とされ、『桜田門外ノ変』は、安政7年(1860年)が中心。
・どちらの作品でも、襲撃側は、相手側のトップ、それも将軍の弟であったり幕府の大老であったりと、トップ中のトップの首を取ることが目的。
・どちらも襲撃側の人数が少ない。すなわち、『十三人の刺客』の場合13人であり、『桜田門外ノ変』では18人。
・逆に、どちらも防御側の人数はかなり多い。すなわち、『十三人の刺客』の場合300人(オリジナル作品では53人)であり、『桜田門外ノ変』では約60人。
・襲撃側の作戦は実際には相当違っているとはいえ、どちらも少人数で効率よく目的を達しようとする精神では同じ〔『十三人の刺客』の場合、大勢の防御側の侍をいくつもの小グループに分断した上で殲滅していく作戦 、他方『桜田門外ノ変』では、まず行列の先頭を襲い、それに防御側の侍が集中して駕籠の警固が手薄になったところで本来の目的を果たすという作戦〕。
・どちらの防御側も、ある程度襲撃を予期していたとはいえ、実際には思いもかけないところで襲われ、人数が多いにもかかわらずトップを守りきることができなかった。
・どちらであっても、襲撃側も防御側もその大半が命を落としている。『十三人の刺客』の場合、襲撃側で生き残ったのは2人(漫画では8人)、防御側も大半がやられている。また『桜田門外ノ変』では、襲撃側で生き残ったのは2人、防御側の大半は、その場でなくとも、その後様々な形で命を落としている。

 同じ時期に公開されたフィクション映画とノンフィクション映画とが、偶然とはいえこうまで類似する点が多いというのは、非常に興味深いことだと思います(と言っても、2つの映画において、襲撃の場面の位置づけがまるで異なっているのも事実ですが)。

 なお、12月に公開される『最後の忠臣蔵』において、仮に四十七士による吉良邸討入りが描かれるとすれば(何の情報も持ち合わせてはいません)、時期を同じくして3つもの作品で集団暗殺劇(それも、時の権力者の首を取ることを大目的とする)が取り上げられることになります。
 そこに何らかの政治的・社会的なな意味合いを嗅ぎ取るべきなのかもしれないものの、いずれも単なる娯楽映画に過ぎないものですし、クマネズミの手に余ることもあり、他日を期すことといたしましょう。

(4)映画評論家は、総じてこの作品には好意的です。
 前田有一氏は、「時代にマッチしたテーマ性、役者たちの名演、重厚な桜田門のセットをはじめとする美術のレベルの高さ、そしてストーリー構成の斬新さにより私は本作品をオススメの筆頭にあげる。最後に挙げた構成の巧みさとは、一言でいえばクライマックスの暗殺事件を映画の冒頭に持ってきたことを指す。エンターテイメント大作を任せられる数少ない日本の巨匠、佐藤純彌監督の手腕は今回冴えに冴え、この構成によって物語の感動、せつなさが大いに強調された」として75点を、
 渡まち子氏は、「映画は、襲撃をクライマックスにしないことで、事件を美化せず、大きくうねった時代の流れの中で先を見据えることの難しさを丁寧に描いた。物語序盤で早々と訪れる桜田門外ノ変の場面が、個よりも集団を意識した混沌としたバトルになっているのがリアルだ」等として60点を、
それぞれ与えています。

 さらに、前田有一氏は、同じ論評の中で、次のように述べています。「昔の日本には、気持ちのいい奴らがたくさん生きていた。政治に携わる者たちも本気で国の未来を憂い、自分の立場なりに最善を尽くそうとしていた──。 たとえ脚色による錯覚、ファンタジーであったとしても、そんな気持ちをしばし味わうのは悪いものではない」。
 ですが、もうそろそろこうした司馬遼太郎の小説的な歴史観から卒業すべきではないでしょうか?


★★☆☆☆

象のロケット:桜田門外ノ変
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十三人の刺客

2010年10月30日 | 邦画(10年)
 ヴェネチュア国際映画祭では評判が高かったと聞こえてきたこともあり、『十三人の刺客』を有楽町のTOHOシネマズ日劇で見てきました。

(1)工藤栄一監督が1963年に制作した映画のリメイクとのことですが、リメイクするのが『ゼブラーマン』や『ヤッターマン』の三池崇史監督ですから、いやがうえにも期待が高まります。

 実際に見てみますと、ラストの50分間の戦いの場面は、これまで見たこともないほどの素晴らしさだと思います。普通ならば、刀を使った闘いの繰り返しとなりますから、とても50分もの長丁場を観客として見てはいられないでしょう。でも、そこには様々な工夫が凝らされていて、退屈するどころではありませんでした。
 なにしろ、300人以上の軍勢に僅か13人の侍が挑みかかり、そのトップの首を取ろうという戦闘なのですから、なまじの描き方ではありません。
 まず、闘いの舞台となる落合宿に明石藩主の軍勢が入り込んだと見るや、その退路を断つべく出入り口にある橋が景気よく爆破されます。
 さらに、相手の勢力を削ぐための工夫が様々に凝らされています。
 旅籠の横から通路を塞ぐ柵がいくつも飛び出てきて、軍勢は小さなグループに分断されますが、その柵は山から切り出された木々で作られているとはいえ、実に巨大で、追い込まれた侍達はとてもそこを乗り越えるわけにはいかない代物なのです。
 さらに、そうやって袋のネズミになった明石藩主一行に対して、縦横に張り巡らされた空中回廊を島田側の侍は、動き回りつ無数の矢を放ちます。
 また、角に松明をくくりつけた牛が何頭も突進してきたりもします。これは、木曾義仲が倶利伽羅峠の合戦で用いた作戦を借用したのでしょう(もっと昔にハンニバルが用いたようでもありますが)。
 こうして相手の勢力を十分に削いだ上で、リーダーの島田新左衛門(役所広司)の「斬って斬って斬りまくれ」の合図で壮絶なチャンバラ合戦が始まります。

 ただ、問題がないわけではないと思います。
・明石藩主・松平斉韶(稲垣吾郎)らが国元に戻るに当たって、鬼頭半兵衛(市村正親)が島田新左衛門の家に乗り込むくらいですから、鬼頭側は島田側の動きを逐一追っているはずで、そうだとしたら、一足先に落合宿に向かった刺客2人の行動も把握でき、さらには要塞と化した落合宿の状況も事前に知りえるのではないでしょうか?
・島田側が、明石藩主の一行を追っていくと、途中で鬼頭が事前に配置しておいた浪人達が出てきてその行く手を阻止しようとします。鬼頭がそのくらい用意万端に行動しているとしたら、明石藩主の行列の後方だけでなく前方にも人を多数放って、安全を十分確認しようとするのではないでしょうか?落合宿の入口にたどり着いてから、やにわに安全を確認しようとするは、慎重な鬼頭らしからぬ手落ちではないでしょうか?
・参勤交代の行列の中には鉄砲を担ぐ者もいたはずですが(時代設定が江戸末期ということもあり)、落合宿での戦いには鉄砲の出番が全くありません。
 他方で、落合宿の出入り口にある橋とか宿の建物が爆破されますから、島田側にも鬼頭側にも、そうした武器が念頭に浮かばなかったはずはないと思われるのですが?
〔それに、明石藩主の一行の尾張藩通過を牧野(松本幸四郎)が阻止する際には、鉄砲隊が登場してますし〕

 とはいえ、そんな詰らない些細なことなどドウでも良いのです。なにしろ、突貫工事で要塞化した落合宿に鬼頭達300人を誘い込み、それを13人の島田達が粉砕してしまう死闘の有様をヴィヴィッドに描き出すことがこの映画の最大の狙いなのでしょうから!
 ある意味で、島田側は、正規軍である鬼頭側にゲリラ戦で挑んで勝利したと言えるでしょう〔でも、その勝利も、老中・土井大炊頭(平幹二朗)が意図する幕府体制の維持強化に役立っただけのことであり、真の意味のゲリラ活動といえるか疑問ですが〕

 主役の役所広司は、黒沢清監督の作品に常連でクマネズミご贔屓の俳優のところ、最近では監督業にうつつを抜かしていたのか、『トウキョウソナタ』とか『劔岳 点の記』くらいでしか見かけませんでしたが、この映画では、12人の命を与って目的を達成する島田新左衛門役二扮して十分その存在感を発揮していて、さすがだなと思いました。
 相手方の鬼頭半兵衛を演じる市村正親も、ミュージカル俳優にもかかわらず、長年時代劇俳優をやってきているような雰囲気を出しているのを見ると、一つの分野でトップにいると他の分野もうまくこなせるものだな、と感心いたしました。
 明石藩主・松平斉韶に扮したのは稲垣吾郎ですが、アイドルグループSMAPのメンバーがそこまでするかというくらい残酷なシーンを演じていたのには驚きました。
 この他にも、『シーサイドモーテル』の山田孝之吉田新太、『さんかく』の高岡蒼甫などが印象に残りました。

とにもかくにも、2時間21分を、TOHOシネマズ日劇の大画面で十二分に楽しめました。

(2)この映画に関しては、同じタイトルの元の作品と見比べてみると面白いと思います(そうした分析はすでにあちこちでなされていて、単に屋上屋になるだけだとは思いますが)。



 作品のリメイクについては、次の3点から見てみたらどうかと思っています。
a.現代性の取り込み
 今回の映画では、元の作品と同じ時代設定となっていて、この点は総じて無視されています。
 とはいえ、たとえば、襲撃側のリーダーである島田新左衛門について、元の作品ではいわゆる日本型の大将タイプといえるでしょう(大所は押さえ最後の責任はしっかりとるものの、戦術などは参謀以下を信頼してすべて任せ切る←日露戦争における大山巌的なタイプでしょうか)。
 他方、今回の作品においては、現代企業の管理職に要求されている点がいろいろ見て取れます。すなわち、役所広司は、戦略・戦術から実際の戦闘においても、すべて自ら取り仕切るという前線の部隊長的な姿を披露しています。
 とはいえ、こうなるのも、あるいは、今回の映画で島田新左衛門を演じる役所広司が54歳とまだ十分若いのに対し、元の映画の片岡千恵蔵は、映画出演の際は60歳で、十分な動きができなくなっていたのかもしれません(と言っても、今回の映画で、島田の参謀役の倉永を演じる松方弘樹は、68歳であるにもかかわらず随分と元気のいい立ち回りをしていますが!)。

b.より合理的なものに
 今回の映画では、元の映画にでは描かれていなかった場面がいくつも見られます。
 たとえば、一揆の首謀者の娘ということで、松平斉韶により手足を削がれ“芋虫”(!)状態になった女が、島田新左衛門の前に連れてこられます。
 息子と嫁を奪われた尾張藩士の話に加えて、この場面によって、松平斉韶の暴虐さは到底許し難いものとなり、その首を取るという反逆的行為の正当性に説得力を持たせることでしょう。
 ただ、口もきけないこの女が「みなごろし」と書いた幟を鬼頭達に示してから戦闘に入るという手順は、この襲撃に相当程度私怨的な要素が紛れんでしまい、島田側の大義名分にいささか陰が射すことになるといえないでしょうか?

c.面白さ・迫力の増加
 元の作品では、13人の襲撃側は、53人の侍を相手に戦いましたが、今回の映画ではそれが300人と6倍に膨れ上がっています。
 その結果、随所で火薬が使われ(元の作品では、一切使用されません)、明石勢の力を分断する柵も、可動式であり、かつかなり頑丈にできているようです。襲撃側の位置の移動を容易にする空中回廊がいくつも設けられていたり、取り換え用の刀もふんだんに用意されています。
 こういうことから、元の作品では30分程度のチャンバラ場面が、この映画では約50分間という前例のない長いものになり、面白さも迫力も増加することとなったと思われます。
 また、役所広司が扮する島田新左衛門が、戦闘開始ということで「斬って斬って斬りまくれ」と大声をあげますが、斉韶を斬った片岡千恵蔵は、「無用の殺し合いを止めるよう、早く笛を吹け」と指図します。トップを倒すことが襲撃の大目的なのですから、元の作品の方が正しいと思いますが、相手が300人もの軍勢では、今回の映画のように叫ぶのも当然のことかもしれません。

 なお、ラストで松平斉韶を倒すシーンについては、漫画(森秀樹による単行本〔小学館〕)まで含めると3つの違った描き方がなされています。
・元の作品:島田が斉韶を斬り捨てますが、鬼頭との対決では島田はわざと鬼頭にやられてしまいます(その鬼頭は、襲撃側の侍に槍でやられますが)。
・今回の作品:まず鬼頭と島田の一騎打ちがあって、島田は鬼頭を倒したあと、斉韶を斬ります。ただし、同時に島田は、斉韶の剣を腹に受けてしまいます。
・漫画:まず、島田は斉韶を切って捨てます。そこにやってきた鬼頭との一騎打ちでも、島田は鬼頭を倒します。

 ある意味で一番現代的であっけらかんとしたラストと言えるのは、漫画の描き方ではないでしょうか(生き残った襲撃側の侍も8人で、他の作品―いずれも2人?―よりもずっと多いのです)?

(3)映画評論家は総じてこの作品に好意的なようです。
 渡まち子氏は、「様式美とは無縁の集団抗争のパワーの、なんと壮絶なことか。無論、オリジナルの先見性あってのことだが、時代劇を爽快や美意識ではなく、政治性と虚無感を含ませてリブートしたところが素晴らしい。だからこそ「侍とは面倒なものだ」との新左衛門の言葉が活きる。そしてそれらすべてを見届けて、生きるべき場所に戻っていく男の存在も。三池流・生の肯定の怒号が聞こえる」として、70点を与えています。
 前田有一氏も、「暗殺側は13人もいるので、末端のキャラクターまで十分に描けていないのが残念だが、決死隊としてのヒロイックな魅力は十分」、ただ「彼らの立ち回りは時代劇というより「クローズZERO」のようで、江戸時代を舞台にヤンキー同士がケンカをしているような趣である。ど派手な大仕掛けや、13人vs.300人といった常軌を逸した大立ち回り、抒情的すぎる各人の最期などがそう感じさせ」、「時代劇の様式美にこだわらぬ人にとっては、画面にあふれる大和魂にこちらの心まで燃え上がる魅力的な一本だ」として、70点を与えています。
 ただ、おすぎは、『週刊文春』10月7日号の「Cinema Chart」で、「もうシッカリした時代劇を撮るのは、日本映画には無理かもしれない、と心底、思いました。ハデならいいのか?」と述べて、☆2つしか与えていません。
 確かに、山田孝之や吉田新太、高岡蒼甫などの面々に(あるいは、松方弘樹以外のすべての俳優でしょうか)、昔の中村錦之助や東千代之介時代のチャンバラの雰囲気を求めるのは無理でしょう。
 とはいえ、その時代のチャンバラも、またその時代に創り出されたものであって、それだけを金科玉条として守らなければならないということはありますまい。現代は現代のチャンバラがあれば十分なのではないでしょうか〔要すれば、チャンバラといっても、実際の斬り合いなど見た人は誰もいないのですし、所詮ダンスの一つに過ぎないと思えますから!〕。



★★★★☆

象のロケット:十三人の刺客
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メッセージ

2010年10月27日 | 洋画(10年)
 『メッセージ そして、愛が残る』を、日比谷のTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)かなり重厚な物語です。
 毎日忙しく働く弁護士の男ネイサン(ロマン・デュリス)の元に、ある病院の医師ケイ(ジョン・マルコヴィッチ)がやってきて、自分には人の死ぬ時期が分かると言い出します(死期が近づいた人には白い光がまといつくので判別できると言うのです)。
 そんな馬鹿なことをと、ネイサンは一笑に付しますが、彼が指さした人が実際に死ぬのを見て、逆に自分の死期も間近に違いないものと思い、別れてニューメキシコで暮らす妻クレア(エヴァンジェリン・リリー)と娘の元に行きます。
 実はネイサンは、幼い時分、湖の桟橋から落ちそうになったクレアを助けるべく、大人を呼びに道路に飛び出たところを車に轢かれ瀕死の重傷を負いながらも、生き返っているのです。
 そうした過去がありながら、クレアとの間にできた息子が原因不明で死んでしまうと、ネイサンはショックで、妻と娘から遠ざかっていたのです。
 ニューメキシコに行ったネイサンは、砂漠に咲いた月下美人の花をカメラに収めたているクレアの姿を見たりするうちに心が和んできて、残り少ない時間を再び家族と一緒に暮らそうと考えます。
 ただ、一緒に付いて行ってもらった医師ケイに連絡すると、戻ったはずの彼は、まだ家の近くのモーテルに滞在しているとのこと。いったいどうしてなのでしょうか?おまけに妻の姿を見ると、……。

 冒頭、いきなり子供が車にはねられるシーンがあって、そこから突然、現代のニューヨークに変わって、飛行機事故の犠牲者の遺族たちの要求をネイサンが撥ねつける場面が出てきたりして面喰いますが、全体として大変真面目な作品で、感銘を受けました。
 その後も、地下鉄の駅で男が突然ピストル自殺する場面とか、また若年性の癌に侵されている青年が映し出されるなど、厳しい場面の連続ですが、他方で、広大なニューメキシコの砂漠で花開いた月下美人は大層美しいものでした。

 出演者の中では、医師ケイを演じたジョン・マルコヴィッチは、死の近づいていることを伝達するメッセンジャーという役柄に、まさにうってつけの風貌だと思いました。



 また、クレアを演じたエヴァンジェリン・リリーは、『ハート・ロッカー』に出演していたとのことながら、あまり印象が残ってはいないものの、この映画ではその美しさを存分に発揮しています。

 とはいえ、問題がないわけではないでしょう。
 医師ケイは、本来ならば、白い光に覆われる死期の近づいた人にその事実を伝えるメッセンジャーなのでしょう。こうした事情は、ネイサンについては、結局のところ誤解だったにしても効果的でした。
 ですが、たとえばピストル自殺する男については、その人の死期が近いことをネイサンに教えはするものの、そのことを前もって当人に教えるわけではありませんから、メッセンジャーと言っても、誰に何を伝達しているのか理解しがたいところです。
 もしかしたら、死ぬまでの生を充実したものにすべく癌患者に死期を宣告する現代の医者の方が、本来的なメッセンジャーと言えるのかもしれません。

(2) そういう点からすると、この映画は、シオノギ製薬の動脈硬化警告CMに近いかもしれず(当人には見えない背中の張り紙で、その人の動脈硬化の様子がCMの主人公だけにはわかってしまうのですから!)、さらにまた、間瀬元朗の漫画『イキガミ』(小学館)の域には到達していないとも言えるかもしれません。



 その漫画(注)では、主人公の藤本賢吾は、「逝紙(いきがみ)」と呼ばれる死亡予告証を若者に配達する仕事をしているのです。対象者は、1000分の1の確率で選ばれますが、その紙を受け取ってから24時間以内に死を迎えることになります。
 すなわち、「国家繁栄維持法」という法律に従って、すべての国民は予防接種を受けなくてはなりませんが、その注射器には約0.1%の割合でナノカプセルが混ぜられていて、一定の時間が経過するとそれを体内に持つ者は死んでしまうのです。
 なぜそんなことをするのかというと、国民に「死」に対する恐れの念を抱かせることによって「生命の価値」を再認識してもらうためだ、とされています。

 こうした設定からすれば、漫画の主人公の藤本賢吾は、この映画の医師ケイに相当すると言えるでしょう。ただ、上述したように、ケイの場合、メッセンジャーとしての役割を十分に果たしていないように見えるのに対して、漫画『イキガミ』においては、主人公から「逝紙(いきがみ)」を渡されたものは確実に24時間以内に死ぬのです。
 こうしたシステムになっているのは、その24時間を該当者に有意義に使ってもらうためとされていますが、逆に自暴自棄的に犯罪に走る場合もあるとされます。例えば、同漫画のEpisode 1は、該当者が、もうどうなってもかまわないからと4年前に受けた苛めを復讐する話になっています。
 今回の映画の場合、ネイソンは、自分の死期が近づいていると自覚すると(それは誤解なのですが)、家族との関係を見直そうとはするものの、自暴自棄に陥ったりはしません。
 これらの点からしても、漫画『イキガミ』はかなり高い水準のものだと言えるのではないでしょうか?


(注)この漫画は、映画化され2008年に公開されています。監督が瀧本智行氏で、主演は松田翔太。


(3) 映画評論家の論評は余り見かけませんが、渡まち子氏は、「仏人俳優ロマン・デュリスが、母国語ではない英語の芝居に挑戦。セリフは最小限に抑えられているが、悲しみに満たされた人生をゆっくりと解放する主人公に はその寡黙さが効果的だった。さらにまるで催眠術のように静かで独特のテンポで話すジョン・マルコビッチの存在も効いている。撮影は名カメラマンのリー・ ピンピン。まるで掌の上の砂が指の間からこぼれ落ちるような悲しみと、生きることの輝きを見事に映像化していた」として60点を与えています。



★★★☆☆



象のロケット:メッセージ
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大奥

2010年10月24日 | 邦画(10年)
 アイドルグループ・嵐の二宮和也が時代劇初挑戦ということで、『大奥』を渋谷シネパレスで見てきました。

(1)主役が、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』(2006年)で好演した二宮和也なのである程度期待したのですが、2時間近くの映画に出ずっぱりというのは、マア荷が重すぎたという感じです。
 といっても、映画館を満たしている女性ファンにとっては、彼がどんな演技をしようが何であろうが、そんなことはどうでもいいに違いありません。
 それに、元々この映画については、豪華絢爛たる絵巻物を気楽に見ればいいのであって、あまり茶々を入れても仕方がないでしょう。
 というのも、劇場用パンフレットの書き出しに「綿密な時代考証に基づ」くとありながら、映画の冒頭、スクリーンに麗々しく「正徳」と江戸時代の年号(1711年~1715年)が映し出される一方、それよりずっと以前の「明暦の大火」(1657年3月)で焼失して再建されなかったはずの江戸城天守閣が、立派にCGによって描き出されるのですから(注1)!

 こうなれば、次のようなことを言ってみてもマッタク詮のないことでしょう。
・「男だけを襲う謎の疫病により、男の人口が女の4分の1に激減した」という設定は、実にユニークで、何の問題もありません。そういう前提によるSFファンタジー時代劇とみなせばいいわけですから。
 ただ、江戸の巷で、女が男にとって代わり、大工になっていたり、重い大八車を引っ張っていたりするのであれば、侍身分も女が大量に占めているにちがいないと想像されるところ、剣道場には男しかおりません。なぜか、男は、“体は弱いものの、力だけは強い”とされているのです!
・元々、男の人口が女の4分の1に激減したことと、将軍が女であることや、それに仕える大奥に3,000人の男がいたこととは何の関係もないのではないでしょうか(こんなところに男を沢山無駄に置いておいたら、人口はますます減ってしまうことでしょう!)。ただ、この点は、この映画の基本的な設定ですから、受け入れざるを得ないところです。
・その関連で、吉原の花魁たちは全て男になっていますが、これもそうする必然性はないと思われます。逆に、貴重な存在である男を、そんな風に浪費してはもったいないのではないでしょうか?
・将軍家継の側用人・間部詮房(菊川怜)は描かれているものの、「正徳の治」の主役である新井白石はどこにいってしまったのでしょう(尤も、白石は、将軍に直接会うことが出来ない身分なので、これは仕方がないのかもしれません)。
・あれやこれやの問題があるとしても、大奥の中におけるドロドロした人間関係、派閥抗争とか「絵島生島事件」(ちょうど正徳4年のことです)のようなことが描かれたりすれば(注2)、話は俄然違ってきますが、この映画における大奥は、大奥総取締の藤波(佐々木蔵之介)の威令が行き届いているようで、御中臈の松島(玉木宏)も、藤波を追い落とすどころか、逆にいい仲になっているくらいですから、権謀術数の「け」の字も見当たりません。

 ですから、そんなどうでもいい詰らないことは頭から綺麗サッパリと追い払って、すんなり映画の流れをそのまま受け入れながら、様々の場面を楽しむしかありません。
 ひとたびそう開き直りさえすれば、スクリーンに映し出される様々の色彩豊かな衣装とか襖絵、豪華で重厚な作りの御殿(たとえば「御鈴廊下」)などに目が奪われます。

 また、出演者も凝った人選がされています。
 二宮和也扮する水野祐之進の相手方となる将軍吉宗は、『食堂かたつむり』で好演した柴咲コウが演じています。質素倹約という観点から大奥の改革に手をつけるという役柄だけに、地味な服装ながらも、将軍らしい威厳を辺りに漲らせています。
 さらに、水野の母親役には倍賞美津子が扮していますが、女が家長となる時代設定においては、まさにうってつけの女優といえるでしょう。
 その他の出演者の中では、『BECK』でドラマーを演じた中村蒼(水野のために裃をあつらえる役どころです)や『のだめカンタービレ』の玉木宏(大奥総取締に目を掛けられている御中臈役)などが印象に残りました。

 ということで、プラスマイナス合わせれば、まずまずの仕上がりと言えるのかもしれません。


(注1)尤も、劇場用パンフレットに掲載されている金子文紀監督インタビューには、「今回の吉宗の時代も天守閣はあってはならない。でも、原作にも描かれていたし、個人的にもリアルな天守閣が観たかったこともあり、再現することにしました」とありますが。
(注2)2006年公開の『大奥』は、大奥総取締の絵島役に仲間由紀恵が扮して、歌舞伎役者・生島(西島秀俊)との儚い恋物語を巡る事件を描いています。


(2)江戸城を巡っては、最近頗る興味深い本が出されました。
 黒田日出男氏による『江戸図屏風の謎を解く』(角川選書、2010.6)です。



 同書において黒田氏は、江戸というと人の関心は、明暦の大火(振袖火事)以降の江戸にいってしまうが、初期の江戸を軽視すべきではないのであって、魅力的な史料も残っている、として、特に『江戸天下祭図屏風』(個人蔵)の徹底的な読解を試みています。
 同書末尾の「大団円「江戸天下祭図屏風」は語る」では、その読解の成果が、たとえば次のように記されています。
・この屏風で「最初に見えてくるのは、明暦の大火以前の江戸城内を進んでいく山王祭礼の行列」である(これが、この屏風の第1の主題)。
・江戸城内にあった大名屋敷のうち、とりわけ巨大で「精細・精彩」に描写されているのが「紀伊徳川家の上屋敷」であり、その門前には、徳川頼宣夫妻の姿が見て取れる(この屏風の第2の主題)。
・潜在的には、「慶安事件(由井正雪の乱)の嫌疑」と「明暦大火の流言」(紀伊の仕業ではないか)という厳しい危機を切り抜けることができたという徳川頼宣の安堵の想いが込められている(第3の主題)。

 ところで、同書に掲載されている『江戸天下祭図屏風』を見ると、「左隻」の「第一扇」には、明暦の大火で焼失してしまった江戸城の天守閣が描かれているのです!



 これを見ると、広島大学の三浦正幸教授による「寛永度天守」の復元図とそっくりなことがわかります。



 ちなみに、同教授によれば、「天守台を除いた天守本体は高さ約45メートルあり、15階建てのマンションの高さに匹敵」し、「姫路城天守ですら、1階の面積は半分以下、高さは3分の2ほどで、体積では3分の1しかない」とのことです(雑誌『東京人』2010年9月号P.88)。

 この映画や原作の漫画に登場する江戸城天守閣は、この復元されたものとは違っているところ、何を元にしているのでしょうか?

(3)映画評論家はこの映画に対して辛目です。
 渡まち子氏は、「カラフルな衣装や、大奥ならではの権力争いに愛憎バトル、あやしいラブシーンなども盛り込んで、サービスに抜かりはない。大奥の仕組みや役割などを説明するパートも、和風のアニメを使ったり、新人の水野に御中臈の松島や先輩の杉下がしきたりを語るなど自然にストーリーに溶け込んで、簡潔で分かりやすい。だが肝心の物語は、男女逆転ならではのユニークな側面を大奥という組織の中で展開しきれていない」として50点を与えています。
 前田有一氏は、「男女逆転により、革命的な変化が起きる痛快歴史シミュレーションをやるならば、やはり「大奥」後こそがもっとも描くべきところだ。そこを一切描かず、観客に想像させて終わりというのはあまりに不親切。作り手が必死に考えた「もう一つの日本」を描いてみろと私は思う。それが、現在の日本より魅力的なそれならば、テーマも明確になったはずだ」が、「残念ながら現状では、イケメン受難の大奥にヤリチン天国の江戸市中、キワモノ映画の域を出ていない。高いポテンシャルを感じる作品だけに、残念至極である」として40点を与えています。



★★★☆☆


象のロケット:大奥
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終着駅

2010年10月23日 | 洋画(10年)
 こうした伝記物はあまり好みではないとはいえ、タイトルに惹かれたこともあって、少し前のことになりますが、『終着駅―トルストイ最後の旅』を見に日比谷のTOHOシネマズシャンテに行ってきました。

(1)伝記物が好みでないというのは、大体が偉大な人物の立派な生涯が描かれているだけで、そこには製作者らの創意工夫の入る余地が少ないように思われるからです。それに、偉大な人物の素晴らしい一生などというものは、人間味に乏しく到底凡人の真似のできるものではなく、一方的に観客側に流れ込んできておしまいになってしまいがちです(別に、映画で何かを教えてもらう必要もありませんし)。
 そんなものを見るよりも、駄目な人間のダメさ加減を描き出した映画の方が、もっとずっと身近な感じがして、共感が伴いやすいと思われます。
 と思いながらこの映画を見ますと、名声を得るまでの艱難辛苦を描き出すありきたりの伝記物とは違って、トルストイが功成り名を遂げた後の、死の間際の様子を描きだすものでした。
 ならば、食わず嫌いはやめて、映画に専念することといたしましょう。
 ちなみに、本年は、トルストイが亡くなってちょうど100年目ということで、ある意味で時宜にかなった映画公開と言えるのかもしれません。

 さて、この映画は、トルストイが亡くなる1910年のロシアという設定。まだ帝政ロシアの時代で、主な舞台は、ヤースナヤ・ポリャーナ駅(モスクワの南方160km)近くのトルストイの屋敷。そうした枠組みの中で、2組の愛の物語が展開されます。
 一つは、トルストイ(クリストファー・プラマー)とその妻ソフィア(ヘレン・ミレン)との関係(16歳違い)、もう一つは、トルストイの秘書になったワレンチン(ジェームズ・マカヴォイ)とマーシャ(屋敷内で展開されるコミューン運動に所属)との関係。

 前者については、自分の著作物に対する権利を民衆のために放棄しようとするトルストイと、そんなことはさせじと家族の生活を守るのに必死な妻ソフィアとの確執が描かれます。とはいえ、トルストイも、ソフィアと2人きりになると以前の愛情が蘇るのです。
 ついにトルストイは、妻の取り乱した姿に憤って家を出て南に向かいますが、その途中のアスターポヴォ駅(ヤースナヤ・ポリャーナ駅から南東150kmあたり)で死の床についてしまいます。死の間際につぶやいた言葉は、やはり「ソフィア」でした。屋敷にいたソフィアが呼ばれ、夫の最期を看取ります。



 トルストイの秘書をやっていたワレンチンは、当初はトルストイ主義を奉じていましたが、トルストイ自身が、ゴリゴリのトルストイ主義者ではなく人間味あふれる人物だということがわかってくるにつれて、奔放なマーシャに惹かれていきます。



 コミューン内では性欲は否定されるとして、マーシャはモスクワに返されてしまい2人は別れ別れになるものの、アスターポヴォ駅でトルストイの死を看取ったワレンチンは、自分の下にマーシャを呼び戻します。おそらく、トルストイとソフィアの愛情の深さから何かを感じ取ったからなのでしょう。



 映画では、こうした物語が、ワレンチンを狂言回しとして綴られています。
 結局のところ、タイトルには“トルストイ”とありますが、別にそんなことはどうでもよく、莫大な財産を自分の主義のために手放そうとする夫と、それを止めさせようとする妻との葛藤、しかしやはりお互いに惹かれあっていたという物語を、もう一つの若い二人の恋愛物語を絡ませて描き出した作品と捉えてしまえばいいのでしょう〔元々、この映画の原作の小説(映画と同タイトル)にある「著者あとがき」の冒頭でも、この本は「フィクションである」と著者ジェイ・パリーニは宣言しているくらいなのですから(新潮文庫版P.471)〕!

 この作品では、なんといっても存在感があるのは妻ソフィアです。トルストイの方は、著作権を手放すことなどにつきあれこれ迷ったりするのですが、ソフィアは家の生活を守ること一筋で頑張るのですから、誰も太刀打ちなどできません。それを、『クィーン』で著名なヘレン・ミレンが演じています。同作品でもうかがわれるように気品のある雰囲気を醸し出していますが、そればかりか、遺書の書き換えを知った時の錯乱状態の演技も見事なものです。

 なお、トルストイに扮したのは、クリストファー・プラマーで、『Dr.パルナサスの鏡』でパルナサス博士を演じていましたが、今回の映画では、トルストイもかくありなんといった苦悩する姿をうまく演じていると思いました。

 この映画はトルストイの死でエンドとなりますが、恋愛物ではなく“true story”に重点を置くというのであれば、むしろトルストイが亡くなった後、ソフィアや他の関係者がどうなったのかの方により興味があるところです。というのも、その7年後にロシア革命が起きるわけで、社会主義体制の中であのコミューンの活動はいったいどうなっていったのでしょうか?
〔ラストで、ソフィアにはトルストイの著作権が移譲されたなどと字幕で表示されますが、そこに至る経緯に興味が惹かれるところです〕

(2)この映画を見るに当たってトルストイ自身のことはドウでもよいと上で言っておきながら、その舌の根も乾かない内にトルストイに少し拘ってみましょう。
 特に、トルストイの屋敷で営まれているコミューンの活動については、この映画ではあまり突っ込んだ描写がされていないものの、興味をひかれる点です。
 というのも、トルストイ主義とは、原理的には、「自分の生活に必要な労働は、自分でできるような簡素な生活を目指」し、「近代文明や国家、教会、私有財産を否定し、原始キリスト教こそ理想であり、悪に対して神に忠実に非暴力の姿勢をとる」(注)といった内容と思われますが、そういった考え方を基盤に運営されているトルストイのコミューンは、ある面では、現代にも通じるところがあるように考えられるからです。

 たとえば、その「公式ブログ」の昨年8月19日の記事「村上春樹の「1Q84」を読んで」において、評論家の田原総一朗氏は、村上春樹氏の最新小説の「「1Q84」の骨子になっているのは学生運動、連合赤軍事件、そして山岸会、それがオウム真理教に至るのである。つまり村上春樹は、若者達が全共闘として戦い、やがて様々のコミューンを作りそして宗教団体へと転じていく、この流れを描きたかったのであろう」と述べています。



 さらに、社会学者・大澤真幸氏が主宰する雑誌『O』の本年7月号は、「特集 もうひとつの1Q84」と題され、『1Q84』(新潮社)が同氏によって分析されているところ、その末尾の「参考資料」の「『1Q84』―大澤真幸によるあらすじ」には、概略次のように述べられています(関連する部分だけですが)。

 この小説の主人公の一人である天吾(30歳の男性で予備校講師)は、「ふかえり」(深田絵里子)という17歳の少女が文学賞に応募してきた小説「空気さなぎ」を、ゴーストライターとして書き直します(その結果、同作品は、文学賞を受賞し、単行本はベストセラーになります)。
 ところで、この「ふかえり」は、宗教法人「さきがけ」のリーダー(一種の教祖)である深田保の娘なのです。
 その深田保は、1960年代に学生運動の指導者でもあり、学生運動の挫折の後、配下の学生を連れて、農業で生計を立てているコミューン「タカシマ塾」に入ります(この「タカシマ塾」のモデルは、おそらくヤマギシ会でしょう)。 その後、彼は、「タカシマ塾」から離れ、仲間とともに、山梨県の過疎の村に、農業的なコミューン「さきがけ」を建設します。
 「さきがけ」の中で、現実の革命を求めるラディカルなグループが、「あけぼの」という別のコミューンを作ります(このグループは、警察との銃撃戦の末壊滅しますが、モデルは連合赤軍でしょう)。
 「さきがけ」の残りのグループは穏健ですが、いつの間にか非常に閉鎖的な宗教法人になってしまいます(「さきがけ」のモデルはオウム真理教でしょうし、リーダーの深田保は麻原彰晃に対応しているのでしょう)。

 以上の物語は、小説『1Q84』の「BOOK1」第10章及び第12章に書かれているところ、コミューン「タカシマ塾」については、「完全な共同生活を営み、農業で生計を立てている。酪農にも力を入れ、規模は全国的です。私有財産は一切認められず、持ち物はすべて共有になる」と天吾は説明しています(P.222)。
 こうした側面を見ると、この「タカシマ塾」は、遠くトルストイの理想としたコミューンにも通じていると言えるのではないでしょうか?

(注)このサイト記事からの引用です。


(3)映画評論家はこの作品に好意的のようです。
 山口拓朗氏は、「トルストイが掲げる「理想の愛」と、トルストイの実生活が写し出す「現実の愛」。その狭間で悶々としながらも、最後にはワレンチン自身が実体験を通じて、愛の本質を見極めていく姿勢がいい。「愛」は教えられるものではなく、自分自身の体感として創造されるべきもの――。映画のテーマはここに集約されているのかもしれない」として70点を、
 渡まち子氏は、「単純な理想主義だけでは人は幸せにはなれないものだ。まして夫婦の間には苦楽を共にした歴史があった。そのことを若いワレンチンが汲み取って人間的に成長するという設定が意義深い」し、「ヘレン・ミレンとクリストファー・ブラマーという名優二人がこの困った夫婦を格調高く、それでいて少しコミカルに、愛情深く演じていて、素晴らしい」として70点を、
 福本次郎氏は、「トルストイのアイデアを極めようとするチェルコトフと家族を守ろうとするソフィヤ、トルストイはその板挟みになりながらも苦悩を顔に出さず飄々としている。このあたりの微妙な三角関係のバランスに、ワレンチンの恋を絡める展開は口当たりがよい」として60点を、
それぞれ与えています。


★★★☆☆


象のロケット:終着駅
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ギター合宿

2010年10月17日 | 音楽
 私が通っている加藤ギター・スクール赤城山麓にあるペンション「がるば」で開く恒例の合宿については、昨年の記事で紹介したところですが、今年も今週前半の連休に開催されましたので、ごく簡単に報告しておきましょう。

(1)昨年の場合、行きの関越道の渋滞に備えて、朝8時に家を出発しています。ただ、今年の場合、下りの渋滞が前日の土曜日に起きたことから、何となく連休の中日の日曜日は大丈夫な気がして、1時間遅れで我が家を出発したところ、驚いたことに一度も渋滞に出会うことなく、正午頃目的地に到着してしまいました!

 午後は今回も、ペンションの裏手に設けられた音楽室にて、我々生徒や講師の方が出演するコンサートが開催され、ラストは、講師の川村先生によるバリオス作曲「過ぎ去りし日の思い出」でした。

 合宿第1日目の最後は、加藤先生を中心とするミニ・コンサートでした(マア、これが楽しみで合宿に参加しているようなものですが)。今年は、加藤先生のギターと川村先生のプサルタリーとの二重奏が大変面白いと思いました(なにしろ、“天使のミロンガ”から“ひばりの佐渡情話”まで、実に幅広い演奏曲目でした)。

(2)そのプサルタリーですが、演奏風景(今回の合宿の際のものではありません)は、YouTubeで5つの動画を見ることが出来ます(YouTubeのサイトで「ギター&プサルタリー」を検索してください)。
 たとえば、加藤先生を中心とする合奏団「Sola」が演奏する「おしえて」(「アルプスの少女ハイジ」より)http://www.youtube.com/watch?v=_apDFQf03ps
 また、加藤先生のギターと川村先生のプサルタリーとの二重奏で「遙かなる旅路http://www.youtube.com/watch?v=biwjhRnoDmI
といったラインナップです。

(3)なお、今年の合宿2日目は、クマネズミは、合宿に参加した皆さんと早めに別れて、谷川岳の紅葉見学と洒落込んでみました。
 ペンション「がるば」からは、スグ近くを走る「からっ風街道」を西に30分ほど車を走らせると、赤城IC。そこから関越道に入り、水上ICで降りて土合口まで行けば、ロープウェーとリフトで目の前に谷川岳が聳え立つ天神峠に立つことが出来ます。
 この日は、絶好の快晴で、谷川岳の頂上付近は雲で覆われていたものの、手を伸ばせば頂上をつかみ取れる手近さで、山々を見ることが出来ました。
 肝心の紅葉ですが、今年の場合暑い日が長く続いたせいで、1週間から10日ほど遅れているとのこと。それでもロープウェーが天神平に近づくに従って、紅葉している木々が見られ、その上に続くリフトからの眺めは、青空に映えて素晴らしいものでした。


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恋愛戯曲

2010年10月09日 | 邦画(10年)
 おしゃれな映画という感じがありましたので、『恋愛戯曲~私と恋におちてください。~』を渋谷シネセゾンで見てきました。

(1)この映画は、劇作家の鴻上尚史氏の戯曲「恋愛戯曲」を、同氏自身が監督となって映画化した作品で、物語は、大物の脚本家・谷山真由美(深田恭子)と、彼女を担当するTV局制作部のプロデューサー・向井正也(椎名桔平)とのラブストーリーになっています。
 ただ、単純なラブストーリー物ではなく、谷山真由美が執筆している脚本が描いている世界自体が、主婦で劇作家を目指している女性(深田恭子)と、それを担当しているプロデューサー(椎名桔平)とのラブストーリーになっていて、それどころか、その主婦が描いている世界が、またまた女流作家(深田恭子)とその担当者(椎名桔平)とのラブストーリーになっているという、いわば3階層の入れ子構造になっているのです。

 そうしたこともあって、この映画をなかなか楽しく見ることができますが、問題点もありそうです。
 確かに、この映画は3層の入れ子構造を形成していますが、大物で人気のある脚本家という触れ込みの谷山真由美が、一生懸命考えて絞り出した挙句の作品が第2層目の物語なのでは、いくら谷山が落ち目としても、見ている方がズッコケてしまいます。なにしろ、地味な専業主婦が、ありきたりの夫婦喧嘩をする一方で、暇を盗んで書いた作品を大仰に褒めるプロデューサーと良い仲になっていく、という平凡さでは、とても今時のTV界では通用しないでしょう。



 それに、第3層は、その主婦が書いた戯曲とされ、全体として至極派手な作りにはなっていますが、第2層同様、とても舞台では通用しない代物です。



 下記の(4)で見るように、すでに映画評論家の渡まち子氏が指摘しているところながら、こうした第2層、第3層の物語は、実際の舞台で展開するにはふさわしいのでしょうが(観客が、自分の想像力で補うことが前提になっていると思われます)、映画の中で描き出されると、そのチャチなところが耐えられないものになってしまうのではないでしょうか?

 とすると、この作品では映画の作りではなく、むしろ演じている豪華俳優陣を楽しむべきなのかもしれません。
 主役の深田恭子は、『下妻物語』でロリータ・ファッションが実によく似合っていましたし、『ヤッターマン』でも出色のドロンジョ役を演じていましたが、この映画においても、脚本家、地味な主婦、それにド派手な女流作家という3役を実に見事にこなしています。なかでは、豪華な深紅のドレスを身にまとった第3層の女流作家の格好が、やはり一番向いているといえましょう。
 相手役の椎名桔平は、『アウトレイジ』において、親分・北野たけしの配下のヤクザで壮絶に殺される役を演じていたところ、この映画では打って変って、地味なプロデューサー役に扮しています。3度も深田恭子とのラブシーンがあるのですからオイシイ役とはいえ、TVドラマ『警官の血』の印象もあったりして、コミカルな演技をしてもなかなか馴染めませんが、まずまずのところでしょう。
 このほか、おなじみの清水美沙(『瞬 またたき』や、椎名桔平が主演の『レイン・フォール』に出演していました)、西村雅彦(『沈まぬ太陽』に出演していましたし、『Dear Heart』で刑事に扮してました)、それに井上順中村雅俊塚本高史(TVドラマ『帰國』で、元早大野球部の投手だった竹下少尉役を演じていました)などが出演して、テレビ局内に見受けられる組織的な対立(制作部と、編成部や営業部との)などをコミカルに描いています。

 とにもかくにも、この作品は、これだけ人気者を揃え、そればかりか映画とは何か、演劇とは何かを少しでも考えさせてくれるという意味では面白かったと思います。

(2)上で、この作品は、3重の入れ子構造になっていると申しあげましたが、もう少しその特質を活かしてみたらと思いたくなります。
 なにしろ、異なる3つの役柄を演じる深田恭子を見ることができて、ファンならずとも随分とお得な作品ではあるものの、そこまで拘るのであれば、そうした構造を取ることで、リアルな現実とされる第1層の物語を少しでも突き崩してくれたならと思えてきます。
 全くの素人考えにすぎませんが、例えば次のようにしてみたらどうでしょうか?
 すなわち、第2層の専業主婦が書く戯曲(第3層の物語)が、自分が登場している第2層の物語(すなわち、第1層の大物脚本家が書いた物語)よりも、遙かに面白いものになっていたとしたらどうでしょうか。
 そうなると、第1層のTV局は、むしろそちらの方でドラマを制作したいと願うのではないでしょうか?
 ただ、それをするためには、第1層の大物脚本家・谷山真由美の手になる脚本を否定しなくてはなりません。ですが、そんなことをしたら、第3層の物語を取り出すこと自体ができなくなってしまうでしょう!
 さて、このドラマはどうなるのでしょうか、というところです〔そんなこともあって、渡まち子氏の問題提起はあるものの、鴻上氏は「2つの劇中劇をもっと大胆なストーリー」にはしなかったのかもしれません!〕。

 このように、自分が作った脚本の中身でその脚本が否定されかねないといった事情、もっと一般的に言えば、自分が言っていることで、その言っていること自体が疑問視されてしまう事情については、「この文は間違っている」という文章などを巡って、様々に議論されているところです。
 たまたま今読んでいる埼玉大学教授・長谷川三千子氏の『日本語の哲学へ』(ちくま新書、2010.9)では、デカルトの方法的懐疑「われ思う、ゆえにわれあり」が議論されています。



 すなわち、「デカルトの方法的懐疑は、まず最初、感覚がわれわれに信じさせようとする、世界の諸事物の存在を疑い、それらをすべて「存在しないと想定」するところから始められていた」のであり、「言うならば物理的世界が丸ごと全部捨て去られる」のであって、「そこでは当然、自分以外の他の人間の存在も無いものと考えなくてはならず、そこから生じてくる様々の関係の存在も否定されなければならない」のであるが、そうであれば「自らの「語り」のよって立つ基盤を根こそぎにしてしまうことではなかった」か、結局、「彼はすでに全世界を、そしてもちろんそれと共に他のいかなる人間をも「存在しないもの」としているはずなのに、他者を想定しなければ意味をもたない言葉でそれを表現してしまった」わけで、「これは、疑う余地のない絶対に確実な真理を見出そうという彼の企てにとって、由々しいミスと言わなければなるまい」(P.49~P.57)。
 議論は、この先も続き、もしかしたら、これが西欧哲学の盲点なのかもしれないというところまで至ります。そして、……。

 ということもあって、この『恋愛戯曲』という作品は、もう少し手間をかければ、世界を揺るがすものになった可能性を秘めているのでは、と思ってみたら随分と楽しくなると思います。

(3)なお、この映画は、前回の『トラブル・イン・ハリウッド』と同様、椎名桔平が演じるプロデューサーが活躍する作品ですが、同じプロデューサーと言っても、だいぶ性格を異にするようです。
 ロバート・デ・ニーロ扮するプロデューサーは、最終編集権は持たないものの、出資者と監督・俳優らの間を取り持つ重要な役割を果たしていますが、他方こちらのプロデューサーは、単にTV局の制作部に所属する一社員というにすぎない感じです。映画に描き出されるところからすると、有名作家を担当する雑誌編集者といったところでしょうか。
 でも、この映画でTV局のプロデューサーの仕事が全て紹介されているとは思えないので、あるいはもっと幅広い権限を持っているのかもしれませんが。

(4)映画評論家の論評はあまり見かけませんが、渡まち子氏は、「せっかくの映画化なのに、どうして物語をもっとアクティブにしないのか。限定空間の舞台と違い、映画は時間と空間を自由に操れる。ホテルに缶詰め状態で執筆する真由美のパートは狭い空間でも、2つの劇中劇はもっと大胆なストーリーにできたはず」だ、「逆に面白いのは、TV局内部の対立や力関係、さまざまな思惑の部分」で、「タイトルとは裏腹に、むしろラブストーリーが取ってつけたようにさえ見えるこの物語、業界ものとして見れば、なかなか味わい深い」として55点を与えています。



★★★☆☆


象のロケット:恋愛戯曲
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トラブル・イン・ハリウッド

2010年10月06日 | 洋画(10年)
 ロバート・デ・ニーロの映画をこのところ見ていないこともあって、『トラブル・イン・ハリウッド』を渋谷のシネマアンジェリカで見てきました。

(1)この映画は、「ハリウッド内幕シニカル・コメディの決定版」とか「映画業界の裏側、暴露します」という触れ込みで、それもロバート・デ・ニーロの主演作ということで期待しましたが、別にそれほど常識外れのことは起こらず、これならば何も彼が、主演するだけでなく、わざわざプロデューサーを買って出てまで制作するほどのこともないのではと思いました(映画館シネマアンジェリカでは、『しかし、それだけではない』を見たことがありますが、良質ながら他の映画館では取り上げない作品を上映するので、この映画もと期待したのですが)。

 映画は、ハリウッドの大物映画プロデューサーであるベン(ロバート・デ・ニーロ)のとてつもなく忙しい2週間を描いています(注1)。
 まず、ある映画のプロデュースに携わり、ようやく試写会まで漕ぎ着けたものの、あまりにも衝撃的なラストシーンを見た映画会社社長(キャサリン・キーナー)から再編集を命じられてしまいます。この作品は、2週間後にカンヌ国際映画祭でオープニング上映されることになっていたため、製作した監督の入れ込みが激しく、ベンの説得もなかなか功を奏さず時間ばかりが過ぎていきます。無事にカンヌのオープニングに出席出来るでしょうか、……。
 また、別の俳優が、その主演する映画のクランク・インが間近に迫っているにもかかわらず、役柄にあった姿形になろうとしません。そのままだったら映画の製作は中止し訴訟に持ち込むと出資者から言われてしまいます。うまくクランクインに漕ぎ着けるでしょうか、……。
 加えて、ベンは2度結婚していて、それぞれの結婚でもうけた子供たちの送り迎えまでこなしているのです。
 そればかりか、1年前に離婚が成立しているケリー(ロビン・ライト)ととは縒りを戻そうとして、何度もアプローチしますが、そのたびに携帯電話の邪魔が入ったりしてうまくいきません(どうやら、携帯電話が、離婚の原因の一つになっているようです)。

 この映画では、『ミルク』でアカデミー賞の主演男優賞を獲得したショーン・ペンが、ベンのプロデュースする映画に実名で出演するばかりか、その出演シーンが映画の中で映し出されたり、カンヌ映画祭にも登場したりします。


 さらにまた、これも実名で出演しているブルース・ウィリスの髭面が映し出されたりと、面白い場面はことかきません(注2)。



 ですが、この映画で描き出されるトラブルは、昔から使い古されている類いのものであって、今更映画に描き出されても、という感じです(『脳内ニューヨーク』でケイデンの最初の妻を演じたキャサリン・キーナー扮する映画会社社長が、自家用ジェット機でカンヌに乗りつけているのは、さすがにハリウッドという感じではありますが)。
 それに、ベンの私生活のトラブルでは、離婚した妻が2人登場する上、それぞれに設けた子供たちも登場しますが、数を増やしてベンを忙しくしても、相も変わらずといったところです。
 ただ、『50歳の恋愛白書』のロビン・ライト扮する2番目の妻との離婚をスムースに行うために、2人してセラピーを受けている様子は、こんなことまでアメリカでは行っているのかと興味をひかれましたが。


(注1)映画プロデューサーのアート・リンソンが、自分の回想録をもとに脚本を書いています〔2008年制作〕。
(注2)自殺したエージェントの葬儀の場面がありますが、ロバート・デ・ニーロもブルース・ウィルスもキッパを頭にかぶっているところを見ると、2人はユダヤ人なのでしょうか?

(2)映画制作におけるプロデューサーについては、その役割が明確に定まっていないこともあって、なかなか理解することが難しそうです。
 たとえば、このブログの8月14日の記事の(2)で触れましたように、映画『トラ トラ トラ』の制作が頓挫してしまった背景の一つとして、映画の編集権を巡って、黒澤明監督とアメリカの20世紀フォックス社との間で大きな齟齬があったことが挙げられています。すなわち、黒澤監督の方は、映画全体の編集は自分がすると思っていたのに、アメリカ側では、当然のこととして、編集権はプロデューサーのエルモ・ウィリアムズが持つとされていたようなのです。
 他方、今回の『トラブル・イン・ハリウッド』でロバート・デ・ニーロが演ずるプロデューサー・ベンは、単に、出資者とキャスト&スタッフとの間の取り持ち役に過ぎないように見えます。カンヌ映画祭に出品する映画について、最終的な編集権は、出資者である映画会社の社長が持っているのだと明言されています。

 いずれにしても、その忙しさは何処でも変わりがないようで、同じ記事で取り上げたフランス映画『あの夏の子供たち』で描かれる父親グレゴワールは、プロデュースの仕事をする会社を立ち上げていますが、今回の映画のベンと同じように、片時も携帯電話を手放しません。何処へ行っても何をやっていても、ドンドン電話がかかってきますし、彼自身もアチコチに電話をかけまくります。 
 その結果、グレゴワールも、ベンと同じように妻に飽きれ果てられてしまいます(とはいえ、ベンのように離婚するまでには至りませんでしたが)。

(3)映画評論家はこの作品を余り取り上げてはいませんが、前田有一氏は、「プロデューサーに代わりはいても、優れた監督や俳優にはいない。たとえ立場が弱くても、彼らは唯一無二の存在であり、自信たっぷりだ。この対照的な立場の者との絡みを描くことで、プロデューサーの悲哀がよりいっそう感じられる。そうした人間ドラマとしてはなかなかだが、映画業界の雑学的なものがあまり見られないのは物足りないところ。業界ドラマのコンセプトからすれば、この点を不満に思う人は少なくあるまい」として55点をつけています。




★★★☆☆


象のロケット:トラブル・イン・ハリウッド
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オカンの嫁入り

2010年10月03日 | 邦画(10年)
 予告編から映画では最近ありがちなストーリーではないかと二の足を踏んでいましたが、マアとにもかくにもと思い立って、『オカンの嫁入り』を新宿の角川シネマートに行って見てきました。

(1)映画は大阪の話で、ごく狭い範囲の人間関係が、至極濃密に描かれます。母親・陽子(大竹しのぶ)と娘・月子(宮崎あおい)とで長年暮らしてきたところ、突然母親が、20歳くらい若い青年・研二(桐谷健太)を伴って帰宅、そして結婚宣言までするので、大家のサク(絵沢萠子)や陽子の勤め先の医院の先生(國村隼)をも巻き込んで騒動に。挙げ句は、結婚式で白無垢を着るべく衣装合わせに行こうという段取りになります。ところが、月子には電車に乗れないという問題があります。また、衣装合わせの当日に陽子は倒れてしまい、月子に秘密にしていたことがバレてしまいます。うまく結婚式の日をみんなで迎えることが出来るのでしょうか、……。

 この映画には興味をひかれる点がいくつかあります。
 まず、先日の『BECK』で見たばかりの桐谷健太が、映画が始まってすぐに登場したので驚いてしまいました。それも、髪の毛を金色に染めたリーゼントスタイルで。
 『BECK』では派手な張り切りボーイ役でしたが、こちらでは調理師の腕前を持った“おばあちゃん子”という地味な設定ながら、どちらも一本気な性格という点で共通していて格好良く、とどのつまりはファンが増えてしまうのでしょう。
 その桐谷健太が、自分のせいで祖母が亡くなってしまったとして、何よりも悲しいのはもう会って謝れなくなってしまったことだ、と言っていたのがすごく印象的です。これは、映画『今度は愛妻家』で、薬師丸ひろ子が豊川悦司に対して、「知らなかったな。私のことそんなに好きだったなんて。何で言ってくれなかったの」と言う場面に通じるところがあると思いました。人間死んでしまえば、したくともコミュニケーションができなくなってしまうのですから、生きているうちに何でもしておかないとという気にさせられます。

 また、陽子の秘密があります。ただ、いったい余命1年という陽子が、病人とはとても思えない雰囲気なのにはやや違和感を覚えてしまいます。
 とはいえ、これは、園子温監督の『ちゃんと伝える』で、父親(奥田瑛二)よりも重い病状のはずの息子(AKIRA)が、酷く元気な姿で描かれているのと通じているのではと思われます。要すれば、厳しい病状を描くことに映画の眼目はなく、むしろそんなことをすれば観客の観点が他に移ってしまう恐れがあるからということなのでしょう。

 さらに、月子のトラウマの件です。
 最初のうちこの映画は、母親の陽子が中心の人情話ではと思っていました。ところが、月子は、1年ほど前に、会社の同僚によるストーカー被害を受けて、その結果電車に乗ろうとすると足がすくんでしまうというダメージを受け、会社もやめて家に引っ込んだ生活を送っているという事情が突然明らかにされます(注1)。
 母親の秘密は予告編からもある程度推測はつくものの、月子までもそんな厳しい事情を持っているのかという感じになります。
 ですが、月子はそこまで追い込まれているからこそ、逆に、様々の思いもよらない事態を自分なりにしっかり受け止めて、立ち直っていこうとするのでしょう!

 こうなると、全体として大層重苦しいジメジメした感じの作品になってしまうところ、大竹しのぶの持前の明るさ、それに、『少年メリケンサック』や『ソラニン』でも見られた宮崎あおいの可愛らしい雰囲気、それに桐谷健太らの脇役陣の充実によって、映画全体は決して湿った感じのものになってはいません(注2)。日常的なものと非日常的なものとがうまくバランスしているのは、監督の呉美保氏の手腕によるものでしょう。なにより、陽子の死ではなく、嫁入り行列のシーンで終わりというのがよかったと思います。




(注1)これはPTSDなのかもしれないところ、月子が恐ろしい目に遭遇するのは電車の中ではなく駐輪場ですから、自転車に乗れなくなるのであればわかりますが、電車に乗れないというのは、ちょっと飛躍があるのではという気もします。それに、彼女がその病気で通院しているようには描かれてはいません。
(注2)大竹しのぶと國村隼は、『ダーリンは外国人』で、井上真央の両親の役を演じてました!

(2)他にこの映画で興味が惹かれたのは、陽子と月子が住む住宅のことです。
 大阪にも、京都の町家と同じように、入口が狭くて奥が深い俗に言う“ウナギの寝床”的な感じの住宅がまだあるようです。
 劇場用パンフレットに掲載されている間取り図からすると、思ったより細長くない感じですが、それでも、細長い通路の奥に格子戸があって、その奥に中庭があったりして、いかにも町家風です。
 その中庭は、大家のサクが煮物が出来たと言って運んでくる通路であったり、陽子や月子がイロイロ考え事をしながら縁側に据わって眺めるものであったり、などと重要な背景部分を構成しています。


(劇場用パンフレットより:左側が陽子・月子の住む家、右側が大家の家)

 ここで思い起こされるのが「住吉の長屋」です。これは、大阪住吉区住吉大社近く(細井川そば)にある建築デザイナー安藤忠雄氏の設計による住宅(1976年)です。



 この家は、「昔ながらの長屋が残っていた地域において、その長屋のうちの1軒を建て替えたもの」で、「ちょうど、既存の長屋の間にコンクリートの箱(間口2間、奥行き7間)を差し挟むようにできてい」て、中央にある「中庭によって手前と奥の2つの場所に分けられてい」ます。そして、この中庭があるために、「隣の部屋に行くために一度外に出なくてはならないという平面図」になっていて、そのことがこの建物を有名にしました(注)。



 もしかしたら、これらの庭はスペインの建物に見られるパティオにも通じるところがあり、大阪の陽子や月子が住む住宅からひょっとしたら世界が見えてくるのかもしれません。

(注)以上の事柄は、『住吉の長屋/安藤忠雄(ヘヴンリーハウス―20世紀名作住宅を巡る旅3)』〔千葉学著、東京書籍、2008年〕を参考にしました(P.20)。



 

(3)映画評論家は総じて好意的です。
 福本次郎氏は、「母の本心を本人からではなく他人の口から聞かされる、ただ一人の肉親だからこそ気を使っているのに、相手は水臭いと感じている。すれ違いのもどかしさが軽妙なテンポの会話で浮き彫りにされていく過程は人情の機微に富んでいて、人が深刻に悩み人を真剣に心配する、そのつながりが懐かしくもうらやまし」く、「辛い過去や哀しい記憶は誰にもある、しかし人は生きていかなければならない。それでも日常の出来事にちょっとした笑いや幸せを見つけることで人生は豊かになる、そんな思いが込められた作品だった」として70点もの高得点を、
 渡まち子氏も、「軽すぎず、重すぎず。演出の抑制が絶妙な人間ドラマだ。初共演の大竹しのぶと宮崎あおいが母娘を演じるが、フワフワした雰囲気が共通していて本物の親子のよう」であり、「月子の心の扉を開けるため、母の結婚が強引なカンフル剤となっている。さらに陽子にもなかなか娘には言いだせない、ある秘密が。その秘密はヘタするとお涙 ちょうだいになってしまうものだが、この映画ではそうはならない。軽妙なセリフの中にいたわりを感じさせるため、白無垢姿の母とそれをみつめる娘の和解の 場面がごく自然な感動を生んでいる」として60点を、
それぞれ与えています。




★★★☆☆


象のロケット:オカンの嫁入り
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彼女が消えた浜辺

2010年10月02日 | 洋画(10年)
 『ペルシャ猫を誰も知らない』を見たばかりであり、もう一つ公開されたイラン映画もと思って、『彼女が消えた浜辺』をヒューマントラストシネマ有楽町で見てきました。

(1)物語は、カスピ海沿岸のリゾート地で起きた出来事を巡って展開されます。
 主人公の女性(セピデー)は、ロースクール時代の友人であるアーマドらに声をかけて、彼らの家族らとともに車でリゾート地に向かいます。
 その際に、離婚したアーマドに紹介しようとエリという女性も誘います。予約したはずのヴィラは満室で、やむを得ず、使われておらず放置されていた別荘に宿泊する羽目になるものの、まずまず初日は皆で楽しく過ごします。
 ところが、2日目に、連れてきた子供の一人が海で溺れ、その子は何とか助かるものの、子供たちを見守っていたはずのエリの姿が見えません。エリは、1泊の予定で来たので帰りたいとセピデーに言っていたことから、皆には無断で帰宅してしまったのでは、とも思われましたが、もしかしたら溺れた子供を救おうと海に飛び込んだのかもしれません、さあどこにエリは行ってしまったのでしょうか、……。

 この映画はことさらミステリーと言っていませんから、エリがどうなったのかの謎解き自体にそれほど意味がないかもしれません。映画のラストでは、エリの失踪に関して一応の結論は提示されるものの、その解釈にも異議を差し挟めるような仕立てにはなっています(もしかしたら……ではないか、という感じがわずかながら残るのです)。
 ですが、全体としては日常的な出来事を綴っているに過ぎない映画なので、エリはどうなってしまったのだろう、というミステリー的な要素は、この映画に観客の関心をつなぎ止めておくための大きな要素ではないかと思われます。
 それに、エリを巡る謎については、失踪に関するものばかりではありません。
 通報でやってきた警察が皆から話を聞いていく内に、そもそも本名は何というのか、家族はどうなっているのか、など基本的な事柄について誰も知らないことがわかってきます。
 特に、エリを誘ったセピデーは、自分の娘が通う保育園の保母さんという以外によく知らないと言い出すのです。それでいて、離婚したばかりのアーマドの相手として格好なのではと考えているのですから不思議な感じになります。
 そのうちに、セピデーが、エリの鞄を隠していたことや、エリに婚約者がいることを秘密にしていたことなども分かってきます。
 なぜわざわざセピデーはそんなことをするのでしょうか、新たな謎が付け加わります。

 この映画では、まず別荘内でのごく日常的な細々した出来事が丁寧に描かれます。なにしろ、長年使っていない家のため、荒れ放題で、ガラス窓が割れていたり汚い物が散らばったりしています。それを皆で片付けて、ようやっと夜にはテレビの前で皆が集まってジェスチャーゲームをして楽しい時間を過ごすところまで漕ぎ着けます。テレビの前の座り方などを見ると、いかにも男性中心社会なのだなと思ってしまいます。
 他方で、冒頭の皆で大騒ぎしながら車に乗ってリゾート地に出かけるシーンから、ラストの砂浜に車輪が埋まってしまってナントしても抜け出せない車の姿まで、移動手段である車がかなり中心的な役割を果たしているように思われます。
 途中では、アーマドとエリとが一緒に車に乗って近くの町まで出かけますし、外部との連絡を取るためには、車に乗って移動しないと携帯電話の圏内に入れないのです(その結果、エリが母親らしき人と連絡をとったり、また婚約者が事件のあった別荘に現れたりするのですが)。

 こうした、別荘の内部と車という大きな枠組み(いってみれば、静と動、さらにいえば伝統文化と近代文明という枠組み)の中で、上記のように次々と謎が生まれてくるという描き方になっている様に思われます。
 加えて、興味を惹かれるのが、溺れた子供を救おうとする場面です。皆が海に飛び込んで必死になって子供を捜すのですが、映像は突然手持ちカメラのものに切り替わって、水面下の様子まで映し出すのですから、臨場感溢れるシーンになります。

 いろいろな工夫を施しながら、アスガー・ファルハディー監督は、人は他人について随分と曖昧な情報しか持っていないのではといった普遍的な事柄から、婚約者に対するイランの伝統的な見方といった特殊な事柄に至るまで、実に様々なレベルの視点をこの映画の中に注ぎ込んでいて、全体的になかなか優れた映画になっているのでは、と思いました。

 出演した俳優では、エリを演じたタラネ・アリシュスティの美しさが光りますが、やはりセピデーに扮したゴルシフテェ・ファラハニーも素晴らしい女優だと思いました。

 

(2)この映画については、映画ジャッジの評論家たちは論評を公開していませんが、沢木耕太郎氏の映画評が、9月14日の朝日新聞夕刊に掲載されています。
 沢木氏は、この映画のストーリーを紹介した後、次のように述べます。この映画の舞台は「イランのカスピ海のほとりである。しかし、それがアメリカの五大湖のどこかであってもいいだろうし、フランスのノルマンディーであってもかまわない。つまり、この作品は「イラン映画」という前置きを必要としない、単なる映画として存在しているということなのだ。……この作品で、ついに「イラン」というレッテルなしの、「普通」の映画に触れることができたように思えるのだ。もちろん、女性たちはチャドルで髪を隠している。……それでも、これが条件なしの「普通」の映画であるという印象は消えない」。

 この批評において、沢木氏は、「普通」という言葉を良い意味で使っていると思われます。ですから、『彼女が消えた浜辺』が「単なる映画として存在してい」て、「「普通」の映画」だと沢木氏が言うのは、酷く好意的な評価なのでしょう。
 ですが、そのような評価の仕方は、この映画に対して好意的だと言えるでしょうか?

 沢木氏の言うように、監督の「アスガー・ファルハディーの脚本が、舞台劇を思わせる緻密さを持っていた」のは確かでしょう。ですが、この作品が劇場で上演されたものではなく、アメリカの五大湖のどこかでもなく、わざわざカスピ海にまででかけて撮影して作り上げられたイランの映画だという点こそが重要なのではないでしょうか?
 一見すると、どの国においても起こりうる事件を取り扱っているように思われます。
 ですが、セピデーがエリについて皆に多くを語らなかったのは、エリが婚約をしている身であって、イランでは他の男性と一緒に旅行になど行くことはできない事情にあるためなのです。
 にもかかわらず、セピデーは、エリが、今婚約している相手を嫌がって婚約を解消したいと言っていたことから、それなら友人のアマードに紹介してやったらいいのでは、と好意的に考えたようなのです。ですが、そのことが大っぴらになってしまうと、エリはふしだらな女性と見られてしまいかねません。そこで、最後まで、セピデーたちは、現地に現れたエリの婚約者に対して、自分たちはエリが婚約していたことは知らなかったという態度をとります。
 こんな状況は、どこの国でも見かける「普通のこと」なのでしょうか?  
 この点が、単なるエピソードにすぎないのであれば無視すれば済みますが、エリに関する情報が次第に明らかになっていく様子は、この映画のコウはにおいては重要な要素ですから、とても無視するわけにはいかないでしょう。

 では、前半部分はどうでしょうか?
 「女性たちはチャドルで髪を隠している」とか、「エリが消えてから、混乱した彼らはさまざまな言葉を投げ掛け合い、その心の底に抱いている伝統的な価値観のようなものを露呈していくことになる」といった沢木氏が挙げる点も、もちろんイランの現状を表しているでしょう。
 でもそれだけではありますまい。
 たとえば、親しい3家族が久し振りで会ったにもかかわらず、第1日目の夜は、大層大人しくジェスチャー・ゲームを楽しんでおしまいなのです。
 ただ、こうした場合には、日本や西欧諸国だったら、カラオケとかロック・パーティーといったものが考えられるのではないでしょうか?
 ここにはもしかしたら、ある種の規制が働いているのでは、と考えるべきではないでしょうか?
 元々、イランに関しては、西欧文化の受け入れなどにつき、様々な規制の存在が指摘されています。
 たとえば、ロックなどの西洋音楽や飲酒は禁止されています(注1)。
 また、マイナーな問題かもしれませんが、イラン女性は、サッカー競技場での観戦が禁止されてもいます(注2)。
 さらに、この映画の主役セピデーを演じるゴルシフテェ・ファラハニーは、『ワールド・オブ・ライズ』で世界的に知られることになりましたが、却ってイラン当局の反感を買い、一時はイランからの出国を禁じられる羽目になったとのこと(劇場用パンフレットによる)(注3)。



 とすれば、むしろ、この作品に如実に映し出されなかった事柄、隠されている事柄、そういったものに思いをはせるべきなのではないでしょうか?まさにそういうものが陰に存在するからこそ、そうしたものを正面切って描いていないからこそ、この作品はイラン特有の映画と考えるべきなのではないでしょうか?イランではなくどこでも構わないような抽象的な映画として制作せざるを得なかった、というところを見るべきではないでしょうか?

 そして、隠されていることについては、エリの場合もそうですが、なにかおかしいと人々が気付き始め、ついにはセピデーと同じように明るみに出さざるを得なくなることでしょう。たとえ、エリのことを慮ってセピデーのようにあくまでも善意で隠していたとしても、それがわかった時には、人々は、セピデーに対するのと同じように、不信感を持ってしまうのではないでしょうか?

 沢木氏は、「この作品で、ついに「イラン」というレッテルなしの、「普通」の映画に触れることができたように思える」と述べていますが、悪くとれば、まるでイラン映画が西欧映画の水準にまでレベルアップしてきたような言い方に思えます。
 ですが、けっしてそんなことはないのではないでしょうか?
 この映画はどこまでも「イラン映画」であって、だからこそ味わい深い優れた映画だといえるのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏が、ご自身の公式ブログでこの映画についてのレビューを公開しています。
 同氏は、「恋愛や結婚について我々とは異なる風習、価値観が息づくイラン社会。そんな中でもがいた女性の姿と、観客にそれぞれの答えを求めるかのようなラストが印象深い。心理劇として楽しんだ後に、イスラム社会のフェミニズムの問題がゆっくりと立ち上ってくる。イラン女性が身につけるスカーフや丈の長い衣服の下には、どんな不安や不満が隠れているのだろうか。楽しそうに凧をあげるエリの姿が目に焼き付くが、彼女を縛るメタファーの凧の糸は、はたして自由や幸福を与えてくれたのか。見終わって深い余韻が残った」として、70点をこの作品に付けています。


(注1)もっとも、春日孝之著『イランはこれからどうなるのか―「イスラム大国」の真実』(新潮選書、2010.9)によれば、「もはや当局がプライベートな生活の領域まで口出しするという時代状況ではなくなっている。ホームパーティーにしても、女性の服装にしても、アルコールや衛星放送の視聴にしても、当局は国民の「不満のガス抜き」のために黙認しているというより、「不満の暴発」を避けるために黙認せざるを得なくなっているというのが実情だろう」(P.60)とのことです。
 確かに、先般の『ペルシャ猫を誰も知らない』では、アシュカンが、消息不明になったナデルを探すべくある邸宅内に入り込むと、そこではアルコールがふんだんに振る舞われ、大音量のポップミュージックが流れています。
 ですが、突然警察がなだれ込んできて、逃げ場を失ったアシュカンが悲劇に襲われます。
 また、春日氏の著書でも、「09年6月の大統領選挙後の様子」が、それまでとは違っている様子が述べられています(P.26~P.28)。

(注2)この問題を扱ったイラン映画『オフサイド・ガールズ』(2006年)は、イラン国内では上映禁止ですし、その監督のジャファル・パナヒ氏は、本年3月に、昨年6月のイラン大統領選挙に関する反政府的内容の作品を制作したのを理由に拘束されました(5月末の報道では保釈されたとのこと。さらにこんな報道もあります)。

(注3)9月27日朝日新聞夕刊に、この映画を製作したアスガー・ファルハディ監督について、次のような記事が掲載されていました。
 「イランの文化・イスラム指導省は、国際的に知られる映画監督アスガー・ファルハディ氏が「不適切な発言をした」として、同監督が撮影を進めていた最新作の制作許可を取り消した。26日付イラン各紙が伝えた。/シャルグ紙などによると、ファルハディ監督は19日、テヘランであった国内映画祭の授賞式で「国外に逃げた映画監督や俳優が、再びイランに戻って活動できることを望んでいる」と語った。これを同省の映画部門が問題視して発言の撤回を要求。しかし、ファルハディ監督は応じず、同省は最新作「ナデルとシミンの離婚」の制作許可を取り消すことを24日に決めた。撮影は全体の20%まで済んでいたという。/ただ、当局者はイラン学生通信に「処分は一時的なもの」と語っており、監督としての活動そのものが禁じられたわけではなさそうだ。」



  ★★★★☆


象のロケット:彼女が消えた浜辺
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