映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

キャデラック・レコード

2009年09月30日 | 洋画(09年)
 「キャデラック・レコード」を恵比寿ガーデン・シネマで見ました。

 精神科医・樺沢氏によるメルマガ「シカゴ発 映画の精神分析」第342号(9月2日)に、「音楽映画としても非常に完成度が高いので、社会的なテーマを抜きにしても、純粋に音楽に感動し、物語に共感できる」とあり、「私の場合、映画が終わってから、3分くらい涙が止まらなかった」とまで述べられていたこともあって見にいってきました。

 実際にこの映画を見てみると、50年~60年代にかけてブルースからロックへアメリカ音楽が拡大していった時代を、それに大きく貢献したひとつのレーベル(「チェス・レコード」)を核にジックリと描きだしていて、私のようにこの方面に疎くとも、次々に演奏される曲を聴いているだけでジーンときてしまいます。どの歌も実によくできているのです。
 
 こうした素晴らしい映画にも関わらず、福本次郎氏は、「映画は彼らの歌声をじっくりと聴かすというサービスはせず、主人公・レナードを中心とする人々の酒と女とドラッグにおぼれる日々ばかりを描写する」などと至極ピントとのはずれた批評をしています(40点)。
 尤も、「ラジオのDJがくわえタバコのままマイクに向かってしゃべったり、ミュージシャンがところ構わず平気でタバコを吸っている。まだ、健康意識が低く、タバコの害などまったく問題にされなかった世の中とはいえ、見ているだけで気分が悪くなる映像だ」とも述べていて、そんな本筋と無関係の些細なことが気になるくらいですから、福本氏はこうした映画に全然向いていないようです。それなら見なければいいのに!

 この映画に関する批評としては、次の渡まち子氏のものが私に一番近い感じがします(70点)。
 いろいろ問題点はあるにせよ、「そんな不満をシビレるほど素晴らしい音楽がすべて吹き飛ばす。特にエタ・ジェイムズを演じるビヨンセの熱唱は心を揺さぶるもので、名曲「At Last」を聴くだけでもこの映画を見る価値があるというものだ。個人的にお勧めは、劇中で涙をためて歌う「All I Could Do Was Cry」。何度聴いても泣けてくる」。

 問題があるとすれば、渡まち子氏が、「人種にこだわらないレナードの価値観や背景も、ほとんど分からない」というように、主人公レナード・チェスがさまざまの場面で何を考えているのか、映画からはいまいち読み取り難いという点なのかもしれません。

 というのも、この映画は、レナード・チェスの伝記映画ではなく、むしろチェス・レコードというレコード会社についての話をメインに据えているからでしょう。冒頭いきなり黒人のギタリストのマディ・ウォーターズが南部の農場で働きながら歌っている場面となり、その彼がシカゴの街頭で歌っているところをレナード・チェスが見出して、チェス・レコードを立ち上げて、云々と映画は進み、ラスト近くでレナード・チェスがレコード会社を手放して死んでしまっても、その会社自体は存続して、云々と映画はしばらく続きます。
 主人公のレナード・チェスの思いなど描くつもりはないのでしょう。

 ただこの点は、樺沢氏のメルマガで補えます。
 すなわち、同氏によれば、この映画の舞台である「シカゴという土地は、人種差別が非常に少ない土地柄であ」って、その理由は、「シカゴがほぼマイノリティで構成される街」だからとのこと。 
 同氏が示している最近の統計によれば、合計 283万人の住民のうち、
   ・白人系 42.0% 119万人
     ポーランド系 7.3 % 21万人 (全米1位)
     アイルランド系 6.6 % 19万人 (全米1位)
   ・黒人系 36.8 % 106万人 (全米2位)
 要すれば、シカゴは、アメリカのマジョリティである「WASPと呼ばれる、アングロサクソン系プロテスタント」の割合が低く、カトリックや黒人といった「マイノリティーが大きな力を持っているという、アメリカでも非常にユニークな街」だとのことです(注)。

 そのうえで、樺沢氏は、この映画のポイントは、主人公である「レナード・チェスが白人であるということ」であり、ポーランド系移民の「白人であるチェスが、全く人種的な偏見を持たず、素晴らしい音楽は素晴らしい、黒人も白人も関係なく多くの人に伝わるはずだ、という信念のもと、身を粉にして黒人シンガーの売り出しに命をかける点」だとしています。
 なるほど、こうした背景があるのであれば、レナード・チェスが、黒人のギタリストのマディ・ウォーターズに「自分は偏見を持っていない」と簡単に肩ひじ張らずに明言するのもよく理解できます。

 このレナード・チェスを演ずるのは、『戦場のピアニスト』の主役でアカデミー賞主演男優賞を獲得したエイドリアン・ブロディで、その映画ではナチス将校の前でベートーヴェンのピアノソナタを演奏する場面が印象的でした。他にDVDで『ダージリン急行』を見たことがあります。いかにもポーランド系ユダヤ人といった感じで、独特の雰囲気を持つ俳優です。

 なお、タイトルにある「キャデラック」は、大ヒットを飛ばしたミュージシャンにレナード・チェスが買い与えたものですが、それが成功のシンボルとなっているところがアメリカの黄金時代なのだな、今からすればまさに隔世の感があるな(GMの経営破綻!)、日本だったらこんな場合には車ではなく一戸建ての家を買い与えるのかもしれないな、などと思ったりしました。

(注)黒人初の米国大統領オバマ氏がシカゴ出身だということも、こうした背景があると樺沢氏は述べています。すなわち、オバマ氏は、大統領になる前は上院議員でしたが、「黒人の上院議員は米史上、6人しか輩出されていない」ようで、そういう点からして、「アメリカ初の黒人大統領がアメリカでも人種的偏見が非常に少ない街「シカゴ」から生まれたことに、私はある種の必然性を感じる」と述べています。
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プール

2009年09月27日 | 邦画(09年)
 映画『プール』を銀座のシネ・スイッチで見てきました。

 小林聡美、もたいまさこ、それに加瀬亮が出演する映画と聞いて、『めがね』のような感じなのかもしれないと思い、銀座まで出かけてきました(監督も、『めがね』の荻上直子氏だと思い込んでいたところ、大森美香氏)。

 タイのチェンマイ近郊にあるゲストハウスで働く母親のもとに、卒業旅行に名を借りて日本から娘が訪ねてきます。娘は、自分を祖母のところに置きざりにしてタイに来てしまった母親の真意を問いただそうとしますが、はかばかしい答えが得られないまま、また日本に帰ります。というだけの、ストーリーとも思えない物語が、映画では描かれています。
 もたいまさこは、このゲストハウスのオーナーで、余命半年といわれながら、3年ほども経過しているとのこと。また、加瀬亮は、そのゲストハウスで手伝いをしています。
 このほかの登場人物と言えば、小林聡美が養育している現地の子供くらいです。

 こうなると、評論家の意見も俄然厳しくなってしまうようです。
 “つぶあんこ”氏は、「ラスト30分程はそれなり。そこまでは寝てていい」との酷評付きで★ひとつ。

 渡まち子氏も、「暑い国なのに温度を感じない世界、草食系の俳優たち、表面をなぞるだけの人間描写。リアリティ以前に、生きている実感がない。……プールの周辺に集う人々は、互いに傷付けない代わりに真の絆も求めていない。……おしゃれなゲストハウスやおいしそうな食べ物、ゆったりとした歌声などに気分は癒されるが、根底に漂うのは、希薄な人間関係で充足する薄ら寒い空気。この映画、かなり病んでいる」と相当手厳しく、30点です。

 まあ、いずれの見解もわからないわけではありません。
 最初に申し上げたように、格別なストーリーが設けられているわけではなく、最後の方で、母親と娘との会話があってこの映画の背景が少しわかる程度です。ですから、ストーリーを追いかけたい人は、“つぶあんこ”氏のように「ラスト30分」を見れば十分でしょう。ですが、そんなことをしてみても何の意味もないと思います。この映画は、最初からストーリーの展開に重点を置いていないように見受けられますから。

 また、タイでの生活を映し出していながら、厳しいタイの政治・社会状況を匂わせるものは何一つ登場しません(最後の方で、托鉢をする僧侶の集団が出てきますが、これは大昔から連綿と続いている光景でしょう)。しかし、この映画は、そんなありきたりのことはおそらく意図的に捨象してしまい、まさに「暑い国なのに温度を感じない世界」をわざと描き出そうとしています〔こうした場所があるとしたら、現実的には、すぐに強盗団に襲われてしまうことでしょう!〕。

 荻上監督の『めがね』も同様に現実の世界から隔離された世界を取り扱っているところ、そちらは日本の離島でのお話という設定のためか、リアリティのなさが気になりましたが、この映画では東南アジアという遠隔の地に舞台を置いたためでしょうか、現実感のなさは気にはなりませんでした。

 この作品世界は、もしかしたら「能」の世界に近いのではないのか、と思いました。
 ゲストハウスに設けられているプールはいうまでもなく、さらに木造のリビングなどは高さが余りなく平面的で、あたかも奥行きのない能舞台(橋掛かりを含めた)のようです。また、そこにいる登場人物も、動作が極端に少なく、加えてかなり遠くから撮っていますから、全体的に能舞台に現れるシテ、ワキ、ツレといった感じです。そして、こういう設定から、時間が経過するとはこんなに静かなのかといったことを観客に感じさせ、さらには悠久の時間といったものを描き出そうとしているのではないかと観客に思わせます。

 全体の雰囲気としては、同じタイを舞台にした河瀬直美監督の『七夜待』を想起させ(性的な関係が描かれてはいない点も)、同国における陰惨な幼児売春等の世界を描いた『闇の子供たち』とはマッタク対極に位置しています。そして、厳しい現実の世界を描いたからといって映画的に成功するわけではなく、逆にこうした浮世離れした世界に、かえってリアリティを感じてしまうのも不思議なことだな、と思いました。
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女の子ものがたり(漫画)

2009年09月23日 | 
 前日のブログで、映画「女の子ものがたり」に感動したと書きましたが、そうなると自ずと原作の漫画の方にも手を伸ばしたくなってしまいます。
 そこで書店に行ってみますと、映画と同じタイトルの原作本は、なんとハードカバーのオールカラーで、900円もの豪華本なのです!ですが、かまわず購入して読んでみました。

 すると、この漫画と映画のストーリーとがかなり違っていることが判明します。
 
 何よりも、原作には、深津絵里の女性漫画家とか雑誌の編集者などは登場しないのです。
 映画の方は、女性漫画家の“死と再生”の大人の物語であって、子ども時代の話はその転換の契機となっているのに対して、漫画の方はあくまでも子ども時代の話をその時の視点から描いています。

 ですから、映画の主人公が“きいちゃん”のお母さんから彼女の本当の気持ちを聞く場面―主人公が“再生”の糸口をつかむことになるシーン―とか、親友だった3人の取っ組み合いの喧嘩の場面―“きいちゃん”から「あんたなんかきらいだ」といわれて主人公は街を離れます―などの感動的なシーンは、原作にはありません。

 これらは、女性漫画家の立ち直りをより鮮明にするために、映画化するにあたって付け加えられたり書き換えられたりしたエピソードと言えるでしょう。
 この漫画を映画化するに際して、脚本・監督の森岡利行氏等のアイデアがかなり入り込んでいるもの思われ、映画と原作とは全くの別物という事情がここでも再確認されます。

 そうした違いはあるものの、原作で描かれている子ども時代の出来事のかなりのものが、映画に組み込まれています。中でも印象的なのは、クラスメイトに虐められている“みさちゃん”と“きいちゃん”を救ってくれた友達について、「わたしね/あんたのこと/だいっきらい/みさちゃんも/きいちゃんも/きらいだけど/あんたのことが/いちばん/きらい」と思ってしまうことでしょうか。

 ただ、いうまでもありませんが、映画で取り上げられなかったエピソードや画面にも、捨てがたいものがたくさんあります。
 たとえば、「(厳しい状況におかれたときは)自分の影をみてあてっこするといい。うすむらさきのにわとりとおおきなおたまじゃくしがみえる」として描かれている画面(第2話)とか、お墓の納骨堂を覗いて、「まっ暗でみえない中は/お母さんの三面鏡を少しあけてのぞいた時と同じで/なんにもないのにいろんなものがみえ」たりすること(第6話)、一人で退屈していると“なっちゃん”の体の中に入ってくる「にゅうにゅうさん」のお話(第9話)など。

 こうしてみますと、映画は映画としてなかなか良くできた作品と思われますし、また漫画の方も漫画として非常に優れた出来栄えとなっていると思われます。
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女の子ものがたり(映画)

2009年09月22日 | 邦画(09年)
 「女の子ものがたり」を渋谷のシネクイントで見てきました。

 予告編ではマアマアかと思っていたところ、友人の評価があまり高くなく、また少女趣味的な他愛ない映画かなという懸念もあり、見るのを取りやめようかと考えましたが、こちらの時間に旨く適合する作品が他にはみあたらないことや、映画の原作者の漫画『毎日かあさん』を以前読んだことがあり原作者に関心がありましたので〔ネットでも読めます!〕、見に行ってきた次第です。

 実際に映画を見てみますと、主人公の少女時代の交友関係と現在の漫画家としての仕事ぶりとが巧みに交互に描き出されていて、不覚にも感動してしまいました。
 深津絵里は、そう大して美人ではないながらも、「博士の愛した数式」とか「ザ・マジックアワー」に引き続いて大層良い演技をしているな、と感心いたしました。

 とはいえ、この映画には様々な問題点もありそうです。
 主人公の女性漫画家が仕事をまともにしないことの原因や事情が映画でうまく説明されないため、怠惰なのかスランプなのか分からない、との指摘があります。
 確かに映画では、その点につきコレといってキチンと説明されておりません。
 
 ただ、主人公と担当編集者との会話を手繰りよせると、主人公は、雑誌編集長の意向に迎合すべく自分を殺して連載の漫画を書いているらしいことがわかり、その結果極度のスランプに陥ってしまった(ペンを握っても描けなくなってしまった)、と考えられます。
 自分でもそれに薄々気づいて、もう一度原点に立ち帰るべく愛媛に戻って旧友の家に行ったところ、自分を嫌っていたと思っていた“きいちゃん”が実は自分を強く慕ってくれていたのだと判明し、ここを起点としてスランプからの脱出が示唆されます。
 そして描き上げられたのがこの映画の原作となっている漫画『女の子ものがたり』というわけですから、映画冒頭の深津絵里のぐうたらぐうたらしたシーンは、格別重要な意味を持っているのではないかと思われます。

 言ってみれば、この映画は、ある女性漫画家の“死と再生”の物語ではないでしょうか?むろん、これは大仰すぎる言い方で、主人公は“死ぬ”わけではありませんが、漫画家としては死んだも同然の状態に陥ってしまいました。それが、昔の親友との真の関係を田舎に戻って見つけ出したことから生き返ることができ、新たな気持で漫画に取り組めるようになった、というお話ではないかと思います。

 さらにまた、主人公の父親や親友達は、主人公に対して“あなたはみんなとは違う”と言いはるものの、なぜそうなのかについて映画の中では十分に説明されていないため、主人公が自分でそう思い込んでいるだけのこととしかみえないとの指摘もあります。
 確かにこの点も説明不足だと思います。ですが、私には、他の二人の親友と違って、主人公は人(特に男性)に頼って生きていこうとする雰囲気が漂っていない点(モット言えば、自分というものを確固として持っているという点、あるいは庇護してやろうと他人に思わせない点)が、他の人からは特異に見えるのではないか(特に、女性としては)、と思いました。

 これらの点が映画の中で十分に説明されれば、その受容はヨリ容易になるものと思います。ただ、余り観客に一方的にストーリーを押しつけるのではなく、わざと曖昧にしておいて観客の様々の解釈に委ねるというのも方法としてあり得るのではないか、むしろその方が文芸作品としては面白いのではないか、とも思えるところです。

 ですが、私には次のようなことが気になりました。
・板尾創路は主人公にとって継父のはずのところ、主人公が彼をまるで実父のように素直に受け入れてしまっている点(幼い主人公が継父の体を揉んでいるシーンなど)。
 ただ、最初の引越しの場面で、お母さんが主人公を、“そんなにうるさいと新しいお父さんに嫌われるよ”と厳しく叱ったために、逆に板尾創路に取り入ろうとしているのかもしれません(無意識ながら)。
・反対に、主人公の実母が主人公に対する接し方に、かなりの冷たさが感じられる点(主人公が自分の手元を離れるように促すシーンなど)。むしろこの女性が継母ではないか、とも思ったりしてしまいました。
 ただ、手元に置いておくよりも、突き放した方が主人公のためになると考えて、このお母さんは、あえて冷たい態度をとったとみるべきなのかもしれませんが。
・主人公とボーフレンドとの関係が、結局はどうなったのかが省略されている点。
 主人公の性格から、彼女がボーイフレンドに積極的にアプローチするなど考えられませんから―他の二人の親友は逆の性格でしょう―、離れてしまうのは明らかながら(海岸でのキス・シーンを見てもわかりますが)、それにしてもいま少し描いてくれても良いのではないかと思いました。
・総じて、駄目な男性ばかり登場する映画という点。継父の板尾創路はフラッとどこかに消えてしまいますし、“みさちゃん”の両親も犯罪に手を出します。また二人の親友の結婚相手は、いずれもDV加害者です!
 尤も、女性がメインとなる映画は、話をあまり複雑化しないようにするためでしょう、大体このようになる傾向があります。
 なお、唯一まともなのは主人公担当の編集者ながら、消えてしまった主人公の行く先を探し当ててしまうほど主人公のことを理解しているにもかかわらず、主人公との間には距離を置いています。マア、狂言回し役ですから仕方のないところですが!

 誠にくだらないことばかり書き並べましたが、実のところ映画を見ている最中はこうした点はさほど気にならず、この映画の他愛ない様々の場面に感動してしまったというのが実情です。
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ゴーギャン展

2009年09月21日 | 美術(09年)
 この連休で閉幕というので、慌てて竹橋の東京国立近代美術館で開催中の「ゴーギャン展」に行ってきました。

 実のところ、ゴーギャンの絵は余り好みではありません。ただ、なんといっても大家ですし、特に今回はわが国で未公開の傑作が展示され、さらには「この展覧会は、日本初公開となるこの傑作を中心に、国内外から集められた油彩・版画・彫刻約50点の作品を通して、混迷する現代に向けられたメッセージとして、あらためてゴーギャンの芸術を捉えなおそうとするもの」といった美術館側の触れ込み(なんと大仰な!)もあって、そこまで言うのならと重い腰を上げて見に行ってきた次第です。

 好みではないというのは、勿論よく分からず絵に興味を持てないためで、どの絵も似たり寄ったりのタヒチの女性が、独特の宗教的な意味を与えられて描かれているだけ、という感じがしてしまうのです。

 ただ、今回日本で初めて公開された「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」(1897-98年:ボストン美術館)という大作〔注〕は、相変わらず宗教的な雰囲気が色濃く漂っているものの、実に様々なモチーフが描き込まれていて、それらを解説(会場では、そばの壁に、それぞれのモチーフについて若干ながら説明している図が展示されています)に従って一つ一つ丁寧に見ていきますと、次第にこの画家にも興味が持てるようになってきます〔上記の画像を参照〕。

 例えば、この絵の中央の〝果物を摘む女性〟は、倉敷の大原美術館に所蔵されている「かぐわしき大地」(1892年)―タヒチ(楽園)の森の中で、果実(リンゴ)に手をさしのばすタヒチの女性(エヴァ)が描かれています〔今回の展覧会でも展示されています〕―などとの関連性が指摘されます。
 また、右下隅の〝寝ている幼児〟は、現地妻との間でもうけた子供(生まれてスグに亡くなる)を「キリスト降誕図」として描いたものであるとされます。

 絵そのものだけを見て良い悪いを判断するのではなく、このように文字による解説が与えられ謎解きされてはじめてその絵に興味を持つというのは、絵画をよく分かっている人からすれば邪道なのでしょう。

 とはいえ、どんなルートでもかまわないから絵画とか画家に興味を持つことが出来れば、それはそれでかまわないのではないかと開き直り、この絵画展のカタログ(ハードカバーの立派な本です!)も読んで、この画家をもう少し調べてわずかでも理解を進めてみようと思っているところです。

〔注〕美術館側の説明では、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」をゴーギャンの「最高傑作」だとしています。ですが、晩年の「集大成」的な大作だから「最高」だ、としているに過ぎないように思われます。元々、鑑賞者によってどの絵が「最高」なのかは異なって当然でしょうから、予めこのように決めつけてしまうべきではないのではないでしょうか?
 採算性の向上を図るために美術館側がPRに努めなくてはならず、展覧会の目玉となる作品を出来るだけプレイアップしたい事情もわかります。とはいえ、このところ各所で開催される様々の展覧会で見受けられるPRのやり方は、少々度が過ぎるのではと感じるところです。
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小泉元首相のこと

2009年09月20日 | 
 ノンフィクション作家の佐野眞一氏が刊行する作品はなかなか優れたものが多く、以前は『東電OL殺人事件』(2000、新潮社)を読みましたし、最近では、講談社ノンフィクション賞を受賞した『甘粕正彦 乱心の曠野』(2008、新潮社)を読んでいるところです(注1)。
 そこで、筑摩書房が出しているPR誌『ちくま』の9月号に掲載された小泉元首相に関する論評「テレビ幻摩館14―小泉家の秘密」にも、早速目を通してみました。
 ですが、これはいただけません。

 その主だったところを抜き書きして綴り合せてみますと、次のようです。

 4年前の衆院選では、小泉純一郎が「自民党を圧勝に導いた。マスコミもこぞって小泉にエールを送った」。他方で、「あの時代、「構造改革」路線に賛成しない者は「非国民」扱いされて、袋だたきにされた」のだ。
 その「構造改革」路線とは、「小泉政権で経済財政政策担当大臣に抜擢された竹中平蔵のアメリカの意のままにふるまう〝売国奴〟的政策」なのである。
 こうして導入された「アメリカ流新自由主義」は、「すさまじい弱肉強食的風潮を生み、取り返しの付かない格差社会を出現させ」たのであり、「小泉政権発足以来、わが国の年間自殺者数はずっと3万人台を推移している」。
 ところで、「三代続けて政治家を輩出した小泉ファミリーには、新聞が決して書かない秘密がある。小泉の姉の別れた夫が前科15犯のコソ泥だったという事実である。姉とその男との間には娘がいて、その娘は小泉家に引き取られた」。
 さらに、「小泉が離婚したとき、子どもの親権をめぐって別れた妻側と血みどろの争奪選を演じた」。すなわち、「小泉の元妻とごく親しい関係者によれば」、長男と次男の「親権を取っただけでは満足せず、妊娠6ヶ月で離婚された元妻が一人で3番目の子どもを産むと、小泉家はその子の親権まで主張して、家裁の調停に持ち込んだという」(「家裁の調停では妻側の親権が認め」られる)。
 「こうした動きを終始リードしたのは、小泉の「金庫番」といわれた姉の信子だった」。
 小泉が離婚したのも、「女系家族の小泉家にとって「女王蜂」は二匹はいらない」からで、「こういう冷酷な家に育った男だからこそ、弱者切り捨ての政策を容赦なく進めることができたのだろう」。

 私は寡聞にして、小泉元首相の姉の別れた夫の話とか、元首相に3番目の子どもがいるとかの話は全然知りませんでした(注2)。
 こうした話が当時から一般に流布しなかったのは、小泉氏自身に直接関係のない他愛のない話のためにことさら報道されなかったのかもしれません。あるいは、鳩山代表の資金管理問題(注3)と同じく、記者クラブ制によるところがもしかしたらあるのでは、とも思われます(注4)。
 ですから、親族を巡る話を佐野氏がわざわざ出版社のPR誌で暴露したことは、鳩山代表の資金管理問題に関するマスコミの扱い方についての指摘と相まって、マスコミ批判という観点から、ある程度は評価できるかもしれません。

 とはいえ、今回の論評のように、親族の件と絡めて、現在盛んに議論されるようになった大きな問題の原因を小泉氏(さらには竹中氏)個人のせいにしてしまうのは、佐野氏が、表面上は反マスコミという姿勢を取っていながらも、実際のところはかえって現在のマスコミの強い流れ(反小泉とか反市場原理主義のキャンペーン、ひいては反米というナショナリズムの流れ)に棹差してしまっている、といえるのではないでしょうか?

 特に、格差問題とか3万人を超える自殺者の問題を小泉・竹中両氏に帰属させることなど、到底出来ない相談だと考えます(注5)。
 なにしろ、格差問題は、小泉政権の下でジャーナリズムでしばしば取り上げられるようになったとはいえ、政権発足以前から様々に注目を集めていたのであり(注6)、また、3万人を超える自殺者は1998年以来のことであって、2001年4月の政権発足よりも3年も前からなのです!

 佐野氏のような議論は、相手が視界から消えたり(小泉氏どころか自民党までも!)、仲間が周囲にいたりすると(民主党の圧勝!)、急に強がり出す輩がするものであって、相手の品位を問うどころか、逆に筆者のそれが厳しく批判されるところになってしまうのではないか、と思われます(注7)。



(注1)昨年の7月13日の朝日新聞書評で唐沢俊一氏が取り上げています。
(注2)いうまでもなく、佐野氏は、この論評で初めてこれらのことを取り上げたのではなく、つとに『小泉政権―非情の政権』(2004、文藝春秋)において詳細に述べています。ですから、今回の論評で「新聞が決して書かない秘密」と佐野氏が書くとき、“自分が著書で書いているにもかかわらず新聞が取り上げなかった秘密”という意味合いになるでしょう。
(注3)佐野氏は、本論評の冒頭で次のように述べています。「民主党代表の鳩山由紀夫の資金管理団体が、自民党でもやらなかったインチキ虚偽献金をしていたにもかかわらず、その問題を殆ど追求せずに、自民党から民主党への「政権交代」という読者に阿った大見出しを掲げることに血道をあげているマスコミ報道の方がどうかしている」。
(注4)ジャーナリストの上杉隆氏によれば、鳩山代表は、「それぞれの会見の中で、筆者の質問に対して、首相官邸における記者会見の開放を約束した」とのことですが、資金管理問題を有耶無耶の内に葬ってしまいたいのであれば、鳩山氏はこれまで通り記者クラブ制を継続することでしょう〔日経ビジネスの上杉氏による記事によれば、鳩山新総理の初会見からこの約束は反故にされてしまったようです〕!
 なお、鳩山代表の幸夫人について、AP通信は3日、「わたしの魂はUFOに乗って旅をした」との発言などを紹介し、「これまでにないファーストレディーになるだろう」と伝えているようですが、こういった報道が日本の大手マスコミでは余りなされないのも記者クラブ制によるのではないかと推測されます。
(注5)佐野氏は、本論評において、「もしこの政治的大犯罪を極東国際軍事裁判にかけるなら、小泉、竹中とも間違いなく「デス・バイ・ハンギング」である」とまで言い切ります。
(注6)格差社会論の第一人者である橘木俊詔・同志社大学教授が、岩波新書『日本の経済格差―所得と資産から考える―』を出版したのは、1998年11月のことです。
(注7)特に、「「煮干しにカツラをつけたような」宰相と竹中平蔵というちんちくりんの経済ブレーンコンビ」というような表現振りは顰蹙ものでしょう。
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セントアンナの奇跡

2009年09月19日 | 洋画(09年)
 「セントアンナの奇跡」を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見てきました。

 前田有一氏が、この映画につき、「社会派スパイク・リー監督らしいブレない主張性と、老練な映画作りのテクニックの両方を楽しめる、通向きの一本だ」と述べているので、別に「通」ではないものの、そんなに言うのならと日比谷まで出かけてきました(映画館は、以前の日比谷シャンテです)。

 確かに、前田氏が言うように、「白人─黒人の対立軸をメインにおいているが、同時に他の様々な対立軸も絡んでくる。ドイツとイタリア、パルチザンと住民、男と女、少年と大人……」と、実に様々なレベルのエピソードがこの映画の中には詰め込まれています。そして、これらの「多くの伏線を残さず回収することも、この監督レベルであればたやすいこと」なのでしょう。

 ただ、純粋培養的な日本のタコ壺社会に漬かっていると、こうした様々の対立軸に出くわすことが余りないためか、映画の背景となる個々の事情がよく分からず、結局のところ、十分な説明が与えられないまま素材だけがたくさん投げ与えられたような雑然とした印象しか残らなくなってしまいます。

 たとえば、映画の冒頭の方で、イタリアにおいてナチスのドイツ軍と闘っている現地軍の指揮官(白人)が、非常に無謀な渡河作戦を強行させたために、「バッファロー・ソルジャー」と呼ばれる黒人だけで編成された歩兵部隊(第92歩兵師団)は手ひどい損害を被ってしまいます。事前の各種の情報を無視し、かつ偵察行動も一切取らないでこんな作戦をとってしまう指揮官の存在など、日本軍ならいざ知らず、あまり考えられないところ、アメリカにおける激しい人種偏見からすると、こうした非常識なこともありうる話だなとある程度納得できます。

 ただ、この映画のメインとなるのは、このバッファロー・ソルジャーに所属する4人の軍人ですが、イタリアの小さな部落の中に取り残された彼ら4人の救出のために、米国軍が白人の部隊を出撃させたとなると、本当なのかと訝しく思えてきます。
 ところが、Wikiの「スパイク・リー」の項目によれば、「人種差別が当然のように行われていた当時のアメリカ軍において、黒人兵が戦闘兵科に付いたのは1944年12月ヨーロッパ戦線におけるバルジの戦い前後からのことであり、硫黄島攻略戦当時においても黒人兵はアメリカ軍上陸部隊の1%に満たなかった」とのことです〔バルジの戦い以前の“史上最大の作戦”には、白人しか参加しなかった!〕。
 こうした背景もあって、イタリア戦線に投入されたバッファロー・ソルジャー部隊については、米軍上層部が強い関心を持っていて、それで上記の救出につながったのだなと理解できます。(ただこうしたことがわかるのは、映画を見終わって自宅で調べるからにすぎませんが)。

 また、4人は、逃げ込んだトスカナ地方の小さな部落で、住民(=白人)たちから偏見のない扱いを受け、アメリカ国内での処遇の酷さとのあまりの違いに驚きます。とはいえ、大航海時代のスペイン人の南米における現地人大虐殺の事例からしても、ヨーロッパ人が人種偏見を持たないとはトテモ思えず、そう簡単にこのエピソードを鵜呑みにもできないところです。

 一番引っかかってしまうのは、やはり「奇跡」に関することでしょう。私のような無宗教の者とか無神論者からすれば、こうした「奇跡」がなくとも、十分に映画のストーリーは成立するのでは、とも思えるところです。
 それに、この映画における「奇跡」はいったい何を指しているのか、今一よくわからないところがあります。この映画の副主人公である少年アンジェロがもたらすものなのか(たとえば、壊れていた無線機が治ってしまう現象など)、聖母の彫像の頭部がもたらすものなのか(それを持っていたせいか、取り残された4人の黒人兵のうちの1人が救出されます)、あるいはロザリオによるのか、そのような具体的なことではなくもっと漠然としたことなのか、結局よくわからないままとなってしまいます。
 特に、歴史的事実として起きたのは「セントアンナの虐殺」であって、それをなぜタイトルで「セントアンナの奇跡」と言い換えるのか、その深い意味合いは理解しがたいところです。

 という具合に一つ一つのエピソードを後になってバラバラにほぐしていくと、こちらの知識のなさもあって十分に理解できない点が出てきて、本当にそんなことがありうるのかと思いたくなる場面がいくつもみつかります。
 ですが、そうしたエピソードが次々に積み上げられ一つのストーリーとしてまとめあげれてくると、あまり細かいところにこだわらずに素直に受け入れて、まあそんなことかもしれない、こういう映画をつくるにはそうした話の持っていき方も必要なのかもしれない、と思えてきます。

 オバマ大統領の誕生以来、アメリカにおけるマイノリティの問題がクローズアップされ、日本で公開されるアメリカ映画にもそうした傾向がうかがわれ、今回もそうした流れの一つのように思われます。そうした意味でも、注目すべき作品ではないか、と思いました。
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ちゃんと伝える

2009年09月16日 | 邦画(09年)
 「ちゃんと伝える」を有楽町のシネカノンで見てきました。

 監督が、「紀子の食卓」や「愛のむきだし」で評判の園子温氏ということで是非見たいと思っていました(「紀子の食卓」はDVDで見ましたが、吹石一恵がなかなかよくやっていると思いました。「愛のむきだし」も見たかったものの、長すぎるため映画館はパスし、これからDVDを見ようかと思っています)。

 「紀子の食卓」の感じから、何か普通の映画では見られない変わった点があるのかなと思いきや、至極オーソドックスな作品なので驚きました。
 こうした肉親の死を描いた作品を見せられると、これまで自分に起こったことやこれから起こるはずのことなどにも思いが及んで、この映画のように力を込めてきちんと制作されていれば、やはり感動してしまいます。
 特に、主演のAKIRAが実によくやっていると思いました(事前には、彼がEXILEのメンバーだとは知りませんでした!)。
 さらには、つまらない点ながら、映画の舞台となっている豊川駅前で、息子(AKIRA)とその恋人(伊藤歩)がそれぞれの自宅に戻るシーンが何度も描かれるところ、まるで横尾忠則の「Y字路」のようなので大変面白いと思いました。 

 とはいえ、評判の監督の映画と思って見たこともあり、色々問題点を指摘したくもなってきます。ただ、映画を見ている最中は、ストーリーに惹きつけられて以下で述べるようなことは、余り念頭に浮かんではきませんでしたが。
 なお、主演のAKIRAがEXILEのメンバーというところから、この映画はPVの延長上にあるのかもしれず、そうであれば何も言う必要などないものの、内容的にも、さらには東京ではわずか1館の上映のみというところからみても、PVではなく文芸作品として真剣に制作されていると判断できるので、以下のような検討をしてみました。

・一番の問題点は、息子(AKIRA)も胃癌に冒されていて父親(奥田瑛二)よりもむしろ重いことが判明するという設定になっているわけですが、このような厳しい設定に何故しなければならないのか、うまく理解し難いことではないかと思われます。
 わざわざそんな設定にせずとも、終わりの方の釣りのシーン―父親の葬儀の途中で、息子が父親の遺体と共に小さな湖で釣りをします―だけでこの映画は十分成立するのではないでしょうか?
 ラストでAKIRAに事情を打ち明けられたとき、「霊柩車で湖にまで遺体を運ぶという暴挙をあえてしたのも、あなたにそういう事情があったのであればヨク理解できる」と恋人はつぶやくところ、そのような格別の〝事情〟がなくとも、AKIRAの取った行動に観客は納得するのではないか、と思いました。
 ただ、それでは常識的なところに落ち着いてしまうおそれもあります。もしかしたら、わざわざこうした設定にした点にこの監督らしさが現れているのかもしれません。
・父親と息子が重篤の癌に冒されているにもかかわらず、厳しい症状が現れているシーンがマッタク描かれていません。二人とも 健常人の如くに映画の中で振る舞っており、監督は「そんなシーンを取り込まずとも観客には分かるのだからこれでかまわない」と述べていますが、実際には画面からリアリティが失われているように感じます。
 特に、若年ながら明日をも知れない癌に冒されている息子が、相変わらず恋人とデートしたり、土手を全力疾走したりするのですから、観客の方は、末期癌患者にそんなことが可能なのかと戸惑ってしまいます。
・素人的には、末期の癌が判明した段階で息子は即入院であり、手術や抗がん剤の投与を受けたりしなければならないはずであり(無理にでも医者はそうするのではないでしょうか)、従って本人がいくら隠そうとしても最低限家族には分かってしまうはずと思われます。
 ですが、映画からはそのようにうかがわれません。あるいは、医者の判断として、末期癌で何をしてもムダだから本人がしたいようにするに任せている、というわけなのでしょうか?
・この映画のタイトル「ちゃんと伝える」から、〝ち ゃんと伝える〟べき事柄、例えば、〝自分はこのように生きてきた、自分はこのように考えている、こんなことをやり残した、息子のことをこのように考えている、死後についてはこのようにしてもらいたい〟などといった内容の事柄が、映画の中ではっきりと口にされるのではないかと思っていました。
 ですが、映画からは、そうした大層なことではなく、単に“癌で余命いくばくもない〟と父親は息子に伝えたいだけではないか、としかうかがえません。せいぜいのところ、〝紅名湖で一緒に釣りをしたい〟といったくらいでしょう。
 尤も、チョット考えてみれば、死ぬ間際に子どもに是非伝えたいことなど一般人が確固として持っているとは思えないところでもありますが!
・この映画の題名にあるように、息子は、自分が癌に冒されている事情を恋人にキチンと伝えます。ですが、むしろ一番先に伝えるべきは母親(高橋恵子)ではないでしょうか?夫と息子に先立たれれば、スグにひとりぼっちになってしまうのですから!にもかかわらず、母親には黙っているのです。
 あるいは、そんなことを母親に告げたら余りの事態に母親がどうなってしまうか分からないと思って伝えなかったのかもしれません。ただ、医者から自分の癌のことを宣告されたとき、息子は「父親には言わないで下さい」と医者に言うだけで母親については触れませんでした。
 息子の場合、むろん父親との関係は問題になり得るものの(エジプス・コンプレックス!)、母親との関係もそれ以上に重要でしょう(マザコン!)。何故この側面が省略されているのかヨク理解できないところです。

 酷く些末なことをくだくだと書いてしまいましたが、逆に言えば、そういう様々なことまで見終わってから考えさせるくらい良い作品だったと言えるでしょう。なにしろ、ぐいぐいと映画に引き寄せられ結局は感動してしまい、映画館からの帰路、自分に果たして息子に伝えるべきことなどあるのかと考え込んでしまったのですから!
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南極料理人

2009年09月13日 | 邦画(09年)
 「南極料理人」を渋谷のヒューマントラストシネマで見てきました。

 この映画は、むしろ押しつけがましいストーリー展開がほとんどないために、逆に芸達者な俳優たちが持っているそれぞれの味が十分出ることとなり、見ながら至極楽しい時間を過ごすことが出来ました。

 なかでも、今や注目度が非常に高い堺雅人の演技は出色でした。“薄笑いをしているような顔つき”が嫌だという向きもありますが、この映画では、かえってそれが効果的となっています(彼の出演した映画では、「ジェネラル・ルージェの凱旋」や「ジャージの二人」での演技が印象的です)。

 こういった映画についてはアレコレ言い立てても始まらないかもしれません。

 それでも、“つぶあんこ”氏は★一つで、「劣化『かもめ食堂』コピー男性版。全く笑えない極寒ムービー」との酷評をわざわざ与えています。
 確かに、フィンランドという寒冷地で日本人がレストランを開店するという『かもめ食堂』の話に、通じるところがないわけではないでしょう(どちらもめざましいストーリー展開はありませんし)。
 ですが、そちらは対フィンランド人向けのレストラン開業という外向きのベクトルなのに対して、こちらは越冬隊員向け食堂の話であって、ベクトルは内向きですから、果たして「コピー」とまでいえるかどうか疑問です。
 それに、こちらは料理の内容がかなり重視されていますが(特大イセエビのフライ!)、『かもめ食堂』では、料理というよりレストランという場を通じての人の交流の方に重きがあるように思われます。
 ですから、“つぶあんこ”氏が『かもめ食堂』をわざわざ持ち出すのは、ややピントはずれではないかと思います〔とはいえ、劇場パンフレットによれば、映画に登場する料理をこしらえたスタッフには、「かもめ食堂」の料理も手がけたフードスタイリストが入っているとのこと!〕。

 そんなに目くじらを立てず、この映画については、あるいは次のような評価で十分なのかもしれません。

 「ロケは南極ではないと知っていても、平均気温マイナス54度の空気はちゃんと伝わってくる。食材は缶詰や冷凍食品なのに、料理はどれも極上に見える。特に、知恵を絞って作った手作りのラーメンの、なんと美味しそうなことか。それを食べる隊員たちの満足そうな顔を見ていると、こちらまで幸福な気持ちになった」(渡まち子氏〔70点〕)。
 
 主人公の「西村が材料を工夫して打った麺を全員ですするシーンは、普通に食事できる幸せと、その幸せを誰かと共有することでさらなる満足感が得られると実感させてくれる。物言わずひたすら箸を動かす隊長の表情が素晴らしい」(福本次郎氏〔80点〕)。



 とはいえ、強いラーメン依存症に陥っているような人(「きたろう」が演じている隊長)がこの世に存在するとは、余り信じられないところです!

 それに、この程度の論評では、あまりに常識的で見たままな感じがしてしまいます。

 映画の舞台となった「ドームふじ基地」と同じような状況(昭和基地からも1,000㎞離れています)、すなわち自分が以前に所属していた共同体から隔絶したところに閉じ込められて、別の仲間と共同体生活を営んでいるような状況を考えてみましょう。

 例えば、この間若田宇宙飛行士が活躍した国際宇宙ステーションの場合が思い浮かびますが、そこでの食事の役割はどうでしょうか?
 もとより、料理を専門とする飛行士などおりませんし(通信担当とか車両担当の飛行士もいないでしょう―操縦担当の飛行士が相当するのかも?)、また、食事といっても、予め調理されたものが袋に入っていて、それをチューブを使って飲み込むだけのようです。『南極料理人』のように、テーブルを囲んで、共同生活者が談笑しながら食事をするわけでもありません。
 映画と同じような状況に置かれているからといって、食事が中心的になるとは限らないようです。
 では、宇宙飛行士は何をやっているのでしょうか?若田宇宙飛行士の場合は、「きぼう」に船外実験施設を取り付けるなど大忙しでした。他の宇宙飛行士にも、それぞれ様々な業務が山のように与えられているようです。

 翻って、この映画において越冬隊員は何をしていたのでしょうか?車両担当の隊員は、いつも雪上車の中でマンガを読んでいますし、通信担当の隊員はバターをこっそり食べている始末です。映画において仕事らしい仕事をこなしていたのは、雪氷学者の生瀬勝久くらいです。ただ、それも遊びの片手間にやっているように見えました。

 元々、この基地は氷床コア掘削をメインに行うために設けられているようです。ただ、その業務にどんな意義があるのでしょうか(注)、また、わざわざ人が極点近くで越冬しなければできない作業なのでしょうか(自動計測で必要な情報が得られることから、富士山の測候所も5年ほど前に無人化されました)?

 映画ではそうした辺りがごくサラッとしか説明されていないために、この映画から漂ってくるのは、なんとなく集まった8人の男たちが、一応は閉じ込められた状況の中ではあるものの、美味しい食事を食べながら楽しい共同生活を送っている、などといった随分とノーテンキな雰囲気です。
 やはり、〝人はパンのみに生きる〟ではなく、何か切実な目的があってこそ初めて食事にも意義が出てくるのではないか、そこら辺りをもう少しこの映画は描き出すべきではなかったか、と言いたくもなってきます。

 とまあグダグダ書いてしまいましたが、こんなどうしようもなくつまらないことは一切考えずに、この映画は、単純にそのホノボノとした雰囲気を楽しむべきでしょう!

(注)Wikiによれば、概略次のようです。
「氷床コアとは、氷床(陸地を覆う氷河の塊)から取り出された筒状の氷の柱で、コア掘削機によって掘り出され、樹木の年輪など他の自然物の記録のように、気候に関する様々な情報を含んでいる。氷床コアの上層は一枚一年に相当するが、氷の深度が深くなるにつれ、自重により一年分に相当する氷の層は厚さは薄くなり、年縞は不明瞭になってゆく。ただし、適切な場所から得られるコアは撹乱が少ないので、数十万年にさかのぼる詳細な気候変化の記録が得られる」。


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バーダー・マインホフ  

2009年09月09日 | 洋画(09年)
 「バーダー・マインホフ  理想の果てに」を渋谷のシネマライズで見てきました。

 このところ日本で、1960年代後半~70年代前半にかけて驚くべき事件を引き起こした“赤軍派”のことがあちこちで取り上げられています。
 昨年3月には若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が公開されました。ブログ゛「情報考現学」(8月4日)で「まだ連載中で単行本3巻までだが凄く面白い」と述べられている長編漫画『レッド』(山本直樹:講談社)も、事件のことを取り扱っているものです。さらに、慶大教授・小熊英二氏の最新著『1968』(上下ともそれぞれ1,000ページをこえる大著!)の下巻第16章でも連合赤軍が取り上げられています。

 すでに30年以上も昔のことにもかかわらず相変わらず高い関心があるのは、やはりなぜあんなこと(リンチ殺人事件とあさま山荘事件)が起きたのかが、なかなか解けない謎になっているからでしょう。あるいはそこに日本特有の問題点が見出されるとして、様々な角度からメスが入れられているのだと思われます。
 さらには、団塊の世代の人たちが、第一線から退くに当たって、大学闘争から連合赤軍事件までのことについてキッチリと整理しておきたいと考えていることもあるでしょう。
 私も、彼らの思想云々ではなくて(マルクス主義革命などは死語になってしまいました!)、あの事象そのもの、一体あのの事件は何だったのか、という点に関心を持ってきました(単なる好奇心の域を出ないものですが)。

 そういう中で、「ドイツ赤軍派」を取り扱った映画が日本でも公開されたので、これは見に行かずばなるまいと渋谷に出向きました(あわせて、外国映画部門のアカデミー賞を「おくりびと」と争った映画でもあるのでどんな作品なのかなという興味もありました)。

 この映画では、女性ジャーナリストのマインホフが、バーダーやその愛人らと手を組んで、超過激な極左組織のバーダー・マインホフ・グループを結成し、様々のテロ行為を犯します。結局は皆逮捕されてしまうところ、まずマインホフが、民間人を爆弾テロに巻き込んこんだことなどを気に病んで精神に変調を来して刑務所内で自殺し、バーダーらも、パレスチナの同志によるハイジャックによって出獄しようとしますが、それが出来ないことが分かると、同じく刑務所内で自殺してしまいます。

 これがこの映画のあらましですが、その間に、要人の誘拐・暗殺、銀行強盗、爆破、ハイジャックなどの凄まじいテロ行為がこれでもかという具合に何回も描き出されます。
 実業家のシュライヤーの誘拐・射殺事件は、日本でもかなり大きく取り上げられたので知ってはいたものの、そのほかの事件は報道があったとしても覚えていませんから、この映画でRAFの過激振りが漸くわかったことになります。

 日本の赤軍派の影響を受けて、彼らは自分たちを「ドイツ赤軍派(Rote Armee Fraktion、 RAF)」とも呼んだようですが、映画からすると、その行動形態は日本の赤軍派とはかなり異なる感じです。たとえば、
・日本の赤軍派の場合、実際のテロ行為はかなり小規模なこと(確保できた武器が小振りなためかもしれません)。他方、ドイツ赤軍派は、要人の誘拐・暗殺など随分と派手な事件を引き起こしています。
・日本の赤軍派の場合、グループ内の統制にかなりのウエイトをおいていること(「総括」と称する凄惨なリンチ)。映画で見る限り、ドイツ赤軍派では、メンバーが規律でがんじがらめに縛られているようには見えません。
・日本の赤軍派の場合、重信房子がパレスチナに行ったりしますが、総じて国際的な視点が欠けていること。ドイツ赤軍派では、軍事訓練のためにグループの主要メンバーがパレスチナに渡っていますし、捕まったバーダーらの奪還のために、パレスチナ人によるハイジャック事件も引き起こされました。

 単なる印象に過ぎませんが、日本の赤軍派は、極東の狭い閉鎖空間の中でますます内部に縮こまって自滅してしまった感じです。別にドイツ赤軍派が外部に開かれていたというわけではないものの(結局は、幹部は刑務所内で自殺してしまうのですから)、なにかしら西欧と日本との違いを感じさせます。
 にしても、ドイツと日本というように距離的に酷く離れているにもかかわらず、ほぼ同時期に類似する組織が現れ、類似する犯罪行為を犯してしまったことは、実に不思議に思います。

 さて映画自体に戻ると、総じて言えば、なぜ彼らはこのような過激な行動に走ったのか、という内面的な問題よりも、むしろ彼らの行ったテロ行為それ自体を描き出すことに主眼が置かれているように思えました。
 そうした観点から言えば、同じような実録ものですが、「サガン」に類似していて(サガンの内面の動きというよりも、サガンにまつわるスキャンダラスな事柄を次々に描き出している点で)、ラブストーリーに重点を置いた「ココ・シャネル」とは異なる描き方がされているのではと思いました。
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