映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

転々

2007年11月25日 | 07年映画
 「転々」を渋谷のシネ・アミューズで見ました。

 実際のところ、こうしたユルユルの“東京散歩”的な雰囲気のものは大歓迎です。それも、普段からウォーキングでヨク行く井の頭公園から話が始まり、引き続きのシーンでも“あっ!ここ知ってる”の連続ですから堪えられません、それだけでこの映画は○です!

 尤も、映画を見ているうちに、主人公たちは、映画に映し出される実際の場所のとおりに歩いていないのではと思い始めました。井の頭公園→調布飛行場→阿佐ヶ谷等々では、いくら時間があっても霞ヶ関などに行き着かないでしょう。

 そこで、そこらあたりが原作ではどうなっているのかと、新潮文庫の藤田宜永作『転々』を読んでみました〔そもそも、こんないい加減なストーリーで小説が書けるのか不思議でしたので〕。そうしたところ、原作と映画とでは、東京を歩き回る順序もさることながら、ストーリー自体がまるで違っているので驚いてしまいました。

 まず、歩く場所及び順番は、監督が映像として面白いと思った場所を観客の興味が持続するように繋ぎ合わせていると思われました。
 例えば、オダギリジョーと三浦友和とが歩き始めてすぐのところで、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が大学の中から流れてくるシーンになり、原作では「武蔵野美大」とあるものの、吉祥寺駅の近くにある同校には映画のような立派な建物は見当たりません〔画面に映し出される校門に付いている看板の文字からすると「日大文理学部」と思われ、それならば京王線「桜上水」駅の方になってしまいます〕(注)。

 なによりも、小説の方では、オダギリジョーが扮している文哉が三浦友和扮する福原らと一緒になって、愛するストリッパーを束縛しているものから救出するとの頗るチンケなドラマが大筋として設けられていますが、映画の方ではそうした派手ですがダサイ出来事はほとんどカットされて、実に他愛のないエピソードの連続になっています。

 常識的には、映画とその原作はマッタク別のものであり、映画を理解するのに原作へ立ち戻る必要はないものの、この映画の場合、原作を読んで映画との余りの違いがわかると、逆に監督(脚本も)としてこの映画を作った三木氏の狙いなどが把握し易くなるのではないかと思いました〔話の大枠だけを小説から借りてきて、細部は三木氏自身のものになっています〕。

 なお、この映画では、オダギリジョーもさることながら、三浦友和が出色の出来栄えではないかと思いました。



(注)映画を見た翌週の日曜日の午後は、家から歩いて「日大文理学部」へ行ってきました。
 家を出て東の方に玉川上水に沿って進んでいきますと環八にぶつかり、その先を南に折れてしばらく行くと京王線(新宿線)に遭遇し、それを東に進めば「桜上水」の駅です。駅近くの踏切を渡って南に歩いて交番を東に曲がってしばらく進むと目的の「日大文理学部」に到着です(かかった時間は、1時間強―8,000歩―といったところでしょうか)。
 なかなか広いキャンパスながら、ぐるっと回って正門の前に出ますと、やはりここが、映画の最初の方で「亡き王女のパヴァーヌ」が流れた学校であることが(小説では「ムサビ」)直ちにわかります。

めがね

2007年10月21日 | 07年映画
 荻上直子監督の「めがね」を銀座テアトルシネマで見ました。

 前作「かもめ食堂」がひどく良かったので、ほぼ同じようなスタッフが製作したこの作品にも興味がありました。

 映画の雰囲気は、確かに、前作と同じようになっているように思われます。出演している小林聡美やもたいまさこなどが相変わらず独特の味を出していて、撮影場所の与論島の海の風景ともあいまって、いい作品に仕上がっていると思いました〔残念ながら、片桐はいりは今回出演しておりませんが〕。

 ただ、前作が醸し出していた「ほのぼの感」は、人為的に作り出そうとしてなかなかできるものではないのだな、という思いに囚われました。

 前作は、フィンランドのヘルシンキに小さなレストランを出すという一応のコンセプトがあって、初めは現地の人も中に入ろうとしなかったものの、レストランは次第に賑わってくるというかなり現実的なストーリーもありました。
 他方、今度の作品は、ほとんどストーリーらしきものはなく、人物の動きもかなり簡素化され、ただ「たそがれる」という言葉が映画の中で飛び交っています。

 都会の喧騒に疲れ果て、そこから脱出してこの島にやってくると、忘れかけていた「自由」の気分を取り戻し〔それが“たそがれる”ことの意味合いかもしれません〕、この島から離れ難くなるということなのでしょう。
 しかしそれでは、原始共産制は素晴らしいというのと余り変わりがないことになります。

 そんなことは現実にはありえず、実際には、大部分の人間が都市部での労働に携わるほかないと考えられ、誰もが、離島の海岸で氷を売って暮らすわけには行かないのは火を見るより明らかなことです〔もたいまさこの役は、毎年一定の時期になると、海岸で氷を売っているおばさんですが、それでは生計は立てられません〕。そんな離島で獲得される「自由」は、砂上の楼閣もいいところだと思われます。

 要すれば、なんとかして前作同様の「ほのぼの感」を出そうとしているのですが、それを意図してしまうと返ってそれから遠ざかってしまうのではないか、と思いました。