映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

パリ、恋人たちの2日間

2008年06月27日 | 08年映画
 『パリ、恋人たちの2日間』を恵比寿ガーデンシネマで見ました。

 この映画では、イタリアでバカンスを過ごしたカップルが、ニューヨークへ帰る途中で女性の方の出身地であるパリに立ち寄った際に起きたドタバタが描かれています。

 ただドタバタといっても、出演者がパリ市内をあちこち走りまわるというわけではなく、英語しかできない男性と、英語とフランス語を同じように操れる女性との間で展開される会話のシーンや、男性がフランス語が縦横に飛び交うフランス人社会に入って遭遇するちょっとした出来事の場面が中心となっています。
 ですから、“つぶあんこ”氏が言うように、「英語とフランス語が入り乱れる事が本作の要点」ということで、話されている言葉がわかればわかるほど面白さも増すでしょう。にしても、エロチックな会話が多いので、どうしても字幕に頼らざるをえないところ、これも“つぶあんこ”氏が言うように、「松浦美奈による、苦心して要約された日本語字幕」によって「充分に楽しめる」ものとなっています。

 なにしろ、この映画は、カップルのうちの女性役を演じているジュリー・デルビーが才気煥発でものすごく、映画の中で相手役のアダム・ゴールドバーグと英語で機関銃のような会話を自在に操るだけでなく、監督・脚本・製作等のすべてを一人で担当しているのです!

 元々は、パリ市街の様子を見ることが主眼で映画館に入ったわけですが、そして確かにこのカップルはパリの中心街をあちこち散歩するのですが、そんなことより、この女優の素晴らしさに圧倒されてしまいました(時々、酷く老け顔になってしまう点が問題なものの、大層可愛く見えるときも多く、とにかく摩訶不思議な存在です!)。
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休暇

2008年06月22日 | 08年映画
 新宿トーアで「休暇」を見てきました。

 様々の情報媒体から、ことさら読んだり見たりせずとも、映画の大筋が分かってしまい、それならわざわざ映画館に出向く必要はないと思っていたところ、これまで13人の死刑執行を命じた鳩山法務大臣を揶揄する朝日新聞夕刊の「素粒子」が問題になっていることもあり、新宿コマ劇場の前にある新宿トーアに行ってきた次第です(初めて入った映画館で、従業員が2、3人しかいない物寂しい雰囲気でした)。

 さて、驚いたことに、映画の冒頭がまさに、死刑執行命令書に関する決済に様々な法務省関係者が印鑑を押し、最後に法務大臣が印鑑を押すシーンなのです。何か、狙い済ましたような感じを受けたものの、映画作りはずっと前に行われていますから、偶然に過ぎないのでしょう(それに、この映画には原作―吉村昭氏の短編―があります)。

 この映画では、一人の刑務官(小林薫)の職場での仕事ぶりと私的な生活面とが描き出され、その中に死刑囚(西島秀俊)に対する死刑執行の様子が差し込まれます。
 というところから、“つぶあんこ”氏は、例えば、「死刑囚と連れ子を、ことごとく相似、対比させ、テーマを浮き立たせている、細かい設定の積み重ねが興味深い。最もわかりやすいのは、死刑囚が描いている白黒の鉛筆画と、子供が常に描いている色鉛筆のカラー画の対比だろう」というように、映画に設けられている様々の「相似と対比」を見つけ出してきます。

 ただ、余りそればかり説明されると、いい加減にそんなつまらない説明はおしまいにして、肝心の批評をしてくれよ、という気にもなってきます。というのも、確かに、そうした「相似や対比」が映画の中に設けられていることは容易に分かりますが(特段、事々しく解説されなくとも)、敢えて言えばそんな点は制作段階にかかる話であって、出来上がった映画を見るということは、そういった背後の構造を読み取ることではなく(別に読み取ってもかまいませんが)、映画全体として何を受け取るのか、というところではないか、と思われます。

 要すれば、“つぶあんこ”氏はこの映画に70点を与えているものの、なぜその点数なのかが映画評では少しも述べられてはいないのでは、と思われます。

 ではお前はドウなのか、と問われれば、こうした映画を評価するのは実に難しいな、としか言えません。こうした状況は、周防正行監督の「それボク」でも同じでした。映画が取り上げている題材は、まさに今議論しなければならないヴィヴィッドな問題性を持っています。ただ、ソウだからといって、それを取扱っている映画が優れたものといえるかどうか、映画ということで見ると別の視点がありうるのかもしれない、しかし、やはりその問題性を離れて評価するのもいけないのでは、といったところです。

 とはいえ、西島秀俊が立派過ぎてトテモ死刑囚とは思えないことや、ウダツの上がらない刑務官の小林薫と結婚する大塚寧々も、いくら子連れバツイチで曰くが何かあるにしても美女過ぎて、どうもぴったり来ない気もしました。

 なお、大層つまらないことですが、この映画の舞台は山梨県で、例の「ゆれる」もそうだったな、と思い出しました!
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ゼア・ウイル・ビー・ブラッド

2008年06月20日 | 08年映画
①『週刊新潮』5月15日号の「闘う時評」における福田和也氏は、この映画に対して、随分と凄まじい批判を展開し、「見るも無残な失敗作」だとして何から何まで徹底的に否定してしまいます。
すなわち、
a.「音楽が非道い。クラシック・コンプレックス丸出しの大仰さとコケ威しばかりで、まったく感興が湧かない」。
b.主演のダニエル・デイ=ルイスは凄い大根役者。
c.「脚本がなっていない。カタルシスがないのは、派手な争闘がおきながらも、本質的な対立が実は存在していないから」。
d.「父親の怪物性が完全に空転している」。
e.一応、仇役になっている牧師がまた情けない。演じるポール・ダノがまた非道い。
f.「撮影にしろ、音声にしろ、すべてが映画をデイ=ルイスの独り芝居にすることにのみ貢献していて、ドラマとしての、画面としての広がりを拒否している」。

 ですが、ここまで言うのであれば見なければ良かったのです。あるいは、そんなものを選んで見てしまった自分をまず恥じるべきでしょう。

②他方で、“つぶあんこ”氏は、「古典に現代を投影させ皮肉った、素晴らしきアメリカ映画」と評価して92点を与えています。特に、次の点は、上記福田氏の見解と180度異なるものです。
すなわち、
a.ラストでは、「凄惨を通り越して笑いすらうまれてしまう"惨劇"によって、文字通り"虚"にとどめを刺して"実"が大勝利する。いや、実は最初から勝っていたのだから、カタルシス極まれりの大団円である」。
b.「ダニエル・デイ=ルイスの演技センスは秀逸。さらに、"虚"の化身として最後まで付きまとった虫ケラを、これまた何ら同情できないキモさ全開で演じたポール・ダノも、ナイスキャスティング」。

③粉川哲夫氏も「力作である」として、満点が5つ星の内4つ星を与えています。
 上記福田氏の見解との関連でいえば、次のように述べています。
a.「若い牧師を演じるポール・ダノは、悪くはないが、このキャラクターの内的矛盾を十分には表現していない」。
b.「ジョニー・グリーンウッドの「音楽」は、わたしは好きだ」。

④私としては、福田氏の見解は受け狙いが濃厚で、ことさら激しく批判しているのではないかと思います(以前「ノーカントリー」を批評した際にも、コーエン兄弟の傑作としては「赤ちゃん泥棒」だ、と大層穿ったものの言い方をしていました!)。
 確かに、主演のダニエル・デイ=ルイスの演技には、日本でいえば新劇調で“臭い”といえる面はあるのかもしれませんが(「乱」における仲代達矢のような)、“実”の巨魁としての演技だと割り切れば素晴らしいのではないかと思いました(この映画は、彼の演技で持っているようなものでしょう)。
 また、“虚”である若い牧師を演じるポール・ダノにもっと存在感があれば、主演のダニエル・デイ=ルイスももっと生きたのかもしれません。非常に弱々しい感じがラストまで持続していて、それならあんな殺され方をしなくてもと思えてしまいます。ただ、最後にダニエル・デイ=ルイスのところに白旗を掲げて出向くわけですから、狂信的な側面ばかりでなく弱さをも表現しなければならず、非常に難しい役どころであって、それなりにポール・ダノはよくやっているのではないかと思いました(この若い俳優は、「リトル・ミス・サンシャイン」で見ましたが、そこでも難しい役をうまくこなしていたと思いました)。

 としても、もう一つの“虚”であるスタンダード・オイル社の面々も存在感が希薄で、福田氏に「本質的な対立が実は存在していない」と批判される面はある程度あるとは思います。

 なお、音楽については趣味次第ですから何とも言えないところ、私には映画の流れに十分即したもので、「まったく感興が湧かない」というわけのものではないと思いました。

 ということで、この映画は、“実”(“お金”)が“虚”(あるいは“信仰”)を打ち倒してしまうということを赤裸々に描いたもので、それなりに面白く最後まで目が離せませんでした。
 最後の場面で、ダニエル・デイ=ルイスが“I am finished”と言い、字幕では単に「終わったよ」と周囲の人に知らせているだけだったように思いますが、粉川氏は「私は終わってしまった」と解釈しています。いずれにせよ、“実”が“虚”に勝ったにしても、何も実際のところは手元に残らなかったものと考えられます。ということで、貴兄のいうように、決して「見終わった感じがいいものではない」わけですが、それでも私としてはマズマズ納得のいく映画でした。
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ぐるりのこと

2008年06月15日 | 08年映画
 銀座シネスイッチで「ぐるりのこと」(橋口亮輔監督)を見てきました。

 この映画に関する詳しい情報は何も読まずに、ただ渋谷駅の通路に掲げてある大きな宣伝ポスターに何となく良さそうな雰囲気が漂っていたので、早いところ見てみたいと思っていました(誠に唐突ながら、「非情城市」でもそうなのですが、記念写真が映画の中で大写しになると何故か感動してしまうのです。このポスターでも、二人が並んでいる写真が大きく使われています!)。

 エンドロールを見ながら(主題歌を耳にしつつ)、映画館に来て良かったなとジワーとした感動が湧き上がってきて、気分良く帰路に着くことができました。
 前田有一氏が、この映画について、「何気ない会話が心に染み入る良質なドラマ。やや重い題材だが、映画ならではの見ごたえある人間模様を味わいたい人におすすめだ」と言っているのに同感します(とはいえ、点数が70点どまりなのは、前田氏の好みに余り合わない文芸作品だからでしょう!)。

 私としては、3年ほど前の「いつか読書する女」(田中裕子主演)と同じくらいに良い映画ではないかと思いました。

 この映画は、木村多江(これまで映画で見ているのでしょうが、この人と識別できていません)とリリー・フランキー(この人が書いた『東京タワー』を元にした映画は見ましたが)の若い夫婦のことを中心的に描いています。
 といっても、この夫婦にはそれほど目覚ましい事件は起きません。単に、二人の間にできた子供が流産してしまったことから妻が酷い鬱状態になり、それが長い年月をかけて次第に回復し、夫婦の間柄が一層深まるというだけのごく単純なお話です。

 ただ、それが濃密に描かれているため、この映画には説得力があります。例えば、映画冒頭の下ネタ的な会話とか、妻が「チャンとやろうとした。だがそれができなかった」と絶叫するシーンによって、妻が鬱状態に落ち込み易い酷く几帳面な性格であることを観客は十分納得できます。

 さらに、夫のどこまでも優しい対応があって(といっても、言葉ではなく漂よわせている気配によって)、妻が次第に回復していく過程を描くには、やはりリリー・フランキーが持っている味(素人臭さ!)と、140分の長尺とが必要なのだと理解できます(このように、欧米社会のように明確な言葉をハッキリと使って会話をして理解しあうというではなく、なんとなく雰囲気でそれとなく分かり合う―むしろ、その方が絆が深まる―という日本社会の独特な点が上手く描かれているのではと思いました)。

 ただこのままだと、どこにでも転がっている退屈なお話になってしまいます。それを救っているのが、夫が友人から法廷画家の職を引き継ぐという設定です〔今や、邦画のかなりの割合が、弁護士や検事、警察官が登場する事件物となっていますが、それにしてもまさか法廷画家までも登場するとは!〕。
 このことで、二人が社会の動きとヴィヴィッドに繋がった存在であることもわかります。というのも、この映画は1993年から10年ほどの期間を扱っていますが、その間に新聞の第1面に踊った陰惨な事件(宮崎勤事件、地下鉄サリン事件や池田小事件など)に係る裁判の様子を夫が描いているからです。
 事件そのものを映画にするよりも、こうして法廷画家という視点から裁判の様子を描くという客観的な手法をとることにより、返って当時の雰囲気がまざまざと思い浮かんできます〔それに、子供を巡る事件の裁判をスケッチしているシーンから、子供を亡くした夫の気持ちも推測出来ようかというものです!〕。

 加えて、妻の兄(寺島進)が不動産屋であるとか、二人の両親が離婚していて二人は母親(倍賞美津子)とだけ付き合っているといった点にも、時代の雰囲気は如実に現れていると思います。

 要すれば、こうした厳しい社会の中置かれている夫婦が、ぬるま湯的な間柄になりかけたときに、妻の精神障害によって突然ギリギリの状況に落とされながらも、夫のソフトな接し方と、妻の努力(尼寺の本堂の天井画を描くというファンタジックな出来事!)とで、その絆を回復するという、様々な要素を実にバランスよく塩梅した非常によく出来た映画だな、といたく感動した次第です。
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ミスト

2008年06月08日 | 邦画(11年)
『ミスト』を見てきました。

 この映画は、人間の意思を前面に出しすぎると(結果を求めるということで“実”でしょうか)、ひたすら神にすがる信仰(“虚”でしょう)に及ばない、ということを暗に言っているのではないかと思えました。

(1)全般について
 この作品については、Yahooの「作品ユーザーレヴュー」などを見ると、批判的な感想が随分と掲載されているものの、逆に絶賛する映画評論家も多いようです。
 例えば、
a.前田有一氏……90点
・この映画は、「必見の衝撃作であ」り、「まぎれもない傑作」で、「一度は見ておくことを強くすすめたい」と、短い文章の中で3度も絶賛の言葉を重ねています。
・特に、「本作は、原作とは異なる結末を持つ」が、「この結末は凄まじいなんてものじゃない。もちろん、原作をはるかに超えている。それは、インパクトの意味で凌駕したというだけでなく、テーマがはっきりしたという点で優れたものと私は評価している」ということで、結末の描き方を一番に評価しています。
・前田氏のこの評は、総じて褒め過ぎではないかと思えるところです。

b.“つぶあんこ”氏……92点
・「良かれと思ってやった行為が全て裏目に出てしまう、徹頭徹尾の底意地の悪さ、人が思い込んでいる正義や善意など、見方を変えれば独りよがりでしかないと突きつける展開のいちいちは、あまりに憎らしく秀逸」だとし、「全てが意地悪く計算され尽くした、手堅く入念な作り込みが素晴らしい」と述べていますが、私としてはその見解に賛成です。

c.粉川哲夫氏……四つ星(最高が五つ星)
・「この世の終わりのようなパニックが起こったとき、集団がどう動くかが、実によく描かれている。しかも、この20年あまりのアメリカで起こったことを頭においてこの集団の動きを見ると、なおさら面白い。ここに登場するスーパーマーケットは、まさにアメリカ合衆国の縮図だ」との見解には賛意を表します。

(2)ラスト・シーンについて
a.評論家の見解は、この映画全般についておおむね高く評価しており、特に異を立てる必要はないと思われます。

b.問題は一にかかってラストシーンにあります。
・Yahooの「作品ユーザーレヴュー」を見ると、「なんとも後味の悪い作品でした。「観なきゃ良かった」という思いでいっぱいです。最後の最後に奈落の底に突き落とされたようで観ていて辛かったですね」とか、「途中まではいろいろな映画のパクリを散りばめて、まあそれなりに面白かったが、最後がまったくいただけない」、「私の4つくらい離れた席で鑑賞していた人が『衝撃のラスト』を観て漏らした言葉。「え~ うそぉ~....」。私も声こそ出さなかったけれど、同じように思っていました」といった感想で溢れかえっています。

・要するに、この映画を評価しない一般の人たちは、ラスト・シーンに大きな問題があると言っています。逆に、この映画を高く評価する人たちは、上記イからもおわかりのように、このラスト・シーンの描き方を絶賛するのです。

c.物語は、あらまし次のようです。
 主人公たちが、湖の近くのスーパーマーケットで買い物をしているときに、突然あたり一面濃い霧に覆われてしまい、暫くするとその中に異生物(「グリーンフィールズ」に出てくるような巨大な怪物など―どのSF映画でも似たような怪獣が出てくるものだなと思いました―)が潜んでいることがおぼろげに分かり、次々に人が襲われていきます。スーパーの中にいる人々は、なんとか異生物の侵入を防いでいるのですが、いつまで防護できるか危うくなって来ます。
 瀬戸際に追い詰められると、人々は一定のグループを作り、分派行動に走りだします。
 その中の弁護士を中心とするグループ(いわば知性派)は、そんな異性物は存在するはずがないとして早い段階で外に出てしまいますが、おそらく彼らの襲撃にあって全滅してしまいます(映画には映し出されませんが)。
 狂信的なキリスト教徒の女性を中心とするグループ(いわば狂信派)は、これは神の怒りだから、いけにえを捧げつつ神に祈るしかないと主張します。 
 3番目が主人公を中心とするグループ(いわば行動派)です。彼らは、座して死を待つよりもなんとか外部との接触を図って救援を頼もうとします。、そこで、スーパーを出てその前の駐車場にある車まで辿りつき、外部への脱出を図ります。ですが、ガス欠で車が途中でストップしてしまいます。

d.ここからが問題なのです。このままだと異生物に発見されて殺されてしまう、それよりも潔くここで死のうということになるのです。ところが、主人公が持っているピストルには弾丸が4発しかないにもかかわらず、車に乗車しているのは全部で5人。そこで、主人公は、買い物に連れてきていた自分の息子を含めて4人を射殺して(それぞれの同意の下に)、自分も別の手段で死のうと車の外へ出ます。そのとき、霧の中から現れたのが、救出に来た軍隊だったというわけです。
 要するに、何もせずに狂信的な女性のいうとおりにスーパーの中で待っていれば、あるいはこの軍隊に救された可能性が高いのです。自分を過信したがために、最悪の結果を招いてしまったということになるのでしょう。

e.初めは私も、このシーンを見て怒りに駆られました。確かに、ガス欠の車の中でジッとしていれば異生物に襲われる可能性があるかもしれません、だとしても、あくまでも生き残る可能性を求めて、外に出て皆で何か方法がないか探す努力をするのではないか、1%の可能性でもあればそれをトコトン追及するのではないか、それをせずにいとも簡単に自裁してしまうなんて考えられない、異生物に殺されるよりも潔く自裁すべきだとアメリカ人は考えるのだろうか、こんな映画は駄目な映画ではないか、などと思いました。

f.しかしながら、暫くすると考えが変わりました。最悪の事態の中でも生き抜く方策をあくまでも英雄的に求めるというのは、従来からのハリウッド映画のお馴染みのパターンで、そんなものをここで見せられても、結局はナーンダということになってこの映画は簡単に忘れられてしまうだろう、それよりも、こうした終わり方をして、自分の意思だけを頼りに出来もしないことを追求するのは問題が多いということを観客に訴えるという方法もあるのではないか、特に対テロ戦争の泥沼に入り込んでいるアメリカにおいては、こうした映画の持つ意味は大きいのではないのか、などです〔“実”(救出→民主主義国家の樹立)を求めて“虚”(信仰→イスラム原理主義)を倒して行動しても―3番目のグループの一員が狂信的な女性を射殺してしまいます―、結局は空しい結果(→泥沼化した対テロ戦争)しか得られない、ということになるのでしょうか〕。
 観客の方も、賛否はともかく、主人公たちはどうすべきだったのか、これでよかったのかといつまでも考え続けることになるでしょう。

g.そうしてみると、初めは何をいっているのかと思った前田氏の次のような評も、一定の意味があるのではと思えてきます。「『ミスト』を見ると、観客も映画を作ってきた人々も、神に対しいかに傲慢であったか気づかされる」のであって、「神からみれば人間などとるに足らぬ存在であ」るにもかかわらず、「本来、神にしか許されない裁きを、キミたちは無意識のうちにおこなっていたんだよと、この映画は突きつけてくる」と述べています。
 「裁き」に対応することが映画で描かれていたのかどうか問題はあると思いますが〔さらに、「我々は」と書けば済むところを、「観客も映画を作ってきた人々も」などとわけのわからない表現もみられますが〕、映画の言わんとしているところを鋭く突いているのかもしれません(同じ原作者の「グリーンマイル」―今回の映画と同じ監督がこの作品も映画化しています―を読むと、黒人死刑囚のコーフィーがキリストの生まれ変わりのごとくに描かれていますし!)。
 加えて、劇場用パンフレットを見ると、狂信的キリスト教徒役のマーシャ・ゲイ・ハーデンが、「私のセリフは全部、聖書からの引用です」と述べているところからも、こうした解釈があるいは的を得ているのかもしれません。

h.ただし、前田氏が悪乗りして、「キリスト教の発想こそが、民主的な司法制度、とくに懲役というシステムを発明した」とか、「人間が犯した罪を人間ごときが裁いてはいけない=結局のところ神しか裁けないのだから、悪いことをした奴はとりあえず一時的に隔離した上で、あとで社会復帰させてやりましょう(許してやろう)、というわけだ。こういうアイデアは一神教の宗教社会の中でこそ生まれ、容認される」といった単純なお説教を述べるに至っているのは問題ですが。
 こういう発想に対する反論はネット上でいくつも見られますからここでは取り上げませんが(例えば、http://blog.livedoor.jp/taka0219j/archives/2006-10.html「懲役刑の歴史」)、映画評の中に特定の宗教的信念を紛れ込ませている感じがして嫌悪感を持ちました〔あるいは、西欧優位の変形と見るべきで、取り上げるに値しないのかもしれませんが〕。

i.なお、S・キングの原作を見てみると、最後の文章は次のようです〔ハヤカワ文庫『闇の展覧会』所収〕。
 「これから寝にゆく。その前にまず、息子にキスをして、彼の耳に二つの言葉をささやく。……そのひとつは希望」。
 このお話全体は、最後にたどりついたレストランで主人公が書いた「記録」ということになっています。末尾に直前のところに、「カウンターの上に置いていくつもりだ。たぶんだれかが見つけて読んでくれるかもしれない」とありますから、そしてそれ以上書き継がれてはいませんから、主人公たちは結局は生き残れなかったと推測されます。
 にしても、ラストが「絶望」そのものの映画とは180度異なる結末と思えます。
 なお、末尾に近い所に、車に「乗っているのは4人。もしその必要が襲ってきたら、私自身の分は何かべつの方法を見つけ出すしかない」(P.375)とあり、原作でも映画の結末と同じことは想定していたと思われますが、逆に、「“私たちが目覚めたとき、ようやく州兵が救援にやってきた”というような結末はない」(P.385)とも書いてあり、州兵どころか戦車で登場する映画の結末とは大違いではあります!
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