映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

はじまりは5つ星ホテルから

2014年02月28日 | 洋画(14年)
 『はじまりは5つ星ホテルから』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)「Bunkamura25周年記念」と銘打たれ、かつまた予告編を見て良さそうだと思って、映画館に行ってきました。

 本作はイタリア映画で(注1)、世界各国にある5つ星ホテルについて覆面調査をしている女性(注2)を描いた作品です。

 主人公のイレーネマルゲリータ・ブイ)は40歳の独身ですが、職業柄絶えずアチコチ旅行をしていて、自分の家にいる時間が限られたものとなることもあり(注3)、懇ろな関係にある男性は、元恋人のアンドレアステファノ・アコルシ)くらい。
 ただ、今でも彼とは親友の付き合いがあり、もう一回やり直してもいいかなというところまで行きます。



 でもその一方で、アンドレアに、現在付き合っているファビアーナが妊娠したと言われます(注4)。さあイレーネはどうするでしょうか、………?

 独身でいることにそれほど問題を感じていないながらも、様々な出来事に遭い、このままでいいのかと動揺する中年の女性を描いており、登場する男性の影が薄いものの、まずまずの仕上がりの作品ではないかと思いました(注5)。

(2)本作には、イレーネとそれまで関係を持っていなかった2人の人物が登場します。ですが、2人とも、ちょっと物語にアクセントを付けるだけでいとも簡単に画面から消えてしまうのは、全体として盛り上がりが少ない本作ですから、少々残念な気がしました(とはいうものの、本作は、ちょっとしたイレーネの心の動揺を描くのに巧みであり、そんなにくっきりとしたストーリーは不要に思えるのもまた確かなことですが)。

 一人は人類学者のケイト。ベルリンの「ホテル・アドロン・ケンピンスキー」のスパで出会います。イレーネが「自分の人生の9割はこんなホテルで過ごしている」と言うと、ケイトは「ここには真の生活はない、苦労や面倒がないとダメ」と答えたりします。そこから話が弾み、お互いに独身でもあり意気投合し、ケイトが「仕事を終えたら街に出よう」というので待っていたところ、いつまでたっても現れないのでイレーネがフロントに尋ねると、彼女は心臓麻痺で急死したとのこと。



 何しろ、その晩のケイトの仕事というのは、TVに出演して、専門の「異常性欲文化」を語ることなのですから、急死させなくとも、いくらでも話を発展させることができたように思えるところです。

 さらにイレーネは、モロッコのマラケシュにあるホテル「パレ・ナマスカ」(注6)で、感じの良い中年男性の宿泊客と食事をとりますが、職業を訊かれ、正体を明かすわけにもいかずに「タイルのバイヤー」と偽るものの、すぐに嘘がバレ、その男性から「自分はベテランの愛妻家でね」と突き放されてしまいます。



 同じ頃、アンドレアは、ファビアーナの妊娠で産院に一緒に検診に行ったりしていますから、話としては、イレーネの方も、中年男性(もう少し中身のありそうな男の方がいいでしょう)との間で何か起こる方が、ストーリーに起伏ができて面白くなると思うのですが、どうでしょう?

(3)また、イレーネは覆面調査員ですから、調査対象のホテルに行くと、エントランスやフロントの対応から始まって、いろいろな点を密かにチェックします。
 映画の冒頭では、イレーネはパリの「オテル・ドゥ・クリヨン」に行きますが、案内されたホテルの部屋のあちこちで白い手袋をつけて埃の有無を調べたりします。その際には、持参したパソコンの画面に示されているチェック表の項目を一つ一つ確認していき、その上で当該ホテルのランクを判定するのです(注7)。

 とはいえ、世界のホテルを相手にするといっても、5つ星ホテルというのがそんなにたくさんありそうもないと思えることから(注8)、イレーネのように頻繁に調査に出かけていれば、すぐに調査先は尽きてしまうのではないかとか、最上級のホテルの最上級の客室(スイート)に女性一人で宿泊したら、直ちにホテル側に覆面調査員ではないかと怪しまれてしまうのではないかといった疑問点がわいてきます(注9)。

 でも、そんなことはどうでもいいことでしょう。
 なによりも、映画で次々と描かれる5つ星ホテル内の様子や、ホテルが設けられている場所の景観は、ため息が出るほど素晴らしいものがあります。
 まあ、この映画は、ストーリーもさることながら、ホテルも登場人物だとみなして(注10)、そういったゴージャスな映像を見るのも楽しみといえるでしょう。

(4)渡まち子氏は、「イタリアを代表する演技派女優マルゲリータ・ブイが、悩めるヒロインを時に華麗に時にコミカルに好演し、さわやかな後味が残る佳作となった」として65点をつけています。



(注1)原題は「Viaggio sola」(一人旅)。ちなみに、英題は「Five Star Life」。

(注2)劇場用パンフレットによれば、ザ・リーディングホテルズ・オブ・ザ・ワールド(LHW)の覆面調査員という設定。

(注3)仕事がない時イレーネは、音楽家の夫を持つ妹の家に行っていることが多いようです。特に、その夫婦の二人の子供たちと仲がよく、妹のシルヴィアファブリツィア・サッキ)から「老後どうすんの?」と迫られた際には、「姪に面倒を見てもらう」などと答えたりします。
 でも、その子供たち二人を連れて南イタリアのホテル「ボルゴ・イグナシア」に行った時には、子供たちが「早く家に帰りたい、ママに会いたい」と行っているのを耳にして、イレーネはげんなりしますが。

 なお、この妹・シルヴィアについては様々に人物造形がなされており(会計士であり、また夫との関係がセックスレスであることも)、映画ではイレーネよりもむしろ活き活きとしている感じを受けます。

(注4)劇場用パンフレットに掲載の監督インタビューで、マリア・ソーレ・トニャッツィ監督は、ファビアーナについて、「アンドレアは、知らない女性と一夜を過ごし」云々と語っていますが、映画の中では、アンドレアは「3回会っただけで子どもなんて」と言いますし、彼女はギャラリーらしき店で働いており、そこにイレーネも様子をうかがいに行ったりしますから、「知らない女」ではないと思うのですが?
 他方、アンドレアですが、子どもを持ちたくないとしながらも、ファビアーノから「一人で産むから構わない」と言われると、産院に近い場所に家を探したりするなど(これにイレーネが付き合います)、どうもはっきりしない描き方です。

(注5)本作に出演するのはこれまで見たことがない俳優ばかりながら、主演のマルゲリータ・ブイは、覆面調査員という特殊な仕事に就いているさっそうとした女性をなかなかうまくこなしているように思います。

(注6)ここはなかなか豪華なホテルで、クマネズミも行ってみたいなと思いましたが、例えば、1ベッドルーム、プール付きのスイーツの部屋で1泊13,200MAD(およそ16万円でしょうか)といったところです!

(注7)スイスのホテル「グシュタード・パレス」に行った際、イレーネは、笑顔でフロントが対応するか、2分以内でチェックインの手続きが終わるか、などをチェックします。
 また、中部イタリアのホテル「フォンテヴェルデ・タスカン・リゾート&スパ」では、イレーネは、ルームサービスについて、部屋に届けられるまでの時間や、料理の温度などをチェックしたり(ワインの温度は2℃高く、スープは40℃に足りない!)、テラスのレストランで、テーブルの上に並べられているグラスがきちんと並べられているかどうかまでチェックしたりします。
 挙句は、若いカップルに対する応対がまずいとしてホテルのランクを下げる旨をイレーネが通告すると、支配人は「そんなことで格下げに?」と驚きます。

(注8)上記「注2」で触れた記事内容からすれば、400強あるグループ内のホテルの中の高水準のものと推測されます。
 実際には覆面調査員は、その調査結果を支配人に通告するのですから、ランクの下のホテルにも調査に行って、ランクを上げるための改善点を指摘するようにした方が、グループ全体の評価が高まるのではないかと思われます。

(注9)本作では、調査が終わると、イレーネは身分を明かしてホテルの支配人と面接し、調査結果を告げているようです。ただ、そんなことをすれば、密かに写真を撮られて、グループに加盟するホテルに送られてしまうのではないでしょうか?

(注10)本作には、このエントリで触れた6つのホテルの他に、最後に上海の「ザ・プリ・ホテル・アンド・スパ」も登場します(イレーネは、貯めたマイレージを使ってそのホテルを訪れます)。



★★★☆☆☆



象のロケット:はじまりは5つ星ホテルから
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ウルフ・オブ・ウォールストリート

2014年02月25日 | 洋画(14年)
 『ウルフ・オブ・ウォールストリート』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作は、レオナルド・ディカプリオが主演で、さらに今度のアカデミー賞において、作品賞、主演男優賞、脚色賞など5部門にノミネートされているとのことなので、映画館に出かけてみました(注1)。

 ディカプリオが演じるジョーダンは、ブローカーの免許を取得して証券会社のトレーダーになったものの、出勤したその日がブラック・マンデー(1987年)で、直ちに失業。
 ですが、田舎のしがない証券会社(注2)に再就職してから、持ち前のセールスの才能を縦横に発揮し、ついには、仲間のドニージョナ・ヒル)とともに株式仲介会社を設立するに至ります(注3)。



 ジョーダンのもとには莫大なお金が転がり込むようになりますが、私生活の方では、それまで一緒に暮らしてきたテレサと別れてナオミマーゴット・ロビー)と結婚。
 しかしながら、順調にいっているように見える彼の事業に対して、FBIの捜査の手が延び、そして、………?

 なんだか『華麗なるギャッツビー』におけるド派手な生活ぶりと、前々回取り上げた『アメリカン・ハッスル』における詐欺とが合わさった作品という印象を受けるものの、ディカプリオが3時間の長尺の映画に殆ど出ずっぱりの怪演を見せてくれるので、なかなか見応えがあります(注4)。



(2)映画の冒頭では、株を扱うブローカーたちはライオンのようだとして、ジョーダンらが設立したストラットン・オークモント社のフロアーをライオンが実際に闊歩しているCMが映し出されます。
 次いで、会社がどんどん大きくなって、社員たちが馬鹿騒ぎしている様子が映し出されます。会社の中で大勢のブローカーたちが、ヘルメットを被った小人を板に描かれた的に投げつけるゲームに興じていて、ジョーダンが、的に当てたら2万5千ドル与えると宣言します。
 また、月末に2870万ドルの手数料が入ったとしてお祭り騒ぎをしますが、一方で、楽隊やらストリップガールたちが乱入してくると思えば、他方で女性の従業員に、髪の毛を剃れば1万ドルやる彼がと言うと、彼女は豊胸手術にお金を使うと言って丸刈りに同意するのです。
 なにしろ、ジョーダンは26歳で4900万ドル稼ぐというのですから!

 ですが、いったいどのようにしてジョーダンらがこのような途方もないお金を稼いでいるのか、そしてそのやり方のどこに違法性があるのかについては、映画では余り十分に描かれていません(注5)。ですから、FBIが彼らの会社に乗り込んできてジョーダンらを逮捕しますが、ぼんやりした理由しかわかりませんでした。
 とはいえ、この映画はそれらの方面は余り焦点を当てずに、むしろ、ジョーダンらが稼いだお金をどのように使ったのかを描く方に焦点を当てているように見受けられます。
 上で申し上げたように、皆でド派手な馬鹿騒ぎをする一方で、私生活面では、大変な豪邸に住み、フェラーリを乗り回し、専用ヘリコプターや豪華クルーザーを持っています。

 加えて、本作では、ジョーダンらがドラッグを使うシーンがやたらと映し出されます(注6)。
 ただ、それによる精神・身体の荒廃が強調されるのではなく、むしろ強力なドラッグを使うことによって、気分が高揚し、まるで金儲けのツールとして酷く有用といっているような感じさえ見る者は受けます。

 本作はむろん道徳宣揚作品ではありませんから、これらはこれでかまわないとは思うものの(注7)、ドラッグに関してだけは、映画『フライト』で覚えた違和感(注8)をこの映画でも持ってしまいました。

(3)渡まち子氏は、「(主人公の)ジョーダン・ベルフォート以上に、70歳を超えたマーティン・スコセッシのバイタリティを感じる大作エンタテインメントだ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「見所があるからダメ認定はしない。しかし、ウリである主人公のハチャメチャ人生が、私にいわせればまったく平凡でつまらない生き方であること。その興ざめ感が作品の魅力をそいでいるのは残念なところである」として60点をつけています。
 相木悟氏は、「負のエネルギーみなぎる3時間に終始圧倒される、異様な映画体験であった」と述べています。
 柳下毅一郎氏は、「一瞬たりとも休まず観客を笑わせつづけるブラック・コメディーは、我々の生のありかたを問いかける恐ろしいホラー映画でもある」と述べています。



(注1)本作は、実在する本作の主人公ジョーダン・ベルフォードが書いた回想録をもとに映画化された作品です。

(注2)その会社はペニー株を取り扱っていますが、手数料が50%という点にジョーダンは魅力を感じます。
 持ち前のセールスの才覚で、電話一本であっという間に4,000ドル売り上げてしまい、田舎の証券会社の同僚から喝采を受けます。

(注3)ドニーは、家具(Children's furniture)の会社に勤めていて、ジョーダンと同じマンションに住んでいましたが、あるときレストランの駐車場でジョーダンの乗るジャガーを見て驚き、ジョーダンに収入はどのくらいあるのかと尋ね、ジョーダンが「先月は7万2千ドルだ」と言って給与明細(pay stub)を見せると、直ちに勤務先を辞めてジョーダンの部下になることを決めてしまい、以来、ドニーはジョーダンの忠実な相棒となるわけです。

(注4)最近では、ディカプリオについては『華麗なるギャッツビー』で見ました。
 その他に、本作では、ジョーダンの相棒のドニーにジョナ・ヒルが扮しています(彼は『マネーボール』で見ました)。
 また、ジョーダンが最初に勤務した証券会社の上司マークマシュー・マコノヒーが演じています(彼は『ペーパーボーイ』で見ました)。
 ちなみに、マークは、出勤してきたジョーダン(その時22歳)をランチに誘って、昼間からマティーニを頼んだりドラッグを吸ったりしながら、「常にリラックスすること」と「コカイン」とがこの世界で成功するコツだとアドバイスします(前者については、血の巡りを良くするために、朝とランチ後に“jerk off”する必要があると強調します!)。



(注5)「Pump and Dump」といわれる株価操作の手法によっているのではないかと思われます。

(注6)特に、映画ではクエイルード(quaalude)といわれている鎮静催眠剤(向精神薬)が、なかなか手に入れ難いものとしてジョーダンらに愛用されています。
 映画の中でジョーダンが、クエイルードについて、「この薬は、最初は不眠症の主婦向けに処方されていたが、誰かが、最初の15分眠気を我慢するとハイになることを見つけ出すとすぐに広まり、しかし政府が禁止したために、残っている量には限りがある」などと説明します(さらに、この記事が参考になるかもしれません)。

(注7)逆に、4900万ドルもの大金を稼いでも、その使い道が本作で描かれているものくらいであれば、大したことはないな、あっと驚くようなものはなく、どれも程度問題にすぎないのでは、と思えてしまうのですが、あるいは、そんな風に思えてしまうのも、大金を得るどころか目にしたこともない細民のヒガミ根性がしからしめるものにすぎないのかもしれません!

(注8)このエントリの(2)を参照。『フライト』では、「コカインが自然の感じで登場する」のです。



★★★☆☆☆



象のロケット:ウルフ・オブ・ウォールストリート
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大統領の執事の涙

2014年02月22日 | 洋画(14年)
 『大統領の執事の涙』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)本作は、アイゼンハワーからレーガンまで7人のアメリカ合衆国大統領に仕えた黒人執事の半生を描いた映画であり、アメリカで大ヒットしたということなので、映画館に行ってきました。

 映画の冒頭では、主人公のセシル・ゲインズフォレスト・ウィテカー)が大統領執事選考の面接に呼び出され、ホワイトハウス内にある事務室のドアの前に置かれた椅子に座っているところが映し出され、次いで彼の回想シーンとなります(注1)。
 時は1926年で、舞台はジョージア州メーコンの綿花農園。
 セシルは両親とその農園で働いていたところ、あるとき、彼の母親(マライア・キャリー)が、彼の目の前で農園主によって小屋に連れて行かれ強姦されます(それによって彼女は正気を失ってしまいます)。この行為に対し、父親は何もできませんでしたが、セシルの促しで農園主に抗議の素振りを見せたところ、いともあっさりと撃ち殺されてしまいます。
 孤児同然となったセシルを、農園にいた白人の女性・アナベス(農園主の母親?:ヴァネッサ・レッドグレーヴ)は哀れんでハウス・ニガー(家働きの使用人)にしてくれ(注2)、色々仕事を仕込みます。
 ですが、セシルは、この農園にいたら早晩農園主によって殺されてしまうと思い、農園を脱走。
 といっても、外の世界は、食べ物も寝る場所もなくて農園よりも酷く、思い余ってホテルの窓ガラスを破って中に入り空腹を満たしますが、ホテルの執事のメイナードに見つかってしまいます。
 危うく縛り首になるところ、メイナードは逆にセシルをそのホテルの給仕にしてくれます。
 さらに、メイナードが、ワシントンD.C.にある高級ホテル(エクセルシオール)の給仕としてセシルを推薦してくれたことから、セシルの前途が開かれてきます。
 1957年、そのホテルにおける仕事の仕振りに目を留めたホワイトハウスのスタッフが、彼を呼び出したところで冒頭の場面につながっていきます(注3)。
 さあ、大統領府で勤務することになったセシルには、どんな風に各大統領が見えたのでしょうか、そして父親の出世に対して余り喜んだ顔をしない長男との関係は、………?

 冒頭のクレジットに「アメリカ大使館後援」とあり、実際にも、キャロライン・ケネディ駐日大使の小さいころの様子が描かれたり(注4)、オバマ大統領の選挙演説がそのまま画面に流されたりもして(注5)、何らかの政治的な背景があるのかなと思わせるものの、主人公セシルの家族関係を描く中で、南北戦争の頃にしかありえないと思っていたことが1926年当時でも行われていたことが描かれたり(注6)、黒人差別撤廃運動の流れが取り扱われたりしており、アメリカの現代史を簡単にお浚いするにはうってつけの作品といえるかもしれません。

 主演のフォレスト・ウィテカーは、『レポゼッション・メン』で見ましたが、本作では、「相手の心を読んで察する」とか「空気になる」という執事の心得を会得しているセシルを物静かに見事に演じています(注7)。

(2)本作は、実話に“inspire”された物語とされていますが、劇場用パンフレットに掲載された越智道雄氏のエッセイ「執事の涙、オバマの涙」によれば、映画で描かれる執事セシル・ゲインズのモデルとなったユージン・アレン氏は、トルーマンからレーガンまで8人の大統領に仕えているとのこと。また、ユージン・アレン氏には子どもは一人しかおらず、その長男は「国務省で穏やかな人生を歩んだ」とのこと(注8)。

 本作では、トルーマンの次のアイゼンハワーの時にセシルはホワイトハウスで勤務することになりますが(注9)、こうしたのはおそらく、トルーマンには黒人差別撤廃運動に関係する事績が見当たらず、他方、アイゼンハワーは、登校する黒人生徒を軍隊を使って守る措置をとったためではと思われます(リトルロック高校事件)(注10)。
 ケネディ大統領についても、キューバ危機ではなく、公民権法案の議会提出に際しての演説が描かれます。

 とはいえ、本作のフィクションの部分で一番大きなものは、セシルの子どもの設定でしょう。特に長男のルイスデヴィッド・オイェロウォ)は、ユージン・アレン氏の長男とは異なり、南部の大学に行ってから黒人差別撤廃運動にのめり込んでいきます(注11)。
 こうした作りのフィクションによって、シット・イン運動やフリーダム・ライダーズ運動とか、はてはブラックパンサー党といったものまで、黒人差別撤廃運動が本作において具体的に描き出されるようになったものと思われます(注12)。
 加えて、「父さんは世の中を良くするために白人に仕えている」とルイスに語るセシルの微温的ながらも地に足の着いた姿勢も浮き彫りになるでしょう(注13)。

 本作は、ドキュメンタリー作品ではなく劇映画ですから、いくらでもフィクションが取り入れられるのは当然のことです。そのこと自体をとやかくいうべきではないと考えます。
 ですが、こうしたフィクションの作りによって、映画全体が教科書的なもののなってしまったのは否めないのではないでしょうか?黒人差別撤廃に関する動きが、ホワイトハウスの内外で次々に起こり、それが本作で綴られていくのですから、まるで歴史年表を見ている感じにとらわれます。
 本作を制作したリー・ダニエルズ監督(注14)は、劇場用パンフレットに掲載された監督インタビューの中で、「これは公民権運動の物語である以上に、父と息子の物語だ」と述べていますが、逆に「父と息子の物語」という枠組みの中で「公民権運動の物語」に焦点を当てて描いた映画ではないか、というように思えてしまいます(注15)。

(3)渡まち子氏は、「白人にとって都合のいい黒人を演じることで家族を守るしかなかったセシルの複雑な心情を、フォレスト・ウィテカーが静かに熱演している」として70点をつけています。
 また、前田有一氏は、「現実主義に生きて実際に家族を守り続けた父と、理想に燃えて家族を危険にさらしている息子の対照的な価値観は、物語をエキサイティングに彩る」が、「もしかしたら、意外にもこの映画があなたの価値観をひっくり返してくれるかもしれない。少なくとも、違う意見にも傾聴の価値があることは、説得力を持って教えてくれる。その意味で、奴隷制とはあまり縁のない日本人観客にも楽しむ余地がある映画といえる」として65点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「アメリカ史における黒人社会の変転を学びながら、普遍的な家族ドラマが心に響く感動作であった」と述べています。



(注1)ここで、マーチン・ルーサー・キング牧師の「闇は、闇で追い払うことはできない。光だけがそれを可能にする。憎しみは憎しみで追い払うことはできない。愛だけがそれを可能にする」という言葉が紹介されます。

(注2)セシルを助けたメイナードは、「ハウス・ニガーと言うな、それは白人の言葉だ」と言います。

(注3)それまでにセシルは、ホテルで出会ったグロリアオプラ・ウィンフリー)と結婚し、ルイスチャールズの二人の息子を設けています。



(注4)ケネディ大統領(ジェームズ・マースデン)の一家と執事たちとの初対面の際に、キャロラインが落とした人形をセシルが拾ってあげたり、キャロラインにセシルが絵本を読んだりする場面があります。



(注5)さらには、ジョンソン大統領(リーヴ・シュレイバー)のベトナム戦争とか、ニクソン大統領(ジョン・キューザック)の「ウォーターゲート事件」とかが、簡単ながらも取り扱われたりします。

(注6)黒人が縛り首にされている画像が2度ほど出てきたりします。

(注7)本作には、ほかにニクソン大統領役のジョン・キューザック(最近では、『ペーパーボーイ』で見ました)や、レーガン大統領の夫人役としてジェーン・フォンダこのエントリの(2)で若干触れました〕、ケネディ大統領役のジェームズ・マースデン(『運命のボタン』で見ました)、セシルの母親役のマライア・キャリー(『プレシャス』に出演)などが出演しています。

(注8)本作を巡るフィクションと事実との関係については、より詳しくは、例えばこのネット記事を参照して下さい。例えば、1926年の綿花農園のエピソードはフィクションだとされています。

(注9)ユージン・アレン氏は1952年からホワイトハウスで勤務しますが、セシルは1957年から。

(注10)本作でも、「大統領の英断だった。はじめて黒人を守るために軍隊が使われた」と強調されます。

(注11)次男のチャールズは、親のすすめる大学に入り、その後ベトナム戦争で戦死するのです(ちなみに、上記「注8」で触れたネット記事によれば、ユージン・アレン氏の長男もベトナム戦争に従軍したものの、無事に帰還したとのこと)。

(注12)言うまでもありませんが、シット・イン運動などの黒人差別撤廃運動がフィクションだと申し上げているわけではありません。

(注13)家に戻ってきたルイスが、『夜の大捜査線』のシドニー・ポワチエのことを「白人に受け入れられやすい黒人。外見は黒人だが中身は白人」などと言って貶したところ、セシルは頭にきて、「この家から出て行け」と怒鳴ってしまいます。その不和は18年後まで解消されませんでした。



(注14)同監督は、傑作『ペーパーボーイ』を制作しました。
 つまらないことですが、劇場用パンフレットに掲載の監督インタビューで同監督は、デンゼル・ワシントンやウィル・スミスに主役を断られてと述べていますが、別のインタビュー記事では、「デンゼルは断ってないよ。オプラもそうだけど、僕らは日ごろから何か一緒にできないかと話をしている間柄だ」と述べています。
 なお、同インタビュー記事で、同監督は自身のことを「ゲイだよ」と述べています。

(注15)本作を見る前は、例えばケネディ大統領が、地下の秘密の通路(このエントリの「注11」を参照)を使って外に出てマリリン・モンローと逢引するのを執事がサポートする場面とか、クリントン大統領とモニカ・ルインスキーとの不倫現場を執事が覗き見するシーンでもあるのかなと期待したのですが、本作ではそういう視点はマッタク受け入れられません!



★★★☆☆☆



象のロケット:大統領の執事の涙
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アメリカン・ハッスル

2014年02月14日 | 洋画(14年)
 『アメリカン・ハッスル』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作は、今度のアカデミー賞にノミネートされているというので(注1)、映画館に行ってきました。

 映画の冒頭は、1978年4月28日、ニューヨークにあるプラザホテル内の一室。
 主人公のアーヴィンクリスチャン・ベール)が、ハゲを隠そうと、鏡を見ながらヘアピースをつけたり、櫛を使ったり、スプレーをかけたりしています。身だしなみをよく整えてから隣室に入ると、ビデオ録画装置などを点検しているチームが待機中。そこへまずシドニーエイミー・アダムス)が、次いでリッチーブラッドレイ・クーパー)もやってきます。
 でも、どうもこの3人の関係はうまくいっていない感じ。
 アーヴィンが、シドニーとリッチーとの関係を暗に詰るようなことを言うと、リッチーは「彼女には全然触れてない」と言いながら、突然アーヴィンの髪の毛をいじくりまわします。



 アーヴィンは内心怒りながらも黙ってそれに堪え、「そんなことすべきじゃなかった」と言いつつシドニーがアーヴィンの髪を整え直します。
 リッチーは、「早くやろう」と言い、手にしたブリーフケースに金が詰まっていることを確認します。
 3人は、表面は親密な感じを出しながら他の部屋に入ると、そこにはニュージャージー州カムデン市のカーマイン市長(ジェレミー・レナー)とその連れが。
 席につくと、リッチーは「受け取っていただかないと、シークに対し失礼となります」と言いながら、足元に置いたブリーフケースを市長たちの側に押し出します。
 ですが、市長は危険を察知し、連れが「自分が上手くやるから」と言うのも聞かずに、「私はシークに会いに来ただけだ」と叫んでその部屋を飛び出してしまいます。

 一体どうしてこんなシチュエーションになったのでしょう?
 アーヴィングたちは何者なのでしょうか、市長をどうしようとしたのでしょうか?
 どうやら今回の作戦はうまくいかなかったようですが、彼らの企みは、果たして成功するのでしょうか、………?

 本作は、邦画の『カラスの親指』のようにコンゲームを描いた作品ながらも、1979年にアメリカで起きた「アブスキャム事件」といわれる収賄汚職事件を題材にしたストーリーがなかなか良く出来ており(注2)、おまけに出演者がとびきり豪華ときていますから、十分楽しめました。

 なにしろ、バットマン・シリーズのクリスチャン・ベール、『世界にひとつのプレイブック』で昨年のアカデミー主演男優賞にノミネートされたブラッドレイ・クーパー、『ザ・マスター』で昨年のアカデミー助演女優賞にノミネートされたエイミー・アダムス、主演した『ハート・ロッカー』が2009年のアカデミー作品賞を受賞したジェレミー・レナーなどが出演しているのですから(注3)、面白くない訳がありません

(2)映画冒頭のエピソードに至る経緯やその後の出来事を描き出すことが本作の中心となっていて、それらを明かしてしまうと本作の面白さが消えてしまうので、続きは是非映画館でお楽しみいただきたいと思いますが、ただそれでは埒が明きませんから、少しばかりネタバレしましょう。

 主人公のアーヴィンは、冒頭のエピソードからもある程度わかるように、外見を至極大事にする詐欺師ですが、プールパーティーで出会ったストリップガールのシドニーに惚れ込んで(注4)、詐欺のパートナーにします。



 ただ、シドニーは、アーヴィンに妻・ロザリンジェニファー・ローレンス)とその連れ子・ダニーがいて別れられないのを知ると、後から仲間に加わった(?)リッチーの方に心を動かします。でも、リッチーの方にも婚約者がいることがわかったりして、話はこんがらがってきます。

 ここで鍵となるのがロザリンでしょう。彼女のことをアーヴィングは「the Picasso of passive aggressive karate」だと言い(注5)、情緒が酷く不安定で(注6)、本作の中でも色々なことをしでかしアーヴィングらが振り回されます。



 このように本作は、複雑なコンゲームを描いているのみならず、人間関係も入り組んだものになっていますから、最初のうちは状況を把握しづらいのですが、その霧が次第に晴れてくると、逆にその面白さに引き込まれてしまいます。

(3)本作はコンゲームを取り扱っている作品であり、丁度今、佐村河内守氏の問題(注7)が騒がれていることからも、両者の類似点に興味が湧きます(注8)。

 まず、風貌の点からすると、サングラスをかけ身だしなみに注意を払うという点で、佐村河内氏とアーヴィンは似ているように思われます。
 また、出自をアピールする点(一方は原爆2世、他方はイギリス貴族)も似ている感じです。
 さらに、両者とも随分と大きな話になっています〔一方はNHKでも大きく取り上げられ全国的な規模の話になりましたが(米週刊誌『タイム』の2001年9月15日号にも取り上げられましたから全世界的な規模といえるかもしれません)、他方もアメリカ政界を揺るがす事件となりました〕。
 もっと言えば、一方は音楽が関係しますが、他方は、元々アーヴィンが手がけていたものには絵画方面の詐欺が含まれていて、両者とも芸術に関係しています。

 と言っても、両者の間にはかなり違いも見受けられます。
 なにより、佐村河内氏の問題には、今のところまだ官憲の関与はなさそうですが(注9)、本作の場合は、官憲が事件に深く入り込んでしまっています。
 また、本作の場合、シドニーという女性の役割が大きいのに対し、佐村河内氏の問題においては、女性の影はそれほど見えてきません(注10)。

 もうしばらくしたら、日本でも、今回の佐村河内氏を巡る問題が映画化される事態にでもなるのでしょうか?

(4)渡まち子氏は、「詐欺師とFBIが組んでおとり捜査作戦を遂行するエンタメ・サスペンス「アメリカン・ハッスル」。出演俳優の演技のアンサンブルが最高だ」として75点をつけています。
 前田有一氏は、「何かがおかしいのに、悪い奴が見あたらない。そんな現実感=リアリティこそが、私たちを落胆させる。だが、それでもこの映画を見た後に絶望感はない。それどころか、ほのかな希望すら感じさせる。だから「アメリカン・ハッスル」はすばらしい」としながらも55点しか付けていません。
 相木悟氏は、「まさに観る者を虚像テーマパークに誘い込み、人間の本質を笑い飛ばす一大エンターテインメントであった」と述べています。



(注1)2014年アカデミー賞において、本作は、作品賞、監督賞、主演男優賞(クリスチャン・ベール)、主演女優賞(エイミー・アダムス)、助演男優賞(ブラッドリー・クーパー)、助演女優賞(ジェニファー・ローレンス)、脚本賞、美術賞、衣装デザイン賞、編集賞にノミネートされています。

(注2)映画の冒頭で「実話を含む物語」とされます(「the following is loosely based on a true story」)。
 なお、タイトルにある "hustle" は、俗語で「詐欺」という意味で使われています(この記事を参照)。

(注3)その他に、『世界にひとつのプレイブック』でアカデミー主演女優賞を受賞したジェニファー・ローレンス、それにロバート・デ・ニーロ
 なお、クリスチャン・ベールは『ザ・ファイター』で、エイミー・アダムスは『人生の特等席』で、ジェニファー・ローレンスは 『ウィンターズ・ボーン』や『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』で、それぞれ見ました。また、ロバート・デ・ニーロは『陰謀の代償』や『トラブル・イン・ハリウッド』などで見ています(『世界にひとつのプレイブック』も映画館で見ているのですが、レビュー記事を書きませんでした)。

(注4)デューク・エリントンの「ジープス・ブルース」を二人で聴いたりします(この曲は本作のラストでもう一度流れます)。
 ちなみに、劇場用パンフレットに掲載の村尾泰郎氏のエッセイ「70年代のヒット曲が浮かび上がらせる、夢破れた者たちの人間模様」には、映画で流れる70年代ヒット曲のあれこれが巧みに解説されています。
 なお、シドニーは、クイーンズ・イングリッシュを巧みに操り、イギリスの貴族という触れ込みで詐欺を働きますが、冒頭のエピソードでもクイーンズ・イングリッシュを使っています。

(注5)意味するところがよくわかりませんが、アーヴィンは、ロザリンについて、相手の攻撃を受けて反撃に転じる空手のような性格だと言っているのかもしれません(例えば、点けっぱなしの太陽灯で火を出してしまったロザリンのことをアーヴィンは強く非難するのですが、ロザリンは、太陽灯は元々危険なもの、そんなものを家においておくほうが悪いと開き直ります)。そしてそれは、丁度、様々な世の中の動向の影響を受けて作風を変えていった、あるいは生涯に渡り何人もの女性を遍歴したピカソのようだ、ということなのでしょうか?

(注6)なにしろ、アーヴィンとロザリンの関係は壊れかけているのに、ロザリンは、「私と離婚したら、子どもの親権は自分がとるし、あなたの違法行為もバラす」などと言って離婚しようとしないのです(アーヴィンは、ロザリンの連れ子・ダニーを自分の子供のごとく溺愛しているのです)。
 なお、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」によれば、ロザリンを演じるジェニファー・ローレンスは、「ロザリンは躁うつ病で、感情の浮き沈みが激しい」と言っているとのこと。そうであれば、彼女が『世界に一つのプレイバック』で演じたティファニーと同じように、ロザリンは「双極性障害」を抱えているということになるでしょう(評論家・粉川哲夫氏も、この記事で同じように指摘しています)。

(注7)佐村河内氏の件については、2月12日に、彼の謝罪文が明らかになりました。
 そこでは、「(ゴーストライターの)新垣さんとの関係については、新垣さんが話しておられるとおりです。他にも、私の音楽経歴についても、大体新垣さんが話されたとおりです」とされていますから、実際の作曲行為をしていないことがはっきりとし、さらに耳の問題についても、「実は最近になって、前よりは、少し耳が聞こえるようになっています」とあることを踏まえれば、おそらく最初から全聾ではないものと考えられます。従って、彼の言動は全て虚偽だったということになるでしょう。

 ところで、本件についてネットを調べてみると、大体次のように対応が分かれる感じです。
 一方に、あくまでも「交響曲第1番《HIROSHIMA》」の出来栄えを支持する作曲家・吉松隆氏がいるところ(音楽評論家・仲山ひふみ氏もどちらかといえばこちらに属するのでしょうか)、他方で、その曲の意義を否定する指揮者・大野和士氏(江川紹子氏へのメール)がいます。
 さらに、同じく東大准教授・伊東乾氏(連続掲載の1回目2回目、そして3回目)は、曲の意義を否定しつつ、佐村河内守氏を「偽ベートーベン」と貶す一方で、影の作曲者・新垣隆氏を被害者だとして強く擁護します(「「詐欺」の本体は、もっぱら偽ベートーベン側が考え、実施したもので、善意で裏方に徹することにした新垣君は、その都度「買い取り」譜面を提供した後、………その実大半は知らずに過ごしていたのにほかなりません」)。

 クマネズミとしては、全曲を心して聴いたわけではないながら、そしてズブの素人ながら、この曲はやっぱり紛い物ではないかと思えてしまいます。というのも、「交響曲第1番」の終楽章はマーラーのパクリでしょうし(例えば、池田信夫氏のこの記事)、さらに、新垣氏がその著作権をすべて放棄していることも考え合わせると(新垣氏は、それらの曲に、自分の曲として愛着を抱いていないのでしょう)、クラシック音楽としてクリエイティブなところが余り感じられないからですが。
 〔ただここらあたりは、例えば、ジブリのアニメ映画によく使われる久石譲氏の音楽にクリエイティブなものがあると考えるのかどうか、もっといえば、AKBの曲は通俗的なものにすぎないがモモクロは別、いいやそうではないと考えるのかのかどうかといった、よくわからない問題に通じるような気もします〕
 また、伊東氏がいくら熱心に新垣氏を擁護しようとも、『鬼武者《交響組曲ライジング・サン》』の新垣隆氏による楽曲解説を読むと(このサイトに掲載)、この段階で新垣氏は佐村河内氏のパフォーマンスに加担しているようにも思えるところです。

 というところから、佐村河内氏関係の曲については、関係者もろとも屑籠に入れてしまうのが適当なのではと密かに思っています。

(注8)とはいえ、今回の佐村河内氏の問題は、まだ詐欺罪として立件されているわけではなく、明らかに詐欺(例えば、5,000ドルの手数料を支払えば、ロンドンの銀行から5万ドルの融資を受けられるという話をします)を行っていたアーヴィンらとあまり直接比べる訳にはいかないかもしれませんが。

(注9)佐村河内氏への障害者手帳交付に関し、横浜市が調査を行うとのことですが。

(注10)上記「注7」で触れた佐村河内氏の「謝罪文」では、彼の妻の関与は否定されています。ですが、妻の母親が、指示書につき「あれは娘の字」と述べているところから、一定の関与はあったものと想像されます。



★★★★☆☆



象のロケット:アメリカン・ハッスル
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抱きしめたい

2014年02月11日 | 邦画(14年)
 『抱きしめたい―真実の物語』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『ジャッジ!』で好演した北川景子主演の映画というので映画館に行ってきましたが、『カノジョは嘘を愛しすぎてる』と同様、館内が女子高生で溢れかえっているのにびっくりしました。

 本作は、実話に基づく作品で、舞台は北海道網走。
 冒頭は、バスケットボールの試合の場面。
 選手の一人が倒れると、子どもがコートに入ってきて倒した選手にしがみついてしまいます。
 そして、試合後の打ち上げ会。
 窓際のサイドボードの上には、北川景子が写っている写真が飾られています。
 さっきの子どもが、父親に向かって、「お母さん、なんで死んじゃったの。お母さんのこともっと知りたい」と言うと、父親がノートを取り出して読み出します。
 「2008年2月10日。晴れ………」
 以下、高校時代に遭遇した交通事故(注1)で半身麻痺(記憶障害も)となり車椅子の生活を余儀なくされている山本つかさ北川景子)と、タクシー運転手・小柳雅巳錦戸亮)とが、体育館のコート予約のWブッキングという出来事で出会って(注2)、結婚して(注3)、そして、………、と二人の様々なエピソードが綴られていきます。

 どんな展開になるのかはすぐにわかるわけながら、映画では実にストレートに出来事が描かれていくので、話自体は大変な悲劇ながら(注4)、出演者の好演もあって、見終わった後の気分はさわやかなものが残ります。

 主演の北川景子は、「クシャッと鼻にしわを寄せるつかささん独特の笑い方」(注5)を上手く表現するなど、悲劇のヒロインを熱演しています(注6)。



(2)本作は実話に基づくものですから、あれこれ言っても仕方ありませんが、どうでもいいつまらないことを少々。

 主役のつかさは、交通事故により、新しいことを記憶できない「高次脳機能障害」を抱えています。
 その点については、映画の前半で何度か描かれるものの(注7)、後半になると半身麻痺の方がクローズアップされて(注8)、まったく言及されなくなってしまいます。障害が進行すれば、あるいは映画『博士の愛した数式』(2005年)のような事態になったかもしれないと思われるところ(注9)、実際はどうだったのでしょう?

 また、つかさは、障害者の仲間と「ボッチャ」という競技に熱心に取り組んでいます(注10)。



 これも前半で何度か描かれるものの、後半になるとなんとなく画面から消えてしまっています。他方で、雅巳が出場するバスケットボールについては、冒頭とラスト近くで効果的に描かれているのですから、彼女が出場したボッチャの試合がどうなったのかくらいは描いてもらいたいところです(各人がボールを投げ合うところまでは描かれるものの経過及び結果はカットされています)。

 なお、本作には児童養護施設「ひまわりの里」が登場し(注11)、施設にいる子どもの一人のゆかりが、「可愛くて、親が事故でいない場合だと、すぐに出て行くよ。でも私みたいにブスで、親が前科者だとなかなかここを出られない」と、今話題になっているTVドラマ『明日、ママがいない』のグループホーム「コガモの家」にいる子どもたちが喋るのと似たようなことを言うので、その同時性が気になりました(注12)。

(3)渡まち子氏は、「映画を見て号泣したいと望むファンには物足りないかもしれないが、平凡な男性と障害をものともしない強気な女性という構図の面白さ、二人の純愛、残された人々の心に宿した希望を感じ取りたい」として50点をつけています。



(注1)「高校の時、知り合いの車に乗っていて、信号待ちをしていたら、横から別の車にポーンと突っ込まれて。私、神様に蹴っ飛ばされたんだと思って。私も蹴っ飛ばし返そうとボッチャをやっている」などとつかさは雅巳に語ります。

(注2)Wブッキングの出来事があった後、体育館で独りタクシーを待つつかさに、雅巳が自分の車に乗るように言うと、つかさは「ぼったくるの?」と応じ(雅巳は「今日の仕事は終わっているから無料」と答えます)、また車の中でも「ちゃんと前を向いて運転して。また事故に遭うと嫌だから」などと文句を言いますが、結局は雅巳の車で北見のデパートに行くことになります。

(注3)つかさの母親(風吹ジュン)は、「この子は独りでは何も出来ないの。あたしとヘルパーさんがいるから独り暮らしができているの。体だって悪くなっていくかもしれない。あなたもこんな子が嫌になるかもしれない」と雅巳に言い、また雅巳の父親(國村隼)も「何を考えているのかバカ息子。俺は孫の顔を見れないのか」と言って、それぞれ二人の結婚に反対しますが、二人の思いは強く、出会ってから2年ほどでゴールインします。

(注4)つかさは、雅巳との間で出来た子どもを無事に出産しながらも、交通事故の後遺症ではなく、「急性妊娠性脂肪肝」(妊婦の1万人に1人の割合で発症)で急死してしまうのですから!

(注5)本作の公式サイト掲載の「Production Notes」より。

(注6)なお、共演の錦戸亮は、『県庁おもてなし課』と同様に、スカッとした青年役を好演しています。また、雅巳の同僚運転手役に上地雄輔(「ここには俺の良さをわかってくれる女がいないから、ハワイでタクシーをやろうと思う」と言う男の役を好演しています)が出演しています。

(注7)最初に雅巳と出会った時に、つかさは、雅巳のタクシーに乗って北見のデパートに買い物に出かけるのですが、欲しい物を描いたメモ書きを家においてきてしまったために、何を買ったらいいのかわからなくなってしまいます。あとで、つかさの家に戻ると、机の上にそのメモ書きが置いてあることを雅巳は見つけるものの、つかさの方では書いたこと自体を忘れてしまっているようです(「記憶がパーッと飛んじゃうんだ。大分良くなってきたんだ。でも、まあいいかと思っている」などと、アイスクリームを食べながらつかさは雅巳に話します)。
 また、つかさが独りで雅巳の家にやってきて「あんたに用がある」と言うので、雅巳が「なんの用?」と尋ねると、つかさは「忘れちまったぜ」と答えます。
 さらに、別の日につかさは男(寺門ジモン)と親しげに話していて、雅巳が「誰?」と尋ねると、つかさは「何度会っても覚えられないんだ」と答え、それに対して雅巳は「ある日君に会ったら、忘れられているかもしれない」などと冗談めかして言ってしまいます。

 最後の点は、もしかしたら冗談ではないかもしれません。
 「新しいことを記憶できない」という点で、「高次脳機能障害」は認知症に類似していて、後者の場合、『ペコロスの母に会いに行く』を見てもわかるように、昔の記憶は鮮明なのに、例えば面倒を見てくれる自分の長男の判別が難しくなってしまうようなのですから。
 でも、「高次脳障害」の場合、つかさが雅巳に「大分良くなってきたんだ」と言うように、症状の改善が見られるという点で認知症とは異なるのかもしれませんが。

(注8)本作では、リハビリによって、半身麻痺のつかさが器具を使ってどうにか歩けるようになる様子が描かれていますが(北川景子が熱演しています)、この間見たTV番組によれば、脳梗塞に陥って左半身麻痺となった経済人類学者の栗本慎一郎氏は、「「ミラーボックス」によるリハビリ法を試した結果、2ヵ月後には症状が良くなり、現在はゴルフや車の運転が出来るほどに回復し」ています。

(注9)その映画に登場する数学博士(寺尾聰)は、記憶が80分しか保持できないために、様々なことをメモ書きにして洋服の上にたくさん貼り付けています。

(注10)つかさは、チームの他のメンバーに「練習の時から集中しなければダメ」などと叱咤します

(注11)つかさは、ボランティアとして「ひまわりの里」に出向き、子どもたちとボッチャをしたりします。また、同施設にはつかさの親友・夏海平山あや)も職員としています。

(注12)大きな問題となっているTVドラマについては、第1話だけ見たのですが、問題とされている点もさることながら、大人の作り上げた大人がわかるストーリーを子役たちにやらせて(今の子役は、昔よりも格段に演技力が増していて、どんな表情や動作も大層上手くこなします!)、大人が楽しんでいるといった格好になっているような感じがし、むしろその点が酷く嫌らしいなと思いました。
 そして、このドラマを見た児童養護施設の子どもの中にはリストカットする者も出たとのことですが、子役による大人勝りの演技によって視聴率を稼ごうとする低劣なドラマをなにもわざわざ子どもたちに見せることもないのでは、と思いました。



★★★☆☆☆



象のロケット:抱きしめたい―真実の物語
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ビフォア・ミッドナイト

2014年02月07日 | 洋画(14年)
 『ビフォア・ミッドナイト』を渋谷文化村ル・シネマで見ました。

(1)同じ監督(リチャード・リンクレーター)と同じ二人の俳優(イーサン・ホークジュリー・デルピー)で制作された2作品〔『恋人までの距離(ビフォア・サンライズ)』(1995年)と『ビフォア・サンセット』(2004年)〕―以前、DVDで見たことがあります―の第3作目ということで見に行ってきました(注1)。

 第1作目で、学生のジェシーイーサン・ホーク)とセリーヌジュリー・デルビー)は、ヨーロッパの長距離列車の中で出会い、一晩ウィーンの街を歩き回ります。そして、9年後の第2作目では、パリの書店で二人は再会します(ジェシーは、自分が書いた小説のプロモーションのためにパリに来ていました)(注2)。

 さらにその9年後を描く本作では、41歳のジェシーが、第2作目での再会後ずっと一緒に暮らしていたセリーヌとともに(注3)、ヴァカンスの間、ギリシャに滞在しています(二人の間に出来た双子の娘・エラニナも同行しています)。



 そこには、ジェシーの息子ハンク(注4)も米国から来ていましたが、ヴァカンスが終わるので、養育権を持つ母親が暮らすシカゴに飛行機で戻ってしまいます。
 ハンクを見送ったジェシーは気持ちが落ち着かず、空港から戻る車の中でセリーヌと言い争い、2人の間に亀裂が入ってしまいます。さあ、二人の関係は一体どうなるのでしょうか、………?

 第1作や第2作とマッタク同じように、本作でもジェシーとセリーヌがお互いに喋りまくります。それも、何の気なしに始められたたたわいない会話が、いつの間にか険悪なものに変質していき、ついには破局寸前のところまで辿り釣って着いてしまう展開ぶりを見ると、実に入念に練り上げられた脚本だなと感心してしまい、さらにその台詞をまるで即興のごとくごく自然に口にしてしまう2人の俳優には目を見張ってしまいます。

(2)ジェシーとセリーヌは、ギリシャの作家であるパトリックの招待で、その別荘にやって来ましたが、ペロポネソス半島の海岸縁に設けられている別荘は勿論のこと(注5)、周辺の遺跡や自然の景観はとても素晴らしいものです。
 特に、最初の方に出てくるメッシーニ遺跡(注6)は随分と広大で、その遺跡のソバを通る道路をジェシーが運転する車が走ります。

 ジェシーたちは、ハンクをカラマタ国際空港で見送ったばかりで、滞在先の別荘に戻るところ。
 初めのうちは、車の中で、環境問題に取り組んでいるセリーヌが、上司の横暴に耐えかねて転職を決めたことを話したり、ジェシーが後ろで寝ている娘・エラの食べかけのりんごを食べてしまったりしています。
 そうこうするうちに、車はメッシーニ遺跡を通りすぎてしまい、セリーヌが「娘たちが見たがっていたのに」と不満を漏らすと、ジェシーは「ヴァカンスからパリに帰る時に立ち寄ろう」と答えますが、どうやら彼は、ハンクとの別れで受けたショックから立ち直れておらず(注7)、注意散漫な様子。
 ハンクから離陸する旨の連絡が入ると、ついにジェシーは、「もう耐えられない、毎年、クリスマスなどのたびに米国へ送り返すのは」と言ってしまいます。
 これに対してセリーヌは、「うちに呼び寄せれば」と応じますが、ジェシーは、「母親が絶対に許さない」と言い、さらに「ハンクはじきに14歳、父親が必要な時だ」と言います。
 すると、セリーヌは「私は米国には行かない」と答え、さらに「おしまいね。破局の始まりだわ」と言い出します。
 ジェシーは驚いて「何を言い出すんだ」と叫びますが、セリーヌは「私は東へ。あなたは西へ。終わりの始まり」と繰り返します。
 この話は、スーパーに着いて買い物をするために皆が車から降りることになって一度は中断するものの、結局最後まで何度も蒸し返されることになり、厳しい局面にも到達してしまいます(注8)。

 本作を見終わってから最初の車のシーンを振り返ってみると、ここでの会話が本作全体のトーンを作り出していることがわかり、たかだか15分あまりの間に随分と様々のものをつめ込んだものだと、脚本家(リチャード・リンクレーター、イーサン・ホーク、ジュリー・デルピー)の手腕に敬服してしまいます。

 なお、ラストのシーンを見れば、更に9年後、子供たちは皆親元を離れてしまい、この二人だけは一緒に暮らしていて、相変わらずマシンガントークを繰り広げているのではないか、と想像したくなるのですが(でも、その場所は一体どこになるのでしょうか?)。



(3)渡まち子氏は、「運命的に出会った男女のその後を描く「ビフォア・ミッドナイト」。リアルな会話が延々と続くが、先が読めない展開はなかなかスリリング」として65点をつけています。



(注1)最近では、イーサン・ホークは『クロッシング』で、ジュリー・デルピーについては、『ニューヨーク、恋人達の2日間』で、見ました。

(注2)第2作目のDVDは、ジュリー・デルピーが出演した『パリ、恋人たちの2日間』を見た後に見たのですが(2008年6月)、その際友人に送ったメールに、「その会話シーンは半端なものではありません。男性の方が、小説家となって自分の本の売り込みにニューヨークからパリにやってきて、記者会見をしている書店で女性に遭遇するのですが、米国に戻る飛行機に乗るまでのわずかな時間、二人はしゃべり通しにしゃべるのです!それが、ほとんどドキュメンタリーといっていいほど、二人の会話と演技がナチュラルに見えます(というか、二人が再会してからラストまで、中断なしにリアルタイムで事態が進行しているかのように映画が作られており、一体どうやったらあれほどの濃密な会話劇を長時間演じることができるのか、と不思議な感じがしました)」と書きました。

(注3)その間、ジェシーは米国に残してきた妻と別れ、またセリーヌも恋人と別れたようです。

(注4)ジェシーの別れた妻との間にできた子供(第2作の時は4歳とされています)。

(注5)別荘の石段を降りて行くと、そこには綺麗な地中海が広がっているのですから(劇場用パンフレット掲載の「ロケーション・マップ」によります)。

(注6)例えば、このサイトこのサイトを参照。

(注7)空港でジェシーは、ハンクに、サッカーのことを尋ねると、ハンクは「もう続ける気がしない」と答え、また「演奏会には行けるようにする」と言うと、ハンクは「来なくていいよ。来るなら普通の週末にして。ママはパパを嫌っているんだ」などと応じ、ハンクがジェシーから次第に遠い存在になりつつある様子が伺われます。それでも、別れ際には、ハンクは「人生最高の夏だった」などとジェシーに言うのですが。

(注8)ジェシーとセリーヌは、別荘とは別のホテルに行って二人だけで泊まることになります。その際、ジェシーはセリーヌに、「アメリカで一緒に暮らせる方法はないか考えよう」と言うと、セリーヌは、「共同親権が得られるならアメリカに行ってもいいけど、そうでなくて1週間に1度会うためにそうするのは馬鹿げている」と答え、果ては「私が重要な仕事をして成功するのが嫌なんでしょ」と言い、ついに「もう愛していない」と言って部屋を飛び出してしまうのです。



★★★★☆☆



象のロケット:ビフォア・ミッドナイト
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小さいおうち

2014年02月04日 | 邦画(14年)
 『小さいおうち』を、吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)山田洋次監督の新作ということで映画館に行ってきました(注1)。

 本作は、中島京子氏が直木賞(2010年上期)を受賞した同名の小説(文春文庫)に基づくもの。
 戦前の山の手(注2)の丘の上に建てられた赤い屋根の「小さなおうち」に住む一家〔夫・平井雅樹片岡孝太郎)、妻・時子松たか子)、長男・恭一〕と、そこに住み込んでいた女中・タキ黒木華)を巡るお話です。



 映画の冒頭では、タキの親戚の荒井軍治(注3:小林稔侍)や、健史妻夫木聡)と康子夏川結衣)が(注4)、火葬場の煙突から立ち上る煙を見上げています。
 荒井軍治が「一人で死んでたか、タキばあちゃんは?」と訊くと、康子が「こんなことになるなら。一緒に暮らそうと言ったのに、絶対に嫌だと言って」と答え、さらに軍治は「健史が第1発見者か?」と尋ね、健史が「うん」と応じます。そして、軍治は「俺もお前たちも、大分世話になった。俺、あのばあちゃんは死なないと思ってた」と言います(注5)。

 ついで、タキが暮らしていた家の整理をしている軍治ら3人のシーン。
 康子が、「健史にやってください」と書かれた紙が貼られた箱を持ってきます。健史がその箱を開けると、中からはノートや未開封の手紙が。
 ノートを見た健史が「おばあちゃん、自叙伝書いてる」と言うと、康子は「頭が良かったからね」と応じます(注6)。

 以降、映画は、老齢のタキ倍賞千恵子)がノートに書き綴った自叙伝を読むという形で展開しますが、途中で何回か、タキが、甥の息子の健史にけしかけられて自叙伝を書き進む場面が挿入されます(注7)。



 とはいえ、映画の大部分は、昭和10年ころから終戦直前までの平井家で起きたことが描かれます。
 なかでも、雅樹が勤務する玩具メーカーに入社した美大出のデザイナー・板倉吉岡秀隆)を巡る恋愛事件に焦点があてられます。



 さて、その話とは一体どんなものだったのでしょうか、………?

 細かいことをいうと色々難点がある感じですが、昭和10年ころから終戦直前までの日本の雰囲気が、従前の軍国主義一色という描き方からはずれて斬新な視点から描かれています。さらに、その雰囲気の中にミステリアスで謎めいた話が仕込まれていて、それがラストの方で解き明かされていくという構成も面白いと思いました。

 俳優陣も皆好演していますが、特に、松たか子の着物姿は、さすが梨園で育った役者なのだなと目を見張りましたし、黒木華の演技にも感心いたしました(注8)。

(2)本作は、原作をかなり忠実に実写化しているものの、重要な点で設定を変更しているように思われます(映画と原作とは別物ですから、そのことに自体には何の問題もありません)。
 というのも、本作では時子と雅樹(注9)との間にできた子供に見える恭一について、原作では、時子の連れ子で、その父親は事故死(「雨の夜に工場の外階段で足を滑らせた」P.22)を遂げていると述べられているのです。
 さらに、タキは、「旦那様からは、男の人の匂いがしなかった。ああ、そういうことだったのだと、わたしはあの時(タキと雅樹が二人だけで「小さいおうち」で暮らしていた2週間)に初めて気づいた。奥様が再婚してから赤ちゃんに恵まれなかったのには、理由があったのだと。旦那様は私を、一度も変な目でごらんになったことがない」などとノートに書いています(P.64)。
 この点が重要なのは、原作においては、これが時子と板倉の恋愛事件の伏線になっていると考えられるからです。
 逆に、本作の場合、なぜ時子が突如としてあれほど板倉にのめり込んでしまったのかについて、その背景が大層曖昧にしか描かれていないように感じられるところです(注10)。

(3)もう一つだけ言うと、本作のタイトルは「小さいおうち」とされ、タキが小説家(橋爪功)の妻(吉行和子)に連れられて平井家に初めて行くシーンから、映画の大部分はその家の中の出来事として描かれています。
 それで、否応なくその家自体にも注目せざるをえないところです。
 まして、その家は赤い三角屋根のモダンな建物であり、デザイナーの板倉が「この家、どんな人達が住んでいるのかと、前から興味があった」とタキに言っているくらい目立つ存在なのです。



 にもかかわらず、昭和10年に建てられたと説明があるだけで、どうしてこんな斬新なデザインの家が建てられることになったのかの経緯が何も語られないのは、至極残念な気がしました(注11)。

 そういえば、亡くなったタキの遺品の中に、タキの寝室の壁にかけられていた“赤い屋根の家を描いた絵”があり、それを健史達は簡単に廃棄処分にしていましたが、この絵は、本作の「プロダクションノート」によれば、「それは板倉正治が描いた大切な絵」なのです。
 ということは、タキは戦後に、戦地から戻ってきた板倉と連絡を取り合っていたということではないでしょうか(注12)?

(4)渡まち子氏は、「時代が許さなかった恋愛を静かにみつめるまなざしを強く感じる作品に仕上がっている。倍賞千恵子、吉岡秀隆ら、山田組おなじみの俳優が安定感を与えている。和洋折衷の昭和モダンを再現した美術が味わい深い」として65点をつけています。
 また、秦早穂子氏は「ひとりの女が片隅から見ていた事実と真実。その記憶を通し、伝えたいものは何か? 戦争に巻き込まれながらも、生きようとした人間の息遣い。原作中島京子。監督・脚本山田洋次。彼の最近作の中で最も芯がある。老若ふたりのタキを演じる、倍賞千恵子と黒木華が光る」と述べています。
 さらに、村山匡一郎氏は、「山田監督には珍しく不倫という家族の秘密が物語の書くとなっているが、妙味は時子に憧れるタキが板倉に恋心を抱いていたこと。彼女の秘められた愛と嫉妬が家族の秘密を明かす謎解きに一種のサスペンスの味わいを加えて面白い」として★4つをつけています。
 ただ、相木悟氏は、「新しい視点で過去に切り込み、現代を照射する意欲的な一作ではあるのだが……」と疑問を呈しています。



(注1)山田洋次監督の作品としては、最近では、『おとうと』や『東京家族』を見ています。

(注2)原作には記載がありませんが、本作で平井雅樹が差し出す名刺に「大森區雪ヶ谷」とあったように思います。

(注3)原作によれば、タキの甥で、タキの姉の息子(P.301)。
 ちなみに、原作では、タキは6人兄妹で、兄2人、姉2人、それにタキと妹。

(注4)映画のオフィシャルサイトの「キャスト」によれば、「新井健史 妻夫木聡」「荒井康子 夏川結衣」となっていますから、たぶん二人は軍治の子供とされているのでしょう〔この場合、軍治がタキの姉の息子なのか妹の息子なのかによって、健史にとってタキが“大伯母”になったり“大叔母”になったりするのかもしれません〕。
 ですが、原作によれば、二人はタキの妹の孫、すなわち軍治とは別の甥の子供(P.281)とされていて、軍治の子供ではありません。

(注5)原作では、荒井軍治について、「法事でもなければ(健史は)挨拶もしない相手」とされていますし、さらにまた、彼は、戦時中と終戦後の一時期はタキと一緒に暮らしていたものの、その後疎遠になっていたと述べられていますから、映画のように、タキの葬式で久しぶりに顔を会わせた二人から、軍治が事情を説明してもらってもおかしくはないと思われます
 でも、映画では、そんな疎遠な親戚の軍治が、葬儀の後、康子と健史と一緒になって親しげにタキの遺品の整理をしています。このシーンからすると、軍治と健史・康子は親子関係にあるように見えてしまいますし、現にそういう設定なのでしょう。しかしながら、その場合には、軍治がタキの死んだ時の有り様を火葬場で初めて二人に尋ねるというのはおかしな感じになってしまいます(当然のことながら、健史はタキの死を葬儀の前に父親に報告しているでしょうから)。

(注6)映画の中の健史は、タキが自叙伝をノートに書いていることは十分に知っていましたから、この台詞には違和感を覚えますが、原作によれば、ある時からタキはそれを隠してしまい、健史もノートの在処がわからなかったようです。そうだとしたら、本来的に健史の台詞は「こんなところに隠していたのか!」ぐらいになるのではないでしょうか?

(注7)タキが書いた自叙伝通りに戦前の有り様を描くと、現代人が違和感を覚えると考えたのでしょうか、本作では(原作もそうなっているのですが)、タキの書きぶりについて健史にいろいろ批判めいたことを言わせています。
 例えば、昭和11年、アジアで初めてのオリンピックが昭和15年に東京で開催されることが決まり、主人の雅樹が「これで会社の玩具がどんどん売れる」「キューピーがアメリカですごい売れ行きだ」などと興奮していた様子をタキがノートに書いたところ、大学生の健史は、「昭和11年といえば2.26事件があり、軍国主義の嵐だった。その頃に日本人がそんなに浮き浮きしているはずがない。美化しないでありのままに書くべき」とケチを付けます。
 ですが、学校で現代史のことを習わないのが通例の現代の若者が、2.26事件のあらましはともかく、それが起きた年号を正確に知っているはずがないように思えますし、そんなことが健史の口から言われると、むしろタキの描いている方が実際のことであり、その批判は、戦後流布している杓子定規な見方を単にオウム返しにしているにすぎないと思えてきます。
 あるいはまた、健史の批判を、本作に対して起こりうる批判の先取りと受け止めることもできるかもしれません(丁度、『R100』の中に、同作の試写を見て酷評するプロデューサーを登場させているのと類似しているようにも思われるところです)。

(注8)最近では、松たか子は『夢売るふたり』〔このエントリの(2)を御覧ください〕、黒木華は『シャニダールの花』、片岡孝太郎は『終戦のエンペラー』、妻夫木聡は『ジャンジ!』でそれぞれ見ました。

(注9)本作の雅樹の年格好はわかりませんが、原作では時子よりも「十幾つも年上で中年」とされています(P.28)。また、「旦那様は老け顔だったので、下手をすると親子のように見えることがあった」ともタキは述べています(P.169)。

(注10)これは映画を見る方が想像すればいいことかもしれません。強いて挙げれば、時子は、板倉の若さと芸術家肌のところ(美大出のデザイナーですし、ストコフスキーを知っているなどクラシックにも精通していたり、『オーケストラの少女』という映画を二人は見ていたりします)に惹かれたというところでしょうか。

(注11)この赤い三角屋根の洋館は、劇場用パンフレット掲載の「時代にまつわるキワード」にある「文化住宅」に該当するようで、また同じパンフレットに掲載されているインタビューにおいて、美術担当の出川三男氏は、「当時のモダンな家の典型的なパターンだった」とか、「昭和初期に出た建築雑誌とかそういうものを調べたら、まさにああいうおうちがいっぱいあるんです、図面の中に」と述べていますが、それでも当時は板倉が注目するくらい目立つ存在だったのではないでしょうか?
 にもかかわらず、原作においても、普通のサラリーマンにすぎない平井雅樹が、時子とのお見合いの席で、「すぐにも家を建てます、赤い瓦屋根の洋館です」と言ったと書かれているだけで(P.24)、どうして普通の日本家屋ではなく洋館を建てることにしたのかは何も述べられておりません。

(注12)この絵のことは原作には出てきません。多分、原作の世界では、タキは、板倉の行方が分かったとしても(復員後の板倉は名の知れた漫画家となりましたから)、連絡をとらなかったのではと想像されます。もし、連絡をとっていたら、「小菅のジープ」(映画では省略されています)を板倉に手渡していたはずで遺品に残っていなかったでしょう。それに何よりタキは、板倉ではなく、「小さいおうち」の時子を愛していたように原作では仄めかされているからです(そのことは板倉も感づいていたようです)。
 他方、本作では、むしろ、時子のみならずタキも板倉のことを想っているかのように描かれています。それで、戦後タキは板倉と連絡を取り合い、この絵も譲ってもらったのだと思われるところです。でも、仮にそうだとしたら、おそらくタキの胸の内にだけ秘められた想いだったにしても、ノートの書き方も多少変わってくるのではないか、遺品にそれをうかがわせるものがもっとあってもいいのではないか、などと考えてしまうのですが。



★★★☆☆☆



象のロケット:小さいおうち
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