映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

人生はシネマティック!

2017年11月30日 | 洋画(17年)
 『人生はシネマティック!』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)予告編を見て面白いと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「1940年 ロンドン」の字幕。
 銃弾を製造しているところを写している映画が映画館で上映されています。
 その映画の中では、製造に従事している女たちが口々に話しています。
 「ジムが行方不明なの」
 「朝までに100万発よ」
 「今日はもう10時間働いています」
 情報省映画局の局長・スウェインリチャード・エ・グラント)が映画館にいて、観客の反応を見ています。

 次いで、本作では乗合バスが映し出され、「ブルームズベリーはここで降りてください」との声が。
 主人公のカトリン・コールジェマ・アータートン)がバスを降ります。
 周囲では、爆撃後の消火活動が行われています。

 カトリンは、許可証を見せて建物の中に入っていきます。
 そこは映画プロダクションのベイカー・プロの事務室。
 スウェインが「朝まで100万発じゃあ、観客もブーイングだ」と言うと、脚本を書いているパーフィットポール・リッター)は「脚本の問題だ」と応じます。
 特別顧問で脚本家のバックリーサム・クラフリン)が、「もっと意見を出してください」「もっと戦意を高揚させる映画を作りますよ」と言います。
 そこへ、カトリンが顔を出すと、バックリーは「ようこそ、ミス・コール」「ご主人は空軍?」などと言って出迎えます。
 カトリンは、「夫は、空襲監視員のボランティアをしています。スペイン戦争で足を負傷し、徴兵されていません」と答えます。
 バックリーが「この広告コピーは君が書いたの?」と尋ねると、コピーライターの秘書をしていたカトリンは「皆、徴兵されてしまっていて」と答えます。

 カトリンが自分のアパートに戻ると、夫のエリスジャック・ヒューストン)に「採用されたわ。週給2ポンドで」と報告します。
 エリスは「君は僕の専属モデルだ」と喜びます。
 そのあとで、空襲監視員のエリスは「そろそろ監視塔に行かなくては」と言って出ていきます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあここから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、第2次大戦下のロンドンが舞台。「ダンケルクの戦い」で活躍した姉妹を描く戦意高揚映画の制作を巡るお話で、主人公の女は、初仕事ながら他の二人の男と脚本作りに邁進します。主人公は、愛する夫がありながらも、次第に脚本家の一人に惹かれていって、云々という次第。戦時下のお話ですから、様々な事件が起き、また女性の社会進出にも焦点が当てられていて、なかなか面白く見ることができました。

(2)本作で描かれるようなカトリンを中心とする三角関係は、ラブストーリー物ではよく見かけるように思います。
 最近で言えば、例えば、『南瓜とマヨネーズ』が挙げられるでしょう。
 同作では、家でブラブラしているミュージシャンのセイイチ太賀)をサポートしているツチダ臼田あさ美)が、昔の恋人のハギオオダギリジョー)とヨリを戻してしまうという具合に物語が展開します。これに対して、本作では、足が悪く家にいる画家の夫エリスを支えて脚本家の仕事を得た妻のカトリンが、同僚のバックリーとの恋に陥るのです。



 とはいえ、物語の時代背景はまるで異なっていて、『南瓜とマヨネーズ』は天下泰平の現代日本ですが、本作は、第二次大戦中のイギリスです(注2)。

 それも、主人公のカトリンや同僚のバックリーとかパーフィットは、情報省映画局の方から、戦意高揚映画のための脚本を書いてくれと委託されるのです。
 その際の題材として提案されるのがダンケルクの戦い。

 ダンケルクの戦いと言われて思い出すのは、NHKの海外ドラマとして放映された『刑事フォイル』の第2話「臆病者」(第3回と第4回放送分:2015年9月に放映)に登場する漁師のデビッド・レーンを巡る話です。
 彼は殺人事件の容疑者として警察に捕らえられていましたが、ダイナモ作戦が発動されると、デビッドの父親のイアンが、フォイルマイケル・キッチン)に掛け合って、デビッドを釈放させ(注3)、2人は漁船を操ってダンケルクの海に向かうのです。デビッドは実際には無実でしたが、ダンケルクから救出した兵士15名を運んできた漁船には、銃弾に倒れた彼の遺体が乗せられていました(注4)。

 本作において、カトリンらが脚本を書くことになったダンケルクを巡る物語も、同じダイナモ作戦に従って、双子の姉妹が父親の漁船でダンケルクに行って、兵士を救出するというもの(注5)。
 その映画『ナンシー号の奇跡』の制作にあたっては、様々な部署からイロイロな横やりが入ってきて、その都度、カトリンらは脚本の手直しに追われます。
 そればかりか、カトリンとバックリーは、ロケ地とかスタジオでの撮影に立ち会ったりもします。
 その間、2人はいろいろ対立して仲違いをしますが、関係も次第に深まっていきます。
 本作では、そこらあたりがなかなかうまく描かれているように思いました。

 さらに言えば、本作では、むしろ、女性陣に焦点が当てられていて、女性が物語の全体を引っ張っていくような感じがします。
 例えば、主人公のカトリンは、脚本家として次第に男の脚本家と対等になっていきますし、彼女の周りには、情報局の局員のフィルレイチェル・スターリング)とか、俳優・ヒリアードビル・ナイ)のエージェントのソフィーヘレン・マックロリー)といった女性がいます。
 それに、カトリンらが脚本を書いた映画『ナンシー号の奇跡』で中心的なのは、兵士を救出する漁船に乗った姉妹(ステファニー・ハイアンとクラウディア・ジェシー)です(注6)。

 他方で、本作に登場する男性陣は、どうも冴えない感じがします。
 例えば、カトリンの恋人になるバックリーは、当初、カトリンを見出したものの、最初のうちは、女性だからということでそんなに期待はしていませんし(注7)、性格もやや歪んでいてカトリンに厳しく当たったりします。
 また、カトリンの夫は、カトリンが映画制作にのめり込んでいるのを見て、別の女と浮気をしてしまいます。
 さらに、『ナンシー号の奇跡』に出演する老優のヒリアードも、過去の栄光をなかなか忘れることができません(注8)。



 こうした特色を持った本作ですが、はたして、カトリンとバックリーの愛は上手く成就するのでしょうか、………?

(3)渡まち子氏は、「虚構である映画をなぜ人々は愛し、求めるのか。その答えは本作の中にある。映画を愛し、人生を愛することを教えてくれるこの作品が、たまらなく好きになった」として75点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「戦争で増した女性の社会進出、映画に加わる女性の視点が興味深いが、メロドラマ的な魅力も十分」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「あくまで人間臭く、最後にはほろりとさせられる“映画賛歌”である」と述べています。



(注1)監督は、『ワン・デイ―23年のラブストーリー』のロネ・シェルフィグ
 脚本はギャビー・チャッペ。
 原題は「Their Finest」。

 なお、出演者の内、最近では、ジェマ・アータートンは『アリス・クリードの失踪』、サム・クラフリンは『あと1センチの恋』、ビル・ナイは『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』、ジャック・ヒューストンは『リスボンに誘われて』、エディ・マーサンは『戦火の馬』、ジェレミー・アイアンズは『アサシン クリード』で、それぞれ見ました。

(注2)ドイツ軍の空襲によって、老優ヒリアードのエージェントだったサミーエディ・マーサン)が死亡しますが、ヒリアードも顔を背けたくなるような損傷を負った遺体でした。
 なお、エージェントの仕事を引き継ぐソフィーは、サミーの姉という設定です。

(注3)父親のイアンは、船は息子のデビッドがいないと操縦できないとフォイルに主張しました。

(注4)父親のイアンは、釈放された息子のデビッドを必ず連れて帰るとフォイルに約束していたのです。

(注5)ただし本作では、当初、この話は実話とされたものの、実際には、船のエンジンが故障して途中まで行ったに過ぎず、それでも、その時遭遇した船に溢れていた兵士を乗り移させて帰還した、とされています(実際の話は、取材に行ったカトリンに姉妹が話します)。

(注6)TVドラマ『刑事フォイル』でも、フォイルの乗る自動車の運転手・サムハニーサックル・ウィークス)が色々と活躍します。

(注7)バックリーは、カトリンについて、せいぜい女性の台詞を担当する人くらいにしか見ていませんでした。

(注8)さらに言えば、アメリカの戦争参加を促そうとする陸軍長官(ジェレミー・アイアンズ)の指示により、急遽出演が決まったアメリカ人俳優のランドベックは、イケメンながらも、空軍大尉で演技はからきし下手くそです。



★★★☆☆☆



象のロケット:人生はシネマティック!

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KUBO/クボ 二本の弦の秘密

2017年11月26日 | 洋画(17年)
 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(吹替版)を新宿バルト9で見ました。

 〔お知らせ〕本作についてのエントリが、クマネズミのブログの方からTBを送ることができる最後のものになってしまいました(明日からはTB機能が撤廃されるというので、大慌てで以下のエントリをアップいたしました)。
 TBは、映画感想を書き連ねているブログにとって、極めて重要な機能と思っているところながら、昨今の諸事情からすれば、撤廃されてしまうのも、誠に残念ですが仕方がないのでしょう。
 今後、このままgooブログを継続するべきか、それともTB機能が有効な他のブログに乗り移るべきなのか(移行するにせよ、乗り換え先のブログでも、早晩TB機能が撤廃されてしまうかもしれません)、年末までの1ヶ月の間、よく考えてみようと思っているところです。


(1)評判が良さそうなので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「まばたきをしてはならぬ」との声がするとともに、月が出ている空ながらも、大粒の雨が降りかかります。
 嵐の大海原を漕ぎ進む一艘の小さな船が見えます(注2)。
 その船では、女が三味線を持ってスクッと前方を見て立っています。
 再び、「全てに気を配れ」「いくら奇妙なものであっても」との声。
 船に立つ女がバチで三味線を弾くと、波が二つに割れて、その前に大きな岩山が出現します。
 そして、「心せよ。束の間でも目を他にやれば、我らが英雄は滅びるであろう」との声。

 船は、大波に沈められてしまったようです。
 次いで、海岸に打ち寄せられた女。
 赤ん坊の鳴き声が聞こえるので、女は布に包まれた赤ん坊のもとに這い寄ります。

 「この子の名はクボ」「その子の祖父が、あるものをその子から奪った」「それは始まりに過ぎなかった」との声。
 そして、タイトルが流れます。

 海岸のそばの洞窟の中。折り紙が、上から落ちてきて、クボ(注3)が目を覚まします。
 周りに折り紙がたくさん落ちているので、クボは拾い集めます。
 それから、薪に火をつけ、鍋を温め、食事の用意をします。
 クボは、寝ている母親を起こして、食事を与えます。
 次いで、母親を連れて、クボは洞窟の外へ。
 クボは、折り紙を折っていくつも動物を作りますが、母親の方は、焦点の合わない目をして、黙ったまま座っています。

 クボは、三味線を背負って、海岸近くの岩山を降りて、野原を通り過ぎ、橋を渡って小さな村の中に入っていきます。
 市が立っているようで、人々が集まっています。
 魚などを売るものたちや、将棋を指す男たち。

 おばあさんのカメヨ(声:小林幸子)がクボを見つけて、「クボじゃないか?」と声をかけます。
 クボの方が、「今日はどう?」と聞き返すと、カメヨは「悪くない。銭が2個と白い玉」と答えます。
 そして、「あれをやってくれよ」「今日は、お話をおしまいまでやってくれるのかい?」と言います。
 すると、クボは三味線を弾きながら、「まばたきをしてはならぬ」「見えるものすべてに注意せよ」と語り始めます。



 同時に、折り紙の武人・ハンゾウ(注4)が踊り始めます。
 クボは、「ハンゾウは、最果ての国を彷徨っていた」「3つで1つの武具を求めて」「折れずの刀、負けずの鎧、そして壊れずの兜」「月の帝はバケモノを差し向けた」「ハンゾウはそれらを次々と打ち破った」と語ります。村人が集まって、クボの物語に耳を傾けます。

 こんなところが、本作の始めの方です。さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、アメリカで制作された日本を舞台にしたストップモーション・アニメーション。三味線を弾いて折り紙を操る少年が主人公で、父母を奪った闇の力に立ち向かうべく、猿とクワガタとともに旅に出ていろいろな冒険に出会うという物語。様々の日本の風物とか文化を大層上手に取り入れながらも、戦いの場面などは圧倒的な迫力を持って見る者に迫ってきます。昨今の流れに従って、家族愛の物語となっていて、主人公に対応する女の子が登場しないのは残念なところながら、大人が見ても十分な作品に仕上がっていると思いました。

(2)本作を見た時に思い出したのは『怪物はささやく』です。
 本作では、最初の方で、クボとその母親が、海岸近くの洞窟の中で暮らしている様子が描かれますが、同作でも、コナー少年と母親が2人で暮らしています。
 その上、本作の母親は、精神的に変調をきたしていて、クボが何かと面倒を見ていますが、同作の母親も末期がんを患っているのです。
 さらには、本作では、クボが、母親から聞いて村人の前で語る物語が重要な役割を果たしますが、同作でも、イチイの木が変身した怪物が話す物語が重要な役割を果たします。

 そして、同作では、イチイノキの怪物の話す3つの物語とコナー少年が話す最後の物語によって、コナー少年が次第に現実(特に母親の死)をありのままに受け入れていくという成長譚が描かれます。
 それと同様に、本作においても、サルとクワガタ(声:ピエール瀧)、さらには折り紙のハンゾウを伴って「3つの武具」を求め歩く旅の物語とか、クボの残った片方の目を奪おうとする叔母(声:川栄李奈)との戦い、はては祖父である月の帝との死闘を通じて、クボが次第に成長する様が描かれているように思われます。



 結局、本作においては、残った片目をクボが守り通すことによって、クボは、現実の世界の有様をしっかりと見届けることが出来るのでしょう。
 まさに、「見えるものすべてに注意せよ」なのです。

 本作は、こうしたストーリーを、上記(1)で記したような嵐の大海原とか、「折れずの刀」を奪おうとした際に出現する骸骨のモンスター(注5)、ラストの月の帝が変身したムカデのような巨大怪物等々の迫力あるものを繰り出して描いていき、最後まで観客をぐいぐい引っ張っていきます。

 とはいえ、少々疑問も残りました。
 一つは、月の帝が、叔母(又は、闇の姉妹)を使ったりしてまで、なぜクボの片目(ひいてはクボの命まで)を奪おうとするのか、という点がよくわかりませんでした(注6)。
 さらに言えば、クボの母親は、月の帝によって、ハンゾウを殺すために差し向けられたにもかかわらず、その命令に背いてハンゾウとの恋に走ったために、叔母によって殺されてしまうのですが、その話自体もよくわからないところです。

 母親が叔母の攻撃を食い止めている間にクボはその場を離れ(注7)、しばらくして雪原で気がつくのですが、あるいはそれ以降の話は、クボの夢の中の話なのかもしれません(注8)。
 もしかしたら、クボの成長を願う母親が作り出した物語をクボが夢で見ているのでしょうか?

 二つ目は、クボが父母に会いたいと願うのはよくわかるものの、彼の成長にとって重要な役割を果たすのは異性との出会いではないでしょうか?
 本作におけるクボの年齢ははっきりとはしませんが、三味線を弾き、物語を語れるとなれば、現代ならば高校生くらいか、それ以上でしょう。
 にもかかわらず、本作では、母親とか叔母といった親族を除いて、クボに適うような異性は誰ひとりとして登場しません。
 あるいは、本作も、今流行りの家族第一主義の流れに沿った作品なのでしょうか(注9)?
 でも、異性に出会わなければ家族も構成できないと思えるのですが(注10)。

 三つ目は、本作でクボは、3つの武具(注11)を求めて様々な戦いをし、それを手に入れ(注12)、それを持って月の帝に戦いを挑みますが、実際の戦いにおいて役に立ったのは、それらの武具ではなくて、クボがいつも手にしている三味線なのです。こうなると、この3つの武具を求めた意味はどこにあるのか、酷く疑問に思えてしまいます。
 あるいは、3つの武具は、それ自体に意味があるのではなくて、それを手に入れる過程でクボが成長することに意味があったと言うべきなのかもしれませんが(注13)


 まあ、それらのことはどうでもよく、ストップモーション・アニメとして描き出された素晴らしい世界を目で味わうことができれば、それで十分というべきなのでしょう(注14)。

(3)渡まち子氏は、「単なる悪者退治や復讐ではなく、許しというフィルターを経て、物語を語り継ぐことの素晴らしさに至るストーリーは、近年のアニメーションの中でも出色だ」「極上の芸術品に酔いしれる103分だ」として80点を付けています。
 金原由佳氏は、「クボが三味線の音で自在に動かす折り紙の百変化が実に楽しい。一枚の紙に命が吹き込まれ、愛らしい動物にもなれば、猛々(たけだけ)しい武器にも変わる。紙を扱う繊細な手や指の動きはアニメであることをすっかり忘れさせられるほど優雅だ」と述べています。



(注1)監督はトラヴィス・ナイト
 なお、本作の吹替版でクワガタの声を担当するピエール瀧は、『アウトレイジ 最終章』に出演していましたし、また、叔母(あるいは、闇の姉妹)の声を担当する川栄李奈は、『亜人』で戸崎(玉山鉄二)の秘書を演じていました。

(注2)公式サイトの「Production Notes」の「3」(あるいは、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes 1」)によれば、このシーンは、葛飾北斎の「神奈川沖波裏」(画像はこちら)とのこと。

(注3)クボは片方の目しかなく、眼帯をつけています。公式サイトの「Production Notes」の「4」(あるいは、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes 2」)によれば、クボの眼帯は、伊達政宗と柳生十兵衛三厳を思わせるように作られたとのこと。

(注4)公式サイトの「Production Notes」の「4」(あるいは、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes 2」)によれば、ハンゾウは、『七人の侍』の三船敏郎に似せて作られているとのこと。

(注5)公式サイトの「Production Notes」の「3」(あるいは、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes 1」)によれば、これにインスピレーションを与えたのは、歌川国芳の「相馬の古内裏」(画像等はこちら)とのこと。

(注6)いったい、どうして、クボの祖父は月の帝(Moon King)なのでしょう?
 劇場用パンフレット掲載の「Characters」き記載されている「月の帝」では、「天上界の主」「強大な力を持ち、クボの右目を狙うため闇の姉妹を動かしている」「かつては娘たちを天上界から地上界へと降ろし、多数のサムライを殺すように命じていた非道な男」と述べられています。
 この説明でも、どうして月の帝がクボの目を奪おうとするのか全くわかりませんし、それに、「多数のサムライを殺すように命じていた」と述べられていますが、なんのためにそうするのでしょう?

(注7)クボの背中に羽が生えて、クボは空に舞い上がります。

(注8)何しろ、これ以降に登場するのは、実際のところ、クボに近しい者ばかりなのですから!

(注9)『怪物はささやく』でも、原作ではリリーという少女がしばしば登場するのですが、映画ではほんの僅かしか登場せず、ほとんど無視されています。本作においても、クボのガールフレンド的な存在は全く描かれていいのです。

(注10)ラストで、クボは、父母の墓に向かって、「僕の物語は続いていくでしょう」「2人に会うことができて感謝しています」「3人でご飯を食べて幸せだった」「でも、母上と父上に会いたい」「そうしたら、物語を締めくくることが出来る」と言うと、川の向こう側に2人が立っているのが見えます。
 でもこれでは、クボは自立した大人になることができないのではないでしょうか?父母のことは思い出としておきつつも、前に向かって新しい道をつき進んでいく必要があるのではないでしょうか?

(注11)「折れずの刀」(sword unbreakable)、「負けずの鎧」(breastplate impenetrable)、そして「敗れずの兜」(helmet invulnerable)。

(注12)「折れずの刀」は骸骨のモンスターの頭蓋骨に突き刺さっていたのをクボが引き抜きますが(アーサー王の伝説とか、ワーグナーの楽劇に登場するジークムントなどと類似しています)、「負けずの鎧」は湖の底の方にあって大きな目玉の怪獣(オディロン・ルドンの「目玉」を思い出させます:例えば、こちらをご覧ください)が守っています。クボは見てはいけない目玉を見てしまい危うかったものの、クワガタが目玉を矢で射たためになんとか助かります。
 最後の「壊れずの兜」は、クボがよく出入りする村の目につくところに吊るされていることがわかります(これは、「灯台下暗し」の教えを説いているのでしょうか?)。

(注13)もう一つ挙げるとすれば、主人公のクボの設定がよくわからない感じです。
 月の帝を父とする母親と、地上に住んでいたと思われるハンゾウとの間の子供ですから、ある程度の魔力を持っているのでしょうが(折り紙でできた動物などを操ることができます)、いくらなんでも祖父の月の帝と対等以上に戦えるとは思えないところです(3つの武具を身に付けることによって、それが可能となるのでしょうか?でも、最後にはそれらを取り払ってしまいますが?)。

(注14)それと、吹替版の最後に流れる吉田兄弟が演奏する「While my Guitar Gently Weeps」も素晴らしいと思いました(こちら)。



★★★★☆☆



象のロケット:KUBO/クボ 二本の弦の秘密

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斉木楠雄のΨ難

2017年11月25日 | 邦画(17年)
 『斉木楠雄のΨ難』を渋谷Humaxで見ました。

(1)コメディ映画ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、女が犬を連れて散歩をしています。
 そこに男が現れて、「このワンちゃん、可愛いですね」と言います。それに対し、女が「嬉しいわね、ポチ美ちゃん」と応じると、男は「僕も、犬、大好き」「触ってもいいですか?」と言いながら、犬に触ります。
 ですが、同じように道を歩いている主人公の斉木楠雄山崎賢人)には、男が心の中で「本当は犬なんか嫌いだ」と言っているのがよくわかります。
 すると、犬が走り出してしまいます。
 その時、別の方向から車が走ってきて、その犬を轢きそうになります。
 ですが、それに気がついた楠雄は、持っている超能力の一つのサイコキネシスを使って、その車を少し上に持ち上げて犬を飛び越えさせて、犬が轢かれないようにします。

 次いで、楠雄の声。「今から15年前、僕は平凡な夫婦の間に生まれた」。

 父親(田辺誠一)が「本当に可愛いいな。ママの次に」などと言っていると、生まれたばかりの赤ん坊の楠雄が「恥ずかしながら、大便の処理をお願いしたい」と言葉を発するのです。

 楠雄の声。「生後1ヶ月で立って歩いた」「空中も」。
 「1歳ともなると、切れたみりんをたくさん揃えた」。
 母親(内田有紀)が「やっぱり変よ」と言い、父親も「連れて行くしかないな」と応じます。
 そして、母親が「このみりんは、万引きしたのよ」と言うと、父親は「明日、スーパーに連れて行こう」と応じます。
 楠雄の声。「この2人は、ノーテンキな上に、バカップルだった」。

 そして、楠雄の声。「現在、僕は高校生。でも、超能力は健在」。「ギャンブルなんて、お金が手に入るゲームにすぎない」。
 「だが、この力のせいで、僕の人生はメチャクチャなのだ」。

 バス停にいる女の子が今何考えているのか、楠雄には分かってしまいます。
 「あの男の子、タイプ。でも、どうでもいい。ウンコ漏れそう。早くバスが来ないかな」。

 楠雄の声。「僕は、生まれたときから不幸な男なんだ」。
 「苦労して何かを成し遂げたときの達成感とか、サプライズパーティで驚くこととか、僕には何もできないのだ」「とにかく、平穏に生きるのが僕の望み」「基本的に、僕は自分を受け入れている」「この学校でも、僕は、普通の生徒として受け入れられている」。

 ここでタイトルが流れます。
 こんなところが、本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作は、人気漫画を実写化した作品。超能力を持つ高校生の斉木楠雄が、高校の文化祭で引き起こされる問題を一つずつ解決していくうちに、云々というコメディ。ですが、クマネズミには、最初から最後までほとんど笑える要素が見つかりませんでした。おまけに、クマネズミが好まない学園物ときていますから、見なければよかったと思います。でも、酷く面白かったとする感想がネットでいくつも見受けられますから、こういう作品を面白がる感性がクマネズミには欠如しているということでしょう!

(2)本作はコメディとされてはいるものの、『ロスト・イン・パリ』を見たときと同様に、ほとんど笑うことができませんでした。
 とはいえ、笑える要素がまったくないわけではありません。
 例えば、上記(1)に記しましたが、楠雄の幼い時の様子などは、父親と母親のバカ親ぶりと合わせて、まあまあ面白いなと思いました(注2)。

 ですが、バス停でバスを待っている女生徒の内心が分かっても、彼女がごく卑俗なことしか考えていないので、少しもおかしくありません。
 これは、学校一の美少女の照橋心美橋本環奈)の内心が、楠雄の超能力のテレパシーを通じてわかる時も同じです(注3)。



 それから、楠雄のクラスメートの3人組、すなわち、燃堂力新井浩文)、海藤瞬吉沢亮)、それに窪谷須亜蓮賀来賢人)は、いったい何なんでしょう(注4)?



 また、高校の文化祭(「PK祭」)の出し物でイリュージョンショーを演じる蝶野ムロツヨシ)も、他で見られるような勢いが感じられません。箱に入った蝶野に剣を何本も差し込むマジックを演じるのですが、問題が生じると予見した楠雄が、蝶野の代わりに箱の中に入って剣を避け、蝶野は安全なところに現れるというのですから、全くつまりません。

 『銀魂』でそれなりに面白かった佐藤二朗にしても、校長の神田という役柄でごく短い出番に過ぎませんし(注5)、クラスのまとめ役の灰呂笠原秀幸)も、尻を出して倒れるシーンが2回ほどありますが、別にドウということもありません。



 なお、文化祭で問題が起きれば来年から取りやめにすると先生から言われていて、それだけは困ると楠雄は(注6)、ラストになって、超能力によって、学校の周辺を1日元に戻すことにします。すると、学校内では、文化祭の日が朝からもう一度やり直されることになります。
 ですが、そんなことをしたら、同じ問題がまたまた起こるだけのことであり、楠雄はもう一度文化祭をやり直さざるを得なくなることでしょう。
 そして、それは無限に続けられることになり、結局は、楠雄が楽しみにしていることは実現できなくなってしまうことでしょう(注7)。

(3)渡まち子氏は、「誰からも干渉されない静かな生活を望むのに、気が付けば宇宙規模の大事件が発生し、地球を救うハメになる斉木楠雄。この無駄なスケール、まったくやれやれ…である。どこまでも笑いだけを追求する福田監督らしい快作コメディだ」として60点を付けています。



(注1)監督・脚本は、『銀魂』の福田雄一
 原作は、麻生周一著『斉木楠雄のΨ難』(ジャンプコミックス)。

 なお、出演者のうち、最近では、橋本環奈や吉沢亮ムロツヨシ佐藤二朗は『銀魂』、新井浩文は『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』、笠原秀幸は『天地明察』、賀来賢人は『森山中教習所』、田辺誠一は『紙の月』、内田有紀は『俺俺』で、それぞれ見ました。

(注2)原作漫画の第1巻に描かれているような、楠雄の父親と母親の口汚い夫婦喧嘩といったものが、本作でも描かれていたら最悪でした!

(注3)例えば、照橋は楠雄の気を引こうと近づくのですが、注目されたくない楠雄は彼女を避けます。すると、照橋は、「どうして、楠雄は、皆のように「おっふ」と言わないのかしら?」「きっと、驚きすぎて正気でないのね」と心の中で言ったりします。そして、「私、完璧な美少女だから、私のこと、夢か幻と思っているに違いない」「もう一度チャンスをあげよう」と心の中で言いながら、照橋は楠雄に近づくのですが、今度は瞬間移動を使って楠雄は消えてしまいます。すると、照橋は「私、幻を見ていたのかしら」と不思議がるのです。
 でも、こんな自己中の女の子の心の中を見せられても、殆ど面白さを感じないのですが。

(注4)38歳の新井浩文が、「ケツアゴ」を付けモヒカンヘアとなって、15歳の高校生役(それも、“ミステリアスバカ”なので、気配を楠雄はつかむことができないのです)を演じているのはものすごいことですが、だからといって面白いわけではないでしょう。
 また、海藤ですが、中二病患者で、「漆黒の翼」となって「ダークリユニオン」(この記事が参考となります)と戦っている自分を演じている、というのでは笑いようがありません。
 さらに、元ヤンの窪谷須も、いくら白目をむいても何それという感じです。

(注5)ミスコンテストを見ながら「実に欲情しますね」と言うだけに過ぎません。

(注6)文化祭の当日は、自分の出番がないために、楠雄は、テレポートを使って日帰り温泉旅行に行く計画を持っていたのです。

(注7)ただ、今回の文化祭のように、楠雄が、問題が起こらないようにと文化祭を隅々まで監視するのであれば(今後開催される文化祭についても、楠雄が同様に対処するのであれば)、元々、上記「注6」に記した日帰り旅行などに行く時間的な余裕はないことになるのではないでしょうか?



★★☆☆☆☆



象のロケット:斉木楠雄のΨ難

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リングサイド・ストーリー

2017年11月22日 | 邦画(17年)
 『リングサイド・ストーリー』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)予告編を見て面白いと思い、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、力道山vsルーテーズの試合の場面とか力道山が空手チョップをしている姿などを、昔のプロレスの映像を使って映し出します。
 それから、アントニオ猪木とかジャイアント馬場などが登場し、日本プロレスは絶頂期になって、プロレスシーンは実に熱かった、そして今プロレス界は新時代を迎えている、などというナレーションが入ります。

 次いで、プロレスラーのキャラクターがいろいろ動くお弁当が作られている場面となって、タイトルが流れます。

 そして、主人公の江ノ島カナコ佐藤江梨子)が働いている弁当工場の場面。
 カナコは、会社の幹部に呼ばれます。
 カナコが「なんで私なんですか?」と尋ねると、幹部は「どうしても1人減らさないといけないんだ」「他の人は、いろいろと訳があって」と答えます。
 なおもカナコが「私だって困ります」と粘っても、幹部は「あんたは、何をやっても生きていけそうだし」「この際、結婚したら?」「聞いているよ、噂」と言い、「でも、売れないのは無職と同じか」と付け加えます。
 それに対し、カナコは「ヒデオは無職ではありません」と反論します。

 場面は、オーディション会場。
 オーディションを受ける者の中にヒデオ瑛太)が混じっています。
 ヒデオは他の応募者達を見て、「今日は何のオーディションなのかわかっているの?」と批判します。
 その時、カナコから携帯にかかってきますが、ヒデオは「俺、大事なオーディションの最中。そんなの後にしてくれ」と言って、切ってしまいます。
 その時、係員から「1番から10番まで中に入ってください」との声がかかり、ヒデオは慌てて審査員のいる部屋の中に入ります。

 場面は変わって、カナコの母親・恭子余貴美子)が営む美容院。
 カナコが顔を出すと、美容室に来ていた隣の豆腐屋の女将・桃子角替和枝)が「カナコちゃん、久しぶり」と言い、次いで恭子も「久しぶり、元気?」「何かあったの?」と尋ねます。
 カナコは「仕事、切られた」「明日から無職」と答えます。
 それに対し、恭子は「ウチを当てにしないでよ」「年内一杯なんだから」と言います。
 カナコが「寂しくなったね、商店街も」と応じると、恭子は「ヒデオ君、元気?」と尋ねます。
 カナコが「今、オーディション中」「でも、30すぎのおっさんには難しいみたい」と答えると、恭子は「私には若く見えるけど」と言います。それに対して、カナコは「でも、35だよ」と呟きます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、長年同棲している恋人の生活を支えている主人公の女の物語。女の恋人は俳優志望ながら、オーディションに落ち続ける売れない役者で、文句ばかり言って仕事をしないで家にいるグータラ人間です。主人公は、一生懸命働いて恋人を支えますが、主人公が浮気をしているに違いないと恋人が勘違いするところから様々な騒動が持ち上がるというコメディ仕立てになっています。よくある設定の物語ですが、まずまず笑える作品となっています。

(2)本作は、なんだか、すぐ前に見た『南瓜とマヨネーズ』と似ている設定ですが(注2)、本作の場合、恋人・ヒデオはミュージシャンではなくて俳優。ただ、『南瓜とマヨネーズ』のミュージシャン・セイイチ太賀)と同じように、ヒデオも、アレコレ文句ばかり言っていて仕事をしようとはしないのです。



 いきおい、男を支える主人公の働きぶりに注目が集まるところ、『南瓜とマヨネーズ』では、主人公・ツチダ臼田あさ美)は水商売に入りますが、本作の主人公・カナコはプロレスとか格闘技関係の団体で働くがために(注3)、とんでもない事件が色々起こります。それで、『南瓜とマヨネーズ』がリアルなラブストーリーとなっているのに対し、本作は、まずまず笑えるラブコメディとなっています。

 さらに言えば、本作は、同じ監督が制作した『百円の恋』とも似ている感じです。
 特に、『百円の恋』の主人公・一子安藤サクラ)のグータラな生活ぶりは、本作のヒデオのグータラさを上回るでしょう(注4)。
 ただ両作は、途中からかなり違った方向に向かいます。
 すなわち、『百円の恋』では、一念発起した一子がボクシングジムに通いつめ、それまでの肥満した体を実にスリムなボディに引き締めるだけでなく、鋭いパンチを繰り出せるまでに練習を積み重ね、念願の試合に臨むまでになるのに対し、本作のヒデオは、K-1の社長(峯村リエ)に試合を命じられたことでもあり(注5)、そんなに氣の入った練習はしないのです。



 結果は類似するものになるとはいえ、まるで違った雰囲気を醸し出します。
 こうなってしまうのも、本作がコメディであり、また格闘技自体を描く作品ではないことによるものでしょう。

 加えて言うと、本作は、『ミックス。』の前日譚と言えないこともありません。
 というのも、同作で主人公の多満子新垣結衣)とペアを組むことになる萩原瑛太)は、今は建設工事の現場で働く労働者ながら、元はプロボクサーだったのです。それが、目をやられて引退に追い込まれてしまったという設定になっています。
 そして、ボクシングではサウスポーだったということで、卓球のミックスで有利な左打ちが出来るとされています。
 本作のヒデオは、逆に、小学校の6年間、卓球で左打ちをやってきたために、K-1の練習の際に、左打ちの素早さが注目されて、「短い練習期間だから左フックだけ覚えろ」というアドバイスを受けることになります。
 こんなところから、クマネズミには、本作のヒデオが『ミックス。』の萩原に入れ替わるような印象を受けました。

 それだけでなく、本作では、K-1の武尊とか城戸康裕、プロレスラーの黒潮”イケメン”二郎、村上和成などの現役選手が色々出演しますが、『ミックス。』でも、水谷隼、石川佳純、伊藤美誠といった現役選手が出演しています。

 こうしたところから、このところ続けて見た本作と『南瓜とマヨネーズ』、そして『ミックス。』は、どうも昨年見た『百円の恋』と密接な関係にあるような印象を受けます。
 4本の作品の共通項は、“倹しい恋物語”、あるいは“百円生活(注6)のラブストーリー”といったところでしょうか。

 それはともかく、本作においては、ラスト近くに映し出されるヒデオの入場シーンが、とても素晴らしいと思いました。なにしろ、フラワーカンパニーズの「消えぞこない」の曲(注7)に乗って、試合に出場しないとされていたヒデオが、実に華々しくリングに向かって登場してくるのですから!
 このシーンがあるからこそ、酷く嘘くさかった本作の物語も(注8)、まあ許せるか、という感じになりました。



(注1)監督は、『イン・ザ・ヒーロー』や『百円の恋』の武正晴
 脚本は、横幕智裕と李鳳宇。
 この記事によれば、本作は「半分実話」とのこと。

 なお、出演者の内、最近では、佐藤江梨子は『R100』、瑛太は『ミックス。』、余貴美子は『後妻業の女』、高橋和也は『太陽』、近藤芳正は『紙の月』、田中要次は『お盆の弟』、角替和枝は『くちびるに歌を』で、それぞれ見ました。

 また、本作については、公開できないかもという噂があったようで(この記事)、クマネズミも、あまりPRされていないので情報を持たずじまいとなり、公開終了間際になって、慌てて新宿武蔵野館の夜1度だけの上映回に滑り込んだ次第です。

(注2)両作とも、同棲している男女のうちチ、女が生活を全面的に支えています。
 ただし、『南瓜とマヨネーズ』の場合、原作漫画の第1話によれば、ツチダとセイイチとは同棲して1年半とされていますが、本作のカナコとヒデオの同棲生活は10年も続いているとされています。




(注3)弁当工場を解雇されたカナコを就職させるために、ヒデオが、プロレス団体(「WRESTLE-1」)宛に、プロレスについての薀蓄を披露した手紙を書くのですが、それを読んだその団体の常務(田中要次)が感激して、カナコを事務員として採用することとします。
 ですが、ヒデオが、カナコがレスラーと浮気したと勘違いしてと騒動を引き起こしたために、カナコはそこも辞めざるを得なくなります。ただ、幹部同士でつながりのあったK-1に紹介してもらって、カナコはそこの広報を担当することになります。



(注4)『百円の恋』の一子は、全く何もしないのに対し(一応は、実家に戻ってきた妹の子供の面倒を見ていることになっていますが、一緒にTVゲームをするばかりです)、本作のヒデオは、オーディションに顔を出しているのですから。

(注5)ヒデオが、カナコがK-1の和希武尊)と浮気していると勘違いして、試合に臨む和希に対しキグルミを着たヒデオが殴りかかり、試合をメチャメチャにしてしまいます。怒ったK-1の社長が「負け犬みたいなあんたを見ていると反吐が出る」「あんた、和希と勝負してみる?」と挑発すると、ヒデオは「やってやるよ」と挑発に乗ります。それで、社長は、「今度の大会でエキジビションをやらせる。その代わり、1回保たなかったら、江ノ島さんときっぱりと別れることにしなさい」と宣言します。

(注6)この拙エントリの(2)をご覧ください。

(注7)こちらで視聴できます。

(注8)あのひ弱なヒデオが、いくら猛特訓をするにしても、僅かな期間でK-1のリングに上がるというのは、非常識すぎますから(『ミックス。』における卓球とは訳が違うでしょう)。



★★★☆☆☆



象のロケット:リングサイド・ストーリー

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南瓜とマヨネーズ

2017年11月20日 | 邦画(17年)
 『南瓜とマヨネーズ』を新宿武蔵野館で見てきました。

(1)予告編を見て良さそうだなと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、ライブハウスのコントロール室のようなところが映し出されたり、ドラムスとかギターなどや、シャワーを浴びている人の足元なども、映し出されたりします。
 そして、コントロール室では、主人公のツチダ臼田あさ美)が、PAミキサーを調整しています。
 さらには、演奏が終わった後の会場の後片付けを行ってもいます。

 次の場面は、キャバクラ。
 マネージャーの面接を受けていたのでしょう、ツチダは「来週から、水曜日と土曜日、よろしく」と言われ、さらに「歳はどうする?」と訊かれます。
 ツチダが「27です」と答えると、マネージャーは、「チョット、サバ読んどけば」と応じ、さらにツチダが「他の人はどのくらいにしています?」と尋ねるので、「5つくらい当たり前」と答えます。
 それでツチダは、「じゃあ23くらいにしてください」と言います。
 マネージャーは、他の女たちに、「この子、今度ここで働くことになった」と紹介すると、ツチダは「ツチダです」と自分の姓を言います。
 それに対しマネージャーが、「ツチダじゃあ、指名来ないよ」と言うので、ツチダは「ミホでいいです」と応じます。

 そして、翌週、ツチダは初めてキャバクラに出勤します。
 キャバクラ嬢の可奈子清水くるみ)が客の田島といる席に、ツチダが顔を出します。
 すると、田島が「誰?」と訊くので、ツチダは「ミホです」と答えますが、田島は「暗いね、大丈夫?」と行ってきます。可奈子が「そう絡まないで」「慣れないだけなの」と注意すると、田島は「早く慣れたほうがいいよ」「こういうことをする客もいるよ」と言って、ツチダの足に触ってきます。
 ツチダが驚いて立ち上がると、可奈子は「田島さん、そういうことしないでください」と怒ります。

 キャバクラの更衣室。
 ツチダが可奈子に「今日はごめん」「田島さんは可奈子ちゃんのお客なんでしょう」と言うと、可奈子は「別にかばったわけじゃない」「あんな男は普通だよ。歌舞伎町でボッタクられた人がこっちに流れてくる」「あんたも、どうせすぐにやめちゃうんでしょ」と応じます。
 これに対し、ツチダが「売れっ子って凄いんだね」「可奈子ちゃん、若いのに大人」と驚くと、可奈子は「それ皮肉?」と応じます。

 ツチダが深夜に「ただいまー」とアパートに戻ると、同棲しているセイイチ太賀)が「お帰り」と答え、「気がつかない?」と言うので、ツチダは、部屋の散らかった様子を見て「何か作ったの?」と尋ね、見回して「あっ、棚」と言います。
 セイイチは、なおも「これ、塗装の具合がいいんだよ」と説明しますが、ツチダがトイレに行こうとして戸を開けると、棚は下に落ちてしまいます。
 セイイチが「だめだなー」と気落ちするので、ツチダは「静かに開け閉めすれば大丈夫じゃない」と言います。ですが、セイイチは「やり直しだ」と応じます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこの後、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、魚喃キリコの漫画を映画化した作品で、同棲しているミュージシャンの生活を支えるためにキャバクラで働くことになった主人公の女が、昔別れた男と出会い再び関係を持ってしまって、云々というお話。特段の事件が起きるわけでもありませんが、だからこそ、二つの恋愛の中で揺れ動く主人公の気持ちが見る者に伝わってくる感じで、こういう作品もいいなと思いました。

(2)本作では、特段のことが起こるわけではなく、男女の入り乱れたどろどろした愛憎劇が描き出されているわけでもありません。
 本作の主人公のツチダは、同棲相手のセイイチが作曲して歌う歌を聞きたいがために、セイイチの生活をサポートします(注2)。



 セイイチも、以前一緒に演奏していたバンド仲間とは意見が合わず(注3)、何もせずに家でゴロゴロしているばかりです(注4)。
 そういう男女の間柄なら、これまでも何度も映画で描かれてきたように思います。

 ただ、本作の特徴的なところは、そんなツチダですが、多額のお金が得られるとなると、キャバクラで出会った見知らぬおじさんの安原光石研)と関係を持ちますし(注5)、さらには、昔別れたハギオオダギリジョー)に偶然出会うと、途端にヨリを戻してしまうのです(注6)。



 見ている方は、セイイチを愛しているんじゃなかったの、と思うのですが、ツチダにはそうすることにためらいも何もなさそうな感じなのです。
 他方で、そんな関係に気付いたセイイチにしても、ツチダを激しく怒ったりはせずに、黙って自分で働きに出るようになったりするだけで、一応のところ、同棲生活は続けるのです。

 あるいは、元の生活をそのまま継続することに何かしらの軋みを感じてきて(注7)、ツチダとセイイチは、時間をかけて次の新しいステージに軟着陸しようとしているのかもしれません。
 ツチダは、安原との愛人関係を継続しませんし、ハギオとも別れ(注8)、セイイチの方も、ツチダのアパートを出て、実家の方に移ることになります。
 こうして、ツチダは、また新しい生活を始めることになるのでしょう(注9)。

 本作は、すぐ前に見た『彼女がその名を知らない鳥たち』ほど特異な愛の形ではないにせよ、また現代ならありうるかもしれない愛の形が描かれているかもしれないと思ったところです。
 登場人物のそれぞれが自己主張をしているようでいて、にもかかわらず時の流れに流されていくようでもあり、理解が難しいなと感じさせるところがあります。

 なお、本作には、『エルネスト』で見たばかりのオダギリジョーが登場します。同作では、キューバで医師を目指す青年・フレディを実に清々しく演じていましたが、本作では、それとは打って変わって、女にとり憑くどうしようもない男を、これまた実に説得力ある演技で演じています。

 それにしても、タイトルの「南瓜とマヨネーズ」の意味合いは何なんでしょう(注10)?

(3)北小路隆志氏は、「登場人物は成熟や堕落を知らず、ただ崩壊するばかりで、そんな「崩壊」としてある「日常」を、安易な希望や絶望の介在抜きに単純な事実として肯定すること……。だからこそ本作は――ラスト近くでのツチダの台詞の盗用になるが――とても優しくて可愛く、そして尊い」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『乱暴と待機』の冨永昌敬
 原作は、魚喃キリコの漫画『南瓜とマヨネーズ』(祥伝社)。

 なお、出演者の内、最近では、臼田あさ美は『愚行録』、太賀は『アズミ・ハルコは行方不明』、オダギリジョーは『エルネスト』、光石研は『アウトレイジ 最終章』で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、ツチダは、「セイちゃんはミュージシャンなんだから、作曲とかライブとか、することあるでしょ」「ねえ、いつ聞けるの?」などとセイイチに言ったりします。
また、キャバクラで同僚の可奈子にも、「(自分の男は)音楽やっているから、いつも家にいる」と喋っています。

(注3)昔一緒にバンドを組んでいた仲間が、焼鳥屋に集って話すシーンがあります。
 寺尾若葉竜也)が「お前に戻ってきてほしい」「また一緒にやれないか」と言い、田中浅香航大)は「それを言い出したのはレコード会社」、川内大友律)も「(レコード会社に)搾取されるくらいに売れてみたい」と言うのですが、セイイチは、「レコード会社の戦略で売れても白々しいだけ」「売れたらなんでもいいというのが問題」などと、他の3人の考え方を強く批判します。
 要すれば、レコード会社の営業方針にどこまで自分を従わせるのかという点で、セイイチと他の3人とは大きな溝があるようです。

(注4)ツチダが家に戻ると、机の上に書きかけの楽譜が置いてあり、「何か曲が書けたの?」「すごいね」とツチダが喜ぶと、セイイチは「途中まで」「半分できている曲ならたくさんある」と答えます。要するに、セイイチは、昼間、家にいて作曲しているようでいながらも、実際のところは、出来上がった曲がまるでないのです。

(注5)安原に、「お金が稼げるもっと別の方法がある」「店長に言わないのなら教えてあげる」と言われて、ツチダはラブホテルに付いて行き、安原の話を聞きます(ツチダが、「これからすることって、援交になるのですか?」と訊くと、安原は「普通は「愛人」と呼ぶ」と答えます)。本作では、ツチダは「今日はお話だけで」と言っていて、その場面も描かれませんが、ツチダが多額のお金を手にしているところを見ると、関係を持ったものと考えられます。

(注6)ツチダは、ライブハウスの来場者のなかに、昔付き合っていたハギオを見つけます。そして、ライブハウスの屋上に2人で上がって話します。
 ハギオはツチダのことをなんとも思っておらず忘れていたようながら、ツチダの方はずっと思い続けていたようで、「人試飲したけど、ハギオのために堕ろした」などと言い、体を寄せ合います。

(注7)ツチダは、家でブラブラしているセイイチに、「今日、何してた?あたしのために、何してくれた」「あたしは働いていた」などと文句を言うようになります。

(注8)ツチダはハギオに、「ハギオに見透かされるのが怖い」「もう会わない」と言います〔でも、ハギオが「(何処かで出会った時に)隠れるなんてできないでしょう?」「また、ハギオって追いかけるんでしょう?」と言うと、ツチダも「うん」と頷いてしまうのですが〕。

(注9)ただ、原作の「最終話」のラストを見ると、ツチダとセイイチは再会し、ツチダが「髪、長くなったね」と言うと、セイイチは「また切ってよ」と答え、さらに、ツチダは「セイちゃん、おなかすいてない?」「うちに帰ったら、なんかあったかいの食べよ?」と言います。
 本作のラストと違って、原作においては、結局、元の生活に戻るのではないでしょうか(ラストでは、ツチダのアパートで、ちゃぶ台の前に座っている姿が描かれ、「わたしたちの生活 毎日 日常」「せいちゃんが笑っているということ あたしがわらっているということ」というモノローグが書き込まれています)?

(注10)劇場用パンフレット掲載の原作者・魚喃キリコ氏と冨永監督との対談で、魚喃キリコ氏は「『南瓜とマヨネーズ』っていう題名は、慎ましやかな生活を意味してるのね」と述べています。
 でも、本作で描き出されているツチダの生活は、果たして“慎ましやかな”ものでしょうか(確かに、生活レベルはかなり低く、食事なども“慎ましやかな”ものかもしれませんが、ハギオなどとの関係を見れば、そんなに“慎ましやかな”ものとも言えないような気もしますが)?



★★★★☆☆



象のロケット:南瓜とマヨネーズ

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彼女がその名を知らない鳥たち

2017年11月15日 | 邦画(17年)
 『彼女がその名を知らない鳥たち』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)蒼井優の主演作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注)の冒頭では、マンションの1室で、十和子蒼井優)が電話をかけています。
 十和子が、「そろそろ何とかしてもらわないと」「電話もこれで3回目」と言うと、電話の相手(デパートの時計売り場の店員)は「何分、メーカーが操業停止しておりまして」と答え、それに対し十和子が「それは先週聞きました」「なんだか私がゴネているみたい」「誠意が感じられません」「責任者と話がしたい」と言うと、相手は「責任者は今席を外しています」と答えるので、十和子は「では、私の方から電話します」と言って、電話を切ります。

 十和子は、マンションの部屋から出て外の廊下を歩いていると、陣治阿部サダヲ)から電話が。
 十和子が嫌そうに「何?」と訊くと、陣治は「今、うちか?」と尋ねます。それに対し十和子が、「電話かけてこないで」と言うと、陣治は「晩飯、何買ったら良い?」と尋ねます。それに対し十和子は、「うるさい!」と言って、電話を切ります。

 次いで、場面はレンタルDVDの店。
 十和子が、「見れないんです、これ」「途中で画面が止まってしまうから」「途中まで見た時間をどうしてくれるんですか?」と文句を言っています。
 その時、店の外に男の影を見て、十和子は店を出ます。
 すると、また携帯に陣治から電話がかかってきます。
 十和子が「いい加減にして!」と怒ると、陣治は「何かあったのか?」と訊くのですが、十和子は電話を切ってしまいます。

 ここでタイトルが流れます。

 十和子と陣治が住むマンションの部屋。
 十和子は、TVのディスプレイにDVDを映し出して見ています。
 映っているのは、ベッドで寝ている十和子。黒崎竹野内豊)の声が、「起きて」「十和子、起きて」「何時間寝ているんだ」などと言っています。

 そこへ陣治が「只今」と部屋に入ってきます。十和子は、慌ててDVDを仕舞います。
 陣治は、「天ぷら買ってきた」「今、うどん作るから」「天ぷらうどんにしよう」「ビール飲んでて待っていて」と言いながら、台所のシンクで顔を洗います。

 2人でちゃぶ台で、陣治が作った天ぷらうどんを食べます。
 陣治は、口の中に指を入れて歯を抜き出し、ちゃぶ台の上に置きます。
 それから、「今日は1日しんどかった」「主任がうるさくて」「うちの会社でまともに図面が描けるのは俺だけなのに」と陣治が言うと、十和子は「一国一城の主になるというのはどうしたの?」と混ぜっ返します。陣治が「まあ、見てな」「十和子のためならなんでもする」と答えると、十和子は「50にもなるのに、よく言うわ」と応じます。

 こんなところが、本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作は、『ユリゴコロ』の原作者が書いた小説を映画化したもので、同作では、サイコパスの女が主人公でしたが、本作は、とても共感を呼ばない嫌な女を主人公として、彼女の周りに集まるこれまたおかしな男たちとの関係を描き出します。とてもありそうもないお話しながら、全体がラブストーリー物のサスペンスに仕上がっているのは面白いなと思いました。

(本作はサスペンス的な要素が多く盛り込まれている作品にもかかわらず、以下においてはいろいろとネタバレしておりますので、未見の方はご注意ください)

(2)このところ、“イヤミス女王”と言われる沼田まほかる氏(注2)の著書を映画化した作品を、2本立て続けに見ています。一つは、先月見た『ユリゴコロ』であり、もう一つが本作です。
 タイトルが異なるとはいえ、同じ著者の小説を映画化しているのですから、雰囲気が似てくるのは当然でしょうが、さらに、『ユリゴコロ』に出演していた松坂桃李が、本作でも重要な役柄を演じています。

 もう少し申し上げれば、『ユリゴコロ』は、サイコパスである美紗子吉高由里子)が主人公であり、彼女によって何人も殺され、“イヤな”雰囲気を醸し出していますが、本作の主要な登場人物も、人から毛嫌いされる者ばかりなのです。
 すなわち、本作の主な登場人物の十和子は、上記(1)からわかるようにモンスタークレーマーですし、マンションで陣治と一緒に暮らしていて、陣治の稼ぎでそれが可能なのにもかかわらず、陣治のやることなすことを絶えず口汚く罵る大層身勝手な女です。
 また、十和子よりも15歳年上の陣治の方も、粗野で卑屈であり、見た目も至極不潔な男です。



 その上、8年前に十和子が心を動かした黒崎や、肉体関係のある水島松坂桃李)は、十和子に酷く不誠実な態度をとったりします(注3)。



 さらには、『ユリゴコロ』が途中からラブストーリー色が濃厚になってくるのと同じように、本作も、後半になるとガラリと様相が一変して、十和子と陣治との思いがけない関係が明らかになってきます。

 その際、要となるのが、『ユリゴコロ』では細谷亮介松坂桃李)の婚約者の友人〕の存在でしょうし、本作では十和子の記憶喪失でしょう。
 ただ、映画『ユリゴコロ』では、細谷を木村多江が演じたことなどで問題が生じているように思えましたが(注4)、本作では、十和子が、ラストに近づくまで8年前の出来事を完全に忘れているという点でリアリティがやや欠けているように感じられました(注5)。

 加えて言えば、最後に陣治が十和子に、「これからは、思い出したことを全部抱えて生きていくんや」「十和子、目を覚ませ」と言いながらも、「俺が助けてやる」「十和子が思い出したこと、俺が全部もっていってやる」と言いますが、そんなことで事態は上手く収まるのでしょうか?
 十和子は、ラストに至り8年前のことをすべて思い出したのであり、いくら陣治が8年前のことを引き受けると言ってみても、それは彼がやったのではなく、十和子自身が引き起こしたことなのですから、十和子が自分でケリを付けなければ立ち直れないように思われます。
 一体、十和子はどのようにケリを点けるというのでしょう?

 ラストでは、最初に3羽の鶏が飛び立ち、その後沢山の鳥が飛び立ちます。
 十和子はそれを見上げるのですが、その鳥は、あるいは、十和子がこれまで直視してこなかった「真実の愛」というものを象徴しているのかもしれません(注6)。
 でも、それを見ることによって十和子はいったい何を得るのでしょうか(注7)?

 とはいえ、それらのことは、酷く特異ながらも愛の形が描き出せれば、どうでもいいことなのでしょう。
 それに、本作における出演俳優の演技合戦は見ものです。
 特に、阿部サダオの演技は、元々演技のとても上手な俳優ながらも、いつも以上に説得力が備わっているように感じられましたし、また松坂桃李も竹野内豊も、十分役になりきっているように思われました。
 ただ、期待した蒼井優ですが、『オーバー・フェンス』でのキャバ嬢とか『ミックス。』での中華屋給仕などを見てしまったせいかもしれませんが、そして、グータラで自堕落な女という役柄上、仕方がないのかもしれませんが、イマイチの感じがしたところです。

(3)渡まち子氏は、「(白石和彌監督は)本作では、欠点を隠そうともしない人間臭い男女を通して愛の本質に迫っている。その気概に、蒼井優と阿部サダヲの2人が凄みのある演技で答えた」として70点を付けています。



(注1)監督は、『日本で一番悪い奴ら』の白石和彌
 脚本は浅野妙子
 原作は、沼田まほかる著『彼女がその名を知らない鳥たち』(幻冬舎文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、蒼井優は『ミックス。』、阿部サダヲは『殿、利息でござる!』、松坂桃李は『ユリゴコロ』、竹野内豊は『シン・ゴジラ』、中嶋しゅうは『関ヶ原』(伊賀忍者の赤目役)で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、この記事とかこの記事

(注3)黒崎は、借金の返済のために、自分の結婚相手の叔父・国枝中嶋しゅう)とセックスするよう十和子に強要するのです。
 また、水島は、メルヘンチックな作り話(「去年はタクラマカン砂漠に行った」)をしたりして十和子の気持ちを自分の方に向けさせますが、単に、十和子の肉体を求めているだけのことでした。

(注4)映画『ユリゴコロ』についての拙エントリの(2)をご覧ください。

(注5)原作小説では、陣治が十和子に、「自分を守ろ、なんとか生きていことする本能みたいなもんが、十和子に忘れさせたんや」とか、「俺が読んだ本には、えらい難しいこと書いてあったわ。防衛の機制がどうたら、罪障感を伴う記憶の歪曲がどうたら―、要するに、潜在意識下への抑圧いうのが原因になって、いろいろ考えられへんような逸脱行動やら神経症やらが起きているていうことや。せやけど、そんなんピンとけえへん。ええか十和子、これは、昔の人が怨霊とか祟りとか言うたことなんや。ほんまにそんなことが起きたんや。お前が忘れているのをええことに、黒崎の霊がおまえにとり憑いとったんや」と話します。
 こうした陣治の言い方では、結局、「(起きたことは)昔の人が怨霊とか祟り」によるということになってしまいます。
 勿論、それは陣治の言い分にすぎないのであり、それを真に受ける必要はないのでしょう。
 それに、こうした記憶の欠落が実際に起こることもあるのかもしれません(本作の映画では、原作で述べられている心理学的な説明の部分は、陣治の台詞から落ちてしまっていたように思います。とはいえ、陣治は、当初は大手の建設会社のホワイトカラーだったはずで、「悪霊とか祟り」といった非合理な説明を受け入れているとも思えないのですが。それはともかく、十和子の事例は、あるいは、精神科で「解離性健忘症」と言われるものに相当するのかもしれません←例えば、この記事が参考になるでしょう)。
 ただ、それに十分なリアリティを持たせるには、十和子の日常の言動にそれらしいことを振り当てる必要があるのではないでしょうか?
 例えば、本作とは逆に、黒崎と同様の雰囲気を漂わせる水島を見るとものすごい拒絶反応を示したり、凶行場所の駐車場には、足がすくんでしまってどうしても近づけなかったりするといったような。
 でも、本作の十和子は、単に8年前の出来事を忘れているだけで、他の言動はずっと変わりがないように見えます。なにしろ、水島に黒崎の幻影を見てしまうくらいなのですから。

(注6)直視してこなかったがために、十和子は「その“鳥の名”を知らない」のでしょう。
 そして、その“鳥”を目で見たからこそ、その鳥たちを見上げる十和子の顔は輝いているように思えました。
 とはいえ、ラストで、十和子と陣治との生活の楽しかった部分が回想として流れますが、それは「愛」の真実の反面であり、もう一つの半面をも十和子は直視しなくてはならないものと思われます。
 陣治は、「もっと真っ当な男を見つけて、俺を産んでくれ」「俺はタネナシやけど、お前の体の中に入れるから」と言いますが、ということは、陣治は、十和子が自分との真実の関係を忘れることを望んでいるのでしょうか?でも、そんなことになったら、同じことの繰り返しになるだけのように思えるのですが。

(注7)『ユリゴコロ』でも、ラストは、細谷が亮介の父親・洋介の病室に赴くところで終わっていて、その後どうなるのかはわかりません。
 しかしながら、物語の結末の先の話など詮索するまでもないでしょう。
 本作についても、その後お十和子がどうなるのかなどどうでも良いことなのかもしれません。



★★★☆☆☆

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婚約者の友人

2017年11月11日 | 洋画(17年)
 『婚約者の友人』を銀座シネスイッチで見ました。

(1)フランソワ・オゾン監督の作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭の舞台は、1919年のドイツのクヴェードリンブルク
 黒の服装のアンナパウラ・ベーア)が、街を歩いています。
 アンナは、花屋で白い花を12ペニヒで購入し、それを手に持って歩き続けます。
 ジョウロに水を入れて墓地の中を進み、婚約者だったフランツの墓の前に着きます。

 アンナは、既に墓にバラの花が手向けられているのを見つけます。
 そばで作業をしている男に、「誰が花を?」と訊くと、その男は「外国人だった」と答えます。

 アンナは、「ホフマイスター診療所」との看板のある家のドアを押して、中に入ります。
 そこは、フランツの父親・ハンスエルンスト・ストッツナー)が営む医院で、身寄りのないアンナは、ハンスとその妻のマグダマリエ・グルーパー)と一緒に暮らしています。

 アンナがマグダに「心当たりは?」と尋ねると、マグダは「わからない。ハンスには内緒にして」と答えます。アンナがハンスの様子を尋ねると、マグダは「診察室に籠もりきり」と答えます。

 診察室では、ハンスが患者のクロイツヨハン・フォン・ビューロー)に「また痛むか?」「そのうちに踊れるようになる」と言うと、クロイツは「最近、街でお見かけしませんね」と尋ねます。それに対し、ハンスは「最愛の息子だった」「治療を続ければ、1週間で治る」と答えます。
 クロイツは改まった調子で、「アンナのことですが、彼女はあなたを父親のように慕っています」「彼女は息子さんの婚約者ですが、私と結婚させてください」とハンスに願い出ます。

 診察室から出てきたクロイツを見かけて、アンナが「こんにちは」と挨拶すると、クロイツは「乗馬はどう?」と尋ねます。アンナは「止めたの。気分が失せて」と答えます。それに対し、クロイツが「愛する人を亡くしたけれど、生きていくんだ」と言うと、アンナは「フランツも、同じことを手紙に書いていた」と答えます。さらにクロイツが、「気持ちはわかる」「でも、フランツのことを忘れさせる」と言うと、アンナは「私は忘れたくない」と答えます。

 ハンスとマグダとアンナが夕食をとっています。
 マグダが「土曜日の舞踏会はどうするの?」と尋ねると、アンナは「行きたくないと」答えます。
 ハンスが「クロイツとは?」と訊いた時、ドアをノックする音がします。
 アンナが立ち上がってドアを開けると、男が慌てて立ち去るところでした。

 翌朝、アンナがフランツの墓に行ってみると、見知らぬ男(ピエール・ニネ)が墓の前に立っています。アンナが遠くから見ていると、その男はしばらくして立ち去ります。



 ハンスの診察室。
 その男が診察室の中に入ります。
 ハンスが名前を尋ねると、彼は「アドリアン・リヴォワール」「パリからです」と答えます。それに対しハンスが、「フランス人か。すまんが診察はできない。帰ってくれ」「フランスの男はみな、私の息子を殺した犯人だ」と言うと、アドリアンは「そのとおりです。僕も兵士でした」「人殺しです」と答えて診察室を出てしまいます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作の当初の舞台は、1919年のドイツの古都。最愛の息子を第1次大戦で亡くした老夫婦とその息子の婚約者とが一緒に暮らしているところに、息子の友人だったというフランス人の若者が現れて、云々という物語。婚約者とフランス青年との間に親しい感情が醸成するものの、彼には秘密があるらしいこともわかってきて、全体としてオーソドックスなラブストーリーながらも、サスペンス物的な要素も加わって、なかなか見ごたえのある作品になっているように思いました。

(2)本作の舞台の1919年というと、第1次大戦が前年の11月に終わったばかりであり、同盟国側のドイツも連合国側のフランスも、まだ殺伐とした雰囲気が漂っていたものと思われます。
 本作においても、一方で、アドリアンが宿泊していたクヴェードリンブルクのホテルのレストランでは、フランツの父親ハンスと似たような世代のドイツ人らが「ラインの守り」という軍歌を歌い、他方で、アンネが入ったパリのレストランでは、フランス軍の兵士が姿を見せると、客が「ラ・マルセイエーズ」を高唱するという具合です(注2)。
 そんな中でハンスは、ひとたびアドリアンの話を聞くと、周囲の人々に「息子を戦地に送り出したのは我々ではないのか」と言ってまわり、反仏の姿勢を改めさせようとします。
 また、アンナもフランツアントン・フォン・ラック)も、フランス語ができ、ヴェルレーヌの「秋の歌」を一緒に口ずさんだりします(注3)。
 それに、ドイツにやってきたアドリアンも、ハンスらとドイツ語で会話をしています。



 第1次大戦ではお互いに銃を向け合いますが、実際には両国の間で交流が相当進んでいたように思われます。

 そういう背景があって、実のところは、ハンスのもとに謝罪のためにやってきたアドリアンですが、ハンスに会うと、自分はフランツとパリで友達だったと嘘をついてしまいます(注4)。
 この後、アンナも、ハンスとマグダにアドリアンのことで嘘をつきます(注5)。

 こうして、本作は、嘘というものに焦点が当てられていくように思われます(注6)。
 確かに、嘘は本作において大きなテーマなのでしょう。
 ただ、クマネズミには、本作は、アンナが自分を取り巻く状況から脱出しようとする物語のようにも思えました。

 アンナは両親がおりませんから、婚約者の家で暮らすことができたのでしょうが、いつまでもそのままでいられないこともよく承知していたことでしょう。
 それに、このままクヴェードリンブルクにいたら、周囲からの圧力もあって、クロイツと結婚させられるかもしれない恐れも感じたでしょう。
 いい機会があれば、アンナは、ハンスたちの元を去るつもりだったのではないでしょうか?

 そこにアドリアンが現れました。
 最初のうちは、アンナは、アドリアンンの話でフランツのことを思い出していました。
 ですが、単なるフランツの友人にしてはその言動に不審な点があるようにも感じられたのではないでしょうか(注7)?
 それで、アンドリアン宛に出した手紙が宛先不明で戻されてきて、マグダが「フランスに行ってアドリアンを探して連れ戻してきて」「名前も元の住所もわかっているから、探し出せる」「人生はこれから。チャンスを逃さないで」と言い出すと、アンナは、それを奇貨として、早速フランスへ行って事情を調べてくることになります。

 おそらく、マグダは、フランツの成り代わりのアンドリアンとアンナが一緒になって自分たちのそばで暮らしてくれたら、と願ったのでしょう。
 でも、アンナの方は、これはクヴェードリンブルクからの脱出の機会になるかもと受け止めたのかもしれません。

 結局、アンドリアンには、幼馴染の婚約者ファニーアリス・ドゥ・ランクサン)がいて、もうすぐ結婚式が執り行われることになっているとわかります。
 アンドリアンに対する想いが強くなっていたアンナですから、その事情がわかった時はショックだったでしょう。
 それに、アンドリアンによってクヴェードリンブルクから引き上げてもらうというアンナの期待も潰えてしまいました(注8)。

 でも、よく考えてみれば、そんなことをしたら、この先フランツの影から抜け出せないことになってしまいかねません。むしろ、アンドリアンからも離れることができたことによって、アンナはようやく独り立ちできることになるのではないでしょうか?
 それが、ルーブル美術館でマネの「自殺」の絵を前にして、「生きる希望が湧くの」とアンナが呟いた意味合いなのではないかなと思った次第です(注9)。



(3)渡まち子氏は、「戦争と戦争の間に挟まれた不安な時代を背景に、嘘の功罪を描くオゾン流のミステリアスなメロドラマだ。アンナを演じるドイツ人女優パウラ・ベーアの、複雑で繊細な表情が心に残る」として70点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「映画は、第1次大戦後の憎悪し合うドイツとフランス両国が互いに認め合って許しを求める姿を描いているが、その姿は憎しみの連鎖が至る所に見られる今日の世界にこそ必要だろう」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 林瑞絵氏は、「人間らしさを失う戦争の時代、たしかに人は一編の詩、ひとつの旋律に救われることがあるのだ。鋭い洞察力を持つ皮肉屋の俊英監督が、円熟期に入り慈悲深い眼差(まなざ)しを手に入れた」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『彼は秘密の女ともだち』のフランソワ・オゾン
 原題は「Franz」。
 原案は、エルンスト・ルビッチ監督の『私の殺した男』(1932年)。

(注2)さらには、アドリアンが、道路で酔いつぶれているドイツ人の若者を介抱しようと近寄りますが、その若者は、介抱するのがフランス人だとわかると、「触るな!」と怒り出します。

(注3)アンナがアドリアンに話したところによれば、「内緒話はフランス語だったの」とのこと。

(注4)アドリアンはハンスらに、「パリであったのが最後。ルーブル美術館へ行きました」「そこでは、彼のお気に入りのマネの絵をしばらく眺めました」などと言います。
 また、回想シーンでは、フランツがヴァイオリンを演奏していると、アドリアンが手の位置などを直してあげるところが映し出されたりします。



(注5)更には、アンナはアドリアンに対して、フランツの両親はアドリアンの言い分を了解し許していると嘘をつきます。

(注6)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、フランソワ・オゾン監督は、「戯曲〔モーリス・ロスタンが書いた戯曲「私の殺した男」(1930年)〕とルビッチ版では、フランス人青年の秘密は、冒頭で神父に罪を告白するシーンで明らかになる。僕は彼の罪よりも嘘の方に興味を惹かれた」と述べています。

(注7)というのも、アドリアンは、きちんとハンスの家に現れないで、一度目は逃げ去ったりしていますが、その後姿をアンナは見ています。アンドリアンがフランツの大親友というのであれば、クヴェードリンブルク到着後ただちにハンスの家に顔を出すはずでしょう。
 それに、元々アンナは、フランツからアンドリアンについて何も知らされていなかったのです。フランスで見つけた友達ならば、アンナに手紙で知らせてきても良かったはずです。その点をアンナがアンドリアンに尋ねると、アンドリアンは「友情だけだ」とそっけなく、風で木の葉のそよぐ音が聞こえると、「忘れてた、風でそよぐ木の葉の音」などと言って話題をそらす感じです。

(注8)アンナは、アンドリアンを岩場に案内し、「ここでフランツからプロポーズされた」と明かしますが、途中で洞窟のようなところを通過します。洞窟を抜けて明るいところに出るシーンは、クマネズミには、アンドリアンが自分を今の世界から連れ出してくれるのをアンナが期待していることを象徴しているように思えました。

(注9)もしかしたら、アンナは、自分がこれまで関わった男、フランツとアンドリアンが目の前から消えてくれたことによって〔フランツは空砲を所持していて自殺同様の状態だったですし、アンドレアンは母親を喜ばせようと自分を殺しているのですから〕、これから自由にパリで行きていけると思ったのではないでしょうか?



★★★★☆☆



象のロケット:婚約者の友人

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バリー・シール

2017年11月09日 | 洋画(17年)
 『バリー・シール アメリカをはめた男』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)トム・クルーズの主演作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、ジミー・カーター大統領の演説(注2)のシーンが入って、「Based on true story」の字幕。

 次いで、時点は1978年。
 TWAの旅客機のコックピットの操縦席に、パイロットのバリー・シールトム・クルーズ)が座っています。
 退屈しきったバリーは、隣の操縦席にいるパイロットが寝込んでいるのを見て、自動操縦のスイッチをオフにしてしまいます。すると、旅客機は大きく揺れ出し、酸素マスクまで上から各座席に落ちてきます。バリーは、機内放送で白々しく「乱気流でした」とアナウンスします。

 バリーの自宅は、ルイジアナ州のバトンルージュにあり、帰宅すると、妻のルージーサラ・ライトト・オルセン)が出迎える暇もあらばこそ、すぐにベッドに入って寝てしまいます。

 ある時、バリーはホリディ・インにチェックインします。
 その後、ホテルのバーの椅子に座っていると、シェイファー(実は、CIA局員:ドーナル・グリーソン)が近づいてきて、「バリー?」と話しかけてきます。
 シェイファーは、なおも、「ここで木曜日に稼いでいるだろう?」「キューバ亡命者のためにキューバ産の葉巻を密輸入しているのでは?」「興味深い経歴だな」「TWAの最年少パイロットなんだろ」「中米では、革命の匂いがしないか?」「我々は、そこで国を作っている」「君の手を借りたい」と話します。
 流石にバリーも、「CIAだな」と小声で言って、驚きます。

 シェイファーは、バリーを飛行場の格納庫に連れていき、バリーのために用意した小型飛行機を見せます。
 バリーは、「高速の双発機だ!瞬時に時速500kmになる」「信じられない」とその飛行機に魅せられてしまいます。

 シェイファーは、「民主主義の敵が相手だ」「奥さんのルーシーにも、このことは秘密だ」と付け加えます。
 バリーが「合法なのか?」と尋ねると、シェイファーは「正義の味方という意味ではそうだ」と答え、「乗り心地を試してみないか」と誘います。
 そこで、バリーは、その小型飛行機を操縦してみます。



 家に戻ったバリーは、妻のルーシーに、「自分でビジネスをする」「IFC(注3)と言うんだ」と告げます。
 すると、ルーシーは「あなたは、TWAのパイロット」「それで家族を養っているの」「IFCなんてインチキ臭い」と文句を言います。
 それでも、バリーはTWAを辞めてしまいます。

 「CIA ‘78」との字幕が映し出されて、CIAに移籍したバリーの操縦する小型飛行機が低空を飛んで、中米のグアテマラ、ホンジェラス、エルサルバドルの革命軍の様子を写真撮影します。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、ここからどんな物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、CIAにスカウトされ、またコカインの密輸に手を出し、ホワイトハウスにも雇われた実在の男のバリー・シールを描いた作品。隠す場所がなくなるくらいの大量の札束を手にするまでの主人公の破天荒な物語は、いつものトム・クルーズの面目躍如と行ったところながら、他方で、本作では、中南米諸国とアメリカとの政治的な関わりについてもある程度ウエイトを置いて描かれていて、単なる娯楽映画に終わっていないところは、評価すべきかもしれません。

(2)バリーに扮するトム・クルーズは、これまでの作品と同じように、なかなか格好良く描き出されています。
 例えば、バリーは、革命軍の様子を低空飛行で撮影する際に、地上からの射撃によって片方のエンジンが破壊されてしまっても、なんとか帰還しますし、あまりにもたくさんのコカインを積み込んだために離陸が危ぶまれながらも、そして樹木に機体をこすりつけながらも、なんとかジャングル内の狭い空地から小型飛行機を飛び立たせることに成功し、目的を達成してしまうのです。
 それに、アーカンソー州の司法長官のもとに手錠姿で引き出されながらも、そこに集まってきた職員らに軽口を叩きながら、結局は解放されることになるのです(注4)。

 何と言っても凄いのは、危険な飛行を達成するたびに得る札束の多さです。
 コカインをコロンビアからアメリカに密輸することの報酬が2000ドル/キログラムですから、お金は貯まる一方です。

 ここで思い出すのがTVドラマの『Breaking Bad』(注5)。
 同作においては、高校の化学の教師ウォルター(注6)が、自分が肺がんであることを告知され、その治療費と家族の将来に当てるための資金とを捻出するために、高校時代の教え子ジェシーと覚醒剤の製造に乗り出すというお話ですが、製造したものが上手く捌けだすと(注7)、本作と同様に、札束がみるみるうちに貯まるようになります(注8)。

 また、本作においては、バリーをFBIとかDEA(アメリカ麻薬取締局)などが追い詰めますが、同作においても、ウォルターの義理の弟ハンクがDEAの捜査官であり、ウォルターの製造する高純度の覚醒剤をなんとか取り締まろうと躍起になっています。

 さらに言えば、主人公の家族の反応も、両作である程度類似するところがあるように思います(注9)。

 それはさておき、本作においては、トム・クルーズのいつもの笑顔や軽妙さなどがいろいろ窺えるとしても、最後がいつものようにならないところは、事実に引き寄せられて仕方がないとはいえ、やや拍子抜けしてしまうところです(注10)。

 なお、本作においては、当時の中南米の政治情勢の一部が描き出されていて、興味を惹かれます。
 例えば、バリーは、パナマに侵攻したアメリカ軍によって拘束されてアメリカで一時期服役したことがあるノリエガ将軍とCIAとの間を取り持ったり、ニカラグアのサンディニスタ政権と戦っているコントラに武器を運んだりします。

(3)渡まち子氏は、「ノリはあくまでも軽く、トム・クルーズはあくまでも俺様スター。社会派映画でありながら、コミカルな味付けの風刺をたっぷり込めた歴史秘話的エンタテインメントとして楽しめる」として65点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「バリー・シールの破天荒な悪行をハリウッドの快男児トム・クルーズが軽妙に演じ、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』で彼と組んだダグ・リーマンが監督して生まれたウソのようなホントの話」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 真魚八重子氏は、「トム・クルーズは近年、頭が切れ腕も立つ超人的な役柄が多く、浮世離れした印象が定着している。その彼が人間臭いバリー・シールを演じるところが面白い」と述べています。



(注1)監督はダグ・リーマン
 脚本はゲイリー・スピネッリ。
 原題は「American Made」〔なお、元々の原題は「Mena」(バリーの家族は、当局の追求を逃れるために、ルイジアナ州のバトンルージュからアーカンソー州のミーナに引っ越します。)でしたが、最終的に「American Made」(「アメリカ製」でしょうか)に変更されました〕。

 なお、出演者の内、最近では、トム・クルーズは、『ザ・マミー 呪われた砂漠の王女』で見ました。

(注2)1979年の「信頼の危機」と題する演説の一部(Wikipediaのこの記事に掲載)。
 「アメリカのデモクラシーに対する最大の脅威についてお話しましょう」「その脅威は目に見えません」「それは、信頼の危機です」「国民の大部分が、これからの5年間はこれまでの5年間に比べて事態は悪化すると信じています」云々。

(注3)Independent Flight Consultant。

(注4)州の司法長官のデイナジェイマ・メイズ)は、「アーカンソー州は、一生、刑務所から出られないようにする」とバリーに断言したにもかかわらず、知事から電話がかかってくると、バリーを無罪放免にしてしまいます。その間、部屋の外にいたバリーは、取り囲んだ職員らに対して、「皆さん一人一人にキャディラックをやろう」などと軽口を叩きます。



(注5)海外のTVドラマは殆ど見ていなかったのですが(例外は、『Downton Abbey』)、デープ・スペクター氏によるこの記事を読んで触発され、『Breaking Bad』のDVDをTSUTAYAから借りて見たところ、そのあまりの面白さについハマってしまい、全話を見ることになってしまいました。

(注6)主人公のウォルターを演じるのは、『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたブライアン・クランストンですが、トム・クルーズとは対照的に酷く地味な感じの男優です。

(注7)ウォルターは、大層才能のある化学者で(研究仲間との行き違いで、興した会社を去って高校教師になっています)、純度の極めて高い覚醒剤・メタンフェタミンを自分の手で製造することができ、一度それが市場に出回ると、高い値段で捌くことが出来る、という設定になっています。

(注8)最後には、8千万ドルものお札が、レンタル倉庫に隠されていたり、7つのドラム缶に分けられて地中に埋められたりします。

(注9)本作においても『ブレイキング・バッド』においても、主人公の妻(本作ではルーシー、『ブレイキング・バッド』ではスカイラー)は、お金が潤沢になるのを見て怪しみ、「汚いお金なら嫌だ」と夫の行動をなかなか受け入れようとしませんが、大金によって事態が改善されてきて、さらに事情が説明されると、次第に状況を受け入れるようになります(特に、会社経理を長くやっていたスカイラーは、資金洗浄に力を発揮します)。



 また、近親者の一人〔本作ではルーシーの弟JBケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)、『ブレイキング・バッド』では主人公の義理の弟ハンク〕が、麻薬組織の手の者によって殺されます。

(注10)トム・クルーズの作品を熱心に見ているわけではありませんから、おいそれとは言えないのですが、死の瀬戸際まで追い詰められても決して死なない男の役を演じることが多いように思います。確かに、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』のように何度も死んで何度も蘇るといった作品はあるにしても、本作のようにあっけなく殺されておしまいという作品は、トム・クルーズにしては珍しいのではないでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:バリー・シール アメリカをはめた男
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アウトレイジ 最終章

2017年11月04日 | 邦画(17年)
 『アウトレイジ 最終章』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)北野武監督の「アウトレイジ」三部作の最後の作品ということで、本作を見に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭の舞台は済州島。
 軽トラックが海の方へ進んでいきます。
 そして、大友ビートたけし)の腹心の部下の市川大森南朋)が、堤防で釣りをしています。
 大友が「週刊誌を読んだら、タチウオが釣れるのは夜とあったけど」と言うと、市川は「たまに昼間来ることがあります」と応じます。

 次いで、夜の繁華街を大友らの乗る車が走ります。
 そして、停まった車から大友らは降りて、ガールズバーに入っていきます。
 そこに、携帯で「すぐ来てくれ」との連絡が入り、男が「すぐ行きます」と答えて、大友に「客が、うちの女が気に入らないと騒いでいるようです」と報告します。
 大友は「どこだ?」と言って立ち上がります。

 大友らは、ホテルの部屋に入っていきます。
 女が「変なことするから嫌だって言ったら、殴られた」と言い、そばの男が「うちの親分が怒ってしまい、金は払わないと言っています」と告げます。
 大友は、別室にいる花田ピエール瀧)に向かって、「どうかしましたか?」と尋ねると、花田は「あんな女、面白くない」と答えます。
 それに対し、大友が「うちの女をキズモノにしおって」と怒ると、花田は「おのれら、花菱と喧嘩するのか?」と怒鳴ります。
 すると、市川は「花菱がどうした」と言って、銃を向けます。
 それで花田は、「ここはおとなしくいこう」「現金の持ち合わせがない」「200万円出す」と言います。
 それに対し大友は「女たちの顔を見てから言え」と応じます。
 花田は「必ず円で用意する」と言い、さらに「あんたの名前は?」「日本人だろ?」と尋ねます。
 大友は、「名前なんかどうでもいい」「カネはこいつに払っておけ」と言ってホテルを出ていきます。

 後に残された花田は、「俺に恥をかかせやがって」と、そばにいた男たちを殴り、さらに「俺は、朝一で日本に帰るから、お前ら上手くやっておけ」「あんな奴らに払うわけがない」「ガタガタ言ったら、ぶち殺したれ」と言います。

 次いで、花菱会の本部事務所に、幹部の親分衆が集まってきます。
 若頭の西野西田敏行)が「花田がどうしたんや?」と尋ねると、若頭補佐の中田塩見三省)が「あいつ、急な仕事で韓国へ行った」と答えます。
 それに対し西野は、「ここに来るのが仕事やないか?」と言い、「わしの頭越しに会長の機嫌をとるようなことはするな」「会長には、後から話しておく」と付け加えます。
 西野が、さらに、「今度の会長は、会議ばかり開いて」とこれみよがしに言うと、中田は「兄貴、声が大きい」と制します。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作では、相変わらず、ピストルや機関銃などがぶっ放され、人が次々と死んでいきます。そうした中で、タケシが扮する主人公の大友が筋を通すとはいえ、関係者を色々と殺した挙句にいったい何が残るのか、殺された者の後釜に同じような者が入り込むだけのことであり、彼を取り巻く状況は何も変わっていないように見え、とても虚しく感じたところです。

(2)クマネズミは、これまで『アウトレイジ』(2010年)と『アウトレイジ ビヨンド』(2012年)を見ていて、本作は、それらを締めくくる作品だということで映画館に行きました。

 これまでの2作については、それぞれのエントリで書きましたように、北野武監督の『ソナチネ』との関係性が注目されるところ、本作においては、既に色々と指摘されているところながら、その類似性が強く感じられました(注2)。
 例えば、
・これまでの2作では、主たる舞台は東京ですが、本作においては、『ソナチネ』の舞台が沖縄であったのと類似して、その冒頭の場面は韓国の済州島が舞台になっています。

・本作においては、花菱会の幹部の出所祝のパーティーに大友と市川が乗り込んで機関銃を乱射するのですが、このシーンは、『ソナチネ』のラストの方のシーンを彷彿とさせます(注3)。



・本作のラストで、大友は拳銃で自決しますが、『ソナチネ』においても、主人公の村川(ビートたけし)は、車の中で自決します。

 ただ、『ソナチネ』で見られたような一風変わった場面(注4)は、これまでの2作と同じように、本作でも全く登場しませんし、また女性の役割も本作では極端に小さくなっています(注5)。

 さてこれで何が描き出されたのかというところですが、クマネズミには虚しさが強く感じられたところです。
 大友は、本作でも様々な人物を血祭りにあげています。



 例えば、大友は、世話になっている金田時男)の部下が花田の若い者に殺されたことや、花菱会の会長の野村大杉漣)が張会長への襲撃を指示したことから、張会長を襲った木村組組長の吉岡池内博之)や花菱会の野村会長などを殺し、最後には、花田や、部下だった木村中野英雄)を殺したヒットマンまでも射殺します(注6)。



 でも、野村会長が殺されると、その後を襲って花菱会の会長の椅子に座ったのは昔気質の若頭・西野ですし、木村を殺したヒットマンといっても、既にヤクザから足を洗って車の修理工場を営んでいる男なのですから。
 要するに、大友の場合、なにか新しいものを作り出すための殺しではなく(注7)、自分の気持ちに収まりをつけるためだけの殺しのように思えます。

 本作は、舌足らずの言い方になってしまい恐縮ながら、監督(北野武)、俳優(ビートたけし)、そして登場人物(大友)が抱え持つやくざ物に関する三つの美学の総まとめではないかと思っているところです(注8)。

(3)渡まち子氏は、「相変わらず凄惨で、それでいて笑える凝ったバイオレンス描写が満載だが、暴力の中に、古き良き任侠映画の終焉の時を見るようで、哀愁がひときわ際立つ最終章となった」として60点を付けています。
 中条省平氏は、「一触即発、何が起こるか分からないサスペンスの持続、また、激しい暴力や流血とユーモアのバランスもうまくいっている。ラストは『ソナチネ』を想起させるが、長い物語の果てにこうなるほかないという運命的な諦念を感じさせる」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。



(注1)監督・脚本は北野武。

 なお、出演者の内、最近では、ビートたけしは『女が眠る時』、西田敏行は『ナミヤ雑貨店の奇蹟』、大森南朋は『秘密 THE TOP SECRET』、ピエール瀧は『海賊とよばれた男』、大杉漣は『ゾウを撫でる』、松重豊池内博之は『グッドモーニングショー』、塩見三省白竜は『真夏の方程式』、中村育二は『帝一の國』、岸部一徳は『団地』、光石研は『散歩する侵略者』、津田寛治は『花宵道中』、原田泰造は『四十九日のレシピ』で、それぞれ見ました。

(注2)劇場用パンフレットに掲載されているプロデューサーの森昌行氏の談話の中で、同氏は、「(『ソナチネ』は)観客が容易に感情移入できるようには作られておらず、すごく“乾いて”い」るが、「(本作は)感情移入できるよう巧みな演出がなされている」、「極言すれば、『ソナチネ』は詩的で、『最終章』は現実的」だ、と述べています。

(注3)『アウトレイジ ビヨンド』では、大友(ビートたけし)が、仲間〔木村(中野英雄)〕の葬儀の際に、刑事の片岡(小日向文世)から拳銃を受け取った後、山王会と花菱会の面々が打ち揃う葬儀場に乗り込みます。

(注4)例えば、紙相撲見立てのシーン。

(注5)『ソナチネ』では、幸(国舞亜矢)という女が登場します。
〔追記:『アウトレイジ』において女性の役割が極端に小さくされている点については、この記事が大層面白い議論をしていると思いました〕

(注6)木村の殺害は、前作の『アウトレイジ ビヨンド』で描かれています。

(注7)もっと言えば、大友の殺しは、2.26事件の青年将校のように、秩序をとりあえず破壊するためだけのものであり、壊されたものを収拾して秩序を作り出す役目を西野のような男に委ねてしまうと、結局は元の木阿弥になってしまうのではないでしょうか?

(注8)本作における大友の殺しは、頭に焦点が当てられているように思われます。
花菱会の野村会長は、地面に頭部だけ出ている姿で埋められて、その頭部を大友が乗った車が通過します。また、花田は、口に咥えさせられたギャグボールが爆発して殺されます。さらに、大友自身、喉元から頭頂に向けて拳銃を発射して自決します。
 登場人物の顔の大写しが多いように思える本作の前半部分と合わせて、本作は、頭部の映画といえるかもしれません。
 そうなってくると思い出されるのが、『ソナチネ』におけるロシアンルーレットのシーンで、村川(ビートたけし)が笑顔で自分の頭部に拳銃を当てるシーンでしょう〔そういえば、『ソナチネ』で大杉漣の演じる片桐が落とし穴に落ちたりしますから、本作で大杉漣が穴に埋められるのも、ある意味で当然なのかもしれません〕。





★★★☆☆☆



象のロケット:アウトレイジ 最終章

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