映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ゴーン・ガール

2014年12月25日 | 洋画(14年)
 『ゴーン・ガール』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)昨年アカデミー賞作品賞を受賞した『アルゴ』に出演していたベン・アフレックが出演しているというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)は、「妻の頭を割って、何を考えているか、どう感じているか、その答えを知りたい」という夫ニックベン・アフレック)のナレーションが入った後、2012年7月5日のシーン(場所はミズーリ州の小さな町)から始まります。



 早朝(6時55分)にニックは家の前にいます。
 それから、車で「ザ・バー」に行き店の中に。
 カウンターの女(注2)が、「何を苛ついているの?」と言うと、ニックは「今日は最悪、結婚5周年記念日だ」と答えます。

 次いで、7年前に遡り2005年1月8日のシーン。
 ニューヨークのパーティーでニックとエイミーロザムンド・パイク)とは出会い、意気投合してベッドへ。

 映画はまた、2012年の「ザ・バー」のシーンとなって、カウンターの女が「彼女、また「宝探し」やるつもり?」と訊くと、ニックは「(宝探しで見つかる贈り物は)1年目は紙、4年目は枯れたバラ。5年目は何にするのか決めていない」と答えます。
 そこへ、近所の者からニックに「猫が外に出ている」との電話が入り、ニックは「スグ戻る」と答えます。

 ニックが急いで車で家に戻ると、ドアの鍵がかかっておらず、彼が「エイミー?」と叫んでも返事がなく、家の中には誰もいません。そればかりか、テーブルがひっくり返っており、ガラスがめちゃめちゃに砕かれています。
 ニックが警察に通報すると、刑事のボニーキム・ディケンズ)とギルピンパトリック・フジット)がやってきて家の中を調べます。
 すると、キッチンにあるオーブンの上部に血痕らしきものが。
 さあ、エイミーはどこへ行ってしまったのでしょうか、………?

 本作はサスペンス物ながら、犯人探しを狙いとしているわけではなく、夫婦関係をスリル溢れる映像で綴っている作品。基本的な点でよくわからないところがあるとはいえ、展開が二転三転して、長尺(149分)を感じさせない面白い仕上がりとなっています。

(以下は、様々にネタバレしていますので、どうぞご注意ください)

(2)本作においては、“遺体なき殺人事件”という点が大きな要素になっていると思われます。
 エイミーは、夫に殺人の容疑をかぶせて死刑にしようと企んだわけですし(注3)、ギルピン刑事はかなり早くからニックの逮捕をボニー刑事に進言しており、挙句に、ニックは逮捕されてしまいます。
 また、TVの女性キャスターも、ニックが妻殺しの犯人であるかのような言いっぷりです(注4)。

 ですが、友人の弁護士によれば、「日本では、死体の発見がなく具体的な物証が乏しい場合、殺人罪で起訴することはまずありえない。また、ひと一人殺しただけでの死刑判決もまずない」とのこと。
 別に具体的な根拠を持っているわけではありませんが、このことは大筋でこの映画にも当てはまるのではないのでしょうか?何しろ、エイミーが姿を隠した可能性も随分とあるのですから(注5)。

 確かに日本でも、「遺体なき殺人事件」でありながら立件された例は過去にあるようです(注6)。
 しかしながら、その場合は容疑者が殺人を自白していたりするようで、本作のように、キッチンの床板のルミノール反応などはあるにしても、エイミーの遺体がなく(注7)、さらにニックが妻殺しを強く否定しているケースでは立件が難しいのではと考えられるところです。
 何より、本作では、殺人容疑で逮捕されたにもかかわらず、随分簡単にニックは保釈されています。これは、ニックが雇ったボルト弁護士(タイラー・ペリー)の手腕の賜物と映画では言われていますが、どうなのでしょう(注8)。

 さらにまた、コリンズ(注9:ニール・パトリック・ハリス)を殺したエイミーが、血だらけの服装のまま家に戻ってきます。そして、警察での取調べはなされるものの、随分とお座なりで(注10)、結局は無罪放免となってしまいます。
 ですが、この点についても、友人の弁護士は、「日本の場合、監禁や強姦の罪に対しての防衛だとしても、人殺しが正当防衛で無罪とか不起訴になることもありえない」との意見。

 本作の場合、なるほどエイミーは、監視カメラを上手く利用して、まるで自分がコリンズに強姦されたかのように見せることはできたのでしょう(注11)。
 でも、コリンズは何も武器を持っていなかったはずであり(注12)、そんな丸腰の人間を殺したとしたら、少なくとも過剰防衛だとして逮捕されてしまうのではないでしょうか?
 とにかく人が一人殺されているのですから、いくらなんでもあんなに簡単に釈放されてしまうというのは、よく理解できないところです。

 これらの点は、映画を見ている最中は、モヤモヤした感じのままでしたが、後で友人の話を聞いて、果たしてアメリカでは実際のところどうなっているのだろうと疑問に思った次第です。

 とはいえ、エイミーの企みは随分と個人的な思い付きのようで、まともに受け止める必要はないのかもしれませんし(注13)、さらに、最近全米で問題となった警察による黒人青年射殺事件(注14)からすれば、アメリカの場合、正当防衛とされる範囲が日本よりもかなり広いのかもしれません。
 そうであれば、ここで問題にしたような点は言い募る必要性に乏しいとも思えてきますが、どうでしょう?

(3)それらの点がスルーできさえすれば、あとはなかなか興味深いストーリーが展開されているなと思いました。
 例えば、こうした殺人が絡む事件を取り上げるマスコミの姿勢が日本とかなり違うのではと思ったり(日本では、何よりもまず警察発表であり、警察を飛び越えてマスコミが犯人探しをすることは殆ど行われないのではないでしょうか)、そうしたマスコミを利用して一般の空気を味方に付けながら逆に捜査当局に圧力を掛けるなどということも(ニックが雇ったボルト弁護士の作戦)、日本では見かけないことではと思ったりしました。

 また、本作は、主役のニックよりも、むしろエイミーの方に興味が湧いてしまいます。



 よく言われているように(注15)、エイミーはまさにサイコパスの典型といえるでしょうが、面白いことに、映画の最初の方では、ニックの方がマスコミからサイコパスではないかと言われたり、また最後の方で登場するコリンズにもそうした雰囲気があったりします。
 ですから、本作は、サイコパスを巡るサスペンス映画と把握できる感じとはいえ、単にエイミーは、自分を無視したり、自分を縛りつけようとしたりする男を排除しようとしただけであり、最後は、自分の前にひざまずくことになったニックを受け入れたということなのかもしれません。

 それにしても、色々策を弄したエイミーは、その結果として得るものが何かあったのでしょうか?何もせずに、ただ最初に、あんたの子供ができたとニックに言いさえすればラストの状態が得られ(注16)、コリンズを殺すこともなかったようにも思えるのですが?

(4)渡まち子氏は、「2時間29分と長尺だが、まったく退屈しない。登場人物と観客の不安をあおりながら見事なストーリーを紡ぐデヴィッド・フィンチャー。やっぱりこの人の才能はすごい」として80点を付けています。
 前田有一氏は、「結末ドッキリ系をとらせたら右にでるものがいないデヴィッド・フィンチャー監督らしい軽快な語り口で、大人の男女関係を知る誰もが楽しめるミステリに仕上がった」として70点を付けています。
 相木悟氏は、「どんより暗くなる身も蓋もない内容ながら、めちゃくちゃ面白いサスペンスであった」と述べています。



(注1)原作は、ギリアン・フリン著『ゴーン・ガール』(小学館文庫:未読)。
 監督は、『ソーシャル・ネットワーク』や『ベンジャミン・バトン』のデヴィッド・フィンチャー(DVDで『ファイト・クラブ』を見たことがあります)。
 なお、原作者のギリアン・フリンが脚本を書いています。

(注2)実は、ニックの双子の妹マーゴキャリー・クーン)で、二人は「ザ・バー」を共同で経営。

(注3)エイミーは、全てを成し遂げた後は死ぬ気でいて、具体的な日にちまでカレンダーに書き込んでいます。その際には、ポケットに石をたくさん詰めて身を投げて死のうとしていたようです(実際には、死ぬなんてバカバカしいと気が変わって、その計画を放棄しますが)。

(注4)このキャスターは、TVでニックについて酷いことを言っておきながら、エイミーが家に戻った後、インタビューをしにニックたちのところにやってきたところ、謝罪など一切しません。

(注5)エイミーを捜索するボランティア団体が設けられますが、彼らはまるでエイミーがすでに殺されているとばかりに、川岸とか雑木林の中を捜索します。
 他方、ニックが雇ったボイル弁護士は、ニックの言葉に従って、この事件を解決する鍵はエイミーを見つけ出すことだとして、すでに人を雇っていると言います。

(注6)例えば、この記事とかこの記事

(注7)この記事によれば、町山智浩氏は、2002年のスコット・ピーターソン事件をこの作品が下敷きにしているとしているところ、同記事によれば、サンフランシスコ湾東岸で被害者の遺体が発見された後にスコットが逮捕されていて、決して“遺体なき殺人事件”ではなさそうです。

(注8)日本の場合は、特に殺人事件の場合、被疑者が保釈されるようなことはないように思われます。

(注9)コリンズは、エイミーに昔しつこくつきまとっていた男ながら、大変な金持ちであり、持ち金を強奪されたエイミーが行く先がなく頼ってくると、豪壮な別荘に匿ってくれます。

(注10)ボニー刑事が疑念を持ってエイミーに対する質問を続けようとしますが、遮られてしまいます。

(注11)でも、監視カメラの操作記録が何らかの形で残るのでは?

(注12)殺した死体に武器を持たせても、その不自然さが明るみに出るのではないでしょうか?

(注13)実のところエイミーは、単にニックを罰しようと考えただけのことであり、死刑にまで陥れようとは思っていなかったのかもしれません。
 また、マスコミは、エイミーが戻ってくると、今度は二人の間に子供ができることの方に関心を移してしまい、彼女がルミノール反応など様々な工作をしたことについて咎めだてをしませんが、それは子どもじみたイタズラとみなしているからなのかもしれません。

(注14)例えばこの記事

(注15)例えば、ブログ「・*・ etoile ・*・」のこのエントリ

(注16)ニックは親としての責任感が強く、生まれてくる子供のために、エイミーがどんな女であるか十分に知りながら結婚生活の継続に同意するほどなのですから(なぜ、そんなに責任感が強いのか、クマネズミにはよくわからないのですが)。



★★★☆☆☆



象のロケット:ゴーン・ガール

自由が丘で

2014年12月23日 | 洋画(14年)
 『自由が丘で』をシネマート新宿で見てきました。

 本作(注1)は、韓国映画に加瀬亮が出演するというので、久しぶりの韓流ながら、映画館に行ってきました。

 本作は、主役のモリ加瀬亮)が、以前語学学校の講師として働いていたソウルに再び行って、別れたものの思い切れない恋人・クォンソ・ヨンファ)に会おうとする至極単純な物語です。
 加えて、映画の中でモリは、様々の韓国人と英語でコミュニケーションをとりますが、複雑な内容の会話は行いません。
 ですから、一見すると、全体としてすごくわかりやすい平凡な映画のような印象を受けます。

 しかしながら、
イ)元々は簡明なストーリー展開のものを、監督が編集作業でシーンの入れ替えを複雑に行っているために、見ている最中も、見終わってからも、この作品は一体何なのだろうかといろいろ考えさせられます。

 例えば、モリが宿泊しているゲストハウス「ヒュアン」の隣の部屋に若い女が宿泊していますが、ある時彼女は、同じくそのゲストハウスに滞在しているサンウォンキム・ウィソン)とつまらないことで言い争った後、父親が現れて連れ出されてしまいます。
 その後に若い男がやってきて、中庭で以上の一部始終を見ていたモリに、「隣の部屋の女はどこへ行った」と尋ねるものですから、モリは「年配の男と出て行った」と答えると、その男は「さては、父親と帰ったな」と言います。さらに、モリが「彼女の後を追わないの?」と訊くと、その男は「変わった男だ」と捨て台詞を残して「ヒュアン」を立ち去ります。
 これはこれで一まとまりのエピソードとして観客の方は理解できますが、問題は、その後に、次のようなシーンが挿入されていることです。
 すなわち、モリが散歩をしにゲストハウスを出て、近くの小さな店の中を覗くと、なんとさっきの女がいるではありませんか。そして、その女は、モリのことを全く無視して、その店を出て立ち去ってしまうのです。
 モリは、その後姿を見守るだけですが、観客の方も狐につままれた感じになります。
 この女は、父親と一緒に荷物を持ってゲストハウスから立ち去ったのではないか、それも父親は彼女を若い男から引き離そうとしたのではないか、にもかかわらず、どうしてこんな近いところに何も持たずに一人でいるのか、更にはなぜモリに気づかないのか(注2)、などと様々な疑問が湧いてくるのです。
 ただ、このシーンが、彼女がゲストハウスから父親によって連れだされる前に置かれているのであれば、観客側の方にこうした疑問は湧かないことでしょう。ですが、順序をちょっと入れ替えてしまうだけで、同じシーンながらも、様々の疑問が持ちだされ、観客は途方に暮れることになります。
 勿論、このシーンは、そう言えばその前にあの店で見た女だなとモリが後から回想したものだ、とみなせば済むのかもしれません。
 でも、いわゆる回想シーン特有のトーンになっているわけでもなく、それまでのシーンに引き続いてこのシーンを見せられると、観客の方では、アレッという思いに囚われ、一体どういうことだろうか、ひょっとしたらこの女には日本人にはうかがい知れない謎が隠されているのではないのか、などといろいろ考え込まざるをえなくなります。

 こうした時間の順序の入れ替えについては、劇場用パンフレット掲載の「Introduction」には、「クォンが、順番がバラバラになったモリからの手紙(注3)を読み進めると同時に、物語が紡がれていく。いったりきたりするモリの心を写すプリズムのように、時間も少しずつ乱反射していく」と述べられています(注4)。

 実際にも、本作のアチコチに、クァンがモリの手紙を読んでいる短いシーンがいくつも嵌めこまれています。
 そして、それに対応するように、シーンの順序の入れ替えが色々なされます。

 一番顕著なものはラストシーンを巡るものでしょう。もとの順当な流れに沿うものであれば、何事もないごく単純なお話ということになります。ですが、本作のように、同じシーンながらもその順番を入れ替えることによって、かなり複雑なストーリーであるかのように変換してしまいます。
 ですが、ラストについて詳しく触れれば酷いネタバレになってしまいますので、後は見てのお楽しみといたしましょう。

ロ)次に、本作が面白いなと思ったのは、モリが韓国人たち(注5)と英語でコミュニケーションをとる点であり、それも、劇場用パンフレット掲載の「Introduction」にも「韓国語でも日本語でもない、英語でのぎこちない(登場人物と)モリとの掛け合いや、何気ない、ささやかな会話と仕草」とあるような雰囲気なのです。



 例えば、モリは、近くにある「自由が丘」という名のカフェによく行き、ついにはそこの女主人・ヨンソンムン・ソリ)と懇ろな関係に至るのですが、レストランで食事をしている最中にヨンソンが、モリの読んでいる本(吉田健一著『時間』)に目をつけて、英語で「どんな本なの?」と尋ねるので、モリが「時間に実体はない」などと本の内容を説明し出すと、ヨンソンは「今度ゆっくり教えて」と言うので話が途切れてしまいます(注6)。



 また、ゲストハウス「ヒュアン」の女主人(ユン・ヨジュン)は、モリにスイカを出しながら、「どんなときにしあわせ?」と尋ね、モリは「花を眺めている時。木も好きです」と答えます(注7)。

 どうも印象としては、モリは様々の韓国人とコミュニケーションを図っているものの、表面的なところに留まっているように見えます。
 それで、中に一歩踏み込もうとすると、表現が意図に反して厳しいものとなってしまい(あるいはそのように受け取られてしまい)、相手との対立が生じてしまう感じがします(注8)。

 こうした日本人モリと韓国人との関係から、あるいは現在の冷えきった日韓関係についてまでも議論できるのかもしれませんが、これまでどおりここではそうした政治的な方面は差し控えることといたしましょう(注9)。

ハ)本作では「夢」が上手く絡まってきます。
 カフェ「自由が丘」の女主人・ヨンソンの飼い犬がいなくなっていたところ、その犬をモリが路地で見つけたことによって、モリとヨンソンは親しくなります。
 その犬の名はクミというのですが、韓国語では「夢」を意味するようです(注10)。

 また、以前クォンと行ったことのある小川の縁で「モリ………、モリ………」と言う彼女の声を聞く、といった夢を見て、モリは、「奇妙な夢だった」と呟きます。

 さらには、モリはラストの方ですごい夢を見るのですが、果たしてそれが本当に夢なのかどうか、見る人によって解釈は分かれることでしょう。

ニ)上映時間が67分という短さも本作の特色といえるでしょう。
 このところ、『0.5ミリ』(196分)や『インターステラー』(169分)、『6才のボクが、大人になるまで。』(165分)といった長尺のものを見続けてきた者からすると(『フューリー』も135分)、一方で、酷くあっけなさを感じてしまいますが、他方で、大作ばかりが映画ではなく、むしろこういった掌篇も味わい深く好ましいなと思えてきます。

ホ)主演の加瀬亮(注11)は、これまでも『永遠の僕たち』など海外の作品にも出演してきましたが、今回もモリという役柄を自分のものとして実に巧みに演じています。
 なお、韓国映画には、以前、『悲夢』に出演したオダギリジョーを見たことがあります。ただ、彼は日本語を使っていました。今回加瀬亮は英語ですが、日韓の映画交流はなお一層必要とはいえ、言葉の壁が大きいのかもしれません。



(注1)本作の監督・監督はホン・サンス
 本作の邦題は、主人公のモリがよく行くカフェの名(カフェの前に置かれている看板に「JIYUUGAOKA 8丁目」とあります)にちなんだものですが、原題は「Hill of Freedom」。
 なお、この記事によれば、本作は、本年のナント三大陸映画祭でグランプリ(「金の気球賞」)を受賞(2011年に『サウダーヂ』がグランプリを受賞)。

(注2)実は、その女とサンウォンとが言い争っている時に、モリが現れて、サンウォンを彼女から引き離しているのです。このシーンからすれば、彼女はモリを見ているはずです。

(注3)映画の冒頭、クォンが、モリからの手紙を携えて階段を降りる途中、めまいに襲われてその手紙を下に落としてしまい、慌てて拾うものの順番がバラバラに(中の1枚は拾わずじまいに)なってしまいます。
 なお、クォンがモリの手紙を受け取るのは、以前2人が働いていた語学学校の受付。ただ、2人が働いていたのは2年前のこと。なぜ、丁度その時点にクォンが現れ、モリの手紙を受け取ることになるのかはよくわかりません(手紙の日付は1週間前になっているとのこと)。

(注4)同じ箇所には、引き続いて「時間の流れから、その断片を少し解放させることで、私たちは同じ時間を少し違ったものとして体験することができる。そこから今までとは違った見え方や行動が生まれる」とのホン・サンス監督の言葉が引用されています。

(注5)本作には、韓国人の妻がいて達者な韓国語を話す西洋人も登場しますが。

(注6)実は、これと同じような会話がカフェでも繰り返されます。

(注7)ゲストハウスの女主人は、また、「私は日本人が好き。礼儀正しくて、清潔だから」と言います。これに対し、モリが「低次元の韓国人は嫌いだけど(語学学校で働いていた時にモリは騒動を引き起こしたようです)、尊敬する女性(クォンのことでしょう)も韓国人。韓国人を一括りできない」と答えると、女主人は「正直な人ね」と言います。
 なお、モリは、様々な韓国人から「どうして韓国に?観光?仕事?」と尋ねられます。なんだか、日本人が、外国人に対して「日本についてどう思うか?」と尋ねるのと同じような印象を受けます。

(注8)モリとヨンソンとの関係はスムースながら、下記「注10」で触れるように、モリは相手の言ったちょっとしたことに腹を立てたり、また本文のイで取り上げたエピソードでは、若い女を追いかける男が、モリの言ったことに立腹したりします。
 あるいは、クォンと2年前に別れたのも、英語を通したコミュニケーションの行き違いによるものかもしれません(尤も、韓国人のサンフォンは、同じ韓国人の若い女と激しい口論をするのですが)。

(注9)例えば、『The New Yorker』に掲載されたこの記事において、「the subject that underlies the entire story, one that encompasses not just the love affair but history itself, is international relations」とか「Hong is also a political filmmaker in the most abstract but decisive sense」とされているのはかまわないとしても、「Japan annexed Korea in 1910 and, during the Second World War, conscripted hundreds of thousands of Koreans into forced labor and compelled tens of thousands of Korean women to serve as “comfort women,” sex slaves to the Japanese army.」と事々しく述べられているのを見ると、暗澹たる気持ちになってしまいます。

(注10)カフェ「自由が丘」で隣の席にいた男(イ・ミヌ)が、モリに「クミ」の意味を説明します。
 実はこの男はヨンソンの恋人で、話の中でモリが「無職だ」と答えると「働けよ」と言うものですから、モリは怒ってカフェを出ます。

(注11)最近では、『ペコロスの母に会いに行く』とか『はじまりのみち』で見ました。



★★★★☆☆



フューリー

2014年12月18日 | 洋画(14年)
 『フューリー』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)戦争映画はあまり好みではありませんが、ポスターに「アカデミー賞最有力」とあるのにつられて映画館に行ってきました。

 本作(注1)の時代設定は、1945年4月(注2)。
 「フューリー」と名付けられたM4中戦車シャーマンの指揮官がコリアー軍曹(ウォーダディの愛称:ブラッド・ピット)。



 その部下には、砲手のボイド(愛称はバイブル:シャイア・ラブーフ)、操縦手のガルシア(愛称はゴルド:マイケル・ペーニャ)、装填手のグレイディ(愛称はクーンアス:ジョン・バーンサル)がいます。
 そして、直前の戦闘で戦死した部下レッドの代わりに、新兵のノーマンローガン・ラーマン)が副操縦手として加わります。



 ノーマンは、まだ18歳であり、元々事務担当のタイピストで、戦場での経験はゼロ。
 その彼が、コリアー軍曹以下の手荒いしごきを受けて次第に一人前の兵隊に育っていくのですが、一体どんな経験を戦場ですることになるのでしょうか、………?

 確かに、中戦車シャーマンと、ドイツ軍の重戦車ティーガーとの一騎打ちは随分の迫力があります。



 また、戦略上の要衝を「フューリー」だけで死守するラストの戦闘シーンもなかなかのものです。 それに、全く戦闘経験がなかった新兵が立派な戦闘員に育っていく様子も描かれたりして、まずは見応えありといえるでしょう(注3)。

(2)とはいえ、やっぱりこれまでのアメリカの戦争物と同じように、本作でもドイツ兵は基本的に悪として描かれ(注4)、銃弾に簡単に倒れていきます(SSの将校に至っては、投降しても問答無用に米兵の餌食となります)(注5)。
 特に、戦略上の要衝であるクロスロードを「フューリー」だけで死守する時の戦闘シーンでそう感じましたが、コリアー軍曹が戦車の砲塔の上で身を晒して機関銃を打ち続けても、敵弾には全然当たらずに、敵のドイツ兵が次々と倒れていくだけなのです(注6)。
 こうした格好のいい主役の描き方は、これまでの戦争物(広く言えばアクション物)とそんなに大きな違いはないように思われます。

 そして、一番違和感を持ったのは、フューリーでこのクロスロードを死守するという設定です(注7)。映画では、その戦車に搭乗するわずか5人で300人の規模のドイツ武装SS大隊を迎え撃つことになります。
 これでは、以前に見た『十三人の刺客』と同じことではないでしょうか(注8)?
 同作では、「300人以上の軍勢に僅か13人の侍が挑みかかり、そのトップの首を取ろうという戦闘」が描かれます。

 確かに、この二つの作品では描かれている時代が違い、同作では弓以外の飛び道具は使われませんし、なによりも13人と5人とで人数が違うかもしれません。
 でも、少人数がものすごい数の敵と対峙して目的を貫徹しようとする物語の骨格は共通しているように思います。

 とはいえ、時代劇のチャンバラでは、そうした破天荒なお話でも物凄く面白いと思ったのに対して、本作については、違和感のほうが先に立ちました。
 あるいは、『十三人の刺客』は大昔のファンタジーとして受け入れることができるのに対して、本作は「リアル」を売り物にした現代劇ということで(注9)、同じような設定にしても受け入れることが少々難しいのかもしれません。
 本作が、実話に基づいた作品ということなら話は別ながら、そうではないのですから(注10)、一体そんなことが実際に起こりうるのかという感じになってしまいます(注11)。

 結局、この映画も、そうした極端な設定による物語を描き出すことで、米軍の素晴らしさを訴えようとした、ある意味で戦意高揚映画ではないのか、と思えてしまうのですが。

(3)渡まち子氏は、「1台の戦車で300人ものドイツ兵に立ち向かった5人の男たちを描く戦争アクション「フューリー」。本物の戦車を使用して撮影するなど、リアル重視の映像が迫力たっぷり」として70点を付けています。
 前田有一氏は、「感動的なストーリーと見ごたえのある映像、血沸き肉躍るスリル。エンターテイメント性の高い、見事な戦争映画である」として85点を付けています。
 秋山登氏は、「これは、戦争映画のどの部類にも属さない作品である。ただ戦場の実態を如実に伝えているにすぎない。いわば、戦争をありきたりの型にはめるのではなく、丸ごと描こうとしているのだ。注目に値する野心作といえよう」と述べています。



(注1)監督・脚本・製作はデヴィッド・エアー

(注2)ドイツの降伏は、翌月の8日

(注3)俳優陣について、最近では、ブラッド・ピットは『それでも夜は明ける』、シャイア・ラブーフは『ランナウェイ 逃亡者』、ローガン・ラーマンは『ノア 約束の舟』、マイケル・ペーニャは『アメリカン・ハッスル』(アラブ人・パコの役)、ジョン・バーンサルは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(ドラッグの売人の役)で、それぞれ見ています。

(注4)しかしながら、ラストあたりで、脱出口を使って戦車の下に隠れているノーマンを、通りかかった若いドイツ兵の一人が見つけるのですが(目と目が合います)、なぜか彼はノーマンを見逃してくれます。

(注5)ラストシーンは、クロスロードで擱座したフューリーの周りに倒れている実に夥しいドイツ兵の死体と、その間を通過していくアメリカ兵たちの姿です。
 フューリーに立ち向かったドイツ軍は、対戦車砲などの兵器をいくつも保有する精鋭部隊として描かれていますから、あまりにフューリーに接近しすぎた嫌いはあるにせよ、しばらくして態勢を立てなおしたら、戦車1両くらいは簡単に撃破できるのではないか、と思いました(あるいは、指揮官が皆やられてしまい、烏合の衆になってしまったのでしょうか)。

(注6)それでもしばらくすると、さすがのコリアー軍曹もドイツ軍の狙撃兵に撃たれます。でも、2度も撃たれながらも、即死ではなく戦車の中に転がり落ちるだけで、残っていたノーマンに指示を与えたりするのです(加えて、最後には、ドイツ兵によってフュ―リーの中に手投弾を投げ込まれるのですが、その後ノーマンが戦車の中に入り込むと、コリアー軍曹は戦死しているものの、ほとんど損傷を受けてはいないかのように見えます)。

(注7)映画では、当初、コリアー軍曹が率いる戦車小隊(途中からコリアー軍曹が小隊長になります)には4両の戦車が所属していました。ですが、ティーガー戦車の待ち伏せ攻撃に遭って、3両は破壊されてしまい、結局残ったのはフューリー1両だけとなってしまいます。

(注8)ブログ『お楽しみはココからだ~映画をもっと楽しむ方法』のこのエントリでも、本作は「西部劇「アラモ」や我が国の「七人の侍」「十三人の刺客」等の、少数の精鋭たちが圧倒的な軍勢に立ち向かう王道アクション映画」を「連想させてくれる」、と指摘されています。

(注9)例えば、本作の公式サイトの「Introduction」には、「圧倒的な臨場感&リアリティをこめて映像化」とあります。

(注10)劇場用パンフレットに掲載の浪江俊明氏のエッセイ『『フューリー』を探せ―その時代と背景』では、「『フューリー』の舞台となっている場所を考えてみると、ルール包囲戦が終わり、エルベ河へ向かう途中のビーレフェルトからハーメルン、ハノーファーの南あたりまでと絞ることができ」るものの、「映画の戦車小隊は架空の部隊だということに行き着きました」と述べられています。

(注11)300名のドイツ兵がこちらに向かっているとのノーマンの報告を受けたフューリーの3人は、ブラピを除いて皆、動けなくなったフューリーを捨てて付近の森の中に隠れようと言い出します。ですが、コリアー軍曹が、「俺は逃げない、十字路を守る。俺にはこれが「家」なんだ("It's my home." )」と言うと、結局、他の4人もコリアー軍曹に従うことになります。
 とはいえ、死ぬことが余りにも確実な方法を選択することは、いくら命令があるとはいえ、この場合果たして合理的なことなのかどうか、特に、アメリカ人がまるで日本の特攻隊的ともいえる選択をするものかどうか、疑問に思ってしまうところです〔補注〕。
 確かに、要衝クロスロードを敵の手に渡してしまうと、先行した米軍のドイツ攻撃部隊の後方が危なくなるのかもしれません。
 でも、その危うくなる程度がどれほどのものなのか、映画では上手く説明されていません。本当に、5人の命と引き換えにして守らなければならないほどの価値のある場所なのでしょうか。
 映画の画面からは、単なる平原の中に設けられている十字路に過ぎないように見えます。
 戦略上の要衝と言ったら、常識的には、高地とか、橋のない川における渡河可能地点といったものではないかと思いますが、このクロスロードがそうした地点であるようには見えない気がします。

〔補注〕劇場用パンフレットの「Introduction」には、「なぜ若き部下たちはウォーダディーを“信じ”、死を意味する無謀な任務を果たしたのか」とありますが、まさに「なぜ」という思いにとらわれます。
 ただ、映画では、クロスロードでの戦闘を控えて、バイブルが「聖書の一節を思い出す」と言って、「主の声:誰をつかわそう?誰が行くだろう?私は言った:私がおります。私をつかわせてください」と暗唱したところ、コリアー軍曹が「イザヤ書第6章(第8節)」と応じたので、バイブルが「そのとおりだ!」と驚きます。
 まさか、コリアー軍曹の部下の4人がコリアーを神として“信じ”たわけではないと思いますが。
 なお、このサイトの記事によれば、『イザヤ書』に「fury」という言葉が随分と登場するとのこと。
 としたら、本作は、キリスト教的な観点からも考えるべきなのかもしれません(何しろ、「牧師の息子で信仰心の厚い」バイブルが登場するばかりか、コリアー軍曹自身も聖書に通じているのですから!)。ですが、そうした方面に無知なクマネズミには手に余ります。
 〔本作の冒頭の、それ以降の大層リアルなシーンに比べると酷く異質な感じがしてとてもリアルと思えないなシーン(戦車戦が終わった戦場に、ナチの将校が白馬にまたがって一人忽然と現れ、これまた突然戦車の中から飛び出したコリアー軍曹によってアッサリと殺されるのです)も、例えばこのサイトの記事によれば、聖書に基づいて解釈できるようです。そして、ラストのクロスロードでの激しい戦闘も、あるいはクロス(十字架)を巡る戦いとみなせるのかもしれません!〕



★★★☆☆☆



象のロケット:フューリー

ニューヨークの巴里夫(パリジャン)

2014年12月13日 | 洋画(14年)
 『ニューヨークの巴里夫(パリジャン)』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)本作(注1)は3部作の最終章であり、クマネズミは前の2つを見ていませんから躊躇しましたが、それでも大丈夫だとの情報を得て、映画館に行ってきました。

 本作の主人公のグザヴィエロマン・デュリス)は、まずまずの小説家。
 今はニューヨークにいるのですが、一方でパソコンに小説を打ち込みながら、他方で、パリ在住の編集者とパソコンを通して連絡しています。
 その中で、この10年間の生活は幸福だったと言いながら、グザヴィエは、妻ウェンディケリー・ライリー)と2人の子供たちと一緒に写っている写真を編集者に見せます。
 そのウェンディとグザヴィエは半年ほど前に別れています。きっかけとなったのは、同性愛者のイザベルセシル・ドゥ・フランス)に精子を提供したことにあるようです。
 そして、ウェンディは、仕事で行ったニューヨークで愛人を作り、とうとう子供を連れてニューヨークに渡ってしまいました。
 別れる間際、飛行場で、子供のトムから、「ニューヨークに住みたくない。パリにいたい。僕と別れるのが嬉しい?」と言われたグザヴィエは、子供のことが気にかかって、ニューヨークにやってきたのでした。
 ニューヨークには、セントラル・パークを見下ろす高級マンションで暮らすウェンディばかりか、イザベルもその愛人のジューサンドリーヌ・ホルト)と一緒にブルックリンで暮らしており、さらには、後からグザヴィエの前の恋人のマルティーヌオドレイ・トトゥ)も現れます。



 さあ、いったいグザヴィエはどんなことになるのでしょうか、………?

 本作は、別れた妻と一緒に行ってしまった子供を追ってニューヨークに渡る主人公が、結局は、同地で暮らすことになるというお話。
 昔はアメリカ人が巴里に憧れたようですが、今ではそれが逆転しているのかもと思わせたり(邦題はガーシュインの「パリのアメリカ人」にちなむものでしょう)、主人公が移民局の係官との交渉で四苦八苦している様子が面白く描かれたり(注2)、ショーペンハウエルとかヘーゲルが画面に飛び出したりと(注3)、なかなかチャーミングな作品でした(注4)。

(2)本作のセドリック・クラビッシュ監督も、『6才のボクが、大人になるまで。』のリチャード・リンクレイター監督が3部作(注5)を制作したのと同様に、同じ俳優を11年間にわたって出演させています。それも、リンクレイター監督よりも多い4人もの俳優を継続して使っているのです。
 そうなると、ストーリーもかなり入り組んだものとなり(注6)、本作においては、グザヴィエは5人の子供に関係することになります(注7)。



 そういえば、『6才のボクが、大人になるまで。』においても、メイソンの母親オリヴィエが子供2人を連れて、子供が同じく2人いる大学の心理学の教授と一緒になったりしています。

 特に、レズビアンのイザベルに赤ん坊が生まれるのですが、それはグザヴィエが精子提供してできた子供なのです。
 なんだかどこかで見たような話ではと思いついたのが、『まほろ駅前狂騒曲』。
 同作に登場する行天松田龍平)が精子提供をした話は、その前作『まほろ駅前多田便利軒』で語られるところ、同作では、生まれた子供・はるを、多田瑛太)と行天が一定期間預かって面倒を見るというストーリー(注8)になっています。
 本作でも、イザベルとその愛人のジューが生まれた子供の世話をしていますが、グザヴィエは、その子供の認知を迫られたり、ほんの短い時間ですが預かったりもします(注9)。

 今や、先進国の家族の状況が似たようになりつつあるということなのでしょうか(注10)?

(3)渡まち子氏は、「40歳の小説家がNYで人生に悪戦苦闘するヒューマン・コメディ「ニューヨークの巴里夫(パリジャン)」。ロマン・デュリスっていつまでも若いなぁ」として65点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「演出は、ニューヨークの町のリアルな雰囲気を背景に、例えばグザヴィエの心象風景にヘーゲルを登場させるなど、人間模様や出来事をユーモラスに活写。その映像の積み重ねから人生の機微を浮き彫りにする様は何とも見事で心地よい」として★4つ(見逃せない)を付けています。



(注1)監督は、『Parisパリ』のセドリック・クラビッシュ
 なお、原題は「Casse-tete chinois」(中国のパズル)。
 ちなみに、英題の「Chinese Puzzle」は「難問(a complicated problem)」 という意味があるようですから(このサイトを参照)、主人公が書いている小説のタイトルに通じているようにも思われます(原題のcasse-tête chinoisにも、このサイトの記事によれば「難問中の難問」との意味があるとのこと)。

(注2)日本でも、この事件など偽装結婚を巡る事件が頻発していますから、移民局の係官の対応には興味深いものがあります。
 加えて、移民局の係官が、グザヴィエのアパートにやってきて家族の様子を実地に見に来るというのですから大変です。その際のドタバタが本作のクライマックスとなっていて、実に面白く描かれています。

(注3)グザヴィエが厳しい目に遭遇すると、彼らが登場します。
 ウェンディが、ニューヨークで子どもと暮らしたいと言い出した時に、ショーペンハウエルが現れ、「人生は刺繍した布に譬えることができる。誰しも生涯の前半には刺繍した布の表を見せられるが、後半には裏を見せられる。裏はたいして美しくないが、糸の繋がりを見せてくれるから、表よりはためになる」というようなことを、実際に刺繍してある布を見せながらグザヴィエに言うと、グザヴィエも納得した感じになります(引用は、このサイトの記事より)。
 また、小説『難問』の執筆に行き詰まったグザヴィエの前にヘーゲルが登場し、自分は『精神現象学』を著し、その中で「すべて無は有から生じる」(?:All nothingness is the nothing of something)と書いたと言うのですが、それをヒントにしたグザヴィエは、また小説にとりかかるのです。

 なお、グザヴィエがチャイナタウンのアパートで一人マットレスを敷いて過ごす夜には、バッハの『ゴールドベルク変奏曲』(グレン・グールドが演奏しているものでしょう)のアリアが流れたりします。

(注4)俳優陣について、最近では、ロマン・デュリスオドレイ・トトゥは『ムード・インディゴ うたかたの日々』、セシル・ドゥ・フランスは『少年と自転車』、ケリー・ライリーは『フライト』で、それぞれ見ました。

(注5)『恋人までの距離(ディスタンス)』、『ビフォア・サンセット』、『ビフォア・ミッドナイト』。

(注6)第1作の『スパニッシュ・アパートメント』(未見)では、24歳のグザヴィエは、役人になるためにバルセロナに留学し、そこでの共同生活を通じてイザベルやウェンディと知り合いますが、パリで恋人だったマルティーヌを失います。
 次の『ロシアン・ドールズ』(未見)では、30歳のグザヴィエは小説家になろうとしています。マルティーヌやレズビアンのイザベルとも付き合いますが、ウェンディと親密な関係になります。

(注7)ウェンディがニューヨークに連れて行ったトムとミアはグザヴィエの子供ですが、マルティーヌがニューヨークに連れてきた2人の子供はグザヴィエの子供ではないのでしょう。

(注8)母親の三峯凪子本上まなみ)が、仕事でアメリカに1か月半行くことになったため。
 なお、三峯凪子は行天の元妻ですが、イザベルと同様に同性愛者とされています。

(注9)イザベルから、グザヴィエの部屋を1時間だけ使わせて欲しいとの連絡があったものですから(新しい愛人であるベビー・シッターと過ごすためです)、イザベルの子供まで預かることになります。
 ただ、グザヴィエの子供のトムが、イザベルからの電話をそばで聴いていて、預かった子供を見て「パパの子供なの?」と尋ねるので、グザヴィエは、事の顛末をトムに話さざるを得なくなります。

(注10)加えて、日本でも中国人観光客があふれている状況にありますが、この映画でも中国が溢れかえっています〔グザヴィエがニューヨークで借りることになる部屋はチャイナタウンにありますし(イザベルの愛人のジューが昔借りていたもの)、マルティーヌは中国茶の取引の関係でニューヨークに出張してきます(残留農薬検査を要請しに)〕。
 こんなところにも、世界共通の今の話題が描かれているように思われます。



★★★☆☆☆



象のロケット:ニューヨークの巴里夫(パリジャン)

6才のボクが、大人になるまで。

2014年12月10日 | 洋画(14年)
 『6才のボクが、大人になるまで。』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)評判につられて映画館に行ってきました。

 本作の舞台はテキサス州のある町。
 初めの方では、6歳のメイスンは、ベッドで母親のオリヴィアにハリーポッターの本を読んでもらったり、一人でブランコに乗ったり、友達と物陰で雑誌を見ながら「みんなおっぱいがデカイ」と言ったりしています。
 そんな時に、オリヴィアが、良い仕事に就くためにヒューストンに引っ越して大学に入ると言い出します。
 メイソンの姉・サマンサは、「嫌」と言っていたものの、最後は「ママの好きにすれば」と認めます。
 他方で、メイソンが「友達とはどうすれば?」と尋ねると、オリヴィアは「メールや手紙で連絡すれば」との返事。さらに、「ママはパパのこと好きなの?引っ越したらパパが僕達を探せなくなってしまう」と言います。父親のメイソン・Sr.は、既にオリヴィアと離婚しており、アラスカに行っているのです。

 それでも、ヒューストンへの引っ越しは決行されます。
 ヒューストンでは、祖母の家で暮らすことになり、また、アラスカから戻ってきたメイソン・Sr.が、2週間おきに子供たちと面会しに。



 レストランで、メイソン・Sr.が「9.11はイラクとはなんの関係もなかった」と言うと、サマンサは「学校の先生は、あの戦争は良い戦争だった、と話している」と答えたりします。
 最後にメイソン・Sr.が、「これからはもっと会おう。時間が必要だった。ママは扱いにくい人なんだ」などと二人に言います。

 3人は家に戻ります。
 メイソンがサマンサに「パパは今夜家に泊まるかな?」と期待を込めて話していると、外の庭ではオリヴィアとメイソン・Sr.が喧嘩している様子。メイソン・Sr.は一人で立ち去ってしまいます。

 そんなこんなで、メイソンを巡り様々な出来事が起きますが、サテハテ一体どんなことになるのやら、………?

 本作は、主役のメイソンが6歳の時から18歳になって大学に入学するところまでを描き出した作品です。
 一番大きな特色は、主役を演じるエラー・コルトレーンが6歳から18歳までを全部一人で演じている点でしょう。



 ということは、この映画の撮影は12年間にわたっていることになります。そして、彼だけでなく、母親のオリヴィア役のパトリシア・アークエット、父親のメイソン・Sr.役のイーサン・ホーク(注1)、姉のサマンサ役のローレライ・リンクレーター(監督の娘)も、12年間一緒にお付き合いをしたわけです。
 と言って、本作は、一人の子供の成長を記録したドキュメンタリー作品ではありません。きちんと脚本があって、劇映画仕立てになっているのです。
 加えて、本作も、『0.5ミリ』(196分)とか『インターステラー』(169分)と同様に長尺(165分)ながら、その長さを少しも感じさせませんでした。

(2)本作を制作したリチャード・リンクレイター監督は、これまで『恋人までの距離(ディスタンス)』、『ビフォア・サンセット』、『ビフォア・ミッドナイト』の3部作を制作していますが、そこにおいても、1995年の第1作から2013年の第3作(日本公開は本年)という18年間に渡り、同じ俳優(イーサン・ホークジュリー・デルビー)を継続的に使っています。
 ですから、同じ俳優を長期に渡り使うということは、この監督にとってそんなに大したことでないのかもしれません。とはいえ、本作の凄い点は、一本の映画においてそれを敢行したことにあるでしょう。
 それも、外形のみならず、精神面でもどんどん変化していく「少年期」(boyfood:原題)にある子供を主役に据えたのですから、驚いてしまいます(注2)。

 といって、本作は、議論したくなるような劇的な盛り上がりは特になく、どちらかと言えば淡々と展開されていきますから(それでいて、飽きさせずに最後まで観客を惹きつけるのですから見事です)、こちらとしてもたわいもない感想が次々と湧いてくるくらいでした。
 それをあえて書き出せば、例えば、メイソンの母親のオリヴィアを巡っては、
 


a.それにしても随分と何回も離婚をするものだな。
 オリヴィアは、メイソン・Sr.と離婚した後、大学で心理学を教える男と再婚しますが、アル中でDVが酷いことから離婚。しばらくすると、今度は元陸軍兵の男と一緒に暮らすようになります(注3)。
 メイソン・Sr.は芸術家風、2度目の夫は知性的、3番目の男は肉体派というように、オリヴィアは、自分の趣味に合った男というよりも、どちらかと言えば趣向を替えながら選んでいる感じがしてしまいます。
 そんな男と無理矢理付き合わざるをえないメイソンやサマンサの方は、堪ったものではないでしょう。

b.権威主義的な父親が多いのだな。
 オリヴィアの2度目の夫(注4)は、アル中のせいもあるとはいえ、家の者を自分が定めた細かい規則で縛り付けようとしますし(注5)、3番目の男も、帰りの遅いメイスンに対して、厳しい目つきをしながら、「ここは俺の家なのだから俺の規則に従え」と言います。
 この場合、最初のメイソン・Sr.は、随分と都合のいい位置にいると言えます。なにしろ、子供たちの日常の面倒は見ずに、月に何回か旅行気分で子供たちと過ごせるのですから(尤も、彼も、良い父親ではなかったことに悩み、そして良い父親になろうと努力していることを子供に打ち明けるのですが)。

c.いとも簡単に大学のポストが得られるのだな。
 無論、オリヴィアの才能が優れているのでしょうが、ヒューストンの大学で勉強し修士の資格をとると、さっそく大学で教鞭をとっているのです(注6)。
 どうやら、18歳になったメイソンは母親が教えている大学に入学することになるようです(注7)。

(3)渡まち子氏は、「6歳の少年とその家族の12年間の変遷を描いた壮大な家族ドラマ「6才のボクが、大人になるまで。」。時間の流れを主役にした意欲的な実験作」として85点を付けています。
 前田有一氏は、「この映画を見ると、たしかにいつの間にか主人公は成長する。そしてかわいらしいなあと思ってみていたはずの、ほんの数十分前の序盤のエラーくんの顔を、私たちはあっという間に忘れてゆく。まさに、12年間を2時間45分で疑似体験させる、画期的な映画である」として80点を付けています。
 相木悟氏は、「いやはや、眼の肥えたファンをも唸らせる驚愕の一本であった」と述べています。

 なお、前田氏は、本作は「いったいいまが何年のシーンなのかという情報をほとんど観客に与えない」として、「リチャード・リンクレイター監督は、「あれれ、映画を見ていたらいつの間にかエラーくんの背が伸びてる! パトリシアさんのしわが増えている……と思ったらエラーくんに髭が生えてるじゃん」と、このように感じさせたい。感じさせることに全力を尽くしたということだ」と述べています。
 確かに、劇場用パンフレットの「Production Notes」に、「監督リンクレイターにとって、この映画の主要なテーマは、人生同様全体をひとつの大きな流れとして感じてもらうということだった」とあるように、「(監督は)"いつのまにか時間がすぎている"という「現実の時の流れ」と同等の疑似体験をさせたかった」のかもしれません。
 ですが、前田氏が挙げる「ゲーム機」のみならず、実に様々な映像によって(注8)、むしろそれぞれのシーンがいつの頃なのかが観客によく分かるように制作されているように思います。



(注1)最近では、『ビフォア・ミッドナイト』で見ました。

(注2)町山智浩氏のラジオでの喋りを書き起こしたこのサイトの記事によれば、同じような種類の作品としては、フランソワ・トリュフォー監督による「アントワーヌシリーズ」(アントワーヌの成長を20年間に5本撮っているとのこと:この記事を参照)とか、ドキュメンタリー映画で「セブンアップシリーズ」(イギリスの14人の子どもを7年ごとに記録するもので、1964年から撮影が開始されているとのこと)などがあるようです。

(注3)彼は、最後の方では姿を見せませんから、あるいは別れたのかもしれません。

(注4)彼は、大学で「パブロフの条件」を講義している時に、ローリング・ストーンズの「Bitch」(1971年のアルバム『スティッキー・フィンガー』に収録)から「Yeah when you call my name I salivate like a Pavlov dog」を引用するほど洒脱な感じの男なのですが!

(注5)例えば、男の子は庭の草むしり、女の子は台所の後片付けといった役割分担にするとか、男の子は男らしい頭髪にしろと言って、床屋でメイスンを坊主頭にしてしまいます。

(注6)劇場用パンフレットによれば、テキサス州のヒューストンからオースティンにオリヴィアらは引っ越していますから、おそらくテキサス大学を想定しているのでしょう。
 オリヴィアの教室の黒板には、「Bowlby Attachment Theory」と板書されていて(ボウルビィの「愛着論」についてはこちらを参照)、その講義を聞いている女子学生は、講義内容について「知的で面白い」と言っていますから、オリヴィアはなかなかの才能の持ち主なのでしょう。

(注7)メイソン・Sr.がメイソンに、「テキサス大学へ願書を出したのか?」と尋ねたりしています。

(注8)例えば、このサイトの記事が参考になりました〔ただし、ハリーポッターの第2巻は1998年に発売されていますから、これをオリヴィアがメイソンたちに読んでいるのはそれより後のことになります。というのも、メイソン役のエラー・コルトレーンは1994年生まれで、6歳の時(2000年)から映画が始まりますすから。さらに言えば、第6巻の発売は2005年なので、映画の撮影開始よりも前になってしまいます。もしかしたら映画で映し出されているのは、2007年発売の第7巻(最終巻)の発売日の大騒ぎなのかもしれません!〕。
 その記事で挙げられているものの他に、ボーリング場に行くシーンなどからも、時代の情報はいろいろ読み取れるものと思います。
 ちなみに、劇場用パンフレットに掲載の「Interview with the director」では、リンクレー監督も、「今はコンピュータが何年型かを当てる時代なんだ」と述べています。



★★★★☆☆



象のロケット:6歳のボクが大人になるまで

インターステラー

2014年12月06日 | 洋画(14年)
 『インターステラー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作(注1)は、『ダラス・バイヤーズクラブ』でアカデミー賞主演男優賞を獲得したマシュー・マコノヒーが出演するというので、映画館に行ってきました。

 本作の時代設定は近未来。
 地球上の穀物は大砂嵐(注2)の影響で疫病に冒され、食料供給に大きな問題が生じるとともに(注3)、このまま推移すると、大気中の酸素濃度が低下して人間が住めなくなってしまいます。



 NASAは、ブランド博士マイケル・ケイン)を中心にして、人類が居住可能な新たな惑星を宇宙に探すことを極秘裏に計画し、すでに12名の宇宙飛行士を探査に向かわせ、その内の3人から居住可能な新惑星発見の連絡が入っています。
 そこで、NASAは、クーパーマシュー・マコノヒー)をパイロットとし、ブランド博士の娘のアメリアアン・ハサウェイ)を含む3人の科学者たちから成るクルーを宇宙船に乗せて、それら3つの星に向かわせることにします。



 果たして、クーパーたちは3つの惑星にたどり着くことができるのでしょうか、そして人類はその惑星に移住できるでしょうか、………?

 ワームホールやブラックホールを突き抜けたりするなど、わかりにくいところはずいぶんとありますが、ワームホールを通り抜けたり、物凄い大波が主人公らの宇宙船に襲いかかる惑星があったりと、興味深い映像が次々に映し出され、169分もの長尺ながらも、結構面白く見ることが出来ました(注4)。

(以下は、様々にネタバレしていますので、どうぞご注意ください)

(2)本作は、なんだか、およそ1年前に見た『ゼロ・グラビティ』の後日譚のような印象を受けました。
 宇宙に投げ出されてしまったベテラン宇宙飛行士のマット・コワルスキージョージ・クルーニー)を、地球に帰還したライアン・ストーン博士サンドラ・ブロック)が探しに行ってワームホールかブラックホールかで出会って地球に連れ戻してくるお話、というような感じがするのです(注5)。

 とはいえ、
a.本作では、クーパーとアメリアとのラブストーリーがメインではなく(注6)、クーパーとその娘のマーフとの父娘の情愛がメインで描かれています。
 クーパーが宇宙から戻ってきて高齢のマーフに会うと、マーフは「私は帰ってくると信じていた。パパが約束したのだから」と言いますし、クーパーも「だから戻ってきた」と言うのです。

b.また、『ゼロ・グラビティ』は、ほとんどのシーンが宇宙空間でしたが、本作では地上のシーンの割合がかなりあります。
 例えば、『ゼロ・グラビティ』の冒頭では、宇宙船の外で作業をしている宇宙飛行士らが映し出されますが、本作の最初の方では、穀物畑の中にあるクーパーの家の様子が描かれます。
 特に、マーフがクーパーに、「部屋の本棚から本(7注)が自然に落ちる。幽霊がいるんだ」と言いますが、父は全然取り合いません。
 その後、窓から吹き込んだ砂の有り様から地図上の座標を読み取ったクーパーは、NASAの秘密基地を突き止めます。

c.さらに言えば、『ゼロ・グラビティ』では、マット・コワルスキーがヒューストンの管制官と交わす交信内容などが大層ユーモアに溢れていて面白かったところ、本作でもクーパーが軍用ロボットTARSと交わす会話が面白いとはいえ(TRSにはユーモアがプログラムされています)、全体として随分と生真面目に制作されているように思われます。
 なにしろ、独りライアン・ストーン博士の地球帰還が描かれている『ゼロ・グラビティ』とは違って、本作においては、人類全体の救出が問題となっているのですから!

(3)本作が取り上げている方面についてクマネズミの理解不足のために、ワームホールとかブラックホールといった事柄(注8)を抜きにしても、よくわからない点がいくつもあります。
 例えば、
a.本作では、NASA(アメリカ航空宇宙局)がプロジェクトの中心になっていますが、そうだとすると、大砂嵐によって穀物が取れなくなって大変な事態になっているのはアメリカだけのことのように思われます。
 でもアメリカだけのことなら、災害に見舞われていない国からの食料輸入によってアメリカは対応可能なのではないでしょうか(少なくとも、惑星移住を考えるまでもないように思われます)?
 ただ、本作では、穀物を冒す疫病の蔓延によって空気中の酸素の濃度が低下して早晩人類が窒息するから、他の星への移住が必要なのだとされています。それであれば、大砂塵は世界的なものとされているのでしょう(大気は国別に管理されているわけではありませんから!)。
 ですが、その場合には、アメリカが中心になってプロジェクトは進められるとしても、国連レベルの話でしょうし、プロジェクトには他の国の代表も参加することになり、いくらなんでもNASAが中心ということではなくなるのではないでしょうか(注9)?

b.ブランド博士はクーパーに対して、移住が見込める惑星に対して既に宇宙飛行士を派遣していると説明しますが、どうやら12の惑星に対して一人ずつしか送り込んでいないようなのです(例えば、マン博士も独りで冬眠していました)。
 でも、いくら地球の資源が乏しいとはいえ、そしてそれらの宇宙飛行士が極めて勇敢だとはいえ、単独でそんな厳しい目に遭わすのは非人間的であり(注10)、また目的も十分に達成されないのでは(問題に遭遇した時に議論できる相手がいないのですから)、と思えてしまいます(注11)。

c.クーパーは、アメリアをその恋人がいる惑星にむけ発進させた後、宇宙空間に放り出されたものの、目が覚めると「クーパーステーション」内の病院のベッドの上なのです。
 ただその間に、彼は異次元空間に入り込み、元の農場にあった家に戻ってマーフに会っているのです(実際には、お互いに次元が違うので、顔を合わせることはできませんでした)。
 一体いつの間に異次元空間を抜けだして、通常の空間の戻ることができたのでしょうか(注12)?

(4)渡まち子氏は、「人類の存亡をかけて宇宙へ旅立つ壮大なミッションを描くSFドラマ「インターステラー」。驚愕の映像と父娘愛のドラマで、169分の長尺をグイグイ引っ張っていく」として90点を付けています。
 前田有一氏は、「ノーラン監督はきっと無敵感に満ちたポジティブな人物なのだろうと、これを見ると強く思う。永遠の成長を信じて疑わぬその前向きな発想には敬意を払うが、そうした欧米的価値観はもはや時代遅れ」なのであって、「激しくかけ離れた価値観にちょいと白けさせられるクリストファー・ノーラン最新作であった」として55点を付けています。
 相木悟氏は、「哲学っぽい内容ながら、普遍的な感動を呼ぶスペース・エンターテインメントであった」と述べています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「圧巻の映像、マコノヒーをはじめとする役者の魅力を味方につけて観客の心を奪う。目の前の現実を突破して高みを目指そうとする、主人公の、監督の野心のうねりの中に身をひたす快感といったら。ああ、今、自分は映画を見ている。そんな喜びを感じさせる一本だ」と述べています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「見渡すかぎりのコーン畑もCGでなく、実際に牧場に種をまいて育てたという。黒澤明もびっくりのアナログぶりだが、その生々しい手触りが人間ドラマを支える」として★3つ(見応えあり)をつけています。



(注1)本作の監督・脚本・製作は、クリストファー・ノーラン
 以前の作品としては、『メメント』〔この拙エントリの(2)を参照〕や『インセプション』、それにバットマン・シリーズ(残念ながらブログにレビュー記事をアップしませんでした)を見ています。
 最近では、製作総指揮の『トランセンデンス』を見ています。

(注2)ダストボウルと類似の現象のように思われます。ただそれは、天災ではなく人災とされ、また特定の期間(1931年~1939年)に、特定の地域(米国のグレートプレイン)で引き起こされたものです。

(注3)「小麦の次にオクラがやられ、コーンもまもなく枯れる」などと言われています。

(注4)最近では、主演のマシュー・マコノヒーは『MUD-マッド-』、ヒロインのアン・ハサウェイは『ワン・デイ―23年のラブストーリー』、ジェシカ・チャステインは『ヘルプ 心がつなぐストーリー』(シーリア役)、マイケル・ケインは『グランド・イリュージョン』(アーサー・トレスラー役)、マット・デイモンは『プロミスト・ランド』で、それぞれ見ました。

(注5)それに、両作は、SF物というとお定まりの宇宙人(あるいは異星人)的な存在が描かれないという点も類似するように思われます。
 尤も、本作では、「“彼ら”」とされる者が存在するようにも言われています。でも、具体的な形姿を伴って画面に現れることはありません(もしかしたら、より進化した人類なのかもしれませんし、あるいは、単にラッキーな出来事を引き起こした原因を擬人化してそのように言っているだけなのかもしれません)。

(注6)本作の場合、妻を病気で亡くしているクーパーがアメリアに恋心を抱くにしても、アメリアには恋人のエドマンズがいるのであり、さらに彼が既に死んでいることについても、クーパーは知らないのです。



(注7)驚いたことに、このサイトの記事では、本棚から落ちた本がどういうものであるか詳しく記載されています(その中のT.S.エリオットの『四つの四重奏』については、この拙エントリの「注7」で触れたことがあります)!

(注8)このサイトの記事が参考になりました(特に、ブランド教授が引用するディラン・トマスの詩について)。
 さらに、同サイトで紹介されているこのサイトに掲載されている図は非常に興味深いものがあります。
 なお、『パシフィック・リム』でも「時空を超えて他の天体とつながる通路」が取り上げられていました〔同作に関する拙ブログの(3)のハをご覧ください〕。

(注9)ただ、世界的な規模のプロジェクトとすると映画が複雑になりすぎるので、そんなことは十分に承知のうえで、こうした設定になっているのでしょう。

(注10)単独で送り込むこともさることながら、行ったきりで帰還を考えないというのは、片道の燃料しか積載していなかったといわれる神風特攻隊にも似た無謀なプロジェクトのように思えます。

(注11)まあ、ラストでクーパーも、軍用ロボットTARSだけを連れてアメリアのいる惑星に向かうのですが。

(注12)よくわかりませんが、クーパーが発見されたのが、ワームホールかブラックホールの中だったために、次元を渡り歩くことができたのでしょうか?あるいは、その頃には、マーフがブラッド教授の方程式を解いていたために、人類は次元をまたぐことのできる技術を持っていたのかもしれませんが。



★★★☆☆☆



象のロケット:インターステラー

美女と野獣

2014年11月29日 | 洋画(14年)
 『美女と野獣』を吉祥寺オデヲンで見てきました。

(1)本作(注1)は、ディズニー・アニメなどで有名なフランスの物語を実写化したフランス映画。

 大層裕福に暮らしていたベルレア・セドゥ)の一家が、財宝を積んだ船を嵐のために失って破産してしまいます。
 一家は、彼女の他に、父親(アンドレ・デュソリエ)と3人の兄、それに2人の姉がいましたが、片田舎に引っ込むことになります(注2)。



 ある日、街から帰る途中、吹雪に遭遇した父親は、道に迷って見知らぬ古城にたどり着きます。城の中には、光り輝く宝石などの詰まった箱が置かれており、さらにベルが土産に望んでいた薔薇が咲いているではありませんか!
 ですが、父親がその薔薇を摘んだ途端に野獣(ヴァンサン・カッセル)が現れ、「一番大切なものを盗んだな!」と怒り、「1日だけやる。ここに戻ってこなければ、家族を殺す。命が薔薇の代償だ」と父親に告げます。
 家に戻った父親の話を聞いて、ベルは「私のせいでパパを失いたくない」と言って、父親の身代わりに野獣の住む城に行きます。
 さあ、ベルの運命はどうなることでしょうか、………?

 『アデル、ブルーは熱い色』での体当たりの演技が印象的なレア・セドゥと、『ブラック・スワン』でバレエ団の監督役を演じたヴァンサン・カッセルが、CGを駆使した画面で好演し、まずまず見応えがある作品だなと思いました(注3)。

(2)ところで、「美女と野獣」として一般に知られている物語は、1756年に出版されたボーモン夫人によるものであり(注4)、これまで作られた各種の作品もこれによっているようです。
 ですが、本作の原作は、1740年にヴィルヌーヴ夫人によって書かれた物語(注5)とされています(注6)。

 そして、劇場用パンフレットに掲載されている野崎歓氏のエッセイ「世代を超えて受け継がれてきた物語『美女と野獣』」では、「この映画に出てくる夢のシークエンスこそは、ヴィルヌーヴ夫人版の一大特徴だった」と述べられています(注7)。
 さらに野崎氏に従えば、ガンズ監督は、「城にとらわれの身となったベルは、毎晩夢で、野獣とは似ても似つかぬ美貌の王子と出会い、激しく惹きつけられていく」というアイデアを汲み取りつつも、ヴィルヌーヴ夫人版ではなかなかベルが野獣の方に踏み出さないのに対して、ガンズ監督はそこのところはスッキリと整理しているようです。
 いずれにしても、野獣の前身である王子とプリンセス(イボンヌ・カッターフェルト)との物語は、本作で重要な役割を与えられていると言っていいでしょう(注8)

 ただそうだとしても、この関係では、本作につきいろいろな疑問が湧いてきます。
 例えば、プリンセスは、王子がズッと仕留めようと狙っている黄金の雌鹿が変身した姿だとされています。でも、そうだとしたら、矢を射られて戻るのはプリンセスから元の雌鹿の方へではないでしょうか?
 それに、雌鹿は既にプリンセスに変身しているのに、なぜこの時は雌鹿に戻っているのでしょうか(注9)?
 さらに言えば、王子に見つかったとわかったら、すぐにプリンセスに変身できたのではないでしょうか(注10)?

 また、野獣は、雌鹿を殺してしまったことにより「森の精」の罰を受けて姿を変えさせられてしまったわけです。にもかかわらず、その野獣がペルデュカスエドゥアルド・ノリエガ)によってナイフで殺されると、どうして城全体とか巨人たちが崩壊してしまい、蔦が襲いかかってくるのでしょうか?一体この城は誰が作ったものなのでしょう(注11)?

 とはいえ、こうしたことは、ベルが、「午後7時までに城に戻る」という野獣との約束を果たそうと一生懸命に馬を走らせたり、あるいはペルデュカスによって殺された王子を必死で城の中に運ぼうとしたりするのは何故なのか(注12)、という点をうまく説明できればどうでもいいことです。
 でも、果たして映画の中で、その点につき上手く説明できているでしょうか(注13)?

(3)渡まち子氏は、「野獣とその館に囚われた美女の恋模様を描くファンタジー「美女と野獣」。フランス映画らしいロココ調美術が美しい」として65点を付けています。



(注1)監督はクリストフ・ガンズ

(注2)母親は、ベルを産むとスグに亡くなってしまったようです。

(注3)最近では、レア・セドゥは『グランド・ブダペスト・ホテル』で、ヴァンサン・カッセルは『トランス』で、それぞれ見ました。



(注4)例えば、ここで読むことができます。

(注5)その概要については、このサイトの記事が参考になります。

(注6)劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」で、ガンズ監督は、「僕は、このヴィルヌーヴ夫人版をベースにし、偉大な神々の要素を物語に反映させながら、人間と自然の力とのつながりを描きたいと思った」と述べています。

(注7)このサイトの記事によれば、「野獣の城でベルが会うのは野獣一人ではない。夜毎の夢に美貌の貴公子が現れ、謎めいた言葉でベルに求愛する。それが野獣の分身と知らないベルは、醜く愚かな野獣より美しく才気ある貴公子に惹かれる気持ちに最後まで悩み続ける」とのこと(P.53)。

(注8)劇場用パンフレット掲載の秦早穂子氏のエッセイ「美女と野獣、今昔の夢物語」でも、「ガンズはマダム・ヴィルヌーヴの本を参考にして、今まで、あまり知られていなかった野獣の過去の謎を追う。ここが見所のひとつ」と述べられていますし、さらに山崎まどか氏のエッセイ「一輪の薔薇の花に隠された真実」もまた、「クリストフ・ガンズ監督の映画は、この物語の最大の秘密、野獣が呪いを受けた理由似大きな焦点が当てられている」と述べています。

 ちなみに、山崎まどか氏によれば、「ボーモン夫人の版だと野獣の呪いは「仙女の気まぐれ」のせいであ」り〔上記「注4」で触れたサイトの物語では、「「あるいじわるな妖女が、わたしを苦しめるため、魔法で呪って、みにくいけものの姿にかえてしまったのです」と王子がベルに打ち明けます〕、またデズニー映画では「傲慢な王子が一夜の宿を求めた老婆をすげなく断ったせいで、実は魔女であった彼女に野獣の姿に変えられたという設定が追加されている」とのことです。

(注9)あるいは、雌鹿の姿とプリンセスの姿とを往復できるのかもしれません。そうだとしても、雌鹿の姿の時に矢を射られたのであれば、そのまま雌鹿のままなのではないのか、と思うのですが?

(注10)もっとつまらない点ですが、プリンセスが雌鹿の時に矢で射抜かれると、どうして裸の状態になるのでしょうか?雌鹿は厚い毛皮で覆われていますから、人間の裸の状態とは異なるように思われるのですが?
 尤も、男性の観客にとってはこれでいいのかもしれません!

(注11)さらに言えば、ペルデュカスはなぜ死ぬ運命にあるのでしょう?
 彼は、ベラの兄に、貸した金を踏み倒されたために、それを取り戻すべく野獣の城までやってきたに過ぎないのですから(尤も、貸金額以上の財宝を城から持ちだそうとしてしまったのは否めないところですが)。

(注12)さらには、魔法の泉に投げ込まれた野獣に向かって、どうしてベルは「愛している」と言えたのか、という点。

(注13)あるいはその点については、例えば、上記「注8」で触れた山崎まどか氏が、「ベルはどこに、野獣に潜む優しい心をみたのだろう?ヒントは恐らく、薔薇の花にある」と述べるように、この映画を見た者がそれぞれ考えるべき事柄なのかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:美女と野獣

マダム・マロリーと魔法のスパイス

2014年11月27日 | 洋画(14年)
 『マダム・マロリーと魔法のスパイス』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)本作(注1)は、予告編を見て面白そうだなと思い、映画館に行ってきました。

 本作の舞台は、南フランスの小さな町サン・アントナン。そこで伝統的なフランス料理を出すレストランの目の前に、インドからやって来たカダム家がインド料理店を開いたからさあ大変。
 フランス料理のレストランのオーナーのマダム・マロリーヘレン・ミレン)とインド料理店を営む父親(オム・プリ)とは、なにかにつけて争うようになります。
 でも、レストランで働く若いマルグリットシャルロット・ルボン)と、カダム家の次男・ハッサンマニッシュ・ダヤル)とがコンタクトを持つようになって、………?



 これまでもよく制作されているフランス料理を巡る映画ながら、対するにインド料理を持ってきたのが斬新であり、またレストランのオーナー役のヘレン・ミレン(注2)とインド人家族の父親役のオム・プリの演技が秀逸で、最後まで楽しく見ることが出来ました。

(2)フランス料理を取り上げた映画といえば、最近では、『大統領の料理人』とか『シェフ! 三ツ星レストランの舞台裏へようこそ』(注3)を見ました。
 ただ、それらは料理人〔あるいはシェフ(料理長)〕が専ら取り上げられているのに対して、本作では、対立する二つのレストランの経営者の方に焦点が当てられています。
 一方のマダム・マロリーは、フランス料理のレストラン経営一筋で、なんとしてもミシュランの星を二つにしようと頑張っています(注4)。



 他方のカダム家のパパの方は、インドのムンバイで料理店を営んでいたところ暴徒に襲われすべてを失い、なんとか新天地のヨーロッパで一花咲かせたいと考えています。



 一見すると、向かい合うレストランは対等のようですが、マダム・マロリーの店は、クラシック音楽が流れ、シックで格調が高く、客も盛装して静逸な中で食事をします。
 ですが、インド料理店の方では、普段着姿の客が、大きな音量のインド音楽の中でわいわいがやがや騒ぎながらの食事です。
 この二つのレストランの争いは、言ってみれば欧米の正規軍に対してアジアがゲリラ戦を挑んでいるといった感じでしょうか。

 本作には、レストラン経営者だけでなく、むろん料理人が何人も登場します。
 なかでも、カダム家の次男・ハッサンは、母親(注5)の薫陶もあったのでしょうが、持ち前の才能(注6)と努力によってインド料理をマスターするとともに、フランス料理をもマスターしてしまいます(注7)。
 そして、その腕を買われてパリの有名レストラン(注8)の料理人になると、たちまち頭角を表すことに。

 ハッサンの料理が、マダム・マロリーやパリのレストランで高く評価されたのは、それまでのフランス料理にインド風のものを持ち込んだからでしょう。
 例えば、マダム・マロリーは、ハッサンの作ったオムレツを一匙食してその素晴らしさに圧倒されてしまいますが、劇場用パンフレットに掲載の「特別レシピ」によれば、通常のオムレツ材料に「チリパウダー」や「コリアンダー」などを加えています。



 こうしたことから、例えば、劇場用パンフレットの「プロダクション・ノート」では、「この映画は、食べ物の持つ、人を結びつける性質を通して異なる二つの世界の融合を描いている」と述べられているのでしょう(注9)。

 確かに、「融合」なのかもしれません。ですが、実際には、作られる料理はあくまでもフランス料理の範疇に入れられるはずです。
 大きく言ってみれば、欧米文化の中にインド文化が味付け程度に挿入されただけのことではないか、とも思えてきます(注10)。

(3)渡まち子氏は、「フレンチ・レストランとインド料理店のバトルを描く「マダム・マロリーと魔法のスパイス」。目にも美味しい料理とあたたかなドラマで幸福感を味わえる」として60点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「名門レストランの伝統の味にインドのスパイス・マジックが加わり、料理が美味しくなれば幸せも生まれる。そうなれば女と男の間にある溝もうまろうというもの。コトはそう簡単に進むわけもないが、でも大丈夫、美味しい料理と男女の仲に国境はないのだ」として★4つ(見逃せない)をつけています。



(注1)監督は、『砂漠でサーモン・フィッシング』や『親愛なるきみへ』のラッセ・ハルストレム
 なお、スティーヴン・スピルバーグオプラ・ウィンフリー(『大統領の執事の涙』でグロリアを演じた女優)が製作に加わっています。

(注2)ヘレン・ミレンについては、最近では、『ヒッチコック』で見ました。

(注3)DVDで見た『シェフ! 三ツ星レストランの舞台裏へようこそ』については、『大統領の料理人』についての拙エントリの(3)をご覧ください。

(注4)本作のマルグリットによれば、「三つ星になると神様扱いされる」とか。

(注5)ハッサンの母親は、ムンバイにあったレストランが暴徒に襲われた際に命を落としてしまいます。ただ、ハッサンは、何種類ものスパイスのびん詰が入っている鞄を引き継ぎ、それを使って絶妙の味の料理をこしらえます。

(注6)幼い時分、母親と市場に買い出しに行った際にも、売られているウニの良し悪しがわかってしまいます。

(注7)ハッサンは、パパが買い取った古いレストランの厨房の棚に、「Le Cordon Bleu」のタイトルの入った料理本を見つけ、さらにはマルグリッドが何冊家の料理本をハッサンに届けてくれます。

(注8)そのレストランで作られていたのが「分子料理」〔これについては、上記「注3」で触れている拙エントリの「注9」を参照してください〕。

(注9)劇場用パンフレット掲載のインタビューで、ラッセ・ハルストレム監督も、「(ハッサンは)インド料理の知識を活かし、それをフランス料理のレシピと“融合”させて新しい料理を創作する」と述べています。

(注10)言い過ぎかもしれませんが、本作で描き出されているフランスレストランとインドレストランとの対比にしても、欧米のアジアに対する優越的な見方(オリエンタリズムというのでしょうか)が表されているような感じを受けます。
 ラストで、ハッサンとマルグリットが、レストランをマダム・マロリーから譲り受けますが、それはあくまでもフランス料理を提供するレストランであって、そこでインド料理を提供するわけではないでしょう。



★★★☆☆☆



象のロケット:マダム・マロリーと魔法のスパイス

誰よりも狙われた男

2014年11月05日 | 洋画(14年)
 『誰よりも狙われた男』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)先般、46歳の若さで突然死したフィリップ・シーモア・ホフマンの遺作(主演作としては:注1)ということで映画館に行ってきました。

 本作(注2)の舞台は、ドイツのハンブルク
 冒頭では、エルベ川から一人の男が上がってきます。おそらく、ドイツに密入国したのでしょう。
 彼の名はイッサグレゴリー・ドブリギン)といい、テロリストとして国際的に指名されているチェチェン人。

 次第に、イッサが、銀行の頭取であるトミー・ブルーウィレム・デフォー)に会いたがっていることがわかり、また弁護士のアナベルレイチェル・マクアダムス)がイッサを支援しようとします。



 そうしたイッサの行動を逐一監視している人々がいます。
 まずは、テロ防止工作員チームを率いるバッハマンフィリップ・シーモア・ホフマン)。



 次いで、ドイツの諜報機関のモアライナー・ボック)。
 さらには、CIAのマーサ・サリヴァンロビン・ライト)。



 バッハマンは、イッサのような小魚は泳がせておいて、それに食らいつく大魚、ひいてはサメのような大物を釣り上げようというやり方をとります。
 ですが、モアの方は、小魚も危険であればすぐにも捕まえてテロを未然に防ぐべきだと考えています。
 こうした中で、バッハマンは自分の信念に従ってチームを動かしながら目的に向かって邁進するの ですが、CIAのマーサ・サリヴァンも絡んできて、難しい局面に立たされます(注3)。
 果たして、その結末は、………?

 本作では、ドイツでスパイチームを率いる主人公の活躍が、そのやり方を嫌う別の諜報機関との攻防の中で描かれ、レイチェル・マクアダムスやウィレム・デフォーロといった豪華俳優陣も見事ながら(注4)、やはりなんといっても主人公を演じるフィリップ・シーモア・ホフマンの存在感が圧倒的で、新作で彼の姿がもう見られないのは本当に残念なことです。

(2)このブログでは、フィリップ・シーモア・ホフマンの出演作について、『ダウト』以降、『パイレーツ・ロック』、『脳内ニューヨーク』、『マネーボール』、『スーパー・チューズデー』、『ザ・マスター』、『25年目の弦楽四重奏』、そして本作、と追ってきました。
 どの作品においても、彼の演技は素晴らしく非の打ち所がないのですが、その存在感の凄さを見せつけられたのは『ザ・マスター』ですし、興味深かったのは『脳内ニューヨーク』、そしてしっくりきたのは『25年目の弦楽四重奏』といったところでしょうか(注5)。

 本作では、随分と重厚な役柄(注6)を彼だからこその演技で立派にこなしているとはいえ、彼がドラッグの過剰摂取で亡くなったということを予め知っているせいでしょう、なんだか動きが鈍くなっているように感じられ(注7)、またラストのシーンからは凄い侘びしさが漂っているように思われたところです。

 なお、フィリップ・シーモア・ホフマンの死については、粉川哲夫氏によるこのエッセイが委曲を尽くしていると思います(注8)。

(3)なお、ひどくつまらないことながら、本作の主人公のバッハマンは一体何者なのでしょう?
 英語を話しますし、9.11に酷くこだわっていますから、アメリカ人とも考えられますが、アメリカからはCIAのマーサ・サリヴァンが直接やってきます。
 下記の(4)で触れる藤原帰一氏は、「亡くなる直前のホフマンは、この、ドイツのスパイ職人を演じたのでした」と述べて、CIAと対立する「ドイツの諜報機関」のスパイだとしています。
 ですが、劇場用パンフレットに掲載されている「STORY」によれば、バッハマンは「ドイツ諜報部の目に止まらぬよう、公にならない仕事をするテロ防止工作員たちの集団」を率いる男とされています。より具体的には、「ドイツの諜報機関である連邦憲法擁護庁(OPC)のハンブルク支局長ティーター・モア」と対立していることになっています。
 とすると、バッハマンは「ドイツの諜報機関」のスパイとはいえなくなります。
 ただ、本作の原作のあらすじが書かれているこのサイトの記事には、「ドイツ連邦憲法擁護庁外資買収課課長ギュンター・バッハマンは、各国から逃亡犯として指名手配されているイッサを利用して、権力争いの覇権を握ろうと画策する」とあり、バッハマンこそが連邦憲法擁護庁の職員だとされているようです。

 どうもよくわかりませんが、やはり劇場用パンフレットに掲載されている「STORY」に沿って、バッハマンのチームは、ドイツ海外諜報部(連邦憲法擁護庁の中に設けられているのでしょうか)の指揮下にある機関とみなしておくことにします(とすれば、藤原氏が「ドイツの諜報機関」のスパイとするのも、あながちおかしくはないことになります)。

(4)前田有一氏は、「元Mi6の原作者ジョン・ル・カレによる同名小説の映画化。映画では9.11事件によって大きく様変わりした諜報戦の現場を、リアリティたっぷりにみせる。フィクション作品ながら、他とは一線を画するディテールの丁寧な描写が見所のスパイドラマだ」として60点を付けています。
 稲垣都々世氏は、「複雑なプロットで知られるル・カレものにしては登場人物や人間関係がよく整理され、簡潔で平易な構成だ」と述べています。
 藤原帰一氏は、フィリップ・シーモア・ホフマンは「やはり、すばらしい。自分が時代遅れであることを知りながらその技術を自負していて、自負はしているけど人生で何度となく敗北を経験してきた老スパイ。その姿が、皮膚の下に忍び込むように観客を捕まえてしまう」と述べています。



(注1)このサイトの記事によれば、『ハンガーゲーム』の続編があと2つあって、それにフィリップ・シーモア・ホフマンが出演しているようです(さらに、こんな記事もあります)。

(注2)原作は、ジョン・ル・カレ著『誰よりも狙われた男』(ハヤカワ文庫:未読)。
 監督は、『ラスト・ターゲット』のアントン・コービン

(注3)ドイツ海外諜報部の部長のもとで、バッハマン、モア、それにサリヴァンらを交えた会議が開かれ、バッハマンは72時間の猶予が与えられることになります。その間に、確実な情報を取得しなければ、大物を捕らえることができなくなってしまいます。

(注4)驚いたことに、『ラッシュ/プライドと友情』などですごく印象的なダニエル・ブリュールがバッハマンのチームの一員であるマキシミリアンを演じているのですが、殆ど台詞がないのです!
 なお、最近では、レイチェル・マクアダムスは『パッション』で、ウィレム・デフォーは『グランド・ブダペスト・ホテル』、ロビン・ライトは『美しい絵の崩壊』でそれぞれ見ました。

(注5)そんなことから、本年1月の「日本インターネット映画大賞―2013年度外国映画投票」では、『ザ・マスター』に7点、『25年目の弦楽四重奏』に5点を与え、さらに「主演男優賞」には後者のフィリップ・シーモア・ホフマンを、「助演男優賞」には前者の彼を挙げたところです。

(注6)バッハマンは、一方で、例えば弁護士のアナベルを自分の思う方向に動かそうと監禁して圧力をかけるということをしながらも、他方では、ベイルートで手痛い失敗をした経験から(おそらく情報源を失ってしまったのでしょう)、イッサなどの小魚に対しては約束を履行して放置しようとします。

(注7)フィリップ・シーモア・ホフマンが亡くなったのが46歳としたら、もっと精悍であってしかるべき感じがします。やはり、ドラッグの影響が見られるのでしょうか。
 本文の(4)で触れる藤原帰一氏は、彼の演じるバッハマンのことを「人生で何度となく敗北を経験してきた老スパイ」と書いていますが、そして映画を見るとそんな感じがしてしまうとはいえ、本来的には油の乗り切った壮年のスパイなのではないでしょうか?

(注8)粉川氏の記事で紹介されていますが、20分余のこの動画では、フィリップ・シーモア・ホフマンが出演した47作品からその出演シーンを抜き出してつなげたものながら、非常に面白いと同時に、いかにクマネズミが彼の作品を見ていないのかがよくわかりました(彼が出演した映画は50本以上と言われています←この記事)。



★★★★☆☆



象のロケット:誰よりも狙われた男

グレース・オブ・モナコ

2014年10月28日 | 洋画(14年)
 『グレース・オブ・モナコ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『ペーパーボーイ―真夏の引力』や『レイルウェイ 運命の旅路』で好演したニコール・キッドマンが出演するというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の最初の方では映画の撮影風景が映し出され、クランクアップしたのでしょう、コートを着たグレース・ケリーニコール・キッドマン)に花束が渡され、皆が拍手をします。
 それから、当時のニュースフィルムで、彼女が客船でモナコに向かうところや、車で宮殿に入っていくところが映し出されます(注2)。

 次いで、1961年12月となり、ハリウッドのヒッチコック監督(ロジャー・アシュトン=グリフィス)が宮殿を案内されますが、侍女のマッジパーカー・ポージー)から「くれぐれもプリンセスと言わないように」と釘を差されます。
 丁度、グレースが少女たちに賞状を授与している最中ながら、彼女はヒッチコックを見かけると「ヒッチ」と大声をあげます。
 ヒッチコックは、グレースに映画『マーニー』の出演依頼に訪れたのですが、彼女の顔を見て「不幸に見える、やつれた顔だ」とつぶやき、さらに「今でも君はアーチストだということを忘れるな」と言います(注3)。

 他方で、レーニエ大公(ティム・ロス)は、大臣や顧問的存在のオナシスロバート・リンゼイ)らと議論をするグレースに対して、「ここはアメリカじゃないのだから、思ったことをスグに口にするな。黙っていてくれ」と叱りますが、彼女の方は、「子供に対し、自分の意見を言えと教えているのに」と不満を持ちます。

 そんな時に、モナコとフランスとの間に課税問題が持ち上がります(注4)。



 さあ、レーニエ大公はどう対応するでしょうか、この問題でグレースが果たした役割とは、………?

 無論、実在のグレース・ケリーの美貌とは比べようがないものの、主演のニコール・キッドマンの美しさも比類ないものがあり、その点では問題ないと思います。とはいえ、民間人が王室に入った時の大変さが映画で描かれても(注5)、日本人にとり随分とおなじみであり、余り新鮮さがありません。それに、映画の副題になっている「公妃の切り札」なるものも、持ち上げ過ぎの感があります(注6)。総じて、こうした作品になぜニコール・キッドマンが出演したのかと首を傾げたくなってしまいます。

(2)本作は、サスペンス的要素(注7)も盛り込まれていますが、全体としては、ハリウッドの大スターだったグレースのモナコでの暮らしぶりといった観点から描かれているように思われます。
 なにより、映画の最初に描かれるクランクアップの場面は、本作のラストでも映し出されます。
 さらには、グレースは、大公とは別のベッドに入り、そこでヒッチコックが置いていった『マーニー』の脚本を読みますし、鏡の前で脚本を読みながら演技の練習もしています(注8)。
 また、デリエール伯爵(デレク・ジャコビ)から宮殿の作法を学びますが、その際伯爵は「役を演じればいい」ことを強調します(注9)。



 こんなことから、本作は、“公妃”としてよりもむしろ“女優”としてのグレース・ケリーに焦点を当てているのでしょうが、そうであるならば、なにもド・ゴール大統領そっくりさんを映画に登場させることなど二の次にして、そのグレースを“女優”のニコール・キッドマンが更に演じているという観点に立った映画作りもありうるのでは、などといい加減なことを思ったりしました。

(3)渡まち子氏は、「公妃をつらい立場ではなく、演じがいのある大役と割り切ってからの生き生きとした表情が、魅力的だ。全編を彩る優雅な衣装にも注目したい」として60点を付けています。
 前田有一氏は、「伝記映画とは、その本人が出演した映画や作品より面白いものを作るくらいの覚悟がなければうまくいかない。グレース・ケリーのカリスマに頼っているだけではダメだ」として55点を付けています。



(注1)本作の監督は、『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』(2007年)のオリヴィエ・ダアン
 ちなみに、本作はれっきとしたハリウッド映画と思っていたらフランス映画なのですね(うかつなことに、この記事を見るまでは気が付きませんでした!)。
 なお、本作は、その冒頭で「実話によるフィクション」との字幕が流れ、様々のフィクションが紛れ込んでいると思いますから、グレース・ケリーの伝記映画というよりも、単なる娯楽作品と受け止めたほうがいいのではと思います。

(注2)1956年に彼女は、モナコ公国の大公レーニエ3世と結婚。

(注3)なお、ヒッチコックが「大公はどこ?」と尋ねると、グレースは、「公務が忙しくて、顔を合わせていない」と答えます。こんなところにも、結婚6年目のレーニエ大公とグレースの結婚生活ぶりが伺われます。

(注4)本作によれば、1962年に、アルジェリア戦争で肥大化する戦費を調達するために、フランスのド・ゴール大統領はモナコに対し企業課税するよう(その収入の一部をフランスに支払うよう)要請し、それが退けられるとモナコに対して経済封鎖を行いました。
 本作によれば、モナコはカジノによる収入しかなくその財政は大層逼迫していたようですから、フランスの要請は渡に船のように思われるところ、レーニエ大公は、何故か執拗に反対します(課税権について他国から介入されれば、モナコの独立性が脅かされると思ったのでしょうか)。

 現在、このサイトの記事に従えば、所得税について、モナコの住民は、一部のフランス国籍の人を除き、所得には税金がかかりませんし、通常の法人には税金はかかりません。
 ただし、隣のフランスとの軋轢の結果 、1963年に関税協定を結び、フランスと同様の付加価値税(消費税)、関税が課されます(なお、この記事からすると、フランスとモナコの紛争は付加価値税を巡ってのものなのかもしれません←このサイトの記事にも同様のことが記載されています)。

(注5)例えば、モナコの上流階級の女性たちは、舞踏会には興味を示すものの、グレースが関心を示す地味な活動には消極的です。グレースが、彼女たちを病院に案内して汚れている実情を見せても、簡単な改装に頷いてはくれません。レーニエ大公からも、伯爵夫人の機嫌を損ねないように、とストップがかかってしまいます(実際には、病院の改装は実現するのですが)。

(注6)国際赤十字の舞踏会でのグレースの演説はなかなかの内容とはいえ、それを耳にしたド・ゴール大統領が、自分のとった措置を翻すことなど常識的には考えられません(だいたい、舞踏会にド・ゴール大統領がわざわざ出席するのでしょうか?)。
 この舞踏会は、マリア・カラスパス・ベガ)が歌うシーンがあったりして、画面としては一番の盛り上がりが見られるシーンながら、ストーリーとしては随分ちゃちな手を用いてしまったなとクマネズミには思えました。

(注7)グレースの『マーニー』出演話は、レーニエ大公も「君が責任をもってやるなら」と承認して、彼女のハリウッド復帰が決まったものの、時期が悪いために発表は控えられました(発表文は金庫にしまわれます)。ところが、別件でグレースが記者に取り囲まれた時に、記者の方から映画出演のことを持ちだされ、宮殿内に、秘密情報を漏らして大公とグレースの仲を悪化させようと企むスパイが潜んでいるらしいことがわかります。一体誰なのでしょうか、………?

(注8)グレースは、ことさらに、「もう堪えられない、死んでやる」という台詞を大声で繰り返したりします。

(注9)グレースが頼りにしているタッカー神父(フランク・ランジェラ)も、「あなたは、人生最高の役を演じるためにモナコにやってきたはず」と言います。
 ただ、これらのこと(役を演じること)は、この拙エントリの「(3)ロ)」で、「平田氏は、ある講義の中で「大人は様々な役割を演じながら生きています」とか、「仮面の総体が人格なんです。私たちは演じる生き物なんです」と述べます」と申し上げたように、そしてこの拙エントリの「注8」で、「鈴木先生が、「演劇を真剣に学ぶことは有意義だと思う」、「俺は教師を演じている」「おのおのが役割を演じて成り立っている部分もある」などと教室で語ったりします」と書きましたように、ことさらめいた問題でもないように思われます。



★★★☆☆☆



象のロケット:グレース・オブ・モナコ