『ゴーン・ガール』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。
(1)昨年アカデミー賞作品賞を受賞した『アルゴ』に出演していたベン・アフレックが出演しているというので映画館に行ってきました。
本作(注1)は、「妻の頭を割って、何を考えているか、どう感じているか、その答えを知りたい」という夫ニック(ベン・アフレック)のナレーションが入った後、2012年7月5日のシーン(場所はミズーリ州の小さな町)から始まります。
早朝(6時55分)にニックは家の前にいます。
それから、車で「ザ・バー」に行き店の中に。
カウンターの女(注2)が、「何を苛ついているの?」と言うと、ニックは「今日は最悪、結婚5周年記念日だ」と答えます。
次いで、7年前に遡り2005年1月8日のシーン。
ニューヨークのパーティーでニックとエイミー(ロザムンド・パイク)とは出会い、意気投合してベッドへ。
映画はまた、2012年の「ザ・バー」のシーンとなって、カウンターの女が「彼女、また「宝探し」やるつもり?」と訊くと、ニックは「(宝探しで見つかる贈り物は)1年目は紙、4年目は枯れたバラ。5年目は何にするのか決めていない」と答えます。
そこへ、近所の者からニックに「猫が外に出ている」との電話が入り、ニックは「スグ戻る」と答えます。
ニックが急いで車で家に戻ると、ドアの鍵がかかっておらず、彼が「エイミー?」と叫んでも返事がなく、家の中には誰もいません。そればかりか、テーブルがひっくり返っており、ガラスがめちゃめちゃに砕かれています。
ニックが警察に通報すると、刑事のボニー(キム・ディケンズ)とギルピン(パトリック・フジット)がやってきて家の中を調べます。
すると、キッチンにあるオーブンの上部に血痕らしきものが。
さあ、エイミーはどこへ行ってしまったのでしょうか、………?
本作はサスペンス物ながら、犯人探しを狙いとしているわけではなく、夫婦関係をスリル溢れる映像で綴っている作品。基本的な点でよくわからないところがあるとはいえ、展開が二転三転して、長尺(149分)を感じさせない面白い仕上がりとなっています。
(以下は、様々にネタバレしていますので、どうぞご注意ください)
(2)本作においては、“遺体なき殺人事件”という点が大きな要素になっていると思われます。
エイミーは、夫に殺人の容疑をかぶせて死刑にしようと企んだわけですし(注3)、ギルピン刑事はかなり早くからニックの逮捕をボニー刑事に進言しており、挙句に、ニックは逮捕されてしまいます。
また、TVの女性キャスターも、ニックが妻殺しの犯人であるかのような言いっぷりです(注4)。
ですが、友人の弁護士によれば、「日本では、死体の発見がなく具体的な物証が乏しい場合、殺人罪で起訴することはまずありえない。また、ひと一人殺しただけでの死刑判決もまずない」とのこと。
別に具体的な根拠を持っているわけではありませんが、このことは大筋でこの映画にも当てはまるのではないのでしょうか?何しろ、エイミーが姿を隠した可能性も随分とあるのですから(注5)。
確かに日本でも、「遺体なき殺人事件」でありながら立件された例は過去にあるようです(注6)。
しかしながら、その場合は容疑者が殺人を自白していたりするようで、本作のように、キッチンの床板のルミノール反応などはあるにしても、エイミーの遺体がなく(注7)、さらにニックが妻殺しを強く否定しているケースでは立件が難しいのではと考えられるところです。
何より、本作では、殺人容疑で逮捕されたにもかかわらず、随分簡単にニックは保釈されています。これは、ニックが雇ったボルト弁護士(タイラー・ペリー)の手腕の賜物と映画では言われていますが、どうなのでしょう(注8)。
さらにまた、コリンズ(注9:ニール・パトリック・ハリス)を殺したエイミーが、血だらけの服装のまま家に戻ってきます。そして、警察での取調べはなされるものの、随分とお座なりで(注10)、結局は無罪放免となってしまいます。
ですが、この点についても、友人の弁護士は、「日本の場合、監禁や強姦の罪に対しての防衛だとしても、人殺しが正当防衛で無罪とか不起訴になることもありえない」との意見。
本作の場合、なるほどエイミーは、監視カメラを上手く利用して、まるで自分がコリンズに強姦されたかのように見せることはできたのでしょう(注11)。
でも、コリンズは何も武器を持っていなかったはずであり(注12)、そんな丸腰の人間を殺したとしたら、少なくとも過剰防衛だとして逮捕されてしまうのではないでしょうか?
とにかく人が一人殺されているのですから、いくらなんでもあんなに簡単に釈放されてしまうというのは、よく理解できないところです。
これらの点は、映画を見ている最中は、モヤモヤした感じのままでしたが、後で友人の話を聞いて、果たしてアメリカでは実際のところどうなっているのだろうと疑問に思った次第です。
とはいえ、エイミーの企みは随分と個人的な思い付きのようで、まともに受け止める必要はないのかもしれませんし(注13)、さらに、最近全米で問題となった警察による黒人青年射殺事件(注14)からすれば、アメリカの場合、正当防衛とされる範囲が日本よりもかなり広いのかもしれません。
そうであれば、ここで問題にしたような点は言い募る必要性に乏しいとも思えてきますが、どうでしょう?
(3)それらの点がスルーできさえすれば、あとはなかなか興味深いストーリーが展開されているなと思いました。
例えば、こうした殺人が絡む事件を取り上げるマスコミの姿勢が日本とかなり違うのではと思ったり(日本では、何よりもまず警察発表であり、警察を飛び越えてマスコミが犯人探しをすることは殆ど行われないのではないでしょうか)、そうしたマスコミを利用して一般の空気を味方に付けながら逆に捜査当局に圧力を掛けるなどということも(ニックが雇ったボルト弁護士の作戦)、日本では見かけないことではと思ったりしました。
また、本作は、主役のニックよりも、むしろエイミーの方に興味が湧いてしまいます。
よく言われているように(注15)、エイミーはまさにサイコパスの典型といえるでしょうが、面白いことに、映画の最初の方では、ニックの方がマスコミからサイコパスではないかと言われたり、また最後の方で登場するコリンズにもそうした雰囲気があったりします。
ですから、本作は、サイコパスを巡るサスペンス映画と把握できる感じとはいえ、単にエイミーは、自分を無視したり、自分を縛りつけようとしたりする男を排除しようとしただけであり、最後は、自分の前にひざまずくことになったニックを受け入れたということなのかもしれません。
それにしても、色々策を弄したエイミーは、その結果として得るものが何かあったのでしょうか?何もせずに、ただ最初に、あんたの子供ができたとニックに言いさえすればラストの状態が得られ(注16)、コリンズを殺すこともなかったようにも思えるのですが?
(4)渡まち子氏は、「2時間29分と長尺だが、まったく退屈しない。登場人物と観客の不安をあおりながら見事なストーリーを紡ぐデヴィッド・フィンチャー。やっぱりこの人の才能はすごい」として80点を付けています。
前田有一氏は、「結末ドッキリ系をとらせたら右にでるものがいないデヴィッド・フィンチャー監督らしい軽快な語り口で、大人の男女関係を知る誰もが楽しめるミステリに仕上がった」として70点を付けています。
相木悟氏は、「どんより暗くなる身も蓋もない内容ながら、めちゃくちゃ面白いサスペンスであった」と述べています。
(注1)原作は、ギリアン・フリン著『ゴーン・ガール』(小学館文庫:未読)。
監督は、『ソーシャル・ネットワーク』や『ベンジャミン・バトン』のデヴィッド・フィンチャー(DVDで『ファイト・クラブ』を見たことがあります)。
なお、原作者のギリアン・フリンが脚本を書いています。
(注2)実は、ニックの双子の妹マーゴ(キャリー・クーン)で、二人は「ザ・バー」を共同で経営。
(注3)エイミーは、全てを成し遂げた後は死ぬ気でいて、具体的な日にちまでカレンダーに書き込んでいます。その際には、ポケットに石をたくさん詰めて身を投げて死のうとしていたようです(実際には、死ぬなんてバカバカしいと気が変わって、その計画を放棄しますが)。
(注4)このキャスターは、TVでニックについて酷いことを言っておきながら、エイミーが家に戻った後、インタビューをしにニックたちのところにやってきたところ、謝罪など一切しません。
(注5)エイミーを捜索するボランティア団体が設けられますが、彼らはまるでエイミーがすでに殺されているとばかりに、川岸とか雑木林の中を捜索します。
他方、ニックが雇ったボイル弁護士は、ニックの言葉に従って、この事件を解決する鍵はエイミーを見つけ出すことだとして、すでに人を雇っていると言います。
(注6)例えば、この記事とかこの記事。
(注7)この記事によれば、町山智浩氏は、2002年のスコット・ピーターソン事件をこの作品が下敷きにしているとしているところ、同記事によれば、サンフランシスコ湾東岸で被害者の遺体が発見された後にスコットが逮捕されていて、決して“遺体なき殺人事件”ではなさそうです。
(注8)日本の場合は、特に殺人事件の場合、被疑者が保釈されるようなことはないように思われます。
(注9)コリンズは、エイミーに昔しつこくつきまとっていた男ながら、大変な金持ちであり、持ち金を強奪されたエイミーが行く先がなく頼ってくると、豪壮な別荘に匿ってくれます。
(注10)ボニー刑事が疑念を持ってエイミーに対する質問を続けようとしますが、遮られてしまいます。
(注11)でも、監視カメラの操作記録が何らかの形で残るのでは?
(注12)殺した死体に武器を持たせても、その不自然さが明るみに出るのではないでしょうか?
(注13)実のところエイミーは、単にニックを罰しようと考えただけのことであり、死刑にまで陥れようとは思っていなかったのかもしれません。
また、マスコミは、エイミーが戻ってくると、今度は二人の間に子供ができることの方に関心を移してしまい、彼女がルミノール反応など様々な工作をしたことについて咎めだてをしませんが、それは子どもじみたイタズラとみなしているからなのかもしれません。
(注14)例えばこの記事。
(注15)例えば、ブログ「・*・ etoile ・*・」のこのエントリ。
(注16)ニックは親としての責任感が強く、生まれてくる子供のために、エイミーがどんな女であるか十分に知りながら結婚生活の継続に同意するほどなのですから(なぜ、そんなに責任感が強いのか、クマネズミにはよくわからないのですが)。
★★★☆☆☆
象のロケット:ゴーン・ガール
(1)昨年アカデミー賞作品賞を受賞した『アルゴ』に出演していたベン・アフレックが出演しているというので映画館に行ってきました。
本作(注1)は、「妻の頭を割って、何を考えているか、どう感じているか、その答えを知りたい」という夫ニック(ベン・アフレック)のナレーションが入った後、2012年7月5日のシーン(場所はミズーリ州の小さな町)から始まります。
早朝(6時55分)にニックは家の前にいます。
それから、車で「ザ・バー」に行き店の中に。
カウンターの女(注2)が、「何を苛ついているの?」と言うと、ニックは「今日は最悪、結婚5周年記念日だ」と答えます。
次いで、7年前に遡り2005年1月8日のシーン。
ニューヨークのパーティーでニックとエイミー(ロザムンド・パイク)とは出会い、意気投合してベッドへ。
映画はまた、2012年の「ザ・バー」のシーンとなって、カウンターの女が「彼女、また「宝探し」やるつもり?」と訊くと、ニックは「(宝探しで見つかる贈り物は)1年目は紙、4年目は枯れたバラ。5年目は何にするのか決めていない」と答えます。
そこへ、近所の者からニックに「猫が外に出ている」との電話が入り、ニックは「スグ戻る」と答えます。
ニックが急いで車で家に戻ると、ドアの鍵がかかっておらず、彼が「エイミー?」と叫んでも返事がなく、家の中には誰もいません。そればかりか、テーブルがひっくり返っており、ガラスがめちゃめちゃに砕かれています。
ニックが警察に通報すると、刑事のボニー(キム・ディケンズ)とギルピン(パトリック・フジット)がやってきて家の中を調べます。
すると、キッチンにあるオーブンの上部に血痕らしきものが。
さあ、エイミーはどこへ行ってしまったのでしょうか、………?
本作はサスペンス物ながら、犯人探しを狙いとしているわけではなく、夫婦関係をスリル溢れる映像で綴っている作品。基本的な点でよくわからないところがあるとはいえ、展開が二転三転して、長尺(149分)を感じさせない面白い仕上がりとなっています。
(以下は、様々にネタバレしていますので、どうぞご注意ください)
(2)本作においては、“遺体なき殺人事件”という点が大きな要素になっていると思われます。
エイミーは、夫に殺人の容疑をかぶせて死刑にしようと企んだわけですし(注3)、ギルピン刑事はかなり早くからニックの逮捕をボニー刑事に進言しており、挙句に、ニックは逮捕されてしまいます。
また、TVの女性キャスターも、ニックが妻殺しの犯人であるかのような言いっぷりです(注4)。
ですが、友人の弁護士によれば、「日本では、死体の発見がなく具体的な物証が乏しい場合、殺人罪で起訴することはまずありえない。また、ひと一人殺しただけでの死刑判決もまずない」とのこと。
別に具体的な根拠を持っているわけではありませんが、このことは大筋でこの映画にも当てはまるのではないのでしょうか?何しろ、エイミーが姿を隠した可能性も随分とあるのですから(注5)。
確かに日本でも、「遺体なき殺人事件」でありながら立件された例は過去にあるようです(注6)。
しかしながら、その場合は容疑者が殺人を自白していたりするようで、本作のように、キッチンの床板のルミノール反応などはあるにしても、エイミーの遺体がなく(注7)、さらにニックが妻殺しを強く否定しているケースでは立件が難しいのではと考えられるところです。
何より、本作では、殺人容疑で逮捕されたにもかかわらず、随分簡単にニックは保釈されています。これは、ニックが雇ったボルト弁護士(タイラー・ペリー)の手腕の賜物と映画では言われていますが、どうなのでしょう(注8)。
さらにまた、コリンズ(注9:ニール・パトリック・ハリス)を殺したエイミーが、血だらけの服装のまま家に戻ってきます。そして、警察での取調べはなされるものの、随分とお座なりで(注10)、結局は無罪放免となってしまいます。
ですが、この点についても、友人の弁護士は、「日本の場合、監禁や強姦の罪に対しての防衛だとしても、人殺しが正当防衛で無罪とか不起訴になることもありえない」との意見。
本作の場合、なるほどエイミーは、監視カメラを上手く利用して、まるで自分がコリンズに強姦されたかのように見せることはできたのでしょう(注11)。
でも、コリンズは何も武器を持っていなかったはずであり(注12)、そんな丸腰の人間を殺したとしたら、少なくとも過剰防衛だとして逮捕されてしまうのではないでしょうか?
とにかく人が一人殺されているのですから、いくらなんでもあんなに簡単に釈放されてしまうというのは、よく理解できないところです。
これらの点は、映画を見ている最中は、モヤモヤした感じのままでしたが、後で友人の話を聞いて、果たしてアメリカでは実際のところどうなっているのだろうと疑問に思った次第です。
とはいえ、エイミーの企みは随分と個人的な思い付きのようで、まともに受け止める必要はないのかもしれませんし(注13)、さらに、最近全米で問題となった警察による黒人青年射殺事件(注14)からすれば、アメリカの場合、正当防衛とされる範囲が日本よりもかなり広いのかもしれません。
そうであれば、ここで問題にしたような点は言い募る必要性に乏しいとも思えてきますが、どうでしょう?
(3)それらの点がスルーできさえすれば、あとはなかなか興味深いストーリーが展開されているなと思いました。
例えば、こうした殺人が絡む事件を取り上げるマスコミの姿勢が日本とかなり違うのではと思ったり(日本では、何よりもまず警察発表であり、警察を飛び越えてマスコミが犯人探しをすることは殆ど行われないのではないでしょうか)、そうしたマスコミを利用して一般の空気を味方に付けながら逆に捜査当局に圧力を掛けるなどということも(ニックが雇ったボルト弁護士の作戦)、日本では見かけないことではと思ったりしました。
また、本作は、主役のニックよりも、むしろエイミーの方に興味が湧いてしまいます。
よく言われているように(注15)、エイミーはまさにサイコパスの典型といえるでしょうが、面白いことに、映画の最初の方では、ニックの方がマスコミからサイコパスではないかと言われたり、また最後の方で登場するコリンズにもそうした雰囲気があったりします。
ですから、本作は、サイコパスを巡るサスペンス映画と把握できる感じとはいえ、単にエイミーは、自分を無視したり、自分を縛りつけようとしたりする男を排除しようとしただけであり、最後は、自分の前にひざまずくことになったニックを受け入れたということなのかもしれません。
それにしても、色々策を弄したエイミーは、その結果として得るものが何かあったのでしょうか?何もせずに、ただ最初に、あんたの子供ができたとニックに言いさえすればラストの状態が得られ(注16)、コリンズを殺すこともなかったようにも思えるのですが?
(4)渡まち子氏は、「2時間29分と長尺だが、まったく退屈しない。登場人物と観客の不安をあおりながら見事なストーリーを紡ぐデヴィッド・フィンチャー。やっぱりこの人の才能はすごい」として80点を付けています。
前田有一氏は、「結末ドッキリ系をとらせたら右にでるものがいないデヴィッド・フィンチャー監督らしい軽快な語り口で、大人の男女関係を知る誰もが楽しめるミステリに仕上がった」として70点を付けています。
相木悟氏は、「どんより暗くなる身も蓋もない内容ながら、めちゃくちゃ面白いサスペンスであった」と述べています。
(注1)原作は、ギリアン・フリン著『ゴーン・ガール』(小学館文庫:未読)。
監督は、『ソーシャル・ネットワーク』や『ベンジャミン・バトン』のデヴィッド・フィンチャー(DVDで『ファイト・クラブ』を見たことがあります)。
なお、原作者のギリアン・フリンが脚本を書いています。
(注2)実は、ニックの双子の妹マーゴ(キャリー・クーン)で、二人は「ザ・バー」を共同で経営。
(注3)エイミーは、全てを成し遂げた後は死ぬ気でいて、具体的な日にちまでカレンダーに書き込んでいます。その際には、ポケットに石をたくさん詰めて身を投げて死のうとしていたようです(実際には、死ぬなんてバカバカしいと気が変わって、その計画を放棄しますが)。
(注4)このキャスターは、TVでニックについて酷いことを言っておきながら、エイミーが家に戻った後、インタビューをしにニックたちのところにやってきたところ、謝罪など一切しません。
(注5)エイミーを捜索するボランティア団体が設けられますが、彼らはまるでエイミーがすでに殺されているとばかりに、川岸とか雑木林の中を捜索します。
他方、ニックが雇ったボイル弁護士は、ニックの言葉に従って、この事件を解決する鍵はエイミーを見つけ出すことだとして、すでに人を雇っていると言います。
(注6)例えば、この記事とかこの記事。
(注7)この記事によれば、町山智浩氏は、2002年のスコット・ピーターソン事件をこの作品が下敷きにしているとしているところ、同記事によれば、サンフランシスコ湾東岸で被害者の遺体が発見された後にスコットが逮捕されていて、決して“遺体なき殺人事件”ではなさそうです。
(注8)日本の場合は、特に殺人事件の場合、被疑者が保釈されるようなことはないように思われます。
(注9)コリンズは、エイミーに昔しつこくつきまとっていた男ながら、大変な金持ちであり、持ち金を強奪されたエイミーが行く先がなく頼ってくると、豪壮な別荘に匿ってくれます。
(注10)ボニー刑事が疑念を持ってエイミーに対する質問を続けようとしますが、遮られてしまいます。
(注11)でも、監視カメラの操作記録が何らかの形で残るのでは?
(注12)殺した死体に武器を持たせても、その不自然さが明るみに出るのではないでしょうか?
(注13)実のところエイミーは、単にニックを罰しようと考えただけのことであり、死刑にまで陥れようとは思っていなかったのかもしれません。
また、マスコミは、エイミーが戻ってくると、今度は二人の間に子供ができることの方に関心を移してしまい、彼女がルミノール反応など様々な工作をしたことについて咎めだてをしませんが、それは子どもじみたイタズラとみなしているからなのかもしれません。
(注14)例えばこの記事。
(注15)例えば、ブログ「・*・ etoile ・*・」のこのエントリ。
(注16)ニックは親としての責任感が強く、生まれてくる子供のために、エイミーがどんな女であるか十分に知りながら結婚生活の継続に同意するほどなのですから(なぜ、そんなに責任感が強いのか、クマネズミにはよくわからないのですが)。
★★★☆☆☆
象のロケット:ゴーン・ガール