『神々のたそがれ』をユーロスペースで見ました。
(1)本作(注1)は、その名前をこれまで聞いたこともないロシアの監督が制作し、おまけに上映時間が3時間という長尺ながら、評判を耳にして(注2)、映画館に足を運んでみました。
本作の冒頭は川のほとりで、網が置いてあったり、ポチャンという音がしたり、男と牛が橋を渡ったりしています。
そこに、あらまし次のようなナレーションが入ります。
「ここは、地球より800年ほど遅れている別の惑星。地球から30人の学者が派遣された。
ここにはルネッサンス初期を思わせるものがないわけではないが、ルネッサンスはなく、反動化が進んでいた。王国の首都アルカナルでは、大学が破壊されたし、知的な者が狩られた。中には、隣国イルカンへ逃れた者もいた」。
ここから物語が始まるのですが、地球から派遣された学者の中に17代目の貴族ドン・ルマータ(レオニド・ヤルモルニク)がいたり(注3)、大臣のドン・レバ(アレクサンドル・チュトゥコ)とかイルカンの医師ブダフ(エヴゲーニー・ゲルチャコフ)とかがいたりすることはわかるとはいえ、クマネズミには、ほとんど筋らしい筋を把握することができませんでした(注4)。
画面に、中世西欧風の鎧や兜を付けた貴族やら僧団らしき人々が様々に登場するものの、単にあちこちうろうろ動きまわるだけで、どんな目的を持って何をしようとしているのかがサッパリつかめないのです。
劇場用パンフレットに掲載のコメント集に掲載されている文章で、蓮實重彦氏が、「私はこの映画を4回見た。最初に見た時は、「こんな訳がわからん映画があるか」と思った」と述べているので、蓮實氏も最初はやっぱりわからなかったんだとやや安心しました(注5)。
それでも、映画で描き出される光景があまりにもグロテスクで異様なものばかりなので、ストーリーの把握は放棄してただただ見入っていましたら、なんとか3時間睡魔に襲われることもなく見終わることが出来ました。
(2)本作の公式サイトの「予告編」の上欄には、「二十世紀、いや、二十一世紀をも飲みこもうとする怪物的な作品であった。これまでに誰も見たことのない、そして今後現われ得ない真の映画が、今、屹立する」とあるところ、本作が「怪物的な作品」であり、「これまでに誰も見たことのない」映画であることは確かだとしても(注6)、「真の映画」かどうかはまるでわかりません。
そんな本作に対して、とてもあれやこれや言えたものではありません。
それでもかろうじてコメントするとしたら次のようなことでしょうか。
イ)車輪刑用の死の木が画面の中に映しだされているのを見ると、『ブリューゲルの動く絵』を思い出します。ただ、その作品で取り扱われるピーテル・ブリューゲル自身は16世紀のネーデルランド・ルネサンス期の画家。
ロ)本作の舞台は、今から800年ほど前とされていますから、地球、それもヨーロッパにあっては、いわゆる14世紀から始まるイタリア・ルネサンスの前の中世暗黒の時代に該当すると思います。
勿論、本作については様々な見方があるでしょうが(注7)、映画に映し出されるいろいろなおぞましい光景は、ゲルマン監督が本作を制作していた時期のソ連やロシアの厳しい状況等を中世ヨーロッパになぞらえているようにも考えられます(注8)。
例えば、スターリン体制下のソ連の状況は、“収容所群島”とも言われるほど厳しいものがあったと考えられます。
とはいえ、今や「暗黒の中世」という見方はかなり一掃されており(注9)、その状況を描き出すために、本作のような形で中世ヨーロッパをもってくることは適切なことなのかどうか、なんだか疑問に思えてもきます。
ハ)ヒトラーやスターリンの全体主義的な体制(特に強制収容所)とか、カンボジアにおけるポル・ポト派による大虐殺など、非人間的な政治体制は枚挙に暇はありませんが、もしかしたらこれらは、むしろ特殊20世紀(さらには21世紀までも!)の出来事であり、本作は、中世から現代を見るというのではなく、反対に、現代の地点に立って中世を描き出している作品だともいえないでしょうか?
(3)中条省平氏は、「原作のペシミズムを極限まで誇張することで、逆にそれを笑い飛ばす、やけくそのエネルギーが湧いてくる。そういいたくなるほどゲルマンの演出は強烈である」として★4つ(見逃せない)をつけています。
柳下毅一郎氏は、「百年にわたる憤怒が生みだした人間性への徹底的懐疑は、恐ろしくも目を離せない壮絶な美に輝いている」と述べています。
読売新聞の恩田泰子氏は、「徹頭徹尾、圧倒的なイメージの洪水。見ているうちにのまれて訳が分からなくなるが、目がそらせない。全世界を丸ごとつかまえ、凝縮して差し出された気分とでも言おうか」として、「果てなき地獄めぐりのような映画だが、必見の一本である」と述べています。
(注1)監督は、アレクセイ・ゲルマン。
原作は、ストルガツキー兄弟の小説「神様はつらい」〔『世界SF全集 第24巻』(早川書房、1970)所収〕。
なお、本作の英題は「Hard To Be a God」で、ストルガツキー兄弟の原作小説のタイトルと同じものと思われるところ、なぜ本作の邦題を「神々のたそがれ」というように、ワーグナーの楽劇と酷似するものにしたのか真意がわかりません。
(注2)何しろ、本作の予告編の冒頭で「空前絶後 二十一世紀最高傑作」と謳われているくらいなのですから!
(注3)主人公のドン・ルマータは、だいたいいつも甲冑をつけた姿で現れますが、本作の最初の方では、朝起きだした後にクラリネット(あるいはサクソフォン)に似た楽器を鳴らします(本作のラストにおいても、同じ楽器を鳴らします)。
(注4)少なくとも、公式サイトに掲載されている「物語」位は事前に目を通しておくべきでした。
もっと言えば、劇場用パンフレットに30ページにわたって掲載されている遠山純生氏の詳細な「解説」を読んでから映画に臨めば、理解が深まったことと思います(でも映画を見る前に「解説」を読むというのもどうかという感じがしてしまいます)。
(注5)尤も、蓮實氏は、引き続いて「その後3回目を見た。そしてやっとワカッタと思った」と述べているのですが!
(注6)さらにまた、劇場用パンフレット掲載の沼野充義氏のエッセイ「異星という形而上的な地獄―ストルガツキー兄弟のSFからゲルマンの映画へ―」では、「この映画を見ずに、21世紀の映画の地平は切り拓けないと思わせるほどだ。このような途方も無い映画が作れるということ、映画にこのようなことができるということ、それは驚き以外の何物でもない」と述べられています。
(注7)例えば、本文で触れた文章で、蓮實氏は、「この作品をダンテの「地獄編」にたとえた人もいる」と述べています。
(注8)例えば、上記「注6」で取り上げたエッセイで、沼野氏は、「(ゲルマン監督の前作の『フルスタリョフ、車を!』は)スターリン時代のという具体的な設定を前提とした映画であったはずなのだが、全体としてみると、……精神病院の狂騒や秘密警察の陰謀、怒鳴り合いと感情の渦の中などが、一社の全体主義時代の「形而上的な地獄」の様相を呈するに至っていた。『神々のたそがれ』は地球外の惑星を舞台としたSF作品ではあるが、そういった側面はじつは驚くほど『フルスタリョフ、車を!』に似ているのである」とか、「ゲルマンがこの映画制作を思い立ったのは、1968年のことだという。彼が生きていたソ連の社会が当時直面していた問題としては、スターリン時代の過去の精算だけでなく、反体制知識人の弾圧や、ソ連のチェコに対する軍事介入に関連した様々な倫理的な問題があり、彼が『神様がつらい』の映画化によって引き受けようとしたのは、決してSF的な現実離れした空想上の問題ではなかったはずだ」と述べています。
(注9)言うまでもなく、中世ヨーロッパが明るい光に満ちた時代だったわけではないでしょう。でも、十字軍や異端審問が横溢する時代とか、本作で描かれているようなどこまでも暗く陰鬱で汚穢にまみれた時代とするのも極端すぎるのではないかと思われます(それに、「中世ヨーロッパ」といってもあまりにも茫漠とした概念のような気がします)。
例えば、いまさらながらの感がありますが、ホイジンガは、その著『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)の中で、「中世生活は遊びにあふれていた。一方では、陽気な民衆の遊びがあり、……、他方では、騎士道の華麗、荘厳な遊びや、宮廷風恋愛の洗練された遊びがあ」った、と述べています(P.367)。
★★★☆☆☆
(1)本作(注1)は、その名前をこれまで聞いたこともないロシアの監督が制作し、おまけに上映時間が3時間という長尺ながら、評判を耳にして(注2)、映画館に足を運んでみました。
本作の冒頭は川のほとりで、網が置いてあったり、ポチャンという音がしたり、男と牛が橋を渡ったりしています。
そこに、あらまし次のようなナレーションが入ります。
「ここは、地球より800年ほど遅れている別の惑星。地球から30人の学者が派遣された。
ここにはルネッサンス初期を思わせるものがないわけではないが、ルネッサンスはなく、反動化が進んでいた。王国の首都アルカナルでは、大学が破壊されたし、知的な者が狩られた。中には、隣国イルカンへ逃れた者もいた」。
ここから物語が始まるのですが、地球から派遣された学者の中に17代目の貴族ドン・ルマータ(レオニド・ヤルモルニク)がいたり(注3)、大臣のドン・レバ(アレクサンドル・チュトゥコ)とかイルカンの医師ブダフ(エヴゲーニー・ゲルチャコフ)とかがいたりすることはわかるとはいえ、クマネズミには、ほとんど筋らしい筋を把握することができませんでした(注4)。
画面に、中世西欧風の鎧や兜を付けた貴族やら僧団らしき人々が様々に登場するものの、単にあちこちうろうろ動きまわるだけで、どんな目的を持って何をしようとしているのかがサッパリつかめないのです。
劇場用パンフレットに掲載のコメント集に掲載されている文章で、蓮實重彦氏が、「私はこの映画を4回見た。最初に見た時は、「こんな訳がわからん映画があるか」と思った」と述べているので、蓮實氏も最初はやっぱりわからなかったんだとやや安心しました(注5)。
それでも、映画で描き出される光景があまりにもグロテスクで異様なものばかりなので、ストーリーの把握は放棄してただただ見入っていましたら、なんとか3時間睡魔に襲われることもなく見終わることが出来ました。
(2)本作の公式サイトの「予告編」の上欄には、「二十世紀、いや、二十一世紀をも飲みこもうとする怪物的な作品であった。これまでに誰も見たことのない、そして今後現われ得ない真の映画が、今、屹立する」とあるところ、本作が「怪物的な作品」であり、「これまでに誰も見たことのない」映画であることは確かだとしても(注6)、「真の映画」かどうかはまるでわかりません。
そんな本作に対して、とてもあれやこれや言えたものではありません。
それでもかろうじてコメントするとしたら次のようなことでしょうか。
イ)車輪刑用の死の木が画面の中に映しだされているのを見ると、『ブリューゲルの動く絵』を思い出します。ただ、その作品で取り扱われるピーテル・ブリューゲル自身は16世紀のネーデルランド・ルネサンス期の画家。
ロ)本作の舞台は、今から800年ほど前とされていますから、地球、それもヨーロッパにあっては、いわゆる14世紀から始まるイタリア・ルネサンスの前の中世暗黒の時代に該当すると思います。
勿論、本作については様々な見方があるでしょうが(注7)、映画に映し出されるいろいろなおぞましい光景は、ゲルマン監督が本作を制作していた時期のソ連やロシアの厳しい状況等を中世ヨーロッパになぞらえているようにも考えられます(注8)。
例えば、スターリン体制下のソ連の状況は、“収容所群島”とも言われるほど厳しいものがあったと考えられます。
とはいえ、今や「暗黒の中世」という見方はかなり一掃されており(注9)、その状況を描き出すために、本作のような形で中世ヨーロッパをもってくることは適切なことなのかどうか、なんだか疑問に思えてもきます。
ハ)ヒトラーやスターリンの全体主義的な体制(特に強制収容所)とか、カンボジアにおけるポル・ポト派による大虐殺など、非人間的な政治体制は枚挙に暇はありませんが、もしかしたらこれらは、むしろ特殊20世紀(さらには21世紀までも!)の出来事であり、本作は、中世から現代を見るというのではなく、反対に、現代の地点に立って中世を描き出している作品だともいえないでしょうか?
(3)中条省平氏は、「原作のペシミズムを極限まで誇張することで、逆にそれを笑い飛ばす、やけくそのエネルギーが湧いてくる。そういいたくなるほどゲルマンの演出は強烈である」として★4つ(見逃せない)をつけています。
柳下毅一郎氏は、「百年にわたる憤怒が生みだした人間性への徹底的懐疑は、恐ろしくも目を離せない壮絶な美に輝いている」と述べています。
読売新聞の恩田泰子氏は、「徹頭徹尾、圧倒的なイメージの洪水。見ているうちにのまれて訳が分からなくなるが、目がそらせない。全世界を丸ごとつかまえ、凝縮して差し出された気分とでも言おうか」として、「果てなき地獄めぐりのような映画だが、必見の一本である」と述べています。
(注1)監督は、アレクセイ・ゲルマン。
原作は、ストルガツキー兄弟の小説「神様はつらい」〔『世界SF全集 第24巻』(早川書房、1970)所収〕。
なお、本作の英題は「Hard To Be a God」で、ストルガツキー兄弟の原作小説のタイトルと同じものと思われるところ、なぜ本作の邦題を「神々のたそがれ」というように、ワーグナーの楽劇と酷似するものにしたのか真意がわかりません。
(注2)何しろ、本作の予告編の冒頭で「空前絶後 二十一世紀最高傑作」と謳われているくらいなのですから!
(注3)主人公のドン・ルマータは、だいたいいつも甲冑をつけた姿で現れますが、本作の最初の方では、朝起きだした後にクラリネット(あるいはサクソフォン)に似た楽器を鳴らします(本作のラストにおいても、同じ楽器を鳴らします)。
(注4)少なくとも、公式サイトに掲載されている「物語」位は事前に目を通しておくべきでした。
もっと言えば、劇場用パンフレットに30ページにわたって掲載されている遠山純生氏の詳細な「解説」を読んでから映画に臨めば、理解が深まったことと思います(でも映画を見る前に「解説」を読むというのもどうかという感じがしてしまいます)。
(注5)尤も、蓮實氏は、引き続いて「その後3回目を見た。そしてやっとワカッタと思った」と述べているのですが!
(注6)さらにまた、劇場用パンフレット掲載の沼野充義氏のエッセイ「異星という形而上的な地獄―ストルガツキー兄弟のSFからゲルマンの映画へ―」では、「この映画を見ずに、21世紀の映画の地平は切り拓けないと思わせるほどだ。このような途方も無い映画が作れるということ、映画にこのようなことができるということ、それは驚き以外の何物でもない」と述べられています。
(注7)例えば、本文で触れた文章で、蓮實氏は、「この作品をダンテの「地獄編」にたとえた人もいる」と述べています。
(注8)例えば、上記「注6」で取り上げたエッセイで、沼野氏は、「(ゲルマン監督の前作の『フルスタリョフ、車を!』は)スターリン時代のという具体的な設定を前提とした映画であったはずなのだが、全体としてみると、……精神病院の狂騒や秘密警察の陰謀、怒鳴り合いと感情の渦の中などが、一社の全体主義時代の「形而上的な地獄」の様相を呈するに至っていた。『神々のたそがれ』は地球外の惑星を舞台としたSF作品ではあるが、そういった側面はじつは驚くほど『フルスタリョフ、車を!』に似ているのである」とか、「ゲルマンがこの映画制作を思い立ったのは、1968年のことだという。彼が生きていたソ連の社会が当時直面していた問題としては、スターリン時代の過去の精算だけでなく、反体制知識人の弾圧や、ソ連のチェコに対する軍事介入に関連した様々な倫理的な問題があり、彼が『神様がつらい』の映画化によって引き受けようとしたのは、決してSF的な現実離れした空想上の問題ではなかったはずだ」と述べています。
(注9)言うまでもなく、中世ヨーロッパが明るい光に満ちた時代だったわけではないでしょう。でも、十字軍や異端審問が横溢する時代とか、本作で描かれているようなどこまでも暗く陰鬱で汚穢にまみれた時代とするのも極端すぎるのではないかと思われます(それに、「中世ヨーロッパ」といってもあまりにも茫漠とした概念のような気がします)。
例えば、いまさらながらの感がありますが、ホイジンガは、その著『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)の中で、「中世生活は遊びにあふれていた。一方では、陽気な民衆の遊びがあり、……、他方では、騎士道の華麗、荘厳な遊びや、宮廷風恋愛の洗練された遊びがあ」った、と述べています(P.367)。
★★★☆☆☆