映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

神々のたそがれ

2015年04月28日 | 洋画(15年)
 『神々のたそがれ』をユーロスペースで見ました。

(1)本作(注1)は、その名前をこれまで聞いたこともないロシアの監督が制作し、おまけに上映時間が3時間という長尺ながら、評判を耳にして(注2)、映画館に足を運んでみました。

 本作の冒頭は川のほとりで、網が置いてあったり、ポチャンという音がしたり、男と牛が橋を渡ったりしています。
 そこに、あらまし次のようなナレーションが入ります。
 「ここは、地球より800年ほど遅れている別の惑星。地球から30人の学者が派遣された。
 ここにはルネッサンス初期を思わせるものがないわけではないが、ルネッサンスはなく、反動化が進んでいた。王国の首都アルカナルでは、大学が破壊されたし、知的な者が狩られた。中には、隣国イルカンへ逃れた者もいた」。

 ここから物語が始まるのですが、地球から派遣された学者の中に17代目の貴族ドン・ルマータレオニド・ヤルモルニク)がいたり(注3)、大臣のドン・レバアレクサンドル・チュトゥコ)とかイルカンの医師ブダフエヴゲーニー・ゲルチャコフ)とかがいたりすることはわかるとはいえ、クマネズミには、ほとんど筋らしい筋を把握することができませんでした(注4)。
 画面に、中世西欧風の鎧や兜を付けた貴族やら僧団らしき人々が様々に登場するものの、単にあちこちうろうろ動きまわるだけで、どんな目的を持って何をしようとしているのかがサッパリつかめないのです。

 劇場用パンフレットに掲載のコメント集に掲載されている文章で、蓮實重彦氏が、「私はこの映画を4回見た。最初に見た時は、「こんな訳がわからん映画があるか」と思った」と述べているので、蓮實氏も最初はやっぱりわからなかったんだとやや安心しました(注5)。

 それでも、映画で描き出される光景があまりにもグロテスクで異様なものばかりなので、ストーリーの把握は放棄してただただ見入っていましたら、なんとか3時間睡魔に襲われることもなく見終わることが出来ました。



(2)本作の公式サイトの「予告編」の上欄には、「二十世紀、いや、二十一世紀をも飲みこもうとする怪物的な作品であった。これまでに誰も見たことのない、そして今後現われ得ない真の映画が、今、屹立する」とあるところ、本作が「怪物的な作品」であり、「これまでに誰も見たことのない」映画であることは確かだとしても(注6)、「真の映画」かどうかはまるでわかりません。

 そんな本作に対して、とてもあれやこれや言えたものではありません。
 それでもかろうじてコメントするとしたら次のようなことでしょうか。
イ)車輪刑用の死の木が画面の中に映しだされているのを見ると、『ブリューゲルの動く絵』を思い出します。ただ、その作品で取り扱われるピーテル・ブリューゲル自身は16世紀のネーデルランド・ルネサンス期の画家。



ロ)本作の舞台は、今から800年ほど前とされていますから、地球、それもヨーロッパにあっては、いわゆる14世紀から始まるイタリア・ルネサンスの前の中世暗黒の時代に該当すると思います。
 勿論、本作については様々な見方があるでしょうが(注7)、映画に映し出されるいろいろなおぞましい光景は、ゲルマン監督が本作を制作していた時期のソ連やロシアの厳しい状況等を中世ヨーロッパになぞらえているようにも考えられます(注8)。
 例えば、スターリン体制下のソ連の状況は、“収容所群島”とも言われるほど厳しいものがあったと考えられます。
 とはいえ、今や「暗黒の中世」という見方はかなり一掃されており(注9)、その状況を描き出すために、本作のような形で中世ヨーロッパをもってくることは適切なことなのかどうか、なんだか疑問に思えてもきます。

ハ)ヒトラーやスターリンの全体主義的な体制(特に強制収容所)とか、カンボジアにおけるポル・ポト派による大虐殺など、非人間的な政治体制は枚挙に暇はありませんが、もしかしたらこれらは、むしろ特殊20世紀(さらには21世紀までも!)の出来事であり、本作は、中世から現代を見るというのではなく、反対に、現代の地点に立って中世を描き出している作品だともいえないでしょうか?

(3)中条省平氏は、「原作のペシミズムを極限まで誇張することで、逆にそれを笑い飛ばす、やけくそのエネルギーが湧いてくる。そういいたくなるほどゲルマンの演出は強烈である」として★4つ(見逃せない)をつけています。
 柳下毅一郎氏は、「百年にわたる憤怒が生みだした人間性への徹底的懐疑は、恐ろしくも目を離せない壮絶な美に輝いている」と述べています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「徹頭徹尾、圧倒的なイメージの洪水。見ているうちにのまれて訳が分からなくなるが、目がそらせない。全世界を丸ごとつかまえ、凝縮して差し出された気分とでも言おうか」として、「果てなき地獄めぐりのような映画だが、必見の一本である」と述べています。



(注1)監督は、アレクセイ・ゲルマン
 原作は、ストルガツキー兄弟の小説「神様はつらい」〔『世界SF全集 第24巻』(早川書房、1970)所収〕。
 なお、本作の英題は「Hard To Be a God」で、ストルガツキー兄弟の原作小説のタイトルと同じものと思われるところ、なぜ本作の邦題を「神々のたそがれ」というように、ワーグナーの楽劇と酷似するものにしたのか真意がわかりません。

(注2)何しろ、本作の予告編の冒頭で「空前絶後 二十一世紀最高傑作」と謳われているくらいなのですから!

(注3)主人公のドン・ルマータは、だいたいいつも甲冑をつけた姿で現れますが、本作の最初の方では、朝起きだした後にクラリネット(あるいはサクソフォン)に似た楽器を鳴らします(本作のラストにおいても、同じ楽器を鳴らします)。



(注4)少なくとも、公式サイトに掲載されている「物語」位は事前に目を通しておくべきでした。
 もっと言えば、劇場用パンフレットに30ページにわたって掲載されている遠山純生氏の詳細な「解説」を読んでから映画に臨めば、理解が深まったことと思います(でも映画を見る前に「解説」を読むというのもどうかという感じがしてしまいます)。

(注5)尤も、蓮實氏は、引き続いて「その後3回目を見た。そしてやっとワカッタと思った」と述べているのですが!

(注6)さらにまた、劇場用パンフレット掲載の沼野充義氏のエッセイ「異星という形而上的な地獄―ストルガツキー兄弟のSFからゲルマンの映画へ―」では、「この映画を見ずに、21世紀の映画の地平は切り拓けないと思わせるほどだ。このような途方も無い映画が作れるということ、映画にこのようなことができるということ、それは驚き以外の何物でもない」と述べられています。

(注7)例えば、本文で触れた文章で、蓮實氏は、「この作品をダンテの「地獄編」にたとえた人もいる」と述べています。

(注8)例えば、上記「注6」で取り上げたエッセイで、沼野氏は、「(ゲルマン監督の前作の『フルスタリョフ、車を!』は)スターリン時代のという具体的な設定を前提とした映画であったはずなのだが、全体としてみると、……精神病院の狂騒や秘密警察の陰謀、怒鳴り合いと感情の渦の中などが、一社の全体主義時代の「形而上的な地獄」の様相を呈するに至っていた。『神々のたそがれ』は地球外の惑星を舞台としたSF作品ではあるが、そういった側面はじつは驚くほど『フルスタリョフ、車を!』に似ているのである」とか、「ゲルマンがこの映画制作を思い立ったのは、1968年のことだという。彼が生きていたソ連の社会が当時直面していた問題としては、スターリン時代の過去の精算だけでなく、反体制知識人の弾圧や、ソ連のチェコに対する軍事介入に関連した様々な倫理的な問題があり、彼が『神様がつらい』の映画化によって引き受けようとしたのは、決してSF的な現実離れした空想上の問題ではなかったはずだ」と述べています。

(注9)言うまでもなく、中世ヨーロッパが明るい光に満ちた時代だったわけではないでしょう。でも、十字軍や異端審問が横溢する時代とか、本作で描かれているようなどこまでも暗く陰鬱で汚穢にまみれた時代とするのも極端すぎるのではないかと思われます(それに、「中世ヨーロッパ」といってもあまりにも茫漠とした概念のような気がします)。
 例えば、いまさらながらの感がありますが、ホイジンガは、その著『ホモ・ルーデンス』(中公文庫)の中で、「中世生活は遊びにあふれていた。一方では、陽気な民衆の遊びがあり、……、他方では、騎士道の華麗、荘厳な遊びや、宮廷風恋愛の洗練された遊びがあ」った、と述べています(P.367)。



★★★☆☆☆



やさしい女

2015年04月24日 | 洋画(15年)
 『やさしい女』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)高名ながらあまり見たことがないロベール・ブレッソン監督の作品が上映されているとのことで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、ネオンが瞬く繁華街の夜の光景(パリなのでしょう)。街路には車がひしめいていて、歩道にも人が大勢歩いています。

 場面は変わって、マンションの一室。ベランダに出るドアが開けられていて、机や椅子が倒れています。白いスカーフが風になびいて落ちていったと思ったら、女が道路で倒れて死んでいる様子。

 次の場面では、その女がベッドに横たえられていて(注2)、ベッドサイドでは老女が祈っていますし、部屋には男が一人います。

 再度場面が変わって、片方の手にノートを持った女が質屋に入ってきます。
 男が、その女から持ち込まれた指輪を見て金を渡します。
 彼女が次ぎに来た時はコンパスの入ったカバンを持ってきましたが、その次にはカメラを出します。男が「いい品だ」と言うと、彼女はそのカメラを持って店を出ていってしまいます(注3)。

 ここで、ベッドに女が横たわり、男がベッドのそばにいる先ほどの場面に変わり、男の「あの時から彼女を特別視した」との声が入ります。



 どうやら、ベッドに横たえられている女(ドミニク・サンダ)は、マンションの上階から飛び降りて自殺した模様で、部屋にいる男(ギイ・フランジャン)は彼女の夫であり、質屋を経営していますが、彼女がなぜ自殺するに至ったのかを考えめぐらして、そもそもの二人の出会いから回想しているようです。
 いったい二人の間にはどんなことがあったのでしょう、………?

 本作は、結婚しながらも自殺してしまう若い女の話であり、台詞が大変少なく、また俳優の動きもぎこちなかったりして、なかなか映画の中に入り込みづらいのですが、今時量産される映画とは随分と違った雰囲気があり、たまには、本作のような色々議論したくなる興味深い作品を見るのも良いかなと思いました(注4)。

(2)本作についての情報を何も持っていいないので、まずは、以前見たことがあるブレッソン監督の『スリ』(1960年)のDVDをTSUTAYAから再度借りてきて見てみました(注5)。
 同作はモノクロでミシェルマルタン・ラサール)という青年が主役、他方、カラーの本作の主役は若い女、また同作は専らスリという犯罪行為が描かれますが、本作は若い女と男との二人の生活が描かれる、などという具合にかなり違っています。

 それでも、同作は本作と類似している点もあります(注6)。
 まずは、両作で印象的なのは主人公の大きな眼です。それも、『スリ』の主人公のミシェルは、絶えず鋭い目つきをして獲物を狙っていますし、本作の主人公の女の夫を見る目つきは、愛のこもったうっとりとしたものというよりも、むしろ、いつも一歩下がって客観的なところから“あんた誰?”と言っているような鋭さをもっているように思えてしまいます。

 次に、主人公を演じる俳優が、どちらもそれまでに演技の経験がなかったこともあるのでしょう、二人の動きはひどくぎこちない感じがします。特に、同作の主人公のミシェルが、駅とか競馬場とかで歩く場合、やや猫背気味で、なんとなく手足がバラバラな感じがしますし、本作の主人公の女が、例えば、バスタオルを付けたままベッドにいる夫に向かって行く場面も、なんとなくプールの飛び込みのような感じになってしまっています。

 それに、『スリ』では所々で主人公が綴るノートが読み上げられて、また本作では男のモノローグが所々に挿入されて、物語が進行していくこともあって、両作とも主人公が直接語る台詞はかなり少なくなっています。同作に登場する他の人物はかなり喋るのですが、ミシェルは寡黙と言っていい感じがしますし、本作に登場する質屋の主人は、妻の自殺の原因についていろいろ饒舌に語る一方で、主人公の女はほとんど何も語らずに死に至ってしまいます。
 その上、フランス語ですから確かなことはわからないとはいえ、誰もが皆ボソボソと明瞭ではないしゃべり方をしているようでもあります(注7)。

 こうした共通すると思える点は、あるいはブレッソンの映画に特有のことなのかもしれません。

(3)そこで、昨年の11月に出版された三浦哲哉著『映画とは何か フランス映画思想史』(筑摩選書)の第3章が「ブレッソンの映画神学」と題されていますので、ほんの少しだけ覗いてみましょう。

 同書のP.130に、「ブレッソンが望んだことは、俳優の自己への意識が消えることで、イメージそのものが自律することだった。作為的な表現を禁じられ、イントネーションをつけて話すことも禁じられたモデルたちの自動的な身体は、「自己」を意識の上で喪失している」などとあります。
 具体的には、ブレッソンは、「職業俳優を起用することをほぼ完全にやめる」と述べ、「撮影中はモデルたちに現像したフィルムを一切見せなかった」そうですし、アフレコで台詞を吹き込む際にも「モデルたちに映像を見せることなしに作業を進めた」とのこと。

 なるほど、そういうことの結果として、上で申し上げたような共通項が見出されるものと思われます(注8)。

 このところの映画で言えば、例えば、『フォックスキャッチャー』におけるスティーヴ・カレルとか、『イミテーション・ゲーム』でのベネディクト・カンバーバッチや『博士と彼女のセオリー』のエディ・レッドメインなどの演技が絶賛されているところ、確かに類稀な演技であることはそのとおりだとしても、同時にかなり胡散臭さ(もしくは、押し付けがましさ)を感じてしまうのは、もしかしたら本作や『スリ』における俳優たちの動きとくらべてみることによって説明できるかもしれません。

(4)なぜブレッソンがそうした考え方・方法を採るに至ったのかについての詳細な考察は三浦氏の著書自体に譲るとして、その背後にはカトリシズムがあるようながら、三浦氏によれば、「ブレッソンの宗教性は、頭でっかちの教条主義でもなければ、無味無臭の禁欲主義を勧めるものでもなかった」とのこと(P.110)。
 確かに、『スリ』のラストシーンには、三浦氏の言葉を使えば「生々しいエロティシズムが脈打っている」(P.111)と言えるのではないかと思えますし、本作におけるバスルームのシーンも(注9)、ある意味で本作の一つの山場と言えるのかもしれません。
 そんなところを起点に、今度は原作と本作との比較を行ってみる必要があるものと思いますが(というのも、原作には、そんなバスルームの場面など描かれてはいないからですが)、記事があまりに長くなりすぎますので、ここまでは入り口でこれからが本論ではないかと思うものの、又の機会といたしましょう(注10)。

(5)外山真也氏は、「ブレッソン作品を見ることは、映画を見ることと=(イコール)だから。言い換えれば、その画面には、映画とは関係のないもの、“映画的”ではない要素は一切映っていないのだ」などとして★5つを付けています。
 藤原帰一氏は、「夫の存在が妻を押し込める牢獄になっており、妻はそこから逃れようと藻掻いている。言葉にするといかにも陳腐ですが、それを台詞も演技も取り去った空間、挙動、そして目線だけで伝えてしまう。とんでもない表現力です」と述べています。
 廣瀬純氏は、「手が一階で視線が二階。マルクス経済用語で言えば、下部構造と上部構造のような関係があります」云々と述べているようでう(注11)。



(注1)監督・脚色・脚本・台詞はすべてロベール・ブレッソン。
 今回上映されたのは、1969年に公開されたもの(日本公開は1986年)のデジタル・リマスター版。
 原作は、ドストエフスキーによる同名の短編小説〔『やさしい女 白夜』(井桁貞義訳、講談社文芸文庫)〕。

(注2)原作小説(文庫版)の冒頭の「作者より」では、「テーブルの上には妻の遺体が横たわっている」と書かれており(第1章の冒頭でも、「彼女はいま、応接室のテーブルの上に横たわっている。トランプ用のテーブルを二つ並べた上に」と書かれています)、訳者・井桁貞義氏による解説「訳者の夢」には、「ロシアでは棺が届けられるまで、遺体を清めたり、別れを告げたりするのにあたって、寝台でもなく、床でもなく、テーブルの上に横たえられる」と述べられています(P.226)。
 ブレッソンは、舞台を、原作のロシア・ペテルブルグからフランス・パリに変えるにあたって、テーブルをベッドに変えたものと考えられます。
 ちなみに、時代も90年ほど新しくされていて、例えば、本作における二人の部屋にはテレビが設けられており、女は、大きな爆音を立てているカーレースの番組を見たりしています(テレビにはナチスのゲーリングが映し出されたりしますが、だからといって、時代設定が戦前ということはないでしょう)。

(注3)なお、女は、キリスト像の付いた十字架まで質屋に持ってきますが、質屋の男は、金でできた十字架の重さだけを測って、象牙細工のキリストの方は女に返却します。これは、ブレッソンが敬虔なカトリック信者であることによるのでしょうか?

(注4)主演は、その後『暗殺の森』などで世界的に名が知られるようになるドミニク・サンダで、当時17歳とのこと!
 他に、ギイ・フライジャンジャーヌ・ロブル(老女役)が出演していますが、前者はその後の出演作は不明ですし、後者もトリュフォー監督の『緑色の部屋』に出演したことしかわかりません。

(注5)あらすじは、例えば、このサイトの記事

(注6)何より、両作ともドストエフスキーの小説によっています(このサイトの記事によれば、『スリ』は『罪と罰』にインスパイアされた作品だとする向きがあるようです)。

(注7)アンドレ・バザンの『映画とは何か』(野崎歓他訳、岩波文庫)の「9.『田舎司祭の日記』とロベール・ブレッソンの文体論」には、「ドラマチックな要素を持つ多くの優れた会話が、俳優に課された一本調子のせりふ回しによって押し殺された」とか(P.184)、「せりふを体で表現することも求められず、ただせりふをいうことだけが求められた」(P.193)、「棒読みの文章」(P.205)といった表現が見られます。

(注8)ブレッソンの映画に見られる登場人物のなんとなくぎこちないような動きは、俳優による作為的な表現を抑えこむために、実に沢山のテイクを重ねたことによっているように思われます(三浦氏の著書のP.140)。このサイトの記事によれば、ドミニク・サンダは、「(ブレッソンは)同じテイクを60回撮り直すこともありうると聞いていましたが、私は12テイク以上撮りませんでした」と回想しています。

(注9)バスタブに入っている女が石鹸を落としてしまい、それを外にいた夫が拾って女に手渡すのですが、バスタブから女の美しい足が差し出されているにもかかわらず、女の目付きもあり、お互いに黙って見つめ合うだけで、夫はその濡れた足に触ることができません。

(注10)上記「注9」で触れたシーンを見ると、上記「注7」で取り上げた『映画とは何か』で、アンドレ・バザンが、「小説から派生した第二次の作品としての映画について、原作に「忠実である」というだけでは十分ではない。なぜなら映画はそれ自体が一篇の小説だからだ。そして何と言っても、映画は小説よりも「優れている」わけではないにしても(そもそもこうした価値判断には意味がないのだが)、小説「以上のもの」であることは確かだからである」と述べていることが想起されます(文庫版上巻P.212)。
 とはいえ、同書の第9章は、あくまでもブレッソンの『田舎司祭の日記』についての論考であり、その記述がそのままブレッソンの他の作品にそのまま当てはまるとも思えません。
 特に、バザンは、「ブレッソンにとって小説は生のままの事実であり、与えられた現実であって、状況に合わせて書き換えたり前後のつじつまを合わせるために手を加えたりするべきではなく、反対にありのままの姿で認めるべきものなのだ。ブレッソンは原作の文章を削ることはあっても、決して要約することはない」と述べています(P.198)。
 とはいえ、原作では物語を語る質屋の主人があくまでも主人公でしょうが、本作ではその男は女の行動を説明するナレーターの役割しか与えられておらず、主人公はむしろ質屋の主人の妻となっています〔そのためでしょう、彼女は色々と肉付けされています。例えば、原作の女より遥かに教養のある人物として(補注)〕。



 ですから、例えば、原作文庫版の「作家案内」において山城むつみ氏は、「『やさしい女』の主人公は、まず女から銃口を突きつけられて自分の死(とその向こう側)を凝視するが、最後には彼女の遺体の傍らでこの他者の死(とその向こう側)を正視させられる」と述べているところ、本作においても妻が夫の頭に銃口を向ける場面が描かれているとはいえ、そのシーンにそんなに重きが置かれてはおらず、単に彼女の様々の行為の一つにしか見えないところです。

(注11)ですが、店が1階にあり、住まいが2階にあるというのは、パリではよく見かける構造なのではないでしょうか?そんなところにマルクスの「下部構造と上部構造」を持ち出すのは大袈裟すぎるように思います(『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』の著者の廣瀬氏は、ブレッソンを自分の庭に引き入れるべく、彼の映画を手垢にまみれた古めかしい用語で包み込もうとしているにすぎないのではないでしょうか?)。

〔補注〕なにしろ彼女は、自然史博物館に行くと、「生き物の構造はどれも同じ、配列が違うだけ」と言ってみたり、「ハムレット」を観劇した後、家で、「わざわざ省いてある台詞がある」と言って、戯曲の当該箇所を夫に示したり、さらにはゲーテの『ファウスト』からの引用に応えたり(この記事)、H・パーセルのレコードに聞き入ったり(この記事)するくらいなのですから!




★★★★☆☆



マジック・イン・ムーンライト

2015年04月21日 | 洋画(15年)
 『マジック・イン・ムーンライト』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)前作『ブルージャスミン』が良かったウディ・アレン監督の最新作というので、映画館に出かけてみました。

 本作(注1)の冒頭は、1928年のベルリン。
 「Wei Ling Soo」と書かれた看板がかかっている劇場の中に入ると、中国人を装ったウェイが舞台で色々なマジックを行っています。
 例えば、ウェイがツタンカーメン王の棺のようなものの中に入って、蓋を閉めて一呼吸置くと、離れたところの椅子にウェイが座っているのです(注2)。

 このウェイ、実は英国人の天才マジシャンのスタンリーコリン・ファース)。
 劇場の楽屋にいる彼のところに、幼なじみのハワードサイモン・マクバーニー)がやってきます。
 ハワードは、「最後の瞬間移動のマジックは素晴らしかった。次元が違う」と褒め、さらに「飲みに行こう、頼み事がある」と誘います。

 一緒に出かけたバーで、ハワードは、「占い師が資産家の家に入り込んで、予言で一家を魅了している。家族には精神分析医がいるが、見破れない。怪しい点が見つからない。本物の霊能者かも」と言います。
 これに対して、スタンリーは、冷静に「本物なんかいやしない」と応じたところ、ハワードは、「それじゃあ、一緒にその資産家のところへ行って、占い師のウソを見破ってくれ」と言います。
 それで、二人は、資産家の別荘のある南仏のコート・ダジュールに車で行き、噂の占い師ソフィエマ・ストーン)に会うことになるのですが(注3)、果たしてどうなることやら、………?

 本作は、1928年のヨーロッパを舞台として、天才マジシャンと占い師とを巡るラブストーリー。二人の最初の出会いの雰囲気から(注4)、本作のラストがどうなるのか容易に見通せてしまうほど、お話は他愛のないものながら、そこは百戦錬磨のウディ・アレン監督。ラストに至るプロセスで登場人物たちに縦横に喋らせて、見る者を飽きさせません。小振りながら、味わいのある作品ではないかと思いました(注5)。

(2)マジックとかマジシャンといえば、最近では、邦画の『青天の霹靂』に親子(劇団ひとりと大泉洋)が登場しますし、また『トリック』(例えば、この拙エントリこの拙エントリ)では、“天才美人マジシャン”の山田奈緒子(仲間由紀恵)と、物理学教授の上田次郎(阿部寛)との掛け合いが愉快でした(注6)。
 また、洋画の『グランド・イリュージョン』でも、マジシャンの4人が一緒のチームを組んで、3つの大掛かりなイリュージョン・ショーを繰り広げます(注7)。
 ただ、これらの作品では、ソフィのような占い師は登場せず、従って注目されるのは魔術師の行うマジックの方といえるでしょう。
 本作では、スタンリーが中国人マジシャンに扮していくつかのマジックを披露するとはいえ、それは最初の方だけであり、以降は専ら、ソフィの占いの方が注目されることになります。本作がこれらの作品と異なるのは、こうした点といえるかもしれません。

 としても、これらの作品と本作とが共通するのは、スタンリーのようなウソを暴こうとする人物が登場する点かもしれません(注8)。



 『トリック』の上田教授は、日本各地で信じられている迷信のウソを暴こうとしますし、『グランド・イリュージョン』でも、モーガン・フリーマン扮するサディアスが、主人公ダニエル(ジェシー・アイゼンバーグ)らの大規模なマジックショーの種明かしをしようとします。
 本作では、ソフィが行う霊視とか交霊とかについて、スタンリーは口を極めて批判します(注9)。

 ただ、本作は、ソフィの霊視とか交霊とかについて、インチキかどうか議論すること自体よりも、それに関するいろいろなお喋りを通じて、スタンリーやソフィの本当に気持ちが次第に明らかにされていくプロセスが面白いのではと思います(注10)。
 そんなところを愉しめば、細かなところ(注11)はどうでもいいのではと思ってしまいます。

(3)渡まち子氏は、「魔術師と占い師の恋の行方を描くロマンチック・ラブコメディ「マジック・イン・ムーンライト」。天真爛漫なラブストーリーは軽やかさが心情」として、60点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「端正な英国ハンサム、コリン・ファースがウディのように屁理屈を早口でまくしたてれば、かつてのウディ映画が愛した女優たちを思い出させるエマが、いまが旬の女優の輝きを放つ」として★4つ(見逃せない)をつけています。



(注1)監督・脚本はウディ・アレン
 原題は『Magic in the Moonlight』。

(注2)ウェイは、その他いろいろのマジックを披露します。
 例えば、舞台中央に佇んでいる象の四囲に、寺院が描かれた大きなボードを立てかけます。
 そして、ウェイがポンと手を叩くと、不思議や、ボードの中の象がいなくなっているのです。
 そして、ウェイがマジックをしているバックで、ベートーヴェンの交響曲第9番の第2楽章などが流れたりします(スタンリーは、親しくなったソフィに対し、「ベートーヴェンの交響曲だったら第7番を聴くと良い」とか「弦楽四重奏曲も良い」とか言ったりもします)。

(注3)最初に会った時、ソフィが「あなたの出身は中国?」と言うので、スタンリーは「なぜ中国と?」と尋ねます。すると、ソフィは「そういう波動(mental vibration)が来たの」と答えます。またソフィは「ドイツへいらしたことは?」と聞き、スタンリーは「最近、ベルリンにいた」と答えます。ですが、最後にスタンリーが「ブラジルコーヒーを輸入する仕事をしている」とウソを言うと、ソフィは「違ったわ、彼は霊界を信じていない」とつぶやきます。
 なお、スタンリーのそばにはハワードがついていますし、ソフィのそばにはいつも母親(マーシャ・ゲイ・ハーデン)が付いています。




(注4)最初にスタンリーとソフィが出会った後、ソフィの母親は、スタンリーについて「感じが悪い」というのですが、ソフィの方は「良い感じだわ」とつぶやくのです。
 なお、劇場用パンフレット掲載の「Production Note」によれば、アレン監督は、「誰かに出会ってその人たちにたちまち魅了されてしまうというのは、説明のつかないことだ。人はそこに理由を見つけようとする。……でも結局のところ、理由は絶対にわからない。……恋はとても複雑だ。なぜならそれは実体のないものだから」と述べています。

(注5)出演者のうち、最近では、コリン・ファースは『レイルウェイ 運命の旅路』、エマ・ストーンは『L.A.ギャングストーリー』、マーシャ・ゲイ・ハーデンは『ミスト』で、それぞれ見ました。

(注6)なお、『ザ・マジックアワー』は、詐欺師が人を騙す話しながら、マジシャン自体は登場しません。

(注7)さらには、『エヴァの告白』にも、ジェレミー・レナーが扮する手品師が登場します。

(注8)『青天の霹靂』は、父親と息子の関係をタイムスリップの中で描いており、違うかもしれません。

(注9)最初にスタンリーがソフィに会った後、ハワードが「的中してた」と言うと、スタンリーは「所詮ペテンさ。霊界など存在しない」と言い放ちます。
 なお、劇場用パンフレット掲載の「Production Note」によれば、「当時の偉大なマジシャン、ハリー・フーディーニは、数多くの交霊会に参加し、あらゆる霊能者のイカサマを暴いていた」とアレン監督は言っているようです〔さらに、この記事によれば、フーディーニは、決して詐欺師を暴き立てようとしていたのではなく、死者との交信が可能なことをぜひ見つけ出したいとの願望から、そのような行動に走ったとのこと。イカサマを数多く見つけ出して失望したものの、死ぬまで彼は、来世について希望を持ち続けていたようです〕。
 このフーディーニについては、『トリック』でも取り上げられています(この拙エントリの「注2」を参照してください)。

(注10)例えば、許嫁のオリヴィアに「あと2、3日で帰る」と電話した後、スタンリーとヴァネッサおばさん(アイリーン・アトキンス)との間で、次のような会話が行われます(随分と端折ったものですが)。
ヴァ「新婚旅行のガラパゴスは愉しみ?」
ス「なんで?ソフィに恋しているとでも?」
ヴァ「ソフィとも合うわけがない」
ス「ソフィはイカサマに生きる女。ただ、ソフィは恵まれない子供時代を過ごした。ソフィにも魅力はない。犯した罪は考えないが」
ヴァ「人は誰でも罪を犯す」
ス「だが、あの目は愛らしい。理論上、オリヴィアよりソフィを好む理由がない」
ヴァ「ソフィを愛しているのね」。

(注11)例えば、ラストでソフィが出現するところは、ハワードとソフィが話しているところにスタンリーが突如出現したのと同様に、瞬間移動の術で現れるのかなと思っていました。



★★★☆☆☆



象のロケット:マジック・イン・ムーンライト

博士と彼女のセオリー

2015年04月14日 | 洋画(15年)
 3月末の拙エントリの冒頭で申し上げましたように、映画館が満員で見逃してしまった『博士と彼女のセオリー』を、ようやっと日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)本作(注1)は、アカデミー賞作品賞にノミネートされた作品ということで、映画館に行ってきた次第です。

 冒頭のシーンは、ラストの王宮の場面につながるのでしょうが、車いすに座った人間と子供たちなどが、両側にいくつも絵画のかかった廊下を進んで行く様子が逆光の中でおぼろげに映しだされます。

 次いで、1963年、ケンブリッジ大学の構内を自転車で走るホーキングエディ・レッドメイン)とその親友・ブライアンハリー・ロイド)の姿。



 大学の建物の中で行われているパーティーの中に入っていきます。
 男たちが、「愛の物理学で博士号をとれ」等と言っているそばで、女達が「科学専攻者ばかり。長居は無用。退屈してしまう」と言っています。
 そんな中で、ホーキングがジェーンフェリシティ・ジョーンズ)と目が会い、「ハロー」と近づいてきます。
 ジェーンが「あなたの専攻は?」と尋ねると(注2)、ホーキングは「コスモロジー」と答え、さらに彼女が「何を信じているの?」と訊くと、彼は「たった一つの方程式。未だ答えがわからない。でも見つける」と答えます(注3)。
 ジェーンは「方程式が見つかるように祈るわ」と言ってその場を離れますが、ホーキングはハンカチに電話番号を書いて渡します。



 そんな経緯でホーキングはジェーンと出会ったわけですが、さあ、これからどのように二人の関係は発展していくのでしょうか………?

 本作では、よく知られたALSの天才物理学者とその妻との愛の物語が前面に出ていて、ホーキング博士の宇宙理論は添え物的に扱われているので、イマイチ感を抱かせるとはいえ、そのことで逆にとても見やすくできている作品と言えるのではと思います。特に、ホーキングを演じるエディ・レッドメインの演技はアカデミー賞主演男優賞も当然と思えるほど見事な出来栄えですし、また妻役のフェリシティ・ジョーンズも、彼に劣らず素晴らしい演技を披露しています(注4)。



(2)邦題でも原題でも「セオリー(理論)」が掲げられている割には、映画からはその点があまり見えてこないような感じもします。「理論」といっても、おそらくは単なる比喩に過ぎないからでしょう。
 でも、宇宙論については門外漢でよくわからないながら、それと本作とを試みに無理やりこじつけてみたら、もしかしたら次のようにでもなるのでしょうか?

 例えば、ALSと判明して、ホーキングが、部屋に入ってきたジェーンに対し「僕を思うなら出て行ってくれ。余命は2年。研究したい」と言ったのに対し(注5)、ジェーンが「あなたを愛している。一緒にいたい」とキスをし、ホーキングの汚れた眼鏡を拭いてあげ、ついに結婚式に到達します。

 ホーキングが1988年に出版した『ホーキング、宇宙を語る』(ハヤカワ文庫NF)のほぼ同じ箇所において(P.84~P.85)、一方で、ホーキングが「ALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかっていると診断された」ことと、「素晴らしい女性、ジェーン・ワイルドと婚約した」ことが、他方で1965年に「重力崩壊を起こしている物体はどんなものでも最後には特異点をつくるというペンローズの定理について読んだ」こと、さらに、1970年に「一般理論が正しく、かつ宇宙が、われわれが現に観測しているのと同じ程度の量の物質を含んでいさえすれば、ビッグバン特異点があったはずだということを最終的に証明した」と述べられています。
 1965年のホーキングとジェーンの結婚は、“ビッグバン特異点”とみなしてみたら面白いのではないでしょうか?
 なにしろ、一方で、「この理論は、宇宙のはじまりにはそれ自身(一般相対性理論)を含めてすべての物理理論が破綻すると予測している」のであり、他方で、余命2年と宣告された理論物理学者と中世のスペイン詩を学ぶ二人の結婚も、世の中の常識が及ばない“特異”な感じがするものだったでしょうから(注6)!

 とはいえ、『ホーキング、宇宙を語る』の最後の方では、「重力の量子理論が開いてくれた新しい可能性では、時空は境界をもつ必要性がないので、境界における時空のふるまいを特定する必要もなくなる。特異点がないので、科学法則が破綻することもない」と述べられています(P.195)。
 こうした方向性は、ラストの時間の巻き戻しの場面に関係してくるのでしょうか(注7)?
 すなわち、ラストの王宮の庭園での素晴らしいシーンで、「今日はありがとう」と言うジェーンに、ホーキングが「我々が作り上げたものを見ろよ」と言いながら3人の子供たちを見ると、これまでの映像がどんどん巻き戻されて、ついに最初の出会いのところまで遡ります。

 名古屋大学の松原隆彦氏は、『宇宙はどうして始まったのか』(光文社新書、2015.2)において、ホーキングが2006年に明らかにしたトップダウン型宇宙では(注8)、「現在の宇宙で私たちがどのような観測を行うかということが、宇宙の歴史自体を決定づけることになる。現在の私たちの観測行為が、複数の可能性が重ね合わさっている宇宙の歴史から、一挙に一つを選びとってしまうというのだ」と述べています(P.204)。
 ただこれは、「すでに起きてしまった過去を思い通りに変えられる、という都合のいい話」ではなく、「観測行為によって現実化した宇宙と矛盾のない過去だけが選び取られるということ」だそうです(P.205)。

 要すれば、本作では、ホーキングとジェーンとの最初の出会いからその後の経緯を時間的な流れに従って描かれていますが、それは古典物理学の世界のものであり、量子論的な宇宙の見方に従えば、むしろ、現在の時点に立ち現在をどう捉えるのかによって過去を捉えることができるということなのかもしれません(注9)。
 ラストの時間の巻き戻しの場面も、そう考えていけば、なお一層興味が湧いてきます。

(3)渡まち子氏は、「理論物理学者スティーブン・ホーキング博士と妻ジェーンの半生を描いた「博士と彼女のセオリー」。あざとさや感動の押し売りはいっさいない特異なラブストーリー」として80点を付けています。
 前田有一氏は、「人の幸福とは、外から見ても案外わからないものである。だが、たとえなんの才能がなくとも、不自由な境遇の中でも、きっとそれは用意されている。そんな風に思わせてくれる暖かい1本である」として60点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「恋愛映画としては定石通りであり、ラスト近くで2人の別れと新たな人生が示されるが、少々漠然と描かれていて、それまでの愛の展開から見るとドラマとして物足りない印象は否めない」として★3つ(見応えあり)を付けています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「偉人伝として持ち上げず、きれいごとに終わらせていないからこそ、感動的な愛の物語がなおいっそう輝きを増しているのだ」と述べています。



(注1)原作はジェーン・ホーキング著『Travelling to Infinity:My Life with Stephen』。
 監督はジェームズ・マーシュ
 原題は「The Theory of Everything」。

(注2)ジェーンは、言語学の分野で博士号をとろうとしています。

(注3)「たった一つの方程式」といえば、映画『インターステラー』において、アメリアの父親のブラッド教授が探求していた方程式を思い起こさせます。
 そういえば、『ホーキング、宇宙を語る』ではブラックホールが中心的に書かれていますが、同作では、ブラックホールで得られたデータによってマーフがブラッド教授の方程式を解明する話となっています。

(注4)出演者のうち、エディ・レッドメインは『マリリン 7日間の恋』、フェリシティ・ジョーンズは『わたしの可愛い人―シェリ』(シェリの妻の役)で、それぞれ見ました。

(注5)ホーキングを診た医師は、「運動ニューロン疾患だ」と言い、さらに「筋肉を動かそうとする信号が、脳から伝わらなくなる。随意運動を制御できなくなる。余命は2年。治療法はない。ただし、脳は影響を受けない。しかし、誰にも考えていることを伝えることができない。残念だ」と言います。

(注6)例えば、ホーキングの父親は、ジェーンに対し、「これからはとても短い。これは闘いにさえならない。耐え難い敗北へ向かうだけだ」と言うのです。

(注7)なお、『ホーキング、宇宙を語る』では引き続いて、「空間と時間が、境界のない閉じた局面を形成しているかもしれないという考えは、宇宙の出来事に対する神の役割に就いても、深刻な示唆をはらんでいる。………宇宙が本当にまったく自己完結的であり、境界や縁をもたないとすれば、はじまりも終わりもないことになる。………だとすると、創造主の出番はどこにあるのだろう」と述べられています(P.202)。
 1991年のジェーンとの離婚が、既に予感されていたのでしょうか?というのも、ジェーンは、敬虔な英国国教会の信者であり、神の存在を信じていたはずですから(カトリックではなく、英国国教会の信徒のために、離婚ができたのでしょう)。

(注8)共同研究者のトーマス・ハートグと書いた論文に述べられているようです。

(注9)松原氏は、「もしホーキングのトップダウン型宇宙が正しいのなら、宇宙の始まりは私たちにとって確定的な出来事ではない。まだ私たちが測定していない宇宙の性質について、その原因となるような宇宙の出来事は、いろいろな可能性がいまだ量子的な重ね合わせの状態にある」と述べています(P.209)。
 あるいは、本作で描かれているホーキングとジェーンとの出会いからの経緯は、決して確定したものではなく、数ある重ね合わせ状態の一つにすぎないのかもしれません。



★★★★☆☆



象のロケット:博士と彼女のセオリー

くちびるに歌を

2015年04月10日 | 邦画(15年)
 『くちびるに歌を』を新宿ピカデリーで見てきました。

(1)ここしばらく洋画が続いたのでこの辺りで邦画をということで、上映終了間近ながら映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、フェリーの甲板にあるベンチで横になっている女性の姿。島伝いにフェリーが進んで行く内にむっくりと起き上がったのが、長崎の五島列島にある中学校の臨時の先生になった柏木ユリ新垣結衣)。
 彼女は、五島列島が故郷ですが、上京してピアニストになっていました。友人の松山先生(木村文乃)が出産で休暇をとるために、代理をすることになったものです。

 次いで、中学生の仲村ナズナ恒松祐里)が、母親の写真が置かれた仏壇で手を合わせてから、自転車に乗って学校へ向かいます。
 そして、ナズナのナレーションが入ります。
 「ある先生との出会いが人生を変えました。15年後の私は覚えているでしょうか」

 さあ、柏木ユリと仲村ナズナが部長の合唱部との出会いは一体どんなことになるのでしょうか、………?




 本作がどんな感じの映画になるのかは予告編からある程度見通せてしまうとはいえ、またストーリーにもやや疑問な点があるものの、主演の新垣結衣、アンジェラ・アキが作った曲「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」、それに舞台の長崎の五島列島、この3つを十分に楽しめるので、まずまずの出来栄えの作品ではないかと思いました(注2)。

(2)本作は、やっぱり先月見た『幕が上がる』と比べたくなってしまいます(注3)。
 類似する点から言うと、例えば、同作は演劇部顧問の溝口先生(ムロツヨシ)ではなく専ら美術の吉岡先生(黒木華)が演劇指導に当たるのと同じように、本作では本来の松山先生ではなく代理の柏木ユリが指導に当たります。

 また、吉岡先生が中央の演劇界で“元学生演劇の女王”と呼ばれていましたが、ユリも、中央のクラシック音楽界で“天才ピアニスト”とされていたのです。

 さらに、同作も本作も、ラストが県大会になっています(注4)。

 違っている点としては、例えば、同作が高校生を取り扱っているのに対して、本作は中学生が対象となっています。ただ、高校生の場合、一般には恋愛問題が絡むでしょうが、同作では全く描かれていないので、この点に着目する意味はあまりないでしょう。
 ただ、同作の演劇部は女生徒のみで構成されているのに対し、本作の合唱部も元々は女生徒のみだったところ、ユリに釣られて6人の男子生徒が入部してきましたので、雰囲気的に相違があるかもしれません。



 また、同作が演劇部、本作が合唱部という違いがあります。
 特に、同作は、独自の演劇理論を持つ平田オリザ氏の小説が原作となっていることもあり、演劇部が様々の舞台をこなすことによってより上のレベルに成長していく様がかなり入念に描かれています。
 他方、本作では、ユリの指導する場面が描かれているとはいえ、そして、最初のうちは箸にも棒にもかからなかった男子生徒が最後には上手に歌う様が描かれていますが、合唱の上達という側面にそれほど重きが置かれていません。

 色々申し上げましたが、何と言っても同作は「ももいろクローバーZ」のメンバー5人が中心であり、映画の中でのそれぞれの成長ぶりに注目が集まってしまいますが、他方の本作では、合唱部自体が皆で成長する姿が描かれ、同作に比べてとても素直な感じがするところです。

(3)とはいえ、本作のストーリーにはやや疑問な点があるようにも思います。
 例えば、本作では、主人公のユリが、気鋭のピアニストとして活躍していたにもかかわらず、突然ピアノが弾けなくなってコンサートの舞台から姿を消してしまう事件が描かれますが、その理由があまり説得的ではないような気がします(注5)。

 また、映画では桑原サトル下田翔太)が活躍するとはいえ、どうもよくわからない人物です。
 とりわけ、誰も彼のことを知らないでいて、観客にはなんだか転校生のように見えてしまうのです(注6)。
 また、自分と兄・アキオ渡辺大和)との関係について、普通あのように考えるものなのかどうか、少々疑問に思われます(注7)。

 さらに言えば、“あなたは決して一人じゃない”と言うおなじみのフレーズが本作でも見受けられました(注8)。

 でも、『麒麟の翼』以来久しぶりで新垣結衣を映画で見ることが出来ましたし(注9)、アンジェラ・アキの「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」(歌詞はこのサイト)が映画の中で何度も流れて堪能しました(注10)。何よりも、クマネズミが行ったことのない五島列島の自然の素晴らしさを垣間見ることが出来ましたから(注11)、ここで申し上げたつまらないことはどうでも良くなってしまいます。

(4)渡まち子氏は、「心に傷を抱えた音楽教師と生徒たちが合唱によって絆を深める「くちびるに歌を」。美しい風景と子どもたちの素直な演技は好感度大」として65点を付けています。
 秋山登氏は、「日本映画に、近ごろ、いわゆる〈学園もの〉がやけに目に立つ」が、「長崎・五島列島の小さな島の中学校を取り上げたこの作品は、中でも出色の出来だ。何よりも大人が白けずに見ていられるのがありがたい」と述べています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「合唱の力で心が一つになっていく様子は、展開が読めていても感動してしまう。合唱コンクールの会場で、学校の枠を超えて歌の輪が広がる場面には、胸に熱いものがこみ上げてきた」と述べています。



(注1)原作は、中田永一(乙一)著『くちびるに歌を』(小学館文庫:未読)。
 監督は、『アオハライド』の三木孝浩
 なお、映画化に至る経緯については、例えばこのサイトの記事の「曲解説」が参考になります。

(注2)出演者のうち、木村文乃は『太陽の坐る場所』、同僚の先生役の桐谷健太は『アウトレイジ ビヨンド』、サトルの母親役の木村多江は『夜明けの街で』、サトルの父親役の小木茂光は『あんてるさんの花』、ナズナの祖母役の角替和枝は『0.5ミリ』、ナズナの祖父役の井川比佐志は『春を背負って』で、それぞれ見ました。

(注3)というのも、両作の公開日が同じ日(2月28日)で、本作の三木監督がTwitterで「部活映画対決じゃ~」と言っているからでもありますが(例えば、この記事)。

(注4)尤も、演劇の場合、先ずブロック大会があって、そこで上位入賞すれば県大会に出場できるのであり、同作の演劇部もブロック大会を経てからの県大会でした。
 他方、合唱の場合は、先ず県大会があり、その上位校がブロックの大会に出場できるようです(本作の合唱部は、上の大会には行けないようです)。

(注5)実は、ユリの許婚(中学時代から付き合っていた)が家に戻る際に、乗っていたオートバイが事故を起こし許婚が死んでしまったのです。コンサート開演直前に、控室にいたユリに消防庁の職員(声:前川清)から事故の連絡が入り、彼女は舞台に登場するものの、ショックからピアノに指を置くことができず、退場してしまいます。
 許婚からは、「完徹続きで連絡しないでいてごめん」との留守電が入っていました(声:鈴木亮平)。この留守電を、ユリは島にわたってからも何度も聞き返しています(声の出演者については、この記事が参考になります)。
 ただ、こうした経緯になるのは、許婚の死にユリが深く関与している場合ではないかと思われます。ですが、自分の仕事で徹夜したにもかかわらず許婚がオートバイに乗り、それも雨の日だったために、運転を誤って事故を起こしたものと映画からは推測されます。
 無論許婚を失ったショックは大きいでしょうが、その死に直接関与していないのであれば、ユリがピアノを引けなくなるほど自責の念にとらわれることもないのではと常識的に思ってしまいます(あるいは、許婚がそんな厳しい職場にいて自分を支えてくれたからこそ今の自分があるとユリが考えていたのかもしれません。でも、結婚前なのですから、許婚がユリの面倒を見ていたようには思われないところです)。
 また、ユリは合唱部の生徒たちの姿を見て立ち直るわけですが、許婚の死によってピアノが弾けなくなったというのであれば、そんな一般的なことではなく、もっと個別的で許婚の死に絡まるような出来事によってトラウマを脱出できたとする方が説得的ではないかと思われます。

(注6)サトルの家族は、古くから島で暮らしてきたようであり、とても最近島に引っ越してきたようには見えません。さらには、狭い島のことですから、クラスメートの家族の状況はお互いによく知っているものと思われます(現に、仲村ナズナの家族の状況を皆が知っていました)。
 にもかかわらず、例えば、サトルの兄・アキオが自閉症であることを、仲村ナズナは、コンクールの当日まで知らなかったのです(特段、アキオの家族はアキオを人の目から隠しているわけではなさそうですし。なお、このサイトの記事によれば、漫画『くちびるに歌を』では、サトルについて「学校に来て、授業を受け、真っ直ぐ家に帰る。それだけをひたすら繰り返してきて、今までイジメなどに会うわけでもなくただただひとりぼっちなだけの日常を過ごしてきた彼は、「ぼっちのプロ」などと自称」と描かれているようです。仮にそうだとしても、家族状況くらいは島中に知れ渡っているのではないでしょうか?)。

(注7)サトルは、ユリに課された作文に、「自分が存在する理由ははっきりしている。両親は、自分たちの死後も自閉症の兄の面倒をみさせるために自分を産んだのであり、兄が自閉症でなければ自分はいなかった。15年後の僕は、絶対兄のそばにいるだろう」と書いて提出します。
 サトルは、早熟で哲学的な思考をしがちなのでしょう(ユリに、「生きている意味を考えたことはありますか?」とも質問します)。でも、これは随分と偏った考え方であり、常識的にはそんな風に考えないのではないでしょうか(中学生にしては、自分を随分と突き放しすぎているのではないでしょうか)?
 尤も、米国映画『私の中のあなた』に登場する妹アナは、白血病の姉ケイトを救うべく試験管ベービーとしてもうけられており(おまけに、アナはその事実を既に知っているのです)、もしかしたらサトルの両親が少しはそのように考えたのかもしれませんが(それが日々の行動とか言葉の端々ににじみ出てしまい、敏感なサトルがそれを感じ取ってしまったのかもしれません)。

(注8)松山先生に起きた事態を知ってナズナはコンクール会場の控室を飛び出そうとしますが、彼女に対して、柏木ユリが、「逃げるな!」私はもう逃げない。あんたは一人じゃない。心配しないで歌えばいい」と叫びます。
 ナズナがはたして“逃げ”ようとしたのかどうか疑問は残りますが、それはともかく、「一人じゃない」のフレーズは、例えばつい最近見た『イントゥ・ザ・ウッズ』でも、パン屋の主人とシンデレラが「良い悪いは、自分一人で決めなさい。でも、あなたは一人じゃない(No one is alone)」と歌ったりします。
 こうした台詞をもってくると、映画のテーマがはっきりするのでしょうが、なにも手垢にまみれたフレーズでテーマなど明示せずとも、それこそ観客は一人一人考えるものではないでしょうか?

(注9)最近ではTVドラマ『リーガル・ハイ』の黛真知子の印象の方が強くなってしまっていますが、本作では随分と落ち着いた大人の役柄をうまくこなしています。

(注10)ただ、歌詞の中で「自分とは何でどこへ向かうべきか 問い続ければ見えてくる」のところは好きではありませんが(30歳のものがそんな悟ったようなことを口にできるでしょうか、それに果たして“見えてくる”ものでしょうか?)。
 なお、映画の中では定番の合唱曲「マイ・バラード」も何回も歌われます。

(注11)ネット検索していましたら、映画評論家の荻野洋一氏が、「今作に映りこむ長崎・五島列島の水景はまさに息を飲むほどである。内海がジグザグに蛇行し、島々が書き割りのごとく折重なり、海の水色、島々の緑色、曇天のグレー、この3色が素晴らしい配置ぶりを示す。その絶景はジャ・ジャンクーの『長江哀歌』に匹敵するほどなのに、今作は最低限しか見せない」と述べていました。



★★★☆☆☆



象のロケット:くちびるに歌を


ブルックリンの恋人たち

2015年04月07日 | 洋画(15年)
 『ブルックリンの恋人たち』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)昨年末に『インターステラー』で見たばかりのアン・ハサウェイが主演する作品だというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台は現代のニューヨーク。
 冒頭は、地下鉄の駅の地下道でギターを弾きながら歌っているストリート・ミュージシャンの姿。通行人はほとんど関心を示しませんが、中には、開けてあるギターケースに小銭を投げ入れる者も。
 歌い終わると、青年は、ギターを背負いヘッドホンを耳に付けながら街を歩きます。
 突然、何かが衝突するような感じで画面が乱れて、「Song One」のタイトルが入ります。

 次いで、モロッコで原住民の結婚式の様子や市場の雑踏などを調査している女性の姿。
 彼女は、人類学の博士論文作成のためにモロッコに行っていたフラニーアン・ハサウェイ)。



 そんな彼女がベッドで寝ていると、突然電話が。母親(メアリー・スティーンバージェン:注2)が、「ヘンリーが交通事故に遭って入院している。戻ってきて」と言っています。

 上記のストリート・ミュージシャンは、フラニーの弟のヘンリー(ベン・ローゼンフィールド)で、画面が乱れた時に車に接触したようです(注3)。
 フラニーは、急遽ニューヨークに戻り、ヘンリーの病室に入り、看病する母親と会います。
 ただ、ヘンリーは昏睡状態で、医者は「頭蓋骨が損傷し、強い衝撃による血腫ができている。昏睡状態を脱することができるかどうかわからない。辛抱強く待つしかない」と言っています。

 実は、フラニーは、以前弟と喧嘩してしまい(注4)、最近ではほとんど連絡をとっていませんでした。
 そんな弟が昏睡状態にあることに酷く後ろめたさを感じて、彼女は、一方で、ヘンリーの脳に刺激を与えるべく、弟が好きなパンケーキの臭いを嗅がせたりします(注5)。
 他方で、病床の弟について色々なことを知ろうと、彼が出入りしていた場所に行ってみたり、彼が大好きだったミュージシャンのジェイムズ・フォレスタージョニー・フリン)に会ったりします(注6)。
 その彼がなんと弟の病室にやってきたことから(注7)、フラニーとジェイムズとの間でつながりが出来てきます。さあ、二人はどのような関係になっていくのでしょうか、………?

 本作は、邦題から、本作と同じアン・ハサウェイ主演の『ワン・デイ―23年のラブストーリー』と似たような作品なのかなと思って見たところ、むしろ同じニューヨークが舞台でキーラ・ナイトレイ主演の『はじまりのうた』と同じような感じのところがあり、たくさんの歌が挿入されている作品でした。
 何しろ、原題が「Song One」というのですから!
 まあ、アン・ハサウェイがもっとたくさん歌う姿を披露するのであればともかく、可もなし不可もなしの作品ではないかと思いました。

(2)本作と『はじまりのうた』との類似点は上記したように色々ありますが、他にも例えば、『はじまりのうた』でキーラ・ナイトレイと一緒にイギリスからやって来るデイヴを演じているアダム・レヴィーンが、人気ロックバンド(Maroon 5)のボーカリストであるのと同じように、本作のジェームズに扮するジョニー・フリンは、南アフリカ生まれの俳優ながらも、フォーク・ロックバンド(ジョニー・フリン&ザ・サセックス・ウイット)のフロントマンでもあります(注8)。



 それに、『はじまりのうた』のラストの方で、キーラ・ナイトレイ扮するグレタが、元の恋人デイヴが出演するライブ会場に出かけて「Lost Stars」を歌う姿を見るのですが、本作のラストでも、フラニーは、ジェイムズのフィラデルフィアの公演に行って歌を聞くのです(注9)。

 ただ、『レ・ミゼラブル』では随分と歌っていたアン・ハサウェイですが、残念ながら本作では、「歌うのを恥ずかしがる主人公を演じ」ているために(注10)、キーラ・ナイトレイと違って、ほんの僅かしかその歌声を聞くことができません(注11)。
 なにしろ、『はじまりのうた』においては、キーラ・ナイトレイは、ニューヨーク中ところかまわず出張って歌うわけですから、本作のアン・ハサウェイとは大違いです。
 それに、『はじまりのうた』は、「台詞が歌われることはないとはいえ、詩によるコミュニケーションは十分に果たされていて」、ミュージカル映画ともみなせると思いますが、本作ではそのような場面は見当たりません(注12)。
 でも、劇場用パンフレットに掲載の監督インタビューで、監督は、「多くの映画と異なり、楽曲が映像より先に用意されていました」、「この作品の脚本を書きながら、自分が好んで音楽を聴きに行く場所で撮影することを考えていました。ライブを見に行ったり、他の観客と一体になってパフォーマンスに酔いしれる様子などを描きたかったのです」などと述べています。
 むしろ、こちらの作品こそ、ストーリーが添え物の音楽映画といえるかもしれません。

 ですから、喧嘩したくらいで後ろめたさを感じて、大事な博士論文作成をそっちのけにして弟の介護にのめり込んでしまうものなのかなど、ご都合主義的に見えるストーリーにいささか疑問を感じないわけではありませんが、そんなことはまさにどうでもいいのでしょう。

(3)渡まち子氏は、「決してドラマチックではないけれど、音楽を通して語られる恋が何だかとても新鮮で心地よい佳作だ」として65点を付けています。



(注1)監督・脚本はケイト・バーカー=フロイランド

(注2)メアリー・スティーンバージェンは、『ヘルプ 心がつなぐストーリー』とか『噂のモーガン夫妻』などに出演しています。

(注3)母親は、「ヘンリーがヘッドホンをしていたために、車の接近に気が付かなかったんだ」と言っています。さらに、「いつも道の両側をよく見て、と注意していたのに。それにしても、パパが亡くなっていてよかった」などとも言います。

(注4)ヘンリーがミュージシャになるために、入学していた大学をやめてしまったことを、フラニーはきつく責めたようです。

(注5)さらには、弟が創ったCD「Marble Song」を聞かせたりもします(CDの最初に、フラニーに対し「これは新しい曲なんだ、聞いて欲しい」と言っているヘンリーの声が入っています!)。
 ここらあたりは、『妻への家路』において、妻の記憶を呼び戻そうと夫がいろいろ工夫するところを彷彿とさせます。

(注6)ヘンリーのギターケースの中にあったノートに、ジェイムズ・フォレスターのライブのチケットが挟まっていたので、フラニーはそのライブに出かけていきます。
 なお、フラニーが臭いをかがせたパンケーキも、そのノートに記載されていたものです。

(注7)ライブの後のサイン会で、フラニーはジェイムズに、「あなたの大ファンの弟が交通事故に遭った」と話しかけ、入院先の病院名まで告げます。それで、ジェイムズが病院にやってきたわけ。

(注8)本作の公式サイトにある「Story」には、「ドブロ・ギターとバイオリンの重奏」とあります。
 ジェームズは、ギターの伴奏でしばらく演奏した後、エフェクター(ルーパー)を踏んで、一方でその伴奏をスピーカーから流しながら、他方でヴァイオリンを弾きます。

(注9)『はじまりのうた』において「Lost Stars」が、グレタとデイヴの二人にとって象徴的な位置にあるのと同じように、ライブ会場を映し出しているスクリーンでフラニーが見るのは(チケットが完売で、フラニーは会場の中に入れませんでした)、ジェイムズが「Afraid of Heights」を歌っている姿でした(下記の「注11」をご覧ください)。
 なお、ジェイムズは、普段はメイン州の山の中に住んでいて曲を創っており、まとまった曲が出来上がるとニューヨークなどのライブハウスで公演を行っているとのこと。今回は、フィラデルフィアの公演で最後です。

(注10)劇場用パンフレットに掲載のインタビューでアン・ハサウェイが述べています。
 なお、こうした役柄になったのは、あるいはこの記事に書かれていることが関係したのでしょうか?

(注11)ブルックリンからエンパイア・ステート・ビルを眺めながらジェイムズと「Afraid of Heights」を歌ったり(このインタビュー記事によれば、「アンとジョニーが即興で考えて作った歌」とのこと)、家で母親が強いるものですから「I Need You」を歌ったりしますが、随分と控えめな歌い方です。



(注12)とはいえ、フラニーは、弟が書いたノートを頼りに、様々のライブハウスに出かけたりして、いろいろな音を録音してきて弟に聞かせます。「音」によって弟の心とのコミュニケーションを回復しようとしていのかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:ブルックリンの恋人たち

イントゥ・ザ・ウッズ

2015年04月03日 | 洋画(15年)
イントゥ・ザ・ウッズ』を吉祥寺オデヲンで見てきました。

(1)暇ができたので映画館に行ってみようと思っただけのことで全然期待していなかったのですが、ミュージカル物としたらこんなところなのかな、でもあまり出来の良くない作品ではないかなと思いました。

 本作(注1)は「昔、森に接して小さな村がありました」との語りで始められます。
 そしてまず、シンデレラアナ・ケンドリック)が、国王が催す舞踏会に参加したいと歌いながら、ホコリまみれになって大きな家の掃除を一人でしています。そんなシンデレラを継母やその娘らがあざ笑い、継母は豆を床にぶちまけ、「豆を全部拾い集めたら舞踏会に行ってもいいよ」と言うのです。
 次いで、乳を出さない牛を連れたジャック少年が登場し(注2)、母親から「牛とは友だちになれない」と言われ、さらに牛を隣村の市場で売ってくるように命じられます。
 また、パン屋では、主人(ジェームズ・コーデン)と妻(エミリー・ブラント)が、子供がほしいと歌いながらパンを売っているところに、赤ずきん(リラ・クロフォード)が、「パンを恵んで。森に住むおばあさんに食べさせたいの」と言いながら入ってきます(注3)。

 そんなパン屋に、隣に住む魔女(メリル・ストリープ)がやってきて、「子供が授からないのは呪いのせい。呪いを解くためには、3日の内に、ミルクのように真っ白な牛、血のように赤いずきん、トウモロコシのように黄色い髪の毛、それに金色の舞踏会用の靴を揃えることだ」と言うのです。



 それで、パン屋の夫婦は、その4つのものを探しに森のなかに入って行くことになります。



 もとより、赤ずきんは、おばあさんに会いに森の中に入りますが、シンデレラも、王様の舞踏会に参加するために森を通って城に向かうことになりますし、ジャック少年も、隣村に行くために森を通ることになります。



 この他、魔女は、ラプンツェルマッケンジー・マウジー)を森にある塔の中に閉じ込めて育てています。
 こうして、本作に登場する主要な登場人物が皆森の中に入って行くことになります。
 さあ、森のなかでは一体どのような展開が見られるのでしょうか、………?

 本作は、1987年のブロードウェイ・ミュージカル(注4)を実写化した作品で、シンデレラ、ラプンツェル、赤ずきん、ジャックと豆の木の4つの童話を、森という場所でつなぎあわせ(注5)、その上でそれぞれの童話の「その後」を描き出しています。前半は、よく知られている童話が若干違った語り口で語られ、それはまあそれで問題ないでしょう。ですが、後半になって、肝心の「その後」のお話が描かれると、どれも全くとるに足らない酷くつまらない話になってしまっています。

 それに、出演者の中で評価できるのはメリル・ストリープくらいで、アナ・ケンドリックも期待はずれでした(注6)。

(2)劇場用パンフレットの最初のページで、監督のロブ・マーシャルが「(本作の)テーマは「願いを叶える」というコンセプトです。人々は願いを叶えるためにどこまでしようとするのか、その影響にどう対処するのか」と述べています(注7)。
 この映画は、そんなところに全てを落とし込もうとして作られている感じがします。ただ、物語は予めテーマをはっきりと定めて作るものではないように思われますし、また映画のテーマなどは制作者が事前に声高に言うものではなく、観客がそれぞれ映画を見た後に自分で考えるべきものでしょうし、もとより映画に明確なテーマなどなくとも何の問題もないものと思います。何にせよ、まずは話自体が面白くなくてはどうにもなりません。

 例えば、パン屋の夫婦は子供を授かりたいという“願い(wish)”を強く持っていて、それで森の中に入って魔女が求める4つの物を集めて、ついに子供を授かります。ですが、その代償としてなのでしょうか、妻は崖から落ちて死んでしまいます。
 この話を見て観客は、あまり高望みをするとロクなことにはならないと思え、というのでしょうか?
 でも、パン屋の夫婦はとにかく子供を授かったのですし、妻の死は、彼らが子供を望んだことと全く無関係と思える事故死でしかありません(注8)。
 なんだか、パン屋一家に悪いことが起きるように、無理やり妻を死なせてしまったような至極唐突な印象を受けます(注9)。

 また、魔女によって塔に閉じ込められていたラプンツェルも、自由の身になりたいという“願い”を持っていて、もう一人の王子(ビリー・マグヌッセン)と一緒になり、ついに魔女の支配から逃れます。ですが、他の登場人物が総じて“願い”を叶えるものの問題も引き起こしてしまうのに対し、ラプンツェルはどんな問題を抱え込んだのでしょう?また、いつの間にか画面から消えています(注10)。

 本作は、4つの童話の「その後」のお話が描かれると、例えば、上で見たように、中心的と思える登場人物が画面からスッと消えてしまったりして(注11)、酷くつまらない話になってしまっています。
 テーマとか教訓などを言う前に、話自体をもっと面白いものにしなければ、「その後」をわざわざ描く必要もないのではと思います。

 尤も、本作はミュージカル作品ですから、ストーリーもさることながら、映画の中で歌われる歌の方がずっと重要でしょう。
 その点からすると、最初の方の曲は展開がスピーディでなかなかおもしろいと思いました(注12)。ですが、ストーリーに乗れなかったせいもあるでしょう、総じて印象に残る歌が少なかったように感じました。

(3)渡まち子氏は、「おとぎ話を新解釈し主人公たちのその後を描くミュージカル「イントゥ・ザ・ウッズ」。豪華キャストの歌声が圧巻」として65点を付けています。
 前田有一氏は、「ディズニーランドが大好きなメルヘン少女がみたら仰天確実な、ディズニー自らによるディズニー壊し。数々のお姫様物語の幻想を完全崩壊させる、破壊力抜群の実写ミュージカルである」として60点を付けています。



(注1)監督はロブ・マーシャル、脚本はジェームズ・ラパイン(原作ミュージカルと同様)、作詞・作曲はスティーヴン・ソンドハイム(原作ミュージカルと同様)。

(注2)ジャックは、自分の牛(cow)からミルクを搾りたいと願っている少年ですが、パン屋の主人と豆5粒で牛を交換してしまうほどバカな少年という感じで描かれています。

(注3)赤ずきんは、可愛く優しい少女というよりも、むしろ、パン屋の売り物のパンを許可なくどんどん食べてしまうような、ちょっと変わった女の子といった感じで描かれています。

(注4)この記事で、原作ミュージカルの内容がわかるのではと思います。

(注5)本作は4つの話をつなぎあわせていますが、中心となるのは魔女などが登場するラプンツェルの話です。とはいえ、本作では、ラプンツェル自身はあまり活躍しません。

(注6)出演者のうち、最近では、メリル・ストリープは『8月の家族たち』、エミリー・ブラントは『LOOPER/ルーパー』、ジェームズ・コーデンは『はじまりのうた』、アナ・ケンドリックは『ランナウェイ 逃亡者』、狼に扮するジョニー・デップは『トランセンデンス』、シンデレラを見初める王子役のクリス・パインは『アンストッパブル』で、それぞれ見ました。

(注7)脚本のジェームズ・ラパインも、この作品の教訓は「願いごとをする時は気をつけろ」であり、「この物語は、例えそれがどんなに小さな行動だとしても、自分自身の行動によってもたらされる結果の重大さについて語っています」と述べています。
 尤も、劇場用パンフレット掲載の監督インタビューでは、ロブ・マーシャルは、「この作品で描き出そうとしたテーマは何でしょうか?」と訊かれて、「家族というコンセプト」を挙げています。また、作詞・作曲のスティーヴン・ソンドハイムは「私の意見では、この作品は社会的責任を描いたものだと感じています」と答えています。
 作品のテーマについて、制作者側でも様々考えるようであり、見る側であまり窮屈に考える必要性は乏しいと考えられます。

(注8)空から復讐のために降りてきた巨人の妻が引き起こす地震によって、崖から落ちるのだとしても。

(注9)あるいは、森の中を逃げ惑っている時に、パン屋の妻はシンデレラと結婚した王子と出会い、なんと二人はキスを交わしてしまうのですが、貞淑であるべき妻がそんなことをしたことの代償として死んでしまうということも考えられます。でもそれでは、あまりに代償が大きすぎるのではないでしょうか?

(注10)ラプンツェルは王子と姿を隠してしまい、パン屋の主人を中心に新しい家族が形成されるラストのシーンには登場しません。いったいどこへいったのでしょう?
 あるいは、ラプンツェルの長い美しい髪が引きちぎられてしまったことが問題なのでしょうか?
 ちなみに、上記「注4」で触れた記事によれば、原作ミュージカルにおいては、ラプンツェルは、巨人の妻によって踏み潰されて死んでしまうようです。

(注11)残っている登場人物も、せいぜい巨人の妻と戦うくらいのことしかしません。

(注12)例えば、このサイトで、最初の方の曲を聞くことができます。



★★☆☆☆☆



象のロケット:イントゥ・ザ・ウッズ